Soranoha

あとがき(『モスクワ印象記』)

あとがき(『モスクワいんしょうき』)

宮本 百合子

わたしがソヴェト同盟に暮したのは、もう二十年も前のことになる。一九二七年の暮から三〇年十一月までのことであったが、三一年から三二年までわたしはずいぶん沢山のソヴェト社会の日常生活や文化・文学についての報告を書いた。そしてそれらは、書いているわたし自身がそこで暮した新しい社会生活の姿にいきいきとして新たな感動をよみがえらしたように、沢山の人によまれて人民生活のゆく手の明るさを感じさせた。

一九三二年の春からのち、日本のすべての人の生活がはげしいファシズムの笞で侵略戦争に追いこまれはじめた。侵略戦争の遂行のためにわたしたち人民の口はふさがれ、眼にカーキ色の幕がはられた。バイカル湖まではこちらで貰うというようなことがしらふで話されていた時期に、ソヴェト同盟は日本の軍国主義者にとっての侵略目標であった。そして世界平和と人民生活の安定のための社会主義建設に努力するソヴェト同盟の存在は「赤」の本場として憎悪の的とされた。

そんなに書きためられていたソヴェト同盟についてのいきいきした話が一九三二年からのちのどの本にも集録されないできた理由はここにある。わたしたちの人民的な自由とともにソヴェトの物語も檻に入れられていた。

今日の日本には自分たちの眼でソヴェト同盟をみてきた人が大勢いる。捕虜として各地でキャンプ生活をしながら生産労働に従ってきたひとびとの見聞は、その特別な事情から受ける制約があって、いた場所によって、収容所長の性格によって、まちまちな経験がされている。同時に日本の大衆が人民的な民主主義の道を歩きはじめて、中国や北朝鮮のひとびとの現実の建設を眼近にみるにつれ、遠い一つの社会主義的実験国のように思われていたソヴェト同盟の生き方が、案外にも日本のわたしたちの日常につらなったものであることが実感されはじめてきている。ところが今日のわたしたちの一方の耳からは絶えずソヴェトに対する中傷や事実の不明な流説がつぎこまれるためにソヴェト社会の実際をありのままに知りたいという気持は一層切実な要求となっている。

ふたむかし前のモスクワといえば地下鉄さえなかった。ナチスが侵略して来たとき、雄々しく闘って、世界の民主主義と自分たちの社会を守った青年や少女はやっと生れたばかりであったろう。五ヵ年計画はその第一次が完成したところで、わたしの紹介も終っている。わたしのみたモスクワは、そしてレーニングラードは、昔ばなしの中の都となっている。けれども今日までたゆまずそこにくりひろげられ、発展されている社会主義的生活のよく艱難にたえてのびゆく芽立ちは、二十年前の現実の細部の中にまざまざと生きている。ソヴェトについてのこれらの物語は、古くて新しい。こんにちの歴史の下では、単にロシア国内の事情というにとどまらず、世界の人民の業績の一つの典型として感じとられるこれらの印象記や報告が一冊の本にまとまって出ることはうれしい。

発表当時、会話が棒ではじまっていたり、くせのあるてにをはがつかってあったりした部分は、不必要な漢字と一しょにこのたび訂正されている。当時伏字にされて今日ではうずめられないところは、その要旨を附記してそのままにされている。終りには「社会と人間の成長」がそえられた。

一九四九年三月

〔一九四九年五月〕

底本 / Source edition

底本:「宮本百合子全集 第十八巻」新日本出版社
1981(昭和56)年5月30日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第2版第1刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房
1953(昭和28)年1月発行
初出:「モスクワ印象記」東京民報出版社
1949(昭和24)年5月発行
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2004年2月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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書誌 / Bibliography
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宮本 百合子「あとがき(『モスクワ印象記』)」(新字新仮名)、底本『宮本百合子全集 第十八巻』新日本出版社、1981年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 004137_000311, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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