Soranoha

日輪

にちりん

横光 利一

序章

乙女おとめたちの一団は水甕みずがめを頭に載のせて、小丘こやまの中腹にある泉の傍から、唄うたいながら合歓木ねむの林の中に隠れて行った。後の泉を包んだ岩の上には、まだ凋しおれぬ太藺ふといの花が、水甕の破片とともに踏みにじられて残っていた。そうして西に傾きかかった太陽は、この小丘の裾すそ遠く拡ひろがった有明ありあけの入江の上に、長く曲折しつつ逈はるか水平線の両端に消え入る白い砂丘の上に今は力なくその光を投げていた。乙女たちの合唱は華はなやかな酒楽さかほがいの歌に変って来た。そうして、林をぬけると再び、人家を包む円まろやかな濃緑色の団塊となった森の中に吸われて行った。眼界の風物、何一つとして動くものは見えなかった。

そのとき、今まで、泉の上の小丘を蔽おおって静まっていた萱かやの穂波の一点が二つに割れてざわめいた。すると、割れ目は数羽すうわの雉子きじと隼はやぶさとを飛び立たせつつ、次第に泉の方へ真直ぐに延びて来た。そうして、間もなく、泉の水面に映っている白茅ちがやの一列が裂かれたとき、そこには弦つるの切れた短弓を握った一人の若者が立っていた。彼の大きく窪くぼんだ眼窩がんかや、その突起した顋あごや、その影のように暗鬱な顔の色には、道に迷うた者の極度の疲労と饑餓きがの苦痛が現れていた。彼は這はいながら岩の上に降りて来ると、弓杖ゆんづえついて崩くずれた角髪みずらをかき上げながら、渦巻うずまく蔓つるの刺青ほりものを描いた唇を泉につけた。彼の首から垂れ下った一連の白瑪瑙しろめのうの勾玉まがたまは、音も立てず水に浸ひたって、静かに藻もを食う魚のように光っていた。

一

太陽は入江の水平線へ朱しゅの一点となって没していった。不弥うみの宮みやの高殿たかどのでは、垂木たるきの木舞こまいに吊つり下さげられた鳥籠とりかごの中で、樫鳥かけすが習い覚えた卑弥呼ひみこの名を一声呼んで眠りに落ちた。磯いそからは、満潮のさざめき寄せる波の音が刻々に高まりながら、浜藻はまもの匂においを籠こめた微風に送られて響ひびいて来た。卑弥呼は薄桃色の染衣しめごろもに身を包んで、やがて彼女の良人おっととなるべき卑狗ひこの大兄おおえと向い合いながら、鹿の毛皮の上で管玉くだだまと勾玉とを撰えり分わけていた。卑狗の大兄は、砂浜に輝き始めた漁夫の松明たいまつの明りを振り向いて眺めていた。

「見よ、大兄、爾なんじの勾玉は玄猪いのこの爪つめのように穢けがれている。」と、卑弥呼はいって、大兄の勾玉を彼の方へ差し示した。

「やめよ、爾の管玉は病める蚕かいこのように曇っている。」

卑弥呼のめでたきまでに玲瓏れいろうとした顔は、暫しばらく大兄を睥にらんで黙っていた。

「大兄、以後我は玉の代りに真砂まさごを爾に見せるであろう。」

「爾の玉は爾の小指のように穢れている。」と、大兄はいうと、その皮肉な微笑を浮べた顔を、再び砂浜の松明の方へ振り向けた。「見よ、松明は輝き出した。」

「此処ここを去れ。此処は爾のごとき男の入るべき処ところではない。」

「我は帰るであろう。我は爾の管玉を奪えば爾を置いて帰るであろう。」

「我の玉は、爾に穢されたわが身のように穢れている。行け。」

「待て、爾の玉は爾の霊たましいよりも光っている。玉を与えよ。爾は玉を与えると我にいった。」

「行け。」

卑狗の大兄は笑いながら、自分の勾玉をさらさらと小壺に入れて立ち上った。

「今宵こよいは何処いずこで逢あおう?」

「行け。」

「丸屋まろやで待とう。」

「行け。」

大兄は遣戸やりどの外へ出て行った。卑弥呼は残った管玉を引きたれた裳裾もすその端で掃はき散ちらしながら、彼の方へ走り寄った。

「大兄、我は高倉の傍で爾を待とう。」

「我はひとり月を待とう。今宵の月は満月である。」

「待て、大兄、我は爾に玉を与えよう。」

「爾の玉は、我に穢された爾のように穢れている。」

大兄の哄笑こうしょうは忍竹しのぶを連ねた瑞籬みずがきの横で起ると、夕闇ゆうやみの微風に揺れている柏かしわの棖ほこだちの傍まで続いていった。卑弥呼は染衣しめごろもの袖そでを噛かみながら、遠く松の茂みの中へ消えて行く大兄の姿を見詰めていた。

二

夜は暗かった。卑弥呼は鹿の毛皮に身を包んで宮殿からぬけ出ると、高倉の藁戸わらどに添って大兄を待った。栗鼠りすは頭の上で、栗の梢こずえの枝を撓たわめて音を立てた。

「大兄。」

野兎のうさぎは〔くさかんむり/冏〕麻いちびの茂みの中で、昼に狙ねらわれた青鷹あおたかの夢を見た。そうして、飛とび跳はねると〔くさかんむり/冏〕麻の幹に突きあたりながら、零余子むかごの葉叢はむらの中に馳かけ込こんだ。

「大兄。」

梟ふくろうは木槵樹もくろじゅの梢を降りて来た。そして、嫁菜よめなを踏みながら群むらがる薏苡くさだまの下を潜くぐって青蛙あおがえるに飛びついた。

「大兄。」

しかし、卑狗の大兄はまだ来なかった。卑弥呼は藁戸の下へ蹲踞うずくまると、ひとり菘すずなを引いては投げ引いては投げた。月は高倉の千木ちぎを浮かべて現れた。森の柏の静まった葉波は一斉に濡れた銀の鱗うろこのように輝き出した。そのとき、軽い口笛が草玉の茂みの上から聞えて来た。卑弥呼は藁戸から身を起すと、草玉の穂波の上に半身を浮かべて立っている卑狗の大兄の方へ歩いていった。

「大兄、大兄。」彼女は鹿の毛皮を後うしろに跳ねて彼の方へ近か寄った。「夜は間もなく明けるであろう。」

しかし、大兄は輝く月から眼を放さずに立っていた。

「大兄よ、我は管玉を持って来た。爾は受けよ。」と卑弥呼はいって管玉を大兄の前に差し出した。

「爾は何故なにゆえにここへ来た? 我はひとり月を眺めにここへ来た。」

「我は爾に玉を与えにここへ来た。受けよ、我は玉を与えると爾にいった。」

大兄は卑弥呼の管玉を攫つかんでとった。

「我は爾に逢あわんがためにここへ来た。爾は我に玉を与えにここへ来た。爾は帰れ。」と大兄はいって再び空の月へ眼を向けた。

卑弥呼は黙って草玉の実をしごき取ると大兄の横顔へ投げつけた。大兄は笑いながら急に卑弥呼の方へ振り向いた。そうして、彼女の肩へ両手をかけて抱き寄せようとすると、彼女は大兄の胸を突いて身を放した。

「我は帰るであろう。我は爾に玉を与えた。我は帰るであろう。」

「よし、爾は帰れ、爾は帰れ。」と、大兄はいいながら、彼女の振り放そうとする両手を持った。そうして、彼女を引き寄せた。

「放せ、放せ。」

「帰れ、帰れ。」

大兄は藻掻もがく卑弥呼を横に軽々と抱き上げると、どっと草玉の中へ身を落した。さらさらと揺ゆらめいた草玉は、その実みを擦すって二人の上で鳴っていた。

「卑弥呼、見よ、爾は彼方かなたの月のように美うるわしい。」

彼女は大兄の腕の中に抱かれたまま、今は静しずかに眼を瞑とじて彼の胸の上へ頬ほおをつけた。

「卑弥呼、もし爾が我の子を産めば姫を産め。我は爾のごとき姫を欲する。もし爾が彦ひこを産めば、我のごとき彦を産め。我は爾を愛している。爾は我を愛するか。」

しかし、卑弥呼は大兄を見上げて黙ったまま片手で彼の頬を撫なでていた。

「ああ、爾は月のように黙っている。冷たき月は欠けるであろう。爾は帰れ。」

大兄は卑弥呼を揺って睥にらまえた。が彼女は微笑しながら静に大兄の顔を見上て黙っていた。

「帰れ、帰れ。」

と大兄はいいつつ彼女を抱いた両腕に力を籠こめた。卑弥呼は大兄の首へ手を巻いた。そうして、二人は黙っていた。月は青い光りを二人の上に投げながら、彼方の森からだんだん高く昇っていった。そのとき、一人の痩やせた若者が、生薑しょうがを噛みつつ木槵樹もくろじゅの下へ現れた。彼は破れた軽い麻鞋おぐつを、水に浸った俵たわらのように重々しく運びながら、次第に草玉の茂みの方へ近か寄って来た。卑狗ひこの大兄は足音を聞くと立ち上った。

「爾は誰か?」

若者は立停ると、生薑を投げ捨てた手で剣つるぎの頭椎かぶつちを握って黙っていた。

「爾は誰か。」と再び大兄はいった。

「我は路に迷える者。」

「爾は何処いずこの者か。」

「我は旅の者、我に糧かてを与えよ。我は爾に剣と勾玉とを与えるであろう。」

大兄は卑弥呼の方へ振り向いて彼女にいった。

「爾の早き夜は不吉である。」

「大兄、旅の者に食を与えよ。」

「爾は彼を伴とものうて食を与えよ。」

「良きか、旅の者は病者のように痩せている。」

大兄は黙って若者の顔を眺めた。

「大兄、爾はここにいて我を待て、我は彼を贄殿にえどのへ伴なおう。」卑弥呼は毛皮を被かぶって若者の方を振り向いた。「我に従って爾は来きたれ。我は爾に食を与えよう。」

「卑弥呼、我は最早もはや月を見た。我はひとりで帰るであろう。」大兄は彼女を睥んでいった。

「待て、大兄、我は直ちに帰るであろう。」

「行け。」

「大兄よ。爾は我に代って彼を伴なえ、我は此処で爾を待とう。」

「行け、行け、我は爾を待っている。」

「良きか。」

「良し。」

「来れ。」と卑弥呼は若者に再びいった。

若者は、月の光りに咲き出た夜の花のような卑弥呼の姿を、茫然ぼうぜんとして眺めていた。彼女は大兄に微笑を与えると、先に立って宮殿の身屋むやの方へ歩いていった。若者は漸く麻鞋おぐつを動かした。そうして、彼女の影を踏みながらその後から従った。大兄の顔は顰ゆがんで来た。彼は小石を拾うと森の中へ投げ込んだ。森は数枚の柏の葉から月光を払い落して呟つぶやいた。

三

身屋むやの贄殿にえどのの二つの隅すみには松明が燃えていた。一人の膳夫かしわでは松明の焔ほのおの上で、鹿の骨を焙あぶりながら明日の運命を占っていた。彼の恐怖を浮べた赧あかい横顔は、立ち昇る煙を見詰めながらだんだんと悦よろこびの色に破れて来た。そのとき、入口の戸が押し開けられて、後に一人の若者を従えた王女卑弥呼が這入はいって来た。膳夫は振り向くと、火のついた鹿の骨を握ったまま真菰まこもの上に跪拝ひざまずいた。卑弥呼は後の若者を指差して膳夫にいった。

「彼は路に迷える旅の者。彼に爾は食を与えよ。彼のために爾は臥所ふしどを作れ。」

「酒は?」

「与えよ。」

「粟あわは?」

「与えよ。」

彼女は若者の方を振り向いて彼にいった。

「我は爾を残して行くであろう。爾は爾の欲する物を彼に命じよ。」

卑弥呼は臂ひじに飾った釧くしろの碧玉へきぎょくを松明に輝かせながら、再び戸の外へ出て行った。若者は真菰まこもの下に突き立ったまま、その落ち窪んだ眼を光らせて卑弥呼の去った戸の外を見つめていた。

「旅の者よ。」と、膳夫の声が横でした。

若者は膳夫の顔へ眼を向けた。そうして、彼の指差している下を見た。そこには、海水を湛たたえた盌もいの中に海螺つびと山蛤やまがえるが浸してあった。

「かの女おんなは何者か。」

「この宮の姫、卑弥呼という。」

膳夫は彼の傍から隣室の方へ下がっていった。やがて、数種の行器ほかいが若者の前に運ばれた。その中には、野老ところと蘿蔔すずしろと朱実あけみと粟とがはいっていた。楤たらの木の心から製した醨もそろの酒は、その傍の酒瓮みわの中で、薫かんばしい香気を立ててまだ波々と揺ゆらいでいた。若者は片手で粟を摘つまむと、「卑弥呼。」と一言呟いた。

そのとき、君長ひとこのかみの面前から下がって来た一人の宿禰すくねが、八尋殿やつひろでんを通って贄殿の方へ来た。彼は痼疾こしつの中風症に震える老躯ろうくを数人の使部しぶに護まもられて、若者の傍まで来ると立ち停った。

「爾は何処の者か。」

宿禰の垂れ下った白い眉毛まゆげは、若者を見詰めている眼の上で慄ふるえていた。

「我は路に迷える旅の者。」

「爾の額ひたいの刺青ほりものは玦けつである。爾は奴国なこくの者であろう。」

「否いや。」

「爾の顎あごの刺青は月である。爾は奴国の貴族であろう。」

「否。」

「爾の唇の刺青は蔓つるである。爾は奴国の王子であろう。」

「否、我は路に迷える旅の者。」

「やめよ。爾の祖父は不弥うみの王母おうぼを掠奪りゃくだつした。爾の父は不弥の霊床たまどこに火を放った。彼を殺せ。」

宿禰の茨いばらの根で作った杖つえは若者の方へ差し向けられた。忽たちまち、使部しぶたちの剣は輝いた。若者は突っ立ち上ると、掴つかんだ粟を真先に肉迫する使部の面部へ投げつけた。剣を抜いた。と見る間に、使部の片手は剣を握ったまま胴を放れて酒の中へ落ち込んだ。使部たちは立ち停った。若者は飛とび退くと、杉戸を背にして突き立った。彼を目がけて盌もいが飛んだ。行器ほかいが飛んだ。覆くつがえった酒瓮みわから酒が流れた。そうして、海螺つびや朱実あけみが立ち籠めた酒気の中を杉戸に当って散乱すると、再び数本の剣は一斉に若者の胸を狙って進んで来た。身屋むやの外では法螺ほらが鳴った。若者は剣を舞わせて使部たちの剣の中へ馳かけ込こんだ。そうして、その背後で痼疾に震えている宿禰の上へ飛びかかると、彼を真菰の上へ押しつけた。使部たちの剣は再び彼に襲って来た。彼は宿禰の胸へその剣の尖さきをさし向けると彼らにいった。

「我を殺せ、我の剣も動くであろう。」

使部たちは若者を包んだまま動くことが出来なかった。宿禰は若者の膝ひざの下で、なおその老躯を震わせながら彼らにいった。

「我を捨てよ。彼を刺せ。不弥のために奴国の王子を刺し殺せ。」

しかし、使部たちの剣は振り上ったままに下らなかった。法螺はただ一つますます高く月の下を鳴り続けた。銅鑼どらが鳴った。兵士つわものたちの銅鉾どうぼこを叩いて馳せ寄る響が、武器庫ぶきぐらの方へ押し寄せ、更に贄殿にえどのへ向って雪崩なだれて来た。

「奴国の者が宮に這入った。」

「姫を奪いに。」

「鏡を掠とりに。」

騒ぎは人々の口から耳へ、耳から口へと静まった身屋むやを包んで波紋のように拡った。やがて贄殿の内外は、兵士たちの鉾尖ほこさきのために明るくなった。

「奴国の者は何処へ行った。」

「奴国の者を外へ出せ。」

贄殿の入口は動乱する兵士たちの肩口で押し破られた。そのとき、彼らの間を分けて、一人卑弥呼が進んで来た。兵士たちは争って彼女の前に道を開いた。彼女は贄殿の中へ這入ると、使部たちの剣に包まれた若者の姿を眼にとめた。

「待て、彼は道に迷いし旅の者。」

「彼は奴国の王子である。」

「彼は我の伴ないし者。」

「彼の祖父は不弥の王母を掠奪した。」

「剣を下げよ。」

「彼の父は不弥の神庫ほくらに火を放った。」

卑弥呼は使部たちの剣の下を通って若者の傍に出た。

「我は爾に食を与えた。爾は爾の国へ直ちに帰れ。」

若者は踏み敷いた宿禰を捨てて剣を投げた。そうして、卑弥呼の前に跪拝ひざまずくと、彼は崩れた角髪みずらの下から眼を光らせて彼女にいった。

「姫よ、我を爾の傍におけ、我は爾の下僕しもべになろう。」

「爾は帰れ。」

「姫よ、我は爾に我の骨を捧げよう。」

「去れ。」

「姫よ。」

「彼を出せ。」

使部たちは剣を下げて若者の腕を握った。そうして、彼を戸外の月の光りの下へ引き出すと、若者は彼らを突き伏せて再び贄殿の中へ馳け込んだ。

「姫よ。」

「去れ。」

「姫よ。」

「去れ。」

「爾は我の命を奪うであろう。」

忽ち、兵士たちの鉾尖は、勾玉まがたまの垂れた若者の胸へ向って押し寄せた。若者は鉾尖の映った銀色の眼で卑弥呼を見詰めながら、再び戸外へ退しりぞけられた。そうして、彼は数人の兵士に守られつつ、月の光りに静まった萩はぎと紫苑しおんの花壇を通り、紫竹しちくの茂った玉垣の間を白洲しらすへぬけて、磯まで来ると、兵士たちの嘲笑とともに鞺どッと浜藻の上へ投げ出された。一連の波が襲って来た。そうして、彼の頭の上を乗り越えて消えて行くと、彼は漸ようやく半身を起して宮殿の方を見続けた。

四

「王子は帰った。」

「呪禁師じゅこんしの言はあたった。」

「峠とうげを越えて。」

「矛木ほこぎのように痩せて帰った。」

奴国なこくの宮は、山の麓ふもとの篠屋しのやの中から騒ぎ始めた。そうして、この騒ぎは宮を横切って、宮殿の中へ這入はいって行くと、夜になって、神庫ほくらの前の庭園で盛大な饗宴となって変って来た。

松明たいまつを咬かんだ火串ほぐしは円形にその草野を包んで立てられた。集った宮人みやびとたちには、鹿の肉片と、松葉で造った麁酒そしゅや醨もそろの酒が配くばられ、大夫たいぶや使部しぶには、和稲にぎしねから作った諸白酒もろはくざけが与えられた。そうして、宮の婦人たちは彼らの前で、まだ花咲かぬ忍冬すいかずらを頭に巻いた鈿女うずめとなって、酒楽さかほがいの唄うたを謡うたいながら踊り始めた。数人の若者からなる楽人は、槽おけや土器かわらけを叩きつつ二絃にげんの琴きんに調子を打った。

肥こえ太ふとった奴国の宮の君長ひとこのかみは、童男と三人の宿禰すくねとを従えて櫓やぐらの下で、痩せ細った王子の長羅ながらと並んでいた。長羅は過ぎた狩猟の日、行衛ゆくえ不明となって奴国の宮を騒がせた。彼は十数日の間深い山々を廻っていた。そうして、彼は不弥うみへ出た。かつてあの不弥の宮で生命を断たれようとした若者は彼であった。

「長羅よ、見よ、奴国の女は美しい。」と君長はいって踊る婦女たちを指差した。「我は爾なんじに妻を与えよう。爾は爾の好む女を捜せ。」

長羅の父の君長は、妃きさきを失って以来、饗宴を催すことが最大の慰藉いしゃであった。何なぜなら、それは彼の面前で踊る婦女たちの間から、彼は彼の欲する淫蕩いんとうな一夜の肉体を選択するに自由であったから。そうして、彼は、回を重ねるに従って常に一夜の肉体を捜し得た。今また彼は、櫓の下から二人の婦女に眼をつけた。

「見よ、長羅、彼方かなたの女の踊りは美事であろう。」

長羅の細まった憂鬱な眼は、踊りを外はずれて森の方を眺めていた。君長は空虚からの酒盃さかずきを持ったまま、忙しそうに踊りの中へ眼を走らせながら、再び一人の婦人を指差していった。

「彼方の女は子を産む猪いのししのように太っている。見よ、長羅、彼方の女は子を胎はらんだ冬の狐のように太っている。」

饗宴は酒甕みわから酒の減るにつれて乱れて来た。鹿は酔よい潰つぶれた若者たちの間を漫歩しながら酢漿草かたばみそうの葉を食べた。やがて、一団の若者たちは裸体となって、榊さかきの枝を振りながら婦人たちの踊の中へ流れ込んだ。このとき、人波の中から、絶えず櫓の上の長羅の顔を見詰めている女が二人あった。一人は踊の中で、君長の視線の的となっていた濃艶な若い大夫の妻であった。一人は松明の明りの下で、兄の訶和郎かわろと並んで立っている兵部ひょうぶの宿禰の娘、香取かとりであった。彼女は奴国の宮の乙女おとめたちの中では、その美しい気品の高さにおいて嶄然ざんぜんとして優れていた。

「ああ長羅、見よ、彼方に爾の妻がいる。」と、君長はいって長羅の肩を叩きながら、香取の方を指差した。

香取の気高き顔は松明の下で、淡紅うすくれないの朝顔のように赧あからんで俯向うつむいた。

「王子よ、我の酒盞うくはを爾は受けよ。」と、兵部の宿禰は傍からいって、馬爪ばづで作った酒盞を長羅の方へ差し延べた。何ぜなら、彼の胸中に長く潜ひそまっていた最大の希望は、今漸ようやく君長の唇から流れ出たのであったから。

しかし、長羅の頭首こうべは重く黙って横に振られた。彼の眼の向けられた彼方では、松明の一塊が火串ほぐしの藤蔓ふじかずらを焼き切って、赤々と草の上へ崩れ落ちた。一疋の鹿は飛び上った。そうして、踊の中へ角を傾けて馳け込んだ。

「父よ、我は臥所ふしどを欲する。我を赦ゆるせ。」

長羅は一人立ち上って櫓を降りた。彼は人波ひとなみの後をぬけ、神庫の前を通って暗い櫟いちいの下まで来かかった。そのとき、踊りの群むれから脱ぬけ出だした一人の女が、彼の後から馳かけて来た。彼女は大夫の若い妻であった。

「待て、王子よ。」と彼女はいった。

長羅は立ち停って後を向いた。

「我は爾の帰るを、月と星とに祈っていた。」

長羅は黙って再び母屋もやの方へ歩いていった。

「待て、王子よ、我は夜の来る度に爾の夢を見た。」

しかし、長羅の足はとまらなかった。

「ああ、王子よ。爾は我に言葉をかけよ。爾はわれを森へ伴なえ。我は我の祈りのために、再び爾を櫓の上で見た。」

そのとき、二人の後から一人の足音が馳けて来た。それは女の良人の痩せ細った若い大夫であった。彼は蒼あおざめた顔をして慄ふるえながら長羅にいった。

「王子よ、女は我の妻である。願くば妻を斬きれ。」

長羅は黙って母屋の踏段に足をかけた。大夫の妻は長羅の腕を握ってひきとめた。

「王子よ、我を伴なえ、我は今宵こよいとともに死ぬるであろう。」

大夫は妻の首を掴つかんで引き戻そうとした。

「爾は我を欺あざむいた。爾は狂った。」

「放せ、我は爾の妻ではない。」

「ああ、妻よ、爾は我を欺いた。」

大夫は妻の髪を掴んで引き伏せようとしたときに、再び新しい一人の足音が、蹌踉よろめきながら三人の方へ馳けて来た。それは酒盞うくはを片手に持った長羅の父の君長であった。彼は踏ふみ辷すべると土を片頬に塗りつけて起き上った。

「女よ、我は爾を捜していた。爾の踊りは何者よりも美事であった。来きたれ、我は今宵爾に奴国の宮を与えよう。」

君長は女の腕を握って踏段を昇っていった。大夫は女の後から馳け登ると、再び妻の手を持った。

「王よ、女は我の妻である。妻を赦ゆるせ。」

「爾の妻か。良し。」

君長は女を放して剣つるぎを抜いた。大夫の首は地に落ちた。続いて胴が高縁たかえんに倒れると、杉菜すぎなの中に静まっている自分の首を覗のぞいて動かなかった。

「来れ。」と君長は女にいってその手を持った。

「王子よ、王子よ、我を救え。」

「来れ。」

女は君長を突き跳ねた。君長は大夫の胴の上へ仰向きに倒れると、露わな二本の足を空間に跳ねながら起き上った。彼は酒気を吐きつつその剣を振り上げた。

「王子よ、王子よ。」

女は呼びながら長羅の胸へ身を投げかけた。が、長羅の身体は立木のように堅かった。剣は降りた。女の肩は二つに裂けると、良人の胴を叩いて転がった。

「長羅よ、酒楽さかほがいは彼方である。朝はまだ来ぬ。行け、女は彼方で待っている。」

君長は剣を下げたまま松明の輝いた草野の方へ、再び蹌踉よろめきながら第二の女を捜しに行った。

長羅は突き立ったまま二つの死体を眺めていた。そうして、彼は西の方を眺めると、

「卑弥呼ひみこ。」と一言ひとこと呟いた。

五

奴国なこくの宮の鹿と馬とはだんだんと肥こえて来た。しかし、長羅ながらの頬は日々に落ち込んだ。彼は夜が明けると、櫓やぐらの上へ昇って不弥うみの国の山を見た。夜が昇ると頭首こうべを垂れた。そうして、彼の唇からは、微笑と言葉が流れた星のように消えて行った。彼のこの憂鬱に最も愁傷した者は、彼を愛する叔父おじの祭司の宿禰すくねと、香取を愛する兵部ひょうぶの宿禰の二人であった。ある日、祭司の宿禰は、長羅の行衛不明となったとき彼の行衛を占うらなわせた咒禁師じゅこんしを再び呼んで、長羅の病を占わせた。広間の中央には忍冬すいかずらの模様を描いた大きな薫炉くんろが据すえられた。その中の、菱殻ひしがらの焼粉やきこの黄色い灰の上では、桜の枝と鹿の肩骨とが積み上げられて燃え上った。咒禁師はその立たち籠こめた煙の中で、片手に玉串たまぐしを上げ、片手に抜き放った剣つるぎを持って舞を舞った。そうして、彼は薫炉の上で波紋を描く煙の文あやを見詰めながら、今や巫祝かんなぎの言葉を伝えようとした時、突然、長羅は彼の傍へ飛鳥のように馳けて来た。彼は咒禁師の剣を奪いとると、再び萩はぎの咲き乱れた庭園の中へ馳け降りた。そうして、彼は蟇がまに戯たわむれかかっている一疋の牝鹿めじかを見とめると、一撃のもとにその首を斬り落して咒禁師の方を振り向いた。

「来きたれ。」

呆然ぼうぜんとしていた咒禁師は、慄ふるえながら長羅の傍へ近寄って来た。

「我の望は西にある。いかが。」

「ああ、王子よ。」と、咒禁師はいうと、彼の慄える唇は紫の色に変って来た。

長羅は血の滴したたる剣を彼の胸さきへ差し向けた。

「いえ、我の望は西にある。良きか。」

「良し。」

「良きか。」

「良し。」というと、咒禁師は仰向きに嫁菜よめなの上へ覆くつがえった。

長羅は剣をひっ下げたまま、蒸被むしぶすまを押し開けて、八尋殿やつひろでんの君長ひとこのかみの前へ馳けていった。そこでは、君長は、二人の童男に鹿の毛皮を着せて、交尾の真似をさせていた。

「父よ、我に兵を与えよ。」

「長羅、爾なんじの顔は瓜うりのように青ざめている。爾は猪と鶴とを食くらえ。」

「父よ、我に兵を与えよ。」

「聞け、長羅、猪は爾の頬を脹らせるであろう。鶴は爾の顔を朱あけに染めるであろう。爾の母は我に猪と鶴とを食わしめた。」

「父よ、我は不弥うみを攻める。我に爾は兵を与えよ。」

「不弥は海の国、爾は塩を奪うか。」

「奪う。」

「不弥は玉の国、爾は玉を奪うか。」

「奪う。」

「不弥は美女の国、爾は美女を奪うて帰れ。」

「我は奪う、父よ、我は奪う。」

「行け。」

「ああ、父よ、我は爾に不弥の宝を持ち帰るであろう。」

長羅は君長ひとこのかみの前を下ると、兵部の宿禰を呼んで、直ちに兵を召集することを彼に命じた。しかし、兵部の宿禰は、この突然の出兵が、娘、香取の上に何事か悲しむべき結果を齎もたらすであろうことを洞察した。

「王子よ、爾は一戦にして勝たんことを欲するか。」

「我は欲す。」

「然しからば、爾は我が言葉に従って時を待て。」

「爾は老者、時は壮者にとりては無用である。」

「やめよ。我の言葉は、爾の希望のごとく重いであろう。」

長羅は唇を咬かみ締しめて宿禰を見詰めていた。宿禰は吐息を吐いて長羅の前から立ち去った。

六

奴国なこくの宮からは、面部の玦形けっけいの刺青ほりものを塗ぬり潰つぶされた五人の使部しぶが、偵察兵となって不弥うみの国へ発せられた。そうして、森からは弓材になる檀まゆみや槻つきや梓あずさが切り出され、鹿矢ししやの骨片の矢の根は征矢そやの雁股かりまたになった矢鏃やじりととり変えられた。猪の脂あぶらと松脂まつやにとを煮溜めた薬煉くすねは弓弦ゆづるを強めるために新らしく武器庫ぶきぐらの前で製せられた。兵士つわものたちは、この常とは変って悠々閑々ゆうゆうかんかんとした戦いの準備を心竊こころひそかに嗤わらっていた。しかし、彼らの一人として、娘を憶おもう兵部ひょうぶの宿禰すくねの計画を洞察し得た者は、誰もなかった。

偵察兵の帰りを待つ長羅ながらの顔は、興奮と熱意のために、再び以前のように男々おおしく逞たくましく輝き出した。彼は終日武器庫の前の広場で、馬を走らせながら剣つるぎを振り、敵陣めがけて突入する有様を真似ていた。しかし、卑弥呼ひみこを奪う日が、なお依然として判明せぬ焦燥さに耐え得ることが出来なくなると、彼は一人国境の方へ偵察兵を迎いに馬を走らせた。

或ある日、長羅は国境の方から帰って来ると、泉の傍に立っていた兵部の宿禰の子の訶和郎かわろが彼の方へ進んで来た。彼は長羅の馬の拡った鼻孔を指差して彼にいった。

「王子よ、爾なんじは爾の馬に水を飲ましめよ。爾の馬の呼吸は切れている。」

長羅は彼に従って馬から降りた。そのとき、一人の乙女おとめが垂れ下った柳の糸の中から、慄ふるえる両腕に水甕みずがめを持って現れた。それは兵部の宿禰の命を受けた訶和郎の妹の香取かとりであった。彼女は美しく装いを凝こらした淡竹色うすたけいろの裳裾もすそを曳ひきながら、泉の傍へ近寄って水を汲んだ。彼女の肩から辷すべり落おちた一束の黒髪は、差し延べた白い片腕に絡からまりながら、太陽の光りを受けた明るい泉の水面へ拡った。長羅は馬の手綱たづなを握ったまま彼女の姿を眺めていた。彼女は汲み上げた水壺の水を長羅の馬の前へ静しずかに置くと、赧あからめた顔を俯向うつむけて、垂れ下った柳の糸を胸の上で結び始めた。

やがて、馬は水甕の中から頭を上げた。

「奴国の宮で、もっとも美しき者は爾である。」と長羅はいうと、馬の上へ飛び乗った。

香取の一層赧らんだ気高けだかい顔は柳の糸で隠された。馬は再び王宮の方へ馳かけて行った。

しかし、長羅は武器庫の前まで来たときに、三人の兵士が水壺の中へ毒空木どくうつぎの汁を搾しぼっているのを眼にとめた。

「爾の汁は?」と長羅は馬の上から彼らに訊きいた。

「矢鏃やじりに塗って、不弥うみの者を我らは攻せめる。」と彼らの一人は彼に答えた。

長羅の眼には、その矢を受けて倒れている卑弥呼の姿が浮び上った。彼は鞭むちを振り上げて馬の上から飛び降りた。兵士たちは跪拝ひざまずいた。

「王子よ、赦ゆるせ、我らの毒は、直ちに一人を殺すであろう。」と一人はいった。

長羅は毒壺を足で蹴った。泡を立てた緑色の汁は、倒れた壺から草の中へ滲しみ流ながれた。

「王子よ、赦せ、我らに命じた者は宿禰である。」と、一人はいった。

忽たちまち毒汁の泡の上には、無数の山蟻やまありの死骸が浮き上った。

七

不弥うみの国から一人の偵察兵が奴国なこくの宮へ帰って来た。彼は、韓土かんどから新羅しらぎの船が、宝鐸ほうたくと銅剣とを載せて不弥の宮へ来ることを報告した。長羅ながらは直ちに出兵の準備を兵部ひょうぶの宿禰すくねに促した。しかし、宿禰の頭は重々しく横に振られた。

「爾は奴国の弓弦ゆづるの弱むを欲するか。」と、長羅はいって詰め寄った。

「待て、帰った偵察兵は一人である。」

長羅は沈黙した。そうして、彼は、嘆息する宿禰の頭の上で、不弥の方を仰いで嘆息した。

六日目に第二の偵察兵が帰って来た。彼は、不弥の君長ひとこのかみが投馬ずまの国境へ狩猟に出ることを報告した。

長羅は再び兵部の宿禰に出兵を迫っていった。

「宿禰よ、機会は我らの上に来た。爾は最早や口を閉じよ。」

「待て。」

「爾は武器庫ぶきぐらの扉を開け。」

「待て、王子よ。」

「宿禰、爾の我に教うる戦法は?」

「王子よ、狩猟の日は危険である。」

「やめよ。」

「狩猟の日の警戒は数倍する。」

「やめよ。」

「王子よ、爾の必勝の日は他日にある。」

「爾は必勝を敵に与うることを欲するか。」

「敵に与うるものは剣つるぎ。」

「爾は我の敗北を願う者。」

「我は爾を愛す。」

長羅は鹿の御席みましの毛皮を宿禰に投げつけて立ち去った。

宿禰はその日、漸ようやく投げ槍と楯たてとの準備を兵士つわものたちに命令した。

四日がたった。そうして、第三の偵察兵が奴国の宮へ帰って来た。彼は、不弥の宮では、王女卑弥呼ひみこの婚姻が数日の中うちに行われることを報告した。長羅の顔は、見る見る中に蒼あおざめた。

「宿禰、銅鑼どらを鳴らせ、法螺ほらを吹け、爾は直ちに武器庫の扉を開け。」

「王子よ。我らの聞いた三つの報導は違っている。」

長羅は無言のまま宿禰を睥にらんで突き立った。

「王子よ、二つの報告は残っている。」

長羅の唇と両手は慄えて来た。

「待て、王子よ、長き時日は、重き宝を齎もたらすであろう。」

長羅の剣は宿禰の上で閃ひらめいた。宿禰の肩は耳と一緒に二つに裂けた。

間もなく、兵士を召集する法螺と銅鑼が奴国の宮に鳴り響いた。兵士たちは八方から武器庫へ押し寄せて来た。彼らの中には、弓と剣と楯とを持った訶和郎かわろの姿も混っていた。彼は、この不意の召集の理由を父に訊きき正たださんがために、ひとり王宮の中へ這入はいっていった。しかし、寂寞せきばくとした広間の中で彼の見たものは、御席みましの上に血に塗まみれて倒れている父の一つの死骸であった。

「ああ、父よ。」

彼は楯と弓とを投げ捨てて父の傍へ馳かけ寄よった。彼は父の死の理由の総すべてを識しった。彼は血潮の中に落ちている父の耳を見た。

「ああ、父よ、我は復讐するであろう。」

彼は父の死体を抱き上げようとした。と、父の片腕は衣の袖そでの中から転がり落ちた。

「待て、父よ、我は爾に代って復讐するであろう。」

訶和郎は血の滴したたる父の死体を背負うと、馳はせ違ちがう兵士たちの間をぬけて、ひとり家の方へ帰って来た。

やがて、太陽は落ちかかった。そうして、長羅を先駆に立てた奴国の軍隊は、兵部の宿禰の家の前を通って不弥の方へ進軍した。訶和郎の血走った眼と、香取の泣き濡れた眼とは、泉の傍から、森林の濃緑色の団塊に切られながら、長く霜のように輝いて動いて行く兵士たちの鉾先ほこさきを見詰めていた。

八

不弥うみの宮には、王女卑弥呼ひみこの婚姻の夜が来た。卑弥呼は寝殿の居室で、三人の侍女を使いながら式場に出るべき装いを整えていた。彼女は斎杭いくいに懸った鏡の前で、兎の背骨を焼いた粉末を顔に塗ると、その上から辰砂しんしゃの粉を両頬に掃はき流ながした。彼女の頭髪には、山鳥の保呂羽ほろばを雪のように降り積もらせた冠かんむりの上から、韓土かんどの瑪瑙めのうと翡翠ひすいを連ねた玉鬘たまかずらが懸かっていた。侍女の一人は白色の絹布を卑弥呼の肩に着せかけていった。

「空の下で、最も美しき者は我の姫。」

侍女の一人は卑弥呼の胸へ琅玕ろうかんの勾玉まがたまを垂れ下げていった。

「地の上の日輪にちりんは我の姫。」

橘たちばなと榊さかきの植うわった庭園の白洲しらすを包んで、篝火かがりびが赤々と燃え上ると、不弥の宮人たちは各々手に数枚の柏かしわの葉を持って白洲の中へ集って来た。やがて、琴と笛と法螺ほらとが緩ゆるやかに王宮の棖ほこだちの方から響いて来た。十人の大夫だいぶが手火たびをかかげて白洲の方へ進んで来た。続いて、幢はたぼこを持った三人の宿禰すくねが進んで来た。それに続いて、剣を抜いた君長ひとこのかみが、鏡を抱いた王妃おうひが、そうして、卑弥呼は、管玉くだだまをかけ連ねた瓊矛ぬぼこを持った卑狗ひこの大兄おおえと並んで、白い孔雀くじゃくのように進んで来た。宮人たちは歓呼の声を上げながら、二人を目がけて柏の葉を投げた。白洲の中央では、王妃のかけた真澄鏡ますみかがみが、石の男根に吊つり下さがった幣ぬさの下で、松明たいまつの焔ほのおを映して朱の満月のように輝いた。その後の四段に分れた白木の棚の上には、野の青物あおものが一段に、山の果実と鳥類とが二段目に、鮠はえや鰍かじかや鯉こいや鯰なまずの川の物が三段に、そうして、海の魚と草とは四段の段に並べられた。奏楽が起り、奏楽がやんだ。君長は鏡の前で、剣を空に指差していった。

「ああ無窮なる天上の神々よ、われらの祖先よ、二人を守れ。ああ広大なる海の神々よ、地の神々よ、二人を守れ、ああ爾なんじら忠良なる不弥の宮の臣民よ、二人を守れ、不弥の宮は、爾らの守護の下に、明日の日輪のごとく栄えるであろう。」

周囲の宮人たちの手が白い波のように揺れると、再び一斉に柏の葉が投げられた。卑弥呼と卑狗の大兄は王宮の人々に包まれて、奏楽に送られながら、白洲を埋めた青い柏の葉の上を寝殿の方へ返っていった。群衆は歓よろこびの声を上げつつ彼らの後に動揺どよめいた。手火たびや松明たいまつが入り乱れた。そうして、王宮からは、醨もそろや諸白酒もろはくざけが鹿や猪の肉片と一緒に運ばれると、白洲の中央では、薏苡くさだまの実を髪飾りとなした鈿女うずめらが山韮やまにらを振りながら、酒楽さかほがいの唄うたを謡うたい上げて踊り始めた。やがて、酒宴と舞踏は深まった。威勢良き群衆は合唱から叫喚きょうかんへ変って来た。そうして、夜の深むにつれて、彼らの騒ぎは叫喚から呻吟しんぎんへと落ちて来ると、次第に光りを失う篝火と一緒に、不弥の宮の群衆は、間もなく暁の星の下で呟つぶやく巨大な獣けもののように見えて来た。

そのとき、突然武器庫ぶきぐらから火が上った。と、同時に森の中からは、一斉に鬨ときの声が群衆めがけて押し寄せた。それに応じて磯いそからは、長羅ながらを先駆に立てた一団が、花壇を突き破って宮殿の方へ突撃した。不弥の宮の群衆は、再び宵よいのように騒ぎ立った。松明は消えかかったまま酒盞うくはや祝瓮ふくべと一緒に飛び廻った。そうして、投げ槍の飛とび交かう下で、鉾ほこや剣が撒まかれた氷のように輝くと、人々の身体は手足を飛ばして間断なく地に倒れた。

長羅はひとり転がる人波を蹴散らして宮殿の中へ近づくと、贄殿にえどのの戸を突き破って寝殿の方へ馳かけ込こんだ。広間の蒸被むしぶすまを押し開けた。八尋殿やつひろでんを横切った。そうして、奥深い一室の布被ぬのぶすまを引きあけると、そこには、白い羽毛の蒲団ふとんに被おおわれた卑弥呼が、卑狗の大兄の腕の中で眠っていた。

「卑弥呼。」長羅は入口に突き立った。

「卑弥呼。」

卑狗の大兄と卑弥呼とは、巣を乱された鳥のように跳ね起きた。

「去れ。」と叫ぶと、大兄は斎杭いくいに懸った鹿の角を長羅に向って投げつけた。

長羅は剣の尖さきで鹿の角を跳ねのけると、卑弥呼を見詰めたまま、飛びかかる虎のように小腰こごしを蹲かがめて忍び寄った。

「去れ、去れ。」

長羅に向って鏡が飛んだ。玉が飛んだ。しかし、彼は無言のまま卑弥呼の方へ近か寄った。大兄は卑弥呼を後うしろに守って彼の前に立たち塞ふさがった。

「爾は何故にここへ来た。」

と、大兄はいうと、彼の胸には長羅の剣が刺さっていた。彼は叫びを上げると、その剣を握って後へ反そった。

「ああ、大兄。」

卑弥呼は良人おっとを抱きかかえた。大兄の胸からは、血が赤い花のように噴ふき出だした。長羅は卑弥呼の肩に手をかけた。

「卑弥呼。」

「ああ、大兄。」

卑狗の身体は卑弥呼の腕の中へ崩れかかって息が絶えた。

「我は爾を奪いに不弥へ来た。卑弥呼、我とともに爾は奴国なこくへ来きたれ。」

長羅は卑弥呼を抱き寄せようとした。

「大兄、大兄。」と彼女はいいながら、卑狗の大兄を抱いたまま床の上へ泣き崩れた。

そのとき、奴国の兵士つわものたちは血に濡れた剣を下げて、長羅の方へ乱入して来ると口々に叫び合った。

「我は王を殺した。」

「我は王妃を刺した。」

「不弥の鏡を我は奪った。」

「我は宝剣と玉を掠とった。」

長羅は卑弥呼を床の上から抱き上げた。

「我は爾を奪う。」

彼は卑狗の大兄を卑弥呼の腕から踏み放すと、再び宮殿を突きぬけて広場の方へ馳け出した。卑弥呼は長羅の腕の中から、小枝を払った棖ほこだちの枝に、上顎うわあごをかけられた父と母との死体が魚のように下っているのを眼にとめた。

「ああ、我を刺せ。」

焔ほのおの家となった武器庫は、転っている死体の上へ轟然たる響を立てて崩れ落ちた。長羅は卑弥呼を抱きかかえたまま、ひらりと馬の上へ飛び乗った。

「去れ。」

彼は馬の腹をひと蹴り蹴った。馬は石のように転っている人々の頭を蹴散して、森の方へ馳け出した。それに続いて、血に塗られた奴国の兵の鉾尖ほこさきが、最初の朝日の光りを受けてきらめきながら、森の方へ揺れて来た。

「卑弥呼。」と長羅はいった。

「ああ、我を刺せ。」

彼女は馬の背の上で昏倒こんとうした。

「卑弥呼。」

馬は走った。葎むぐらと薊あざみの花を踏みにじって奴国の方へ馳けていった。

「卑弥呼。」

「卑弥呼。」

九

遠く人馬の騒擾そうじょうが闇の中から聞えて来た。訶和郎かわろと香取かとりは戸外に立って峠とうげを見ると、松明たいまつの輝きが、河に流れた月のように長くちらちらとゆらめいて宮の方へ流れて来た。それは不弥うみの国から引き上げて来た奴国なこくの兵士つわものたちの明りであった。訶和郎と香取は忍竹しのぶを連ねた簀垣すがきの中に身を潜ひそめて、彼らの近づくのを待っていた。

やがて、兵士たちのざわめきが次第に二人の方へ近寄って来ると、その先達せんだちの松明の後から、馬の上で一人の動かぬ美女を抱きかかえた長羅ながらの姿が眼についた。訶和郎は剣を抜いて飛び出ようとした。

「待て、兄よ。」と香取はいって、訶和郎の腕を後へ引いた。

先達の松明は簀垣の前へ来かかった。美女の片頬は、松明の光りを受けて病める鶴のように長羅の胸の上に垂れていた。

訶和郎は剣つるぎを握ったまま長羅の顔から美女の顔へ眼を流した。すると、憤怒ふんぬに燃えていた彼の顔は、次第に火を見る嬰児えいじの顔のように弛ゆるんで来て口を解いた。そうして、彼の厚い二つの唇は、兵士たちの最後の者が、跛足びっこを引いて朱実あけみを食べながら、宮殿の方へ去って行っても開いていた。しかし、間もなく、兵士たちの松明が、宮殿の草野の上で円まるく火の小山を築きながら燃え上ると、訶和郎の唇は引きしまり、再び彼の両手は剣を持った。

「待て、兄よ。」

物に怯おびえたように、香取の体は軽く揺れた。しかし、訶和郎の姿は闇の中を夜蜘蛛よぐものように宮殿の方へ馳け出した。

「ああ、兄よ。」と香取はいうと、彼女の悲歎の額ひたいは重く数本の忍竹へ傾きかかり、そうして、再び地の上へ崩れ伏した。

十

訶和郎かわろは兵士つわものたちの間を脱けると、宮殿の母屋もやの中へ這入はいっていった。そうして、広間の裏へ廻って尾花おばなで編んだ玉簾たますだれの隙間すきまから中を覗のぞいた。

広間の中では、君長ひとこのかみは二人の宿禰すくねと、数人の童男と使部しぶとを傍に従えて、前方の蒸被むしぶすまの方を眺めていた。数箇の燈油の皿に燃えている燈火は、一様に君長の方へ揺れていた。暫しばらくして、そこへ、数人の兵士たちを従えて現れたのは長羅ながらであった。

「父よ、我は勝った。我は不弥うみの宮の南北から襲め寄せた。」と長羅はいった。

「美女は何処いずこか。」

「父よ。我は不弥の宮に立てる生き物を残さなかった。我は王を殺した、王妃おうひを刺した。」

「美女をとったか。」

「美女をとった。そうして、宝剣と鏡をとった。我の奪った宝剣を爾なんじは受けよ。」

「美女は何処か。不弥の美女は潮の匂いがするであろう。」

長羅は兵士たちの持って来た剣と、苧からむしの袋の中からとり出した鏡と琅玕ろうかんの勾玉まがたまとを父の前に並べていった。

「父よ。爾は爾の好む宝を選べ。宝剣は韓土の鉄。奴国なこくの武器庫ぶきぐらを飾るであろう。」

「長羅よ。我は爾の殊勲に爾の好む宝剣を与えるであろう。我に美女を見せよ。不弥の美女は何処にいるか。」

君長は御席みましの上から立ち上った。長羅は一人の兵士に命じて言った。

「連れよ。」

卑弥呼は後に剣を抜いた数人の兵士に守られて、広間の中へ連れられた。君長は卑弥呼を見ると、獣慾に声を失った笑顔の中から今や手を延のばさんと思われるばかりに、その肥こえた体躯たいくを揺り動かして彼女にいった。

「不弥の女よ。爾は奴国を好むか。我とともに、奴国の宮にとどまれ。我は爾に爾の好む何物をも与えるであろう。爾は亥猪いのこを好むか。奴国の亥猪は不弥の鹿より脂あぶらを持つであろう。不弥の女よ。我を見よ。我は王妃を持たぬ。爾は我の王妃になれ。我は爾の好む蛙かえると鯉こいとを与えるであろう。我は加羅からの翡翠ひすいを持っている。」

「奴国の王よ、我を殺せ。」

「不弥の女よ。我の傍に来れ。爾は奴国の誰よりも美しい。爾は鐶たまきを好むか。我の妻は黄金の鐶を残して死んだ。爾は鐶を爾の指に嵌はめてみよ。来たれ。」

「奴国の王よ。我を不弥に返せ。」

「不弥の女よ。爾は奴国の宮を好むであろう。我とともにいよ。奴国の月は田鶴たずのように冠物かぶりものを冠っている。爾は奴国の月を眺めて、我とともに山蟹やまがにと雁かりとを食くらえ。奴国の山蟹は赤い卵を胎はらんでいる。爾は赤い卵を食え。山蟹の卵は爾の腹から我の強き男子おのこを産ますであろう。来たれ。我は爾のごとき美しき女を見たことがない。来たれ。我とともに我の室へやへ来りて、酒盞うくはを干せ。」

君長は刈薦かりごもの上に萎しおれている卑弥呼の手をとった。長羅の顔は刺青ほりものを浮かべて蒼白あおじろく変って来た。

「父よ、何処へ行くか。」

「酒宴の用意は宜よろしきか。長羅よ。爾の持ち帰った不弥の宝は美事である。」

「父よ。」

「長羅よ。我は爾のために新らしき母を与えるであろう。爾は臥所ふしどへ這入って、戦いの疲れを憩いこえ。」

「父よ。」長羅は君長の腕から卑弥呼を奪って突き立った。「不弥の女は我の妻。我は妻を捜しに不弥へ行った。」

「長羅、爾は我を欺あざむいた。不弥の女よ。我に来れ。我は爾を嫁めとりに長羅を遣やった。」

「父よ。」

「不弥の女よ。我とともに来れ。我は爾を奴国の何物よりも愛めでるであろう。」

君長は卑弥呼の手を引きながら長羅を突いた。長羅は剣を抜くと、君長の頭に斬りつけた。君長は燈油の皿を覆くつがえして勾玉の上へ転がった。殿中は君長の周囲から騒ぎ立った。

政司さいしの宿禰は立ち上ると剣を抜いて、長羅の前に出た。

「爾は王を殺害した。」

長羅は宿禰を睥にらんで肉迫した。忽たちまち広間の中の人々は、宿禰と長羅の二派に分れて争った。見る間に手と足と、角髪みずらを解いた数個の首とが斬きり落おとされた。燈油の皿は投げられた。そうして、室の中は暗くなると、跳ね上げられた鹿の毛皮は、閃めく剣の刃さきの上を踊りながら放埒ほうらつに飛び廻った。

卑弥呼は蒸被むしぶすまを手探りながら闇にまぎれて、尾花の玉簾たますだれを押し分けた。その時、玉簾の後うしろに今まで身を潜めていた訶和郎かわろは、八尋殿やつひろでんの廻廊から洩れくる松明の光に照てらされて、突然に浮き出た不弥の女の顔を目にとめた。

「姫よ、待て。」

と訶和郎はいうと、広間の中へ飛び込もうとしていたその身を屈して彼女を横に抱き上げた。そうして、彼は宮殿の庭に飛び下り、厩うまやの前へ馳かけて行くと、卑弥呼の耳に口を寄せて囁ささやいた。

「姫よ、我と共に奴国を逃げよ。王子の長羅は、我と爾の敵である。爾を奪わば彼は我を殺すであろう。」

一頭の栗毛くりげに鞭むちが上った。馬は闇から闇へ二人を乗せて、奴国の宮を蹴り捨てた。

長羅は蒸被の前へ追いつめた宿禰の肩を斬り下げた。そうして、剣を引くと、「卑弥呼、卑弥呼。」と呼びながら、部屋の中を馳け廻り、布被ぬのぶすまを引き開けた。玉簾を跳ね上げた。庭園へ飛び下りて、萩はぎの葉叢はむらを薙なぎ倒たおしつつ広場の方へ馳けて来た。

「不弥の女は何処へ行った。捜せ。不弥の女を捕えたものは宿禰にするぞ。」

再び庭に積まれた松明の小山は、馳け集った兵士たちの鉾尖に突き刺されて崩された。そうして、奴国の宮を、吹かれた火の子のように八方へ飛び散ると、次第に疎まばらに拡りながら動揺どよめいた。

十一

訶和郎かわろの馬は狭ばまった谷間の中へ踏み這入った。前には直立した岩壁から逆様に楠くすの森が下っていた。訶和郎は馬から卑弥呼を降して彼女にいった。

「馬は進まず。姫よ、爾なんじは我とともに今宵こよいをすごせ。」

「追い手は如何いかん。」

「良し、姫よ。我は奴国なこくの宿禰すくねの子。我の父は長羅のために殺された。爾を奪う兵士つわものを奴国の宮に滞とどめて殺された。長羅は我の敵である。もし爾が不弥の国になかりせば、我の父は我とともに今宵を送る。爾は我の敵である。」

「我の良人おっとは長羅の剣つるぎに殺された。」

「我は知らず。」

「我の父は長羅の兵士に殺された。」

「我は知らず。」

「我の母は長羅のために殺された。」

「やめよ、我は爾の敵ではない。爾は我の敵である。不弥うみの女。我は爾を奪う。我は長羅に復讐のため、我は爾に復讐のため、我は爾を奪う。」

「待て。我の復讐は残っている。」

「不弥の女。」

「待て。」

「不弥の女。我の願いを容れよ。然しからずば、我は爾を刺すであろう。」

「我の良人は我を残して死んだ。我の父と母とは、我のために殺された。ひとり残っている者は我である。刺せ。」

「不弥の女。」

「刺せ。」

「我に爾があらざれば、我は死するであろう。我の妻になれ。我とともに生きよ。我に再び奴国の宮へ帰れと爾はいうな。我を待つ物は剣であろう。」

「待て。我の復讐は残っている。」

「我は復讐するであろう。我は爾に代って、父に代って復讐するであろう。」

「するか。」

「我は復讐する。我は長羅を殺す。」

「するか。」

「我は爾の夫に代って、爾の父と母に代って復讐する。」

「するか。」

「我は爾を不弥と奴国の王妃にする。」

その夜二人は婚姻した。頭の上には、蘭らんを飾った藤蔓ふじづると、数条の蔦つたとが欅けやきの枝から垂れ下っていた。二人の臥床は羊歯しだと韮にらと刈萱かるかやとであった。そうして卑弥呼ひみこは、再び新らしい良人おっとの腕の中に身を横たえた。訶和郎かわろは馬から鹿の毛皮で造られた馬氈ばせんを降おろして、その妻の背にかけた。月は昇った。訶和郎は奴国の追い手を警戒するために、剣を抜いたまま眠らなかった。鼯鼠むささびは楠くすの穴から出てくると、ひとり枝々の間を飛び渡った。月の映る度たびごとに、鼯鼠の眼は青く光って輝いた。そうして訶和郎の二つの眼と剣の刃は、山韮と刈萱の中で輝いた。

その時、突然、卑弥呼は身を顫ふるわせて訶和郎の腕の中で泣き出した。

十二

その夜から、奴国なこくの野心ある多くの兵士つわものたちは、不弥うみの女を捜すために宮を発った。彼らの中に荒甲あらこという一人の兵士があった。彼の額ひたいから片頬かたほおにかけて、田虫たむしが根強く巣を張っていたために、彼の玦形けっけいの刺青ほりものは、奴国の誰よりも淡かった。彼は卑弥呼ひみこが遁走とんそうした三日目の真昼に、森を脱け出た河原の岸で、馬の嘶いななきを聞きつけた。彼は芒すすきを分けてその方へ近づくと、馬の傍で、足を洗っている不弥の女の姿が見えた。荒甲は背を延ばして馳け寄ろうとした時に、兎と沙魚はぜとを携さげた訶和郎が芒の中から現れた。

「ああ、爾なんじは荒甲、不弥の女を爾は見たか。」

荒甲は黙って不弥の女の姿を指さした。訶和郎は荒甲の首に手をかけた。と、荒甲の身体は、飛び散る沙魚と兎とともに、芒の中に転がされた。訶和郎は石塊を抱き上げると、起き上ろうとする荒甲の頭を目蒐めがけて投げつけた。荒甲の田虫は眼球と一緒に飛び散った。そうして、芒の茎にたかると、濡れた鶏頭とさかのようにひらひらとゆらめいた。訶和郎は死体になった荒甲の胴を一蹴りに蹴ると、追手おっての跫音あしおとを聞くために、地にひれ伏して苔こけの上に耳をつけた。彼は妻の傍にかけていった。

「奴国の追手が近づいた。乗れ。」

馬は卑弥呼と訶和郎を乗せて瀬を渡った。数羽の山鴨やまがもと雀すずめの群れが柳の中から飛び立った。前には白雲を棚曳たなびかせた連山が真菰まこもと芒の穂の上に連っていた。

「かの山々は。」

「不弥の山。」

「追手は不弥へ廻るであろう。」

「廻るであろう。」

卑弥呼は訶和郎と共に不弥に残った兵士たちを集めて奴国へ征せめ入いる計画を立てていた。しかし、二人を乗せた馬の頭は進むに従い、不弥を外はずれて耶馬台やまとの方へ進んでいった。秋の光りは訶和郎の背中に廻った衣の結び目を中心として、羽毛の畑のような芒の穂波の上に明るく降り注いだ。そうして、微風が吹くと、一様に背を曲げる芒の上から、首を振りつつ進む馬の姿が一段と空に高まった。空では鷸子つぶりと鳶とびとが円まるく空中の持ち場を守って飛んでいた。

十三

その夜二人は数里の森と、二つの峰とを越して小山の原に到着した。そこには椎しいと蜜柑みかんが茂っていた。猿は二人の頭の上を枝から枝へ飛び渡った。訶和郎かわろは野犬と狼おおかみとを防ぐために、榾柮ほだを焚たいた。彼らは、数日来の経験から、追手の眼より野獣の牙きばを恐れねばならなかった。卑弥呼ひみこはひとり訶和郎に添って身を横たえながら目覚めていた。なぜなら、その夜は彼女の夜警の番であったから。夜は更ふけた。彼女は椎の梢こずえの上に、群むらがった笹葉ささばの上に、そうして、静しずかな暗闇に垂れ下った藤蔓ふじづるの隙々すきずきに、亡き卑狗ひこの大兄おおえの姿を見た。

卑狗の大兄の幻が彼女の眼から消えてゆくと、彼女は涙に濡れながら、再び燃え尽きる榾柮の上へ新らしく枯枝を盛り上げた。猿の群れは梢を下りて焚火の周囲に集ってきた。そうして、彼女が枯枝を火に差さし燻くべるごとに、彼らも彼女を真似て差し燻べた。

榾柮の次第に尽きかけた頃、山麓の闇の中から、突然に地を踏み鳴らす軍勢の響が聞えて来た。卑弥呼は傍の訶和郎を呼び起した。

「奴国の追手が近づいた、逃げよ。」

訶和郎は飛び起ると足で焚火たきびを踏み消した。再び兵士たちの鯨波ときの声が張り上った。二人は馬に飛び乗ると、立木に突きあたりつつ小山の頂上へ馳け登った。すると、芒すすきの原に掩おおわれた小山の背面からは、一斉に枯木の林が動揺どよめきながら二人の方へ進んで来た。それは牡鹿おじかの群だった。馬は散乱する鹿の中を突き破って馳け下った。と、原の裾すそから白茅ちがやを踏んで一団の兵士が現れた。彼らは一列に並んだまま、裾から二人の方へ締め上げる袋の紐ひものように進んで来た。訶和郎は再び鹿の後から頂上へ馳け戻った。その時、椎しいと蜜柑みかんの原の中から、再び新らしい鹿の群が頂へ向って押おし襲よせて来た。そうして、訶和郎の馬を混えた牡鹿の群の中へ突入して来ると、鹿の団塊は更に大きく混乱しながら、吹き上げる黒い泡のように頂上で動揺どよめいた。しかし、間もなく、渦巻く彼らの団塊は、細長く山の側面に川波のように流れていった。と行手の裾に、兵士たちの松明たいまつが点々と輝き出した。そうして、それらの松明は、見る間に一列の弧線を描いて拡がると、忽たちまち全山の裾を円形に取り包んで縮まって来た。鹿の流れは訶和郎の馬を浮べて逆上した。再び彼らの団塊は、小山の頂で踏み合い乗り合いつつ沸騰した。松明を映した鹿の眼は、明滅しながら弾動する無数の玉のように輝いた。その時、一つの法螺ほらが松明の中で鳴り渡った。兵士たちの収縮する松明の環わは停止した。それと同時に、芒の原の空中からは一斉に矢の根が鳴った。鹿の群れは悲鳴を上げて散乱した。訶和郎の馬は跳ね上った。と、訶和郎は卑弥呼を抱いたまま草の上に転落した。しかし、彼は窪地の中に這はい降おりると、彼女の楯たてのようにひれ伏して矢を防いだ。矢に射られた鹿の群れは、原の上を狂い廻って地に倒れた。忽ち窪地の底で抱き合う二人の背の上へ、鹿の塊かたまりがひき続いて落ち込むと、間もなく、雑然として盛り上った彼らは、突き合い蹴り合いつつ次第に静しずかに死んでいった。そうして、彼らの傷口から迸ほとばしる血潮は、石垣の隙間を漏れる泉のように滾々こんこんとして流れ始めると、二人の体を染めながら、窪地の底の蘚苔こけの中まで滲み込んでいった。

十四

訶和郎かわろと卑弥呼ひみこを包んだ兵士つわものたちは、君長ひとこのかみに率いられて、遠巻きに鹿の群れを巻き包んで来た耶馬台やまとの国の兵士であった。彼らは小山の頂上で狂乱する鹿の群れの鎮しずまるのを見ると、松明たいまつの持ち手の後から頂きへ馳かけ登のぼった。明るく輝き出した頂は、散乱した動かぬ鹿の野原であった。やがて、兵士たちは松明の周囲へ尽ことごとく集って来ると、それぞれ一疋いっぴきの鹿を引ひき摺ずって再び山の麓の方へ降りていった。その時、頂上の窪地の傍で群むらがった一団の兵士たちが、血に染った訶和郎と卑弥呼を包んで喧騒した。二人を見られぬ人たちは、遠く人垣の外で口々にいい合った。

「鹿の中から美女と美男が湧わいて出た。」

「赤い美女が鹿の腹から湧いて出た。」

「鹿の美女は人間の美女よりも美しい。」

やがて、兵士たちの集団は、訶和郎と卑弥呼を包んだまま、彼らの君長の反耶はんやの方へ進んでいった。

「王よ。」と兵士たちの一人は跪拝ひざまずいて反耶にいった。「鹿の中から若い男女が現れた。彼らを撃つか。」

君長の反耶は、傍の兵士の持った松明をとると、頭上に高くかざして二人の姿を眺めていた。

「我らは遠く山を越えて来きたれる不弥うみの者。我らを放せ。」と訶和郎はいった。反耶の視線は訶和郎から卑弥呼の方へ流された。

「爾なんじは不弥の国の旅人か。」

「然しかり、我らは不弥へ帰る旅の者。我らを赦ゆるせ。」と卑弥呼はいった。

「耶馬台の宮はかの山の下。爾らは我の宮を通って旅に行け。」

「赦せ。われらの路は爾の宮より外はずれている。われらは明日の旅を急ぐ者。」

反耶は松明を投げ捨てて、兵士たちの方へ向き返った。

「行け。」

兵士たちは王の言葉を口々にいい伝えて動揺どよめき立った。再び小山の頂では地を辷すべる鹿の死骸の音がした。その時、突然、卑弥呼の頭に浮んだものは、彼女自身の類い稀なる美しき姿であった。彼女は耶馬台の君長を味方にして、直ちに奴国なこくへ攻め入る計画を胸に描いた。

「待て、王よ。」と卑弥呼はいうと、並んだ蕾つぼみのような歯を見せて、耶馬台の君長に微笑を投げた。「爾はわれらを爾の宮に伴なうか。われらは爾の宮を通るであろう。」

「ああ、不弥の女。爾らは我の宮を通って不弥へ帰れ。」

「卑弥呼。」と訶和郎はいった。

「待て、爾はわれに従って耶馬台を通れ。」卑弥呼は訶和郎の腕に手をかけた。

「卑弥呼、われらの路は外れて来た。耶馬台を廻れば、われらの望みも廻るであろう。」

「廻るであろう。」

「われらの望みは急いでいる。」

「訶和郎よ。耶馬台の宮は、不弥の宮より奴国へ近い。」

「不弥へ急げ。」

「耶馬台へ廻れ。」

「卑弥呼。」

訶和郎は、眼を怒らせて、卑弥呼の腕を突き払った。その時、今まで反耶の横に立って、卑弥呼の顔を見続けていた彼の弟の片眼の反絵はんえは、小脇に抱いた法螺貝ほらがいを訶和郎の眉間みけんに投げつけた。訶和郎は蹌踉よろめきながら剣の頭椎かぶつきに手をかけた。反絵の身体は訶和郎の胸に飛びかかった。訶和郎は地に倒れると、荊いばらを毮むしって反絵の顔へ投げつけた。一人の兵士は鹿の死骸で訶和郎を打った。続いて数人の兵士たちの松明は、跳ね上ろうとする訶和郎の胸の上へ投げつけられた。火は胸の上で蹴られた花のように飛び散った。

「彼を縛しばれ。」と反絵はいった。

数人の兵士たちは、藤蔓ふじづるを持って一時に訶和郎の上へ押しかむさった。

「王よ、彼を赦せ、彼はわれの夫つま、彼を赦せ。」卑弥呼は王の傍へ馳け寄った。反絵は藤蔓で巻かれた訶和郎の身体を一本の蜜柑の枝へ吊つり下さげた。卑弥呼は王の傍から訶和郎の下へ馳け寄った。

「彼を赦せ、彼は我の夫、彼を赦せ。」

反絵は卑弥呼を抱きとめると、兵士たちの方を振り返って彼らにいった。

「不弥の女を連れよ。山を下れ。」

一団の兵士は卑弥呼の傍へ押し寄せて来た。と、見る間に、彼女の身体は数人の兵士たちの頭の上へ浮き上り、跳ねながら、蜜柑の枝の下から裾の方へ下っていった。

訶和郎は垂れ下ったまま蜜柑の枝に足を突っ張って、遠くへ荷負になわれてゆく卑弥呼の姿を睥にらんでいた。兵士たちの松明は、谷間から煙のように流れて来た夜霧の中を揺れていった。

「妻を返せ。妻を返せ。」

蜜柑の枝は、訶和郎の唇から柘榴ざくろの粒果つぶのような血が滴したたる度ごとに、遠ざかる松明の光りの方へ揺らめいた。その時、兵士たちの群から放れて、ひとり山腹へ引き返して来た武将があった。それはかの君長ひとこのかみの弟の反絵であった。彼は芒すすきの中に立たち停どまると、片眼で山上に揺られている一本の蜜柑の枝を狙ねらって矢を引いた。蜜柑の枝は、一段と闇の中で激しく揺れた。訶和郎の首は、猟人の獲物えもののように矢の刺った胸の上へ垂れ下った。間もなく、濃霧は松明の光りをその中にぼかしながら、倒れた芒の原の上から静にだんだんと訶和郎の周囲へ流れて来た。

十五

耶馬台やまとの兵士つわものたちが彼らの宮へ帰ったとき、卑弥呼ひみこはひとり捕虜の宿舎にあてられる石窖いしぐらの中に入れられた。それは幸運な他国の旅人に与えられる耶馬台の国の習慣の一つであった。彼女の石窖は奥深い石灰洞から成っていた。数本の鍾乳石しょうにゅうせきの柱は、襞打ひだうつ高い天井の岩壁から下っていた。そうして、僅わずかに開けられた正方形の石の入口には、太い欅けやきの格子こうしが降おろされ、その前には、背中と胸とに無数の細い蜥蜴とかげの絵でもって、大きな一つの蜥蜴を刺青ほりものした一人の奴隷がつけられていた。彼の頭は嫁菜よめなの汁で染められた藍色あいいろの苧からむしの布きれを巻きつけ、腰には継ぎ合した鼬いたちの皮が纏まとわれていた。

卑弥呼は兵士たちに押し込められたまま乾草の上へ顔を伏せて倒れていた。夜は更ふけた。兵士たちのさざめく声は、彼らの疲労と睡ねむけのために耶馬台の宮から鎮しずまった。そうして、森からは霧を透とおして梟ふくろうと狐の声が石窖の中へ聞えて来た。かつて、卑弥呼が森の中で卑狗ひこの大兄おおえの腕に抱かれて梟の声を真似まねたのは、過ぎた平和な日の一夜であった。かつて、彼女が訶和郎かわろの腕の中で狐の声を聞いたのは、過ぎた数日前の夜であった。

「ああ、訶和郎よ、もし我が爾なんじに従って不弥うみへ廻れば、我は今爾とともにいるのであろう。ああ、訶和郎よ、我を赦ゆるせ。我は卑狗を愛している。爾は我のために傷ついた。」

卑弥呼は頭を上げて格子の外を見た。外では、弓を首によせかけた奴隷が、消えかかった篝火かがりびの傍で乾草の上に両手をついて、石窖の中を覗のぞいていた。彼女は格子の傍へ近か寄った。そして、奴隷の臆病な犬のような二つの細い眼に嫣然えんぜんと微笑を投げて、彼にいった。

「来きたれ。」

奴隷は眼脂めやにに塊かたまった逆睫さかまつげをしばたたくと、大きく口を開いて背を延ばした。弓は彼の肩から辷すべり落おちた。

「爾は鹿狩りの夜を見たか。」

「見た。」

「爾は我の横に立てる男を見たか。」

「見た。」

卑弥呼は首から勾玉まがたまを脱はずすと、彼の膝ひざの上へ投げていった。

「爾は彼を見た山へ行け。爾は彼を伴なえ。爾は玉をかけて山へ行け。我は爾にその玉を与えよう。」

奴隷は彼女の勾玉を拾って首へかけた。勾玉は彼の胸の上で、青い蜥蜴とかげの刺青ほりものを叩たたいて音を立てた。彼は加わった胸の重みを愛玩するかのように、ひとり微笑を洩もらしながら玉を撫なでた。

「夜は間もなく明けるであろう、行け。」と卑弥呼はいった。

奴隷は立ち上った。そうして、胸を圧おさえると彼の姿は夜霧の中に消えていった。しかし、間もなく、彼の足音に代って石を打つ木靴きぐつの音が聞えて来た。卑弥呼は再び格子の外を見ると、そこには霧の中にひとり王の反耶はんやが立っていた。

「不弥の女、爾は何故に眠らぬか、我は耶馬台の国王の反耶である。」と君長ひとこのかみは卑弥呼にいった。

「王よ、耶馬台の石窖は我の宮ではない。」

「爾に石窖を与えた者は我ではない。石窖は旅人の宿、もし爾を傷つけるなら、我は我の部屋を爾のために与えよう。」

「王よ、爾は何故に我が傍に我の夫つまを置くことを赦さぬか。」

「爾と爾の夫とを裂いた者は我ではない。」

「爾は我の夫を呼べ。夜が明ければ、我は不弥へ帰るであろう。」

「爾の行く日に我は爾に馬を与えよう。爾は爾の好む日まで耶馬台の宮にいよ。」

「王よ、爾は何故に我の滞とどまることを欲するか。」

「一日滞る爾の姿は、一日耶馬台の宮を美しくするであろう。」

「王よ、我の夫を呼べ。我は彼とともに滞まろう。」

「夜が明ければ、我は爾に爾の夫と、部屋とを与えよう。」

反耶の木靴の音は暫しばらく格子の前で廻っていた。そうして、彼の姿は夜霧の中へ消えていった。洞内の一隅ではひとすじの水の滴したたりが静かに岩を叩いていた。

十六

反絵はんえは鹿狩りの疲労と酒とのために、計画していた卑弥呼の傍へ行くべき時を寝過した。そうして、彼が眼醒めざめたときは、耶馬台やまとの宮は、朝日を含んだ金色こんじきの霧の底に沈んでいた。彼は松明たいまつの炭を踏みながら、霧を浮かべた園そのの中で、堤つつみのように積み上げられた鹿の死骸の中を通っていった。彼の眠りの足らぬ足は、鹿の堤から流れ出ている血の上で辷すべった。遠くの麻の葉叢はむらの上を、野牛の群れが黒い背だけを見せて森の方へ動いていった。するとその最後の牛の背が、遽にわかに歩を早めて馳け出したとき、刺青ほりもののために青まった一人の奴隷の半身が、赤く血に染った一人の身体を背負って、だんだんと麻の葉叢の上に高まって来た。そうして、反絵が園を斜めに横切って、卑弥呼の石窖いしぐらを眺めて立った時、奴隷の蜥蜴とかげは一層曲りながら、石窖へ通る岩の上を歩いていった。奴隷を睥にらんだ反絵の片眼は強く反そりを打った鼻柱の横で輝いた。

「ああ、訶和郎かわろよ。」と石窖の中から卑弥呼の声が聞えて来た。

奴隷は背負った赤い死体の胸を石窖の格子に立てかけて、倒れぬように死体の背を押しつけた。格子の隙すきから卑弥呼の白い両手が延び出ると、垂れた訶和郎の首を立て直していった。

「ああ爾なんじは死んだ。爾は復讐を残して死んだ。爾は我のために殺された。」

奴隷は死体の背から手を放した。彼は歓喜の微笑をもらしながら、首の勾玉を両手で揉もんだ。訶和郎の死体は格子を撫なでて地に倒れた。

反絵は毛の生えた逞たくましいその臑すねで霧を揺るがしながら石窖の前へ馳けて来た。

訶和郎を抱き上げようとして身を蹲かがめた奴隷は、足音を聞いて背後を向くと、反絵の唇からむき出た白い歯並はなみが怒気を含んで迫って来た。奴隷は吹かれたように一飛び横へ飛びのいた。

「女はわれに玉を与えた。玉は我の玉である。」

彼は胸の勾玉を圧えながら、櫟いちいと檜ひのきの間に張り詰った蜘蛛くもの網を突き破って森の中へ馳け込んだ。

反絵は石窖の前まで来ると格子を握って中を覗のぞいた。

卑弥呼は格子に区切られたまま倒れた訶和郎の前に坐っていた。

「旅の女よ。」と反絵はいってその額ひたいを格子につけた。

卑弥呼は訶和郎を指差しながら、反絵を睥んでいった。

「爾の獲物えものはこれである。」

「やめよ。我は爾と共に山を下った。」

「爾の矢は我の夫つまの胸に刺さっている。」

「我は爾の傍に従っていた。」

「爾の弓弦ゆづるは爾の手に従った。」

「爾の夫を狙った者は奴隷である。」

「奴隷はわれに従った。」

反絵は奴隷の置き忘れた弓と矢を拾うと、破れた蜘蛛の巣を潜くぐって森の中へ馳け込んだ。しかし、彼の片眼に映ったものは、霧の中に包まれた老杉と踏ふみ蹂にじられた羊歯しだの一条の路とであった。彼はその路を辿たどりながら森の奥深く進んでいった。しかし、彼の片眼に映ったものは、茂みの隙間から射し込んだ朝日の縞しまを切って飛び立つ雉子きじと、霧の底でうごめく野牛の朧おぼろに黒い背であった。そうして、露はただ反絵の堅い角髪みずらを打った。が、路は一本の太い榧かやの木の前で止っていた。彼は立ち停って森の中を見廻した。頭の上から露の滴したたりが一層激しく落ちて来た。反絵はふと上を仰あおぐと、榧の梢こずえの股の間に、奴隷の蜥蜴とかげの刺青ほりものが青い瘤こぶのように見えていた。反絵は蜥蜴を狙ねらって矢を引いた。すると、奴隷の身体は円まるくなって枝にあたりながら、熟した果実のように落ちて来た。反絵は、舌を出して俯伏うつぶせに倒れている奴隷の方へ近よった。その時、奴隷の頭髪からはずれかかった一連の勾玉が、へし折れた羊歯の青い葉の上で、露に濡れて光っているのが眼についた。彼はそれをはずして自分の首へかけ垂らした。

十七

霧はだんだんと薄らいで来た。そうして、森や草叢くさむらの木立こだちの姿が、朝日の底から鮮あざやかに浮き出して来るに従って、煙の立ち昇る篠屋しのやからは木を打つ音やさざめく人声が聞えて来た。しかし、石窖いしぐらの中では、卑弥呼ひみこは、格子を隔てて、倒れている訶和郎かわろの姿を見詰めていた。数日の間に第一の良人おっとを刺され、第二の良人を撃うたれた彼女の悲しみは、最早もはや彼女の涙を誘さそわなかった。彼女は乾草の上へ倒れては起き上り、起きては眼の前の訶和郎の死体を眺めてみた。しかし、角髪みずらを解いて血に染っている訶和郎の姿は依然、格子の外に倒れていた。そうして、再び彼女は倒れると、胸に剣つるぎを刺された卑狗ひこの姿が、乾草の匂いの中から浮んで来た。彼女はただ茫然ぼうぜんとして輝く空にだんだんと溶け込む霧の世界を見詰めていた。すると、今まで彼女の胸に溢れていた悲しみは、突然憤怒ふんぬとなって爆発した。それは地上の特権であった暴虐な男性の腕力に刃向う彼女の反逆であり怨恨であった。彼女の眼は次第に激しく波動する両肩の起伏につれて、益々冷たく空の一点に食い入った。ふとその時、草叢くさむらの葉波が描いた地平の上から立昇っている一条の煙が彼女の眼の一角に映り始めた。それは薄れゆく霧を突き破って真直ぐに立ち昇り、渦巻うずまきながら円を開いて拡げた翼つばさのようにだんだんと空を領している煙であった。彼女は立ち上った。そうして、格子を掴つかむと高らかに煙に向って呼びかけた。

「ああ、大神はわれの手に触れた。われは大空に昇るであろう。地上の王よ。我れを見よ。我は爾なんじらの上に日輪の如く輝くであろう。」

石窖いしぐらの格子の隙から現れた卑弥呼の微笑の中には、最早や、卑狗も訶和郎も消えていた。そうして、彼らに代ってその微笑の中に潜ひそんだものは、ただ怨恨を含めた惨忍な征服慾の光りであった。

十八

耶馬台やまとの宮の若者たちは、眼を醒さますと噂うわさに聴いた鹿の美女を見ようとして宮殿の花園へ押しよせて来た。彼らの或ある者は彼女に食わすがために、鹿の好む大バコや、百合根ゆりねを持っていた。しかし、彼らの誰もが鹿の美女を捜し出すことが出来なくなると、やがて庭園に積まれた鹿の死体が彼らの手によって崩し出された。その時、君長ひとこのかみ反耶はんやの命を受けた一人の使部しぶは厳かな容姿を真直ぐに前方へ向けながら、彼らの傍を通り抜けて石窖いしぐらの方へ下っていった。若者たちの幾らかは直ちに彼の後から従った。使部は石窖の前まで来るとその閂かんぬきをとり脱はずし、欅けやきの格子こうしを上に開いて跪拝ひざまずいた。

「王は爾なんじを待っている。」

間もなく若者たちは、暗い石窖の中から現れた卑弥呼ひみこの姿を見ると、斉ひとしく足を停めて首を延ばした。彼女は入口に倒れている訶和郎かわろを抱き上げるとそこから動こうともしなかった。

「王は爾を待っている。」と、再び使部は彼女にいった。

卑弥呼は訶和郎の胸から顔を上げて使部を見た。

「爾は王の前へ彼を伴なえ。」

「王は爾を伴えと我にいった。」

「王は彼を伴うを我に赦ゆるした。連れよ。」

使部は訶和郎の死体を背に負って引き返した。卑弥呼は乱れた髪と衣に、乾草の屑くずをたからせて使部の後から石の坂道を登っていった。若者たちは左右に路を開いて彼女の顔を覗のぞいていた。そうして、彼女の姿が彼らの前を通り抜けて、高い麻の葉波の中に消えようとしたとき、初めて彼らの曲った腰は静しずかに彼女の方へ動き出した。彼らの肩は狭い路の上で突つき衝あたった。が、百合根を持った一人の若者は後の方で口を開いた。

「鹿の美女は森にいる。森へ行け。」

若者たちは再び彼の方を振り向くと、石窖の前から彼に従って森の中へ馳け込んだ。

十九

卑弥呼ひみこの足音が高縁たかえんの板をきしめて響いて来た。君長ひとこのかみの反耶はんやは、竹の遣戸やりどを童男に開かせた。薄紅うすくれないに染った萩はぎの花壇の上には、霧の中で数羽の鶴が舞っていた。そうして、朝日を背負った一つの峰は、花壇の上で絶えず紫色の煙を吐いていた。

やがて、卑弥呼は使部の後から現れた。君長は立ち上って彼女にいった。

「旅の女よ。爾なんじは爾の好む部屋へ行け。我は爾のためにその部屋を飾るであろう。」

「王よ。」使部は跪拝ひざまずいた膝の上へ訶和郎かわろを乗せていった。「われは女の言葉に従って若い死体を伴のうた。」

「旅の女よ。爾の衣は鹿の血のために穢けがれている。爾は新らしき耶馬台やまとの衣を手に通せ。」

「王よ、若い死体は石窖いしぐらの前に倒れていた。」

「捨てよ、爾に命じたものは死体ではない。」

「王よ、若い死体はわれの夫つまの死体である。」と卑弥呼はいった。

反耶の赤い唇は微動しながら喜びの皺しわをその両端に深めていった。

「ああ、爾はわれのために爾の夫を死体となした。着よ、われの爾に与えたる衣はわれの心のように整うている。」

王は隅すみにひかえていた一人の童男を振り返った。童男は両手に桃色の絹を捧げたまま卑弥呼の前へ進んで来た。

「王よ。」と使部は訶和郎を抱き上げていった。「若い死体を何処いずこへ置くか。」

「旅の女よ、爾は爾の夫を何処へ置くか。」

その時、急に高縁の踏板が、馳け寄る荒々しい響を立てて振動した。人々は入口の空間に眼を向けると、そこへ怒った反絵はんえが馳かけ込こんで来た。

「兄よ、旅の女が逃げ失せた。石窖の口が開いていた。」

「王よ。我は夫の死体を欲する者に与えるであろう。」と卑弥呼はいった。そうして、使部の膝から訶和郎の死体を抱きとると、入口に立たち塞ふさがった反絵の胸へ押しつけた。

反絵は崩れた訶和郎の角髪みずらを除のけると片眼を出して彼女にいった。

「われは爾に代って奴隷を撃った。爾の夫を射殺した奴隷を撃った。」

「やめよ。夫の死体を欲した者は爾である。」と、卑弥呼はいった。

「旅の女よ、森へ行け、奴隷の胸には我の矢が刺さっている。」

卑弥呼は反絵の片眼の方へ背を向けた。そうして、腰を縛しばった古い衣の紐ひもを取り、その脇に廻った結び目を解きほどくと、彼女の衣は、葉を取られた桃のような裸体を浮かべて、彼女の滑なめらかな肩から毛皮の上へ辷すべり落おちた。

反耶の大きく開かれた二つの眼には、童男の捧げた衣の方へ、静かに動く円い彼女の腰の曲線が、霧を透とおした朝日の光りを区切ったために、七色の虹となって浮き立ちながら花壇の上で羽叩はばたく鶴の胸毛をだんだんにその横から現してゆくのが映っていた。そうして、反絵の動かぬ一つの眼には、彼女の乳房ちぶさの高まりが、反耶の銅の剣つるぎに戯れる鳩はとの頭のように微動するのが映っていた。卑弥呼は裸体を巻き変えた新しい衣の一端で、童男の捧げた指先を払いながら部屋の中を見廻した。

「王よ。この部屋をわれに与えよ。われは此処ここに停とどまろう。」

彼女は静に反耶の傍へ近寄った。そうして、背に廻ろうとする衣の二つの端を王に示しながら、彼の胸へ身を寄せかけて微笑を投げた。

「王よ、われは耶馬台の衣を好む。爾はわれのために爾の与えた衣を結べ。」

反耶は卑弥呼を見詰めながら、その衣の端を手にとった。悦よろこびに声を潜ひそめた彼の顔は、髯ひげの中で彼女の衣の射る絹の光を受けて薄紅に栄はえていた。部屋の中で訶和郎の死体が反絵の腕を辷すべって倒れる音がした。反絵の指は垂下った両手の先で、頭を擡もたげる十疋じっぴきの蚕かいこのように動き出すと、彼の身体は胸毛に荒々しい呼吸を示しながら次第に卑弥呼の方へ傾いていった。

反耶は衣を結んだ両手を後から卑弥呼の肩へ廻そうとした。と、彼女は急に妖艶な微笑を両頬りょうほおに揺るがしながら、彼の腕の中から身を翻ひるがえして踊り出した。そうして、今や卑弥呼を目がけて飛びかかろうとしている反絵の方へ馳け寄ると、彼の剛つよい首へ両手を巻いた。

「ああ、爾は我のために我の夫を撃ちとめた。我を我の好む耶馬台の宮にとどめしめた者は爾である。」

「旅の女よ。我は爾の夫を撃った。我は爾の勾玉まがたまを奪った奴隷を撃った。我は爾を傷つける何者をも撃つであろう。」

反絵の太い眉毛は潰つぶれた瞼まぶたを吊り上げて柔和な形を描いて来た。しかし反耶の空虚に拡がった両腕は次第に下へ垂れ落ると、反耶は剣を握って床を突きながら使部にいった。

「若い死体を外へ出せ。宿禰すくねを連れよ。鹿の死体の皮を剥はげと彼にいえ。」

使部は床の上から訶和郎の死体を抱き上げようとした。卑弥呼は反絵の胸から放れると、急に使部から訶和郎を抱きとって毛皮の上へ泣き崩れた。

「ああ、訶和郎、爾は不弥うみへ帰れと我にいった。我は耶馬台の宮にとどまった。そうしてああ爾は我のために殺された。」

反絵は首から奴隷の勾玉を取りはずして卑弥呼の傍へ近寄って来た。

「旅の女よ。我は奴隷の奪った勾玉を爾に返す。」

「旅の女よ。立て。われは爾の夫を阿久那あくなの山へ葬ろう。」と使部はいって訶和郎の死体を抱きとった。

「王よ。我を不弥へ返せ、爾の馬を我に与えよ。我は不弥の山へ我の夫を葬ろう。」

「爾の夫は死体である。」

「朝が来た、爾が我を不弥へ帰すを約したのは夕べである。馬を与えよ。」

「何故に爾は帰る。」

「爾は何故に我をとめるか。」

「我は爾を欲す。」

卑弥呼の顔は再び生々とした微笑のために輝き出した。そうして、彼女は反耶の肩に両手をかけると彼にいった。

「ああ、われを爾の宮にとどめよ、われの夫は死体である。」

「旅の女、われは爾を欲す。」と反絵はいって彼女の方へ迫って来た。

卑弥呼は反耶に与えた顔の微笑を再び反絵に向けると彼にいった。

「我は不弥へ帰らず。われは爾らと共に耶馬台の宮にとどまるであろう。爾はわれのために、我に眠りを与えよと王に願え。我は数夜の眠りを馬の上に眠っていた。」

「兄よ。この部屋を去れ。」と反絵はいった。

「爾の獲物は死体である。爾は獲物を持って部屋を去れ。」と反耶はいった。

卑弥呼は二人に挾まれながら反耶の肩を柔く入口の方へ押していった。

「王よ。我に眠りを与えよ。眼が醒めなば我は爾を呼ぶであろう。」

「不弥の女、われも呼べ。兄が爾を愛するよりも我は爾を愛す。」

反絵は肩を立てて王を睨にらむと部屋の外へ出て行った。

「女よ眠れ、爾の眼が醒めなば、われは爾のためにこの部屋を飾らそう。」

反耶の卑弥呼に囁ささやいた声に交って、部屋の外からは、高く反絵の銅鑼どらのような声が響いて来た。

「兄よ、部屋を出よ。我は爾よりも先に出た。不弥の女よ、兄を出せ。」

反耶は眉間みけんに皺を落して入口の方へ歩いて行った。童男は彼の後から従った。使部は最後に訶和郎の死体を抱いて出ようとすると、卑弥呼は彼の腕から訶和郎を奪って荒々しく竹の遣戸を後から閉めた。

「ああ、訶和郎、われを赦せ。われは爾の復讐をするであろう。」

彼女は床の上に坐って、歯を咬かみしめた訶和郎の顔に自分の頬をすり寄せた。しかし、その冷い死体の触感は、やがて卑狗ひこの大兄おおえの頬となって彼女の頬に伝わった。彼女の顔は流れる涙のために光って来た。

「ああ、大兄よ。爾は爾の腕の中に我を雌雉子めきじの如く抱きしめた。爾はわれをわれが爾を愛するごとく愛していた。ああ大兄、爾は何処いずこへ行った。返れ。」

彼女は両手で頭をかかえると立ち上った。

「大兄、大兄、我は爾の復讐をするであろう。」

彼女はよろめきながら部屋の中を歩き出した。脱ぎ捨てた彼女の古い衣は彼女の片足に纏まつわりついた。そうして、彼女の足が厚い御席みましの継ぎ目に入ると、彼女は足をとられてどっと倒れた。

二十

反絵はんえは閉された卑弥呼ひみこの部屋の前に、番犬のように蹲かがんでいた。前方の広場では、兵士つわものたちが歌いながら鹿の毛皮を剥はいでいた。彼らの剣つるぎは猥褻わいせつなかけ声と一緒に鹿の腹部に突き刺さると、忽たちまち鹿は三人からなる一組の兵士の手によって裸体にされた。間もなく今まで積まれてあった鹿の小山の褐色の色が、麻の葉叢はむらの上からだんだんに減ってくると、それにひきかえて、珊瑚色さんごいろの鹿の小山が新しく晴れ渡った空の中に高まってきた。手の休まった兵士たちは、血の流れた草の上で角力すもうをとった。神庫ほくらの裏の篠屋しのやでは、狩猟を終った饗宴きょうえんの準備のために、速成の鹿の漬物つけものが作られていた。兵士たちは広場から運んだ裸体の鹿を、地中に埋まった大甕おおがめの中へ塩塊えんかいと一緒に投げ込むと彼らはその上で枯葉を焚たいた。その横では、不足な酒を作るがために、兵士たちは森から摘つみとってきた黒松葉を圧搾あっさくして汁を作っていた。ここでは、その仕事の効果が最も直接に彼ら自身の口を喜ばすがために、歌う彼らの声も、いずれの仲間たちの歌より一段と威勢があった。

反絵は時々戸の隙間から中を覗のぞいた。薄暗い部屋の中からは、一条の寝息が絶えず幽かすかに聞えていた。彼は顔を顰しかめて部屋の前を往ゆき来きした。しかし、兵士たちの広場でさざめく声が一層賑にぎわしくなってくると、彼は高い欄干らんかんから飛び下りてその方へ馳かけて行った。今や麻の草場の中では、角力の一団が最も人々を集めていた。反絵は彼らの中へ割り込むと今まで勝ち続けていた一人の兵士の前に突きたった。

「来きたれ。」と彼は叫んでその兵士の股またへ片手をかけた。兵士の体躯は、反絵の胸の上で足を跳ねながら浮き上った。と、反絵は彼の身体を倒れた草の上へ投げて大手を上げた。

「我を倒した者に剣をやろう。来れ。」

その時反絵の眼には、白鷺しらさぎの羽根束を擁かかえた反耶はんやの二人の使部しぶが、積まれた裸体の鹿の間を通って卑弥呼の部屋の方へ歩いて行くのが見えた。反絵の拡げた両手は、だんだんと下へ下った。

「よし、我は爾なんじに勝とう。」と一人がいった。それは反絵に倒された兵士の真油まゆであった。彼は立ち上ると、血のついた角髪みずらで反絵の腹をめがけて突進した。

「放せ、放せ。」と反絵はいった。が、彼の身体は曲った真油の背の上で舟のように反そっていた。と、次の瞬間、彼は踏ふみ蹂にじられた草の緑が眼につくと、反耶に微笑ほほえむ不弥うみの女の顔を浮べて逆様さかさまに墜落ついらくした。

「我に剣を与えよ。我は勝った、我は爾に勝った。」

ひとり空の中で喜ぶ真油の顔が高く笑った。反絵は怒りのバネに跳ね起されると、波立つ真油の腹を蹴り上げた。真油は叫びを上げて顛倒てんとうした。それと同時に、反絵は卑弥呼の部屋の方を振り返ると、遣戸やりどの中へ消えようとしている使部の黄色い背中が、動揺どよめく兵士たちの頭の上から見えていた。

「真油は死んだ。」

「真油は蹴られた。」

「真油の腹は破れている。」

広場では兵士たちの歌がやまった。あちらこちらの草叢くさむらの中から兵士たちは動かぬ真油を中心に馳け寄って来た。しかし、反絵は彼らとは反対に広場の外へ、鹿の死体を飛び越え、馳け寄る兵士たちを突き飛ばし、麻の葉叢の中を一文字に使部たちの方へ突進した。

遣戸の中では、卑弥呼の眠りに気使いながら、二人の使部は、白鷺の尾羽根を周囲の壁となった円木まろきの隙に刺していた。

反絵は部屋の中へ飛び込むと、一人の使部の首を攫つかんで床の上へ投げつけた。使部の腕からはかかえた白鷺の尾羽根が飛び散った。

「我を赦ゆるせ。王は部屋を飾れとわれに命じた。」転りながら叫ぶ使部の上で、白鷺の羽毛が、叩かれた花園の花瓣のようにひらひらと舞っていた。反絵は拳こぶしを振りながら使部の腰を蹴って叫んだ。

「部屋を出よ、部屋を出よ、部屋を出よ。」

二人の使部は直ちに遣戸の方へ逃げ出した。その時彼らに代って、両手に竜胆りんどうと萩はぎとをかかえた他の二人の使部が這入はいって来た。反絵は二人の傍へ近寄った。そうして、その一人の腕から萩の一束を奪い取ると、彼の額ひたいを打ち続けてまた叫んだ。

「部屋を出よ、部屋を出よ、部屋を出よ。」

「大兄おおえ、我は王の言葉に従った。」

「去れ。」

「大兄、我は王のために鞭打むちうたれるであろう。」

「行け。」

二人の使部は出て行った。が、彼らに続いてまた直ぐに二人の使部が、鹿の角を肩に背負って這入って来た。反絵は散乱した羽毛と萩の花の中に突き立って卑弥呼の寝顔を眺めていた。彼は物音を聞きつけて振り返ると、床へ投げ出された鹿の角の一枝を、肩にひっかけたまま逃げる使部の姿が、遣戸の方へ馳けて行くのが眼についた。反絵は捨てられた白鷺の尾羽根と竜胆の花束とを拾うと使部たちに代って円木の隙に刺していった。彼は時々手を休めて卑弥呼の顔を眺めてみた。しかし、その度たびに、細く眼を見開いて彼の後姿を眺めていた卑弥呼の瞼まぶたは、再び眠りのさまを装よそおった。

「不弥の女。」と反絵はその野蛮な顔に媚びの微笑を浮べて彼女を呼んだ。

「不弥の女。見よ、我は爾の部屋を飾っている。不弥の女。起きよ。我は爾の部屋を飾っている。」

卑弥呼の眠りは続いていた。そうして、反絵のとり残された媚の微笑は、ひとりだんだんと淋しい影の中へ消えていった。彼は卑弥呼の頭の傍へ近寄って片膝つくと、両手で彼女の蒼白あおじろい頬ほおを撫なでてみた。彼の胸は迫る呼吸のために次第に波動を高めて来ると彼の手にたかっていた一片の萩の花瓣も、手の甲と一緒に彼女の頬の上で慄ふるえていた。

「不弥の女。不弥の女。」と彼は叫んだ。が、彼の胸の高まりは突然に性の衝動となって変化した。彼の赤い唇はひらいて来た。彼の片眼は蒼あおみを帯びて光って来た。そうして、彼女の頬を撫でていた両手が動きとまると、彼の体躯たいくは漸次に卑弥呼の胸の方へ延びて来た。しかし、その時、怨恨を含んだ歯を現して、鹿の毛皮から彼の方を眺めている訶和郎かわろの死体の顔が眼についた。反絵の慾情に燃えた片眼は、忽ち恐怖の光を発して拡がった。が、次の瞬間、挑いどみかかる激情の光に急変すると、彼は立ち上って訶和郎の死体を毛皮のままに抱きかかえた。彼は荒々しく遣戸の外へ出ていった。そうして、広場を横切り、森を斜めに切って、急に開けた断崖の傍まで来ると、抱えた訶和郎の死体をその上から投げ込んだ。訶和郎の死体は、眼下に潜んだ縹緲ひょうびょうとした森林の波頭の上で、数回の大円を描きながら、太陽の光にきらきらと輝きつつ沈黙した緑の中へ落下した。

二十一

夜が深まると、再び濃霧が森林や谷間から狩猟の後の饗宴に浮れている耶馬台やまとの宮へ押し寄せて来た。場庭ばにわの草園では、霧の中で焚火たきびが火の子を爆はじいて燃えていた。その周囲で宮の婦女たちは、赤と虎斑とらふに染った衣を巻いて、若い男に囲まれながら踊っていた。踊り疲れた若者たちは、なおも歌いながら草叢くさむらの中に並んだ酒甕みわの傍へ集って来た。彼らの中の或者たちは、それぞれ自分の愛する女の手をとって、焚火の光りのとどかぬ森の中へ消えていった。王の反耶はんやは大夫だいぶたちの歓心に強いられた酒のために、だんだんと酔いが廻った。彼は卑弥呼ひみこの部屋の装飾を命じた五人の使部しぶに、王命の違反者として体刑を宣告した。五人の使部は、武装した兵士つわものたちの囲みの中で、王の口から体刑停止の命令の下るまで鞭打むちうたれた。彼らの背中の上で、竹の根鞭の鳴るのとともに、酒楽さかほがいの歌は草園の焚火の傍でますます乱雑に高まった。そうして、遠い国境の一つの峰から立ち昇っている噴火の柱は、霧の深むにつれて次第にその色を鈍い銅色に変えて来ると、違反者の背中は破れ始めて血が流れた。彼らは地にひれ伏して草を引ひき挘むしりながら悲鳴を上げた。反耶は悶転もんてんする彼らを見ると、卑弥呼にその体刑を見せんがために彼女の部屋の方へ歩いていった。何なぜなら、もし彼女が耶馬台の宮にいなかったなら、反耶にとってこの体刑は無用であったから。しかし、反耶が卑弥呼の部屋の遣戸やりどを押したとき、毛皮を身に纏まとって横わっている不弥うみの女の傍に、一人の男が蹲かがんでいた。それは彼の弟の反絵であった。

「不弥の女、我と共に来きたれ。我は爾なんじのために我の命に反そむいた使部を罰している。われは彼らに爾の部屋を飾れと命じた。」

「彼らを赦せ。」と卑弥呼はいって身を起した。

「反絵、爾はこの部屋を出でよ。酒宴の踊りは彼方かなたである。」と反耶はいって反絵の方を振り向いた。

「兄よ、爾の后きさきは爾と共に踊りを見んとして待っていた。」

「不弥の女、来れ。われは爾を呼びに来た。爾の部屋を飾り忘れた使部の背中は、鞭のために破れて来た。」

「彼らを赦せ。」と卑弥呼はいった。

「よし、我は兄に代って彼らを赦すであろう。」と反絵はいって遣戸の方へ出ようとすると、反耶は彼の前へ立たち塞ふさがった。

「待て、彼らを罰したのはわれである。」

反絵は兄の手を払って遣戸の方へ行きかけた。反耶は卑弥呼の傍へ近寄った。そうして彼女の腕に手をかけると彼女にいった。

「不弥の女よ。酒宴の準備は整ととのうた。爾はわれと共に酒宴に出よ。」

「兄よ。不弥の女と行くものは我である。」と反絵はいって遣戸の傍から反耶の方を振り返った。

「行け、使部の罪を赦すのは爾である。」

「不弥の女、我と共に酒宴に出よ。」反絵は再び卑弥呼の傍へ戻って来た。

「王よ、我を酒宴に伴うことをやめよ。爾は我と共に我の部屋にとどまれ。」

卑弥呼は反耶の手を取ってその傍に坐らせた。

「不弥の女、不弥の女。」

反絵は卑弥呼を睨にらんで慄ふるえていた。「爾は我と共に部屋を出よ。」

彼は彼女の腕を掴つかむと部屋の外へ出ようとした。

反耶は立ち上って曳ひかれる彼女の手を持って引きとめた。

「不弥の女、行くことをやめよ。我とともにいよ。我は爾の傍に残るであろう。」

反絵は反耶の胸へ飛びかかろうとした。そのとき、卑弥呼は傾く反絵の体躯をその柔き掌てのひらで制しながら反耶にいった。

「王よ、使部の傍へわれを伴え、我は彼らを赦すであろう。」

彼女は一人先に立って遣戸の外へ出て行った。反絵と反耶は彼女の後から馳け出した。しかし、彼らが庭園の傍まで来かかったとき、五人の使部は、最早や死体となって土に咬かみついたまま横たわっていた。兵士たちは王の姿を見ると、打ち疲れた腕に一段と力を籠こめて、再び意気揚々としてその死体に鞭を振り下げた。

「鞭を止めよ。」と、反耶はいった。

「王よ、使部は死んでいる。」と一人の兵士は彼にいった。卑弥呼は振り向いて反絵の胸を指差した。

「彼らを殺した者は爾である。」

反絵は言葉を失った唖者あしゃのように、ただその口を動かしながら卑弥呼の顔を見守っていた。

「来れ。」

と反耶は卑弥呼にいった。そうして、卑弥呼の手をとると、彼は彼女を酒宴の広間の方へ導いていった。

「待て、不弥の女、待て。」と反絵は叫びながら二人の後を追いかけた。

二十二

卑弥呼ひみこは竹皮を編んで敷きつめた酒宴の広間へ通された。松明たいまつの光に照された緑の柏かしわの葉の上には、山椒さんしょうの汁で洗われた山蛤やまがえると、山蟹やまがにと、生薑しょうがと鯉こいと酸漿ほおずきと、まだ色づかぬ獮猴桃しらくちの実とが並んでいた。そうして、蓋ふたのとられた行器ほかいの中には、新鮮な杉菜すぎなに抱かれた鹿や猪の肉の香物こうのものが高々と盛られてあった。その傍の素焼の大きな酒瓮みわの中では、和稲にぎしね製の諸白酒もろはくざけが高い香を松明の光の中に漂ただよわせていた。最早もはや酔の廻った好色の一人の宿禰は、再び座についた王の後で、侍女の乳房の重みを計りながら笑っていた。卑弥呼は盃さかずきをとりあげた王に、柄杓ひしゃくをもって酒を注ごうとすると、そこへ荒々しく馳けて来たのは反絵であった。彼は王の盃を奪いとると卑弥呼にいった。

「不弥の女、使部を殺した者は兄である。爾なんじはわれに酒を与えよ。」

「待て、王は爾の兄である。盃を王に返せ。」と卑弥呼はいって、彼女は差し出している反絵の手から、柔やわらかにその盃を取り戻した。「王よ、我を耶馬台にとどめた者は爾である。今日より爾は爾の傍に我を置くか。」

「ああ、不弥の女。」と反耶はいって、彼女の方へ手を延ばした。

「王よ。爾は不弥の国の王女を見たか。」

「盃をわれに与えよ。」

「王よ。我は不弥の国の王女である。我の玉を爾は受けよ。」

卑弥呼は首から勾玉まがたまをとり脱はずすと、瞠若どうじゃくとして彼女の顔を眺めている反耶の首に垂れ下げた。

「王よ。我は我の夫と奴国なこくの国を廻って来た。奴国の王子は不弥の国を亡した。爾は我を愛するか。我は不弥の王女卑弥呼という。」

「ああ、卑弥呼、我は爾を愛す。」

「爾は奴国を愛するか。」

「我は爾の国を愛す。」

「ああ、爾は不弥の国を愛するか。もし爾が不弥の国を愛すれば、我に耶馬台の兵を借せ。奴国は不弥の国の敵である。我の父と母とは奴国の王子に殺された。我の国は亡びている。爾は我のために、奴国を攻めよ。」

「卑弥呼。」と横から反絵はいった。そうして、突き立ったまま彼女の前へその顔を近づけた。

「我は奴国を攻める。我は兄が爾を愛するよりも爾を愛す。」

「ああ、爾は我のために奴国を撃うつか。坐れ、我は爾に酒を与えよう。」

卑弥呼は王に向けていたにこやかな微笑を急に反絵に向けると、その手をとって坐らせた。反耶の顔は、喜びに輝き出した反絵の顔にひきかえて顰ゆがんで来た。

「卑弥呼、耶馬台の兵は、われの兵である。反絵は我の一人の兵である。」と反耶はいった。

反絵の顔は勃然ぼつぜんとして朱しゅを浮べると、彼の拳こぶしは反耶の角髪みずらを打って鳴っていた。反耶は頭をかかえて倒れながら宿禰を呼んだ。

「反絵を縛しばれ。宿禰、反絵を殺せ。」

しかし、一座の者は酔っていた。反絵はなおも反耶の上に飛びかかろうとして片膝を立てたとき、卑弥呼は反耶と反絵の間へ割り込んで、倒れた反耶をひき起した。反耶は手に持った酒盃を反絵の額へ投げつけた。

「去れ。去れ。」

反絵は再び反耶の方へ飛びかかろうとした。卑弥呼は彼の怒った肩に手をかけた。そうして、転っている酒盃を彼の手に握らせて彼女はいった。

「やめよ、爾はわれの酒盃をとれ。われに耶馬台の歌をきかしめよ。われは不弥の歌を爾のために歌うであろう。」

「卑弥呼。われは耶馬台の兵を動かすであろう。耶馬台の兵は、兄の命よりわれの力を恐れている。」

「爾の力は強きこと不弥の牡牛おうしのようである。われは爾のごとき強き男を見たことがない。」と卑弥呼はいって反絵の酒盃に酒を注そそいだ。

反絵の顔は、太陽の光りを受けた童顔のように柔やわらぐと、彼は酒盃から酒を滴したたらしながら勢いよく飲み干した。しかし、卑弥呼は、彼女の傍で反絵を睨にらみながら唇を噛み締めている反耶の顔を見た。彼女は再び柄杓ひしゃくの酒を傍の酒盃に満して彼の方へ差し出した。そうして、彼女は左右の二人の酒盃の干される度に、にこやかな微笑を配りながらその柄杓を廻していった。間もなく、反絵の片眼は赤銅しゃくどうのような顔の中で、一つ朦朧もうろうと濁って来た。そうして、王の顔は渋りながら眠りに落ちる犬のように傾き始めると、やがて彼は卑弥呼の膝の上へ首を垂れた。卑弥呼は今はただ反絵の眠入ねいるのを待っていた。反絵は行器ほかいの中から鹿の肉塊を攫つかみ出すと、それを両手で振り廻して唄うたを歌った。卑弥呼は彼の手をとって膝の上へ引き寄せた。

外の草園では焚火の光りが薄れて来た。草叢のあちこちからは酔漢の呻うめきが漏れていた。そうして、次第に酒宴の騒ぎが宮殿の内外から鎮しずまって来ると、やがて、卑弥呼の膝を枕に転々としていた反絵も眠りに落ちた。卑弥呼は部屋の中を見廻した。しかし、一人として彼女のますます冴さえ渡わたったその朗ほがらかな眼を見詰めている者は誰もなかった。ただ酒気と鼾声かんせいとが乱れた食器の方々から流れていた。彼女は鹿の肉塊を冠かぶって眠っている反絵の顔を見詰めていた。今や彼女には、訶和郎かわろのために復讐する時が来た。剣つるぎは反絵の腰に敷かれてあった。そうして彼女の第二の夫つまを殺害した者は彼女の膝の上に眠っていた。しかし、反絵のその逞たくましい両肩の肉塊と、その狂暴な力の溢れた顎あごとに代って、奴国に攻め入る者は、彼の他の何者が何処いずこの国にあるであろう。やがて、彼のために長羅ながらの首は落ちるであろう。やがて、彼女は不弥と奴国と耶馬台の国の三国に君臨するであろう。そうして、もしその時が来たならば、彼女は更に三つの力を以て、久しく攻伐し合った暴虐な諸国の王をその足下に蹂躙じゅうりんするときが来るであろう。彼女の澄み渡った瞳ひとみの底から再び浮び始めた残虐な微笑は、静まった夜の中をひとり毒汁のように流れていた。

「ああ、地上の王よ、我を見よ。我は爾らの上に日輪の如く輝くであろう。」

彼女は膝の上から反絵と反耶の頭を降ろして、静しずかに彼女の部屋へ帰って来た。しかし、彼女はひとりになると、またも毎夜のように、幻まぼろしの中で卑狗ひこの大兄おおえの匂を嗅かいだ。彼は彼女を見詰めて微笑ほほえむと、立ちすくむ小鳥のような彼女の傍へ大手を拡げて近寄って来た。

「卑弥呼。卑弥呼。」

彼女は卑狗の囁ささやきを聞きながら、卑狗の波打つ胸の力を感じると、崩れる花束のように彼の胸の中へ身を投げた。

「ああ、大兄、大兄、爾は何処へ行った。」

彼女の身体は毛皮の上に倒れていた。しかし、その時、またも彼女の怨恨は、涙の底から急に浮び上った仇敵きゅうてきの長羅に向って猛然と勃発した。最早や彼女は、その胸に沸騰する狂おしい復讐の一念を圧伏していることが出来なくなった。

「大兄を返せ、大兄を返せ。」

彼女は立ち上った。そうして、きりきりと歯をきしませながら、円木まろきの隙に刺された白鷺の尾羽根を次ぎ次ぎに引き脱いては捨てていった。しかし、再び彼女は彼女を呼ぶ卑狗の大兄の声を聞きつけた。彼女の身体は呆然ぼうぜんと石像のように立ち停り、風に吹かれた衣のように円木の壁にしなだれかかると、再び抜き捨てられた白鷺の尾羽根の上へどっと倒れた。

「ああ、大兄、大兄、爾は我を残して何処いずこへ行った。何処へ行った。」

二十三

反耶はんやは夜中眼が醒さめると、傍から不弥うみの女が消えていた。そうして、彼の見たものは自分の片手に握られた乾いた一つの酒盃と、肉塊を冠って寝ている反絵の口を開いた顎あごとであった。

「不弥の女、不弥の女。」

彼は立ち上って卑弥呼の部屋へ行こうとしたとき、反絵の足に蹉つまずいて前にのめった。しかし、彼の足は急いでいた。彼は蹌踉よろめきながら、彼女の部屋の方へ近づくと、その遣戸やりどを押して中に這入はいった。

「不弥の女。不弥の女。」

卑弥呼ひみこは白鷺の散乱した羽毛の上に倒れたまま動かなかった。

反耶は卑弥呼の傍へ近寄った。そうして、片膝をつきながら彼女の背中に手をあてて囁ささやいた。

「起きよ、不弥の女、我は爾の傍へ来た。」

卑弥呼は反耶の力に従って静かに仰向あおむけに返ると、涙に濡れた頬に白い羽毛をたからせたまま彼を見た。

「爾なんじは何故に我を残してひとり去った。」と反耶はいった。

卑弥呼は黙って慾情に慄ふるえる反耶の顔を眺め続けた。

「不弥の女。我は爾を愛す。」

反耶は唇を慄わせて卑弥呼の胸を抱きかかえた。卑弥呼は石のように冷然として耶馬台やまとの王に身をまかせた。

そのとき、部屋の外から重い跫音あしおとが響いて来た。そうして、彼女の部屋の遣戸が急に開くと、そこへ現れたのは反絵はんえであった。彼は二人の姿を見ると突き立った。が、忽たちまち彼の下顎は狂暴な嫉妬しっとのために戦慄した。彼は歯をむき出して無言のまま猛然と反耶の方へ迫って来た。

「去れ。去れ。」と反耶はいって卑弥呼の傍から立ち上った。

反絵は、恐怖の色を浮かべて逃げようとする反耶の身体を抱きかかえると、彼を円木まろきの壁へ投げつけた。反耶の頭は逆様さかさまに床を叩いて転落した。反絵は腰の剣つるぎをひき抜いた。そうして、露わな剣を跳はねている兄の脇腹へ突き刺した。反耶は呻うめきながら刺された剣を握って立ち上ろうとした。が、反絵は再び彼の胸を斬きり下さげた。反耶は卑弥呼の方へ腹這はらばうと、彼女の片足を攫つかんで絶息した。しかし卑弥呼は横たわったまま身動きもせず、彼女の足を握っている王の指先を眺めていた。反絵はまた陽ひに逢あわぬ影のように青黒くなって反耶の傍に突き立っていた。やがて、反絵の手から剣が落ちた。静かな部屋の中で、床に刺って横に倒れる剣の音が一度した。

「卑弥呼、我は兄を殺した。爾なんじは我の妻になれ。」

反絵は卑弥呼の傍へ蹲かがむと、荒い呼吸を彼女の顔に吐きかけて、彼女の腰と肩とに手をかけた。しかし、卑弥呼は黙然として反耶の死体を眺めていた。

「卑弥呼、我は奴国なこくを攻める。我は爾を愛す、我は爾を欲す。卑弥呼、我の妻になれ。」

彼女の頬ほおに付いていた白い羽毛の一端が、反絵の呼吸のために揺れていた。反絵はなおも腕に力を籠こめて彼女の上に身を蹲めた。

「卑弥呼、卑弥呼。」

彼は彼女を呼びながら彼女の胸を抱こうとした。彼女は曲げた片肱かたひじで反絵の胸を押しのけると静にいった。

「待て。」

「爾は兄に身を与えた。」

「待て。」

「我は兄を殺した。」

「待て。」

「我は爾を欲す。」

「奴国の滅びたのは今ではない。」

反絵の顔は勃発する衝動を叩たたかれた苦悩のために歪ゆがんで来た。そうして、彼の片眼は、暫時ざんじの焦燥に揺られながらも次第に獣的な決意を閃ひらめかせて卑弥呼の顔を覗のぞき始めると、彼女は飛び立つ鳥のように身を跳ねて、足元に落ちていた反絵の剣を拾って身構えた。

「卑弥呼。」

「部屋を去れ。」

「我は爾を愛す。」

「奴国を攻めよ。」

「我は攻める。剣を放せ。」

「奴国の王子を長羅ながらという。彼を撃て。」

「我は撃つ。爾は我の妻になれ。」

「長羅を撃てば、我は爾の妻になる。部屋を去れ。」

「卑弥呼。」

「去れ。奴国の滅びたのは今ではない。」

反絵は彼の片眼に怨恨えんこんを流して卑弥呼を眺めていた。しかし、間もなく、戦いに疲れた獣のように彼は足を鈍らせて部屋の外へ出ていった。卑弥呼は再び床の上へ俯伏うつぶせに身を崩した。彼女は彼女自身の身の穢けがれを思い浮べると、彼女を取巻く卑狗ひこの大兄おおえの霊魂が今は次第に彼女の身辺から遠のいて行くのを感じて来た。彼女の身体は恐怖と悔恨とのために顫ふるえて来た。

「ああ、大兄、我を赦ゆるせ、我を赦せ、我のために爾は返れ。」

彼女は剣を握ったまま泣き伏していたとき、部屋の外からは、突然喜びに溢れた威勢よき反絵の声が聞えて来た。

「卑弥呼、我は奴国を攻める。我は奴国を砂のように崩すであろう。」

二十四

耶馬台やまとの宮では、一人として王を殺害した反絵に向って逆さからうものはなかった。何故なら、耶馬台の宮の人々には、彼の狂暴な熱情と力とは、前から、国境に立ち昇る夜の噴火の柱と等しい恐怖となって映っていたのであったから。しかし、君長ひとこのかみの葬礼は宮人みやびとたちの手によって、小山の頂きで行われた。二人の宿禰すくねと九人の大夫だいぶに代った十一の埴輪はにわが、王の柩ひつぎと一緒に埋められた。そうして、王妃と、王の三頭の乗馬と、三人の童男とは、殉死者として首から上を空間に擡もたげたままその山に埋められた。貞淑な王妃を除いた他の殉死者の悲痛な叫喚は、終日終夜、秋風のままに宮のうえを吹き流れた。そうして、次第に彼らの叫喚が弱まると一緒に、その下の耶馬台の宮では、着々として戦たたかいの準備が整ととのうていった。先ず兵士つわものたちは周囲の森から野牛の群れを狩り集めることを命ぜられると、次に数千の投げ槍と楯たてと矢とを造るかたわら、弓材となる梓あずさや檀まゆみを弓矯ゆみために懸かけねばならなかった。反絵は日々兵士たちの間を馳け廻っていた。しかし、彼の卑弥呼を得んとする慾望はますます彼を焦燥せしめ、それに従い彼の狂暴も日に日にその度を強めていった。彼は戦々兢々せんせんきょうきょうとして馳け違いながら立ち働く兵士たちの間から、暇ある度に卑弥呼の部屋へ戻って来た。彼は彼女に迫って訴えた。しかし、卑弥呼の手には絶えず抜かれた一本の剣つるぎが握られていた。そうして、彼女の答えは定きまっていた。

「待て、奴国なこくの滅びたのは今ではない。」

反絵はその度に無言のまま戸外へ馳け出すと、必ず彼の剣は一人の兵士を傷つけた。

二十五

奴国なこくの宮では、長羅ながらは卑弥呼ひみこを失って以来、一つの部屋に横たわったまま起きなかった。彼は彼女を探索に出かけた兵士つわものたちの帰りを待った。しかし、帰った彼らの誰もは弓と矢を捨てると黙って農夫の姿に変っていた。長羅は童男の運ぶ食物にも殆ほとんど手を触れようともしなくなった。そればかりでなく、最早もはや彼を助ける一人残った祭司の宿禰すくねにさえも、彼は言葉を交えようとしなかった。そうして、彼の長躯ちょうくは、不弥うみを追われて帰ったときの彼のごとく、再び矛木ほこぎのようにだんだんと痩やせていった。彼の病原を洞察した宿禰は、蚯蚓みみずと、酢漿草かたばみそうと、童女の経水けいすいとを混ぜ合せた液汁を長羅に飲ませるために苦心した。しかし長羅はそれさえも飲もうとはしなかった。そこで、宿禰は奴国の宮の乙女おとめたちの中から、優れた美しい乙女を選抜して、長羅の部屋へ導き入れることを計画した。しかし、第一日に選ばれた乙女と次の乙女の美しさは、長羅の引き締った唇の一端さえも動かすことが出来なかった。宿禰は憂慮に悩んだ顔をして、自ら美しい乙女を捜し出さんがため、奴国の宮の隅々すみずみを廻り始めた。その噂うわさを聞き伝えた奴国の宮の娘を持った母親たちは、己おのれの娘に華はなやかな装よそおいをこらさせ、髪を飾らせて戸の外に立たせ始めた。そうして、彼女自身は己の娘を凌駕りょうがする美しい娘たちを見たときにはそれらの娘たちの古い悪行を、通る宿禰の後から大声で饒舌しゃべっていった。こうして、第三に選ばれた美しい乙女は、娘を持つ奴国の宮の母親たちのまだ誰もが予想さえもしなかった訶和郎かわろの妹の香取かとりであった。しかし、己の娘の栄誉を彼女のために奪われた母親たちの誰一人として、香取の美貌と行跡について難ずるものは見あたらなかった。何なぜなら、香取の父は長羅に殺された宿禰であったから。彼女は父の惨死に次いで、兄の逃亡の後は、ただ一人訶和郎の帰国するのを待っていた。彼女にとって、父を殺した長羅は、彼女の心の敵とはならなかった。彼女の敵は、彼女がひとり胸底深く秘め隠していた愛する王子長羅を奪った不弥うみの女の卑弥呼ひみこであった。そうして、彼女の父を殺した者も、彼女にとっては、彼女を愛する王子長羅をして彼女の父を殺さしめた不弥の女の卑弥呼であった。選ばれた日のその翌朝、香取は宮殿から送られた牛車ぎっしゃに乗って登殿した。彼女は宿禰が彼女を選んだその理由と、彼女に与えられた重大な責任とを、他に選ばれた乙女たちの誰よりも深く重く感じていた。彼女は藤色の衣を纏まとい、首からは翡翠ひすいの勾玉まがたまをかけ垂し、その頭には瑪瑙めのうをつらねた玉鬘たまかずらをかけて、両肱りょうひじには磨かれた鷹たかの嘴くちばしで造られた一対の釧くしろを付けていた。そうして、彼女の右手の指に嵌はまっている五つの鐶たまきは、亡き母の片身として、彼女の愛翫あいがんし続けて来た黄金の鐶であった。彼女は牛車から降りると、一人の童男に共ともなわれて宿禰の部屋へ這入はいっていった。宿禰は暫しばらく彼女の姿を眺めていた。そうして、彼はひとり得意な微笑をもらしながら、長羅の部屋の方を指差して彼女にいった。

「行け。」

香取は命ぜられるままに長羅の部屋の杉戸の方へ歩いていった。彼女の足は戸の前まで来ると立たち悚すくんだ。

「行け。」と再び後うしろで宿禰の声がした。

彼女は杉戸に手をかけた。しかし、もし彼女が不弥の女に負けたなら、そうして、彼女が、もし奴国の女を穢けがしたときは?

「行け。」と宿禰の声がした。

彼女の胸は激しい呼吸のために波立った。が、それと同時に彼女の唇は決意にひき締って慄ふるえて来た。彼女は手に力を籠こめながら静しずかに杉戸を開いてみた。彼女の長く心に秘めていた愛人は、毛皮の上に横わって眠っていた。しかし、彼女の頭に映っていたかつての彼の男々おおしく美しかったあの顔は、今は拡まった窪くぼみの底に眼を沈ませ、髯ひげは突起した顋おとがいを蔽おおって縮まり、そうして、彼の両頬は餓えた鹿のように細まって落ちていた。

「王子、王子。」

彼女は跪拝ひざまずいて小声で長羅を呼んだ。彼女の声はその気高き容色の上に赧あからんだ。しかし、長羅は依然として彼女の前で眠っていた。彼女は再び膝を長羅の方へ進めて行った。

「王子よ、王子よ。」

すると、突然長羅の半身は起き上った。彼は爛々らんらんと眼を輝かせて、暫く部屋の隅々を眺めていた。そうして、漸ようやく跪拝いている香取の上に眼を注ぐと、彼の熱情に輝いたその眼は、急に光りを失って細まり、彼の身体は再び力なく毛皮の上に横たわって眼を閉じた。香取の顔色は蒼然そうぜんとして変って来た。彼女は身を床の上に俯伏うつぶせた。が、再び弾はじかれたように頭を上げると、その蒼あおざめた頬に涙を流しながら、声を慄ふるわせて長羅にいった。

「王子よ、王子よ、我は爾なんじを愛していた。王子よ、王子よ、我は爾を愛していた。」

彼女は不意に言葉を切ると、身体を整えて端坐した。そうして、頭から静かに、玉鬘たまかずらを取りはずし、首から勾玉をとりはずすと、長羅の眼を閉じた顔を従容しょうようとして見詰めていた。すると、彼女の唇の両端から血がたらたらと流れて来た。彼女の蒼ざめた顔色は、一層その色が蒼ざめて落つき出した。彼女の身体は端坐したまま床の上に傾くと、最早もはや再びとは起き上って来なかった。こうして、兵部ひょうぶの宿禰の娘は死んだ。彼女は舌を咬かみ切きって自殺した。しかし、横たわっている長羅の身体は身動きもしなかった。

香取の死の原因を知らなかった奴国の宮の人々は、一斉に彼女の行為を賞讃した。そうして、長羅を戴く奴国の乙女たちは、奴国の女の名誉のために、不弥うみの女から王子の心を奪い返せと叫び始めた。第四の乙女が香取の次ぎに選ばれて再び立った。人々は斉しく彼女の美しさの効果の上に注目した。すると、俄然がぜんとして彼女は香取のように自殺した。何なぜなら香取を賞讃した人々の言葉は、あまりに荘厳であったから。しかし、また第五の乙女が宿禰のために選ばれた。人々の彼女に注目する仕方は変って来た。けれども、彼女の運命も第四の乙女のそれと等しく不吉な慣例を造らなければならないのは当然のことであった。こうして、奴国の宮からは日々に美しい乙女が減りそうになって来た。娘を持った奴国の宮の母親たちは急に己の娘の美しい装いをはぎとって、農衣に着せ変えると、宿禰の眼から家の奥深くへ隠し始めた。しかし宿禰はひとり、ますます憂慮に顰ゆがんだ暗鬱な顔をして、その眼を光らせながら宮の隅々をさ迷うていた。第六番目の乙女が選ばれて立った。人々は恐怖を以て彼女の身の上を気遣きづかった。その夜、彼らは乙女の自殺の報しらせを聞く前に、神庫ほくらの前で宿禰が何者かに暗殺されたという報導を耳にした。しかし、長羅の横たわった身体は殆ど空虚に等しくなった王宮の中で、死人のように動かなかった。

或る日、一人の若者が、王宮の門前の榧かやの棖ほこだちを見ると、疲れ切った体をその中へ馳け込ませてひとり叫んだ。

「不弥うみの女を我は見た。不弥の女を我は見た。」

若者の声に応じて出て来る者は誰もなかった。彼は高縁たかえんに差し込んだ太陽の光りを浴びて眠っている童男の傍を通りながら、王宮の奥深くへだんだんと這入はいっていった。

「不弥の女を我は見た。不弥の女は耶馬台やまとにいる。」

長羅は若者の声を聞くと、矢の音を聞いた猪のように身を起した。彼の顔は赧あからんだ。

「這入れ、這入れ。」しかし、彼の声はかすれていた。若者の呼び声は、長羅の部屋の前を通り越して、八尋殿やつひろでんへ突きあたり、そうして、再び彼の方へ戻って来た。長羅は蹌踉よろめきながら杉戸の方へ近寄った。

「這入れ、這入れ。」

若者は杉戸を開けると彼を見た。

「王子よ、不弥の女を我は見た。」

「よし、水を与えよ。」

若者は馳かけて行き、馳けて帰った。

「不弥の女は耶馬台にいる。」

長羅は盌もいの水を飲み干した。

「爾なんじは見たか。」

「我は見た、我は耶馬台の宮へ忍び入った。」

「不弥の女は何処いずこにいた。」

「不弥の女を我は見た。不弥の女は耶馬台の宮の王妃おうひになった。」

長羅は激怒に圧伏されたかのように、ただ黙って慄ふるえながら床の上の剣つるぎを指差していた。

「王子よ、耶馬台の王は戦いの準備をなした。」

「剣を拾え。」

若者は剣を長羅に与えると再びいった。

「王子よ、耶馬台の王は、奴国の宮を攻めるであろう。」

「耶馬台を攻めよ。兵を集めよ。我は爾を宿禰にする。」

若者は喜びに眉毛まゆげを吊り上げて黙っていた。

「不弥の女を奪え。耶馬台を攻めよ。兵を集めよ。」

若者は盌もいを蹴って部屋の外へ馳け出した。間もなく、法螺ほらが神庫ほくらの前で高く鳴った。それに応じて、銅鑼どらが宮の方々から鳴り出した。

二十六

耶馬台やまとの宮では、反絵はんえの狂暴はその度を越えて募つのって来た。それにひきかえ、兵士つわものたちの間では、卑弥呼ひみこを尊崇する熱度が戦いの準備の整って行くに従って高まって来た。何なぜなら、いまだかつて何者も制御し得なかった反絵の狂暴を、ただ一睨いちげいの視線の下に圧伏さし得た者は、不弥うみの女であったから。そうして、彼女のために、反絵の剣の下からその生命を救われた数多くの者たちは彼らであった。彼らは彼らの出征の結果については必勝を期していた。何ぜなら、いまだ何者も制御し得なかった耶馬台の国の大なる恐怖を、ただ一睨の下に圧伏さし得る不弥の女を持つものは彼らの軍であったから。反絵の出した三人の偵察兵は帰って来た。彼らは、奴国の王子が卑弥呼を奪いに耶馬台の宮へ攻め寄せるという報導を齎もたらした。反絵と等しく怒った者は耶馬台の宮の兵たちであった。その翌朝、進軍の命令が彼らの上に下された。一団の先頭には騎馬に跨またがった反絵が立った。その後からは、盾たての上で輝いた数百本の鋒尖ほこさきを従えた卑弥呼が、六人の兵士に担かつがれた乗物に乗って出陣した。彼女は、長羅を身辺に引き寄せる手段として、胄かぶとの上から人目を奪う紅くれないの染衣しめごろもを纏まとっていた。一団の殿しんがりには背に投げ槍と食糧とを荷にないつけられた数十疋の野牛の群が連つらなった。彼らは弓と矢の林に包まれて、燃え立った櫨はぜの紅葉の森の中を奴国の方へ進んでいった。そうして、この蜒々えんえんとした武装の行列は、三つの山を昇り、四つの谷に降り、野を越え、森をつききって行ったその日の中に、二人の奴国の偵察兵を捕えて首斬くびきった。二日目の夕暮れ、彼らはある水の涸かれた広い河の岸へ到着した。

二十七

不弥うみを一挙に蹂躙じゅうりんして以来、まだ日のたたぬ奴国の宮では、兵士つわものたちは最早や戦争の準備をする必要がなかった。神庫ほくらの中の鋒ほこも剣つるぎも新らしく光っていた。そうして、彼らの弓弦ゆづるは張られたままにまだ一矢の音をも立ててはいなかった。しかし、王子長羅の肉体は弱っていた。彼は焦燥しながら鶴つると鶏にわとりと山蟹やまがにの卵を食べ続けるかたわら、その苛立いらだつ感情の制御しきれぬ時になると、必要なき偵察兵を矢継早やつぎばやに耶馬台やまとへ向けた。そうして、彼は兵士たちに逢あうごとに、その輝いた眼を狂人のように山の彼方かなたへ向けて、彼らにいった。

「不弥の女を奪え。奪った者を宿禰にする。」

彼の言葉を聞いた兵士たちは互にその顔を見合せて黙っていた。しかし、それと同時に彼らの野心は、その沈黙の中で互に彼らを敵となして睨にらみ合あわせた。

数日の後、長羅の顔は蒼白あおじろく痩やせたままに輝き出した。そうして、逞たくましく前に蹲かがんだ彼の長躯は、駿馬しゅんめのように兵士たちの間を馳け廻っていた。出陣の用意は整った。長羅の正しく突とがった鼻と、馬の鼻とは真直に耶馬台を睨んで進んでいった。数千の兵士たちは、互に敵となって塊かたまった大集団を作りながら、声を潜ひそめて彼の後から従った。長羅の馬は耶馬台へ近か寄るに従って、次第にひとり兵士たちから放れて前へ急いだ。このため兵士たちは休息することを忘れねばならなかった。しかし、彼らはその熱情を異にする長羅の後に続くことは不可能なことであった。そうして、二日がたった。兵士たちは、ある河岸へ到着したときは、最早もはや前進することも出来なかった。彼らはその日、まだ太陽の輝いている中うちから河原の芒すすきの中で夜営の準備にとりかかった。

遠い国境の山の峯が一つ高々と煙を吐いていた。太陽は桃色に変って落ち始めた。そのとき、遽にわかに対岸の芒の原がざわめき立った。そうして、一斉に水禽みずどりの群れが列を乱して空高く舞い上ると、間もなく、数千の鋒尖が芒の穂の中で輝き出した。

「耶馬台の兵が押し寄せた。」

「耶馬台の兵が攻め寄せた。」

奴国なこくの兵士たちは動乱した。しかし、彼らは休息を忘れて歩行し続けた疲労のために、かえって直ちにその動乱を整えて、再び落ちつきを奪回することに容易であった。彼らは応戦の第一の手段として、鋒や剣やその他総すべての武器を芒の中に伏せて鎮しずまった。何なぜなら、彼らは奴国の兵の最も特長とする戦法は夜襲であることを知っていた。数名の斥候せっこうが川上と川下から派出された。長羅は一人高く馬上に跨って対岸を見詰めていた。川には浅瀬が中央にただ一線流れていた。そうして、その浅瀬の両側には広い砂地が続いていた。

夜は次第に降りて来た。対岸の芒の波は、今は朧おぼろに背後の山の下で煙って見えた。その時、突然対岸からは銅鑼どらがなった、すると、尾に火をつけられた一団の野牛の群れが、雲のように棚曳たなびいた対岸の芒の波を蹴破って、奴国の陣地へ突進して来た。奴国の兵は野牛の一団が真近まで迫ったときに、一斉に彼らの群へ向って矢を放った。牛の群は鳴き声を上げて突き立つと、逆に耶馬台の陣地の方へ猛然と押し返した。奴国の兵は牛の後から対岸に向って押し寄せようとした。しかし、長羅は彼らの前を一直線に馬を走らせてその前進を食いとめた。と、斉ひとしく野牛の群は、対岸から放たれ出した矢のために、再び逆流して奴国の方へ向って来た。それと同時に鯨波ときの声が対岸から湧き上ると、野牛の群れの両翼となって、投げ槍の密集団が、砂地を蹴って両方から襲って来た。奴国の兵は直ちに川岸に添って長く延びた。そうして、その敵の密集団に向って一斉に矢を放つと、再び密集団は彼らの陣営へ引き返した。野牛の群は狂いながらひとり奴国の兵の断ち切れた中央を突きぬけて、遠く後方の森の中へ馳け過ぎた。

夜は全く降りていた。国境の噴火の煙は火の柱となって空中に立っていた。奴国の兵の夜襲の時は迫って来た。しかし、彼らの疲労は一段と増していた。彼らは敵の陣地の鎮まると一緒に芒の中に腰を下して休息した。長羅は彼らの疲労の状態に気がつくと、その計画していた夜襲を断念しなければならなかった。けれども、奴国の軍は次に来るべき肉迫戦のときまでに、敵の陣営から矢をなくしておかねばならなかった。それには夜の闇が必要であった。彼らは疲労の休まる間もなく、声を潜めて川原の中央まで進んで出ると、盾たてを塀のように横につらねて身を隠した。そうして、彼らは一斉に足を踏みたたき、鯨波ときの声を張り上げて肉迫する気勢を敵に知らしめた。対岸からは矢が雨のように飛んで来て盾にあたった。彼らは引きかえすとまた進み、退しりぞいては再び喊声かんせいを張り上げた。そうして、時刻を隔おいてこの数度の牽制けんせいを繰り返している中うちに、最早対岸からは矢が飛ばなくなって来た。しかし、彼らに代って敵からの牽制が激しくなった。初め奴国の兵は敵の喊声が肉迫する度に、恐怖のために思わず彼らに向って矢を放った。けれども、それが数度続くと、彼らは敵軍の夜襲も所詮自国の牽制と等しかったことに気付いて矢を惜しんだ。夜はだんだんと更ふけていった。眠ったように沈黙し合った両軍からは、盛に斥候が派せられた。川上と川下の砂地や芒の中では小さな斥候戦が方々で行われた。こうして、夜は両軍の上から明けていった。朝日は奴国の陣地の後方から昇り初めた。耶馬台の国の国境から立ち昇る噴火の柱は再び煙の柱に変って来た。そうして、両軍の間には、血の染にじんだ砂の上に、矢の刺った屍しかばねや牛の死骸が朝日を受けて点々として横たわっていた。そのとき、耶馬台の軍はまばらに一列に横隊を造って、静々と屍を踏みながら進んで来た。彼らの連なった楯の上からは油を滲にじませた茅花つばなの火口ほぐちが鋒尖につきささられて燃えていた。彼らは奴国の陣営真近く迫ったときに、各々その鋒尖の火口を芒の中へ投げ込んだ。奴国の兵は直ちに足で落ち来る火口を踏みつけた。しかし、彼らの頭の上からは、続いて無数の投げ槍と礫つぶてが落ちて来た。それに和して、耶馬台の軍の喊声かんせいが、地を踏み鳴らす跫音あしおとと一緒に湧き上った。消え残った火口ほぐちの焔ほのおは芒の原に燃え移った。奴国の陣営は竹の爆はじける爆音を交えて濛々もうもうと白い煙を空に巻き上げた。長羅は全軍を森の傍まで退却させた。そうして、兵を三団に分けると、最も精鋭な一団を自分と共に森へ残し、他の二団をして、立ち昇る白煙に隠れて川上と川下に別れさせた。分れた二団の軍兵は鋒と剣を持って、砂地の上の耶馬台の軍を両方から一時にどっと挾撃した。白煙の中へ矢を放っていた耶馬台の軍は散乱しながら対岸の陣地の中へ引き返した。奴国の二団は川の中央で一つに合すると、大集団となって逃げる敵軍の後から追撃した。そうして、今や彼らは敵の陣営へ殺倒しようとしたときに、新たなる耶馬台の軍が、奴国の密集団を中に挾んで芒の中から現れた。彼らは奴国の密集団と同じく鋒と剣を持って、喊声を上げつつ堂々と二方から押し寄せて来た。長羅は自国の軍が敵軍に包まれたのを見てとると、残った一団を引きつれて斜に火の消えた芒の原を突き破って現れた。耶馬台の軍は彼の新らしき一軍を見ると、奴国の密集団を包んだまま急に進行を停止した。長羅は自分の後ろに一団を張って敵の大団に対峙しながら動かなかった。その時、対岸の芒の中から、逃げ込んだ耶馬台の兵の一団が、再び勢いを盛り返して進んで来た。と、三方から包まれた奴国の密集団は渦巻うずまきながら、耶馬台の軍の右翼となった大団の中へ殺倒した。それと同時に、かの芒の中から押し返した敵の一団は、投げ槍を霜のように輝かせて動乱する奴軍の中へ突入した。忽たちまち、動揺どよめく人波の点々が、倒れ、跳ね、躍おどり、渦巻くそれらの頭上で無数の白い閃光せんこうが明滅した。と、やがて、その殺戮さつりくし合う人の団塊は叫喚しながら紅くれないとなって、延び、縮み、揺れ合いつつ次第に小さく擦すり減へって行くと、遽にわかに長羅の動かぬ一団の方へ潮うしおのように崩れて来た。それに和して、今まで彼と対峙たいじして止どまっていた耶馬台の左翼の軍勢も、一時に鯨波ときの声を張り上げて彼の方へ押し寄せた。長羅の一団は彼を捨てて崩れて来た。長羅は一人馬上に踏みとまって、「返せ、返せ。」と叫び続けた。

その時、放してあった一人の奴国の斥候が彼の傍へ馳け寄って来ると、手を喇叭らっぱのように口にあてて彼に叫んだ。

「不弥うみの女を我は見た。見よ、不弥の女は赤い衣を纏まとっている。」

長羅は彼の指差す方を振り向いた。そこには、肉迫して来る刃やいばの潮の後方に、紅の一点が静々しずしずと赤い帆のように彼の方へ進んでいた。長羅はひらりと馬首を敵軍の方へ振り向けた。馬の腹をひと蹴り蹴った。と、彼は無言のままその紅の一点を目がけて、押し寄せる敵軍の中へただ一騎驀進ばくしんした。鋒ほこの雨が彼の頭上を飛び廻った。彼は楯たてを差し出し、片手の剣つるぎを振り廻して飛び来る鋒を斬きり払はらった。無数の顔と剣が彼の周囲へ波打ち寄せた。彼の馬は飛び上り、跳ね上って、その人波の上を起伏しながら前へ前へと突き進んだ。長羅の剣は馬の上で風車のように廻転した。腕が飛び、剣が飛んだ。ばたばたと人は倒れた。と、急に人波は彼の前で二つに割れた。

「卑弥呼。」長羅の馬は突進した。そのとき、片眼の武将を乗せた黒い一騎が砂地を蹴って彼の前へ馳けて来た。

「聞け、我は耶馬台の王の反絵はんえである。」

長羅の馬は突き立った。そうして、反絵の馬を横に流すと、円を描いて担かつがれた高座たかざの上の卑弥呼の方へ突進した。

卑弥呼の高座は、彼の馬首を脱しながら反絵の後へ廻っていった。長羅は輝いた眼を卑弥呼に向けた。

「卑弥呼。」

彼は馬を蹴ろうとすると、再び反絵の馬は疾風のように馳かけて来た。と、長羅は突然馬首を返すと、反絵の馬に向って突撃した。二頭の馬は嘶いななきながら突き立った。楯が空中へ跳ね上った。再び馬は頭を合せて落ち込んだ。と、反絵の剣は長羅の腹へ突き刺さった。同時に、長羅の剣は反絵の肩を斬り下げた。長羅の長躯は反絵の上に躍り上った。二人の身体は逆様さかさまに馬の上から墜落すると、抱き合ったまま砂地の上を転った。蹴り合い、踏み合う彼らの足尖あしさきから、砂が跳ね上った。草葉が飛んだ。そうして、反絵の血走った片眼は、引ひっ掴つかまれた頭髪に吊り上げられたまま、長羅の額を中心に上になり、下になった。二つの口は噛かみ合った。乱れた彼らの頭髪は絡からまった鳥のようにぱさぱさと地を打った。

卑弥呼の高座は二人の方へ近か寄って来ると降された。しかし、耶馬台の兵士の中で、彼らの反絵を助けようとするものは誰もなかった。何なぜなら、耶馬台の恐怖を失って、幸福を増し得る者は彼らであったから。彼らは卑弥呼と一緒に剣を握ったまま、血砂にまみれて呻うめきながら転々する二人の身体を見詰めていた。彼らの顔は、一様に、彼らの美しき不弥の女を守り得る力を、彼女に示さんとする努力のために緊ひき締しまっていた。しかし、間もなく彼らの前で、長羅と反絵の塊かたまりは、卑弥呼の二人の良人おっとの仇敵は、戦いながら次第にその力を弱めていった。そうして、反絵の片眼は瞑つむられたまま砂の中にめり込むと、二人は長く重なったまま動かなかった。卑弥呼はひとり彼らの方へ近かづいた。そのとき、長羅は反絵の胸を踏みつけて、突然地から湧き出たように起き上った。彼は血の滴したたる頭髪を振り乱して、柔やわらかに微笑しながらその蒼あおざめた顔を彼女の方へ振り向けた。

「卑弥呼。」

彼女は立ち停ると剣を上げて身構えた。兵士たちは長羅の方へ肉迫した。

「待て。」と彼女は彼らにいった。

「卑弥呼、我は爾なんじを迎えにここへ来た。」

長羅は腹に反絵の剣を突き通したまま、両腕を拡げて彼女の方へ歩もうとした。しかし、彼の身体は左右に二足三足蹌踉よろめくと、滴る血の重みに倒れるかのようにばったりと地に倒れた。彼は再び起き上った。

「卑弥呼、爾は我と共に奴国へ帰れ。我は爾を待っていた。」

「爾は我の夫つまの大兄おおえを刺した。」

「我は刺した。」

「爾は我の父と母とを刺した。」

「我は刺した。」

「爾は我の国を滅ぼした。」

「我は滅ぼした。」

長羅は再び蹌踉めきながら彼女の方へ歩みよった。と、またも彼の身体はどっと倒れた。振り上げた卑弥呼の剣は下がって来た。長羅はなおも起き上ろうとした。しかし、彼の胸は地に刺された人のように地を放れると地についた。そうして、彼は漸ようやく砂の上から額を上げると彼女の方へ手を延ばした。

「卑弥呼、我は爾を奪わんために、我の国を滅ぼした。我は爾を奪わんために我の父を刺した、宿禰を刺した。爾は返れ。」

長羅の蒼ざめた額は地に垂れた。

「卑弥呼、卑弥呼。」

彼は恰あたかも砂に呟つぶやくごとく彼女を呼ぶと、彼の瞼まぶたは閉じられた。卑弥呼の身体は顫ふるえて来た。彼女の剣は地に落ちた。

「大兄よ、大兄よ、我を赦せ。彼を刺せと爾はいうな。」

卑弥呼は頭をかかえると剣の上へ泣き崩れた。

「大兄よ、大兄よ、我を赦せ。我は爾のために長羅を撃った。我は爾のために復讐した。ああ、長羅よ長羅よ、我を赦せ。爾は我のために殺された。」

長羅と反絵と卑弥呼を残して、彼方かなたの森の中では、奴国の兵を追いながら、奴国の方へ押し寄せて行く耶馬台の軍の鯨波ときの声が一段と空に上った。

底本 / Source edition

底本:「日輪・春は馬車に乗って 他八篇」岩波文庫、岩波書店
1981(昭和56)年8月17日第1刷発行
底本の親本:「日輪」春陽堂
1924(大正13)年5月18日
初出:「新小説」
1923(大正12)年5月号
入力:土屋隆
校正:鈴木厚司
2009年5月13日作成
2019年6月14日修正
青空文庫作成ファイル:
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TEI
/works/004252_000168/tei
プレーンテキスト / Plain text
/works/004252_000168/plaintext
書誌 / Bibliography
/works/004252_000168/

横光 利一「日輪」(新字新仮名)、底本『日輪・春は馬車に乗って 他八篇』岩波文庫、岩波書店、1981年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 004252_000168, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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