Soranoha

キュリー夫人の命の焔

キュリーふじんのいのちのほのお

宮本 百合子

偉い女のひとというものは、歴史の上で何人かいますし、現在でも世界には幾人かの偉い婦人と呼ばれるにふさわしいひとがいるでしょう。

けれども、ひとくちに偉いと云っても、その内容はいろいろで、えらさの大きさにも亦様々のちがいがあると思われます。よく婦人雑誌の実話などのなかに、たとえば手内職から今日の富豪となる迄の努力生活の女主人公として女のひとの立志伝がのったりしますが、そういうひとの生涯でも、或る意味ではやはりえらいと云えるでしょう。普通の人間の忍べないと思うような辛苦をよく耐えたり、機智を働かして窮地を脱したり、その点では人並以上の生活の力を発揮しているわけですが、そういう立志伝を読むと、多くの場合私たちの心には、何か一筋のものたりない感情がのこされるのは何故でしょう。それはえらいには違いない、けれども、という心持が湧くのは何故でしょう。そこにこそ、人間の本当のえらさの微妙な意味がひそめられているのだろうと考えます。一人の人が自分のためだけに志を立て、自分の成功のためだけに努力し、富を殖ふやし、社会的に有名人となったというだけの話をきいても、私たちが真の人間としての偉さにうたれたり、心の高まるような歓びを見出したり出来ないのは自然でしょう。本当の偉さはそういうどちらかというと自分中心の成功に満足している姿のなかには見出せないものです。

キュリー夫人伝は近頃非常にひろく多勢の若い人たちに読まれた本でした。おそらく、この雑誌の読者のかたも読んでいられるでしょう。そして、きっといろいろな感動をうけながら読み終られたことだろうと思います。キュリー夫人は、疑いもなく世界の偉い婦人のうちの一人です。では、キュリー夫人の偉さ、美しさ、私たちの記憶にとどまって困難なときの私たちにとって励ましの魅力となる生気は、彼女の生きかたのどういうところから湧き出ているのでしょうか。

伝記を読んだ方々には御承知の通りに、マリヤは、ポーランドの首府ワルソーで中学校の物理の先生をする傍かたわら副視学官をつとめていたスクロドフスキーの四人娘の末っ子として生れました。西暦一八六七年十一月に生れたから、日本が明治元年を迎えた時です。聰明で教養も深い両親の御秘蔵っ子としてのマーニャは、いつも家庭のたっぷりした情愛につつまれて幼い時代を過したけれども、小学生になる頃からは、もうポーランドという国が蒙っていた昔の露帝ツァーの圧迫のわけまえをになって、教室で意地わるい視学の問いに、苦しい答えをしなければならないような経験の裡に成長しました。マーニャの家は、貧しいポーランドの貧しい小貴族の端くれで、経済的には決して楽でなかったことは、マーニャの生れた時分既に結核の徴候があらわれていて閉じこもり勝であった美しくて音楽ずきの母が、小さいマーニャのために自分で靴を縫ってやっているという家庭情景の描写のうちにも十分窺えます。マーニャが、ごく集注的な精神をもって生れていたということは、特別私たちの注意をひく点だと思います。毎日五時になって、お八つがすむと、スクロドフスキー家の食堂の大テーブルの上には石油の釣燭台に灯がついて、さて、子供達の勉強がはじまります。キュリー夫人の伝をかいたエーヴは、彼女の尊敬すべき母の子供時代にあってその勉強時間の有様を次のように描いています。「やがてどこからとなく単調な合唱がいつまでも聞えて来る。それはラテン語の詩句や、歴史の年代、或いは数学の与件を、大声で云って見ずにはいられない子供たちの声なのである」その騒々しいなかでも、一旦或ることに注意をあつめたら最後、マーニャの気を外へ散らすということは、どんないたずら巧者の姉たちの腕にも叶うことでありませんでした。大テーブルに向って、両肱をついて両手を額に当て、まわりのうるささをふせぐために拇指で耳をふさいで、マリヤが何かはじめたら、もう彼女の頭脳は吸いこむように働きはじめ、驚くばかりの記憶力のなかへそれをたたみ込むのでした。女学生時代の写真を見ると、マーニャは大変お父さん似です。小さめなきりっとした愛らしい口元も、真面目に正面を見ている力のこもった眼差も。ふっくりした朗かな顔だち、真摯な誠実さのあらわれている風貌などお父さんそっくりです。金メダルを賞に貰って、マリアは女学校を卒業しました。が、その頃から益々切りつまって来た一家の経済のため、スクロドフスキーの娘たちは夫々自活の道を立てなければならなくなって、十六歳半の若いマーニャも苦しい家庭教師として働きだしました。その頃は一時間半ルーブルという謝礼さえ、若い女の家庭教師に対しては高すぎる報酬と思われていた時代です。ところで、生れつき勤勉で物わかりのいい若いマーニャは、家庭教師としての自分の生活をどんな風に導いていたでしょう。マーニャが世間によくある若い女のように自分の境遇にまけて、一軒でもお顧客とくいをふやそうとあくせくしたり、相手の御機嫌を損じまいと気色をうかがったりする卑屈さを、ちっとも持たなかったということは面白いところです。生活の必要から家庭教師をしているけれども、マーニャの心はもっと広い大きい未来のことを考えていました。十七歳の彼女の心の中の考えはまだはっきりした形をとってこそいなかったが、人間の発達を阻むようないろいろの条件には決して屈伏しないで、一人でも多くの人々が充分の文化の光に浴さねばならないこと、そうして社会進歩はもたらされなければならないという事です。

マーニャは、ワルソーの市中をあちらからこちらへと家庭教師の出教授をして働く合間に、好学の若い男女によって組織されていた「移動大学」に出席して、解剖学、自然科学、社会学などの勉強をしました。そして、そこで学んだ知識をもって、工場に働いている人たちに有益な講義をきかせて、彼等の進歩を扶けようとしました。マーニャが、天性の勤勉さ、緻密で、敏活な頭脳を、こうしてごく若いころから自分の功名のためだけに使おうなどとは思いもしなかった気質こそ、後年キュリー夫人として科学者、人間としての彼女の真価をきめるものとなったと思います。

姉のブローニャが巴里へ行って勉強する費用をすけるために、自分は三年の間、ポーランドの或る地方の貴族の家の住込家庭教師として辛抱したマリヤ。やっと自分が巴里へ行ける番になって、ソルボンヌ大学の理科の貧しい学生となってからのマリヤが、エレヴェータアなどありっこない七階のてっぺんのひどい屋根裏部屋で、時には疲労と空腹とから卒倒するような経験をしながら、物理学と数学との学士号をとる迄がんばり通した四年間。マリヤがそういう生活に耐えて、二十六歳のころ物理は一番で、数学は二番という成績で学士号を得たのが、決してただの負けじ魂や女の勝気や名誉心からではなかったことを、私たちは深く心にとめて味わわなければならないと思います。マリヤは、しんから科学の学問がすきで、そこに尽きることのない研究心と愛着とを誘われ、そういう人間の知慧のよろこびにひかれて、その勉強のためには、雄々しく辛苦を凌ぐ粘りと勇気がもてたのでした。このことは、彼女が同じソルボンヌ大学で既に数々の重要な物理学上の発見をしていたピエール・キュリーと知り合い、互に愛して結婚してから後の全生涯の努力とも最後まで一貫しているマリヤの命の焔です。もしも彼女が、上成績で学位をとったことを、これから安楽な奥さん生活を営むためにより有利な条件として利用しようとでもする俗っぽい性根であったなら、決してピエール・キュリーのような天才的な、創意にみちた科学者の人柄と学問の立派さを理解することは出来なかったでしょう。何故なら、保守的な学界のなかで、当時三十五歳だったピエールの学者としての真価は決してまだ十分には認められていなかったのですから。貧しいマリヤに比べても彼は決して富裕と云うどころの生活ではなかったのですから。物理化学学校の実験室での、八時間。その一日の仕事の帰り途、市場へまわって夫婦は一緒に夕飯のための材料を買いました。家事の雑用を最も手まわしよくやって三時間。それからマリヤの夜の時間は家計簿の記入と中等教員選抜試験準備のためにつかわれて、朝の二時三時まで二つしか椅子のないキュリー夫婦の書斎での活動はつづきます。

一八九七年、マリヤは長女のイレーヌを生み、彼女の家庭生活と科学者としての生活は一層複雑に多忙になったけれども、健康なマリヤは、すべての卓抜な女性が希うとおりそれらの生活の全面を愛して生きようとしました。「妻としての愛情も、母としての役目も、それから科学も、等しく同列においてそのいずれからも手を抜くまいと覚悟していた。そうして熱情と意志をもって、彼女はそのことに成功したのである」

成功の冠は、一九〇四年、ピエールが四十五歳、マリヤが三十六歳の年、ラジウムを発見した業績によって、世界的に彼等の上にもたらされました。ノーベル賞を与えられた彼等は科学者として最高の名誉の席につかせられ、学界からおくられる称号、学位の数々は、まるでそういう名誉でキュリー夫妻を飾ることを怠れば、その国々の恥辱となるとでも云いそうな勢でした。もしキュリー夫妻の艱難と堅忍と努力と成功の物語がここまでで終っていたとしたら、この人々の生涯は、成程立派でもあり業蹟もあがっているが、謂わば平凡な一つの立志伝にすぎなかったと思われます。

成功し業蹟をたてた人の真の価値は寧むしろ世間にその価値が認められてから後、その人がどんな態度で周囲から与えられる尊敬や名誉やそれに伴う世間的な利益に処して行くかというところにこそ、人間としての評価の眼が向けられるべきではないでしょうか。キュリー夫妻の生涯の価値、科学者としての真のえらさは、一九〇四年の春のある日曜日の朝の会話にその精髄をあらわしていると思います。アメリカから来た一通の手紙が二人の間のテーブルの上におかれています。手紙は、アメリカの技術家からラジウム調製の方法を教えて呉れるようにと云って来ているものです。この手紙の内容は、誰にでもすぐ考えられるとおり、キュリー夫妻が世間の人たちが誰でもやっているとおり自分の発見に特許をとって、ラジウム応用のあらゆる事業から莫大な富を独占するか、それとも、そんなことは一切せず、科学上の発見を人類の進歩のためにひろく開放するか、二つに一つの態度をきめさせる性質のものでした。特許をとれば、明かにラジウムは巨万の富をキュリー夫妻へもたらすでしょう。学生時代から貧乏のしどおしである日々の生活が安らかになるばかりでなく、科学者としてキュリー夫妻が永年の間憧れている設備のいい実験室さえ何の苦もなく持つことが出来るでしょう。それらのことは、彼等のこれまでの辛苦に対して当然のむくいではないのでしょうか。マリヤは静に金儲けのことや物質上の報酬のことを考えた揚句、こう云いました。「私たちの発見に商業的な未来があるとしてもそれは一つの偶然で、それを私たちが利用するという法はありません。」ラジウムが病人を治す役に立つからと云って、そこから儲けることなどマリヤには思いも及ばないことであったのです。ピエールとマリヤは科学者としての彼等の後半生の方向をきめたこの重大な相談に、僅十五分を費したきりでした。夫妻がノーベル賞を授与された祝賀会の講演で次のようにのべたピエールの言葉こそ、キュリー夫妻を不滅にした科学の栄光であると思います。「私は人間が新しい発見から悪よりも寧ろ善をひき出すと考える者の一人であります」と。

〔一九三九年十二月〕

底本 / Source edition

底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
1981(昭和56)年3月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
初出:「少女の友」
1939(昭和14)年12月号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
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宮本 百合子「キュリー夫人の命の焔」(新字新仮名)、底本『宮本百合子全集 第十七巻』新日本出版社、1981年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 003961_000311, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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