Soranoha

クラリモンド

クラリモンド

ゴーチェ テオフィル

兄弟、君はわしが恋をした事があるかと云ふのだね、それはある。が、わしの話は、妙な怖しい話で、わしもとつて六十六になるが、今でさへ成る可く、其記憶の灰を掻き廻さないやうにしてゐるのだ。君には、わしは何一つ分隔わけへだてをしないが、話が話だけに、わしより経験の浅い人に話しをするのは、実はどうかとも思つてゐる。何しろわしの話の顛末いきさつは、余り不思議なので、わしが其事件に現在関係してゐたとは自分ながらわしにも殆ど信じる事が出来ぬ。わしは三年以上、最も不可思議な、そして、最も奇怪な幻惑の犠牲になつてゐたのである。

わしはみじめな田舎の僧侶をしてゐたが、毎夜、夢には――わしはそれが悉く夢ならむ事を祈つてゐるが――最も五慾に染んだ、呪ふ可き生活を、云はゞサルダナパルスの生活を送つてゐた。そして或女をうつかり一目見たばかりに、危あぶなくわしの霊魂を地獄に堕す所だつたが、幸にも神の恵と、わしを加護してくれた聖徒の扶けとによつて、遂にわしは、わしに附いてゐた悪魔の手から免れる事が出来た。思へばわしの昼の生活は、長い間、全く性質の異つた夜の生活と、織り交ぜられてゐたのである。昼間は、わしは祈祷と神聖な事物とに忙しい神の僧侶であるが、夜、眼をつぶる刹那からは、忽たちまち若い貴族になつてしまふ。女と犬と馬とにかけては、眼のない人間になつてしまふ。博奕も打つ、酒も飲む、罵詈をして神を馬鹿にもする。そして、暁方に眼を醒ますと、却つてわしがまだ眠つてゐて、唯、僧侶になつた夢をみてゐるやうな心持がする。此夢遊病者のやうな生活の或場面とか或語とかの回想は、未だにわしの心に残つてゐて、わしはどうしてもそれを、わしの記憶から拭ひ去る事が出来ない。わしは、実際、わしの住居すまひを離れた事のない人間なのだが、人はわしの話すのを聞くと、わしは浮世の歓楽に倦みはてゝ、信心深い、波瀾に富んだ生涯の結末を神に仕へて暮さうと云ふ沙門だと思ふかもしれない。此世紀の生活からさへ絶縁された、森の奥の、陰鬱な僧房に住みふるした学僧だとは思はぬかもしれない。

わしは恋をした。わしの様に烈しく恋をした者は此世に一人もゐない程、恋をした――愚おろかな、凄すさまじい熱情を以て――わしは寧ろその熱情がわしの心臓をずたずたに裂かなかつたのを怪しむ位である。あゝ如何なる夜――如何なる夜であつたらう。

わしは幼い時から、わしの天職の僧侶にあるのを感じてゐた。そこでわしの凡ての研究は、其理想を目標として積まれたのである。二十四歳までのわしの生活は云はゞ唯、長い今道心の生活であつた。神学を修めると共に、わしは引続いて凡ての下級の僧位を得た為めに、先達たちは、若いながらわしが、最後の、恐しい位階を得る資格がある事を認めてくれた。そしてわしの授位式は、復活祭の一週中に定められたのである。

わしはそれ迄に世間を見た事がなかつた。わしの世界は大学と研究室との壁に限られてゐたのである。尤も「女」と云ふ者があると云ふ事は、漠然と知つてゐたが、わしはわしの思想が此様な題目の上に止る事を許さなかつたので、わしは全く純真無垢な生活をつゞけて来た。一年に二度、わしは、年をとつた体からだの弱い母親に逢ふが、此二回の訪問の中に、わしの外界に対する、凡ての関係が含まれてゐたのである。

わしは何も悔いる所はなかつた。わしは此最後の、避く可からざる一歩を投ずるのに、何等の躊躇もしなかつた。わしは唯、喜悦と短気とに満たされてゐたのである。婚礼をする恋人でも、わし以上の熱に浮かされた感激を以て、遅い時の歩みを数へはしなかつたであらう。わしは眠りさへすれば、必ず祈祷を唱へてゐる夢を見た。僧侶になるより愉快な事はない。かうわしは信じてゐた。元より国王になる気も、詩人になる気も無い。わしの野心は、之以上に高い目標を認める事が出来なかつたのである。

わしが君に此様な事を云ふのは、わしの身の上に起つた事が、順当に行けば決して起らなかつたと云ふ事を知らせる為めに云ふのである。そしてわしが、不可解な蠱惑こわくの犠牲であつたと云ふ事を理解して貰ふ為めに云ふのである。

終に当日が来た。わしは、自分が空に浮んでゐるか、肩に翼が生えたかと疑はれる程、軽快な足取りで、教会へ歩いて行つた。わしには、自分が天使であるかの如く思はれた。そして、わしの同輩の、真面目な考深い顔をしてゐるのが、如何にも不思議に思はれた。それは教会にも、わしの同輩が五六人ゐたからである。わしは一夜を祈祷に明した後なので、殆ど恍惚として一切を忘れようとしてゐた。年をとつた僧正も、わしには「永遠」に倚よつてゐる神の如くに見えた。わしは実に、殿堂の穹窿きゆうりゆうを透すかして、天国を望む事が出来たのである。

あの式の個条は君もよく知つてゐる――祓浄式、二つの形式の下に行はれる聖餐式、「改宗者の膏あぶら」を手の掌ひらに塗る式、それから、僧正と一しよに恭しく、神の前へ犠牲を捧げる式……

あゝ、ヨブが「軽忽きやうこつなる者は、眼を以て聖約を為さざる者なり」と云つたのは、真理である。わしは不図、其時迄下を向いてゐた頭を挙げて、わしの前にゐる女を見た。女はわしが触れる事が出来るかと思はれる程、近くにゐる――が実際は、わしから可成離れて、内陣のずつと向うの欄干の辺あたりにゐたのである――年も若く、容貌きりやうも驚くばかり美しい。そして立派な着物迄着てゐる。丁度、其時わしはわしの眼から、急に鱗が落ちたやうな気がした。わしは、思ひがけなく明を得た盲人のやうな心持になつたのである。一瞬間以前には、光彩に溢れてゐた僧正も、急に何処かへ行つてしまへば、金色の燭架の上の蝋燭も、暁の星のやうに青ざめて、わしには無限の闇黒が、全寺院を領したやうに思はれた。そして其美しい女は、其闇黒を背景に燦爛とした浮彫になつて、丁度天使の来迎を仰ぐやうに、わしの眼の前に現れて来た。彼女は、自ら輝いてゐるやうに、しかも光を受けてゐると云ふよりは、自ら光を放つてゐるやうに見えたのである。

わしは眼を閉ぢた。そして二度と再び眼をあけまいと決心した。わしは外界の事物の影響を蒙るのを恐れてゐた。それは、殆どわしが何をしてゐるか知らぬ内に、次第に蠱惑がわしの心を捕へてしまつたからである。

それにも関らず、忽ち又、わしは眼を開いた。何故と云へば、わしは睫毛の間からも、彼女が虹色にきらめきながら、太陽を凝視みつめてゐる時に見えるやうな、紫の半陰影に囲まれてゐるのを見たからであつた。

おゝ如何に彼女は美しかつたであらう。理想の美を天上に求めて、其処から聖母の真像を地上に齎し帰つた大画家でも、其輪廓に於ては到底、わしが今見てゐる、自然の美しい実在に及ぶ事は出来ない。詩人の詩、画家の画板も、彼女の概念を与へる事は、全く不可能である。彼女はどちらかと云へば、背の高い方で、女神のやうな姿と態度とを備へてゐる。柔かな金髪は、真中から分れて、顳顬こめかみの上へ二つの漣立さゞなみたつた黄金の河を流してゐた。丁度、王冠を頂いた女王のやうにも思はれる。すき透るばかりに青白い額は又静に眉毛の上に拡がつてゐる。其眉毛は不思議にも殆ど黒く、抑へ難い快活と光明とに溢れた海の如く青い眼の感じを飽く迄もうつくしく強めてゐる。あゝ、何と云ふ眼であらう。唯一度瞬けば一人の男の運命を定めるのも容易なのに相違ない。其眼はわしが是迄人間の眼に見る事の出来なかつた生命と光明と情熱と潤ひのある光とを持つてゐる。其眼は又絶えず矢のやうに光を射てゐる。そしてわしは確に、その光がわしの心の臓に這入つたのを見た。わしは其眼に輝いてゐる火が、天上から来たのか、地獄から来たのかを知らない。けれども、それは確に其二つの中のどちらからか来たのである。彼女は天使か、さもなくば悪魔である。そして恐らくは又両方であつたらしい。兎に角、彼女が我等の同じき母なるエヴの胎から生れた者で無い事は確である。それから此上もなく光沢つやのある真珠の歯が、紅い微笑ほゝゑみの中にきらめいて、唇の彎ゆがむ毎に、小さな靨ゑくぼが、繻子のやうな薔薇色のうつくしい頬に現れる。そして鼻の孔あなの正しい輪廓にも、高貴な生れを示す嫋なよやかさと誇らしさとが見えてゐる。半ば露あらはした肩の滑な光沢つやのある皮膚の上には、瑪瑙めのうの光がゆらめき、大きな黄味のある真珠を綴つた紐は――其色の美しさは殆ど彼女の頸に匹敵する――彼女の胸の上にたれてゐる。時々、彼女は物に驚いた蛇か孔雀のやうな、をのゝくやうな嬌態しなを作つて、首をもたげる。すると銀の格子細工のやうに頸を捲いてゐる高いレースの襞襟ひだえりがをのゝくやうに動くのである。

彼女は橙色がかつた真紅の天鵞絨ビロードの袍を着てゐた。其黄鼬てんの毛皮のついた、広い袖口からは、限りなく優しい、上品な手が、覗いてゐる。手は曙の女神オーロラの指のやうに、光を透すかと思はれる程、清らかなのである。

凡て是等の事柄を一つ〱わしは昨日の如く思ひ返す事が出来る。何故と云へば其時、わしはどぎまぎしながらも、何一つ見落すやうな事をしなかつたからである。ほんの微かな陰影でも、顋の先の一寸した黒い点でも、唇の隅の有るか無いかわからない程の生毛うぶげでも、額の上にある天鵞絨のやうな毛でも、頬の上に落ちる睫毛まつげのゆらめく影でも、何でもわしは驚く程明瞭な知覚を以て、注意する事が出来た。

そしてわしは凝視を続けながら、わしの心の中に、今迄鎖されてゐた門をわしが開いてゐるのを感じた。長い間塞がれてゐた孔が開けて、内部の見知らない景色を垣間見かいまみる事が出来たのである。人生は忽ち全く新奇な光景を、わしの前に示してくれた。わしは、今新しい世界と新しい事物の秩序との中に生れて来るのであつた。

すると恐しい苦痛がわしの心を、赤熱した釘抜のやうに苛さいなみはじめた。一分ぷん一分が、わしには一秒であると共に又一世紀であるやうに思はれた。此間に式が進んで、わしは間も無く、わしの新たに生れた欲望が烈しく、闖入しようとしてゐた世界から、遠くへ引離されてしまつたのである。わしは「否」と云ひたい所を「然り」と答へた。これはわしの心の中にある凡ての物がわしの霊魂に加へた舌の暴行に対して極力反抗したが其甲斐がなかつたのである。恐らく、多くの少女が断然父母の定めた夫を拒絶する心算つもりで、祭壇へ歩んで行くのにも関らず、一人として其目的を果す者の無いのも、かうした訳からに相違ない。そして多くの燐れな新参の僧侶が誓言を述べに呼ばれる時には、面帕ヴェールをずた〱に裂く決心をしてゐながら、阿容々々とそれを取つてしまふのも亦確にかうした訳からである。かくして人は、其処にゐる凡ての人々に対して大なる誹謗ひばうの声を挙げる事を敢てしないと共に、又多くの人々の期待を欺く事も敢てしない。凡ての夫等の人々の眼、凡ての夫等の人々の意志は、恰も鉛の如く君の上に蔽ひかゝるやうに思はれるのである。それのみならず、規則も正しく定まつてゐれば、万事が予め、完全に整つて、しかも多少必然的に避ける事の出来ないやうに出来上つてゐるので、個人の意志は事情の重みに屈従して遂には全く破壊されてしまふのである。

式の進むのにつれて、其知らぬ美人の顔も表情が違つて来た。彼女の顔色は、最初は撫愛するやうな優しさを示してゐたが、今は恰もそれを理解させる事が出来ないのを、憎み且つ恥づるやうな容子に変つたのである。

山をも抜くに足りる意志の力を奮つて、わしは、僧侶などになり度く無いと叫ばうとした。が、どうしてもそれが出来なかつた。わしには舌が上顎に附着してしまつたやうな気がしたのである。わしは否定の綴音を一つでも洩して、わしの意志を表白する事すら出来なかつた、わしは眼が醒めてゐながら、生命いのちにも関はる一語を叫ばうとして、魘うなされてゐる人間のやうな心持がした。

彼女もわしの殉教の苦しみを知つてゐるかの如くに見えた。そして恰も、わしを励ますやうに、最も神聖な約束に満ちた眼色めつきをして見せるのである。彼女の眼が詩なら彼女の一瞥は正に唄であつた。

彼女はわしにかう云つてくれる。「貴方あなたが私のものになる思召しなら、私は貴方を天国にゐる神様より仕合せにしてあげます。天使たちでさへ貴方を嫉むでせう。貴方は貴方を包まうとする経帷子きやうかたびらを裂いておしまひなさい。私は『美』です、『若さ』です、『生命』です。私の所へいらつしやい。エホバはその代りに何を貴方に呉れるのでせう? 私たちの命は夢のやうに、永久の接吻の中に流れて行きます。其聖杯の葡萄酒を投げすてゝおしまひなさい。さうすれば貴方は自由です。私は貴方を『知られざる島』へつれて行つてあげます。貴方は、銀の天幕の下で厚い金の床の上で、私の胸にお眠りなさい。私は貴方を愛してゐるのですから。私は貴方の神の手から貴方を離してしまひたいのですから。貴方の神の前では、大ぜいの尊い心性こゝろばへの人たちが、愛の血を流します。けれども其血は神のゐる玉座の階きざはしにさへとゞきません。」

是等の語は、わしの耳に無限の情味にあふれた諧律を作つて漂つて来るやうに思はれた。そして彼女の眼の声は、恰も生きた唇がわしの生命の中に声を吹き込んだやうに、わしの心臓の奥迄も反響した。わしはわし自らが神を捨てようとしてゐるのを感じた。が、わしの舌は猶機械的に式の凡ての形式を満したので、わしはわしの胸が聖母の剣よりも鋭い刃に貫かれるやうな気がせずにはゐられなかつた。

凡ての事が円満に終を告げた。わしは遂に憎侶となつた。

此時、彼女の顔に現れた程、人間の顔に深く苦痛が描かれた事はない。婚約をした恋人が突然、己の傍に仆れて死んだのを見た少女、歿なくなつた子供の揺籃に倚懸つてゐる母親、楽園の門の閾しきゐに立てゐるエヴ、宝は盗まれて其跡に石の置いてあるのを見た吝嗇な男、偶然其最も傑れた作の原稿を火の中に取落した詩人――是等の人々もかう迄絶望した、かう迄慰め難い顔附かほつきをする事はないであらう。血と云ふ血は彼女の愛らしい顔を去つて、それが今は大理石よりも白くなつてゐる。彼女の美しい両腕は、恰も其筋肉が急に弛緩したかのやうに、力なく両脇に垂れてゐた。彼女は身を支へる柱を求めた。それは殆ど手足が彼女の自由にならなくなつてゐたからである。そしてわしも亦、教会の戸口の方に蹌踉よろめいて行つた、死のやうに青ざめて、額にはカルヴァリイ(註。耶蘇の磔殺された地名)の汗よりも血のやうな汗を流しながら。わしはまるで縊り殺されてゐるやうな気がした。さうかと思ふと又円天井がわしの肩の上へ平になつて落ちて来るやうな気もした。そして其円天井の重量をわしの頭だけで支へてゐるやうな心持になつたのである。

わしが戸口を出ようとすると、急に一つの手がわしの手を捕へた――女の手だ! 其時迄わしは一度も女の手に触れた事は無かつた。其手はさながら蛇の皮膚のやうに冷い。しかも其感触は、恰も熱鉄に烙やかれたやうに、わしの手首を燃やすのである。彼女だ。「不仕合せな方ね。不仕合せな方ね。何と云ふ事をなすつたの。」彼女は低い声でかう叫ぶと、忽ち群集の中に隠れて見えなくなつてしまつた。

すると、老年の僧正がわしの傍を通り過ぎた。そして厳格な、不審さうな一瞥をわしの上に投げた。わしは顔を赤くしたり、青くしたりした。と、同輩の一人がわしを憐れんで、手を執つてわしを外へ連れ出してくれた。恐らくわしが、人の扶けを借りずに、研究室へ帰るのは、到底出来なかつた事であらう。所が往来の角で、同輩の若い僧侶の注意が一寸他に向いてゐる隙を見て、空想的な衣裳を着た、黒人の扈従こしやうがわしの側そばへやつて来た。そして歩きながら、わしの手に小さな金縁の手帳を忍ばせると同時に、それを隠せと云ふ相図をした。わしはそれを袖の中に隠した。そしてわしの部屋へ帰つて独りになるまで、そこにしまつて置いた。それからわしは其控金とめがねを開いた。中には紙が二枚はひつてゐる。其紙にはかう書いてあつた。「クラリモンド・コンチニの宮にて」当時わしは、世間の事に疎かつたので、クラリモンドの名さへ、有名だつたのにも関らず、耳にした事は一度も無かつた。そして又コンチニの宮が何処にあるかと云ふ事も、一向に分らなかつた。そこでわしは何度となく推量を逞くして見た。そして推量を重ねる度に想像は益々方外になつたが、実際、わしは唯もう一度、彼女に逢へさへするならば、彼女が貴夫人であらうと、娼婦であらうと、それは大して構ひもしなかつたのである。

わしの恋は、僅一時間程経つ内に、抜き難い根を下ろして了つた。わしは其恋を思切らうなどとは夢にも思はなかつた。わしには其様な事は、全然不可能だとしか信じられなかつた。彼女が一目見たばかりにわしの性質は一変してしまつたのである。彼女は己の意志をわしの生命の中に吹き込んだ。そしてわしはもうわし自身の肉体の中に生活しないで、彼女の肉体の中に、しかも彼女の為に生活するやうになつた。わしはわしの手の、彼女の触れた所を接吻した。わしは何時間も続けさまに、彼女の名を繰返して呼んで見た。何時でも眼さへ閉ぢればわしには彼女の姿が其処にゐるやうにはつきりと見えるのである。わしは彼女が教会の玄関で、わしの耳に囁いた語を反覆した。「不仕合せな方ね、不仕合せな方ね。何と云ふ事をなすつたの。」わしは遂に、わしの現状の恐しさを、判然と理解する事が出来た。わしの今、就いた職務の恐る可き厳粛な制限が、明かにわしの前に暴露された。僧侶になる!――それは独身でゐると云ふ事だ。決して恋をしないと云ふ事だ。性セックスとか年齢とかの区別を構はなくなる事だ。凡ての美から背き去る事だ。眼を抉りぬいてしまふ事だ。永久に寺院とか僧院とかの冷い影の中に蹲つて隠れてゐる事だ。見知らない屍体に番をされてゐる事だ。死にかゝつてゐる人間ばかり訪ねて行く事だ。そして己自身の死を悼む喪服として、何時でも黒い法衣を着てゐる事だ。云はゞ君の着物が、君の亡骸なきがらを納めた柩の棺布かけぎぬの役に立つのである。

わしは今更のやうにわしの生命が、丁度地下の湖のやうに、拡がりつゝ溢れつゝ水嵩を増して来るのを感ずる。わしの血は烈しくわしの動脈をめぐつて躍り上る。わしの久しく抑圧してゐた青春は、千年に一度花の咲く蘆薈のやうに、生々と萌え出でて迅雷の響と共に花を開くのだ。

クラリモンドに、再び逢ふ為にわしは何をする事が出来るのだらう。わしは市にゐる人を一人も知らない。それでどうして研究室を去る口実が得られよう。わしは暫くでも此処に止つてゐられさうもない。唯、待ち遠いのは、わしが今後就任すべき牧師補の辞令ばかりである。わしは窓まどの鉄格子を取去らうと試みた。けれども窓は地を離れる事が遠いので、梯子が無ければ、かうして逃げるなどと云ふ事を考へるだけ愚だと気がついた、其上、わしが夜に乗じて其処から逃げる事が出来たとしても、其後どうして錯雑した街路の迷宮を、わしの思ふ所へ辿り着く事が出来るだらう。多くの人々には全く無意味に思はれる是等の凡ての事が、昨日始めて恋に落ちた、経験も無く、金も無く、美しい着物も無い燐れな学僧のわしには、偉大な事のやうに思はれたのである。わしは恋の闇に迷ひながら、かう自ら叫んだ。「あゝ、わしが僧侶で無かつたなら、わしは彼女を毎日見る事が出来るのだ、彼女の恋人にも彼女の夫にもなれるのだ。さうしたら此陰気な法衣に包まれてゐる代りに、外の美しい騎士のやうに絹と天鵞絨の袍を着て、金の鎖を下げて、剣を佩いて、美しい鳥の羽毛を着つけるやうになるだらう。わしの髪も、短く刈られてしまふ代りに、波立ちながら渦を巻いて、わしの頸の上に垂れるだらう。わしの髭にも美しく蝋を引くだらう。そしてわしは一廉ひとかどの貴公子になれるのだ。」それを唯、祭壇の前で一時間を過した為に、忙しく口にした五六の語の為に、わしは永久に生きてゐる人間の仲間から追払はれて、わし自身の墓石に封をするやうな事になつたのだ。

わしは窓の所へ行つた。空は青く美しい、木は春の着物を着てゐる。わしには自然が皮肉な歓喜を飾り立てゝゐるやうに見えた。広場には人が一杯ゐる。行く者もある、来る者もある、若い遊冶郎と若い美人とが二人づつ、茂みや花園の方へぶら〱歩いて行くのも見える。愉快らしい青年が、楽しさうに「将進酒しやうしんしゆ」の畳句でふくを唄ひ連つれて歩むのも見える、――それは悉くわしの悲哀と寂寞とに辛つらい対照を造る愉悦、興奮、生活、活動の画図である。門の階段の上には若い母親が其子供と遊びながら坐つてゐる。母親は、未だ乳の滴が真珠のやうについてゐる子供の小さな薔薇色の唇に接吻をする。そして子供をあやす為に、唯女親のみが発明する事の出来る神聖な様々のとぼけた事をする。父親は少し離れて佇みながら此愛すべき二人を眺めて微笑を洩してゐる。それが両腕を組んだ中に其喜をぢつと胸に抱き締めてゐるやうに見える。わしは之を見てゐるのに忍びなかつた。そこで手荒く窓を鎖とざして床の上に荒々しく身を横へた。わしの心は恐しい憎悪と嫉妬とに満ちてゐたのである。そして丁度十日も食を得なかつた虎のやうに、わしはわしの指を噛み、又わしの夜着を噛んだ。わしは、わしがどれ丈かうしてゐたか知らない。が、遂に痙攣的な怒りの発作に襲はれて、床の上で身を悶えてゐると急に僧院長アベ、セラピオンが室の中央に直立して、ぢつとわしを注視してゐるのを認めた。わしは、慚愧に堪へないで、頭を胸の上に垂れた。そして両手で顔を蔽つた。

「ロミュアルよ、わしの友達よ、何か恐しい事がお前の心の中に起つてゐるのではないか。」数分の沈黙の後にセラピオンが云つた。「お前のする事はわしには少しもわからない。お前は――何時もあのやうに静な、あのやうに清浄な、あの様に温和おとなしい――お前が野獣のやうに部屋の中で怒り狂つてゐるではないか。気をつけるがよい。兄弟よ――悪魔の暗示には耳を傾けぬがよい。悪魔は、お前が永久に身を主しゆに捧げたのを憤つて、お前のまはりを餌食を探す狼のやうに這ひまはりながら、お前を捕へる最後の努力をしてゐるのぢや。征服されるよりは、祈祷を胸当てにして苦行を楯にして、勇士のやうに戦ふがよい。さうすれば必ずお前は悪魔に勝つ事が出来るだらう。徳行は、誘惑によつて試みられなければならない。黄金は試金者の手を経て一層純な物になる。恐れぬがよい、勇気を落さぬやうにするがよい。最も忠実な、最も篤信な人々は、屡々しばしばこのやうな誘惑を受けるものぢや。祈祷をしろ、断食をしろ、黙想に耽れ、さうすれば悪魔は自おのづから離れるだらう。」

セラピオンの語は、わしを平常ふだんのわしに帰してくれた。そして少しはわしの気も鎮しづまつて来た。彼は又かう云ふのである、「わしは、お前がC――の牧師補を授けられた事を知らせに来たのぢや。其処を管理してゐた僧侶が死んだので、僧正は直にお前を任命するやうにわしにお命令いひつけなすつた。それだから、明日立てるやうに準備をするがよい。」わしは頭を垂れて之に答へた。そして僧院長アベはわしの部屋を出て行つた。わしは祈祷の書を開いて、祈りの句を読み始めた。が、字が霞んで何の事が書いてあるのだか解らない。わしの頭脳の中では、観念の糸が無暗にもつれ出して、遂にはわしの気が附かぬ内に祈祷の書はわしの手から落ちてしまつた。

明日、彼女に二度と逢はずに立つて仕舞ふと云ふ事、わしと彼女との間に置いてある多くの障碍物に、更に新しい障碍物を加へると云ふ事、実に奇蹟による外は、彼女に逢ふ一切の望を失つてしまふと云ふ事! あゝ彼女に手紙を書くと云ふ事さへわしには不可能になるだらう。何故と云へば、わしは誰にわしの手紙を託ことづけると云ふ事も出来ないからである。わしは僧侶と云ふ神聖な職務に就きながら誰にわしの心の中を打明ける事が出来るだらう。誰に信用を置く事が出来るだらう。

其時急にわしは、僧院長アベセラピオンが悪魔の謀略たくみを話した語を思出した。今度の事件の不可思議な性質、クラリモンドの人間以上の美しさ、彼女の眼の燐のやうな光、彼女の手の燃え立つばかりの感触、彼女がわしを陥し入れた苦痛、わしの心に急激な変化が起ると共に、凡てのわしの信心が一瞬の間に消えた事――是等の事は、其悪魔の仕業しわざなのをよく証拠立てゝゐるではないか。恐らく繻子のやうな手は爪を隠した手袋であるかも知れぬ。是等の想像に悸おどろかされてわしは、再びわしの膝からすべつて、床の上に落ちてゐた祈祷の書を取り上げた。そして再び祈祷に身を捧げようとしたのである。

翌朝セラピオンはわしを伴れに来た。みすぼらしいわし達の鞄を負つて、騾馬らばが二頭、門口に待つてゐる。彼は一頭の騾馬に乗り、わしは他の一頭に跨つた。

わし達が此市まちの街路を過ぎて行つた時に、わしは、クラリモンドが見えはしないかと思つて、凡ての窓、凡ての露台を注意して眺めて行つた。が、朝が早いので、市まちはまだ殆ど其眼を開かずにゐた。わしはわし達が通りすぎる、凡ての家々の簾や窓掛を透視する事が出来たらばと思つた。セラピオンは、わしの此好奇心を確に、わしが建築を賞讃してゐるのだと思つたらしい。かう云ふのは彼が、わしにあたりを見る時間を与へる為に、わざと騾馬の歩みを緩めたからである。遂にわし達は市門を過ぎて其向うにある小山を上りはじめた。其頂に着いた時である。わしはクラリモンドが住んでゐる土地の最後の一瞥を得ようと思つたので、その方に頭をめぐらして眺めると、大きな雲の影が、全市街の上に垂れかゝつて、其青と赤と反映する屋根の色が、一様な其中間の色に沈んでゐた。其色の中を、其処此処から白い水沫みなわのやうに、今し方点ぜられた火の煙が上へ〱と昇つて行く。と、不思議な光の関係で、まだ模糊とした蒸気に掩はれてゐる近所の建物よりは遥に高い家が一つ、太陽の寂しい光線で金色こんじきに染められながら、うつくしく輝いて聳えてゐる――実際は一里半も離れてゐるのであるが、其割には近く見える。そして其建築の細い点迄が明に弁別される――多くの小さな塔や高台や窓枠や燕の尾の形をしてゐる風見迄が、はつきりと見えるのである。

「向うに見える、あの日の光をうけた宮殿は何でせう。」とわしはセラピオンに尋ねた。彼は眼に手をかざして、わしの指さす方を眺めた。と其答はかうであつた。

「コンチニの王が、娼婦クラリモンドに与へた、古の宮殿ぢや。あそこで怖しい事をしてゐるさうな。」

其刹那に、わしには実際か幻惑かはしらぬが、真白な姿の露台を歩いてゐるのが見えたやうに想はれた。其姿は通りすがりに、瞬く間日に輝いたが、忽ち又何処かへ消えてしまつた。それがクラリモンドだつたのである。おゝ、彼女は知つてゐたであらうか。其時、熱を病んだやうに慌しく――わしを彼女から引離してしまふ嶮しい山路の上に、あゝ、わしが再び下る事の出来ない山路の上に、彼女の住んでゐる宮殿を望見してゐたと云ふ事を。此主あるじとなつて、此処に来れとわしを招くやうに、嘲笑ふ日の光に輝きながら、此方へ近づくかと思はれた宮殿を、望見してゐたと云ふ事を。疑も無く彼女はそれを知つてゐた。何故と云へば彼女の心は、わしの心と同情に繋がれてゐたので、其最も微かな情緒の時めきさへ感ずる事が出来たからである。其鋭い同情があればこそ、彼女は――寝衣を着てはゐたけれども――露台の上に登つてくれたのである。

影は其宮殿をも掩つて、満目の光景は、唯屋根と破風との動かざる海になつた。そして其中には一つの山のやうな波動が明かに見えてゐるのである。セラピオンは、騾馬を急がせた。わしの馬も同じ歩みを運んで、其後に従つた。そして其内に路が鋭く曲る所へ来たので、S――の市は終に、永久にわしの眼から隠されてしまつた。しかもわしは決して其処へ帰る事の出来ない運命を負つてゐるのである。退屈な三日の旅行の末に、陰鬱な田園の間を行き尽して、わしはわしの管轄すべき寺院の塔上にある風見の鶏が、森の上から覗いてゐるのを見た。それから茅葺の小家と小さな庭園とに挟まれた、曲りくねつた路を行くと、やがて、多少の荘厳を保つた寺院の正面へ出た。五六の塑像で飾られた玄関、荒削りに砂岩を刻んだ円柱、柱と同じ砂岩の控壁ひかへかべのついた瓦葺の屋根――唯これだけである。左手には雑草が背高く生えた墓地があつて、其中央には大きな鉄の十字架が聳えてゐる。右手には寺院の影になつて牧師の住む家がある。家は恐しく簡単で、しかも冷酷な清潔が保たれてゐる。わし達は垣の内へ入つた。五六匹の雛ひよつ仔こが地に撒いてある麦を啄んでゐる。見た所では、僧侶の黒い法衣にも慣れたやうに、少しもわし達を怖がらない。そして殆どわし達の歩く道を明けようとさへしさうもない。と嗄がれた、喘息やみのやうな犬の声が、耳に入つた。老いぼれた犬が、此方へ駈けて来るのである。それは先住の牧師の犬であつた。懶ものうい、爛れた眼をして、灰色の毛を垂らしてゐる。そして犬の達し得る、極度の老年に達したと云ふあらゆる徴しるしが現れてゐる。わしは犬をやさしく叩いてやつた。犬は直に云ふ可らざる満足の容子を示してわし達と一しよに歩き始めた。以前の牧師の家庭を処理してゐた老婆も亦迎へに出て、わし達を小さな後の客間へ案内してから、わしが猶引続いて彼女を傭つてくれるかどうかと尋ねた。わしは、老婆も犬も雛つ仔も、先住が死際に譲つた其老婆の一切の家具も、残らず面倒を見てやると答へた。之を聞いて、老婆は我を忘れて喜んだ。そして僧院長アベセラピオンは、彼女が其僅な所有物に対して要求した金を、即座に払つてやつた。

わしの就任がすむと間もなく、僧院長アベセラピオンは僧侶学校に帰つた。そこでわしは助力をして貰ふのにも、相談相手になつて貰ふのにも、自分より外に誰もゐなくなつた。そしてクラリモンドの思ひ出は、再びわしの心に浮び始めたのである。わしは、極力それを打消さうと努めたが、わしの黙想には常に彼女の影が伴つて来た。或日暮にわしが黄楊つげの木にくぎられた路に沿うて、わしの家の小さな庭を散歩してゐると、気のせゐか楡の木の陰にわしと同じやうに歩いてゐる女の姿が見え、しかも其楡の葉の間からは、海のやうな緑色の眼の輝いてゐるのが見えた。併しそれも幻に過ぎなかつたらしく、庭の向う側へまはつて見ると唯、砂地の路の上に足跡が一つ残つてゐるばかりであつた――が其足跡は、子供の足跡かと思はれる程小さかつた。其癖庭は高い塀に囲まれてゐるのである。わしは庭の隅と云ふ隅を探して見たが、誰一人見附からない。わしにはこれが不思議に思はれてならなかつたが、其後起つた奇怪な事に比べると、之などは全く何でも無かつたのである。

満一年間、わしはわしの職務上の義務を、最も厳格な精密さを以て果しながら、祈祷をしたり、断食をしたり、説教をしたり、病人に霊魂の扶たすけを与へたり、又屡々わし自身が其日の生活にも差支へる位、施しをしたりして暮してゐた。しかしわしは心の中にはげしい焦立いらだゝしさを感じてゐた。そして天恵の泉も、わしには湧かなくなつてしまつたやうに思はれた。わしは神聖な使命を充す事から生れる幸福を味ふ事が出来なかつた。わしの思想は遠く漂つて、唯クラリモンドの語のみがわれ知らず繰返へす畳句のやうに、常にわしの唇に上るのである。おゝ、兄弟よ、よく之を考へて見てくれるがいゝ。唯一度、眼をあげて一人の女を見た為に、一見些細な過失の為に、わしは数年間、最もみじめな苦痛の犠牲になつてゐたのだ。そしてわしの生活の幸福は永久に失はれてしまつたのだ。

わしは、絶えずわしの心に繰りかへされた勝利と敗北を、しかも常に一層恐しい堕落にわしを陥れた勝利と敗北を此上話すのは止めようと思ふ。そして直にわしの物語の事実に話を進めようと思ふ。或夜、わしの戸口の呼鈴が、長く荒々しく鳴らされた。家事まかなひの老婆が起きて、戸を開けると、見知らぬ人が立つてゐる。バルバラ(老婆の名)の角燈の光の中に、青銅のやうな顔をして、立派な外国の装ひをした男の姿が、帯に短刀をさげて、佇んでゐるのである。老婆は、初め恐しい気がした。が、其見知らぬ人は、彼女が安心するやうに用事を告げて、わしの奉じてゐる神聖な職務に関して、至急わしに会ひたいと云ふことを述べた。バルバラは丁度わしが引込んだばかりの二階へ、其男を案内した。彼は彼の女主人になる或貴夫人が、今息を引取るばかりのところで、是非牧師に来て貰ひたがつてゐると云ふことを話した。そこでわしは、何時でも彼と一しよに行くと答へた。そして臨終と塗式に必要な、神聖な品々を携へて、大急ぎで二階を下りた。と、門の外には夜のやうに黒い馬が二匹、焦立たしげに土を蹴つて鼻孔から吐く煙のやうな水蒸気の長い流に、胸をかくしながら、立つてゐる。其男は鐙あぶみを執つて、わしの馬に乗るのを扶けて呉れた。それから彼は唯、手を鞍の前輪へかけた許りで、ひらりともう一頭の馬にとび乗ると、膝で馬の横腹を締めて手綱を緩めた。と、馬は忽ち矢の如く走り出でたのである。伴つれの馬に遅れまいと、其男が手綱を執つてゐたわしの馬も、宙を飛んで奔馳ほんちする。わし達はひたすらに途を急いだ。大地はわしたちの下で、青ざめた灰色の長い縞のやうに、後へ〱流れて行く。木立の黒い影画は、打破られた軍隊のやうに、わしたちの右左を、逃げて行くやうに見える。わし達が暗い森を通りぬけた時には、わしは冷い闇の中に迷信じみた恐怖から、わしの肉がむづつくのを感じた。わし達の馬の蹄鉄に打たれて、石高路いしだかみちから迸る明い火花の雨は、わし達の後うしろに火光の径こみちの如く輝いてゐた。此真夜中に、わし達二人を見た人があつたなら――わしの案内者とわしと――その人は二人の幽鬼が夢魔に騎して走るのだと思つたに相違ない。狐火は時々、路の行く手に明滅して、夜鳥は怖しげに、彼方の森の奥で啼き叫んでゐる。其森には、時として山猫の燐火を放つ眼がきらめくのさへ見えるのである。馬の鬣たてがみは益々乱れ、汗は太腹に滴つて、つく息も急に又苦しげに鼻孔を洩れるが、案内の男は馬の歩みの緩むのを見ると、殆ど人間とは思はれぬやうな、不思議な喉音を上げて、叱咜する。すると馬は又、元のやうに無二無三に狂奔するのである。遂に旋風のやうな競走が完つた。多くの輝かゞやいた点が開あいてゐる大きな黒い物が、急に眼の前に聳えた。わし連の馬の蹄は、丈夫な木造の刎橋はねばしの上に前よりも声高く鳴りひゞいて、二人はやがて二つの巨大な塔の間に口を開ひらいた大きな穹窿形の拱廊に馬をすゝめた。城廓の中は確に一種の大きな興奮に支配されてゐた。広庭には松明を持つた従者が縦横に駈け違ひ、頭の上には又燈火ともしびの光が階段から階段へ上下してゐた。わしは此厖大な建築の形を、混雑の中に瞥見する事が出来たが――丸柱や迫持せりもちの廊下や階段や段梯だんばしごや――それは誠に魔法の国にもふさはしい、堂々とした豪奢の趣致と楚々とした優麗の風格とを併せ有してゐるものであつた。すると黒人の扈従が――以前にクラリモンドの手帳を持つて来た男である、わしはすぐにそれと気が附いた――わしの馬から下りるのを手伝ひに来た。それから、黒天鵞絨の着物を着て首に金鎖をかけた家令も、象牙の杖によりながらわしに会ひに出て来た。見ると大きな涙の滴が眼から落ちて、頬と白い髯の上に流れてゐる。

「間に合ひませんでした。」と彼は悲しさうに首を振りながら叫んだ。「間に合ひませんでした。霊魂を救ふ事はお出来になりません。でも、せめてどうかいらしつてお通夜をなすつて下さいまし。」

彼はわしの手を執つて、死者の室へ案内した。わしの泣いたのも決して此老人に劣らなかつたであらう。それは死者が、クラリモンド其人、わしがあのやうに深くあのやうに烈しく恋してゐたクラリモンド其人だつた事を知つたからである。寝床の足の方には祈祷机が置いてある。

青銅の酒盞しゆさんに明滅する青い光は、室内を朦朧とさした。深秘な光にみたして、唯暗い中に家具や軒蛇腹のきぢやばらの突出した部分を、其処此処に時々明く浮き出さしてゐる。卓子の上にある、彫刻を施した甕かめの中には、一輪の素枯れた白薔薇が生けてある。其葩はなびらは――一つだけ残つてゐたが――皆、香のいゝ涙のやうに落ち散つて、甕の下にこぼれてゐる。壊れた黒い面と扇と其外肘掛椅子の上に置いてある様々な扮装の道具を見ても、「死」が急に何の案内もなく此華麗を極めた城廓に闖入した事がわかるであらう。わしは寝床の上を見るのに忍びないので跪いたまゝ「死者の為の讃美歌」を誦し始めた。そして烈しい熱情を以て、神がわしと彼女の記憶との間に墳墓を造つて、今後わしが祈祷をする時にも彼女の名を永久に「死」によつて浄められた名として、口にし得るやうにして下すつた事を感謝した。けれ共、わしの熱情は次第に弱くなつて、わしは思はずある夢幻の中に陥つてしまつた。一体其室は、死人の室らしい所を少しも備へてゐない室であつた。わしが通夜の間に嗅ぎなれた不快な屍体の匂の代りに、ものうい東洋の香料の匂が――わしは艶なまめいた女の匂がどんなものだか知らないのである――柔に生温い空気の中に漂つてゐる。青ざめた光は屍体の傍に黄色く瞬く通夜の蝋燭の代りと云ふよりは、寧ろ淫惑な歓楽の為にわざと作られた薄明りの如く思はれる。わしは、クラリモンドが永久にわしから失はれた瞬間に再び彼女を見る事が出来た、不思議な運命をつくづくと考へて見た。そして、残り惜しい懊悩の吐息がわしの胸を洩れて出た。其時、わしにはわしの後で誰かが亦吐息をしたやうに思はれた。で、振返つて見たがそれは、唯反響にすぎなかつた。けれ共、其刹那に、わしの眼は其時迄見るのを避けてゐた死者の寝床の上に落ちた。刺繍の大きな花で飾られた、赤いダマスコの帳とばりが、黄金の房にくゝられて、うつくしい屍骸を見せてくれるのである。屍体は長々と横になつて、手を胸の上に合せてゐる、眩ゆいやうな白いリンネルの褻衣したぎに掩はれたのも、掛衣かけぎぬの陰鬱な紫と、著しい対照を作つて、しかも地合ぢあひのしなやかさが、彼女の肉体のやさしい形を何一つ隠す所もなく、見る人の眼を、美しい輪廓の曲線に従はしめる――白鳥の首の如くになよやかな――其輪廓の持つてゐる豊麗な、優しさは「死」すらも奪ふ事が出来なかつたのである。彼女はさながら或巧妙な彫刻家が女王の墳墓の上に据ゑる為に造り上げた雪花石膏の像か、或は又恐らくは、眠つてゐる少女の上に声もない雪が一点の汚れもない掛衣かけぎぬを織りでもしたかの如く思はれた。

わしはもう、力めて祈祷の態度を支へてゐる事が出来なくなつた。閨房の空気はわしを酔はせ、半ば凋んだ薔薇の花の熱を病んだやうな匂はわしの頭脳に滲み込んだ。わしは休みなく彼方此方と歩きながら、歩を転ずる毎に、屍体をのせた寝床の前に佇んで、其透いて見えさうな経帷子の下に、横はつてゐる優しい屍しかばねの事を、何と云ふ事もなく想ひはじめた、わしの頭脳には、熱した空想が徂徠して来たのである。わしは彼女が恐らく、本当に死んだのではあるまいと思つた。唯わしを此城へ呼び寄せて、其恋を打明ける為に、わざと死を装つてゐるのだと思つた。そしてわしは、同時に彼女の足が、白い掛衣かけぎぬの下で動いて、少しく捲いてある経帷子の長い真直な線を乱したとさへ思つた。

それからわしはかう自問した。「これが本当にクラリモンドであらうか、之が彼女だと云ふ何んな証拠があるだらうか。あの黒人の扈従は外の貴夫人に傭はれたのではないだらうか。この様に独りで苦しがつてゐては、屹度わしは気が狂ふのに相違ない。」けれども、わしの心臓ははげしく動悸を打ちながら、かう答へる。

「之が彼女だ。確に彼女だ。」わしは再び寝台に近づいた。そして再び注意して、疑はしい屍体を凝視した。あゝ、わしは之も白状しなければならないであらうか。其すぐれた肉体の形の完全さは、「死」の影で浄められてゐるとは云へ、常よりも更に淫惑な感じを起さしめた。そして又、其安息が何人も「死」とは思はぬほど、眠りによく似てゐるのである。わしは、此処へ葬儀を勤めに来たと云ふ事も忘れてしまつた。いや寧ろ花嫁の閨へはひつた花婿だと想像した。花嫁はしとやかに、美しい顔を隠して、羞しさに姿を残る隈なく掩はうとしてゐるのである。わしは胸も裂けむ許りの悲しみを抱きながら、しかも物狂はしい希望にそゝられて、恐怖と快楽とにをのゝきながら、彼女の上に身をかゞめて、経帷子の端に手をかけた。そして、彼女の眠を醒ますまいと息をひそめながら其経帷子を上げて見た。わしの動悸は狂ほしく鼓動して蟀谷こめかみのあたりには蛇の声に似た音が聞えるかとさへ疑はれる。汗が額から滝の如く滴るのも、丁度わしが大きな大理石の板を擡げでもしたやうに思はれるのである。そして其処には実にクラリモンドが横はつてゐた。わしの得度とくどの日に見たのと寸分も違ひなく横はつてゐた。彼女の姿は其時と変りなく美しい。「死」も彼女にとつては、最後の嬌態に過ぎないのである。青ざめた頬、やゝ色の褪せた唇の肉色、其白い皮膚に黒い房をうき出させる長い睫毛、其等の物が皆彼女に悲しい貞淑と内心の苦痛との云ふ可らざる妖艶な容子を与へてゐる。未だ小さな青い花で編んである長い乱れ髪は、彼女の頭にまばゆい枕を造つて、其房々した巻き毛は、裸身はだかみの肩を掩つてゐる。聖麺麭よりも清く、浄らかな美しい手は組合せたまゝ、清浄な安息と無言の祈祷とを捧げるやうに、胸の上にのつてゐる。未だ真珠の腕輪も外さない、裸身はだかみの腕が象牙のやうにつや〱と、円まどかな肉附きを見せてゐる艶めかしさに――死後さへも猶――之のみが、反抗の意を示してゐるのである。わしは長い間、無言の黙想に沈んでゐた。すると、見てゐれば見てゐる程、わしには、「生」がこの美しい肉体を永久に去つたと云ふ事が信じられなくなつて来た。所が燈火ともしびの光の反射かそれはわしにも解らないが、(彼女はぢつと動かずにはゐるけれど)其命の無い青ざめた皮膚の下では、再び血液の循環が始つたやうに思はれた。わしは軽くわしの手を、彼女の腕の上に置いて見た。勿論それは冷かつた。が、あの寺院の玄関で、わしの手に触れた時よりも冷たくはないのである。わしは再び彼女の上にうつむいて、温かな涙の露に彼女の頬を沾した。あゝ、わしはぢつと彼女を見守りながら、如何なる絶望、自棄の苦悶に、如何なる不言の懊悩に堪へなければならなかつたであらう。わしは徒にわしの生命を一塊の物質に集めてそれを彼女に与へたいと思つた。そして彼女の冷かな肉体に、わしを苛さいなむ情火を吹き入れたいと思つた。が夜は次第に更けて行つた。わしは永別の瞬間が近づくのを感じながらも、猶わが唯一の恋人なる彼女の唇に、接吻を印してゆく最後の悲しい快楽を、棄てる事が出来なかつた……と奇蹟なるかな、かすかな呼吸はわしの呼吸に交つて、クラリモンドの口は、わしの熱情に溢れた接吻に応じたのである。彼女の眼は開いて、先きの日の輝きを示してくれる。しかも長い吐息をついて、組んでゐた腕をほどくと、溢るゝばかりの悦びを顔に現して、わしの頸を抱きながら「あゝ貴方ね、ロミュアル。」と呟いてくれる。竪琴の最後の響のやうな、懶い美しい声である。「何が悲しいの。余り長い間貴方を待つてゐたから死んだのだわ。けれど私たちはもう結婚の約束をしたのだわね。もう貴方に会ひにも行かれるわ。左様なら。ロミュアル、左様なら。私は貴方に恋をしてゐるのよ。私の話したい事はそれだけなの。貴方の接吻で一寸の間かへつて来た命を、貴方に返してあげませうね。また直ぢきにお目にかゝつてよ。」

彼女の頭は垂れた。腕は猶、わしを引止めるやうに、わしを抱いてゐる。其時凄じい旋風が急に窓を打つて、室の中へはいつた。すると白薔薇の最後の一葩ひとひらは暫く茎の先で、胡蝶の羽の如くふるへてゐたが、それから茎を離れて、クラリモンドの魂をのせたまゝ、明けはなした窓から外へ翻つて行つてしまつた。と、燈火が消えた。そしてわしは、美しい死人の胸の上へ気を失つて倒れてしまつたのである。

正気に帰つて見ると、わしは牧師館の小さな室の中にある寝台の上へ横になつてゐた。先住の老犬が、夜着の外へ垂れたわしの手を舐めてゐる。バルバラは老年と不安とでふるへながら、抽斗ひきだしをあけたりしめたり、杯の中へ粉薬を入れたりして、忙しく室の中を歩きまはつてゐる。が、わしが眼を開いたのを見ると彼女が喜びの叫を上げれば、犬も吠え立てゝ尾を掉つた。けれどもわしは未だ疲れてゐたので、一口もきく事も出来なければ、身を動かす事も出来なかつた。其後はわしは、わしが微かな呼吸の外は生きてゐる様子もなく、此儘で三日間寝てゐたと云ふ事を知つた。其三日間はわしは殆ど何事も記憶してゐない。バルバラは、わしが牧師館を出た夜に訪たづねて来たのと同じ銅色あかがねいろの顔の男が、次の朝、戸をしめた輿にのせてわしを連れて来て、それから直ぐに行つてしまつたと云ふ事を聞いた。わしがきれ〲な考を思合せる事が出来るやうになつた時に、わしは其恐しい夜の凡ての出来事を心の中に思ひ浮べた。わしは初め或魔術的な幻惑の犠牲になつたのだと思つたが、間も無く夫それでも真実な適確な事実とする事の出来る他の事情を思出したので、此考を許す事も出来なくなつて来た。わしは夢を見てゐたのだとは信じられない。何故と云へばバルバラもわしと同じやうに、二頭の黒馬をつれた見知らぬ男を見て、其男の形なり風采なりを、正確に細かい所迄述べる事が出来たからである。其癖、わしがクラリモンドに再会した城の様子に合ふやうな城の、此近所にある事を知つてゐる者も一人も無い。

或朝、わしはわしの室で僧院長アベセラピオンに会つた。バルバラもわしの病気だと云ふ事を告げたので、急いで見舞に来てくれたのである。急いで来てくれたのは、彼から云へばわしに対する愛情ある興味を証拠立てゝゐるのであるが、其訪問は、当然わしの感ずべき愉快さへも与へてくれなかつた。僧院長アベセラピオンはその凝視の中に、何処となく洞察を恣ほしいままにするやうな、審問をしてゐるやうな様子を備へてゐるので、わしは非常に間まが悪かつた。彼と対むかひあつてゐる丈でも、わしは当惑と有罪の感じを去る事が出来ないのである。一目見て彼は、わしの心中の苦痛を察したのに違ひない。わしは実に此洞察力の為に彼を憎んだのであつた。

彼は偽善者のやうな優しい調子でわしの健康を尋ねながら、絶えず其獅子のやうな黄色い大きな眼をわしの上に注いで、測深錘おもりのやうな透視をわしの霊魂の中に投入れるのである。それから彼は、わしがどう云ふ方針で此教会区を管轄するか、こゝへ来てから幸福かどうか、教務の余暇をどうして暮すか、此処に住んでゐる人々と大勢近附きになつたか、何を読むのが一番好きかと云ふやうな事を、数知れず尋ねた。わしは是等の問ひを出来る丈、短く答へたが、彼は何時でもわしの答を待たずに、急いで一つの問題から一つの問題へ移つて行つたのである。此会話は、彼が実際云はうとしてゐる事とは何の関係もないのに違ひない。遂に彼は何の予告もなく、丁度其時思ひ出した知らせを、忘れずに繰り返しておくやうに、明晰な声で急にかう云つた。其声はわしの耳に最後の審判の喇叭らつぱのやうに響いたのである。

「あの名高い娼婦のクラリモンドが、五六日前の事、八日八夜続いた饗宴の終にとう〱死んでしまつたわ、大した非道な事であつたさうな。ベルサガアルとクレオパトラの饗宴に行はれた罪悪が又犯されたと云ふものぢや。神よ、わし達は何と云ふ末世まつせに生きてゐるのでござらう。客人たちは皆黒人の奴隷に給仕もして貰つたさうな。其奴隷共は又何やらわからぬ語ことばを饒舌しやべる、わしの眼には此世ながらの悪魔ぢや。其中の一番卑しい者の服でさへ、皇帝が祭礼に着る袍の役に立つさうな。此クラリモンドには、始終妙な噂があつたつて。何でも女性の夜叉だと云ふ噂ぢや。が、わしは確かにビイルゼバッブだと信じてゐるて。」

彼は話すのを止めて、恰あたかも其話の効果を観察するやうに、前よりも一層、注意深くわしを見始めた。わしは彼がクラリモンドの名を口にした時に思はず躍り立たずには居られなかつた。そして彼女の死の知らせは、わしの見た其夜の景色と符合する為に、わしの胸を畏怖と懊悩とに満たしたのである。其畏怖と懊悩とはわしが出来る限り力を尽したにも拘らず、わしの顔に現はれずにはゐなかつた。セラピオンは心配さうな、厳格な眸めでぢつとわしを見たが、やがて云ふには「わしはお前に忠告せねばならぬて。お前は足をつまだてゝ奈落の辺ふちに立つてゐるのぢや。落ちぬやうに注意をしたがよい。悪魔の爪は長いわ、墓もあてにはならぬ物ぢや。クラリモンドの墓は、三重の封印でもせねばなるまい。人の云ふのが誠なら、あの女の死ぬのは始めてゞは無いさうな。神がお前を御守り下さればよいがの、ロミュアル。」

かう云つて僧院長アベセラピオンは静かに戸口へ歩んで行つた。わしは其時二度と彼に会はなかつた。それは彼が殆んど直にS――へ帰つたからである。

わしは全く健康も恢復すれば、又日頃の職務に服する事も出来る様になつた。がクラリモンドの記憶と老年の僧院長アベの語とは一刻もわしを離れない。けれども格別、彼の気味の悪い予言を実現するやうな大事件も起らなかつたので、わしは彼の掛念もわしの恐怖も、誇張されたのに過ぎないと信じるやうになつた。すると、ある夜、不思議な夢を見た。それはわしが眠るか眠らないのに、寝床の帳とばりの輪が、鋭い音を立てゝ、其輪のかゝつてゐる棒の上をすべつたので、わしは帳が開いたなとかう思つた。そこで素早すばやく肘をついて起き上ると、わしの前に真直に立つてゐる女の影がある。わしは直にそのクラリモンドなのを知つた。彼女は手に、墓の中に置くやうな形をした小さなランプを持つてゐる。その光に霑された彼女の指は、薔薇色にすきとほつて、それが亦次第に不透明な、牛乳のやうに白い、裸身はだかみの腕に溶けこんでゐる。彼女の着てゐるのは、末期まつごの床の上に横はつてゐた時に彼女を包んでゐた、リンネルの経帷子である。彼女はこの様にみすぼらしい衣服を纏ふのを恥ぢるやうに、其リンネルの褶に胸をかくさうとしたものの、彼女の小さな手は其役に立たなかつた。彼女は其経帷子の色がランプの青ざめた光の中で彼女の肉の色と一つになる程白いのである。彼女の肉体のあらゆる輪廓を現すやうな、しなやかな、織物に包まれた彼女の姿は、生きた女と云ふよりも寧ろ美しい古の浴みする女の大理石像のやうに眺められる。が、死んでゐるにせよ、生きてゐるにせよ、石像にせよ女にせよ、影にせよ肉体にせよ、彼女の美しさは依然として美しい。唯違ふのは彼女の眼の緑色の光が、前よりも輝かないのと嘗ては燃えたつやうな真紅しんくの唇が、今は其頬の色のやうな、微かなやさしい薔薇色に染んでゐるとの二つである。わしが前に気の附いた、髪にさしてある小さな青い花も今は見る影もなく枯れ凋んで、殆どのこらず葉を振ひつくしてゐるが、之とても彼女の愛らしさを妨げる事はない――彼女は、此事の性質が不思議なのにも拘らず、又わしの室へはひつて来た様子が奇怪なのにも関らず、暫くはわしが何等の恐怖をも感じなかつた程、愛らしく見えたのである。

彼女はランプを卓の上へのせて、わしの寝床の後に坐つた。それからわしの上に身をかゞめて、銀のやうに冴えてゐる、しかも天鵞絨のやうにやさしく柔かい声で、かう云つた。其声は彼女を除いては誰の唇からも聞く事の出来ぬやうな声である。

「貴方を随分長い間待たせて置いてね。ロミュアル、私が貴方の事を忘れてしまつたのだと思つたでせう。でも私は遠い処から来たのよ、それはずうつと遠い処なの。其処へ行つた者は誰でも帰つて来た事の無い国なの。さうかと云つてお日様でもお月様でもないのよ。唯、空間と影ばかりある処なの、大きな路も小さな路もない処でね。踏むにも地面のない、飛ぶにも空気のない処なの。それでよく此処へ帰つて来られたでせう。何故と云へば恋が『死』より強いからだわ。恋がしまひには『死』を負かさなければならないからだわ。まあ、此処へ来る途中で、何と云ふ悲しい顔や、恐しい物を見たのでせう。唯意志の力だけで又此大地の上へ帰つて来て、体を見附けて其中へはひる迄に、私の霊魂は何と云ふ苦しい目に遭つたでせう。私を掩つて置いた重い石の板を擡げる迄に、何と云ふ苦労をしなければならなかつたでせう。ごらんなさい、私の手の掌ひらは傷だらけぢやありませんか。手を接吻して頂戴。さうすれば屹度癒なほるわ。」彼女は冷い手の掌ひらを代り〲わしの口に当てた。わしは何度となくそれを接吻した。其間も彼女は、溢るゝ許りの愛情の微笑ほゝゑみをもらして、わしをぢつと見戍みまもつてゐるのである。

わしは恥しながら白状する。此時わしは僧院長アベセラピオンの忠告もわしの服してゐる神聖な職務も悉く忘れてしまつた。わしは何の抵抗もせずに、一撃されて堕落に陥つてしまつたのである。クラリモンドの皮膚の新たな冷さはわしの皮膚に滲み入つて、わしが淫慾のをのゝきが、全身を通ふのを感ぜずにはゐられなかつた。わしが後あとに見た凡ての事があるのにも拘らず、わしは今も猶彼女が悪魔だとは殆ど信じる事が出来ない。少くも彼女は何等さうした姿を示さなかつた。悪女がこの様に巧に其爪と角とを隠した事は、嘗て無かつた事に相違ない。彼女は床をあげて寝台の縁ふちに坐りながら、しどけない媚に満ちた姿をして、時々小さな手をわしの髪の中に入れては、どうしたらわしの顔に似合ふかを見るやうに、わしの髪を撚よつたり捲まいたりしてゐるのである。わしが、罪障の深い悦楽に酔つて、彼女の手にわしの体を任せると、彼女は又、其やさしい戯れと共に、楽しげに種々な物語をしてくれる。しかも最も驚くべき事は、わしが此様な不思議な出来事に際会しながら何等の驚異をも感じなかつたと云ふ事である。丁度夢の中では人がどの様な空想的な事件でも、単なる事実として受入れるやうに、わしにも、是等の事情は全く自然であるが如くに思はれたのである。

「貴方に会はないずつと前から私は貴方を愛してゐてよ。可愛いゝロミュアル、さうして方々探してあるいてゐたのだわ。貴方は私の愛だつたのよ。あの時あの教会で始めてお目にかゝつたでせう。私、直に『之があの人だ』つて云つたわ、それから、私の持つてゐた愛、私の今持つてゐる、私の是から先に持つと思ふ、すべての愛を籠めた眸めで見て上げたの――其眼めで見ればどんな大僧正でも王様でも家来たちが皆見てゐる前で、私の足下に跪いてしまふのよ。けれど貴方は平気でいらしつたわね、私より神様の方がいゝつて。

「私、ほんたうに神様が憎くらしいわ、貴方はあの時も神様が好きだつたし、今でも私より好きなのね。

「あゝ、あゝ、私は不仕合せね、私は貴方の心をすつかり私の有ものにする事が出来ないのね。貴方が接吻で生かして下すつた私――貴方の為に利の門を崩して、貴方を仕合せにしてあげたいばつかりに、命を貴方に捧げてゐる私。」

彼女の話は、悉く最も熱情に満ちた撫愛に伴はれた。其撫愛はわしの感覚と理性とを悩ませて、わしは遂に彼女を慰める為に、恐しい涜神の言を放つて、神を愛する如く彼女を愛すると叫ぶのさへ憚らないやうになつた。

すると、彼女の眼は、再び緑玉髄エメラルドの如く輝いた。「ほんたう?――ほんたうに?――神様と同じ位。」彼女は其美しい胸にわしを抱きながら叫んだ。「それなら、貴方、私と一しよにいらつしやるわね、どこへでも私の好きな処へついていらつしやるわね、貴方はもう、あの醜い黒法衣を投げすてゝおしまひなさるのよ。貴方は騎士の中で、一番偉い、一番羨まれる騎士におなりになるのよ、貴方は私の恋人だわ。法王の云ふ事さへ聞かなかつたクラリモンドの晴れの恋人になるのだわ。少しは得意に思ふやうな事ぢやあなくつて。あゝ、美しい、何とも云へぬ程仕合せな生涯を、うるはしい、黄金色こがねいろの生活を、二人で楽むのね。さうして、何時立つの。」

「明日あした、明日。」とわしは夢中になつて叫んだ。

「ぢや明日にするわ。其間に御化粧をかへる事が出来てね。これでは少し薄着だし、旅をするにはをかしいわ。それから、私を死んだと思つて此上もなく悲しがつてゐるお友達に知らせを出さなければならないわ。お金に着物に馬車に――皆支度が出来てゐてよ。私、今夜と同じ時刻にお尋ねするわ。さやうなら。」彼女は軽く唇を、わしの額にふれた。ランプは消えて、帳が元のやうに閉されると、凡てが又暗くなつた。と、鉛のやうな、夢も見ない眠りがわしの上に落ちて、次の朝迄、わしを前後を忘れさせてしまつたのである。

わしは何時ものやうに朝遅く眼をさました。そして其不思議な出来事の回想が終日、わしを煩した。わしは遂にそれを、わしの熱した空想が造つた靄のやうなものだと思ひ直した。が、其感覚が余りに溌剌としてゐるので、其事実でない事を信ずるのは、甚しく困難であつた。そしてわしは来るべき事実に対する多少の予感を抱きながら、凡ての妄想を払つて、清浄な眠を守り給はむ事を神に祈つた後に、遂に床に就いたのであつた。わしは直に深い眠りに落ちた。そしてわしの夢も続けられた。帳とばりが再び開いて、わしはクラリモンドの姿を見た。青ざめた経帷子きやうかたびらを青ざめた身に纏つて、頬に「死」の紫を印した前夜とは変つて、喜ばしげに活々して、緑がかつた董色の派出な旅行服の、金のレースで縁をとつたのを着て、両脇を綻ばせた所からは、繻子の袴ジュボンがのぞいてゐる。金髪の房々した捲毛を、いろいろな形に面白く撚よつてある白い鳥の羽毛をつけた、黒い大きな羅紗の帽子の下から、こぼしてゐる彼女は、手に金色の呼笛のついた小さな鞭を持つて、軽くわしを叩きながら、かう叫んだ。「さあ、よく寝てゐる方や、これが貴方の御支度なの。私、貴方がもう起きて着物を着ていらつしやるかと思つたわ。早くお起きなさいよ。愚図々々しちやゐられないわ。」

わしは直に寝床からとび出した。

「さあ、着物をきて頂戴。それから出かけませう。」彼女は一しよに持つて来た小さな荷包を指さしながら、「馬が待遠しがつて、戸口で轡くつわを噛んでゐるわ。今時分はもう此処から三十哩も先きへ行つてゐる筈だつたのよ。」

わしは急いで着物を着た。彼女はわしに着物を一つ〱渡してくれた。そしてわしがどうかして間違へると着物の着方を教へながら、時にわしの不器用なのに呆れては噴き出してしまふのである。それがすむと今度は急いでわしの髪をなでつけてくれる。それもすむと、ヴェネチアの水晶に銀の細工の縁をとつた懐中鏡を、わしの前へ出して、面白さうにかう尋ねる。「どんなに見えて? 私をお附きヴァレエ・ド・シャムブルにかゝへて下すつて?」

わしはもう、何時いつものわしではない。そして自分でさへこれが自分とは思はれない。云はゞ今のわしが、昔のわしに似てゐないのは、出来上つた石像が、石の塊に似てゐないのと同じ事なのである。わしの昔の顔は、鏡に映つた今の顔を下手な画工の描き崩した肖像のやうに思はれた。わしは美しい。わしの虚栄心は此変化に心からそゝられずにはゐられなかつた。美しく刺繍をした袍はわしを全くの別人にしてしまつたのである。わしは或型通りに断たつてある五六尺の布がわしの上に加へた変化の力を、驚嘆して見戍みまもつた。わしの衣裳の精霊は、わしの皮膚の中に滲み入つて、十分たつかたたぬ中にわしはどうやら一廉ひとかどの豪華の児になつてしまつた。

此新衣裳に慣れようと思つて、わしは室の中を五六度歩いて見た。クラリモンドは花のやうな快楽を味ひでもするやうに、わしを見戍りながら、さも自分の手際てぎはに満足するらしく思はれた。「さあ、もう遊ぶのは沢山よ、ロミュアル、これから出かけるのよ。私達は遠くへ行かなければならないのだわ。さうして遅れちやあいけないのだわ。」彼女はわしの手を執つて、外へ出た。戸と云ふ戸は、彼女が手をふれると忽ちに開くのである。わし達は犬の眼もさまさずに其の側を通りぬけた。

門口でわしは、前にわしの護衛兵だつた、あの黒人の扈従のマルゲリトンを見た。彼は三頭の馬の轡を控へてゐる――三頭共、わしをあの城へ伴れて行つた馬のやうに黒い。一頭はわしの為、一頭は彼の為、一頭はクラリモンドの為である。是等の馬は、西風の神の胎をうけた牝馬が生んだと云ふ西班牙馬スペインうまに相違ない。何故と云へば彼等は風のやうに疾はやいからである。門を出る時に丁度東に上つて路上のわし達を照した明月は戦車から外れた車輪のやうに、空中を転げまはつて、右の方、梢から梢へ飛び移りながら、息を切らしてわし達に伴ついて来る。間も無く一行はとある平野に来た。其処には四頭の大きな馬に曳かせた馬車が一台一叢ひとむらの木蔭に待つてゐる。で、それへ乗り移ると今度は馭者が気違ひのやうに馬を走らせる。わしは片手をクラリモンドの肩にまはして、彼女の片手をわしの手に執つてゐた、彼女の頭はわしの肩に靠もたれて、わしは半ば露あらはした彼女の胸が軽く、わしの腕を圧するのを感じるのである。わしは此様な熾烈な快楽を味つた事はない。其間にわしは凡ての事を忘れてゐた。わしが僧侶だつたと云ふ事を覚えてゐるのも、わしが母の腹の中にゐた事を覚えてゐるのと同じ程にしか考へられなかつた。此悪魔がわしの上にかけた蠱惑は、是程大きかつたのである。其夜からわしの性質は、或意味に於て二等分されたやうに思はれる。云はゞわしの内に二人の人がゐて、それが互に知らずにゐるのである。或時はわしは自分が夜になると紳士になつた夢を見る僧侶だと思ふが、又或時には、僧侶になつた夢を見てゐる紳士だと思ふ事もある。わしは夢と現実とを分つ事も出来なければ、何処に現実が始まり、何処に夢が定るかさへも見出す事が出来なかつた。貴公子の道楽者は僧侶を馬鹿にするし、僧侶は、貴公子の放埒を罵るのである。互にもつれ合ひながら、しかも互に触れる事のない二つの螺線は、わしの此二面ふたおもての生活を、遺憾なく示してゐる。しかしわしは、此状態が此様な不思議な性質を持つてゐるにも拘らず、一分でも気違ひになる気などは起らなかつた。わしは常に、思切つて溌剌とした心で、わしの二つの生活を気長く観照してゐたのである。が、唯一つ、わしにも説明の出来ない妙な事があつた――即ちそれは同じ個人性の意識が、全く性格の背反した二人の人間の中に存在してゐたと云ふ事である。わしが自らC――の寒村の牧師補と思つたか、クラリモンドの肩書附きの恋人、ロムアルドオ閣下と思つたか、どうか――これがわしの不思議に思ふ一つの変則なのである。

兎も角も、わしはヴェニスに住んだ。少くも住んだと信じてゐた。わしが此幻怪な事実の中にどれ程の幻想と印象とが含まれてゐるかを正確に発見するのは到底不可能である。わし達は、カナレイオの辺ほとりの、壁画と石像との沢山ある、大きな宮殿に住んでゐた、それは一国の王宮にしても恥しくないやうな宮殿で、わし達は各々ゴンドラの制服を着たバルカロリも、音楽室も、御抱への詩人も持つてゐた。殊にクラリモンドは、大規模な生活を恣にするのが常であつた。彼女の性格にはクレオパトラに似た何物かが潜んでゐるのである。わしはと云ふと又王子のやうな宮臣の一列を従へて、常に大国の四福音宣伝師か十二使徒の一人と一家ででもあるやうな、畏敬を以て迎へられてゐた。わしは大統領ドオヂを通すのでさへ、道を譲らうとはしなかつた。魔王サタンが天国から堕落して以来、わしより傲慢不遜な人間が此世にゐたとは信じられぬ。わしは又、リドットにも行つて、地獄のものとしか思はれぬ運をさへ弄んだ。わしはあらゆる社会の最も善良な部分――没落した家の子供達とか女役者とか奸黠な悪人とか佞人ねいじんとか空威張からゐばりをする人間とか――を歓待した。そして此様な生活に沈湎しながらも、わしは常にクラリモンドを忘れなかつた。わしは実に狂気のやうに彼女を愛してゐたのである。一人のクラリモンドを持つのは、二十人の情婦を持つのにも均しい。否、あらゆる女を持つのにも均しい。彼女は其一身に、無数の容貌の変化と無数の清新な嬌艶とを蔵してゐる――真に彼女は女のカメレオンである。彼女はわしの愛を百倍にして返して呉れた。彼女の求めるのは唯、愛である――彼女自身によつて目醒まされた、清浄な青春の愛である。しかも其愛は最初の、又最後の情熱でなければならない。かくしてわしも常に幸福であつた。唯、不幸なのは、毎夜必ず魘うなされる時だけで、其の時はわしが貧しい田舎の牧師補になつた夢を見ながら、昼間の淫楽を悔いて、贖罪と苦行とに一身を捧げてゐるのである。わしは、常は彼女と親しんでゐられるのに安んじて、わしがクラリモンドと知るやうになつた不思議な関係を此上考へて見ようとはしなかつた。併し彼女に関する僧院長アベセラピオンの言ことばは、屡々わしの記憶に現れて、わしの心に不安を与へずにはゐなかつた。

其内に暫くの間クラリモンドの健康が平素のやうにすぐれなかつた。顔の色も日にまし青ざめる。医師を呼んで診みせても、病気の質たちがわからないので、どう治療していゝか見当けんたうが附かない。彼等は皆、役にも立たぬ処方箋を書いて、二度目からは来なくなつてしまふのである。けれ共彼女の顔色は、著しく青ざめて、一日は一日と冷くなる。そして遂には殆どあの不思議な城の記憶すべき夜のやうに、白く、血の気もなくなつてしまつた。わしは此様に徐々と死んでゆく彼女を見るに堪へないで、云ふ可からざる苦痛に苛さいなまれたが、わしの苦悶に動かされたのであらう、彼女は、丁度死なねばならぬ事を知つた者の末期まつごの微笑のやうに、悲しく又やさしく、わしの顔を見てほゝ笑んだ。

或朝、わしは彼女の寝床の傍に坐つて、直すぐ側そばに置いてある小さな食卓で朝飯を認めてゐた。それはわしが一分でも彼女の側そばを離れたくないと思つたからである。で、或る果物を切らうとした所が、わしは誤つて稍々深くわしの指を傷けた。すると血がすぐに小さな鮮紅の玉になつて流れ出したが、其滴が二滴三滴、クラリモンドにかゝつたと思ふと彼女の眼は忽ちに輝いて、其顔にも亦、わしが嘗て見た事の無いやうな、荒々しい、恐しい喜びの表情が現れた。彼女は忽ち獣の如く軽快に、寝床から躍り出て――丁度猿か猫のやうに軽快に――わしの傷口に飛びつくと、云ひ難い愉快を感じるやうに、わしの血をすゝり始めた。しかも彼女は静かに注意しつゝ、恰も鑑定上手めきゝじやうずが、セレスやシラキュウズの酒を味ふやうに、其小さな口に何杯となく啜つて飽かないのである。と、次第に彼女の瞼は垂れ、緑色の眼の瞳は円いと云ふよりも、寧ろ楕円になつた。そしてわしの手に接吻しようとしては、口を離すかと思ふと、又更に幾滴かの紅い滴を吸ひ出さうとして、わしの傷口に其唇をあてるのであつた。血がもう出ないのを見ると、彼女は瑞々した、光のある眼を輝かしながら、五月の朝よりも薔薇色に若やいで、身を起した。顔はつや〱と肉附いて、手も温かにしめつてゐる――常よりも一層美しく、健康も今は全く恢復してゐるのである。

「私もう死なないわ、死なないわ。」悦びに半ば狂したやうにわしの首に縋りつきながら、彼女はかう叫んだ。「私はまだ長い間貴方を愛してあげる事が出来てよ。私の命は貴方の有ものだわ。私の中にある物は皆、貴方から来たのだわ。貴方の豊な貴い血の滴が、世界中のどの不死の薬よりも得難い、力のつく薬なの。その血の滴のおかげで私は命を取返したのだわ。」

此光景は長い間、わしの記憶に上つて来た。そしてクラリモンドに対する不思議な疑惑をわしに起させた。丁度其の夜、睡がわしを牧師館に移した時に、わしは僧院長アベセラピオンが平素よりは一層真面目な、一層気づかはしさうな顔をしてゐるのを見た。彼はぢつとわしを見つめてゐたが、悲しげに叫んで云ふには「お前は霊魂を失ふ丈では飽足りなくて、肉体をも失はうとするのかの。見下げ果てた奴め、何と云ふ恐しい目にあふものぢや。」彼のかう云つた調子は、強くわしを動かした。が、此記憶の鮮かなのにも拘らず、其印象さへ間も無く消えてしまつて、数知れぬ外の心配がわしの心からそれを移してしまつた。遂にある夜わしはクラリモンドが、食事の後で日頃わしにすゝめるを常とした香味入りの酒の杯へ、何やら粉薬を入れるのを見てとつた。それは彼女がさうとは気が附かずに立てゝ置いた鏡に映つて見えたのである。わしは杯をとり上げて、口へ持つてゆく真似をして、それから、後で飲むつもりのやうに手近にあつた家具の上へのせて置いた。で、彼女が後を向いた隙を窺つて、中の酒を卓の下へあけると、其儘、わしの閨へ退いて床の上に横になつた。わしは少しも眠らずに、此神秘から何が起るか気を附けて見出さうと決心したのである。待つ間もなく、クラリモンドは、寝衣を着てはひつて来た。そして寝床の上に上つてわしの傍に横になつた。彼女はわしが睡つてゐるのを確めると、わしの腕をまくつて、髪から金の留針をぬきながら、低い声でかう呟き始めた。

「一滴しづく、たつた一滴、私の針の先へ紅宝玉ルビイをたつた一滴……貴方はまだ私を愛してゐるのですから、私はまだ死なれません……あゝ可哀さうに、私は美しい血を、まつ赤な血を飲まなければならないのね、お休やすみなさい、私のたつた一の宝物、お眠みなさい、私の神、私の子供、私は貴方に害をしようと思つてはゐなくつてよ。私は唯、貴方の命から、私の命が永久に亡びてしまはない丈の物を頂くのだわ。私は貴方を愛してゐるのでせう、だから私は外に恋人を拵へて、其人の血管を吸ひ干す事にした方がいゝのだわ。けれど貴方を知つてから、私、外の男は皆厭になつてしまつたのですもの……まあ美しい腕ね、何と云ふ円いのだらう、何と云ふ白いのだらう、どうして私は此様な青い血管を傷ける事が出来るのだらう。」かう呟き乍ら、彼女はさめ〲と涙を流した。其時わしは、彼女がわしの腕を執りながら、其上に落す涙を感じたのであつた。遂に彼女は意を決して、其留針で一寸わしを刺した。そして其処から滴る血を吸ひ始めた。彼女はほんの五六滴しか飲まなかつたが、わしの眼を醒ますのを怖れたので、丁寧に小さな布でわしの腕を括つてくれた。それから後で又傷を膏薬でこすつてくれたので、傷は直に癒つてしまつた。

もう疑の余地はない。僧院長アベセラピオンが正しかつたのである。が、此積極的な知識があるにも拘らず、わしはクラリモンドを愛するのを禁ずる事が出来なかつた。そして喜んで其人工の生命を与へるに足る丈の血潮を、自ら進んで与へようと思つた。加之しかのみならず、わしは殆ど彼女を怖しく思はなかつた。わしはわしの血を一滴づつ取引とりひきするよりも、わしの腕の血管を自ら剖さいて、彼女にかう云つてやりたかつた。「お飲み、さうしてわしの愛をわしの血潮と一しよに、お前の体からだに滲透しみとほらせておくれ。」わしは、彼女がわしに拵へてくれた魔酔の酒の事や、あの留針の出来事には、気をつけて一言もそれに及ばないやうにした。そしてわし達は最も円満な調和を楽しんでゆく事が出来たのである。

けれ共、わしの沙門らしい優柔は、常よりも一層、わしを苛さいなみ始めた。そしてわしは、わしの肉を苦しめ制する為に、何か新しい贖罪を発明するのさへ、想像するに苦しむやうになつた。是等の幻は無意志的なもので、わしは実際それに関する何事にも与らなかつたがそれでも猶、わしは事実にせよ夢幻にせよ、此様な淫楽に汚れた心と不浄な手とを以てしては、到底基督の体に触れる事が出来なかつた。わしは此懶い幻惑の力に圧へられるのを免れようとして、先づ眠に陥るのを防がうと努力した。そこでわしは指で瞼を開いてゐたり、数時間も真直に壁に倚り懸かかつてゐたりして、全力を振つて眠と戦つて見たのである。けれ共睡魔は絶えずわしの眼を襲つて、凡ての抵抗が無駄になつたと思ふと、わしは極度の疲労に堪へずして、両腕を力なく下げたまゝ、再び睡の潮流に楽慾の彼岸に運ばれて了ふ。セラピオンは、峻烈を極めた訓戒を加へて、厳しくわしの意気地の無いのと、勇猛心の不足なのとを責めたが、遂に或日、わしが平素より一層心を苦しめてゐると、わしにかう云つてくれた。「此不断の呵責かしやくを免れることの出来るのは、唯、一策がある許りぢや。尤も非常に出た策だと云ふ嫌はあるが役には立つに相違ない。難病は劇薬を要すると云ふものぢや。わしはクラリモンドの埋められた処を知つてゐるし、それにはあの女の屍しかばねを発あばいて、お前の恋する女がどのやうな憐な姿になつてゐるかを見なければならぬ。さうすればお前も、蛆に食はれた、塵になるばかりの屍の為に、霊魂を失ふやうな迷には陥らぬやうにならう。此策は必ずお前を救ふに相違ないて。」わしは此二重生活に困憊してゐたので、貴公子か僧侶かどちらが幻惑の犠牲だかを確め度いばかりに直に之を快諾した。わしは全くわしの心の中にゐる二人の男の一人を、もう一人の利益の為に殺すか、又は二人共殺すか、どちらか一つにする決心でゐた。それは此様な怖しい存在は続けられる事も、堪へられる事も出来なかつたからである。そこで僧院長アベセラピオンは鶴嘴と挺てこと角燈とを整へて、わし達二人は真夜中に場所も位置も彼のよく知つてゐる――の墓地へ出かけたのであつた。暗い角燈の光を五六の墓石の碑銘に向けた後に、わし達は遂に、半大きな雑草に掩はれて、其上又苔と寄生植物とに侵された大きな板石の前に出た。そして其上に、わし達は下のやうな墓碑銘の首句を探り読む事が出来たのである。

女性によしやうの中の最も美しき女性として

生ける日に誉ありし

クラリモンドこそ此処ここに眠れ

「確に此処ぢや。」とセラピオンが呟いた。そして角燈を地上に置くと、石の端の下へ挺てこの先を押入れて、其石を擡げ始めた。石が自由になると彼は更に寄生植物を取除とりのけにかゝつた。わしは夜よりも暗く、夜よりも更に語ことばなく、傍に立つて、ぢつと彼のする事を見戍つた。其間に彼は其凄惨な労働に腰をかゞめて、汗にぬれながら喘いでゐる。わしには彼の苦しさうに吐く息が、末期の痰のつまる音のやうな調子を持つてゐるかと疑はれた。それは真に幽怪な光景であつた。外から誰でもわし達を見る人があつたなら、其人はわし達を神の僧侶と思ふよりは寧ろ涜神の痴者しれものが経帷子きやうかたびらを盗む者と思つたに相違ない。セラピオンの熱心には、執拗な酷烈な何物かがあつて、それが彼に天使とか使徒とか云ふものよりも却つて邪鬼の形相を与へてゐた。其大きな、鷲のやうな顔は、角燈の光で、鋭い浮彫りを刻んでゐる。峻厳な目鼻立ちと共に、不快な空想を誘ふやうな、恐る可き何物かを有してゐるのである。わしは氷のやうな汗が大きな粒になつてわしの顔に湧いて来たのを感じた。わしの髪は恐しい畏怖の為によだつてゐる。わしの心の底では、辛辣なセラピオンの行が、憎むべき神聖冒涜の如く感じてゐる。わしは、頭上に油然と流れてゐる黒雲の内臓から、火の三戟刑具トリアングルが迸り出でて、彼を焦土とするやうに祈祷しようかとさへ思つてゐた。糸杉シイプレイに宿つてゐた梟は、角燈の光に驚いて、時々それに飛んで来る。しかも其度に灰色の翼で角燈の硝子を打つては悲しい慟哭の叫び声を揚げるのである。野狐は遠い闇の中に鳴き、数千の不吉な物の響は、沈黙の中から自おのづから生れて来る。遂にセラピオンの鶴嘴は、柩を打つた。其板に触れた響は、深い高い音を、打たれた時に「無」が発する戦慄すべき音を、陰々と反響した。それから彼は柩の蓋を捩ねぢはなした。わしは其時クラリモンドが大理石像のやうに青白く、両手を組んでゐるのを見た。彼女の白い経帷子は、頭から足迄たゞ一つの襞ひだを造つてゐる。しかも彼女の色褪せた唇の一角には、露の滴つたやうに、小さな真紅の滴がきらめいてゐるのである。之を見ると、セラピオンの怒気は心頭に上つた。「あゝ、此処に居つたな、悪魔めが、不浄な売婦ばいためが、黄金きんと血とを吸ふ奴めが。」彼は聖水を屍と柩の上に注ぎかけて、其上に水刷毛みずはけで十字を切つた。憐む可きクラリモンドは、聖水がかゝると共に、美しい肉体も忽ち塵土ちりひぢとなつて、唯、形もない、恐しい灰燼の一塊と、半ば爛壊らんゑした腐骨の一堆とが残つた。

「お前の情人を見るがよい、ロミュアル卿。」決然として僧院長アベは此悲しい残骸を指さしながら、叫んだ。「是でもお前は、お前の恋人と一しよに、リドオやフシナを散歩しようと云ふ気になるかの。」わしは、無限の破滅がわしにふりかゝつた様に、両手で顔を隠した。わしはわしの牧師館へ帰つた。クラリモンドの恋人ロミュアル卿も、今は長い間不思議な交際を続けてゐた、憐れな僧侶から離れてしまつたのである。が、唯一度、其次の夜にわしはクラリモンドに逢つた。彼女は、教会の玄関で始めてわしに逢つた時にさう云つたやうに「不仕合せな方ね、何をなすつた?」と云ふのである。「何故、あの愚かな牧師の云ふ事をおきゝなすつたの? 仕合せぢやなかつて? 私が貴方に何か悪い事をして? それだのに貴方は私の墓を発あばいて、私の何もないみじめさを人目にお曝しなすつたのね。私たちの、霊魂と肉体との交通はもう永久に破られてしまつたのよ。さやうなら。それでも貴方は屹度私をお惜みになるわ。」彼女は煙のやうに空中に消えた。そしてわしは二度と彼女に会つた事はない。

あゝ、彼女の言ことばは正しかつた。わしは一度ならず彼女を惜んだ。いや今も彼女を惜んでゐる。わしの霊魂の平和は、高い代価を払つて始めて贖ふ事が出来たのである。神の愛は彼女のやうな愛を償つぐなつて余りある程大きなものではない。兄弟よ、之がわしの若い時の話なのだ。忘れても女の顔は見ぬがいゝ。そして外へ出る時には、何時でも視線を地におとして歩くがいゝ。何故と云へば、如何に信心ぶかい、慎みぶかい人間でも、一瞬間の誤が、永遠を失はせるのは容易だからである。

底本 / Source edition

底本:「芥川龍之介全集 第一巻」岩波書店
1995(平成7)年11月8日発行
底本の親本:「クレオパトラの一夜」新潮社
1921(大正10)年4月17日発行
初出:「クレオパトラの一夜」新潮文庫、新潮社
1914(大正3)年10月16日発行
※初出及び底本の親本では、久米正雄訳として発表された。
※著者名は、底本では「Théophile Gautier」と表記されている。
入力:もりみつじゅんじ
校正:土屋隆
2009年1月8日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

この表示について / About this rendering

記録は下にリンクした署名済みの TEI ファイルです。このページはそれを読むための一つの形です。読みが複数ある箇所は一つだけを本文に示し、もう一方は語の title に残しています。 / The record is the signed TEI file linked below. This page is one way of reading it. Where the text has more than one reading, the page shows one of them and keeps the other on the word itself, in its title text.

リリース / Release
913b24012e1626b47bebf5a14fd31773728229efdb088f1ceb934717c1ac800c
TEI
/works/004311_001086/tei
プレーンテキスト / Plain text
/works/004311_001086/plaintext
書誌 / Bibliography
/works/004311_001086/

ゴーチェ テオフィル「クラリモンド」(新字旧仮名)、底本『芥川龍之介全集 第一巻』岩波書店、1995年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 004311_001086, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

引用のしかた / How to cite