うすい<ruby><rb>鼠</rb><rt>ねずみ</rt></ruby>がかった光がそこらいちめんほのかにこめてゐた。

そこはカムチャッカの横の方の地図で見ると山脈の<ruby><rb>褐色</rb><rt>かっしょく</rt></ruby>のケバが明るくつらなってゐるあたりらしかったが実際はそんな山も見えず<ruby><rb>却</rb><rt>かへ</rt></ruby>ってでこぼこの野原のやうに思はれた。

とにかく私は粗末な白木の小屋の入口に座ってゐた。

その小屋といふのも南の方は明けっぱなしで壁もなく窓もなくたゞ二尺ばかりの腰板がぎしぎし張ってあるばかりだった。

一人の髪のもぢゃもぢゃした女と私は何か<ruby><rb>談</rb><rt>はな</rt></ruby>してゐた。その女は日本から渡った百姓のおかみさんらしかった。たしかに肩に四角なきれをかけてゐた。

私は談しながら自分の役目なのでしきりに横目でそっと外を見た。

外はまっくろな腐植土の畑で向ふには暗い色の針葉樹がぞろりとならんでゐた。

小屋のうしろにもたしかにその黒い木がいっぱいにしげってゐるらしかった。畑には灰いろの<ruby><rb>花椰菜</rb><rt>はなやさい</rt></ruby>が光って百本ばかりそれから<ruby><rb>蕃茄</rb><rt>トマト</rt></ruby>の緑や<ruby><rb>黄金</rb><rt>きん</rt></ruby>の葉がくしゃくしゃにからみ合ってゐた。<ruby><rb>馬鈴薯</rb><rt>ばれいしょ</rt></ruby>もあった。馬鈴薯は大抵倒れたりガサガサに枯れたりしてゐた。ロシア人やだったん人がふらふらと行ったり来たりしてゐた。全体祈ってゐるのだらうか畑を作ってゐるのだらうかと私は何べんも考へた。

実にふらふらと踊るやうに泳ぐやうに往来してゐた。そして横目でちらちら私を見たのだ。黒い<ruby><rb>繻子</rb><rt>しゅす</rt></ruby>のみじかい三角マントを着てゐたものもあった。むやみにせいが高くて<ruby><rb>頑丈</rb><rt>ぐゎんぢゃう</rt></ruby>さうな曲った脚に<ruby><rb>脚絆</rb><rt>きゃはん</rt></ruby>をぐるぐる<ruby><rb>捲</rb><rt>ま</rt></ruby>いてゐる人もあった。

右手の方にきれいな<ruby><rb>藤</rb><rt>ふぢ</rt></ruby>いろの寛衣をつけた若い男が立ってだまって私をさぐるやうに見てゐた。私と<ruby><rb>瞳</rb><rt>ひとみ</rt></ruby>が合ふや<ruby><rb>俄</rb><rt>にはか</rt></ruby>に顔色をゆるがし<ruby><rb>眉</rb><rt>まゆ</rt></ruby>をきっとあげた。そして腰につけてゐた刀の模型のやうなものを今にも抜くやうなそぶりをして見せた。私はつまらないと思った。それからチラッと愛を感じた。すべて敵に遭って<ruby><rb>却</rb><rt>かへ</rt></ruby>ってそれをなつかしむ、これがおれのこの<ruby><rb>頃</rb><rt>ごろ</rt></ruby>の病気だと私はひとりでつぶやいた。そして<ruby><rb>哂</rb><rt>わら</rt></ruby>った。考へて又哂った。

その男はもう見えなかった。

その時百姓のおかみさんが小屋の<ruby><rb>隅</rb><rt>すみ</rt></ruby>の幅二尺ばかりの白木の<ruby><rb>扉</rb><rt>と</rt></ruby>を指さして

「どうか<ruby><rb>婆</rb><rt>ば</rt></ruby>にも<ruby><rb>一寸</rb><rt>ちょっと</rt></ruby>遭っておくなさい。」と云った。私はさっきからその扉は外へ出る<ruby><rb>為</rb><rt>ため</rt></ruby>のだと思ってゐたのだ。もっとも時々頭の底でははあ騒動のときのかくれ場所だななどと考へてはゐた。けれども戸があいた。そして黒いゴリゴリのマントらしいものを着てまっ白に光った髪のひどく陰気なばあさんが黙って出て来て黙って座った。そして不思議さうにしげしげ私の顔を見つめた。

私はふっと自分の服装を見た。たしかに茶いろのポケットの沢山ついた上着を着て<ruby><rb>長靴</rb><rt>ながぐつ</rt></ruby>をはいてゐる。そこで私は又私の役目を思ひ出した。そして又横目でそっと作物の発育の<ruby><rb>工合</rb><rt>ぐあひ</rt></ruby>を<ruby><rb>眺</rb><rt>なが</rt></ruby>めた。一エーカー五百キログラム、いやもっとある、などと考へた。人がうろうろしてゐた。せいの高い顔の滑らかに黄いろな男がゐた。あれは<ruby><rb>支那</rb><rt>しな</rt></ruby>人にちがひないと思った。

よく見るとたしかに髪を捲いてゐた。その男は<ruby><rb>大股</rb><rt>おほまた</rt></ruby>に右手に入った。それから小さな親切さうな青いきものの男がどうしたわけか片あしにリボンのやうにはんけちを結んでゐた。そして両あしをきちんと集めて少しかゞむやうにしてしばらくじっとしてゐた。私はたしかに祈りだと思った。

私はもういつか小屋を出てゐた。全く小屋はいつかなくなってゐた。うすあかりが青くけむり東のそらには日本の春の夕方のやうに<ruby><rb>鼠</rb><rt>ねずみ</rt></ruby>色の重い雲が一杯に重なってゐた。そこに<ruby><rb>紫苑</rb><rt>しをん</rt></ruby>の花びらが羽虫のやうにむらがり飛びかすかに光って渦を巻いた。

みんなはだれもパッと顔をほてらせてあつまり手を斜に東の空へのばして

「ホッホッホッホッ。」と叫んで飛びあがった。私は<ruby><rb>花椰菜</rb><rt>はなやさい</rt></ruby>の中ですっぱだかになってゐた。私のからだは貝殻よりも白く光ってゐた。私は感激してみんなのところへ走って行った。

そしてはねあがって手をのばしてみんなと一緒に

「ホッホッホッホッ」と叫んだ。

たしかに<ruby><rb>紫苑</rb><rt>しをん</rt></ruby>のはなびらは生きてゐた。

みんなはだんだん東の方へうつって行った。

それから私は黒い針葉樹の列をくぐって外に出た。

白崎特務<ruby><rb>曹長</rb><rt>さうちゃう</rt></ruby>がそこに待ってゐた。そして二人はでこぼこの丘の斜面のやうなところをあるいてゐた。柳の花がきんきんと光って飛んだ。

「一体何をしらべて来いと云ふんだったらう。」私はふとたよりないこゝろもちになってかう云った。

「種子をまちがへたんでせう。それをしらべて来いと云ふんでせう。」

「いや収量がどれだけだったかといふのらしかったぜ。」私は又云った。

向ふにベつの畑が光って見えた。そこにも<ruby><rb>花椰菜</rb><rt>はなやさい</rt></ruby>がならんでゐた。これから本国へたづねてやるのも返事の来るまで容易でない、それにまだ二百里だ、と私は考へて又たよりないやうな気がした。

白崎特務曹長は先に立ってぐんぐん歩いた。