Soranoha

繻珍のズボン

しゅちんのズボン

宮本 百合子

父かたの祖母も母かたの祖母も八十を越えるまで存命だったので、どちらも私の思い出のなかにくっきりとした声や姿や心持ちを刻みのこしているが、祖父となると両方とも大変早く没している。

父かたの祖父は私が生れた時分、もう半身の自由がきかなくなっていて、床の上に坐ったまま初孫である赤坊の私を抱いて、おなごの子でも可愛いものだなあ、と云ったそうだ。二つ三つの時分、そうやってだかれていて、小さい孫はおしっこがしたくてべそをかき出した。その顔つきでびっくりしたお祖父さんは、耳が遠いものだから孫が泣くにつれて赤く塗ったブリキの太鼓を叩き立てる。孫はいやが上にも泣きしきって、とうとうお祖父さんの膝は洪水になってしまった。それで初めておー、お運、お運とあわてたお祖父さんが祖母を呼びたてたというような話もきいている。

そんな話は、顔をまるで覚えていないこの祖父の写真をも懐しさで眺めさせるのである。

母かたの祖父は、性質もその生涯も父かたの祖父とは全くちがった。御一新、明治という濤は、二人の祖父の運命をもきつく搏ったのであるが、そのうけかたが、東北の官吏生活をしていた父かたの祖父と、佐倉藩で江戸暮しをつづけていた母かたの祖父とでは大変に異っている。特に弘道会という国粋的な道徳団体を創った人として、物心づいてから私たちの生活の中へあらわれて来る祖父の名は、私たちにとってしたしいうちのお祖父さんと云うよりもいつも一人の道学者めいたきつい印象を伴った。大きい墓にも西村泊翁という下に先生之墓とかかれている。そして、その墓のある寺にはなくて別の寺に一つだけとり離して立てられてある。

小さい時分はよく祖母につれられてこの墓詣りをしたが、千賀子という名であったその祖母は、この墓に向ってさえ何となく恐縮したような表情で、丸い石の手洗鉢の水を新しくするのも、どこか生きている人にきせた袴の襞を畳の上へ膝をついて直してやっているような様子であった。お墓としてもこわい白髯の表情と結び合わされた。女学校の女先生が或る時小さいことで私に注意したとき、その祖父の名の下にやはり先生をつけて呼んで、そのお孫さんなのですからね、という意味の責任を負わすようなことを云われた。そのとき感じた重苦しい心持はきわめて生々しいものであった。そして、祖父を親しみなく遠く感じる思いがまさった。この祖父が僅か三つばかりの孫娘を見て、この子はよくなるか、わるくなるか、どっちかだ、と云うようなことを云った言葉を、母がまた私が自分の気に入らない時に限って持ち出し、さすがにおじいさまはちがっていた、などと云い云いするそれも、祖父への距離をつくるばかりの結果であった。

数年前に亡くなった母の晩年なども、なまじいそういう祖父の思い出が母のなかに一種の崇拝と一緒にのこっていたために、娘としての情愛だけがすらりと流露せず、現実にはおのずとその愛に結びついて行って、そこにある一定の傾向に支配されることがつのったと思われる。それは、時代の動きの他の極に立つものであったから、母としては彼女の資質の大きさ、感情の独自のあるがままの理解よりも却って狭く作られた精神の境涯に自分を留めたことになって、そこからつくられた苦しみを苦しんだという形ともなった。母のために、それはまことに遺憾な仕儀であった。そう思う私の心は、やはり有形無形の枠やとりまきにかこまれたままで示されている祖父への親愛をそぐのであった。

ずっとそういう心持が流れていたところこの間或る機会に、明治初年の年表を見ていたらその中に『明六雑誌』というものがあり、福沢諭吉、西周、加藤弘之、津田真道等という顔ぶれに交って祖父の名が出ていた。『明六雑誌』というものは明治七年三月に第一号が出て翌八年十一月四十三号まで出して廃刊になった。この『明六雑誌』第二十五号に出た西周の「知説」という論文の一部が、文学の本質、ジャンル等についての西洋学説が日本に紹介された最初のものであったということを本間久雄氏著「男女文学史」で知ったことも感興をひいた。明治七年と云えば福沢諭吉は四十一歳、「学問のすゝめ」を出した二年後であり、祖父は四十六歳。津田真道が「開化を進る方法を論ず」、加藤弘之「国体新論」、西周は「知説」のほかに「致知啓蒙」、福沢諭吉は「文明論の概略」、祖父は明治八年に「泰西史鑑」というものを独・物的爾著から重訳して出している。

いずれも当時の進歩的学者であったし、年輩も既に四十歳を越した人々がそれだけ心を合わせて兎に角一つの啓蒙雑誌を発刊したところ、何とも云えぬ明治というものの若々しい力が感じられて、非常に面白い。同時にこの有力な執筆者をもった同人雑誌が、僅か一年しかつづかず廃刊となったというところにも、各々一家をなしていた同人たちが当時の時代の速い波の間で政治的な問題などについてそれぞれ必ずしも同じ見解ばかりを抱いていなかったことがうかがわれて興味ふかい。西村茂樹は明治二十年、二葉亭の「浮雲」の出た年に「日本道徳論」を著している。二十八年に「徳学講義」を著し、例えば同じころ「希臘二賢の語に就て」を書いたりしていた津田真道やその頃大いに活動していた中江兆民などとは、人生の見かたの方向に於ては対蹠的な立場に立つようになったのであった。明治二十年前後の一つのリアクシォンの時代は明治初年の啓蒙家たちの思想の進路に極めて微妙に作用しているのであるが、西村茂樹というひとなどの行きかたは、その一方の典型をなしているものではないだろうか。

そういうような全く文化史風な興味が、祖父に対する私の心持に加わって来るとともに、あの時代を生きた一人の学者の姿として、祖母からきいているその家庭生活の雰囲気の渦まで、明治文化史の插画のように想い起されて来た。

曾祖父は堀田の青鬼と綽名された槍術家だった由。息子は体が弱くて、父である青鬼先生に佐分利流の稽古をつけられて度々卒倒するので、これは武術より学問へ進む方がよかろうということになって、二十歳前後には安井息軒についていたらしい。やがて洋学に志を立て、佐久間象山の弟子になって、西洋砲術の免許を得たりしている。洋学を習いはじめたのは三十四歳、手塚律蔵という人が先生であった。千賀子と云う祖母がよく、これでお前、私だって祖父さまのお手伝をして英語を昔は知っていたもんだよ。鵞鳥の太い羽根の先を削ってペンをこしらってね。礬水どうさびきの美濃紙へ辞書をすっかり写したものさ、と云っていたが、それもこの時代の夫婦の一日の光景であったであろう。何かの儀式のとき、どうしても洋服にズボンがいるということになった。仕様がないから、俄に私の繻珍の丸帯をほどいてズボンにしておきせしたよ、こんなこともある。如何に律義な祖父でも自分一人繻珍のズボンでは困ったろう。仲間がきっとあったにちがいない。細君の丸帯から出来た繻珍ズボンをはいて、謹厳な面持で錦絵によくある房附きの赤天鵞絨ばりの椅子にでもかけていただろう祖父の恰好を想像すると、明治とともに心から微笑まれるものがある。

祖父は自分としては学者として一貫して生きようとしたようだが、官吏としていろんな役がついたことは家庭の空気をいつしか変え、祖母にしろ昔辞書を手写した時代のままの気分ではなかったらしい。千賀というひとの性質は祖父と反対の現実家で、美しい、烈しいところのある顔にもそれはつよくあらわれていた。或る秋の午後、ひっそりとした向島の家の縁側の柱に縮緬の衣類の裾をひいた祖母がふところでをしてもたれかかっている。その片方の素足を、源三という執事が袴羽織で庭石にうずくまって拭いてやっている。島田に紫と白のむら濃の房のついた飾をつけ、黄八丈の着物をつけた娘が、ぼんやりした若々しさを瞳の底に湛えて、その様子を見ている。そんな情景は紫檀の本箱のつまった二階の天地とは異った人間くささで活々としている。祖父は井上円了の心霊学に反対して立会演説などをやったらしいが、祖父の留守の夜の茶の間では、祖母が三味線をひいて「こっくりさん」を踊らしたりした。夫婦生活としてみれば、血の気が多く生れついた美人の祖母にとって、学者で病弱で、しかも努力家であった良人の日常は、欝積するものもあったろう。祖父はお千賀、お前は親に似ない風流心のない女だな、とよく云っていたらしい。祖母の家は茶が家の芸だったのだそうだ。祖母が茶をたてるのは一遍もみたことがない。その代り浅草の鰻屋へはよくつれて行って貰った。趣味にしても人の好悪にしても祖母はどこまでも現世的であったと思う。

後継ぎになる筈の一彰さんという人は、大兵な男であったが、十六のとき、脚気を患った後の養生に祖母はその息子を一人で熱海の湯治にやった。そこでお酌なんかにとりまかれて、それがその人の一生の踏み出しを取り誤らせることになり、廃嫡となった。大きい一彰という人が白縮緬の兵児帯に白羽二重の襟巻なんかして、母のところを訪ねて来たのを覚えている。この伯父は、母に向ってもやっと膝に手をおいたままうなずくだけであった。そのひとの子が家をつぐことになっていたのがやはりごたついて、流転生活の最後は哀れな死にようをした。そのひとは、母に向って、おばさん、僕は五つから質屋通いをやらされたんだよ、察しておくれ、といって泣いた。

祖母は、その孫より先に八十九歳の生涯を終ったが、生きているうちから、私はお祖父様には面目なくてと云っていたが、遺骨は祖父の墓へは入らず、足音を忍ばすようにしてお姑さんの人のうしろの方から入っていった。

〔一九四〇年三月〕

底本 / Source edition

底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
1981(昭和56)年3月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房
1953(昭和28)年1月発行
初出:「政界往来」
1940(昭和15)年3月号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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書誌 / Bibliography
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宮本 百合子「繻珍のズボン」(新字新仮名)、底本『宮本百合子全集 第十七巻』新日本出版社、1981年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 003971_000311, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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