Soranoha

宝に食われる

たからにくわれる

宮本 百合子

この間、ほんの四五日であったが奈良に行った。そして、短い時間に慾張って処々の寺にあるよい仏像などを見た。奈良には、十九ばかりの頃、中学三年生の弟と春休みに数日暮したことがあった。その時は大阪にいた親戚により、大阪から今はもう廃業してしまった対山楼に行った。梅林があり、白梅が真盛りで部屋へ薫香が漲っていたのをよく覚えている。何にしろ年少な姉弟ぎりの旅だったので、収穫はから貧弱であった。博物館で僅の仏像を観た位のものであった。然し、足にまかせ、あの暢やかなスロープと、楠の大樹と、多分馬酔木あせびというのだろう、白い、房々した、振ったら珊々と変に鳴りそうな鈴形小花をつけた矮樹の繁みとで独特な美に満ちている公園を飽かず歩き廻った。三月末から四月五六日頃にかけての奈良の自然の快よさ! 桜時分だから東大寺の、銭を払っては一撞きつかせる焚鐘が殆ど一日じゅう鳴りづめだ。春日神社の囲りなど夥しい神鹿の姿も雑踏にまぎれるばかりの人出であった。が、妙なもので、素通りの見物人が通る大路はきっちり定っているものだ。その庭の白く乾いた道の上こそ、草履の端から立つ埃がむっとしておれ、たった一歩、例えばまあ三月堂から男山八幡へ行く道、三笠山へ出る道を右にそれて草原に出て見る、そこで人影はもう余程疎らだ。もう一寸、麗らかな太陽の下で情感ある蔭を重ねている矮樹を縫って更に奥へと進んで見る。――私は不意に自分を囲んだあの静けさ、諧調ある自然の沈黙に打れ感動した心持を今だに忘られない。私は、その時ひとりでに六尺ばかりに延びた馬酔木がこんもり左右に連り生え、云うに云われぬ優しい並木路で区切られた草原の一隅を見つけ出した。そこに腰を下し、私は恍惚として空想に耽った。

今度の旅行では、永年心に印象され憧れの胚種となっていたそれ等自然の感銘の上に幾分豊富な芸術的知識を加え得た。精神の活々する実に楽しい旅であった。けれども、寺々を歩いているうちに、時々私の心持を陰気にさせる一つのものがあった。それは、仏像拝観に訪ねた私たちを案内したりもてなしたりしてくれる僧侶が、大概ごく若いのにまるで大人ぶり、それも一人前の坊さんぶるのではない軽薄な美術批評家ぶって、小癪な口を利き立てる淋しさである。やっと十九か二十ぐらいの、修業ざかりと思われる若僧が、衣の袖を翻して心得顔に、

「結構なものですな。まるでギリシア彫刻を見るようです、大理石の味がある」

などと云う時、ははんと寥しいのは、私の性根がひねくれているのだろうか? 奈良の僧侶の多くの者は、祖先の遺産が沢山すぎ立派すぎて或る点スポイルされていると私は思った。種々な人間が、天平、弘仁の造形美術の傑作を研究し、観賞しに奈良を訪ねる。本当の芸術愛好家なら、仏教の信仰をそのものとして奉持しなくても、美から来る霊的欽仰を仏像とその作者とに対して抱かずにはおられない。彼等は感歎し、讚美する。端厳微妙な顔面の表情や、腕、脚の霊活な線について。よき芸術にふれた歓喜を、彼等は各々多くの場合専門語で表現するに違いない。そう本ものの美術観賞家とも生れついていまい若者は、傍でそれ等テクニカル・タームの数々を耳に浚い込む。文学青年という熟語があれば、奈良の若僧中には、美術青年がある。無礼を顧ずいえば、彼等は僧として、高邁な信仰を得ようとする熱意も失っていると同時に、芸術的美に沈潜することによって、更に純一な信心に甦るだけの強大な直観も持っていないようだ。自分達の本堂に在す仏を拝んでは、次の瞬間に冷静な美術批評家ぶって見、それを些か誇とする――私の穿ちすぎた感じ方かも知れないが、そこに何とも云えず佗びしいものがある。本気で修業する僧と、外来の者を案内したり何かする事務員とは別々な方が自然だ。京都では、この点、もっと俗悪に病的になり下っている。悲しいが憎めない奈良の若者の稚気ある口真似と比較にならない、憎々しさ、粗暴さが、見物人対手の寺僧にある。彼等は、毎日毎日いつ尽きるとも知れない見物人と、飽々する説明の暗誦と、同じ変化ない宝物どもの行列とに食傷しきっているらしい。不感症にかかっているようだ。悠ゆっくり心静かに一枚の絵でも味おうと思えば、我々はこれ等の宝物に食われかけている不幸な人々にどいて貰い、放って貰って、志を果さなければならないのだ。

〔一九二五年七月〕

底本 / Source edition

底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
1981(昭和56)年3月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房
1953(昭和28)年1月発行
初出:「文芸日本」
1925(大正14)年7月号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
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書誌 / Bibliography
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宮本 百合子「宝に食われる」(新字新仮名)、底本『宮本百合子全集 第十七巻』新日本出版社、1981年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 003855_000311, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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