## 一

夜が明けると共に<ruby><rb>靄</rb><rt>もや</rt></ruby>も<ruby><rb>霽</rb><rt>は</rt></ruby>れてしまいました。天気も申し分のないよい天気であります。幸内は能登守の屋敷から有野村の伊太夫の家へ迎えられることになりました。

有野村へ迎えられて幸内が、その今までの経過をすっかり物語りさえすれば、万事は解釈されるのでした。神尾主膳の残忍さ加減と、その屋敷にいる<ruby><rb>盲剣客</rb><rt>めくらけんかく</rt></ruby>の一種異様なる挙動とが、幸内の口から明らかになりさえすれば、それを聞く人々は或いは仰天し、或いは戦慄しながら、事の仔細を了解するはずでありました。けれども不幸にして、送り返された幸内なるものは、ただ送り返されたという名前だけに過ぎません。まだ<ruby><rb>屍骸</rb><rt>しがい</rt></ruby>というには早いけれども、とても生きた者として受取ることはできないほどであります。

幸内は口が<ruby><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>けないのみならず、手も利きませんでした。手が利かないのみならず、身体が利きませんでした。それらのすべての機関が働かないにしても、眼だけでも動けば、多少ものを言うのであろうけれど、その眼も<ruby><rb>昏々</rb><rt>こんこん</rt></ruby>として眠ったままでいるのであります。ただ動いているのは、微かなる脈搏のみであります。

幸内の看病には、ほとんど誰も寄せつけないでお銀様ひとりがそれに当っておりました。駒井家から<ruby><rb>是々</rb><rt>しかじか</rt></ruby>と聞いても、お銀様はそれを耳にも入れないのでした。駒井家の使の者に対してすらお銀様は、一言のお礼の挨拶をもしようとはしませんでした。殿様のことは無論、あれほど親しかったお君の身の上のことすらも尋ねようとはしませんでした。お君からは、お嬢様にくれぐれもよろしくと使の者の口から丁寧な挨拶があったのだけれど、お銀様はそれを冷然として鼻であしらって取合いませんでした。それよりも先に幸内を自分の部屋に近い、前にお君のいたところへ休ませて、その傍に附ききりの姿です。

お銀様はこんなふうに、ただに駒井家に対して冷淡であるのみならず、その冷淡の底には深い恨みを<ruby><rb>懐</rb><rt>いだ</rt></ruby>いて、深い恨みは強い<ruby><rb>呪</rb><rt>のろ</rt></ruby>いとなって能登守とお君との上に<ruby><rb>濺</rb><rt>そそ</rt></ruby>がれているのでありました。前には一種の<ruby><rb>僻</rb><rt>ひが</rt></ruby>んだ<ruby><rb>嫉妬</rb><rt>しっと</rt></ruby>でありました。今は骨髄に刻むほどの<ruby><rb>怨恨</rb><rt>えんこん</rt></ruby>となっているのであります。せっかく運びかけた神尾家との縁談を、途中で故障を入れたのはあの能登守だという恨みは、お銀様の肉と骨とに食い入る口惜しさでありました。お銀様に向ってのすべての報告はみんな、この口惜しさを能登守とお君とに濺ぐように出来ておりました。なぜならば、支配の上席なる筑前様でさえも御承諾になっているものを、能登守がひとり、旗本の女房は同族か或いは大名でなければ身分違いだと言い立てたために、事が運ばないのだということに一致するからであります。

<ruby><rb>今時</rb><rt>いまどき</rt></ruby>、そんなことはどうにでもなるのである。よしどうにでもならないにしたところで、自分の家の家柄はそれに恥かしいような家柄ではないものを、それを能登守から見下げられたということが、お銀様は腹が立ってたまりませんでした。

その上、そんなよけいな故障を言い立てた能登守自身はどうであろう、あのお君を可愛がって、うつつを抜かしているではないか。お君という女は言わば旅の<ruby><rb>風来者</rb><rt>ふうらいもの</rt></ruby>で、<ruby><rb>氏</rb><rt>うじ</rt></ruby>も<ruby><rb>素性</rb><rt>すじょう</rt></ruby>も知れない女ではないか。自分ではその氏も素性も知れない女を可愛がって勝手な真似をしながら、人の縁談に<ruby><rb>鹿爪</rb><rt>しかつめ</rt></ruby>らしいことを言って故障を入れる、その心が憎らしいではないか。それにはきっと、お君が傍からよけいな入知恵をしているであろうとの邪推で、二人の憎らしさがいよいよ骨身に食い入って行くのであります。

「ねえ、幸内や、早く<ruby><rb>癒</rb><rt>なお</rt></ruby>っておくれ、わたしはお前から聞いてみなければわからない、わたしもまたお前に聞いてもらわなければならないことがある」

その晩、お銀様の居間へ<ruby><rb>丸頭巾</rb><rt>まるずきん</rt></ruby>を<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>った父の伊太夫がやって来て、何か言っているようでありましたが、やがてその言葉がいつもよりも荒く聞えました。お銀様もそれに答えて<ruby><rb>二言三言</rb><rt>ふたことみこと</rt></ruby>なにか言いましたが、その声がやがて泣き声になってしまいました。

いつもの場合においては、お銀様が泣き声を出す時には、父の伊太夫の方で折れるのが例でありましたけれど、その晩はそうではありませんでした。

「お前のような不孝者はない、幸内をくれてやるから、それをつれてどこへでも行け、あとは三郎がおれば困ることはない」

父の伊太夫はこう言って<ruby><rb>苦</rb><rt>にが</rt></ruby>り切っておりました。

「ようございますとも、ようございますとも」

お銀様の泣き声は<ruby><rb>甲走</rb><rt>かんばし</rt></ruby>ってしまいました。

「わたしは<ruby><rb>先</rb><rt>せん</rt></ruby>のお母さんの子ですから、わたしがいない方が家のためになります、三郎のお母さんと、わたしのお母さんとは違いますから、今のお母さんのためにも三郎のためにも、わたしがいない方がようございましょう、そうしてお父様は今のお母さんを大切になさいまし、わたしはどこへでも行ってしまいますからようございます」

お銀様は<ruby><rb>頭</rb><rt>かぶり</rt></ruby>を振って泣きました。

「お銀、お前は何を言うのだ、自分の<ruby><rb>我儘</rb><rt>わがまま</rt></ruby>を知らないで、いつもいつも、そういう言いがかりばかり言ってお父様を困らせようとしても、そうはお父様も負けてはいないよ」

「ええ、ええ、どう致しまして、わたしがお父様を言い負かそうなんぞと、そんなことがありますものですか、わたしはどこへでも行ってしまいますから」

「お銀」

伊太夫はいよいよ苦り切って、

「お前には、物が言えない、気を落着けてよくお聞きなさい、お前がそうして幸内の傍へ附ききりでいることが、世間へ聞えていいことだか悪いことだか、大抵わかりそうなものではないか。第一、家の者にまでわしがきまりが悪い。それから、あの神尾の縁談のことだといって、まだ話が切れたわけではなし、そんなことのさわりにもなるから、幸内を別宅の方へやって養生させたいと言うのは順当な話ではないか、無理のない話ではないか。それをお前が聞きわけないで、こうして幸内と一つ部屋のようなところへ寝泊りして、ほかの者には誰にも手出しをさせないというのは、あんまり我儘が過ぎるではないか。ね、よく考えてごらん」

ここに至って、やはり伊太夫は折れているのであります。<ruby><rb>噛</rb><rt>か</rt></ruby>んで含めるように、<ruby><rb>腫物</rb><rt>はれもの</rt></ruby>に触るように繰返してお銀様を説いているのであります。

「幸内をわたしが看病しては悪いのでございますか、それでは誰に看病させたらよいでしょう、わたしでなければ本気になって幸内を見てやる者はないではございませんか、ほかの者はみんな幸内を<ruby><rb>嫉</rb><rt>そね</rt></ruby>んだりにくがったりしているではございませんか」

「そんなことがあるものか」

「いいえ、そうでございます、この家では本心から、わたしの力になってくれる者は幸内のほかにはありませんから、わたしが幸内を大切にしなければ、大切にする者はないのでございます」

「ばかな！」

「ええ、わたしは馬鹿でございます。お父様、わたしをこんなに馬鹿にしたのは誰でございましょう、<ruby><rb>先</rb><rt>せん</rt></ruby>のお母さんが生きておいでなさる時分には、わたしはこれほど馬鹿ではなかったのでございます、わたしもこれほど馬鹿ではなかったし、それに、わたしの……わたしの<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>もこんな面ではなかったのでございます。今のお母さんがいらしってから、わたしはこんな馬鹿になりました、わたしの面は……わたしの面は、こんな面になってしまいました」

お銀様は<ruby><rb>喚</rb><rt>わ</rt></ruby>ッと泣き出しました。

「お銀、お前はまたそれを言うのか」

伊太夫は情けない面をして、泣き伏したわが娘の姿を見ていました。

「お父様、もうこれから二度と申し上げるようなことはございますまいから、どうか今晩は申し上げるだけのことを申し上げさせて下さいまし。<ruby><rb>先</rb><rt>せん</rt></ruby>のお母さんは、わたしが<ruby><rb>十歳</rb><rt>とお</rt></ruby>の時に病気で亡くなりました、わたしはその亡くなった時のことをようく存じております、世間では、今のお母さんが、先のお母さんを殺したんだとそう申しているそうでございます……」

「これ、何を言うのだ」

「お父様、それは<ruby><rb>嘘</rb><rt>うそ</rt></ruby>でございます、嘘でございますけれども、世間ではそんなに<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>をしている者もあることは、お父様だってごぞんじでございましょう。お母さんは<ruby><rb>口惜</rb><rt>くや</rt></ruby>しがって死にました。わたしは十歳でしたから、先のお母さんが何をそんなに口惜しがっておいでなすったのか少しも存じません、また誰もわたしに話してくれる人はありませんけれど、あの時分、お母さんのお口からそれとなく、わたしにお聞かせなされた二言三言が、今でも耳に残っているのでございます、それでなるほど、それはそうかと時々思い当ることがあるのでございます。わたしは先のお母さんがかわいそうだと思います。そうかと言って、わたしは今のお母さんに恨みがあるわけでもなんでもございません」

「あああ、困ったことだ、お前の<ruby><rb>僻</rb><rt>ひが</rt></ruby>み<ruby><rb>根性</rb><rt>こんじょう</rt></ruby>は骨まで<ruby><rb>沁</rb><rt>し</rt></ruby>み込んでしまっているのだ、情けないことだ」

伊太夫はなんとも言えない悲しそうな歎息であるのに、お銀様は、父の歎息に同情することがあまりに少ないのであります。

「お父様のおっしゃる通り、わたしの僻み根性は骨まで沁み込んでしまいました、モウどうしても取ってしまうことはできないのでございます。わたしももとからこんな僻み根性の子ではありませんでした、婆やなんかが時々噂をしているのを聞きますと、わたしの子供の時は、それはそれは可愛い子であったと申します、可愛い子で、情け深くて、どんな人でもわたしを好かない者はなかったそうでございます。それが今はこんなになってしまいました、わたしの姿がこんなになってしまうと一緒に、わたしの心も片輪になってしまいました。お父様、わたしの姿は、もう昔のような可愛い子供にはなれないのでございますね、それでも、こんな姿をしていながらも、わたしがこうして生きていられるのは誰のおかげでございましょう、幸内のおかげでございます。わたしがこの<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>を火鉢の火に吹かれた時に、幸内が飛んで来て助けてくれたから、それで命が助かったのは、わたしが十歳で幸内が十二の時、お父様もよく御承知でございましょう。わたしの面を焼いたのは、それは今のお母さんのなさったことだと、わたしは決してそんなことは思っていやしませんけれど……」

「な、なにを言うのだ、お銀、そ、そういうことがお前、お前として」

伊太夫も、さすがにせきこんで<ruby><rb>吃</rb><rt>ども</rt></ruby>るのでありました。けれどもお銀様は冷やかなものであります。

「わたしの面はその時から、誰かのために殺されてしまいました。けれども幸内のために<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>だけは助けられました、生命も助けられない方が、誰かのためにも、わたしのためにもよかったのでしょうけれど、助けられてみれば、こうして生きているよりほかはないのでございます。幸内に助けられた生命ですもの、幸内にくれてやっても差支えはございますまい、幸内に助けられた<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>ゆえ、幸内に任せてしまっても誰もなんとも言えないはずではございませんか。世間がわたしと幸内のなかをうるさく言うなら言わしておきましょう、それがために縁談とやらの<ruby><rb>障</rb><rt>さわ</rt></ruby>りになるならならせておきましょう、お父様が今のお母さんをお好きのように、わたしも幸内が好きなんでございます」

伊太夫はついに全くその娘をもてあましてしまいました。ただに全くもてあましたのみならず、そのあまりに<ruby><rb>執拗</rb><rt>しつよう</rt></ruby>な言い分に<ruby><rb>嚇</rb><rt>かっ</rt></ruby>と腹を立ててしまいました。

「お前がそれほど幸内が大事なら、幸内をつれて勝手にどこへなりと行きなさい、父はもうお前のすることについては何も言わぬ、お前もこれから父の世話にならぬ覚悟でいなさい」

と言い捨てて、座を蹴立てるようにして立去りました。

お銀様は父の立去る後ろ影を、<ruby><rb>凄</rb><rt>すご</rt></ruby>い<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>をして睨めていましたが、

「ええ、ようございますとも、出て参りますとも、幸内をつれてどこへでも、わたしは行ってしまいます、お父様のお世話にはなりませぬ、死んでも藤原の家の者のお世話にはなりませぬ」

お銀様は<ruby><rb>歯噛</rb><rt>はが</rt></ruby>みをしました。その有様は、父に対して言い過ぎたという後悔が寸分も見えないで、なお一層の反抗心が募ってゆくように見えます。

「幸内や」

お銀様は、幸内の寝ている枕許へ<ruby><rb>膝行</rb><rt>いざ</rt></ruby>り寄って来ました。

「いま聞いた通り、わたしはここの家にはいないから、お前、少しのあいだ待っていておくれ、わたしはお前をつれて行くところを探して来るから待っておいで、今夜のうちにもお前をつれて出て行ってしまいたいから、わたしはこれから心当りを聞きに出かけます、お父様にああ言われてみれば、わたしはもう一刻もこの家にはいられない、お前もいられまい、誰がなんと言っても、わたしはお前を連れて出て行ってしまいます」

お銀様は、やはり歯噛みをしながらこう言って幸内の<ruby><rb>寝面</rb><rt>ねがお</rt></ruby>をのぞいていましたが、すぐに立って<ruby><rb>箪笥</rb><rt>たんす</rt></ruby>をあけました。それで、あわただしい身ごしらえをはじめたところを見ると、この娘はほんとうにたった今この家を出かけるつもりでしょう。帯の間へは例の通り懐剣を挟みました。そうして<ruby><rb>小抽斗</rb><rt>こひきだし</rt></ruby>から幾つかの小判の包みを取り出して、無雑作に懐中へ入れました。それからまた例の<ruby><rb>頭巾</rb><rt>ずきん</rt></ruby>を<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>りました。

「いいかえ、わたしはこれから甲府へ行って、お前を引取るような家を探して直ぐにまた迎えに来るから、それまで一人で待っておいで。ナニ、お父様がかまってくれなくても、二年や三年お前と一緒に暮らして行くだけのお金は、わたしが持っているから心配することはない」

お銀様の手足が<ruby><rb>慄</rb><rt>ふる</rt></ruby>えているために、懐中へ入れた小判の包みをバタバタと取落して、それをまた懐中へ拾い込み、それがまた懐中からこぼれるのを、お銀様は慄える手先で拾って、狂人が物を口走るように<ruby><rb>独言</rb><rt>ひとりごと</rt></ruby>を言いました。

「まあ、ずいぶんお前<ruby><rb>月代</rb><rt>さかやき</rt></ruby>が生えているね。もしよそへ行く時に、それではあんまりだから、わたしが月代を剃って上げたいけれど、今はそんなことをしてはいられない。甲府へ行ったら、わたしは人を頼んでお前を迎えによこすから、わたしも附いて来るから、その時になってお父様がなんと言ったって、わたしは帰りゃしない、お前も帰さない。この家には、わたしがいない方がいいのだから、わたしがいなくなればみんな手を<ruby><rb>拍</rb><rt>う</rt></ruby>って喜ぶのだから、わたしがいないので、いなくなるので、それだから、わたしは……」

お銀様は、畳の上へこぼした小判の包みが手に<ruby><rb>触</rb><rt>さわ</rt></ruby>らないのであります。やっと拾ってまた懐中へ入れるとまたこぼれます。お銀様はとうとう、その幾つかの小判の包みのうち一つを取落したままで、<ruby><rb>行燈</rb><rt>あんどん</rt></ruby>の火を細めて外へ出ました。

外は昨晩のように深い<ruby><rb>靄</rb><rt>もや</rt></ruby>はありませんでしたけれども、<ruby><rb>闇夜</rb><rt>やみよ</rt></ruby>であることは昨晩と少しも変りはありません。

お銀様が父と言い争っている時分から、この家の縁先の<ruby><rb>網代垣</rb><rt>あじろがき</rt></ruby>の下に黒い人影が一つ<ruby><rb>蹲</rb><rt>うずく</rt></ruby>まっていて、<ruby><rb>父子</rb><rt>おやこ</rt></ruby>の物争いを<ruby><rb>逐一</rb><rt>ちくいち</rt></ruby>聞いていたようです。

伊太夫が怒って足音荒く立退いてしまった時分に、そろそろと縁先へ忍び寄って戸の隙間から、お銀様の挙動を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いているようでありました。抱えるようにしていたけれど、両刀の<ruby><rb>鐺</rb><rt>こじり</rt></ruby>は羽織の下から<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>れて見えています。

お銀様が今、戸をあけて外へ出ようとした時に、この怪しい人影は、また前のところへ立退いて蹲まっていました。お銀様がどこともなく闇の中へ消えてしまった時分に、またその怪しの人影はそろそろ網代垣の下から身を延ばして、以前の通り縁先へ忍び寄り、それから雨戸へ手をかけました。お銀様のいま立てきったばかりの戸の裏には鍵をしてありません。それですから別段に音も立てずに一尺ばかり開くことができると、直ぐに中へ入ってしまいました。

なんの苦もなく障子を開いて座敷へ入った姿を見れば、<ruby><rb>紛</rb><rt>まぎ</rt></ruby>れもなくひとりの武士です。それも小身の侍や足軽ではなく、多少の身分ありそうな武士です。多少の身分のありそうな武士が、こんな挙動をして人の家に忍び入るのは似合わしからぬことであります。けれども似合わしからぬことを敢てせねばならぬほどの危急に迫られたればこそ、こうして忍んで来たものと思わなければなりません。お銀様が細目にして行った<ruby><rb>行燈</rb><rt>あんどん</rt></ruby>の傍へ行ってそれを<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>き立てた時に、頭巾から洩れる<ruby><rb>面体</rb><rt>めんてい</rt></ruby>をうかがえば、それが神尾主膳であったことは、意外のようで意外でありますまい。

主膳はソロソロと<ruby><rb>昏睡</rb><rt>こんすい</rt></ruby>している幸内の枕許へ寄って来て、その寝顔を暫らくのあいだ見ていました。そうしてニッとして残忍な笑い方をしましたが、背中を行燈の方に向けて、幸内の枕許へ立ちはだかるようにしてしまったから、何をするのだか挙動が少しもわからないが、ただ<ruby><rb>懐</rb><rt>ふところ</rt></ruby>から縄を出して<ruby><rb>扱</rb><rt>しご</rt></ruby>くような<ruby><rb>素振</rb><rt>そぶり</rt></ruby>をしたり、またそこらにあったものを引き寄せるような仕事をしているうちに、寝ていた幸内が、

「ウーン」

とうなり出したのを、主膳はその頭の上から<ruby><rb>蒲団</rb><rt>ふとん</rt></ruby>を被せて抑えましたから、幸内のうなる声は<ruby><rb>圧</rb><rt>お</rt></ruby>し殺されたように絶えてしまいました。

それで静かになってしまうと、主膳はまた行燈の方へ向き直りましたが、幸内は蒲団を被せられてしまっているから、どうなったのかサッパリわかりません。ただ前よりは一層おとなしくなってしまったようであります。行燈の方へ向き直った主膳は、思わず小さな声で、

「あっ」

と言って自分の両の手先を見ました。その手先へ<ruby><rb>鬼蜘蛛</rb><rt>おにぐも</rt></ruby>のような血の<ruby><rb>塊</rb><rt>かたまり</rt></ruby>がポタリポタリと落ちている。

「ああ鼻血か」

主膳は、仰向いて、その手を加減しながら自分の<ruby><rb>懐中</rb><rt>ふところ</rt></ruby>へ入れて<ruby><rb>畳紙</rb><rt>たとう</rt></ruby>を取り出して面に当てました。いま主膳を驚かしたその血の塊は、<ruby><rb>外</rb><rt>よそ</rt></ruby>から出たのではありません、自分の鼻から出た鼻血でありました。けれども紙で拭いたその血を行燈の光で見ると<ruby><rb>夥</rb><rt>おびただ</rt></ruby>しいもので、黒く固まってドロドロして、しかもそれが一帖の<ruby><rb>畳紙</rb><rt>たとう</rt></ruby>を<ruby><rb>打通</rb><rt>ぶっとお</rt></ruby>して<ruby><rb>染</rb><rt>し</rt></ruby>みるほどに押出して、まだ止まらないのです。

神尾主膳は、そのあまりに仰山な鼻血の出様に、自分ながら怖くなったようでありました。鼻血を抑えながら、あたりを始末して以前の戸口からこの座敷を<ruby><rb>脱</rb><rt>ぬ</rt></ruby>け出しました。

## 二

お銀様がこの夜中に家を脱け出したのは、あまりと言えば無謀です。けれどもそれが無謀だか有謀だかわかるくらいならば、家を脱け出すようなことはしますまい。ともかくも、こうしてお銀様は無事に屋敷を脱け出し、有野村を離れて甲府をさして闇の中をヒタ歩きに歩きました。その途中、無事であったことは幸いです。

しかし、それを離れて後ろから<ruby><rb>跟</rb><rt>つ</rt></ruby>いて行く神尾主膳の姿などを想像にも思い浮べることのなかったのは、幸いとは言えません。

ようやく甲府の町へ入ろうとする時分に辻番がありました。荒川を渡って元の陣屋跡のところに、このごろ臨時に辻番が設けられました。

「これこれ、どこへ行かっしゃる」

辻番の中で六尺棒を持った屈強な足軽が、通りかかるお銀様を呼び留めました。

「はい」

と言ってお銀様はたちどまりました。

「待たっしゃい」

辻番は、お銀様の頭巾の上から足の爪先まで見据えていましたが、

「見れば<ruby><rb>女子</rb><rt>おなご</rt></ruby>の一人道、どちらからおいででござる」

「有野村から参りました」

「有野村は何の<ruby><rb>何某</rb><rt>なにがし</rt></ruby>という者でござる」

「はい……藤原の伊太夫の家から……召使の君と申しまする」

「有野村の藤原家の召使？　それが一人でこの夜分」

「主人の<ruby><rb>内密</rb><rt>ないしょ</rt></ruby>の使でよんどころなく……こんなに遅くなりました」

「はて、そうしてどこへ行かっしゃるのじゃ」

「それは……御城内の神尾主膳様のお屋敷まで」

お銀様は、ここで二つのこしらえごとを言ってしまいました。自分がお君の名を<ruby><rb>仮</rb><rt>か</rt></ruby>りたことと、神尾主膳の屋敷を行先のように<ruby><rb>出鱈目</rb><rt>でたらめ</rt></ruby>に言ってしまったことです。

「神尾主膳殿へ？」

と言って辻番は、ややけねんを持つように、お銀様を見廻していたが、

「よろしい、通らっしゃい。しかし、このごろは市中が物騒でござることをそなたはまだ知らぬと見えるな。物騒というのはほかではない、よく人が斬られる、辻斬が<ruby><rb>流行</rb><rt>はや</rt></ruby>るから宵のうちさえ人の通りは甚だ少ない、知らぬこととはいえこの深夜、一人で、まして女の身で、このあたりを歩くというは危険千万じゃ」

「有難うございます」

辻番に通らっしゃいと言われたから、お銀様はそこを通り過ぎてしまうと、飯田新町の通りであります。

いま、辻番から言われたこともお銀様は、もう忘れてしまいました。甲府のこのごろの物騒なことも有野村あたりまで聞えていないのではなかったけれど、お銀様の耳へはそれがまだ入っていませんでした。さて、甲府の町へ入るには入ったけれど、どこへ行こうという<ruby><rb>当</rb><rt>あて</rt></ruby>はありません。神尾主膳の邸と言ったのはもとより<ruby><rb>出鱈目</rb><rt>でたらめ</rt></ruby>ですけれども、うすうす心のうちでお銀様が心当てにして来たのは、それは役割の市五郎の家でした。

役割の市五郎を訪ねることに心をきめたお銀様が、案内を知った甲府の町の道筋をお城の方へと歩いて行くと、子供の泣き声が聞えました。

その子供の泣き声がいかにも物悲しそうに聞えて来ました。弱い<ruby><rb>帛</rb><rt>きぬ</rt></ruby>を長く裂いてゆくように泣き続けて、やがて<ruby><rb>咽</rb><rt>むせ</rt></ruby>び<ruby><rb>入</rb><rt>い</rt></ruby>るようになって消えたかと思うと、また物悲しそうに泣く<ruby><rb>音</rb><rt>ね</rt></ruby>を立てて<ruby><rb>欷歔</rb><rt>しゃく</rt></ruby>り上げる泣き声が、いじらしくてたまらなく聞えます。

お銀様は、どこからともなくその物悲しい子供の泣き声を聞いた時にはじめて、もう夜も大分ふけていることに気がつきました。気がついて立ったところのすぐ眼の前に、こんもりと<ruby><rb>一叢</rb><rt>ひとむら</rt></ruby>の森があることを知りました。右の方は城内へつづくお武家屋敷があることを知りました。眼の前の森は穴切明神の森であることも、甲府の地理に暗くないお銀様には直ぐに合点がいったのです。その明神も見えるし、その森蔭にはお<ruby><rb>小人屋敷</rb><rt>こびとやしき</rt></ruby>なんぞもあるのですから、闇の晩とはいえ、それを見極めることになんの手数も<ruby><rb>要</rb><rt>い</rt></ruby>らないわけであります。

甲斐の国、甲府の土地は、<ruby><rb>大古</rb><rt>おおむかし</rt></ruby>は一面の湖水であったということです。冷たい水が漫々と張り切って鏡のようになっていると、そこへ富士の山が<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>を出しては朝な夕なの水鏡をするのでありました。富士の山の水鏡のためには<ruby><rb>恰好</rb><rt>かっこう</rt></ruby>でありましょうとも、水さえなければ人間も住まわれよう、畑も出来ようものをと、例の地蔵菩薩がお慈悲心からある時、二人の神様をお呼びになって、

「どうしたものじゃ、この水をどこへか落して、人間たちを住まわしてやりたいものではないか」

と御相談になると、そのうちの一人の神様が、

「それは結構なお思いつきでござる、なんとかひとつ拙者が工夫してみましょう」

と言って、<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>の地勢を見廻していたが、やがて前の方の山の端の薄いところを、

「エイ」

と言って蹴飛ばすと、その山の端の一角が蹴破られてしまいました。それを見るより、もう一人の神様が立ち上って、

「よしよし、あとは拙者が引受けてなんとかしよう」

と言って、いま蹴破られた山の端へ穴をあけて、そこへ一条の水路を開いたから、見ているうちに漫々たる大湖水の水が富士川へ流れて落ちました。

それを遠くの方で見ていた不動様が、

「<ruby><rb>乃公</rb><rt>おれ</rt></ruby>も引込んではおられぬわい」

と言って、川の瀬をよく<ruby><rb>均</rb><rt>なら</rt></ruby>して水の<ruby><rb>滞</rb><rt>とどこお</rt></ruby>らぬようにしました。

この二仏二神のおかげで、甲府の土地が出来たのだというのが古来の伝説であります。最初に言い出した地蔵様は甲府の東光寺にある<ruby><rb>稲積</rb><rt>いなづみ</rt></ruby>地蔵で、次に山を蹴破ったのが<ruby><rb>蹴裂</rb><rt>けさく</rt></ruby>明神で、河の瀬を作った不動様が<ruby><rb>瀬立</rb><rt>せだち</rt></ruby>不動で、山を切り穴を開いた神様が、すなわちこの穴切明神であるというこの<ruby><rb>縁起</rb><rt>えんぎ</rt></ruby>も、お銀様はよく知っているのでありました。ここへ来て夜の更けたことを知ったお銀様は、はじめて自分の無謀であったことと、大胆に過ぎたことを<ruby><rb>省</rb><rt>かえり</rt></ruby>みる心持になりました。前に来た時には、日中であったに<ruby><rb>拘</rb><rt>かかわ</rt></ruby>らず、しかもお城の真下であったに拘らず、悪い折助のために酷い目に遭ったことを思い出して、ついにこの夜更けにこの淋しい道を、どうして自分がここまで来て、無事にここに立っていられるのかをさえ思い出されて、ぞっと怖ろしさに身をふるわすと、例の物悲しい、いじらしい子供の泣き声であります。

なんだか知らないけれども、その泣き声が自分のあとを慕うて来るもののようでありました。自分を慕うて幼な子があとを追っかけて来るもののように、お銀様には思われてなりません。

お銀様はその子供の泣き声が気になって仕方がありません。

穴切明神を後ろにして武家屋敷の方へ向って行きますと、そこで絶え入るような子供の泣き声が足許から聞えるのでありました。

「おや、<ruby><rb>棄児</rb><rt>すてご</rt></ruby>か知ら」

お銀様は、まさに近い所の路傍の闇に子供が一人、<ruby><rb>地面</rb><rt>じべた</rt></ruby>へ<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>り出されて泣いているのを認めました。

「かわいそうに棄児……」

お銀様はその子供の傍へ駈け寄りました。棄児としてもこれはあまり慈悲のない棄児でありました。籠へ入れてあるでもなければ、<ruby><rb>玩具</rb><rt>おもちゃ</rt></ruby>一つ持たせておくでもありません。<ruby><rb>裸体</rb><rt>はだか</rt></ruby>にしないだけがお情けで、ただ道の<ruby><rb>傍</rb><rt>はた</rt></ruby>へ抛り出されたままの棄児でありました。

「おお、こんなことをしておけば<ruby><rb>凍死</rb><rt>こごえし</rt></ruby>んでしまう、なんという無慈悲なこと、なんという情けない親」

お銀様は直ぐにその子を抱き上げました。<ruby><rb>咽</rb><rt>むせ</rt></ruby>び<ruby><rb>入</rb><rt>い</rt></ruby>るようなこの子は抱き上げられて、いじらしくもお銀様の胸へぴったりと<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>を寄せて、その乳を求めながら、<ruby><rb>欷歔</rb><rt>なきじゃ</rt></ruby>くっているのであります。

「お乳が無くて悪かったね、いい坊やだから泣いてはいけません」

ようやくかたことを言えるくらいの男の子。お銀様はその子を固く抱いて頬ずりをしました。

その時に、お銀様の鼻に触れたのは<ruby><rb>紛</rb><rt>ぷん</rt></ruby>として<ruby><rb>腥</rb><rt>なまぐ</rt></ruby>さい、いやないやな臭いであります。お銀様はその臭いが何の臭いだか知りませんでしたけれど、むっと<ruby><rb>咽</rb><rt>む</rt></ruby>せかえるようになって、我知らず二足三足歩いて見ると、そこの地上にまた一つ、物の影があるのであります。

「人が倒れている」

お銀様はまさしくそこに倒れている人を見ました。その人が尋常に倒れているものでないことを直ぐに感づきました。怪我で倒れたのでもなし、病気で倒れたのでもないことに気がつきました。

「ああ、どうしよう、人が斬られている、殺されている！」

天地が<ruby><rb>遽</rb><rt>にわ</rt></ruby>かに暗くなって――暗いのは最初からのことだが、この時は腹の中まで暗くなりました。前後左右四方上下から、真黒な大鉄壁を以て、ひたひたと押えつけられるような心持になって眼がくらくらと<ruby><rb>眩</rb><rt>くら</rt></ruby>んでしまいました。

けれども胸に抱いた子は、いよいよ固く抱いておりました。

幼な子を抱いて闇の中に立っていたお銀様の肩を、後ろから軽く叩いたものがあります。

「もし」

お銀様は<ruby><rb>愕然</rb><rt>がくぜん</rt></ruby>として我にかえりました。我にかえると共に慄え上りました。

「どなた」

お銀様の歯の根が合いませんでした。そこに<ruby><rb>頭巾</rb><rt>ずきん</rt></ruby>を<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>って<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>を<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>いて立っているのは武士の姿であります。

「驚き召さるな、拙者は通りかかりの者……してそなたは？」

存外、<ruby><rb>物優</rb><rt>ものやさ</rt></ruby>しい声でありました。

「わたくしも通りかかりの……」

お銀様は<ruby><rb>辛</rb><rt>かろ</rt></ruby>うじてこう言いました。

「この場の有様は、こりゃ………」

武士もまた、さすがにこの場の<ruby><rb>無惨</rb><rt>むざん</rt></ruby>な有様に、<ruby><rb>悸</rb><rt>ぎょっ</rt></ruby>として突立ったきりでありました。

「そこに誰か斬られているのでござりまする、そうしてこの子供がここに投げ出されておりました」

「また<ruby><rb>殺</rb><rt>や</rt></ruby>られたか」

「どう致しましょう」

この時、武士はさのみ<ruby><rb>狼狽</rb><rt>ろうばい</rt></ruby>しないで、

「もしや、そなたは有野村の藤原家の御息女ではござらぬか」

と聞かれてお銀様は狼狽しました。

「左様におっしゃる、あなた様は？」

「拙者は神尾主膳でござる」

「神尾主膳様？」

「伊太夫殿の御息女に違いないか」

「はい」

お銀様は神尾主膳の名を聞いて一時に恥かしくなりました。主膳はお銀様の父の<ruby><rb>許</rb><rt>もと</rt></ruby>を訪ねたこともあって、お銀様もその面影を知らないではありません。その人にここで会おうとは思いませんでした。会ってみれば、お銀様としても、さすがに恥かしい思いがしなければならないはずです。

「お銀どの……どうしてまたこの夜更けに、こんなところにお一人で……いや、それを承っていることも面倒じゃ、これはこのごろ<ruby><rb>流行</rb><rt>はや</rt></ruby>りものの辻斬、拙者も今宵は忍びの道、かかわり合ってはおられぬ、この場はこのままにして立退き申そう、そなた様はいずれへお越しじゃ」

「はい、わたくしは」

「ともかくも、拙者が屋敷まで見えられるように」

「有難う存じまする」

「見廻りの者が来ないうちに」

「それでもこの子が……」

「さあ、その子は……」

二人がその子の始末に当惑している時に、火の番の拍子木が聞えました。

## 三

破牢のあったというその当夜から、ひとり胸を痛めているのはお松であります。

その破牢者のうちに宇津木兵馬があったということは、今や隠れもなき事実であります。けれどもその<ruby><rb>行方</rb><rt>ゆくえ</rt></ruby>が今以てわからぬというのは、今宵もまんじりともしないほどお松の心を苦しめていました。お松の耳に入ったいろいろの噂は、破牢者のうちの無宿者の一隊は、どうやら山を越えて秩父の方へ逃げたものと、信濃路へ向ったものとがあるらしいということのほかに、その主謀者と<ruby><rb>見做</rb><rt>みな</rt></ruby>されるものは、どうしてもこの市中に潜伏していなければならないということでありました。主謀者とは誰ぞ、宇津木兵馬はその人ではあるまいけれど、その人に<ruby><rb>荷担</rb><rt>かたん</rt></ruby>した時はその人と責任を共にする人であるとは、お松も想像しないわけにはゆきません。

してみれば、兵馬さんはこの甲府の市中のいずれかに隠れている。どこに隠れているだろう。果して隠れ<ruby><rb>了</rb><rt>おお</rt></ruby>せてこの地を逃げ延びることができればそれは結構であるけれど、もうその評判がお松の耳にまで聞えるようになっては、この狭い天地でさえも危ない――とお松はそれを考えると、<ruby><rb>剣</rb><rt>つるぎ</rt></ruby>の刃を渡るようにハラハラしました。

「お松ちゃん、お松ちゃん」

窓の戸をトントンと叩いて、わが名を忍びやかに呼ぶ者のあるのは覚えのある声で、お松にとっては必ずしも寝耳に水ではありません。

「はい」

窓の戸を開きますと、そこから首を出したのは七兵衛でありました。

「おじ様」

「お松、ちょっと耳を貸してくれ」

七兵衛の来るのは、いつもあわただしいものであります。いつなんどき来て、いつなんどき帰るのだかわかりませんでした。こうして夜中に合図をして不意に<ruby><rb>訪</rb><rt>おとな</rt></ruby>うことには、少なくともお松は慣れているのであります。

「兵馬さんはいるよ。うむ、うむ、この甲府の中に、それはな、思いがけないところへ逃げ込んでいるから、まあ今のところ無事だ。今のところは無事だけれども、その大将がこれからどうするつもりかそれは知れない、いったん隠して置いて養生をさせて、それから改めて突き出すつもりなんだか、それとも隠し<ruby><rb>了</rb><rt>おお</rt></ruby>せて逃がすつもりなのか、そこのところがわからねえ」

七兵衛がお松の耳に口を当ててささやくと、

「まあ、兵馬さんがこの甲府の町の中にいらっしゃる？　それはどこでございます、おじさん」

「それはちっと思いがけねえところなんだ。俺はな、そこから兵馬さんを盗み出して、無事なところへお逃がし申したいと思ってるんだが、そこの家には犬がいて……意気地のねえような話だが、犬がいるために俺はその邸へ近寄れねえのだ」

「おじさん、それはどこなんでございますよ、おじさんが行けなければ、わたしがなんとか工夫してみますから」

「それはお前、二の<ruby><rb>廓</rb><rt>くるわ</rt></ruby>のお役宅で、駒井能登守様のお邸だ」

「あの御支配の殿様の？」

「そうだ、たしかに兵馬さんは、あのお邸に隠れている、そりゃ役人たちにもまだ目が届かねえ、外からそれを見届けたのは俺ひとりだ」

「まあ、あの御支配の駒井能登守様のお邸に兵馬さんが……」

お松は<ruby><rb>寧</rb><rt>むし</rt></ruby>ろ<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れました。七兵衛が、まだ何をか言おうとした時に、裏の木戸口がギーッと言いました。人があってあけたもののようです。このとき早く七兵衛は、窓から何物をかお松の部屋へ投げ込んだまま闇の中へ姿を隠してしまいました。

暗いところから入って来たのは意外にも、主人の神尾主膳でありました。

「お松、まだ寝ないのか」

「はい、まだ」

お松は窓の戸を締めきらないうちに、主人から言葉をかけられてドギマギして、

「今、誰か来ていたようだが」

お松はハッとしました。

「いいえ、誰も」

この返事も大へん<ruby><rb>慌</rb><rt>あわ</rt></ruby>てた返事でしたけれども、主膳は深く気にしないで、そのまま行ってしまいました。お松はホッと息をついて窓を締めて座につきました。

駒井能登守の名はお松もよく知っています。名を知っているのみならず、郡内の道中で、親しくお近づきになっています。けれどもその人は甲州勤番の支配である。破牢の兵馬を<ruby><rb>糾弾</rb><rt>きゅうだん</rt></ruby>すべき地位にある人で、それを<ruby><rb>擁護</rb><rt>ようご</rt></ruby>すべき立場の人でないということはお松にもよくわかるはずです。それ故にせっかく兵馬の<ruby><rb>在所</rb><rt>ありか</rt></ruby>を知ったものの、これから先がまだ心配でたまりません。

ただ一つ<ruby><rb>心恃</rb><rt>こころだの</rt></ruby>みなのは、能登守という殿様が、うちの殿様と違って、物事に思いやりのあるらしい殿様であることのみでありました。思いやりに<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>ったならばと、お松はそこにいくらかの気休めを感じて、あれよこれよと考えはじめました。

そのうちに、忘れていたのは、さきほど七兵衛が窓から投げ込んで行った品物であります。油紙に包んで<ruby><rb>凧糸</rb><rt>たこいと</rt></ruby>で<ruby><rb>絡</rb><rt>から</rt></ruby>げてある包みを解いて見ると、五寸ぐらいに切った一本の竹筒が現われました。その竹筒には何かいっぱいに詰め込まれてあるらしい重味が、なんとなく無気味に思われます。それでやはり凧糸で<ruby><rb>把手</rb><rt>とって</rt></ruby>をこしらえて、<ruby><rb>提</rb><rt>さ</rt></ruby>げるようにしてありましたところへ、<ruby><rb>懸想文</rb><rt>けそうぶみ</rt></ruby>のような<ruby><rb>結状</rb><rt>むすびぶみ</rt></ruby>が<ruby><rb>括</rb><rt>くく</rt></ruby>りつけてありました。

お松はそれを提げてみて、思わず微笑しないわけにはゆきませんでした。その竹筒の一端に「十八文」という<ruby><rb>烙印</rb><rt>やきいん</rt></ruby>が<ruby><rb>捺</rb><rt>お</rt></ruby>してあったからです。

それでお松はすっかり合点がゆきました。「十八文」が一切を了解させてくれたのみならず、いろいろに胸を痛めたり心を苦しめたりしていたお松を、腹を抱えさせるほどに笑わせました。

あの先生はおかしい先生であると思って、お松は思出し笑いをしながらも、その親切を嬉しく思いました。これは兵馬さんのための薬である。兵馬さんが病気であるために、おじさんが道庵先生に調合してもらって、ワザワザ持参したものと思って見れば、有難くて、その竹筒を<ruby><rb>推</rb><rt>お</rt></ruby>しいただかないわけにはゆきません。

してみれば、これを兵馬さんの<ruby><rb>許</rb><rt>もと</rt></ruby>まで届ける責任は、わたしに在るとお松は勇み立ちました。別に厳重な封じもないのだから、その懸想文のような結状を取って開いて見ると、それは道庵先生一流の処方箋でありました。

「もろこし我朝に、もろもろの医者達の出し申さるる薬礼の礼にもあらず……ただ病気全快の節は十八文と申して、滞りなく支払するぞと思ひきりて掛るほかには別の仔細候はず。」

こんなことが<ruby><rb>木版摺</rb><rt>もくはんずり</rt></ruby>にしてあるのだから、問題にもなんにもなったものではありません。

## 四

お松が寝ついた時分からサラサラと雪が降りはじめました。

翌朝になって見ると、峡中の二十五万石が雪で埋もれてしまいました。過ぐる夜の<ruby><rb>靄</rb><rt>もや</rt></ruby>は墨と<ruby><rb>胡粉</rb><rt>ごふん</rt></ruby>を以て天地を塗りつぶしたのですけれど、これは<ruby><rb>真白々</rb><rt>まっしろじろ</rt></ruby>に<ruby><rb>乾坤</rb><rt>けんこん</rt></ruby>を<ruby><rb>白殺</rb><rt>はくさつ</rt></ruby>して、<ruby><rb>丸竜空</rb><rt>がんりゅうくう</rt></ruby>に<ruby><rb>蟠</rb><rt>わだか</rt></ruby>まる有様でありました。昨夜からかけて<ruby><rb>小歇</rb><rt>こや</rt></ruby>みなく降っていたのが朝になって一層の威勢を加えました。東へ向いても笹子や大菩薩の峰を見ることができません。西へ向って白根連山の形も眼には入りません。南は富士の山、北は金峰山、名にし負う甲斐の国の四方を囲む山また山の姿を一つも見ることはできないので、ただ<ruby><rb>霏々</rb><rt>ひひ</rt></ruby>として降り、<ruby><rb>繽紛</rb><rt>ひんぷん</rt></ruby>として舞う<ruby><rb>雪花</rb><rt>せっか</rt></ruby>を見るのみであります。

白いものの極は<ruby><rb>畢竟</rb><rt>ひっきょう</rt></ruby>、黒いものと同じ<ruby><rb>作用</rb><rt>はたらき</rt></ruby>を為すものです。大雪の時は暗夜の時と同じように<ruby><rb>咫尺</rb><rt>しせき</rt></ruby>を弁ぜぬことになります。この降り<ruby><rb>塩梅</rb><rt>あんばい</rt></ruby>では大雪になると、誰もそう思わぬものはありません。

この朝、駒井能登守の門内からこの雪を<ruby><rb>冒</rb><rt>おか</rt></ruby>して一隊の人が外へ出ました。一隊の人といっては少し<ruby><rb>大袈裟</rb><rt>おおげさ</rt></ruby>かも知れないが、その<ruby><rb>打扮</rb><rt>いでたち</rt></ruby>の尋常でないことを見れば、一隊の人と言いたくなるのであります。

人数は僅か四人――そのうち三人は笠を被って<ruby><rb>合羽</rb><rt>かっぱ</rt></ruby>を着ていました。三人の中の一人はまさに主人の能登守でありました。その左右にいた二人は、家来の者らしくもあるし、家来ではないらしくもあるし、と言うまでもなくその一人は南条――能登守に<ruby><rb>亘理</rb><rt>わたり</rt></ruby>と呼ばれて旧友のような扱いを受けた人――それから、も一人は五十嵐と呼ばれた人、つまりこの二人は過ぐる夜の破牢者の<ruby><rb>巨魁</rb><rt>きょかい</rt></ruby>なのであります。こうして笠を被って合羽を着て、大小を差して並んでみれば、それは物騒な破牢者とは誰にも<ruby><rb>気取</rb><rt>けど</rt></ruby>られることではありません。

能登守を真中にして二人が左右を挟んで行けば、誰が見てもその用人であり家来衆であることの異議はないのであります。ただこの大雪に能登守の身分として馬駕籠の助けを<ruby><rb>仮</rb><rt>か</rt></ruby>らず、笠と合羽と<ruby><rb>草鞋</rb><rt>わらじ</rt></ruby>で出かけることが、勇ましいと言えば勇ましい、気軽といえば気軽、また例の<ruby><rb>好奇</rb><rt>ものずき</rt></ruby>かと笑えば笑うのでありましたが、それとても、すぐに三人の後に附添うた一人のお<ruby><rb>伴</rb><rt>とも</rt></ruby>の有様を見れば、ははあなるほどと<ruby><rb>納得</rb><rt>なっとく</rt></ruby>ができるのであります。

そのお伴は鉄砲を<ruby><rb>担</rb><rt>かつ</rt></ruby>いで、弾薬袋を肩から<ruby><rb>筋違</rb><rt>すじかい</rt></ruby>に<ruby><rb>提</rb><rt>さ</rt></ruby>げておりました。能登守はこうして今、家来とお伴とをつれて雪に乗じて、得意の鉄砲を試そうとするものと見えます。そうすればなるほど能登守らしい雪見だと、誰もいよいよ異議のないところでありましたけれど、その鉄砲を担いで弾薬袋を提げたお<ruby><rb>伴</rb><rt>とも</rt></ruby>なるものが、尋常一様のお伴でないことを知っていると、また別種な興味が湧いて来なければならないのであります。

その伴は宇治山田の米友でありました。前に立った三人ともに合羽を着ていましたけれど、米友だけは<ruby><rb>蓑</rb><rt>みの</rt></ruby>を着ていました。三人は<ruby><rb>脚絆</rb><rt>きゃはん</rt></ruby>と草鞋に足を固めていましたけれど、米友だけは素足でありました。三人は大小を差していましたけれど、米友は<ruby><rb>無腰</rb><rt>むこし</rt></ruby>でありました。

さて、勢いよく門の外へ飛び出した三人は、<ruby><rb>卍巴</rb><rt>まんじともえ</rt></ruby>と降る雪を<ruby><rb>刎</rb><rt>は</rt></ruby>ね返してサッサと濶歩しましたけれども、米友は<ruby><rb>跛足</rb><rt>びっこ</rt></ruby>の足を引摺って出かけました。

「米友」

能登守が振返って呼ぶと、

「何だ」

米友は<ruby><rb>傲然</rb><rt>ごうぜん</rt></ruby>たる返事であります。

「冷たくはないか」

能登守も南条も五十嵐も、歩みながら振返って、米友の素足を見ました。

「はッはッはッ」

米友は<ruby><rb>嘲笑</rb><rt>あざわら</rt></ruby>って、かえって自分に同情を寄せる先生たちの足許を見ました。この一行は勢いよく雪を冒して進んで行きます。どこへ行くのだか知れないけれども、たしかに荒川筋をめあてに行くものと見えました。

前に言う通り天地はみんな雪であります。往来の人の<ruby><rb>気配</rb><rt>けはい</rt></ruby>は極めて少なくあります。犬の子は威勢よく遊んでいました。たまに通りかかる人も、前に言うような見当から、誰も一行を怪しむものはありません。その中の一人が能登守であるということすらも気のついたものはありません。

その同じ朝、神尾主膳は朝寝をしておりました。この人の朝寝は今に始まったことではないけれども、この朝は特別によく寝ていました。それは昨夜の<ruby><rb>夜更</rb><rt>よふか</rt></ruby>しのせいもあったろうし、外はこの雪でもあるし、こうして寝かしておけばいつまで寝ているかわかりません。その神尾主膳が急に朝寝の夢を破られたのは、能登守の一行がその屋敷を出るとほとんど同時でありました。取次の言葉を聞いてこの<ruby><rb>無精者</rb><rt>ぶしょうもの</rt></ruby>がガバと<ruby><rb>刎</rb><rt>は</rt></ruby>ね起きたところを見ると、それは主膳の耳にかなりの大事と響いたものと見えます。

「よし、早速ここへ通せ」

起き上らないうちからこう言ったところを見ても、いよいよ大事の注進を<ruby><rb>齎</rb><rt>もたら</rt></ruby>したものがあることはたしかです。

まもなく、主膳の寝間へ通されたものは役割の市五郎でした。

「神尾の殿様、逃げました、逃げました、いよいよ逃げ出しましたよ」

「どっちへ逃げた」

「代官町から荒川の筋、たしかに身延街道でございましょう。野郎共を三人ばかり、後を追っかけさせておきましたから、<ruby><rb>行方</rb><rt>ゆくえ</rt></ruby>を突留める分にはなんでもございませんが、いざという時、野郎共では……」

「よし、<ruby><rb>後詰</rb><rt>ごづめ</rt></ruby>はこちらでする。市五郎、<ruby><rb>其方</rb><rt>そのほう</rt></ruby>大儀でも<ruby><rb>分部</rb><rt>わけべ</rt></ruby>、山口、池野、増田へ沙汰をしてくれ、急いで<ruby><rb>鷹狩</rb><rt>たかがり</rt></ruby>を催すと言ってここへ集まるように。<ruby><rb>表面</rb><rt>うわべ</rt></ruby>は鷹狩だがこの鷹狩は火事よりせわしい」

「委細、承知致しました、それでは御免」

市五郎はそこそこに辞して出かけました。それから後の神尾主膳の挙動は気忙しいもので、<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>を洗う、着物を着替える、家来を呼ぶ、配下の同心と<ruby><rb>小人</rb><rt>こびと</rt></ruby>とを呼びにやる、女中を叱る、<ruby><rb>小者</rb><rt>こもの</rt></ruby>を罵る。主膳がやっと衣服を改めてしまった時分に、この屋敷の門内へは、もう多くの人が集まりました。

「おお、おのおの方、大儀大儀、市五郎からお聞きでもござろう、近ごろ珍らしい鷹狩、<ruby><rb>獲物</rb><rt>えもの</rt></ruby>に手ごたえがありそうじゃ」

「神尾殿の仰せの通り、近頃の雪見、それゆえ取る物も取り敢えず馳せつけて参った」

「さあ、同勢揃うたら、一刻も早く」

「かけ鳥の落ちて行く先は身延街道」

なるほど鷹狩には違いなかろうが、鷹狩にしては、あんまり<ruby><rb>慌</rb><rt>あわただ</rt></ruby>しい鷹狩であります。これらの同勢十八人は、雪を蹴立てて<ruby><rb>驀然</rb><rt>まっしぐら</rt></ruby>に代官町の通りから荒川筋、身延街道をめがけて飛んで行きました。

神尾主膳だけは残って、彼等の出て行く後ろ影を見送っていましたが、

「酒だ、前祝いの雪見酒」

神尾主膳はそれから酒を飲みはじめたが、雪見の酒よりか、何か心祝いの酒のように見えました。飲んでいるうちに、ようやくいい心持になって、

「おい、雪見だ、雪見だ、せっかくの雪をこんなところで飲んでいては面白くない、これから<ruby><rb>躑躅</rb><rt>つつじ</rt></ruby>ヶ<ruby><rb>崎</rb><rt>さき</rt></ruby>へ雪見に出かける、誰か二人ばかり行ってその用意をしておけ、下屋敷の二階の間を掃除して、火を盛んに<ruby><rb>熾</rb><rt>おこ</rt></ruby>して酒を温め、あっさりとした席をこしらえておけ」

と命令し、

「さあ、これから躑躅ヶ崎へ出かける。歩いて行くとも。いざさらば雪見に転ぶところまでも古いが、この雪見に歩かないで何とする。<ruby><rb>伴</rb><rt>とも</rt></ruby>は一人でよろしい、<ruby><rb>仲間</rb><rt>ちゅうげん</rt></ruby>一人でよろしい。長合羽の用意と、傘履物」

主膳は立ち上って、

「刀……」

と言って、よろよろとした足許を踏み締めると、女中が常の<ruby><rb>差料</rb><rt>さしりょう</rt></ruby>を取って<ruby><rb>恭</rb><rt>うやうや</rt></ruby>しく差出しました。

「これではない、あちらのを出せ」

床の間の<ruby><rb>刀架</rb><rt>かたなかけ</rt></ruby>に縦に飾ってある<ruby><rb>梨子地</rb><rt>なしじ</rt></ruby>の<ruby><rb>鞘</rb><rt>さや</rt></ruby>の長い刀を指しました。

「うむ、それだ」

梨子地の鞘の長い刀を大事に取下ろして主人へ捧げると、主膳はそれを受取って、

「これが<ruby><rb>伯耆</rb><rt>ほうき</rt></ruby>の安綱だ」

言わでものことを女中に向ってまで口走るのは、酒がようやく廻ったからであります。

伯耆の安綱――してみればこの刀はこれ、有野村の藤原家の伝来の宝、それを幸内の手から捲き上げて、今はこうして<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えをかえて、自家の秘蔵にしてしまったものと見るよりほかはないのであります。

## 五

神尾主膳は酒の勢いで、この雪の中を<ruby><rb>躑躅</rb><rt>つつじ</rt></ruby>ヶ<ruby><rb>崎</rb><rt>さき</rt></ruby>の古屋敷まで歩いて行きました。

そこへ<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>りついて見ると、さいぜん言いつけておいた通りに、二階の一間が<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>に掃除されて、そこでまた<ruby><rb>一盞</rb><rt>いっさん</rt></ruby>を傾けるように準備が整うていました。三ツ組の朱塗の盃が物々しく飾られてありました。

この躑躅ヶ崎の古屋敷というのは、武田の時分には甲坂弾正と穴山梅雪との屋敷址であったということです。昔は鶴ヶ崎と言い、今は躑躅ヶ崎という山の尾根が左手の方にズッと突き出ています。それと向って家は東南に向いていました。この家はなかなか大きなもので、ずっと前に勤番の支配であった旗本がこしらえて、その後は長く空家同様になっていたのを神尾主膳が、何かの縁で<ruby><rb>無償</rb><rt>ただ</rt></ruby>のように自分のものにしたのです。

いま、主膳が坐っている二階の一間は、雪見には<ruby><rb>誂向</rb><rt>あつらえむ</rt></ruby>きの一間で、前に言った躑躅ヶ崎の出鼻から左は高山につづき、右は甲府へ開けて、常ならば富士の山が呼べば答えるほどに見えるところであります。

「あの男はよく寝ている、あまりよく寝ている故、起すのも気の毒じゃ、眼が<ruby><rb>醒</rb><rt>さ</rt></ruby>めてから呼ぶとしよう」

主膳はこう言って、三ツ組の朱塗の盃をこわして、一人で飲み始めました。一人で飲みながらの雪見です。雪見といっても、眼の下の広い庭の中に池があって、その池の傍に巨大なる松の木が枝を拡げています。この松を「馬場の松」と人が呼んでいましたのは、おそらく同じ武田の時代に馬場美濃守の屋敷がその辺にあったから、それで誰言うとなく馬場の松という名がついたのでありましょう。この馬場の松に積る雪だけでも、一人で見るには惜しいほどの面白いものがあります。しかし、主膳はそれほどに風流人ではありません。馬場の松の雪を見んがために、ワザワザここへ飲み直しに来たものとも思われません。

主膳が一人でグイグイ飲んでいると、時々下男が<ruby><rb>梯子</rb><rt>はしご</rt></ruby>から首を出して<ruby><rb>怖</rb><rt>おそ</rt></ruby>る怖る御用を伺いに来るのみであります。

「あの男は、まだ眼が覚めないか、起しに行ってやろうかな、しかし<ruby><rb>炬燵</rb><rt>こたつ</rt></ruby>へ入ってああして熟睡しているところを叩き起すも気の毒じゃ、疲れて昼は休んでいる」

主膳があの男というのは、ここの屋敷に<ruby><rb>籠</rb><rt>こも</rt></ruby>っているはずの机竜之助のことでありましょう。竜之助を相手に雪見をしようと思って来たところが、その竜之助はいま眠っているものと見えます。

主膳はこんな<ruby><rb>独言</rb><rt>ひとりごと</rt></ruby>を言っているうちに、立てつづけに<ruby><rb>呷</rb><rt>あお</rt></ruby>りました。浴びるように飲みました。気がようやく荒くなりました。

「うむ、うむ、この刀、この刀」

と言って主膳は、やや遠く離して置いてあった例の梨子地の鞘の長い刀の<ruby><rb>下</rb><rt>さ</rt></ruby>げ<ruby><rb>緒</rb><rt>お</rt></ruby>を<ruby><rb>手繰</rb><rt>たぐ</rt></ruby>って身近く引寄せて、鞘の<ruby><rb>鐺</rb><rt>こじり</rt></ruby>をトンと畳へ突き立てて、<ruby><rb>朧銀</rb><rt>ろうぎん</rt></ruby>に<ruby><rb>高彫</rb><rt>たかぼり</rt></ruby>した松に鷹の<ruby><rb>縁頭</rb><rt>ふちがしら</rt></ruby>のあたりに眼を据えました。

「この刀を<ruby><rb>試</rb><rt>ため</rt></ruby>すことをいやがる机竜之助の気が知れぬ、と言って拙者の腕で試してみようという気にもならぬ」

その途端になんと思ったのか、神尾主膳の眼中が<ruby><rb>遽</rb><rt>にわ</rt></ruby>かに血走って、

「お銀、お銀、お銀どの」

声高く、そうして物狂わしく呼びつづけました。

神尾主膳が続けざまにお銀様の名を呼んだ時は、もう酒乱の境まで行っていました。その時は思慮も計画も消滅して、これから燃え出そうとするのは、猛烈なる残忍性のみであります。

「お銀どの、お銀どの」

二階の梯子段の上まで行って下を見ながら、またお銀様の名を呼びました。けれどもお銀様の返事はありません。

「お銀どの、お銀どの」

例の刀を持ちながら広い梯子段を、<ruby><rb>覚束</rb><rt>おぼつか</rt></ruby>ない足どりで二段三段と降りはじめました。

「はい」

この時、はじめて廊下をばたばたと駈けるようにして来たのはお銀様であります。どこにいたのか、お銀様は神尾の呼んだ声をいま聞きつけて、廊下を急ぎ足で駈けて来ましたけれど、<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>は恥かしそうに<ruby><rb>俯向</rb><rt>うつむ</rt></ruby>いて、両袖を胸の前へ合せていました。

「ああ、お銀どの、今、そなたを呼びに行こうとしていたところじゃ。さあ、これへお上りなされ、誰もおらぬ、遠慮なくお上りなされ。お上りなされと申すに」

その言いぶりが穏かでないことよりも、その酔っていることがお銀様を驚かせましたけれども、神尾はお銀様の驚いたことも、またお銀様をこんなことで驚かせては不利益だということも、一向見境いがないほどになっていました。

「ちと、そなたに見せたいものがある、そなたでなければ見ても詰らぬもの、見せても詰らぬものじゃ。さあ、遠慮することはない、こちらへおいであれ」

主膳は手を伸ばしてお銀様の手をとろうとしました。お銀様はさすがに遠慮するのを、神尾は無理に右の手で、お銀様の手を取りました。左の手には例の梨子地の鞘の長い刀を持っていました。

「そんなにしていただいては、恐れ多いことでございます」

お銀様が遠慮をするのを、主膳は<ruby><rb>用捨</rb><rt>ようしゃ</rt></ruby>なくグイグイと引張ります。お銀様はしょうことなしにその梯子段を引き上げられて行くのであります。

引き上げられて行くうちに、<ruby><rb>爛酔</rb><rt>らんすい</rt></ruby>した神尾主膳が、その酔眼をじっと据えて自分の<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>を見下ろしているのとぶっつかって、お銀様はゾッと怖ろしくなりました。

お銀様はこの時まで、まだ神尾について何事も知りません。知っていることは、その<ruby><rb>仲媒口</rb><rt>なこうどぐち</rt></ruby>によっての誇張された神尾家の<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>のみでありました。何千石かの旗本の家であったということと、まだ若いということと、多少は放蕩をしたけれど放蕩をしたおかげで、人間が<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>りがよくて物事に柔らかであるというようなことのみ聞かされていました。そうして父の許へしばしば訪れて来た主膳の面影は、ほぼそれに相当すると思っていました。

前の晩には思わぬところでその人に逢って、この屋敷へ送られて来ました。主膳があの際に何の必要であの辺を通り合せたかということに疑念がないではなかったけれど、自分を<ruby><rb>労</rb><rt>いた</rt></ruby>わってこの屋敷まで送って来て、そのうち相談相手になると言って今日までここに待たしておいたもてなしは、親切であり行届いたものでありましたから、お銀様はすくなからず神尾の殿様を信頼しておりました。

その人が、今ここへ来て見ると、酔っていて――しかもその酔いぶりは爛酔であります。爛酔を通り越して狂酔の<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>であることは、どうしても今までのお銀様の信頼の念を、ぐらつかせずにはおきません。神尾が自分を上から見据えている眼は、<ruby><rb>貪婪</rb><rt>どんらん</rt></ruby>の眼でありました。単に酔っているだけの眼つきではありません。この酔態を見た時に、神尾主膳の人柄を疑いはじめたお銀様は、その眼を見た時になんとも言えぬ<ruby><rb>厭</rb><rt>いと</rt></ruby>うべき恐怖を感じました。それと共に、急いで神尾に取られた手を振り放そうとしましたけれど、それは<ruby><rb>締木</rb><rt>しめぎ</rt></ruby>のように固く握られてありました。

お銀様は、ついに二階の一間まで、主膳のために手を引かれて来てしまいました。

そこは主膳が今まで飲んでいたところらしく、<ruby><rb>獅噛</rb><rt>しかみ</rt></ruby>のついた大火鉢の火が<ruby><rb>熾</rb><rt>おこ</rt></ruby>っているし、<ruby><rb>猩々足</rb><rt>しょうじょうあし</rt></ruby>の台の物も置かれてあります。

「お銀どの、なんと見事な雪ではないか、この松の雪を御覧候え、これは馬場の松といって自慢の松の樹じゃ」

主膳も座に着きました。しょうことなしにお銀様はその向うにモジモジとして坐っています。

「結構な松の樹でござりまする」

お銀様は<ruby><rb>怖々</rb><rt>こわごわ</rt></ruby>と庭を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>きました。池の<ruby><rb>汀</rb><rt>みぎわ</rt></ruby>の巨大なる松の樹は、鷹が羽を拡げて巌の上に伸ばして来た形をして枝葉を充分に張っている上に、ポタポタと雪が積み重なっているのは、さすがに自慢の松であり、見事な雪であることに、怖々ながらお銀様も<ruby><rb>見惚</rb><rt>みと</rt></ruby>れます。

松を見ているお銀様の横顔を、神尾主膳は例の<ruby><rb>貪婪</rb><rt>どんらん</rt></ruby>な眼つきで見据えていました。

「お銀どの」

「はい」

「いい松であろう、木ぶりと申し枝ぶりと申し、あのくらいの松はほかにはたんとあるまい、あれは馬場の松……武田の名将馬場美濃守が植えたと申す馬場の松」

「ほんとに見事な松でございます」

「そなたの家は甲州で並ぶもののない<ruby><rb>大家</rb><rt>たいけ</rt></ruby>、それでもあのくらいの松はあるまい、あのくらい見事な松は、そなたの屋敷にもあるまい」

「わたくしどもの庭にも、このような見事な松はござりませぬ」

「左様であろう、この神尾は貧乏だけれど、そなたの家にも無い物を持っている」

と言って、神尾は二三度<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>きました。それからニヤリと笑って、

「まだまだ、神尾の家には、そなたの家には無くて、神尾の家だけにある宝が一つある、それを見せて進ぜようか」

と言いながら主膳は、またしても例の梨子地の鞘の刀を引寄せて、

「この刀なんぞもその一つじゃ、よく見て置かっしゃれ、鞘はこの通り梨子地……<ruby><rb>鍔</rb><rt>つば</rt></ruby>の<ruby><rb>象眼</rb><rt>ぞうがん</rt></ruby>は<ruby><rb>扇面散</rb><rt>せんめんち</rt></ruby>らし、<ruby><rb>縁頭</rb><rt>ふちがしら</rt></ruby>はこれ<ruby><rb>朧銀</rb><rt>ろうぎん</rt></ruby>で松に鷹の<ruby><rb>高彫</rb><rt>たかぼり</rt></ruby>、<ruby><rb>目貫</rb><rt>めぬき</rt></ruby>は浪に鯉で<ruby><rb>金無垢</rb><rt>きんむく</rt></ruby>じゃ」

主膳はその刀を取って鞘のまま、お銀様の眼の前に突きつけました。

「結構なお<ruby><rb>差料</rb><rt>さしりょう</rt></ruby>でござりまする」

お銀様は、怖れとそれから迷惑とで、刀はよくも見ないで挨拶だけをしました。

「いや、これしきの物、そなたの眼から結構と言われては恥かしい。そなたの家の倉や土蔵には、このくらいの刀や<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えは掃いて捨てるほど転がっているはずじゃ。神尾の家ではこれだけの拵えも自慢になる。ナニ、たかの知れた鍔の象眼、縁頭の朧銀が何だ、<ruby><rb>小</rb><rt>ちっ</rt></ruby>ぽけな金無垢……」

主膳は自慢で見せたものを嘲りはじめました。お銀様は自分の賞め方が気に触ったのかと思いました。

「いいえ、どう致しまして、このような結構なお差料が私共の家なんぞに……」

「無いであろう。そりゃ無いはずじゃ、このくらい結構な差料は、そなたの家はおろか、甲州一国を尋ねても……いやいや、日本六十余州を尋ねても、二本三本とは手に入るまい。それを神尾が持っている、それ故そなたに見せて進ぜたいと申すのじゃ」

「わたくしどもなぞには、拝見してもわかりませぬ」

「見るのはおいやか、せっかく拙者が親切に、秘蔵の名物を見せてあげようとするのに、そなたはそれを見るのがおいやか」

「そういうわけではござりませぬ」

「しからば見て置かっしゃい、ようく見て置かっしゃい」

主膳はお銀様の目の前でその刀をスラリと抜き放ちました。

「あれ！」

お銀様が驚いて飛び上ろうとするのを、主膳は<ruby><rb>無手</rb><rt>むず</rt></ruby>と押えてしまいました。

「さあ、刀の自慢というのは拵えの自慢ではない、拵えは悪くとも中身がよければ、それが<ruby><rb>真実</rb><rt>ほんとう</rt></ruby>の刀の自慢じゃ。お銀どの、そなたは今この刀の拵えを結構なものじゃというて賞めた、中身を見てもらいたい、このくらいの縁頭や目貫は、そなたの家には<ruby><rb>箒</rb><rt>ほうき</rt></ruby>で掃いて<ruby><rb>箕</rb><rt>み</rt></ruby>で捨てるほどあろうけれど、この中身ばかりはそうは参るまい。さいぜんも申す通り、甲州一円はおろか、日本六十余州を尋ねても、二本三本とは手に入らぬ自慢の神尾主膳が差料、誰にも見せたくはないものながら、ほかならぬそなたのお目にかける、<ruby><rb>篤</rb><rt>とく</rt></ruby>と<ruby><rb>鑑定</rb><rt>めきき</rt></ruby>がしてもらいたい」

神尾主膳はお銀様に刀を見せるのではなく、お銀様を<ruby><rb>捉</rb><rt>つかま</rt></ruby>えて刀を突きつけているのでありました。

「わたくしどもなどに、どう致しまして、お刀の拝見などが……」

「左様ではござらぬ、篤と御覧下されい」

「どうぞ御免あそばしまして」

「刀が怖いのでござるか」

「どうぞお引き下さいませ」

お銀様は鷹に押えられた雀のように、ワナワナと<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>えるばかりであります。

「まことに刀の見様を御存じないのか」

「一向に存じませぬ」

「しからば、刀の見様を拙者が御伝授申し上げようか」

「後程にお伺い致しまする」

「後程？……それでは拙者が困る、御遠慮なくこの場で御覧下されい。よろしいか、長さは二尺四寸、ちと長過ぎる故、<ruby><rb>摺上物</rb><rt>すりあげもの</rt></ruby>に致そうかと思ったけれど、これほどの名物に<ruby><rb>鑢</rb><rt>やすり</rt></ruby>を入れるのも<ruby><rb>勿体</rb><rt>もったい</rt></ruby>なき故、このまま拵えをつけた、この<ruby><rb>地鉄</rb><rt>じがね</rt></ruby>の細かに<ruby><rb>冴</rb><rt>さ</rt></ruby>えた板目の波、肌の<ruby><rb>潤</rb><rt>うるお</rt></ruby>い」

「どうぞ御免あそばしませ、わたくしどもにはわかりませぬ」

「見事な<ruby><rb>大湾</rb><rt>おおのた</rt></ruby>れ、<ruby><rb>錵</rb><rt>にえ</rt></ruby>が<ruby><rb>優</rb><rt>すぐ</rt></ruby>れて匂いが深いこと、見ているうちになんとも言われぬ奥床しさ」

「わたくしは、もう怖くてなりませぬ」

「斬ると言ったら怖くもあろうけれど、見る分には怖いことはござらぬ」

「それに致しましても……」

「ただこうして<ruby><rb>区</rb><rt>まち</rt></ruby>から板目の肌に現われた模様を見ていたところでは、その地鉄がなんとなく弱々しいけれど、よくよく見れば潤いがあって、どことなしに強いところがある」

「もう充分、拝見致しました」

「まだまだ。潤いがあって、どことなしに強いところがあって、その上に一段と高尚で、それからこの古雅な<ruby><rb>趣</rb><rt>おもむき</rt></ruby>……よく見れば見るほど刃の中に模様がある」

「どうぞ御免あそばしませ」

「お銀どの、そなたはこの刀にお見覚えはござらぬか」

「ええ」

「この刀……」

「ええ、このお刀に、わたくしが、どう致しまして」

「それ故に<ruby><rb>篤</rb><rt>とく</rt></ruby>と御覧なされいと申すのじゃ、怖がっておいでなさるばかりが能ではない、気を落着けて御覧なされい」

「それに致しましても、どうしてわたくしが、このお刀を存じておりましょう」

「もしそなたが知らぬならば、そなたの家の幸内という者が知っている、その刀がこれなのじゃ」

「ええ？」

「これは<ruby><rb>伯耆</rb><rt>ほうき</rt></ruby>の<ruby><rb>安綱</rb><rt>やすつな</rt></ruby>という古刀中の古刀、名刀中の名刀じゃ」

「ええ！　これが伯耆の安綱？」

「打ち返してよく御覧なされい」

ここに至ってお銀様は、<ruby><rb>一時</rb><rt>いっとき</rt></ruby>恐怖の念がいずれへか飛び去って、眼の前に突きつけられた伯耆の安綱の刀に、ずっと吸い寄せられました。お銀様がその刀をじっと見つめている時に、神尾主膳は片手で、近くにあった朱塗の大盃を取って引寄せ、それに片手でまた酒をなみなみと注ぎました。

右の手では、やはりお銀様の前へ伯耆の安綱の刀を突き出して、左の手では朱塗の大盃を取り上げました。刀を見ているお銀様と、盃の中に<ruby><rb>湛</rb><rt>たた</rt></ruby>えられた酒とを等分に見比べていました。

「この刀は、これは、わたくしの家に伝わる伯耆の安綱の刀？」

お銀様はこう言った時に、

「その通り」

神尾主膳は舌打ちをして、大盃の中の酒をグッと傾けます。

「どうしてこれがあなた様のお手に……」

「ははは、これを拙者の手に入れるまでには大抵な骨折りではない、今も言う通り、幸内の手からわが物になった」

「幸内が……」

「幸内から譲り受けた」

「それは何かの間違いでございましょう」

「さあ、それが何の間違いでもないのじゃ。お銀どの、そなたは何も知らぬ、それ故、よく言ってお聞かせ申す。そもそもこの伯耆の安綱という刀は、有野村の藤原家に伝わる名刀じゃ、いつぞや拙者の宅で<ruby><rb>様物</rb><rt>ためしもの</rt></ruby>のあった時、集まる者にこの刀を見せてやりたいから、それで幸内を<ruby><rb>嗾</rb><rt>そそのか</rt></ruby>して、ひそかにそれを持ち出させた、それはお銀どの、そなたもよく御存じのはず……いや、幸内の持参したこの刀を見ると聞きしにまさる名刀、急に欲しくなってたまらぬ故、幸内から譲り受けた」

「それは間違いでございます、幸内には、わたくしが父に<ruby><rb>内密</rb><rt>ないしょ</rt></ruby>で三日の間、貸してやったものでございます、それを人様にお譲り申すはずがござりませぬ、そのようなことをする幸内ではござりませぬ」

「それもその通り、尋常では幸内が拙者に譲る気づかいもなし、拙者もまた、<ruby><rb>微禄</rb><rt>びろく</rt></ruby>して、恥かしながらこの刀を譲り受けるだけの金が無い、それ故に少し荒っぽい療治をしてこの刀をぶんどった」

「エ、エ！」

「ははは、驚いたか」

神尾主膳はふたたび大盃の酒を傾けて<ruby><rb>咽喉</rb><rt>のど</rt></ruby>を鳴らしながら、意地悪くお銀様の面を見つめて、しばらく黙っておりました。

お銀様はこの時、下唇をうんと喰い締めました。そうして見る見るうちにその面が土色になって、<ruby><rb>眼</rb><rt>まなこ</rt></ruby>が釣り上るのであります。

「幸内が、どうして幸内が、この刀をあなた様に差上げました」

「早く言えば奪い取ったのじゃ」

「エ、エ！」

「幸内に酒を飲ましたのじゃ、その酒は毒の酒じゃ、それを飲ますと酔いつぶれた上に声が<ruby><rb>潰</rb><rt>つぶ</rt></ruby>れるのじゃ。それを飲ましておいて、幸内が手からこの刀を奪い取って、おれの差料にしたのじゃわい」

主膳は三たび大盃を上げて、<ruby><rb>心地</rb><rt>ここち</rt></ruby>よくその一杯を傾け尽しました。

「あ、あ」

とお銀様は面を<ruby><rb>屹</rb><rt>きっ</rt></ruby>と上げて、その釣り上った眼で神尾主膳を<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>みました。

「うむ、それからまた、幸内めを種に使って一狂言を組もうと思うて、縄でからげてこの屋敷へ隠して置いたが、手ぬかりでツイ逃げられた」

「あああ、知らなかった、知らなかった。そんならこの刀を奪い取るために、幸内に毒を飲ませてあんなにしたのは、神尾様、お前様の<ruby><rb>仕業</rb><rt>しわざ</rt></ruby>か」

「それそれ」

「鬼か、<ruby><rb>蛇</rb><rt>じゃ</rt></ruby>か。人間としてようもようも、そんなことが……」

「まあ、お聞きやれ、そればかりではないわい」

「幸内の<ruby><rb>敵</rb><rt>かたき</rt></ruby>！」

お銀様は神尾主膳に<ruby><rb>武者振</rb><rt>むしゃぶ</rt></ruby>りつきました。けれどもそれは、やはりお銀様の逆上のあまりで、かえって主膳のために荒らかに組敷かれてしまったのはぜひもありません。

酔ってこそいたれ、神尾主膳もまた刀を差す身でありました。お銀様が武者振りついたとて、それでどうにもなるものではありません。

お銀様を片手で膝の下へ組敷いた神尾主膳は、落着いたもので、

「<ruby><rb>逸</rb><rt>はや</rt></ruby>まるな逸まるな、この屋敷へ隠して置いたその幸内に逃げられたのは、拙者の<ruby><rb>落度</rb><rt>おちど</rt></ruby>じゃ。あれに逃げられては<ruby><rb>企</rb><rt>たくら</rt></ruby>んだ狂言がフイになり、その上に拙者の身が危ないから、それで拙者は苦心を重ねてあれの<ruby><rb>行方</rb><rt>ゆくえ</rt></ruby>を調べた上に、とうとうお銀どの、お前の屋敷に寝ているのを見届けた。それは、そなたが屋敷を脱け出してこっちへ来たと同じ晩、あの晩に拙者は、忍んで行って、そなたが屋敷を脱け出したあとへ忍び入り、そして幸内が息の根を止めて来た……」

「エ、エ、エ！」

「はははは、その帰りにも、そなたに<ruby><rb>怪我</rb><rt>けが</rt></ruby>のないように、有野村から後をつけて来たのを、そなたは知るまい」

「それでは、あの晩に、あれからああして」

「はははは」

主膳の酒乱が頂点にのぼった時でありました。よしこれほど<ruby><rb>惨酷</rb><rt>さんこく</rt></ruby>な男であっても、酔ってさえいなければ、これほどのことを高言するでもなかろうけれど、今はこうして言えば言うほど、自分ながら快味が増すのかと思われるばかりであります。

お銀様の口から、唇を噛み切った血がにじむのに<ruby><rb>拘</rb><rt>かかわ</rt></ruby>らず、神尾主膳は高笑いして、

「さあ、これから幸内が身代りに、お銀どの、そなたが狂言の玉じゃ、幸内に飲ませたと同じ酒をそなたにいま飲ませてやるのじゃ、幸内が飲んだように、そなたもその酒を飲むのじゃ」

「助けて下さい――誰か、来て下さいまし！」

お銀様は、ついに大声で救いを求めました。

「それそれ、それだから酒を飲ませるのじゃ、その酒を飲むと、痛くても<ruby><rb>痒</rb><rt>かゆ</rt></ruby>くても声が立たぬようになるのじゃ、ここの小瓶に入っているものを、ちょっとこの酒の中へ落して、こう飲まっしゃれ」

神尾主膳は、刀を傍へさしおいて、片手ではお銀様の口を押え、片手では、三ツ組の朱塗の盃のいちばん小さいのへ酒を注いで、その上へ小瓶の中から何物かを落して、無理にお銀様の口を割って飲ませようとします。お銀様は、

「アッ、いや――誰か、誰か、来て――苦しッ」

「あ痛ッ」

神尾主膳が痛ッと言って、お銀様に飲ませようとした小盃を畳の上へ取落して、飛び上るように手の甲を抑えたのは、今、必死になったお銀様のために、そこをしたたかに食い破られたのであります。

「わたしは死ねない、まだここでは死ねない、幸内、幸内、誰か、誰か、誰か来て……」

お銀様は飛び起きて梯子段を転げ落ちました。

「おのれ、逃がしては」

神尾主膳は、さしおいた伯耆の安綱の刀を持って<ruby><rb>酔歩蹣跚</rb><rt>すいほまんさん</rt></ruby>として、逃げて行くお銀様の後を追いかけました。

梯子を転げ落ちたお銀様は、転げ落ちたのも知らず、直ぐに起き返ったことも知らず、どこをどう逃げてよいかも知らず、ただ白刃を提げて追いかける悪魔に追い迫られて、廊下を曲って突当りの部屋の障子を押し開いて逃げ込みました。

お銀様が逃げ込んだその部屋には<ruby><rb>炬燵</rb><rt>こたつ</rt></ruby>がありました。

その炬燵には横になって、人が一人、うたた寝をしておりました。それに気のついた時に神尾主膳はもう、白刃を提げてこの部屋の入口のところまで来ていました。

「ああ、あなたは善い人か悪い人か知らない、わたしを助けて下さい、わたしはここでは死ねません」

お銀様はその横にうたた寝をしていた人の首に、しっかとしがみつきました。

机竜之助はこの時眼が<ruby><rb>醒</rb><rt>さ</rt></ruby>めました。眼が醒めたけれども、この人は眼をあくことの出来ない人であります。ただわが首筋へしがみついたその者の声は女であることを知り、竜之助の首を抱えた腕は火のようであることを知り、その頬に触れる血の熱さも火のようであることを知ったのみです。

「助けて下さい、神尾主膳は鬼でございます、わたしは殺されてもかまいませんけれど、神尾主膳の手にかかって殺されるのはいやでございます、あなた様は善いお方だか悪いお方だか知れないけれども、わたしを助けて下さい、助けられなければ、あなたのお手で殺して下さい、わたしは神尾主膳に殺されるよりは、知らない人に殺された方がよろしうございます」

この言葉も息も、共に炎を吐くような熱さでありました。

「神尾殿、<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>をなさるな」

竜之助はここで起き直ろうとしました。しかしお銀様の腕は竜之助の身体から離れることはありません。竜之助はそれを振り放そうとした時に、お銀様の乱れた髪の軟らかい束が、竜之助の<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>を埋めるように群っているのを知りました。

「はははは」

神尾主膳は敷居の外に立って高らかに笑いました。その手には、やはり伯耆の安綱を提げていましたけれど、その足は廊下に立って、その面はこっちを向いたままで一歩も中へは入って来ませんでした。

「助けて下さい」

お銀様は、竜之助の蔭に隠れました。蔭に隠れたけれども、しっかりと竜之助に抱きついているのでありました。もしも神尾に斬られるならばこの人と一緒に……お銀様は、どうしても自分一人だけ神尾に斬られるのでは、死んでも死にきれないと、ただそれだけが一念でありましょう。

「どうするつもりじゃ」

それは竜之助の声でありました。例によって冷たい声でありました。どうするつもりじゃ、と言ったのは、それは刀を提げて立っている神尾主膳に尋ねたのか、それとも自分にかじりついているお銀様の挙動をたしなめたのか、どちらかわからない言いぶりでありました。聞き様によっては、どちらにも聞き取れる言いぶりでありました。

「ははははは」

酒乱の神尾主膳は、またも声高らかに笑って、

「<ruby><rb>脅</rb><rt>おどか</rt></ruby>してみたのじゃ」

「悪い癖だ」

竜之助はそれより起き上ろうともしませんでした。神尾主膳もまた一歩もこの部屋の中へは足を入れないで、突っ立ったなりでニヤニヤと笑っていましたが、

「はははは」

高笑いして、足許もしどろもどろに廊下を引返して行くのであります。

その足音を聞いていた机竜之助が、

「あの男は、あれは酒乱じゃ」

と言いました。

「有難う存じまする、有難う存じまする、あなた様のおかげで危ないところを……」

お銀様は、ただ無意識にお礼を繰返すことのみを知っておりました。

「お前様は？」

「はい、わたくしは……」

と言ってお銀様は、竜之助の<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>を見ることができました。けれども、わざと眼を<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>いでいるこの人の物静かなのを見ただけでありました。お銀様は、その時に、はっと思って自分の姿の浅ましく乱れていることに気がつかないわけにはゆきませんでした。髪も乱れているし、着物も乱れているし、恥かしい肌も<ruby><rb>現</rb><rt>あらわ</rt></ruby>になっているものを。

それを見まいがために、この人は、わざと眼を塞いでいるのではないかと思われました。

お銀様は、あわてて自分の身を<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>いつくろいましたけれど、それでもなお何かの恥かしさに堪えられないようでした。

お銀様も、さすがに若い女であります。この怖れと、怒りと、驚きとの中にあって、なお自分の姿と<ruby><rb>貌</rb><rt>かたち</rt></ruby>の取乱したのを恥かしく思うの余地がありました。

それから、髪の毛を撫で上げました。着物の<ruby><rb>褄</rb><rt>つま</rt></ruby>を合せました。

それを見て見ぬふりをしているこの人は、神尾主膳とは違って奥床しいところのある人だと思わせられる心持になりました。

前へ廻って、しとやかに両手を突きました。

「どうぞ、わたくしをお逃がし下さいまし、お願いでございまする」

その声はしおらしいものでありました。起き直ったけれども、やはり炬燵にあたっていた机竜之助は、その声を聞いてもまだ眼を開くことをしません。

「どうぞ、このままわたくしをお逃がし下さいませ」

お銀様は折返して、机竜之助の前に助命の願いをしました。けれども竜之助は、やはり眼を開くことをしないし、また一言の返事をも与えないのでありました。それでもお銀様の言葉には、ようく耳を傾けているには違いありません。

「ああ、わたくしは一刻もこの家にこうしてはおられぬのでござりまする、神尾主膳は悪人でござりまする、こうしておれば、わたくしは幸内と同じように殺されてしまうのでござりまする、あなた様はどういうお方か存じませぬが、どうかこのままお逃がし下さいまし、一生のお願いでござりまする」

お銀様は竜之助に歎願のあまり、伏し拝むのでありました。けれども竜之助は、眼を開いてその可憐な姿を見ようともしなければ、口を開いて、逃げろとも助けるとも言いませんでした。ただお銀様の一語一語を聞いているうちに、その<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>にみるみる沈痛の色が<ruby><rb>漲</rb><rt>みなぎ</rt></ruby>り渡るのみでありました。

「それでは、わたくしはこのまま御免を蒙りまする、いずれまた人を御挨拶に<ruby><rb>遣</rb><rt>つか</rt></ruby>わしまする」

お銀様は<ruby><rb>愴惶</rb><rt>そうこう</rt></ruby>としてこの部屋を立って行こうとした時に、竜之助がはじめて、

「お待ちなさい」

と言いました。

「はい」

お銀様は立ち止まりました。

「これからどこへおいでなさろうというのです」

「はい、有野村まで」

「有野村へ？……外は<ruby><rb>近来</rb><rt>ちかごろ</rt></ruby>の大雪であるらしいのに」

「雪が降りましょうとも雨が降りましょうとも、わたくしは帰らずにはおられませぬ」

「外は雪である上に、<ruby><rb>駕籠</rb><rt>かご</rt></ruby>も乗物もここにはあるまい」

「そんな物はどうでもよろしうござりまする、わたくしは逃げなければなりませぬ、帰らなければなりませぬ」

「駕籠も乗物もないのに、外へ出れば人通りもあるまい、道で<ruby><rb>吹雪</rb><rt>ふぶき</rt></ruby>に打たれて<ruby><rb>凍</rb><rt>こご</rt></ruby>えて死ぬ……」

「たとえ凍えて死にましても、わたくしは……」

「そりゃ無分別」

「ああ、思慮も分別も、わたくしにはわかりませぬ、こうしておられませぬ、こうしてはおられませぬわいな」

「待てと申すに」

竜之助の声は、寒水が<ruby><rb>磐</rb><rt>いわお</rt></ruby>の上を走るような声でありました。お銀様はゾッとして立ち<ruby><rb>竦</rb><rt>すく</rt></ruby>んでしまいました。見ればこの人はまだ眼を開かないけれど、<ruby><rb>炬燵</rb><rt>こたつ</rt></ruby>の中から半身を開いて、<ruby><rb>傍</rb><rt>かたえ</rt></ruby>に置いた<ruby><rb>海老鞘</rb><rt>えびざや</rt></ruby>の刀を膝の上まで引寄せているのでありました。

その構えは、動かば斬らんという構えでありました。その<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>の色は、斬って血を見ようとする色でありました。

「ああ、ああ、あなた様も、やっぱり悪い人、神尾主膳の同類でござんしたか。ああ、わたくしはどうしたらようございましょう」

主膳に<ruby><rb>脅</rb><rt>おどか</rt></ruby>された時は、少なくとも抵抗するの気力がありました。またその人に追われた時も逃げる隙がありました。ひとりこの異様なる人の前にあっては、身の毛が<ruby><rb>竪立</rb><rt>よだ</rt></ruby>って動こうとしても動けないで、張り合おうとしても張り合えないで、戦慄するのみです。

この時、門外が<ruby><rb>噪</rb><rt>さわ</rt></ruby>がしく、多くの人がこの古屋敷へ来たらしくあります。

それは、乗物を持って神尾主膳を本邸から迎えに来たものでありました。酔い伏していた主膳は、その迎えを受けるや<ruby><rb>愴惶</rb><rt>そうこう</rt></ruby>として、その乗物に乗って本邸へ帰ってしまいました。それでこの古屋敷は、主人を失って全く静寂に帰してしまいました。

机竜之助は、また<ruby><rb>炬燵櫓</rb><rt>こたつやぐら</rt></ruby>の中へ両の手を差込んで、首をグッタリと<ruby><rb>蒲団</rb><rt>ふとん</rt></ruby>の上へ投げ出して、何事もなく<ruby><rb>転寝</rb><rt>うたたね</rt></ruby>の形でありました。お銀様はその前に伏して<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>を埋めて、忍び音に泣いているのでありました。外の雪は、まだまだ<ruby><rb>歇</rb><rt>や</rt></ruby>むべき模様もなく、時々吹雪が裏の板戸を<ruby><rb>撫</rb><rt>な</rt></ruby>でて通り過ぎると、ポタポタと雪の<ruby><rb>塊</rb><rt>かたまり</rt></ruby>が植込の<ruby><rb>梢</rb><rt>こずえ</rt></ruby>を<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>って庭へ落ちる音が聞えます。

「幸内というのは、ありゃ、お前様の兄弟か」

「いいえ、雇人でござりまする」

竜之助は転寝をしながら静かに尋ねると、お銀様は忍び音に泣き伏しながら<ruby><rb>辛</rb><rt>かろ</rt></ruby>うじて答えました。

「雇人……」

竜之助はこう言って、しばらく言葉を休んでいました。

「幸内がかわいそうでございます、幸内がかわいそうでございます」

お銀様は、また泣きました。

「いったい、神尾はあれをどうしようというのだ」

「神尾様は幸内を殺してしまいました、あの人が<ruby><rb>企</rb><rt>たくら</rt></ruby>んで幸内を殺した上に、わたくしを<ruby><rb>欺</rb><rt>だま</rt></ruby>して、わたくしの家を乗取ろうという悪い企みだそうでございます」

「神尾のやりそうなことだ」

と言って竜之助は、<ruby><rb>敢</rb><rt>あえ</rt></ruby>てその悪い企みを聞いて驚くのでもありませんでした。また神尾のその悪い計画に同意しているものとも思われませんでした。それですから、お銀様にどうもこの人がわからなくなってしまいました。

「あなた様は神尾様のお友達でございますか、御親類のお方でございますか、神尾様のような悪いお方ではございますまい、幸内を<ruby><rb>苛</rb><rt>いじ</rt></ruby>めたように、わたくしを苛めるような、そんな悪いお方ではございますまい、そんなお方とは思われませぬ、あなた様は、もっとお情け深いお方でございましょう、どうか、わたくしをお逃がし下さいまし」

「ははは、わしは神尾の友達でもないし、もとより<ruby><rb>身寄</rb><rt>みより</rt></ruby>でも親類でもない、お前方と同じように、神尾主膳のために<ruby><rb>囚</rb><rt>とら</rt></ruby>えられて、この古屋敷の番人をしているのじゃ」

「エエ！　それではあなた様もやっぱり神尾のために」

「よんどころなくこうしている」

「お宅はどちらでございます」

「ちと遠い」

「御遠方でございますか」

「武蔵の国」

「そんならば、あの、こちらの大菩薩峠を越ゆれば、そこが武蔵の国でございます」

「ああ、そうだ」

竜之助は荒っぽく返事をしました。お銀様は黙ってしまいました。

「なるほど、大菩薩峠を一つ越せば武州へ入るのじゃわい、道のりにしてはいくらもないけれど、おれには帰れぬ、帰ってくれと言う者もないけれど。ああ、子供が一人いる、親の無い子供が泣いている」

竜之助は<ruby><rb>炬燵</rb><rt>こたつ</rt></ruby>の上から頭を持ち上げました。子供が一人いる、親の無い子が泣いている、これはまた何という取っても附かぬ述懐であろう。この人にしてこんな<ruby><rb>言</rb><rt>こと</rt></ruby>……その<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>を見ると、冷やかな蒼白い色に言うばかりなき苦悶の影がありありと現われましたけれど、それは電光のように<ruby><rb>掠</rb><rt>かす</rt></ruby>めて消えてしまいました。

消えないのはお銀様の眼の前に、前の晩、穴切明神のあたりで泣いていた男の子、親は何者かのために斬られて<ruby><rb>非業</rb><rt>ひごう</rt></ruby>の<ruby><rb>最期</rb><rt>さいご</rt></ruby>。ひとり泣いていた、あの子はどうなった――ということであります。

お銀様は机竜之助の傍に引きつけられていました。

日が暮れるまでそこで泣いていました。日が暮れるとその屋敷の小使が食事を運んで、いつもの通りその次の間まで持って来て置きました。

竜之助は夕飯を食べましたけれども、お銀様は食べませんでした。

夕飯を食べてしまった後の竜之助は、障子をあけてカラカラと格子戸を立てました。外の雨戸のほかに、この座敷には<ruby><rb>狐格子</rb><rt>きつねごうし</rt></ruby>の丈夫な障子がまた一枚あります。その格子戸を立て切ると竜之助は、二箇所ほどピンと錠をおろしてしまいました。

なんのことはない、それは座敷牢と同じことです。

そこで竜之助は、また炬燵へ入ってしまいました。

お銀様は泣いておりました。こうして夜は次第に<ruby><rb>更</rb><rt>ふ</rt></ruby>けてゆくばかりです。

夜中にお銀様は物におびやかされて、

「あれ、幸内が」

と言って飛び上りました。

やはり<ruby><rb>転寝</rb><rt>うたたね</rt></ruby>の形であった竜之助はその声で覚めると、その見えない眼にパッと鬼火が燃えました。

「幸内が……」

お銀様は再び竜之助に、すがりつきました。お銀様は何か<ruby><rb>幻</rb><rt>まぼろし</rt></ruby>を見ました。幸内の形をした幻に驚かされました。

机竜之助もまた何者をか見ました。何者かに襲われました。お銀様を抱えて隠そうとしました。

竜之助を襲い<ruby><rb>来</rb><rt>きた</rt></ruby>ったものは神尾主膳ではありません。宇津木兵馬でもありません。

前に幸内を入れて置いた長持の中から、茶碗ほどの大きさな綺麗な二ツの蝶が出ました。何も見えないはずの竜之助の眼に、その蝶だけはハッキリと見えました。

蝶は雌蝶と雄蝶との二つでありました。しかもその雄蝶は黒く雌蝶は青いのまで、竜之助の眼には<ruby><rb>判然</rb><rt>はっきり</rt></ruby>として現われました。

お銀様を片手に抱えた竜之助は、その蝶の<ruby><rb>行方</rb><rt>ゆくえ</rt></ruby>を<ruby><rb>凝</rb><rt>じっ</rt></ruby>と見ていました。雄蝶と雌蝶とは上になり下になって長持の中から舞い出でました。やや上ってまた下りました。その二つは<ruby><rb>戯</rb><rt>たわむ</rt></ruby>れているのではなく、食い合っているのでありました。

非常に恐ろしい<ruby><rb>形相</rb><rt>ぎょうそう</rt></ruby>をして雌蝶と雄蝶が<ruby><rb>噛</rb><rt>か</rt></ruby>み合いながら室内を、上になり下になって狂い廻るのでありました。

「ああ、幸内がかわいそう……」

とお銀様が<ruby><rb>慄</rb><rt>ふる</rt></ruby>え上るその<ruby><rb>頭髪</rb><rt>かみ</rt></ruby>の上で、二つの蝶が食い合っていました。竜之助には、いよいよ<ruby><rb>判然</rb><rt>はっきり</rt></ruby>とその蝶が<ruby><rb>透通</rb><rt>すきとお</rt></ruby>るように見えるのであります。蝶の噛み合う歯の音まで<ruby><rb>歴々</rb><rt>ありあり</rt></ruby>と聞えるのであります。

「ああ、幸内がここへ来た」

お銀様は、雌蝶とも雄蝶とも言わない。竜之助は幸内の姿を見ているのではありません。

この二つの蝶は夜もすがら、この座敷牢の中を狂って狂い廻りました。竜之助はこの蝶のために一夜を眠ることができませんでした。お銀様はこの蝶ならぬ幸内の<ruby><rb>幻</rb><rt>まぼろし</rt></ruby>のために一夜を眠ることができませんでした。

夜が明けた時にお銀様は、そう言いました。

「ああ、あなたはお眼が見えない、お眼が見えないから、わたしは嬉しい」

竜之助とお銀様との縁は悪縁であるか、善縁であるか、ただし悪魔の戯れであるかは、わかりません。

けれども、甲府のあたりの町の人にはこれが幸いでありました。その当座、机竜之助は辻斬に出ることをやめました。甲府の人は一時の物騒な夜中の警戒から解放されることになりました。

お銀様は、竜之助と共に暫らくこの座敷牢の中に暮らすことを満足しました。竜之助は、このお銀様によって甲府の土地を立退くの約束を与えられました。

## 六

神尾主膳が<ruby><rb>躑躅</rb><rt>つつじ</rt></ruby>ヶ<ruby><rb>崎</rb><rt>さき</rt></ruby>の古屋敷から、あわてて帰った時分に、駒井能登守はまた、こっそりとその屋敷へ戻って来ました。

出て行った時には都合四人であったのが、帰った時は二人きりです。その二人とは、当の能登守と、それから<ruby><rb>跟</rb><rt>つ</rt></ruby>いて行った米友とだけです。

「米友」

能登守が米友を顧みて呼ぶと、

「何だ」

米友は上眼使いに能登守の<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>を見上げて、無愛想な返事です。

「大儀であったな」

「ナーニ」

米友は眼を<ruby><rb>外</rb><rt>そ</rt></ruby>らして横を向いて、能登守の<ruby><rb>労</rb><rt>ねぎら</rt></ruby>う言葉を好意を以て受取ろうとしません。屋敷に着いた時も、表から入らずに裏から入りました。

出て行った時でさえ、家来の者も気がつかなかったくらいだから、帰った時には、なお気がつく者がありませんでした。

主人を送り込んだ米友は、その鉄砲を担いだままで、ジロリと主人の入って行った後を見送っていました。

「お帰りあそばせ」

と言って迎えたのは女の声であります。女の声、しかもお君の声であります。その声を聞くと米友は眼をクルクルと光らせて、大戸の中を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>き込むようにしました。けれども主人能登守の姿も見えないし、お君の姿も見えません。二人の姿は見えないけれど、その声はよく聞えます。

「よく降る雪だ」

「この大雪に、どちらまでおいであそばしました」

「竜王の鼻へ雪見に行って来たのじゃ」

「ほんとに殿様はお<ruby><rb>好奇</rb><rt>ものずき</rt></ruby>でおいであそばす」

というお君の声は、晴れやかな声でありました。

「ははは、これも病だから仕方がない」

能登守も大へんに御機嫌がよろしい。

「また御家来衆に叱られましょう、お<ruby><rb>好奇</rb><rt>ものずき</rt></ruby>も大概にあそばさぬと」

「それ故、こっそりとこの裏口から帰って来た。しかし誰に叱られても、この大雪ではじっとしておられぬわい……留守中、あの病人にも変ることはなかったか」

「よくお休みでございます、気分もおよろしいようで」

「それは何より。さあ、これがお前への<ruby><rb>土産</rb><rt>みやげ</rt></ruby>じゃ」

「まあ、これをお打ちあそばしたのでございますか」

「そうじゃ、荒川沿いの<ruby><rb>堤</rb><rt>どて</rt></ruby>の蔭で」

「かわいそうに」

「これはしたり、そなた<ruby><rb>殺生</rb><rt>せっしょう</rt></ruby>は嫌いか」

「殺生は嫌いでございますけれど、殿様のお土産ならば大好きでございます」

「はは、たあいないものじゃ」

「あの、お風呂がよく<ruby><rb>沸</rb><rt>わ</rt></ruby>いておりまするが、お召しになりましては」

「それは有難い、ではこのまま風呂場へ」

「御案内を致しまする」

米友は、大戸の入口から洩れて来るこれらの<ruby><rb>会話</rb><rt>はなし</rt></ruby>をよく聞いていました。大戸の中をやや離れて<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>き込むようにしていたが、その額に畳んだ<ruby><rb>小皺</rb><rt>こじわ</rt></ruby>のあたりに雲がかかって、その眼つきさえ米友としてはやや<ruby><rb>嶮</rb><rt>けわ</rt></ruby>しいくらいです。

そこで話がたえたけれども、この会話の間にも、お君の口からも能登守の口からも、米友という名前は一言も呼ばれませんでした。遺憾ながら「友さんも帰りましたか」という言葉が、お君の口から出ないでしまいました。それで二人は風呂場へ行ってしまったようでした。米友は大戸の入口から、まだ中を<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>んで立っています。

それから米友は、軒下を歩いて自分の部屋へ帰ろうとする時に、

「誰だい、そこの節穴からこの屋敷の中を覗いているのは誰だい」

と言って、また立ち止まって塀を睨みました。

「また折助のやつらだろう、誰に断わってそこからこっちを覗くんだ、やい、鉄砲を<ruby><rb>打放</rb><rt>ぶっぱな</rt></ruby>してくれるぞ」

おどかすつもりであろうけれども、米友は<ruby><rb>担</rb><rt>にな</rt></ruby>っていた鉄砲を肩から<ruby><rb>卸</rb><rt>おろ</rt></ruby>しました。

米友が推察の通り、この塀の外から中を<ruby><rb>隙見</rb><rt>すきみ</rt></ruby>していたのは折助でありました。折助が三人ばかり先刻から節穴を覗いていたのを、米友に見つけられて彼等は丸くなって雪の中を逃げました。

折助は雪の中を、こけつまろびつ逃げて、とうとう八日市の酒場まで逃げて来ました。それは<ruby><rb>縄暖簾</rb><rt>なわのれん</rt></ruby>の大きいので、彼等の<ruby><rb>倶楽部</rb><rt>くらぶ</rt></ruby>であります。

彼等三人がこの八日市の酒場へ逃げ込むと、そこには土間の<ruby><rb>大囲炉裏</rb><rt>おおいろり</rt></ruby>を囲んで、<ruby><rb>定連</rb><rt>じょうれん</rt></ruby>が<ruby><rb>濁酒</rb><rt>どぶろく</rt></ruby>を飲んだり、芋をつついたりして、<ruby><rb>太平楽</rb><rt>たいへいらく</rt></ruby>を並べている最中でありました。

前にも言う通り、折助の社会は人間並みの社会ではないのであります。人間並みの人の恥ずることがこの社会では<ruby><rb>誉</rb><rt>ほまれ</rt></ruby>なのであります。これらの人間が、もし女を引きつれてこの酒場へ来ようものならば、「恋の勝利者！」と言って彼等は喝采します、どうかして心中の半分もやり出すものがあると、彼等は喜悦に堪えないで<ruby><rb>双手</rb><rt>もろて</rt></ruby>を挙げて躍り狂うのでありました。「偉い！　<ruby><rb>楠公</rb><rt>なんこう</rt></ruby>以上、赤穂義士以上、<ruby><rb>比翼塚</rb><rt>ひよくづか</rt></ruby>を立てろ！」というようなことになるのであります。

けれどもまた、<ruby><rb>怜悧</rb><rt>りこう</rt></ruby>な人は折助をうまく利用して、評判を立てさせたり<ruby><rb>隙見</rb><rt>すきみ</rt></ruby>をさせたりするのでありました。それによって多少成功する者もないではありませんでしたけれども、やっぱり折助の立てた評判は折助以上に出でないことを知るようになりました。

今、駒井能登守の屋敷を覗いて、米友に叱り飛ばされた折助も、おそらくは誰かに利用されて、隙見に来たものでありましょうが、この酒場へ逃げ込むと大急ぎで<ruby><rb>熱燗</rb><rt>あつかん</rt></ruby>を注文して飲みました。

ここでは前からガヤガヤと折助連中が馬鹿話をしておりましたから、新たに逃げ込んだ三人の話し声も、それに<ruby><rb>紛</rb><rt>まぎ</rt></ruby>れて何を話したのだかわかりませんでしたけれども、彼等は<ruby><rb>惣菜</rb><rt>そうざい</rt></ruby>で熱燗をひっかけると、長くはこの場に<ruby><rb>留</rb><rt>とど</rt></ruby>まらないで、また三人打連れて飛び出してしまいました。それで彼等は雪の中を威勢よく駆け出して、二丁目を真直ぐに飛んで、やがて役割の市五郎の屋敷へ飛び込んでしまいました。

それはそうとして、米友は彼等を叱り飛ばして、また鉄砲を担いで自分の部屋としてあてがわれたところへ来て、鉄砲を卸して大事に立てかけて、それから<ruby><rb>蓑</rb><rt>みの</rt></ruby>を脱いで外へ向けてよく振いました。蓑に積っていた雪をパッパと振って壁へかけ、それから、腰を卸して<ruby><rb>雑巾</rb><rt>ぞうきん</rt></ruby>で足を拭きはじめました。

足を拭いている時も、米友の<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>は曇っていました。そこへ不意に鼻を鳴らし、尾を振って現われたのはムク犬であります。

「ムク」

米友は足を拭きかけた雑巾の手を休めて、ムク犬をながめました。

「雪が降ると<ruby><rb>手前</rb><rt>てめえ</rt></ruby>も機嫌がいいな」

ムクは米友の前に膝を折って両手を突くようにして、米友の面をながめました。

「今、飯を食わせてやるから待っていろ」

米友は足を拭き終って、上へあがりました。

「ムクや、手前は良い犬だ、どこを尋ねても手前のような良い犬はねえけれど、やっぱり犬は犬だ、外を守ることはできても、内を守ることができねえんだな」

と言いながらムクの面を見ていた時に、ふと気がつけば、その首に糸が巻いてあって、糸の下には<ruby><rb>結</rb><rt>むす</rt></ruby>び<ruby><rb>状</rb><rt>ぶみ</rt></ruby>が附けてあるのを認めました。

「おや」

と米友はその<ruby><rb>結</rb><rt>むす</rt></ruby>び<ruby><rb>状</rb><rt>ぶみ</rt></ruby>に眼をつけました。してみればムクは食事の催促にここへ来たのではなく、この結び状を届けるためにここへ来たものとしか思われません。

「誰だろう、誰がこんなことをしたんだろうな」

と言って米友は不審の眉を寄せながら、ムクの首からその糸を外して結び状を取り上げました。

ともかくも、ムクを捉まえてこんな手紙のやりとりをしようという者は、米友の考えではお君のほかには思い当らないのであります。けれどもそのお君ならばなにも、わざわざこんなことをして自分のところへ手紙をよこさねばならぬ必要はないはずであります。お君のほかの人で、こんな使をこの犬に頼む者があろうとは、米友には思い当らないし、ムク犬もまたほかの人に、こんな用を頼まれるような犬ではないはずであります。

米友は、いよいよ不審の<ruby><rb>眉根</rb><rt>まゆね</rt></ruby>を寄せながら、ついにその結び文を解いて見ました。読んでみると文句が極めて簡単なものであった上に、しかも余の誰人に来たのでもない、まさに自分に宛てて来たもので、

『米友さん裏の<ruby><rb>潜</rb><rt>くぐ</rt></ruby>り<ruby><rb>戸</rb><rt>ど</rt></ruby>をあけて下さい』

と書いてあるのでありました。

「わからねえ」

米友は、その文面を見ながら、いよいよ困惑の色を<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>に現わしました。それは確かに女の手であります。女の手で見事に<ruby><rb>認</rb><rt>したた</rt></ruby>められてあるのであります。

「いよいよ、わからねえ」

米友の知っている唯一のお君は手紙の書けない女であります。このごろ、<ruby><rb>内密</rb><rt>ないしょ</rt></ruby>で文字の稽古はしているらしいが、それにしても、こんな見事に書けるはずはないのであります。そのお君を別にして……まさか米友を<ruby><rb>見初</rb><rt>みそ</rt></ruby>めて<ruby><rb>附文</rb><rt>つけぶみ</rt></ruby>をしようという女があろうとは思われません。

「誰かの<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>だ」

と疑ってみても、このムク犬が、こんな悪戯のなかだちにたつようなムク犬でないことによって、打消されてしまうのであります。

「ムク、ともかくもまあ案内してみろやい」

米友は下駄を突っかけました。ムク犬はその先に立ちました。

これより前の晩に、ムク犬はこれと同じようにして、米友とお君とを引合せました。今はまた別の何者かを、米友に引合せようとするらしいのであります。

けれども、その<ruby><rb>潜</rb><rt>くぐ</rt></ruby>り<ruby><rb>戸</rb><rt>ど</rt></ruby>をあけるためには、ぜひとも一度、お君の部屋まで行かねばならないのでありました。お君の部屋にその鍵があるのですから。

米友はこのごろ、お君の部屋へ行くことをいやがります。その前を通ることさえ<ruby><rb>忌々</rb><rt>いまいま</rt></ruby>しがることがあります。けれども今は仕方がないから、番傘を拡げて庭へ廻って、そっとお君の部屋へ入りました。そこにはお君はいませんでした。留守の一間は、化粧の道具がいっぱいに取散らされてありました。

米友の面にはみるみる不快の色が満ち渡って、壁にかけてあった鍵をひったくるように手に取りました。

紅や白粉や軟らかい着物を脱ぎ捨てられたのを見た米友は、その場を見ると物凄い眼つきで<ruby><rb>湯殿</rb><rt>ゆどの</rt></ruby>の方を<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>みながら、また番傘を拡げました。ムク犬は常に変った様子もなく、米友を塀の<ruby><rb>潜</rb><rt>くぐ</rt></ruby>り<ruby><rb>戸</rb><rt>ど</rt></ruby>の方へと導くのであります。

米友が裏の潜り戸をあけて見たけれど、そこには誰も立っていませんでした。

米友は往来を見廻したけれども、雪が降っているばかりで、誰もいないし、通る人もほとんど稀れであります。

こいつは、やっぱり<ruby><rb>欺</rb><rt>かつ</rt></ruby>がれたかなと思って、首を引込めると、ムクが勢いよく外へ飛び出しました。ムクがこっちから飛び出すと一緒に、向うの木蔭から蛇の目の傘が一つ出て来ました。雪は掃いてあるところもあり、掃いてないところもあるから歩きづらい中を、蛇の目の傘を<ruby><rb>傾</rb><rt>かし</rt></ruby>げて、<ruby><rb>足許</rb><rt>あしもと</rt></ruby>危なげにこっちへ歩んで来るのは女でありました。面は見えないけれども、その着物と足許で、まだ若い女の人であるということが米友にもよくわかります。

その人の傍へ飛んで行ったムクは、ちょうどそれを迎えに行ったようなものです。

誰だろうと思って米友は、その傘の中を早く見たいものだと思いました。

「米友さん」

と言って、すぐ眼の前へ来てから、傘を取るのと言葉をかけるのと一緒であった。その人の<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>を見て、

「やあ、お前はお嬢さんだ」

と米友が言いました。

お嬢さん、と米友が言うのは、それはお松のことでありました。お松とその伯母さんという人を米友は、江戸から笹子峠の下まで送って来た縁があります。

「米友さん、久しぶりでしたわね」

とお松が言いました。

「ほんとに久しぶりだな。お前さん、どうして<ruby><rb>俺</rb><rt>おい</rt></ruby>らがここにいることがわかった」

「さっき、ちょっと見かけたから、それで」

「では、ムクの首へ手紙をつけたのもお前さんだね」

「そうよ」

「そんなことをしなくても、表から尋ねて下さればいいに」

「それがそうゆかないわけがあるから、それであんなことをしたの。米友さん、お前に<ruby><rb>内密</rb><rt>ないしょ</rt></ruby>で頼みたいことがあるのだけれど、少しの間、外へ出て貰えないの。そうでなければ、わたしを中へ入れて話を聞いて貰いたいのだけれど」

「うむ、そうさなあ」

と言って米友は、少しく考えていましたが、

「<ruby><rb>俺</rb><rt>おい</rt></ruby>らは、ちょっと外へ出るわけにはいかねえんだ」

「では米友さん、<ruby><rb>後生</rb><rt>ごしょう</rt></ruby>だけれど、こちらのお屋敷の誰にも知れないようにして、お前さんの部屋か何かへ、わたしを通して下さいな、そこでぜひお前さんに話をしたいことがあるんだから」

「そりゃ構わねえ、俺らの部屋でよければ、お寄んなさるがいい。ううん、誰にも見られやしねえ。見られたところで、なにも痛いことも<ruby><rb>痒</rb><rt>かゆ</rt></ruby>いこともあるめえじゃねえか」

「おかしな米友さんだこと、それは痛くも痒くもないけれど、少し都合があって誰にも見られたくないのだから、そのつもりで」

「いいとも、早く中へ入っちまいな、ここを閉めるから」

お松はそのまま<ruby><rb>潜</rb><rt>くぐ</rt></ruby>り<ruby><rb>戸</rb><rt>ど</rt></ruby>をくぐって庭の中へ入りました。米友はそのあとを閉して錠を下ろしてしまいます。

「米友さん、わたしはどうしようかと思ったけれど、お前さんが、蓑を着て鉄砲を担いで裏門を入って行く姿を見たものだから、こんな仕合せなことはないと思って、どうかしてお前さんが、もう一ぺん出て来るのを待っていようと、さっきからこの通りを二度も三度も歩いているうちに、この犬がお屋敷から出て来たものだから、ほんとにいい<ruby><rb>塩梅</rb><rt>あんばい</rt></ruby>でした」

米友は、お松を<ruby><rb>己</rb><rt>おの</rt></ruby>れの部屋へ案内して、炉の火を焚きました。

「米友さん」

改まってお松は、米友の名を呼びます。

「何だ」

米友は眼を<ruby><rb>円</rb><rt>つぶら</rt></ruby>にしました。

「わたしが、お前さんに聞きたいことと、それから頼みたいことというのは、あの、お前さん、ここのお屋敷にお客様がおありでしょうね」

「お客様？」

「え、え」

「そりゃ、これだけのお屋敷だからお客様もあるだろうさ」

「いいえ、そのお客様というのはね、人に知れては悪いお客様なのよ」

「はははは」

米友は<ruby><rb>苦笑</rb><rt>にがわら</rt></ruby>いして、

「人に知れて悪いお客様なら、<ruby><rb>俺</rb><rt>おい</rt></ruby>らにも知れようはずがなし、お嬢さん、お前にだって知れるはずがなかろうじゃねえか」

「それでも、わたしにはよく知れているのよ」

「知れてるなら、俺らに聞かなくってもいいじゃねえか」

「米友さん、お前さんは相変らず理窟を言うからいけません」

「だって」

「そのお客様はお前……牢から出た人なのよ」

お松が<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>に気を置いて小声で言うと、

「エ、エ？」

米友が、やや<ruby><rb>狼狽</rb><rt>うろた</rt></ruby>えました。

「そのお客様が……」

「知らねえ、<ruby><rb>俺</rb><rt>おい</rt></ruby>らは知らねえ」

米友は首を左右に振りました。

「知らないたってお前、わたしにはよくわかっているのだから、隠しても仕方がないのよ、牢から出たお客様が三人ほど、たしかにこのお屋敷に隠れているはず」

「エ、エ？」

米友はお松の<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>をじっと見ました。

「米友さん、これはわたしのほかには誰も知っている人はないのだから、心配しないように。そうしてその三人の中で、いちばん若い方に、これを差上げていただきたいの」

「何だ、それは」

「お薬」

「薬がどうしたんだ」

「どうか、これをお前さんの手から、その若いお方に差上げて下さい、頼みます」

「う――む」

と言った米友は、腕を<ruby><rb>拱</rb><rt>こまぬ</rt></ruby>いて考え込んでしまいました。

「それからね、米友さん、いつでもいいからそのお方に、わたしを一度会わせて下さいな、そっと、誰にも知れないように、わたしのところへ<ruby><rb>言伝</rb><rt>ことづて</rt></ruby>をして下さいな」

「う――む」

「<ruby><rb>後生</rb><rt>ごしょう</rt></ruby>だから頼みますよ、その代り、わたしはまたお前さんの頼みなら何でもして上げますから」

「う――む」

「米友さん、お前さんは、うんうんと言っているけれど、承知してくれたのかえ、承知してくれないのかえ」

「う――む」

「後生だから」

「お嬢さん、俺らはほんとに知らねえんだ、このお屋敷に、どんなお客様が来ているか知らねえのだけれど……お前さんにそう言われてみると、ちっとばかり心当りがねえでもねえんだよ。よし、頼まれてやろう」

「有難う、拝みます」

「その若い人の名前は何と言うんだい」

「それは……あの、宇津木兵馬というの」

「宇津木兵馬」

米友は口の中でその名を繰返して、お松の手渡しする竹筒入りの薬を受取りました。お松は喜びと感謝とで、米友を拝みたいくらいにしているのに<ruby><rb>拘</rb><rt>かかわ</rt></ruby>らず、米友の面には、やはり前からの曇りが取り払われていません。

お松は米友にくれぐれもこのことを頼んでおいて、またこっそりと傘をさして、前の<ruby><rb>潜</rb><rt>くぐ</rt></ruby>りから帰りました。お松が神尾の邸の前まで来かかった時分に、雪を蹴立てて十数人の人が、南の方から駆けて来てこの門内へ入り込みました。

あまりそのことが、あわただしいので、お松は暫らく立って様子を聞いておりました。

「失敗失敗」

口々にこんなことを言いおります。

「どうした、おのおの方」

酔っているらしい主人の神尾が声。

「ものの見事に出し投げを食った、今までかかって雀一羽も<ruby><rb>獲</rb><rt>と</rt></ruby>れぬ。どこをどうしたか、目当ての鶴は、もう巣へ帰って風呂を浴びているそうじゃ」

「こいつが、こいつが」

神尾主膳は、縁板を踏み鳴らしているようです。それから大勢の<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>り合う声、神尾の酔いに乗じて叱り飛ばす声。それが済むとまた十余人の連中が、トットと門を<ruby><rb>走</rb><rt>は</rt></ruby>せ出してどこかへ飛んで行きます。

## 七

宇津木兵馬は、駒井能登守の二階の一室に横たわって、病に<ruby><rb>呻吟</rb><rt>しんぎん</rt></ruby>していました。

兵馬の病気は肝臓が痛むのであります。それに多年の修行と辛苦と、獄中の冷えやなにかが一時に打って出たものと見えます。

ここへ来てからほんの僅かの間であったけれども、手当がよかったせいか、元気のつくことが<ruby><rb>著</rb><rt>いちじる</rt></ruby>しいのであります。今も痛みが<ruby><rb>退</rb><rt>ひ</rt></ruby>いたから、横になっている枕を換えて仰臥して天井を見ていました。

駒井能登守とは何者、南条、五十嵐の両人は何者――ということを兵馬は天井を見ながら思い浮べておりました。

能登守の語るところによれば、南条の本姓は<ruby><rb>亘理</rb><rt>わたり</rt></ruby>といって、北陸の浪士であるとのこと。能登守とは江戸にある時分、砲術を研究していた頃の同窓の友達であったということです。

また五十嵐は、東北の浪士であるということです。二人は相携えて上方からこの甲州へ入り込んで来たということです。

能登守が笑って言うには、「あの連中は、ありゃ甲州の天嶮を探りに来たのじゃ、甲州の天嶮を利用して大事を成そうという計画で来たものじゃ。いくら今の世の中が乱れたからとて、あの二人の力で甲州を取ろうというのはちと無理じゃ、けれどもその志だけは相変らず威勢がよい。いったい、今時の浪人たちは、ああして日本中を引掻き廻すつもりでいるところが可愛い、徳川の旗本に、せめてあのくらいの意気込みの者が二三人あれば……」能登守は兵馬に向って、こんなことを言って聞かせました。

彼等は甲州の天嶮と地理を探って、何か大事を為すつもりであったものらしい。それが現われて、捉まってこの牢へ入れられたものらしい。牢を破ってここへ逃げ込んだことは、<ruby><rb>我人</rb><rt>われひと</rt></ruby>共に幸いであったけれど、我々をこうして隠して置く駒井能登守という人のためには、幸だか不幸だかわからないと思いました。

能登守は、もう無事に南条と五十嵐の二人をこの邸から逃がしてしまった、この上は御身一人である、ここにいる以上は安心して養生するがよいと親切に言ってくれました。ともかくも、南条と言い、五十嵐と言い、それに自分と言い、金箔附きの破牢人であることに相違ない。その金箔附きの破牢人である自分たちを、公儀の重き役人である能登守が、逃がしたり隠して置いたりすることは、かなり<ruby><rb>好奇</rb><rt>ものずき</rt></ruby>なことに考えられないわけにはゆきません。

砲術にかけてはこの能登守は、非常に深い研究をしているとのことを聞きました。それとは別に能登守は、医術に相当の素養があることも兵馬にはすぐにわかりました。

肝臓が痛むということも、兵馬が言わない先から能登守は見てくれました。これが肺へかかると一大事だということ、しかし今はその<ruby><rb>憂</rb><rt>うれ</rt></ruby>いはないということをも附け加えて慰めてくれました。南条や五十嵐もかなり奇異なる武士であったけれど、この能登守も少しく変った役人と思わせられます。そのうち、この人に委細を打明けて、自分の本望を遂げる便宜を作ろうと兵馬は思いましたけれども、まだそれを打明ける機会は得ません。兵馬は能登守のことを思うと共に、それよりもまた因縁の奇妙なることは、<ruby><rb>曾</rb><rt>かつ</rt></ruby>て自分がその病気を介抱してやったことのあるお君という女が、この邸に奉公していて、それがいま自分の介抱に当っているということであります。兵馬は能登守の次に、お君の面影を思い浮べておりました。

それやこれやと、人の面影を思い浮べているうちに、またうとうとと眠くなって、そのまま快き眠りに落ちて行きました。

ややあって宇津木兵馬は、何物かの物音によって夢を破られ、眼を開いた時、障子を締めて廊下を渡って行く人の足音を聞きました。多分、食物か薬を、例のお君が持って来てくれたものだろうと思って、枕許を見ました。

枕許には、竹の筒が置いてあります。その竹の筒には<ruby><rb>凧糸</rb><rt>たこいと</rt></ruby>が通してあります。凧糸の一端に結び文のようなものが附いていることを認めました。

今までこんなものを持って来たことはないのに、何もことわりなしに、ちょこなんと、これだけを置き放しにして行ってしまったことが、兵馬にはなんだか、おかしく思われるのでありました。

そう思って考えてみると、今、これを置き放しにして行ってしまった人の足音が、どうも、いつも来てくれるお君の足どりではないと思い返されました。といって能登守の足音とも思われません。お君でなし、能登守でなしとすれば、そのほかにここへ入って来る人はないはずである。自分のここにいることさえも知った人はないはずである。と思うにつけて、兵馬には今のおかしさが、多少の不安に感ぜられてきました。

兵馬は手を伸べてその竹筒を取りました。手に取って一通り見ると、それは最初にお松をして破顔せしめたと同じ記号によって、病中の兵馬をも微笑させました。その一端には「十八文」と焼印がしてあるからです。

「十八文」の因縁は、兵馬もまた微笑することができるけれども、それについてもお松ほどに、たちどころに納得がゆかないのは、これがどうしてここへ来るようになったか、それともう一つは、何者がここへ持って来たかということであります。

その不安を解決するには恰好なこの<ruby><rb>結</rb><rt>むす</rt></ruby>び<ruby><rb>状</rb><rt>ぶみ</rt></ruby>、兵馬は少しく身を起き上らせて、直ちに結び状の結び目を解きました。解いて見ると二枚の手紙が合せてあります。それを別々にして見ると、大きな方は例の道庵先生の処方箋でありましたが、小さな方は女文字であったから、兵馬をしていとど不審の眼を<ruby><rb>睜</rb><rt>みは</rt></ruby>らせました。

道庵先生の「もろこし我朝に……」は兵馬も苦笑いして、そっと<ruby><rb>側</rb><rt>わき</rt></ruby>に置き、その女文字の一通を読んでみると、それはお松からの手紙でありましたから、兵馬も我を忘れて読まないわけにはゆきません。あまり長い文句ではありませんでしたけれども、一別以来の大要が書いてありました。そうして今は神尾主膳の<ruby><rb>許</rb><rt>もと</rt></ruby>にまでいて、御身の上を案じているということが、短いながらも要領を得て、まごころを<ruby><rb>籠</rb><rt>こ</rt></ruby>めて書いて、それから、ぜひ一度お目にかかりたいが、どうしたらお目にかかれるだろうとの意味で、そのお返事をこのお薬の竹筒に入れて、友さんの手によって返していただきたいということであります。

兵馬には、いちいちそれが了解されました。お松の心持が充分にわかって、有難いとも思い、嬉しいとも思いましたが、ただ<ruby><rb>何人</rb><rt>なんぴと</rt></ruby>の手によって、この薬と手紙とがここに持ち<ruby><rb>来</rb><rt>きた</rt></ruby>されたかということは、大きなる疑問です。

「友さんの手によって」とあるけれども、その友さんの何者であるかを兵馬は知ることができません。したがって、その友さんなる者に頼むこともできません。そのうち、お君が見舞にでも来た時に聞いてみようと思いました。

ともかくも、これに対する返事を<ruby><rb>認</rb><rt>したた</rt></ruby>めておこうと兵馬は、<ruby><rb>傍</rb><rt>かたえ</rt></ruby>の<ruby><rb>料紙硯</rb><rt>りょうしすずり</rt></ruby>を引寄せましたけれど、少し疲れているためと、頭を休ませる必要から、また仰向けになって眼を閉じていました。

昨日までの雪は晴れて、外は大へんに明るい。窓の下の庭では雪を掃いている物音が、手にとるように聞えます。

やがて兵馬は、お松のために返事の手紙を書いてしまって、疲れを休めていると、また窓の下で雪掃きをしているらしい人の声です。その声を聞くともなしに聞いていると、

「<ruby><rb>俺</rb><rt>おい</rt></ruby>らは<ruby><rb>一体</rb><rt>いってい</rt></ruby>、雪というやつはあまり好かねえんだ、降る時は威勢がいいけれど、あとのザマと言ったらねえからな」

雪を掃除している人が口小言を言っているらしい。<ruby><rb>突慳貪</rb><rt>つっけんどん</rt></ruby>に言っているけれど無邪気に聞えて、おのずからおかしい感じがします。

「道はヌカるし、固めておけばジクジク流れ出すし、泥と一緒に<ruby><rb>混合</rb><rt>ごっちゃ</rt></ruby>になって、<ruby><rb>白粉</rb><rt>おしろい</rt></ruby>が<ruby><rb>剥</rb><rt>は</rt></ruby>げて、<ruby><rb>痘痕面</rb><rt>あばたづら</rt></ruby>を<ruby><rb>露出</rb><rt>むきだ</rt></ruby>したようなこのザマといったら」

雪を目の<ruby><rb>敵</rb><rt>かたき</rt></ruby>にして、頭ごなしにしているようです。しかしながら聞いていると、なんとなく前に聞いたことのあるような声でありました。誰であって、いつ会った人だか、ちょっと見当がつかないけれども、確かに兵馬の耳に一度は聞いたことのある声だと思わせられました。ふと、お松の手紙にある友さんというのはこの人のことではないかと、兵馬はそんなことを想像しました。そうかも知れない、いつまでもこの二階の窓の下で、口小言を言ってることが意味のあるように取れば取れる。兵馬はその様子を見ようと思って、寝床を起きました。

二階から障子を細目にあけて見ると、なるほど一人の男がしきりに、ブツブツ言いながら雪を<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>いています。

兵馬が見ると、それは米友であったから意外に感じないわけにはゆきません。伊勢の古市の町と、<ruby><rb>駿河</rb><rt>するが</rt></ruby>の国の三保の松原とで<ruby><rb>篤</rb><rt>とく</rt></ruby>と<ruby><rb>見参</rb><rt>げんざん</rt></ruby>したこの男をここでまた見ようとは、たしかに意外でありました。米友、宇治山田の米友という名前も、兵馬は記憶していました。

「ははあ、友さんというのはこれだな」

米友の友を呼んでお松が、そう言うたものに違いないと兵馬は早くも<ruby><rb>覚</rb><rt>さと</rt></ruby>りました。それと共に、さきほど、この薬の竹筒を運んでくれた男が、あれだなと覚りました。兵馬も米友を珍妙な人物だと思っています。その人物が珍妙であると共に、その槍の手筋は非常なる珍物であることを知っておりました。

そのうちに雪を掃除していた米友が、手を休めて二階を見上げて、

「雪というやつは可愛くねえやつだ、雪なんぞは降ってくれなくても困らねえや、<ruby><rb>竹筒</rb><rt>たけづ</rt></ruby>っぽうでも降った方がよっぽどいいや」

と、おかしなことを口走りました。雪なんぞは降らなくてもいい、竹筒っぽうでも降ればいいというのは、あまり聞き慣れない<ruby><rb>譬</rb><rt>たとえ</rt></ruby>であります。竹筒っぽうが降れという注文は、あんまり飛び離れた注文でありましたけれど、兵馬はそれを聞いて<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>きました。取って返して例の竹筒を取り上げて、その中に入れてあった薬を手早く<ruby><rb>傍</rb><rt>かたえ</rt></ruby>の紙へあけて、その代りに、いま書いたお松への返事の手紙を入れてしまって元のように<ruby><rb>栓</rb><rt>せん</rt></ruby>をして、障子を前よりはもう少し広くあけると、<ruby><rb>覘</rb><rt>ねら</rt></ruby>いを定めてポンと下へ投げ落しました。まもなく、

「降りやがった、降りやがった」

という声が聞えました。兵馬はその声を聞いて安心して、なお障子の隙から見ていると、米友は自分が投げた竹筒を拾って、これも手早く懐中へ忍ばせてしまって、<ruby><rb>怪訝</rb><rt>けげん</rt></ruby>な<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>をしてこちらを見上げていたが、どこかへ行ってしまいました。

## 八

年が明けて、松が取れると、甲府城の内外が<ruby><rb>遽</rb><rt>にわ</rt></ruby>かに色めき立ちました。

<ruby><rb>平常</rb><rt>ふだん</rt></ruby>、何をしているのだかわからない連中たちが、だいぶ働きはじめました。勤番支配以下、組頭、奉行、それぞれに職務を励行することになりました。

これは、年が改まって心機が一転したからではありません。

どういう訳か知らないが、この頃、甲府の城へ御老中が巡視においでになるという<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>でありました。しかも、その御老中も小笠原<ruby><rb>壱岐守</rb><rt>いきのかみ</rt></ruby>が来るということでありました。この人は幕末において第一流の人物でありました。この間まで謹慎しておられたはずの明山侯が、何の必要あって突然この甲府へ来られるのだかということは、勤番支配も組頭もみな<ruby><rb>計</rb><rt>はか</rt></ruby>り兼ねておりました。

多分、<ruby><rb>上方</rb><rt>かみがた</rt></ruby>の時局を収拾するためにこの甲州街道を通って上洛する途中、この甲府へ泊るのだろうと見ている者もありました。その他、いろいろにこの御老中の巡視ということが噂になっています。ともかくも、城の内外を疎略のないようにしておかなければならないというのが、新年の<ruby><rb>宿酔</rb><rt>しゅくすい</rt></ruby>の覚めないうちから、急に支配以下が働き出した理由なのであります。

御本丸から始めて天守台、櫓々、<ruby><rb>曲輪曲輪</rb><rt>くるわくるわ</rt></ruby>、門々、御米蔵、役所、お目付小屋、<ruby><rb>徽典館</rb><rt>きてんかん</rt></ruby>、御破損小屋、調練場の掃除や、武具の改めや何かが毎日手落ちなく取り行われます。

駒井能登守もまた、このたびの老中の巡視ということを何の意味だか、よく知りません。けれども能登守は、あの人が幕府の今の御老中で第一流の人であるのみならず、その学問――ことに能登守と同じく海外の事情や砲術にかけてなかなかの新知識の人であることを了解していました。能登守を甲府へ廻したのは、或いはこの明山侯の意志ではなかったかとさえ言われています。

明山侯と能登守との意気相通ずるということは、神尾主膳等の一派、及び先任の支配太田筑前守を囲む一派のためには心持のよくないことであります。彼等は明山侯の来るのを機会として、<ruby><rb>雌伏</rb><rt>しふく</rt></ruby>していた能登守が頭を<ruby><rb>擡</rb><rt>もた</rt></ruby>げはしないかと思いました。かねて能登守を甲府へ廻しておいて、今日その機会が到来したために、明山侯がその打合せに来るものだろうとさえ邪推する者もありました。

そうでないまでも、それについてなんらかの対抗策を講じておかなければならないと思いました。まんいち能登守が勢力を得る時は、我々が勢力を失う時だと<ruby><rb>焦</rb><rt>あせ</rt></ruby>り出した者もあります。これらの連中は、このたびの老中の巡視ということを、一身の浮沈の<ruby><rb>瀬戸際</rb><rt>せとぎわ</rt></ruby>のように気味を悪がり、それで自分たちの立場を擁護するためには、能登守の頭を擡げないように、<ruby><rb>釘</rb><rt>くぎ</rt></ruby>を打ってしまわねばならぬと考えました。

それがために、駒井能登守の立場は非常に危険なものになりました。登城しても、役所へ行っても、お茶一つ飲むことも能登守は用心をしました。夜はほとんど外出しませんでした。明山侯の来る前に、能登守を毒殺してしまおうという計画があるとの風説がありました。また夜分、忍びの者を入れて暗殺させようとしているとの風説もありました。また、能登守の内事や私行をいちいち探らせているとの忠告もありました。

年が改まって、そうして変りのあったのは、これらのことのみに限りません。

駒井能登守に仕えていたお君の身の上に、重大な変化が起りました。前には<ruby><rb>戯</rb><rt>たわむ</rt></ruby>れに<ruby><rb>結</rb><rt>ゆ</rt></ruby>ってみた片はずしの<ruby><rb>髷</rb><rt>まげ</rt></ruby>を、この正月から正式に結うことになりました。いつぞやの晩には恥かしそうに<ruby><rb>密</rb><rt>そっ</rt></ruby>と引掛けた打掛を、晴れて身に<ruby><rb>纏</rb><rt>まと</rt></ruby>うようになりました。それと共にお君の周囲には、一人の老女と若い女中とがお附になって、使われていたお君が、それを使うようになりました。

お君は、我から喜んで美しい眉を落してしまいました――<ruby><rb>家中</rb><rt>かちゅう</rt></ruby>の者は皆この新たなるお部屋様のために喜びました。能登守のお君に対する愛情は、無条件に<ruby><rb>濃</rb><rt>こま</rt></ruby>やかなものでありました。ほとんど<ruby><rb>惑溺</rb><rt>わくでき</rt></ruby>するかと思うほどに、愛情が深くなってゆきました。

お君のためには、新たなる部屋と、念の<ruby><rb>入</rb><rt>い</rt></ruby>った調度と、数々の衣類が調えられました。お君は夢に宝の山へ連れて行かれたように、右を見ても左を見ても嬉しいことばかりであります。

お君の血色にもまた著しい変化がありました。笑えば人を魅するような<ruby><rb>妖艶</rb><rt>ようえん</rt></ruby>な色が出て来ました。そして何事を差置いても、その<ruby><rb>色艶</rb><rt>いろつや</rt></ruby>に修飾を加えることが、お君の第一の勤めとなりました。

お君はこれがために費用を惜しみませんでした。能登守もまた、お君のために豊富な支給を与えて悔ゆることがないのでありました。江戸の水、<ruby><rb>常磐香</rb><rt>ときわこう</rt></ruby>の<ruby><rb>鬢附</rb><rt>びんつけ</rt></ruby>、玉屋の<ruby><rb>紅</rb><rt>べに</rt></ruby>、それを甲府に求めて得られない時は、江戸までも使を立てて呼び求めます。

お君にとっての仕事は、もはや、それよりほかに何事もありません。その仕事は、出来上れば出来上るほどに、お君の形体と心とを変化させずにはおきません。

笑うにも単純な笑いではありません。その笑いの末には<ruby><rb>罠</rb><rt>わな</rt></ruby>があって、人を引き落すような笑いになってゆきます。物を言うにも無邪気な言いぶりではありません。そのうちに溶けるような思わせぶりを籠めておりました。物を見る目はおのずから<ruby><rb>流眄</rb><rt>ながしめ</rt></ruby>になって、その末には軟らかい針をかけるようになりました。お君はその愛情を独占しているはずの能登守に対してすら、この笑いと、思わせぶりと、流眄とをやめることができませんでした。

能登守というものは、みるみるこのお君のあらゆる誘惑のうちに溶けてゆきました。お君の誘惑はいわば自然の誘惑でありました。能登守を誘惑しつつ自分もまたその誘惑の中に溶けてゆくのでありました。お君には殿様を誘惑する心はありません。おのれの色香を飾って為めにする計画もありません。それは新しい春になって、山国の雪の中にも梅が咲き、<ruby><rb>鶯</rb><rt>うぐいす</rt></ruby>がおとずれようとする時候になったとはいえ、この邸から忍び音の三味の調べをさえ聞こうとは思いがけぬことであります。

外においての能登守が、あんなに煙がられたり邪推されたりしているのに、内においてのこの殿様はたあいないもので、ほとんど終日お君の傍を離れぬことがありました。お君はその誘惑のあらん限りを尽して、能登守を放そうとはしませんでした。

世に食物を<ruby><rb>貪</rb><rt>むさぼ</rt></ruby>るもので、惑溺の恋より甚だしいものはありません。無限の愛情を注がれても、お君はまだまだ満足したとは思いませんでした。能登守は、<ruby><rb>噛</rb><rt>か</rt></ruby>んで、喰い裂いて、飲んでしまっても、まだ足りないほどにお君が可愛くて可愛くて、どうにもならなくなってしまいました。

この際において、お君の心の中のいずこにも、宇治山田の米友を考えている余裕はありません。

お君――ではない、お君の<ruby><rb>方</rb><rt>かた</rt></ruby>であります。けれども昨日までのお君を急に、お君の方に改めることは、屋敷のうちの格式ではよしそうであっても、なんとなくきまりが悪い。お君もまたその当座は、自分のことでないように思います。

お君の方は今、その花やかな打掛の姿で、片手には<ruby><rb>銚子</rb><rt>ちょうし</rt></ruby>を持って廊下を渡って行きました。少しばかり酔うているのか、その<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>は桜色にほのめいているばかりでなく、廊下を走るあしもとまでが乱れがちでありました。

廊下の庭から梅の枝ぶりの面白いのが、<ruby><rb>欄干</rb><rt>てすり</rt></ruby>を抜けて廊下の板の間まで手を伸ばしておりました。その面白い枝ぶりには、日当りのよいせいで、梅の花の<ruby><rb>蕾</rb><rt>つぼみ</rt></ruby>が一二輪、<ruby><rb>綻</rb><rt>ほころ</rt></ruby>びかけています。

「ホホホ、もう梅が咲いている」

お君の方はたちどまって、手近な、その一枝を無雑作に折って、香いを鼻に押し当て、

「おお好い香り、ああ好い香い」

心のうちにときめく香りに、お君は自分ながら堪えられないように、

「殿様に差上げましょう、この香りの高い梅の花を」

お君はそれを銚子の間に<ruby><rb>挿</rb><rt>さ</rt></ruby>し込んで歩みを移そうとした途端に、よろよろとよろめき、

「おや」

それはほろ酔いの人としては、あまりに仰山なよろめき方であります。打掛の裾が、廊下の床に出ている釘かなんぞにひっかかったものだろうと思って、片手に打掛を<ruby><rb>捌</rb><rt>さば</rt></ruby>き、

「おや」

振返ってみるとその打掛の裾は、廊下の下にいる何者かの手によって押えられているのでありました。

「君ちゃん」

「まあ、誰かと思ったら米友さん」

お君の打掛の裾を廊下の下から押えたのは、背の低い米友でありました。

「米友さん、<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>をしては困るじゃないか」

「なにも悪戯をしやしねえ」

「だって、そんなところで押えていては」

「用があるからだ」

「何の用なの」

「君ちゃん、いまお前は、ここの梅の枝を一枝折ったね、その枝を<ruby><rb>俺</rb><rt>おい</rt></ruby>らにおくれ」

「これかい、この梅の枝を友さん、お前が欲しいのかい」

「うむ」

「そうして、どうするの」

「どうしたっていいじゃねえか、欲しいから欲しいんだ」

「欲しければお前、こんな花なんか、わたしに<ruby><rb>強請</rb><rt>ねだ</rt></ruby>らなくても、いくらもお前の手で取ればいいじゃないか」

「そんなことを言わずに、それを俺らにおくれ」

「これはいけないよ」

「どうして」

「これは殿様に上げるんだから」

「殿様に？」

と言って米友は強い目つきでお君を見ました。

「これは、わたしから殿様へ差上げる花なんだから、友さん、お前ほしいなら別に好きなのを取ったらいいだろう、ほら、まだ、あっちにもこっちにもいくらも咲いているじゃないか」

お君はチラホラと咲いている梅の木の花や<ruby><rb>蕾</rb><rt>つぼみ</rt></ruby>を、米友に向って指し示すのを、米友は見向きもせずに、お君の<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>をじっと見つめていましたが、

「<ruby><rb>要</rb><rt>い</rt></ruby>らねえやい」

「おや、友さん、怒ったの」

「ばかにしてやがら」

米友は、そのままぷいと廊下の縁の下を<ruby><rb>潜</rb><rt>くぐ</rt></ruby>り抜けて、どこかへ行ってしまいました。

駒井能登守が役所へ出かけたそのあとで、お君は部屋へ行ってホッと息をついて、<ruby><rb>微醺</rb><rt>びくん</rt></ruby>の<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>を両手で隠しました。

障子の外には日当りがよくて、ここにも梅の咲きかかった枝ぶりが、面白く障子にうつっています。

お君は<ruby><rb>脇息</rb><rt>きょうそく</rt></ruby>の上に<ruby><rb>両肱</rb><rt>りょうひじ</rt></ruby>を置いて、暫らくの間、<ruby><rb>熱</rb><rt>ほて</rt></ruby>る面を押隠していましたが、そのうちにウトウトと眠気がさしてきました。

「お<ruby><rb>冷水</rb><rt>ひや</rt></ruby>を持って来て」

「はい」

次の間で女中が返事をすると、まもなくギヤマンの美しい<ruby><rb>杯</rb><rt>さかずき</rt></ruby>が<ruby><rb>蒔絵</rb><rt>まきえ</rt></ruby>の盆の上に載せられて、若い女中の手で運ばれました。ギヤマンの中には玉のような清水がいっぱい満たされてあります。お君はそのお<ruby><rb>冷水</rb><rt>ひや</rt></ruby>を口に当てながら、

「わたしは眠いから少し休みたい、お前、床を<ruby><rb>展</rb><rt>の</rt></ruby>べておくれ」

「<ruby><rb>畏</rb><rt>かしこ</rt></ruby>まりました」

「それから、あの犬に何かやっておくれかい」

「いいえ、まだ」

「忘れないように」

「畏まりました」

女中が出て行った後で、お君は水を一口飲んでギヤマンを火鉢の傍へ置き、それから鏡台に向い、髪の毛を大事に撫で上げました。<ruby><rb>笄</rb><rt>こうがい</rt></ruby>を抜いたりさしたりしてみました。<ruby><rb>紅</rb><rt>くれない</rt></ruby>のさした<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>を恥かしそうにながめていました。こうしている間もお君は、自分の身の果報を思うことでいっぱいであります。女中のよく言いつけを聞いてくれることも嬉しくありました。鏡がよくわが姿をうつしてくれるのも嬉しくありました。撫であげる髪の毛の黒いことも嬉しくありました。笄の<ruby><rb>鼈甲</rb><rt>べっこう</rt></ruby>から水の<ruby><rb>滴</rb><rt>したた</rt></ruby>るようなのも嬉しくありました。面から襟筋の白粉も嬉しいけれど、胸から乳のあたりの肌の白いことも嬉しくありました。殿様の美男であることが嬉しくありました。自分を産んでくれた母の美しかったということも嬉しくありました。

「ムクかい、待っておいでよ」

お君はこうして鏡台に向っていながらも、ツイその日当りのよい縁先へ、ムク犬が来たということには気がつきました。

気がついたけれども、障子をあけて犬を見てやろうとはしないで、やはり鏡に向って髪の毛をいじりながら、そう言って言葉をかけただけであります。人の愛情は二つにも三つにもわけるわけにはゆかないのか知らん。能登守に思われてからのお君は、犬に冷淡になりました。冷淡になったのではないだろうけれども、以前のように打てば響くほどに世話が届きませんでした。ムク犬のためにする毎日の食事も、以前は自分から手を下さなければ満足ができなかったのに、このごろでは女中任せになっていました。女中がツイ忘れることもあるらしく、それがためにかどうか、このごろのムク犬は、お君の傍にあるよりは米友の方へ行っていることが多いようであります。

今、ムクはお君のいるところの縁先へ来ていることは、その物音でも呼吸でもお君にわかるのであります。こんな時には必ずムクにしかるべき意志があって来るのだから、前のお君ならば何事を<ruby><rb>措</rb><rt>お</rt></ruby>いても障子をあけるのでしたけれども、今のお君はそれよりも、鏡にうつる<ruby><rb>己</rb><rt>おの</rt></ruby>れの姿の方が大事でありました。

「ワン！」

堪り兼ねたと見えてムク犬は、外で一声吠えました。吠えられてみるとお君は、どうしても障子をあけなければなりません。そこにはムク犬が<ruby><rb>柔和</rb><rt>にゅうわ</rt></ruby>にして威容のある大きな<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>を見せていました。

お君の面を見上げたムク犬の眼の色は、早く私についておいで下さいという眼色でありました。

それは<ruby><rb>何人</rb><rt>なんぴと</rt></ruby>よりもよく、お君に読むことの出来る眼の色であります。

お君はムクに導かれて、廊下伝いに歩いて行きました。

これはこの前の晩の時のように、闇でもなければ<ruby><rb>靄</rb><rt>もや</rt></ruby>でもありませんで、梅が一輪ずつ一輪ずつ<ruby><rb>綻</rb><rt>ほころ</rt></ruby>び出でようという時候でありました。

お君が、とうとうムク犬に導かれて、廊下伝いに来たところは米友の部屋でありました。そこへなにげなくお君が入って、

「おや、友さん」

と言いました。見れば米友はあちら向きになって、いま旅の仕度をして<ruby><rb>上</rb><rt>あが</rt></ruby>り<ruby><rb>端</rb><rt>はな</rt></ruby>に腰をかけて、しきりに<ruby><rb>草鞋</rb><rt>わらじ</rt></ruby>の紐を結んでいるところであります。

旅の仕度といっても米友のは、前に着ていた<ruby><rb>盲縞</rb><rt>めくらじま</rt></ruby>の筒袖に、首っ玉へ例の風呂敷を<ruby><rb>括</rb><rt>くく</rt></ruby>りつけたので、ちょうど伊勢から東海道を下った時、江戸から甲州へ入った時と同じことの<ruby><rb>扮装</rb><rt>いでたち</rt></ruby>でありました。

「どこへ行くの、米友さん」

お君は米友の近いところへ立寄りながら尋ねました。

米友は返事をしませんでした。

「殿様の御用なの？」

米友はなお返事をしません。返事をしないで草鞋の紐を結んでいます。

「どうしたの、米友さん」

お君は後ろから米友の肩に手をかけました。

「どうしたっていいやい」

米友が肩を<ruby><rb>揺</rb><rt>ゆす</rt></ruby>ると、お君は少しばかり泳ぎました。

「お前、何か腹を立っているの」

米友はなお返事をしないで、ようやく草鞋の紐を結んでしまい、ずっと立って傍に置いた例の棒を取って、ふいと出かけようとする有様が尋常でないから、お君はあわてて、

「何かお前、腹の立つことがあるの、気に触ったことがあるの。そうしてお前はここのお屋敷を出て行ってしまうつもりなの」

「うむ、今日限り俺らはここをお<ruby><rb>暇</rb><rt>いとま</rt></ruby>だ」

「そりゃまた、どうしたわけなの。お前はどうも気が短いから、何かまた殿様の御機嫌を<ruby><rb>損</rb><rt>そこ</rt></ruby>ねるようなことをしたんじゃないか。そんならわたしが<ruby><rb>謝罪</rb><rt>あやま</rt></ruby>って上げるから<ruby><rb>事情</rb><rt>わけ</rt></ruby>をお話し」

「馬鹿野郎、殿様とやらの御機嫌を損ねたから、それで出るんじゃねえや、俺らの好きで勝手におんでるんだ」

「そんなことを言ったってお前、そうお前のように<ruby><rb>我儘</rb><rt>わがまま</rt></ruby>を言っては第一、わたしが困るじゃないか」

「お前が困ろうと困るめえと俺らの知ったことじゃねえ」

「何か、キットお前、気に触ったことがあるんだよ、あるならあるようにわたしに話しておくれ、他人でないわたしに」

「一から十まで<ruby><rb>癪</rb><rt>しゃく</rt></ruby>に触ってたまらねえから、それでおんでるんだ」

「何がそんなに癪に触るの」

「なんでもかでもみんな癪に触るんだ、その<ruby><rb>紅</rb><rt>あか</rt></ruby>っちゃけた着物はそりゃ何だ、その<ruby><rb>椎茸</rb><rt>しいたけ</rt></ruby>みたような頭はそりゃ何だ、そんなものが第一、癪に触ってたまらねえや」

「お前はどうかしているね」

「俺らの方から見りゃあ、どうかしていると言う奴がどうかしてえらあ、ちゃんちゃらおかしいや」

「まあ、米友さん、それじゃ話ができないから、ともかく、まあここへお坐り。お前がどうしてもこのお屋敷を出なくてはならないようなわけがあるならば、わたしも無理に留めはしないから、そう短気を起さずに、そのわけを話して下さい、ね」

「出て行きたくなったから出て行くんだ、わけもなにもありゃしねえや、一から十まで癪に触ってたまらねえからここの家にいられねえんだ」

「何がそんなにお前の癪にさわるのだか、お前のように、そうぽんぽん言われては、ほんとに困ってしまう」

「その<ruby><rb>椎茸</rb><rt>しいたけ</rt></ruby>みたような頭が気に入らねえんだ、尾上岩藤の<ruby><rb>出来損</rb><rt>できそこ</rt></ruby>ねえみたようなのが癪に触ってたまらねえんだ」

「あ、わかった……」

お君は米友を押えながら、何かに気のついたような声で、

「わかった、お前は、わたしが出世したから、それで<ruby><rb>嫉</rb><rt>や</rt></ruby>くんだろう」

「ナ、ナニ！」

米友は<ruby><rb>屹</rb><rt>きっ</rt></ruby>と振返って凄い眼つきをしてお君を<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>みました。

「きっと、そうだよ、わたしが出世したから、お前はそれで……」

「やいやい、もう一ぺんその言葉を言ってみろ」

米友はお君の<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>を穴のあくほど睨みつけました。

「そうだよ、きっと、そうに違いない、わたしが出世してこんな着物を着るようになったから、お前は世話がやけて……」

「うむ、よく言った」

米友はお君の面を目玉の飛び出すほど鋭く睨んで、<ruby><rb>拳</rb><rt>こぶし</rt></ruby>を固めながら<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>いて黙ってしまいました。

「どうしたんだろう、ナゼそんなに怖い面をしているの、わたしにはわけがわからない」

米友に睨められたお君は、睨んだ米友の心も、睨まれた自分の身のことも、全くわけがわからないのでありました。もう一ぺん言ってみろといえば、何の気もなしにそれを繰返すほどにわけがわからないのであります。

「馬鹿！　出世じゃねえんだ、<ruby><rb>慰</rb><rt>なぐさ</rt></ruby>み<ruby><rb>物</rb><rt>もの</rt></ruby>になってるんだ」

「おや、友さん、何をお言いだ」

「お前は、人の慰み物になっているのを、それを出世と心得てるんだ」

「エ、エ、何、何、友さん、そりゃなんという口の利き方だえ、いくらわたしの前だからといって、そりゃ、あんまりな言い分ではないか、二度言ってごらん、わたしは承知しないから」

「二度でも三度でも言うよ、お前は殿様という人から、うまい物を食わせてもらい、いい着物を着せてもらって、その代りに慰み物になっているんだ、それをお前は出世だと心得ているんだ」

「あ、<ruby><rb>口惜</rb><rt>くや</rt></ruby>しい！」

「何が口惜しいんだ、その通りだろうじゃねえか」

「わたしは殿様が好きだから、それで殿様を大事にします、殿様はわたしが好きだから、それでわたしを大事にします、それをお前は慰み物だなんぞと……あんまり口惜しい、殿様はそんなお方ではない、わたしを慰み物にしようなんぞと、そんなお方ではない、わたしは殿様が好きだから」

「好きだから？　好きだからどうしたんだい、好きだから慰み物になったのかい」

「友さん、よく言ってくれたね、よく言っておくれだ、お前からそこまで言われれば、もうたくさん」

お君はこう言って口惜しがって、ついに泣き出してしまいました。

「どっこいしょ」

と言って米友は、竹皮笠を土間から取り上げて<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>りました。その紐を結びながら、

「やいムク州、永々お世話さまになったが、<ruby><rb>俺</rb><rt>おい</rt></ruby>らはこれからおさらばだ、お前も達者でいなよ」

ムク犬は悄然として、二人の間の土間にさいぜんから身を横たえていました。

「十七姫御が旅に立つヨ、それを殿御が聞きつけてヨ、留まれ留まれと袖を引くヨ」

米友は久しぶりで得意の鼻唄をうたいました。この鼻唄は<ruby><rb>隠</rb><rt>かくれ</rt></ruby>ヶ<ruby><rb>岡</rb><rt>おか</rt></ruby>にいる時分から得意の鼻唄であります。これだけうたうと笠の紐を結び終った米友は、例の棒を取り直して、さっさとここを飛び出してしまいました。

## 九

米友が出て行ってしまったあとで、お君は堪えられない心の<ruby><rb>寂</rb><rt>さび</rt></ruby>しさを感じました。

ムクはと見れば、そこにはいません。おそらく米友を送るべくそのあとを慕って行ったものと思われます。

その時に、この米友の部屋の後ろへそっと忍んで来た人がありました。台所口から、

「こんにちは」

と細い声でおとなうのは、やはり女の声でありました。

しばらくすると、

「こんにちは」

二度目も同じ声でありました。

「米友さん」

三度目に米友の名を呼びました。

「御免下さい」

台所口の腰高障子をそっとあけて、忍び足で家の中へ入り、中の障子へ手をかけて、

「米友さん」

と言いながら、障子をあけたのはお松でありましたが、米友を呼んで入って見ると、それは米友ではなくて、立派な身なりをした奥向きの婦人が、柱に<ruby><rb>凭</rb><rt>もた</rt></ruby>れて泣いておりましたから、きまりを悪そうに、

「どうも相済みませぬ、あの、米友さんはお留守でございますか」

泣いている婦人は、その時、涙を隠してこちらを向きました。

「まあ、お前さんは……」

「あなたはお君さん」

「ずいぶん、これはお珍らしい」

「まあ、なんというお久しぶりな」

と言って二人ともに面を見合せたなりで、暫らく<ruby><rb>呆気</rb><rt>あっけ</rt></ruby>に取られていました。

お松とお君との別れは、<ruby><rb>遠江</rb><rt>とおとうみ</rt></ruby>の海でお君が船に酔って船に酔って、たまらなくなって以来のことであります。あの時、お君だけは意地にも我慢にも船におられないで、上陸してしまいました。

神尾主膳の家と、駒井能登守の屋敷とは、その間がそんなに遠くはないのに、<ruby><rb>両女</rb><rt>ふたり</rt></ruby>ともに今まで<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>を会せる機会がありませんでした。甲府にいるということをすらおたがいに知ってはおりません。

米友の口から聞けば聞かれるのであったろうけれど、米友はこのことをお松に語りませんでした。お松は外へ出る機会が多少あっても、その後のお君は屋敷より外へ、ほとんど一歩も踏み出したことはありませんでした。それ故、二人はここで偶然に会うまで、その健在をすらも忘れておりました。

今見れば、お松は品のよい御殿女中の作りです。これはお松としてそうありそうな身の上であるけれども、お君がこうして奥向きの立派な身なりをしていようとは、お松には思い設けぬことでありました。お君は、久しぶりで会った人に、涙を見せまいとして元気を作りました。お松は、人の留守へ入って来たきまりの悪いのを言いわけするように、

「わたしはここにいる若い衆さんに、お頼み申してあることがあります故、つい無作法にこうやって参りました、それをここであなたにお目にかかろうとは思いませんでした、どうして、いつごろからこちら様においでなさいますの」

お松は昔の<ruby><rb>朋輩</rb><rt>ほうばい</rt></ruby>の心持で尋ねました。

「これにはいろいろと長いお話がありますから、後でゆっくり申し上げましょう。そして、お松さん、お前さんは今どちらにおいであそばすの」

お君の方からこう言って尋ねました。

「わたしは、こちらの勤番のお組頭の神尾主膳の邸の中におりまする」

「あの神尾様の……そうでございましたか、少しも存じませんでした」

「わたしもお君さんが、わたしのいるところからいくらも遠くないこの能登守様のお屋敷においでなさろうとは、夢にも存じませんでした。お見受け申せば、昔と違ってたいそう御出世をなされた御様子」

「はい、お恥かしうございます」

お松から出世と言われてみると、お君はなんとなしに恥かしい心持になりました。お松はそう言って、気のつかないように<ruby><rb>綺羅</rb><rt>きら</rt></ruby>びやかなお君の姿を見直しましたけれど、どうもよく呑込めないような心持がするのであります。

自分はまだ娘であるけれどもこの人は、もう<ruby><rb>主</rb><rt>ぬし</rt></ruby>ある人か……というような不審から、お松はなんだか、昔のように姉妹気取りや朋輩気取りで呼びかけることに気が置けるのであります。

「お松さん、ここではお話が致し<ruby><rb>悪</rb><rt>にく</rt></ruby>うございますから、わたしの部屋までおいであそばせ」

お君はお松を自分の部屋へ案内しようとしました。

「はい、あの……ここにおいでなさる米友さんというお方は？」

「あの人は、今、あの、どこかへ……お使に行きましたから」

「左様でございますか。わたしはあの人にぜひ会わねばならない用事がありますの」

「そのうち帰って参りましょう、お手間は取らせませぬから、どうぞわたしのところまで」

お松はお君の部屋へ導かれて、そこで<ruby><rb>両女</rb><rt>ふたり</rt></ruby>は水入らずに一別以来の物語をしました。

この物語によって見ると、お松はお君の今の身の上の大略を想像することができました。お松もまた甲州へ来る道中の間で、駒井能登守の人柄を知っているのでありましたから、その人に可愛がられるお君の今の身の上は幸福でなければならないと思いました。

けれどもお松は、そんなことのみを話したり聞いたりするために尋ねて来たのではなかった、大事の人に会わんがために来たのでありました。晴れて会われない人に、そっと会うべく忍んで来たのでありました。そっと会えるように米友が手引をしてくれるはずになっていたから、それで米友を訪ねて来たのですが、その米友がいないで、偶然にも会うことのできたその人はお君――かえってこれは一層自分の願いのために都合がよいと思いました。この屋敷においてはずっと地位の低い米友を頼むよりは、主人の<ruby><rb>寵愛</rb><rt>ちょうあい</rt></ruby>を受けているこの優しい人に打明けたのが、どのくらい頼みよくもあるし、都合もよいか知れないと気がついたから、お松は、やがてそのことをお君に打明けて頼みました。

果してお君は、お松が思っている通りに、よい手引をしてくれる人でありました。お松が思ったより以上に快く承知をして、そのことならば誰に頼むよりも、わたしにという意気込みで返事をしてくれました。且つ、今は幸いに主人もいないから、これから直ぐに、わたしがそのお方の休んでおいでなさるところへ御案内をしましょう、ということでありました。お松が飛び立つほど嬉しく思ったのも無理はありません。

お松のようにおちついた<ruby><rb>性質</rb><rt>たち</rt></ruby>の女が、ソワソワとする様子を見るとお君も嬉しくありました。この人をこんなに喜ばせるのは、またあの兵馬さんを喜ばせることになるのだと思えばなお嬉しくありました。こういう人たちの間の手引をして喜ばせる自分の身も嬉しいことだと思いました。

<ruby><rb>両女</rb><rt>ふたり</rt></ruby>は人目に触れないで二階へ上ることができました。お君は、先に立ってその一室の障子を細目にあけて中を見入り、

「兵馬さん」

この声に兵馬は夢を破られました。軽い眠りの床から覚めて見ると、そこに立っている女の姿。

「お松どの」

兵馬もさすがに、驚きと喜びとを隠すことができないらしい。

「御気分は？」

「もう大丈夫」

兵馬は生々とした声でありました。

「ああ、わたしは心配致しました」

「どうもいろいろと有難う」

「お手紙を確かにいただきました」

「昨日はまた薬を有難う」

「あの友さんという人が、ちょうどこちらのお屋敷に雇われていたものですから。何かにつけて仕合せでございました」

「あれは、わしも知っている人……それからまたお君どのも」

「はい、お君さんにも、わたしは会うことができました、そのお君さんの手引でこうして上りました」

「して、主人の許しを得て？」

「いいえ、こちらの殿様はただいまお留守なのでございます」

「とにかくも、この屋敷へ落着いたことは当座の仕合せ、この上は一日も早く全快して、ひとまず甲府の土地を立退かねばなりませぬ」

「早く御全快なすって下さいまし。兵馬様、わたしはこんなものを持って参りました」

と言いながらお松は、持って来た風呂敷包を解くと、<ruby><rb>真綿</rb><rt>まわた</rt></ruby>でこしらえた胴着でありました。

「お気に召しますか、どうでございますか」

と言って、その胴着のしつけの糸かなにかを取りますと、

「それほど寒いとも思わぬが、せっかくのお志だから」

兵馬は<ruby><rb>蒲団</rb><rt>ふとん</rt></ruby>の上に坐り直して、<ruby><rb>挿帯</rb><rt>さしこみおび</rt></ruby>をしていたのを解きかけました。

「兵馬様、これから毎日お訪ねしてもよろしうございますか」

「悪いことはないが、人に<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>められると迷惑ではないか」

「誰にも知られないように用心して参りまする」

「それでも、この家の主人に知られぬわけにはゆくまい」

「こちらのお殿様は、お君さんを可愛がっておいでなさいますから……」

お松は面を<ruby><rb>赧</rb><rt>あか</rt></ruby>らめます。

## 十

あとを慕って送って来るムク犬を無理に追い返した米友は、甲州の本街道はまた関所や渡し場があって面倒だから、いっそ裏街道を突っ走ってしまおうと、甲府を飛び出して<ruby><rb>石和</rb><rt>いさわ</rt></ruby>まで来ました。

石和で腹をこしらえた米友は、<ruby><rb>差出</rb><rt>さしで</rt></ruby>の磯や<ruby><rb>日下部</rb><rt>くさかべ</rt></ruby>を通って<ruby><rb>塩山</rb><rt>えんざん</rt></ruby>の<ruby><rb>宿</rb><rt>しゅく</rt></ruby>へ入った時分に、日が暮れかかりました。

「もし、そこへ行くのは友さんじゃないか」

袖切坂の下で、やはり女の声でこう呼びかけられたから米友は驚きました。

「エ、エ！」

眼を円くして見ると、

「ほら、どうだ、友さんだろう」

と女はなれなれしく言って傍へ来るから、米友はいよいよ変に思いました。

もう<ruby><rb>黄昏時</rb><rt>たそがれどき</rt></ruby>でよくわからないけれども、その女はこの辺にはあまり見かけない、洗い髪の<ruby><rb>兵庫結</rb><rt>ひょうごむす</rt></ruby>びかなにかに結った年増の<ruby><rb>婀娜者</rb><rt>あだもの</rt></ruby>のように見える。着物もまた弁慶か格子のような荒いのを着ていました。

はて、こんな人に呼びかけられる覚えはないと米友は思いました。

「誰だい」

「まあ、お待ちよ」

と言って女が傍へ寄って来た時に、はじめて米友は、

「あ、親方」

と言って舌を捲きました。これは女軽業の親方のお<ruby><rb>角</rb><rt>かく</rt></ruby>でありました。なぜか米友ほどの人物が、このお角を<ruby><rb>苦手</rb><rt>にがて</rt></ruby>にするのであります。この女軽業師の親方のお角の前へ出ると、どうも妙に気が引けて、いじけるのはおかしいくらいです。

もともと、黒ん坊にされたのは承知のことであって、道庵先生に見破られたために、その化けの皮を<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>り切れなかったのは米友の罪でありました。米友はそれは自分が悪かったと、それを今でも罪に着ているから、それでお角を怖れるのみではありません。

もし前世で米友が蛙であるならば、お角が蛇であったかも知れません。どうも<ruby><rb>性</rb><rt>しょう</rt></ruby>が合わないで、それが米友の弱味になって、頭からガミガミ言われても、得意の<ruby><rb>啖呵</rb><rt>たんか</rt></ruby>を切って、木下流の槍を七三に構えるというようなわけにはゆかないから不思議であります。

「あ、親方」

と言って米友が舌を捲くと、お角の方は今日は意外に<ruby><rb>素直</rb><rt>すなお</rt></ruby>で、その上に笑顔まで作って、

「どうしたの、今時分、こんなところをうろついて……」

「これから江戸へ帰ろうと思うんだ」

「これから江戸へ、お前が一人で？」

「うん」

「そうして、どこから来たの、今夜はどこへ泊るつもりなの」

「甲府から来たんだ、今夜はどこへ泊ろうか、まだわからねえんだ」

「そんなら、わたしのところへお泊り」

「親方、お前のところというのは？」

「いいからわたしに<ruby><rb>跟</rb><rt>つ</rt></ruby>いておいで」

米友は<ruby><rb>唯々</rb><rt>いい</rt></ruby>としてお角のあとに跟いて行きました。お角はまた米友を従者でもあるかのように<ruby><rb>扱</rb><rt>あしら</rt></ruby>って、先へさっさと歩いて袖切坂を上って行きます。

「お前、甲府へ何しに来たの」

「<ruby><rb>俺</rb><rt>おい</rt></ruby>らは去年、人を送って甲府へ来たんだ」

「そうして今まで何をしていたの」

「今まで奉公をしたりなんかしていたんだ」

「どこに奉公していたの」

「旗本の屋敷やなんかにいたんだ」

「そしてお暇を貰って帰るのかい」

「そうじゃねえんだ」

「どうしたの」

「俺らの方でおんでたんだ」

「そんなことだろうと思った、お前のことだから」

「<ruby><rb>癪</rb><rt>しゃく</rt></ruby>に触るから飛び出したんだ」

「お前のように気が短くては、どこへ行ったって長く勤まるものか」

「そうばかりもきまっていねえんだがな」

「きまっていないことがあるものか、どこへ行ったってきっと追ん出されてしまうよ」

「俺らばかり悪いんじゃねえや」

「そりゃお前は正直者さ、あんまり正直過ぎるから、それでおんでるようなことになるのさ」

「その代り、こんど江戸へ出たら辛抱するよ」

「それからお前、いつぞやお前はお君のところを尋ねに両国まで来たことがあったね」

「うん」

「それだろう、お前は人を送って来たというのは附けたりで、ほんとはあの子を尋ねにこちらへ来たのだろう」

「そういうわけでもねえんだ」

「しらを切っちゃいけないよ、そういうわけでないことがあるものか、お前をこちらへよこした人の寸法や、お前がこちらへ来るようになった心持は、大概わたしの方に当りがついているんだから」

米友はそこで黙ってしまいました。どこまで行っても受身で、根っから気焔が上らないで、<ruby><rb>先</rb><rt>せん</rt></ruby>を打たれてしまうようなあんばいです。

袖切坂のあたりは淋しいところで、ことに右手はお<ruby><rb>仕置場</rb><rt>しおきば</rt></ruby>です。袖切坂はそんなに大した坂ではないけれど、そこを半分ほど上った時に、

「おや」

と言って、どうしたハズミか、先に立って行ったお角が坂の中途で<ruby><rb>転</rb><rt>ころ</rt></ruby>びました。物に<ruby><rb>躓</rb><rt>つまず</rt></ruby>いて前へ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">のめ</span>ったのであります。

「危ねえ、危ねえ」

米友はそれを抱き起すと、

「ああ、悪いところで転んでしまった」

見ればお角の下駄の鼻緒が切れてしまっています。それをお角は口惜しそうに手に取ると、はずみをつけてポンと<ruby><rb>傍</rb><rt>かたえ</rt></ruby>のお仕置場の<ruby><rb>藪</rb><rt>やぶ</rt></ruby>の中へ<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>り込んで、

「口惜しい、うっかりしていたもんだから、袖切坂で転んでしまった」

キリキリと歯を噛んで口惜しがりました。お角の腹の立て方は、わずかに転んだための<ruby><rb>癇癪</rb><rt>かんしゃく</rt></ruby>としては、あまり仰山でありました。

「怪我をしたのかね、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かまいたち</span>にでもやられたのかね」

米友は多少、それを<ruby><rb>気遣</rb><rt>きづか</rt></ruby>ってやらないわけにはゆきません。

「そんなことじゃない、袖切坂で、わたしは転んでしまったのだよ、ちぇッ」

お角の言いぶりは<ruby><rb>自暴</rb><rt>やけ</rt></ruby>のような気味であります。

「袖切坂がどうしたって」

「ここがその袖切坂なんだろうじゃないか、ところもあろうに、あんまりばかばかしい」

「そりゃ<ruby><rb>木鼠</rb><rt>きねずみ</rt></ruby>も木から落っこちることがある、転んだところで怪我さえしなけりゃなあ」

「怪我もちっとばかりしているようだよ、<ruby><rb>向</rb><rt>むこ</rt></ruby>う<ruby><rb>脛</rb><rt>ずね</rt></ruby>がヒリヒリ痛み出した」

と言ってお角は、紙を取り出して左の足の<ruby><rb>膝頭</rb><rt>ひざがしら</rt></ruby>を拭くと、ベッタリと血がついていました。

「やあ血が！」

米友も、その血に驚かされると、お角は、

「怪我なんぞは知れたことだけれど、袖切坂で転んだのが、わたしは腹が立つ」

お角は、よくよくここで転んだのが癪で<ruby><rb>堪</rb><rt>たま</rt></ruby>らないらしい。

袖切坂を登ってしまうと行手に大菩薩峠の山が見えます、いわゆる<ruby><rb>大菩薩嶺</rb><rt>だいぼさつれい</rt></ruby>であります。標高千四百五十<ruby><rb>米突</rb><rt>メートル</rt></ruby>の大菩薩嶺を左にしては、小金沢、天目山、笹子峠がつづきます。それをまた右にしては<ruby><rb>鶏冠山</rb><rt>けいかんざん</rt></ruby>、<ruby><rb>牛王院山</rb><rt>ごおういんざん</rt></ruby>、<ruby><rb>雁坂峠</rb><rt>かりざかとうげ</rt></ruby>、<ruby><rb>甲武信</rb><rt>こぶし</rt></ruby>ヶ<ruby><rb>岳</rb><rt>たけ</rt></ruby>であります。

素足で坂を登りきったお角は――坂といっても袖切坂はホンのダラダラ坂で、たいした坂でないことは前に申す通りです。そこで、お角は米友を顧みて、

「友さん」

と米友の名を呼びました。

「よく覚えておきなさい、この坂の名は袖切坂というのだから」

そういう言葉さえ余憤を含んでいるのが妙です。

「袖切坂……」

米友は、お角に聞かされた通り、袖切坂の名を口の中で唱えましたけれど、それは米友にとってなんらの興味ある名前でもなければ、特に記憶しておかねばならない名前とも思われません。

「ナゼ袖切坂というのだか、お前は知らないだろう」

「知らない」

「知らないはずよ、わたしだって、ここへ来て初めて土地の人から、その<ruby><rb>因縁</rb><rt>いわれ</rt></ruby>を聞いたのだから」

お角は坂を見返って動こうともしません。米友もまたぜひなくお角の<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>と坂とを見比べて、意味不分明に立ちつくしていました。そこらあたりは畑と森と林が<ruby><rb>夕靄</rb><rt>ゆうもや</rt></ruby>に包まれて、その間に宿はずれの家の屋根だけが見え隠れして、二人の立っているところには、「袖切坂」という石の道標に朱を差したのが、<ruby><rb>黄昏</rb><rt>たそがれ</rt></ruby>でも気をつけて読めば読まれるのであります。

「この坂で転んだ人は、誰でも、その片袖を切ってここの<ruby><rb>庚申塚</rb><rt>こうしんづか</rt></ruby>へ納めなくてはならないことになっている。それを知っていながら、わたしはここで転んでしまった。なんという間の抜けた、ばかばかしいお人好しなんだろう、わたしという女は」

お角は、こう言って身を震わして<ruby><rb>焦</rb><rt>じ</rt></ruby>れったがりました。お角の焦れったがる面と言葉とを、米友は<ruby><rb>怪訝</rb><rt>けげん</rt></ruby>な面をして見たり聞いたりしていました。

「人間だから、根が生えているわけではねえ、転んだところでどうもこれ仕方がねえ」

米友はこう言いました。

「あんまりばかばかしいから、わたしは片袖なんぞを切りゃしない。この坂へ来ては子供だって転んだもののあるという話を聞かないのに、いい年をしたわたしが……坂の真中でひっくり返って、おまけにこの通り御念入りに<ruby><rb>創</rb><rt>きず</rt></ruby>までつけられて……」

<ruby><rb>膝頭</rb><rt>ひざがしら</rt></ruby>の創が痛むのか、お角はそこへ手をやって押えてみましたが、

「友さん、わたしがここで転んだということを、誰にも言っちゃいけないよ」

「うむ」

「言うと承知しないよ」

「うむ」

「けれどもお前はきっと言うよ、お前の口からこのことがばれるにきまっているよ。もしそういうことがあった時は、わたしはお前をただは置かない……ただは置かないと言っても、わたしよりお前の方が強いんだから……してみると、わたしはいつかお前の手にかかって殺される時があるんだろう、どうもそう思われてならない」

「何、何を言ってるんだ」

「転んだところを見た人と見られた人が、もし間違っても男と女であった時は、どっちかその片一方が片一方の命を取るんですとさ」

「ええ！」

米友はなんともつかず眼を円くしました。

ほどなく米友の連れて来られたところは、塩山の温泉場からいくらも隔たらない二階建の小綺麗な家でありました。

「この人に足を取って上げて、それから御飯を上げておくれ」

お角は女中に言いつけました。

米友は御飯を食べてしまうと二階へ案内されました。二階へ案内されて見ると、そこがまた気取った作りでありました。すべてにおいて米友は、この家の様子と、あのお角という女主人を怪しまぬわけにはゆきません。

それよりも先に、両国橋で女軽業の一座を率いていた親方が、どうしてこんなところの<ruby><rb>侘住居</rb><rt>わびずまい</rt></ruby>に落着いたかということが、米友には大いなる疑問であります。甲府へ興行に来た間違いからお君がひとり置き捨てられたのは、聞いてみればその筋道が立ちますけれど、この女親方がここへ落着いていることは、どうも米友には<ruby><rb>解</rb><rt>げ</rt></ruby>せないのであります。まもなく、お角はお湯に行くと言って出て行きました。やがて女中が二階へ来て、あなたもお湯においでなさいましと言いました。米友は、湯はよそうと言いました。それではお床を<ruby><rb>展</rb><rt>の</rt></ruby>べてあげましょうと言って、次の間へ寝床をこしらえて、<ruby><rb>屏風</rb><rt>びょうぶ</rt></ruby>を立て、<ruby><rb>燈火</rb><rt>あかり</rt></ruby>に気をつけて、お休みなさいませと言いました。

「いったい、ここの旦那というのは何を商売にしているんだい」

「<ruby><rb>絹商人</rb><rt>きぬあきんど</rt></ruby>でございます」

米友はなるほどと思いました。郡内にも甲府にも絹商人ではかなり大きいのがあるから、何かの縁でそれに見込まれてあの親方が囲われたな、と米友はそんな風に感づいて、多少<ruby><rb>腑</rb><rt>ふ</rt></ruby>に落つるところはあったけれども、袖切坂の上でお角が言った異様な<ruby><rb>一言</rb><rt>ひとこと</rt></ruby>は、どうも米友には解くことができませんでした。

米友が寝込んだのはそれから長い後ではなかったけれども、その夜中に格子をあける者がありました。

米友はまた、さすがに武術に達している人であります、熟睡している時であっても、僅かの物音に眼を<ruby><rb>醒</rb><rt>さ</rt></ruby>ますの心がけは、いつでも失うことはありません。

「うむ、そうか、そんならいいけれど、<ruby><rb>滅多</rb><rt>めった</rt></ruby>な人を入れちゃいけねえぜ」

それが男の声です。

そこで米友は、ははあ、やって来たな、旦那の<ruby><rb>絹商人</rb><rt>きぬあきんど</rt></ruby>という奴がやって来たなと、腹の中でそう思いました。

そのうちに瀬戸物のカチ合う音や、<ruby><rb>燗徳利</rb><rt>かんどくり</rt></ruby>が風呂に入る音なんぞがしました。それでもって、お角とその絹商人とが差向いで飲みはじめていることがわかりました。

二人は飲みながら話をしています。その話し声が高くなったり低くなったりしていますけれども、聞いているうちに、米友がまたまたわからなくなったのは、男の方の言葉づかいが決して商人の言葉づかいではないことであります。

いくら土地の商人にしたところで、いま下で話している人の口調は、<ruby><rb>反物</rb><rt>たんもの</rt></ruby>の一反も取引をしようという人の口調ではありません。

絹商人というけれども、何をしているんだか知れたものじゃないと、米友はいいかげんにたかを<ruby><rb>括</rb><rt>くく</rt></ruby>りました。

「おや、妙なことをお言いだね」

突然と下から聞えたのは、お角の声であります。

「だからどうしようと言うんだ」

それは男の声。

「どうもしやしない、これからその神尾主膳とやらのお邸へ、わたしが出向いて行って、ちゃあんと談判して来るからいい」

「そいつは面白い」

「面白かろうさ。そうしてそのついでに、百という男は、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>と二つ名前の男で、切り落された片一方の手には甲州入墨……」

「何を言ってやがるんだ」

下の男と女は、いさかいになったのを、米友は聞き<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>めてしまいました。

しかし、高い声はそれだけで止んで、男女ともに急に押黙ってしまいました。

その翌朝、あの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>の何とやらいう小悪党に会わなければならないのだなと思いながら、米友は下へ降りて見ると、お角と女中のほかには誰もいませんでした。

女中の世話で朝飯を食べてしまっても、昨夜の男は姿を見せませんでした。お角もなにくわぬ<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>をしていました。米友もそのことは聞きもしないで、直ちに出立の暇乞いをしました。お角はもっと米友を留めておきたいような<ruby><rb>口吻</rb><rt>くちぶり</rt></ruby>でありましたけれど、そんならと言っていくらかの<ruby><rb>餞別</rb><rt>せんべつ</rt></ruby>までくれました。そうして、遠からずわたしも江戸へ帰るからあっちでまた会おうと言って、米友のために、二三の<ruby><rb>知人</rb><rt>しるべ</rt></ruby>のところを引合せてやったりなどしました。

そうして米友は、そこを出かけて東へ向って行くと例の袖切坂です。そこへ来ると、いやでも眼に触れるのが、坂の上に立てられてある「袖切坂」の石の道標でありました。

「ここだな」

と思って米友はその石を見ると、袖切坂の文字には昨夜見た通りの朱をさしてありましたが、その文字の下に猿の<ruby><rb>彫物</rb><rt>ほりもの</rt></ruby>のしてあることに初めて気がつきました。この猿はありふれた<ruby><rb>庚申</rb><rt>こうしん</rt></ruby>の猿です。庚申様へ片袖を切って上げるとかなんとか言ったのは、やっぱりここのことだろうと米友は、昨晩のお角の言った言葉を思い出して、再び奇異なる感じを呼び起して見ると、その庚申の下に、片袖ではない――下駄が片一方、置き捨てられてあることを発見しました。

下駄が片一方、しかもそれは男物ではない、<ruby><rb>間形</rb><rt>あいがた</rt></ruby>の女下駄に<ruby><rb>黒天</rb><rt>こくてん</rt></ruby>の鼻緒、その鼻緒の先が切れたままで、さながら庚申様へ<ruby><rb>手向</rb><rt>たむ</rt></ruby>けをしたもののように置かれてあるのをみとめて、米友は眼を円くしました。

想像を加えるまでもなく、その下駄はお角の下駄であります。<ruby><rb>昨夕</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>この坂の中程で転んだお角が、<ruby><rb>焦</rb><rt>じ</rt></ruby>れったがって<ruby><rb>歯咬</rb><rt>はがみ</rt></ruby>をしながら、鼻緒の切れたその下駄をポンと仕置場の<ruby><rb>藪</rb><rt>やぶ</rt></ruby>の中へ投げ込んだ時に、米友は<ruby><rb>怪訝</rb><rt>けげん</rt></ruby>な<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>をして見ていました。

それを誰がいつ拾い出したのか、今朝はもうここに、ちゃんとこうして供えられてある――だから米友は眼を円くしないわけにはゆきません。

迷信や因縁事で米友を<ruby><rb>嚇</rb><rt>おどか</rt></ruby>すには、米友の頭はあまりに粗末でそうして弾力があり過ぎます。昨夕、ここであんなことをお角から言われて、その時はおかしな気分になりました。今はもうほとんど忘れてしまっていました。それだからこうして見ると、誰がしたのかその<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>が<ruby><rb>面悪</rb><rt>つらにく</rt></ruby>くなるくらいのものでありました。米友は手に持っていた棒をさしのべて、長虫でも突くような手つきで、下駄の鼻緒の切れ目へそれを差し込みました。

前後と左右を見廻して、その下駄を<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>り込むところを見定めようとしたけれど、あいにく、あの藪の中へ投げ込んでさえ拾い出してここへ持って来る奴があるくらいだから、畑や道端へうっかり捨てられないと、米友は棒の先へその下駄を突掛けたものの、そのやり場に窮してしまいます。

やむことを得ず米友は、その下駄を手許へ引取って、片手でぶらさげて、その場を立去るよりほかには<ruby><rb>詮方</rb><rt>せんかた</rt></ruby>がなくなりました。行く行くどこかへ捨ててしまおうと、米友は油断なく左右を見廻して行ったけれども、容易にその下駄一つの捨て場がわかりません。ついには土を掘って埋めてしまおうかとも思いましたけれど、そうもしないで、ほとんど小一里の間、米友はその下駄をぶらさげて歩いてしまいました。

右の足の<ruby><rb>跛足</rb><rt>びっこ</rt></ruby>である米友が、女の下駄を片一方だけ持ち扱って歩いて行くことは、判じ物のような形であります。

## 十一

その後ムク犬は、駒井と神尾と両家の間を往来するようになりました。お君のムク犬を可愛がることは昔に変らないが、その可愛がり方はまた昔のようではありません。自分で手ずから食物を与えることはありません。またムクと一緒にいる機会よりも能登守に近づく機会が多いので、自然にムク犬に対するお君の情が薄くなるように見えました。しかし、お君はムク犬を粗末にするわけではなく、ムク犬もまた主人を<ruby><rb>疎</rb><rt>うと</rt></ruby>んずるというわけではありませんでした。

お君とムク犬との関係がそんなになってゆく間に、お松とムク犬とがようやく親密になってゆくことが、目に見えるようであります。

それだからムク犬は、或る時は駒井家の庭の一隅に眠り、或る時は神尾の家へ行って遊んで来るのであります。神尾の家といってもそれは本邸の方ではなく、別家のお松の部屋の縁先であります。お松はこの犬を可愛がりました。

神尾家の本邸のうちは、このごろ見ると、またも昔のような乱脈になりかけていることがお松の眼にはよくわかります。貧乏であった神尾主膳がこの春来、めっきり金廻りがよくなったらしい景気が見えました。けれどもその金廻りがよくなったというのは、<ruby><rb>知行高</rb><rt>ちぎょうだか</rt></ruby>が<ruby><rb>殖</rb><rt>ふ</rt></ruby>えたからというわけではなく、また用人たちの財政がうまくなって、神尾家の信用と融通が回復したというわけでもないようです。

このごろ神尾家へは、雑多な人が入り込みます。<ruby><rb>札附</rb><rt>ふだつき</rt></ruby>の同役もあれば、やくざの<ruby><rb>御家人上</rb><rt>ごけにんあが</rt></ruby>りもあり、かなり裕福らしい町人風のものもあり、また全然<ruby><rb>破落戸風</rb><rt>ごろつきふう</rt></ruby>のものもある――それらの人が集まって、夜更くるまで本邸の奥で<ruby><rb>賭場</rb><rt>とば</rt></ruby>を開いていることを、お松は浅ましいことだと思いました。神尾主膳に金廻りがよくなったというのは、それから来るテラ銭のようなものでしょう。

<ruby><rb>中奥</rb><rt>なかおく</rt></ruby>の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>ではその夜、また悪い遊びが開かれていました。その場の様子では主膳の旗色が大へん悪いようです。

主膳の悪いのに引替えて、いつもこの場を<ruby><rb>浚</rb><rt>さら</rt></ruby>って行くは、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>の百であります。

一座の者が一本腕の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>のために、或いは殺され、或いは斬られて、手を負わぬものは一人もない<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>たらくでありました。

それを見ていた神尾主膳は、<ruby><rb>業</rb><rt>ごう</rt></ruby>が煮えてたまりませんでした。

「百蔵、もう一丁融通してくれ、頼む」

と言い出すと、

「殿様、<ruby><rb>御冗談</rb><rt>ごじょうだん</rt></ruby>おっしゃっちゃいけません、もうおあきらめなすった方がお得でございます」

「左様なことを言わずにもう一丁融通致せ、<ruby><rb>新手</rb><rt>あらて</rt></ruby>を入れ替えて、貴様と太刀打ちをしてみたい、<ruby><rb>見</rb><rt>み</rt></ruby>ん<ruby><rb>事</rb><rt>ごと</rt></ruby>仇を取って見せる」

「駄目でございますよ、新手を入れ替えたところで、返り討ちにきまっておいでなさいますから、今宵のところはこの辺でお思い切りが肝腎でございますよ」

「どうしても融通ができぬか」

「冗談じゃございません、このうえ融通して上げたんじゃ、勝負事の<ruby><rb>冥利</rb><rt>みょうり</rt></ruby>に尽きてしまいますからな」

「けれども貴様、それじゃ勝ち過ぎる」

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>が縦横無尽に場を荒すのを神尾主膳も<ruby><rb>忌々</rb><rt>いまいま</rt></ruby>しがっていたが、一座の連中もみんな忌々しがっていました。主膳は堪り兼ねて、

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>、それでは<ruby><rb>抵当</rb><rt>かた</rt></ruby>の品をやる、それによって融通しろ」

「よろしうございます、相当の抵当を下さるのに、それでも融通をして上げないと、左様な頑固なことは申しません。そうしてその抵当とおっしゃいますのは」

「この品だ」

神尾主膳は、青地錦の袋に入れた<ruby><rb>一振</rb><rt>ひとふり</rt></ruby>の太刀を床の間から取り外しました。それは多分<ruby><rb>伯耆</rb><rt>ほうき</rt></ruby>の安綱の刀でありましょう。

神尾主膳は秘蔵の刀を当座の抵当に与えて、それで、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>からいくらかの金を融通してもらいました。けれども不幸にしてその金もたちどころに、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>に取られてしまいました。案の如く見事な返り討ちです。片手で自分の膝の前に<ruby><rb>堆</rb><rt>うずだか</rt></ruby>くなっている<ruby><rb>場金</rb><rt>ばがね</rt></ruby>を掻き集めながら、

「ナニ、今日はわっしどもの目が出る日なんでございます、殿様方の御運の悪い日なんでございます、殿様方がお弱いというわけでもございませんし、わっしどもがばかに強いというわけなんでもございません、勝負事は時の運なんでございますから、これでまた、わっしどもが裸になって、殿様方がお笑いになる日もあるんでございますから、わっしどもは決して愚痴は申しません」

場金を掻き集めて<ruby><rb>胴巻</rb><rt>どうまき</rt></ruby>に入れてしまい、

「それからこの一品、どうやら、わっしどもには不似合いな品でございますが、せっかく殿様から<ruby><rb>抵当</rb><rt>かた</rt></ruby>に下すった品でございますから、持って帰って大切にお預かり申して置きます……」

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>、ちょっと待ってくれ」

神尾主膳が言葉をかけました。

「何か御用でございますか」

「その刀は置いて行ってもらいたい」

「よろしうございますとも、抵当にお預かり致したものでございますから……」

「知っての通り、今、その方に支払うべき持合せがない、明日までには都合致すが、その一振は家の宝じゃ、そちに抵当に遣わすと言ったのも一時の座興、手放せぬ品じゃ、置いて行ってもらいたい」

「これは恐れ入りました、その手で、いままで殿様にはずいぶん御奉公を致しておりまする、今晩もまた一時の座興なんぞとおっしゃられてしまっては、友達の野郎に対しても、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>の<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>が立ちません、殿様の御都合のよろしい時まで、この刀は確かにお預かり申し上げました」

片手で青地錦に入れた一振を取っておしいただき、

「皆様、御免下さりませ」

お辞儀をして、さっさと立ってしまいました。

神尾主膳はじめ一座の者は、<ruby><rb>険</rb><rt>けわ</rt></ruby>しい眼をしてその後ろ影を見送るばかりで、さすがに身分柄、手荒いことも出来ません。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>の百は神尾の屋敷を出た時に、青地錦の袋に入れた刀を背負っていました。

上弦の月が中空にかかっているのを後ろにして、スタスタと歩き出すと、

「もし百さん」

と言って塀の蔭から出たのは、女の姿であります。

「誰だい」

「わたしだよ」

「お角か」

「あい」

「何しにそんなところへ来てるんだ」

「お前さんが来るのを待っていたのだよ」

「家に待ってりゃあいいじゃないか」

「そうしていられないから出て来たんじゃないか」

傍へ寄って来たのは、女軽業の親方のお角であります。

「どうしたのだ」

「どうしたのじゃない、お前、またこのお邸へ入り込んだね」

「入っちゃ悪いか」

「悪いとも……だけれど、今はそんなことを言っていられる場合じゃない、手が入ったよお前。手が入ったから、あすこにはいられない、あすこへ帰ることもできない」

「そうか」

「これからどうするつもり」

「どうしようたって、どうかしなくちゃあ仕方がねえ、やっぱり逃げるんだな」

「どこへ逃げるの、わたしだって着のみ着のままで、ここまで抜けて来たのだから」

「だから、俺は俺で勝手に逃げるから、お前はお前で勝手に逃げろ」

「そんなことを言ったって……」

「まあ、こっちへ来ねえ」

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>は、お角を塀の蔭へ連れて来て、

「幸い、今夜はこっちの目と出て、これこの通りだ。山分けにして半分はお前にくれてやるから、こいつを持ってどこへでも行きねえ」

「そうしてお前は？」

「俺は俺で、臨機応変とやらかす」

「そんなことを言わないで、一緒に連れて逃げておくれ」

「そいつはいけねえ、おたげえのために悪い」

「お為ごかしを言っておいて、お前はこのお邸のお部屋様のところへでも<ruby><rb>入浸</rb><rt>いりびた</rt></ruby>るんだろう」

「馬鹿、そんなことを言ってられる場合じゃあるめえ」

「それを思うと、わたしは<ruby><rb>口惜</rb><rt>くや</rt></ruby>しい」

「何を言ってるんだ」

「もしお前がそんなことをしようものなら、わたしはわたしで<ruby><rb>持前</rb><rt>もちまえ</rt></ruby>を出して、折助でもなんでも相手に手あたり次第に食っつき散らかして、お前の男を<ruby><rb>潰</rb><rt>つぶ</rt></ruby>してやるからいい、このお金だってお前、あの後家さんだかお部屋様だかわからない女の手から捲き上げて来たお金なんだろう」

「そんなことがあるものか」

「そうにきまっている、そんならちょうど面白いや、あの女から<ruby><rb>貢</rb><rt>みつ</rt></ruby>いだ金をわたしの手で使ってやるのがかえって気持がいい、みんなおよこし」

「持って行きねえ」

「もう無いのかい」

「それっきりだ」

「その背中に<ruby><rb>背負</rb><rt>しょ</rt></ruby>っているのは、そりゃ何？」

「こりゃ脇差だ、これも欲しけりゃくれてやろうか」

「そんな物は要らない」

「さあ、それだけくれてやったら文句はあるめえ、早く行っちまえ、こうしているのが危ねえ」

「それでも……」

「まだ何か不足があるのかい」

この時、二人の方へ人が近づいて来ます。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>とお角は離れ離れに、塀の側と<ruby><rb>辻燈籠</rb><rt>つじどうろう</rt></ruby>の蔭へ身を忍ばせようとした時、

「何をしやがるんだい」

やにわに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>に組みついて来たものがあります。

それと見たお角は、前後の思慮もなくその場へ飛びかかりました。

「貴様は――」

覆面の侍の後ろから飛びかかったお角は、直ちに突き倒されてしまいました。

「神尾の廻し者だろう、大方、そう来るだろうと思っていた」

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>は片手を後ろへ廻して、侍の<ruby><rb>髱</rb><rt>たぼ</rt></ruby>を掴んで力任せに小手投げを打とうとしました。侍はその手を抑えて、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>が差置いた青地錦の袋入りの刀を取ろうとしました。

「それをやってたまるものか」

片腕の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>は両手の利く侍よりも喧嘩が上手でありました。侍の腰がきまらないところを一押し押して振り飛ばすと、覆面の侍は前へのめってしまいました。

「ざまあ見やがれ」

いつしかその後ろから、また一人の覆面の侍が出て来て、

「どっこい」

と組みつきました。

「まだいやがる」

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>はそれと組打ちをはじめる。その<ruby><rb>隙</rb><rt>すき</rt></ruby>に前に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">のめっ</span>た覆面は起き上りながら、その袋入りの刀を奪い取ろうとする。

「いけない」

と言って、ほぼ一緒に起き返ったお角が、その侍の手に持った刀へ<ruby><rb>噛</rb><rt>かじ</rt></ruby>りつきました。

「この女、<ruby><rb>小癪</rb><rt>こしゃく</rt></ruby>な奴」

「泥棒、泥棒」

お角はこう言って大声を立てようとした、その口を侍が押える。お角は必死になったけれど男の力には<ruby><rb>敵</rb><rt>かな</rt></ruby>わない。

「この野郎」

喧嘩にかけて敏捷な<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>は、足を<ruby><rb>掬</rb><rt>すく</rt></ruby>って組みついていた方の覆面の侍を<ruby><rb>打倒</rb><rt>ぶったお</rt></ruby>して、今お角を蹴倒して刀を持って逃げようとする侍の行手に立ちはだかる。

「お角、だまっていねえ、泥棒泥棒なんて言っちゃあいけねえ」

と言いながら、持って逃げようとする袋入りの刀を、また引ったくろうとする。前に投げ倒されたのがまた起き直る。蹴倒されたお角がじっとしてはいない。

この<ruby><rb>四個</rb><rt>よっつ</rt></ruby>の人影がここで組んずほぐれつ大格闘をはじめてしまいました。争うところはその袋入りの刀にあるらしい。

お角は何だかわからないけれども、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>の危急と見て格闘の仲間入りをしました。女だてらに負けてはいないで、武者振りついていました。

「あッ」

という声でお角は慄え上りました。

「百さん、どうおしだえ」

お角は我を忘れて<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>を呼ぶ途端に、一人の覆面のために烈しく地上へ投げ出され、その拍子に路傍の石で<ruby><rb>脾腹</rb><rt>ひばら</rt></ruby>を打ってウンと気絶してしまったから、その後のことは何とも分りません。

それからどのくらい経ったのか知れないが、お角は介抱される人があって呼び<ruby><rb>醒</rb><rt>さ</rt></ruby>まされた時に、気がついて見れば、やはり覆面の侍が傍にいました。

しかし、同じ覆面の侍でも今度の侍は、前の覆面の侍とは確かに相違していることがわかります。人品も相違しているし、<ruby><rb>風采</rb><rt>ふうさい</rt></ruby>も相違していることがわかります。

「お女中、気を確かにお持ちなさい、お怪我はないか」

と背を撫でているのは、その<ruby><rb>人品骨柄</rb><rt>じんぴんこつがら</rt></ruby>のよい覆面の侍ではなくて、その若党とも<ruby><rb>覚</rb><rt>おぼ</rt></ruby>しき覆面をしない侍でありました。

「はい、有難う存じまする、別に怪我はござりませぬ」

お角はすぐにお礼と返事とをしました。

「何しろ危ねえことでございます、血がこんなに流れているから、わっしどもはまた、お前様がここに殺されていなさるとばかり思った」

気味悪そうに提灯を突き出して<ruby><rb>四方</rb><rt>あたり</rt></ruby>を見廻しているのは、やはりこの人品骨柄のよい覆面の侍のお<ruby><rb>伴</rb><rt>とも</rt></ruby>をして来た<ruby><rb>草履取</rb><rt>ぞうりとり</rt></ruby>の<ruby><rb>類</rb><rt>たぐい</rt></ruby>であろうと見えます。

「血が流れていて人が殺されていないから不思議。お女中、そなたはいずれの、何という者」

「いいえ、あの……」

「包まず申すがよい」

「あの、わたくしは……」

お角は問い<ruby><rb>糺</rb><rt>ただ</rt></ruby>されて、おのずから<ruby><rb>口籠</rb><rt>くちごも</rt></ruby>ります。その口籠るので、若党、草履取はお角にようやく不審の疑いをかけると、

「これには何ぞ仔細があるらしい、ともかく屋敷へ同道致すがよかろう」

と言ったのは、人品骨柄のよい覆面の武家でありました。その声を聞くと<ruby><rb>爽</rb><rt>さわや</rt></ruby>かな、まだお年の若いお方と思われるのみならず、その声になんとやら聞覚えがあるらしく思われるが、お角は急には思い出されません。

「いいえ、わたくしはここで失礼を致します、もうあの、大丈夫でございますから」

と言って、やみくもに袖を振切って駈け出してしまいます。

一行の人はその挙動を<ruby><rb>呆気</rb><rt>あっけ</rt></ruby>に取られて見ていたが、別に<ruby><rb>追蒐</rb><rt>おいか</rt></ruby>ける模様もなく、屋敷へ帰ってしまいました。

その屋敷というのは駒井能登守の屋敷であって、覆面の品のよい武家は主人の能登守でありました。

このことについて、その翌日、何か風聞が起るだろうと思ったら、更に起りませんでした。あの附近を通った者が、血の<ruby><rb>痕</rb><rt>あと</rt></ruby>のあることをさえ気がつかずにしまいました。恐らく昨夜のうちに、それを掃除してしまったものがあるのでありましょう。その場のことはそれだけで過ぎてしまいました。

## 十二

甲府の市中にもこのごろは辻斬の噂が暫く絶え、御老中が見えるという噂も、どうやら立消えになったようであります。それで甲府の内外の人気もどうやら気抜けがしたようであったところに、はしなく士民の間に火を<ruby><rb>放</rb><rt>つ</rt></ruby>けたような熱度で歓迎される催しが一つ起りました。その催しというのは、府中の八幡宮の社前で、盛大なる<ruby><rb>流鏑馬</rb><rt>やぶさめ</rt></ruby>を行おうということであります。

八幡の流鏑馬は古来の吉例でありました。それは上代から毎年八月十五日を期して行われたのでありましたが、久しく<ruby><rb>廃</rb><rt>すた</rt></ruby>れていたのを、この二月<ruby><rb>初卯</rb><rt>はつう</rt></ruby>を期して――後代の佳例に残るかどうかは知らないが、ともかくもやってみたいというのが<ruby><rb>発企者</rb><rt>ほっきしゃ</rt></ruby>の意見で、それに輪をかけたのが賛成人と市中村々の人民とでありました。

この発企は、駒井能登守から出たものと言ってもよろしいのであります。能登守の家の重役が八幡の古例を調べ出して、ふとこのことを能登守に話すと、能登守はそれは面白い、その古例を復興してみたいものだと言いました。それを上席の勤番支配太田筑前守に話してみると、筑前守も喜んで同意を表しました。それに並み居る人々も、単に上役に対する<ruby><rb>追従</rb><rt>ついしょう</rt></ruby>からでなく、心からその企てを面白いことに思ってはずみました。

すでにその辺から<ruby><rb>纏</rb><rt>まと</rt></ruby>まったことであるから、それが城下へうつる時は、一層の人気になるのは無論のことであります。

二月初卯の日、八幡社前において三日間の<ruby><rb>流鏑馬</rb><rt>やぶさめ</rt></ruby>が行われるということは、城下から甲州一円の沙汰になりました。

初めの二日は古例によって、甲州一国の選ばれたる人と馬――あとの一日は甲府勤番の士分の者。それに附随して<ruby><rb>神楽</rb><rt>かぐら</rt></ruby>もあれば<ruby><rb>煙花</rb><rt>はなび</rt></ruby>もある、道祖神のお祭も馳せ加わるという景気でありましたから、女子供までがその日の来ることを待ち兼ねておりました。

能登守の家来たちは、八幡社前の広い場所に縄張りをしました。大工が入り、人足が入り、馬場を設けたり<ruby><rb>桟敷</rb><rt>さじき</rt></ruby>をかけたりすることで、八幡のあたりはまだ当日の来ないうちから、町が立ったような景気であります。

能登守自身もまた馬に乗っては、この工事の景気を時々巡視に行きました。これはもとより能登守一人の催しではないけれども、最初に言い出した人であるのと、地位の関係から、ほとんど能登守が全部の<ruby><rb>奉行</rb><rt>ぶぎょう</rt></ruby>を引受けたような形勢であります。

能登守の<ruby><rb>家中</rb><rt>かちゅう</rt></ruby>は、この催しの世話役に当って力を入れているばかりでなく、士分の者から選手を出す時に、ぜひとも自分の家中から誰をか出さねばならぬ、その時に自家の選手が他家の者に<ruby><rb>後</rb><rt>おく</rt></ruby>れを取るようなことがあってはならぬ、というその責任から、或いは勇み、或いは用心をするということになりました。

殊に主人の駒井能登守が砲術の名手として聞えた人であるだけに、その家中から、ロクでもない人間を出してしまっては、それこそ取返しのつかない名折れであると思って、重役や側用人たちは、もうそのことで心配していました。

それがために例の重役や側用人らが苦心を重ねているうちに、どうしても聞き捨てにならぬことが出来たと見えて、重役が主人の<ruby><rb>許</rb><rt>もと</rt></ruby>へ出て来ました。

「このたびの流鏑馬のお人定めは、誰をお指図でござりましょうや……就きまして我々共、容易ならぬ心配を致しおりまする。と申すのは、かの神尾主膳殿の許に、信州浪人とやら申す至って弓矢の上手が昨今滞在の由にござりまする、それは必ずやこのたびの流鏑馬を当て込んで、例の意地を立て、わが手に功名を納めんとの下心と相見えまする。あの神尾主膳殿は何の宿意あってか、いちいち当家に<ruby><rb>楯</rb><rt>たて</rt></ruby>をつくようなことばかりを致されまする。よってこのたびの流鏑馬の催しに、功名をわが手に納めんとの下心より、一層、当家に対して、腹黒き計略が<ruby><rb>歴々</rb><rt>ありあり</rt></ruby>と見え透くようでござりまする。それ故に、このたびのお人定めは疎略に相成りませぬ、万一のことがありますれば、お家の恥辱、また神尾主膳がこの上の増長、計りがたなく存じまする」

家来たちは心からこのことを憂いているのであり、また憂うることに道理もあるのでありましたが、能登守はそれを知ってか知らずにか、

「そりゃそのほうたちが思い過ごし、このたびの催しは、寸功を争うためにあらずして、国の兵馬を強くせんがため……しかし、其方たちの申すことも疎略には思わぬ、追ってよき人を見立てて沙汰を致そう」

「仰せながら、もはや余日もいくらもごりませぬ、一日も早く御沙汰を下し置かれませぬと。本人の稽古と準備のために……」

「その辺も心得ている、それ故、家中一同にその用心を怠らず、いつ沙汰をしても驚かぬようにしているが肝腎」

能登守自身も必ずや、このことを考えていないはずはない。事は<ruby><rb>些細</rb><rt>ささい</rt></ruby>ながら、家の面目と責任というようなことへ<ruby><rb>延</rb><rt>ひ</rt></ruby>いて行くことも考えていないはずはないでしょう。

この時分、神尾主膳の屋敷では、このごろ召抱えた信州浪人の小森というのが、主人の御馳走を受けながら、しきりに用人たちを相手に気焔を吐いていました。小森の年配は四十ぐらい、名は小森だが実は大きな男でありました。

「拙者の流儀は、信濃の国の住人<ruby><rb>諏訪大夫盛澄</rb><rt>すわのたいふもりずみ</rt></ruby>から出でたもので……この盛澄は<ruby><rb>俵藤太秀郷</rb><rt>たわらとうだひでさと</rt></ruby>の秘訣を伝えたものでござる」

と言って得意げに語るところを見れば、騎射に相当の覚えのあるものであることに疑いないらしい。

「このねらい方というやつが……人によってはこれを<ruby><rb>鏃</rb><rt>やじり</rt></ruby>からねらうものもある、また左からねらうものもあるけれど、これはいずれもよくないこと」

小森は柱に立てかけてあった塗弓を手に取りながら、ねらい方のしかたばなしをはじめました。

「<ruby><rb>一途</rb><rt>いちず</rt></ruby>にこうして鏃ばかりでねらうと、鏃の<ruby><rb>当</rb><rt>あて</rt></ruby>はよくても、<ruby><rb>桿</rb><rt>かん</rt></ruby>の通りが<ruby><rb>碌</rb><rt>ろく</rt></ruby>でもないことになると、矢の出様が真直ぐにいかない。また弓の左からねらうと、矢というものはもとより右の方にあるものだから、鏃が目に見えなくなる。それで<ruby><rb>的</rb><rt>まと</rt></ruby>の<ruby><rb>見透</rb><rt>みとお</rt></ruby>しが<ruby><rb>明瞭</rb><rt>はっきり</rt></ruby>とせぬ故、遠近の見定めがつかぬ……その故にねらいの本式はまず弓を引き分くる時に的を見、さて弓を引込めたる時、目尻でこう桿から鏃をみわたし、それから的を見透すというと、これは<ruby><rb>大</rb><rt>さす</rt></ruby>、これは<ruby><rb>小</rb><rt>おちる</rt></ruby>、これは<ruby><rb>東</rb><rt>まえ</rt></ruby>、これは<ruby><rb>西</rb><rt>うしろ</rt></ruby>ということが<ruby><rb>明瞭</rb><rt>はっきり</rt></ruby>とわかるのでござる」

と言いながら小森は、中黒の矢を一筋とって弓に<ruby><rb>番</rb><rt>つが</rt></ruby>えて、ねらいの形をして見せました。なるほど、よい形で、さすがに<ruby><rb>手練</rb><rt>てだれ</rt></ruby>の程も<ruby><rb>偲</rb><rt>しの</rt></ruby>ばれないことはありません。

「しかし、これは遠いところを射る時のねらい方で、もし五十間より内ならば、その節にはみな弓の左よりねらうようにせねばならぬ。<ruby><rb>流鏑馬</rb><rt>やぶさめ</rt></ruby>の時、すべて騎射の時は、大抵十間二十間の際において射ることでござるから、やはり左からねらうがよろしい……かるにより近いところを射るには、押手を勝手よりも低くすること、またその時は右よりねらわずに、左よりねらうのが本式でござる。つまり遠近によりてねらいに左右の差別があることは、拙者が申し上ぐるまでもなくおのおの方も御存じのところでござろう」

「平地にて射る時、馬上にて射る時にも、その心得にいろいろの差別がござりましょうな」

と座中から問うものがありました。

「いかにも」

と小森は<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>きながら、弓から矢を<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>してしかたばなしをやめ、

「騎射というても、もとより<ruby><rb>流鏑馬</rb><rt>やぶさめ</rt></ruby>に限ったことはござらぬ、朝廷にては五月五日の騎射、<ruby><rb>駒牽</rb><rt>こまひき</rt></ruby>、<ruby><rb>左近衛</rb><rt>さこんえ</rt></ruby>、<ruby><rb>右近衛</rb><rt>うこんえ</rt></ruby>の荒手結、真手結、<ruby><rb>帯刀騎射</rb><rt>たてわききしゃ</rt></ruby>というような儀式、武家では流鏑馬に<ruby><rb>犬追物</rb><rt>いぬおうもの</rt></ruby>、<ruby><rb>笠掛</rb><rt>かさがけ</rt></ruby>、みな馬上の弓でござる。このたび当所にて催さるる流鏑馬はいずれの古式にのっとられるか知らねど、多分は小笠原の流儀によることならんと存ぜらるる。ともかく、明日にも馬場を拝借して一責め致してみたいと存じ申す。その節、実地につき拙者の心得申したるところをいささかながら御参考のためにお話し申し上げたい、また拙者の流儀が他流と異なるところをも多少なりと御覧に入れたい」

こう言って<ruby><rb>諄々</rb><rt>じゅんじゅん</rt></ruby>と語るところを見れば、必ずや相当の自信がないものではないと思わせられるのであります。

主膳はこの人を招くことにおいて非常な苦心をしました。人を<ruby><rb>遣</rb><rt>つか</rt></ruby>わして信州から、わざわざ招かせたものでありました。それは無論、流鏑馬の当日に手柄を現わし、<ruby><rb>己</rb><rt>おの</rt></ruby>れが<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>を立てると共に、駒井能登守に鼻をあかさせたい心からでありました。表向きは自分の家中ということにしておくけれど、このことが済めば多分の礼を与えて送り帰すという、客分の待遇で迎えて来たものです。

宇津木兵馬はその時分、もうすっかり身体が<ruby><rb>癒</rb><rt>なお</rt></ruby>っておりました。身体は癒ったが、まだここを立つというわけにはゆきません。

今は日に増し元気も血色もよくなってゆくのに、兵馬はひとりその部屋で机に向って読書に<ruby><rb>耽</rb><rt>ふけ</rt></ruby>っておりました。

その時に、二階へ上って来る人の足音を聞きました。それが二人の足音であった時には、お君がお松の手引をして来るのであるし、それが一人の足音である時は、能登守が見舞に見えるのが例でありました。今は一つの足音であったから、能登守にきまっていると、兵馬は襟を正して待っていると、

「兵馬どの」

果してそれは能登守でありました。

「これはこれは」

と言って兵馬は、<ruby><rb>褥</rb><rt>しとね</rt></ruby>を<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>って礼をしました。能登守はいま研究室から来たものと見えて、筒袖羽織に袴であります。

「退屈でござろうな」

「こうして読書を致しておりますれば、さのみ退屈にも感じませぬ」

「毎朝一度ずつは、庭へ出て散歩をなさるがよかろう。いずれ近いうちには、自由の身にして上げたい、もう暫くこのままで辛抱されるように」

「有難きことに存じまする、なにぶんのお指図をお待ち申し上げまする」

「時に宇津木どの、ちと保養をしてみる気はないか」

「保養と仰せあるは？」

「気晴しに、面白い遊戯をしてみる心持はないか」

「それは、永々の<ruby><rb>鬱屈</rb><rt>うっくつ</rt></ruby>ゆえに、何なりと仰せつけ下さらば、お相手の御辞退は<ruby><rb>仕</rb><rt>つかまつ</rt></ruby>りませぬ」

「別に拙者の相手を所望するのではない、どうじゃ兵馬どの、馬に乗ってみては」

「それは一段と結構なことに存じまする、承りてさえ心が<ruby><rb>躍</rb><rt>おど</rt></ruby>るように存じまする」

「馬に乗ることのほかに、さだめて御身は弓をひくことも得意でござろうな」

「弓？……それもいささかは心得ておりますれど、ホンの<ruby><rb>嗜</rb><rt>たしな</rt></ruby>み、得意というほどの覚えはござりませぬ」

「ともかくも、馬に乗りて弓をひくことの保養をして御覧あれ、明日とも言わず、ただいまより庭へ出でて、馬を調べ、弓矢を<ruby><rb>択</rb><rt>えら</rt></ruby>んで試みてはいかがでござる」

「それは願うてもなき仕合せ。しからば仰せに従いて、これより直ちに」

「<ruby><rb>厩</rb><rt>うまや</rt></ruby>へ案内致させ申そう、そのうちにてよき馬を遠慮なく択み取り給え、弓矢も望み次第のものを」

兵馬は喜んで、能登守のあとに従いました。

その日から宇津木兵馬は、能登守の邸内の馬場で馬を責めました。馬は有野村の藤原家からすぐって来た栗毛の<ruby><rb>逸物</rb><rt>いちもつ</rt></ruby>であります。

## 十三

そうしているうちに、二月<ruby><rb>初卯</rb><rt>はつう</rt></ruby>の<ruby><rb>流鏑馬</rb><rt>やぶさめ</rt></ruby>の当日となりました。

八幡の社前で流鏑馬が行われるのみならず、竜王の河原では花火が打ち上げられました。町々の辻では太鼓の会がありました。それで甲州一円の人が甲府の市中へ流れ込みました。最初の二日は、名は流鏑馬であるけれども実は競馬であります。

馬場の一面には、八幡宮の鳩と<ruby><rb>武田菱</rb><rt>たけだびし</rt></ruby>との<ruby><rb>幔幕</rb><rt>まんまく</rt></ruby>が張りめぐらされてあり、その外は<ruby><rb>竹矢来</rb><rt>たけやらい</rt></ruby>でありました。

南の方の真中に両支配の<ruby><rb>桟敷</rb><rt>さじき</rt></ruby>があり、その左は組頭、御武具奉行、御破損奉行、<ruby><rb>御仮目附</rb><rt>おかりめつけ</rt></ruby>、それから同心、<ruby><rb>小人</rb><rt>こびと</rt></ruby>などの士分の者の桟敷であり、右の方は、それらの人たちの奥方や女房のために設けられた桟敷でありました。そのほかは近国から招く客分の人だの、国内の待遇のよい人々のために設けられた桟敷であります。

一般の見物は東の口から潮のようになだれ込みました。これらの者のためには地面へ<ruby><rb>蓆</rb><rt>むしろ</rt></ruby>をしいてありました。我れ勝ちに前へ進んで、その蓆の下へ履物を押込んで、<ruby><rb>固唾</rb><rt>かたず</rt></ruby>を呑んで見物します。

市街からの道々へは露店が軒を並べてしまいます。

少し風がある分のことで、天気は申し分がないから、朝のうちに広場は人で埋まってしまいました。

やがて合図の花火が揚った時分に、桟敷が黒くなりはじめました。先任の支配太田筑前守は、<ruby><rb>小姓</rb><rt>こしょう</rt></ruby>をつれてその席に着きましたけれど、相役の駒井能登守はまだそこへ姿を見せません。

組頭や、奉行や、目附、同心、小人の士分の者も続々と桟敷へ詰めかけて来ました。その前から沙汰をして、近国の士分の者も同じくその桟敷に招かれたのが少なからず見えるようです。

それよりも人の目を引いたのは、これら士分の者の奥方や女房たちが、<ruby><rb>侍女</rb><rt>こしもと</rt></ruby>や女中をつれてこの桟敷に乗り込んだ時でありました。

桟敷の上には、同じく鳩と<ruby><rb>菱</rb><rt>ひし</rt></ruby>とを描いた<ruby><rb>幔幕</rb><rt>まんまく</rt></ruby>が絞ってある。その下の雛壇のようなところへ、<ruby><rb>平常</rb><rt>ふだん</rt></ruby>余り人中へ<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>を見せない奥方や女房や女中たちが、晴れの<ruby><rb>装</rb><rt>よそお</rt></ruby>いをして坐っていることは、場内のすべての人気をその方へ集めました。

そのうちに、競馬のはじまる時刻が近づいて、国内から<ruby><rb>選</rb><rt>え</rt></ruby>りすぐって<ruby><rb>厩</rb><rt>うまや</rt></ruby>につないである馬は、勇んで<ruby><rb>嘶</rb><rt>いなな</rt></ruby>きながら引き出されました。同じ国内から選び出された騎手は武者振いして、馬の平首を撫でながら、我こそという意気を<ruby><rb>眉宇</rb><rt>びう</rt></ruby>の間にかがやかしています。けれどもこうして、すべての桟敷も埋まり、見物も<ruby><rb>稲麻竹葦</rb><rt>とうまちくい</rt></ruby>の如く集まっているのに、今日の催しの主催者であるべき駒井能登守が見えないのに、なんとなく物足りない気持をしているものもありました。しかし、その心配は直ちに取払われてしまいました。

「御支配様」

という声のする東の口を見れば、そこから黒く<ruby><rb>逞</rb><rt>たくま</rt></ruby>しい馬に乗って馬丁に馬の口を取らせ、自分は陣笠をかぶって、筒袖の<ruby><rb>羅紗</rb><rt>らしゃ</rt></ruby>の羽織に<ruby><rb>緞子</rb><rt>どんす</rt></ruby>の馬乗袴をつけ、<ruby><rb>朱</rb><rt>あか</rt></ruby>い<ruby><rb>総</rb><rt>ふさ</rt></ruby>のついた<ruby><rb>勝軍藤</rb><rt>しまやなぎ</rt></ruby>の鞭をたずさえ、<ruby><rb>磨</rb><rt>と</rt></ruby>ぎ澄ました<ruby><rb>鐙</rb><rt>あぶみ</rt></ruby>を踏んで、静々と桟敷の方へ打たせて行くのは駒井能登守。

「好い男だなあ！」

と見物の者が感歎しました。それは<ruby><rb>弥次</rb><rt>やじ</rt></ruby>で言ったのではなく、ほんとに感心して、

「好い男だなあ！」

とどよめいたことほど、能登守の男ぶりは<ruby><rb>水際立</rb><rt>みずぎわだ</rt></ruby>った美男子でありました。それはまず<ruby><rb>大入場</rb><rt>おおいりば</rt></ruby>の連中を<ruby><rb>唸</rb><rt>うな</rt></ruby>らせたほかに、かの雛壇の連中をして、

「まあ、御支配様」

と言って<ruby><rb>恍惚</rb><rt>うっとり</rt></ruby>とさせてしまったことほど、能登守の男ぶりが<ruby><rb>立優</rb><rt>たちまさ</rt></ruby>って見えました。

こうして能登守は、先任の太田筑前守がいる桟敷の前まで来て馬から下りて、筑前守とおたがいの<ruby><rb>会釈</rb><rt>えしゃく</rt></ruby>があって席に着きました。

能登守の後ろには小姓が附いていないで、若党の一学が<ruby><rb>跪</rb><rt>かしこ</rt></ruby>まっていました。

能登守が着座しても、まだ競馬の始まるまでには時間があります。その間は、見物が見物を見ることによって興味がつながれてゆきました。

見物はそれぞれ勝手に上下の人の噂をし合います。

けれどもその噂の中心が、どうしても能登守に落ちて行くのは争うことはできません。

「ああ、<ruby><rb>美</rb><rt>い</rt></ruby>い男には生れたいものだなあ」

と思わず大きな声で歎息して笑われたものもありましたけれど、笑ったものもまた同じような思いで能登守の姿をながめていました。

雛壇の連中は、さすがに口に出してそれを言うものはなかったけれども、その眼が一人として能登守の後ろ姿を追わないものはありません。

さきには人気の焦点であったこの赤い雛壇が、能登守の姿を現わしたことによって、その人気を奪われてしまいました。場内の人気の焦点から暫く閑却されたのみならず、当の自分たちまでが、能登守の人気に引きずられてゆきました。

大入場では、あれはどなた様の奥方である、あれは誰様のお嬢様、あのお嬢様より<ruby><rb>侍女</rb><rt>こしもと</rt></ruby>の方が美しい、奥様のうちでは身分は少し軽いけれども、結局あの奥様がいちばんの<ruby><rb>別嬪</rb><rt>べっぴん</rt></ruby>だなどと、<ruby><rb>品評</rb><rt>しなさだめ</rt></ruby>をしていたのがこの時、

「それでいったい、あの駒井能登守様の奥方様はどこにおいでなさるのだ」

という問題が出て、一方は能登守の桟敷へ、それから一方はまた、一時閑却していた雛壇の方へ向いて、

「あの美しい殿様の奥方というお方の<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>が見てやりたい」

という物色にかかりましたけれど、不幸にしてそれは誰にも見当がつきませんでした。そこでまた議論が沸騰します。

あの殿様にはまだ奥方が無いのだという説が起りました。いいや、あのくらいの身分になって奥方が無いはずはないという説も出ました。それでは見たことがあるかという<ruby><rb>反駁</rb><rt>はんばく</rt></ruby>が出ました。見たことはないけれど……という受太刀があります。

けれども、そのいずれにしてもみんな想像説に過ぎません。弥次と喜多とが拾わぬ先の金争いをするようなことになってゆくことがおかしくあります。

ああいう美しい殿様の奥方はさぞ美しかろう、<ruby><rb>一対</rb><rt>いっつい</rt></ruby>の<ruby><rb>内裏雛</rb><rt>だいりびな</rt></ruby>のような……と言い出すものがあると、いやそうでない、ああいう殿様に限って、奥方が<ruby><rb>醜女</rb><rt>ぶおんな</rt></ruby>で<ruby><rb>嫉妬</rb><rt>やきもち</rt></ruby>が深くて、そのくせ、殿様の方で頭が上らなくて、女中へ手出しもならないように出来ている、よくしたものさと、なんだか一人で痛快がっているものもありました。

よけいなお世話ではないか――大入場では、先からこのよけいなお世話で沸騰していましたけれど、もともと影を追っての沸騰ですから、議論の結着しようがありません。

結局、三日のうちには、必ずその奥方が一度は姿を見せるであろうから、その時に鉄札か金札かを見届けようということで議論が定まりかけた時分に、裏庭で一発の花火が揚りました。それを合図に<ruby><rb>烏帽子</rb><rt>えぼし</rt></ruby><ruby><rb>直垂</rb><rt>ひたたれ</rt></ruby>の世話役が出て来ました。

例の雛壇のうちには、この日は、どちらかと言えば奥方連の方が多いのでありました。その奥方連も、若い奥方連がこの日は多く見えていました。その若い美しい奥方連の中に、太田筑前守の奥方ばかり四十を越した年配の、<ruby><rb>権</rb><rt>けん</rt></ruby>のありそうな婦人であります。

両支配の次の桟敷には、神尾主膳がその同役や組下の連中と共に、ほとんど水入らずで一つの桟敷を占領していました。

ここでは主膳が大将気取りで、座中には酒肴を置いて、主膳は真中に、いま<ruby><rb>刷物</rb><rt>すりもの</rt></ruby>の競馬の番組を見ていました。その他の連中は番組を見たり冗談を言ったり、対岸の桟敷と、場内に<ruby><rb>稲麻竹葦</rb><rt>とうまちくい</rt></ruby>と集まった群集をながめていたりして、競馬の始まるのを待っています。

そのうちに、人がどよめいたから、主膳はなにげなく番組の刷物を眼からはなして馬場の方を見ると、今、駒井能登守が前を通り過ぎたところです。

能登守の男ぶりが、場内の人気となって騒がれている時でありました。それを見ると神尾主膳は、何ともなしにグッと<ruby><rb>癪</rb><rt>しゃく</rt></ruby>にさわりました。それで<ruby><rb>険</rb><rt>けわ</rt></ruby>しい眼つきで能登守の後ろ姿と、それを見送る群集とを睨めました。

神尾主膳にとっては、駒井能登守というものの総てが癪に触るのであります。その第一が、自分の上席にあるということであります。能登守をいただいて、少なくとも自分がその次席にあるということが、主膳にとっては堪えられない残念でありました。事毎に能登守に楯を突こうというのも、そもそもそこから出ているのでありました。

その後は、見るもの聞くもの、すること為すことが、能登守とさえ言えば腹が立つ種であります。ことに、こんな晴れの場所において、能登守に主人面に振舞われることは、自らの存在を<ruby><rb>蔑</rb><rt>ないが</rt></ruby>しろにされたように侮辱を感じて、それが一層、憎悪に変ずるのであります。

<ruby><rb>己</rb><rt>おの</rt></ruby>れが威勢をこの際、多くの人に見せつけるがために、わざと桟敷の前をああして打たせて歩くのだなと思いました。どうかしてあの鼻先を<ruby><rb>挫</rb><rt>くじ</rt></ruby>いて、この際、思い入り恥辱を与えてやりたいものだと、番組を持つ手先がブルブルと慄えるほどに残念がりました。

主膳は自分が主人役になって酒肴を開かせました。一座はいずれも酒盃を手にしたが、やはり見物をながめては、いろいろの品評がはじまります。

ここに集まった人は、おおよそ何人ぐらいあるだろうという答案を<ruby><rb>募</rb><rt>つの</rt></ruby>るものもありました。その答案が三万と言ったり、五万と言ったり、また飛び離れて十万と言ったり、思い切って<ruby><rb>区々</rb><rt>まちまち</rt></ruby>であったところから、昔、信玄公が勝千代時分に、畳に二畳敷ばかりも<ruby><rb>蛤</rb><rt>はまぐり</rt></ruby>を積み上げて、さて<ruby><rb>家中</rb><rt>かちゅう</rt></ruby>の諸士に向い、この数は何程あらん当ててみよと、おのおの戦場<ruby><rb>場数</rb><rt>ばかず</rt></ruby>の功者に当てさせたところが、或いは二万と言い、或いは一万五千などと言った、その実、勝千代丸があらかじめ小姓の者に数えさせておいた数は三千七百しかなかった――そこで勝千代殿は、ああ、人数というものは多くはいらないものじゃ、五千の人数を持ちさえすれば何事でも出来るものだわいと言って、老功の勇士に舌を振わせたのは僅かに十三歳の時のことであった、後年名将となる人は異なったものだ、というような話も出ました。

けれどもまた一方において、対岸の桟敷の婦人連を遠目に見て、大入場の連中とほとんど選ぶところのないような品評を試むる者が多くありました。また桟敷以外にいる町民や農家の子女たちを物色して、かえって野の花に目のさめる者がいるなんぞと、興がるものもありました。上役の手前もあり、身分の<ruby><rb>嗜</rb><rt>たしな</rt></ruby>みもあったからこの席では、そんなに不謹慎なところまでは行きませんでしたけれども、追々に陽気になって行くのに、ひとり主人役の神尾主膳のみが、苦り切って、酒を飲むこと薬を飲むようにしているのは、いつもに<ruby><rb>似気</rb><rt>にげ</rt></ruby>なき様子であります。こうして当日の八幡社前へは、甲州一円のあらゆる階級の人が集まることになりました。

あとからあとからと蟻の<ruby><rb>這</rb><rt>は</rt></ruby>うように、馬場をめざして人の行列が続きます。この分ではとても<ruby><rb>落々</rb><rt>おちおち</rt></ruby>と<ruby><rb>流鏑馬</rb><rt>やぶさめ</rt></ruby>の見物は出来まいからと<ruby><rb>諦</rb><rt>あきら</rt></ruby>めて、竜王の花火の方へ<ruby><rb>河岸</rb><rt>かし</rt></ruby>を換えたのもあったから、竜王河原もまた<ruby><rb>夥</rb><rt>おびただ</rt></ruby>しい人出でありました。

これらのあらゆる種類の見物のうちに、まだ一つ閑却することのできない種類の<ruby><rb>見物</rb><rt>みもの</rt></ruby>があります――それは例の折助の一連でありました。

手の<ruby><rb>空</rb><rt>す</rt></ruby>いた折助連中はその<ruby><rb>倶楽部</rb><rt>くらぶ</rt></ruby>である八日市の酒場に陣取って、これから隊を成して馬場へ押し出そうというところであります。

一口に折助と言ってしまうけれども、団結した折助の勢力には<ruby><rb>侮</rb><rt>あなど</rt></ruby>り難いものがあるのであります。また彼等は渡り者であるだけに、みな相当の歴史を持っているのであります。<ruby><rb>食詰者</rb><rt>くいつめもの</rt></ruby>であるだけに、かなり道楽の経験のある者もあるのであります。また意外に学問の出来る者もあるのであります。これから馬場へ押し出そうとする折助連中の<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>ぶれを見ても、その折助として雑多な性格を見ることができるのであります。

そのなかには、貸本の筆耕をして<ruby><rb>飲代</rb><rt>のみしろ</rt></ruby>にありついているのもありました。四書五経の講義ができるぐらいのものもありました。

江戸で芝居という芝居を見つくしたと自慢するのもありました。<ruby><rb>寄席</rb><rt>よせ</rt></ruby>という寄席に通いつくしたと得意なのもありました。なかには<ruby><rb>淫売婦</rb><rt>じごく</rt></ruby>という淫売婦を買いつくしたと言って威張るのもありました。

そのほか、折助のうちには、なかなかの批評家もおりました、皮肉屋もおりました。今日のような時には、その連中はじっとしていられないのであります。またそれをじっとしておらせようなものならば、彼等は折助式の反抗と復讐をすることに、抜け目のあるものではありません。

それ故に、何かの催しのある時には、この折助に渡りをつけることを忘れてはなりません。今日の<ruby><rb>流鏑馬</rb><rt>やぶさめ</rt></ruby>は、官民合同とはいうようなものの官僚側の主催のようなものだから、そんなに折助に<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>るところはないのだけれど、それでも彼等のために、桟敷下のかなり見よいところを世話役が<ruby><rb>割</rb><rt>さ</rt></ruby>いてくれました。

酒樽と煮しめとをたくさんに仕込んで、八日市の酒場を繰出したこれらの折助の一隊何十人は、ほどなく馬場へ繰込んで、この桟敷下へ陣取りました。ここで彼等のうちの批評家と皮肉屋は何か見つけて、腹をえぐるような、胸の透くような文句を浴びせかけてやろうと待ちかねています。

<ruby><rb>生憎</rb><rt>あいにく</rt></ruby>のこと――世話役が少し気が利かなかった、この折助席の向うは、例の赤い雛壇の婦人席の桟敷でありました。その間はかなり隔たっていたけれども、少なくともそれと相対していることは、折助連の批評と皮肉のためによい<ruby><rb>標的</rb><rt>まと</rt></ruby>であって、その標的に置かれた善良なる婦人たちのためには、実に不幸なことでありました。

折助がこの席に着いた時分は、駒井能登守はもう着座していた後のことであって、折助は、桟敷下の<ruby><rb>蓆</rb><rt>むしろ</rt></ruby>の上へ<ruby><rb>胡坐</rb><rt>あぐら</rt></ruby>をかいて、<ruby><rb>人集</rb><rt>ひとだか</rt></ruby>りの模様には頓着なく、まず酒樽の酒を<ruby><rb>片口</rb><rt>かたくち</rt></ruby>へうつして、それを茶碗へさして廻り、そこから<ruby><rb>蒟蒻</rb><rt>こんにゃく</rt></ruby>や油揚や芋の煮しめの<ruby><rb>経木皮包</rb><rt>きょうぎがわづつみ</rt></ruby>を拡げ、<ruby><rb>冷</rb><rt>ひや</rt></ruby>でその酒を飲み廻し、煮しめを摘みながら、おもむろに桟敷から桟敷、見物から見物を見廻すのであります。

ところが、はじめて気がついたように、赤い雛壇のところで眼を据えてしまいました。何か言おうとして<ruby><rb>咽喉</rb><rt>のど</rt></ruby>をグビグビさせたけれど、幸いに、ちょうどその時に合図の花火が揚りました。

このほかに、まだ一つ大目に見なければならないものがありました。それは名物の<ruby><rb>博徒</rb><rt>ばくと</rt></ruby>――長脇差の群であって、こういう場合には、ほとんど大手を振って集まって来て、おのおのしかるべき格式によって、<ruby><rb>賭場</rb><rt>とば</rt></ruby>を立てるのが慣例でありました。

けれども、これは慣例に従って大目に見て、それぞれの親分なる者の権力を黙認しておきさえすれば、取締りにそんなに骨の折れることではありません。

この連中は別に流鏑馬を見たいわけではなし、また見物を見に来るのでもなく盆の上の勝負を争いに来るのだから一見してこの社会の者ということが知れるのであります。

ところがここに、なんとも見当のつかない二人の者がこの日、東山梨の方のどこかの山の中から出て、裏山伝いをドシドシ歩いて甲府の方へ出て行くのは、やはり流鏑馬をめあてに行くものと見なければなりません。

人に見えないところを歩いて行く間の二人の足は、驚くべき<ruby><rb>迅</rb><rt>はや</rt></ruby>さを持っていましたけれど、甲府へ近づいてからの二人の足どりは世間並みでありました。

二人とも笠を被って長い<ruby><rb>合羽</rb><rt>かっぱ</rt></ruby>を着て、脇差を一本ずつ差していました。先に立っている方が年配で、あとから行くのが若いようです。

「大へんな景気だな」

と言って立ちどまったところは<ruby><rb>要害山</rb><rt>ようがいやま</rt></ruby>の小高いところであります。ここから見下ろすと、馬場を取巻いた今日の景気を一眼に見ることができます。

「大当りだ」

と言って若い方が笠の紐を結び直しました。そうすると年配の方は、松の根方の石へ腰をかけて煙草を<ruby><rb>喫</rb><rt>の</rt></ruby>みはじめました。

若い方は別に煙草も喫みたがらず、腰もかけたがらずに、しきりに馬場の景気、桟敷の幔幕、真黒く波を打つ人出、八幡宮の<ruby><rb>旗幟</rb><rt>のぼり</rt></ruby>、小屋がけの<ruby><rb>蓆張</rb><rt>むしろばり</rt></ruby>などを、心持よかりそうにながめていました。

年配の方は七兵衛であって、若い方は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>の百蔵であります。どこにどうしていたのか、この二人は流鏑馬を当て込んで、また<ruby><rb>性</rb><rt>しょう</rt></ruby>も<ruby><rb>懲</rb><rt>こり</rt></ruby>もなく、この甲府へ入り込もうとするらしい。どのみちこの二人が当て込んで来るからには、ロクな目的があるわけではなかろうけれど、ドチラにしてもこの<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>で、甲府へ<ruby><rb>真昼間</rb><rt>まっぴるま</rt></ruby>乗り込もうとするのは、あまり図々しさが烈しいと言わなければならぬ。けれども二人としては、この機会に何かしてみなければ気が済まないのでありましょう。

ただこの機会に何かしてみたいという<ruby><rb>盗人根性</rb><rt>ぬすっとこんじょう</rt></ruby>が、二人をじっとさせておかないのみならず、まだこの甲府に何か仕事の仕残しがあればこそ、この機会を利用してその<ruby><rb>片</rb><rt>かた</rt></ruby>をつけてしまうために、協同して乗り込んで来たものと見れば見られないこともないのです。

だから、二人がこうして小高いところから、<ruby><rb>夥</rb><rt>おびただ</rt></ruby>しい人出を見下ろしている眼つき面つきにも、いつもよりはずっと緊張した色があって、乗るか<ruby><rb>反</rb><rt>そ</rt></ruby>るかの意気込みも見えないではありません。

二人が仕残した仕事といったところで、七兵衛は兵馬の消息を知りたいこと、それとお松とを取り出して安全の地に置きたいこと、その上で本望を遂げさせてやりたいこと、それら多少の善意を持った物好きがあるのだろうけれど、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>ときては、何をいたずらをやり出すのだか知れたものではありません。

二人がこの小高いところから下りて、人混みの中へ紛れ込んだのは、それから幾らも経たない後のことであります。

その日の競馬はそんなような景気でありました。その翌日の競馬はそれに<ruby><rb>弥増</rb><rt>いやま</rt></ruby>した景気でありました。

両日共に日は暮れるまで勝負が争われ、勝った者は馬も乗り手も揚々として村方へ帰り、負けた者は後日を期した意気込みを失いません。かくて第三日となりました。今日は最終の日で、そうして晴れの流鏑馬のある日でありました。それが士分の者によって行われようという日であります。

この日になって、雛壇の<ruby><rb>桟敷</rb><rt>さじき</rt></ruby>の二番目へ、前二日の日には<ruby><rb>曾</rb><rt>かつ</rt></ruby>て見かけなかった美しい女房が、老女と若い侍女をつれて姿を見せたことは、早くも初日以来の見物の眼に留まらないわけにゆきません。これを見つけた者は、早くもその噂をはじめました。

「あれだ、あれだ、あれがソレあれだよ」

この二日の日において、支配の太田筑前守の老女を初め、重立った人の奥方や女房や女中たちの面も大抵わかったし、その品評もほぼ定まったけれども、今日そこの桟敷に姿を現わした美しい人は、その例外でありました。前二日には全く姿を見せなかった人であるのみならず、その桟敷も一間を占めて、太田筑前守の夫人にもおさおさ劣らぬほどの格式で見物に来たものですから、疑問が大きくなりました。

「あれがそれ、駒井能登守様の奥方よ。どうだ、おれの言った通り<ruby><rb>素敵</rb><rt>すてき</rt></ruby>なものではないか、<ruby><rb>醜婦</rb><rt>ぶおんな</rt></ruby>で<ruby><rb>嫉妬</rb><rt>やきもち</rt></ruby>が深くて、うっかり女中にも手出しができないと言ったのは誰だ、ここへ出て来い」

例の見物席にこんなことを言い出すものがありました。

「なるほど」

それらの見物の眼は、<ruby><rb>一斉</rb><rt>いっせい</rt></ruby>にこの桟敷へ向います。

そう言われて見れば、それに違いないと思うもののみであります。奥方とはいうけれども、そこに<ruby><rb>処女</rb><rt>おとめ</rt></ruby>のような可憐なところが残っていました。その可憐な中には迷わしいような<ruby><rb>濃艶</rb><rt>のうえん</rt></ruby>な色香が萌え立っていました。人に遠慮して、わざと横を向いている<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>には<ruby><rb>初々</rb><rt>ういうい</rt></ruby>しい恥かしさがありました。一糸も乱れずに結い上げた片はずしの<ruby><rb>髷</rb><rt>まげ</rt></ruby>には、人の心に食い入るような油がありました。

これは大入場の観客の問題となったのみならず、士分の者や、町民の<ruby><rb>由緒</rb><rt>ゆいしょ</rt></ruby>と富裕とを持った者の桟敷に至るまでも、やはり注目の<ruby><rb>標的</rb><rt>まと</rt></ruby>となりました。

太田筑前守は、席を占めていたけれど、駒井能登守はまだ見えません。

神尾主膳は、それよりも先に例の一味の者を語らって、例の桟敷に詰めていましたが、やはり評判につれて、向い合ったこの桟敷に現われた美しい女房の姿を、目につけないわけにはゆきませんでした。

「なるほど」

主膳の左右にいる者の小声で<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>するところによれば、あれこそ、新支配の駒井能登守が、このごろ新たに手に入れた<ruby><rb>寵者</rb><rt>おもいもの</rt></ruby>ということであります。

「そうか」

神尾主膳は遠くから、皮肉のような<ruby><rb>好奇</rb><rt>ものずき</rt></ruby>のような眼をかがやかして、その美しい女房の現われた桟敷に<ruby><rb>篤</rb><rt>とく</rt></ruby>と目を注ぎました。

「あれが……」

と言って主膳は、その目を細くして、わざとらしい不審の色を浮ばせました。

そのわざとらしい不審の色が、<ruby><rb>険</rb><rt>けわ</rt></ruby>しい眼の中へ隠れて行く時に、ハタと膝を<ruby><rb>拍</rb><rt>う</rt></ruby>った神尾主膳はなぜか、

「はははは」

と、そんなに高くはなかったけれど、<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>の人を驚かすほどに笑いました。それは皮肉と陰険と、そのほかに、これらの人物によく現われる、得意と<ruby><rb>侮蔑</rb><rt>ぶべつ</rt></ruby>とを裏合せにしたような笑い方であります。

そのうちに太田筑前守の老夫人が、また前の日のように多くの女中を連れて、婦人席の第一の桟敷へ来ました。

第一の桟敷、第二の桟敷というけれども、それは長い一棟で、金屏風を以て仕切られてあるのみです。

老夫人の一座が、そこへ席を占めて後に、その召しつれた人々によって<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>かれたのは、第二番の桟敷の客のことでありました。

それらの婦人たちが、<ruby><rb>姦</rb><rt>かしま</rt></ruby>しく物を言い、或いはワザとらしく囁くのが、金屏風で隔てられた次の桟敷へはよく響くのであります。駒井と言い、能登守と言い、それから指を出したり手真似をしたりする模様まで、手にとるようにわかるのであります。

第二の桟敷に来て噂の種となっている美しい姿は、それは、お君の<ruby><rb>方</rb><rt>かた</rt></ruby>であったことは言うまでもないのであります。

お君の方はこの日、老若四人の婦人たちを連れて――というよりはその婦人たちにせがまれて、この席へ見物に見えたものであります。

お君はここへ見物に出ることをいやがりました。人中へ出るのが嫌いだと言って断わろうとしたのを、殿様が御主人役で晴れの催しであるこの<ruby><rb>流鏑馬</rb><rt>やぶさめ</rt></ruby>へ、一日もお<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>をお出しなさらなくては、殿様へ対しても失礼であろうし、自分たちも肩身が狭いから、ぜひぜひおいであそばせと言って、左右の女たちがせがみました。左右の女たちはそうしなければ、自分たちも出ることができないのであります。

それでぜひなく、お君の方はこうして桟敷の人となりました。桟敷の人となってみると、勢い評判の人とならずにはおりません。どうも多くの人の見る眼と、囁く口が、自分の方にばかり向いているように思われて、お君は、ここへ来てから度を失うようにオドオドしていました。

連れて来られた女中たちは、そんなことは知らずに大喜びで、馬場や、見物客や、<ruby><rb>打揚</rb><rt>うちあが</rt></ruby>る花火を見てそわそわとしていました。お君の眼では、馬場も、見物席も、晴れた空も、ボーッと霞のように見えました。暫らくして、

「御免あそばしませ」

第一番の桟敷から、女中の取締りでもしているような女房が一人、案内を乞う声によって、狼狽したのはお君の<ruby><rb>方</rb><rt>かた</rt></ruby>ばかりではありません、その召連れて来た女中たちまでが不意の案内で驚かされました。

「どなた様」

お君の方の老女は迎えに出ました。

「筑前守内より使に上りました」

「筑前守様のお内から？」

それでお君の<ruby><rb>方</rb><rt>かた</rt></ruby>の一座はハッとしました。

「これは、まことに粗末な品でござりますれど、能登守様のお<ruby><rb>内方</rb><rt>うちかた</rt></ruby>へ差上げ下さいまするよう、主人からの言いつけでござりまする」

使に来た女中が捧げているのは、<ruby><rb>蒔絵</rb><rt>まきえ</rt></ruby>の<ruby><rb>重</rb><rt>じゅう</rt></ruby>に酒を添えて来ているものらしくあります。

「それはそれは」

お君の方の一座は、恐縮したり当惑したりしてしまいました。

この際、こんなことをされては有難迷惑の至りで、もしそれをせねばならぬ礼式があるならば、こちらから先にするのが至当でありましょう。それを向うから持って来られてみると、好意を受けないわけにはゆかないし、またその好意なるものが、形式<ruby><rb>一遍</rb><rt>いっぺん</rt></ruby>の好意ではなくて、なんとなく底気味の悪い好意として見られ易いのです。

「こちらから御挨拶に出ねばなりませぬところを、<ruby><rb>斯様</rb><rt>かよう</rt></ruby>な結構な下され物、なんとお礼を申し上げましてよろしいやら……ともかく、有難く頂戴いたしまする、後刻、改めて御礼に……」

老女は<ruby><rb>詮方</rb><rt>せんかた</rt></ruby>なしにこう挨拶して、筑前守の奥方からの贈り物を受けました。

とにかく、こうして贈り物を受けてみると、その返しに苦心しないわけにはゆきません。こんな苦心はお君にとっても、女中たちにとってもいやな苦心であります。

仕方がなしに、使をワザワザ邸まで飛ばせて、筑前守の奥方から贈られたのと同じようなものを調えて、それを老女に持たせてやりました。

老女が帰って来ると、隣席ではヒソヒソと囁き合って、やがてドッと笑う声がしました。それがかなり意地悪いことにお君の方の胸に響きます。

それが済むと、やがて隣席から二度目の交渉がありました。前の女中がやって来ての口上には、おたがいにこうして窮屈に見物をするよりは、いっそ、この隔ての屏風を取払って、仲よくお附合いをしながら見物しようではないかとの交渉でありました。

こちらの老女は、これを聞いてまた当惑して、主人のお君の方の<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>を仰ぐと、お君の方もまた同じ思いでありました。

「せっかくではござりますれど、手前共はみんな<ruby><rb>無調法者</rb><rt>ぶちょうほうもの</rt></ruby>ばかり故、もし失礼がござりましては」

という意味で、老女は程よくその交渉を断わりました。

筑前守の奥方の方でもそれを押してとは言わないで、左様ならばと言ってひきさがりました。お君は、かさねがさねそれが不安でたまりません。隣席のすることはどうしても意地が悪い――もしその中に自分の<ruby><rb>素性</rb><rt>すじょう</rt></ruby>を知った者があっての上ですることではなかろうか。そうだとすれば自分がここにいる以上は、何かの形でその意地悪が続くに違いない。それもあるけれども、またこの多数の見物席の中には、自分をそれと感づいている者はないだろうか――姿と形こそ変っているけれども、この土地へ来て女軽業の一座で踊ったこともある。それを思うとお君は、座に堪えられないほどに不安に感ずるのであります。

こんなことなら来ない方がよかったのにと思いました。しかし来てみれば、いまさら帰るわけにはゆきません。自分が帰ると言い出せば、せっかく興に乗った連れの女中たちを失望させなければならないことを思えば、お君は、じっと針の<ruby><rb>莚</rb><rt>むしろ</rt></ruby>のようなこの席に辛抱しているよりほかはないのであります。

「お君様」

と名を呼んで訪れた者がありましたから、お君は頭を上げて見ると、それはお松でありましたから、

「お松様」

お君はここでお松を得たことを、百万の味方を得たほどに喜びました。

「お君様、ここで拝見させていただいてよろしうございますか」

「よいどころではございませぬ、さあさあこちらへ」

お松はお君のいるところへ訪ねて、一緒に見物をさせてもらいに来たのは、お君の<ruby><rb>方</rb><rt>かた</rt></ruby>にとってはかえって願ったり叶ったりの喜びでありました。お君は嬉しがって、お松に半座を分けて与えます。

お君の方について来た女中たちもまた、喜んでこのお客を<ruby><rb>待遇</rb><rt>もてな</rt></ruby>しました。前の筑前守の使の者とは打って変って、打解けた気持でこの若いお客を<ruby><rb>待遇</rb><rt>もてな</rt></ruby>すことができました。

お松もまた、ほかに席があったのだろうけれども、わざわざここをたずねて見物を同じにさせてもらいたいほど、ここへ来るのを喜んでいました。

お君と並ぶようにして席を取って、馬場の人出を見渡したお松は、桟敷の方に目を注いでいるうちに何かに驚かされて、ただならぬ色を現わし、

「お君様、この<ruby><rb>御簾</rb><rt>みす</rt></ruby>を少し下げようではありませんか」

<ruby><rb>総</rb><rt>ふさ</rt></ruby>で絞った幕の背後に御簾を高く捲き上げられてあったのを、お君は今まで気がつきませんでした。

ちょうどその時に、相図の花火が揚りました。今日はこれから、今までに見られなかった<ruby><rb>流鏑馬</rb><rt>やぶさめ</rt></ruby>がはじまるのであります。

花火の相図と共に、<ruby><rb>立烏帽子</rb><rt>たてえぼし</rt></ruby>に緑色の<ruby><rb>直垂</rb><rt>ひたたれ</rt></ruby>を着て、太刀を<ruby><rb>佩</rb><rt>は</rt></ruby>いた二人の世話係が東から出て来ました。西の方からは紅の直垂を着て、同じく太刀を佩いた二人の世話係が出て来ました。この四人の世話係が馬場の本と末とに並んだ時――<ruby><rb>馬見所</rb><rt>ばけんじょ</rt></ruby>も桟敷も大入場も一同に鳴りを静めました。

御簾を下ろそうとしたお松も思わずその手を控えて立ちながら、多くの人と共に馬場の東の方をながめます。

十六人の<ruby><rb>射手</rb><rt>いて</rt></ruby>が今そこから馬場の中へ乗り込む光景は、<ruby><rb>綾錦</rb><rt>あやにしき</rt></ruby>に花を散らしたような美しさであります。その十六人は、いずれも<ruby><rb>優</rb><rt>みや</rt></ruby>びたる<ruby><rb>鎧</rb><rt>よろい</rt></ruby><ruby><rb>直垂</rb><rt>ひたたれ</rt></ruby>を着ていました。それに花やかな<ruby><rb>弓小手</rb><rt>ゆごて</rt></ruby>、太刀を佩き短刀を差して頭に<ruby><rb>綾藺笠</rb><rt>あやいがさ</rt></ruby>、腰には夏毛の<ruby><rb>行縢</rb><rt>むかばき</rt></ruby>、背には<ruby><rb>逆顔</rb><rt>さかづら</rt></ruby>の<ruby><rb>箙</rb><rt>えびら</rt></ruby>、手には覚えの弓、太く<ruby><rb>逞</rb><rt>たくま</rt></ruby>しい馬を<ruby><rb>曳</rb><rt>ひ</rt></ruby>かせて、それに<ruby><rb>介添</rb><rt>かいぞえ</rt></ruby>を一人と弓持一人と的持を三人ずつ<ruby><rb>引具</rb><rt>ひきぐ</rt></ruby>して、<ruby><rb>徐々</rb><rt>しずしず</rt></ruby>と南の隅へ歩み出でたのであります。

「お松様、そうしてお置きあそばせ、御簾が無い方がよろしいではございませんか」

女中たちは、なまじい御簾を下ろされて、せっかくの<ruby><rb>観物</rb><rt>みもの</rt></ruby>を妨げられることを好みませんでした。お松もまた、せっかくの観物の始まるに先だって、こんなことをしたくないのであります。

「では、このままにして置きましょう」

と言って、御簾を卸すことをやめたけれども、心配は自分のことでなくて、お君の身の上にあるようでした。だから改めて坐り直す時に、わざと身を以てお君の前へ坐って隠すようにしながら、

「お君様、あれに、わたくしどもの主人が」

と言って、そっと前の桟敷を指して示しました。

「どのお方」

とお君がなにげなく、お松に指さされた方を見て、

「あ！」

と<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>の色を変えました。

その時に、ちょうど十六人の射手はこの桟敷の下を通りかかりました。お松は、お君が<ruby><rb>面色</rb><rt>かおいろ</rt></ruby>を変えたことを、それほどには気にしないで番組を借りて見ながら、

「第一番は、筑前守様の御家来で正木様。あのお方がそれでございましょう」

と番組と人とをお松は見比べながら、

「第二番は能登守様の御家来で小川様……」

と言って、番組と人とをまた引合せながら、

「お君様、あなたの殿様からおいでなされたお方は、まだ若いお方でございますね」

お松の蔭に隠れるようにしていたお君は、小さい声で、

「主人のお小姓でございます」

と言っている時に、その人は桟敷の下へ来て<ruby><rb>綾藺笠</rb><rt>あやいがさ</rt></ruby>を振りかたげて桟敷の上を見上げました。<ruby><rb>紫地錦</rb><rt>むらさきじにしき</rt></ruby>の<ruby><rb>直垂</rb><rt>ひたたれ</rt></ruby>を着て、<ruby><rb>綴</rb><rt>つづれ</rt></ruby>の錦に<ruby><rb>金立枠</rb><rt>きんたてわく</rt></ruby>の<ruby><rb>弓小手</rb><rt>ゆごて</rt></ruby>をつけて、<ruby><rb>白重籐</rb><rt>しろしげとう</rt></ruby>の弓を持っていましたが、今なにげなく振仰いで笠の中から見た面を、お松は早くも認めて、

「お君様」

「はい」

「あなた様のお家のお方は、薄化粧をしておいでになりました」

「ごらんになりまして？」

「確かに……」

「その通りでありまする」

お君とお松とは頷き合いました。その時にお松の心が<ruby><rb>遽</rb><rt>にわ</rt></ruby>かに勇みをなしました。

## 十四

古式に<ruby><rb>装</rb><rt>よそお</rt></ruby>うた花やかな十六騎が、南の隅に来てハタと歩みを止めた時に、<ruby><rb>馬場本</rb><rt>ばばもと</rt></ruby>に設けられた記録所から、赤の直垂をつけて太刀を<ruby><rb>佩</rb><rt>は</rt></ruby>き、立烏帽子に<ruby><rb>沓</rb><rt>くつ</rt></ruby>を穿いた侍が一人、<ruby><rb>徐々</rb><rt>しずしず</rt></ruby>と歩んで出て来ました。十六人は、その侍を迎えて進んで、近いところへ来て<ruby><rb>跪</rb><rt>ひざまず</rt></ruby>きました。立烏帽子の侍もまた膝を折って、

「早や<ruby><rb>流鏑馬</rb><rt>やぶさめ</rt></ruby>を始め候え」

というと、十六人が同時に、

「承りて候」

と言って一斉にその場をさがって、おのおの引かせた馬に<ruby><rb>跨</rb><rt>またが</rt></ruby>ります。

その時に、四十八人の的持はてわけをして北の方の的場へ<ruby><rb>颯</rb><rt>さっ</rt></ruby>と<ruby><rb>退</rb><rt>ひ</rt></ruby>きました。そこへ的を立てて、その下に<ruby><rb>衣紋</rb><rt>えもん</rt></ruby>を<ruby><rb>繕</rb><rt>つくろ</rt></ruby>うて坐ると、弓持は北の方の隅の幕へ弓を立てかけました。

<ruby><rb>射手</rb><rt>いて</rt></ruby>は順によって馬を進ませ、八幡社の方に一礼する。再び元へ戻って<ruby><rb>轡</rb><rt>くつわ</rt></ruby>を並べる。西の方で白扇を飜して合図があると、東の方で紅の扇をかざしてこれに<ruby><rb>応</rb><rt>こた</rt></ruby>える。用意がすでに整うと、第一番の射手が馬を乗り出しました。三たび馬を<ruby><rb>回</rb><rt>めぐ</rt></ruby>らした後、日の丸の扇を開いて、笠の端を三度繕い、馬を<ruby><rb>驀然</rb><rt>まっしぐら</rt></ruby>に<ruby><rb>騎</rb><rt>の</rt></ruby>り出しながら、その開いた扇を中天に<ruby><rb>抛</rb><rt>なげう</rt></ruby>つ。これは古式の通り<ruby><rb>捨鞭</rb><rt>すてむち</rt></ruby>の扇であります。

<ruby><rb>策</rb><rt>むち</rt></ruby>を揚げて馬を乗り飛ばし、矢声をかけて、弓を引き絞って放つと<ruby><rb>過</rb><rt>あやま</rt></ruby>たず、一の的、二の的、三の的を見事に砕いて、満場の賞讃の声を浴びて馬を返す。

第二番は――宇津木兵馬でありました。ここでは仮りの名を小川静馬と言い、綾藺笠を<ruby><rb>冠</rb><rt>かぶ</rt></ruby>って、面がよくわかりません。桟敷で女たちが見ていた通り、兵馬は薄化粧をしていましたようです。馬を乗り出すことから、捨鞭の扇を投げるまで、すべて小笠原の古式の通りでありました。

<ruby><rb>策</rb><rt>むち</rt></ruby>を揚げて弓を引き絞って、切って放した矢は過たず、一の的を打ち砕きました。二の的もまた同じこと、三の的も……瞬く間に打ち砕いて、これも盛んなる賞讃の声を浴びて馬を乗り返しました。

第三番は小森蓮蔵――これもまた<ruby><rb>手練</rb><rt>てだれ</rt></ruby>なもので、同じように三枚の的を打ち砕いてしまいました。そうして同じような賞讃を受けました。

こうして見れば、なんらの波瀾もありません。駒井家から出た者も、神尾から出した者も、一様に功を<ruby><rb>樹</rb><rt>た</rt></ruby>ててみれば、<ruby><rb>恨恋</rb><rt>うらみこい</rt></ruby>はない。

それから第四番以下は、第三番までとは段の違った射手でありました。三枚とも的を砕くのは甚だ稀れで、大抵は三本の矢のうち一本は<ruby><rb>射外</rb><rt>いはず</rt></ruby>すのであります。それで十六騎のうち、三枚の的を打ち砕いたものは都合五騎ありました。他の十一騎は二本だけ。でもみな相当の面目を損ずることなくして流鏑馬を終りました。

この十六番の射手が<ruby><rb>流鏑馬</rb><rt>やぶさめ</rt></ruby>を終って、馬を乗り鎮め、馬場を乗り廻して仮屋へ帰る勢揃いがまた見物となります。そのなかでも、どうしても評判に上り易いのは宇津木兵馬であります。

「あれは駒井能登守様のお<ruby><rb>小姓</rb><rt>こしょう</rt></ruby>じゃそうな。駒井の殿様は鉄砲の名人、それであのお小姓までが弓の上手」

兵馬はなるべく人に<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>を見られたくないので、笠で隠すようにしていました。

神尾主膳は過ぎ行く十六騎の射手を見送っていましたが、小森はそこへ来ると得意げに挨拶する。

主膳はそれに会釈しながら、その次に来る宇津木兵馬の<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>を、笠の下からよく覗いて見ようとします。

流鏑馬が済むと、他の射手は、まだ仮屋にいる間に宇津木兵馬だけは引離れてしまいました。兵馬は流鏑馬の時の<ruby><rb>綾藺笠</rb><rt>あやいがさ</rt></ruby>に<ruby><rb>行縢</rb><rt>むかばき</rt></ruby>で、同じ黒い<ruby><rb>逞</rb><rt>たくま</rt></ruby>しい馬に乗って、<ruby><rb>介添</rb><rt>かいぞえ</rt></ruby>や<ruby><rb>的持</rb><rt>まともち</rt></ruby>をひきつれて仮屋へ帰って、直ちに衣服を改めて編笠で面を隠して、大泉寺小路というのを、ひそかに廻って、やはり人に知れぬように能登守の屋敷へ帰るものと見えます。

兵馬が行くとそのあとを、二人の同心がつけて行きました。

流鏑馬が終って花火が盛んにあがりました。そろそろ帰りに向いた群集と、これから繰り出して来る連中とで、人出は容易に減退の色を見せません。

「お帰りだお帰りだ、奥様方のお帰りだ」

という声で、人波の<ruby><rb>揺返</rb><rt>ゆりかえ</rt></ruby>しがあります。

前の<ruby><rb>通路</rb><rt>とおりみち</rt></ruby>を、見事な女乗物を真中に盛装した女中たちが附添うて、その前後には侍や足軽たちが固めて、馬場の庭から、それぞれの邸へ帰るものらしい。

兵馬もまた、この人波の揺返しの中へ捲き込まれて、押されて行くよりほかはありません。押され押されて行くうちに、ついその女中たちの行列と押並んで歩かねばならないようになりました。この際、

「喧嘩だ！」

この声はよくない声であります。この場合にこんなよくない声の聞えるのは不祥なことであったけれども、この行列の練って帰らんとする行手で、

「喧嘩だ、喧嘩だ」

続けざまに聞えたので、スワと聞く人は顔の色を変えました。

<ruby><rb>噪</rb><rt>さわ</rt></ruby>ぎの起りはまさしく、前の露店と小屋掛けのあたりから起ったものに相違ないのであります。

「そーれ、喧嘩だ」

甲州の人間は、人気の荒いことを以て有名であります。今日の催しとても、単に流鏑馬の神事だけを以てこの景気を打留めにするのは物足りないと思っているところへ、

「喧嘩！」

この声は、無茶な群衆心理をこしらえ上げるのに充分な声でありました。

女乗物の行列の前後左右から<ruby><rb>鬨</rb><rt>とき</rt></ruby>の声が起りました。しかしこの鬨の声はまだ別段に危険性を帯びた鬨の声ではなく、ただ、喧嘩だ！　というまだ内容のわからない叫喚に応ずる、意義の不分明な合図に過ぎません。

しかし、この女乗物の行列には多分の附添もいるし、沿道の警戒も行届いているから、それに<ruby><rb>懸念</rb><rt>けねん</rt></ruby>はないけれども、前路に当ってその騒ぎのために一時、行列の進行がとまることはよくないことでありました。それがために混乱を大きくすると困ることになる。それだから<ruby><rb>駕籠側</rb><rt>かごわき</rt></ruby>の侍や足軽たちは、<ruby><rb>屹</rb><rt>きっ</rt></ruby>と用心して眼を八方に配ります。

「喧嘩だ、喧嘩だ」

前の方の騒ぎが大きくなるにつれて、後ろの方の弥次の声も大きくなりました。しかし、そのいずれも、この身分のある女房たちに危害を加えようとして起った叫喚でないことは確かであります。

今、とある小屋掛けの中から<ruby><rb>跳</rb><rt>おど</rt></ruby>り出した裸一貫の男がありました。

裸一貫といっても、腹には新しい<ruby><rb>晒</rb><rt>さらし</rt></ruby>を巻いていました。そうして<ruby><rb>裸体</rb><rt>はだか</rt></ruby>であるにも拘らず、<ruby><rb>脚絆</rb><rt>きゃはん</rt></ruby>と<ruby><rb>草鞋</rb><rt>わらじ</rt></ruby>だけは着けていました。その上に釣合わないことは、背中に<ruby><rb>青地錦</rb><rt>あおじにしき</rt></ruby>の袋に入れた長いものを廻して、その紐を口で<ruby><rb>啣</rb><rt>くわ</rt></ruby>えていました。

その小屋掛けから跳り出した時には、左の片手に短刀を<ruby><rb>揮</rb><rt>ふる</rt></ruby>って、右の片手はと見れば、それは二の腕の附根のあたりからスッポリと斬り落されて――いま斬り落されたわけではない、斬り落された腕のあとは<ruby><rb>疾</rb><rt>と</rt></ruby>うに<ruby><rb>癒</rb><rt>い</rt></ruby>え着いていましたが、

「どうでもしてみやがれ」

短刀を振り廻した左の手首にも血がついているし、面の<ruby><rb>眉間</rb><rt>みけん</rt></ruby>を少し避けたあたりにも血が<ruby><rb>滲</rb><rt>にじ</rt></ruby>んでいました。

「野郎、ふざけやがって……」

小屋掛けから一団の壮漢が、そのあとを追って飛び出しました。

それらの者を見ると、いずれも博徒であります。

喧嘩！　というのはこれであった。つまり博徒の喧嘩なのであった。<ruby><rb>賭場荒</rb><rt>とばあら</rt></ruby>しを取って押えて<ruby><rb>簀巻</rb><rt>すまき</rt></ruby>にしようとするものらしい。

この<ruby><rb>煽</rb><rt>あお</rt></ruby>りを食って宇津木兵馬も、人波の中に揉まれていなければならなくなったし、奥方様という女乗物の一行が、まともにそれと<ruby><rb>打突</rb><rt>ぶっつ</rt></ruby>かったのは気の毒でもあり、慮外千万な出来事でもありました。

「無礼者、控えろ」

お供先の足軽や侍が駈けつけました。

「どうでもしてみやがれ」

短刀を<ruby><rb>揮</rb><rt>ふる</rt></ruby>った裸一貫の男は、<ruby><rb>敢</rb><rt>あえ</rt></ruby>て警固の足軽や侍を<ruby><rb>畏</rb><rt>おそ</rt></ruby>れようとはしません。

「控えろ！」

棒を持ったのが、追っかけて来る博徒を<ruby><rb>遮</rb><rt>さえぎ</rt></ruby>りましたけれども、博徒連中は、そんなものが眼に留まらぬくらいに気が立っていました。

「野郎、ふざけやがって……」

「無礼者、控えろ」

ここでお供先の足軽や侍は、博徒連を取押えるために、彼等を相手に格闘せねばならなくなりました。

「喧嘩だ、喧嘩だ」

と群衆は、いよいよ沸き立たないわけにはゆきません。

短刀を左の手で揮った裸の男は、右の手が無いにも拘らず、その<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>のこなしの敏捷なことは驚くべしであります。取押えようとする同心や足軽の手先の棒先を<ruby><rb>潜</rb><rt>くぐ</rt></ruby>り廻って、あちらへ抜け、こちらへ抜ける早業が、充分に喧嘩と人騒がせに慣れきっているものの振舞です。

女乗物を囲んでいる女中たちは泣き出しそうです。

宇津木兵馬のあとを追うていた二人の同心は、この騒ぎでも兵馬を見捨てて、その騒ぎの方へ出向くことを<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ちゅうちょ</rt></ruby>しました。

「左様、それでは」

一人が一人の耳に口をつけて<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>くと、囁いた方が人を分けて前へ進み出し、囁かれた方は、もとのままに兵馬を監視しているらしい。

この時は、すべての催しが済んで花火が盛んに揚りました。崩れ立った人の足、帰りに向く人も、出かけて来た人も、そこで食い留められ、吸い寄せられて、押す、踏む、倒れる、泣く、叫ぶ、喧嘩ならぬところに喧嘩以上の動揺の起ることは<ruby><rb>免</rb><rt>まぬが</rt></ruby>れないのであります。

喧嘩の起りはたった一人の<ruby><rb>仕業</rb><rt>しわざ</rt></ruby>らしいが、その及ぼすところが怖ろしいと、心あるものはそれを憂えていました。

ここで青地錦の袋へ入れた刀を口に<ruby><rb>啣</rb><rt>くわ</rt></ruby>えて、<ruby><rb>裸体</rb><rt>はだか</rt></ruby>で荒れ狂っている片腕の男が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>の百蔵であることは申すまでもありません。

百蔵一人がエライわけではないけれど、百蔵一人のために大混乱を引起して、その大混乱が<ruby><rb>阿鼻叫喚</rb><rt>あびきょうかん</rt></ruby>の世界に変ろうとする時でありました。肝腎の百蔵はいつのまにか、群衆の頭を踏み越えて、<ruby><rb>蓆張</rb><rt>むしろば</rt></ruby>りの見世物小屋の丸太を伝って屋根から屋根を逃げて行きます。

「野郎、逃がすな」

それと見た博徒や<ruby><rb>破落戸</rb><rt>ならずもの</rt></ruby>の連中は同じように丸太を足場にして、見世物小屋へ<ruby><rb>這</rb><rt>は</rt></ruby>い上って追っかけました。

それで下の騒ぎが上へうつったのと、役人たちの取鎮めとが効を奏して、下の方の動揺は鎮まりましたけれども、下の動揺が上へ登った時に、かえってことを一層の<ruby><rb>見物</rb><rt>みもの</rt></ruby>にしてしまいました。

それは今までこのことの騒ぎが、いったい何に原因するのだかわからずに騒いでいた連中が、仰いで見れば、ともかくもその<ruby><rb>成行</rb><rt>なりゆき</rt></ruby>が見られるようになったからであります。それですから、ことを怖がる女乗物の連中などのほかは、一人もこの場を立去るものがありません。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>は<ruby><rb>血塗</rb><rt>ちまみ</rt></ruby>れになって、丸太から丸太、<ruby><rb>蓆</rb><rt>むしろ</rt></ruby>から蓆を伝って<ruby><rb>猿</rb><rt>ましら</rt></ruby>のように走って行きます。それが見えたり隠れたり、眼もあやに走ると、そのあとを同じように<ruby><rb>裸体</rb><rt>はだか</rt></ruby>になった荒くれ男が、

「野郎、逃がすな」

と<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>って、何人となく蛙のように飛びついて行くのですから、その原因と人柄はよくわからないながら、確かに面白い<ruby><rb>見物</rb><rt>みもの</rt></ruby>であることに相違ありません。

この時分に、短刀を投げ捨ててしまっていた<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>は、それでも青地錦だけは口に<ruby><rb>啣</rb><rt>くわ</rt></ruby>えて放すことではありませんでした。

小屋から小屋を飛んで歩いた<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>は、いつのまにか馬場の桟敷の屋根へ飛び移っていました。

「それ、野郎が桟敷の屋根へ飛んだ」

蛙のような<ruby><rb>裸虫</rb><rt>はだかむし</rt></ruby>が、桟敷の屋根、桟敷の屋根と言いながら飛びついたけれども、これらの裸虫は、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>のやったように手際よく、小屋掛けから桟敷の屋根まで飛びうつることができません。

彼等は一旦、小屋の尽きたところで飛び下りて、<ruby><rb>搦手</rb><rt>からめて</rt></ruby>から、この桟敷の屋根へのぼり始めました。

「エッサ、エッサ」

桟敷の柱と屋根とは、みるみる裸虫で鈴なりになってしまいました。

桟敷の屋根の上をツーと走った<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>の百蔵は、正面の<ruby><rb>馬見所</rb><rt>ばけんじょ</rt></ruby>の方へと逃げて行きます。ここは太田筑前守と駒井能登守の両席のあったところで、他の桟敷はここを正面として、長く左右の花道のようになっていました。それですから、ツマリ両花道から追い込んだ捕物を、本舞台で立廻りを見せて、捉まえるか逃がすかという場合にまで展開されてしまったわけです。

この望外の見物をどうして見残して帰れるものか。流鏑馬の競技があまり上品に取り行われて、期待したほどの興味を<ruby><rb>齎</rb><rt>もたら</rt></ruby>さなかったのを飽かず思っていた大向うは、これで充分に<ruby><rb>溜飲</rb><rt>りゅういん</rt></ruby>を下げようとするのであります。

沈んだ日暮とはいうものの、<ruby><rb>白根</rb><rt>しらね</rt></ruby>の方へ夕陽の光がひときわ赤く夕焼をこしらえて、この桟敷の屋根へ<ruby><rb>金箭</rb><rt>きんせん</rt></ruby>を射るようにさしかけていましたから、下の広場から見物するにはまだ充分の光でありました。ことに夕暮の色は、この活劇の<ruby><rb>書割</rb><rt>かきわり</rt></ruby>を一層濃いものにしたから、白昼に見るよりは凄い舞台面をこしらえて、登場の裸虫どものエッサエッサと言う声も、物凄いやら、勇ましいやら。

これから屋敷へ帰ろうとした神尾主膳もまた、この騒ぎを見物しないわけにはゆきません。主膳はその一類の者と共に馬場の下から、桟敷の上の舞台面を見上げているうちに、何に気がついたか、<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>を<ruby><rb>顰</rb><rt>しか</rt></ruby>めて<ruby><rb>慌</rb><rt>あわただ</rt></ruby>しく左右を顧み、

「小森殿、小森殿」

と呼びました。

エッサエッサという裸虫は両方から取詰めて、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>の百蔵は、正面をきって彼等を待ち受けるよりほかは身動きのならぬ立場に至ってしまいました。右の方は八幡宮の屋根までは距離が遠いし、前は馬場、後ろは控えの小屋、どちらへ向いても人が充満しきっています。

「野郎」

<ruby><rb>裸虫</rb><rt>はだかむし</rt></ruby>が一匹、飛びつきました。

「何をしやがる」

と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>は左の拳を固めて、眼と鼻の間を突くと、裸虫が仰向けに桟敷の上から突き落されました。

「この野郎」

つづいて飛びかかる裸虫、<ruby><rb>般若</rb><rt>はんにゃ</rt></ruby>の<ruby><rb>面</rb><rt>めん</rt></ruby>を背中に<ruby><rb>彫</rb><rt>ほ</rt></ruby>りかけてある裸虫。

「<ruby><rb>手前</rb><rt>てめえ</rt></ruby>もか」

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>は平手でピシャリと<ruby><rb>横面</rb><rt>よこづら</rt></ruby>を<ruby><rb>撲</rb><rt>なぐ</rt></ruby>っておいて、足を飛ばして腹のところを蹴ると、これも<ruby><rb>真逆</rb><rt>まっさか</rt></ruby>さまに転げ落ちる。

「野郎」

第三の裸虫。

「ふざけやがるな」

第四の裸虫。

「この野郎」

第五の裸虫。

「野郎、野郎」

第六の裸虫とそれ以下の裸虫。

屋根の上の裸虫は、おたがいにとって勝手でもあり不勝手でもありました。<ruby><rb>捉</rb><rt>つか</rt></ruby>まえどころのないことは、敵にとって利益であれば、味方にとっても同じく利益であるように、味方にとって不利益な時は、敵にとっても不利益であります。

ことに、片腕の無い<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>の百は、片腕が無いだけ、それだけ捉まえどころが少ないわけであります。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>の立場から言えば、取組ませては万事休するのですから、その敏捷な身体のこなしと、自由自在な一本の腕を以て、敵に組ませないうちに突き落してしまうに限るのであって、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>はよくその策戦に成功しました。

青地錦に包んだ長い物だけは、抜く暇がなかったか抜かない方が勝手であったのか、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>の百は、その紐を口に<ruby><rb>啣</rb><rt>くわ</rt></ruby>えたままで、それを以て自分を守ろうとしないで、身を以てその袋を守ろうとするもののように見えます。

寄せて来た裸虫も、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>を取って押える目的と、一つにはその青地錦を<ruby><rb>引奪</rb><rt>ひったく</rt></ruby>ろうとする目的と二つがあるように見えました。その二つはいずれも成功しないで、大の裸虫が、ズドンバタンと高いところから突き落されたり、尻餅を<ruby><rb>搗</rb><rt>つ</rt></ruby>いてそのままウォーターシュートをするように下へ<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>り落ちてギャッと言うものもありました。

もどかしがってこの屋根の上の組んずほぐれつの活劇を見ていた神尾主膳の許へ、小森蓮蔵が弓矢を携えてやって来ました。

小森は流鏑馬の時の姿ではなく、羽織は着ないで袴だけつけて、やはり<ruby><rb>白重籐</rb><rt>しろしげとう</rt></ruby>の弓に中黒の矢二筋を添えてやって来ました。

小森を迎えに行った侍がそのあとから、二十四差した<ruby><rb>箙</rb><rt>えびら</rt></ruby>を持ってついて来ました。

「小森殿、早う」

と神尾主膳が招きました。

「何事でござる」

「小森殿、大儀ながら、あの悪者を仕留めてもらいたい」

神尾に言われて、屋根の上の騒ぎを見ていた小森の眼には、やや迷惑の色がかかりました。

「いったい、あれは何事でござる」

「あの中での悪者は、あれあの袋に包んだ太刀を持っているその片腕の無い奴がそれじゃ、察するにあの太刀を奪い取って逃げようとするのを、大勢に追いつめられて、逃げ場を失ったものと見ゆる。しかし、片腕ながら、大勢を相手にひるまぬところは<ruby><rb>面憎</rb><rt>つらにく</rt></ruby>き奴、ここから遠矢にかけて射て落し、大勢の難儀を救うてやりたいものじゃ」

「<ruby><rb>確</rb><rt>しか</rt></ruby>と左様でござるか、あの真中に立ちはだかった一人が、確かに悪者でござりまするかな」

小森は念を押しました。

「確と左様、あの悪者を射て落せば事は落着する、万一、このままで同類が加勢すると容易ならぬ騒動になる」

「しからば仰せに従い、あれを一矢<ruby><rb>仕</rb><rt>つかまつ</rt></ruby>ろう。しかし神尾殿、あの通り組んずほぐれつの中では<ruby><rb>覘</rb><rt>ねら</rt></ruby>いは<ruby><rb>至極</rb><rt>しごく</rt></ruby>困難致す、足を傷つけて下へ落し、命は助けておきたいと存ずるが、<ruby><rb>一図</rb><rt>いちず</rt></ruby>にそうもなり兼ねる、万一、一矢であの者の息の根を止めても後日の難儀はござるまいか」

「それは念には及び申さぬ、なまじ<ruby><rb>斟酌</rb><rt>しんしゃく</rt></ruby>して射損ずるよりは、いささかも遠慮せず一矢に射落し候え」

「しからば、仰せの通りに仕る」

「命があってはかえって後日の面倒、ものの見事に<ruby><rb>射殺</rb><rt>いころ</rt></ruby>して苦しうない、あとの責めは拙者が引受ける」

「しからば」

小森蓮蔵は片肌を脱いで、<ruby><rb>白重籐</rb><rt>しろしげとう</rt></ruby>の弓に中黒の矢を<ruby><rb>番</rb><rt>つが</rt></ruby>えました。

「卑怯だ、卑怯だ」

という声がこの時、周囲の群集の中の誰からともなく起って、

「まだどっちがどうなんだかわからねえんだ、それを無暗に遠矢にかけるのは卑怯だ、もうちっとばかり待てやい、これからの立廻りが面白いんだ」

やはり誰ともなく叫ぶ声であります。それには頓着なく小森蓮蔵は、弓をキリキリと満月のように引き絞って覘いをつけた的は、屋根の上の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>の百であります。

小森は弓を満月の如く引き絞りましたけれども、組んずほぐれつの間に、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>だけへ矢先を向けることがむずかしい。ほかのやつらへは怪我をさせないで、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>一人を射て落そうとするために、覘いに時間を要するらしい。

その間に、見物はようやく不穏の色を以て、小森の<ruby><rb>弓勢</rb><rt>ゆんぜい</rt></ruby>を眺めるようになりました。

「なにも、ああやって、飛道具を用いるまでのことはなかろうじゃねえか、悪い者なら行って<ruby><rb>引括</rb><rt>ひっくく</rt></ruby>って来るがよかろうじゃねえか、役人が手を<ruby><rb>下</rb><rt>くだ</rt></ruby>すまでのことがなけりゃあ、あいつらに任せておいたらよかりそうなものじゃねえか、何が何だかわからねえうちに<ruby><rb>射殺</rb><rt>いころ</rt></ruby>してしまおうというのは、あんまり乱暴だろうじゃねえか、第一、今日は八幡様へ流鏑馬の奉納、その日に神様の前で血を流すというのは不吉だろうじゃねえか、野郎どもは裸体で喧嘩をしているのに、それを弓矢であしらうというのは卑怯だろうじゃねえか」というような考えが誰の胸にもいっぱいになったから、それで穏かならぬ色を以て、神尾一派の者と小森の矢先とを眺めました。

「よせやい、よせよせ、弓なんぞよしやがれ」

と遠くから罵るものもありました。

「<ruby><rb>撲</rb><rt>なぐ</rt></ruby>れ撲れ」

という者もありました。

見物は、もとより、屋根の上の騒ぎが何に原因して起り、ドチラが善いのか悪いのかわかってはいないけれども、それを遠矢にかけようという大人げない武士たちのやり方には、満足することができないのであります。そこで人気は険悪になって<ruby><rb>罵詈悪口</rb><rt>ばりあっこう</rt></ruby>が湧いて出ました。しかしまだ石を降らしたり、土を投げたりするところまでは行きませんでしたけれども、小森の<ruby><rb>覘</rb><rt>ねら</rt></ruby>いが容易に定まらないのを痛快がって<ruby><rb>囃</rb><rt>はや</rt></ruby>し立てました。

神尾主膳らは、いっかな屈せず、凄い目をして、ややもすれば暴動をしそうな、左右の群集を睨めていました。ともかくもその威勢で群集は<ruby><rb>圧</rb><rt>おさ</rt></ruby>えられています。

正面の馬見所の大屋根の上では、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>が一人舞台で、大勢を相手に立廻っていることは前の通りであります。組ませないで突くという策戦がよく成功して、大勢の命知らずを<ruby><rb>萎</rb><rt>ひる</rt></ruby>ませていることも前の通りであります。そのうちに、大勢の命知らずが左右へ散って、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>の身体が一つ、真中へちょうどよい<ruby><rb>塩梅</rb><rt>あんばい</rt></ruby>に離れた時分をみすまして、この時とばかり、満々と張った弓を切って放そうとした途端、どう間違ったのか知らないが、さしも手練の小森の矢先が、竹トンボのように狂ってクルクル廻って、右の上の桟敷に張りめぐらした<ruby><rb>幔幕</rb><rt>まんまく</rt></ruby>の上へポーンと当って、<ruby><rb>雨垂</rb><rt>あまだれ</rt></ruby>のように下へ落ちてしまいました。

これはと驚く小森の手に、持った弓の<ruby><rb>弦</rb><rt>つる</rt></ruby>が切れていました。

「無礼者」

小森は弦の切れた弓を抛り出して、刀を抜打ちにすると、

「<ruby><rb>態</rb><rt>ざま</rt></ruby>あ見やがれ」

抜打ちにした小森の<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>をめがけて、一挺の<ruby><rb>花鋏</rb><rt>はなばさみ</rt></ruby>を投げつけた<ruby><rb>旅人風体</rb><rt>りょじんてい</rt></ruby>の男。笠を冠って合羽を着て<ruby><rb>草鞋</rb><rt>わらじ</rt></ruby>に脚絆なのが、桟敷の下を<ruby><rb>潜</rb><rt>もぐ</rt></ruby>って身を隠したその<ruby><rb>素早</rb><rt>すばや</rt></ruby>いこと。

それよりも早いのは、いま桟敷の下へ潜ったかと思うと、もうその裏から同じ男の姿が桟敷の屋根の上に現われたことでありました。

「あれよあれよ」

といううちに、その男は平地を飛ぶように桟敷の屋根の上を飛んで、正面大屋根の<ruby><rb>修羅場</rb><rt>しゅらば</rt></ruby>へ駈けつけるのであります。

弦を切って投げつけた<ruby><rb>花鋏</rb><rt>はなばさみ</rt></ruby>だけは受けとめたけれども、小森は歯噛みをして、空しくその敏捷な男の走るのを見送るだけでありました。

小森は歯噛みをしたけれど、見物は一度にドッと<ruby><rb>喝采</rb><rt>かっさい</rt></ruby>しました。喝采して、

「<ruby><rb>態</rb><rt>ざま</rt></ruby>あ見やがれ！」

と怒鳴った時は、小森の矢が幔幕へ当ってダラリと落ちた時でありました。彼等はその大人げない侍が、<ruby><rb>見</rb><rt>み</rt></ruby>ん<ruby><rb>事</rb><rt>ごと</rt></ruby>、矢を射損じたと見たからそれで、

「態あ見やがれ！」

と喝采したのであります。そこに別の人が潜り込んでいて、花鋏でいま張り切った<ruby><rb>弓弦</rb><rt>ゆんづる</rt></ruby>をチョキンと切ってしまって、態あ見やがれと叫んで、花鋏を投げつけて、桟敷の下へ潜って行ったというような細かい働きは、彼等には認めることができませんでした。

彼等が認めることのできなかったのは無理もないことで、すぐその傍にいた神尾主膳をはじめ数多かりし侍たちまでが、小森の飛んでもない失策が何によったかを知ることができないで、<ruby><rb>呆気</rb><rt>あっけ</rt></ruby>に取られるばかりでありました。

さすがに小森だけはそれを知って、直ちに弓を捨てて刀を抜きましたけれど、花鋏を受け留めただけで、当の敵にはサッパリ手答えがありません。

<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>る群集も、驚く侍たちも、歯噛みをする小森も、一斉に屋根の上を見上げた時に、前の通り屋根の上を、平地を駈けるが如く飛んで行く<ruby><rb>旅人体</rb><rt>りょじんてい</rt></ruby>の男を見るのみであります。

その時は、もう<ruby><rb>小柄</rb><rt>こづか</rt></ruby>を投げても及ばない時で、もちろん弓の弦をかけ直したり、替弓を取寄せたりする余裕はありませんでした。

「この鋏で、これこの通り。憎い奴だ」

小森は落ちた花鋏を拾い上げて、神尾に示し、人混みの中に紛れ込んでいた奴が、不意にこれで張り切った<ruby><rb>弓弦</rb><rt>ゆんづる</rt></ruby>を後ろから切ったということを、言葉と挙動とで<ruby><rb>忙</rb><rt>いそが</rt></ruby>わしく説明しました。

「実に言語道断の<ruby><rb>敏捷</rb><rt>すばしこ</rt></ruby>い奴じゃ、<ruby><rb>掏摸</rb><rt>すり</rt></ruby>どもの仲間に相違あるまい、あれあの通り」

屋根の上の旅人体の男を小森は空しく指して、無念の<ruby><rb>形相</rb><rt>ぎょうそう</rt></ruby>を示すのであります。

それで侍たちは<ruby><rb>合点</rb><rt>がてん</rt></ruby>がいったものの、群集はそんなことはわからないで、屋根の上の裸虫のところへ、新たに旅人体の笠に合羽の男が一枚駈けつけるから、それは敵か味方かと<ruby><rb>片唾</rb><rt>かたず</rt></ruby>を飲んでいるまもなく、大屋根まで駈けつけた右の男は、いきなり群がる裸虫を片端から突き落しはじめました。

「それそれ、面白いぞ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">手んぼう</span>の方へ加勢が出た」

その加勢は幸いに<ruby><rb>無勢</rb><rt>ぶぜい</rt></ruby>の方へ出たのだから、見物を嬉しがらせました。一人でさえ、かなりの振舞をしているところへ、また一人、同じように身の軽いのが飛び出したから、見物は大喜びでありました。

しかし、二人になってみると、もう大向うを喜ばせるような<ruby><rb>派手</rb><rt>はで</rt></ruby>な芸がしていられなくなったものか、無茶苦茶に裸虫を突き落すように見せて、不意に屋根のうしろへ隠れてしまいました。

「それ飛んだ飛んだ、屋根から飛び下りたぞ」

という声が桟敷の裏の方から起りました。なるほど、表から見て屋根のうしろへ隠れたと見た時は、二人は相ついで高いところから僅かの地面へ軽く飛び下りてしまっています。

「そうれ、逃がすな」

裸虫どもは続いて飛び下りる、取巻いていた群集は道を開く。

「こうなりゃこっちのものだ、芋虫ども、ならば手柄に<ruby><rb>追蒐</rb><rt>おっか</rt></ruby>けてみやがれ」

群集がパッと散って開いてくれた道を、笠に合羽の旅人体と、裸体に脚絆の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>とが<ruby><rb>疾風</rb><rt>はやて</rt></ruby>の如く駈け抜ける足の早いこと。

二人は街道、人家、畑の中を区別なく北を指して駈けて行く。それを追蒐ける裸虫も弥次馬も、要するに二人の逃げて行く逃げっぷりに比べると、芋虫のようなものです。

## 十五

その夕べ、能登守の邸から、能登守の<ruby><rb>定紋</rb><rt>じょうもん</rt></ruby>をつけた<ruby><rb>提灯</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>と、お供揃いとがあって、一挺の乗物が出ました。主人の殿様が公用でどちらへかおいでになるのだろうと、門番の人はみんなそう思っていました。

けれども、この乗物はお役宅へも行かず、御城内へも入らず、お代官のお陣屋へでもおいでになるのかと思えばそうでもありません。長禅寺まで来てこの一行が止まったから、さては何か不意の御用があって、このお寺へ御参詣のことと思われました。長禅寺は甲州では<ruby><rb>恵林寺</rb><rt>えりんじ</rt></ruby>に次ぐの<ruby><rb>関山派</rb><rt>かんざんは</rt></ruby>の大寺であります。ここに能登守が訪ねて来ることは不思議とするに足りないことであります。

方丈と暫らく対談があったらしく、やがて乗物とお供とがここから帰って行く時分に、その裏山の<ruby><rb>宵闇</rb><rt>よいやみ</rt></ruby>に紛れて行く宇津木兵馬の姿を見ることができました。

さては、能登守の乗物で来たのは本人の能登守ではなくて、この宇津木兵馬であったろうと思われる。

長禅寺の裏山の林の中を潜って、とある木蔭に腰をかけた兵馬は、そこで息を<ruby><rb>吐</rb><rt>つ</rt></ruby>いて甲府の町の中を見下ろしました。

甲府へ来てから兵馬はいろいろの目に遭いました。僅かの行違いから、永久に日の目を見ることができないことになるところでした。ともかくもこうして<ruby><rb>脱</rb><rt>ぬ</rt></ruby>け出ることのできる身の上になったことは喜ぶべきことでしょう。

これから兵馬の落ちて行こうとする<ruby><rb>目的</rb><rt>めあて</rt></ruby>は、長禅寺を脱けて道もなき裏山伝いを、ひとまず甲斐の恵林寺へと行くのであります。

甲府で世話になったいろいろの人に<ruby><rb>名残</rb><rt>なごり</rt></ruby>もあるけれども、長い間めざす敵の机竜之助が、まだたしかにこの市中のいずれかに<ruby><rb>潜</rb><rt>ひそ</rt></ruby>んでいるだろうという心残りが一層、兵馬をして甲府をこのまま見捨て難いものにするのでした。

けれども、これは永久に甲府を去るの<ruby><rb>門出</rb><rt>かどで</rt></ruby>ではない、自分は能登守に教えられた通り、これより程遠からぬ<ruby><rb>松里</rb><rt>まつさと</rt></ruby>村の恵林寺へ落ちて、暫らくそこに<ruby><rb>隠匿</rb><rt>かくま</rt></ruby>ってもらうのである。その間に、心してたえず甲府の動静をうかがうことができると思えば、その名残はさほど切ないものではありません。

兵馬はその目的で、松の林の中の闇に紛れて、道なき山道を進んで行きました。

前の日に七兵衛や<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんりき</span>が通って来たと同じ道、そこで馬場を見下ろした要害山の後ろから、<ruby><rb>帯名</rb><rt>おびな</rt></ruby>と<ruby><rb>棚山</rb><rt>たなやま</rt></ruby>との間を越える甲府からの裏道に沿うて、しかし、それもなるべく路を通らないつもりで、山を分けて行くと、前を提灯が三つばかり行くのを見ました。

その提灯の通るところは、西山梨から東山梨へ出る間道であります。大方、こっちの方から今日の<ruby><rb>流鏑馬</rb><rt>やぶさめ</rt></ruby>を見に来た土地の人が、夜になって大勢して通るのだろう。その人たちに見つけられたくもなし、その人たちも自分の姿を見たら驚くかも知れないから、やり過ごしてしまおうと兵馬は、またも暫らく木の蔭にかくれて、その提灯の通り過ぐるのを待っていました。

ほどなく自分の隠れている眼の前へ来た提灯は、初めに兵馬が見つけた時も、ただ提灯だけで人声がしませんでしたけれど、いま眼の前を通り過ぎる時も、やはり話の声がしないで甚だ静かなものであります。

淋しい山路を<ruby><rb>人数</rb><rt>にんず</rt></ruby>の勢いで通る時などは、つとめて大きな声で話をして景気をつけるのがあたりまえであります。ことにお祭の帰りであってみれば、盛んに<ruby><rb>土地訛</rb><rt>とちなまり</rt></ruby>の若い衆の声などが聞えなければならないはずなのを、提灯の数が三つもあるのに、さりとはあまりに静かな――と兵馬を不審がらせるほどに静かな一行であります。

いよいよ前へ来た時に、木蔭から<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いて見れば、それは全体が人ではなく、二挺の駕籠の廻りは数人の人で、その前後は三個の提灯でありました。

ははあ、これはお祭の帰りではない、婚礼かとも思いました。婚礼にしては、あんまり<ruby><rb>粛</rb><rt>しめ</rt></ruby>やかに過ぎる。さては病人を甲府の町へ連れて行ってその帰りであろうと兵馬は、そうも思って見ているうちに、ふと提灯のしるしに眼がとまりました。

前に<ruby><rb>下</rb><rt>さが</rt></ruby>り<ruby><rb>藤</rb><rt>ふじ</rt></ruby>の紋が大きく書いてありました。下り藤は自分の家と同じ紋であるから兵馬は、なんの気なしにそれを見ると、その下に小泉と記してありました。はっと思ってその裏を見ると「<ruby><rb>八幡</rb><rt>やわた</rt></ruby>村」という文字が弓張の蔭になっています。

八幡村で小泉といえば、わが<ruby><rb>嫂</rb><rt>あによめ</rt></ruby>の実家ではないか。嫂とは誰、一時は兄文之丞の妻であったお浜のこと――ああ、その<ruby><rb>駕籠</rb><rt>かご</rt></ruby>の中の<ruby><rb>主</rb><rt>ぬし</rt></ruby>は誰人。兵馬はそれがために胸を打たれました。

お浜は死んでしまったけれども、その母なる人も、兄なる人も、兄の嫁なる人も、その夫婦の間に出来た子供までも兵馬は知っているのであります。

裏街道を越えてその家まで遊びに来た昔の記憶も残れば、ことに嫂のお浜が、自分の来ることを喜んで、手ずから柿の実などを折ってくれた優しいことの思い出も、忘れようとして忘れられません。あまりの懐かしさに兵馬は、あと<ruby><rb>追蒐</rb><rt>おいか</rt></ruby>けて名乗りかけようかと思いました。

けれども、今の兵馬の身ではそれも遠慮をしなければなりません。ぜひなく兵馬はいろいろの空想に駆られながら、その駕籠の後ろを追うて同じ方向へと進んで行きました。

駕籠も提灯も相変らず物を言いません。何か話でも起ったならば、その駕籠の中なる人が、おおよそ見当がつくのであろうにと思いました。

こうして暫らく山路を進んで行くうちに、

「その駕籠、待たっしゃい」

という声で、山路の静寂が破られました。「待たっしゃい」という声は、少なくとも士分にゆかりのある者でなければ、掛けられない声でありましたから、さては向うから進んで来た侍の何者かによって、その駕籠の棒鼻が押えられたものだろうと兵馬は、またそこに止まってなりゆきを見ていました。

「八幡村の小泉家から、今日の流鏑馬を御見物の客人二人、ぜひにお泊め申そうとしたのを、どうあっても今夜中に帰らねばならぬ用向きがござるそうな、それ故に夜分を<ruby><rb>厭</rb><rt>いと</rt></ruby>わずこうやってお送り申す、どうかこのままで失礼を」

「いやもう御遠慮なく。今日の騒ぎと言い、近頃はどうも世間が落着かない故に、我々も毎晩こうしてこの山路を宵のうち一度ずつお役目に廻るのでござる。左様ならばお大切に」

双方でこんなことを言い合って、疑念も<ruby><rb>蟠</rb><rt>わだか</rt></ruby>まりもサラリと解けて、そのまま駕籠は前へ進んで行き、こっちへ来る人影は、提灯もなにも持たないけれど、三人ほどに見えました。

兵馬は木蔭からそれをもやり過ごすと、それからの山路はまた静かなものになってしまいました。提灯も駕籠も附添のものも、何も言いません。

山路のつれづれに駕籠の中にいる人は、何とかお<ruby><rb>愛嬌</rb><rt>あいきょう</rt></ruby>に、外の人に言葉をかけてもよかろうにと思われるくらいであります。附添の人もまた何か話し出して、駕籠の中の人の無愛想を助けてやればよいにと思われるくらいでありました。

五里の山路がこうして尽きて、駕籠は八幡村へ入りました。<ruby><rb>江曾原</rb><rt>えそはら</rt></ruby>へ着くと、<ruby><rb>著</rb><rt>いちじる</rt></ruby>しく眼につく門構えと、土の塀と、<ruby><rb>境内</rb><rt>けいだい</rt></ruby>の森と<ruby><rb>竹藪</rb><rt>たけやぶ</rt></ruby>と、往来からは引込んでいるけれども、そこへ入る一筋路。

二挺の駕籠はその屋敷へ入って行きました。その屋敷こそ、兵馬には忘るることのできない<ruby><rb>嫂</rb><rt>あによめ</rt></ruby>のお浜が生れた故郷の家なのです。

兵馬はそれを<ruby><rb>側目</rb><rt>わきめ</rt></ruby>に見ただけで、その夜のうちに恵林寺まで急がねばなりません。

恵林寺へ行く宇津木兵馬と前後して、八幡村の小泉家へ入った駕籠の後ろのは机竜之助でありました。その前のはお銀様でありました。それを兵馬がそれとは知らずに送って来たことも、計らぬ<ruby><rb>因縁</rb><rt>いんねん</rt></ruby>でありました。机竜之助とお銀様とが、こうして相結ばれたことも、計らぬ因縁でありました。けれども、それよりも不思議なのは、竜之助とお銀様とが、どちらもそれとは知らずして送り込まれた家が、お浜の生れた家であるということであります。竜之助は<ruby><rb>曾</rb><rt>かつ</rt></ruby>てその悪縁のためにお浜を手にかけて殺しました。その人の家へ、別の悪縁につながる女と共に来るということは、それは戦慄すべきほどの不思議であります。

二人をここへ送ってよこしたのは神尾主膳の計らいであります。机竜之助は主膳の手では殺せない人でありました。また殺す必要もない人であります。お銀様は主膳の手でどうかしなければならない女であります。生かしておいては自分の身の危ない女であります。しかしながら、神尾主膳は、机竜之助を殺す必要のない如く、お銀様を亡き者として自分の罪悪を隠さねばならぬ必要がなくなりました。なんとならば、それはお銀様が机竜之助を愛しはじめたからであります。机竜之助はまた、お銀様の愛情にようやく満ち足りることができたらしいからであります。

お銀様の竜之助を愛することは火のようでありました。火に油を加えたような愛し方でありました。眼の見えない机竜之助は、お銀様を単に女として見ることができました。女性の表面の第一の誇りであるべき容貌は、お銀様において残る方なく<ruby><rb>蹂躙</rb><rt>じゅうりん</rt></ruby>し尽されていました。ひとり机竜之助にとって、その蹂躙は理由なきものであります。

お銀様にはもはや、幸内の亡くなったということが問題ではない。神尾の毒計を<ruby><rb>悪</rb><rt>にく</rt></ruby>むということも問題ではなくなりました。お銀様の肉身はこの人を愛することと、この人に愛せらるるということの炎の中に投げ込まれて、ほかには何物もないらしい。

この<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>を見て神尾主膳は、ひそかに喜びました。二人をここへ移すことによって、自分の罪悪に<ruby><rb>差障</rb><rt>さしさわ</rt></ruby>りの来ないことを信ずるほどに、主膳はそれを見て取ることができたのでしょう。