気分にも頭脳の働きにも何の変りもないと思われるにもかかわらず、運動が出来ず仕事をする事の出来なかった近頃の私には、朝起きてから夜寝るまでの一日の経過はかなりに永く感ぜられた。<ruby><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby>いて空虚を充たそうとする自覚的努力の余勢がかえって空虚その物を<ruby><rb>引展</rb><rt>ひきの</rt></ruby>ばすようにも思われた。これに反して振り返って見た月日の経過はまた自分ながら驚くほどに早いものに思われた。空漠な広野の果を見るように何一つ著しい目標のないだけに、昨日歩いて来た<ruby><rb>途</rb><rt>みち</rt></ruby>と今日との境が付かない。たまたま記憶の眼に触れる小さな出来事の森や小山も、どれという見分けの付かないただ<ruby><rb>一抹</rb><rt>いちまつ</rt></ruby>の灰色の波線を描いているに過ぎない。その地平線の彼方には活動していた日の目立った出来事の峰々が透明な空気を通して手に取るように見えた。

それがために、最近の数ヶ月は思いの外に早く経ってしまった。衰えた身体を九十度の暑さに持て余したのはつい数日前の事のように思われたのに、もう血液の不充分な手足の末端は、障子や火鉢くらいで防ぎ切れない寒さに凍えるような冬が来た。そして私の失意や希望や意志とは全く無関係に歳末と正月が近づきやがて過ぎ去った。そうして私は世俗で云う<ruby><rb>厄年</rb><rt>やくどし</rt></ruby>の境界線から外へ踏み出した事になったのである。

日本では昔から四十歳になると、すぐに老人の仲間には入れられないまでも、少なくも老人の候補者くらいには数えられたもののようである。しかし自分はそう思わなかった。四十が来ても四十一が来ても別に心持の若々しさを失わないのみならず肉体の方でもこれと云って<ruby><rb>衰頽</rb><rt>すいたい</rt></ruby>の兆候らしいものは認めないつもりでいた。それでもある若い人達の団体の中では自分等の仲間は中老連などと名づけられていた。

あまり鏡というものを見る機会のない私は、ある朝偶然<ruby><rb>縁側</rb><rt>えんがわ</rt></ruby>の<ruby><rb>日向</rb><rt>ひなた</rt></ruby>に誰かがほうり出してあった手鏡を<ruby><rb>弄</rb><rt>もてあそ</rt></ruby>んでいるうちに、私の額の辺に銀色に光る数本の白髪を発見した。十年ほど前にある人から私の頭の頂上に毛の薄くなった事を注意されて、いまに<ruby><rb>禿</rb><rt>は</rt></ruby>げるだろうと、予言された事があるが、どうしたのかまだ<ruby><rb>禿頭</rb><rt>とくとう</rt></ruby>と名の付くほどには進行しない。禿頭は父親から男の子に遺伝する性質だという説があるが、それがもし本当だとすると、私の父は七十七歳まで完全に<ruby><rb>蔽</rb><rt>おお</rt></ruby>われた<ruby><rb>顱頂</rb><rt>ろちょう</rt></ruby>を<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>っていたから、私も当分は禿げる見込が少ないかもしれない。しかしその代りにいつの間にか白髪が生えていた。

それから後に気を付けて見ると同年輩の友人の中の誰彼の額やこめかみにも、三尺以上<ruby><rb>距</rb><rt>はな</rt></ruby>れていてもよく見えるほどの白髪を発見した。まだ自分等よりはずっと若い人で自分より多くの白髪の所有者もあった。ある時たまたま逢った同窓と対話していた時に、その人の背後の窓から来る強い光線が頭髪に映っているのを注意して見ると、漆黒な色の上に浮ぶ紫色の表面色が或るアニリン染料を思い出させたりした。

またある日私の先輩の一人が老眼鏡をかけた見馴れぬ顔に<ruby><rb>出会</rb><rt>でくわ</rt></ruby>した。そして試みにその眼鏡を借りて掛けて見ると、眼界が急に明るくなるようで何となく爽やかな心持がした。しばらくかけていて外すと、眼の前に<ruby><rb>蜘蛛</rb><rt>くも</rt></ruby>の糸でもあるような気がして、思わず眼の上を指先でこすってみた。それから気が付いて考えてみると、近頃少し細かい字を見る時には、<ruby><rb>不知不識</rb><rt>しらずしらず</rt></ruby>眼を細くするような習慣が生じているのであった。

去年の夏子供が縁日で松虫を買って来た。そして縁側の<ruby><rb>軒端</rb><rt>のきば</rt></ruby>に吊しておいた。宵のうちには鈴を振るような音がよく聞こえたが、しかしどうかするとその音がまるで反対の方向から聞こえるように思われた。不思議だと思って懐中時計の音で左右の耳の聴力を試験してみると、左の耳が振動数の多い音波に対して著しく鈍感になっている事が分った。のみならず雨戸をしめて後に寝床へはいるとチンチロリンの声が聞こえなかった。すぐ横にねている子供にはよく聞こえているのに。

私の方では年齢の事などは構わないでいても、年齢の方では私を構わないでおかないのだろう。ともかくも白髪と視力聴力の衰兆とこれだけの実証はどうする事も出来ない。これだけの通行券を握って私は初老の関所を通過した。そしてすぐ眼の前にある厄年の坂を越えなければならなかった。

厄年というものはいつの世から称え出した事か私は知らない。どういう根拠に依ったものかも分らない。たぶんは多くの同種類の云い伝えと同様に、時と場所との限られた範囲内での経験的資料とある形而上的の思想との結合から生れたものに過ぎないだろう。例えば二百十日に<ruby><rb>颱風</rb><rt>たいふう</rt></ruby>を聯想させたようなものかもしれない。もっとも二百十日や<ruby><rb>八朔</rb><rt>はっさく</rt></ruby>の前後にわたる季節に、南洋方面から来る颱風がいったん北西に向って後に<ruby><rb>抛物線</rb><rt>ほうぶつせん</rt></ruby>形の線路を取って日本を通過する機会の比較的多いのは科学的の事実である。そういう季節の目標として見れば二百十日も意味のない事はない、しかし厄年の方は果してそれだけの意味さえあるものだろうか。

科学的知識の進歩した結果として、科学的根拠の明らかでない云い伝えは大概他の宗教的迷信と同格に取扱われて、少なくも本当の意味での知識的階級の人からは<ruby><rb>斥</rb><rt>しりぞ</rt></ruby>けられてしまった。もちろん今でも未開時代そのままの模範的な迷信が到るところに行われて、それが俗にいわゆる知識階級のある一部まで<ruby><rb>蔓延</rb><rt>まんえん</rt></ruby>している事は事実であるが、それとは少し趣を異にした事柄で、科学的に験証され得る可能性を具えた命題までが、一からげにして掃き捨てられたという恐れはないものだろうか。そのようにして塵塚に埋れた真珠はないだろうか。

根拠の無い事を肯定するのが迷信ならば、否定すべき反証の明らかでない命題を否定するのは、少なくも軽率とは云われよう。分らぬ事として竿の先に吊しておくのは慎重ではあろうが忠実とは云われまい。例えば厄年のごときものが全く無意味な命題であるか、あるいは意味の付け方によっては多少の意味の付けられるものではあるまいか。

このような疑問を抱いて私は手近な書物から人間の各年齢における死亡率の曲線を捜し出してみた。すべての有限な統計的材料に免れ難い偶然的の<ruby><rb>偏倚</rb><rt>へんい</rt></ruby>のために曲線は例のように不規則な脈動的な波を描いている。しかし不幸にして特に四十二歳の前後に<ruby><rb>跨</rb><rt>また</rt></ruby>がった著しい突起を見出すことは出来なかった。これだけから見ると少なくもその曲線の示す範囲内では、四十二歳における死亡の確率が特別に多くはないという漠然とした結論が得られそうに見える。

しかし統計ほど確かなものはないが、また「統計ほど嘘をつくものはない」という事は争われないパラドックスである。上の曲線は確かに一つの事実を示すが、これは必ずしも厄年の無意味を断定する証拠にはならない。

科学者が自然現象の週期を発見しようとして被与材料を統計的に調査する時に、ある短い期間については著しい週期を得るにかかわらず、あまり期間を長く採るとそれが消失するような事が往々ある。そのような場合に、短期の材料から得た週期が単に偶然的のものである場合もあるが、またそうでない場合がある。ある期間だけ継続する週期的現象の群が濫発的に<ruby><rb>錯綜</rb><rt>さくそう</rt></ruby>して起る時がそうである。

これはただ一つの類例に過ぎないが、厄年の場合でも材料の選み方によってはあるいは意外な結果に到着する事がないものだろうか。例えば時代や、季節や、人間の階級や、死因や、そういう標識に従って類別すれば現われ得べき曲線上の隆起が、各類によって位置を異にしたりするために、すべてを重ね合すことによって消失するのではあるまいか。

このような空想に<ruby><rb>耽</rb><rt>ふけ</rt></ruby>ってみたが、結局は統計学者にでも相談する外はなかった。しかしそんな空想に耳を傾けてくれる学者が手近にあるかないか見当が付かなかった。

それはとにかくとして最近に私の少数な十に足りない同窓の中で三人まで、わずかの期間に相次いで亡くなった。いずれも四十二を中心とする厄年の範囲に含まれ得べき有為な年齢に病のために倒れてしまった。

生死ということが単に銅貨を投げて裏が出るか表が出るかというような簡単なことであれば、三遍続けて裏が出るのも、三遍つづいて表が出るのも、少しも不思議な事ではない。もう少し複雑な場合でも、全く偶然な暗合で特殊な事件が続発して、プロバビリティの方則を知らない世人に奇異の念を起させたり、超自然的な因果を想わせる例はいくらでもある。それで私は三人の同窓の死だけから他のものの死の機会を推算するような不合理をあえてしようとは思わない。

そうかと云って私はまた全くそういう推算の可能性を否定してしまうだけの証拠も持ち合せない。

例えばある家庭で、同じ<ruby><rb>疫痢</rb><rt>えきり</rt></ruby>のために二人の女の児を引続いて失ったとする。そして死んだ年齢が二人ともに四歳で月までもほぼ同じであり、その上に死んだ時季が同じように夏始めのある月であったとしたら、どうであろう。この場合にはもはや偶然あるいは超自然的因果の境界から自然科学的の範囲に一歩を踏み込んでいるように思われて来る。

そういう方面から考えて行くと、同時代に生れて同様な趣味や目的をもって、同じ学校生活を果した後に、また同じような雰囲気の中に働いて来たものが多少生理的にも共通な点を具えていて、そしてある同じ時期に死病に襲われるという事は、全く偶然の所産としてしまうほどに偶然とも思われない。

このような種類の機微な<ruby><rb>吻合</rb><rt>ふんごう</rt></ruby>がしばしば繰り返されて、そしてその事が誇大視された結果としていわゆる厄年の説が生れたと見るべき理由が無いでもない。

ある柳の下にいつでも<ruby><rb>泥鰌</rb><rt>どじょう</rt></ruby>が居るとは限らないが、ある柳の下に泥鰌の居りやすいような環境や条件の具備している事もまたしばしばある。そういう意味でいわゆる厄年というものが提供する環境や条件を考えてみたらどうだろう。

「思考の節約」という事を旗じるしに押し立てて進んで来たいわゆる精密科学は、自然界におけるあらゆる物並びにその変化と推移を連続的のものと<ruby><rb>見做</rb><rt>みな</rt></ruby>そうとする傾向を生じた。そして事情の許す限りは物質を空隙のないコンチニウムと見做す事によってその運動や変形を数学的に論じる事が出来た。あらゆる現象は出来るだけ簡単な数式や平滑な曲線によって代表されようとした。その同じ傾向は生物に関する科学の方面へも滲透して行った。そして「自然は簡単を愛す」と云ったような昔の形而上的な考えがまだ漠然とした形である種の科学者の頭の奥底のどこかに生き残って来た。

しかしそういう方法によって進歩して来た結果はかえってその方法自身を裏切る事になった。物質の不連続的構造はもはや仮説の域を脱して、分子や原子、なおその上に電子の実在が動かす事の出来ないようになった。その上にエネルギーの推移にまでも或る不連続性を<ruby><rb>否</rb><rt>いな</rt></ruby>む事が出来なくなった。生物の進化でも連続的な変異は否定されて飛躍的な変異を認めなければならないようになった。

水の流れや風の吹くのを見てもそれは決して簡単な一様な流動でなくて、必ずいくらかの律動的な弛張がある、これと同じように生物の発育でも決して簡単な二次や三次の代数曲線などで表わされるようなものではない。

例えば昆虫の生涯を考えても、卵から低級な幼虫になってそれが<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">さなぎ</span>になり成虫になるあの著しい変化は、昆虫の生涯における目立った律動のようなものではあるまいか。

人間の生涯には、少なくも母体を離れた後にこのように顕著な肉体的の変態があるとは思われない。しかしある程度の不連続な生理的変化がある時期に起る事もよく知れ渡った事実である。<ruby><rb>蚕</rb><rt>かいこ</rt></ruby>や蛇が外皮を脱ぎ捨てるのに相当するほど目立った外見上の変化はないにしても、もっと内部の器官や系統に行われている変化がやはり一種の律動的<ruby><rb>弛張</rb><rt>しちょう</rt></ruby>をしないという証拠はよもやあるまいと思われる。

そのような律動のある相が人間肉体の生理的危機であって不安定な平衡が<ruby><rb>些細</rb><rt>ささい</rt></ruby>な機縁のために破れるやいなや、加速的に壊滅の深淵に失墜するという機会に富んでいるのではあるまいか。

このような<ruby><rb>六</rb><rt>むつ</rt></ruby>ヶしい問題は私には到底分りそうもない。あるいは専門の学者にも分らないほど六ヶしい事かもしれない。

それにしても私は今自分の身体に起りつつある些細な変態の兆候を見て、内部の生理的機能についてもある著しい変化を聯想しないではいられない。それと同時に私の心の方面にもある特別な状態を認め得るような気がする。それが肉体の変化の直接の影響であるか、あるいは精神的変化が外界の<ruby><rb>刺戟</rb><rt>しげき</rt></ruby>に誘発されてそれがある程度まで肉体に反応しているのだか分らない。

厄年の厄と見做されているのは当人の病気や死とは限らない。家庭の不祥事や、事業の失敗や、時としては当人には何の責任もない災厄までも含まれているようである。

街を歩いている時に通り合せた荷車の圧搾ガス容器が破裂してそのために負傷するといったような災厄が四十二歳前後に特別に多かろうと思われる理由は容易には考えられない。しかしそれほど偶然的でない色々な災難の源を奥へ奥へ<ruby><rb>捜</rb><rt>さぐ</rt></ruby>って行った時に、意外な事柄の継起によってそれが厄年前後における当人の精神的危機と<ruby><rb>一縷</rb><rt>いちる</rt></ruby>の関係をもっている事を発見するような場合はないものだろうか。例えばその人が従来続けて来た平静な生活から転じて、危険性を帯びたある工業に関係した当座に前述のような災難に会ったとしたらどうであろう。少なくも親戚の老人などの中にはこの災難と厄年の転業との間にある因果関係を思い浮べるものも少なくないだろう。しかしこれは<ruby><rb>空風</rb><rt>からかぜ</rt></ruby>が吹いて桶屋が喜ぶというのと類似の<ruby><rb>詭弁</rb><rt>きべん</rt></ruby>に過ぎない。当面の問題には何の役にも立たない。

しかしともかくも厄年が多くの人の精神的危機であり<ruby><rb>易</rb><rt>やす</rt></ruby>いという事はかなりに多くの人の認めるところではあるまいか。昔の聖人は四十歳にして<ruby><rb>惑</rb><rt>まど</rt></ruby>わずと云ったそうである。これが儒教道徳に養われて来たわれわれの祖先の標準となっていた。現代の人間が四十歳くらいで得た人生観や信条をどこまでも十年一日のごとく固守して安心しているのが<ruby><rb>宜</rb><rt>よ</rt></ruby>いか悪いか、それとも死ぬまでも惑い<ruby><rb>悶</rb><rt>もだ</rt></ruby>えて衰頽した<ruby><rb>躯</rb><rt>からだ</rt></ruby>を荒野に<ruby><rb>曝</rb><rt>さら</rt></ruby>すのが偉大であるか愚であるか、それは別問題として、私は「四十にして<ruby><rb>不惑</rb><rt>まどわず</rt></ruby>」という言葉の裏に四十は惑い易い年齢であるという隠れた意味を認めたい。

二十歳代の青年期に<ruby><rb>蜃気楼</rb><rt>しんきろう</rt></ruby>のような希望の幻影を追いながら脇目もふらずに芸能の修得に勉めて来た人々の群が、三十前後に実世界の闘技場の<ruby><rb>埒内</rb><rt>らちない</rt></ruby>へ追い込まれ、そこで銘々のとるべきコースや位置が割り当てられる。競技の進行するに従って自然に優勝者と劣敗者の二つの群が出来てくる。

優者の進歩の速度は始めには目ざましいように早い。しかし始めには正であった加速度はだんだん減少して零になって次には負になる。そうしてちょうど四十歳近くで漸近的に一つの極限に接近すると同時に速度は減退して零に近づく。そこでそのままに自然に任せておけばどうなるだろう。たどり付いた漸近線の水準を保って行かれるだろうか。このような疑問の岐路に立ってある人は何の<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ちゅうちょ</rt></ruby>もなく一つの道をとる。そして爪先下りのなだらかな道を下へ下へとおりて行く、ある人はどこまでも同じ高さの峰伝いに安易な心を抱いて同じ麓の景色を眺めながら、思いがけない<ruby><rb>懸崖</rb><rt>けんがい</rt></ruby>や深淵が路を遮る事の可能性などに心を騒がすようなことなしに夜の宿駅へ急いで行く。しかし少数のある人々はこの生涯の峠に立って蒼空を仰ぐ、そして無限の天頂に輝く太陽を<ruby><rb>握</rb><rt>つか</rt></ruby>もうとして懸崖から逆さまに死の谷に墜落する。これらの不幸な人々のうちのきわめて少数なあるものだけは、微塵に砕けた残骸から再生する事によって、始めて得た翼を虚空に<ruby><rb>羽搏</rb><rt>はばた</rt></ruby>きする。

劣者の道の谷底の漸近線までの部分は優者の道の倒影に似ている。そして谷底まで下りた人の多数はそのままに麓の平野を分けて行くだろうし、少数の人はそこからまた新しい上り坂に取りつきあるいはさらに失脚して再び<ruby><rb>攀上</rb><rt>よじのぼ</rt></ruby>る見込のない深坑に落ちるのであろうが、そのような<ruby><rb>岐</rb><rt>わか</rt></ruby>れ<ruby><rb>路</rb><rt>みち</rt></ruby>がやはりほぼ四十余歳の厄年近辺に在るのではあるまいか。

このような他愛もない事を考えながらともかくも三年にわたる厄年を過して来た。厄年に入る前年に私は家族の一人を失ったが、その後にはそれほど著しい不幸には会わなかった。もっとも四十二の暮から自分で病気に<ruby><rb>罹</rb><rt>かか</rt></ruby>って今でもまだ全快しない。この病気のために生じた色々な困難や不愉快な事がないではなかったが、しかしそれは厄年ではなくても不断に私につきまとっているものとあまり変らない程度のものであった。それでともかくも生命に別条がなくて今日までは過ぎて来た。

それで結局これから私はどうしたらいいのだろう。

厄年の峠を越えようとして私は人並に過去の半生涯を振り返って見ている。もう昼過ぎた午後の太陽の光に照らされた過去を眺めている、そして人並に<ruby><rb>愧</rb><rt>は</rt></ruby>じたり悔やんだり惜しんだりしている。「有った事は有ったのだ」と幾百万人の繰返した言葉をさらに繰返している。

過去というものは本当にどうする事も出来ないものだろうか。

私の過去を自分だけは知っていると思っていたが、それは嘘らしい。現在を知らない私に過去が分るはずはない。原因があって結果があると思っていたが、それも誤りらしい。結果が起らなくてどこに原因があるだろう。重力があって天体が運行して<ruby><rb>林檎</rb><rt>りんご</rt></ruby>が落ちるとばかり思っていたがこれは逆さまであった。英国の田舎である一つの林檎が落ちてから後に万有引力が生れたのであった。その引力がつい近頃になってドイツのあるユダヤ人の鉛筆の先で新しく改造された。

過去を定めるものは現在であって、現在を定めるものが未来ではあるまいか。

それともまた現在で未来を支配する事が出来るものだろうか。

これは私には分らない、おそらく誰にも分らないかもしれない。この分らない問題を解く試みの方法として、私は今一つの実験を行ってみようとしている。それには私の過去の道筋で拾い集めて来たあらゆる宝石や土塊や草花や昆虫や、たとえそれが<ruby><rb>蚯蚓</rb><rt>みみず</rt></ruby>や<ruby><rb>蛆虫</rb><rt>うじむし</rt></ruby>であろうとも一切のものを「現在の鍋」に<ruby><rb>打</rb><rt>ぶ</rt></ruby>ち込んで煮詰めてみようと思っている。それには古人が残してくれた色々な香料や試薬も注いでみようと思っている。その鍋を火山の火にかけて一晩おいた後に<ruby><rb>一番鶏</rb><rt>いちばんどり</rt></ruby>が鳴いたら蓋をとってみようと思っている。

蓋を取ったら何が出るだろう。おそらく何も変った物は出ないだろう。始めに入れておいただけの物が<ruby><rb>煮爛</rb><rt>にただ</rt></ruby>れ煮固まっているに過ぎないだろうとしか思われない。しかし私はその鍋の底に溜った<ruby><rb>煎汁</rb><rt>せんじゅう</rt></ruby>を眼を<ruby><rb>瞑</rb><rt>つむ</rt></ruby>って呑み干そうと思う。そうして自分の内部の機能にどのような変化が起るかを試験してみようと思っている。もし私の眼や手になんらかの変化が起ったら、その新しい眼と手で私の過去を見直し造り直してみよう。そしてその上に未来の足場を建ててみよう。もしそれが出来たら「厄年」というものの意義が新しい光明に照らされて私の前に現われはしまいか。

こう思って私は過去の旅行カバンの中から<ruby><rb>手捜</rb><rt>てさぐ</rt></ruby>りに色々なものを取り出して並べて見ている。

先ず色々の書物が出て来る、大概は汚れたり虫ばんだりしてもう読めなくなっている。様々な神や仏の偶像も出て来るが一つとして欠け損じていないのはない。茶褐色に変った<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">げんげ</span>や<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ばら</span>の花束や半分喰い欠いだ林檎もあった。修学証書や辞令書のようなものの束ねたのを投げ出すと<ruby><rb>黴臭</rb><rt>かびくさ</rt></ruby>い塵が小さな渦を巻いて立ち昇った。

<ruby><rb>定規</rb><rt>じょうぎ</rt></ruby>のようなものが一<ruby><rb>把</rb><rt>わ</rt></ruby>ほどあるがそれがみんな曲りくねっている。<ruby><rb>升</rb><rt>ます</rt></ruby>や<ruby><rb>秤</rb><rt>はかり</rt></ruby>の種類もあるが使えそうなものは一つもない。鏡が幾枚かあるがそれらに映る万象はみんなゆがみ<ruby><rb>捻</rb><rt>ねじ</rt></ruby>れた形を見せる。物差のようなもので半分を赤く半分を白く塗り分けたものがある。私はこの簡単な物差ですべてのものを無雑作に可否のいずれかに決するように教えられて来たのであった。<ruby><rb>骨牌</rb><rt>カルタ</rt></ruby>のような札の片側には「自」反対の側には「他」と書いてある。私は時と場合とに応じてこの札の裏表を使い分ける事を教えられた。

見ているうちに私はこの雑多な品物のほとんど大部分が皆貰いものや借り物である事に気が付いた。自分の手で作るか、自分の労力の正当な報酬として得たもののあまりに少ないのに驚いた。これだけの負債を弁済する事が生涯に出来るかどうか疑わしい。しかし幸か不幸か債権者の大部分はもうどこにいるか分らない。一巻の絵巻物が出て来たのを<ruby><rb>繙</rb><rt>ひもと</rt></ruby>いて見て行く。始めの方はもうぼろぼろに朽ちているが、それでもところどころに比較的鮮明な部分はある。生れて間もない私が<ruby><rb>竜門</rb><rt>りゅうもん</rt></ruby>の鯉を染め出した<ruby><rb>縮緬</rb><rt>ちりめん</rt></ruby>の<ruby><rb>初着</rb><rt>うぶぎ</rt></ruby>につつまれ、まだ若々しい母の腕に抱かれて<ruby><rb>山王</rb><rt>さんのう</rt></ruby>の<ruby><rb>祠</rb><rt>やしろ</rt></ruby>の石段を登っているところがあるかと思うと、馬丁に手を引かれて名古屋の<ruby><rb>大須観音</rb><rt>おおすかんのん</rt></ruby>の広庭で玩具を買っている場面もある。淋しい田舎の古い家の台所の板間で、袖無を着て<ruby><rb>寒竹</rb><rt>かんちく</rt></ruby>の<ruby><rb>子</rb><rt>こ</rt></ruby>の皮をむいているかと思うと、その次には遠い西国のある学校の前の菓子屋の二階で、同郷の学友と人生を論じている。<ruby><rb>下谷</rb><rt>したや</rt></ruby>のある町の金貸しの婆さんの二階に間借りして、うら若い妻と<ruby><rb>七輪</rb><rt>しちりん</rt></ruby>で飯を<ruby><rb>焚</rb><rt>た</rt></ruby>いて暮している光景のすぐあとには、幼い児と並んで生々しい<ruby><rb>土饅頭</rb><rt>どまんじゅう</rt></ruby>の前にぬかずく淋しい後姿を見出す。ティアガルテンの冬木立や、オペラの春の夜の人の群や、あるいは地球の北の果の淋しい港の<ruby><rb>埠頭</rb><rt>ふとう</rt></ruby>や、そうした背景の前に立つ<ruby><rb>佗</rb><rt>わび</rt></ruby>しげな旅客の絵姿に自分のある日の片影を見出す。このような切れ切れの絵と絵をつなぐ<ruby><rb>詞書</rb><rt>ことばが</rt></ruby>きがなかったら、これがただ一人の自分の事だとは自分自身にさえ分らないかもしれない。

巻物の中にはところどころに真黒な墨で塗りつぶしたところがある。しかしそこにあるべきはずの絵は、実際絵に描いてあるよりも幾倍も明瞭に墨の下に透いて見える。

不思議な事には巻物の初めの方に朽ち残った絵の色彩は眼のさめるほど美しく保存されているのに、後の方になるほど絵の具の色は<ruby><rb>溷濁</rb><rt>こんだく</rt></ruby>して、次第に鈍い灰色を帯びている。

絵巻物の最後にある絵はよほど奇妙なものである。そこには一つの大きな<ruby><rb>硝子</rb><rt>ガラス</rt></ruby>の<ruby><rb>蠅取罎</rb><rt>はえとりびん</rt></ruby>がある。その中に閉込められた多数の蠅を点検して行くとその中に交じって小さな人間が居る。それがこの私である。罎から逃れ出る穴を上の方にのみ求めて幾度か眼玉ばかりの頭を硝子の壁に打ち当てているらしい。まだ幸いに器底の酢の中に溺れてはいない。自由な空へ出るのには一度罎の底をくぐらなければならないという事が蠅にも小さな私にも分らないと見える。もっとも罎を逃れたとしたところで、外界には色々な蠅打ちや<ruby><rb>蠅取蜘蛛</rb><rt>はえとりぐも</rt></ruby>が<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>っている。それを逃れたとしても必然に襲うて来る<ruby><rb>春寒</rb><rt>はるさむ</rt></ruby>の脅威は避け難いだろう。そうすると罎を出るのも考えものかもしれない。

過去の<ruby><rb>旅嚢</rb><rt>りょのう</rt></ruby>から取り出される品物にはほとんど限りがない。これだけの品数を一度に<ruby><rb>容</rb><rt>い</rt></ruby>れ得る「鍋」を自分は持っているだろうか。鍋はあるとした上でも、これだけのものを沸騰させ煮つめるだけの「燃料」を自分は貯えてあるだろうか。

この点に考え及ぶと私は少し心細くなる。

厄年の関を過ぎた私は立止ってこんな事を考えてみた。しかし結局何にもならなかった。厄年というものの科学的解釈を得ようと思ったが失敗した。主観的な意味を求めてみたが、得たものはただ取り止めの付かぬ妄想に過ぎなかった。

しかし、誰か厄年の本当の意味を私に教えてくれる人はないものだろうか。誰かこの影の薄くなった言葉を活かして「四十の惑い」を解いてくれる人はないだろうか。

（大正十年四月『中央公論』）