Soranoha

無題(十二)

むだい(じゅうに)

宮本 百合子

○西側の腰高窓の床の間よりに机を出して坐った。そこからは灰色の雨雲が走る空の下に 頂を濃い霧につつまれた小高い山とその手前の樹木の茂った丘陵とが見晴せた。狭い田圃をへだてたこちら側は 山陽線海岸まわりの幾条もの線路になっている。一時間に三つ位の割で通る。雨音を立てている前の家のトタン葺の屋根のはずれと、そのとなりの家の、燃火のけむりが低く雨の中に流れ出している土壁との間にある空地ごしに扇形にひらいた引込線に、石炭をつんだ無蓋貨車が何輌もつながったまま雨に打たれている。○がここへ着いた日に、それはそこにあった。

一日のうちに幾度か列車が地響を立て家を揺がして通過した。或ものは、西へ西へとゆく下りであり、そのいくつかは上りで、程近い山端にあるトンネルに入って行った。

〔欄外に〕

さあと暗くなって来て沛然と大雨になって来た。トタン屋根に白シブキを上げ。見ると豪雨に煙ってむこうの山はちっとも見えなくなった。海が近いところらしい大胆な雨に頭のしんまで洗われるようなよろこびを感じた。よろこびは、○の鼓動を活溌にした。そして、敗戦によって日本が新しく自らの建設をうけとったという事実を感じ直した。

○のいる家から町の駅までは僅か数丁の距離しかないので、丁度その扇形の見晴らしを通過する頃どの汽車もスピードをおとした。過ぎて行く貨車の一つ一つ、客車の窓の一つ一つが見える。どの時間に通る列車でも客車は一杯だが、不思議なことに、満員マンイン乍らまだ十分客車に入れる予地があるのにステップのところや汽罐車の石炭の上にのっている人々がある。そういうところなら結局こまなくて楽だというのだろうか、ふだんには出来ないことを今は平気でやっていられるというところの面白さからだろうか。

今も雨をついてローカルが通った。八分どおりは満員だが、窓ガラスの中は比較的閑静で車室に人の立つあきはある。これはすいている と思って見ていると、やはりステップに立ってつかまっている人々がかなりある。しかも最後の車台が通りすぎようとしたとき 一人のカーキ色服の男が、最後尾の棒につかまって雨にぬれ乍ら外につら下っているのが目にとまった。

○河村の家ではきょう板じきに石臼を出して粉をひいている。

○きのうは鍛冶屋の仕事仕度

○黒ぶちの眼鏡にジャンパーを着た(水谷長三郎氏)が「世界稀な憲兵政治」をもって国民にのぞんだと云っている記事を、おどろきをもってよみかえした。

何と万事は変ったろう。しかし、と○は考えた。その急激な変化に対応して、国民の一人一人、たとえば自分や、ああやって石臼を引いている清吉が、直ちに筋の立った何事かを発言することが出来るだろうか。表現したい様々の事象があった。そのときは絶対に表現が許されなかった。その状態のうちに日日夜々は寂しい内容をもって翔び去って、過去に属してしまった。

今、緘口がとかれ、とかれたという感じは、まざまざとして、現にこうして堂々と新聞にこれ迄知られ乍ら語られなかった事実の一片が示されている。○は云うに云えない精神の高まりを感じた。しかしそれなら何か云えと云われたら、彼は丁度テーブルスピーチを急に指名された場合のように 一種の当惑を感じただろう。

○扉を細めにあけて、そこに繩をはった有蓋貨車に人がのって走って行った。

○正一が千葉から戻ってえの、○○がつれて鳥取へ行きよった刀剣をもって。かえりに梨買うて来ちょります。

○砂糖を何匁配給になった

○油をどの位

○ハイヤーにええとつんで行きよった、大きいのやこまいのを、はア二十本以上もあったろうのう

○トラックをとって戻りよったのを、とりあげられましたといの

底本 / Source edition

底本:「宮本百合子全集 第十八巻」新日本出版社
1981(昭和56)年5月30日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第2版第1刷発行
初出:同上
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2004年2月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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書誌 / Bibliography
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宮本 百合子「無題(十二)」(新字新仮名)、底本『宮本百合子全集 第十八巻』新日本出版社、1981年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 004233_000311, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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