Soranoha

大阪発見

おおさかはっけん

織田 作之助

一

年中夫婦喧嘩をしているのである。それも仲が良過ぎてのことならとにかく、根っから夫婦ふたり一緒に出歩いたことのない水臭い仲で、お互いよくよく毛嫌いして、それでもたまに大将が御寮人さんに肩を揉ませると、御寮人さんは大将のうしろで拳骨を振り舞わし、前で見ている女子衆おなごしを存分に笑わせた揚句、御亭主の頭をごつんと叩いたりして、それが切っ掛けでまた喧嘩だ。十年もそれが続いたから、母屋の嫂もさすがに、こんなことでこの先どないなるこっちゃら、近所の体裁も悪いし、それに夫婦喧嘩する家は金はたまらんいうさかいと心配して、ある日、御寮人さんを呼寄せて、いろいろ言い聴かせた末、黒焼でも買いイなと、二十円くれてやった。

上等の奴やなかったら効かへんと二十円も貰った御寮人さんは、くすぐったいというより阿呆らしく、その金を瞬く間に使ってしまった。けれども、さすがに嫂の手前気がとがめたのか、それとも、やはり一ぺん位夫婦仲の良い気持を味いたかったのか、高津の黒焼屋へ出掛けた。

湯豆腐屋で名高い高津神社の附近には薬屋が多く、表門筋には「昔も今も効能ききめで売れる七福ひえぐすり」の本舗があり、裏門筋には黒焼屋が二軒ある。元祖本家黒焼屋の津田黒焼舗と一切黒焼屋の高津黒焼惣本家鳥屋市兵衛本舗の二軒が隣合せに並んでいて、どちらが元祖かちょっとわからぬが、とにかくどちらもいもりをはじめとして、虎足、縞蛇、ばい、蠑螺、山蟹、猪肝、蝉脱ぬけ皮、泥亀頭、鼹手もぐら、牛歯、蓮根、茄子、桃、南天賓などの黒焼を売っているのだ。御寮人さんはその一軒の低い軒先をはいるなり、実は女子衆おなごしに子供がちょっともなつかしまへんよってと、うまい口実を設けていもりの雄雌二匹を買った。

帰り途、二つ井戸下大和橋東詰で三色ういろと、その向いの蒲鉾屋で、晩のお菜の三杯酢にする半助とはんぺんを買って、下寺町のわが家に戻ると、早速亭主の下帯へこっそりいもりの一匹を縫いこんで置き、自分もまた他の一匹を身に帯びた。

ちかごろヴィタミンCやBの売薬を何となく愛用している私は、いもりの黒焼の効能なぞには自然疑いをもつのであるが、けれども仲の悪い夫婦のような場合は、効能が現われるという信念なり期待なりを持っていると、つい相手の何でもない素振りが自分に惚れ出した証拠だと錯覚して、そのため自分の方でそれにひきつられてしまうのではあるまいかと、私はその効能に心理的根拠を与えたいのである。

ところが、その大阪的な御寮人さんの場合どうなったか、私は知る由もないが、しかし彼女が時時憤然たる顔をして戎橋の「月ヶ瀬」というしるこ屋にはいっているのを私は見受けるのである。「月ヶ瀬」へ彼女が現れるのは、大抵夫婦喧嘩をしたときに限るので、あんまり腹が立ちましたよって「月ヶ瀬」で栗ぜんざい一杯とおすましとおはぎ食べてこましたりましてんと、彼女はその安い豪遊をいい触らすのである。

「月ヶ瀬」は戎橋の停留所から難波へ行く道の交番所の隣にあるしるこ屋で、もとは大阪の御寮人さん達の息抜き場所であったが、いまは大阪の近代娘がまるで女学校の同窓会をひらいたように、はでに詰め掛けている。デパートの退け刻などは疲れたからだに砂糖分を求めてか、デパート娘があきれるほど殺到して、青い暖簾の外へ何本もの足を裸かのまま、あるいはチョコレート色の靴下にむっちり包んで、はみ出している。そういう若い娘たちにまじって、例の御寮人さんは浮かぬ顔をして突っ立ち、空いた席はおまへんやろかと、眼をキョロキョロさせているのである。そして私もまた、そこの蜜豆が好きで、というといかにもだらしがないが、とにかくその蜜豆は一風変っていて氷のかいたのをのせ、その上から車の心棒の油みたいな色をした、しかし割に甘さのしつこくない蜜をかぶせて仲々味が良いので、しばしば出掛け、なんやあの人男だてらにけったいな人やわという娘たちの視線を、随分狼狽して甘受するのである。

五年前、つまり私が二十三歳の時、私はかなり肩入れをしていたKという少女と二人でいそいそと「月ヶ瀬」へ行った。はいるなりKという少女はあん蜜を注文したが、私はおもむろに献立表を観察して、ぶぶ漬という字が眼にはいると、いきなり空腹を感じて、ぶぶ漬を注文した。やらし人やなというKの言葉を平然と聞流しながら、生唾をのみこみのみこみ、ぶぶ漬の運ばれて来るのを待っていると、やがて、お待ちどうさんと前へ据えられた途端、あッ、思わず顔が赧くなって、こともあろうにそれはお櫃ではないか。おまけに文楽の人形芝居で使うような可愛らしいお櫃である。見渡すと、居並ぶ若い娘たちは何れもしるこやぜんざいなど極めて普通の、この場に適しいものを食べている。私一人だけが若い娘たちの面前で、飯事ままごとのようにお櫃を前にして赧くなっているのだ。クスクスという笑い声もきこえた。Kはさすがに笑いはしなかったが、うちいややわと顔をしかめている。しかし、私は大いに勇を鼓してお櫃から御飯をよそって食べた。何たることか裕然と構えて四杯も平げたのである。しかもあとお茶をすすり、爪楊子を使うとは、若気の至りか、厚顔しいのか、ともあれ色気も何もあったものではなく、Kはプリプリ怒り出して、それが原因でかなり見るべきところのあったその恋も無残に破れてしまったのである。けれども今もなお私は「月ヶ瀬」のぶぶ漬に食指を感ずるのである。そこの横丁にある「木の実」へ牛肉の山椒焼や焼うどんや肝とセロリーのバタ焼などを食べに行くたびに、三度のうち一度ぐらいはぶぶ漬を食べて見ようかとふと思うのは、そのぶぶ漬の味がよいというのではなく、しるこ屋でぶぶ漬を売るということや、文楽芝居のようなお櫃に何となく大阪を感ずるからである。

私の失恋はぶぶ漬が直接の原因になったけれど、一つにはKの女友達の「亀さん」が私を一目見て、なんや、あの人ひとの顔もろくろくよう見んとおずおずしたはるやないの、作文つくるのを勉強したはるいうけどちっとも生活能力あれへんやないのと、Kに私のことを随分くさしたからである。「亀さん」はあるデパートのネクタイ部で働いている女だったが、かねがね、うちは亀さんみたいに首の短い人は嫌いや、鶴みたいな人が好きやねん、亀さんは借金で首まわれへんさかいなど、わけのわからぬことを口走っていたゆえ、私はくやしまぎれに彼女に「亀さん」という綽名を呈したのである。「亀さん」はデパートに勤めているが、父親が強慾でしばしば芸者にされようとしていた。その目で見たせいか、彼女の痩形の、そして右肩下りの、線の崩れたようなからだつきは何かいろっぽく思えたが、しかし、やや分厚い柔かそうな下唇や、その唇の真中にちょっぴり下手に紅をつける化粧の仕方や、胸のふくらみのだらんと下ったところなど、結婚したらきっと子供を沢山産んで、浴衣の胸をはだけて両方の乳房を二人の赤ん坊に当てがうであろうなどと私はひそかに想像していた。間もなく「亀さん」が結婚したという噂をきいて、それきり顔もみなかったが、最近私は千日前の自安寺で五年振りに「亀さん」と出会った。

千日前自安寺の境内にある石地蔵のことを、つい近頃まで知らなかったのは、うかつだった。浄行大菩薩といい、境内の奥の洗心殿にはいっているのだが、霊験あらたかで、たとえば眼を病んでいる人はその地蔵の眼に水を掛け、たわしでごしごし洗うと眼病が癒り、足の悪い人なら足のところを洗うと癒るとのことで、阿呆らしいことだけれど年中この石地蔵は濡れている。水垢で赤く鏽びついていて、おまけに眼鼻立ははっきり判別出来ぬほどすり切れていて胸のあたりなど痛々しい。ときには洋装の若い女が来て、しきりに洗っているとFさんにきいて、私は何となく心を惹かれ、用事のあるなしにつけ千日前へ出るたびにこの寺にはいって、地蔵の前をぶらぶらうろうろした。そしてある日、遂に地蔵の胸に水を掛け水を掛け、たわしで洗い洗いしている洋装の女を見つけた。ふと顔を見ると、それが「亀さん」だったのである。

父親のこのみで彼女はむかし絶対に洋装をしなかったのであるが、いまは夏であるから彼女も洋装していた。察しのつく通りアッパッパで、それも黒門市場などで行商人が道端にひろげて売っているつるつるのポプリンの布地だった。なお黒いセルロイドのバンドをしめていた。いかにも町の女房めいて見えた。胸を洗っているところを見ると、肺を病んでいるのだろうか、痩せて骨が目立ち、顔色も蒼ざめていた。「亀さん」は私の顔を見ると、えらいとこ見られたと大袈裟にいった。そして、こんどの土用丑には子供の虫封じのまじないをここでしてもらいまんねんというのであった。私はただ「亀さん」の亭主がまかり間違っても白いダブルの背広に赤いネクタイ、胸に青いハンカチ、そしてリーゼント型に髪をわけたような男でないことをしきりに祈りながら、赤い煉瓦づくりの自安寺の裏門を出ると、何とそこは「いろは牛肉店」の横丁であった。「市丸」という小料理屋の向って左隣りには「大天狗」という按摩屋で、天井の低い二階で五、六人の按摩がお互いに揉み合いしていた。右隣は歯科医院であった。

その歯科医院は古びたしもた家で、二階に治療機械を備えつけてあるのだが、いかにも煤ぼけて、天井がむやみに低く、機械の先が天井にすれすれになっていて、恐らく医者はこごみながら、しばしば頭を打っつけながら治療するのではないかと思われる。看板が掛っていなければ、誰もそんな裏長屋の古ぼけた家のようなそこを歯科医院とは思わぬであろう。屋根に、六つか七つぐらいの植木の小鉢が置いてあったのを見て私は、雁治郎横丁を想い出した。雁治郎横丁は千日前歌舞伎座横の食物路地であるが、そこにもまた忘れられたようなしもた家があって、二階の天井が低く、格子が暑くるしく掛っているのである。そしてまた二つ井戸の岩おこし屋の二階にも鉄の格子があって、そこで年期奉公の丁稚が前こごみになってしょんぼり着物をぬいでいたのである。そうした風景に私は何故惹きつけられるのか、はっきり説明出来ないのであるが、ただそこに何かしら哀れな日々の営みを感ずることはたしかである。はかなく哀れであるが、しかしその営みには何か根強いものがある。それを大阪の伝統だとはっきり断言することは敢てしないけれど、例えば日本橋筋四丁目の五会ごかいという古物露天店の集団で足袋のコハゼの片一方だけを売っているのを見ると、何かしら大阪の哀れな故郷を感ずるのである。

東京にいた頃、私はしきりに法善寺横丁の「めをとぜんざい屋」を想った。道頓堀からの食傷通路と、千日前からの落語席通路の角に当っているところに「めをとぜんざい」と書いた大提灯がぶら下っていて、その横のガラス箱の中に古びたお多福人形がにこにこしながら十燭光の裸の電灯の下でじっと坐っているのである。暖簾をくぐって、碁盤の目の畳に腰掛け、めおとぜんざいを注文すると、平べったいお椀にいれたぜんざいを一人に二杯もって来る。それが夫婦めおとになっているのだが、本当は大きな椀に盛って一つだけ持って来るよりも、そうして二杯もって来る方が分量が多く見えるというところをねらった、大阪人の商売上手かも知れないが、明治初年に文楽の三味線引きが本職だけでは生計くらしが立たず、ぜんざい屋を経営して「めをとぜんざい屋」と名付けたのがその起原であるときいてみると、何かしらなつかしいものを感ずるのである。

戎橋そごう横の「しる市」もまた大阪の故郷だ。「しる市」は白味噌のねっとりした汁を食べさす小さな店であるが、汁のほかに飯も酒も出さず、ただ汁一点張りに商っているややこしい食物屋である。けれどもこの汁は、どじょう、鯨皮、さわら、あかえ、いか、蛸その他のかやくを注文に応じて中へいれてくれ、そうした魚のみのほかにきまって牛蒡の笹がきがはいっていて、何ともいえず美味いのである。私は味が落ちていないのを喜びながら、この暑さにフーフーうだるのを物ともせず三杯もお代りした。狭い店の中には腰掛から半分尻をはみ出させた人や、立ち待ちしている人などをいれて、ざっと二十五人ほどの客がいるが、驚いたことには開襟シャツなどを着込んだインテリ会社員風の人が多いのである。彼等はそれぞれ、おっさん、鯨や、とか、どじょうにしてくれとか粋な声で注文して、運ばれて来るのを寿司詰の中で小さくなりながら如何にも神妙な顔をして箸を構えて、待っているのである。何気なくふと暖簾の向うを通る女の足を見たりしているが、汁が来ると、顔を突っ込むようにしてわき眼もふらずに真剣に啜るのである。

喫茶店や料理店レストランの軽薄なハイカラさとちがうこのようなしみじみとした、落着いた、ややこしい情緒をみると、私は現代の目まぐるしい猥雑さに魂の拠り所を失ったこれ等の若いインテリ達が、たとえ一時的にしろ、ここを魂の安息所として何もかも忘れて、舌の焼けそうな、熱い白味噌の汁に啜りついているのではないかと思った。更に考えるならば、そのような下手げてものに魂の安息所を求めなければならぬところに現代のインテリの悲しさがあり且つ大阪のそこはかとなき愉しさがあるといえばいえるであろう。

土用近い暑さのところへ汁を三杯も啜ったので、私は全身汗が走り、寝ぼけたような回転を続けている扇風機の風にあたって、むかし千日前の常磐座の舞台で、写真の合間に猛烈な響を立てて回転した二十吋もある大扇風機や、銭湯の天井に仕掛けたぶるんぶるん鳴る大団扇をを想い出しながら、「しる市」を出ると、足は戎橋を横切り、御堂筋を越えて四ツ橋の文楽座へ向いた。

デンデンと三味線が太く哀調を予想させ、太夫が腹にいれた木の枕をしっかと押えて、かつて小出楢重氏が大阪人は浄瑠璃をうなる時がいちばん利口に見えるといわれたあの声をうなり出し、文五郎が想いをこめた抱き方で人形を携えて舞台にあらわれると、ああここに大阪があると私は思うのである。そうしてこれがいちばん大阪的であると私が思うのは、これらの文楽の芸人たちがその血の出るような修業振りによっても、また文楽以外に何の関心も興味も持たずに阿呆と思えるほど一途の道をこつこつ歩いて行くその生活態度によっても、大阪に指折り数えるほどしか見当らぬ風変りな人達であるために外ならず、且つ彼等の阿呆振りがやがて神に近づくありがたい道だと何かしら教えられるためである。

二

大阪を知らない人から、最も大阪的なところを案内してくれといわれると、僕は法善寺へ連れて行く。

寺ときいて二の足を踏むと、浅草寺だって寺ではないかと、言う。つまり、浅草寺が「東京の顔」だとすると、法善寺は「大阪の顔」なのである。

法善寺の性格を一口に説明するのはむずかしい。つまりは、ややこしいお寺なのである。そしてまた「ややこしい」という大阪言葉を説明するのも、非常にややこしい。だから法善寺の性格ほど説明の困難なものはない。

例えば法善寺は千日前にあるのだが、入口が五つある。千日前(正確に言えば、千日前から道頓堀筋へ行く道)からの入口が二つある。道頓堀からの入口が一つある。難波新地からの入口が二つある。どの入口からはいって、どこへ抜け出ようと勝手である。はいる目的によって、また地理的な便利、不便利によって、どうもぐりこもうと、勝手である。誰も文句はいわない。

しかし、少くとも寺と名のつく以上、れっきとした表門はある。千日前から道頓堀筋へ抜ける道の、丁度真中ぐらいの、蓄音機屋と洋品屋の間に、その表門がある。

表門の石の敷居をまたいで一歩はいると、なにか地面がずり落ちたような気がする。敷居のせいかも知れない。あるいは、われわれが法善寺の魔法のマントに吸いこまれたその瞬間の、錯覚であるかも知れない。夜ならば、千日前界隈の明るさからいきなり変ったそこの暗さのせいかも知れない。ともあれ、ややこしい錯覚である。

境内の奥へ進むと、一層ややこしい。ここはまるで神仏のデパートである。信仰の流行地帯である。迷信の温床である。たとえば観世音がある。歓喜天がある。弁財天がある。稲荷大明神がある。弘法大師もあれば、不動明王もある。なんでも来いである。ここへ来れば、たいていの信心事はこと足りる。ないのはキリスト教と天理教だけである。どこにどれがあるのか、何を拝んだら、何に効くのか、われわれにはわからない。

しかし、彼女たちは知っている。彼女たち――すなわち、此の界隈で働く女たち、丸髷の仲居、パアマネント・ウエーヴをした職業婦人、もっさりした洋髪の娼妓、こっぽりをはいた半玉、そして銀杏返しや島田の芸者たち……高下駄をはいてコートを着て、何ごとかぶつぶつ願を掛けている――雨の日も欠かさないのだ。

彼女たちはただ願掛けの文句を拝むだけでは、満足出来ない。信心には形式がいる。そこで、たとえば不動明王の前には井戸がある。この井戸の水を「洗心水」という。けがれた心を洗いまひょと、彼女たちは不動明王の尊像に水をかける。何十年来一日も欠かさず水をそそがれた不動明王の体からは蒼い苔がふき出している。むろん乾いたためしはない。燈火の火が消えぬように。

水をかけ終ると、やがて彼女たちはおみくじをひく。あっ? 凶だ。

しかし、心配はいらぬ。石づくりの狐が一匹居る。口に隙間がある。凶のおみくじをひいたときは、その隙間へおみくじを縛りつけて置く。すると、まんまと凶を転じて吉とすることが出来る。

「どうか吉にしたっとくなはれ」

祈る女の前に賽銭箱、頭の上に奉納提灯、そして線香のにおいが愚かな女の心を、女の顔を安らかにする。

そこで、ほっと一安心して、さて「めをとぜんざい」でも、食べまひょか。

大阪の人々の食意地の汚なさは、何ごとにも比しがたい。いまはともかく、以前は外出すれば、必ず何か食べてかえったものだ。だから、法善寺にも食物屋はある。いや、あるどころではない。法善寺全体が食物店である。俗に法善寺横丁とよばれる路地は、まさに食道である。三人も並んで歩けないほどの細い路地の両側は、殆んど軒並みに飲食店だ。

「めをとぜんざい」はそれらの飲食店のなかで、最も有名である。道頓堀からの路地と、千日前――難波新地の路地の角に当る角店である。店の入口にガラス張りの陳列窓があり、そこに古びた阿多福人形が坐っている。恐らく徳川時代からそこに座っているのであろう。不気味に燻んでちょこんと窮屈そうに坐っている。そして、休む暇もなく愛嬌を振りまいている。その横に「めをとぜんざい」と書いた大きな提灯がぶら下っている。

はいって、ぜんざいを注文すると、薄っぺらな茶碗に盛って、二杯ずつ運んで来る。二杯で一組になっている。それを夫婦めおとと名づけたところに、大阪の下町的な味がある。そしてまた、入口に大きな阿多福人形を据えたところに、大阪のユーモアがある。ややこしい顔をした阿多福人形は単に「めをとぜんざい」の看板であるばかりでなく、法善寺のぬしであり、そしてまた大阪のユーモアの象徴でもあろう。

大阪人はユーモアを愛す。ユーモアを解す。ユーモアを創る。たとえば法善寺では「めをとぜんざい」の隣に寄席の「花月」がある。僕らが子供の頃、黒い顔の初代春団治が盛んにややこしい話をして船場のいとはんたちを笑わせ困らせていた「花月」は、今は同じ黒い顔のエンタツで年中客止めだ。さて、花月もハネて、帰りにどこぞでと考えると、「正弁丹吾亭しょうべんたんごてい」がある。千日前――難波新地の路地の西のはずれにある店がそれだ。「正弁丹吾」というややこしい名前は、当然、小便たんごを連想させるが、昔ここに小便の壺があった。今も、ないわけではない。よりによって、こんな名前をつけるところは法善寺的――大阪的だが、ここの関東煮が頗るうまいのも、さすが大阪である。一杯機嫌で西へ抜け出ると、難波新地である。もうそこは法善寺ではない。前方に見えるのは、心斎橋筋の光の洪水である。そして、その都会的な光の洪水に飽いた時、大阪人が再び戻って来るのは、法善寺だ。

底本 / Source edition

底本:「日本の名随筆9 町」作品社
1983(昭和58)年7月25日第1刷発行
1991(平成3)年9月1日第12刷発行
底本の親本:「定本織田作之助全集 第八巻」文泉堂出版
1976(昭和51)年4月25日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:渡邉つよし
校正:門田裕志
2002年11月12日作成
2013年8月12日修正
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書誌 / Bibliography
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織田 作之助「大阪発見」(新字新仮名)、底本『日本の名随筆9 町』作品社、1983年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 004106_000040, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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