Soranoha

菠薐草

ほうれんそう

長塚 節

余が村の一族の間には近代美人が輩出した。それが余の母まで續いて居る。母をうんだおばあさんといふのは七十四になるがまだ至つて達者な人である。おばあさんの眉は美しかつたらうといふと、唯おまへの母の眉よりはよかつたといつては何時でもおばあさんは微笑する。此おばあさんの又おばあさんに當つたといふのが美人のはじめである。四十の歳から太り出したといふのでゆつたりと大きな躰であつた相だ。八十四までながらへた人なので余の母は知つて居る。此人に就いて噺があるのである。其夫になつた人は獵が好きで、鐵砲の上手な人で、春の麥畑へ鳩のおりたのを見掛けてエヘンと咳をすると鳩が驚いて首を擡もたげる、其刹那にドンと火葢を切るのに嘗て逸したことがないといふのであつた相だ。元來余が郷土といふのは江戸へ荷物を運ぶにも鬼怒川から船で下せば二日でとゞく。徒歩かちで行つても日のあるうちに千住へつく。蟲干の時などには今でも背中の所の擦れた道中合羽が出ることがあるが、其擦れたところは風呂敷包の痕あとで、そんなに荷物を背負つても一日には骨が折れなかつたといふ程江戸には近いのであつた。それでも猪や鹿が出沒して作物を荒すので櫓やぐらを掛けて猪を打たといふ時代もある。此枝へ吊るして鹿の皮を剥いだのだといふ澁柿の大木があつた。余が其柿の木を知つた頃は鹿を吊るしたといふ枝は梯子も屆かぬ程上の方であつた。其位だから其頃は若しも天象の變化があるとかどうとかいふと喧しい程雉子が鳴いたもので、豌豆畑へ行けば雉子の卵がいくらでも採れたといつてゐる。鐵砲の上手であつたといふのは其時代の人であつた。或時獵に出て娘を見初めて貰つて來たのだといふ。其が後のふとつたおばあさんである。

雉子や兎を追ひまはして喉が乾き切つた時に丁度林の中で一軒の家を見つけた。家といふのは固より傾いた藁葺だ、表の柱と柱との間にはおろし戸が一枚づゝ卸してあるのでなかは薄闇い。一杯の茶を乞ふ爲めに頭巾をとつてくゞり戸を開けた。此人が稀な美男であつた相だ。其時に茶釜から茶を汲んで呉れたのが若い娘であつた。茶釜には番茶を詰めた布袋が入れてあるので、ぬるいばかり何時でも眞赤に澁の樣な茶が出て居るのである。其茶を五郎八茶碗ごろはちぢやわんといふ大きな茶碗に汲んで、冠つて居た虱絞しらみしぼりの手拭を外して茶を出したのである。竹の簀の子が踏む度にぎしぎしと鳴る。其娘が思ひも掛けぬ美しさなので、只恍惚としてしまつてそれからといふものは獵といへば屹度娘の家をおとづれてさうして生涯の語らひが出來たのだとかういふ事であつたのだと想像して見た。おまへの母の眉よりはよかつたといつて微笑するおばあさんは當時のことを幾らか聞き知つて居るだらうと思ふが決して語つたことがない。それといふのは律義な人はかういふ成立ちの事柄をも一家の恥辱のやうに思つて居るからである。それ故其當時のことは自分で想像して見なければならぬ。只美男であつたといふことゝ美しい娘であつたといふことは事實である。

其非常な美しい娘であつたのが太つたおばあさんになつてから何をしたかといふと明けても暮れても釣ばかりして居た。掘端へ薦を敷いて厭になるまでは夜中でも釣つて居る。それで恐怖といふことを知らなかつた人なので、ゆんべは青い火の玉が飛んだなどゝいふことが屡々であつたといふ。此人の腹から出たのは皆男でそれが村の中に分れて各一家をなした。夫故一族に美人が出たのである。余の家に會合でもあるといふと人の羨しがる程美しい人々が集つたものだと傳へて居る。

然し過ぎ行く幾月の間に人々は凋落し老衰して同時に一族の者は孰れも窮乏してしまつた。孰の家も亦家運が傾きつゝ此一族の中心となつて立つて居る。鹿を吊るした柿の木はどうしたといふと既になくなつて居る。其柿の木は路傍に立つて枝は粗朶小屋の上を掩うて竹の林に接して居た。或夜のことである。余は不意に掻き起された。下女は余を背負つた儘門の外へ駈け出した。眼前には焔が立ち騰つて粗朶小屋が燃えて居るのであつた。余は只ぶる〱と震へて齒の根が會はなかつた。其うち村中が集つた。みんなの顏が眞赤であつた。後になつて廻りの竹はだん〱枯れた。柿の木も其時に焦げたのでとう〱薪に伐られてしまつた。かういふことで柿の木はなくなつたのである。火事は余が七つか八つの時のことである。

(明治四十年五月發行、趣味 第二卷第五號所載)

底本 / Source edition

底本:「長塚節全集 第二巻」春陽堂書店
1977(昭和52)年1月31日発行
入力:林 幸雄
校正:今井忠夫
2000年5月10日作成
青空文庫作成ファイル:
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長塚 節「菠薐草」(旧字旧仮名)、底本『長塚節全集 第二巻』春陽堂書店、1977年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 004519_000118, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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