Soranoha

モスクワ

モスクワ

宮本 百合子

三時すぎるともう日が暮れかかって、並木道にアーク燈が燦きはじめ、家路をいそぐ勤め帰りの人々の姿が雪の上に黒く動く。夕方の散歩もアーク燈にてらされた雪の並木路で、くるくるにくるまれた小さい子供たちは、熊の仔のような手袋はめた手に橇をひっぱって、嬉々とその間をすべりまわって遊んでいる。

やがて、泥濘とたのしい雨だれの響きで町中が充たされる春の雪解がはじまって、並木の菩提樹が芽立ったと思うと、北の国の春は情熱的に初夏の恍惚とする若緑に育ってゆく。

五月下旬になるとモスクワでもいくらか白夜がはじまって来る。夜の十二時ごろでもすっかりは暮れきれず、日本の夏の七八時ごろの薄明りが夜中ずっとのこっている。日本の宵には空にうすら明るみがただよっていても、樹かげや大地から濃い闇が這いのぼって来て浴衣の白さを目立たせるのだけれど、北の夏の白夜の明るさにはまるでこの闇のかげというものがなくて、底まですきとおった、反射する光のない薄明トワイ・ライトで、並木の若葉も、家々の壁の色も、さては石ころ道を寂しそうにゆく一台の馬車の黒さ、馬や馭者の姿も何ともいえずくっきりと美しくしかも寂寥にみちた魅力をもっている。そういう白夜のころは、夜中風がないのも独特の気分である。

白夜の美しさはレーニングラード、それも雄大なネヴァ河の河岸の辺りの景色が忘れられない。この辺では白夜は一層情感的で、夜なかの十二時ごろやっと日が沈む。河岸を洗ってネヴァの流れる西の方の大都会の屋根屋根の間へ日は沈むのだけれど、窓に佇んで見ていると、ほんの一時間も経たないうちに、さっき沈んだところよりはちょっと東へよったところから、もうまた太陽がのぼりはじめる。これは朝の太陽というわけでこの束の間の夜から朝へのうつりかわり、きのうがきょうになるなりかたには不思議な感動を与えられる。明るいながら朝になっても、おのずから朝の空気は新鮮に流れ出して、暁の微風が樹々の梢をそよがせはじめるし、河水の面が生気をもどして、雀も囀りはじめて来る。

やがてそろそろ朝日に暑気が加って肌に感じられる時刻になると、白いルバーシカ、白い丸帽子やハンティングが現れ、若い娘たちの派手な色のスカートも翻って、胡瓜の青さ、トマトの赤さ、西瓜のゆたかな山が到るところで目について来る。

ロシヤの夏といえば、ほんとに美味しい西瓜を思い出す。大きい切に塩をつけて、それをかじりながらパンをたべたりする。

ヴォルガ河を夏とおる船は、その平屋根に西瓜をのせて通っているし、この河で釣れるキスのような魚の清汁の味は実によかった。

そして、これらの季節の思い出のどの一節にも、遠くにか近くにか手風琴ガルモシュカと歌声とが響いていて、そこには微かにロシヤの民謡につきものの威勢のいい鋭いかけ声もきこえているのである。

底本 / Source edition

底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
1981(昭和56)年3月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房
1953(昭和28)年1月発行
初出:不詳
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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リリース / Release
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書誌 / Bibliography
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宮本 百合子「モスクワ」(新字新仮名)、底本『宮本百合子全集 第十七巻』新日本出版社、1981年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 003999_000311, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

引用のしかた / How to cite