Soranoha

巴里祭

パリさい

岡本 かの子

彼等自らうら淋しく追放人エキスパトリエといっている巴里幾年もの滞在外国人がある。初めはラテン区が彼等の巣窟そうくつだったが、次にモンマルトルに移り、今ではモンパルナッスが中心地となっている。

――六月三十日より前に巴里を去るのも阿呆、六月三十日より後に巴里に居残るのも阿呆。」

これは追放人エキスパトリエ等の口から口に伝えられている諺ことわざである。つまり六月一ぱいまでは何かと言いながら年中行事の催物もよおしものが続き、まだ巴里に実みがある。此の後は季節セーゾンが海岸の避暑地に移って巴里は殻からになる。折角せっかく今年流行の夏帽子も冠かぶってその甲斐はない。彼等は伊達だてに就いても効果の無いことは互にいましめ合う。

淀嶋新吉は滞在邦人の中でも追放人エキスパトリエの方である。だが自分でそう呼ぶことすらもう月並つきなみの嫌味を感じるくらい巴里の水になずんでしまった。いわゆる「川向う」の流行の繁華区域は、皮膚にさえもうるさく感じるようになって、僅かばかりの家財を自動車で自分で運び、グルネルの橋を渡り、妾町と言われているパッシイ区のモツアルト街に引移った。それも四年程前である。彼の借りた家の塀には隣の女服装家ベッシェール夫人の家の金鎖草が丈の高い木蔓を分けて年々に黄色に咲く。

――今年の夏は十三日間おれは阿呆になる積りだ。」

新吉は訊かれる人があればそう答えた。諺を知っている追放人エキスパトリエ仲間は成程彼が珍らしく七月十四日のキャトールズ・ジュイエの祭まで土地に居残るつもりだなと簡単に合点がてんした。諺をまだ知らない同国人の留学生等には彼の方から単純に説明した。

――今年はひとつ巴里祭を見る積りです。」

彼は彼が十五年前に恋したまゝで逢えなかったカテリイヌが此頃巴里の何処どこかに居ると噂に聞き、そのカテリイヌを、夏に居残る巴里人の殆ど全部が街へ出て騒ぐ巴里祭の混雑のなかで見付けようとする、彼の夢のような覚束おぼつかない計画などは誰にも言わなかった。

新吉が日本へ若い妻を残して、此の都へ来たのは十六年前である。マロニエの花とはどれかと訊いて、街路樹の黒く茂った葉の中に、蝋燭ろうそくを束ねて立てたような白いほの〲とした花を指さゝれた。音に聞くシャン・ゼリゼーの通りが余りに広漠として何処に風流街の趣おもむきがあるのか歯痒はがゆく思えた。一箇月、食事附百フランで置いて貰った家庭旅宿パンション・ド・ファミイユから毎日地図を頼りにぼつ〱要所を見物して歩いているうちに新吉にとっては最初の巴里祭が来てしまった。町は軒並に旗と紐と提灯ちょうちんで飾られた。道の四辻には楽隊の飾屋台が出来、人々は其のまわりで見付け次第の相手を捉えて踊り狂った。一曲済むまでは往来の人も車も立止まって待っていた。新吉はさすが熱狂性の強い巴里人の祭だと感心したが、それと同時に自分もいつか誘い込まれはしないかと、胸をわく〱させ踊りの渦のところは一々避けて遠くを通った。

一年足らずのうちに新吉はすっかり巴里に馴染なじんでしまった。巴里は遂に新吉に故郷東京を忘れさせ今日の追放人エキスパトリエにするまで新吉を捉えた。家庭旅宿パンション・ド・ファミイユの留学生臭い生活を離れて格安ホテルに暫らく自由を味ってみたり、エッフェル塔の影が屋根に落ちる静かなアパルトマンに、女中を一人使った手堅い世帯持ちの真似をしてみたり、新吉は巴里を横からも縦からも噛みはじめた。巴里で若し本当に生活に身を入れ出したら、生活それだけで日々の人生は使い尽される。その上職業とか勉強とかに振り分ける余力はない。新吉はすっかり巴里の髄ずいに食い入ってモンマルトルの遊民になった。次の年の巴里祭前にも彼が留学の目的にして来た店頭装飾の研究には何一つ手を染めていなかった。その代りに二人の女が生活にもつれて彼のこゝろを綾取っていた。一人は建築学校教授の娘カテリイヌ。一人は遊あそび女めのリサであった。それからまだその頃は東京に残して来た若い妻も新吉のこゝろに残像をはっきりさせていた。かえってそれが新吉の心にある為めに、フランスの二人の女の浸み込む下地が出来ていたとも言えよう。

七月一日の午後四時新吉は隣の巴里一流服装家ベッシェール夫人の小庭でお茶に招ばれていた。

――あなたに阿呆の第一日が来ましたわね。」

ベッシェール夫人は新吉の茶碗に紅茶をつぎながら言った。彼女は中年を過ぎていて、もう自分が美人であることを何とも思わなくなっているような女だった。この夫人にそういう淡泊な処もあるので随分突飛な事や執しつこい目に時々遇っても新吉は案外うるさく感じないで済んでいる。

――まったく七月に入って巴里にいると蒼空までが間が抜けたような気がしますね。」

彼女は漠然とした明るく寂しい巴里の空を一寸見上げて深い息をした。新吉は菓子フォークで頭を押えるとリキュール酒が銀紙へ甘い匂いを立てゝ浸み出るサワラを弄もてあそびながら言った。

――一つは競馬が終ってしまったせいでしょうか。」

ロンシャンの大懸賞グランプリも、オートイユの障害物競馬も先週で打ちどめになった。

ベッシェール夫人は藤のテーブルの上へ置いた紅茶の瓶口の下についている雫しずく止めのゴム蝶の曲ったのを、一寸ちょっと直し、濡れた指を手首に挟んだハンカチで拭くとその手をずっと伸して新吉の顎にかけて自分に真向きに向かせる。

――さあ、そんな他所事よそごとばかり言ってないでもう仰おっしゃいな。なぜ今年は巴里祭に残っているかって言うことを。あたしはどうもたゞの残り方じゃないと睨にらんでいるのよ。様子だってふだんと違っていらっしゃるわ。」

新吉は気が付いて見ると成程此のテーブルへ来て二十分ほど経つのに顔をうつ向けてばかりいた。今更あわてゝ眼を二つ三つ瞬いて空や庭を見廻す。刈り込んだ芝生に紅白の夏花が刺繍ししゅうのように盛上っている。

――まるで子供ね。胡麻化すつもりでいらっしゃる。」

夫人は狡ずるそうに微笑しながら暫らく新吉の顔を見詰めた。この青年に恋して居るというわけではない。然しこの青年がもし他の女に恋しているとでもなったら嫉妬から彼女の気持ちの向きがどう変るかも判らない。いびつな夫婦生活ばかりして来て、とうとうそれも破れて仕舞った此の老美人の悲運が他人の性愛生活にまで妙な干渉を始めるようになっていた。

新吉は巴里の女に顎をつまゝれる事位いには慣れ切って居る。新吉は落着いて煙草ケースから一本取出して投げやりに口に銜くわえた。夫人にも一本勧めて、それからライターで二人の煙草に火をつける。二人の口から吐く最初の煙のテンポが同じだったので、それがおかしかった。二人は笑った。寛くつろげられた気持ちに乗って夫人はこんなことを言った。

――どうしてもあなたが言わないなら、あたし嫌味なことを言いますよ。あんたまさかあたしの為めに巴里にお残りになるんじゃないでしょうね。」

新吉は折角さら〱と説明出来そうに思えていた今の一瞬の気持ちをこの言葉で閉じられてしまった。もし夫人のこの悪ふざけの言葉に応答えする調子で自分の企てを話したら気持ちの筋道は飲み込ませられるかも知れないがその実質はとても覚束ない。それほど今度の思い立ちは情緒の肌理きめのこまかいものだ。いまはむしろ小説なら表題を告げて置くだけの方がこの女の親しみに酬いる最も好意ある方法だ。それで新吉は砂糖を入れ足すのを忘れている甘味の薄い茶を一杯飲み乾すとこう言った。

――マダム。僕はね。料理にしますとあまりに巴里の特別料理スペシアリテを食べ過ぎました。それでね。普通の定食料理ターブル・ドートが恋しくなったんです。」

夫人の調子は案の定、今口に出した思い付きの一言に煽あおられてそれ者らしい飛躍を帯びて来た。

――じゃ。お祭りに出た女中さんでも引っかけ、世間並の若い衆になりたいとでもおっしゃるの。」

――まさかね。でも今あなたの仰しゃった世間並には何とかして帰り度いのです。この儘じゃ全く僕は粋な片輪者ですからね。」

新吉のしんみりした物淋しさがあまり自然に感じられたので夫人の飛躍の調子がもとの地味にも落ち著けず、中途のところで鋭い鈍い浪を打った。

――何にしても四年間金鎖草の花を分けて眺めさしてあげたあたしの好意に対しても万事打ち開けるものよ。いつでもいゝからね。」

そんなさばけたもの言いをしながら夫人はぐっと神経質になって、新吉が帰ろうと立上りかけるときに門番がわざ〱此所まで届けて来た日本からの手紙を見ると、差出人は誰だかとくどく訊いた。新吉はそれが国元の妻からのものだと、はっきり答えた。

新吉は部屋へ帰ると畳込みになって昼はソファの代りをする隅のベッドの上被うわおおいのアラビヤ模様の中へ仰向けにごろりと寝た。ベッシェール夫人のところで火をつけた二本目の煙草を挟んだ左の手に右の手を手伝わせて妻からの手紙の封筒を切った。いつもの通り用事だけが書いてあった。それは市会議員の選挙に関するもので、その人選は新吉の実家も中に含んで魚市場全体の利害に影響があった。

新吉の留守中両親も歿なくなったあとの店を一人で預って、営業を続けている妻のおみちに取っては永い間離れていてこころの繋つながりさえもう覚束なく思える新吉でもやっぱり頼みにせずにはいられなかった。彼女はそれで故国の事情にはうとくなっている夫から明確な指図は得られないのを承知でしじゅう用件だけ報じて来た。うっかり感情的のことを書いて、西洋へ行ってひらけた人になっている夫に蔑まれはしないかという惧おそれもあった。彼女は手紙の文体を新吉の返事に似通わせてだん〱冷たく事務的にすることに努めた。新吉もその方を悦んで兎とも角かく彼女の手紙に一通り目を通すことだけはした。

しかし今度の手紙には新吉に見逃されぬものがあった。それは文面の終しまいの方に同じ淡々とした書き方ではあるがこういうことが書いてあった。

わたくし、此頃髪の前鬢まえびんを櫛くしで梳きますと毛並の割れの中に白いものが二筋三筋ぐらいずつ光って鏡にうつります。わたくしは何とも思いません。然し強いて人に見せるものでもなし、成るだけ櫛でふせて置くようにしております。

新吉はめずらしく手紙の此の部分だけを偏執狂のように読み返えし読み返すのをやめなかった。おみちはいつまでも稚おさな顔の抜け切らぬ顔立ちの娘であった。それ故にこそ親が貰って呉れた妻ではあったが日本に居るときの新吉は随分とおみちを愛した。新吉は一人息子であったので妹というものゝ親しみは始めから諦めていた。ところがおみちをめとって思いがけなくも妻と共に妹を得た。洋行前に新吉はおみちに実家から肩揚げのついた着物を取寄させてしじゅう着させたものだった。東京の下町の稲荷祭にあやめ団子を黒塗の盆に盛って運ぶ彼女の姿が真実、妹という感じで新吉には眺められた。

巴里に馴染むにつけて新吉は故国の妻の平凡なおさな顔が物足らなく思い出されて来た。

特色に貪慾な巴里。彼女は朝から晩まで血眼になって、特性キャラクテール! 特性キャラクテール! と呼んでいる。

妖婦、毒婦、嬌婦、瞋婦――あらゆる型の女を鞭打ってその発達を極度まで追詰める。

ミスタンゲット、――ダミヤ、――ジョセフィン・ベーカー、――ラッケル・メレール。「聖母マリアがもし現代に生れていたら」とカジノ・ド・パリの興行主は言った。「わたしは彼女を舞台へ誘惑することを遠慮しないだろう。」

始め新吉も女を見るにつけ、どの女からもおみちに似通うところを見付けて一つは旅愁を慰めもし、一つは強い仏蘭西女の魅力に抵抗しようとしていた。だがやがて新吉は一たまりもなく甲かぶとを脱がして巴里女に有頂天にならした出来事があった。新吉は建築学校教授の娘のカテリイヌに遇った。

秋もなかば過ぎた頃である。教授はその部屋には電気ストーヴが桃色の四角い唇を開けていた。それでいて窓の硝子戸は開け放されていた。うすい靄もやが月の光を含んで窓から部屋へ流れ込むと消えた。だいぶ馴染もついたからというので新吉が通って居た建築学校教授ファブレス氏が新らしい生徒だけを自宅の晩餐ばんさんに招いたのである。こんな古風な家が今でも巴里に残っているかと思えるようなラテン街の教授の家へ新吉は土産物の白絹一匹を抱えてはじめて行って見た。学課に身をいれなかったがまだ此の時分新吉は籍を置いた学校の教室へ表面だけは正直に通っていた。

主婦は歿なくなりでもしたと見え食事中も世話は娘のカテリイヌが焼いていた。新吉は此のカテリイヌのなかにもおみちを探そうとしてあべこべの違った魅力で射すくめられた。カテリイヌのあどけなさはおみちの平凡なあどけなさとは違った特色の魅力となって人にせまる。声は竪琴たてごとにでも合いそうにすき透っていた。そして位をもちつゝ行届いたしこなしに、斜に向い合った新吉は鏡に照らされるような眩まぶしい気配けはいを感ずるばかりで、とてもカテリイヌの顔をいつまでも見つめて居られなかった。

食事が済んで客はサロンへ移った。西洋慣れない新吉がろく〱食後のブランデイの盃をも挙げ得ないのを見て教授はしきりに話しかけて呉れた。日本の建築の話も少しは出た。だが酔の深くまわるにつれ教授は娘の自慢話を始めた。教授は想像される年齢よりもずっと若く見える性質なので二十三、四にもなるらしい大きなカテリイヌを娘と呼ぶのが不似合に見えた。ましてその娘の自慢の仕方はいくら酔の上と見ても日本人の新吉をはら〱させた。

――誰でも此の娘を見てシャルムされないものはないそうですよ。みんな、そう言いますよ。君もそう思いませんか。そしてよくこの娘は恋文を貰うのです。みんな真剣なものです。近頃も学校の卒業生でエジプトへ研究に行った男が二年間この娘に逢えないと思うと淋しくて仕方がないと手紙をよこして言って来ました。」

教授は娘を売りつけるつもりでこんなことを言うのか。それとも西洋人は妻や娘の自慢を露骨にするとかねて人から聴かされていたがこれは其の極端な現れなのか、新吉は返事に苦労しながら、一方それとなく教授の様子を探っていた。教授は、したゝるような父親の慈愛じあいの眼で娘の方を見やったが再び芸術家によくある美の讃美に熱中しているときの決闘眼はたしめで新吉に迫った。

――君は僕の言うことをまだ疑ってるようですね。そうだ。この娘の魅力は膝へ抱えてみると一層よく判るのだ。わたしは父としてよく知っている。君一つ抱いてみ給え。」

その前から父と新吉とのはなしを困惑と好奇心で顔を赧あからめながら聴いていたカテリイヌは父の振り向いた顔に強いられて少し浮腰のまゝ、気まり悪るげに左肩へ首をすぼめて、一たん逃腰になったが、父親ののがさない命令に急激な決心を極めた。彼女は一足跳ねたダンス足の左の靴の踵に、床を滑って右の踵が追い迫り、あなやと思う間にひらりと新吉の膝の上に彼女は乗っかった。新吉は柔いものゝ無限の重量を感じ、体は華やかな圧迫で却かえって板のように硬直して了った。

彼女は困惑から泌み出る自然の唐突さで言った。

――日本の娘さんは悲しそうに男の方にお逢いなさるそうですね。」

こういう場合に同席する西洋人等の態度も新吉には珍らしかった。そこにはルーマニアの男とカナダの男との他に五人の若いフランス人が居たが彼等は揃って、さも好もしいものを見るという幸福な顔をして二人の組合せ像を眺めた。

その夜新吉の膝に加えられたカテリイヌの柔い重圧が新吉のメランコリーに深く泌み込んで仕舞ったのを新吉はいまいましく思いながら、まぼろしのようにその夜教授の部屋の窓から眺めた月光を含む靄の中からサンミッシェル街の灯影を思い泛うかべて、秋の深まり行く巴里の巷ちまたを幸福と懊悩おうのうに乱れ乍ながらさまよい歩いた。斯こうしてカテリイヌと二度会う機会を待っているうちに新吉は思いがけなく遊び女のリサと逢って仕舞った。

新吉は寝椅子の上でおみちの手紙を状袋にしまった。それから手を伸して貴金属商アンドレの店頭装飾写真の入っている額椽がくぶちのうしろへ挟んだ。十年以上も無視していたおみちが急に蘇って来たのはどうしたわけだろうか。たった二三行の手紙の文句で日本へ帰る思いが燃え立ったのはどうしたわけだろうか。おみちのあのおさな顔が其のまゝでちらほら白髪が額にほつれて来た。此の報告が巴里の生活で情感を磨みがき減らして無感覚のまゝ冴え返っている新吉の心に可なりのさびしみを呼び起した。おみちがたゞ年老いて行くことだけでは憐れとも思わない。あの眼も口も篦へらで一すくいずつ平たい丸みから土をすくっただけで出来上っている永遠に滑らかな人形のような顔。それに時が爪をかけはじめたのだ。ざまをみるがいゝ。滑稽だ。残忍な粋人の感情だ。妻に侮辱と嘲笑とに価する特色を発見出来るようになって始めて惻々そくそくたる憐れみと愛とが蘇るというのだ。淋しくしみ〲と妻を抱きしめる気持になれたのだ。何たる没情。何たる偏奇。新らしい陶器やきものを買っても、それを壊こわして継目つぎめを合せて、そこに金のとめ鎹かすがいが百足むかでの足のように並んで光らねば、その陶器やきものが自分の所有になった気がしないといったあの猶太ユダヤ人の蒐集家サムエルと同じものを新吉は自分に発見して怖おそろしくなった。あのとろんとして眼窩の中で釣がゆるんだらしく、いびつにぴょく〱動いている大きな凸眼、色素の薄くなった空色の瞳は黄ろい白眼に流れ散ってその上に幾条も糸蚯蚓いとみみずのような血管が浮き出ている。あのサムエルの眼はやがて自分の眼であるに違いない。

部屋の中の家具に塗ってあるニスが濡れ色になって来て、銀色の金具は冷たく曇った。もうたそがれだ。新吉はいつもの生理的な不安な気持ちに襲われ胃嚢いぶくろを圧おさえながら寝椅子から下りた。早くアッペリチーフを飲みたいものだ。八角テーブルの上に置いてある唇草くちびるそうの花が気になって新吉はその厚い花弁を指で挟んではテーブルの周囲を揃わない歩調でぶら〱歩いた。窓から見える塀の金鎖草の蔓の一むらの茂みが初夏の夕暮の空に蓬髪のように乱れ、その暗い陰の隙から、さっき茶を呑んだ隣のベッシェール夫人の庭の黄ろい草が下方に小さく覗かれる。あれから夫人はまた多少のヒステリーを起し、いつもよくやるようにピカ〱光る裁縫鋏ばさみの冷たい腹を頬に当てゝ、昔訣わかれた幾人もの夫の面影を胸の中に取出し、愛憎交々こもごもの追憶を調べ直しているのではあるまいか。夫人の最後の夫ジョルジュには夫人はまだ未練があるようだ。そのせいかジョルジュの話をするときに夫人は一番新吉に粘ねばりつく。

新吉は窓に近く寄ってみた。雲一つなく暮れて行く空を刺していた黒い鉄骨のエッフェル塔は余りににべも無い。新吉はくるりと向き直って部屋の中を見た。友達のフェルナンドが設計して呉れたモダニズムの室内装飾具は素っ気ないマホガニーの荒削りの木地と白真鍮の鋭い角が漂う闇に知らん顔をして冷淡そのものを見るようだ。フェルナンドは若くて死んだアルザス人だ。夭逝ようせいした天才の仕事には何処か寂しいエゴイズムが閃ひらめいているものだ。

新吉はこの部屋へ今にも訪ねて来る約束のリサに会い度くなってしまった。新吉は一応内懐の紙入れを調べて帽子を冠りドアーを開け放して来てから、椅子に腰掛けてリサを待ち受けた。いら〱した貧乏ゆすりが出た。そうしながらも新吉は残酷と思いながらしきりにおみちのおさな顔に白髪の生えた図を想像した。

家鴨料理のツール・ダルジャンでゆっくりした晩餐ばんさんをとった後、新吉とリサとは直ぐ前のセーヌ河の河岸に沿って河下へ歩き出した。酔った新吉をリサは小児のようにいたわっていた。

リサは健康で牛のような女だった。新吉が彼女に逢ってから十年近くも経つのに彼女は相変らず遊び女を勤めている。リサに言わせると遊び女は母性的な彼女の性格には一番相応ふさわしい職業だといっている。彼女は巴里へ来たての外国人の男たちを何人となく巴里に馴染むまでに仕立て上げる。男達はそれまで彼女の厄介になると彼女から離れる。そしてもっと気の利いた面白い女へ移る。然し彼女はすこしも悪びれず男を離してやって、また次の初心うぶな外国人を探し出す。離れてしまった男たちも時が経つとやっぱり彼女に懐しみを蘇えらせて来て彼女と交際つきあうようになる。そのときは彼女をみんな「おばさん」と呼んでいる。彼女もそのときはおばさんの立前になっていろいろ親切に世話をやくのであった。

河堤の古本屋の箱屋台はすっかり黒い蓋をしめて、その背後に梢を見せている河岸の菩提樹ぼだいじゅの夕闇を細こまかく刻きざんだ葉は河上から風が来ると、飛び立つ遠い群鳥のように白い葉裏を見せて、ずっと河下まで風の筋通りにざわめきを見せて行く。ルーブル博物館を中心に肩を高低させている向う岸の建物の影は立昇る河霧にうっすり淡色の夕化粧を見せて空に美しい輪廓を際立たしている女の横顔プロフィールのようだ。その空はまた一面に紫薔薇色の焔を挙げて深まろうとしている。闇を掻き乱そうとしている。黄、赤、青のネオンサインは街の中空へ「夏はドウヴィルへこそ」とアルファベットを綴っている。

――…………

――まあお聞き……。というわけでね。さっきから言ったようにね。巴里祭キャトールズ・ジュイエにはあたしが見つけてあげたその娘をぜひ一緒に連れてお歩るきなさい。」

リサはがっちりした腕で新吉の腕を自分の脇腹へ挟みつけながら言った。新吉はステッキも夏手袋も自分が引受けて持っている。

――…………

――いくら処女心ヴァジン・ソイルが恋しいからといって、その昔のカテリイヌの面影を探しながらお祭りを見て歩るこうなんて、そりゃあんまり子供っぽい詩よ。そんなことであんたのようなすれっからしに初心うぶな気持ちの芽が二度と生えると思って。」

新吉の酔って悪るく澄んだ頭をアレギザンドル橋のいかつい装飾とエッフェル塔の太い股を拡げた脚柱とが鈍重に圧迫する。新吉はそれらを見ないように、眼を伏せて言った。

――おい後生だから、もう一音階オクターヴ低い調子で話して呉れないか。その調子じゃ、たとえ成程とうなずきたいことも先に反感が起ってしまうよ。」

――あら。そんなにひどい神経になっているの。まるで死ぬ前のフェルナンドのようだわ。」

リサは闇の中に顔を近づけて覗き込みながら言った。さも哀れに堪えないように中年近い女の薄髭の生えた、厚身の唇が新吉の頬に迫って来たので新吉は顔を避けた。

――いよ〱もってあたしの探したあの娘をあなたのものにすることをお勧めするわ。何事も女で育って行く巴里では、たとえ女に中毒したものも、それを癒すにはやっぱり女よ。もしあたしがもう七ツ八ツ若かったらこんな手間暇は取らせませんのにね。」

リサは今しがた新吉に意見したのとはあべこべなことを平気で言った。二人はアレギザンドル橋を渡った。春秋に展覧会の開かれるグラン・パレーの入口は真黒く閉しまっていて、プチ・パレーの方に波蘭ポーランドの工芸品展覧会の雪の山を描いたポスターが白い窓のように几帳面きちょうめんな間隔を置いて貼られてある。婆娑ばさとした街路樹がかすかな露気を額にさしかけ、その下をランデ・ヴウの男女が燕のように閃いてすれ違う。新吉は七八年前、五色の野獣派の化粧をしてモンマルトルのペットだったリサを想い泛べた。がっちりした彼女の顔立ちにそれがよく似合った。当時彼女はあるキャフェで新吉からカテリイヌに対する悩みを聴いたとき新吉の鼻をつまんで言った。

――そんな恋はありきたりよ。愛なんかちっとも無い二人同志の間に技巧で恋を生んで行くのが新しい時代の恋愛よ。」

彼女が裸に矢飛白やがすりの金泥を塗って、ラパン・ア・ジルの酒場で踊り狂ったのは新吉の逢った二回目の巴里祭キャトールズ・ジュイエの夜であった。彼女は其の後だん〱奇嬌ママな態度を剥いで持ち前の母性的の素質を現して来たが、折角同棲した若いフェルナンドに死なれてから男に対して全く憐れみ一方の女となった。

――君もあの時分は元気だったなあ。」

そう言うと流石さすがに彼女も悵然ちょうぜんとしたらしい様子のまゝしばらく黙った。二人は並木のシャン・ゼリゼーまで出たが闇一筋の道の両はずれに一方はコンコールドの広場に電飾を浴びて水晶の花さしのように光っている噴水を眺め、首を廻らして凱旋門通りの鱗うろこのように立ち重なる宵よいの人出を見ると軽い調子になって彼女は言った。

――無理のようだがそうすると、あんた決めておしまいなさいね。きっと結果がいゝから。そしたらあたしその娘を巴里祭の日に、まったく自然のようにあなたに遇わせてあげますから。あなたは只その日お祭りを楽しむ町の青年になって、朝自分の家を出なさるだけでいゝのよ。」

そこでステッキと手袋を新吉に押しつけるとリサは簡単に、

――ボン、ソワール。」

と行きかけた。新吉が、

――ちょいと待って呉れ給え。国元の妻のことに就いてすこし話したいんだが。」

とあわてゝ言うと、リサは逞ましい腕を闇の中に振って指先を鳴らした。

――もう、あんたのことはみんなその娘に譲りましたよ。」

リサは男のように体を振り乍ながら行って仕舞った。

明日の祭の用意に新吉も人並に表通りの窓枠へ支那提灯を釣り下げたり、飾紐かざりひもで綾あやを取ったりしていると、下の鋪石からベッシェール夫人が呼んだ。

――結構。結構。巴里祭万歳。」

新吉は手を挙げて挨拶する。

――あなたのところに綺麗な国旗ありまして。若しなければ――。」

そう言いさして夫人は門の中へ消えたが、やがて階段を上って来て部屋の戸をノックする。

新吉が開けてやると、しとやかに入って来て、

――剰あまったのがありますから貸してあげますよ。」

それから屈托くったくそうに体をよじって椅子にかけて八角テーブルの上に片肘つきながら、新吉の作った店頭装飾の下絵の銅版刷りをまさぐる。壁の嵌はめ込み棚の中の和蘭皿の渋い釉薬うわぐすりを見る。箔押はくおしの芭蕉布のカーテンを見る。だが瞳を移すその途中に、きっと、窓に身をかゞまして覚束なく働いている新吉の様子を油断なく覗っている。何か親密な話を切り出す機会を捉えようとじれているらしい。新吉はどたんと窓から飛下りて掌に握ったじゅう〱いう鳴声を夫人の鼻先に差出した。

――小さい雀の子。」

夫人は邪魔ものゝように三角の口を開けた子雀の毛の一つまみを握り取って煙草の吸殻入れの壺の中へ投げ込んでしまった。無雑作に銅版刷で蓋をする。

――おちついて、あなた、そこに暫らく坐って下さらない。」

新吉はちょっと左肩をよじって不平の表情をしてみたが名優サッシャ・ギトリーの早口なオペレットの台詞せりふを真似て、

――マダムの言いつけとあらば、なんのいなやを申しましょうや。茨の椅子へなりと。」

と言ってきょとんと其所へ坐った。

――いよ〱明日巴里祭だというので、いやにはしゃいでいらっしゃるね。さぞお楽しみでしょうね。」

新吉はぎくっとした。情事に就いては彼女自身はもうすっかり投げているのに他人の情事に対する関心はまたあまりに執拗だ。それにリサと夫人とは古い知り合いだから、ひょっとしたらリサの自分に対する明日のたくらみでも感づいたのではないか。新吉は油断をせずにとぼけた。

――あしたは世間並の青年になって手当り次第巴里中を踊り抜くつもりですよ。」

――そりゃ楽しみですね。国元の奥様のことを考えながら、その悩みをお忘れになりたい為めにね。」

鸚鵡おうむ返しのように夫人はこう言った。新吉は的が外れたと思った。自分の今の心を探って見るに、国元の妻からの手紙が来て以来、其のおさな顔に白髪のほつれかゝった面影が憐れに感じ出されたには違いない。然しそれと同時に今は明日はじめて逢う未知の娘、リサの世話して呉れる乙女にもまた憐れを催している。自分のように偏奇な風流餓鬼の相手になって自分から健康な愛情の芽を二度と吹かして呉れようとする無垢むくな少女。だがそれよりも新吉が一番明日に期待しているのはやっぱりあのカテリイヌに何処かの人ごみで逢うことだ。リサは子供っぽい詩と罵ったが今の自分としてはどうしても巴里祭の人込みの中で、ひょっとしたら十何年目のカテリイヌ――恐らく落魄らくはくしているだろうが――にめぐり遇あっていつか自分を順ママ致して奴隷のようにして仕舞った巴里に対する憎みを語りたい。自分を今のようなニヒリストにしたのは今更、酒とか女とか言うより、むしろ此の都全体なのだ。

此の都の魅力に対する憎みを語って語り抜いて彼女から一雫ひとしずくでも自分の為めに涙を流して貰ったら、それこそ自分の骨の髄ずいにまで喰い込んでいる此の廃頽はいたいは綺麗に拭い去られるような気がする。そしたら此の得体の解らぬ自分の巴里滞在期を清算して白髪のほつれが額にかゝる日本の妻のもとへ思い切りよく帰れよう。だがそれはまったく僥倖ぎょうこうをあてにしている、まるで昔の物語の筋のように必然性のないものゝようだ。然しこの僥倖をあてにする以外に近頃の自分は蘇生そせいの方法が全く見つからなかった。こうなるとあの建築学校教授が建築場で不慮の怪我で即死して、娘はエジプトへ行ってあの卒業生と結婚したとかしないとか噂だけで、行方が判らなくなったり、近頃やっと巴里にまたいるらしいという噂を突きとめたそれ以上のことが判らないのがまだ自分の不運の続きのように思え、また判らないことが却かえって折角たゞ一つ残って居る美しい夢を醒さないでいて呉れる幸福のように思えた。

新吉が金槌をいじりながら考え込んでいるのを見て夫人は意地悪くねじ込むような声で言った。

――あたったものだから黙っていらっしゃる。あたしは妙な女ですからそのつもりで聴いて下さいな。あたしあなたが只の遊び女と出来たのかなんかなら何とも思いませんの。けれど国元の奥さんを想い出すような親身な気持ちになった男の方にはお隣に住んでいて、じっとして居られませんの。あたしは寡婦やもめですからね。正直に白状すればとてもやきもちが妬やけますの。あなたのところへ奥さんの手紙が来た翌日からあなたの御様子が変ったように見えて。御免なさいな、病的でしょうか。でも仕方がないわ。正直に言わなけりゃ、もっとやきもちが、ひどくなりそうなの。つまりあなたは奥さんの所へ帰る前に最後の巴里祭を見て行き度いために巴里に今年は残ったのでしょう。喰いとめなけりゃ気が済まないわ。とても、明日の巴里祭をあなたに面白くして奥さんの所へなんか帰さない工夫をしなければならないわ。それで明日はあたしあなたと一緒について巴里祭に行くつもりよ。お婆さんと一緒じゃお気の毒だけれど。然しこうなれば目茶よ。だからどうぞ其のおつもりでね。」

夫人は冗談の調子で言って居るのだけれど、此の冗談には夫人の新吉への病的な関心が充分含まれて居るのだ。

――兎に角、明日は私とお遊びなさい。私あなたの自由に遊んで上げます。気に入った女が見つかれば一緒に歩いても上げますわ。」

夫人はこれも決定的な本心を含めた冗談で言った。

――どうぞ、まあ、よろしくおたのみします。」

新吉はつい弱気に言ってしまった。

――朝、お迎えに来るわ。」

夫人は遂々冗談を本当に仕上げて満足そうに帰りかけたが蓋をした灰殻壺の中の憐れっぽい子雀の籠った鳴声に気付くと流石さすがに戻って、

――可哀想なことをしたのね。これあたし頂戴いただいて行きますわ。」

壺のまゝ雀を持って夫人は出て行った。夫人の後姿を見送って新吉はひとり小声で「うるさい婆さんだな」と云った。だが新吉は美貌な巴里女共通の幽かすかな寂さびと品格とが今更夫人に見出され、そして新吉はまた、いつも何かの形で人を愛して居ずにいられないこの種の巴里女をしみ〲と感じられるのだった。

眼を半眼、開いたまゝ鉛の板のように重苦しく眠り込んでいた新吉は伊太利イタリーの牧歌の声で目覚めた。朝の食事が出来たので、通い女中ロウジイヌが蓄音器をかけて行って呉れたのだ。野は一面に野気の陽炎かげろう。香ばしい乾草の匂いがユングフラウを中心に、地平線の上へ指の尖さきを並べたようなアルプス連山をサフラン色に染めて行く景色を、はっきりと脳裡に感じながら、新吉はだん〱意識を取戻して行った。牧歌が切れて濃いキャフェが室内の朝の現実のにおいとなって強く新吉の鼻に泌しみて来た。新吉は昨晩レストラン・マキシムで無暗にあおったシャンパンの酸味が爛ただれた胃壁から咽喉元へ伝い上って来るのに噎むせび返りながらテーブルの前へ起きて来た。吐気はきけに抵抗しながら二三杯毒々しいほど濃い石灰色のキャフェを茶碗になみ〱と立て続けに飲んだ。吐気はどうやら納って、代りに少し眩暈めまいがするほどの興奮が手足へ伝わり出した。空は晴れている。昨日自分が張り渡した窓の装飾の綾模様を透して向う側の妾町の忍んだような、さゝやかな装飾と青い空の色と三色旗の鮮やかな色とが二つの窓から強い朝日に押し込まれて来たように、新吉の眼を痛いほど横暴に刺戟する。立たなければよくも見分けられぬが恐らくベッシェール夫人の屋根越しのエッフェル塔も装飾していることだろう。

新吉は此の装飾の下に雑沓ざっとうの中でカテリイヌを探す自分のひと役を先ず頭に浮べたが次にリサがまたどういう工夫で今日の祭の街で自分に新らしい娘を送り届けるのか。自分につきまとうベッシェール夫人とそれがどう縺もつれるか。考えると頭がすこし憂鬱になった。

ゆうべはマキシムで偶然ベッシェール夫人の最後の夫ジョルジュに遇った。彼は新吉がベッシェール夫人の隣へ引越して来て間もなく夫人と喧嘩して出て行ったので、新吉とはたいした馴染なじみもなかったが新吉を見付けると懐かしそうに寄って来て無暗と酒を勧めた。彼は夫人の家にいたときからみると、ずっと若返ったようだ。彼は新らしい妻だといって若い女を紹介した。その女はたゞ若くて十人並の器量で、はしゃいでいるような女だった。何処か間の抜けている性質のようにも見えた。それで二人は大ぴらでベッシェール夫人の話をした。ジョルジュは新吉を酔わせて夫人の悪口でも言わせようという企みが見えた。新吉は其の手には乗らなかった。すると遂々彼は夫人に未練を残していることを白状して、

――あんな洒脱しゃだつな女はありませんよ。あれと暮して居ると、本当に巴里と暮しているようですよ。六日間も自転車競争場の桟敷で、さばけた形なりをして酒の肴のザリ蟹を剥いてるところなぞ一緒にいてぞっとする程好かったですよ。」

こんな言葉を連発するようになった。だがしまいには彼は問わず語りにこんな事を言った。

――たゞあの女の鋏はさみがね。あの鮫さめの腹いろに光る鋏がね。あなたもお隣りなら随分気をおつけなさい。もっともあの鋏の冴えが、あの女の衣裳芸術の天才の光なんだが……なんにしても男をいじめては男に逃げられるのが気の毒な女さ。」

彼は終りを独言にして溜息をして訣わかれて行った。

そういうこともあったので、ゆうべ新吉は折角の自分の巴里祭を夫人に乱されることを恐れて、どうして夫人を出し抜いたものかと、うと〱考えながら寝た。家へ帰らずにしまえばそれまでだが、それもなんだか卑怯に思えるし、夫人に気づかれて後の祟たたりも恐ろしかった。出来ることなら男らしくきっぱりと断って、あすの朝は一人で自分の家を出て行きたいものだと考え定めながら、いつか眠りに陥ったのであった。だが、段々部屋中を華やかに照らしだす日の光を眺めるとカテリイヌも、リサの送る娘も、ベッシェール夫人も全すべて、そんな事はどうでもよくなって来た。たゞ早く町の割栗石の鋪道に固いイギリス製の靴の踵かかとを踏み立てゝ西へ東へ歩き廻りたい願いだけがつき上げて来た。

顔を洗って着物を着代えているとどこからともなく古風で派手なワルツが凪ないだ空気へ沖の浪のなごりのように、うねりを伝えて来る。後からそれを突除けて、ジャズが騒狂な渦の爆発の響を送る。祭は始まった。表通りを大人連のおしゃべりの声。子供達の駆けて行く足音。

白い帽子を手に取って姿鏡の前に立って自分の映像に上機嫌に挨拶して新吉は、其の癖やはり内心いくらか憂鬱を曳きながら部屋を出た。入口の門番コンシェルジュの窓には誰も居なくて祭の飾りの中にゼラニウムの花と向いあって籠の駒鳥が爽さわやかに水を浴びていた。

割栗石の鋪石ママへ一歩靴を踏み出す。すると表の壁の丁度金鎖草の枝垂しだれた新芽が肩に当あたるほどの所で門番コンシェルジュのかみさんと女中のロウジイヌとがふざけて掴み合っていたのが新吉の姿を見ると急に止めて笑いながら朝の挨拶をした。それから隣のベッシェール夫人の家に向って、

――奥さん。うちのムッシュウがお出かけですよ。」

と声を揃えてわめいた。

ちゃんと打合せが出来ていたものと見え、すっかり着飾ったベッシェール夫人は芝居の揚幕の出かなんぞのように悠揚ゆうようと壁に剔くってある庭の小門を開けて現われた。黒に黄の縞の外出服を着て、胸から腰を通して裳へ流れる線に物憎い美しさを含めている。夫人は裏にちょっと鳥の毛を覗かせたパナマ帽の頭を傾げて空の模様を見るような恰好をした。飽あくまで今日の着附けの自信を新吉に向って誇示しているらしかったが、やがて着物と同じ柄の絹の小日傘をぱっと開くと半身背中を見せて左の肩越しに新吉の方へ豊かな顎を振り上げた。眼は今日一日のスケジュールに就いて何の疑いをも持っていない澄んだ色をしている。遂々掴まったか――。新吉はそう思いながら夫人の傍へ寄って行って思わずいつもの礼儀どおり左の腕を出す。夫人は顎を引き、初めて笑った。

――若い奥さんではなくてお気の毒ね。」

と言ったが右の手を新吉の出した左の腕にかけるとまたさあらぬ態度になり、胸を張って歩き出した。新吉は夫人の顔にうっすり刷はいたほのかな白粉の匂いと胸にぽちんと下げているレジョン・ドヌールの豆勲章を眺めて老美人の魅力の淵の深さに恐れを感じた。

モツアルトの横町からパッシイの大通りへ突当ると、もうそこのキャフェのある角に音楽隊の屋台が出来ていて、道には七組か八組の踊りの連中が車馬の往来おうらいを止めていた。日頃不愛想だという評判のキャフェの煙草売場の小娘が客の一人に抱えられていた。まだ昼前なので遠くの街から集まって来た人達より踊り手には近所の見知り越しの人が多かった。それ等の中には革のエプロンの仕事着のまゝで買物包みを下げた女中と踊っている者もあった。彼等は踊りながら新吉と夫人に目礼した。キャフェの椅子は平常よりずっと数を増して往来へ置き出されていた。一しきり踊りが済むと狭く咽喉のようになった往来へ左右から止まっていた自動車や馬車がぞろ〱乗り出した。街路樹のプラタナスの茂みの影がまだらに路上にゆらめいた。

――すっかりお祭りね。」

老美人は子供のようなはしゃぎかたさえ見せて、喧騒の渦の音が不安な魅力で人々を吸い付けている市の中心の方角へ、しきりに新吉を促うながし立てた。

晴れた日と鮮かな三色旗と腕に抱えている老美人との刺戟に慣れて来ると新吉は少し倦怠けんたいを感じ出した。すると歩調を合せて歩いている自分等二人連れのゆるい靴音までが平凡に堪えないものになって新吉の耳に響いた。

――しつこい婆につかまって今日一日無駄歩きしちまうのだ。」

弾力を失っている新吉の心にもこの憤りが頭を擡もたげた。キャフェの興奮が消えて来た新吉の青ざめた眼に稲妻形に曲るいくつもの横町が映った。糸の切れた緋威ひおどしの鎧よろいが聖アウガスチンの龕トリプチックに寄りかゝっている古道具屋。水を流して戸を締めている小さい市場。硝子窓から仕事娘を覗かしている仕立屋。中産階級の取り済ました塀。こんなものが無意味に新吉の歩行の左右を過ぎて行った。新吉は子供の時分奮い立った東京の祭のことを思い出した。店のあきないを仕舞って緋の毛氈もうせんを敷き詰め、そこに町の年寄連が集って羽織袴で冗談を言いながら将棊しょうぎをさしている。やがて聞えて来る太鼓の音と神輿みこしを担ぐ若い衆の挙げるかけ声。小さい新吉は堪らなくなって新しい白足袋のまゝで表の道路へ飛び下りるのだった。縮緬ちりめんの揃いの浴衣の八ツ口から陽ひにむき出された小さい肘に麻だすきへ釣り下げたおもちゃの鈴が当って鳴った。

気分というものは不思議に遇合することがあるものだ。ベッシェール夫人もこどもの時代のことを想い出した。

――あたしね。九つの歳の巴里祭に母に連れられてルュ・ラ・ボエシイを通るとね。ベレを冠った鬚ひげの削そりあとの青い男に無理に掴まって踊らされてね。その怖ろしさから恋を覚え始めたのよ。今でもベレを冠った鬚の削りあとの青い男を見ると何んだかこわいような、懐かしいような気がするのよ。」

横町と横町の間を貫く中通りにはブウローニュの森の観兵式を見物した群集のくずれらしいかなり多勢の行人の影が見えた。その頭の上に抜きん出て銀色に光る兜かぶとのうしろに凄艶せいえんな黒いつやの毛を垂らしている近衛兵が五六騎通った。

――あんた、まさか奥さんの手紙を懐に持って出ていらしたのじゃないでしょうねえ。」

夫人の想出話に対して新吉の返事がはかばかしくないので、夫人は急にこんなことを言い出した。新吉は危ないと思って、

――あんたこそ、ジョルジュ氏のムウショワールでもバッグへ入れてやしませんかね。」

と逆襲した。すると夫人は新吉の腕から手を抜いて肩を掴え、

――あたし、そういう情味のはなし大好きですわ。」

と言って夫人は、更あらためて新吉の頬に軽く接吻した。新吉は斯こういう馬鹿らしいほど無邪気な夫人に今更あきれて、やっぱり憎み切れない女だと思った。

目的もなく昼近い太陽に照りつけられながら、所々に道一杯になって踊る群衆に遮さえぎられ、または好奇心から立止まってそれを眺めたりしている内に、二人は元へ戻るような気のする坂道を登りかけて居るのを感じた。道のわきに柵があって、その崖の下の緑樹の梢を越してトロカデロ宮殿の渋い円味のある壁のはずれを掠かすめて規則正しくセーヌへ向けてゆるやかな勾配を作っている花壇の庭が晴々しく眺められた。庭の勾配が尽きて一筋の長閑な橋になり、橋を跨またいでいる巨人の姿に見えるエッフェル塔は河筋の水蒸気のヴェールを越しているので、いくらか霞んで見える。振り仰いで見ると流石に大きかった。太い鉄材の組合せの縞が直じきに平らな肌になり、細く鋭く天を衝つく遥かな上空の針の尖さきに豆のような三色旗が人を馬鹿にしたようにひらめいていた。再び眼を地に戻して河筋を示す緑樹の濃淡に視線が辿りつくと頭がふら〱した。新吉は言った。

――まだ、やっと此所までしか来てないじゃありませんか、すこし休んで、それから、ちっとはスケジュールを決めて町を見物しようじゃありませんか。」

――子供のようになってアイスクリームを飲みましょうよ。」

白にレモン色の模様をとった屋台車を置いてアイスクリーム売りのイタリー人が燕のひるがえるのを眺めていた。

新吉と夫人が往来に真向きに立ちはだかって互に顔で、おどけ合いながらアイスクリームの麩のコップを横から噛みこわしていると、二人が上って来た坂の下から年若な娘が石畳の上へ濃い影を落しながら上って来た。娘は二人の傍へ来ると何のためらう色もなく訊いた。

――バスチイユの広場へ行くのはどう行ったらいゝでしょう。」

娘の言葉にはロアール地方の訛なまりがあった。手に男持ちのような小型の嚢ふくろを提げていた。

夫人は娘の帽子の下に覗いている巻毛にまず眼をつけ、それから服装なりを眼の一掃きで見て取った。夫人の顔には惨忍な好奇心がうねった。

――ははあ、おまえさん巴里祭を見物しなさるのね。此所からバスチイユなんて、まるで反対の方角よ。――あんた、いつ巴里へ出て来なさった。」

――半年ほどまえですの。」

――連れて歩るいて呉れるいゝ人はまだ出来ないの。」

――あら、いやだわ。」

――いやだわじゃないことよ。そんないゝきりょうをしている癖に。」

巴里祭といえば誰に何を言おうが勝手な日なのだ、そうすることが寧ろ此の日に添った伝統的な風流なのだ。

娘は白痴じゃないかと思われるほど無抵抗な美しさ、そして、どこか都慣れたところがあった。新吉はてっきりリサの送った娘と見て取った。そして夫人となれ合いの芝居ではないかと警戒し始めたが、夫人はどうしても娘に始めて逢った様子である。そして好奇心で夢中になっている。

――おまえさん、今日のお小遣いいくら持ってなさる。」

――八十フランばかり。」

――おまえさん恰好の娘さんの一人歩きには丁度いゝ額たかだね。」

夫人は分別くさい腕組みをして娘を見下ろした。新吉は夫人に気取られる前に先手に出て娘に言った。

――もしよかったら僕達と今日一緒に遊んで歩かないか。勿論費用は全部こっち持ちだよ。」

娘が下を向いて考えてる間に夫人は新吉に奥底のある眼まぜをして見せた。新吉は度胸を極きめて、それに動ぜぬ風をした。

――奥さん僕は此の娘を連れて歩きますよ。あなたと二人では、ひょっと喧嘩でも始めるといけませんからね。」

新吉の日本人らしい決定的な強さに圧された。その上夫人は娘の前で気前を見せる虚栄心も手伝って案外あっさり承知した。新吉は夫人のしつこさに復讐したような小気味よさを感じたが、年若な娘の放散する艶々つやつやしい肉体の張りに夫人の魅力が見る〱皺まれて行くのも気の毒だった。

タクシーでオペラの辻まで乗りつけて、そこからイタリー街へ寄った、とあるキャフェで軽い昼食を摂りながら娘に都大路の祭りの賑にぎわいを見せていると、新吉はいろ〱のことが眼の前の情景にもつれて頭に湧いた。あのトロカデロの坂道の崖の下あたりにリサが潜んでいて娘に自分達の後を追わせたのではなかろうか。それにしても、よくもこう注文にふさわしい娘を探し出したものだ。娘はどういう風ふうにリサから話し込まれたか知らないが、芝居をしているとも見えぬ程の自然さでこの芝居をこなしている。芝居をしながら、ちっとも本質を覆おおわない身についている技巧はまったくフランス娘の代表とも思われるほど本能の味わいを持って居る。娘はフォークの尖にソーセージの一片と少しのシュークルートの酢漬けの刻きざみキャベツをつっかけて口に運びながら食卓に並んだ真中の新吉を越して夫人に快濶かいかつに話している。新吉はだんだん夫人と娘の様子を見て居るうちに夫人とも此の娘の出現がかねて何かの黙契もっけいを持って居たのではなかろうかとさえ思われ始めた。

リサと友達の此の夫人が、或いは昨日か昨夜かのリサとの謀計で此の娘が出現したのではなかろうか。それにしても娘は夫人に初対面のように語る。名をジャネットと言って巴里の近郊に沢山ある白粉工場で働いて居るはなし。国元はロアールの流れの傍で、飼兎の料理と手製の葡萄酒で育ったはなし。それを新吉にも聞えるように娘は話して居るのである。

娘は少しおかめ型の顔をしてマネキン人形のような美しさに整ととのい過ぎているようだが、頬や顎のふくらみにはやっぱり若さの雫しずくが滴したたっていた。彼女は食事中にやれ芥子からしの壺を取って呉れの、水が飲みたいのと新吉に平気で世話を焼かせ、あとはまた新吉を越してベッシェール夫人と話し続けて行く。新吉は苦笑した。

なりは大きいがまだ子供だ。此の子供の何処に感情の引っかゝりがあるのだ。リサは余りに若いのを選むのに捉われ過ぎた。新吉はジャネットの均一ものゝ頸飾りをちょっとつまんで、

――これよく似合うね。君に。」

――でも、これはほんの廉やすものなの。こちらのマダムのなんか見ると、まったく悲しくなるわ。」

新吉はこの娘はまだ十七に届いていない年頃なのに相当、人の機嫌をとることにも慣れて居るのに驚いた。夫人も上機嫌で娘に言った。

――あんた、せい〲此のムッシュウの気に入るように仕掛けて、あたしのような首飾りを買ってお貰いなさいよ。」

新吉の日本の妻にさえ嫉妬する夫人が眼の前の此の娘の出現にこんなに無関心で居られる――娘といい、夫人といい、巴里の女の表裏、真偽を今更のように新吉は不思議がった。遊戯のなかに切実性があり、切実かと思えば直ぐ遊戯めく。それにしても上流中流の人達が留守にした巴里の混雑のなかに、優雅な夫人と、鄙ひなびて居ても何処か上品な娘を連れた新吉の一行は人の眼についた。

昼の食事の時刻も移ったと見えて店内の客はぽつ〱立上って行く。男女二人ずつ立って行く姿が壁鏡に背中を見せる。給仕ギャルソンがブリオーシュ(パン菓子)を籠に積み直してテーブルに腹匍はらばいになって拭く。往来の人影も一層濃くなって酒に寛くつろげられた笑い声が午後の日射しのなかに爆発する。群衆の隙から斜めに見えるオペラの辻の角のカフェ・ド・ラ・ペイには双眼鏡を肩から釣り下げたり、写真機を持った観光の外人客が並んで、行人に鼻を突き合せるほど道路にせり出して、之れが花の巴里の賑いかと気を奪われたような、むずかしい顔をして眺めて居る。行ったり来たりして、しつこく附纏う南京豆売り、壁紙売り。角のカフェ・ド・ラ・ペイとこっちのイタリー街の角との間は小広く引込んだ道になっていて、其の突当りがグランド・オペラだが此所からは見えない。たゞその前の地下鉄の停留所の階段口から人の塊が水門の渦のようになって、もく〱と吐き出されるのが見える。

暫らく雲が途絶えたと見え、夏の陽がぎらぎら此の巷ちまたに照りつけて来た。キャフェの差し出し日覆いは明るい布地にくっきりと赤と黒の縞目を浮き出させて其の下にいる客をいかにも涼しそうに楽しく見せる。他の店の黄色或いは丹色の日覆いも旗の色と共に眼に効果を現わして来た。包囲した鬨ときの声のような喧騒に混って音楽の音が八方から伝わる。

新吉は向う側の装身具店の日覆いの下に濃い陰に取り込められ、却かえって目立ち出した雲母の皮膚を持つマネキン人形や真珠のレースの滝や、プラチナやダイヤモンドに噛みついているつくりものゝ狆ちんや、そういう店飾りを群集の人影の明滅の間からぼんやり眺めて、流石に巴里の中心地もどことなくアメリカ人の好みに佞おもねってアメリカ化されているけはいを感じた。けば〱しい虎の皮の外套を着たアメリカ女。早昼食クイックランチ。「御勘定は弗ドルで結構でございます。」と書いた喰べ物屋のびら。筋向いのフォードの巴里支店では新型十万台廉売の広告をしている。

食後の胃のけだるさがそうさせるのか新吉の不均衡な感情は無暗に巴里の軽薄を憎み度くなってじれ〱して来た。その時ジャネットが彼を顧向ふりむいて夫人との間の話に合図を打たせようと身体を寄せて言った。

――どう。そうじゃなくて。ムッシュウ。」

しぼり立ての牛乳にレモンの花を一房投げ入れたような若い娘の体の匂いが彼の鼻を掠めた。すると新吉の血の中にしこりかけた鬱悶うつもんはすっと消えて、世にもみず〱しい匂いの籠った巴里が眼の前に再び展開しかけるのであった。新吉はその場にそぐわない、妙にしみ〲した声で返事をした。

――ほんとうにね。そうだとも、マドモアゼル。」

そして彼の憧憬的になった心にまたしてもカテリイヌの追憶が浮ぶのだった。そうだ彼女に遇いたいものだ。今日という日はその為めに待ち焦こがれていた日ではないか。彼はそう思いながら、ひとりでにジャネットの丸い肩に手をかけた。何時いつだったか、どの女だったか、彼の両肩に柔い手を置き、巴里祭のはなしをして呉れた感触を思い出した。

――ほんとにその日は若いものに取っては出合いがしらの巴里ですの。恋の巴里ですの。」

両肩の上に置いた其の女の柔い掌の堪こたえ、そして、かつてカテリイヌを新吉が抱えたときのあの華やかな圧迫。触覚の上に烙やきつけられた昔の記憶が今、自分が手を置いて居る若い娘の潤うるおった肩の厚い肉感に生々しく呼び覚まされると新吉の心は急に掻きむしられるように焦立たママって来た。思わず呼吸が弾はずんで来るのだった。にわかに弾はじいたように見ひらいた彼の瞳孔には生気の盛り上るイタリー街の男女の群の揉もみ合う光景が華々しく映った。太陽の熱に脹ふくれ上る金髪。汗に溶ける白粉の匂い、かんばかりで受け答えしている話声。女達の晴着の絹の袖をよじって捲きつけている男の強い腕。――だが結局新吉の遠い記憶と眼前の実感は一致しなかった。新吉の頭は疲れて早くどこかの人群ひとごみのなだれに押されて行って、其処で見出して思わず抱き合ってしまう現実のカテリイヌを見出したいと思った。傍の二人の女は其の時までの道連れだ。どれも向うからついて来た女達だ。自分の知ったことではない。この女達にあんまりこだわらないことにしよう。彼は弾んだ呼吸をすっかり太息といきに吐き出すと、ベッシェール夫人は冗談のように言った。

――レデーを二人も傍に置いときながら国元の奥さんの想い出に耽ふけるなんて、あたしたちに失礼だわねえ、マドモアゼル。さあ、もう此のくらいで出かけましょう。」

夫人は日傘とお揃いの模様の女鞄の中から手早く勘定を払った。

あたりの賑わしさを頭から叩き伏せるように力ずくの音楽が破裂している。それに負けまいとメリーゴーラウンドの台が浪を打って廻転する。此所ピギャールの角を中心に色々の屋台店が道の真中に軒を並べている。新吉と二人の女とはモンマルトルの盛り場の人混ひとごみへ互に肩を打当てゝ笑いさゞめきながら、なだれ込んだ。一軒の屋台では若者達が半身乗り出して、後へ上げた足に靴の底裏を見せながら、竿の糸でシャンパンの壜を釣ろうと競って居る。一軒の屋台では女を肩に靠もたせながら男が白い紙を貼った額がくを覗っている。鉄砲が鳴って女がぴくっとする刹那に額の白紙は破れて二人の写真が撮れているのだ。泣き出しそうな憂鬱な顔をして棒のように立っている運命判断の女。ルーレット球ころがし。その間にけばけばしい色彩で壁に淫靡いんびな裸体女と踏み躙にじられた黒人を描いて、思わせ振りな暗い入口が五六段の階段の上についている食しんぼう小屋ラ・バラック・ド・グウルユのようなものが混っている。

人々が此所へ来ると野性と出鱈目をむき出しにして、もっと〱と興味を漁あさるために揉み合う。球を投げ当てゝ取った椰子やしの実をその場で叩き割り、中の薄い石鹸色の水をごぼごぼ咽喉を鳴らして飲みながら職人風の男が四五人群集を分けて行く。

――ちょいと気を付けてよ。汁が跳ねかえってよ。まさかあんたがいゝ人になってあたしのよごれた靴下を買い直して呉れるわけでもなし――。」

――はい、はい、気を付けますよ。抱だき堪ごたえのあるお嬢さん――。」

ジャネットは此の人混ひとごみにあおられるとすっかり田舎女の野性をむき出しにしてロアール地方の訛なまりで臆面もなく、すれ違う男達の冗談に酬いた。白いむきだしの腕を張り腰にあて誇張した腰の振り方をし、時に相手によってはみだりがましくも感じられる素振りさえ見せて笑った。曲げた帽子の鍔つばの下からかもじの巻毛の尖きを引っぱりおろして右眉のすれすれに唾で貼りつけた。流石のベッシェール夫人も大ように見ていられなくなり嫌な顔して黙ってしまった。然しジャネットはそんなことぐらいを気にとめる様子もなくいよ〱発揮した。

――HEYヘイ!。」

何処で覚えたか下等な人を呼びかけるアメリカ語を使い、口笛を嚠喨りゅうりょうと吹いた。これほどの喧騒も混み合いも新吉がカテリイヌを追い求める心をまぎらわすことは出来なかった。午後になり時間がせまればせまるほど気があせり、まわりの形色も物音もぼっとなって夢の中を歩いているようで、広い巴里のなかの何処に居るとも知れぬカテリイヌの面影が却って現実のように眼の前にちらついた。其の面影は面長で、たゞ真白な顔――黒とも藍ともつかぬ睫まつげのなかに煙っている二つの瞳で、じっと見入られる、――言おうようない香りの高い、けだるい感じが新吉の手足の神経の末梢まで、浸み透り、心の底にふるえている男としての恥かしさと、妙な諧調を混え、新吉はやがて恍惚とした無抵抗状態になるのだった。花弁のように軽くて、無限の重さのあったカテリイヌの体重さえも太陽に熱くなったズボンの下の膝に如実に感じられるのだった。そしてだん〱新吉は疲れて行った。

新吉は堪らなくなった。彼を無意識に疲れさすその面影から逃れるためには現実のカテリイヌが早く出て来て呉れるか、もっと違った強力な魅惑が彼の注意を根こそぎ奪うかして呉れるのでなければならなかった。新吉は早くこの二人の女に別れて、カテリイヌを探す為めに今日の巴里祭の雑沓の中を駆け廻りたいような衝動にかり立てられた。また心の一方ではあまり空漠とした欲望を広い巴里に持ちあぐむ自分にあきれ返って、やけに酒でも飲みに連れの二人を誘うと立止まった。

――此の老ぶれビューコン餓鬼!。」

まだ初心うぶな娘の声をわざと蓮はすッ葉ぱにはしらせてジャネットが一人の男に叫んでいるのだった。そして其の男の手に持っていた風船玉を引ったくった。男は風船玉を奪い返すようなふりをしながらジャネットの手首を掴え、それから強い力で自分の方へ、くるりと廻して左に抱えてしまった。

――およしってば、連れがあるんだよ。」

流石に人中を憚はばかってジャネットは羽がいじめの下でわめいた。――わめき乍らジャネットが新吉の方へ救いを求めるように手を出したので、その方向を辿って男は新吉を見つけると、

――青二才だな。」

そう言って女を離した。それから新吉の傍まで来るとちょいと顔を覗いて、

――おまえ西班牙人スパニッシュか、しっぽりとやんな。」

巌丈な手で新吉の肩を痛いほど叩いて彼は行き過ぎた。中年過ぎた鬚ひげの削そりあとが青い男で、頬や眉の附根に脂肪の寄りがあり、瘤こぶの寄ったような人相だが、どこか粋いきでどっぷりと湛たたえた愛嬌があった。新吉はわれを忘れて見送った。あれ程の年をしながら青年のように女に対して興味が充実してる男が羨うらやましかった。新吉のようにもう夢のほか感情の歯の力を失ったものは彼のような男にすれ違っただけで自分の青白い寂寥せきりょうが感じられた。

ジャネットはと見ると人混みに紛まぎれ行く男の姿をいつまでも見送りながら群集に押されて新吉のそばまで来た。

――あたし今日、モンマルトル一のジゴロに声をかけられたのよ。」

そう言って彼女はやっぱり人に押されながら鏡を取り出して自分の風姿を調べた。

――あんたさえ居なかったら今日一日、あの人に遊ばせて貰えたかも知れなかったわよ。」

彼女の声には真実少し卑しい恨みがましい調子があった。すると彼女から遊離して居た新吉に急に反撥心が出て来た。彼は手荒くジャネットの露出むきだしの腕を握って二三度揺ゆすぶった。

――あたしと仲好くするんだ。またと他の男に振り向きでもすると承知しないよ。」

すると不思議にジャネットは素直になり手に風船玉を持ち乍ら新吉の腕に抱えられにっこり彼の顔を見上げて笑った。

其所へ一人で行き過ぎて、はぐれてしまったベッシェール夫人が戻って来た。

――あら、まだこんな所に居たの。仲好くするのもいゝが、あたしに内緒の相談だけは御免よ。」

新吉は夫人がひどく突然に自分の前に現れたのに眼を見張った。平常の巴里の優雅さを埋めかくして居る今日の祭の馬鹿騒ぎの中にベッシェール夫人は本当の巴里其のものゝ優雅さで新吉について歩いて居るのだ。新吉は夫人の心根がいとおしくなって来た。

人々の気の付かないうちに空は厚く曇ってしまって雲の裾とも思える柔かい雨が降り出した。バスチイユの広場に、やゝあわてた混雑が起る。並んでいる小さい屋台店が急いで店をしまいかけるのもあれば、どうしようかと判断し兼ねて居るのもある。香具師やしの力持ちの夫婦は肥った運動服のかみさんを先に立てゝ、のそ〱キャフェの軒の下に避難しに行く。その後に残した道のはたの大きな鉄唖鈴てつあれいを子供達が靴で蹴っている。

広場の中央と、遥か離れた町の片側とに出来ている音楽隊の屋台では却ってじゃん〱激しい曲を吹奏し出した。其の前で踊っている連中も雨を結局よい刺戟にして空を仰いで馬鹿笑いしたり、ひょうきんに首を縮めたりして調子づいて揉み合っている。傘をさして落着いて踊っている一組に、通りかかりの人がまばらに拍手を送る。

電車の軋きしる音、乱れ足で行き違う群集の影。たそがれの気を帯びて黒い一と塊りになりかけている広場を囲む町の家々に燦爛さんらんと灯がともり出した。

また疲れて恐迫症さえ伴う蒼ざめた気持ちになって新吉は此処まで来た。新吉のもはや何を想い、何に心をひかれる弾力も無くなって見える様子にベッシェール夫人は惨忍な興味を増した。老女の変態愛は自分も相当に疲れて居ながら新吉を最後の苧おがらのように性の脱けたものにするまで疲れさせねば承知出来なくなって居た。それにはジャネットの肉体的にも遊び廻るほど愈々いよいよ冴えて来る若さを一層強く示嗾しそうして新吉をあおりたてることに努める必要があると思った。

――どう⁉ この先きの貧乏街へ入って最後に飲んだり、踊ったりしない⁉ すっかり平民的になって。」

ジャネットに取ってもリサの言い付けで今日一日新吉について廻った使命の果ての結局の舞台が入用だった。彼女は猶予なく返事した。

――奇抜ね。それが本当に面白いわ。」

彼女は新吉の腕を引き立てゝ人を掻き分けながらルュ・ド・ラップの横町へ入って行った。

ただ燻くすぼれて、口をいびつに結んで黙りこくってしまったような小さい暗い家が並んでいた。漆喰壁しっくいかべには蜘蛛の巣形に汚点しみが錆さびついていた。どこの露地からも、ちょろ〱流れ出る汚水が道の割栗石の窪くぼみを伝って勝手に溝を作って居る。それに雨の雫しずくの集りも加わって往来にしゃら〱川瀬の音を立てゝいた。ベッシェール夫人は後褄を小意気に摘つまみ上げ、拡げた傘で調子を取り、二人から斜めに先に立って歩いて行った。立籠めた泥水の臭いとニンニクの臭いとを彼女の派手な姿がいくらか追い散らした。此の垢でもろけた家並の中に、まるで金の入歯をしたようにバル・デ・トロア・コロンヌだとか、バル・デ・ファミイユだとか、メイゾン・バルとか言うような踊り場が挟まっていた。ニスで赧黒く光った店構えに厚化粧でもしたような花模様が入口のまわりを飾っていた。毒々しいネオンサインをくねらせた飾窓の硝子には白墨で「踊り無料」と斜に走り書きがしてあった。之れは巴里祭の期間中これ等の踊り場がする、お得意様への奉仕であった。其の代りに彼等は酒で儲けた。どの踊り場の前にも吐き出す、乱曲を浴びながら肩を怒らしてズボンへ両手を突込んだ若者と、安もので突飛に着飾った娘達とが、ごちゃ〱していた。

よく見ると彼等はふざけ合ったり、いじめ合ったり、どこへ行こうか迷ったりしている。斯こんな場所に不似合な程、見優りのするベッシェール夫人がその踊り場の一つのブウスカ・バルへ傘をつぼめてつか〱と入って行くと彼等は話声を止めて振返った。そうして眼につく美少女のジャネットが物慣れた様子で新吉を引張るようにして次に入って行くと彼等の中の二三人は物珍らしさにあとを蹤つけて入った。

中はあんまり広くなかった。酒台スタンドに向き合って二列ほど裸テーブルと椅子の客席が取ってあった。其所を通って奥の突当りに十三坪ほどの踊り場があった。その周囲にも客テーブルが一列だけ並んでいた。三人の楽師がくしが狭いので壁の上方の差出しの窪みに追い上げられ、そこにおさまって必死になって景気をそえて居た。其の窮屈そうな様子は燕の巣へ人間を入れたようだった。巴里慣れた新吉にも斯ういうところは始めてだった。

――あの音楽家たちは一々梯子をかけて上あがり降りするのかね。」

――そんな呑気なことを言っているの。それよりも……。」

と歯痒ゆそうに返事をしながらジャネットは目につくほど踊り場の空気に呼吸を弾ませていた。三人は入口の通路から踊り場へ移る角のテーブルへ坐った。安酒のにおい、汗のにおい、食料脂のにおい、――、そういうものが雨で立籠められたうえ、靴の底から蹴上げられる埃と煙草の煙に混まじり合って部屋の中の空気を重く濁した。天井近く浮んだ微塵物にシャンデリアの光が射して桃色や紫色の横雲に見えた。よく見るとその雲は踊りのテンポと同じ調子に慄ふるえ、そして全体として踊りの環と同じ方向にゆる〱移っていた。布の端がこわばってめくれた新しい小型の万国旗が子供の細工のように張り渡されていた。それに比較して色紐やモールは、けば〱しく不釣合に大きい。

流石に胸もとがむかつくらしく白いハンケチを鼻にあてながら酸味の荒い葡萄酒を啜すすって居たベッシェール夫人も、少し慣れて来たと見えて、思い切ってハンケチをとった。すると彼女は忽ち鼻をすん〱させて言った。

――おや、茴香ういきょうの匂いがするよ。」

新吉の耳へ口を寄せて言った。

――こういう家にはアブサンを内緒に持っているという話よ。あなたギャルソンにすこし握らせてごらんなさい。」

夫人の言う通り給仕はいかにも秘密そうに小さいコップを運んで来た。夫人はそれを物慣れた手附きで三つの大コップへ分けて入れ角砂糖と水を入れた。禁制の月石色ムーンストーンの液体からは運動神経を痺らす強い匂いが周囲の空気を追い除けた。

――忘れるということは新しく物を覚えるということよ。酔うということは失った真面目さを取り戻すことよ。こういうことを若い人達は知らないことね。」

夫人は酒を悦たのし相そうに呑み乍ながら、こんな判らないことをジャネットに言いかけコップを大事そうに嘗なめ眼をつぶっている。

――あたし酔ったら此のムッシュウをあなたに譲らなくなるかも知れないわ。」

本気とも病的な冗談ともつかない斯こんな夫人の言葉も、ジャネットには気にかゝらない――ジャネットの若い敏感性がベッシェール夫人の人の好さを、すっかり呑み込んだらしかった。それよりか、つき上げて来る活気に堪えないとでもいうようにジャネットは音楽の変る度びに新吉を攫さらって場に立った。新吉はジャネットを抱えていて暫くは弾んで来る毬まりのように扱っていた。新吉にはもう今日一日のことは全て空しく過されて、たゞ在るものは眼の前の小娘を一人遊ばせて居るという事実だけだった。俺をニヒリストにした怪物の巴里奴が、此のニヒリストの蒼白あおじろい、ふわ〱とした最後の希望なんか、一たまりもなく雲夢のように吹き飛ばすのさ。とうとう今日の祭にカテリイヌにも逢わせては呉れなかった巴里だ。――新吉は恨みがましく眼を閉じて、ともすれば自分を引き入れようとする娘の浮いた調子をだん〱持て扱い兼ねて外はずしつゝ、外ずしつゝ、踊りは義理に拍子だけ合せるようになって仕舞った。こゝろに白しらけた以上に白け切って眼の裏のまぼろしに、不思議と魚の浮嚢うきぶくろ、餅の青黴あおかび、葉裏に一ぱい生みつけた小虫の卵、というようなものが代る〱ちらちら見え出して、身慄いが細い螺旋形らせんけいの針金にでもつき刺されるように肩から首筋を刺した。彼は首を仰向けにして、ぼんの窪くぼで苦痛を押えていると悲しい涙が眼頭めがしらから瞼へあふれずにひそかに鼻の洞へ伝って行った。「我が世も終れり。」というような感慨じみた嘆声がわずかに吐息と一緒に唇を割って出ると今度は眼の裏のまぼろしに綺麗な水に濡れた自然の手洗石ちょうずいしが見え南天の細かい葉影を浴びて沈丁花が咲いて居る。日本の静かな朝。自分の家の小庭の手洗鉢の水流しのたゝきに五六条の白髪を落して、おさな顔のおみちが身じまいをしている姿が見える。おみちばかりか自分も老の時期が来たのか。今宵こよいかぎり潔いさぎよく青春を葬ろうか。

新吉が幻覚の中をさまよっているのにも頓着なくジャネットは、しきりに元気で未熟な踊りの調子で新吉を追い廻していた。新吉がやっと気がついて、その調子に合せようとすると、案外狡ずるく調子を静め、それからステップの合間〱ママに老成ませたさゝやきを新吉の耳に聞かせ始めた。

――あんた。あたしと今日もう此所だけで訣わかれるつもり。」

――しかたがない。」

――やっぱりカテリイヌのこと忘れられないと見えるのね。」

――おや、どうして、君、それ、知ってるの。」

――あたしがリサから送られた娘だということ、始めからあんた気が付いたでしょう。」

――ああ、そうとも。」

――あたし、ほんとはカテリイヌの秘密知って居るのよ。」

――秘密⁉ どうして。どんな。」

――あたしは、カテリイヌの私生児よ。そしてカテリイヌは、もうとっくに死んじゃったわ。」

――そりゃほんとか。ほんとのことを言ってるのか。」

ジャネットは返事をしないでかすかに鼻をすゝった。新吉は娘をわしづかみのように抱いて席へ帰ったが何も言わなかった。たゞまじ〱と娘を前に引据えて眺めて居た。ベッシェール夫人はほの〲とした茴香ういきょうの匂の中で、すっかり酔って居る。そしてまたなにか新吉にしつこく云い絡からまろうとして、真青な顔色を引締めてジャネットを見詰めて居る新吉の様子に気が付くと黙ってしまった。

新吉が巴里に対して抱いて居た唯一のうい〱しい追憶であるカテリイヌも、新吉が教授の家で会った時には、もう三つにもなる娘の子を生んで居たのであった。其の子は恋愛というほどでもなく、ただちょっとした弾みから彼女の父の建築場の職工の間に出来て仕舞った。だから生むと直ぐその子をロアール川沿いの田舎村へ里子に遣やり、縁切り同様になった。ジャネットに物心がついて母を慕う時分にはカテリイヌは埃及エジプトへ行って居た若い建築技師と結婚したものゝ間もなく病死してしまった。彼女の父は職工とだけで誰だか解らなかった。ジャネットは全くみなし児の田舎娘として年頃近くまでロアール地方で育ったのであった。

リサがこれを新吉にすっかり話したのは祭の翌日だった。天気は前夕の雨で洗われて一層綺麗に晴れ、何を考えても直ぐ蒸発してしまうような夏の日であった。新吉はセーヌ河の「中の島」で多くの人に混って釣をして居た。リサは其の後でベンチに腰かけて、ほどきものをして居た。

――そういう娘をあたしが見つけたというのも私の郷里がやっぱりロアールの田舎だからなのよ。今年の春あたしが国へ帰って、偶然あの娘の世話人に頼まれて、巴里へ連れて来たのよ。いつもあなたからカテリイヌのことを聞かされてたあたしとして何かの折に一趣向して見たくなったのも無理ないでしょう。だからあなたには昨日まで絶対にあの娘のことを秘密にしといたの。ところで、あなたは案の条じょうあたしの考え通り、あの娘のために元気を恢復なさったわね。あなた何か希望を持ちだしたように顔の表情まで生々して来たわ。」

――おれはあの娘にこれから世話をしてやると約束したよ。」

――やっぱり堅い乳房を持った娘は男にとって魅力があるのね。」

――そんなじゃないんだ。すこし言葉に気をつけて呉れ。」

――じゃ父親にでもなった気で昔の恋人の忘れがたみを育てようというおつもり。」

――そうでもないんだ。」

新吉は釣り竿を引き上げ水中で魚にとられた餌を取りかえて、

――兎も角、おれが巴里で始めて出会った初恋娘のカテリイヌの本当の事情は大分おれの想像と違っていた。あの女はそれほどうい〱しい女でもなければ神聖な女でもなかった。いわば平凡な令嬢だった。それでおれは十何年間も彼女に実は自分の夢を喰わされていたわけさ。自分の不明とはいいながら相当腹が立つわけさ。そこでおれはあの娘を見つけたのを幸い、是非自分の想像していたカテリイヌのように彼女を仕立て上げて見ようというわけさ。」

リサはちょっと狡ずるそうな顔をして訊いた。

――仕立て上げたところで、あらためてカテリイヌの代りに愛して行こうとなさるの。」

――違う。おれの想像していたカテリイヌのようにあの娘を仕立て上げる。其の事だけで復讐は充分じゃないか。僕の想像を裏切った死んだカテリイヌにも、僕自身の不明に対しても。それから先は誰でも気に入った男と一緒になるがいゝ。」

――けど、あの娘、随分田舎擦ずれがしてゝ仕立て憎いわね。」

――田舎擦れてゝも巴里擦れていない。中味は生の儘ままだね。まだ……だから巴里の砥石といしにかけるんだ。生うい〱しい上品な娘に充分なりそうだよ。」

熟し切った太陽の下でセーヌ河のうす赫あかい土色の水が流れて居た。流れは箱型の水泳船の蔭へ来て涼しい蘆の中で小さい渦を沢山こしらえる。渦と渦と抱き合ってぴちょんぴちょんと音を立てる。「中の島」の基点になるポン・ド・グルネルの橋の突き出しに立っている自由の女神の銅像が炎天に煑にえて姿態ポーズの角々から青空に陽炎を立てゝいるように見える。橋を日傘が五ツ六ツ駈けて行く。対岸の石垣の道の菩提樹の間に行列の色がゆらめく。予定が今日に伸びた女店員ミジネットの徒歩競争が通って行くのだ。一人一人叩いて行く太鼓の音がまばらに聞える。「中の島」を跨またいでいるポン・ド・パッシイの二階橋の階上を貨物列車が爽やかな息を吐きながらしず〱パッシイ街の方へ越えて行く。昨日の祭日の粗野な賑わいを追っ払ったあとから本然の姿を現わして優雅に返った巴里の空のところどころに白雲が浮いて居る。新吉の竿の先にもおもちゃのような小さい魚が一つ釣り上げられて、それでも魚並みに跳ねている。

――あなたも渋くなったわね。すっかり巴里を卒業したのよ。」

リサは感に堪えたように言った。

――どうしてだ。何を。」

――いままでのあなたの経験しなさったのはやっぱり追放人エキスパトリエの巴里ね。誰でもすこし永く居る外国人が、感化される巴里よ。でも本当の巴里は其の先にあるのよ。噛んでも噛み切れないという根強い巴里よ。あなたはそれを噛み当て初めたのね。死んだフェルナンドは其の事を巴里の山河性と言ってましたよ。」

リサは編物をちょいと新吉の背中に当てがって寸法を見て、

――ちょうどいゝ。これフェルナンドのを、あなたのジャケツに編み縮めてあげるのよ。」

新吉はリサの手に持つ編物を見た。リサの情人で、死ぬのを嫌がり抜いて死んで行った天才建築家フェルナンドはまた新吉の親友だった。

――あいつが生きてたら、今時分エッフェル塔をピューリズムで改築するって騒いでいるだろう。」

こんなことを独言のように言いながら新吉は、自分は今はリサの息子にでもなってしまったような気がした。丁度遠く河上の方から展けて来た青空が街の屋根に近づいて卵黄色に濁りかけている境に小形の旅客飛行機がゆったり小さな姿を現わした。

――ときに日本の奥さんの事はどうなさるの。――」

――ベッシェール夫人の忠告を入れてこっちへ呼ぶことにしたよ。夫人はもう実物を見ないと気になって仕方が無いと言うのだ。」

――しつこい気狂い婆さんね。だからあたしあの婆さんにはあんたがカテリイヌを探す話なんかしなかったのさ。あの婆さん、あの娘が巴里祭の時あんたと一緒に遊んだのは、たゞ其の場だけの事だと安心して居るのよ。婆さんは今のところあんたが国元の奥さんを真実に思い出してるのばかり気になって仕方ないのよ。ジャネットをあんたが、うんと気に入って今後も世話するなんてことがわかればそれこそあの婆さん、大変よ。」

リサは自分の言うことだけ言ってしまうともとの実直な姿勢に直ってせっせとジャケツを直しにかゝった。

黙って河に向いて居た新吉の眼から、いつか涙が湧いて頬を流れて居た。新吉は其の涙がセーヌ河の底まで落ちて浸み入るように思えた。新吉は其の涙があの病的天才服飾家の老美女ベッシェール夫人の為めに流れた涙であるのを暫らく後に意識した。だが涙が新吉の頬から乾いてセーヌの河風が一しきり涼しく吹き渡る頃、新吉の心はしんと確かな底明るさに静まった。新吉はおもむろに内心で考え始めたのであった――巴里はあらゆる刺戟を用いて一旦人の心を現実世界から遊離させる。極端なニヒリストにもする。しかし其の過程の後に巴里が人々を導く処は、人生の底の底まで徹底した現実世界、または真味な生活境ではなかろうか。フェルナンドが「巴里の山河性」と言ったのは其処なんだな、俺もどうやら人生の本当の味を、これから巴里に落ち付いて、味って行けるようになるらしいぞ――。ママ」

底本 / Source edition

底本:「巴里祭・河明り」講談社文芸文庫、講談社
1992(平成4)年10月10日第1刷発行
底本の親本:「岡本かの子全集 第四巻 小説」冬樹社
1974(昭和49)年3月18日
※誤植を疑った箇所を、底本の親本の表記にそって、あらためました。
入力:門田裕志
校正:土屋隆
2005年5月12日作成
2016年1月16日修正
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リリース / Release
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TEI
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プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
/works/004196_000076/

岡本 かの子「巴里祭」(新字新仮名)、底本『巴里祭・河明り』講談社文芸文庫、講談社、1992年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 004196_000076, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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