Soranoha

第二菎蒻本

だいにこんにゃくぼん

泉 鏡花

一

雪の夜路よみちの、人影もない真白まっしろな中を、矢来の奥の男世帯へ出先から帰った目に、狭い二階の六畳敷、机の傍わきなる置炬燵おきごたつに、肩まで入って待っていたのが、するりと起直った、逢いに来た婦おんなの一重々々ひとえひとえ、燃立つような長襦袢ながじゅばんばかりだった姿は、思い懸けずもまた類たぐいなく美しいものであった。

膚はだを蔽おおうに紅くれないのみで、人の家に澄まし振ふり。長年連添って、気心も、羽織も、帯も打解けたものにだってちょっとあるまい。

世間も構わず傍若無人、と思わねばならないのに、俊吉は別に怪あやしまなかった。それは、懐しい、恋しい情が昂あがって、路々の雪礫ゆきつぶてに目が眩くらんだ次第ではない。

――逢いに来た――と報知しらせを聞いて、同じ牛込、北町の友達の家うちから、番傘を傾け傾け、雪を凌しのいで帰る途中も、その婦おんなを思うと、鎖とざした町家まちやの隙間洩もる、仄ほのかな燈火あかりよりも颯さっと濃い緋ひの色を、酒井の屋敷の森越に、ちらちらと浮いつ沈みつ、幻のように視みたのであるから。

当夜は、北町の友達のその座敷に、五人ばかりの知己ちかづきが集って、袋廻しの運座があった。雪を当込あてこんだ催もよおしではなかったけれども、黄昏たそがれが白くなって、さて小留こやみもなく降頻ふりしきる。戸外おもての寂寞さみしいほど燈ともしびの興は湧わいて、血気の連中、借銭ばかりにして女房なし、河豚ふぐも鉄砲も、持って来い。……勢いきおいはさりながら、もの凄すごいくらい庭の雨戸を圧して、ばさばさ鉢前の南天まで押寄せた敵に対して、驚破すわや、蒐かかれと、木戸を開いて切って出いづべき矢種はないので、逸雄はやりおの面々歯噛はがみをしながら、ひたすら籠城ろうじょうの軍議一決。

そのつもりで、――千破矢ちはやの雨滴あまだれという用意は無い――水の手の燗徳利かんどくりも宵からは傾けず。追加の雪の題が、一つ増しただけ互選のおくれた初夜過ぎに、はじめて約束の酒となった。が、筆のついでに、座中の各自てんでが、好すき、悪きらい、その季節、花の名、声、人、鳥、虫などを書きしるして、揃った処で、一ひとつ……何某なにがし……好すきなものは、美人。

「遠慮は要らないよ。」

悪にくむものは毛虫、と高らかに読上げよう、という事になる。

箇条の中に、最好、としたのがあり。

「この最好というのは。」

「当人が何より、いい事、嬉しい事、好な事を引ひっくるめてちょっと金麩羅きんぷらにして頬張るんだ。」

その標目みだしの下へ、何よりも先に==待人来きたる==と……姓を吉岡と云う俊吉が書込んだ時であった。

襖ふすまをすうと開けて、当家の女中が、

「吉岡さん、お宅からお使つかいでございます。」

「内から……」

「へい、女中さんがお見えなさいました。」

「何てって?」

「ちょっと、お顔をッて、お玄関にお待ちでございます。」

「何だろう。」と俊吉はフトものを深く考えさせられたのである。

お互に用の有りそうな連中は、大概この座に居合わす。出先へこうした急使の覚えはいささかもないので、急な病気、と老人としよりを持つ胸に応こたえた。

「敵の間諜まわしものじゃないか。」と座の右に居て、猪口ちょくを持ちながら、膝の上で、箇条を拾っていた当家の主人が、ト俯向うつむいたままで云った。

「まさか。」

と眗みまわすと、ずらりと車座が残らず顔を見た時、燈あかりの色が颯さっと白く、雪が降込んだように俊吉の目に映った。

二

「ちょっと、失礼する。」

で、引返して行ゆく女中のあとへついて、出しなに、真中まんなかの襖ふすまを閉める、と降積ふりつもる雪の夜よは、一重ひとえの隔へだても音が沈んで、酒の座は摺退すりのいたように、ずッと遠くなる……風の寒い、冷い縁側を、するする通って、来馴きなれた家うちで戸惑いもせず、暗がりの座敷を一間、壁際を抜けると、次が玄関。

取次いだ女中は、もう台所へ出て、鍋なべを上る湯気の影。

そこから彗星ほうきぼしのような燈あかりの末が、半ば開けかけた襖越、仄ほのかに玄関の畳へさす、と見ると、沓脱くつぬぎの三和土たたきを間あいに、暗い格子戸にぴたりと附着くッついて、横向きに立っていたのは、俊吉の世帯に年増としまの女中で。

二月ばかり給金の借かりのあるのが、同じく三月ほど滞とどこおった、差配で借りた屋号の黒い提灯ちょうちんを袖に引着けて待設ける。が、この提灯を貸したほどなら、夜中に店立たなだてをくわせもしまい。

「おい、……何だ、何だ。」と框かまちまで。

「あ、旦那様。」

と小腰を屈かがめたが、向直って、

「ちょっと、どうぞ。」と沈めて云う。

余り要ありそうなのに、急せき心に声が苛立いらだって、

「入れよ、こっちへ。」

「傘も何も、あの、雪で一杯でございますから。皆様のお穿はきものが、」

成程、暴風雨あらしの舟が遁込にげこんださながらの下駄の並び方。雪が落ちると台なしという遠慮であろう。

「それに、……あの、ちょっとどうぞ。」

「何だよ。」とまだ強く言いながら、俊吉は、台所から燈あかりの透く、その正面の襖を閉めた。

真暗まっくらになる土間の其方そなたに、雪の袖なる提灯一つ、夜を遥はるかな思おもいがする。

労ねぎらい心で、

「そんなに、降るのか。」といいいい土間へ。

「もう、貴方あなた、足駄あしだが沈みますほどでございます。」

聞きも果てずに格子に着いて、

「何だ。」

「お客様でございまして。」と少し顔を退どけながら、せいせい云う……道を急いだ呼吸いきづかい、提灯の灯の額際が、汗ばむばかり、てらてらとして赤い。

「誰だ。」

「あの、宮本様とおっしゃいます。」

「宮本……どんな男だ。」

時に、傘からかさを横にはずす、とバサリという、片手に提灯を持直すと、雪がちらちらと軒を潜くぐった。

「いいえ、御婦人の方でいらっしゃいます。」

「婦おんなが?」

「はい。」

「婦だ……待ってるのか。」

「ええ、是非お目にかかりとうございますって。」

「はてな、……」

とのみで、俊吉はちょっと黙った。

女中は、その太った躯からだを揉もみこなすように、も一つ腰を屈かがめながら、

「それに、あの、お出先へお迎いに行ゆくのなら、御朋輩ごほうばいの方に、御自分の事をお知らせ申さないように、内証ないしょでと、くれぐれも、お託ことづけでございましたものですから。」

「変だな、おかしいな、どこのものだか言ったかい。」

「ええ、御遠方。」

「遠い処か。」

「深川からとおっしゃいました。」

「ああ、襟巻なんか取らんでも可いい。……お帰り。」

女中はポカンとして膨れた手袋の手を、提灯の柄ごと唇へ当てて、

「どういたしましょう。」

「……可よし、直ぐ帰る。」

座敷に引返ひっかえそうとして、かたりと土間の下駄を踏んだが、ちょっと留まって、

「どんな風采ふうをしている。」と声を密ひそめると。

「あの真紅まっかなお襦袢じゅばんで、お跣足はだしで。」

三

「第一、それが目に着いたんだ、夜だし、……雪が白いから。」

俊吉は、外套がいとうも無なしに、番傘で、帰途かえりを急ぐ中うちに、雪で足許あしもとも辿々たどたどしいに附けても、心も空も真白まっしろに跣足はだしというのが身に染みる。

――しかし可訝おかしい、いや可訝しくはない、けれども妙だ、――あの時、そうだ、久しぶりに逢って、その逢ったのが、その晩ぎり……またわかれになった。――しかもあの時、思いがけない、うっかりした仕損しそこないで、あの、お染そめの、あの体からだに、胸から膝へ血を浴びせるようなことをした。――

眗みまわせば、我が袖も、他ひとの垣根も雪である。

――去年の夏、たしか八月の末と思う、――

その事のあった時、お染は白地明石あかしに藍あいで子持縞こもちじまの羅うすものを着ていたから、場所と云い、境遇も、年増の身で、小さな芸妓屋げいしゃやに丸抱えという、可哀あわれな流ながれにしがらみを掛けた袖も、花に、もみじに、霜にさえその時々の色を染める。九月と云えば、暗いのも、明あかるいのも、そこいら、……御神燈並なみに、絽ろなり、お召めしなり単衣ひとえものに衣更きかえる筈はず。……しょぼしょぼ雨で涼しかったが葉月の声を聞く前だった。それに、浅草へ出勤でて、お染はまだ間もなかった頃で、どこにも馴染なじみは無いらしく、連立って行ゆく先を、内証で、抱主かかえぬしの蔦家つたやの女房とひそひそと囁ささやいて、その指図に任かせた始末。

披露ひろめの日は、目も眩くらむように暑かったと云った。

主人が主人で、出先に余り数はなし、母衣ほろを掛けて護謨輪ゴムわを軋きしらせるほど、光った御茶屋には得意もないので、洋傘こうもりをさして、抱主がついて、細かく、せっせと近所の待合小料理屋を刻んで廻った。

「かさかささして、えんえんえん、という形なの、泣かないばかりですわ。私もう、嬰児あかんぼに生れかわった気になったんですけれど、情なさけないッてなかったわ。

その洋傘かさだって、お前さん、新規な涼しいんじゃないでしょう。旅で田舎を持ち歩行あるいた、黄色い汚点しみだらけなんじゃありませんか。

そしてどうです、長襦袢たら、まあ、やっぱりこれですもの。」

と包ましやかに、薄藤色の半襟を、面痩おもやせた、が、色の白い顋おとがいで圧おさえて云う。

その時、小雨の夜の路地裏の待合で、述懐しつつ、恥らったのが、夕顔の面影ならず、膚はだえを包んだ紅くれないであった。

「……この土地じゃ、これでないと不可いけないんだって、主人が是非と云いますもの、出の衣裳だから仕方がない。

それで、白足袋でお練ねりでしょう。もう五にもなって真白まっしろでしょう、顔はむらになる……奥山相当で、煤すすけた行燈あんどんの影へ横向きに手を支ついて、肩で挨拶あいさつをして出るんなら可いいけれど、それだって凄すごいわね。

真昼間まっぴるまでしょう、遣切やりきれたもんじゃありゃしない。

冷汗だわ、お前さん、かんかん炎天に照附けられるのと一所で、洋傘かさを持った手が辷すべるんですもの、掌てのひらから、」

と二の腕が衝つと白く、且つ白麻の手巾ハンケチで、ト肩をおさえて、熟じっと見た瞼まぶたの白露。

――俊吉は、雪の屋敷町の中ほどで、ただ一人。……肩袖をはたはたと払った。……払えば、ちらちらと散る、が、夜目にも消えはせず、なお白々しらじらと俤おもかげ立たつ。

四

「この、お前さん手巾ハンケチでさ、洋傘かさの柄を、しっかりと握って歩行あるきましたんですよ。

あとへ跟ついて来る女房おかみさんの風俗ふうッたら、御覧なさいなね。人の事を云えた義理じゃないけれど、私よりか塗立って、しょろしょろ裾長すそながか何かで、鬢びんをべったりと出して、黒い目を光らかして、おまけに腕まくりで、まるで、売うりますの口上言いだわね。

察して下さいな。」

と遣瀬やるせなげに、眉をせめて俯目ふしめになったと思うと、まだその上に――気障きざじゃありませんか、駈出かけだしの女形がハイカラ娘の演するように――と洋傘かさを持った風采なりを自ら嘲あざわらった、その手巾ハンケチを顔に当てて、水髪や荵しのぶの雫しずく、縁に風りんのチリリンと鳴る時、芸妓げいこ島田を俯向うつむけに膝に突伏つっぷした。

その時、待合の女房が、襖越ふすまごしに、長火鉢の処とこで、声を掛けた。

「染ちゃん、お出ばなが。」

俊吉はこれを聞くと、女の肩に掛けていた手が震えた……染ちゃんと云う年紀としではない。遊女つとめあがりの女をと気がさして、なぜか不思議に、女もともに、侮あなどり、軽かろんじ、冷評ひやかされたような気がして、悚然ぞっとして五体を取って引緊ひきしめられたまで、極きまりの悪い思いをしたのであった。

いわゆる、その(お出ばな)のためであった、女に血を浴びせるような事の起ったのは。

思えば、その女には当夜は云うまでもなく、いつも、いつまでも逢うべきではなかったのである。

はじめ、無理をして廓くるわを出たため、一度、町の橋は渡っても、潮に落行かねばならない羽目で、千葉へ行って芸妓げいしゃになった。

その土地で、ちょっとした呉服屋に思われたが、若い男が田舎気質かたぎの赫かッと逆上のぼせた深嵌ふかはまりで、家も店も潰つぶした果はてが、女房子を四辻へ打棄うっちゃって、無理算段の足抜きで、女を東京へ連れて遁にげると、旅籠住居はたごずまいの気を換える見物の一夜。洲崎すさきの廓くるわへ入った時、ここの大籬おおまがきの女を俺が、と手折たおった枝に根を生はやす、返咲かえりざきの色を見せる気にもなったし、意気な男で暮したさに、引手茶屋が一軒、不景気で分散して、売物に出たのがあったのを、届くだけの借金で、とにかく手附ぐらいな処で、話を着けて引受けて稼業をした。

まず引掛ひっかけの昼夜帯が一つ鳴って〆しまった姿。わざと短い煙管きせるで、真新しい銅壺どうこに並んで、立膝で吹かしながら、雪の素顔で、廓くるわをちらつく影法師を見て思出したか。

――勘定つけをかく、掛かけすずりに袖でかくして参らせ候、――

二年ぶり、打絶えた女の音信たよりを受取った。けれども俊吉は稼業は何でも、主ぬしあるものに、あえて返事もしなかったのである。

〆しめの形や、雁かりの翼は勿論、前の前の下宿屋あたりの春秋はるあきの空を廻り舞って、二三度、俊吉の今の住居すまいに届いたけれども、疑うたがいも嫉妬しっとも無い、かえって、卑怯ひきょうだ、と自分を罵ののしりながらも逢わずに過した。

朧々おぼろおぼろの夜よも過ぎず、廓は八重桜の盛さかりというのに、女が先へ身を隠した。……櫛巻くしまきが褄つま白しろく土手の暗がりを忍んで出たろう。

引手茶屋は、ものの半年とも持堪もちこたえず、――残った不義理の借金のために、大川を深川から、身を倒さかさまに浅草へ流着ながれついた。……手切てぎれの髢かもじも中に籠こめて、芸妓髷げいしゃまげに結いった私、千葉の人とは、きれいに分わけをつけ参らせ候そろ。

そうした手紙を、やがて俊吉が受取ったのは、五重の塔の時鳥ほととぎす。奥山の青葉頃。……

雪の森、雪の塀、俊吉は辻へ来た。

五

八月の末だった、その日、俊吉は一人、向島むこうじまの百花園に行った帰途かえるさ、三囲みめぐりのあたりから土手へ颯さっと雲が懸かかって、大川が白くなったので、仲見世前まで腕車くるまで来て、あれから電車に乗ろうとしたが、いつもの雑沓ざっとう。急な雨の混雑はまた夥おびただしい。江戸中の人を箱詰はこづめにする体裁ていたらく。不見識なのはもちに捏でっちられた蠅の形で、窓にも踏台にも、べたべたと手足をあがいて附着くッつく。

電車は見る見る中に黒く幅ったくなって、三台五台、群衆を押離すがごとく雨に洗い落したそうに軋きしんで出る。それをも厭いとわない浅間しさで、児こを抱いた洋服がやっと手を縋すがっって乗掛のっかけた処を、鉄棒で払わぬばかり車掌の手で突離された。よろめくと帽子が飛んで、小児こどもがぎゃっと悲鳴を揚げた。

この発奮はずみに、

「乗るものか。」

濡れるなら濡れろ、で、奮然として駈出かけだしたが。

仲見世から本堂までは、もう人気もなく、雨は勝手に降って音も寂寞ひっそりとしたその中を、一思いに仁王門も抜けて、御堂みどうの石畳を右へついて廻廊の欄干を三階のように見ながら、廂ひさしの頼母たのもしさを親船の舳みよしのように仰いで、沫しぶきを避よけつつ、吻ほつと息。

濡れた帽子を階段擬宝珠ぎぼしに預けて、瀬多の橋に夕暮れた一人旅という姿で、茫然ぼうぜんとしてしばらく彳たたずむ。……

風が出て、雨は冷々ひやひやとして小留おやむらしい。

雫しずくで、不気味さに、まくっていた袖をおろして、しっとりとある襟を掻合かきあわす。この陽気なればこそ、蒸暑ければ必定雷鳴が加わるのであった。

早や暮れかかって、ちらちらと点ともれる、灯の数ほど、ばらばら誰彼たそがれの人通り。

話声がふわふわと浮いて、大屋根から出た蝙蝠こうもりのように目前に幾つもちらつくと、柳も見えて、樹立こだちも見えて、濃く淡く墨になり行く。

朝から内を出て、随分遠路とおみちを掛けた男は、不思議に遥々はるばると旅をして、広野の堂に、一人雨宿りをしたような気がして、里懐かしさ、人恋しさに堪えやらぬ。

「訪ねてみようか、この近処だ。」

既に、駈込かけこんで、一呼吸ひといき吐ついた頃から、降籠ふりこめられた出前でさきの雨の心細さに、親類か、友達か、浅草辺に番傘一本、と思うと共に、ついそこに、目の前に、路地の出窓から、果敢はかない顔を出して格子に縋すがって、此方こなたを差覗さしのぞくような気がして、筋骨すじぼねも、ひしひしとしめつけられるばかり身に染みた、女の事が……こうした人懐しさにいや増まさる。……

ここで逢うのは、旅路遥はるかな他国の廓くるわで、夜更けて寝乱れた従妹いとこにめぐり合って、すがり寄る、手の緋縮緬ひぢりめんは心の通う同じ骨肉の血であるがごとく胸をそそられたのである。

抱えられた家も、勤めの名も、手紙のたよりに聞いて忘れぬ。

「可よし。」

肩を揺ゆすって、一ツ、胸で意気込んで、帽子を俯向うつむけにして、御堂の廂ひさしを出た。……

軽い雨で、もう面おもてを打つほどではないが、引緊ひきしめた袂たもと重たく、しょんぼりとして、九十九折つづらおりなる抜裏、横町。谷のドン底の溝どぶづたい、次第に暗き奥山路おくやまみち。

六

時々足許から、はっと鳥の立つ女の影。……けたたましく、可哀あわれに、心悲うらがなしい、鳶とびにとらるると聞く果敢はかない蝉の声に、俊吉は肝を冷しつつ、𤏋々ぱっぱっと面おもてを照らす狐火きつねびの御神燈に、幾たびか驚いて目を塞ふさいだが、路も坂に沈むばかり。いよいよ谷深く、水が漆うるしを流した溝端どぶばたに、茨いばらのごとき格子前さき、消えずに目に着く狐火が一つ、ぼんやりとして(蔦屋つたや)とある。

「これだ。」

密そっと、下へ屈かがむようにしてその御神燈を眗みまわすと、他ほかに小草おぐさの影は無い、染次、と記した一葉ひとはのみ。で、それさえ、もと居たらしい芸妓げいしゃの上へ貼紙はりがみをしたのに記してあった。看板を書かきかえる隙ひまもない、まだ出たてだという、新しさより、一人旅の木賃宿に、かよわい女が紙衾かみぶすまの可哀さが見えた。

とばかりで、俊吉は黙って通過ぎた。

が、筋向うの格子戸の鼠鳴ねずみなきに、ハッと、むささびが吠ほえたほど驚いて引返ひっかえして、蔦屋の門を逆に戻る。

俯向うつむいて彳たたずんでまた御神燈を覗のぞいた。が、前刻さっきの雨が降込んで閉めたのか、框かまちの障子は引いてある。……そこに切張きりばりの紙に目隠しされて、あの女が染次か、と思う、胸がドキドキして、また行過ぎる。

トあの鼠鳴がこっちを見た。狐のようで鼻が白い。

俊吉は取って返した。また戻って、同じことを四五度たびした。

いいもの望みで、木賃を恥じた外聞ではない。……巡礼の笈おいに国々の名所古跡の入ったほど、いろいろの影について廻った三年ぶりの馴染なじみに逢う、今、現在、ここで逢うのに無事では済むまい、――お互に降って湧わくような事があろう、と取越苦労の胸騒むなさわぎがしたのであった。

「御免。」

と思切って声を掛けた時、俊吉の手は格子を圧おさえて、そして片足遁構にげがまえで立っていた。

「今晩は。」

「はい、今晩は。」

と平べったい、が切口上で、障子を半分開けたのを、孤家ひとつやの婆々ばばあかと思うと、たぼの張った、脊の低い、年紀としには似ないで、頸くびを塗った、浴衣の模様も大年増。

これが女房とすぐに知れた。

俊吉は、ト御神燈の灯を避よけて、路地の暗い方へ衝つッと身を引く。

白粉おしろいのその頸を、ぬいと出額おでこの下の、小慧こざかしげに、世智辛く光る金壺眼かなつぼまなこで、じろりと見越して、

「今晩は。誰方様どなたさまで?」

「お宅に染次ってのは居おりますか。」

「はい居りますでございますが。」

と立塞たちふさがるように、しかも、遁にがすまいとするように、框かまち一杯にはだかるのである。

「ちょっとお呼び下さいませんか。」

ああ、来なければ可よかった、奥も無さそうなのに、声を聞いて出て来ないくらいなら、とがっくり泥濘ぬかるみへ落ちた気がする。

「唯今ただいまお湯へ参ってますがね、……まあ、貴方あなた。」と金壺眼はいよいよ光った。

「それじゃまた来ましょう。」

「まあ、貴方。」

風体を見定めたか、慌あわただしく土間へ片足を下ろして、

「直じきに帰りますから、まあ、お上んなさいまし。」

「いや、途中で困ったから傘を借りたいと思ったんですが、もう雨も上りましたよ。」

「あら、貴方、串戯じょうだんじゃありません。私が染ちゃんに叱られますわ、お帰し申すもんですかよ。」

七

「相合傘でいらっしゃいまし、染ちゃん、嬉しいでしょう、えへへへへ、貴方、御機嫌よう。」

と送出した。……

傘からかさは、染次が褄つまを取ってさしかける。

「可厭いやな媽々かかあだな。」

「まだ聞えますよ。」

と下へ、袂たもとの先をそっと引く。

それなり四五間、黙って小雨の路地を歩行あるく、……俊吉は少しずつ、…やがて傘の下を離れて出た。

「濡れますよ、貴方。」

男は黙然だんまりの腕組して行ゆく。

「ちょっと、濡れるわ、お前さん。」

やっぱり暗い方を、男は、ひそひそ。

「濡れると云うのに、」

手は届く、羽織の袖をぐっと引いて突附けて、傘からかさを傾けて、

「邪慳じゃけんだねえ。」

「泣いてるのか、何だな、大おおきな姉さんが。」

「……お前さん、可懐なつかしい、恋しいに、年齢としに加減はありませんわね。」

「何しろ、お前、……こんな路地端ろじばたに立ってちゃ、しょうがない。」

「ああ、早く行きましょう。」

と目を蔽おうていた袖口をはらりと落すと、瓦斯がすの遠灯とおあかりにちらりと飜かえる。

「少わかづくりで極きまりが悪いわね。」

と褄を捌さばいて取直して、

「極きまりが悪いと云えば、私は今、毛筋立を突張つっぱらして、薄化粧は可いいけれども、のぼせて湯から帰って来ると、染ちゃんお客様が、ッて女房おかみさんが言ったでしょう。

内へ来るような馴染なじみはなし、どこの素見ひやかしだろうと思って、おやそうか何か気の無い返事をして、手拭てぬぐいを掛けながら台所口だいどころぐちから、ひょいと見ると、まあ、お前さんなんだもの。真赤まっかになったわ。極きまりが悪くって。」

「なぜだい。」

「悟られやしないかと思ってさ。」

「何を?……」

「だって、何をッて、お前さん、どこか、お茶屋か、待合からかけてくれれば可いじゃありませんか、唐突だしぬけに内へなんぞ来るんだもの。」

「三年越ごしだよ、手紙一本が当あてなんだ。大事な落しものを捜すような気がするからね、どこかにあるには違いないが、居るか居ないか、逢えるかどうか分りやしない。おまけに一向土地不案内で、東西分らずだもの。茶屋の広間にたった一つ膳ぜんを控えて、待っていて、そんな妓こは居おりません。……居ますが遠出だなんぞと来てみたが可い。御存じの融通ゆずうが利かないんだから、可よし、ついでにお銚子ちょうしのおかわりが、と知らない女を呼ぶわけにゃ行かずさ、瀬ぶみをするつもりで、行ったんだ。

もっともね、居ると分ったら、門口かどぐちから引返ひっかえして、どこかで呼ぶんだっけ。媽々かかあが追掛おっかけるじゃないか。仕方なし奥へ入ったんだ。一間ひとましかありやしない。すぐの長火鉢の前に媽々は控えた、顔の遣場やりばもなしに、しょびたれておりましたよ、はあ。

光った旦那じゃなし、飛んだお前の外聞だっけね、済まなかったよ。」

「あれ、お前さんも性悪しょうわるをすると見えて、ひがむ事を覚えたね。誰が外聞だと申しました、俊さん、」

取った袂に力が入って、

「女房おかみさんに、悟られると、……だと悟られると、これから逢うのに、一々、勘定が要るじゃありませんか。おまいりだわ、お稽古だわッて内証ないしょで逢うのに出憎いわ。

はじめの事は知ってるから私の年が年ですからね。主人の方じゃ目くじらを立てていますもの、――顔を見られてしまってさ……しょびたれていましたよ、はあ。――お前の外聞だっけね、済まなかった。……誰が教えたの。」

とフフンと笑って、

「素人だね。」

八

「……わざと口数も利かないで、一生懸命に我慢をしていた、御免なさいよ。」

声がまた悄しおれて沈んで、

「何にも言わないで、いきなり噛かじりつきたかったんだけれど、澄し返って、悠々と髪を撫着なでつけたりなんかして。」

「行場ゆきばがないから、熟々しみじみ拝見をしましたよ、……眩まぶしい事でございました。」

「雪のようでしょう、ちょっと片膝立てた処なんざ、千年ものだわね、……染ちゃん大分御念入だねなんて、いつもはもっと塗れ、もっと髱たぼを出せと云う女房おかみさんが云うんだもの。どう思ったか知らないけれど、大抵こんがらかったろうと私は思うの。

そりゃ成りたけ、よくは見せたいが弱身だって、その人の見る前じゃあねえ、……察して頂戴。私はお前さんに恥かしかったわ、お乳なんか。」

と緊しめられるように胸を圧おさえた、肩が細ほっそりとして重そうなので、俊吉が傘を取る、と忘れたように黙って放す。

「いいえ、結構でございました、湯あがりの水髪で、薄化粧を颯さっと直したのに、別してはまた緋縮緬ひぢりめんのお襦袢じゅばんを召した処と来た日にゃ。」

「あれさ、止よして頂戴……火鉢の処は横町から見通しでしょう、脱ぐにも着るにも、あの、鏡台の前しかないんだもの。……だから、お前さんに壁の方を向いてて下さいと云ったじゃありませんか。」

「だって、以前は着ものを着たより、その方が多かった人じゃないか、私はちっとも恐れやしないよ。」

「ねえ……ほほほ。……」

笑ってちょっと口籠くちごもって、

「ですがね、こうなると、自分ながら気が変って、お前さんの前だと花嫁も同じことよ。……何でしたっけね、そら、川柳とかに、下に居て嫁は着てからすっと立ち……」

「お前は学者だよ。」

「似てさ、お前さんに。」

「大きにお世話だ、学者に帯を〆しめさせる奴があるもんか、おい、……まだ一人じゃ結べないかい。」

「人、……芸者の方が、ああするんだわ。」

「勝手にしやがれ。」

「あれ。」

「ちっとやけらあねえ。」

「溝どぶへ落っこちるわねえ。」

「えへん!」

と怒鳴って擦違いに人が通った。早や、旧もと来た瓦斯がすに頬冠ほおかむりした薄青い肩の処が。

「どこだ。」

「一直いちなおの塀の処だわ。」

直じきその近所であった。

「座敷はこれだけかね。」

と俊吉は小さな声で。

「もう、一間ありますよ。」

と染次が云う。……通された八畳は、燈あかりも明あかるし、ぱっとして畳も青い。床には花も活いかって。山家を出たような俊吉の目には、博覧会の茶座敷を見るがごとく感じられた。が、入る時見た、襖一重ふすまひとえが直ぐ上框あがりかまち兼帯の茶の室で、そこに、髷まげに結いった娑婆気しゃばきなのが、と膝を占めて構えていたから。

話に雀ほどの声も出せない。

で、もう一間と眗みまわすと、小庭の縁が折曲りに突当りが板戸になる。……そこが細目にあいた中に、月影かと見えたのは、廂ひさしに釣った箱燈寵はこどうろうの薄明りで、植込を濃く、むこうへぼかして薄うっすりと青い蚊帳かや。

ト顔を見合せた。

急に二人は更あらたまったのである。

男が真中まんなかの卓子台ちゃぶだいに、肱ひじを支ついて、

「その後のちは。どうしたい。」

「お話にならないの。」

と自棄やけに、おくれ毛を揺ゆすったが、……心配はさせない、と云う姉のような呑込んだ優やさしい微笑ほほえみ。

九

「失礼な、どうも奥様をお呼立て申しまして済みません。でも、お差向いの処へ、他人が出ましてはかえってお妨げ、と存じまして、ねえ、旦那。」

と襖越に待合の女房が云った。

ぴたりと後手うしろでにその後を閉めたあとを、もの言わぬ応答うけこたえにちょっと振返って見て、そのまま片手に茶道具を盆ごと据えて立直って、すらりと蹴出けだしの紅くれないに、明石の裾を曳ひいた姿は、しとしとと雨垂れが、子持縞こもちじまの浅黄に通って、露に活いきたように美しかった。

「いや。」

とただ間拍子まびょうしもなく、女房の言いぐさに返事をする、俊吉の膝へ、衝つと膝をのっかかるようにして盆ごと茶碗を出したのである。

茶を充満いっぱいの吸子きびしょが一所に乗っていた。

これは卓子台ちゃぶだいに載のせると可よかった。でなくば、もう少し間なかを措おいて居すわれば仔細しさいなかった。もとから芸妓げいしゃだと離れたろう。前さきの遊女おいらんは、身を寄せるのに馴なれた。しかも披露目ひろめの日の冷汗を恥じて、俊吉の膝に俯伏うっぷした処を、(出ばな。)と呼ばれて立ったのである。……

お染はもとの座へそうして近々と来て盆ごと出しながら、も一度襖越しに見返った。名ある女を、こうはいかに、あしらうまい、――奥様と云ったな――膝に縋すがった透見すきみをしたか、恥と怨うらみを籠めた瞳は、遊里さとの二十はたちの張はりが籠こもって、熟じっと襖に注がれた。

ト見つつ夢のようにうっかりして、なみなみと茶をくんだ朝顔形なりの茶碗に俊吉が手を掛ける、とコトリと響いたのが胸に通って、女は盆ごと男が受取ったと思ったらしい。ドンと落ちると、盆は、ハッと持直そうとする手に引かれて、俊吉の分も浚さらった茶碗が対。吸子きびしょも共に発奮はずみを打ってお染は肩から胸、両膝かけて、ざっと、ありたけの茶を浴びたのである。

むらむらと立つ白い湯気が、崩るる褄つまの紅くれないの陽炎かげろうのごとく包んで伏せた。

頸うなじを細く、面おもてを背けて、島田を斜ななめに、

「あっ。」と云う。

「火傷やけどはしないか。」と倒れようとするその肩を抱いた。

「どうなさいました。」と女房飛込み、この体ていを一目見るや、

「雑巾々々。」と宙に躍って、蹴返けかえす裳もすそに刎はねた脚は、ここに魅さした魔の使つかいが、鴨居かもいを抜けて出るように見えた。

女の袖つけから膝へ湛たまって、落葉が埋うずんだような茶殻を掬すくって、仰向あおむけた盆の上へ、俊吉がその手の雫しずくを切った時。

「可よござんすよ、可ござんすよ、そうしてお置きなさいまし、今私わたくしが、」

と言いながら白に浅黄を縁へりとりの手巾ハンケチで、脇を圧おさえると、脇。膝をずぶずぶと圧えると、膝を、濡れたのが襦袢を透とおして、明石の縞しまに浸にじんでは、手巾にひたひたと桃色の雫を染めた。――

「ええ、私あの時の事を思出したの、短刀で、ここを切られた時、」……

と、一年おいて如月きさらぎの雪の夜更けにお染は、俊吉の矢来の奥の二階の置炬燵おきごたつに弱々と凭もたれて語った。

さてその夜は、取って返して、両手に雑巾を持って、待合の女房が顕あらわれたのに、染次は悄しおれながら、羅うすものの袖を開いて見せて、

「汚点しみになりましょうねえ。」

「まあ、ねえ、どうも。」

と伸上ったり、縮んだり。

「何しろ、脱がなくッちゃお前さん、直き乾くだけは乾きますからね……あちらへ来て。さあ――旦那、奥様のお膚はだを見ますよ、済みませんけれど、貴下あなたが邪慳じゃけんだから仕方が無い。……」

俊吉は黙って横を向いた。

「浴衣と、さあ、お前さん、」

と引立てるようにされて、染次は悄々しおしおと次に出た。……組合の気脉きみゃくが通かよって、待合の女房も、抱主かかえぬしが一張羅いっちょうらを着飾らせた、損を知って、そんなに手荒にするのであろう、ああ。

十

「大丈夫よ……大丈夫よ。」

「飛んだ、飛んだ事を……お前、主人にどうするえ。」

「まさか、取って食おうともしませんから、そんな事より。」

と莞爾にっこりした、顔は蒼白あおじろかったが、しかしそれは蚊帳の萌黄もえぎが映ったのであった。

帰る時は、効々かいがいしくざっと干したのを端折はしょって着ていて、男に傘を持たせておいて、止せと云うに、小雨の中をちょこちょこ走りに自分で俥くるまを雇って乗せた。

蛇目傘じゃのめを泥に引傾ひっかたげ、楫棒かじぼうを圧おさえぬばかり、泥除どろよけに縋すがって小造こづくりな女が仰向あおむけに母衣ほろを覗のぞく顔の色白々と、

「お近い内に。」

「…………」

「きっと?」

「むむ。」

「きっとですよ。」

俊吉は黙って頷うなずいた。

暗くて見えなかったろう。

「きっとよ。」

「分ったよ。」

「可よござんすか。」

「煩うるさい。」と心にもなく、車夫の手前、宵から心遣いに疲れ果てて、ぐったりして、夏の雨も寒いまでに身体からだもぞくぞくする癇癪かんしゃくまぎれに云ったのを、気にも掛けず、ほっと安心したように立直ったと思うと、

「車夫わかいしゅさん、はい――……あの車賃は払いましたよ。」

「有るよ。」

「威張ってさ、それから少しですが御祝儀。気をつけて上げて下さいよ、よくねえ、気をつけて、可ござんすか。」

「大丈夫でございますよ、姉さん。」と楫かじを取った片手に祝儀を頂きながら。

「でも遠いんですもの、道は悪し、それに暗いでしょう。」

「承合うけあいましたよ。」

「それじゃ、お近いうち。」

影を引切ひっきるように衝つと過ぎる車のうしろを、トンと敲たたいたと思うと夜の潮に引残されて染次は残ってしょんぼりと立つ。

車が路を離れた時、母衣の中とて人目も恥じず、俊吉は、ツト両掌りょうてで面おもてを蔽おおうて、はらはらと涙を落した。……

「でも、遠いんですもの、路は悪し、それに暗いでしょう。」

行方も知らず、分れるように思ったのであった。

そのまま等閑なおざりにすべき義理ではないのに、主人にも、女にも、あの羅うすものの償つぐないをする用意なしには、忍んでも逢ってはならないと思うのに、あせって掙もがいても、半月や一月でその金子かねは出来なかった。

のみならず、追縋おいすがって染次が呼出しの手紙の端に、――明石のしみは、しみ抜屋にても引受け申さず、この上は、くくみ洗いをして、人肌にて暖め乾かし候よりせむ方なしとて、毎日少しずつふくみ洗いいたし候ては、おかみさんと私とにて毎夜添臥そいぶし〔「参候」のくずし字〕。夜ごとにかわる何とかより針の筵むしろに候えども、お前さまにお目もうじのなごりと思い候えば、それさえうつつ心に嬉しく懐しく存じ〔「参候」のくずし字〕……

ふくみ洗いで毎晩抱く、あの明石のしみを。行かれるものか、素手で、どうして。

秋の半ばに、住すみかえた、と云って、ただそれだけ、上州伊香保から音信たよりがあった。

やがてくわしく、と云うのが、そのままになった――今夜なのである。

俊吉は捗取はかどらぬ雪を踏ふみしめ踏しめ、俥くるまを見送られた時を思出すと、傘も忘れて、降る雪に、頭つむりを打たせて俯向うつむきながら、義理と不義理と、人目と世間と、言訳なさと可懐なつかしさ、とそこに、見える女の姿に、心は暗やみの目は懵ぼうとして白い雪、睫毛まつげに解けるか雫しずくが落ちた。

十一

「……そういったわけだもの、ね、……そんなに怨むもんじゃない。」

襦袢一重の女の背せなへ、自分が脱いだ絣かすりの綿入羽織を着せて、その肩に手を置きながら、俊吉は向い合いもせず、置炬燵おきごたつの同じ隅に凭もたれていた。

内へ帰ると、一つ躓つまずきながら、框かまちへ上って、奥に仏壇のある、襖ふすまを開けて、そこに行火あんかをして、もう、すやすやと寐ねた、撫なでつけの可愛らしい白髪しらがと、裾すそに解きもののある、女中の夜延よなべとを見て、密そっとまた閉めて、ずかずかと階子はしごを上あがると、障子が閉って、張合の無さは、燈あかりにその人の影が見えない。

で、嘘だと思った。

ここで、トボンと夢が覚めるのであろう、と途中の雪の幻さえ、一斉に消えるような、げっそり気の抜けた思いで、思切って障子を開けると、更紗さらさを掛けた置炬燵の、しかも机に遠い、縁に向いた暗い中から、と黒髪が揺ゆらめいて、窶やつれたが、白い顔。するりと緋縮緬ひぢりめんの肩を抽ぬいたのは夢ではなかったのである。

「どうした。」

と顔を見た。

「こんな、うまい装なりをして、驚いたでしょう。」

と莞爾にっこりする。

「驚いた。」

とほっと呼吸いきして、どっか、と俊吉は、はじめて瀬戸ものの火鉢の縁へりに坐ったのである。

「ああ、座蒲団ざぶとんはこっち。」

と云う、背中に当てて寝ていたのを、ずらして取ろうとしたのを見て、

「敷いておいで、そっちへ行こう、半分ずつ、」

と俊吉はじめて笑った。……

お染は、上野の停車場から。――深川の親の内へも行ゆかずに――じかづけに車でここへ来たのだと云う。……神楽坂は引上げたが、見る間に深くなる雪に、もう郵便局の急な勾配で呼吸いきついて、我慢にも動いてくれない。仕方なしに、あれから路みちの無い雪を分けて、矢来の中をそっちこっち、窓明りさえ見れば気兼きがねをしいしい、一時ひとときばかり尋ね廻った。持ってた洋傘こうもりも雪に折れたから途中で落したと云う。それは洲崎を出る時に買ったままの。憑つきもののようだ、と寂しく笑った。

俊吉は、卍まんじの中を雪に漾ただよう、黒髪のみだれを思った。

女中が、何よりか、と火を入れて炬燵に導いてから、出先へ迎いに出たあとで、冷いとだけ思った袖も裙すそも衣類きものが濡れたから不気味で脱いだ、そして蒲団の下へ掛けたと云う。

「何より不気味だね、衣類きものの濡れるのは。……私、聞いても悚然ぞっとする。……済まなかった。お染さん。」

女はそこで怨んだ。

帰る途みちすがらも、真実の涙を流した言訳を聞いて、暖い炬燵の膚はだのぬくもりに、とけた雪は、斉ひとしく女の瞳に宿った。その時のお染の目は、大おおきく睜みはられて美しかった。

「女中ねえさんは。」

「女中か、私はね、雪でひとりでに涙が出ると、茫ぼっと何だか赤いじゃないか。引擦ひっこすってみるとお前、つい先へ提灯ちょうちんが一つ行くんだ。やっと、はじめて雪の上に、こぼこぼ下駄のあとの印ついたのが見えたっけ。風は出たし……歩行あるき悩んだろう。先へ出た女中がまだそこを、うしろの人足ひとあしも聞きつけないで、ふらふらして歩行あるいているんだ。追着おッついてね、使つかいがこの使だ、手を曳ひくようにして力をつけて、とぼとぼ遣やりながら炬燵の事も聞いたよ。

しんせつついでだ、酒屋へ寄ってくれ、と云うと、二つ返事で快く引受けたから、図に乗ってもう一つ狐蕎麦きつねそばを[#「狐蕎麦」は底本では「孤蕎麦」]誂あつらえた。」

「上州のお客にはちょうど可いわね。」

「嫌味を云うなよ。……でも、お前は先せんから麺類めんるいを断たってる事を知ってるから、てんのぬきを誂えたぜ。」

「まあ、嬉しい。」

と膝で確しっかりと手を取って、

「じゃ、あの、この炬燵の上へ盆を乗せて、お銚子をつけて、お前さん、あい、お酌って、それから私も飲んで。」

と熟じっと顔を見つつ、

「願ねがいが叶かなったわ、私。……一生に一度、お前さん、とそうして、お酒が飲みたかった。ああ、嬉しい。余り嬉しさに、わなわな震えて、野暮なお酌をすると口惜くやしい。稽古をするわ、私。……ちょっとその小さな掛花活かけはないけを取って頂戴。」

「何にする。」

「お銚子を持つ稽古するの。」

「狂人染きちがいじみた、何だな、お前。」

「よう、後生だから、一度だって私のいいなり次第になった事はないじゃありませんか。」

「はいはい、今夜の処とこは御意次第。」

そこが地袋で、手が直ぐに、水仙が少しすがれて、摺ずって、危あやうく落ちそうに縋すがったのを、密そっと取ると、羽織の肩を媚なまめかしく脱掛けながら、受取ったと思うと留める間もなく、ぐ、ぐ、と咽喉のどを通して一息に仰いで呑んだ。

「まあ、お染。」

「だって、ここが苦しいんですもの、」

と白い指で、わなわなと胸を擦さすった。

「ああ、旨おいしかった。さあ、お酌。いいえ、毒なものは上げはしません、ちょっと、ただ口をつけて頂戴。花にでも。」

「ままよ。」……構わず呑もうとすると雫しずくも無かった。

花を唇につけた時である。

「お酒が来たら、何にも思わないで、嬉しく飲みたい。……私、ほんとに伊香保では、酷ひどい、情なさけない目に逢ったの。

お前さんに逢って、皆みんな忘れたいと思うんだから、聞いて頂戴。……伊香保でね――すぐに一人旦那が出来たの。土地の請負師うけおいしだって云うのよ、頼みもしないのに無理に引かしてさ、石段の下に景ぶつを出す、射的しゃてきの店を拵こしらえてさ、そこに円髷まるまげが居たんですよ。

この寒いのに、単衣ひとえ一つでぶるぶる震えて、あの……千葉の。先せんの呉服屋が来たんでしょう。可哀相でね、お金子かねを遣って旅籠屋はたごやを世話するとね、逗留とうりゅうをして帰らないから、旦那は不断女にかけると狂人きちがいのような嫉妬やきもちやきだし、相場師と云うのが博徒ばくちうちでね、命知らずの破落戸ならずものの子分は多し、知れると面倒だから、次の宿しゅくまで、おいでなさいって因果を含めて、……その時止よせば可かったのに、湯に入ったのが悪かった。……帯を解いたのを見られたでしょう。

――染や、今日はいい天気だ、裏の山から隅田川が幽かすかに見えるのが、雪晴れの名所なんだ。一所に見ないかって誘うんですもの。

余り可懐なつかしさに、うっかり雪路ゆきみちを上のぼったわ。峠の原で、たぶさを取って引倒して、覚えがあろうと、ずるずると引摺ひきずられて、積った雪が摺すれる枝の、さいかちに手足が裂けて、あの、実の真赤まっかなのを見た時は、針の山に追上げられる雪の峠の亡者か、と思ったんですがね。それから……立樹に結ゆわえられて、……」

「お染。」

「短刀で、こ、こことここを、あっちこっち、ぎらぎら引かれて身体からだ一面に血が流れた時は、……私、その、たらたら流れて胸から乳から伝うのが、渇きの留とまるほど嬉しかった。莞爾莞爾にこにこしたわ。何とも言えない可いい心持だったんですよ。お前さんに、お前さんに、……あの時、――一面に染まった事を思出して何とも言えない、いい心持だったの。この襦袢です。斬きられたのは、ここだの、ここだの、」

と俊吉の瞶みはる目に、胸を開くと、手巾ハンケチを当てた。見ると、顔の色が真蒼まっさおになるとともに、垂々ぽたぽたと血に染まるのが、溢あふれて、わななく指を洩もれる。

俊吉は突伏つっぷした。

血はまだ溢れる、音なき雪のように、ぼたぼたと鳴って留やまぬ。

カーンと仏壇のりんが響いた。

「旦那様、旦那様。」

「あ。」

と顔を上げると、誰も居ない。炬燵の上に水仙が落ちて、花活はないけの水が点滴したたる。

俊吉は、駈下かけおりた。

遠慮して段の下に立った女中が驚きながら、

「あれ、まあ、お銚子がつきましてございますが。」

俊吉は呼吸いきがはずんで、

「せ、せ、折角だっけ、……客は帰ったよ。」

と見ると、仏壇に灯あかりが点ついて、老人としよりが殊勝に坐って、御法みのりの声。

「……我常住於此がじょうじゅうおし 以諸神通力いしょじんつうりき 令顛倒衆生りょうてんどうしゅじょう 雖近而不見すいごんにふけん 衆見我滅度しゅけんがめつど 広供養舎利こうくようしゃり 咸皆懐恋慕げんかいえれんぼ 而生渇仰心にしょうかつごうしん……」

白髪しらがに尊き燈火ともしびの星、観音、そこにおはします。……駈寄かけよって、はっと肩を抱いた。

「お祖母ばあさん、どうして今頃御経を誦よむの。」

慌てた孫に、従容しょうようとして見向いて、珠数を片手に、

「あのう、今しがた私わしが夢にの、美しい女の人がござっての、回向えこうを頼むと言わしった故にの、……悉くわしい事は明日話そう。南無妙法蓮華経なむみょうほうれんげきょう。……広供養舎利こうくようしゃり 咸皆懐恋慕げんかいえれんぼ 而生渇仰心にしょうかつごうしん 衆生既信伏しゅじょうきしんぷく 質直意柔輭しちじきいにゅうなん。……」

新聞の電報と、続いて掲げられた上州の記事は、ここには言うまい。俊吉は年紀とし二十七。

いかほ野やいかほの沼のいかにして

恋しき人をいま一見見む

大正三(一九一四)年一月

底本 / Source edition

底本:「泉鏡花集成6」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年3月21日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第十五卷」岩波書店
1940(昭和15)年9月20日発行
※誤植箇所の確認には底本の親本を用いました。
入力:門田裕志
校正:高柳典子
2007年2月11日作成
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TEI
/works/003655_000050/tei
プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
/works/003655_000050/

泉 鏡花「第二菎蒻本」(新字新仮名)、底本『泉鏡花集成6』ちくま文庫、筑摩書房、1996年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 003655_000050, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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