Soranoha

北へ行く

きたへいく

宮本 百合子

斜向いの座席に、一人がっしりした骨組みの五十ばかりの農夫が居睡りをしていたが、宇都宮で目を醒した。ステイションの名を呼ぶ声や、乗客のざわめきで、眠りを醒されたという工合だ。窓の方を向いて窮屈に胡座あぐらをくんでいた脚を下駄の上におろしながら、精力的な伸びをした。二人づれの国学院の学生がその時入って来て、座席を物色した。車内は九分通り満員だ。二人はその農夫の前えに並んでかけた。

農夫はやがて列車が動き出すと、学生に話しかけた。

「学校は東京ですかい?」

「ええ」

「あなた方の学校にも、支那の留学生がいますか」

ちょうど漢口事件のあった後であった。訊かれた学生は互に一寸顔を見合わせるような素振りをし、

「僕たちの方には来ていません」

と低い声で答えた。

「――本国であんなごたごたしているのに、金、なじょにするだべ」

ききなれたそれは福島辺の訛なので、私はぼんやりした好意をその体躯堂々たる農夫に対して感じた。彼が土を掘ってこそいるが、或る精神力のようなものをも持っていて、世界のいろいろな出来事に興味を感じ、その興味を裏づけるに必要な知識を、若い大学生から得たい心持でいるのがよく察せられた。

「支那、大分騒いでいるらしいが――どう云うんだっぺえな――政党争いみたいなもんだっぺえか」

彼はつづけて質問的に云ったが、大学生達の居心地わるそうな、尻ごみした態度が明かになるだけで、一人が、

「さあ」

と曖昧に薄笑いしたぎり、必要な答えは与えない。傍でそれを観ると、やや老いかけた農夫の方が、生活力の素朴な感じの点で、青年である大学生よりずっと青年らしくあった。恐らく知識慾の上でも職業学生より、彼が活溌なのではあるまいか? そのような感情をもって観ていると、人のよい農夫は、自分の農夫であることや、無智であることを自覚し、学生に対して常にひかえ目であるのだが、どうしても衷心からの動きを制しかねた風で半ば独言のように云った。

「それでもはあ、民衆一体の仕合わせを目あてにしてやっているちゅうのは嘘でなかっぺえな――支那の奴等も目醒めて来たんだない」

目醒めて来たとは、ブラボー! 何と目醒めた爺さんであることよ。私は思わず破顔しその予想もしない斬新な表現で一層照てれされた二人の学生の近代人的神経質さにも微笑した。然し――私は堅い三等のベンチの上で揺られながら考えた。この四角い帽子をいただいた二つの頭は、果して新しき老農夫を満足し啓蒙するだけの知識をもっていながら、彼等が余りエレガントであるために只ああやって蒼白き微笑のみで答えたのか。または、大きな声では云えないが、頭はただきれいに分けた髪の毛の台うてなに過ぎないので、ああやって無気力な薄笑いを反射させただけなのか……

学生からまとまった数言をききたがっていた農夫も、やがて同じような謎に捕われたと見え、口を利くのをやめた。彼は窓の方へ再び向きなおった。刻み目の粗い田舎の顔の上へ、車窓をとび過る若葉照りが初夏らしく映った。

〔一九二七年八月〕

底本 / Source edition

底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
1981(昭和56)年3月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房
1953(昭和28)年1月発行
初出:「若草」
1927(昭和2)年8月号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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書誌 / Bibliography
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宮本 百合子「北へ行く」(新字新仮名)、底本『宮本百合子全集 第十七巻』新日本出版社、1981年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 003884_000311, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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