一

「謹さん、お手紙、」

と<ruby><rb>階子段</rb><rt>はしごだん</rt></ruby>から声を掛けて、二階の六畳へ<ruby><rb>上</rb><rt>あが</rt></ruby>り切らず、<ruby><rb>欄干</rb><rt>てすり</rt></ruby>に白やかな手をかけて、顔を<ruby><rb>斜</rb><rt>ななめ</rt></ruby>に<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>きながら、<ruby><rb>背後向</rb><rt>うしろむ</rt></ruby>きに机に寄った当家の<ruby><rb>主人</rb><rt>あるじ</rt></ruby>に、一枚を<ruby><rb>齎</rb><rt>もた</rt></ruby>らした。

「<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>り、」

と身を横に、<ruby><rb>蔽</rb><rt>おお</rt></ruby>うた<ruby><rb>燈</rb><rt>ともしび</rt></ruby>を離れたので、<ruby><rb>玉</rb><rt>ぎょく</rt></ruby>ぼやを透かした薄あかりに、くっきり描き<ruby><rb>出</rb><rt>いだ</rt></ruby>された、上り口の半身は、雲の絶間の<ruby><rb>青柳</rb><rt>あおやぎ</rt></ruby>見るよう、髪も<ruby><rb>容</rb><rt>かたち</rt></ruby>もすっきりした<ruby><rb>中年増</rb><rt>ちゅうどしま</rt></ruby>。

これはあるじの<ruby><rb>国許</rb><rt>くにもと</rt></ruby>から、五ツになる男の<ruby><rb>児</rb><rt>こ</rt></ruby>を伴うて、この度上京、しばらくここに<ruby><rb>逗留</rb><rt>とうりゅう</rt></ruby>している、お民といって縁続き、<ruby><rb>一蒔絵師</rb><rt>あるまきえし</rt></ruby>の女房である。

<ruby><rb>階下</rb><rt>した</rt></ruby>で<ruby><rb>添乳</rb><rt>そえぢ</rt></ruby>をしていたらしい、色はくすんだが<ruby><rb>艶</rb><rt>つや</rt></ruby>のある、<ruby><rb>藍</rb><rt>あい</rt></ruby>と紺、<ruby><rb>縦縞</rb><rt>たてじま</rt></ruby>の南部の<ruby><rb>袷</rb><rt>あわせ</rt></ruby>、<ruby><rb>黒繻子</rb><rt>くろじゅす</rt></ruby>の襟のなり、ふっくりとした乳房の線、幅細く<ruby><rb>寛</rb><rt>くつろ</rt></ruby>いで、昼夜帯の暗いのに、緩く<ruby><rb>纏</rb><rt>まと</rt></ruby>うた、<ruby><rb>縮緬</rb><rt>ちりめん</rt></ruby>の<ruby><rb>扱帯</rb><rt>しごき</rt></ruby>に<ruby><rb>蒼味</rb><rt>あおみ</rt></ruby>のかかったは、月の影のさしたよう。

<ruby><rb>燈火</rb><rt>ともしび</rt></ruby>に対して、瞳<ruby><rb>清</rb><rt>すず</rt></ruby>しゅう、鼻筋がすっと通り、<ruby><rb>口許</rb><rt>くちもと</rt></ruby>の<ruby><rb>緊</rb><rt>しま</rt></ruby>った、<ruby><rb>痩</rb><rt>や</rt></ruby>せぎすな、眉のきりりとした<ruby><rb>風采</rb><rt>とりなり</rt></ruby>に、しどけない<ruby><rb>態度</rb><rt>なり</rt></ruby>も目に立たず、繕わぬのが美しい。

「これは憚り、お使い柄<ruby><rb>恐入</rb><rt>おそれい</rt></ruby>ります。」

と主人は<ruby><rb>此方</rb><rt>こなた</rt></ruby>に手を伸ばすと、見得もなく、<ruby><rb>婦人</rb><rt>おんな</rt></ruby>は胸を、はらんばいになるまでに、ずッと出して差置くのを、畳をずらして受取って、火鉢の上でちょっと見たが、<ruby><rb>端書</rb><rt>はがき</rt></ruby>の用は直ぐに済んだ。

机の上に差置いて、

「ほんとに御苦労様でした。」

「はいはい、これはまあ、御丁寧な、<ruby><rb>御挨拶</rb><rt>ごあいさつ</rt></ruby>痛み入りますこと。お勝手からこちらまで、随分遠方でござんすからねえ。」

「憚り様ね。」

「ちっとも憚り様なことはありやしません。謹さん、」

「何ね、」

「<ruby><rb>貴下</rb><rt>あなた</rt></ruby>、その（憚り様ね）を、端書を読む、つなぎに言ってるのね。ほほほほ。」

謹さんも<ruby><rb>莞爾</rb><rt>にっこり</rt></ruby>して、

「お話しなさい。」

「<ruby><rb>難有</rb><rt>ありがと</rt></ruby>う、」

「さあ、こちらへ。」

「はい、誠にどうも難有う存じます、いいえ、どうぞもう、どうぞ、もう。」

「早速だ、おやおや。」

「大分丁寧でございましょう。」

「そんな皮肉を言わないで、坊やは？」

「寝ました。」

「母は？」

「<ruby><rb>行火</rb><rt>あんか</rt></ruby>で、」と云って、<ruby><rb>肱</rb><rt>ひじ</rt></ruby>を曲げた、雪なす二の腕、担いだように寝て見せる。

「<ruby><rb>貴女</rb><rt>あなた</rt></ruby>にあまえているんでしょう。どうして、元気な人ですからね、今時行火をしたり、宵の内から<ruby><rb>転寝</rb><rt>うたたね</rt></ruby>をするような人じゃないの。鉄は居ませんか。」

「女中さんは買物に、お<ruby><rb>汁</rb><rt>みおつけ</rt></ruby>の実を仕入れるのですって。それから私がお道楽、<ruby><rb>翌日</rb><rt>あした</rt></ruby>は田舎料理を<ruby><rb>達引</rb><rt>たてひ</rt></ruby>こうと思って、ついでにその分も。」

「じゃ<ruby><rb>階下</rb><rt>した</rt></ruby>は<ruby><rb>寂</rb><rt>さみ</rt></ruby>しいや、お話しなさい。」

お民はそのまま、すらりと敷居へ、後手を弱腰に、引っかけの端をぎゅうと<ruby><rb>撫</rb><rt>な</rt></ruby>で、<ruby><rb>軽</rb><rt>かろ</rt></ruby>く<ruby><rb>衣紋</rb><rt>えもん</rt></ruby>を合わせながら、後姿の襟清く、振返って入ったあと、<ruby><rb>欄干</rb><rt>てすり</rt></ruby>の前なる障子を閉めた。

「ここが<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>いていちゃ寒いでしょう。」

「何だかぞくぞくするようね、悪い陽気だ。」

と火鉢を前へ。

「<ruby><rb>開</rb><rt>あけ</rt></ruby>ッ放しておくからさ。」

「でもお民さん、貴女が居るのに、そこを閉めておくのは気になります。」

時に燈に近う来た。<ruby><rb>瞼</rb><rt>まぶた</rt></ruby>に<ruby><rb>颯</rb><rt>さっ</rt></ruby>と<ruby><rb>薄紅</rb><rt>うすくれない</rt></ruby>。

二

<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>ると炭取を引寄せて、<ruby><rb>火箸</rb><rt>ひばし</rt></ruby>を取って<ruby><rb>俯向</rb><rt>うつむ</rt></ruby>いたが、

「お礼に継いで上げましょうね。」

「どうぞ、願います。」

「まあ、人様のもので、義理をするんだよ、こんな<ruby><rb>呑気</rb><rt>のんき</rt></ruby>ッちゃありやしない。<ruby><rb>串戯</rb><rt>じょうだん</rt></ruby>はよして、謹さん、<ruby><rb>東京</rb><rt>こっち</rt></ruby>は炭が高いんですってね。」

<ruby><rb>主人</rb><rt>あるじ</rt></ruby>は<ruby><rb>大胡座</rb><rt>おおあぐら</rt></ruby>で、落着澄まし、

「<ruby><rb>吝</rb><rt>けち</rt></ruby>なことをお言いなさんな、お民さん、<ruby><rb>阿母</rb><rt>おふくろ</rt></ruby>は<ruby><rb>行火</rb><rt>あんか</rt></ruby>だというのに、押入には<ruby><rb>葛籠</rb><rt>つづら</rt></ruby>へ入って、まだ<ruby><rb>蚊帳</rb><rt>かや</rt></ruby>があるという騒ぎだ。」

「何のそれが騒ぎなことがあるもんですか。またいつかのように、夏中蚊帳が無くっては、それこそお家は騒動ですよ。」

「騒動どころか没落だ。いや、弱りましたぜ、一夏は。

何しろ、家の焼けた年でしょう。あの焼あとというものは、どういうわけだか、恐しく蚊が<ruby><rb>酷</rb><rt>ひど</rt></ruby>い。まだその騒ぎの無い内、<ruby><rb>当地</rb><rt>こちら</rt></ruby>で、本郷のね、春木町の裏長屋を借りて、<ruby><rb>夥間</rb><rt>なかま</rt></ruby>と自炊をしたことがありましたっけが、その時も前の年火事があったといって、何年にもない、大変な蚊でしたよ。けれども、それは何、<ruby><rb>少</rb><rt>わか</rt></ruby>いもの同志だから、<ruby><rb>萌黄縅</rb><rt>もえぎおどし</rt></ruby>の<ruby><rb>鎧</rb><rt>よろい</rt></ruby>はなくても、<ruby><rb>夜一夜</rb><rt>よっぴて</rt></ruby>、<ruby><rb>戸外</rb><rt>おもて</rt></ruby>を<ruby><rb>歩行</rb><rt>ある</rt></ruby>いていたって、それで事は済みました。

内じゃ、年よりを抱えていましょう。夜が明けても、<ruby><rb>的</rb><rt>あて</rt></ruby>はないのに、夜中一時二時までも、友達の<ruby><rb>許</rb><rt>とこ</rt></ruby>へ、<ruby><rb>苦</rb><rt>くるし</rt></ruby>い時の相談の手紙なんか書きながら、わきで寝返りなさるから、<ruby><rb>阿母</rb><rt>おっか</rt></ruby>さん、蚊が居ますかって聞くんです。

自分の手にゃ五ツ六ツたかっているのに。」

<ruby><rb>主人</rb><rt>あるじ</rt></ruby>は火鉢にかざしながら、

「居ますかもないもんだ。

ああ、ちっと居るようだの、と何でもないように、言われるんだけれども、なぜ<ruby><rb>阿母</rb><rt>おふくろ</rt></ruby>には居るだろうと、<ruby><rb>口惜</rb><rt>くやし</rt></ruby>いくらいでね。今に工面してやるから<ruby><rb>可</rb><rt>い</rt></ruby>い、蚊の畜生覚えていろと、<ruby><rb>無念骨髄</rb><rt>むねんこつずい</rt></ruby>でしたよ。まだそれよりか、毒虫のぶんぶん矢を射るような<ruby><rb>烈</rb><rt>はげし</rt></ruby>い中に、疲れて、すやすや、……<ruby><rb>傍</rb><rt>わき</rt></ruby>に私の居るのを嬉しそうに、快よさそうに眠られる時は、なお<ruby><rb>堪</rb><rt>たま</rt></ruby>らなくって泣きました。」

聞く方が歎息して、

「だってねえ、よくそれで無事でしたね。」

顔見られたのが不思議なほどの、懐かしそうな<ruby><rb>言</rb><rt>ことば</rt></ruby>であった。

「まさか、蚊に喰殺されたという話もない。そんな事より、恐るべきは<ruby><rb>兵糧</rb><rt>ひょうろう</rt></ruby>でしたな。」

「そうだってねえ。今じゃ笑いばなしになったけれど。」

「余りそうでもありません。しかしまあ、お<ruby><rb>庇様</rb><rt>かげさま</rt></ruby>、どうにか蚊帳もありますから。」

「ほんとに、どんなに辛かったろう、謹さん、<ruby><rb>貴下</rb><rt>あなた</rt></ruby>。」と優しい顔。

「何、私より阿母ですよ。」

「伯母さんにも聞きました。伯母さんはまた自分の身がかせになって、貴下が肩が抜けないし、そうかといって、修行中で、どう工面の成ろうわけはないのに、一ツ売り二つ売り、一日だてに、段々煙は細くなるし、もう二人が消えるばかりだから、世間体さえ構わないなら、<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>一ツないものにして、貴下を自由にしてあげたい、としょっちゅうそう思っていらしったってね。お互に今聞いても、身ぶるいが出るじゃありませんか。」

と顔を上げて目を合わせる、両人の手は左右から、思わず火鉢を<ruby><rb>圧</rb><rt>おさ</rt></ruby>えたのである。

「私はまた私で、何です、なまじ<ruby><rb>薄髯</rb><rt>うすひげ</rt></ruby>の生えた意気地のない<ruby><rb>兄哥</rb><rt>あにい</rt></ruby>がついているから起って、相応にどうにか<ruby><rb>遣繰</rb><rt>やりく</rt></ruby>って<ruby><rb>行</rb><rt>ゆ</rt></ruby>かれるだろう、と思うから、<ruby><rb>食物</rb><rt>くいもの</rt></ruby>の足りぬ阿母を、世間でも黙って見ている。いっそ<ruby><rb>伜</rb><rt>せがれ</rt></ruby>がないものと<ruby><rb>極</rb><rt>きま</rt></ruby>ったら、たよる処も何にもない。六十を越した人を、まさか見殺しにはしないだろう。

やっちまおうかと、日に<ruby><rb>幾度</rb><rt>いくたび</rt></ruby>考えたかね。

民さんも知っていましょう、あの年は、城の<ruby><rb>濠</rb><rt>ほり</rt></ruby>で、大層<ruby><rb>投身者</rb><rt>みなげ</rt></ruby>がありました。」

<ruby><rb>同一年</rb><rt>おないどし</rt></ruby>の、あいやけは、姉さんのような<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>き方。

「ああ。」

三

「確か六七人もあったでしょう。」

お民は聞いて、火鉢のふちに、<ruby><rb>算盤</rb><rt>そろばん</rt></ruby>を<ruby><rb>弾</rb><rt>はじ</rt></ruby>くように、指を反らして、

「謹さん、もっとですよ。八月十日の新聞までに、八人だったわ。」

と仰いで目を細うして言った。幼い時から、記憶の鋭い婦人である。

「じゃ、九人になる処だった。<ruby><rb>貴女</rb><rt>あなた</rt></ruby>の内へ遊びに<ruby><rb>行</rb><rt>ゆ</rt></ruby>くと、いつも帰りが遅くなって、日が暮れちゃ、あの<ruby><rb>濠端</rb><rt>ほりばた</rt></ruby>を通ったんですがね、石垣が<ruby><rb>蒼</rb><rt>あお</rt></ruby>く光って、<ruby><rb>真黒</rb><rt>まっくろ</rt></ruby>な水の上から、むらむらと白い煙が、こっちに<ruby><rb>這</rb><rt>は</rt></ruby>いかかって来るように見えるじゃありませんか。

引込まれては大変だと、早足に<ruby><rb>歩行</rb><rt>ある</rt></ruby>き出すと、何だかうしろから追い<ruby><rb>駈</rb><rt>か</rt></ruby>けるようだから、一心に<ruby><rb>遁</rb><rt>に</rt></ruby>げ出してさ、坂の上で振返ると、<ruby><rb>凄</rb><rt>すご</rt></ruby>いような月で。

ああ、春の末でした。

あとについて来たものは、自分の影法師ばかりなんです。

自分の影を、死神と間違えるんだもの、御覧なさい、生きている瀬はなかったんですよ。」

「心細いじゃありませんか、ねえ。」

と<ruby><rb>寂</rb><rt>さみ</rt></ruby>しそうに打傾く、<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>に映って、<ruby><rb>頸</rb><rt>うなじ</rt></ruby>をかけ、<ruby><rb>黒繻子</rb><rt>くろじゅす</rt></ruby>の襟に障子の影、薄ら蒼く見えるまで、<ruby><rb>戸外</rb><rt>おもて</rt></ruby>は月の<ruby><rb>冴</rb><rt>さ</rt></ruby>えたる<ruby><rb>気勢</rb><rt>けはい</rt></ruby>。カラカラと<ruby><rb>小刻</rb><rt>こきざみ</rt></ruby>に、女の通る下駄の音、屋敷町に響いたが、女中はまだ帰って来ない。

「心細いのが通り越して、気が変になっていたんです。

じゃ、そんな、気味の悪い、物凄い、死神のさそうような、<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>な濠端を、何の、お民さん。通らずともの事だけれど、なぜかまた、わざとにも、そこを<ruby><rb>歩行</rb><rt>ある</rt></ruby>いて、<ruby><rb>行過</rb><rt>ゆきす</rt></ruby>ぎてしまってから、まだ死なないでいるって事を、自分で<ruby><rb>確</rb><rt>たしか</rt></ruby>めて見たくてならんのでしたよ。

<ruby><rb>危険千万</rb><rt>けんのんせんばん</rt></ruby>。

だって、今だから話すんだけれど、その<ruby><rb>蚊帳</rb><rt>かや</rt></ruby>なしで、蚊が居るッていう始末でしょう。無いものは<ruby><rb>活計</rb><rt>たつき</rt></ruby>の<ruby><rb>代</rb><rt>しろ</rt></ruby>という訳で。

内で<ruby><rb>熟</rb><rt>じっ</rt></ruby>としていたんじゃ、たとい<ruby><rb>曳</rb><rt>ひ</rt></ruby>くにしろ、車も曳けない理窟ですから、何がなし、<ruby><rb>戸外</rb><rt>おもて</rt></ruby>へ出て、足駄<ruby><rb>穿</rb><rt>ば</rt></ruby>きで駈け<ruby><rb>歩行</rb><rt>ある</rt></ruby>くしだらだけれど、さて出ようとすると、気になるから、<ruby><rb>上</rb><rt>あが</rt></ruby>り<ruby><rb>框</rb><rt>がまち</rt></ruby>へ腰をかけて、片足履物をぶら下げながら、<ruby><rb>母</rb><rt>おっか</rt></ruby>さん、お米は？　ッて聞くんです。」

「お米は？　ッてね、謹さん。」

と、お民はほろりとしたのである。あるじはあえて<ruby><rb>莞爾</rb><rt>にこ</rt></ruby>やかに、

「恐しいもんだ、その癖両に何升どこは、この節かえって覚えました。その頃は、まったくです、無い事は無いにしろ、<ruby><rb>幾許</rb><rt>いくら</rt></ruby>するか知らなかった。

<ruby><rb>皆</rb><rt>みんな</rt></ruby>、親のお<ruby><rb>庇</rb><rt>かげ</rt></ruby>だね。

その<ruby><rb>阿母</rb><rt>おふくろ</rt></ruby>が、そうやって、お米は？　ッて尋ねると、晩まであるよ、とお言いなさる。

<ruby><rb>翌日</rb><rt>あす</rt></ruby>のが無いと言われるより、どんなに辛かったか知れません。お民さん。」

と呼びかけて、もとより答を待つにあらず。

「もう、その度にね、私はね、腰かけた足も、足駄の上で、何だって、こう脊が高いだろう、と土間へ、へたへたと<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>りたかった。」

「まあ、<ruby><rb>貴下</rb><rt>あなた</rt></ruby>、大抵じゃなかったのねえ。」

フトその時、火鉢のふちで指が触れた。右の<ruby><rb>腕</rb><rt>かいな</rt></ruby>はつけ元まで、二人は、はっと熱かったが、思わず言い合わせたかのごとく、鉄瓶に当って見た。左の手は、ひやりとした。

「謹さん、<ruby><rb>沸</rb><rt>わか</rt></ruby>しましょうかね。」と<ruby><rb>軽</rb><rt>かろ</rt></ruby>くいう。

「すっかり忘れていた、お庇さまで火もよく起ったのに。」

「お湯があるかしら。」

と引っ立てて、<ruby><rb>蓋</rb><rt>ふた</rt></ruby>を取って、<ruby><rb>燈</rb><rt>あかり</rt></ruby>の方に傾けながら、

「貴下。ちょいと、その水差しを。お道具は揃ったけれど、何だかこの二階の工合が下宿のようじゃありませんか。」

四

「それでもね、」

とあるじは若々しいものいいで、

「お民さんが来てから、何となく勝手が違って、ちょっと<ruby><rb>他所</rb><rt>よそ</rt></ruby>から帰って来ても、何だか自分の内のようじゃないんですよ。」

「あら、」

とて<ruby><rb>清</rb><rt>すず</rt></ruby>しい目を<ruby><rb>睜</rb><rt>みは</rt></ruby>り、鉄瓶の下に両手を揃えて、<ruby><rb>真直</rb><rt>まっすぐ</rt></ruby>に当りながら、

「そんな事を言うもんじゃありません。外へといっては、それこそ田舎の芝居一つ、めったに見に出た事もないのに、はるばる一人旅で<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>いに来たんじゃありませんか、<ruby><rb>酷</rb><rt>ひど</rt></ruby>いよ、謹さんは。」

と美しく<ruby><rb>打怨</rb><rt>うちえん</rt></ruby>ずる。

「飛んだ事を、ははは。」

とあるじも火に<ruby><rb>翳</rb><rt>かざ</rt></ruby>して、

「そんな気でいった、内らしくないではない、その下宿屋らしくないと言ったんですよ。」

「ですからね、早くおもらいなさいまし、悪いことはいいません。どんなに気がついても、しんせつでも、女中じゃ<ruby><rb>推切</rb><rt>おしき</rt></ruby>って、何かすることが出来ませんからね、どうしても手が届かないがちになるんです。伯母さんも、もう今じゃ、蚊帳よりお嫁が<ruby><rb>欲</rb><rt>ほし</rt></ruby>いんですよ。」

あるじは、<ruby><rb>屹</rb><rt>きっ</rt></ruby>と<ruby><rb>頭</rb><rt>かぶり</rt></ruby>を<ruby><rb>掉</rb><rt>ふ</rt></ruby>った。

「いいえ、よします。」

「なぜですね、謹さん。」と見上げた目に、あえて<ruby><rb>疑</rb><rt>うたがい</rt></ruby>の色はなく、別に心あって映ったのであった。

「なぜというと議論になります。ただね、私は欲くないんです。

こういえば、理窟もつけよう、またどうこうというけれどね、年よりのためにも他人の<ruby><rb>交</rb><rt>まじ</rt></ruby>らない方が気楽で<ruby><rb>可</rb><rt>い</rt></ruby>いかも知れません。お民さん、<ruby><rb>貴女</rb><rt>あなた</rt></ruby>がこうやって遊びに来てくれたって、知らない<ruby><rb>婦人</rb><rt>おんな</rt></ruby>が居ようより、<ruby><rb>阿母</rb><rt>おふくろ</rt></ruby>と私ばかりの方が、<ruby><rb>御馳走</rb><rt>ごちそう</rt></ruby>は届かないにした処で、水入らずで、気が置けなくって可いじゃありませんか。」

「だって、謹さん、私がこうして居いいために、一生<ruby><rb>貴方</rb><rt>あなた</rt></ruby>、奥さんを持たないでいられますか。それも、五年と十年と、このままで居たいたって、こちらに居られます<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>じゃなし、もう二週間の上になったって、五日目ぐらいから、やいやい帰れって、言って来て、三度めに来た手紙なんぞの様子じゃ、<ruby><rb>良人</rb><rt>やど</rt></ruby>の方の親類が、ああの、こうのって、面倒だから、それにつけても早々帰れじゃありませんか。また<ruby><rb>貴下</rb><rt>あなた</rt></ruby>を置いて、<ruby><rb>他</rb><rt>ほか</rt></ruby>に私の身についた縁者といってはないんですからね。どうせ帰れば近所近辺、一門一類が寄って<ruby><rb>集</rb><rt>たか</rt></ruby>って、」

と<ruby><rb>婀娜</rb><rt>あだ</rt></ruby>に唇の端を上げると、<ruby><rb>顰</rb><rt>ひそ</rt></ruby>めた眉を<ruby><rb>掠</rb><rt>かす</rt></ruby>めて落ちた、<ruby><rb>鬢</rb><rt>びん</rt></ruby>の毛を、<ruby><rb>焦</rb><rt>じれ</rt></ruby>ったそうに、<ruby><rb>背</rb><rt>うしろ</rt></ruby>へ投げて<ruby><rb>掻上</rb><rt>かきあ</rt></ruby>げつつ、

「この髪を<ruby><rb>挘</rb><rt>むし</rt></ruby>りたくなるような思いをさせられるに<ruby><rb>極</rb><rt>きま</rt></ruby>ってるけれど、東京へ来たら、生意気らしい、気の大きくなった上、二寸切られるつもりになって、度胸を<ruby><rb>極</rb><rt>き</rt></ruby>めて、伯母さんには<ruby><rb>内証</rb><rt>ないしょ</rt></ruby>ですがね、これでも自分で<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れるほど、<ruby><rb>了簡</rb><rt>りょうけん</rt></ruby>が<ruby><rb>据</rb><rt>すわ</rt></ruby>っていますけれど、だってそうは御厄介になっても居られませんもの。」

「いつまでも居て下さいよ。もう、私は、女房なんぞ持とうより、貴女に遊んでいてもらう方が、どんなに<ruby><rb>可</rb><rt>い</rt></ruby>いから知れやしない。」

と<ruby><rb>我儘</rb><rt>わがまま</rt></ruby>らしく熱心に言った。

お民は<ruby><rb>言</rb><rt>ことば</rt></ruby>を途切らしつ、鉄瓶はやや<ruby><rb>音</rb><rt>ね</rt></ruby>に出づる。

「謹さん、」

「ええ、」

お民は<ruby><rb>唾</rb><rt>つ</rt></ruby>をのみ、

「ほんとうですか。」

「ほんとうですとも、まったくですよ。」

「ほんとうに、謹さん。」

「お民さんは、嘘だと思って。」

「じゃもういっそ。」

と<ruby><rb>烈</rb><rt>はげ</rt></ruby>しく<ruby><rb>火箸</rb><rt>ひばし</rt></ruby>を灰について、

「帰らないでおきましょうか。」

五

我を忘れてお民は一気に、思い切っていいかけた、<ruby><rb>言</rb><rt>ことば</rt></ruby>の下に、あわれ水ならぬ灰にさえ、かず書くよりも<ruby><rb>果敢</rb><rt>はかな</rt></ruby>げに、しょんぼり肩を落したが、急に<ruby><rb>寂</rb><rt>さみ</rt></ruby>しい笑顔を上げた。

「ほほほほほ、その気で<ruby><rb>沢山</rb><rt>たんと</rt></ruby>御馳走をして下さいまし。お茶ばかりじゃ私は<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>。」

といううち涙さしぐみぬ。

「謹さん、」

というも曇り声に、

「も、<ruby><rb>貴下</rb><rt>あなた</rt></ruby>、どうして、そんなに、<ruby><rb>優</rb><rt>やさし</rt></ruby>くいって下さるんですよ。こうした私じゃありませんか。」

「<ruby><rb>貴女</rb><rt>あなた</rt></ruby>でなくッて、お民さん、貴女は大恩人なんだもの。」

「ええ？　恩人ですって、私が。」

「貴女が、」

「まあ！　<ruby><rb>誰方</rb><rt>どなた</rt></ruby>のねえ？」

「私のですとも。」

「どうして、謹さん、私はこんなぞんざいだし、もう十七の年に、何にも知らないで<ruby><rb>児持</rb><rt>こもち</rt></ruby>になったんですもの。<ruby><rb>碌</rb><rt>ろく</rt></ruby>に<ruby><rb>小袖</rb><rt>こそで</rt></ruby>一つ仕立って上げた事はなく、貴下が一生の<ruby><rb>大切</rb><rt>だいじ</rt></ruby>だった、そのお米のなかった時も、<ruby><rb>煙草</rb><rt>たばこ</rt></ruby>も買ってあげないでさ。

後で聞いて<ruby><rb>口惜</rb><rt>くやし</rt></ruby>くって、今でも<ruby><rb>怨</rb><rt>うら</rt></ruby>んでいるけれど、内証の苦しい事ったら、ちっとも伯母さんは聞かして下さらないし、あなたの<ruby><rb>御容子</rb><rt>ごようす</rt></ruby>でも分りそうなものだったのに、私が気がつかないからでしょうけれど、いつお目にかかっても、元気よく、いきいきしてねえ、まったくですよ、今なんぞより、<ruby><rb>窶</rb><rt>やつ</rt></ruby>れてないで、もっと顔色も<ruby><rb>可</rb><rt>よ</rt></ruby>かったもの……」

「それです、それですよ、お民さん。その顔色の可かったのも、元気よく<ruby><rb>活々</rb><rt>いきいき</rt></ruby>していたのだって、貴女、貴女の<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>に居る時の<ruby><rb>他</rb><rt>ほか</rt></ruby>に、そうした事を見た事はありますまい。

私はもう、影法師が死神に見えた時でも、貴女に逢えば、元気が出て、心が活々したんです。それだから貴女はついぞ、ふさいだ、陰気な、私の屈託顔を見た事はないんです。

ねえ。

<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>もいう通り、私の死んでしまった方が<ruby><rb>阿母</rb><rt>おふくろ</rt></ruby>のために都合よく、人が世話をしようと思ったほどで、またそれに違いはなかったんですもの。

実際私は、貴女のために<ruby><rb>活</rb><rt>い</rt></ruby>きていたんだ。

そして、お民さん。」

あるじが落着いて<ruby><rb>静</rb><rt>しずか</rt></ruby>にいうのを、お民は激しく聞くのであろう、潔白なるその<ruby><rb>顔</rb><rt>かんばせ</rt></ruby>に、<ruby><rb>湧上</rb><rt>わきのぼ</rt></ruby>るごとき<ruby><rb>血汐</rb><rt>ちしお</rt></ruby>の色。

「<ruby><rb>切迫詰</rb><rt>せっぱつま</rt></ruby>って、いざ、と首の座に押直る時には、たとい<ruby><rb>場処</rb><rt>ところ</rt></ruby>が離れていても、きっと貴女の姿が来て、私を助けてくれるッて事を、堅くね、心の底に、<ruby><rb>確</rb><rt>たしか</rt></ruby>に信仰していたんだね。

まあ、お民さん<ruby><rb>許</rb><rt>とこ</rt></ruby>で<ruby><rb>夜更</rb><rt>よふか</rt></ruby>しして、じゃ、おやすみってお宅を出る。遅い時は<ruby><rb>寝衣</rb><rt>ねまき</rt></ruby>のなりで、寒いのも<ruby><rb>厭</rb><rt>いと</rt></ruby>わないで、貴女が自分で送って下さる。

<ruby><rb>門</rb><rt>かど</rt></ruby>を出ると、あの曲角あたりまで、貴女、その寝衣のままで、<ruby><rb>暗</rb><rt>やみ</rt></ruby>の中まで見送ってくれたでしょう。<ruby><rb>小児</rb><rt>こども</rt></ruby>が奥で泣いている時でも、雨が降っている時でも、ずッと背中まで外へ出して。

私はまた、曲り角で、きっと、<ruby><rb>密</rb><rt>そっ</rt></ruby>と<ruby><rb>立停</rb><rt>たちど</rt></ruby>まって、しばらく<ruby><rb>経</rb><rt>た</rt></ruby>って、カタリと<ruby><rb>枢</rb><rt>くるる</rt></ruby>のおりるのを聞いたんです。

その、帰り<ruby><rb>途</rb><rt>みち</rt></ruby>に、<ruby><rb>濠端</rb><rt>ほりばた</rt></ruby>を通るんです。枢は下りて、貴女の寝た事は知りながら、今にも濠へ、飛込もうとして、この片足が<ruby><rb>崖</rb><rt>がけ</rt></ruby>をはずれる、<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>でしっかりと引き留めて、何をするの、謹さん、と貴女がきっというと<ruby><rb>確</rb><rt>たしか</rt></ruby>に思った。

ですから、死のうと思い、助かりたい、と考えながら、そんな、<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>な、恐ろしい濠端を通ったのも、枢をおろして寝なすった、貴女が必ず助けてくれると、それを力にしたんです。お<ruby><rb>庇</rb><rt>かげ</rt></ruby>で活きていたんですもの、恩人でなくッてさ、貴女は命の親なんですよ。」

とただ懐かしげに嬉しそうにいう顔を、じっと見る見る、ものをもいわず、お民ははらはらと、薄曇る<ruby><rb>燈</rb><rt>ともしび</rt></ruby>の前に落涙した。

「お民さん、」

「謹さん、」

とばかり歯をカチリと、<ruby><rb>堰</rb><rt>せ</rt></ruby>きあえぬ涙を<ruby><rb>噛</rb><rt>か</rt></ruby>み留めつつ、

「口についていうようでおかしいんですが、私もやっぱり。貴下は、もう、今じゃこんなにおなりですから、私は要らなくなったでしょうが、私は今も、今だって、その時分から、何ですよ、<ruby><rb>同</rb><rt>おんな</rt></ruby>じなんです、謹さん。<ruby><rb>慾</rb><rt>よく</rt></ruby>にも、我慢にも、厭で厭で、厭で厭で死にたくなる時がありますとね、そうすると、貴下が来て、お留めなさると思ってね、それを便りにしていますよ。

まあ、同じようで不思議だから、これから別れて帰りましたら、私もまた、月夜にお濠端を<ruby><rb>歩行</rb><rt>ある</rt></ruby>きましょう。そして貴下、謹さんのお姿が、そこへ出るのを見ましょうよ。」

と<ruby><rb>差俯向</rb><rt>さしうつむ</rt></ruby>いた肩が震えた。

あるじは、思わず、火鉢なりに擦り寄って、

「飛んだ事を、<ruby><rb>串戯</rb><rt>じょうだん</rt></ruby>じゃありません、そ、そ、そんな事をいって、<ruby><rb>譲</rb><rt>ゆずる</rt></ruby>（小児の名）さんをどうします。」

「だって、だって、貴下がその年、その思いをしているのに、私はあの<ruby><rb>児</rb><rt>こ</rt></ruby>を<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えました。そんな、そんな児を構うものか。」

とすねたように鋭くいったが、露を<ruby><rb>湛</rb><rt>たた</rt></ruby>えた<ruby><rb>花片</rb><rt>はなびら</rt></ruby>を、湯気やなぶると、<ruby><rb>笑</rb><rt>えみ</rt></ruby>を湛え、

「ようござんすよ。私はお濠を<ruby><rb>楽</rb><rt>たのし</rt></ruby>みにしますから。でも、こんなじゃ、私の影じゃ、<ruby><rb>凄</rb><rt>すご</rt></ruby>い死神なら<ruby><rb>可</rb><rt>い</rt></ruby>いけれど、大方<ruby><rb>鼬</rb><rt>いたち</rt></ruby>にでも見えるでしょう。」

と投げたように、片身を畳に、<ruby><rb>褄</rb><rt>つま</rt></ruby>も乱れて<ruby><rb>崩折</rb><rt>くずお</rt></ruby>れた。

あるじは、ひたと寄せて、<ruby><rb>押</rb><rt>おさ</rt></ruby>えるように、<ruby><rb>棄</rb><rt>す</rt></ruby>てた女の手を取って、

「お民さん。」

「…………」

「国へ、国へ帰しやしないから。」

「あれ、お待ちなさい伯母さんが。」

「どうした、どうしたよ。」

という母の声、下に聞えて、わっとばかり、その譲という児が。

「<ruby><rb>煩</rb><rt>うるさ</rt></ruby>いねえ！ちょいと、見て来ますからね、謹さん。」

とはらりと立って、<ruby><rb>脛</rb><rt>はぎ</rt></ruby>白き、敷居際の立姿。やがてトントンと<ruby><rb>階下</rb><rt>した</rt></ruby>へ下りたが、泣き<ruby><rb>留</rb><rt>や</rt></ruby>まぬ譲を横抱きに、しばらくして品のいい、母親の<ruby><rb>形</rb><rt>なり</rt></ruby>で座に返った。燈火の陰に胸の色、雪のごとく清らかに、譲はちゅうちゅうと乳を吸って、片手で<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>って泣いじゃくる。

あるじは、きちんと<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>り直って、

「どうしたの、<ruby><rb>酷</rb><rt>ひど</rt></ruby>く<ruby><rb>怯</rb><rt>おび</rt></ruby>えたようだっけ。」

「夢を見たかい、坊や、どうしたのだねえ。」

と<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>に顔をかさぬれば、<ruby><rb>乳</rb><rt>ち</rt></ruby>を含みつつ、愛らしい、大きな目をくるくるとやって、

「鼬が、<ruby><rb>阿母</rb><rt>おっか</rt></ruby>さん。」

「ええ、」

二人は顔を見合わせた。

あるじは、居寄って顔を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>き、ことさらに打笑い、

「何、内へ鼬なんぞ出るものか。坊や、鼠の音を聞いたんだろう。」

<ruby><rb>小児</rb><rt>こども</rt></ruby>はなお含んだまま、いたいけに<ruby><rb>捻向</rb><rt>ねじむ</rt></ruby>いて、

「ううむ、内じゃないの。お<ruby><rb>濠</rb><rt>ほり</rt></ruby>ン<ruby><rb>許</rb><rt>とこ</rt></ruby>で、長い尻尾で、あの、目が光って、<ruby><rb>私</rb><rt>わたい</rt></ruby>、私を<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>んで、<ruby><rb>恐</rb><rt>こわ</rt></ruby>かったの。」

と、くるりと向いて、ひったり母親のその柔かな胸に額を<ruby><rb>埋</rb><rt>うず</rt></ruby>めた。

また顔を見合わせたが、今はその色も変らなかった。

「おお、そうかい、夢なんですよ。」

「恐かったな、恐かったな、坊や。」

「恐かったね。」

からからと格子が開いて、

「どうも、おそなわりました。」と勝手でいって、女中が帰る。

「さあ、御馳走だよ。」

と<ruby><rb>衝</rb><rt>つ</rt></ruby>と立ったが、<ruby><rb>早急</rb><rt>さっきゅう</rt></ruby>だったのと、抱いた<ruby><rb>重量</rb><rt>おもみ</rt></ruby>で、<ruby><rb>裳</rb><rt>もすそ</rt></ruby>を前に、よろよろと、お民は、よろけながら<ruby><rb>段階子</rb><rt>だんばしご</rt></ruby>。

「謹さん。」

「…………」

「<ruby><rb>翌朝</rb><rt>あした</rt></ruby>のお米は？」

と<ruby><rb>艶麗</rb><rt>はでやか</rt></ruby>に<ruby><rb>莞爾</rb><rt>にっこり</rt></ruby>して、

「早く、奥さんを持って下さいよ。ああ、女中さん御苦労でした。」

と下を向いて高く言った。

その時<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>の開く音がして、

「おそなわりました、<ruby><rb>御新造様</rb><rt>ごしんぞさま</rt></ruby>。」

お民は答えず、ほと吐息。<ruby><rb>円髷</rb><rt>まげ</rt></ruby><ruby><rb>艶</rb><rt>つや</rt></ruby>やかに二三段、<ruby><rb>片頬</rb><rt>かたほ</rt></ruby>を見せて、<ruby><rb>差覗</rb><rt>さしのぞ</rt></ruby>いて、

「ここは閉めないで<ruby><rb>行</rb><rt>ゆ</rt></ruby>きますよ。」

明治三十八（一九〇五）年六月