Soranoha

青春

せいしゅん

宮本 百合子

青春の微妙なおもしろさは、その真只中にいるときは誰しもそれを、後で思い出のなかでまとめるような形ではっきり自覚しないまま、刻々を精一杯によろこび、悲しみながら生きてゆくところにあるのではないだろうか。人間の精神のなかで青春というものの在りようもまたおもしろく微妙で、あながち年の若さということにだけ、根をおいているのでもないらしいのも興味ふかいところだと思う。中年と呼ばれる時代のなかにはらまれている青春。老年のなかにも不思議に蔵されていて輝く青春。そういうものもあることがわかる。そして、そういう青春が生活力として或は創造力として意外につよいもので、人類のよろこびといい得るような仕事をした人々の生涯は、いつの時期も、それぞれの姿でしかも青春といい得るものを持ちつづけたように見える。若いというだけの青春で終るとすれば、それは悲しいものだと自分の身につけても思われるわけであろう。

いろいろなひとが、文学作品のなかで青春を描いているけれども、そういうものがいずれもその苦悩や不如意に苦しむ姿の若々しさという面で青春が語られているのは意味ふかく感じられる。漱石の何かの小説のなかに、青春というものは淋しいものだ、という文句があって心にのこっている。それは先生が若い学生に向っていう言葉だけれど、若い女のひとにとってもそれはあてはまる言葉ではないだろうか。女のひとの方が男よりそういう感情をぼんやりしか感じないのが普通かも知れないが、自分の十五六歳から後の心持を思い出すと、やっぱりそれを触れたところをもっていると思う。華やぎながら淋しがっている。淋しさのうちに華やぎが底流れているとでもいおうか。

若々しい寂しさについても私たちの時代と今の同じ年ごろの若い女のひとたちとでは、随分ちがって来ているのではないだろうかと思う。私たちの頃は、自然が体も心も多彩にひろがろう、触れよう、知ろうという欲望に燃え立たせているのに、周囲の習慣はなかなかそれだけのびのびしていなくて、いつも鬱屈するものがあった。今のひとは、いざとなると同じ埒で阻まれながら、表面の浅い日常では一応自由そうに羽根をのばしている。そこにまた別の寂しさが湧いているのではないだろうか。求める心の寂しさ、ときめきと感じられていたものが、今は何か空虚さの感覚に近づいて来ているのではないだろうか。

それは社会が若い女に与えている自由が代用品であることから生じている悲劇であるが、私たちの女学校時代を考えると、大人と少女とはその生活感情を露骨に対立させられていたものだと思う。学校においても、家庭においても。

十五六のころ、こんなことがあった。私の父は建築家であったからいろんな画集をもっていた。折々静かな部屋でそれをくって見るのがいい心持であったが、その中に一枚、少女が裸で水盤のわきにあっち向きに坐って片手をのばして水盤の水とたわむれ遊んでいる絵があった。丁度自分と同じぐらいの年ばえの少女の背中は美しく少しねじられていて、しなやかな脇腹の撓みにうけている光線の工合なんか、自分が裸になってそうやって遊んだらどんないい気持だろうと思わせるような空気の爽かさにみちている。その少女は、二つにわけて組んだ髪を、うなじのところに左右から平たくもって来て、耳のうしろにまとめ、その両方の端にリボンをつけているのであった。

季節も春であったろうか。私はややしばらくその絵に見とれていたが、やがて、母の鏡の前へ行って、絵のなかにいた少女と同じような髪に結った。そして父がくれた濃い牡丹色のベルベットの小幅のリボンを飾り結びにしてつけた。

その髪に結って翌日学校へ行った。そしたら担任の女先生が、一時間目の授業が終るとすぐ、一寸のこっていらっしゃいといわれ、皆が列をつくって庭に出て行ってしまったあとのがらんとした教室の教壇の下で、髪についていわれた。誰もそんな髪はしていませんよ、大変目立つ髪ですね。あんな目立つ髪をしているのは誰だと物笑いになりますよ、いずれあなたのことだから、何かの絵でも御覧になったのでしょうが、おやめなさい。そういう意味のことを、こわい表情で凝っと目を据えていわれた。

一番自分に似合う髪をやっと見つけたと思ったら、そういうわけなので、私は悲しいし、いやだし、心持をもてあまして、それから当分はまるで桜井の駅の絵にある正行のように、白い元結いで根のところを一つくくっただけの下げ髪にしていたことがあった。大抵のひとは前髪をとってすこしふくらしたお下げにしていたが私はそれがどうしてもきらいであった。髪ぐらい自分の頭に生えているものなのにどうしてすきに結っていけないのだろう。監督するものの心理に立って見ることは当然出来ないのだから、本当にいやだ、と沁々思って、大人のきらいさを痛いように思うのであった。

髪なんか、女の子が自分の気持を表現してゆく第一の手はじめのようなところがあるのも面白い。そして、またきまって下らない監視の目が向けられる第一のところであるのもおかしいと思う。例えばパーマネントのことについてのように。

目白の女子大学には、まだ成瀬校長が存命であって、私が英文予科の一年に入ったときは、ゴチックまがいの講堂で一人一人前へ出て画帳のようなものへ毛筆で何か文句を書かされたりした。私は大変本気な顔つきで、求めよ、さらば与へられん、という字を書いたと覚えている。実践倫理という時間があって、その時間には、大学部の生徒は皆一同講堂にあつまって、成瀬校長の講義をきき、それを片はじから筆記するのであったが、講堂にみちる絶え間ない微風のような字をかく音を超えて、熱気をふくんだ校長の声は盛んに、自由とか天才とかいう言葉を吐いた。

若い心にそれらの響は決して魅力なくはないのだけれども、つまり何が云われているのか、私にはどうしてものみこめなかった。そういう大きい精神の飛躍を示すような声が響いている一方、あすこは本当に妙な女の気持が支配していて、女学校からずっと入って来た人が、外から入って来た生徒に、指導する権利をもっているような風があった。運動会か何かあるというとき、そういう一人の同級生が、私が前髪をわけて髪を結っているから校風に合わない、その髪を直して運動会へ来るように、といった。

そのときは、もう十六ではなかったし、仮にも大学というところで、校長はあんなに自由とか天才とかいうくせに、何たるけちくさい性根であろう、と大いに腹を立ててそんな校風なら髪は直さないが運動会へなんか来ない、と行かなかったこともあったりした。この学校に一学期しかいなかった心持にこんなことも作用したと思う。

髪のことで切ない思いをしたのは私ばかりでなく、女学校のとき、もう二人の不運な道づれがあった。私のはともかく自分の好きを立ててのことであったが、あとの二人は生れつきが如何にも豊かな髪で、それが不運の源であった。すこし前髪をゆるめたぐらいでは、その素直で房々した長い髪は小さい頭の上におさまりかねて、自身のつややかなおもさでいつもゆるんだような形になり、その二人の体つきがその髪のくずれにふさわしくて、特別な味わいがあるのであった。夢二の描く若い女の髪かたちを髣髴させたが、叱られたり、睨まれたりするのはそれが夢二に似ているからではなくて、丁度その頃、私たちの崇拝をあつめていた一人の若い長身の女の先生の髪が、そのような形をしているから、というのが原因であった。二人の睨まれるのは、時もあろうに音楽の時間であり、ひともあろうに音楽の先生からであった。赤い綾木綿を張ったベンチにズラリとかける。先生はピアノの前にいられる。それから挨拶のためのコードが弾かれるまでの一分間。紫紬の羽織を着た先生の目が席を一わたり見まわすとき、いつもそこには何ともいえないいやな息苦しいような沈黙と緊張があるのであった。そのままピアノが鳴り出せば、ほっとして発声の練習に入るのであったが、さもないときは、焦立たしさを仄めかした眉目の表情と声の抑揚とで、その生徒の名がよばれ、その髪はもうすこし何とかならないんですか、といわれるのであった。

二人の生徒のその髪がどうにもならないように、その長身の先生を崇拝する心持も、どうしようもないものだった。

この先生のおかげで、私は四年、五年と二年を苦しいなかにも知識のよろこびをもって成長することが出来た。この先生が学課の単調さに苦しんでいる私の知識慾に流れ口を見出すきっかけをつけてくれられた。ヘッケルの宇宙の謎という本を教えて、文学以外の分野へ読書の力をひろめても下すった。

こういう時代を思いかえすと、私は震災で焼けてしまった昔のお茶の水の校舎の庭のいろいろな隅や石段を、懐しさに堪えぬ心で記憶の裡に甦らす。女高師の方を、私たち附属の生徒は本校と呼んでいた。本校の建物の主な一棟は古風な赤い煉瓦の二階建で、正面大玄関の横の方にはり出した翼の間に、決してその扉は開いたことのない一つの凹んだ小庭があった。雑草が茂っている石段に腰かけると、そこは夏でも涼しくて、砂利をしいた正門前の広庭を蜥蜴とかげが走ってゆくのや、樫の大木の幹や梢が深々と緑に輝く様が、閑静な空気のなかに見わたせた。遠くの運動場の方からは長い昼休みのさわぎが微にきこえて来る。私はそこのかくれ場所で、何というひそかなたのしさでメレジェコフスキーの小説やトルストイとドストイェフスキーという評伝などを読んだことだろう。

心のときめくかくれ場所はもう一ところあった。それは本校のその建物の真裏で、となりの聖堂の土塀に近いところに、一つづきの小高い樫の茂った丘があった。一年生として入学した年の夏、その丘の下いっぱいが色とりどりの罌粟けしの花盛りで、美しさに恍惚としたことがあった。それ以来、そこは私をそっと誘いよせる場所になって、よくそこへも本をもって行ってよんだ。落葉の匂い、しっとりとした土の匂い、日のぬくもり。それらは、本の面白さを増すばかりか、そういうところで本をよむ趣を猶更味わいふかい感じにさせるのであった。

そんな風にして、どの位本をよんだことだろう。

家ではその時分、玄関わきの小部屋が私の部屋になっていた。土庇の深く出た部屋で、その庭には槇と紫陽花と赤い絹糸の総をかけたような芽をふく楓が一株あった。蕗の薹も出た。その小部屋は、親たちのいるところと、夜は真暗な妙にくねった廊下でへだてられていた。父や母は壮年時代の旺盛な生活ぶりで、どちらかというと自身たちの生活にかまけている。よく衝突もしていた。母が泣くこともあった。百合ちゃんはお父様とどこへでも行って暮したらいいだろうと云うようなこともある。だが、それらは今思えばどれも熾な生活力に充ちた親たちの性格があげた波の飛沫で、私はそのしぶきをずっぷりと浴びつつ、自分も、あの波この波をその波のうねりに加えながら、暗い廊下を自分の小部屋へ引き上げて来る。その廊下の暗さが独特によかった。部屋の入口をさぐりあてて、電燈をひねって、澄んだ狭い部屋の明るさのなかに浮出して来る大きい手ずれた素朴な机は、祖父のお下りというものであった。その机に向って坐る。時間の一粒一粒が私に何かを語りかけ、私も何かを語りかえさずにはいられないような気分である。そこで、心臓が口からとび出しはしまいかと思うほど胸轟かして文房堂から買って来た原稿紙をひろげて、何かを書き出す。そのようにして文学というものが、身に近いものとなって、永年まとまりなく自分を表現するてだてであった音楽がやや遠いものとなって来たのであった。

跣足になって庭を掃いたり、昔風のポンプで水まきしたり、お客様のときは御給仕役もまわって来た。久留米絣の元禄袖の着物に赤いモスリンの半幅帯を貝の口に結んだ跣足の娘の姿は、それなり上野から八時間ほど汽車にのせて北へ行った福島の田舎の祖母の黒光りのする台所へも現われた。

その村は明治に入ってから出来た新開の村で、子供の頃から私がよく行った時分は貧村であった。大きい池が三つ並んでいて、一番池二番池三番池は貯水池となった。菱の花が白く咲く一番池のぐるりは夏草の高く茂った馬場で、夏そこへ寝ころんで夕焼けを見ていると、いつしか体が夏草の中から泛んで七色八色の鱗雲の間をゆるく飛んで行くような気がした。そんな景色と村道の赭土にくっきり車の軌の跡のめりこんだ荒涼とした有様、鶏や馬の間でのいろんな婆さんや爺さんの他愛もない暮しぶりは、心に刻みつける何かをもって印象に迫って来るのであった。

祖母の家の裏口の小溝の傍に一本杏の樹があった。花も実もつけない若木であったが柔かい緑玉色の円みを帯びた葉はゆたかに繁っていた。夏の嵐の或る昼間、ひょっと外へ出てその柔かい緑玉色の杏の叢葉が颯さっと煽られて翻ったとき、私の体を貫いて走った戦慄は何であったろう。驟雨の雨つぶが皮膚を打って流れる。そのこわいうれしさで、わざと濡れに出た。あれはただ一つの冒険の心なのだろうか。官能と精神とが不思議に交錯して、まざまざとした感覚はまざまざとした精神の印象となって、表現の慾望となるのであった。そんな時代、詩は一つもかかないでいきなり小説をかき出したことは面白いと思う。「貧しき人々の群」というような小説そのものがいってみれば一つの散文詩だと、いえばいえるのでもあったろうか。

やはりその田舎の村へ雪のつもった冬に行ったことがあった。夜風が街道を吹きはらっていて、電柱のうなる音がしていた。ふと、その風が遠くの街道からカチューシャのうたをのせて来た。学生らしい歌いっぷり、その声は段々近づいて来て、また次第に遠く消え去った。それは東京で松井須磨子のカチューシャとともにその頃はやりはじめたばかりの歌であった。それをうたう人は東京から来た人しかなく、男の声でそのうたをうたう東京から来た人といえば、その村では誰それとすぐわかる人であった。私はそれにじっと耳を傾けている。雪がつもって凍った外の夜はいかにもひろく、むこうの山並までもつらなっているなかを、マント姿で行く人の姿を浮かべているのであった。

十九のとき、十五であった弟が亡くなった。それより前に十六のとき、五つであった妹がなくなっている。そればかりでなく、その間にはもう一人、人形のような顔をした赤ん坊が一人、母が髪を結っていたついそのうしろで、いつの間にやら息をしなくなっていたこともあった。

十五で死んだ弟は、私の恐怖であった。彼は何という敵意を私に対して抱いていたことだろう。この弟は、すぐ怒って、私の髪をつかんで畳の上へひき倒した。そして殴ったりし、蹴りもした。私にだけそんなことをした。私の困るようなことを見つけるのがうまくて、ああ困ったと思うと私はすぐ、その弟の大の男並に脊丈と力のある体と、肉の厚い怒った顔つきを思い合わせ、告げ口されることを思って閉口するのであった。この弟の何か不調和であった不幸な肉体のなかでは、早すぎる小悪魔が目を覚して、荒れたのだったろう。その小悪魔の嗅覚が、ごくの身近に、やはり目さめている性の異なった同類をかぎつけて、しかも親睦をむすぶすべもない条件を、そんな野蛮さで反撥したのであったろうと思う。

兄弟、姉妹の間にあるそういう微妙で苦しいものも、親たちにとっては一律に子であるということから余り気にかけないのも、自然であるのだろうか。私はよくその弟には殺されそうに思って号泣したくらいだったのに。

この弟は、大正九年の大暴風の日に発病してチフスから脳症になって命をおとした。この弟の生命が一刻一刻消えてゆく過程を私は息もつけないおどろきと畏れとで凝視した。その見はった眼の中で、彼に対するひごろの思いもうち忘れ、臨終記として「一つの芽生」という短篇をかいた。その中では克明に、一心に、生命の火かげのうつろいゆく姿を追っているのだけれど、私は二つの眼がそんなに乾いて大きく瞠られて、凝っとその臨終に息をつめていたということも、自分の無意識の心理にふれて今考えれば別の面からも思いひそめられる。あのとき泣かない自分の心の必然というものが、意識の下まで自分ではさぐり入れられていなかったと思う。若い生きる力は、そういう我知らぬエゴイズムに満ちるときもあるのだ。

初めの結婚をしたのは二十一歳で、五六年その生活がつづいた。ずっと年上であった相手のひとが、もう生活にくたびれかけていて、結婚生活ではひたすら安穏に、平和に順調な年から年へ日々がくりかえされることを望む心持であることがどうしても納得ゆかなかった。結婚生活こそ出発と思い、そのためにこそ貧窮もその身で知っている人と結婚したのに、一つ屋根の下に暮して見れば、自分は翔びたくて日夜もがいて羽搏くし、そのひとは翔ぼうともせず小さい日向で羽交いの間に首を入れるばかりか、私の脚にいつの間にかついている短い鎖を優しく鳴らして、こんな鎖にも、いまに馴れるよ、と慰めてくれる。馴れる! 何という怖い言葉に響いたろう。馴れる! 人間はそんなにどんな生活にも馴れるものなのだろうか。私はいやだ。馴れるのはいやだ。

それからの数年は、二人にとって全く苦しい格闘の歳月であった。相手のひとにとっては、私がそうやって書く字の形までまるきり変ってしまったほど、もがき苦しむわけがどうしても本質で理解されないのだし、私としては自分の心のうちにあるその人への愛と憎みとの間で揉みぬかれる始末であった。

そんな苦しい或る日、鎌倉の海岸に保養していた従妹たちのところへ遊びに行った。四つばかり年下の従妹はまだ結婚前で、従弟たちと心も軽く身も軽く、小松の茂った砂丘の亭で笑いたわむれている。そのなかに打ち交わりながら、自分の苦悩がこの若い人たちとは無縁であること、そして、自分の苦しみは見っともなくて重苦しいことを何と切なく感じたことだろう。午後になって、みんな海岸へ出かけた。暖かい晩秋の日光が砂丘をぬくめているところへ、一列に並んで腰をおろしていた従弟たちの一人が、やがて急に何を思いついたのか、一寸中学の制帽をかぶり直すとピーッと一声つんざくような口笛を鳴らして、体を横倒しにすると、その砂丘の急な斜面をころころ、ころころと、遠い下まで転って行った。びっくりしたように、あら、といって見ていた従妹も、声高く笑いながら派手な縞の着物の裾を抑えるようにして体を横にすると、わーといいながら同じように、その斜面をころがって行った。見ている私の喉一杯に、涙とも笑いとも名状しがたいものがつき上げて来た。裙を、ぴったりつけた脚の間に捲きこむようにすると、私はきつく目を瞑って、坐っているその場所から、体を倒して砂丘をころがって行った。夢中で、ああこのまんまころがって、何処かへころがり消えてしまえたらと、やきつくように思いながら。従妹弟たちと私とは、何度も何度もそうやって転って遊んだ。ころがる最中の失神のような気持をむごく楽しみながら、私は一度は一度と益々荒っぽく自分の体を砂にまぶしてころがり落ちた。

〔一九四〇年三月〕

底本 / Source edition

底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
1981(昭和56)年3月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房
1953(昭和28)年1月発行
初出:「婦人朝日」
1940(昭和15)年3月号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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書誌 / Bibliography
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宮本 百合子「青春」(新字新仮名)、底本『宮本百合子全集 第十七巻』新日本出版社、1981年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 003970_000311, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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