１

幽かに香ひはのぼる。蕾のさきが尖つてゐるのは内からのぼる香ひをその頂点でくひとめてゐるのだ。花がひらいた時は香ひもひらいてしまふ。残りの香のみの花を人は観てゐる。

２

開いた朝顔が<ruby><rb>萎</rb><rt>しな</rt></ruby>へると蕾のやうになる。それもちぢれて蕾の巻いた尖りは喪はれ、香ひのみか色までが揉みくちやだ。その上に落ち散つた<ruby><rb>象</rb><rt>すがた</rt></ruby>を紙巻煙草の吸殻のやうだといへば乾く。火鉢の灰の中に散らばる紙巻煙草の吸殻を朝顔の散り花のやうだといへば香ひがつく。ものは言ひやう、喩は感じ方なのだ。

３

風が香ひをつたへるのでない。香ひが風をすずろかせるのだ。

４

風上に置けぬ臭ひなら、風下にも置いてよい筈はない。風はともあれ、臭ひは十方吹き廻しだからである。

５

音波の無いところに香ひはない。リズムの無いところに香ひは揺り<ruby><rb>曳</rb><rt>ひ</rt></ruby>かない。真空鐘の中には香ひは無い。

６

香ひの流れといふものが眼に見えるなら、どんなに微塵の感情が泳いでゐるか色に現れるであらう、あの金粉酒のやうに。

７

うら声といふのがある。<ruby><rb>象</rb><rt>すがた</rt></ruby>には影が添ふ。香ひにも何かと湿るものがある。銀箔の裏は黝い。裏漉しの香ひそのものこそ香ひらしく染み出して来る。

８

香ひはほろびない。花は了へても香ひはのこる。始めもなく終りも無い。消えるやうに思へるのは色を眼のみで観る人の錯覚である。香ひは染みこむ、分解する。

９

君は香ひを鼻で嗅いでゐるのか。香ひは耳で聞き、皮膚で聞き、心頭で風味すべきものなのを。

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香ひは鼻でのみ嗅ぐものなら、人は猫にも劣るであらう。だがね、猫は鼻で嗅ぐよりはいつそ食べてる。

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香ひに神を聞く人こそ上無き感性の人であらう。詩も風味すべきは香ひにある。

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<ruby><rb>蹠</rb><rt>あしのうら</rt></ruby>で香ひを聞くもの、それは鼠のみではあるまい。

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六十一種といふ名香の中に、紅塵、<ruby><rb>富士煙</rb><rt>ふじのけぶり</rt></ruby>などは名からして煙つてゐる。一字の月、卓、花は何と近代の新感情を盛ることか。ことに<ruby><rb>隣家</rb><rt>りんか</rt></ruby>にいたつては、秋深うして思ひ切なるものがある。

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香ひをこめた色、それが匂なのだらう。鴎外先生は匂をつかはず、常に匀と書かれた。私も匀としてみたが、どうにも香ひがこもらぬやうな気がして、このごろはまた匂に還つた。

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白薔薇はその葉を噛んでも白薔薇の香ひがする。その香ひは枝にも根にも創られてゐる。花とはじめて香ひが開くのではない。白薔薇の香ひそのものがその花を咲かすのである。

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手についた香ひなら墓場まで持つてゆかねばなるまい。

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香ひにも、眼があるやうな気がする。<ruby><rb>光葉</rb><rt>てりは</rt></ruby>の<ruby><rb>茨</rb><rt>ばら</rt></ruby>の花むらに頭を突つ込んでみい。

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<ruby><rb>香魚</rb><rt>あゆ</rt></ruby>は魚なのか香ひなのか。鮎鷹の胃嚢なら知つてゐよう。<ruby><rb>山女魚</rb><rt>やまめ</rt></ruby>は魚なのか、水の気なのか、こんがりとでも焼いたら、その香ひはとろ火で反りかへる。奥さんめしあがつてみてください。

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鼻につくからといつて香ひのせゐにするのはひどい。あまり近寄つたり、馴れつこにおなりなさらぬがよい。

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梅に鶯が類型で古典的だといふなら、外の小鳥をとまらせて御覧なさい。なかなかしつくりとはゆかぬものだ。したがまた梅に鶯ばかりでもどういふものかな。

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手と歳月で磨いた古鏡には香ひがあらう。むしろ魂で磨いてあるからだ。曇つたら曇つたでなほとゆかしい香ひはこもる。あの硝子に水銀と朱をなすつた板の鏡の中には、たとひ色の世界は映つても香ひは染み入りさうにもない。春雨でも<ruby><rb>外</rb><rt>そと</rt></ruby>にけぶつてゐればまたちがふ味もこもるであらうが。

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香ひを嗅ぐにも角度がある。香ひの光を<ruby><rb>三稜鏡</rb><rt>プリズム</rt></ruby>に透かして見たら、目も綾なものがあらう。

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香ひからはじまる夢もある。しかし多くは白日の夢だ。香ひはロマンチシズムの濛気のやうで、その実きはめてリアルなものだ。何れをもとりあつめて深くなるほど悩ましい。

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香ひのピアノは、一つ一つキイを叩くごとに、一つ一つ記憶が奏鳴する。

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一つの香ひといふものは有り得ない。一つの花の香ひと云つても、それは幾つかの香ひが調合されて、えならぬ一つの香ひぶくろを膨らませてゐるのだ。

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水の中で石を抱けば軽々としたものだが、香ひの海の中で何を擁へたら軽くなるのだ。

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無上の香ひは天にあるやうに思はれるのか、香ひは極楽の象徴である時に、地獄はいつも色で染められてゐる。香ひにも身を焼く炎はあるのだが。

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清浄高潔な香ひは鬼神をも泣かしめる。しかしまた胃嚢をも咽喉元まで引きあげる香ひもある。鴉の好きな香ひもある。

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日脚、雨脚、雲脚といふ。ならば、香ひの脚といふ言葉もあつていい。ところで香ひには臍がある。

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白い手の猟人とは、あまりに果敢ない香ひの狩猟者なのだ。

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香ひが歩いて来る、ただ香ひのみが歩いて来る。

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何が香ひなのか。香ひ自身は知つてゐないのだ。