Soranoha

五大堂

ごだいどう

田沢 稲舟

(一)

世にうれしき事はかずあれど、親が結びし義理ある縁にて、否でも否といひいでがたき結髪の夫にもあれ、妻にもあれ、まだ祝言のすまぬうち、死せしと聞きしにまさりたるはあらずかし。こゝに娘で名高き青柳子爵の一人姫糸子といへるも未来の夫とさだめし人の、心に染まぬそれ故に、うき年月をおくりしが、この頃おもき病にてうせしときゝしうれしさに、今まで青き顔色も、きのふにかはる美くしさ。しづみ心もうき立ちて、腰元どもを相手とし、遊びに余念もあらぬ折から、兄の房雄は入りきたりて「オヤ糸子さん、造花ですか、ヤア照も初も大変上手になつたね」といはれて二人ははづかしさうに「どういたしまして私どもはとてもお姫様のやうにはできませんもの」「いやさうぢやない、中々うまいよ」糸子はにこにこわらひながら「兄様、あなたには花籠をこさへて上げませうか」「アどうか……私には牡丹をこさへててうだい」糸子はさくらの葉に蝋を引ながら「牡丹は下手ですもの」「下手でもいゝの」「ぢやあしたまでね」「アア……それから今私は一寸学校に行てくるが、留守にいつもの丁よぼろさんが来るかもしれないから其時は糸子さん、否でもすこしの間話相手になツてゐて下さいよ、ぢきかへるから……ね、外の人ぢやないからいゝでせう」なに故か糸子は顔をあかめながら「ハイ私には面白いお話なんぞできませんけれども、照も初もゐますから屹度お引とめ申しておきますよ」と腰元二人の方を見る、照はすこし笑ひながら「どうして、私どもなんぞお引とめ申たつて、なんのかひも御座いませんが、お姫様がお引とめ遊すもんなら、どんなお忙しい時だつて、今宮様は屹度そりや、お帰りになる気づかひはありませんよね、お初さん」これもおなじく笑ひながら「ハアさうですとも、ね、若様、只今照が申通りで御座いますから、御心配なさらずと、早くお出遊ばせ。」

×         ×         ×

噂をすればかげとやら、まもなくきたりし今宮は、優にやさしき姿ゆかしく、心ある人は其艶なるにまよはされて、我にもあらずたましひもありかさだめず、うかれいづべけれど、心なき人々はいかににやけし男とや見ん。衣服はれいの小紋の三枚かさねに、黒ちりの羽織なまめかしく、献上博多帯のあたり、時々ちらつく金鎖に、収入にくらべて借金の程もしられ襟のほとりの香水も、安物ならぬしるしには、追風遠くかをる床しさ。お初もお照も無言のまゝ、しばし見とれてぼんやりせしが稍ありて心づき茶菓もてこんとていでゆくを見おくりながら、今宮はきまりわるげの糸子にむかひ「ハハアさうでしたか、しかしお留守のところへ上つて、お気の毒でございますね」姫はいとゞはづかしげに「どういたしまして兄はぢきかへりますから御退屈でせうがすこしお待ち遊ばせな」「ハイありがたう……イヤどうか決しておかまひ下さらないやうに」糸子はかたへの写真帖をいだしながら「なんのちつともおかまひ申ませんで……今宮様、あなたこれをごらん遊したの」手にとりて「イヽヱまだ拝見いたしません……オヤこれはあなたですね、どうもお立派ですこと」「アラおなぶり遊しては否でございますよ」「勿体ない、なぶるなんてほんとうです」といひつゝしばし見とれしが、気をかへて、其次をあけて「これは花園女史ですね、あなた御懇意なんですか」「ハイよく時々いらつしやいますよ」「随分評判の方ですが、さうですか実際…」「ハイしかし世間の人はとかくわるくいひますが、あの方があんなにおなりなさつたのも全く社会とかの罪でせうよ、……幼少い時からよくひどい目にばかりおあひなさつたさうですから」「ハハアさうですか……いや女の小説家なんてへものは、ほんとに、かあいさうなものですよ少し自分の思ふ事を筆にまかせて書く時は、すぐおてんばだのなんのといはれますからね……それをおそれてかきたい事もかゝずにゐるのは、つまり女らしいのなんのとほめられたい慾心と、世人の評には屈しないといふ勇気のないよりおこるんですが、この花園女史は決してそんな臆病ではないやうですね」「さうで御座いますよ、ほんとにお話でもお遊びでも、あまり活発すぎて、丸で男の方のやうで御座いますもの、そのかはりさつぱりして同じ事などぐづ〱くりかへして、泣たりくどいたりなんぞは一度もなさつた事御座いませんの」「ハハアなる程さうですかね……ぢや私みたやうに、不活発な女のやうな者をあなたは屹度おきらひでせうウフフフ」なに故か糸子はあはてゝ顔をあからめ「アラ私は花園女史をすきだとは申しませんよ」今宮はわらひながら「ナニお好だつてわるいとは申ません」「イヽヱ好では御座いませんがあなたこそ私みたやうな陰気なものは、おきらひで御座いませう」「なんの私は女のあらつぽいのは好きませんから……」「うそ仰り遊せ……しかし私は……私はあきらめてゐますから」不思議さうに糸子を見て「なにをあきらめなさつたんです」「なんでもようございますの」

(二)

腰元のお京と、御寵愛のポチをともにつれて、こんもり繁りし青葉の木蔭、運動がてら散歩せんとて、お庭にお出遊ばされし御前の、まだ五分間もたゝぬのに、早くもお居間におかへりありしのみならずあはたゞしくお召とはなにごとならんと、三太夫いそぎ御前にすゝみいでゝかしこまれば、いつになきふけうげなお顔色にて「これ杉田、よんだのは外でもないが、今はなれにきて房雄と話をしてるのは、少しも聞おぼえのないやうな声だつたが、どなたかの」はてな妙なことをお聞き遊すと思ひながら「ハツ若殿様が此頃から御懇意に遊す小説家、放蕩山人と申方で御座います」ときいて、御前は眉をひそめ「ン小説家か、宝塔山人とは仏くさい名ぢやが……」「御意で御座います、歌舞の菩薩に縁のありさうな、結構な雅号で御座います」御前はフフと苦笑して「イヤそんな事はともかく、房雄はどうして戯作者なんぞと懇意になつたか、お前はよく知つてるだらう、ここでくはしく話しなさい」作者と懇意なのがどうしたと、仰るんだらうといぶかりながら「ハツよくはぞんじませんで御座いますが、此春の試験休みに、鎌倉から江の島の方へ御出遊した時、恵比寿やとかで御懇意におなり遊した御様子で御座います」「ンなる程、あの時は誰が供だつたかな」「さやうで御座います、別にお供の者はまゐらず、只御学友の若様方ばかりでお出遊しました」「なる程、一人で行つたつけな……ンぢやお前の落度ではない」落度ときいて三太夫びつくりして御前を見る。御前は猶も語をついで「イヤおれのやうな老人は今の小説家とかいふ者の才学はどんなものか、品行はどんなものか一向に知らないが、しかし昔の戯作者などといふものは、大抵普通のまじめな人間とはちがツての、いはゞこれといふきまつた職業もなく、しツかりした学問もなく、マアきゝかぢりの漢学か何かを、どうやらかうやらつかひこなして、俗人を驚かせたやうな質のもので、其上品行なども皆みだらなものばかりで、つまり其持つて生れた小才で、世の中を胡魔化して、一生貧しく賤しく送たものばかり多かつた、それで今の小説家も、やつぱりさうだらうといふではないが、房雄は只さへあゝいふ軟弱な質だから、なる丈軍人か何かを友人にして、さういふ風の人にはあまりつきあはせたくないとおもふが……何とか遠ざける工夫をしたいものだがの」落度の意味のわかりしに、三太夫やつと落つき「御意で御座います、只見うけましたところでは放蕩山人もいたつてよい方のやうで御座いまするが御前の思召をうかゞへば、また若殿様の御身の上も案じられますから、猶あの方の善悪を聞きたゞして、もしもお為にならないやうな事が御座いましたら、なるべくお腹立にならないやう、若殿様に御意見を申上ませう」「イヤ人間のよしあしにかゝはらず、おれは小説家ときくと、実に身ぶるひがする程きらひだから、ぜひ遠ざけてもらひたい」。

折から殿の愛妾お露の方、しづかにこゝに入りきたりて横目でぢろり三太夫をにらみしが、電光石化首ふりむけ、殿を見る目はきはめてやさしく、したゝるやうな媚をふくみ、いひにくさうにくごもりながら「アノ……只今ちよいとお次で伺ひましたが……アノ…‥御前様」殿はわるいところへきたといふやうなおこゑで「露、何か用があるのか」「ハイ」涙ごゑで三太夫の方にむき「アノ……何で御座いますが、私へは今日かぎりおいとまを下しおかれまするやうに、もし杉田さん、どうか御前様におねがひ下さいまし」御前は意外に吃驚して「露、何が気に入らなくつてさ様の事を申のぢや」いはれて猶々涙ごゑで「何の勿体ない、気にいらぬなどゝ……決して〱さやうの事では」「では何ぢや」「ハイ……あの御前様のおいとひ遊す放蕩山人とは、私の兄、今宮丁の事で御座いますから、其妹の私もとてもながくは……」きいて御前は意気地なくも「さやうか、露の兄とはしらなかつた」きまりわるげに三太夫の方にむき「これ杉田、そんならすこしもくるしうない、何ぞうまいものでも沢山御馳走してやるがいゝ」変幻自在にあきれはてゝ、思はずしらず三太夫「ハツ今度はさ様に遊しますか」。

(三)

立聞されしもつゆしらず、はなれにきてゐる放蕩山人ホーレル水でも呑みしものか、日本人とは思はれぬほどつや〱する色白な格恰のよい顔に、ぞつとするほど愛嬌のあるゑくぼをよせながら「イヤどうも驚きますね」と不意にいはれて房雄も驚き「ヱどうかしましたか」「イヱあなたの此書斎です」「書斎がどうかしましたか」「ハア始めて私が伺つた頃は、御本はいづれも書棚や本箱にちやんとかたづいておりましたつけが、此頃ぢやいつ上つても、新聞雑誌やなにやかや、大変乱雑におとりちらしで丸で私の書斎のやうですから、どうして俄にさう無性におなりなさつたかと、実に驚きますよ」「ハ……何ですよ、私もあなたにお目にかゝつてからは、どうもあんな四角張つた理屈くさい、法律なんぞ否で〱仕方ありませんし、又昔から好きな道ですから、何か一つ徒ら半分かいて見て、あなたに直していたゞかうと思ツて此頃から少しづゝつまらぬものを書き始めたもんですから、自然どうも取りちらしても、其まゝにばかりしておくですから」と若様決してまねして、わざとかうしたのではないとの言ひ訳、何やらきまりわるさうなり。放蕩山人は鼻のさきにて聞きゐしが、何のこいつ人まねか、鵜のまねの烏瓜買ふてうまいとほめる人もあるまじきは、いかに花族のひまでこまるかしらないが、くだらぬ寝言をかきならべて、小説で候法律否のと、著作三昧かたはらいたしと、心のうちではあざ笑ひしが、色には更にいださずして、さも感心したるらしく「ハハアさうですか、そりや何より結構です、失礼ですがおできになつたところを少し拝見ねがひたいもんですが」、といひつゝ、実に不作法にも青貝蒔絵の机の上に、何やらかきちらした草稿を会釈もなく引つたくれば、房雄はあはてゝ「アそれをみてはいけません、あなたまだそれはいけないのですから」といきなり山人の手からもぎとつて、無残折角書きし物をめちや〱に押丸めて、袂のなかにかくしたるを山人は笑つてあらそひもせず、無言でながめてゐたりしが稍ありて「いや、おできにならないものを拝見すると言たのは失れいでした、しかしマアどんな御趣向です」房雄は少し見られたかと、猶顔をあからめながら「趣向……ナニ大したものなんぞとてもできませんから、ほんのやき直しです、ごく古代めいた人情小説です」「ハハア人情小説……イヤそれほどむづかしいものはありませんよ、失礼ですがあなたなんぞまだお年もお若いから、実験なさつた事も少いでせうが、さういふものをおかきになるとは、実に敬服のいたりです」とあんに軽蔑の意をほのめかす。房雄は一向無頓着にて「イヤ其経験のないのに実にこまるんです、丸つきり書生ですから、とてもろくな物はできません」尤だ、よした方がよからうと、心のうちでは思ひながら、口の前では反対に「イヱさうぢやありませんよ、諺にも歌人はゐながら名所をしるといひますから、ましてあなたのやうな才子の方には決して経験の有無にはよりません」頭をかきながら「あなたはさうかもしれませんが、私のやうなものが経験のない事をかこうと思つても、とても想像ばかりぢやかゝれません、実にこれにはよはみです」「フフフフそんな事はありますまい、世の中の事は大抵想像通りの物ですよ」何か急に思ひ出したやうに、時計を見ながら「ぢや何ですが、もしおさしつかへがないなら、これから大に人情研究に、適当の場所へおともいたしませうかウフ……」下地は好なり御意はよし、これまでとても満更おぼえのなきにもあらねば、房雄も内心大によろこび「アハハハさうですね、いゝでせう、お供しませうもう、何時です」「七時半ですから丁度いゝです」「ぢや一寸着かへてまゐりますから、失礼ですが」と目礼して、奥にいりぬ。

あとに山人うまい〱とひとり笑しながら、膳の上を見まはせしが、肴はあらして残骨いとゞなまぐさく、徳利をふりこゝろみれば、音もなきに失望して、煙草ばかりくゆらせしが、若殿おめかしにひまどりて、中々急にいできたらず、あまりの長きに退屈して、つと立ち上がりて、庭下駄引かけほろ酔に櫻色となりし美顔を風になぶらせながら、築山のうしろ泉水のまはりなど、そゞろありきしつゝ、流石やさしき文人とて、折にあひたる古歌などひくゝ口すさみ、我にもあらで立ずみし袂にさはりしものあるにぞ、何かとばかりおどろき見れば、いづこより投ぜしか、簪に結びし玉章一通足もとに落ちりてひろひあぐるを待ゐる風情、これ初恋の面影と、しるやしらずや月さへも、まよひの雲につゝまれて、ひかりもいとゞうすれゆく、艶にゆかしき夕なり。

(四)

芸者は一二度よびたる事もあれど、かゝるところは始めてなれば、何やらきまりわるさうな房雄の様子に、放蕩山人さては気に入らなくつてかうだのかと、内心すこしくしよげながら、しきりと機嫌をとる折りから、此家のお神お茶道具を持きたりて、例のあいそよきにこ〱顔にて「旦那今夜はどちらへ」といはれて山人頭をかき、房雄の顔を一寸見て「さ様さね……あなたどこにしませうね」房雄はいとゞきまりわるげに「どこつて、どこでもいゝです」お神はホゝと笑ひながら「ではあなたいつものところへお出なさいよ、此頃ちつともいらつしやらないもんだから、きのふもおいらんからおことづけが御座いましたよ、ほんとに今宮さんは薄情ですね」得意になりてすつぱぬかれて、始めてのつもりの化の皮、血のでるまでにはぎとられ、山人大に閉口せしが、今更どうする事もならず、足のくせにて、うっかり馴染の茶屋にきたりしを、心のうちに後悔しながら「フヽヽヽいゝ加減な事ばかり、何でおれに馴染の女なんぞあるものか……然しどこに仕様ね」「オホヽヽお馴染みかどうかはぞんじませんが、どこに仕様なんてそんな浮気を仰らずに、いつもの尾彦になさいよ」「ぢやさうしやうかね……あなたいゝですか」房雄はなれぬあそび故あまりおもしろくはおもはねど、すでに同行せし上は、今更否ともいはれねば仕方なしに「ハアどこでもいゝんです」ときいてお神は如才なく、消炭をよびて「あの――お松や、お前尾彦へ行つて、お座敷を見てきておくれ」女は手をついて「ヘヱかしこまりました」といひつゝ一寸頭をあげて、今宮を見「オヤどなたかとぞんじましたら、マア旦那でいらつしやいますね、此頃は大変お見かぎりで御座いましたねヱ」お神はにこ〱笑ひながら「お松や、旦那は他へいゝところがおできになつたんだよ、おいらんにいひつけておやりな」「ホヽヽヽにくらしい事ね、さんざいひつけてまゐりませうよ」といでゝゆく。あとには今宮酒肴を命じておもしろおかしくさゞめきながら、三人とやかくくだらぬ事を話すうち、まもなくお松はかへりきたりて、「アノ丁度よろしう御座いましたよ」。

(五)

緞子の夜着をかきのけて「姫や、今日はどうだい、少しいゝ方ではないの」といふ母の情はありがたけれど、今しもうれしき夢を結びつゝ、ねぶり居し糸子はよびさまされしくやしさに、こたふる声もはか〲しからず「ハイ……どうも」といひつゝ細き溜息をもらして枕の上に両手をのせ、其上にひたと額をつけて、苦しげにうつむきゐる。母君は、心配さうに「やつぱりいけないのかへこまるねへ、どんな風に苦しいの」いひつゝやせほそりし背中をなでさする、姫はいとゞ物うげに「どこつて……どこが苦しいかわかりませんが、只何となく気がふさいでいけませんもの……」「気がふさぐつてお前、何か心配な事か、気に入らない事でもあるのでないの、もしそんな事なら、私には遠慮せずと、話すがいゝよ」「イイヱ決してそんな事は御座いませんけれど……」「ぢややつぱり脳でもわるいのだらう、後に葉山先生もいらつしやるから、猶よく見ていたゞくがいゝよ」「ハイなに大した事でも御座いませんから、今によくなりませうよ」「どうかはやく直ればいゝが……お前そんなにうつむいてゐると猶更ひどく頭痛がするよ」といひつゝ携へきたりし本をいだして「これ……これはね、此頃房雄が始めてかいた小説だとさ、一寸御らんな、あの放蕩山人が直したのだよ」といはれて糸子は顔ふりあげ、一寸表紙を見て「まよひの雲つてへ名ですか……オヤこの字は兄様ぢや御座いませんね」「アア今宮さんだよ、上代様で中々お上手ね」「おつ母様はもう御らん遊したの」「アアよんだの、一寸面白かつたよ……しかしねヱ、それはともかく、どうもこまるよ」いぶかしさうに「ヱヽ」「あの今宮さんがお出になると、とかく露がそは〱して……向はあゝいふ名高いほうだから大丈夫だらうが、どうも外の女中どもが二人の事をかれこれいふから……さうかと言つてお父様までが、此頃ぢや折々今宮さんとお話など遊すもんだから其都度お茶をだしたり何かをする露を、かれこれいはれもせず、それにあの方はいゝ方には相違ないが、どうしたもんだか、房雄は、今宮さんとおちかづきになつてからはとかく外にばかり出たがるから、そんな事はなからうと思ふけれど、あの方はもし仮面かぶりぢやないかと、時々考へるが、姫、お前は何とおもふの」もし我心を見ぬきてのお言葉かと糸子は思はず顔あかめしが、さあらぬ体に「ですがおツ母様、露なんぞはもと〱いやしい女ですから、ふだんでも俳優や何かの写真なぞ持てますもの……あの方もあんまりお美しいから、自分ひとり例の浮気で、そは〱してるので御座いませう、あの方に限つて仮面かぶりなんてそんな事は御座いますまいよ……又兄様だつて文学上のお話が面白さに、つひおかへりもおそくおなり遊すのでせう」母はつく〲きゝをはりて「さうだらうと思ふけれど」「さうで御座いますとも……ですがおツ母様、何なら露を下げて、外の女をおやとひになつたらよう御座いませう」「さ様さね……それから此頃妙だと思つたのは、お父様は何とも仰らないが、お京とお照があのかう言つてたよ、今宮様はお露さんの兄さんだとさつて、妙ぢやないか、お父様はあゝいふ方だから、何か露がいゝかげんな事を申上げてるのぢやないかと思ふよ」糸子はいとゞいぶかる如く怒るごとく目じりをすこしつけあげて「さうで御座いますね、だから早く露をお下げになつたらいゝでせう」「アア今に何とかするが姫お前もあの方がお出でになつても、あんまり房雄の方にお出でないよ」おどろいて「なぜでございますの、私は別に……」「なぜでも、今が嫁入前の大事の身体だから」「エヽ」「おどろく位物のわきまへがないのかへ」

(六)

人形片手に花子は、あはたゞしく兄のゐまに入りきたり愛らしきこゑにて「兄さん、こないだのいゝ姉さんがきたよ」丁は今しもよみかけし洋書を下におきながら、顔をしかめて「こちらへお出とお言ひ……それからおツ母さんはどこへいツたの」「赤坂の叔父さんとこへ」「さう、ぢや花ちやんは遊びにいツてもいゝよ」「アア」とうれしげにいでゝゆく。やがてまもなく入りきたりし女をみれば、別人ならぬ青柳子爵の愛妾お露、いとなれ〱しげに丁の側に座をしめて「マアうれしい、今日はいゝ塩梅に皆さんお留守ですね」物うげに「アアだが母はぢツきかへるよ……お前マどうしてきたの、何か用でもあるのか」うらめしげにぢツと見て「ハアあなた此頃はなぜ御前の方へいらツしやらないの」面倒くさそうに「だツてぢいさんのくだらない話が否で仕様がないからさ」涙声に力をいれて「うそばツかり」顔をしかめて「またそんな邪推をいふよ」腹立しげに「邪推ぢやありませんよ……あなたはもう私に秋風が立たのでせう」「馬鹿お言ひ、今日まで出入のできるのも、みんなお前のおかげだもの」「それをお忘れなさらないの」「忘れるもんか」「だツてあなた」「あなた〱ツてどうしたんだへ」「どうもしませんが……あのね、お姫様はあなたにこがれてわづらツてるの」「くだらない事を、此間行ツた時、あんなに丈夫でにこ〱してゐたぢやないか」「さうですよ。今は、もう直ツたんですもの……だが、お姫様の病気がよくなツたらあなたは御前の方へいらツしやらないもの、どうしてもあやしいわ」と三ツ輪の頭をうなだれる。今宮さてはと心のうちにおどろきしが、色にも見せず腹立しげに「とんでもない、馬鹿な事を、おれだツて房雄さんといろ〱話があるから、そんなにぢいさんの方にばかりもゆかれないよ、さうお前のやうに、うるさく疑ぐられてはほんとに否になるよ」涙ぐみながら「どうせそれやアお否でせうよ、私しやお姫様のやうに美くしくはないから」いま〱しさうに「ぢや何だね、おれと糸子さんと、何か訳でもあるといふんだね」泣ながら「ハア……だから私しやどうしやうかとおもふの」うるさくて仕様なければ、どうにかしてかへさんと、きツと心に思案して「どうしなくともなんとかかとかこぢつけて、早くさがツておれと夫婦になツたらいゝぢやないか、それともおれのやうな素寒貧はいやかへ」とにツこり笑ふうつくしさ。此一言にたらされて、今の怨もどこへやら、涙をはらひてうれしげに「あなた屹度、ほんとですか」「うそなんぞいふもんか」「そんならもう安心ですが」といひつゝ柱の時計を見て「オヤもう四時ツ、ほんとににくらしい時計ですね、仕方がない、今日はマアかへりませう、おそくなツてあらはれるといけないから」「さ様さね、其方がよからう」丁の腹の中、どうか早くあらはれて、おれのきずにはならぬやう、こいつばかりさげられてくれ。

(七)

奥方きツとかたちを正して、面色たゞならぬ殿にむかひ「御前、さうお怒り遊してはこまりますよ、御前はまだ迷つていらツしやるから、さ様な事を仰いますが、何の兄なもので御座いますか、露と今宮はどうしてもおかしう御座いますよ」御前ひどく立腹したる様子にて「ンそれにはたしかな證拠があるのか」とよもやあるまいといふ顔色、奥方は得意になつて「御座いますとも、何よりたしかな證拠には、区役所に杉田をやツて、戸籍をしらべてもらひましたら、うそもうそも、まつかなうそで露には男の兄弟なんぞないとの事で御座います」こゝにいたツて御前も最早一句もなく、苦々しげに意気地なくも「さうか、しかしともかく一応おれに相談してくれゝばよかツたのに」「オヤまだ御未練があるので御座いますか、ほんとに御前もう何で御座いますよ、お年がお年ですから大がいに遊した方がよう御座いませう……それはともかく、あの今宮のおかげで、実に大変で御座いますよ」「イヤ今宮は最初ツからおれも好かない男だツたが、実にけしからん奴だ……尤も露も露だが、して大変とはどんな事か」「外でもない、あの、房雄で御座いますがこまつた事には今宮にさそはれて、吉原通ばかり勉強したものと見え、学校は首尾よく落第したばかりか、昨日も今日も家へはかへツてまゐりませんから、どうした事かとさま〲たづねてもらひましたら、マアおきゝ遊せ、かねて馴染の尾彦の小太夫とかいふ女をつれて、熱海へ行ツたとの事で御座います」これには御前もあきれはてゝ「ヱヱあの房雄が」奥方涙ぐみつゝ「ハイ房雄です、此青柳家の家督となる房雄で御座います……これといふのも、もとは今宮のおかげながら、一つは御前のお身持がお身持故、房雄もそんな勝手なまねをいたすので御座いませう」面目なげに「イヤさうおれにばかり食つてかかられてはこまるが、何しろ其まゝにしてはおかれんから、杉田でも早速むかひにやるがいゝよ」「それや無論でございますとも」折からお京が入りきたり、あはたゞしげに手をつかへて「あの奥様、お姫様がどちらへお出なさいましたか、お見え遊しませんよ」。

(八)

長火鉢の側に立膝して、片手には新聞を持ち、片手には烟管をもちて、しきりと煙草をくゆらせながら、今しも仕事に余念なき母親の方をぢツと見て「おツ母さん、露はどこへ行ツたの」ひからびついたやうな声にて「お湯へ行たよ」「大変長いね」「さ様さ」「もう何だよ、そろ〱いぢめて泣かせるがいゝよ」「オヤ大変薄情な事をお言ひだね、自分が勝手に引ずりこんだくせに」「わからないねヱおツ母さん、最初子爵と懇意になつた時分、あの老公の気にいらなくツて、あやふくお払箱になるところを、あいつ老公の妾のくせに、私に心をよせて、自分の兄だといツたもんだから、ぢいさん忽ちのろくなツて、それなりけりになツたんだよ、其おかげであの馬鹿殿を胡麻化して、よツぽど借金のかたをつけたんだアね……だがあすこの奥方は中々悧口だよ、私と露との事を見あらはして、とう〱二人ともおはらひ箱さ……でも私も少し義理があるもんだから、仕方なしにこツそり家にいれたのよ、けれどもおかげで大事の名誉はめちや〱になツたし……それにもう何もかも大抵とり上げたから、此上猶家におけば、只損になるばかりだよ、だからおツ母さん、お前気をきかして、もうそろ〱いぢめておやりよ」残酷きはまる言の葉を、平気の平左で花のやうな愛らしい口から吐出すおそろしさ、母はつく〲きゝゐしが「なる程きけばそれもさうさね、だがお前、此頃のやうに仕事がなくツては、実にこまるね、東西新聞もふみ倒されてるし、露はお払箱にきめたところで……大きな方はかたづいたが、まだはしたがねが残つてゐて、うるさく催促されるもの、其あとはどうするへ」「なに心配するにおよばないよ、私にはまたいろ〱の手があるから」「さうかへ、ならいゝが」といひつゝ我子をぢツと見て「ほんとにお前の器量なら、女のさわぐのも無理はないよ」「なんだねくだらない事を……それよりかきツとうまくいぢめなければいけないよ」「あいよ承知だよ」折から格子をがら〱あけて、お露は今しもみがきたてゝかへりきたるを、見るより母は目に角たて、我子に一寸目をくばせし、手なみを見よといひ顔に「大変長かツたね、此忙しいのに何をぐづ〱してるんだへ、まいにち〱化粧三昧に大事の時間を費して、女郎芸者ぢやあるまいし、見ツともない、着物をずる〱引ずつて……」いつもとても意地わるけれど、今日はあまりのするどさに、お露は殆ど縮みあがり、小さくなりておそる〱「おツ母さん、かんにんしててうだい、つひお向のみいちやんと御一所になツたもんですから」とがり声にて「また俳優の噂にでも夢中になツてゐたんだろう、馬鹿々々しい……オヤ〱大変美しくおつくりができましたね、丸で粉なやの盗どろぼうのやうですよ、オホ……オヤこのこは泣くよ、何が悲しいんだへ、……しかし思へば尤だよ、こんな働のないものを亭主に持て、ろくに物見遊山もできず、おまけに私のやうな、皺くちや老婆の世話までするかとおもツたらさぞなさけなくなるだろうよ、ねヱお前、露は泣く程こゝのうちが否なんだから、男らしく未練をいはずに、ひまをおやりよ」此時までもお露の方を見むきもせず、新聞よみゐし放蕩山人、やうやくこちらに頭をまげ無造作に「なに否ならいつでも出ておいでよ、お前の方では未練があツても、おれの方にはすこしもないから、ちツとも御遠慮には及ばないよ、ハイ女に不自由しませんから」と、言ひつゝ一寸時計を見て「おツ母さん、今日人と約束した事があるから出てくるよ、着物を出しとくれな」「アア」「早くさ、おそくなるといけないから」いはれてやう〱立ながら「なる丈早くかへるんだよ」「早くはかへられないよ」「オヤなぜ」「なぜでも訳はあとで話すよ、いくらおそくとも又二三日かへらなくとも、案じずにゐておくれ、それから着物はあの縞縮緬にしとくれ」「アア」といひつつ母親は奥に行。今まで泣伏してゐたお露はむくりとおきあがり、いきなり今宮にとりついて「あなた今のはほんとうツ」情けなくもいきなり其手をふり払つて「お気の毒だがほんとだよ」

(九)

こゝは下谷の池の端、名もなまめかしき後朝きぬぎぬといふ待合の奥二階、此あついのにしめ切つて、人目を忍ぶ男女の客、いはずとしれし恋の曲者、女は男の絽の羽織をぬがせて袖だゝみにしながら、何がうれしいかにツこり笑ふ。男も只訳もなしににつこりしながら「しかし今日はよく出られましたね」愛らしきこゑにて「そりやアあなた一生懸命ですもの」煙草をのみながら「随分むずかしかツたでせう」「ハイやツとの事でまゐりましたの」「さうでせうね、しかし私も母にうたぐられてよわりましたよ」「マアどうも何とかお怒り遊して」「イヽヱ別に怒りもしませんでしたが……ナニもうこゝまでくれば大丈夫です」「そんならよう御座いますが、しかしどなたかあとをつけて入ツしやらないでせうか」「なに御心配にはおよびません、たとひつけたにしろ、此商売ですもの、うつかり二人のゐる事をあかす気づかひはありませんよ」「さうでせうかね」「さうですとも……それはともかく、あなたほんとにお家はいゝんですか、それが一番心配ですね、何しろおツ母様にはひどく私もいはれてますからね」かなしげにしほれて「どうして母はあんなに情ないでせうね……だがあなた御心配遊すな、今日のところは大丈夫ですからと、いひつゝふところからふくさ包をとりいだして「ほらお金もね、二百円程持てまゐりましたの」二百円ときいてそゞろうれしく、「さうですか、そりやいゝ都合でした……しかし妙ですね、考へると此春お庭で始めてお手紙を下さツた時よりの事をおもふと、実に夢のやうですね、あなたとこんなにならふとは」といひつゝ爪紅艶なる其手をとツて引よせれば、女ははづかしさうによりそひながら、膝にもたれて、下より男の顔をそツと見あげ、小さなこゑにて「あなた、あの時はなぜあんなにつれなくなさツたの……」其背中をなでながら「イヤ決してつれなくしたい心は少しもなかツたんですが、あの時分は春山の若殿が(糸子の結髪)おかくれになツて間もない折ではあり、又考へれば行末とてもとげがたい恋だと思ひましたから、あとで物思ひをするよりは、と思つてそれで私はあなたにもまさるくるしい恋を忍んでゐたのですよ」「うそ仰り遊せ、春山なんてまアいやな……あなたは屹度私みたやうな野暮なものより露のやうな意気な女がお好だからでしたらう」「何の向はともかく私においてはあなたのお父様のお召使をかう言ては何ですが、あんなはしたない下品な女はきらひですよ」うれしさうに「でもどうだか」「まだそんな事を、うそならどうします」「かうします」「おやいたい、ひどい指の力ですね、こんな細い白魚のやうな手々には合ひませんね」「いやですよひやかして……」「フ……怒たの……それはともかくあなたほんとにいらツしやるおつもり」「アラ何でうそを……ぜひつれてツててうだいよ、どうせかうして家を出てきた上は、たとひどんなかんなんをしても、あなたのお側に居る事ができるなら、それでいゝと思ツてる位ですものを、まして今度は見た事もない所へつれてツて下さるのですもの、私はどんなにうれしいかしれませんよ」「ほんと、ぢや今夜のうちに大宮まで行きませう」おどろいて「これからですか」「ハアなに時間は大丈夫です……ね、さうすれば、むかうに行ツてからがゆツくりしていゝでせう、そして上野から汽車にのるにも、昼より人目がなくツて、どんなにいゝかしれませんよ」「あなたと御一所なら私はどうでもよう御座いますが、しかしあなたのおツ母様へはどう遊すの」「なに母には向に行ツてから手紙をよこした方がいゝです……あなたと夫婦にしてくれるならかへる、でなければかへらないとね、いゝでせう」「ほんと、まアうれしい事」「ほんとですとも」とにツこり笑ツて、女の絹のやうな頬に、自分の櫻色の頬をくツつけて「決してお世辞でも何でもない、ほんとうの事をいふんですがね、私はこれまで真に女を思た事はありませんが、あなたにはどうしてこんなに迷ツたか、実に自分ながら不思議ですよ」女はいとゞうれしげに「たとひうそでも其お言葉は忘れません」「うそかまことか今に屹度しれますよ……お兄様も今頃は熱海へおつきでせうが、うらやましいのね」「これからやツぱり御一所にいきますもの、兄をうらやむには及びませんわ、それともあなたはまだ尾彦の花越とかを思ツていらツしやるの」「何の馬鹿な……そんなくだらない事はもういひツこなしさ、早く仕度をなさいよ」。

(十)

はれて妹背となる日をば、むなしくこゝに松島の観月楼上、三階の端いと近く立いでゝ、糸子は四方をながめながら「ほんとにどうもいゝ景色ですね、これにまさるところは日本にはありますまいね」寝ころんで居た今宮もおきてきて、糸子の肩に手をかけて「いゝのなんのツて丸で絵のやうですね」「あの向にみえるのは何といふ島ですか」「あれですか、あれは雄島です」「あの島は」「大黒島」「其側のは」「布袋島」「オホヽ……七福神の名みたやうですね……オヤ今日は大変船がみえますね」「あれは皆漁夫の船ですよ」「マア大変面白さうですね」「なに家業となつたら別に面白くもないでせうよ、我々小説家なんぞの道楽商売でさへ、随分つらい事が多いんですもの」「オヤあなたもつらい事があるの」「ありますとも」「どんな事」「どんな事ツて、さうとりとめた事でもないんですが、はたから見たやうに気楽なものではありませんよ」「そりやアやツぱりさうでせうね」何かしばし考へて「それはともかく、しかし今日の母の手紙の様子では、余程ひどくおうちの方からおかけ合があツたものと見えますね」「さうですね」と心配な顔色、今宮は溜息をつきながら「それで母も妹と二人きりで、非常にこまるから、どうか帰ツてくれろツて、怒る所か頼むやうな手紙ですもの、私の母は無論ゆるしてくれませうが、只おぼつかないのはあなたの御両親ですね」糸子はしほれながら「私は両親がゆるしてくれないなら、それで、よう御座いますから人には何と言はれたつてかまひません、只あなたのお側にさへ居られるなら、どうでもいゝと思ひますよ、ですからおかへり遊すのがお否なら、いツその事あなたのおツ母様と、花子様とをこゝにおむかへなさツたらいゝぢやありませんか」「それは何訳もないんですが、しかし私の家業は都でなくツてはできない事ですもの」「なる程さうでしたツけね」「それにくる時、日光や、飯坂なんぞであんまり遊んだもんですから、もうお金もそんなにありませんし、実にこまるんです」「そうですか、どうしませうね」折から此家の女中きたりて、茶代の効能むなしからず、東京にては借家住居の今宮を、衣服の綺羅と顔立の上品になるに胡麻化されて、下へもおかぬ花族あつかひ、障子の外に手をついて「御前、只今新聞がまゐりましたから……それから何ぞ御用は御座いませんか」今宮は物うげに「アアマア何もないよ」「さ様で御座いますか……今日はいゝ塩梅に風が御座いませんでよろしう御座います、ちと瑞巖寺へでもいらツしやいませんか」「先にも見たから……しかし中々立派だね」「さ様で御座いますツてね、私どもはまだ一度も見た事御座いませんもの……」「オヤ姉さんこゝぢやないの」「ヘヱ王子なんで御座いますが、こんな所へまゐツて居りますので」「さうかへそりやマアさぞ故郷が恋しいだろうね、晩にひまになツたら遊びにおいで」「ヘヱありがたう御座います」と会釈して出でゆく。今宮又もねころびて、煙草盆を枕にしながら、今しも女がもてきたりし東京新聞をよみそめしが、稍ありて顔色かへてむくりとばかりおき上り、何かしきりに考へゐる糸子にむかひ「糸子さん、もう駄目ですこ……これを御らんなさい」いはれて新聞手にとり上げ「どんな事が御座いますの」「これ、こゝを御らんなさい」さゝれしところに目を下せば、あはれ悲しやみだしもつらき文学者の大堕落、はツとばかりにおどろきながら、胸とゞろかせてよみ終り、おもはず新聞とりおとしぬ。

×         ×         ×

才にまかせて世をも人をもあざむきつゝおもしろおかしく今日まではどうやらかうやら送りきしが、お露をつまとせし頃より、名誉はすでに地におちて、書肆には体よく遠ざけられ、朋友よりは絶交され、親族よりは義絶されて、社会の信用失ひし上、日々借金取にあたらるゝ苦しさ、糸子の恋慕を幸に、こゝに姿をかくせしも、うか〱するうちふところも大方さびしくなりしのみか、流石薄情残酷なる心にも、世にたぐひなき糸子の姿と、其赤心にほだされて、始は当座の花心、口さきのみでたらせしが、いつのまにやら今は心からいとしくなり、我と我身を疑ふまで、千代も八千代も末かけて、はなれともなき恋しさに、何とかなして表むき夫婦にならるゝすべもやと、いろ〱思ひをくだきしが、我がこしかたをかへりみれば、糸子の両親こゝろよく、承諾すべき訳もなし、さりとていつまで此ところに、月日をおくりてゐられもせず、早や此上は全く路用のつきぬうち、ともかくみやこにかへり上、何とか工風をせんものと、稍決心せし折も折、またもや糸子との浮名を新紙にうたはれて、今はかへるにもかへられず、いかに面皮が厚しとて、ふたゝび人に顔見らるゝに忍びねば、いかゞはせんと思ひしが、思へば思ふ程世の中が否になり、善悪邪正無差別の、こんなつまらぬ娑婆世界、いつまでゐるもおなじ事、いツそ浮世をよそに見て、静けきさとにねぶりなば、いかに心も安からんと、我にもあらずぬけいでて、足にまかせて歩みしが、松吹く風の肌さむきに、ふと心づきてあたりを見れば、岩根を洗ふさゞなみの音は女の泣く如く、松の雫か夜露か雨か、おのが涙か長からぬ、袖もしめりて物がなしく、沖のいざり火影かすかに、月もおぼろにくもれるは、我身のはてをとふにやと、思へばいとゞはかなさに、かへらぬ事を思ひで、おかしゝ罪をくゆる折、いづこともなくとめきの香り、こはいぶかしと思ふまもなく、我にすがりしものあるにぞ、たぞやとばかり驚けば、おもひもよらぬ糸子なり。よもしるまじと思ひしに、どうしてあとを慕ひしかと、しばし無言にながむるを、糸子は涙のこゑ細く「あなた……あなたはマア何といふ情ない方でせう、私をねかして夜夜中こんな所にいらツしやるとは……マアあなたこゝはどこだとお思ひなさいますの」いはれて今宮心づき、そもやいづこと見まはせば、今まで目には入らざりしが、いともふりたる社のさま、月にすかしてながむれば、文字もかすかに五大堂、なる程おもへばあの気味わるき、琴柱の橋を渡りし覚はあるやうなり。さりとては序あしゝと、心のうちにおもひながら「どこでもない五大堂です、あんまり月がおもしろかつたものですから、つひぬけ出してきたんです。決してあなたをおきざりにしたなんて訳ぢやないから、まうそんなにお泣なさるな、ね、もう泣かないでさ」いへばます〱むせび入りて「うそ……うそ仰り遊せ、あなたはこ……こんなにおかきおきまで残しなさツていらしつたのですもの、もうお心はしれておりますよ……なる程あんなにかゝれては、しかも事実であツて見ればさう思召すも御尤です、だから私もおとめ申はいたしません……そ……其かはり私もどうか御一所に死なせて下さいましツ」泣いて我手にすがられて、今宮殆ど当惑せしが、屹度思ひついて「イヤ其お心は忘れません、しかし糸子さん、あなた私のかきおき御すらんなさツたの」「拝見いたしましたとも」「そんならよオく聞きわけて、私一人死なせて下さい」糸子は涙の声ふるはせ「あなた今更そんな事を仰るのは、私をおいとひ遊すからでせう、考へても御覧遊せ、あんなにひどくかかれては、たとひどうでも私も生きて両親に顔向はできません……だからあなたがたつて一所に死ぬのは否だと仰るなら、私は一人で死にますから」と言ひつゝつと身をおこして、崖の方にはせいだすを、あはてて今宮引とめて、これまでなりと決心し「そんなら御一所に死ませう」「ほんとうですか」「ほんとですとも」「オヽうれしい」とよろこぶあはれさ、思へば夢にもおとりたる、痴情のはかなさを、うき世の人はそしるとも、迷ひにまよひし今宮は、いかにうれしとおもひしならん。おりからさツと潮風に、雲はらはれて月影も、ふたゝびくまなくてらすにぞ、手に手をとツて稍暫時、顔と顔とを見合せて、これが此世の名残かと、言葉はなくてもろともに、涙にくるゝ四の袖、吹浦島の岸による、浪も二人の身のはてを、かなしむごとき風情なり。

×         ×         ×

其翌々日仙台東北新聞の第三ページには、てもめずらしき文学者の心中といへる、いと長々しき雑報を見るにいたれりとぞ。

底本 / Source edition

底本:「田澤いなぶね作品集」無明舎出版
1996(平成8)年9月10日初版発行
底本の親本:「田澤稻舟全集 全」東北出版企画
1988年2月25日初版第1刷発行
初出:「文芸倶楽部」
1896(明治29)年11月
※「うつかり」と「うっかり」の混在は底本通りです。
入力:もりみつじゅんじ
校正:志田火路司
2002年2月4日公開
2009年9月17日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

この表示について / About this rendering

記録は下にリンクした署名済みの TEI ファイルです。このページはそれを読むための一つの形です。読みが複数ある箇所は一つだけを本文に示し、もう一方は語の title に残しています。 / The record is the signed TEI file linked below. This page is one way of reading it. Where the text has more than one reading, the page shows one of them and keeps the other on the word itself, in its title text.

リリース / Release
913b24012e1626b47bebf5a14fd31773728229efdb088f1ceb934717c1ac800c
TEI
/works/004093_000904/tei
プレーンテキスト / Plain text
/works/004093_000904/plaintext
書誌 / Bibliography
/works/004093_000904/

田沢 稲舟「五大堂」(新字旧仮名)、底本『田澤いなぶね作品集』無明舎出版、1996年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 004093_000904, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

引用のしかた / How to cite