Soranoha

本棚

ほんだな

宮本 百合子

この間うちから引越しさわぎで、あっちの古本の山、こっちの古本のかたまりといじりまわしているうちに、一冊、黒い背布に模造紙の表紙をつけた『女学雑誌』の合本が出て来た。かたい表紙をあけてみると、教育という見出しで遺伝についての記事、胎教についての項目、フレーベル氏及幼稚園というような記事の頁が克明に書きこまれている。

インクで書かれたそれらの字は歳月を経てもう今日ではぼんやりとした茶色に変っている。明治二十五年六月から二十六年三月号までが一冊にされているのだけれど、その頃は極めて新しく清潔なモラルの源であったこの雑誌を、こんな丁寧に扱って真面目に読んだのは、誰だったのだろう。

表紙裏の字は、どこやら父の字のように思われる。

やはり、今度ごたごたを片づけている間に四五冊のノートが出て来たが、昔の人は何と字がうまかったのだろうかとびっくりした。それは化学のノートで、おそらく高校時代の父が筆記したのだろうと思える。試験管を焔の上で熱する図などが活々としたフリーハンドで插入されていて、計らずも今日秋日のさす埃だらけの廊下の隅でそれを開いて眺めている娘の目には、却ってその絵の描かれている線の生気に充ちた特徴の方が、文字よりも親しく晩年の父の姿や動きを髣髴させる。内容としての化学は、かなり初歩が筆記されているらしいのに、それを書いている字ばかりはいやに大人らしく立派で、そこにもまざまざと明治二十年代の青年の生活がうかがわれる。

父は詩をつくることと篆刻てんこくが少年時代の趣味だったそうで、楠の小引出しにいろいろと彫った臘石があったのを私も憶えている。その少年が十六のとき初めて英語の本を見て、なかの絵が出て来る迄、さかさに見ていたのが分らなかったということも聞いている。

明治二十五年の『女学雑誌』と云えば、元年生れであった父は、二十五歳の青年になっていたわけである。進歩的な気質の青年らしく、父は『女学雑誌』などをも読んでいたのだろうか。二人の妹があったから、その妹たちに、その雑誌のことを話したり、読ませたりもしただろうか。もし若い父が読んだのなら、表紙裏の抜き書きは、私たちに一層親愛な暖さを感じさせる。そこには、仄かに父が自分の結婚や家庭や子供たちの教育について抱いていた若々しい希望というようなものが語られているから。

だけれども、もしかしたら、これを書いたのは叔父の省吾という人ではなかったかしら。この人の字癖を知らないけれど、父とは二つか三つ年下の弟で、高校時代にふらりと支那へ行って、そこで一年ほど何かの学校の先生になっていたことがあるというような気質の人であったそうだ。烈しい一図な天性で、東大を卒業するという年に、皆の手をふり切ってアメリカへ行って、やがて宣教師になってしまった。明治三十九年頃かえって来て程なく中耳炎でなくなった。

若い嫂であった母を対手に、子供のための本を書くことを計画して、その思いつきは折から父が外国へ出かけていて留守中だった母をもかなり熱心に動かしたらしい。耳から頭へ大きく白く繃帯をかけた、どっちかというとこわい顔の大柄の叔父の病床のわきで、母は叔父の口述する話を書きとったりしてもやったらしい。けれど、この計画は到頭実現しなかった。それというのは、何しろこの省吾という人は、鱗のない魚はたべないというほどのキリスト信者であったから、子供のための本にしろ、そこに神だとか罪だとか、天国とか地獄とかをぬきにしては物を云うことが出来ない。「神の大いなる日」という本をこの人が書いていて、それにはこまかい銅版刷で世界の終りの日の絵が插画になっているという仕儀である。

母には、天国地獄というものさえ奇怪だのに、まして、叔父の云うことをきけば、親と子とさえ、信仰の有無で最後の審判の日には天国と地獄とへ引きわけられなければならないというに到っては、迚もそのような信仰をありがたがることは出来ず、ひいては、自分も手つだってこしらえる子供の本が、そういう考えで作られてゆくことにも承服しかねたらしい。段々二人の間に議論がおこって来た。そして、どちらも譲らなかった。本の計画は中絶したまま省吾叔父は亡くなった。日本へかえって亡くなるまでどの位の月日があったのだろうか。ほんの僅であったように思う。私が小学一年の頃で、駒本小学という学校の門のところへこの叔父が迎えに来ていてくれたことがある。大きい大きい大人の男が、髪を長くして肩のところ迄下げているというのは、何と珍しく、少し怖しく、それを見てびっくりする友達たちに愧しくきまりわるいような思いのすることだったろう。

省吾という人がそんなにしてアメリカなんかへ行ってひどいこりかたまりになってしまったわけや、日本へかえって来て、そこで亡くなった気持には、深い複雑な、そして痛切なものがひそんでいたらしく思われる。若い良人でもある兄も、若く美しい新妻であった母も、不言の裡に、この熱烈な気質の弟の決心の動機を理解していたと思える。それが奇矯ではあるが純潔なろうとする意志によっていることや、アメリカほど遠い海を踰えてしまわなければ、そしてやがてはその大きく強い情熱が理が非でも擒にしてしまう神だの地獄だのをつかまえておかなくてはならなかった内心の苦悩を、父と母とは同情をもって推察していたと思う。

この叔父が、『女学雑誌』を読まなかったと、どうして云えるだろう。

同じ古本のつみ重りの下から、池辺義象の『仏国風俗問答』明治三十四年版と、明治二十五年発行の森鴎外『美奈和集』、同じ人の三十五年二月発行『審美極致論』が埃にまびれて現れた。「当世書生気質」を収録した『太陽』増刊号の赤いクロースの厚い菊判も、綴目がきれて混っている。

こんな本はどれもみんな父や母の若かった時分の蔵書の一部なのだが、両親は、生涯本棚らしい本棚というものを持たなかった。その代り、どこの隅にもちょいちょい本を置くところがあって、どこにでも坐ったところには、手にとってみる本があるという暮しぶりだった。

私の小さかった時には、父のテーブルの置いてある長四畳の片側が二間ぶっとおしで上下にわかれた棚になっていた。その上の段が即ち本棚で、文芸倶楽部、新小説、太陽などが、何年分もどっさり雑然とカーテンもなくつみ重ねられていた。

五つばかりの娘は手当りばったりにそれを下して来て、字は読めないから絵ばかりを一心にくって眺めた。

『新小説』か何かの扉に、一つどう見てもそこに立っているのが何だか分らない妙な絵があった。そこはひろい池で、赤い夕陽がさしている。向うの黒い森も池の水の面も、そこに浮んでいる一つのボートも、気味わるく赤い斜光に照らされて凝っとしている中に、何かが立っている。青白いような顔半分がこっちに見えるのだけれど、そのほかのところは朦朧として、胸のところにかーっと燃え立つような色のもり上ったものがたぐまっている。五つの娘の瞳にそれはいくらかゴリラの立ち上ったみたいに映るのであった。その絵ばかりはどう見ても会得しかねた。一度ならずくり返えして見て、わからずしまいであった。今なおまざまざとのこっているその印象を目の前にくりのべてみると、それはまさしく日本のロマンティック時代の絵画の一葉であったことがわかる。燃える夕陽と迫る夕闇の池の上で、若い男の顔の半ばが、その胸によりすがっている若い女性の黒髪のかげにかくされていたというわけであったのだろうと思う。感傷と未熟さの朦朧体にくるまれて、その絵はおませな女の子の眼に、どうしてもわけの分らないゴリラに似た塊りとして映ったのは愛嬌がふかい。

女学校に通うようになってから、私はいつとなし玄関わきの七畳の部屋を自分の部屋にするようになった。省吾叔父がそこに暮していた座敷である。

いろんな目立たない隅々から古い本棚だの古い本だのをもって来て、下見窓のわきに並べた。その最初の蒐集の中に、今再び埃の下から現れた赤いクロースの『太陽』だの『美奈和集』だの、もうどこかへ行って跡かたもない黒背皮の『白縫物語』だの『西鶴全集』の端本だのがあった。ポーの小説集二冊を母が何かの拍子で買って来てくれたことから、次第に私の本棚にはワイルドだの、小川未明だの、ダヌンツィオだのが加って行った。ワイルド警句集という小型の本も今度出て来た。あけてみると、ところどころに赤鉛筆でマルがつけてある。

それからひとりでに武者小路実篤の初期の書いたものだのロシアの作家の作品だのが殖えて来たのを思えば、知らず知らずのうちに明治末期から大正への文芸潮流が、七畳の隅の、粗末な本棚と、まだ半ば眠った女の子の心とを貫いて移ったことが考えられる。

今度の本片づけには、全く歴史のきつい波翳がさしていて、私は空襲の場合を屡々思いやった。

震災の時は、災難をのがれた。これらの本たちは、そこにまつわる生活の思い出とともに、これから先は何年、平安にその頁を黄ばませて行けるのだろうか。私には、コンクリートの書庫をつくるという手段もない。どっさりの愛すべく尊敬すべき本たちは、年が新しくなるにつれて豊かな生活の脈搏をつたえつつあるのだが、それらの本を、私はせめていくらか火事に遠そうな場所へ置くというだけのことしか出来ない。でも、一抹の楽天的な響が心のどこかにあって、一つの美しく高い歌のメロディーが甦って来る。ドン・キホーテが、彼の大切な騎士物語の本たちを焼かれたとき、ドン・キホーテは何と歌ってサンチョを慰めてやったろう。「サンチョよ、泣くな、私の本は失われても、私の生活の物語は失われることはないだろう。」

現代の歴史では、ドン・キホーテが単数で語ったところが複数で、人間が現実を生きつづける力として、私たちに脈々と聴えて来ると感じられる。

〔一九四一年十月〕

底本 / Source edition

底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
1981(昭和56)年3月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房
1953(昭和28)年1月発行
初出:「書斎」
1941(昭和16)年10月号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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書誌 / Bibliography
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宮本 百合子「本棚」(新字新仮名)、底本『宮本百合子全集 第十七巻』新日本出版社、1981年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 003994_000311, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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