Soranoha

こがね丸

こがねまる

巌谷 小波

少年文学序

奇獄小説に読む人の胸のみ傷いためむとする世に、一巻の穉おさな物語を著す。これも人真似まねせぬ一流のこころなるべし。欧羅巴ヨーロッパの穉物語も多くは波斯ペルシアの鸚鵡冊子おうむさっしより伝はり、その本源は印度の古文にありといへば、東洋は実にこの可愛らしき詩形の家元なり。あはれ、ここに染出す新暖簾のれん、本家再興の大望を達して、子々孫々までも巻をかさねて栄へよかしと祷いのるものは、

本郷千駄木町ほんごうせんだぎちょうの

鴎外おうがい漁史なり

凡例

一 この書題して「少年文学」といへるは、少年用文学との意味にて、独逸ドイツ語の Jugendschrift (juvenile literature) より来れるなれど、我邦に適当の熟語なければ、仮にかくは名付けつ。鴎外兄がいはゆる穉物語も、同じ心なるべしと思ふ。

一 されば文章に修飾を勉つとめず、趣向に新奇を索もとめず、ひたすら少年の読みやすからんを願ふてわざと例の言文一致も廃しつ。時に五七の句調など用ひて、趣向も文章も天晴あっぱれ時代ぶりたれど、これかへつて少年には、誦しょうしやすく解しやすからんか。

一 作者この『こがね丸』を編むに当りて、彼のゲーテーの Reineke Fuchs(狐の裁判)その他グリム、アンデルゼン等の Maerchen(奇異談)また我邦には桃太郎かちかち山を初めとし、古きは『今昔こんじゃく物語』、『宇治拾遺うじしゅうい』などより、天明ぶりの黄表紙きびょうし類など、種々思ひ出して、立案の助けとなせしが。されば引用書として、名記するほどにもあらず。

一 ちと手前味噌てまえみそに似たれど、かかる種の物語現代の文学界には、先づ稀有けうのものなるべく、威張いばりていへば一の新現象なり。されば大方の詞友諸君、縦令たといわが作の取るに足らずとも、この後諸先輩の続々討て出で賜ふなれば、とかくこの少年文学といふものにつきて、充分論あげつらひ賜ひてよト、これも予あらかじめ願ふて置く。

一 詞友われを目もくして文壇の少年家といふ、そはわがものしたる小説の、多く少年を主人公にしたればなるべし。さるにこの度また少年文学の前坐を務む、思へば争はれぬものなりかし。

庚寅かのえとらの臘月ろうげつ。もう八ツ寝るとお正月といふ日

昔桜亭において  漣山人さざなみさんじん誌しるす

上巻

第一回

むかし或ある深山みやまの奥に、一匹の虎住みけり。幾星霜いくとしつきをや経たりけん、躯からだ尋常よのつねの犢こうしよりも大おおきく、眼まなこは百錬の鏡を欺き、鬚ひげは一束ひとつかの針に似て、一度ひとたび吼ほゆれば声山谷さんこくを轟とどろかして、梢こずえの鳥も落ちなんばかり。一山さんの豺狼さいろう麋鹿びろく畏おそれ従はぬものとてなかりしかば、虎はますます猛威を逞たくましうして、自ら金眸きんぼう大王と名乗り、数多あまたの獣類けものを眼下に見下みくだして、一山万獣ばんじゅうの君とはなりけり。

頃ころしも一月の初はじめつ方かた、春とはいへど名のみにて、昨日きのうからの大雪に、野も山も岩も木も、冷つめたき綿わたに包まれて、寒風坐そぞろに堪えがたきに。金眸は朝より洞ほらに籠こもりて、独ひとり蹲うずくまりゐる処へ、兼かねてより称心きにいりの、聴水ちょうすいといふ古狐ふるぎつね、岨そば伝ひに雪踏み分わげて、漸ようやく洞の入口まで来たり。雪を払ひてにじり入り、まづ慇懃いんぎんに前足をつかへ、「昨日よりの大雪に、外面そともに出いずる事もならず、洞にのみ籠り給ひて、さぞかし徒然つれづれにおはしつらん」トいへば。金眸は身を起こして、「噯オー聴水なりしか、よくこそ来りつれ。実まことに爾なんじがいふ如く、この大雪にて他出そとでもならねば、独り洞に眠りゐたるに、食物かて漸く空むなしくなりて、やや空腹ものほしう覚ゆるぞ。何ぞ好よき獲物はなきや、……この大雪なればなきも宜むべなり」ト嘆息するを。聴水は打消し、「いやとよ大王。大王もし実まことに空腹ものほしくて、食物かてを求め給ふならば、僕やつがれ好き獲物を進まいらせん」「なに好き獲物とや。……そは何処いずこに持来りしぞ」「否いな。此処ここには持ち侍はべらねど、大王些ちとの骨を惜まずして、この雪路ゆきみちを歩みたまはば、僕よき処へ東道あんないせん。怎麼いかに」トいへば。金眸呵々からからと打笑ひ、「やよ聴水。縦令たとひわれ老いたりとて、焉いずくンぞこれしきの雪を恐れん。かく洞にのみ垂籠たれこめしも、決して寒気を厭いとふにあらず、獲物あるまじと思へばなり。今爾がいふ処偽いつわりならずば、速すみやかに東道あんないせよ、われ往ゆきてその獲物を取らんに、什麼そもそは何処いずくぞ」トいへば。聴水はしたり顔にて、「大王速かに承引うけがいたまひて、僕やつがれも実まことに喜ばしく候。されば暫く心を静め給ひて、わがいふ事を聞き給へ。そもその獲物と申すは、この山の麓ふもとの里なる、荘官しょうやが家の飼犬にて、僕他かれには浅からぬ意恨うらみあり。今大王往ゆきて他かれを打取たまはば、これわがための復讐あだがえし、僕が欣喜よろこびこれに如しかず候」トいふに金眸訝いぶかりて、「こは怪けしからず。その意恨うらみとは怎麼いかなる仔細しさいぞ、苦しからずば語れかし」「さん候。一昨日おとついの事なりし、僕かの荘官が家の辺ほとりを過よぎりしに、納屋なやと覚おぼしき方かたに当りて、鶏の鳴く声す。こは好き獲物よと思ひしかば、即すなわち裏の垣より忍び入りて窠宿とや近く往かんとする時、他かれ目慧めざとくも僕を見付みつけて、驀地まっしぐらに飛とんで掛かかるに、不意の事なれば僕は狼狽うろたへ、急ぎ元入りし垣の穴より、走り抜けんとする処を、他かれわが尻尾しりおを咬くわへて引きもどさんとす、われは払はらって出でんとす。その勢にこれ見そなはせ、尾の先少し齧かみ取られて、痛きこと太はなはだしく、生れも付かぬ不具にされたり。かくては大切なるこの尻尾も、老人としよりの襟巻えりまきにさへ成らねば、いと口惜しく思ひ侍れど。他は犬われは狐、とても適かなはぬ処なれば、復讐あだがえしも思ひ止とどまりて、意恨うらみを呑のんで過ごせしが。大王、僕やつがれ不憫ふびんと思召おぼしめさば、わがために仇あだを返してたべ。さきに獲物を進まいらせんといひしも、実まことはこの事願はんためなり」ト、いと哀れげに訴うったうれば。金眸は打点頭うちうなずき、「憎き犬の挙動ふるまいかな。よしよし今に一攫ひとつかみ、目に物見せてくれんずほどに、心安く思ふべし」ト、かつ慰めかつ怒り、やがて聴水を前さきに立てて、脛すねにあまる雪を踏み分けつつ、山を越え渓たにを渉わたり、ほどなく麓に出でけるに、前さきに立ちし聴水は立止まり、「大王、彼処かしこに見ゆる森の陰に、今煙の立昇たちのぼる処は、即ち荘官しょうやが邸やしきにて候が、大王自ら踏み込み給ふては、徒いたずらに人間ひとを驚かすのみにて、敵かたきの犬は逃げんも知れず。これには僕よき計策はかりごとあり」とて、金眸の耳に口よせ、何やらん耳語ささやきしが、また金眸が前さきに立ちて、高慢顔にぞ進みける。

第二回

ここにこの里の荘官しょうやの家に、月丸つきまる花瀬はなせとて雌雄ふうふの犬ありけり。年頃情なさけを掛かけて飼ひけるほどに、よくその恩に感じてや、いとも忠実まめやかに事つかふれば、年久しく盗人ぬすびとといふ者這入はいらず、家は増々ますます栄えけり。

降り続く大雪に、伯母おばに逢ひたる心地ここちにや、月丸は雌つま諸共もろともに、奥なる広庭に戯れゐしが。折から裏の窠宿とやの方かたに当りて、鶏の叫ぶ声切しきりなるに、哮々こうこうと狐の声さへ聞えければ。「さては彼の狐めが、また今日も忍入りしよ。いぬる日あれほど懲こらしつるに、はや忘わすれしと覚えたり。憎き奴め用捨はならじ、此度こたびこそは打ち取りてん」ト、雪を蹴立けだてて真一文字に、窠宿の方へ走り往ゆけば、狐はかくと見みるよりも、周章狼狽あわてふためき逃げ行くを、なほ逃のがさじと追駆おっかけて、表門を出いでんとする時、一声嗡おうと哮たけりつつ、横間よこあいより飛とんで掛るものあり。何者ならんと打見やれば、こはそも怎麼いかにわれよりは、二層まわりも大おおいなる虎の、眼まなこを怒らし牙きばをならし、爪つめを反そらしたるその状態ありさま、恐しなんどいはん方かたなし。尋常よのつねの犬なりせば、その場に腰をも抜ぬかすべきに。月丸は原来心猛たけき犬なれば、そのまま虎に噉くってかかり、喚おめき叫んで暫時しばしがほどは、力の限り闘たたかひしが。元より強弱敵しがたく、無残や肉裂け皮破れて、悲鳴の中うちに息絶たえたる。その死骸なきがらを嘴くちに咬くわへ、あと白雪を蹴立けたてつつ、虎は洞ほらへと帰り行く。あとには流るる鮮血ちしおのみ、雪に紅梅の花を散らせり。

雌つまの花瀬は最前より、物陰にありて件くだんの様子を、残りなく詠ながめゐしが。身は軟弱かよわき雌犬めいぬなり。かつはこのほどより乳房垂たれて、常ならぬ身にしあれば、雄おっとが非業ひごうの最期さいごをば、目前まのあたり見ながらも、救たすくることさへ成りがたく、独ひとり心を悶もだへつつ、いとも哀れなる声張上げて、頻しきりに吠ほえ立つるにぞ、人々漸く聞きつけて、凡事ただごとならずと立出でて見れば。門前の雪八方に蹴散らしたる上に、血夥おびただしく流れたるが、只と見れば遙はるかの山陰やまかげに、一匹の大虎が、嘴に咬へて持て行くものこそ、正まさしく月丸が死骸なきがらなれば、「さては彼の虎めに喰くはれしか、今一足早かりせば、阿容々々おめおめ他かれは殺さじものを」ト、主人あるじは悶蹈あしずりして悔くやめども、さて詮術せんすべもあらざれば、悲しみ狂ふ花瀬を賺すかして、その場は漸くに済ませしが。済まぬは花瀬が胸の中うち、その日よりして物狂はしく。旦暮あけくれ小屋にのみ入りて、与ふる食物かても果敢々々敷はかばかしくは喰くらはず。怪しき声して啼なき狂ひ、門かどを守ることだにせざれば、物の用にも立たたぬなれど、主人は事の由来おこりを知れば、不憫さいとど増さりつつ、心を籠めて介抱なせど。花瀬は次第に窶やつるるのみにて、今は肉落ち骨秀ひいで、鼻頭はなかしら全く乾かわきて、この世の犬とも思はれず、頼み少なき身となりけり。かかる折から月満ちけん、俄にわかに産の気萌きざしつつ、苦痛の中に産み落せしは、いとも麗はしき茶色毛の、雄犬ただ一匹なるが。背のあたりに金色の毛混りて、妙たえなる光を放つにぞ、名をばそのまま黄金丸こがねまると呼びぬ。

さなきだに病やみ疲れし上に、嬰児みどりごを産み落せし事なれば、今まで張りつめし気の、一時に弛ゆるみ出でて、重き枕いよいよ上らず、明日あすをも知れぬ命となりしが。臨終いまわの際きわに、兼てより懇意こころやすくせし、裏の牧場まきばに飼はれたる、牡丹ぼたんといふ牝牛めうしをば、わが枕辺べに乞こひよせ。苦しき息を喘ほっト吻つき、「さて牡丹ぬし。見そなはす如き妾わらわが容体ありさま、とても在命ながらえる身にしあらねば、臨終の際にただ一事こと、阿姐あねごに頼み置きたき件ことあり。妾が雄おっと月丸ぬしは、いぬる日猛虎金眸きんぼうがために、非業の最期を遂げしとは、阿姐も知り給ふ処なるが。彼かの時妾目前まのあたり、雄が横死おうしを見ながらに、これを救たすけんともせざりしは、見下げ果てたる不貞の犬よと、思ひし獣もありつらんが。元より犬の雌つまたる身の、たとひその身は亡ほろぶとも、雄が危急を救ふべきは、いふまでもなき事にして、義を知る獣の本分なれば、妾とて心付かぬにはあらねど、彼かの時命を惜みしは、妾が常ならぬ身なればなり。もし妾も彼処かしこに出でて、虎と争ひたらんには。雄と共に殺されてん。さる時は誰たれか仇をば討つべきぞ。結句つまりは親子三匹して、命を捨すつるに異ならねば、これ貞に似て貞にあらず、真まことの犬死とはこの事なり。かくと心に思ひしかば、忍びがたき処を忍び、堪こらえがたきを漸ようやく堪えて、見在みすみす雄を殺せしが。これも偏ひとへに胎はらの児こを、産み落したるその上にて。仇を討たせんと思へばなり。さるに妾不幸にして、いひ甲斐がいなくも病に打ち臥ふし、已すでに絶えなん玉の緒を、辛からく繋つなぎて漸くに、今この児は産み落せしか。これを養育はぐくむこと叶かなはず、折角頼みし仇討ちも、仇になりなん口惜しさ、推量なして給はらば、何卒なにとぞこの児を阿姐あねごの児となし、阿姐が乳ちもて育てあげ。他かれもし一匹前まえの雄犬となりなば、その時こそは妾が今の、この言葉をば伝へ給ひて、妾がためには雄の仇、他かれがためには父の仇なる、彼の金眸めを打ち取るやう、力に成なって給はれかし。頼みといふはこの件ことのみ。頼む〱」トいふ声も、次第に細る冬の虫草葉の露のいと脆もろき、命は犬も同じことなり。

第三回

悼いたはしや花瀬は、夫の行衛ゆくえ追ひ駆けて、後あとより急ぐ死出しでの山、その日の夕暮に没みまかりしかば。主人あるじはいとど不憫ふびんさに、その死骸なきがらを棺ひつぎに納め、家の裏なる小山の蔭に、これを埋うずめて石を置き、月丸の名も共に彫えり付けて、形かたばかりの比翼塚、跡あと懇切ねんごろにぞ弔とぶらひける。

かくて孤児みなしごの黄金丸こがねまるは、西東だにまだ知らぬ、藁わらの上より牧場なる、牡丹ぼたんが許もとに養ひ取られ、それより牛の乳を呑のみ、牛の小屋にて生立おいたちしが。次第に成長するにつけ、骨格ほねぐみ尋常よのつねの犬に勝すぐれ、性質こころばせも雄々おおしくて、天晴あっぱれ頼もしき犬となりけり。

さてまた牡丹が雄おっと文角ぶんかくといへるは、性来うまれえて義気深き牛なりければ、花瀬が遺言を堅く守りて、黄金丸の養育に、旦暮あけくれ心を傾けつつ、数多あまたの犢こうしの群むれに入れて。或時は角闘すもうを取らせ、または競争はしりくらなどさせて、ひたすら力業ちからわざを勉めしむるほどに。その甲斐ありて黄金丸も、力量ちからあくまで強くなりて、大概おおかたの犬と噬かみ合ふても、打ち勝つべう覚えしかば。文角も斜ななめならず喜び、今は時節もよかるべしと、或時黄金丸を膝ひざ近くまねき、さて其方そなたは実まことの児にあらず、斯様々々云々かようかようしかじかなりと、一伍一什いちぶしじゅうを語り聞かせば。黄金丸聞きもあへず、初めて知るわが身の素性すじょうに、一度ひとたびは驚き一度は悲しみ、また一度は金眸きんぼうが非道を、切歯はぎしりして怒り罵ののしり、「かく聞く上は一日も早く、彼の山へ走はせ登り、仇敵かたき金眸を噬かみ殺さん」ト、敦圉いきまきあらく立たちかかるを、文角は霎時しばしと押し止とどめ、「然しか思ふは理ことわりなれど、暫くまづわが言葉を、心ろを静めて聞きねかし。原来其方そなたが親の仇敵かたき、ただに彼の金眸のみならず。他かれが配下に聴水ちょうすいとて、いと獰悪はらぐろき狐あり。此奴こやつある日鶏を盗みに入りて、端はしなく月丸ぬしに見付られ、他かれが尻尾を噛み取られしを、深く意恨に思ひけん。自己おのれの力に及ばぬより、彼の虎が威を仮りて、さてはかかる事に及びぬ。然しかれば真まことの仇敵かたきとするは、虎よりもまづ狐なり。さるに今其方そなたが、徒らに猛り狂ふて、金眸が洞に駆入り、他かれと雌雄を争ふて、万一誤つて其方負けなば、当の仇敵の狐も殺さず、その身は虎の餌えじきとならん。これこそわれから死を求むる、火取虫ひとりむしより愚おろかなる業わざなれ。殊ことに対手あいては年経し大虎、其方は犬の事なれば、縦令たとひ怎麼いかなる力ありとも、尋常に噬かみ合ふては、彼に勝かたんこといと難し。それよりは今霎時、牙きばを磨みがき爪を鍛へ、まづ彼の聴水めを噛み殺し、その上時節の到いたるを待まって、彼の金眸を打ち取るべし。今匹夫の勇を恃たのんで、世の胡慮ものわらいを招かんより、無念を堪こらえて英気を養ひ以もって時節を待つには如しかじ」ト、事を分けたる文角が言葉に、実げにもと心に暁得さとりしものから。黄金丸はややありて、「かかる義理ある中なりとは、今日まで露知しらず、真まことの父君ちちぎみ母君と思ひて、我儘わがまま気儘に過すごしたる、無礼の罪は幾重いくえにも、許したまへ」ト、数度あまたたび養育の恩を謝し。さて更あらためていへるやう、「知らぬ疇昔むかしは是非もなけれど、かくわが親に仇敵あること、承はりて知る上は、黙もだして過すは本意ならず、それにつき、爰ここに一件ひとつの願ひあり、聞入れてたびてんや」「願ひとは何事ぞ、聞し上にて許しもせん」「そは余の事にも候はず、某それがしに暇いとまを賜はれかし。某これより諸国を巡めぐり、あまねく強き犬と噬かみ合ふて、まづわが牙を鍛へ。傍かたわら仇敵の挙動ふるまいに心をつけ、機会おりもあらば名乗りかけて、父の讐あだを復かえしてん。年頃受けし御恩をば、返しも敢あへずこれよりまた、御暇おんいとまを取らんとは、義を弁へぬに似たれども、親のためなり許し給へ。もし某それがし幸ひにして、見事父の讐を復し、なほこの命恙つつがなくば、その時こそは心のまま、御恩に報ゆることあるべし。まづそれまでは文角ぬし、霎時しばしの暇賜はりて……」ト、涙ながらに掻口説かきくどけば、文角は微笑ほほえみて、「さもこそあらめ、よくぞいひし。其方がいはずば此方こなたより、強しいても勧めんと思ひしなり。思おもいのままに武者修行して、天晴れ父の仇敵かたきを討ちね」ト、いふに黄金丸も勇み立ち。善は急げと支度したくして、「見事金眸が首取らでは、再び主家しゅうかには帰るまじ」ト、殊勝けなげにも言葉を盟ちかひ文角牡丹に別わかれを告げ、行衛定めぬ草枕、われから野良犬のらいぬの群むれに入りぬ。

第四回

昨日きのうは富家ふうかの門を守りて、頸くびに真鍮の輪を掛かけし身の、今日は喪家そうかの狗くとなり果はてて、寝いぬるに窠とやなく食するに肉なく、夜よは辻堂の床下ゆかしたに雨露を凌しのいで、無躾ぶしつけなる土豚もぐらに驚かされ。昼は肴屋さかなやの店頭みせさきに魚骨ぎょこつを求めて、情なさけ知らぬ人の杖しもとに追立おいたてられ。或時は村童さとのこらに曳ひかれて、大路おおじに他あだし犬と争ひ、或時は撲犬師いぬころしに襲はれて、藪蔭やぶかげに危き命を拾ひらふ。さるほどに黄金丸は、主家を出でて幾日か、山に暮らし里に明かしけるに。或る日いと広やかなる原野のはらにさし掛りて、行けども行けども里へは出でず。日さへはや暮れなんとするに、宿るべき木陰だになければ、有繋さすがに心細きままに、ひたすら路を急げども。今日は朝より、一滴の水も飲まず、一塊の食も喰くらはねば、肚饑ひだるきこといはん方かたなく。苦しさに堪えかねて、暫時しばし路傍みちのべに蹲うずくまるほどに、夕風肌膚はだえを侵し、地気じき骨に徹とおりて、心地ここち死ぬべう覚えしかば。黄金丸は心細さいやまして、「われ主家を出でしより、到る処の犬と争あらそいしが、かつて屑もののかずともせざりしに。饑うえてふ敵には勝ちがたく、かくてはこの原の露と消きえて、鴉からすの餌えじきとなりなんも知られず。……里まで出づれば食物くいものもあらんに、それさへ四足疲れはてて、今は怎麼いかにともすべきやうなし。ああいひ甲斐なき事哉かな」ト、途方に打うちくれゐたる折しも。何処いずくよりか来りけん、忽たちまち一団の燐火おにび眼前めのまえに現れて、高く揚あがり低く照らし、娑々ふわふわと宙を飛び行くさま、われを招くに等しければ。黄金丸はやや暁得さとりて、「さてはわが亡親なきおやの魂魄たま、仮に此処ここに現はれて、わが危急を救ひ給ふか。阿那あな感謝かたじけなし」ト伏し拝みつつ、その燐火の行くがまにまに、路四、五町も来ると覚しき頃、忽ち鉄砲の音耳近く聞えつ、燐火は消えて見えずなりぬ。こはそも怎麼なる処ぞと、四辺あたりを見廻はせば、此処は大おおいなる寺の門前なり。訝いぶかしと思ふものから、門の中うちに入りて見れば。こは大なる古刹ふるでらにして、今は住む人もなきにや、床ゆかは落ち柱斜めに、破れたる壁は蔓蘿つたかずらに縫はれ、朽ちたる軒は蜘蛛くもの網すに張られて、物凄ものすごきまでに荒れたるが。折しも秋の末なれば、屋根に生おひたる芽生めばえの楓かえで、時を得顔えがおに色付きたる、その隙ひまより、鬼瓦おにがわらの傾きて見ゆるなんぞ、戸隠とがくし山やまの故事ふることも思はれ。尾花丈せ高たかく生茂おいしげれる中に、斜めにたてる石仏いしぼとけは、雪山せつざんに悩む釈迦仏しゃかぶつかと忍ばる。――只と見れば苔こけ蒸したる石畳の上に。一羽の雉子きぎす身体みうちに弾丸たまを受けしと覚しく、飛ぶこともならで苦くるしみをるに。こは好よき獲物よと、急ぎ走り寄よって足に押へ、已すでに喰はんとなせしほどに。忽ち後うしろに声ありて、「憎き野良犬、其処そこ動きそ」ト、大喝だいかつ一声せい吠ほえかかるに。黄金丸は打驚き、後しりえを顧ふりかえりて見れば、真白なる猟犬かりいぬの、われを噛まんと身構みがまえたるに、黄金丸も少し焦燥いらつて、「無礼なり何奴なにやつなれば、われを野良犬と詈ののしるぞ」「無礼なりとは爾なんじが事なり。わが飼主の打取りたまひし、雉子きぎすを爾盗まんとするは、言語に断えし無神狗やまいぬかな」「否いな、こはわれ此処にて拾ひしなり」「否、爾が盗みしなり。見れば頸筋に輪もあらず、爾曹ら如き奴あればこそ、撲犬師いぬころしが世に殖ふえて、わが們ともがらまで迷惑するなれ」「許しておけば無礼な雑言ぞうごん、重ねていはば手は見せまじ」「そはわれよりこそいふことなれ、爾曹如きと問答無益むやくし。怪我けがせぬ中うちにその鳥を、われに渡して疾とく逃げずや」「返す返すも舌長し、折角拾ひしこの鳥を、阿容々々おめおめ爾に得させんや」「這しゃツ面倒なりかうしてくれん」ト、飛とんでかかれば黄金丸も、稜威ものものしやと振り払はらって、また噬かみ付くを丁ちょうと蹴返けかえし、その咽喉のどぶえを噬かまんとすれば、彼方あなたも去る者身を沈めて、黄金丸の股ももを噬む。黄金丸は饑渇うえに疲れて、勇気日頃に劣れども、また尋常なみなみの犬にあらぬに、彼方かなたもなかなかこれに劣らず、互ひに挑闘いどみたたかふさま、彼の花和尚かおしょうが赤松林せきしょうりんに、九紋竜くもんりゅうと争ひけるも、かくやと思ふ斗ばかりなり。

先きのほどより、彼方かなたの木陰に身を忍ばせ、二匹の問答を聞ききゐたる、一匹の黒猫ありしが。今二匹が噬合ひはじめて、互ひに負けじと争ひたる、その間隙すきを見すまして、静かに忍び寄るよと見えしが、やにはに捨てたる雉子きぎすを咬くわへて、脱兎の如く逃げ行くを、ややありて二匹は心付き。南無三なむさんしてやられしと思ひしかども今更追ふても及びもせずと、雉子を咬へて磚𤗼ついじをば、越え行く猫の後姿、打ち見やりつつ茫然ぼうぜんと、噬み合ふ嘴くちも開あいたままなり。

第五回

鷸蚌いつぼう互ひに争ふ時は遂ついに猟師の獲えものとなる。それとこれとは異なれども、われ曹ら二匹争はずば、彼の猫如きに侮られて、阿容々々おめおめ雉子は取られまじきにト、黄金丸も彼の猟犬かりいぬも、これかれ斉ひとしく左右に分れて、ひたすら嘆息なせしかども。今更に悔いても詮せんなしト、漸ようやくに思ひ定めつ。ややありて猟犬は、黄金丸にうち向ひ、「さるにても御身おんみは、什麼そも何処いずこの犬なれば、かかる処にに漂泊さまよひ給ふぞ。最前より噬かみあひ見るに、世にも鋭き御身が牙尖きばさき、某それがし如きが及ぶ処ならず。もし彼の鳥猫に取られずして、なほも御身と争ひなば、わが身は遂に噬斃かみたおされて、雉子は御身が有ものとなりてん。……これを思へば彼の猫も、わがためには救死の恩あり。ああ、危ふかりし危ふかりし」ト、数度あまたたび嘆賞するに。黄金丸も言葉を改め、「こは過分なる賛詞ほめことかな。さいふ御身が本事てなみこそ。なかなか及およばぬ処なれト、心私ひそかに敬服せり。今は何をか裹つつむべき、某が名は黄金丸とて、以前は去る人間に事つかへて、守門の役を勤めしが、宿願ありて暇いとまを乞こひ、今かく失主狗はなれいぬとなれども、決して怪しき犬ならず。さてまた御身が尊名怎麼いかに。苦しからずば名乗り給へ」ト、いへば猟犬かりいぬは打点頭うちうなずき、「さもありなんさもこそと、某も疾とく猜すいしたり。さらば御身が言葉にまかせて、某が名も名乗るべし。見らるる如く某は、この辺あたりの猟師かりうどに事ふる、猟犬にて候が。ある時鷲わしを捉とって押へしより、名をば鷲郎わしろうと呼ばれぬ。こは鷲を捉とりし白犬しろいぬなれば、鷲白わししろといふ心なるよし。元より屑かずならぬ犬なれども、猟かりには得たる処あれば、近所の犬ども皆恐れて、某が前に尾を垂たれぬ者もなければ、天下にわれより強き犬は、多くあるまじと誇りつれど。今しも御身が本事てなみを見て、わが慢心を太いたく恥ぢたり。そはともあれ、今御身が語られし、宿願の仔細しさいは怎麼にぞや」ト、問ふに黄金丸は四辺あたりを見かへり、「さらば委敷くわしく語り侍はべらん……」とて、父が非業の死を遂げし事、わが身は牛に養はれし事、それより虎と狐を仇敵かたきとねらひ、主家しゅうかを出でて諸国を遍歴せし事など、落ちなく語り聞かすほどに。鷲郎はしばしば感嘆の声を発せしが、ややありていへるやう、「その事なれば及ばずながら、某一肢の力を添へん。われ彼の金眸きんぼうに意恨うらみはなけれど、彼奴きゃつ猛威を逞たくましうして、余の獣類けものを濫みだりに虐しいたげ。あまつさへ饑うゆる時は、市いちに走りて人間ひとを騒がすなんど、片腹痛き事のみなるに、機会おりもあらば挫とりひしがんと、常より思ひゐたりしが。名に負ふ金眸は年経し大虎、われ怎麼いかに猟かりに長たけたりとも、互角の勝負なりがたければ、虫を殺して無法なる、他かれが挙動ふるまいを見過せしが。今御身が言葉を聞けば、符わりふを合あわす互ひの胸中。これより両犬心を通じ、力を合せて彼奴きゃつを狙ねらはば、いづれの時か討たざらん」ト。いふに黄金丸も勇み立ちて、「頼もしし頼もしし、御身已すでにその意こころならば、某また何をか恐れん。これより両犬義を結び、親こそ異かわれこの後のちは、兄となり弟おとととなりて、共に力を尽すべし。某この年頃諸所を巡りて、数多あまたの犬と噬かみ合ひたれども、一匹だにわが牙に立つものなく、いと本意ほいなく思ひゐしに。今日不意ゆくりなく御身に出逢であいて、かく頼もしき伴侶ともを得ること、実まことに亡なき父の紹介ひきあわせならん。さきに路を照らせし燐火おにびも、今こそ思ひ合はしたれ」ト、独ひとり感涙にむせびしが。猟犬は霎時しばしありて、「某今御身と契ちぎりを結びて、彼の金眸を討たんとすれど、飼主ありては心に任せず。今よりわれも頸輪くびわを棄すてて、御身と共に失主狗はなれいぬとならん」ト、いふを黄金丸は押止おしとどめ、「こは漫そぞろなり鷲郎ぬし、わがために主を棄すつる、その志は感謝かたじけなけれど、これ義に似て義にあらず、かへつて不忠の犬とならん。この儀は思ひ止まり給へ」「いやとよ、その心配こころづかいは無用なり。某猟師かりうどの家に事つかへ、をさをさ猟の業わざにも長たけて、朝夕あけくれ山野を走り巡り、数多の禽獣とりけものを捕ふれども。熟つらつら思へば、これ実まことに大おおいなる不義なり。縦令たとひ主命とはいひながら、罪なき禽獣ものを徒いたずらに傷いためんは、快き事にあらず。彼の金眸に比べては、その悪五十歩百歩なり。此ここをもて某常よりこの生業なりわいを棄てんと、思ふこと切しきりなりき。今日この機会おりを得しこそ幸さちなれ、断然暇いとまを取るべし」ト。いひもあへず、頸輪を振切りて、その決心を示すにぞ。黄金丸も今は止むる術すべなく、「かく御身の心定まる上は、某また何をかいはん。幸ひなる哉かなこの寺は、荒果てて住む人なく、われ曹らがためには好よき棲居すみかなり。これより両犬此処ここに棲みてん」ト、それより連立ちて寺の中うちに踏入り、方丈と覚しき所に、畳少し朽ち残りたるを撰えらびて、其処そこをば棲居と定めける。

第六回

恁かくて黄金丸は鷲郎わしろうと義を結びて、兄弟の約をなし、この古刹ふるでらを棲居となせしが。元より養ふ人なければ、食物も思ふにまかせぬにぞ、心ならずも鷲郎は、慣なれし業わざとて野山に猟かりし、小鳥など捉とりきては、漸ようやくその日の糧かてとなし、ここに幾日を送りけり。

或日黄金丸は、用事ありて里に出でし帰途かえるさ、独り畠径はたみちを辿たどり往ゆくに、只と見れば彼方かなたの山岸の、野菊あまた咲き乱れたる下もとに、黄なる獣けもの眠ねぶりをれり。大おおきさ犬の如くなれど、何処どこやらわが同種みうちの者とも見えず。近づくままになほよく見れば、耳立ち口尖とがりて、正まさしくこれ狐なるが、その尾の尖さきの毛抜けて醜し。この時黄金丸思ふやう、「さきに文角ぶんかくぬしが物語に、聴水ちょうすいといふ狐は、かつてわが父月丸つきまるぬしのために、尾の尖咬かみ切られてなしと聞きぬ。今彼の狐を見るに、尾の尖断離ちぎれたり。恐らくは聴水ならん。阿那あな、有難や感謝かたじけなや。此処にて逢ひしは天の恵みなり。将いで一噬ひとかみに……」ト思ひしが。有繋さすが義を知る獣なれば、眠込ねごみを噬まんは快からず。かつは誤りて他の狐ならんには、無益の殺生せっしょうなりと思ひ。やや近く忍びよりて、一声高く「聴水」ト呼べば、件くだんの狐は打ち驚き、眼まなこも開かずそのままに、一間けんばかり跌踢けしとんで、慌あわただしく逃にげんとするを。逃がしはせじと黄金丸は、㗲おめき叫んで追駆おっかくるに。彼方かなたの狐も一生懸命、畠はたの作物を蹴散けちらして、里の方かたへ走りしが、只とある人家の外面そとべに、結ひ繞めぐらしたる生垣いけがきを、閃ひらりと跳おどり越え、家の中うちに逃げ入りしにぞ。続いて黄金丸も垣を越え、家の中を走り抜けんとせし時。六才むつばかりなる稚児おさなごの、余念なく遊びゐたるを、過失あやまちて蹴倒せば、忽たちまち唖わっと泣き叫ぶ。その声を聞き付つけて、稚児の親なるべし、三十ばかりなる大男、裏口より飛で入いりしが。今走り出でんとする、黄金丸を見るよりも、さては此奴こやつが噬かみしならんト、思ひ僻ひがめつ大おおいに怒いかって、あり合ふ手頃の棒おつとり、黄金丸の真向まっこうより、骨も砕けと打ちおろすに、さしもの黄金丸肩を打たれて、「呀あっ」ト一声叫びもあへず、後に撲地はたと倒るるを、なほ続けさまに打ちたたかれしが。やがて太き麻縄あさなわもて、犇々ひしひしと縛いましめられぬ。その間ひまに彼の聴水は、危き命助かりて、行衛ゆくえも知らずなりけるに。黄金丸は、無念に堪へかね、切歯はぎしりして吠ほえ立つれば。「おのれ人間ひとの子を傷きずつけながら、まだ飽きたらで猛たけり狂ふか。憎き狂犬やまいぬよ、今に目に物見せんず」ト、曳ひき立て曳立て裏手なる、槐えんじゅの幹に繋つなぎけり。

倶不戴天ぐふたいてんの親の仇あだ、たまさか見付けて討たんとせしに、その仇は取り逃がし、あまつさへその身は僅少わずかの罪に縛められて邪見の杖しもとを受うくる悲しさ。さしもに猛き黄金丸も、人間ひとに牙向はむかふこともならねば、ぢつと無念を圧おさゆれど、悔くやし涙に地は掘れて、悶踏あしずりに木も動揺ゆらぐめり。

却説かへつてとく鷲郎は、今朝けさより黄金丸が用事ありとて里へ行きしまま、日暮れても帰り来ぬに、漸く心安からず。幾度いくたびか門に出でて、彼方此方かなたこなたを眺ながむれども、それかと思ふ影だに見えねば。万一他かれが身の上に、怪我あやまちはなきやと思ふものから。「他かれ元より尋常なみなみの犬ならねば、無差むざと撲犬師いぬころしに打たれもせまじ。さるにても心元なや」ト、頻しきりに案じ煩ひつつ。虚々うかうかとおのれも里の方かたへ呻吟さまよひ出でて、或る人家の傍かたわらを過よぎりしに。ふと聞けば、垣の中うちにて怪あやしき呻うめき声す。耳傾けて立聞けば、何処どこやらん黄金丸の声音こわねに似たるに。今は少しも逡巡ためらはず。結ひ繞めぐらしたる生垣の穴より、入らんとすれば生憎あやにくに、枳殻からたちの針腹を指すを、辛かろうじてくぐりつ。声を知るべに忍びよれば。太き槐えんじゅの樹きに括くくり付けられて、蠢動うごめきゐるは正しくそれなり。鷲郎はつと走りよりて、黄金丸を抱いだき起し、耳に口あてて「喃のう、黄金丸、気を確たしかに持ちねかし。われなり、鷲郎なり」ト、呼ぶ声耳に通じけん、黄金丸は苦しげに頭こうべを擡もたげ、「こは鷲郎なりしか。嬉うれしや」ト、いふさへ息も絶々たえだえなるに、鷲郎は急ぎ縄を噬み切りて、身体みうちの痍きずを舐ねぶりつつ、「怎麼いかにや黄金丸、苦しきか。什麼そも何としてこの状態ありさまぞ」ト、かつ勦いたはりかつ尋ぬれば。黄金丸は身を震はせ、かく縛いましめられし事の由来おこりを言葉短に語り聞かせ。「とかくは此処を立ち退のかん見付けられなば命危し」ト、いふに鷲郎も心得て、深痍ふかでになやむ黄金丸をわが背に負ひつ、元入りし穴を抜け出でて、わが棲居すみかへと急ぎけり。

第七回

鷲郎に助けられて、黄金丸は漸く棲居へ帰りしかど、これより身体みうち痛みて堪えがたく。加之しかのみならず右の前足骨ほね挫くじけて、物の用にも立ち兼ぬれば、口惜くやしきこと限りなく。「われこのままに不具の犬とならば、年頃の宿願いつか叶かなへん。この宿願叶はずば、養親やしないおやなる文角ぬしに、また合すべき面おもてなし」ト、切歯はぎしりして掻口説かきくどくに、鷲郎もその心中猜すいしやりて、共に無念の涙にくれしが。「さな嘆きそ。世は七顛八起ななころびやおきといはずや。心静かに養生せば、早晩いつかは癒いえざらん。某それがし身辺かたわらにあるからは、心丈夫に持つべし」ト、あるいは詈ののしりあるいは励まし、甲斐々々しく介抱なせど、果敢々々はかばかしき験しるしも見みえぬに、ひたすら心を焦燥いらちけり。或日鷲郎は、食物を取らんために、午前ひるまえより猟かりに出で、黄金丸のみ寺に残りてありしが。折しも小春の空長閑のどけく、斜廡ひさしを洩もれてさす日影の、払々ほかほかと暖きに、黄金丸は床とこをすべり出で、椽端えんがわに端居はしいして、独り鬱陶ものおもいに打ちくれたるに。忽ち天井裏に物音して、救助たすけを呼ぶ鼠ねずみの声かしましく聞えしが。やがて黄金丸の傍かたわらに、一匹の雌め鼠走り来て、股ももの下に忍び入りつ、救助たすけを乞ふものの如し。黄金丸はいと不憫ふびんに思ひ、件くだんの雌鼠を小脇こわきに蔽かばひ、そも何者に追はれしにやと、彼方かなたを佶きっト見やれば、破やれたる板戸の陰に身を忍ばせて、此方こなたを窺うかがふ一匹の黒猫あり。只と見れば去いぬる日鷲郎と、かの雉子きぎすを争ひける時、間隙すきを狙ひて雉子をば、盗み去りし猫なりければ。黄金丸は大おおいに怒りて、一飛びに喰くってかかり、慌あわてて柱に攀昇よじのぼる黒猫の、尾を咬くわへて曳きおろし。踏躙ふみにじり噬かみ裂きて、立在たちどころに息の根止とどめぬ。

この時雌鼠は恐る恐る黄金丸の前へ這はひ寄りて、慇懃いんぎんに前足をつかへ、数度あまたたび頭こうべを垂れて、再生の恩を謝すほどに、黄金丸は莞爾にっこと打ち笑えみ、「爾なんじは何処いずこに棲すむ鼠ぞ。また彼の猫は怎麼いかなる故に、爾を傷きずつけんとはなせしぞ」ト、尋ぬれば。鼠は少しく膝ひざを進め、「さればよ殿との聞き給へ。妾わらわが名は阿駒おこまと呼びて、この天井に棲む鼠にて侍はべり。またこの猫は烏円うばたまとて、この辺あたりに棲む無頼猫どらねこなるが。兼かねてより妾に懸想けそうし、道ならぬ戯たわぶれなせど。妾は定まる雄おっとあれば、更に承引うけひく色もなく、常に強面つれなき返辞もて、かへつて他かれを窘たしなめしが。かくても思切れずやありけん、今しも妾が巣に忍び来て、無残にも妾が雄を噬みころし、妾を奪ひ去らんとするより、逃げ惑ふて遂にかく、殿の枕辺まくらべを騒がせし、無礼の罪は許したまへ」ト、涙ながらに物語れば、黄金丸も不憫の者よト、件くだんの鼠を慰めつつ、彼の烏円を尻目しりめにかけ、「さりとては憎き猫かな。這奴しゃつはいぬる日わが鳥を、盗み去りしことあれば、われまた意恨うらみなきにあらず。年頃なせし悪事の天罰、今報ひ来てかく成りしは、実まことに気味よき事なりけり」ト、いふ折から彼の鷲郎は、小鳥二、三羽嘴くちに咬くはへて、猟かりより帰り来りしが。この体態ていたらくを見て、事の由来おこりを尋ぬるに、黄金丸はありし仕末を落ちなく語れば。鷲郎もその功労てがらを称賛しつ、「かくては御身が疾病いたつきも、遠ほからずして癒ゆべし」など、いひて共に打ち興じ。やがて持ち来りし小鳥と共に、烏円が肉を裂きて、思ひのままにこれを喰くらひぬ。

さてこの時より彼の阿駒は、再生の恩に感じけん、朝夕あけくれ黄金丸が傍に傅かしずきて、何くれとなく忠実まめやかに働くにぞ、黄金丸もその厚意こころを嘉よみし、情なさけを掛かけて使ひけるが、もとこの阿駒といふ鼠は、去る香具師こうぐしに飼はれて、種々さまざまの芸を仕込まれ、縁日の見世物みせものに出いでし身なりしを、故ゆえありて小屋を忍出で、今この古刹ふるでらに住むものなれば。折々は黄金丸が枕辺にて、有漏覚うろおぼえの舞の手振てぶり、または綱渡り籠抜かごぬけなんど。古むかし取とったる杵柄きねづかの、覚束おぼつかなくも奏かなでけるに、黄金丸も興に入りて、病苦もために忘れけり。

第八回

黄金丸が病に伏してより、やや一月にも余りしほどに、身体みうちの痛みも失うせしかど、前足いまだ癒いえずして、歩行もいと苦しければ、心頻しきりに焦燥いらちつつ、「このままに打ち過ぎんには、遂に生れもつかぬ跛犬となりて、親の仇あださへ討ちがたけん。今の間あいだによき薬を得て、足を癒いやさでは叶かなふまじ」ト、その薬を索たずねるほどに。或日鷲郎は慌あわただしく他より帰りて、黄金丸にいへるやう、「やよ黄金丸喜びね。某それがし今日好よき医師くすしを聞得たり」トいふに。黄金丸は膝ひざを進め、「こは耳寄りなることかな、その医師とは何処いずこの誰たれぞ」ト、連忙いそがはしく問へば、鷲郎は荅こたへて、「さればよ。某今日里に遊びて、古き友達に邂逅めぐりあひけるが。その犬語るやう、此処を去ること南の方一里ばかりに、木賊とくさが原といふ処ありて、其処に朱目あかめの翁おきなとて、貴とうとき兎住めり。この翁若き時は、彼の柴刈しばかりの爺じじがために、仇敵かたき狸たぬきを海に沈めしことありしが。その功によりて月宮殿げっきゅうでんより、霊杵れいきょと霊臼れいきゅうとを賜はり、そをもて万よろずの薬を搗つきて、今は豊ゆたかに世を送れるが。この翁が許もとにゆかば、大概おおかたの獣類けものの疾病やまいは、癒えずといふことなしとかや。その犬も去いぬる日村童さとのこに石を打たれて、左の後足あとあしを破られしが、件くだんの翁が薬を得て、その痍きずとみに癒しとぞ。さればわれ直ちに往きて、薬を得て来んとは思ひしかど。御身自ら彼が許にゆきて、親しくその痍を見せなば、なほ便宜たよりよからんと思ひて、われは行かでやみぬ。御身少しは苦しくとも、全く歩行出来ぬにはあらじ、明日あすにも心地よくば、試みに往きて見よ」ト、いふに黄金丸は打喜び、「そは実まことに嬉しき事かな。さばれかく貴き医師くすしのあることを、今日まで知らざりし鈍おぞましさよ。とかくは明日往きて薬を求めん」ト、海月くらげの骨を得し心地して、その翌日あけのひ朝未明あさまだきより立ち出で、教へられし路を辿たどりて、木賊とくさが原に来て見るに。櫨はじ楓かえでなんどの色々に染めなしたる木立こだちの中うちに、柴垣結ひめぐらしたる草庵いおりあり。丸木の柱に木賊もて檐のきとなし。竹椽ちくえん清らかに、筧かけひの水も音澄みて、いかさま由緒よしある獣の棲居すみかと覚し。黄金丸は柴門しばのとに立寄りて、丁々ほとほとと訪おとなへば。中より「誰たぞ」ト声して、朱目あかめ自ら立出づるに。見れば耳長く毛は真白ましろに、眼まなこ紅くれないに光ありて、一目みるから尋常よのつねの兎とも覚えぬに。黄金丸はまづ恭うやうやしく礼を施し、さて病の由を申聞もうしきこえて、薬を賜はらんといふに、彼の翁心得て、まづその痍きずを打見やり、霎時しばし舐ねぶりて後、何やらん薬をすりつけて。さていへるやう、「わがこの薬は、畏かしこくも月宮殿げっきゅうでんの嫦娥じょうが、親みずから伝授したまひし霊法なれば、縦令たとい怎麼いかなる難症なりとも、とみに癒いゆること神しんの如し。今御身が痍を見るに、時期とき後おくれたればやや重けれど、今宵こよいの中うちには癒やして進ずべし。ともかくも明日あす再び来たまへ、聊いささか御身に尋ねたき事もあれば……」ト、いふに黄金丸打よろこび、やがて別を告げて立帰りしが。途みちすがら只とある森の木陰を過よぎりしに、忽ち生茂おいしげりたる木立の中うちより、兵ひょうト音して飛び来る矢あり。心得たりと黄金丸は、身を捻ひねりてその矢をば、発止はっしト牙に噬かみとめつ、矢の来し方かたを佶きっト見れば。二抱ふたかかへもある赤松の、幹両股ふたまたになりたる処に、一匹の黒猿昇りゐて、左手ゆんでに黒木の弓を持ち、右手めてに青竹の矢を採りて、なほ二の矢を注つがへんとせしが。黄金丸が睨ねめ付つけし、眼まなこの光に恐れけん、その矢も得え放はなたで、慌あわただしく枝に走り昇り、梢こずえ伝ひに木隠こがくれて、忽ち姿は見えずなりぬ。かくて次の日になりけるに、不思議なるかな萎なえたる足、朱目が言葉に露たがはず、全く癒えて常に異ならねば。黄金丸は雀躍こおどりして喜び。急ぎ礼にゆかんとて、些ちとばかりの豆滓きらずを携へ、朱目が許もとに行きて、全快の由申聞もうしきこえ、言葉を尽して喜悦よろこびを陳のべつ。「失主狗はなれいぬにて思ふに任せねど、心ばかりの薬礼なり。願ねがわくは納め給へ」ト、彼の豆滓を差し出いだせば。朱目も喜びてこれを納め。ややありていへるやう、「昨日きのう御身に聞きたきことありといひしが、余の事ならず」ト、いひさして容かたちをあらため、「某それがし幾歳いくとせの劫量こうろうを歴へて、やや神通を得てしかば、自おのずから獣の相を見ることを覚えて、十とおに一ひとつも誤あやまりなし。今御身が相を見るに、世にも稀まれなる名犬にして、しかも力量ちから万獣ばんじゅうに秀ひいでたるが、遠からずして、抜群の功名あらん。某この年月としつき数多あまたの獣に逢ひたれども、御身が如きはかつて知らず。思ふに必ず由緒よしある身ならん、その素性聞かまほし」トありしかば。黄金丸少しもつつまず、おのが素性来歴を語れば。朱目は聞いて膝を打ち。「それにてわれも会得えとくしたり。総じて獣類けものは胎生なれど、多くは雌雄数匹すひきを孕はらみて、一親一子はいと稀なり。さるに御身はただ一匹にて生まれしかば、その力五、六匹を兼ねたり。加之しかのみならず牛に養はれて、牛の乳に育はぐくまれしかば、また牛の力量をも受得うけえて、けだし尋常よのつねの犬の猛きにあらず。さるに怎麼いかなればかく、鈍おぞくも足を傷やぶられ給ひし」ト、訝いぶかり問へば黄金丸は、「これには深き仔細しさいあり。原来某は、彼の金眸と聴水を、倶不戴天ぐふたいてんの仇あだと狙ねらふて、常に油断ゆだんなかりしが。去いぬる日件くだんの聴水を、途中にて見付しかば、名乗りかけて討たんとせしに、かへつて他かれに方便たばかられて、遂にかかる不覚を取りぬ」ト、彼のときの事具つぶさに語りつつ、「思へば憎き彼の聴水、重ねて見当らばただ一噬みと、朝夕あけくれ心を配くばれども、彼も用心して更に里方へ出でざれば、意恨うらみを返す手掛りなく、無念に得堪えず候」ト、いひ畢おわりて切歯はがみをすれば、朱目も点頭うなずきて、「御身が心はわれとく猜すいしぬ、さこそ無念におはすらめ。さりながら黄金ぬし。御身実まことに他かれを討たんとならば。われに好よき計略はかりごとあり、及ばぬまでも試み給はずや、凡およそ狐きつね狸たぬきの類たぐいは、その性質さが至いたって狡猾わるがしこく、猜疑うたがい深き獣なれば、憖なまじいに企たくみたりとも、容易たやすく捕へ得つべうもあらねど。その好む処には、君子も迷ふものと聞く、他かれが好むものをもて、釣り出いだして罠わなに落さんには、さのみ難きことにあらず」トいふに。黄金丸は打喜び、「その釣り落す罠とやらんは、兼かねてより聞きつれど、某いまだ見し事なし。怎麼いかにして作り候や」「そは斯様々々かようかようにして拵こしらへ、それに餌えばをかけ置くなり」「して他かれが好む物とは」「そは鼠の天麩羅てんぷらとて、肥こえ太りたる雌鼠を、油に揚げて掛けおくなり。さすればその香気他かれが鼻を穿うがちて、心魂忽ち空になり、われを忘れて大概おおかたは、その罠に落つるものなり。これよく猟師かりうどのなす処にして、かの狂言にもあるにあらずや。御身これより帰りたまはば、まづその如く罠を仕掛て、他が来きたるを待ち給へ。今宵あたりは彼の狐の、その香気に浮かれ出でて、御身が罠に落ちんも知れず」ト、懇切ねんごろに教へしかば。「こは好よきことを聞き得たり」ト、数度あまたたび喜び聞え、なほ四方山よもやまの物語に、時刻を移しけるほどに、日も山端やまのはに傾かたぶきて、塒ねぐらに騒ぐ群烏むらがらすの、声かしましく聞えしかば。「こは意外長坐しぬ、宥ゆるしたまへ」ト会釈しつつ、わが棲居すみかをさして帰り行く、途すがら例の森陰まで来たりしに、昨日の如く木の上より、矢を射かくるものありしが。此度こたびは黄金丸肩をかすらして、思はず身をも沈めつ、大声あげて「おのれ今日も狼藉ろうぜきなすや、引捕ひっとらへてくれんず」ト、走り寄よって木の上を見れば、果して昨日の猿にて、黄金丸の姿を見るより、またも木葉このはの中うちに隠れしが、われに木伝こづたふ術あらねば、追駆おっかけて捕ふることもならず。憎き猿めと思ふのみ、そのままにして打棄てたれど。「さるにても何故なにゆえに彼の猿は、一度ならず二度までも、われを射んとはしたりけん。われら猿とは古代いにしえより、仲悪あしきものの譬たとえに呼ばれて、互ひに牙きばを鳴らし合ふ身なれど、かくわれのみが彼の猿に、執念しゅうねく狙はるる覚えはなし。明日にもあれ再び出でなば、引捕ひっとらへて糺たださんものを」ト、その日は怒りを忍びて帰りぬ。――畢竟ひっきょうこの猿は何者ぞ。また狐罠の落着なりゆき怎麼いかん。そは次の巻まきを読みて知れかし。

上巻終

下巻

第九回

かくて黄金丸は、ひたすら帰途かえりを急ぎしが、路程みちのほども近くはあらず、かつは途中にて狼藉せし、猿を追駆おいかけなどせしほどに。意外おもいのほかに暇どりて、日も全く西に沈み、夕月田面たのもに映る頃ころ、漸ようやくにして帰り着けば。鷲郎わしろうははや門に馮よりて、黄金丸が帰着かえりを待ちわびけん。他かれが姿を見るよりも、連忙いそがわしく走り迎へつ、「喲やよ、黄金丸、今日はなにとてかくは遅おそかりし。待たるる身より待つわが身の、気遣きづかはしさを猜すいしてよ。去いぬる日の事など思ひ出でて、安き心はなきものを」ト、喞言かことがましく聞ゆれば、黄金丸は呵々かやかやと打ち笑ひて、「さな恨みそ。今日は朱目あかめぬしに引止められて、思はず会話はなしに時を移し、かくは帰着かえりの後おくれしなり。構へて待たせし心ならねば……」ト、詫わぶるに鷲郎も深くは咎とがめず、やがて笑ひにまぎらしつつ、そのまま中うちに引入れて、共に夕餉ゆうげも喰くらひ果てぬ。

暫しばらくして黄金丸は、鷲郎に打向ひて、今日朱目が許もとにて聞きし事ども委敷くわしく語り、「かかる良計ある上は、速すみやかに彼の聴水を、誑おびき出いだして捕とらえんず」ト、いへば鷲郎もうち点頭うなずき、「狐を釣るに鼠ねずみの天麩羅てんぷらを用ふる由は、われ猟師かりうどに事つかへし故、疾とくよりその法は知りて、罠わなの掛け方も心得つれど、さてその餌えばに供すべき、鼠のあらぬに逡巡ためらひぬ」ト、いひつつ天井を打眺うちながめ、少しく声を低めて、「御身がかつて救たすけたる、彼の阿駒おこまこそ屈竟くっきょうなれど。他かれ頃日このごろはわれ曹らに狎なずみて、いと忠実まめやかに傅かしずけば、そを無残に殺さんこと、情も知らぬ無神狗やまいぬなら知らず、苟かりにも義を知るわが們ともがらの、作なすに忍びぬ処ならずや」「実まことに御身がいふ如く、われも途みちすがら考ふるに、まづ彼あの阿駒に気は付きたれど。われその必死を救ひながら、今また他かれが命を取らば、怎麼いかにも恩を被きするに似て、わが身も快くは思はず。とてもかくてもこの外に、鼠を探さがし捕とらんに如しかじ」ト、言葉いまだ畢おわらざるに、忽たちまち「呀あっ」と叫ぶ声して、鴨居かもいより撲地はたト顛落まろびおつるものあり。二匹は思はず左右に分れ、落ちたるものを佶きっと見れば、今しも二匹が噂うわさしたる、かの阿駒なりけるが。なにとかしたりけん、口より血夥おびただしく流れ出いずるに。鷲郎は急ぎ抱いだき起しつ、「こや阿駒、怎麼にせしぞ」「見れば面おもても血に塗まみれたるに、……また猫にや追はれけん」「鼬いたちにや襲はれたる」「疾とくいへ仇敵かたきは討ちてやらんに」ト、これかれ斉ひとしく勦いたはり問へば。阿駒は苦しき息の下より、「いやとよ。猫にも追はれず、鼬にも襲はれず、妾わらわ自らかく成り侍はべり」「さは何故の生害しょうがいぞ」「仔細ぞあらん聞かまほし」ト、また連忙いそがわしく問といかくれば。阿駒は潸然はらはらと涙を落し、「さても情深き殿たち哉かな。かかる殿のためにぞならば、捨すつる命も惜おしくはあらず。――妾が自害は黄金ぬしが、御用に立たん願ねがいに侍り」「さては今の物語を」「爾なんじは残らず……」「鴨居の上にて聞いて侍り。――妾去いぬる日烏円うばたまめに、無態の恋慕しかけられて、已すでに他かれが爪つめに掛り、絶えなんとせし玉の緒を、黄金ぬしの御情おんなさけにて、不思議に繋つなぎ候ひしが。彼かの時わが雄おっとは烏円うばたまのために、非業の死をば遂げ給ひ。残るは妾ただ一匹、年頃契り深からず、石見銀山いわみぎんざん桝落ますおとし、地獄落しも何のその。縦令たとひ石油の火の中も、盥たらいの水の底までも、死なば共にと盟ちこふたる、恋し雄に先立たれ、何がこの世の快楽たのしみぞ。生きて甲斐なきわが身をば、かく存命ながらへて今日までも、君に傅かしずきまゐらせしは、妾がために雄の仇なる、かの烏円をその場を去らせず、討ちて給ひし黄金ぬしが、御情に羈ほだされて、早晩いつかは君の御為おんために、この命を進まいらせんと、思ふ心のあればのみ。かくて今宵図らずも、殿たち二匹の物語を、鴨居の上にて洩もれ聞きつ。さても嬉しや今宵こそ、御恩に報ゆる時来れと、心私ひそかに喜ぶものから。今殿たちが言葉にては、とても妾を牙きばにかけて、殺しては給はらじと、思ひ定めつさてはかく、われから咽喉のどを噛かみはべり。恩のために捨る命の。露ばかりも惜しくは侍らず。まいてや雄は妾より、先立ち登る死出の山、峰に生おひたる若草の、根を齧かじりてやわれを待つらん。追駆け行くこそなかなかに、心楽しく侍るかし。願ふはわが身をこのままに、天麩羅とやらんにしたまひて、彼の聴水を打つて給たべ。日頃大黒天だいこくてんに願ひたる、その甲斐ありて今ぞかく、わが身は恩ある黄金ぬしの、御用に立たん嬉れしさよ。……ああ苦しや申すもこれまで、おさらばさらば」ト夕告ゆうつげの、とり乱したる前掻かき合せ。西に向ふて双掌もろてを組み、眼まなこを閉ぢてそのままに、息絶えけるぞ殊勝なる。

二匹の犬は初はじめより耳側そばたてて、阿駒おこまが語る由を聞きしが。黄金丸はまづ嗟嘆さたんして、「さても珍しき鼠かな。国には盗人ぬすびと家に鼠と、人間ひとに憎まれ卑いやしめらるる、鼠なれどもかくまでに、恩には感じ義には勇いさめり。これを彼の猫の三年飼こうても、三日にして主を忘るてふ、烏円如きに比べては、雪と炭との差別けじめあり。むかし唐土もろこしの蔡嘉夫さいかふといふ人間ひと、水を避けて南壟なんろうに住す。或夜大おおいなる鼠浮び来て、嘉夫が床とこの辺ほとりに伏しけるを、奴ど憐あわれみて飯を与へしが。かくて水退きて後、件くだんの鼠青絹玉顆せいけんぎょくかを捧ささげて、奴に恩を謝せしとかや。今この阿駒もその類か。復讐ふくしゅうの報恩むくいに復讐の、用に立ちしも不思議の約束、思へば免のがれぬ因果なりけん。さばれ生いきとし生ける者、何かは命を惜まざる。朝あしたに生れ夕ゆうべに死すてふ、蜉蝣ふゆといふ虫だにも、追へば逃のがれんとするにあらずや。ましてこの鼠の、恩のためとはいひながら、自ら死して天麩羅てんぷらの、辛き思ひをなさんとは、実まことに得がたき阿駒が忠節、賞ほむるになほ言葉なし。……とまれ他かれが願望のぞみに任せ、無残なれども油に揚げ。彼の聴水ちょうすいを釣つりよせて、首尾よく彼奴きゃつを討取らば、聊いささか菩提ぼだいの種たねともなりなん、善は急げ」ト勇み立ちて、黄金丸まづ阿駒の死骸なきがらを調理すれば、鷲郎はまた庭に下おり立ち、青竹を拾ひ来りて、罠の用意にぞ掛りける。

第十回

不題ここにまた彼の聴水は、去いぬる日途中にて黄金丸に出逢ひ、已すでに命も取らるべき処を、辛かろうじて身一ツを助かりしが。その時よりして畏気おじけ附き、白昼ひるは更なり、夜よも里方へはいで来らず、をさをさ油断ゆだんなかりしが。その後のち他の獣們らの風聞うわさを聞けば、彼の黄金丸はその夕ゆうべ、太いたく人間ひとに打擲ちょうちゃくされて、そがために前足痿なえしといふに。少しく安堵あんどの思ひをなし、忍び忍びに里方へ出でて、それとなく様子をさぐれば、その痍きず意外おもいのほか重くして、日を経ふれども愈いえず。さるによつて明日あすよりは、木賊とくさヶ原はらの朱目あかめが許もとに行きて、療治を乞こはんといふことまで、怎麼いかにしけんさぐり知しりつ、「こは棄すておけぬ事どもかな、他かれもし朱目が薬によりて、その痍全く愈えたらんには、再び怎麼なる憂苦うきめをや見ん。とかく彼奴きゃつを亡きものにせでは、枕まくらを高く眠ねぶられじ」ト、とさまかうさま思ひめぐらせしが。忽ち小膝こひざを礑はたと撲うち、「爰ここによき計はかりごとこそあれ、頃日このころ金眸きんぼう大王が御内みうちに事つかへて、新参なれども忠まめだちて働けば、大王の寵愛おおぼえ浅からぬ、彼の黒衣こくえこそよかんめれ。彼の猿弓を引く業わざに長たけて、先つ年他かれが叔父沢蟹さわがにと合戦せし時も、軍功少からざりしと聞く。その後のち叔父は臼うすに撲うたれ、他かれは木から落猿おちざるとなつて、この山に漂泊さまよひ来つ、金眸大王に事へしなれど、むかし取とったる杵柄きねづかとやら、一束ひとつかの矢一張ひとはりの弓だに持たさば、彼の黄金丸如きは、事もなく射殺いころしてん。まづ他かれが許もとに往ゆきて、事の由来おこりを白地あからさまに語り、この件ことを頼むに如しかじ」ト思ふにぞ、直ちに黒衣が許へ走り往きつ、ひたすらに頼みければ。元より彼の黒衣も、心姦佞ねじけし悪猿なれば、異議なく承引うけあひ、「われも久しく試ためさねば、少しは腕も鈍りたらんが。多寡たかの知れたる犬一匹、われ一矢にて射て取らんに、何の難き事かあらん。さらば先づ弓矢を作りて、明日他かれの朱目が許より、帰る処を待ち伏せて、見事仕止めてくれんず」ト、いと頼もしげに見えければ。聴水は打ち喜び、「万よろづは和主おぬしに委まかすべければ、よきに計ひ給ひてよ。謝礼は和主が望むにまかせん」ト。それより共に手伝ひつつ、櫨はじの弓に鬼蔦おにづたの弦つるをかけ、生竹なまだけを鋭とく削りて矢となし、用意やがて備ととのひける。

さて次日つぎのひの夕暮、聴水は件くだんの黒衣が許に往きて、首尾怎麼いかにと尋ぬるに。黒衣まづ誇貌ほこりがおに冷笑あざわらひて「さればよ聴水ぬし聞き給へ。われ今日かの木賊とくさヶ原はらに行き、路傍みちのほとりなる松の幹の、よき処に坐をしめて、黄金丸が帰来かえりを待ちけるが。われいまだ他かれを見しことなければ、もし過失あやまちて他たの犬を傷きずつけ、後の禍わざわいをまねかんも本意ほいなしと、案じわづらひてゐけるほどに。暫時しばらくして彼方かなたより、茶色毛の犬の、しかも一足そく痿なえたるが、覚束おぼつかなくも歩み来ぬ。兼かねて和主が物語に、他かれはその毛茶色にて、右の前足痿えしと聞ききしかば。必定ひつじょうこれなんめりと思ひ。矢比やごろを測つて兵ひょうと放てば。竄点ねらい誤たず、他かれが右の眼まなこに篦深のぶかくも突立つったちしかば、さしもに猛たけき黄金丸も、何かは以もってたまるべき、忽たちまち撲地はたと倒れしが四足を悶掻もがいて死しんでけり。仕済ましたりと思ひつつ、松より寸留々々するすると走り下りて、他かれが躯むくろを取らんとせしに、何処いずくより来りけん一人の大男、思ふに撲犬師いぬころしなるべし、手に太やかなる棒持ちたるが、歩み寄よってわれを遮さえぎり、なほ争はば彼の棒もて、われを打たんず勢いきおいに。われも他かれさへ亡きものにせば、躯はさのみ要なければ、わが功名てがらを横奪よこどりされて、残念なれども争ふて、傷きずつけられんも無益むやくしと思ひ、そのまま棄てて帰り来ぬ。されども聴水ぬし、他かれは確たしかに仕止めたれば、証拠の躯はよし見ずとも、心強く思はれよ。ああ彼の黄金丸も今頃は、革屋かわやが軒に鉤下つりさげられてん。思へばわれに意恨うらみもなきに、無残なことをしてけり」ト、事実まことしやかに物語れば、聴水喜ぶこと斜ななめならず、「こは有難し、われもこれより気強くならん。原来彼の黄金丸は、われのみならず畏かしこくも、大王までを仇敵かたきと狙ねらふて、他かれが足痍あしのきず愈いえなば、この山に討入うちいりて、大王を噬かみ斃たおさんと計る由。……怎麼いかに他かれ獅子しし(畑時能が飼ひし犬の名)の智勇ありとも、わが大王に牙向はむかはんこと蜀犬しょっけんの日を吠ほゆる、愚を極めし業わざなれども。大王これを聞きこし召して、聊いささか心に恐れ給へば、佻々かるがるしくは他出そとでもしたまはず。さるを今いま和主が、一箭ぜんの下もとに射殺いころしたれば、わがために憂うれいを去りしのみか、取不直とりもなおさず大王が、眼上めのうえの瘤こぶを払ひしに等し。今より後は大王も、枕を高く休みたまはん、これ偏ひとへに和主が働き、その功実に抜群なりかし。われはこれより大王に見まみえ、和主が働きを申上げて、重き恩賞得さすべし。」とて、いと嬉しげに立去りけり。

第十一回

かくて聴水は、黒衣こくえが棲居すみかを立出でしが、他かれが言葉を虚誕いつわりなりとは、月に粲きらめく路傍みちのべの、露ほども暁得さとらねば、ただ嬉しさに堪えがたく、「明日よりは天下晴れて、里へも野へも出らるるぞ。喃のう、嬉れしやよろこばしや」ト。永ながく牢ひとやに繋つながれし人間ひとの、急に社会このよへ出でし心地して、足も空に金眸きんぼうが洞ほらに来きたれば。金眸は折しも最愛の、照射ともしといへる侍妾そばめの鹿を、辺ほとり近くまねき寄よせて、酒宴に余念なかりけるが。聴水はかくと見るより、まづ慇懃いんぎんに安否を尋ね。さて今日斯様かようのことありしとて、黒衣が黄金丸を射殺せし由を、白地ありのままに物語れば。金眸も斜ななめならず喜びて、「そは大おおいなる功名てがらなりし。さばれ爾なんじ何とて他かれを伴はざる、他に褒美ほうびを取らせんものを」ト、いへば聴水は、「僕やつがれも然しか思ひしかども、今ははや夜も更ふけたれば、今宵は思ひ止とどまり給ふて、明日の夜更に他をまねき、酒宴を張らせ給へかし。さすれば僕明日里へ行きて、下物さかな数多あまた索もとめて参らん」ト、いふに金眸も点頭うなずきて、「とかくは爾よきに計らへ」「お命おせ畏かしこまり候」とて。聴水は一礼なし、己おのが棲居すみかへ帰りける。

さてその翌朝あけのあさ、聴水は身支度みじたくなし、里の方かたへ出で来つ。此処ここの畠彼処かしこの廚くりやと、日暮るるまで求食あさりしかど、はかばかしき獲物もなければ、尋ねあぐみて只とある藪陰やぶかげに憩いこひけるに。忽ち車の軋きしる音して、一匹の大牛おおうし大おおいなる荷車を挽ひき、これに一人の牛飼つきて、罵立ののしりたてつつ此方こなたをさして来れり。聴水は身を潜めて件くだんの車の上を見れば。何処いずくの津より運び来にけん、俵にしたる米の他ほかに、塩鮭しおざけ干鰯ほしかなんど数多あまた積めるに。こは好よき物を見付けつと、なほ隠れて車を遣やり過し、閃ひらりとその上に飛び乗りて、積みたる肴さかなをば音せぬやうに、少しづつ路上みちのべに投落なげおとすを、牛飼は少しも心付かず。ただ彼かの牛のみ、車の次第に軽くなるに、訝いぶかしとや思ひけん、折々立止まりて見返るを。牛飼はまだ暁得さとらねば、かへつて牛の怠るなりと思ひて、ひたすら罵り打ち立てて行きぬ。とかくして一町ばかり来るほどに、肴大方取下してければ、はや用なしと車を飛び下り。投げたる肴を一ツに拾ひ集め、これを山へ運ばんとするに。層かさ意外おもいのほかに高くなりて、一匹にては持ても往かれず。さりとて残し置かんも口惜し、こは怎麼いかにせんと案じ煩ひて、霎時しばし彳たたずみける処に。彼方あなたの森の陰より、驀地まっしぐらに此方こなたをさして走はせ来る獣あり。何者ならんと打見やれば。こは彼の黒衣にて。小脇に弓矢をかかへしまま、側目わきめもふらず走り過ぎんとするに。聴水は連忙いそがわしく呼び止めて、「喃々のうのう、黒衣ぬし待ちたまへ」と、声を掛かくれば。漸くに心付きし乎か、黒衣は立止まり、聴水の方かたを見返りしが。ただ眼を見張りたるのみにて、いまだ一言も発し得ぬに。聴水は可笑おかしさを堪こらえて、「慌あわただし何事ぞや。面おもての色も常ならぬに……物にや追はれ給ひたる」ト、問といかくれば。黒衣は初めて太息といき吻つき、「さても恐しや。今かの森の中にて、黄金こがね……黄金色なる鳥を見しかば。一矢に射止めんとしたりしに、豈あに計らんや他かれは大おおいなる鷲わしにて、われを見るより一攫ひとつかみに、攫みかからんと走り来ぬ。ああ 恐しや恐しや」ト、胸を撫なでつつ物語れば。聴水は打ち笑ひ、「そは実まことに危急あやうかりし。さりながら黒衣ぬし、今日は和主は客品かくぼんにて、居ながら佳肴かこうを喰くらひ得んに、なにを苦しんでか自ら猟かりに出で、かへつてかかる危急き目に逢ふぞ。毛を吹いて痍きずを求むる、酔狂ものずきもよきほどにしたまへ。そはともあれわれ今日は大王の御命おおせを受け、和主を今宵招かんため、今朝けさより里へ求食あさり来つ、かくまで下物さかなは獲たれども、余りに層かさ多ければ、独りにては運び得ず、思量しあんにくれし処なり。今和主の来りしこそ幸さちなれ、大王もさこそ待ち侘びて在おわさんに、和主も共に手伝ひて、この下物さかなを運びてたべ。情なさけは他あだしためならず、皆これ和主に進まいらせんためなり」ト、いふに黒衣も打ち笑わらいて、「そはいと易やすき事なり。幸ひこれに弓あれば、これにて共に扛かき往かん。まづ待ち給へせん用あり」ト。やがて大おおいなる古菰ふるごもを拾ひきつ、これに肴を包みて上より縄なわをかけ。件くだんの弓をさし入れて、人間ひとの駕籠かごなど扛くやうに、二匹前後まえうしろにこれを担になひ、金眸が洞へと急ぎけり。

第十二回

聴水黒衣の二匹の獣は、彼の塩鮭しおざけ干鰯ほしかなんどを、総すべて一包みにして、金眸が洞へ扛きもて往き。やがてこれを調理して、数多あまたの獣類けものを呼び集つどひ、酒宴を初めけるほどに。皆々黒衣が昨日の働きを聞て、口を極めて称賛ほめそやすに、黒衣はいと得意顔に、鼻蠢うごめかしてゐたりける。金眸も常に念頭こころに懸かけゐて、後日の憂ひを気遣ひし、彼の黄金丸を失ひし事なれば、その喜悦よろこびに心弛ゆるみて、常よりは酒を過ごし、いと興づきて見えけるに。聴水も黒衣も、茲ここを先途せんどと機嫌きげんを取り。聴水が唄うたへば黒衣が舞ひ、彼が篠田しのだの森を躍おどれば、これはあり合ふ藤蔓ふじづるを張りて、綱渡りの芸などするに、金眸ますます興に入りて、頻しきりに笑ひ動揺どよめきしが。やがて酔えいも十二分にまはりけん、照射ともしが膝を枕にして、前後も知らず高鼾たかいびき、霎時しばしは谺こだまに響きけり。かくて時刻も移りしかば、はや退まからんと聴水は、他の獣們らに別わかれを告げ、金眸が洞を立出でて、倰僜よろめく足を踏〆ふみしめ踏〆め、わが棲居すみかへと辿たどりゆくに。この時とき空は雲晴れて、十日ばかりの月の影、隈くまなく冴さえて清らかなれば、野も林も一面ひとつらに、白昼まひるの如く見え渡りて、得も言はれざる眺望ながめなるに。聴水は虚々うかうかと、わが棲すへ帰ることも忘れて、次第に麓ふもとの方かたへ来りつ、只とある切株に腰うちかけて、霎時しばし月を眺めしが。「ああ、心地好よや今日の月は、殊更ことさら冴え渡りて見えたるぞ。これも日頃気疎けぶたしと思ふ、黄金奴めを亡き者にしたれば、胸にこだはる雲霧の、一時に晴れし故なるべし。……さても照りたる月哉かな、われもし狸ならんには、腹鼓も打たんに」ト、彼の黒衣が虚誕いつわりを、それとも知らで聴水が、佻々かるがるしくも信ぜしこそ、年頃なせし悪業の、天罰ここに報い来て、今てる空の月影は、即ちその身の運のつき、とは暁得さとらずしてひたすらに、興じゐるこそ愚なれ。

折しも微吹そよふく風のまにまに、何処いずくより来るとも知らず、いとも妙たえなる香かおりあり。怪しと思ひなほ嗅かぎ見れば、正にこれおのが好物、鼠の天麩羅てんぷらの香なるに。聴水忽ち眼まなこを細くし、「さても甘うまくさや、うま臭くさや。何処いずくの誰がわがために、かかる馳走ちそうを拵こしらへたる。将いで往ゆきて管待もてなしうけん」ト、径みちなき叢くさむらを踏み分けつつ、香を知辺しるべに辿たどり往くに、いよいよその物近く覚えて、香頻しきりに鼻を撲うつにぞ。心魂こころも今は空になり、其処そこか此処ここかと求食あさるほどに、小笹おざさ一叢ひとむら茂れる中に、漸ようやく見当る鼠の天麩羅てんぷら。得たりと飛び付き咬くはんとすれば、忽ち発止ぱっしと物音して、その身の頸くびは物に縛しめられぬ。「南無三なむさん、罠わなにてありけるか。鈍おぞくも釣つられし口惜くちおしさよ。さばれ人間ひとの来らぬ間に、逃のがるるまでは逃れて見ん」ト。力の限り悶掻もがけども、更にその詮せんなきのみか咽喉のどは次第に縊しばり行きて、苦しきこといはん方かたなし。

恁かかる処へ、左右の小笹哦嗟々々がさがさと音して、立出たちいずるものありけり。「さてはいよいよ猟師かりうどよ」ト、見やればこれ人間ひとならず、いと逞たくましき二匹の犬なり。この時右手めてなる犬は進みよりて、「やをれ聴水われを見識みしれりや」ト、いふに聴水覚束おぼつかなくも、彼の犬を見やれば、こは怎麼いかに、昨日黒衣に射らせたる黄金丸なるに。再び太いたく驚きて、物いはんとするに声は出でず、眼まなこを見はりて悶もだゆるのみ。犬はなほ語を続つぎて、「怎麼に苦しきか、さもありなん。されど耳あらばよく聞けかし。爾なんじよくこそわが父を誑たぶらかして、金眸には咬くはしたれ。われもまた爾がためには、罪もなきに人間ひとに打たれて、太いたく足を傷きずつけられたれば、重なる意恨うらみいと深かり。然るに爾その後のちは、われを恐れて里方へは、少しも姿を出いださざる故、意恨をはらす事ならで、いとも本意ほいなく思ふ折から。朱目あかめぬしが教へに従ひ、今宵此処に罠を掛かけて、私ひそかに爾が来きたるを待ちしに。さきにわがため命を棄すてし、阿駒おこまが赤心まごころ通じけん、鈍おぞくも爾釣り寄せられて、罠に落ちしも免のがれぬ天命。今こそ爾を思ひのままに、肉を破り骨を砕き、寸断々々ずたずたに噛みさきて、わが意恨うらみを晴らすべきぞ。思知つたか聴水」ト、いひもあへず左右より、掴つかみかかつて噛まんとするに。思ひも懸けず後より、「喲やよ黄金丸暫しばらく待ちね。某それがし聊いささか思ふ由あり。這奴しゃつが命は今霎時しばし、助け得させよ」ト、声かけつつ、徐々しずしずと立出たちいずるものあり。二匹は驚き何者ぞと、月光つきあかりに透すかし見れば。何時いつのほどにか来りけん、これなん黄金丸が養親やしないおや、牡牛おうし文角ぶんかくなりけるにぞ。「これはこれは」トばかりにて、二匹は再び魂きもを消しぬ。

第十三回

恁かかる処へ文角の来らんとは、思ひ設けぬ事なれば、黄金丸驚くこと大方ならず。「珍らしや文角ぬし。什麼そも何として此処には来きたりたまひたる。そはとまれかくもあれ、その後のちは御健勝にて喜ばし」ト、一礼すれば文角は点頭うなずき、「その驚きは理ことわりなれど、これには些ちとの仔細あり。さて其処にゐる犬殿は」ト、鷲郎わしろうを指ゆびさし問へば。黄金丸も見返りて、「こは鷲郎ぬしとて、去いぬる日斯様々々かようかようの事より、図らず兄弟の盟ちかひをなせし、世にも頼もしき勇犬なり。さて鷲郎この牛殿は、日頃某それがしが噂うわさしたる、養親の文角ぬしなり」ト、互に紹介ひきあわすれば。文角も鷲郎も、恭うやうやしく一礼なし、初対面の挨拶あいさつもすめば。黄金丸また文角にむかひて、「さるにても文角ぬしには、怎麼いかなる仔細の候そうろうて、今宵此処には来たまひたる」ト、連忙いそがわしく尋ぬれば。「さればとよよく聞ききね、われ元より御身たちと、今宵此処にて邂逅めぐりあはんとは、夢にだも知らざりしが。今日しも主家の廝こものに曳ひかれて、この辺あたりなる市場へ、塩鮭干鰯ほしか米なんどを、車に積つみて運び来りしが。彼の大藪おおやぶの陰を通る時、一匹の狐物陰より現はれて、わが車の上に飛び乗り、肴さかなを取とって投げおろすに。這しゃツ憎き野良狐めト、よくよく見れば年頃日頃、憎しと思ふ聴水なれば。這奴しゃついまだ黄金丸が牙にかからず、なほこの辺を徘徊はいかいして、かかる悪事を働けるや。将いで一突きに突止めんと、気はあせれども怎麼にせん、われは車に繋つけられたれば、心のままに働けず。これを廝に告げんとすれど、悲しや言語ことば通ぜざれば、他かれは少しも心付かで、阿容々々おめおめ肴を盗み取られ。やがて市場に着きし後、代物しろものの三分みつが一ひとつは、あらぬに初めて心付き。廝は太いたく狼狽うろたへて、さまざまに罵ののしり狂ひ。さては途中にふり落せしならんと、引返して求むれど、これかと思ふ影だに見えぬに、今はた詮せんなしとあきらめしが。諦あきらめられぬはわが心中。彼の聴水が所業しわざなること、目前まのあたり見て知りしかば、いかにも無念さやるせなく。殊ことには他かれは黄金丸が、倶不戴天ぐふたいてんの讐あだなれば、意恨はかの事のみにあらず。よしよし今宵は引捕ひっとらへて、後黄金丸に逢ひし時、土産みやげになして取らせんものと、心に思ひ定めつつ。さきに牛小屋を忍び出でて、其処よ此処よと尋ねめぐり、端はしなくこの場に来合せて、思ひもかけぬ御身たちに、邂逅ふさへ不思議なるに、憎しと思ふかの聴水も、かく捕はれしこそ嬉しけれ」ト、語るを聞きて黄金丸は、「さは文角ぬしにまで、かかる悪戯いたずら作なしけるよな。返す返すも憎き聴水、いで思ひ知らせんず」ト、噬かみかかるをば文角は、再び霎時しばしと押し隔て、「さな焦燥いらちそ黄金丸。他かれ已すでに罠に落ちたる上は、俎板まないたの上なる魚うおに等しく、殺すも生いかすも思ひのままなり。されども彼の聴水は、金眸が股肱ここうの臣なれば、他かれを責めなば自おのずから、金眸が洞ほらの様子も知れなんに、暫くわが為なさんやうを見よ」ト、いひつつ進みよりて、聴水が襟頭えりがみを引掴ひっつかみ、罠を弛ゆるめてわが膝ひざの下に引き据すえつ。「いかにや聴水。かくわれ曹らが計略に落ちしからは、爾なんじが悪運もはやこれまでとあきらめよ。原来爾は稲荷大明神いなりだいみょうじんの神使かみつかいなれば、よくその分を守る時は、人も貴とうとみて傷きずつくまじきに。性邪悪よこしまにして慾深ければ、奉納の煎あげ豆腐を以もて足れりとせず。われから宝珠を棄てて、明神の神祠みやしろを抜け出で、穴も定めぬ野良狐となりて、彼の山に漂泊さまよひ行きつ。金眸が髭ひげの塵ちりをはらひ、阿諛あゆを逞たくましうして、その威を仮り、数多あまたの獣類けものを害せしこと、その罪諏訪すわの湖よりも深く、また那須野なすのが原はらよりも大おおいなり。さばれ爾が尾いまだ九ツに割さけず、三国さんごく飛行ひぎょうの神通なければ、つひに鈍おぞくも罠に落ちて、この野の露と消えんこと、けだし免のがれぬ因果応報、大明神の冥罰みょうばつのほど、今こそ思ひ知れよかし。されども爾確乎たしかに聞け。過ちて改むるに憚はばかることなく、末期まつごの念仏一声には、怎麼いかなる罪障も消滅するとぞ、爾今前非を悔いなば、速すみやかに心を翻へして、われ曹らがために尋ぬることを答へよ。已すでに爾も知る如く、年頃われ曹彼の金眸を讐あだと狙ひ。機会おりもあらば討入りて、他かれが髭首掻かかんと思へと。怎麼にせん他が棲む山、路みち嶮けんにして案内知りがたく。加之しかのみならず洞の中うちには、怎麼なる猛獣侍はんべりて、怎麼いかなる守備そなえある事すら、更に探り知る由なければ、今日までかくは逡巡ためらひしが、早晩いつか爾を捕へなば、糺問なして語らせんと、日頃思ひゐたりしなり。されば今われ曹らが前にて、彼の金眸が洞の様子、またあの山の要害怎麼に、委敷くわしく語り聞かすべし。かくてもなお他を重んじ、事の真実まことを語らずば、その時こそは爾をば、われ曹三匹更かわる更る。角に掛け牙に裂き、思ひのままに憂苦うきめを見せん。もしまたいはば一思ひに、息の根止めて楽に死なさん。とても逃れぬ命なれば、臨終いまわの爾が一言にて、地獄にも落ち極楽にも往かん。とく思量しあんして返答せよ」ト、あるいは威おどしあるいは賺すかし、言葉を尽していひ聞かすれば。聴水は何思ひけん、両眼より溢落はふりおつる涙堰せきあへず。「ああわれ誤てり誤てり。道理ことわり切せめし文角ぬしが、今の言葉に僕やつがれが、幾星霜いくとしつきの迷夢醒さめ、今宵ぞ悟るわが身の罪障思へば恐しき事なりかし。とまれ文角ぬし、和殿わどのが言葉にせめられて、今こそ一期ごの思ひ出に、聴水物語り候べし。黄金ぬしも聞き給へ」ト、いひつつ咳しわぶき一咳ひとつして、喘ほと吻つく息も苦しげなり。

第十四回

この時文角は、捕へし襟頭えりがしら少し弛ゆるめつ、されども聊いささか油断せず。「いふ事あらば疾とくいへかし。この期に及びわれ曹らを欺き、間隙すきを狙ねらふて逃げんとするも、やはかその計てに乗るべきぞ」ト、いへば聴水頭こうべを打ちふり、「その猜疑うたがいは理ことわりなれど、僕やつがれすでに罪を悔い、心を翻へせしからは、などて卑怯ひきょうなる挙動ふるまいをせんや。さるにても黄金ぬしは、怎麼いかにしてかく恙つつがなきぞ」ト。訝いぶかり問へば冷笑あざわらひて、「われ実まことに爾なんじに誑たばかられて、去いぬる日人間ひとの家に踏み込み、太いたく打擲ちょうちゃくされし上に、裏の槐えんじゅの樹きに繋つながれて、明けなば皮も剥はがれんずるを、この鷲郎に救ひ出いだされ、危急あやうき命は辛く拾ひつ。その時足を挫くじかれて、霎時しばしは歩行もならざりしが。これさへ朱目あかめの翁おきなが薬に、かく以前もとの身になりにしぞ」ト、足踏あしぶみして見すれば。聴水は皆まで聞かず、「いやとよ、和殿が彼時かのとき人間ひとに打たれて、足を傷やぶられたまひし事は、僕私ひそかに探り知れど。僕がいふはその事ならず。――さても和殿に追はれし日より、わが身仇敵かたきと附狙つけねらはれては、何時いつまた怎麼なる事ありて、われ遂に討たれんも知れず。とかく和殿を亡き者にせでは、わが胸到底安からじト、左様右様とさまこうさま思ひめぐらし。機会おりを窺うかがふとも知らず、和殿は昨日彼の痍きずのために、朱目の翁を訪れたまふこと、私ひそかに聞きて打ち喜び。直ちにわが腹心の友なる、黒衣と申す猿に頼みて、途中に和殿を射させしに、見事仕止めつと聞きつるが。……さては彼奴きゃつに欺かれしか」ト。いへば黄金丸呵々からからと打ち笑ひ、「それにてわれも会得したり。いまだ鷲郎にも語らざりしが。昨日朱目が許より帰途かえるさ、森の木陰を通りしに、われを狙ふて矢を放つものあり。畢竟ひっきょう村童們さとのこらが悪戯いたずらならんと、その矢を嘴くちに咬くひ止めつつ、矢の来し方かたを打見やれば。こは人間と思ひのほか、大おおいなる猿なりければ。憎にっくき奴めと睨にらまへしに、そのまま這奴しゃつは逃げ失うせぬ。されどもわれ彼の猿に、意恨うらみを受くべき覚おぼえなければ、何故なにゆえかかる事を作なすにやト、更に心に落ちざりしに、今爾が言葉によりて、他かれが狼藉の所以ゆえも知りぬ。然るに他かれ今日もまた、同じ処に忍びゐて。われを射んとしたりしかど。此度こたびもその矢われには当らず、肩の辺あたりをかすらして、後の木根きのねに立ちしのみ」ト。聞くに聴水は歯を咬切くいしばり、「口惜しや腹立ちや。聴水ともいはれし古狐が、黒衣ごとき山猿に、阿容々々おめおめ欺かれし悔しさよ。かかることもあらんかと、覚束なく思へばこそ、昨夕ゆうべ他が棲すを訪づれて、首尾怎麼いかなりしと尋ねしなれ。さるに他かれ事もなげに、見事仕止めて帰りぬト、語るをわれも信ぜしが。今はた思へば彼時に、躯むくろは人間ひとに取られしなどと、いひくろめしも虚誕いつわりの、尾を見せじと思へばなるべし。かくて他われを欺きしも、もしこの後のち和殿に逢ふことあらば、事発覚あらわれんと思ひしより、再び今日も森に忍びて、和殿を射んとはしたりしならん。それにて思ひ合すれば、さきに藪陰にて他に逢ひし時、太いたく物に畏おぢたる様子なりしが、これも黄金ぬしに追はれし故なるべし。さりとは露ほども心付かざりしこそ、返す返すも不覚なれ。……ああ、これも皆聴水が、悪事の報むくいなりと思へば、他を恨みん由あらねど。這奴しゃつなかりせば今宵もかく、罠目わなめの恥辱はうけまじきに」ト、悔くいの八千度百千度やちたびももちたび、眼を釣りあげて悶もだえしが。ややありて胸押し鎮しずめ、「ああ悔いても及ぶことかは。とてもかくても捨すつる命の、ただこの上は文角ぬしの、言葉にまかせて金眸が、洞の様子を語り申さん。――そもかの金眸大王が洞は、麓を去ること二里あまり、山を越え谷を渉わたること、その数幾つといふことを知らねど。もし間道より登る時は、僅わずか十町ばかりにして、その洞口ほらのくちに達しつべし。さてまた大王が配下には、鯀化こんか(羆ひぐま)黒面こくめん(猪しし)を初めとして、猛き獣們らなきにあらねど。そは皆各所の山に分れて、己おのが持場を守りたれば、常には洞の辺ほとりにあらずただ僕やつがれとかの黒衣のみ、旦暮あけくれ大王の傍かたわらに侍りて、他かれが機嫌を取とるものから。このほど大王何処いずくよりか、照射ともしといへる女鹿めじかを連れ給ひ、そが容色に溺おぼれたまへば、われ曹らが寵ちょうは日々に剥そがれて、私ひそかに恨めしく思ひしなり。かくて僕去いぬる日、黄金ぬしに追れしより、かの月丸つきまるが遺児わすれがたみ、僕及び大王を、仇敵かたきと狙ふ由なりと、金眸に告げしかば。他かれもまた少しく恐れて、件くだんの鯀化、黒面などを呼びよせ、洞ちかく守護さしつつ、自身おのれも佻々かるがるしく他出そとでしたまはざりしが。これさへ昨日黒衣めが、和殿を打ちしと聞き給ひ、喜ぶこと斜ななめならず、忽たちまち守護まもりを解かしめつ。今宵は黄金丸を亡き者にせし祝いわいなりとて、盛さかんに酒宴を張らせたまひ。僕もその席に侍りて、先のほどまで酒酌くみしが、独り早く退まかり出いでつ、その帰途かえるさにかかる状態ありさま、思へば死神の誘ひしならん」ト。いふに黄金丸は立上りて、彼方あなたの山を佶きっと睨にらめつ、「さては今宵彼の洞にて、金眸はじめ配下の獣們ら、酒宴さかもりなして戯たわぶれゐるとや。時節到来今宵こそ。宿願成就する時なれ。阿那あな喜ばしやうれしや」ト、天に喜び地に喜び、さながら物に狂へる如し。聴水はなほ語を続つぎて、「実げに今宵こそ屈竟くっきょうなれ。さきに僕退出まかりでし時は、大王は照射ともしが膝を枕として、前後も知らず酔臥えいふしたまひ。その傍ほとりには黒衣めが、興に乗じて躍りゐしのみ、余の獣們は腹を満たして、各自おのおの棲居すみかに帰りしかば、洞には絶えて守護まもりなし。これより彼処かしこへ向ひたまはば、かの間道より登のぼりたまへ。少しは路の嶮岨けわしけれど、幸ひ今宵は月冴えたれば、辿たどるに迷ふことはあらじ。その間道は……あれ臠みそなはせ、彼処かしこに見ゆる一叢ひとむらの、杉の森の小陰こかげより、小川を渡りて東へ行くなり。さてまた洞は岩畳み、鬼蔦おにづたあまた匐はひつきたれど、辺ほとりに榎えのきの大樹あれば、そを目印めじるしに討入りたまへ」ト、残る隈なく教ふるにぞ。鷲郎聞きて感嘆なし、「げにや悪に強きものは、また善にも強しといふ。爾なんじ今前非を悔いて、吾曹らがために討入りの、計策はかりごとを教ふること忠まめなり。さればわれその厚意こころざしに愛めで、おつつけ彼の黒衣とやらんを討うって、爾がために恨うらみを雪すすがん。心安く成仏じょうぶつせよ」「こは有難き御命おおせかな。かくては思ひ置くこともなし、疾とくわが咽喉のどを噬かみたまへ」ト。覚悟極きむればなかなかに、些ちっとも騒がぬ狐が本性。天晴あっぱれなりと称たたへつつ、黄金丸は牙を反そらし、やがて咽喉をぞ噬み切りける。

第十五回

黄金丸はまづ聴水を噬みころして、喜ぶこと限りなく、勇気日頃に十倍して、直ちに洞へむかはんと、連忙いそがわしく用意をなし。文角鷲郎もろともに、彼の聴水が教へし路を、ひたすら急ぎ往くほどに、やがて山の峡間はざまに出でしが、これより路次第に嶮岨けわしく。荊棘けいきょくいやが上に生おひ茂りて、折々行方ゆくてを遮さえぎり。松柏しょうはく月を掩おおひては、暗きこといはんかたなく、動ややもすれば岩に足をとられて、千仞せんじんの渓たにに落ちんとす。鷲郎は原来猟犬かりいぬにて、かかる路には慣れたれば、「われ東道あんないせん」とて先に立ち、なほ路を急ぎけるほどに、とかくして只とある尾上おのえに出でしが。此処はただ草のみ生ひて、樹は稀まれなれば月光つきあかりに、路の便たよりもいと易やすかり。かかる処に路傍みちのほとりの叢くさむらより、つと走り出でて、鷲郎が前を横切るものあり。「這しゃつ伏勢ござんなれ」ト、身構へしつつ佶きっと見れば、いと大おおいなる黒猿の、面おもて蘇枋すおうに髣髴さもにたるが、酒に酔ひたる人間ひとの如く、倰僜よろめきよろめき彼方かなたに行きて、太き松の幹にすがりつ、攀よじ登らんとあせれども、怎麼いかにしけん登り得ず。幾度いくたびかすべり落ちては、また登りつかんとするに。鷲郎は見返りて、黄金丸に打向ひ、「怎麼に黄金丸、彼処かしこを見ずや。松の幹に攀らんとして、頻しきりにあせる一匹の猿あり。もし彼の黒衣にてはあらぬか」ト、指さし示せば黄金丸は眺めやりて、「いかさま見違みまごふべきもあらぬ黒衣なり。彼奴きゃつ松の幹に登らんとして登り得ぬは、思ふに今まで金眸が洞にありて、酒を飲みしにやあらん。引捕ひっとらへて吟味せば、洞の様子も知れなんに……」「他かれ果して黒衣ならば、われまづ往きて他を噬かまん。さきに聴水とも約したれば」ト、いひつつ走りよりて、「やをれ黒衣、逃にぐるとて逃さんや」ト、一声高く吠ほえかくれば。猿は礑はたと地に平伏ひれふして、熟柿じゅくし臭き息を吻つき、「こは何処いずくの犬殿にて渡らせ給ふぞ。僕やつがれはこの辺あたりに棲すむ賤いやしき山猿にて候。今宣のたもふ黒衣とは、僕が無二の友ならねば、元より僕が事にも候はず」ト。いふ時鷲郎が後より、黄金丸は歩み来て、呵々からからと打笑ひ、「爾なんじ黒衣。縦令たとひ酒に酔ひたりともわが面おもては見忘れまじ。われは昨日木賊とくさヶ原はらにて、爾に射られんとせし黄金丸なるぞ」ト、罵れば。他なほ知らぬがほにて、「黄金殿か白銀しろかね殿か、われは一向親交ちかづきなし。鉄くろがねを掘りに来給ふとも、この山には銅あかがねも出はせじ」ト、訳も解らぬことをいふに。「酔ひたる者と問答無益し、ただ一噬み」ト寄らんとすれば、黒衣は慌しく松の幹にすがりつつ、「こは情なの犬殿かな。和殿も知らぬことはあるまじ、わが先祖とおつおや巌上甕猿いわのえのみかざるは。和殿が先祖文石大白君あやしのおおしろぎみと共に、斉ひとしく桃太郎子もものおおいらつこに従ひて、淤邇賀島おにがじまに押し渡り、軍功少からざりけるに。何時いつのほどよりか隙ひまを生じて、互に牙を鳴ならし争ふこと、実まことに本意なき事ならずや。さるによつて僕やつがれは、常に和殿們らを貴とみ、早晩いつかは款よしみを通ぜんとこそ思へ、聊いささかも仇する心はなきに、何罪科なにとがあつて僕を、噬かまんとはしたまふぞ。山王権現の祟たたりも恐れ給はずや」ト、様々にいひ紛らし、間隙すきまを見て逃げんと構ふるにぞ。鷲郎大おおいに焦燥いらちて、「爾なんじ悪猿、怎麼いかに人間に近ければとて、かくはわれ曹らを侮るぞ。われ曹疾とくより爾が罪を知れり。たとひ言葉を巧たくみにして、いひのがれんと計るとも、われ曹いかで欺かれんや。重ねて虚誕いつわりいへぬやう、いでその息の根止めてくれん」ト、㗲叫おめきさけんで飛びかかるほどに。元より悟空ごくうが神通なき身の、まいて酒に酔ひたれば、争いかで犬にかなふべき、黒衣は忽ち咬くひ殺されぬ。

第十六回

鷲郎は黒衣が首級くびを咬ひ断離ちぎり、血祭よしと喜びて、これを嘴くちに提ひっさげつつ、なほ奥深く辿たどり行くに。忽ち路窮きわまり山聳そびえて、進むべき岨道そばみちだになし。「こは訝いぶかし、路にや迷ふたる」ト、彼方あなたを透すかし見れば、年経ふりたる榎えのきの小暗おぐらく茂りたる陰に、これかと見ゆる洞ありけり。「さては金眸が棲居すみかなんめり」ト、なほ近く進み寄りて見れば、彼の聴水がいひしに違たがはず、岩高く聳えて、鑿のみもて削れるが如く、これに鬼蔦の匐はひ付きたるが、折から紅葉もみじして、さながら絵がける屏風びょうぶに似たり。また洞の外には累々たる白骨の、堆うずたかく積みてあるは、年頃金眸が取り喰くらひたる、鳥獣とりけものの骨なるべし。黄金丸はまづ洞口ほらぐちによりて。中うちの様子を窺うかがふに、ただ暗うして確しかとは知れねど、奥まりたる方かたより鼾いびきの声高く洩もれて、地軸の鳴るかと疑はる。「さては他かれなほ熟睡うまいしてをり、この隙ひまに跳おどり入らば、輒たやすく打ち取りてん」ト。黄金丸は鷲郎と面おもてを見合せ、「脱ぬかり給ふな」「脱りはせじ」ト、互に励ましつ励まされつ。やがて両犬進み入りて、今しも照射ともしともろともに、岩角いわかどを枕として睡ねぶりゐる、金眸が脾腹ひばらを丁ちょうと蹴ければ。蹴られて金眸岸破がばと跳起はねおき、一声嘷ほえて立上らんとするを、起しもあへず鷲郎が、襟頭えりがみ咬くはへて引据ゆれば。その隙ひまに逃げんとする、照射は洞の出口にて、文角がために突止められぬ、この時黄金丸は声をふり立て、「やをれ金眸確たしかに聞け。われは爾なんじが毒牙どくがにかかり、非業にも最期をとげたる、月丸が遺児わすれがたみ、黄金丸といふ犬なり。彼時かのときわれ母の胎内にありしが、その後のち養親やしないおや文角ぬしに、委敷くわしき事は聞きて知りつ。爾がためには父のみか、母も病やみて歿みまかりたれば、取不直とりもなおさず両親ふたおやの讐あだ、年頃積つもる意恨の牙先、今こそ思ひ知らすべし」ト。名乗りかくれば金眸は、恐ろしき眼まなこを見張り、「爾は昨日黒衣がために、射殺されたる野良犬ならずや。さては妄執もうしゅう晴れやらで、わが酔臥えいふせし隙ひまに著入つけいり、祟たたりをなさんず心なるか。阿那あな嗚呼おこの白物しれものよ」ト。いはせも果てず冷笑あざわらひ、「愚おろかや金眸。爾も黒衣に欺かれしよな。他かれが如き山猿に、射殺さるべき黄金丸ならんや。爾が股肱ここうと頼みつる、聴水もさきに殺しつ。その黒衣といふ山猿さへ、われはや咬ひ殺して此ここにあり」ト、携へ来りし黒衣が首級くびを、金眸が前へ投げ遣やれば。金眸は大おおいに怒り、「さては黒衣が虚誕いつわりなりしか。さばれ何ほどの事かあらん」ト、いひつつ、鷲郎を払ひのけ、黄金丸に掴つかみかかるを、引ひっぱづして肩を噛かめば。金眸も透とおさず黄金丸が、太股ふとももを噛まんとす。噛ましはせじと横間よこあいより、鷲郎は躍おどり掛かかって、金眸が頬ほおを噛めば。その隙に黄金丸は跳起きて、金眸が脊せに閃ひらりと跨またがり、耳を噛んで左右に振る。金眸は痛さに身を悶もがきつつ、鷲郎が横腹を引𤔩ひきつかめば、「呀嗟あなや」と叫んで身を翻へし、少し退しさつて洞口の方かたへ、行くを続いて追おっかくれば。猛然として文角が、立閉たちふさがりつつ角を振りたて、寄らば突かんと身構みがまえたり。「さては加勢の者ありや。這しゃものものし金眸が、死物狂ひの本事てなみを見せん」ト、いよいよ猛り狂ふほどに。その嘷ほゆる声百雷の、一時に落ち来きたるが如く、山谷さんこくために震動して、物凄きこといはん方なし。

去るほどに三匹の獣は、互ひに尽す秘術剽挑はやわざ、右に衝つき左に躍り、縦横無礙むげに暴あれまはりて、半時はんときばかりも闘たたかひしが。金眸は先刻さきより飲みし酒に、四足の働き心にまかせず。対手あいては名に負ふ黄金丸、鷲郎も尋常なみなみの犬ならねば、さしもの金眸も敵しがたくや、少しひるんで見えける処を、得たりと著入つけいる黄金丸、金眸が咽喉のんどをねらひ、頤あごも透れと噬かみつけ、鷲郎もすかさず後より、金眸が睾丸ふぐりをば、力をこめて噬みたるにぞ。灸所きゅうしょの痛手に金眸は、一声嗡おうと叫びつつ、敢あえなく躯むくろは倒れしが。これに心の張り弓も、一度に弛みて両犬は、左右に摚どうと俯伏ひれふして、霎時しばしは起きも得ざりけり。

文角は今まで洞口にありて、二匹の犬の働きを、眼まなこも放たず見てありしが、この時徐おもむろに進み入り、悶絶なせし二匹をば、さまざまに舐ねぶり勦いたはり。漸く元に復かえりしを見て、今宵の働きを言葉を極めて称賛ほめたたへつ。やがて金眸が首級くびを噬み切り、これを文角が角に着けて、そのまま山を走はせ下くだり、荘官しょうやが家にと急ぎけり、かくて黄金丸は主家に帰り、件くだんの金眸が首級くびを奉れば。主人あるじも大概おおかたは猜すいしやりて、喜ぶことななめならず、「さても出来でかしたり黄金丸、また鷲郎も天晴あっぱれなるぞ。その父の讐あだを討うちしといはば、事私わたくしの意恨にして、深く褒ほむるに足らざれど。年頃数多あまたの獣類けものを虐しいたげ、あまつさへ人間を傷きずつけ、猛威日々に逞たくましかりし、彼の金眸を討ち取りて、獣類けもののために害を除き、人間のために憂うれいを払ひしは、その功けだし莫大ばくだいなり」トて、言葉の限り称賛ほめたたへつ、さて黄金丸には金の頸輪くびわ、鷲郎には銀の頸輪とらして、共に家の守衛まもりとなせしが。二匹もその恩に感じて、忠勤怠らざりしとなん。めでたしめでたし。

底本 / Source edition

底本:「日本児童文学名作集(上)」岩波文庫、岩波書店
1994(平成6)年2月16日第1刷発行
底本の親本:「こがね丸」博文館
1891(明治24)年1月初版発行
※「ルビは現代仮名遣い」とする底本の編集方針にそい、ルビの拗促音は小書きしました。
※ルビの「却説《かへってと》く」は、歴史的仮名遣いのままと思われますが、底本通りとしました。
※「堪え」のように歴史的仮名遣いの規則に合わない表記も、すべて底本通りとしました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:hongming
校正:門田裕志
2001年12月22日公開
2012年9月19日修正
青空文庫作成ファイル:
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リリース / Release
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TEI
/works/003646_000981/tei
プレーンテキスト / Plain text
/works/003646_000981/plaintext
書誌 / Bibliography
/works/003646_000981/

巌谷 小波「こがね丸」(新字旧仮名)、底本『日本児童文学名作集(上)』岩波文庫、岩波書店、1994年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 003646_000981, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

引用のしかた / How to cite