Soranoha

嫂

あね

素木 しづ

小さなモーパッサンの短篇集を袂たもとに入れて英語の先生からの帰り、くれてゆく春の石垣のほとりを歩きながら辰子はおかしくってならなかった。

今日ならって来た所の、フランチェスカといふわけのわからない女が、“What does in「in」はママ matter to me ?”と、“Not at all”以外に、なに事もいはず、常に怒ってゐるのか、真面目になってゐるのか、わからないやうな態度と表情をしてゐるのが、をかしくってならなかった。

そして彼女が嫂あねの態度に対する不満と自分をあはれむかなしさとが、すっかりそのおかしさのなかに入ってしまった。

彼女は、まだかつて嫂を思ふ心におかしさを思ったことが一度もなかった。

「フランチェスカは、家の嫂さんとおんなじだわ、『結構です』と、『どういたしまして』、以外になんにも云はないんだもの。そしていつも、おかしいことも、かなしいことも、面白いこともないやうに、むっすりと黙ってゐるんだから。」彼女は、そう考へて、おかしくってならなかった。そして、辰子は、顔にまでそのおかしさを見せながら、何の気がゝりも心配もなく、家の玄関まで来てしまった。

彼女は、手をかけて玄関をガラッと開けた。そして、その音と同時に彼女はすっかり真面目になってしまった。敷石を静かに歩いて草履ざうりを、片すみにそろへてぬいだ。

嫂の部屋は、玄関の側にあった。辰子は、その部屋の襖ふすまの前に行って『只今』と手をついた。

『おかへりなさい。』

といつものやうに、部屋のなかゝら声がした。その声は、何等人の情にはかゝはりのない、木を折ったやうな、殺風景な音であった。辰子の心はすぐ淡い恐怖と不安とを抱いた。そして廊下をつたはって自分の部屋に行った。

辰子は自分の心が嫂のことに対して、かなしむ時、必ず学校時代のことを思ひ出した。

辰子が、まだ女学校に居たころ、嫂はまだ彼女の家に来てなかった。そして新学期のはじまるころ、嫂のことをひそかに知り、またその嫂が、彼女の学校の先生になることを聞いたのであった。辰子はそれを聞いた翌日友だちと廊下で顔を合はせた刹那、ふと思ひがけない嬉しいことを、自分が知ってるやうな気がした。それで、彼女は驚いたやうに、瞳を輝かして微笑した。

『あのね。』辰子は、思はずよりそって云った、けれども、ついなんでもないことを云ってしまった。

『音楽室の方に行かなくなって。』

友だちは、なんの気もなしに素直に、彼女によりそったまゝ、すぐ音楽室の方に歩き出したのであった。それで、彼女は一所ママに歩き出したが、彼女の頭のなかには、夕聞いたうれしいことが、不安に踊り初めてゐたのだ。

そして、彼女はいつか草履を引づりながら音楽室の前を、通りこした。朝早いので人もない廊下に、低いオルガンの音が、閉された扉のなかゝら流れて来てた。彼女は、いつものやうに爪先を見つめて歩いてゐた。

こうして、友だちと廊下から廊下へ黙って歩くのは、彼女たちの長い間のくせであったので、彼女はそのくせによって、いつのまにか歩いてた。そして運動場の窓際の椅子まで来て、腰を降ろした。

辰子は、もはやうれしいことでもなんでもなくなった。話さなければゐられなくなった。

『あのね』彼女は、もう一度注意を引いた。

『山口さん、二三日うちに若い国語の先生が入らっしゃるんですって。』

彼女は、まだ〱云ひたいことがあるのをひかへて、それだけ云った。そしてもはや、自分の身家みうちのものに対するやうに、人の心持を気づかってたのだ。

『あら、そう、いゝ先生が入らっしゃるといゝけれども。』

友だちは、すぐあとをつゞけて云ったけれども、それ丈けしか云はなかった。辰子は、夕、母親の云った言葉をすぐ、思出してゐた。「お花も、お茶もお琴も、そして職業学校では、造花と裁縫をやったし、女子大学の方では国文科だったんだから――」その先生は、なんにも出来ない事はない、どうしてそれが悪い先生だらう。辰子は、すっかり信じてゐた。そして、その先生が自分の嫂さんになるのだ。辰子のうれしいことは、そのことであった。

『えゝ、それは』彼女は息ごんで云ひかけたが、友だちがそれに対して、あまり興味を持ってないのを見て、辰子の内心の力はちゞまってしまった。

で何げなく、『きっといゝ先生に違ひないわ』と云った。

辰子は、その先生が自分の兄と婚約のある人だといふ事を、人に云ってはならないと、家の人から云はれてゐた。それで彼女は、それ以上云ふことが出来ないで、疲れたやうに黙った。「なんにも、あなたには解らないのね。私のうれしいことなんか、一つもわからないのね。その人がいまに私の嫂さんに、なる人なんですって。そして、私は二三度その人を見たことがあるんだわ。名前は森本つた子、森本つた子」辰子は、そんな事を、口の中で繰りかへしてゐた。そして彼女の心のなかでは、どうしても、その人について、自分の知ってる、小さな、さま〲の断片を誰れかに話したくてならなかった。

二日ののち森本先生は、彼女だち生徒に紹介された。そして、うす黒い筒袖の着物を着て、引つめた束髪を結って三十すぎた片意地そうな、先生だちにのみ教へられた、彼女だちには、その若い先生がどんなに、物珍らしかったか知れなかった。前髪もゆるく、大きく出してゐた。着物も紫の袂たもとの長いのを着てゐた。若い彼女だちは、みな憧憬どうけいの瞳を輝かして、新らしい先生を見た。そして、自分だちの若い心がのびのびとその先生の心にとゞき、生長することが出来るだらうと期待した。彼女もまた、そう思った。しかしひそかに、森本先生が生徒だちに讃美されなかったら、どうしやうと、辰子は気づかった。そして、それから常に、その気づかいを持って、彼女は登校するやうになった。

森本先生は、彼女の方の国語も、作文も受持った。そして、辰子は、その時間を、重苦しい、気遣はしさと、圧迫と、気恥かしさに暮らさねばならなかった。

森本先生は、教へ方が下手だった。そしてまた他の先生だちに比して、知識も浅いやうに見えた。それで、一時間の授業は、混雑した。生徒だちは、わづかのうち、森本先生を軽蔑してしまった。そして、彼等の期待に反した反動として、時間毎に非難の声が高くなって行った。

辰子は、耳をふさいでゐた。学校は、彼女に不安なかなしい所になった。彼女は、なるべく、友だちと学校の話しをするのでさへさけやうと思った。

そのうちに、誰れからともなく、森本先生は、辰子の嫂さんになるといふ評判が、学校中に開がった。そして今まで辰子の前で森本先生の悪口を云った友だちも、驚いたやうにそれをさけた。辰子はそれからひそかに、只一人教室の出入りをした。そして、辰子がなにげなく、友だちの方に歩いて行く時、必ずそれ等の友だちの話しは中止されてゐた。

辰子は、そういふ時、かなしみに堪へないで黙って引かへした。そして、誰れを恨んでいゝかわからなかった。勿論、森本先生を自分のかなしみに対して恨む気には、なれなかった。森本先生は、けっして悪い人ではないと思ったからだ。

けれども、彼女は森本先生が自分の方の、学校につとめた事を悲しんで、自分の方の学校にさへつとめなければ、うれしい時が過されたらうし、お友だちとも気がゝりなしに、親しんでゐられたに相違ない。

彼女は、よく一人でかなしみながら、静かに廊下を歩いた。誰れかゞ言葉をかけたならその人にすっかり、すがってしまひたいやうな心で歩いた。そんな時、思ひがけなく森本先生に逢って、辰子は思はず赤い顔をした。そして微笑する間もなく、森本先生は黙ってゆき過ぎてしまふので、彼女は堪えがたく自分を哀れに思っては、そっと涙をふいたりした。

けれども、彼女が一日学校に見えなかったりした時に、森本先生は、辰子の後から声をかけた。

『病気だったの、お家の人によろしくね。』

彼女は、黙ってうつむいてお辞儀をした。そして自分を侮辱した。この頃時々「あまりいゝ人ぢゃない」。といふやうな、考へに捕へられたことを思出すからであった。

けれども、彼女は非常にうれしかった。森本先生が一言こと彼女に向って、言葉をかけたことによって、彼女は安心して、森本先生の優しさと善い人であるといふことを、信ずることが出来たからであった。彼女は、その時誰れかにその嬉しさを話したくってならなかった。けれどもその嬉しさを共有することの出来るものは、恐らく誰れもなかったであらう。

辰子は、一年近い月日を、只一人心のなかに森本先生のことについて、気づかひ悲しみひそかによろこんで暮した。「早く早く、学校をよして、私の家に来て下されゝばいゝ。」それが、彼女の希望であった。

森本先生は、一年たゝないうちに学校をよした。そして、まもなく彼女の家に来たけれども、親しむ間もなく彼女の兄と共に、南の方へ旅立った。

辰子は、学校を出た。辰子の周囲は、ひろくなった。辰子はせまい、悲しみに捕はれなくなった。そして、彼女は、すべての世の中すべての自然をパラダイスのやうに見たのだった。

空想と理想は、それに由って建設された。彼女はすべてに対して微笑と親しみとを欲した。そして彼女は、兄夫婦と同居することについて新生活を予想するやうな、嬉しさを持った。辰子は、すべてを自分の理想のなかにつゝんでしまった。

そして明るいはなやかな、親しみと嬉しさを持って、家の門を入って来る嫂を見た。別れてから二年たってゐたけれども、嫂の様子は学校時代と少しもかはらなかった。

玄関には、おそ咲きの梅が咲いてた。嫂はその梅を一寸見て部屋のなかに入って来た。

辰子は、嫂を初めて近くに見た。

嫂ははじめ、無頓着なあっさりした、気のよさそうな人に見えた。そしてまた遠慮してゐるやうにも見えた。彼女は、早く親しみたいといふ嬉しい気づかひを持って、落ちつかなく日常のことをしてゐた。玄関の側の部屋にゐる嫂の方に気を、とられてゐた。しかし、まだ臆病な彼女には、自づから進んで嫂のなかに入ってゆく事が出来なかった。

親しみをお互に求め合ふことは出来ても、何物もない所に、親しみ入らうとすることは出来なかった。

嫂は、また驚く程すまして、驚く程平然としてゐる人のやうにも見えた。気の小さい彼女は、その前でまごついた。不安であった。

嫂は食事以外に、自分の部屋から出て来なかった。食事の時には、黙って彼女の前で箸と口とをうごかすばかりであった。

そして食事が終るとあとを片づけて、すぐ勢よく廊下を歩き、自分の部屋に入り襖をきっちり閉めてしまふ。そのあとはなんの音もしない。微笑したことを、笑ったことを、泣いたことを、無駄口一つ聞いたことを、彼女は知らないのだ。

嫂はまた、恐ろしく冷淡な、かたく己を閉してゐる人のやうにも、またある時には、高慢な無作法な人のやうにも見えた。そしてまた、この世の何の欲望にも、支配されず、またこの世のさゝいな事には、少しも感じないやうにも見えた。彼女は、嫂の部屋が、どんなやうになり、嫂がその中でどんな事をしてゐるかを少も知らない。嫂をつゝむ感情は恐怖と、不安とであった。彼女はまた悲しんだ。

しかし、彼女はその真面目な顔を、食事の時に静かにのぞくけれども、五慾をはなれた聖者のやうな、神々しさや清さは見られなかった。その広い肩や、黒ずんだやせた頬には人間のもついろ〱な欲望、殊にいやしさが目についた。けれども弱い辰子には、それによって自分の悲しみや不安を笑ふことは出来なかった。そして、彼女はなほ嫂に対する理想を持ち、親しみを欲してゐた。それで嫂を自分から離すことが出来ずに、自分のなかに置いてかなしんだ。

辰子は、縫物などのわからない所を、たづねやうと考へては、嫂の部屋の前でまよった。彼女は、自分が学校にゐる時から嫂を信じてゐたことが、間違ひでなかったらうかと考へた。なぜ嫂のことばかりに、執着して自分は恐れかなしんでゐるのだらうかと考へた。

彼女には、みえがあった。いかなる事に対しても嫂を悪く云ふまい、憎くまぬといふのであった。自分が初めて信じたことをとほして、どんな嫂でも親しまねばならないといふのであった。彼女には、意地があった。彼女は、その意地を通すことが出来ないので、不安であった。

しかし、彼女は、日がたつに従ってゆるやかに嫂をはなれて見た。そうしてゐるうちに嫂に対して、かなしみや恐れよりは、おかしさの方が先に立って来た。そして辰子はすぐにフランチェスカのことを思出して、一人で笑った。少しは、おかしい事も笑ひたいこともありそうなものを、いつも〱真面目な顔をしてゝ自分ながら、おかしくてならないだらうかと考へた。

彼女は、もはや嫂の真面目な顔、強い足音を聞いても、恐怖ばかりでなくなった。瞬間の恐怖についで不安のおかしさが入りみだれて来た。かなしさは、淡くなって彼女を考へさせることをしなかった。

若い彼女のよろこびや、うれしさは、また遠く外に向って走った。彼女は、美しいものにあこがれ、恋を思った。けれども、辰子は家にゐて嫂の姿や顔を見る時、不思議を感ぜずには居られなかった。

嫂は、若い日の喜びや悲哀があったらうか。嫂は、恋を思ったことがあるだらうか。

辰子は、殆んど興味に近い感情を持って、嫂がいかなる感情の一面を持ってるかを知りたくてならなかった。

青葉の影が濃くなった。嫂の部屋は、濃い青葉の影と明るい初夏の日光のなかに開けられてあった。辰子は、嫂の部屋を初めて見た。窓際に大きな机が置いてあって、大きな硯箱が一つのせてある。そしてペンとインキが端の方にあった。

床の間には、小箪笥こだんすが置いてあって、その側には、驚く程沢山な本が積みかさねてあった。辰子は、早速その本の一冊を借りやうと思った。

辰子は、縁を歩いて来た。そして縁の柱によったまゝ、手水鉢てうずばちのそばの紫陽花あぢさいの葉をちぎってた嫂は、そこを通りすぎやうとした。いつもの強いするやうな足音をして、つんとそったまゝ、その真面目なむっとしたやうな顔が来たのだ。辰子はまたふと、恐怖におそはれた。そして行きすぎてしまってから、つまったやうな声で、

『嫂さん。』と呼んだ。嫂は、黙って振りむいた。

『どうぞ、どんな本でも一冊借して下さいませんか。』彼女は、云った。

嫂は、そのまゝ部屋に入って行った。何事も云はないで、彼女が茫然したやうな様子をして立ったまゝで居ると、嫂はやがて一つの本を持って来て云った。

『なんにもありませんよ』。

辰子は、嫂から借りた厚い本を持って早速自分の部屋にかけ込んだ。

その本のなかには恋のあはれを黒染の衣につゝんだ滝口入道のことなどが書いてあった。清い空想に涙ぐむ彼女は、すっかり捕へられて読んだ。そして、その幻からやうやくはなされた時に、辰子は気がついた。そして驚いた。

嫂の赤いインクのラインは、恋になやむ時頼のあはれさに二重にも三重にも引かれてあったのである。

辰子は、なんとなく驚いてしまった。外形は、どんな人でも、人の感情といふものは、大方おなじものなのだ。

彼女は、思がけないやうな気がした。しかし心安さを感じた、そして、それと同時に、またふと嫂の真面目らしいむっとした、顔を思出すと笑ひ出したいやうな気になった。

しかし、辰子の笑ひは、単なる、おかしさに過ぎなかった。冷笑も嘲笑もなかった。また嫂の前で笑ふ丈の大胆さもなかった。笑ひは邪気のないものであった。その下により多くの恐怖と不安とがあった。で嫂の姿の見えない時に、辰子は邪気なく笑った。

彼女は、時々学校時代の自分のかなしみを思出して、あはれに思ったり等した。辰子はまだ嫂をいゝ人だの悪い人だのと批判することは出来なかった。只かなしいことが時々おかしいことにかはるばかりであった。

辰子は、そののち、嫂が夢二畫集を持ってることを聞いて借りた。彼女は幾度も、かつて見たものであったけれども。

畫集のなかには、まだ赤インクが見えた。センチメンタルな甘い哀愁や、悲哀や寂寥にも、点やラインが引いてあった。そして折々には、嫂自らの思出の歌らしいのが書きつけてあった。辰子は、少し嫂を軽蔑しなければならないやうに思った。

彼女は、ある時、久し振りに旅から帰って来た、兄の顔を玄関でよく見た。彼女は、

「泣きぼそみあり、わが思ふ人」。といふ嫂のかきつけてあった歌の下句を思出してゐるからであった。彼女は淡い恐怖の心を持って見た。しかし、青白い兄の顔には黒子ほくろが一つもなかった。

辰子は、もはや自分の心で嫂を考へまいと思った。嫂は、いつまでも冷たく真面目にすましてゐた。

(推定・大正四年作・発表誌不明)

底本 / Source edition

底本:「素木しづ作品集」札幌・北書房
1970(昭和45)年6月15日発行
初出:不明
※旧仮名中の拗促音の小書きと、新字・旧字の混在については整理せず、底本のママとしました。
入力:素樹文生
校正:柳澤敦子
2001年12月14日公開
2005年12月30日修正
青空文庫作成ファイル:
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書誌 / Bibliography
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素木 しづ「嫂」(新字旧仮名)、底本『素木しづ作品集』札幌・北書房、1970年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 004316_000012, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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