Soranoha

娯楽論

ごらくろん

戸坂 潤

娯楽というものの価値が正当に評価されていない、娯楽が有つ深長な意義にもっと注意を払わなければいけない、娯楽の理論的な考察をもっと真剣に試みる必要がある、とそう私は主張したいのである。なぜかと云うとやがて明らかになるように、民衆が自分自身の生活について反省する時、娯楽は最も重大な実際問題だろうと思われるからだ。尤も吾々は、かつて農山漁村の民衆生活を心配したり、後には軍義的労働力としての民衆の体位を心配したりする、ああいう心配の仕方によって民衆のことを気にかけているわけではない。吾々は勿論民衆を支配したり指導したりする役目を持ってはいない。民衆を自分の手段とする者ではない。吾々はつまり吾々自身の問題として、娯楽というものを省察せざるを得ないのである。

こういうと、笑い出す人もいなくはない、娯楽の価値を正当に評価せよなどということは、諸君のような抑々初めから娯楽を平俗な低級なものだとして軽蔑したり叱りつけたりしている、一種の「インテリ」でなければ必要のないことで、大衆はそんなことを云われるまでもなく娯楽の価値はチャンと判っているのだと、そう云うだろう。なる程そうかも知れない。併し吾々という或る一群のインテリ群が娯楽の余暇と娯楽の能力さえをあまり持っていないというのが事実とすれば、その事実は決してこの吾々が「インテリ」であったり民衆を見下す相対的な貴族であったりするがためではない筈だ。実際を云うと、民衆こそは殆んど全く、娯楽の余暇と能力とを奪われている場合が圧倒的ではないのか。

娯楽というと、前資本制的な反資本主義者は、すぐ様近代都市的消費生活に於ける娯楽のことを考える。デパートやダンスホールなどを考える。そして娯楽の不健全さをそれとなく暗示するのである。農村の前資本主義的生活に於ける娯楽の大衆的な貧弱さが精神作興に打ってつけの健全さに他ならぬとでも云いたいような通俗常識もあるのである。正月、盆、秋祭り、其の他の祭礼、こそが健全な唯一の娯楽で、それ以外のものは百姓達の驕慢を連想させる政治的不吉の兆でしかない、というような徳川政府的常識も未だに衰えないのである。だがこういう常識の所有者、否こういう常識の保守者自身、の娯楽能力は別として、こういう常識そのものは正に、前資本主義的な生活の已むを得ない所産であったわけで、今日の娯楽は市民的交通の極度の発達と地方性の喪失とに照応しなければならぬ処の、近代的な観念なのである。農民の祭礼も決して娯楽でないのではないが、近代的な市民の交通関係に相応する娯楽観念の内に、包摂されてしか生き残らぬ娯楽であろう。例えば盆踊りは当局による上からの奨励にも拘らず、全国的に衰微しつつある。多少の復興を見る処もあるのは、それが実は近代的娯楽の意味を受け取っているからに他ならない。

吾々は今日、近代的な資本主義的(そしてそれから展化する処の社会主義的)娯楽を抜きにして、娯楽を論じることは完全に不可能だ。だが元来民衆を抜きにして娯楽を考えることは出来ない。それが娯楽というものの性質が、慰安や快楽の個人的性質と違う点であることを後に見ようと思うが、今日の一般民衆に於ける娯楽の貧弱さは、一方地方に於ては娯楽の前資本主義的な貧弱さのことであり、他方近代都市生活に於ては、資本制的娯楽そのものの分量さえが大衆にとって微量に過ぎるということだ。要するに今日の日本の民衆は、正常な意味での(近代的な)娯楽を恵まれてはいない。娯楽を知らぬ者は、高級文化の崇拝者たる一群のインテリなどより先に、一般の大衆自身だったのだ。

だから日本では、娯楽についての大衆的な・民衆的な・又云わば民主的な・観念が殆んど発達していない。娯楽は不当に卑しめられ、そして同時に事実に於ては不当に放置されている。こう見て来ると、民衆生活の民主的伸張擁護のために、娯楽が今日何を意味するだろうかが、略々見当づけられるだろう。娯楽なるものは、民主的な課題の一つなのだ。

処が今日娯楽と云えば、民衆に躾けをつけようという心掛けの人間にとってか、そうでなければ民衆の歓心を買おうと心掛けている人間にとってしか、用のない観念であるように見える。飴と鞭とか、それとも飴だけか、の相違しかない。どれも民衆の利用者がもつ処の観念であり、民衆という原料から専ら効用を惹き出そうという側の人間のもつ観念でしかない。で、なぜ吾々が今、娯楽の考察を重んじなければならぬかが、重ねて判るだろうと思う。

古代以来の倫理思想・倫理説・倫理学・を見ると、娯楽を以て道徳の何等かの原理としたものは案外少ない。之に反して、幸福を原理としたものは、古来絶えない主流をなしている。快楽説というやや不幸な名を以て呼ばれるものがそれだ。快楽と幸福との区別はとに角として、その場合の問題の要点は快楽ではなくて幸福にあるのが恒で、エピクロスの園は実は酒池肉林の快楽の園ではなくて、幸福な賢者達の典雅な文化的社交界であったのだ。娯楽が近代庶民的な卑近さを有っているに反して、幸福は云わば超歴史的なモラルのアプリオリのようにさえ見える。つまり幸福というものは人生の一つの要請であって、それを想定しなければ話しにならぬが、そうかと云ってそれを想定したからと云って話しが実際に片づくものでもないのである。だから実際幸福という観念は往々にしてロマン派的なものであったり(メーテルリンクの『青い鳥』)象徴派的なものであったりする(A・ジードの『エル・ハジ』の如き)のだ。それが多少理論的な形をとると、理想主義的なものであったり観念論的・精神主義的・乃至神学的・なものであったり、そうでなくても高々精神医学的な処方や説教に類似している他ない。ヒルティの『幸福論』などがこうした最後のものの典型である(R・ケーベルはヒルティに対して深い同情を示している――『論文集』第二巻を見よ。そしてケーベルが文学の最も大きな役割の一つを教慰とでも云うべきもの――エヤバウウンク――に見出していることは面白い。教慰と娯楽との関係に就いては後に)。

ヒルティの幸福論の最初の一篇は、幸福というものが労働の内にしか見出せないという説明を以て始まる。休息と労働とは単純に相反した対立物ではない、疲労させる休息もあれば休息となる労働もあるが、結局に於て幸福は労働し労作することの裏にしかない、というのだ。この知恵は、云わば人生の生理学として真実であるばかりでなく、又社会科学的な真実をも含んでいないのではない。ただ問題なのは、こうした幸福がいつも何か個人的なものでしかないという、宿命なのである。なる程幸福は結局に於て個人の幸福なのだ。之を措いて社会の幸福も何もありはしない。だが単なる個人の幸福には止まらぬ処の個人の幸福、夫を仮に社会の幸福とか休戚とかいうなら、そういう幸福も考えて見なくてはならぬ。だが之はもはや人生の生理学の圏外に横たわるように見える。夫は幸福と呼ばれてはいない。

それだけではない、幸福が個人そのものの幸福でなければならぬ限り、幸福を求める道は必ずしもヒルティのように労働の内ばかりにあるとは限るまい、他の解釈も大いに可能となるだろう。どんな不幸の内にも何かささやかな幸福はあるものだ。殆んど完全な絶望の内にさえ、多くの自殺者の遺書に見られるようなセンチメンタリズムの幸福の閃きはあるものである。死の恐怖がそのまま安心に転回されるという宗教的幸福が存在し得るのも亦嘘ではない(「イワン・イリイッチの死」)。幸福を個人的な観点からつきつめて行けば、こうして観念的な解決の底なし沼へつき進まざるを得ない。而も幸福というものはそういう個人的な観念であることを止め得ない。――ここに幸福という観念の観念性と無力とが横たわる。だからこそ之は単なる要請に他ならぬというのであり、想定以上のものではないというのだ。之を一つの能動的な構成原理として取り出すには不向きに出来ているのだ。恐らく幸福の説が幸福説とならずに多く快楽説となって現われるのもここに関係があるだろう。快楽の方が一つの構成原理として(快楽原理)、幸福という観念よりも適切なのである。

娯楽はそこで、確かに幸福と最も密接な関係を有っている。だが幸福に較べて遙かに社会的な特性を備えた観念であり、又もっとズット現実的で積極的な社会福祉の原理である、ということを予め注意しよう。と云うのは幸福なるものは元来一つの要請でしかなかったから、理想主義者の理想のように、由緒正しく真ともで肯定的なものであるには相違ない。誰が一体幸福を本当に否定する気になる者があろうか。それは丁度、社会運動をする者は誰だって人間の精神的自由を理想目的としていないものはないのと変らない。ただ困るのは、そういう理想目的を単に肯定しただけでは何物も始まらないということである。否そういう理想目的のただの肯定が却って現実の出発を妨げ又歪めるという点なのである。肯定的精神は大抵理想主義の精神なのだ。幸福も亦理想主義者のユートピアのようなもので、之をどんなに肯定したり強調したりしても、民衆はそれだけでは一向現実に於て幸福にならないのである。幸福となるための現実的な入口は、却ってもっと部分的な、もっと一面的な、云わば充分に周縁しない一種不完全な幸福観念にあるのである。もっと制限された、否定の可能性を欠かぬ処の、幸福観念である。処で娯楽は丁度そうしたものだ。

娯楽は決して幸福の凡てではない、そのほんの一部分にしか過ぎない、而も最も下等な種類に近い幸福でしかない、或いは寧ろ積極的に幸福と呼ぶことさえ出来ないものかも知れない。併し娯楽を入口とし娯楽を通路としない限り、幸福の社会的実現は事実不可能なのである。幸福は或る種の目的であろう、娯楽は之に反して決してそれ自身目的ではない、何かの手段に過ぎない。ただ実際に不可欠な手段であろうと思われるのである。

娯楽は或る意味で、消極的な弁解的な特徴を有っている。暇つぶし、退屈凌ぎ・休息・慰安・というものとごく近い点があるからである。併しこういう種類のものと娯楽との区別が今、大切である。往々娯楽をこういうものとしてしか考えないのが常識であるだけに、益々そうだ。

暇つぶしと退屈凌ぎは大体から云って有閑層での出来事であるというのが常識であるが、必ずしもそうばかりは云えない。閑暇やアンニュイが一種の文化的ポーズになる時は、それが他ならぬ有閑層のイデオロギーになっている時なのであるが、併し忙しい生活の内にも、突如として暇つぶしと退屈凌ぎとの必要を生じて来ることがあるのである。一定の、恐らくその時必要な又は可能な、労働に対して、気乗りがしない時、その労働が免れることの出来ぬ課題であればある程、或いはその労働が唯一の許された可能な労働であればある程、暇つぶしと退屈凌ぎとの必要は大きくなる。つまり労働が欠如している時ではなくて、気の向いた労働が欠如している時に、之が必要になって来るわけだ。

暇や退屈に苦しむということは抑々贅沢のように考えられているが、併し実際は、労働が出来ないということは人間にとってこの上ない不幸と苦痛なのである。云わば人間は一秒々々の時間について労作の義務を感じているのである。人間生活の時間の有限性が、こういう義務感を発生させる。そうでない限り、永久に「明日ありと思う心」は消えないので、仕事を無限に延引することは少しも仕事の成就を妨げることにはならぬ筈だろう。処が、芸術は長く人生は短い、というのが事実で、そこから時間に就いての人間的責任が生れて来る、という風に説明して出来なくはない。率直な事実は、人間が一般的に労働しないでは一刻も意識生活が出来ないということだ。ところで或る特殊のその場で可能な又必要な労働が何かの原因で気の向かない時に、それに対する全くの弁解のために、他のもっと気の向く、従ってもっと平均的な一般的な這入り易くて責任の軽い何等かの労働を選択する、ということが、暇つぶしであり退屈凌ぎということである。勿論そういう安易労働に多くの社会的効用を期待することは出来ない。だから之を労働と呼ぶことに引け目はあるが、併し少なくとも一種の活動でないとしたら、暇をつぶし、退屈を凌駕するだけの、能動性さえあり得なかった筈だろう。

だがそれにも拘らず暇つぶしや退屈凌ぎは生活に対して消極的で弁解的なものであることを失わない。之は特殊な或る労働を、任意の安易労働という一般的労働を以て置き換えることを意味するが、特殊労働が当然持っている筈の労働の有用性が失われて、一般任意の労働に振り替えられるのだから、之は否定的で消極的なものであらざるを得ない。依然としてわずかでも労働の形をそなえているという生活の弁解のためのものでしかない。多くは自己弁解のためのものだ。だが精神衛生上、暇つぶしや退屈凌ぎが有っている価値をここで一々評価している暇はない。それは精神の個人的乃至内部的な衛生に関することではあっても、精神の社会的な臨床に直接したことではないからだ。

なる程暇つぶしや退屈凌ぎに、娯楽というものを利用するということはある。事実娯楽はこういう消極的な自己弁解の形式に、或る積極的な感興をさえ与えることが出来る。娯楽は社会的に成立した或る特殊な積極的内容を持っているからである。例えばスポーツとか勝負ごととかいう「既成制度」とも云うべき文化形象を有つものが娯楽だからである。だがそうだからと云って、例の二つのものを娯楽自身と混同してはならぬ。暇つぶしや退屈凌ぎは夫々の個人の私事に吸収されている現象で、それ自身では社会的な立体を形づくらないものだ。その意味に於ても、之は消極的だったのである。有閑層の産物であることが往々であるのも、有閑層の生活が社会的労働から縁遠く、社会に於ける積極的な立体性をもった文化形象の一切とから割合離れているからなのだ。娯楽を最も濫用しているものは事実有閑層であるが、娯楽を本当に要求し、従って本当に娯楽というものの価値を理解出来るものは一般勤労民衆でなければならぬ、ということになるのである。

暇つぶしや退屈凌ぎは、まだ何等娯楽にはならぬ。娯楽には生活感の促進を催す処の、あの文化一般の素の味である処の、積極的な熱情があり、文化一般の健康感を結果する処の、あの建築的で蓄積的な生産的能力が備わっている。たといその文化的な身上があまり高くないにしてもだ。単に無間地獄に落ちないだけのための、暇つぶしや退屈凌ぎと根本的に異る所以だ。

娯楽は又、休息や慰安とも密接な縁故があるだろう。だが休息と娯楽とをすぐ様結びつけて考えることは、実は休息を労働から無雑作に切り離して考えることであり、従って又娯楽を労働から引き離してしか理解しないことだ。こうした労働の観念は何を意味するか。奴隷制的労働でなければ、一般に奴隷的な労働をしか意味しないだろう。とに角労働に関する所有者的観念に立ち留ることを意味する。それではつまり、娯楽の所有者的な観念の或るものに止まることに他ならぬ。それから、娯楽を慰安と同じに考えることも亦、所有者的な観点から民衆を打ち眺める結果の一つだ。民衆勤労生活の不幸を想定することによって、且つこの想定を不変な公理とすることによって、初めて慰安という恵善的観念が社会的に生じて来るのであるが、之を以て他ならぬ娯楽だとすることは、結局民衆の不幸に対する弁解と補償として、娯楽を利用することになるのであって、民衆に対する社会的支配の道具の一つを娯楽に発見するというやり方に他ならぬ。之は民衆の娯楽であるようであって実は民衆の娯楽ではない。吾々は然るに、初めから娯楽の民主的な観念をこそ求めていたのだ。

慰安と休息とは、暇つぶしや退屈凌ぎに較べて、遙かに或る社会的な本質を持っている。後に見るように、もし娯楽が或る社会的な本質を有つものだとすれば、少なくともこの方が娯楽により近いことは想像していいだろう。それだけではなく、何と云っても慰安や休息は、その後の労働に生気を与える原因になるわけだから、それだけ養生的な意義を持つわけで、この点でも暇つぶしや退屈凌ぎのただの消極的で弁解的な本性とは異っているのだ。だがそれでもなお、慰安や休息はそれ自身に積極的な建設力があるのではない。あくまで労働に対立する慰安であり休息であることが、所謂慰安であり休息である所以だからである。――娯楽が慰安や休息として利用されることは勿論甚だ多い。だがそれ自身が娯楽なのではない。

さて最初に私は、娯楽を幸福に比較した。その時残されたものは、快楽と娯楽との関係であった。その点はどうなるか。――快楽は一つの原則である。快楽原理と呼ばれるものが夫だが、併し同時にあまりに絶対的原理でありすぎる。と云うのは、それが独立に徹底され得る原理であることによって、みずから自分を束縛せざるを得なくなるような、そうした原理の一つだと云うのである。快楽の原因は刺戟に置かれるのを普通とする。刺戟は反覆することによって逓減するのだから、一定質量の快感を保持するためには刺戟を限りなく増加しなければならぬ。だがそこには云うまでもなく限界がある。快感の飽和点がある。ここが快楽の危機であって、ここから快楽の浪費と快楽浪費そのものの不快な快楽とが生まれる。淫するというのは之を指すのだ。淫することは何も肉的欲情に限ったことではない、快楽一般の法則だ。この淫楽はおのずから自棄に通じ、やがてアンニュイに帰するものであるがこうなると、実はもはや快楽ではなくなって、前に述べた処の、あの退屈凌ぎや暇つぶしというカテゴリーに突入して来る。自棄的な暇つぶし、自暴的な退屈凌ぎ、ということになる。

快楽は熱情的な積極性を有っている。確かに之は生命の原則の一つだろう。だがその積極性の無条件な徹底は、遂に慰安と休息さえのないアンニュイに陥る。快楽の結局の非積極性と弁解的本性とがここに見出されるわけである。これは確かに生命の原則の一つだ。生理的・個人心理的・な生命の原則だ。だがこうしたものは無条件には必ずしも生活の原則ではあり得ない、社会生活の原則の一つではあり能わぬ。快楽は個人的な生活原理なのである。快楽は幸福よりも機動力を持っている。幸福は単なる想定であり、或いは高々精神の均衡関係としての満足という結果か状態に他ならぬ。之に較べれば快楽は、それが一定の刺戟から直接に制約されている限り、ただの精神的想定や状態や結果ではなくて、正に心理的原因であり、心理的な原動力なのである。これだけの違いはあるが、それにも拘らず快楽は、個人的な本質の観念である点に於て、幸福と大して違ったものではない。

かくて快楽という観念は結局に於て自壊する積極性しか有たず、又社会的規定をそれ自身には持っていない、そういう観念なのだ。少なくとも物事を快楽というカテゴリーで把握する限り、その物事がそういう風に把握されざるを得ない。――娯楽は一種の快楽であると云ってもいい、ただあくまで個人的でなく理解された快楽、あくまで養生的な積極性に於て理解された快楽、そういう異例な快楽にしか過ぎない。だから娯楽を快楽に還元することが誤りであるばかりでなく、之を快楽に包摂させることも亦誤りだ。

快楽の一種に逸楽とでも云うべきものがある。之とても娯楽と一つではない。逸楽は或る逃避的な快楽を意味する。逃避する世界が深山幽谷であろうと市井の真只中であろうと、要するに社会的関心から個人的関心の内部へ逃避することだ。天下の逸民とは、自分の方も社会に対して何の要求も持ち出さぬ代りに、社会の方でも自分をソットしておいて欲しい、とする処の人間のことで、要するに或る特権を黙許された人間のことだ。民衆のことではないのである。娯楽は勿論難行道であり得る筈がないから、逸楽とどこか似た点もあるのであるが、併し娯楽の易行道は決して社会の建設的コースから脱線したものであってはならぬ。処でこのコースから逸脱する快楽こそ、所謂逸楽だったわけだ。

では娯楽そのものは何か。大体之を二つの特徴から整理して行くことが出来ると思う。第一は或る社会性であり、第二は或る積極性と云っていい。娯楽の有つ社会性の特色は、それが多くの場合、個人の単独な享受ではなくて必ず相手又は同志があるということに現われる。囲碁・将棋・などの手腕に基く勝負、競馬其の他のような知識と予見とに基く勝負、又は完全な偶然を建前とする勝負(賭博)、単なる競技(撞球其の他の類)、運動による競技(野球・水上・トラック・フィールド・などの競技的なスポーツ)などは勿論であるが、併しそれより大事なのは、例えば演劇・映画・其の他の演芸・スポーツ・等々の鑑賞が、事実に於て決して単独の観客によってはなされないということであり、多数の観客大衆を俟って初めて興行的に可能であるばかりでなく、之を俟ってその鑑賞そのものが初めて娯楽としての好さを生じて来るということである(之が商売乃至職業である場合を勿論除いて考えねばならぬが)。こうしたものは単なる普通の意味に於ける芸術的な鑑賞ではない、同時に一つの社交行為であることを忘れてはならぬ。折角芝居を見に行って、観客が寥々としていること程、ガッカリすることはあるまい。劇場が大衆的なものであればある程、立派で華かなものであることを要求される理由も亦、この社交性にあるのだ。

底本では1字下げしていない娯楽的な意味の勝っている芸術は、寧ろこういう一種の社交感をその芸術内容の一つとしているだろう。だが芸術のことは後にして、会食やティーパーティーやダンスパーティーは、明らかに社交的娯楽の意味を有っている。勿論全く個人的にも行なわれ得る娯楽もないではない。独りで講談本を読むのも、独りで流れに糸を垂れるのも、或いは体育的な意味に於ける個人スポーツ(勝負事や社交としてのスポーツではなく)も、強いて云えば娯楽に数えていい場合が多いかも知れない。だが体育さえもそれが本当に社会化されて日常生活に入り込む時は、マスゲームのようなものにならざるを得ない。そしてこういう風に社会化されて日常生活に浸潤する場合、それは同時に娯楽的な意味を得て来るのである。同様なことは娯楽としての音楽についてもその通りに云えるし、登山・ハイキング・旅行・から始めて酒席さえも亦、或る限度の相手を必要とする。それが娯楽のカテゴリーにぞくする限りはである。

今雑然と並べて見たように、娯楽は殆んど一切の生活領域の内に根を持っているのである。単なる娯楽としての娯楽というものは、独立の文化領域としては存在しないかも知れない。一切の文化領域が夫々の限度に於て、或る程度まで娯楽の範疇に這入ることが出来るのである。どういう限度かと云うと、結局或る意味での大衆性乃至民衆性を有つ場合であると見ていいようだ。と云うのは、娯楽は労働に対立する意味での休息や慰安、暇つぶしや退屈凌ぎとは異っていたが、併し同時に、勿論単なる労働でもないので、最も入り易い、最も安易な最も甘美な、そして最も魅力と模倣性とを有った(大抵は直接大して生産力とはならぬものではあるが)、労働であるわけだが、そのことから、娯楽が通俗性を不可欠な要素としていることが判る。ディレッタンティズムなどと正反対な所以だが、さてその通俗性・平俗性・というものが、娯楽の大衆性乃至民衆性と一応さっき云った処のものに、他ならなかったのである。

安易・甘美・平俗・な本質を有つことによって、社交的形態に於ける享受を容易にされるようなものが、娯楽であり、娯楽の社会性と考えられるもの一切はここから出発して考察されねばならぬのである。例えば民衆の日常的結合の組織には、いつもこの娯楽の社会性・通俗的社交性・が活用される。娯楽は大衆組織の拠り処の一つだろう。ただそうであるためにも、娯楽のもう一つの側面である或る意味での積極性の方を考察してかかることが必要だ。

娯楽の人間社会生活に於ける積極性と考えられるものは、二つの要素からなっている。その一つは勤労生活の契機として要求される処の、娯楽を楽しむという行為一般のことだ。つまり何でもよい、娯楽という時間、娯楽という態度、それが社会に於ける人間生活にとって、可なり大きな教慰的な養生的な建設的な意義を持っているのである。民衆は慰安も休息も必要でないかも知れない、まして暇つぶしの仕方や退屈凌ぎの技術をやである。慰安や休息を必要とするのは、労働生活、勤労生活、そのものが社会機構に於て不健全だからである。娯楽は之に反して、決してそういう何かの欠乏の後からの埋め合わせや弁解ではない。生活の消極的な陰や否定的な側面などではない。生活の陽当りのよい露出面での出来事でもあり瞬間でもあるのだ。否、そうあるべきなのだ。又あり得る筈なのだ。娯楽そのものが労働生活の有機的な一環として社会的に公認掖導されねばならぬものであろう。

娯楽はこうした社会生活に於ける健康と幸福との現実的な第一段階であって、ただの社会の隙間の穴埋めにあるのではない。勤労生活に於ける労作成就の怡びや生活満足感や生活の一般的享楽は、どれもまず娯楽というものを、平俗な併し確実な入口としている。民衆は娯楽を有たねばならぬ。だが娯楽は支配者の配慮によって外から与えられるものではない。支配者は高々慰安をしか与えることは出来ぬ。支配者は民衆の娯楽であるべきものをさえ、慰安の形に引き直してしか与えない。今日の娯楽はかくて、宗教的荘厳の有難さからスポーツの刺戟や性的蠱惑に至るまで、民衆の阿片とされて了うのである。

娯楽の積極性のもう一つの要素は、前の単なる生活契機である娯楽行動一般とは異って、娯楽が夫々の文化形象をなすという点に存する、麻雀・球・碁・将棋・娯楽雑誌・諸演芸を初めとして、各々性質を異にするものを漠然と総称する処の所謂スポーツ(之は体操から一六勝負までも含み兼ねない)社交の催し(パーティー・サロン・其の他)など、夫々いずれも社会に於ける文化形象なのである。娯楽はこういう社会的制度の一つでもあることを記憶せねばならぬ。こうした文化形象を結べるということは、娯楽が単なる暇つぶしや慰安というような消極的な受動物ではない証拠で、文化を形づくることの出来る精神的内容は、常に社会的に健康な養生的で建設的な積極性を有つものなのだ。宗教など、それが文化を超越すると考えられる時は、同時にその阿片性が最も純粋になる時であることを思い出さねばならぬ。――娯楽は社会生活に於ける建築の一種で、エヤバウエン(Er-bauen)(教慰)し、ビルデンし(教育し教養を与える)、ウンテヤハルテンする(Unterhalten――下から支える)(楽します)ものなのだ。尤も之は言葉の洒落に過ぎないが、併しそこに多少象徴的なものがあろう。

そこで問題は、芸術と娯楽との関係である。娯楽行為一般としての娯楽、又文化形象としての娯楽、と芸術との関係である。問題は芸術の民衆性・大衆性・に通じるのだ。――芸術の大衆性・民衆性・の一つの不可欠な要素は、つまり面白いということなのだが、併し芸術の面白さの意味は様々であるので、この言葉だけでは殆んど何物をも解決し得ないように見える。文学作品なら文学作品を、読み出すまでの面白さ或いは読み始めの面白さ、と、読み出してから後の面白さとでは、大変意味が違うのである。読書の欲望をかき立てるような作品でも、読み続けて見ると案外退屈であったり、最初は何か偶然な興味で読み始めたのが、途中で止めることが出来ない程惹きつけられたりすることがある。初めから魅力がありそれが終りまで裏切られず続くものも勿論ある。こういう夫々の場合の相違は、面白さというものの意味が読み方の進むに従って変って行くという事実を物語っているのである。之は作品鑑賞の時間の順序にばかり関係があるのではない。云わば芸術作品の表面と内面との関係についても云えることで、表面的・外面的・な面白さと内面的な面白さとの間にはおのずから意味の相違があるわけである。

仮に芸術の有つ面白さという観念が、それを云う人の個人個人によって別であることを考えに入れなくても、同じ芸術作品の表面の面白さと内部的な面白さとは違っている。そして多くの場合、この内部的な面白さというものは、予め外面的な面白さから引き入れられたという順序の上に立って初めて面白くもなるものなのだ。つまりこの内部的な面白さ、それだけ芸術としては本格的な面白さは、多くの場合、いきなり触れては魅惑を触発しないに拘らず、外面の面白さにつられて内面へ案内されて行くという順序を踏むと、初めてその面白さが素直に判る、という場合が多い。絵画にしても、色彩や形の或る通俗的な美しさが、芸術的にも意味を有つのである。

で、芸術の面白さというものが芸術の大衆性・民衆性の不可欠な要素だと考えられる時の、その面白さとは、実は芸術がまず予め外面的な人間的な面白さを備えているということであり、そしてこの面白さがやがて作品の本当の面白さへの案内人となるという、そういう面白さの駅伝組織が与えられているということでなくてはならぬ。まずごく普通の意味で面白いということから惹きつけられて、いつの間にかその作品が有つ特有の芸術的関心へ導かれるという場合、夫が「面白い」作品であり、そして大衆性を有った作品だと云われるのだ。

芸術の外面的な面白さと云うのは、ごく普通の面白さということだが、之はごく常識的に誰にでも共通の、平俗で通俗な、安易な甘味さを指すのである。最も抵抗の少ない這入り易い、云わば陥井のような魅力が、この面白さでなくてはならぬ。菓子の甘さや、形や姿や色の綺麗「綺麗」は底本では「奇麗」となっているさ、のようなごく低級と云っていいような面白さが、今は大切なのである。こういう面白さは事実極めて民衆的なもので又大衆的なものだが、芸術の民衆性乃至大衆性とは、芸術がこういう面白さの外覆を有っているということでなければならぬ。芸術的真実と云っても、それだけをいきなり鑑賞者におしつけることは、却って芸術的真実を傷つけるもので、つまり難解な芸術に終るのである。それは鑑賞者の甚だ限られたグループの一定の特異な教養に訴えるものか、そうでなければ作家仲間のお互いの間だけで楽屋的な価値評価を要求するような、エチュードやノートや実験室的試案でしかない。之はまだ社会に於ける芸術というものではなく、況して大衆的な芸術ではあり得ない。芸術の具象性や形象化ということも、こういう甘美なアンテナと離して理解してはなるまい。――大きな芸術は民衆的に平俗な面白味を以て、まず一般大衆を捉えるものだ。そして大衆は一旦捉えられたが最後、遂にいやでもその大きな芸術の芸術的な大きさと高さとへ、つれて行かれるものなのだ。そこで初めて芸術の面白さの最後の意味が体得も出来るわけだ。優れた芸術作品はそれ自身の内に、そうした云わば教育制度を有っている。

芸術作品のこのごく平俗な外面的面白さ、外部的な魅惑、之は或る意味では案外思想的なもので、それはテーマのアップ・トゥ・デートであることなどの魅力としても現われているが、併し他の方面から考えると、勿論風俗的な要素だと云うことが出来る。芸術鑑賞者の大衆は、まずその風俗感から作品に誘惑され、そこから思想的な興味にまでつれて行かれる、物を考えさせられるのである。甘さの魅惑が思索への入口となるのである。甘味な感能と思索の鞭とは、本当に大衆的なそして大きな芸術に於ては、案外近いのだ。思想と風俗とはごく接近するわけだ。――処でこの外部的な甘味な魅惑こそは、他ならぬ娯楽と呼ばれているものに相当する要素なのである。

するとこういうことになる。凡ての本格的な芸術は、娯楽から始まらねばならぬ、と。之が芸術の大衆性という要求が表に現わすことの内容の一つなのである。だから夫々の文化形象としての所謂娯楽(演芸其の他の如き)と芸術との間に、潔癖な限界を設けることは、勿論滑稽なこととなる。一体芝居やオペラは民衆の娯楽でないとしたら何であるか。にも拘らず之を芸術でないというものはいない。芸術と娯楽はそうまるで相反したものであってはならぬ。娯楽の行為こそ芸術鑑賞の第一歩でもあることを忘れてはならぬ。娯楽は民衆を教慰し、教養し建設せしめ考えさせるその最も普遍的で誤まらぬ手段なのである。であるが故に娯楽は、芸術の本質そのものの内にぞくする。娯楽は元来芸術性を有っているのだ、そして芸術も最後まで娯楽的特色と絶縁することは出来ない。芸術の大衆性をまともに考えれば、そうあらざるを得ない。勿論娯楽はそのままで芸術にはならぬ。だが芸術への案内人であり客引きでなければならぬというのだ。だが芸術それ自身が抑々、生活への案内人であり客引きではなかったか。

以上は芸術に於て娯楽が演じる建設的な役割についてであったが、或る意味で之と全く平行して、生活に於ける娯楽の役割を導き出すことが出来る筈である。云わば娯楽とは、真実にそして幸福に且つ健康な生活をするための、最も大きな民衆的な閭門なのである。民衆の乗ったものなら駱駝でも何でも通れるのである。社会に於ける娯楽の通用と娯楽施設とを無視しては、大衆の要求する幸福を適切に語ることは出来ない。――資本主義社会に於ては、一方に於て如何に娯楽の施設が階級的に偏極されているかに気づかざるを得ないと共に、他方に於て娯楽というものの教慰的な必要が如何にケチに歪められた観念に捉われているかに注目しなければならぬ。娯楽の大衆的発達と社会に於ける普遍的通用とは、社会そのものの健康と建設性との徴しの一つだ。吾々は世界に於てその実例を有っている。

最近民衆の自己省察にとって、屡々伝統の問題が取り上げられている。伝統の民衆による自己検討は益々進められて行かねばならぬ。だがそれと共に、民衆はみずから娯楽についても考察を進めて行く必要があるのだ。民衆は娯楽の社会的権利をもつ、否、娯楽の義務をさえ有つ。而も娯楽は民衆の自主的なものでない限り、娯楽というに不充分であろう。娯楽とは、世間の不用意な通念とは多少異って、民衆の自主的な民主的な、要求を意味しなければならなかった。いや、やがてそういう要求が大衆的に起こらねばならぬ。上からの文化統制――それは勿論娯楽の統制に対しても異常に熱心であることを忘れてはならぬ――と対比して、民衆は自分みずからの娯楽の機能について思を致さねばならぬだろう。娯楽欄・娯楽雑誌・娯楽の時間・其の他に於て今日与えられている所謂娯楽は、暇つぶしや慰安ではあっても、娯楽とは云うことが出来ない、という一つの根本関係を理解してかかる必要があろうと思う。

娯楽について、その社会性と積極性という二つの特徴を今日強調したい所以である。

(一九三七・七)

底本 / Source edition

底本:「戸坂潤全集 第四巻」勁草書房
1966(昭和41)年7月20日第1刷発行
1975(昭和50)年9月20日第7刷発行
入力:矢野正人
校正:小林繁雄
2001年8月23日公開
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書誌 / Bibliography
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戸坂 潤「娯楽論──民衆と娯楽・その積極性と社会性・」(新字新仮名)、底本『戸坂潤全集 第四巻』勁草書房、1966年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 003670_000281, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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