Soranoha

或る男の恋文書式

あるおとこのこいぶみしょしき

岡本 かの子

お別れしてから、あの煙草屋の角のポストの処まで、無我夢中で私が走つたのを御存じですか。あれはあなたにお別れしたくない心が、一種の反動作用を、私の行為の上に現はしましたの。それから私、走りながらも夢中の夢のやうに考へましたことは私がもし一寸でもふりかへつたら私はまたあなたの方へ……いえつひにあなたへ走りかへつて、永遠にあなたから離れられない、あの月夜の、月の雫が太く一本下界に落ちて、そのまゝ停つたやうに真新らしく白く木肌をかゞやかした電柱の下にしよんぼりと私を見送つてたつてゐらつしやつたであらうあなたのおそばから。それから私は、夢中で走りながら、まだこゝろのなかで、はつきり意識したことがありましたの。それは、あなたが、私の走るうしろ姿を見送る眼に、これはまた、同じ月の雫でも、実に、それを濃まやかにあなたの眼に点附したやうなあなたのお涙が……それが、あなたの特長である、幅広の二重まぶたの所へあふれ出てしまはないうち、つまりそのお涙をたゝへたまゝのあなたのお眼によつて、昨夜のお別れの最後のなかからなくなる私の姿を完全にみまもつていたゞき度いといふ意慾を、あの夢中で走る私の胸にはつきりと私、意識してゐましたの。

そのくせどうでせう、私、息せき切つてポストまで辿りつき、赤ぬりの少しはげてかたむきかゝつたあの裏街の煙草屋の角の爺さんのやうなもうろくしたポストの頭をつかまへるやいなや、その手へ満身の重心を集めて身体をさゝへながら、直ぐにあなたの方を――月の雫が太く下界に直立したやうな――電柱の方を見返しました。そして、その時、完全にあなたは私の視界にゐらつしやらない。その時、失望と安心が同時に私にやつてまゐりましたのはなぜかといへば、それはあなたが、私を、あの昨夜の明煌々とした月光のなかを、或、単純のやうで複雑であり、そして、恋の皮肉な心理状態にもてあそばれた稚拙な行為を、ありのままに行ひ終つた私を、ポストの際まで見送るがいなや、それは私が、あなたを振りかへるとほとんど同時に、あの電柱から実に巧妙に、恋人との別れのシーンに進退することの機微を遺憾なくなし終せられたといふ感嘆に価する安心でありました。が、やつぱりあき足りないにはあき足りない。やつぱりあなたがいつまでもあの月の雫の直立である電柱の下で、いつまでもいつまでも、私が、ポストの角からとうに曲つてしまつたのちのいつまでも、あなたから走り去つた私の背後の帯の輪の揺れ、着物の裾がひるがへつて月光に、どんな反色を見せたかといふことまでがあなたに幻影とまでなつてしまつてからでも、あの電柱の下に立ちどまつて、私に名残を惜んで下さるあなたの存在を見たかつた。私の失望といふのはそれですの。

でも、何といつても昨夜はうれしい夜でした。黙つて、黙つてゐるために、かへつて、二人とも切ない歓喜の哀愁がふかく胸をとぢたので御座いますね。月の前では、まつたく人間界の饒舌などほしいまゝにしてはすまないやうな冷厳な感じにうたれますのね、まして恋する身には……

まだ以上、このラブレターの続きはあるのですが、もはや書き続ける根気もありません。なぜなら、このラブレターは筆者が自分の熱情をもつて恋人にでも送つたらうと思はれたら大変な違ひのものなのですから。これは、或る女が、ある男から恋愛を強ひられて拒絶した。するとその男性から、『せめてこの様なラブレターでも時折は書き送つて下さい。小生は目下あまりに寂しい境遇にゐる。』と強要せられた時、その同封のなかにこのラブレターの文範がいれてありました。いふまでもなく、それゆゑ以上のラブレター文範はその男性が御苦労様にも、そのある女に自分から書いて示したものであります。ユーモラスな哀感をかんじながら私がそれを読んでゐますと、傍からそれをもらつた女性が『じようだんではありませんわ、私にそんなひまがありますか。』とふくれてをりましたが、それでもやはりその女性にも、ふくれるそばから口辺につい現はる微笑がありました。昭和二・五

底本 / Source edition

底本:「日本の名随筆 別巻36 恋文」作品社
1994(平成4)年2月25日第1刷発行
1999(平成9)年7月10日第2刷発行
底本の親本:「岡本かの子全集 第十四巻」冬樹社
1977(昭和52)年5月第1刷発行
※「変体仮名え」は、仮名にあらためました。
入力:門田裕志
校正:林 幸雄
2002年12月4日作成
2011年11月21日修正
青空文庫作成ファイル:
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TEI
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書誌 / Bibliography
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岡本 かの子「或る男の恋文書式」(新字旧仮名)、底本『日本の名随筆 別巻36 恋文』作品社、1994年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 004062_000076, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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