Soranoha

表現

ひょうげん

宮本 百合子

私は映画がすきなくせにいつも野暮ったい観かたばかりしているのだけれど、さきごろの「カッスル夫妻」でも、いろいろの印象をのこされた。アステアのカッスルが、初め喜劇役者として稼いでいる。筋のはこびでは、後にカッスル夫人となったロジャースの娘にあってそのかえりの田舎の小さい停車場で初めて踊るのだが、あれほど踊りこそ天職と思っている青年がその宝を見出されないで喜劇役者をやっている悲しさというか、その芸術家として必然と思われる哀愁が、初めの部分の踊りかたではちっとも描き出されていない。興業師のマンネリズムがカッスル・ウォークの真価をみとめないで苦境におかれるという関係の面だけは後で説明しているけれども。

アステアの踊りの感覚からおしはかると、そういうピエロの悲しみが決して分らない男だとは思えない。監督が何か表面の筋に足をとられている。そんな風に感じた。

そうして観て行って、成功したカッスル夫妻の様々な新しい踊りの姿、カッスルの出征、やがて二人が最後に一緒におどる踊り、カッスルは軍服で、カッスル夫人は白い装でおどるあのワルツ風の踊りは、実に美しかった。磨きぬかれた舞踊の技術と情緒の含蓄と、しかもその情緒を貫く愛の思いがいかにも睦み合う夫と妻との諧調を表現していて、全く感動的であったと思う。広いホールに、時間が来たのにまだ現れない前線からの良人を待って、踊りを所望されたカッスル夫人が、不安な白鳥のように孤独でたゆたっている。ところへ、カッスルが入って来て、ああ、と両方からよりそって手をとりあったその感情から、静かな、劬いたわりのあるステップが流れ出す。次第次第にそのステップは熱し、高まって、優しく激しい幾旋回かののち、曲は再び沈静して夫妻は互に互の体を支えあいながら、顔をふるるばかりに近く互に見入りながら、消えてゆく音楽の余韻の裡に立っている。

本当にこうも踊れる男と女とが、こういう夫妻の情感でおどったら、こう踊るしか踊りようもないであろうと思われた。その位内部的にも充実しきった美しさであった。

これがこの世で踊った二人の最後の踊りともしらず、カッスル夫人は、自分たちの結婚記念の夜、二人にとって思い出の深い踊り場で、良人が指図しておいた舞踊曲の奏されるのを聴きながら、良人のあらわれるのを待っている。時は徒にすぎて、遂にカッスル墜死の報告が、その懐しい舞曲のなかへもたらされるのであるが、彼女にとってその刻々のうちに予想されていないでもなかった大きい打撃が遂に事実となったとき、そして音楽は益々情をこめて彼等の歓びの思い出の曲を奏しているとき、悲しみと愛との怒濤にもまれて、彼女はどうしてそのとき泣きながら、涙の顔を愛する良人に向ってふり仰ぎながら夢中で踊りの身ぶりで、その苦しみを表現する自然の欲望に導かれなかったろう。

あんなに微妙に愛のよろこびを表現しておどった夫妻、それがこの一生一度の悲しみのとき、悲しみの堰がやぶれて踊らないというのは、何と奇妙で不自然だろう。映画では気の毒な月並の手法で、長椅子にかけたまま宙を見つめるカッスル夫人の前に、幻の良人が庭園の並木の間を次第に彼方へ遠のきつつ独り踊ってゆく姿を出しているのである。それならそれでいいから、その幻の踊りの姿に我ともなく体をひき立てられ、どうして悲しみの踊りをおどらないのだろう。よしや悲しみの踊りでなくそれがよろこびのおどりなら、その歓喜の踊りを、どうして今の女の、無限の悲しみで踊りぬかないのであろう。

カッスルののこした芸術は、踊るあらゆる若者に愛されるのだ、というような科白での芸術論は、この場合、極めて非芸術的である。監督も勿論大した馬脚をあらわしているのだけれども、アステアにしろ、どうして、そこのところにこそ表現されるものとしての芸術の真髄が潜められていることをつかまなかったのだろう。

カッスル夫人がほんとうの芸術家の情緒に生きているならば、あのクライマックスでこそ踊らずにはいられないだろうと思う。女として自分の裡に活きているそのまざまざとした歓び、そして、この苦痛。体を凝っとはさせていられまい。そこで踊る彼女であってこそ、今やカッスルのパアトナアとしてのみのカッスル夫人ではない一個の新しい独自な踊りてとして生誕し得るわけである。

風邪をひいて臥ていた稲子さんのわきに坐って、私が一生懸命その心持を話したら、稲子さんは、ふっと笑った顔になって、もし男のカッスルが生きのこる方だったら踊ったかもしれない、と云った。私たちは女の作家なのだから、そういうことも決してその時ぎりで忘れるような自分たちの心持で喋っているのではないのであった。

〔一九四〇年五月〕

底本 / Source edition

底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
1981(昭和56)年3月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房
1953(昭和28)年1月発行
初出:「文学者」
1940(昭和15)年5月号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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書誌 / Bibliography
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宮本 百合子「表現」(新字新仮名)、底本『宮本百合子全集 第十七巻』新日本出版社、1981年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 003974_000311, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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