遅い朝日が白み初めた。

木琴入りの時計が午前七時を打つ。ヴァルコンの<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>が開く。

「フランスの貴族でアメリカ女の金持と政策結婚をした始めての人間はわしだつたのさ。」

さう云ひながらボニ侯爵は軽騎兵の服を型取つた古い部屋着のまま中庭の雪へ下りて行つた。雪は深かつた。もう止んでゐた。

「それからアメリカとフランスとの間にそれが流行となつて活動女優のグロリア・スワンソンまでがラ・ファレイズ侯爵と結婚するやうになつたのさ。」

侯爵はそこで体を<ruby><rb>屈</rb><rt>かが</rt></ruby>めた。指で雪を<ruby><rb>掬</rb><rt>すく</rt></ruby>ひ上げてぢつと見詰めた。それから手首を外側へしなはせると雪片は払ふまでもなく落ちた。

「実際フランスの貴族といふものは世界中で一番完成した人間だらう。その証拠にはあらゆる理解と才能を備へてゐてたつた一つ働くことが出来ないことだ。歴史を見ても判る。その階級として最高の完成に達した人間はみなこの通りだ。」

そこにロココ風の隠れ家式の小亭がある。侯爵は<ruby><rb>枯蔦</rb><rt>かれつた</rt></ruby>をひいて<ruby><rb>廂</rb><rt>ひさし</rt></ruby>の雪を落した。家のなかに寝てゐた薄闇が匂ひもののやうに大気へ<ruby><rb>潤染</rb><rt>にじ</rt></ruby>んで散る。腰<ruby><rb>嵌</rb><rt>は</rt></ruby>めの<ruby><rb>葡萄蔓</rb><rt>ぶどうづる</rt></ruby>の金唐草に朝の光が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">まぶしく</span>射す。侯爵は座板に腰掛けずにそのまま入口の柱に<ruby><rb>凭</rb><rt>もた</rt></ruby>れた。背中が<ruby><rb>羅紗</rb><rt>ラシャ</rt></ruby>地を<ruby><rb>距</rb><rt>へだ</rt></ruby>ててニンフの<ruby><rb>浮彫</rb><rt>うきぼり</rt></ruby>にさはる。

「その人間は美しく滅びるよりほかあるまい。完成を<ruby><rb>味</rb><rt>あじわ</rt></ruby>ひつつ<ruby><rb>消去</rb><rt>きえさ</rt></ruby>るよりほかはあるまい。Le monde se meurt\. Le monde est mort\.（地球は自殺する。地球は死である。）まつたくわたし達にはうつてつけの言葉だ。だが、世間にはまた働く貴族といふ者があるにはある。五ヶ国語を話してトーマス・クックの案内人を勤める<ruby><rb>伊太利</rb><rt>イタリー</rt></ruby>男爵もあれば<ruby><rb>刺繍</rb><rt>ししゅう</rt></ruby>とピアノを教へる嫁入学校を<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>へて<ruby><rb>一儲</rb><rt>ひともう</rt></ruby>けする<ruby><rb>波蘭</rb><rt>ポーランド</rt></ruby>伯爵もある。しかし、それは地球の自殺の仕損じと同じものだ。結局灰滅は時期の問題だ。」

侯爵はここで少し笑つた。フォウブルグ・サン・ジヱルマンの<ruby><rb>丈</rb><rt>たけ</rt></ruby>の高い屋敷町に<ruby><rb>取籠</rb><rt>とりこ</rt></ruby>められたこの庭でたつた一人がどんなに笑ふとしたところで周囲の朝寝を妨げはしない。まして侯爵の笑ひは淡々として水に落ちる<ruby><rb>雫</rb><rt>しずく</rt></ruby>のやうだ。波紋もさう遠くへ送る力は無い。

「そこで金だ。滅びる支度の金だ。いのちを享楽のしめ木にかけ、いのちを消費の火に燃す支度の金だ。アンナは金持だつた。<ruby><rb>瑪瑙</rb><rt>めのう</rt></ruby>の万年筆で小切手を落書のやうに書いた。アンナのほかのことには心を<ruby><rb>惹</rb><rt>ひ</rt></ruby>かれなかつたが小切手を書く速さに心を惹かれた。結婚期限は五年ではいかゞ。『侯爵夫人』をあなたの帽子の鳥毛に使つてみてはいかが。この申出が果してフランス貴族の恥辱であらうか。働くことはフランス貴族の恥辱だが貸すことは名誉だ。わたしはわたしのタイトルを五年期限で賃貸することを申出た。

それはフォンテンブローの森へ団体で遠乗りした帰りだつた。二人が仲間から遅れて別荘町を外れかかつた時だつた。道端の垣にリラの花が<ruby><rb>枝垂</rb><rt>しだ</rt></ruby>れてゐた。わたしの申出を聴いた時の彼女の返事を今でも覚えてゐる。彼女は右手を後鞍に廻してまともにわたしを振り向いて云つた。『承知よ。そしてしあはせにもあなたは様子もよし――』

わたしの滅びの支度は出来た。わたしの祖先伝来であつてそしてわたし一代で使ひつくすべきあらゆる才能とあらゆる教養とに点火する時が来た。わたしは<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ちゅうちょ</rt></ruby>しなかつた。ボア・ド・ブウロニュ街の<ruby><rb>薔薇</rb><rt>ばら</rt></ruby>いろの大理石の館、人知れぬロアル河べりの<ruby><rb>蘆</rb><rt>あし</rt></ruby>の中の<ruby><rb>城</rb><rt>シャトウ</rt></ruby>、ニースの<ruby><rb>浪</rb><rt>なみ</rt></ruby>に<ruby><rb>繋</rb><rt>つな</rt></ruby>ぐ<ruby><rb>快走船</rb><rt>ヨット</rt></ruby>、<ruby><rb>縞</rb><rt>しま</rt></ruby>の<ruby><rb>外套</rb><rt>がいとう</rt></ruby>を着た競馬の馬、その他の数々の芸術品を彼女とわたしとはいのちを消費する享楽の道づれとして用意した。人はわたしのこれ<ruby><rb>等</rb><rt>ら</rt></ruby>の準備を見て或ひは月並の<ruby><rb>贅沢</rb><rt>ぜいたく</rt></ruby>であると笑ふかも知れない。だが月並の表面を行かないでこそ〱贅沢の裏へ抜けるといふことはわれ〱の<ruby><rb>執</rb><rt>と</rt></ruby>らないところである。いはゆる<ruby><rb>粋人</rb><rt>すいじん</rt></ruby>がすることである。粋人にはなりたくないものだ。粋人といふものは贅沢の情夫ではあつても贅沢の正妻ではあり得ない。彼等は贅沢と正式に結婚する費用と時間と無駄を惜しむ。われわれは<ruby><rb>惜</rb><rt>おし</rt></ruby>まない。月並そのものがいかにわれわれの趣味に対して無益であり徒労であると十分承知しながら、黙つてそれをやる。月並は遊びに奉仕する人の一度は払ふべき税だ。基礎教育だ。われわれは遊びに対して速成科を望まない。速成科といふものは働いて急いで金を<ruby><rb>儲</rb><rt>もう</rt></ruby>けようとする思想の人間が起した後の教育法だ。たぶんあの産業改革が発明した殺風景の中の一つだらう。」

ふはりと隣家の<ruby><rb>破風</rb><rt>はふ</rt></ruby>を<ruby><rb>掠</rb><rt>かす</rt></ruby>めて<ruby><rb>鴎</rb><rt>かもめ</rt></ruby>が一つ浮いて出た。青み初めた空から太陽がわづかに赤い<ruby><rb>鱗</rb><rt>うろこ</rt></ruby>を振り落した。まじめな朝が若い<ruby><rb>暁</rb><rt>ごぜん</rt></ruby>と交代する。

セーヌの鴎はやつぱり身体の中心を河へ置いて来たといふ格好で戻つて行くのをすねるやうに庭の池が<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>み上げる。<ruby><rb>石楠花</rb><rt>しゃくなげ</rt></ruby>の雪が一ばんさきに<ruby><rb>雫</rb><rt>しずく</rt></ruby>になりかけた。

侯爵は鴎の影がなくなつたのでまた安心して<ruby><rb>樺</rb><rt>かば</rt></ruby>色の実に<ruby><rb>嘴</rb><rt>くちばし</rt></ruby>を入れ出した小<ruby><rb>鵯</rb><rt>ひよどり</rt></ruby>に眼をやりながら言葉を続ける。

「五年間はアンナの金でアンナと一緒に、そして次の六年間は<ruby><rb>訣</rb><rt>わか</rt></ruby>れた後のわたしのためにアンナがわたしにくれた金で、わたしはわたしを遺憾なく燃した。<ruby><rb>惚</rb><rt>ほ</rt></ruby>れるべき女優には花束を持つて惚れに行つた。<ruby><rb>騙</rb><rt>だま</rt></ruby>さるべき踊り子には指環を抜くがままに抜かした。シャンパンは<ruby><rb>葡萄</rb><rt>ぶどう</rt></ruby>畑を買ひ取つて自園の酒をこしらへた。スヰスから生きた<ruby><rb>山鱒</rb><rt>マウンテントラウト</rt></ruby>を運ばして客に眼の前で料理して馳走した。一度変つた<ruby><rb>象棋</rb><rt>チェス</rt></ruby>をさしたことがある。それは象棋盤の上へ駒の代りに女を並べさしたことだ。もちろん駒が大きいから象棋盤も特別<ruby><rb>誂</rb><rt>あつら</rt></ruby>へだ。わたしが首尾よく敵陣に攻め入つた時に、女達は歩調を取りながら勇んで奏楽に合せてマルセエズを<ruby><rb>唄</rb><rt>うた</rt></ruby>つてくれた。わたしは涙がこぼれた。わたしの生活にはめつたにこぼさない涙だ。何の涙だらうか。わたしの涙は人が泣きさうな時にはめつたにこぼれないで何でも無いやうな時に不意にこぼれて来る。その時の駒の女の一人が今ブヱイの通りの塗物屋の女房に片づいて黒くなつて働いてゐる。ここからは近いのでわたしは何ごころなくそれを見に行く。栄華に対する未練では無い、ただ見るものとして眼に柔いからだ。」

小<ruby><rb>鵯</rb><rt>ひよどり</rt></ruby>も飛んで行つて<ruby><rb>仕舞</rb><rt>しま</rt></ruby>つた。日のあたたかみで<ruby><rb>淡雪</rb><rt>あわゆき</rt></ruby>の<ruby><rb>上</rb><rt>うわ</rt></ruby>つらがつぶやく音を立てながら溶け始めた。侯爵の背中にニンフの<ruby><rb>浮彫</rb><rt>うきぼり</rt></ruby>が喰ひ込み過ぎた。彼はそこではじめて腰板に腰を下す。

「俗謡作家のピヱール・ヴヱベルが怒つたことがあつて劇作家のモウリス・ロスタンに決闘を申込んだ。話すほどのことでも無いつまらぬ原因でだ。しかし、ロスタンは振向きもしなかつた。――時代を間違へるな。<ruby><rb>馬鹿</rb><rt>ばか</rt></ruby>はよせ――この返事でたちまち決闘は流れて仕舞つた。おそらく<ruby><rb>巴里</rb><rt>パリ</rt></ruby>で決闘といふものが本気に口にされたのはこれが最後になるだらうといふ評判だつた。ところがわたしはこの最後にもう一つの最後を附け加へた。しかも実行でだ。

『ピストルか、剣か、二つに一つ。そして、コーヒーは一つ。』

なんといふ<ruby><rb>趣</rb><rt>おもむき</rt></ruby>のある<ruby><rb>招待</rb><rt>アンヴィタション</rt></ruby>の言葉だらう。そして決闘以外にこの言葉を生かして使ふ<ruby><rb>途</rb><rt>みち</rt></ruby>は無い。フランスに於ては言葉が先に生れて事実はあとを<ruby><rb>追馳</rb><rt>おいか</rt></ruby>けることが往々ある。ちやうど作者が<ruby><rb>台詞</rb><rt>せりふ</rt></ruby>を先に思ひついてそれを言はせるために人間をあとからこしらへるやうなものだ。それほどフランスの言葉は処女受胎性を持つてゐる。事象の夫の世話を<ruby><rb>藉</rb><rt>か</rt></ruby>りずにどし〱表現の世継ぎを生むからである。この説明と関係があるかどうか知らんがわたしはかね〲わたしの国の決闘の言葉の美しさに<ruby><rb>魅入</rb><rt>みい</rt></ruby>られてゐた。一度はぜひ使つて見たいと思つてゐた。この言葉に二重の<ruby><rb>軽蔑</rb><rt>けいべつ</rt></ruby>の美しさがあつた。一つは敵の勇気に対して、一つは自分のいのちに対して――。そしてこの軽蔑の美しさほどわれ〱滅びる青い血の人種の好みに<ruby><rb>適</rb><rt>かな</rt></ruby>ふものは無い。またこの言葉に軽蔑の礼儀を持つてゐる。

さいはひそこに争ひが出来た。事件は<ruby><rb>貴婦人</rb><rt>ダーム</rt></ruby>に就いてだ。今になつて考へて見るとわたしの前にヴヱベルとロスタンの事件が無かつたらわたしはそれを決行まで運ばせなかつたかも知れない。なぜなら相手は黒ん坊だつたからだ。だが前の二人の事件は次のやうな理由でわたしを動かした。ロスタンの『時代を間違へるな、ばかは止せ。』といふ言葉がわたしを動かした。一たいわたしの血管には<ruby><rb>弁膜</rb><rt>べんまく</rt></ruby>が無いらしい。それでよくわたしの血は他人の血の流れと反対になる。ロスタンは言つた『時代を間違へるな。』わたしは云はう『時代を間違へよう。』ロスタンは云つた『ばかは止せ。』わたしはいはう『<ruby><rb>馬鹿</rb><rt>ばか</rt></ruby>こそせよ。』

彼等が決闘を未遂に終らせたことはとりも直さずわたしに決闘を<ruby><rb>仕遂</rb><rt>しと</rt></ruby>げさすことであつた。黒ん坊との決闘は貴族の恥辱だらう。だが彼を<ruby><rb>措</rb><rt>お</rt></ruby>いて誰が今日決闘の相手になんぞなつてくれよう。この期をはづしてはまたとわたしの生涯にあの美しい招待の言葉を生かす機があらうか。

ジャンチリイの崩れた城壁の蔭でわたしは黒ん坊と向き合つた。彼は名のある<ruby><rb>力業師</rb><rt>アクロバット</rt></ruby>だつた。彼はゴムのやうな肉体を抱へてゐた。それによつて巴里の貴婦人達は歯を楽しまされ始めてゐた。

歯による恋愛――彼はそれを西南の<ruby><rb>竜舌蘭</rb><rt>りゅうぜつらん</rt></ruby>の蔭から<ruby><rb>巴里</rb><rt>パリ</rt></ruby>へ移入した。

青い血と黒い血とは剣を持つて<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>み合つた。その頃、青い血を駆逐する社会上の敵は黄色の血の流れる<ruby><rb>成上り者</rb><rt>パルヴニウ</rt></ruby>だつた。だが巴里の<ruby><rb>客間</rb><rt>サロン</rt></ruby>で青い血の人気を奪ひつゝあるものはこの黒い血の連中だつた。わたしは彼を同族の公敵と認めた。わたしの剣に力が<ruby><rb>籠</rb><rt>こも</rt></ruby>る。

いくら剣法を知らない力業師であるにしてもああもたやすく彼がわたしに負けるとは思はなかつた。<ruby><rb>太刀</rb><rt>たち</rt></ruby>の<ruby><rb>二当</rb><rt>ふたあて</rt></ruby>、<ruby><rb>三当</rb><rt>みあて</rt></ruby>もしないうちに彼の黒い横<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>が赤く笑つた。彼は剣を投げ出して『感謝に堪へませぬ。』と云つた。

秘密は直ぐに判つた。彼はわたしとの決闘を看板にしてヨーロッパを興行し廻るのだつた。辻のビラには『ボニ侯爵』の名前が、彼の名前より大きく刷られてあつた。

わたしは負けた。やつぱり時代に負けたのだつた。」

サン・ジヱルマン・デ・プレの鐘が鳴つた。巴里の寺のなかでも古いこの寺の鐘は、水へ砂金を流し込むやうに大気の底を底をと慕つて響いた。響くよりすぐ染みついた。<ruby><rb>淡雪</rb><rt>あわゆき</rt></ruby>は水になつた。窓々の扉が開く。<ruby><rb>頬張</rb><rt>ほおば</rt></ruby>つて朝のパンを食ふ平凡な午前九時が来て太陽はレデー・メードになる。侯爵は立上つて一九三一年の冬に身震ひした。

「まだアンナと一緒にゐた時なのでこの事件からしばらく官憲を<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>つてアンナと<ruby><rb>亜米利加</rb><rt>アメリカ</rt></ruby>に渡つた。すぐ飽きた。侯爵を珍しがり裏から表からしつこく見ようとするこの国の上流社会はうるさいばかりでなくわたしの心の皮膚を荒した。わたしは心の皮膚を大事にする。前侯爵夫人の名とヴァン・ドンゲンが描いたわたしの肖像をアンナに残してわたしはとう〱亜米利加から巴里へ帰つた。久しぶりで巴里へ帰り着いたとき例のめつたにこぼれないわたしの涙が出た。わたしの滅びの最後を待ちうけてゐてくれる所は巴里よりほかに無い<ruby><rb>筈</rb><rt>はず</rt></ruby>だつた。アンナとはポトマック河べりの散歩の途中で別れたのだ。

『さやうなら、ではその<ruby><rb>傘</rb><rt>かさ</rt></ruby>を<ruby><rb>頂戴</rb><rt>ちょうだい</rt></ruby>。』

これがアンナが<ruby><rb>訣</rb><rt>わか</rt></ruby>れる最後に私に云つた言葉だつた。わたしは脇の下に挟んだ彼女の七色織の日傘の畳目にキッスして彼女に返した。彼女は威勢よくその日傘を拡げると手を愛想に振りながら待たしてあつたモーター・ボートに乗つた。<ruby><rb>浪</rb><rt>なみ</rt></ruby>が揺れた。それきりわたしは彼女に会はない。<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>によるとちかごろ彼女は<ruby><rb>欧羅巴</rb><rt>ヨーロッパ</rt></ruby>の小国のプランセスの位置を<ruby><rb>狙</rb><rt>ねら</rt></ruby>つてゐるさうだ。これがこのごろ金のある亜米利加女の発達した慾望ださうだ。

わたしは芸術を愛した。ずゐぶん芸術家を保護した。しかし、いくら世辞ですすめられても<ruby><rb>素人</rb><rt>しろうと</rt></ruby>のくせに俳優を指揮したり俳優の本読みするやうな<ruby><rb>猪口才</rb><rt>ちょこざい</rt></ruby>な<ruby><rb>真似</rb><rt>まね</rt></ruby>は決してしなかつた。それといふのもわたしに一つの自信があつたからだ。わたしはさういふことを勧める人にかう答へた。『わたしも立派な芸術を持つてゐますよ。とてもあなた方にお出来になりますまい。それは消費の芸術といふものです。』するとその人は余儀なささうにうなづくのであつた。しかし、なほうなづきかねた人にはわたしはかう説明した。『わたしは金のある十一年間に一さい偶然の力を<ruby><rb>藉</rb><rt>か</rt></ruby>りずにほぼ見込みどほりわたしの運命を表現しました。たぶんわたしはリアリズムの大家でせう。酔はずに零落の<ruby><rb>途</rb><rt>みち</rt></ruby>を見詰めて来た勇気の点に於てね。』ここまで言ひ切れば大概の人は返す言葉が無かつた。

事実、わたしは滅びる目的に成功してこの古い由緒ある家も、愛する広い庭も完全に人手に渡つてゐる。わたしに残つてゐるものはグレー・ハウンドの犬一<ruby><rb>疋</rb><rt>ぴき</rt></ruby>と紋章旗だけだ。わたしの肉体とても婦人の病気以外には<ruby><rb>殆</rb><rt>ほとん</rt></ruby>どあらゆる病の<ruby><rb>餌食</rb><rt>えじき</rt></ruby>として与へてしまつたと云つても<ruby><rb>宜</rb><rt>よ</rt></ruby>い。わたしの待つた消滅の薫りが<ruby><rb>馥郁</rb><rt>ふくいく</rt></ruby>としてわたしの骨に匂ひ出した。わたしは生涯働かなかつたといふことを思ひ出に漂ふ<ruby><rb>空無</rb><rt>リヤン</rt></ruby>の海に紫の<ruby><rb>海月</rb><rt>くらげ</rt></ruby>となつて泳ぎ出るのだ。完成された階級にただ一つ残つた必至の垣を今こそ<ruby><rb>躍</rb><rt>おど</rt></ruby>り越えるのだ。日よ、月よ、森よ、化粧の女よ。さらば――わけて、アンナと巴里にはよろしく――。」

つひに張り詰めたボニ侯爵の声はのんびり日常生活と<ruby><rb>番</rb><rt>つが</rt></ruby>ひ始めた巴里の昼まへの時間に対して調和が取れなかつた。けれどもその声があまりに真剣なので自殺でもするのかと思へばさうはしなかつた。彼は朝の気分の<ruby><rb>宜</rb><rt>よ</rt></ruby>い時に毎日かうして遺言の練習をするのであつた。彼は犬小屋できゆう〱鳴いてゐるグレー・ハウンドを引出してちよつとブラシュをかけ、それからそれを連れて牛乳を買ひに街へ出た。彼の足は<ruby><rb>蓮根</rb><rt>れんこん</rt></ruby>のやうに細つてゐるがまだ歩調はしつかりして居る。庭門をくぐるとき彼は思ひ出したやうにまた云つた。

「フランス貴族といつても本物と<ruby><rb>擬</rb><rt>まが</rt></ruby>ひとあることを<ruby><rb>弁</rb><rt>わきま</rt></ruby>へて<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>ひたいものだ。一つはわれ〱のやうな由緒ある正銘の<ruby><rb>貴族</rb><rt>エミグレ</rt></ruby>だが、一つはナポレオンがむやみに製造した<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>貴族だ。こいつらの先祖は百姓か職人だからその子孫も握手して見れば判る。<ruby><rb>掌</rb><rt>てのひら</rt></ruby>に<ruby><rb>胼胝</rb><rt>たこ</rt></ruby>の<ruby><rb>痕</rb><rt>あと</rt></ruby>が<ruby><rb>遺</rb><rt>のこ</rt></ruby>つてゐるさ。」