Soranoha

わが五月

わがごがつ

宮本 百合子

五月は爽快な男児。ぴちぴち若い体じゅうの皮膚を裸で、旗のような髪の毛を風にふき靡なびかせつつ、緑の小枝を振り廻し駈けて行く五月。新鮮に充実して浄き官能の輝く五月。

近い五月は横丁の細道にもある。家の塀について右へ一つ、もう一遍右へ一つ曲ると、そこに五月の慎しい宝が人目にかくれ横わっている。右も生垣、左も生垣、僅か三尺ばかりの小道がそこを貫いているのだが、五月になると、小径は緑の王国だ。高いところに樫の若葉、要の葉、桜、楓、地面に山吹や野茨が叢むらがり出て緑のヷァリエーションをつくる。そこへふっさり幹を斜に空から後期印象派風の柳が豊富な葉を垂らし、快晴の午後二時頃人声もしないその小道を行くと、何と云おう――様々な緑、紅緑、黄緑、碧緑、優しい銀緑色の清純な馨かんばしさ、重さ、燦めきが堆団マスとなっていちどきに感覚へ溢れて来る。静けさに満ち渡る崇厳――。

あらたふと青葉若葉の日のひかり

北方の五月は黄昏トワイライトがながい。もう太陽は河の彼方に沈んだ。燦めきのない残光が空中にあって、空を建物を人物の色彩を不思議に鮮かに浮きたたせる。市街は、オランダの陶器絵のように愛らしく美しい。ねっとりした緑の街路樹、急に煉瓦色のこまやかな建物の正面ファサード。車道を辷るシトロエンが夢のようなレモン色だ。女の赤い帽子、総ての色調トーンを締める黒の男性散策者。

人は心を何ものかにうばわれたように歩く。……歩く。葉巻の煙、エルムの若葉の香、多くの窓々が五月の夕暮に向って開かれている。

やがて河から靄が上る。街燈が鉄の支柱の頂で燐を閃めかせ始める。ほんの一とき市民の胸を掠めるぼんやりした哀愁の夜が、高架鉄橋のホイッスラー風な橋桁の間から迫って来た。

そういう黄昏、一つの池がある。ふちの青草に横わって池を眺めると、水の上に白樺の影が青く白く映っていた。花咲かぬ水蓮も浮いている。白鳥が一羽いる。むこうの丸木橋の下にいたが、こちらへ向いて泳いでいた。眠たい水が鋼色にひろがる。青草に横わって池を眺めると、今は樹間をこめる紫っぽい夕暮の陰翳まで漣とともにひろがり、白鳥ばかり真白に、白樺の投影の裡に伸びた。

〔一九二七年五月〕

底本 / Source edition

底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
1981(昭和56)年3月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房
1953(昭和28)年1月発行
初出:「改造」
1927(昭和2)年5月号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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書誌 / Bibliography
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宮本 百合子「わが五月」(新字新仮名)、底本『宮本百合子全集 第十七巻』新日本出版社、1981年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 003882_000311, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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