<ruby><rb>林芙美子</rb><rt>はやしふみこ</rt></ruby>女史が北京の旅の帰りに京都へ寄った。秋の夜だった。<ruby><rb>成瀬無極</rb><rt>なるせむきょく</rt></ruby>氏と一緒に私の家へ見えた。日本の対支外交や排日問題などについて意見を述べたり、英米の対支文化事業や<ruby><rb>支那</rb><rt>シナ</rt></ruby>女性の現代的<ruby><rb>覚醒</rb><rt>かくせい</rt></ruby>を驚嘆していた。支那の陶器の話も出た。何かの拍子に女史が小唄が好きだといったので、小唄のレコードをかけて三人で聴いた。

「小唄を聴いているとなんにもどうでもかまわないという気になってしまう」

と女史がいった。私はその言葉に心の底から共鳴して、

「私もほんとうにそのとおりに思う。こういうものを聴くとなにもどうでもよくなる」

といった。すると無極氏は喜びを満面にあらわして、

「今まであなたはそういうことをいわなかったではないか」

と私に<ruby><rb>詰</rb><rt>なじ</rt></ruby>るようにいった。その瞬間に三人とも一緒に<ruby><rb>瞼</rb><rt>まぶた</rt></ruby>を熱くして三人の眼から涙がにじみ出たのを私は感じた。男がつい口に出して言わないことを林さんが正直に言ってくれたのだ。無極氏は、

「我々がふだん苦にしていることなどはみんなつまらないことばかりなのだ」

といって感慨を押え切れないように、立って部屋の内をぐるぐる歩き出した。林さんは黙ってじっと下を向いていた。私はここにいる三人はみな無の深淵の上に壊れやすい仮小屋を建てて住んでいる人間たちなのだと感じた。

私は端唄や小唄を聞くと全人格を根柢から震撼するとでもいうような迫力を感じることが多い。肉声で聴く場合には色々の<ruby><rb>煩</rb><rt>わずら</rt></ruby>わしさが伴ってかえって心の沈潜が妨げられることがあるが、レコードは旋律だけの純粋な領域をつくってくれるのでその中へ魂が丸裸で飛び込むことができる。私は端唄や小唄を聴いていると、自分に属して価値あるように思われていたあれだのこれだのを<ruby><rb>悉</rb><rt>ことごと</rt></ruby>く失ってもいささかも惜しくないという気持になる。ただ情感の世界にだけ住みたいという気持になる。

「どうせこの世は水の流れか空ゆく雲か……」

Avalanche, veux\-tu m'emporter dans ta chute ?

〔雪崩よ、汝が落下の<ruby><rb>裡</rb><rt>うち</rt></ruby>に我を連れよかし〕