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        <title type="main" xml:lang="ja">転機</title>
        <title type="reading" xml:lang="ja-Hira">てんき</title>
        <author><persName xml:lang="ja"><surname>伊藤</surname><forename>野枝</forename><idno type="aozora-person-id">000416</idno></persName><persName xml:lang="ja-Hira"><surname>いとう</surname><forename>のえ</forename></persName><persName xml:lang="ja-Latn"><surname>Ito</surname><forename>Noe</forename></persName></author>
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        <bibl><title>伊藤野枝全集　上</title><publisher>學藝書林</publisher><date>1970（昭和45）年3月31日</date><note type="input-edition">1986（昭和61）年11月25日第4刷発行</note><note type="proof-edition">1970（昭和45）年3月31日第1刷発行</note></bibl>
        <bibl type="first-publication">「文明批判　第一巻第一号、第二号」1918（大正7）年1月、2月</bibl>
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      <div type="layout" source="#source-347-408" style="padding-inline-start: 8em">
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          <head n="2" source="#source-368-404"><seg source="#source-368-371">一</seg></head>
        </div>
      </div>
      <div>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-408-663">不案内な道を教えられるままに歩いて古河の町外れまで来ると、通りは思いがけなく、まだ新らしい高い堤防で遮られている道ばたで、子供を遊ばせている老婆に私はまた尋ねた。老婆は</seg><hi rend="bouten 傍点 right" source="#source-663-705"><seg source="#source-663-672">けげん</seg></hi><seg source="#source-705-872">な顔をして私達二人の容姿に目を留めながら、念を押すように、今私のいった谷中村という行く先きを聞き返しておいて、</seg></p>
        <p>「何んでも、その堤防を越して、河を渡ってゆくんだとかいいますけれどねえ。私もよくは知りませんから。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-1024-1422">何んだか、はっきりしない答えに、当惑している私達が気の毒になったのか、老婆は自分で他の人にも聞いてくれたが、やはり答えは同じだった。しかし、とに角その堤防を越して行くのだということだけは分ったので、私達はその町の人家の屋根よりは遙かに高いくらいな堤防に上がった。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-1422-2528">やっと、のぼった私達の前に展かれた景色は、何という思いがけないものだったろう！　今、私達が立っている堤防は黄褐色の単調な色をもって、右へ左へと遠く延びていって、遂には何処まで延びているのか見定めもつかない。しかも堤防外のすべてのものは、それによって遮りつくされてただようように一二ヶ所ずつ木の茂みが、低く暗緑の頭を出しているばかりである。堤防の内は一面に黄色な枯れ葦に領された広大な窪地であった。私達の正面は五六町を隔てた処に横たわっている古い堤防に遮られているが、右手の方に拡がったその窪地の面積は、数理的観念には極めて遠い私の頭では、ちょっとどのくらいというような見当はつかないけれど、何しろそれは驚くべき広大な地域を占めていた。こうして高い堤防の上に立つと、広い眼界がただもう一面に黄色なその窪地と空だけでいっぱいになっている。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-2528-3529">その思いがけない景色を前にして、私はこれが長い間――本当にそれは長い間だった――一度聞いてからは、ついに忘れることの出来なかった村の跡なのだろうと思った。窪地といってもこの新しい堤防さえのぞいてしまえば、この堤防の外の土地とは何の高低もない普通の平地だということや、窪地の中を真っすぐに一と筋向うの土手まで続いている広い路も、この堤防で遮られた、先刻の町の通りに続いていたものだということを考えあわせて見れば、どうもそうらしく思われもする。けれど、堤防の中の窪地に今もなお居残って住んでいるという、今私の尋ねていこうという人達は、この広い窪地の何処に住んでいるのであろう？　道は一と筋あるにはあるが、彼の土手の外に人家があるとは、聞いた話を信用すれば少しおかしい。</seg></p>
        <p>「ちょっとお伺いいたしますが、谷中村へ行くのには、この道をゆくのでしょうか？」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-3648-4355">ちょうどその窪地の中の道から、土手に上がってきた男を待って、私は聞いた。その男もまた、不思議そうに、私達を見上げ見下ろしながら、谷中村はもう十年も前から廃止になって沼になっているが、残っている家が少々はない事もないけれど、とても行ったところで分るまいといいながら、それでも、そこはこの土手のもう一つ向うになるのだから、土手の蔭の橋の傍で聞けと教えてくれた。けれど彼はなお、私達に、とても行ったところで仕方がないというような口吻で、残った人達を尋ねる事の困難を説明した。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-4355-4679">窪地の中の道の左右は、まばらに葦が生えてはいるが、それが普通の耕地であった事は一と目に肯かれる。細い畔道や、田の間の小溝が、ありしままの姿で残っている。しかし、この新らしい高い堤防が役立つ時には、それも新らしい一大</seg><app type="base-text-variant" source="#source-4691-4751"><lem><seg source="#source-4679-4691">貯水池の</seg></lem><rdg type="base-text"><seg source="#source-4733-4745">貯水地の</seg></rdg></app><seg source="#source-4751-4963">水底に葬り去られてしまうのであろう。人々はそんなかかわりのないことは考えてもみないというような顔をして、坦々と踏みならされた道を歩いてゆく。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-4963-5304">土手の蔭は、教えられたとおりに河になっていて舟橋が架けられてあった。橋の手前に壊れかかったというよりは拾い集めた板切れで建てたような小屋がある。腐りかけたような蜜柑や、みじめな駄菓子などを並べたその店先きで、私はまた尋ねた。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-5304-6257">小屋の中には、七十にあまるかと思われるような、目も、鼻も、口も、その夥だしい皺の中に畳み込まれてしまったような、ひからびた老婆と、四十位の小造りな、貧しい姿をした女と二人いた。私はかねがね谷中の居残った人達が、だんだんに生計に苦しめられて、手当り次第な仕事につかまって暮らしているというようなことも聞いていたので、この二人がひょっとしてそうなのではあるまいかという想像と一緒に、何となくその襤褸にくるまって、煮しめたような手拭いに頭を包んだ二人の姿を哀れに見ながら、それならば、多分尋ねる道筋は、親切に教えて貰えるものだと期待した。しかし、谷中村と聞くと、二人は顔見合わせたが、思いがけない嘲りを含んだ態度を見せて、私の問に答えた。</seg></p>
        <p>「谷中村かね、はあ、あるにはあるけれど、沼の中だでね、道も何にもねえし――いる人も、いくらもねいだよ――」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-6418-6765">あんな沼の中にとても行けるものかというように、てんから道など教えそうにもない。それでも最後に橋番に聞けという。舟橋を渡るとすぐ番小屋がある。三四人の男が呑気な顔をして往来する人の橋銭をとっている。私は橋銭を払ってからまた聞いた。</seg></p>
        <p>「谷中村ですか、ここを右に行きますと堤防の上に出ます。その向うが谷中ですよ。ここも、谷中村の内にはなるんですがね。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-6941-7054">一人の男がそういって教えてくれると、すぐ他の男が追っかけるようにいった。</seg></p>
        <p>「その堤防の上に出ると、すっかり見晴らせまさあ。だが、遊びに行ったって、何にもありませんぜ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-7197-7646">彼等は一度に顔見合わせて笑った。多分、私達二人が、気紛れな散歩にでも来たものと思ったのであろう。笑声を後にして歩き出した時、私は、この寒い日に、わざわざこうして用もない不案内な廃村を訪ねてゆく自分の酔狂な企てを振り返ってみると、今の橋番の言葉が、何か皮肉に聞こえて、苦笑しないではいられなかった。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-7646-8446">一丁とは行かないうちに、道の片側にはきれいに耕された広い畑が続いていて、麦が播いてあったり、見事な菜園になっていたりする。畑のまわりには低い雑木が生えていたり、小さな藪になっていたりして、今、橋のそばで見てきた景色とは、かなりかけ離れた、近くに人の住むらしい、やや温かなけはいを感ずる。片側は、すぐ道に添うて河の流れになっているが、河の向う岸は丈の高い葦が、丈を揃えてひしひしと生えている。その葦原もまた何処まで拡がっているのか解らない。しかし、左側の生々した畑地に慰さめられて、もうさはど遠くもあるまいと思いながら歩いていった。</seg></p>
        <p>「おかしいわね、堤防なんてないじゃありませんか。どうしたんでしょう？」</p>
        <p>「変だねえ、もう大分来たんだが。」</p>
        <p>「先刻の橋番の男は堤防にのぼるとすっかり見晴せますなんていってたけれど、そんな高い堤防があるんでしょうか？」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-8770-9039">私と山岡がそういって立ち止まった時には、小高くなった畑地は何処か後の方に残されて、道は両側とも高い葦に迫られていた。行く手も、両側も、後も、森として人の気配らしいものもしない。</seg></p>
        <p>「橋の処からここまで、ずっと一本道なんだからな、間違えるはずはないが、――まあもう少し行ってみよう。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-9194-9382">山岡がそういって歩き出した。私は、通りすごしてきた畑が、何か気になって、あの藪あたりに家があるのではないかと思ったりした。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-9382-9510">ようやく、向うから来かかる人がある。待ちかまえていたように、私達はその人を捉えた。</seg></p>
        <p>「さあ、谷中村といっても、残っている家はいくらもありませんし、それも、皆飛び飛びに離れていますからな、何という人をおたずねです？」</p>
        <p>「Ｓという人ですが――」</p>
        <p>「Ｓさん、ははあ、どうも私には分りませんが――」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-9819-9869">その人は少し考えてからいった。</seg></p>
        <p>「家が分らないと、行けない処ですからな。何しろその、皆ひとかたまりになっていませんから――」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-10009-10143">意外な事を聞いて当惑した。しかしとにかく、人家のある所まででも、行くだけ行ってみたい。</seg></p>
        <p>「まだ、余程ありましょうか？」</p>
        <p>「さよう、大分ありますな。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-10234-10344">ちょうどその時私達の後から来かかった男に、その人はいきなり声をかけた。</seg></p>
        <p>「この方達が谷中へお出でなさるそうだがお前さんは知りませんか。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-10442-10558">その男はやはり、今までと同じように妙な顔付きをして、私達を見た後にいった。</seg></p>
        <p>「谷中へは、誰を尋ねてお出でなさるんです？」</p>
        <p>「Ｓという人ですが――」</p>
        <p>「ああ、そうですか、Ｓなら知っております。私も、すぐ傍を通ってゆきますから、ご案内しましょう。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-10810-11124">前の男にお礼をいって、私達は、その男と一緒になって歩き出した。男はガッシリした体に、細かい茶縞木綿の筒袖袢纏をきて、股引わらじがけという身軽な姿で、先にたって遠慮なく急ぎながら、折々振り返っては話しかける。</seg></p>
        <p>「谷中へは、何御用でお出でです？」</p>
        <p>「別に用というわけではありませんが、じつはここに残っている人達がいよいよ今日限りで立ち退かされるという話を聞いたもんですから、どんな様子かと思って――」</p>
        <p>「ははあ、今日かぎりで、そうですか、まあいつか一度は、どうせ逐い払われるには極まったことですからね。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-11562-11612">男はひどく冷淡な調子で云った。</seg></p>
        <p>「残っている人は実際のところどのくらいなものです？」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-11692-11805">山岡は、男が大分谷中の様子を知っていそうなので、しきりに話しかけていた。</seg></p>
        <p>「さあ、しっかりしたところは分りませんが、十五六軒もありますか。皆んな飛び飛びに離れているので、よく分りません。Ｓの家がまあ土手から一番近い所にあるのです。その近くに、二三軒あって、後はずっと離れて、飛び飛びになっています。Ｓの母親と、私の母親が姉妹で、あの家とは極く近い親戚で――え、私ももとはやはり谷中の者です。Ｓも、どうもお百姓のくせに、百姓仕事をしませんで、始終何にもならんことに走りまわってばかりいて困ります。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-12440-12772">彼はそんなこともいった。若いＳは谷中のために一生を捧げたＴ翁の亡き後は、その後継者のような位置になって、残留民の代表者になって、いろいろな交渉の任にあたっていた。Ｓにはそれは本当に一生懸命な仕事でなくてはならなかった。</seg></p>
        <p>「堤防を切られて水に浸っているのだといいますね。」</p>
        <p>「なあに、家のある処はみんな地面がずっと他よりは高くなっていますから、少々の水なら決して浸るような事はありませんよ。Ｓの家の地面なんかは、他の家から見るとまた一段と高くなっていますから、他は少々浸っても大丈夫なくらいです。お出でになれば分ります。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-13223-13495">彼はさも、何でもないことを大げさに信じている私達を笑うように、また私達をそう信じさせる村民に反感をもってでもいるように、苦い顔をしていい切ると、またスタスタ先になって歩き出した。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-13495-13593">いつのまにか、行く手に横たわった長い堤防に私達は近づいていた。</seg></p>
        <p>「あ、あの堤防だ、橋番の奴、すぐそこのような事をいったが、ずいぶんあるね。でもよかった、こういう道じゃ、うまくあんな男にぶつかったからいいようなものの、それでないと困るね。」</p>
        <p>「でも、よくうまく知った人に遇ったものね、本当に助かったわ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-13951-14094">二人はやっと思いがけない案内者ができたのに安心して、少しおくれて歩きながら、そんな話をした。</seg></p>
        <p>「これがずっと元の谷中です。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-14141-14259">土手に上がった時、男はそこに立ち止まって、前に拡がった沼地を指していった。</seg></p>
      </div>
      <div type="layout" source="#source-14259-14320" style="padding-inline-start: 8em">
        <div>
          <head n="2" source="#source-14280-14316"><seg source="#source-14280-14283">二</seg></head>
        </div>
      </div>
      <div>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-14320-15403">それは何という荒涼とした景色だったろう！　遙かな地平の果てに、雪をいただいた一脈の山々がちぢこまって見える他は、目を遮るものとては何物もない、ただ一面の茫漠とした沼地であった。重く濁った空は、その広い沼地の端から端へと同じ広さで低くのしかかり、沼の全面は枯れすがれて生気を失った葦で覆われて、冷たく鬱した空気が鈍くその上を動いていた。右を向いても左を向いても、同じような葦の黄褐色が目も遙かに続いているばかり、うねり曲って左右に続く堤防の上の道さえ、どこまで延びているのか、遂にはやはり同じ黄褐色の中に見分けもつかなくなってしまう。振り返れば来る来る歩いて来た道も、堤から一二丁の間白く見えただけで、ひと曲りしてそれも丈の高い葦の間にかくされている。その道に沿うてただ一叢二叢僅かに聳えた木立が、そこのみが人里近いことを</seg><app type="base-text-variant" source="#source-15412-15466"><lem><seg source="#source-15403-15412">思わす</seg></lem><rdg type="base-text"><seg source="#source-15451-15460">思わず</seg></rdg></app><seg source="#source-15466-15645">だけで、どこをどう見ても、底寒い死気が八方から迫ってくるような、引き入れられるような、陰気な心持を誘われるのであった。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-15645-16502">古河の町をはずれて、高い堤防の上から谷中村かと思われる沼地の中の道に踏み入ろうとして私はかつて人の話に聞いて勝手に想像していた谷中村というものとは、あまりの相違にすべての自分の想像から持っている期待の取捨に迷いながら、やっとこの土手まで来たのであった。先刻道を聞いた時、橋番がいっていたように、なるほど廃村谷中の跡はここから一と目に見渡せるのであった。しかも見渡した景色は、瞬間に、私の及びもつかない想像をも期待をも押し退けた。それはここまでのみちすがらにさんざん私を悩ました、あの人気のない、落莫とした、取りつき端のないような景色よりも、更に思いがけないものだった。</seg></p>
        <p>「まあひどい！」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-16528-17238">そういったなりで、後の言葉がつづかなかった。ひどい！　という言葉も、私が今一度に感じた複雑な感じのほんの隅っこの切れっぱしにすぎないとしか思えないような、不満な思いがするのであった。冬ではあるが、それでも、こうして立っている足元から前に拡がったこの広大な地に、目の届く処にせめて、一本の生々とした木なり草なり生えてでもいることか、ただもう生気を失って風にもまれる枯れ葦ばかり、虫一匹生きていそうなけはいさえもない。ましてこの沼地のどこに人が住んでいるのだなどと思えよう？</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-17238-17414">案内役になった連れの男はさっさと歩いていく。どこをどう行くのかも分らずに、ついていくのに不安を感じては私は聞いた。</seg></p>
        <p>「谷中の人達の住んでいる処まではまだよほどあるのですか？」</p>
        <p>「そうですね、この土手をずっとゆくのです。一里か一里半もありますかね。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-17613-18200">道は幅も広く平らだった。しかし、この道をもう一里半も歩かなければならないということは私にはかなり思いがけもないつらいことだった。ことに帰りもあるのに、この人里離れた処では乗物などの便宜のないというわかり切ったことがむやみに心細くなりだした。それでもこの雪もよいの寒空に自分から進んで、山岡までも引っぱって出かけて来ておいて、まさかそのようなことまでも、口へ出してはいいかねて黙って歩いた。</seg></p>
        <p>「こうして見ると広い土地だね、荒れていることもずいぶん荒れてるけれど、これで人が住んでいた村のあとだとはちょっと思えないね。」</p>
        <p>「本当にね。ずいぶんひどい荒れ方だわ。こんなにもなるものですかねえ。」</p>
        <p>「ああ、なるだろうね、もうずいぶん長い間の事だから。しかし、こんなにひどくなっていようとは思わなかったね。なんでも、ここは実にいい土地だったんだそうだよ。田でも畑でも肥料などは施らなくても、普通より多く収穫があるくらいだった、というからね。ごらん、そら、そこらの土を見たって、真黒ないい土らしいじゃないか。」</p>
        <p>「そういえばそうね。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-18997-19515">私は土手を匐うように低く生えた笹の葉の緑色を珍らしく見ながらそういった。この先の見透しもつかないような広い土地――今はこうして枯れ葦に領されたこの広い土地――に、かつてはどれだけの生きものがはぐくまれたであろう。人も草木も鳥も虫もすべての者が。だが、今はそれ等のすべてが奪われてしまったのだ。そして土地は衰え果ててもとのままに横たわっている。</seg></p>
        <p>「なぜこのように広い、その豊饒な土地をこんなに惨めに殺したものだろう？」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-19625-20155">もとのままの土地ならば、この広い土地いっぱいに、春が来れば菜の花が咲きこぼれるのであろう。麦も青く芽ぐむに相違ない。秋になれば稲の穂が豊かな実りを見せるに相違ない。そうしてすべての生きものは、しあわせな朝夕をこの土地で送れるのだ。それだのに、何故、その豊かな土地を、わざわざ多くの金をかけて、人手を借りて、こんな廃地にしなければならなかったのだろう？</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-20155-20496">それは、私がこの土地のことについての話を聞いた最初に持った疑問であった。そして、私はその疑問に対する多くの答を聞いている。しかし現在この広い土地を見ては、やはり、そのような答えよりも最初の疑問がまず頭をもたげ出すのであった。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-20496-20645">歩いていく土手の道の内側の処々に、土手と並んで僅かな畑がある。先に歩いていく男は振り返りながら、</seg></p>
        <p>「こういう処はもと人家のあった跡なのですよ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-20716-21537">と思い出したように教えてくれる。もとは、この土地に住んでいた村民の一人だというその男は、この情ないような居村の跡に対しても、別段に何の感じもそそられないような無神経な顔をして、ずっと前にこの土地の問題が世間にかれこれいわれた時のことなどをポツリポツリ話しているのであった。そして、それもかつての自分達のことを話しているというよりは、まるで他人の身の上の事でも話しているような無関心な態度を、私は不思議な気持で見ていた。彼は惨苦のうちにこの土地に未練をもって、今もなお池の中に住んでいる少数の人達に対しても、冷淡な侮蔑を躊躇なく現わすのであった。</seg></p>
        <p>「ずっと向うにちょっとした木立がありますね。ええずっと遠くの方に、今煙が見えるでしょう？　あの少し左へよった処に、やはり木の茂った処が見えますね、あれがＳの家です。まだ大分ありますよ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-21818-22948">指さされた遙かな方に、ようやくのことで小さな木立が見出された。細い貧し気な煙も見える。私と山岡が、今尋ねて行こうとしている人達の住居はそこなのだった。連れの男は折々立ち止まっては、おくれる私達を待つようにして、一言二言話しかけてはまた先にずんずん歩いていく。道に添うて、先刻はただ一と目に広く大きいままに見た景色の中につつまれた、小さな一つ一つのみじめな景色が順々にむき出しにされて私達を迎える。いつか土手に添うた畑地はなくなって、土手のすぐ下の沿岸の、疎らになった葦間に、みすぼらしい小舟がつなぎもせずに乗り捨ててあったり、破れた舟が置きざりにされてあると見てゆくうちに、人の背丈の半ばにも及ばないような低い、竹とむしろでようやくに小屋の形をしたものが、腐れかかって残っていたりする、長い堤防は人気のない沼の中をうねり曲って、どこまでも続いている。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-22948-23226">山岡は乾いた道にステッキを強くつきあてては高い音をさせながら、十四五年も前にこの土地の問題について世間で騒いだ時分の話や、知人のだれかれがこの村のために働いた話をしながら歩いていく。</seg></p>
        <p>「今じゃみんな忘れたような顔をしているけれど、その時分には大変だったさ。それに何の問題でもそうだが、あの問題もやはりいろんな人間のためにずいぶん利用されたもんだ。あのＴという爺さんがまた非常に人が好いんだよ。それにもう死ぬ少し前なんかにはすっかり耄碌して意気地がなくなって、僕なんか会ってても厭になっちゃったがね。少し同情するようなことをいう人があるとすっかり信じてしまうんだよ。それでずいぶんいい加減に担がれたんだろう。」</p>
        <p>「そうですってね。でも、死ぬ時には村の人にそういってたじゃありませんか。誰も他をあてにしちゃいけないって。しまいにはこりたんでしょうね。」</p>
        <p>「そりゃそうだろう。」</p>
        <p>「だけど、人間の同情なんてものは、全く長続きはしないものなのね。もっとも各自に自分の生活の方が忙しいから仕方はないけれど。でも、この土地だって、そのくらいにみんなの同情が集まっている時に、何とか思い切った方法をとっていれば、どうにか途はついたのかもしれないのね。」</p>
        <p>「ああ、これでやはり時機というものは大切なもんだよ。ここだって<hi rend="bouten 傍点 right" source="#source-24599-24641"><seg source="#source-24599-24608">むしろ</seg></hi>旗をたてて騒いだ時に、その勢でもっと思い切って一気にやってしまわなかったのは嘘だよ。こう長引いちゃ、どうしたって、こういう最後になることは解り切っているのだからね。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-24892-25595">けれどとにかく世間で問題にして騒いだ時には、多くの人に涙をわかされた土地なのに、それが何故に何の効果も見せずに、こうした結末に来たのだろう？　よそ事としての同情なら続くはずもないかもしれない。しかし、一度はそれを自分の問題として寝食を忘れてもつくした人が、もう思い出して見ないというようなことが、どうしてあり得るのであろう？　私はこの景色を前にして、色々な過ぎ去った話を聞いていると、最初に私が、その事件に対して持った不平や疑問が、新たにまき返ってくるのであった。</seg></p>
      </div>
      <div type="layout" source="#source-25595-25656" style="padding-inline-start: 8em">
        <div>
          <head n="2" source="#source-25616-25652"><seg source="#source-25616-25619">三</seg></head>
        </div>
      </div>
      <div>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-25656-25937">私が初めてその谷中村という名を聞き、その事件について知り得たのは、三年か四年も前のことだ。その頃私の家に一番親しく出入していたＭ夫妻によって、初めて私はかなりくわしく話して聞かされた。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-25937-26371">ある日――それはたしか一月の寒い日だったと覚えている――Ｍ夫妻は、いつになく沈んだしかしどこか緊張した顔をして門をはいってきた。上がるとすぐ例のとおりに子供を抱き上げてあやしながら、ひとしきりよろこばしておいて、思い出したように傍にいた私に、明日から二三日他へゆくかもしれないといった。</seg></p>
        <p>「何方へ？」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-26391-26435">何気なしに私はそう尋ねた。</seg></p>
        <p>「え、実は谷中村までちょっと行ってきたいと思うのです。」</p>
        <p>「谷中村って何処なんです。」</p>
        <p>「ご存じありませんか、栃木ですがね。例の鉱毒問題のあの谷中ですよ。」</p>
        <p>「へえ、私ちっとも知りませんわ、その鉱毒問題というのも――」</p>
        <p>「ああそうでしょうね、あなたはまだ若いんだから。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-26838-26933">そう云ってＭ氏は妻君と顔見合わせてちょっと笑ってからいった。</seg></p>
        <p>「Ｔ翁という名前くらいはご存じでしょう？」</p>
        <p>「ええ、知ってますわ。」</p>
        <p>「あの人が熱心に奔走した事件なんです。その事件で問題になった土地なんです。」</p>
        <p>「ああそうですか。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-27184-27495">私にもそういわれれば何かの書いたものでＴ翁という人は知っていた。義人とまでいわれたその老翁が、何かある村のために尽したのだということも朧ろ気ながら知っている。しかしそれ以上のくわしい事は何も知らなかった。</seg></p>
        <p>「実は今日その村の人が来ましてね、いろいろ話を聞いてみると実にひどいんです。何だか、とてもじっとしてはいられないので一つ出かけて行って見ようと思うのです。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-27731-28099">Ｍ氏は急に、恐ろしく興奮した顔つきをして、突然にそういって黙った。私には何の事だかいっさい分らなかったけれど、不断何事にも真面目なＭ氏のひと通りのことではないような話の調子に、まるで外れているのも済まぬような気がして、さぐるようにして聞いた。</seg></p>
        <p>「その村に、何かあったのですか？」</p>
        <p>「実はその村の人たちが水浸りになって死にそうなんです。水責めに遇っているのですよ。」</p>
        <p>「え、どうしてですか？」</p>
        <p>「話が少しあとさきになりますが、谷中村というものは、今日ではもうないことになっているんです。旧谷中村は全部堤防で囲まれた貯水池になっているんです。いいかげんな話では解らないでしょうけれど。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-28605-28694">こういってＭ氏はまず鉱毒問題というものから話しはじめた。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-28694-29533">谷中村は栃木県の最南端の、茨城と群馬と接近した土地で、渡良瀬という利根の支流の沿岸の村なのであるが、その渡良瀬の水源が足尾の銅山地方にあるので、銅山の鉱毒が渡良瀬川に流れ込んで、沿岸の土地に非常な被害を及ぼした事がある。それが問題となって、長い間物議の種になっていたが、政府の仲介で鉱業主と被害民の間に妥協が成立して、ひとまずそれは片附いたのだ。しかし水源地の銅山の樹が濫伐されたために、年々洪水の被害が絶えないのと、その洪水のたびに、やはり鉱毒が濁水と一緒に流れ込んでくるので、鉱毒問題の余炎がとかく上りやすいので、政府ではその禍根を絶つことに腐心した。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-29533-31125">水害の原因が水源地の濫伐にあることは勿論であるが、栃木、群馬、茨城、埼玉等の諸県にまたがるこの被害のもう一つの原因は、利根の河水の停滞ということにもあった。本流の河水の停滞は支流の渡良瀬、思等の逆流となって、その辺の低地一帯の氾濫となるのであった。そこでその河水の停滞をのぞくために、河底をさらえるということ、その逆流を緩和さすための貯水池をつくることが最善の方法として選ばれた。そして渡良瀬、思の両川が合して利根の本流に落ちようとする処、従って、いつも逆流の正面に当って一番被害の激しい谷中村がその用地にあてられたのである。土地買収が始まった。躍起となった反対運動も、何の効も奏しなかった。激しい反対の中に買収はずんずん遂行された。しかし、少数の強硬な反対者だけはどうしても肯んじなかった。彼等は祖先からの由緒をたてに、官憲の高圧的な手段に対しての反抗、または買収の手段の陋劣に対する私憤、その他種々なからみまつわった情実につれて、死んでも買収には応じないと頑張った。大部分の買収を終わって、既に工事にかかった当局は、この少数の者に対しては、どうしても、土地収用法の適用によって、他に立ち退かすより他はなかった。そこで、その残った家の強制破壊が断行された。</seg></p>
        <p>「その土地収用法というのはいったい何です？」</p>
        <p>「そういう法律があるんです。政府で、どうしても必要な土地であるのを、買収に応じないものがあれば、その収用法によって、立ち退きを強制することが出来るのです。」</p>
        <p>「へえ、そんな法律があるんですか。でも家を毀すなんて、乱暴じゃありませんか。もっとも、それが一番有効な方法じゃあるでしょうけれど、あんまりですね。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-31653-31736">その家屋破壊の強制執行は、更に残留民の激昂を煽った。</seg></p>
        <p>「そのやり方もずいぶんひどいんですよ。本当ならばまず毀す前に、みんなを収容するバラックくらいは建てておいて、それからまあ毀すなら毀して、それも他の処に建ててやるくらいの親切はなければならないんです。それをなんでも家を毀して、ここにいられないようにしさえすればいいくらいの考えで、滅茶苦茶にやったんでしょう。それじゃ、とても虫をおさえている訳にはゆきませんよ。第一他にからだのおき場所がないんですからね。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-32344-33150">彼等はあくまで反抗する気で、そこに再び自分達の手でやっと雨露をしのげるくらいの仮小屋を建てて、どうしても立ち退かなかった。もちろん、下げ渡されるはずの買収費をも受けなかった。県当局も、それ以上には手の出しようはなかった。彼等がどうしても、その住居に堪えられなくなって立ち退くのを待つより他はなくなった。しかし、それから、もう十年の月日が経った。工事も済んで谷中全村の広い地域は、高い堤防を囲まれた一大貯水池になった。そして河の増水のたびに、その貯水池の中に水が注ぎ込まれるのであった。それでも彼等はそこを去りそうな様子は見せなかった。</seg></p>
        <p>「今となっちゃ、もういよいよ動く訳にはゆかないようになっているんでしょう。一つはまあそうした行きがかりの上から意地にもなっていますし、もう一つは、最初は手をつけるはずでなかった買収費も、つい困って手をつけた人もあるらしいので、他へ移るとしても必要な金に困るようなことになったりして。処が、この頃にまた提防を切ったんだそうです。そこからは、この三月時分の水源の山の雪がとけて川の水嵩がましてくると、どんどん水がはいってきて、とても今のようにして住んでいることはできないんだそうです。当局者は、そうでもすれば、どうしても他へゆかなければならなくなって立ち退くだろうという考えらしいのですがね。残っている村民は、たとえその水の中に溺れても立ち退かないと決心しているそうです。Ｓというその村の青年が、今度出て来たのもその様子を訴えに来たような訳なのです。」</p>
        <p>「ずいぶんひどいことをしていじめるのですね。じゃ今だって水に浸っているようなものなんですね。その上に水を入れられちゃ堪ったものじゃありませんわ。そして、そのことは世間じゃ、ちっとも知らないんですか？」</p>
        <p>「ずっと前には鉱毒問題から続いて、収用法適用で家を毀されるようになった時分までは、ずいぶん世間でも騒ぎましたし、一生懸命になった人もありましたけれど、何しろ、もう三十年も前から続いた事ですからねえ、大抵の人には忘れられているのです。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-34929-35378">それは私には全く意外な答えであった。まず世間一般の人達はともあれ、一度は、本当に一生懸命にそのために働いた人があるとすれば、今また新しくそうした最後の悲惨事を、どう上の空で黙過することが出来るのだろう？　私はＭ氏に、何か不満なその考えをむき出しにしていった。しかしＭ氏はおしなだめるようにいった。</seg></p>
        <p>「それゃ、あなたは初めて聞いたんだからそう思うのはあたりまえですけれど、みんなは、『まだ片付かなかったのか』くらいにしか思いはしないのでしょうよ。そういうことはほんとうに不都合なことです。不都合なことですけれど、しかし、それが普通のことなんですから。いまは三河島に引っ込んでいるＫさん、ご存じでしょう？　あの人でさえ、一時は、あの問題のために一身を捧げるくらいな意気込みでいたんですけれど、今日じゃ、何のたよりにもならないのですからねえ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-36040-36258">Ｋ氏といえば、一時は有力な社会主義者として敬意を払われた人である。創作家としても、その人道的な熱と情緒によって多くの読者を引きつけた人である。</seg></p>
        <p>「へえ、Ｋさん？　ああいう人でも――」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-36317-36349">私は呆れていった。</seg></p>
        <p>「Ｋさんも、前とはよはど違っていますからねえ。しかしＫさんばかりじゃない、皆がそうなんです。要するに、もうずいぶん長い間どうすることもできなかったくらいですから、この場合になっても、どう手の出しようもないから、まあ黙って見ているより仕方はあるまいというのがみんなの考えらしいんです。しかし。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-36789-37724">Ｍ氏はいったん言葉を区切ってからいった。手の出しようのないのは事実だ。今まで十年もの間苦しみながら、しがみついて残っていた土地から、今になってどうして離れられよう、という村民の突きつめた気持に同情すれば溺れ死のうという決心にも同意しなければならぬ。といって手を束ねてどうして見ていられよう！　けれど、事実の上ではやはり黙って見ているより他はないのだ。しかし、どうしても自分は考えてみるだけでも忍びない。この自分の気持を少しでも慰めたい。せめて、その人達と暫くの間でもその惨めな生活を共にして、その人達の苦しみを自分の苦しみとして、もし幾分でも慰められるものなら慰めたいというようなことを、センティメンタルな調子でいった。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">私もいつか引込まれて暗い気持に襲われ出した。しかし私には、どうしても、「手の出しようがない」ということが腑に落ちなかった。とに角幾十人かの生死にかかわる悲惨事ではないか。何故に犬一匹の生命にも無関心ではいられない世間の人達の良心は、平気でそれを見のがせるのであろうか。手を出した結果が、どうあろうと、のばせるだけはのばすべきものではあるまいか。人達の心持は「手の出しようがない」のではない「手を出したってつまらない」というのであろう。</p>
        <p>「ではもう、どうにも手の出しようはないというのですね。本当に採って見る何の手段もないのでしょうか？」</p>
        <p>「まあそうですね、もうこの場合になってはちょっとどうすることもできませんね。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-38651-39100">しかし、結果はどうとしても、何とかみんなの注意を引くことくらいできそうなものだ、と私は思うのであった。こういうことを、いくら古い問題だからといって、知らぬ顔をしているのはひどい、私はＭ氏の話に感ずるあきたらなさを考え詰める程、だんだんにある憤激と焦慮が身内に湧き上がってくるのを感ずるのであった。</seg></p>
        <p>「Ｓという人は、Ｋ氏やＨ氏の処に、そのことで何か相談に来たんですか。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-39207-39269">今まで黙っていたＴが突然に口を出した。</seg></p>
        <p>「ええ、まあそうなんです。しかし、村民もいまさら他からの救いをあてにしてるわけではないので、相談というのも、ほんの知らせかたがたの話に来たくらいのものなんですけれど、どうも話を聞いて見ると実に惨めなもんです。実際どうにかなるもんなら――」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-39628-40140">Ｍ氏はそういって、どうにも手出しの出来ない事をもう一度述べてから、Ｋ氏のろくに相手にもならない心持は、多分、今当局に、他からいくら村民達の決心を呑み込ませようとしても無駄だから、やはりどこまでも、本人達によって示されなければ、手応えはあるまいということ、そうした場合になれば、ひとりでに世間の問題にもなるだろうという考えだろうと説明した。</seg></p>
        <p>「僕もそう思いますね。実際もう何とも仕方のない場合になってきているのですからねえ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-40268-40368">Ｔは冷淡な調子で、もうそんな話は片付けようとするようにいった。</seg></p>
      </div>
      <div type="layout" source="#source-40368-40429" style="padding-inline-start: 8em">
        <div>
          <head n="2" source="#source-40389-40425"><seg source="#source-40389-40392">四</seg></head>
        </div>
      </div>
      <div>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-40429-40689">けれど、私はそれなりで話を打ち切ってしまうには、あまりにその話に興奮させられていた。私はできるだけ、その可愛想な村民達の生活を知ろうとして、Ｍ氏に根掘り葉掘り聞き始めた。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-40689-41474">彼等の生活は、私の想像にも及ばない惨めさであった。わずかに小高くなった堤防のまわりの空地、自分達の小屋のまわりなどを畑にして耕したり、川魚をとって近くの町に売りに出たりしてようやくに暮らしているのであった。そればかりか、とてもそのくらいのことではどうする事もできないので、貯水池の工事の日傭いになって働いて、ようやく暮している人さえあるのであった。その上にマッチ一つ買うにも、二里近くの道をゆかなければならないような、人里離れた処で、彼等の小屋の中は、まっすぐに立って歩くこともできないような窮屈な不完全なものであった。</seg></p>
        <p>「よくまあ、そんなくらしを十年も続けてきたものですねえ。で、その他の、買収に応じて他へ立ち退いた人達はどうなっているんです？」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-41665-41994">私の頭の中では聞いてゆく事実と、私の感情が、いくつもいくつもこんぐらがっていっぱいになっていた。しかし、そのもつれから起こってくる焦慮に追っかけられながらも、なお聞くだけのことは聞いてしまおうとして尋ねるのであった。</seg></p>
        <p>「ええ、その人達がまたやはり、お話にならないような難儀をしているのです。みんなが苦しみながら、でもまだ、谷中に残っているのは、一つはそのためでもあるんです。今いる人達の間にもいったんは他へ行って、また戻ってきた人などもあるんだそうです。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-42353-43645">買収に応じた人達も、残った人達に劣らぬ貧困と迫害の中に暮さなければならなかった。最初はいいかげんな甘言にのせられて、それぞれ移住して、ある者は広い未開の地をあてがわれて、そこを開墾し始めた。しかし、それは一と通りや二通りの困難ではなかった。長い間朝も晩も耕し、高い肥料をやっても、思うような耕地にはならなかった。収穫はなしわずかばかりの金はなくなる。人里遠い荒涼とした知らない土地に、彼らは寒さと飢えにひしひし迫られた。ある者は、たまたま住みよさそうな処に行っても、そこでは土着の人々からきびしい迫害を受けなければならなかった。彼等のたよりは、わずかな金であった。その金がなくなれば、どうすることもできなかった。土を耕すことより他には、何の仕事も彼等は知らないのだ。耕そうにも土地はないし、金はなくなるといえば、彼等はその日からでも路頭に迷わねばならなかった。そうしたはめになって、ある者は再び惨めな村へ帰った。ある者は何のあてもない漂浪者になって離散した。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-43645-44760">Ｍ氏によって話される悲惨な事実は、いつまでも尽きなかった。ことに、貯水池についての利害の撞着や、買収を行なうにあたっての多くの醜事実、家屋の強制破壊の際の凄惨な幾多の悲劇、それらがＭ氏の興奮した口調で話されるのを聞いているうちに、私もいつかその興奮の渦の中に巻き込まれているのであった。そして、それ等の事実の中に何の罪もない、ただ善良な無知な百姓達を惨苦に導く不条理が一つ一つ、はっきりと見出されるのであった。ああ！　ここにもこの不条理が無知と善良を虐げているのか。事実はよそごとでもその不条理の横暴はよそごとではない。これをどう見のがせるのであろう？　かつてその問題のために一身を捧げてもと、人々を熱中せしめたのも、ただその不条理の暴虐に対する憤激があればこそではあるまいか。それ等の人はどういう気持ちで、その成行きを見ているのであろう？</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-44760-45392">Ｍ氏は日が暮れてからも、長いこと話していた。夫婦が辞し去ってから、机の前に坐った私は、暫くしてようやく興奮からのがれて、初めて、いくらか余裕のある心持ちで考えてみようとする落ち付きを持つことができた。けれど、その沈静は、私の望むような、批判的な考えの方には導かないで、何となく物悲しい寂しさをもって、絶望的なその村民達の惨めな生活を想像させるのであった。私の心は果てしもなく拡がる想像の中にすべてを忘れて没頭していた。</seg></p>
        <p>「おい、何をそんなに考え込んでいるんだい？」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-45460-45561">よほどたってＴは、不機嫌な顔をして、私を考えの中から呼び返した。</seg></p>
        <p>「何って先刻からのことですよ。」</p>
        <p>「なんだ、まだあんなことを考えているのかい。あんなことをいくら考えたってどうなるもんか。それよりもっと自分のことで考えなきゃならないことがうんとあらあ。」</p>
        <p>「そんなことは、私だって知っていますよ。だけど他人のことだからといって、考えずにゃいられないから考えているんです。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-46020-46949">私はムッとしていった。どうにもならない他人のことを考えるひまに、一歩でも自分の生活を進めることを考えるのが本当だということくらい知っている。Ｔの個人主義的な考えの上からは、私がいつまでも、そんなよそごとを考えているのは、馬鹿馬鹿しいセンティメンタリストのすることとして軽蔑すべきことかもしれない。現に今日私とＭ氏との間に交わされた話も、彼には普通の雑談として聞かれたにすぎない。けれど、今私を捉えている深い感激は、彼のいわゆる幼稚なセンティメンタリズムは、彼の軽蔑くらいには何としても動かなかった。そればかりではない、今日ばかりはそうした悲惨な話に、無関心なＴのエゴイスティックな態度が忌々しくて堪らないのであった。</seg></p>
        <p>「他人の事だからといって、決して余計な考えごとじゃない、と私は思いますよ。みんな同じ生きる権利を持って生れた人間ですもの。私たちが、自分の生活をできるだけよくしよう、下らない圧迫や不公平をなるべく受けないように、と想って努力している以上は、他の人だって同じようにつまらない目には遇うまいとしているに違いないんですからね。自分自身だけのことをいっても、そんなに自分ばかりに没頭のできるはずはありませんよ。自分が受けて困る不公平なら、他人だって、やはり困るんですもの。」</p>
        <p>「そりゃそうさ。だが、今の世の中では誰だって満足に生活している者はありゃしないんだ。皆それぞれに自分の生活について苦しんでいるんだ。それに他人のことまで気にしていた日には、切りはありゃしないじゃないか。そりゃずいぶん可愛想な目に遇ってる者もあるさ。しかし、そんな酷い目に遇っている奴等は、意気地がないからそういう目に遇うんだと思えば間違いはない。いつでも愚痴をいってる奴にかぎって弱いのと同じだ。自分がしっかりしていて、不当なものだと思えばどんどん拒みさえすればそれでいいんだ。世の中のいろんなことが正しいとか正しくないとかそんなことがとても一々考えられるものじゃない。要するに、みんなが各々に自覚をしさえすればいいんだ。今日の話の谷中の人達だって、もう家を毀されたときから、とても自分達の力で叶わないことは知れ切っているんじゃないか。少しばかりの人数でいくら頑張ったってどうなるものか。そんな解り切ったことにいつまでも取りついているのは愚だよ。いわば自分自身であがきのとれない深みにはいったようなもんじゃないか。」</p>
        <p>「そんなことが解れば苦労はしませんよ。それが解る人は買収に応じてとうに、もっと上手な世渡りを考えて村を出ています。何もしらないから苦しむんです。一番正直な人が一番最後まで苦しむことになっているのでしょう？　それを考えると、私は何よりも可愛想で仕方がないんです。」</p>
        <p>「可愛想は可愛想でも、そんなのは何にも解らない馬鹿なんだ。自分で生きてゆくことのできない人間なんだ。どんなに正直でもなんでも、自分で自分を死地におとしていながらどこまでも他人の同情にすがることを考えているようなものは卑劣だよ。僕はそんなものに向って同情する気にはとてもなれない。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-49843-50085">私は黙った。しかし頭の中では一時にいいたいことがいっぱいになった。いろいろＴのいったことに対しての理屈が後から後からと湧き上がってきた。Ｔはなお続けていった。</seg></p>
        <p>「お前はまださっきのＭさんの興奮に引っぱり込まれたままでいる。だから本当に冷静に考えることができないのだよ。明日になってもう一ど考えてごらん。きっと、もっと別の考え方ができるに違いない。お前が今考えているように、みんながいくら決心したからといって、決して死んでしまうようなことはないよ。そういうことがあるものか。よしみんなが溺れようとしたって、きっと救い出されるよ。そして結局は無事にどこかへ、おさまってしまうんだ。本当に死ぬ決心なら相談になんぞ来るものか。今いっている決心というのは、こうなってもかまってくれないかという面当てなんだ、脅かしなんだ。なんで本気に死ぬ気でなんかいるもんか。もし、そうまで谷中という村を建て直したいのなら、どこか他のいい土地をさがして立派に新らしい谷中村を建てればいいんだ。その意気地もなしに、本当に死ぬ決心ができるものか。お前はあんまりセンティメンタルに考え過ぎているのだよ。明日になって考えてごらん、きっと今自分で考えていることが馬鹿々々しくなるから。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-51419-51499">けれど、この言葉は、私にはあまりに酷な言葉だった。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-51499-51723">私がいま、できるだけ正直で善良で可愛想な人達として考えている人々の間に、そんな卑劣なことが考えられているのだというようなことを、どうして思えよう！</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">だが私はまた、「その善良な人達が何でそんなことを考えるものですか」とすぐに押し返していう程にも、そのことを否定してしまうことはできなかった。</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-51938-51979">けれど、なお私は争った。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">この可愛想な人達の「死ぬ」という決心が、よしＴのいうように面当てであろうと、脅かしであろうと、どうして私はそれを咎めよう。もしそれが本当に卑劣な心からであっても、そんなに卑劣には何がしたのだろう？</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-52278-52643">自分の力でたつ事が出来ないものは、亡びてしまうより他に仕方がない。そうして自から、その自分を死地に堕す処に思いきり悪く居残っているものが亡びるのは当然のことだ。それに誰が異議をいおう。だのに、私はなぜその当然のことに楯つこうとするのだろう？</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-52643-53019">私はそこに何かを見出さなければならないと思いあせりながら、果しもない、種々な考えの中になにも捕捉しえずに、何となく長い考えのつながりのひまひまに襲われる、漠然とした悲しみに、床についても、とうとう三時を打つ頃まで私の目はハッキリ灯を見つめていた。</seg></p>
      </div>
      <div type="layout" source="#source-53019-53080" style="padding-inline-start: 8em">
        <div>
          <head n="2" source="#source-53040-53076"><seg source="#source-53040-53043">五</seg></head>
        </div>
      </div>
      <div>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-53080-53484">次の日も、その次の日も、当座は毎日のように、私は目前に迫った仕事のひまひまには、黙って一人きりでその問題について考えていた。Ｔのいったことも、漸次に、何の不平もなしに真実に受け容れる事ができてきはしたけれど、最初からの私自身が受けた感じの上には何の響きもこなかった。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-53484-53894">Ｔの理屈は正しい。私はそれを理解することはできる。しかし、私にはその理屈より他に、その理屈で流してしまうことのできない、事実に対する感じが生きている。私はそれをＴのように単に幼稚なセンティメンタリズムとして、無雑作に軽蔑することもできないし、無視することもできないのだ。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">私がたまたま聞いた一つの事実は、広い世の中の一隅における、ほんの一小部分の出来事に過ぎないのだ。もっともっと酷い不公平を受けている人も、もっと悲惨な事もあるかもしれないということくらいは、私にも解らない事はない。けれど私は、それ等の事実にかんがみて、直ちに「まず自分の生活をそのように惨めに蹂躙されないように、自分自身の生活から堅固にして行かねばならぬ」と考えてしまうことはできない。もちろん、まず自身の生活に忠実であらねばならぬということは、私達の生活の第一義だとは、私も考えるけれど、私自身の今日までの生活を省みて、本当に自分の生活を意のままにしようと努力して、その努力に相当する結果が、一つでも得られたろうか？　私達は大抵の場合、自分達の努力に幾十倍、幾百倍ともしれない世間に漲った不当な力に圧迫され、防ぎ止められて、一歩も半歩も踏み出すことはおろか、どうかすれば反対に、底の底まで突き落されはね飛ばされなければならなかったではないか？　ただ、「正しく、偽わらず、自己を生かさんがために」のみ、どれ程の無駄な努力や苦痛を忍ばねばならなかったかを思えば、いろいろな堪えがたい不当な屈辱をどうして忍ばねばならなかったかを思えば、「不公平を受ける奴は意気地がないからだ」と、ひと口にいい切ってしまうことがどうしてできよう？　私達はまだ、どんな不当な屈辱をでも忍ぶだけの、どんな苦痛をも堪え得る、自分に対する根拠のある信条をも持っていれば、物事の批判をするに都合のいい、いくらかの知識も持っている。意気地がないという、その多数の人達にはそれがない。単に「天道様が見ていらっしゃる」くらいの強いられた、薄弱な拠り処では、彼等の受けている組織立った圧迫には、あまりに見すぼらし過ぎる。それだから「乗ぜられ圧倒されるのが当り前」だけれど、私はそれだからなおさら無知な人達が可愛想でならない。気の毒でならない。人間として持って生まれた生きる権利に何の差別があろう？　だのに、なぜ、ただ無知だからといって、その正しい権利が割引されなければならないのか？　恐らく、それに対する答えはただ一つでいい。どんなに無知であろうとも、彼等はその一つのことを知りさえすればいいのだ、だが、彼等はそれを何によって知ればいいのだろう？「彼等自身で探しあてるまで」待つより仕方がないという人もあるだろう？　けれど、それまでじっと見ていられぬ者はどうすればいいのだろう？</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-56953-57138">自分も生きるためには戦わねばならない。そして同時に、もっと自分よりも可愛想な人々のためにも戦うことはできないであろうか。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">私が今日まで一番自分にとって大切なこととしていた「自己完成」ということが、どんな場合にでもどんな境地においても、自分の生活においての第一の必須条件であるという事は、私にはだんだん考えられなくなってきた。</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-57446-57604">私達は本当に、どんな場合にでも、与えられるままの生活で、自分を保護する事より他に出来ないのであろうか。</seg></p>
        <p>「虐げられているのは少数の者ばかりじゃないのだ。大部分の人間が、みんな虐げられながら惨めに生きているのだ。今はもう、何だって一番わるい状態になっているのだ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-57843-57995">深い溜息といっしょに、私はこんなことしか考えることはできなかった。幾度考えてみても同じことだった。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-57995-58126">けれど、私はこうして自分の考えを逐いまくられると、きまって夢想する他の世界があった。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">ほんの些細なことからでも考え出せば人間の生活の悉ゆる方面に力強く、根深く喰い込み枝葉を茂げらしている誤謬が、自分達の僅かな力で、どうあがいたところで、とても揺ぎもするものではないという絶望のドン底に突き落される。ではどうすればいいだろう？　私はそのたびに、自分の力の及ぶかぎり自分の生活を正しい方に向け正しい方に導こうと努力しているのだということに僅かに自分を慰めて、自分の小さな生活を保ってきた。しかし、第一に私は手近かな、家庭というもののために、不愉快な「忍従」のしつづけであった。種々な場合に、そんな時には何の価値もない些細な家の中の平和のために、そして自分がその家庭の侵入者であるがために、自分の正しい行為やいい分を、遠慮しなければならないことが多かった。その小さな一つ一つが、やがて全生活をうずめてしまう油断のならない一つ一つであることを知りながらでも、その妥協と譲歩はしなければならなかったのだ。そして、それが嵩じてくると、何もかも呪わしく、馬鹿らしく、焦立たしくなるのだった。</p>
        <p>「こんなにも苦しんで、私は一体何をしているのだろう。余計な遠慮や気がねをしなければならないような狭い処で、折々思い出したように自分の気持を引ったててみるくらいのことしかできないなんて――」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-59750-60238">同じ事ならこんな誤謬にみちた生活にこびりついていなくたって、いっそもう、何も彼も投げすてて広い自由のための戦いの中に、飛び込んでゆきたいと思うのだった。そのムーブメントの中に飛び込んで行って、力一杯に手ごたえのある事をして見たいと思うのだった。自分のもっているだけの情熱も力もそこならばいっぱいに傾け尽くせそうに思われた。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-60238-60426">私は、自分の現在の生活に対する反抗心が炎え上がると、そういう特殊な仕事の中に、本当に強く生きて動く自分を夢想するのだった。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-60426-60836">しかし、その夢想と眼前の事実の間には、文字通りの隔りがあった。私はやはり夢想を実現させようとする努力よりも、一日々々の事に逐われていなければならなかった。けれどそれは決してそうして放って置いてもいいことではなかった。必ずどっちかに片をつけなければならないことなのだった。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">私に、特にそうした、はっきりした根のある夢想を持たせるように導いたのは、山岡が二三年前に創めた「Ｋ」雑誌であった。私は何にも知らずに、そのうすっぺらな創刊号を手にしたのであった。私の興味は一度に吸い寄せられた。号を逐って読んでいるうちに、だんだんに雑誌に書かれるものに対する興味は、その人達の持つ思想や主張に対する深い注意に代っていった。そのうちに私の前に、もっと私を感激させるものが置かれた。それは、エンマ・ゴオルドマンの、特に、彼女の伝記であった。私はそれによって始めて、伝道という「奴隷の勉強をもって働き、乞食の名誉をもって死ぬかもしれない」仕事に従事する人達の真に高価な「生き甲斐」というようなものが本当に解るような気がした。</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">それでも、私はまだできるだけ不精をしようとしていた。それには、一緒にいるＴの影響も大分あった。彼は、ずっと前から山岡達の仕事に対しては理解も興味も持っていた。しかし、彼はいつもの彼の行き方どおりに、その人達に近よって交渉をもつことは嫌だったのだ。交渉をもつことが嫌だというよりは、彼は山岡達のサークルの人達が、どんなにひどい迫害を受けているかをよく知っていたので、その交渉に続いて起こる損害を受けるのが馬鹿らしかったのだ。それ故私もまた、それ程の損害を受けないでも、自分には、手近かな「婦人解放」という他の仕事があるのだ、「婦人解放」といった処で、これも間違いのない「奴隷解放」の仕事なのだから意味は一つなのだなどと、勝手な考えで遠くから山岡達の仕事を、やはり注意ぶかくは見ていた。</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-62822-62986">思いがけなく、今日まで避けてきたことを、今、事実によって、考えの上だけでも極めなければならなくなったのだ。</seg></p>
        <p>「曲りなりにも、とにかく眼前の自分の生活の安穏のために努めるか。遙かな未来の夢想を信じて『奴隷の勉強』をも、『乞食の名誉』をも甘受するか。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-63198-64675">もちろん私はどこまでも、自分を欺きとおして暮らしていけるという自信はない。そのくらいなら、これほど苦しまないでも、とうにどこかに落ちつき場所を見出しているに相違ない。では後者を選ぶか？　私はどのくらい、それに憧憬をもっているかしれない。本当に、すぐにも、何もかもすてて、そこに駆けてゆきたいのだ。けれど、そこに行くには、私の今までの生活をみんな棄てなければならない。苦しみあがきながら築きあげたものを、この、自分の手で叩きこわさねばならない。今日までの私の生活は、何の意味も成さないことになりはしないか？　それではあんまり情なさすぎる。しかし、今日までの私の卑怯は、みんなその未練からではないか。本当の自分の道が展かれて生きるためになら、何が欲しかろう？　何が惜しかろう？　何物にも執着はもつまい。もたれまい。ああ、だが――もし本当にこう決心しなければならない時が来たら――私はどんなことがあっても、辛い目や苦しい思いをしないようにとは思わないけれど、それにしても、今の私にはあまりにつらすぎる。苦しすぎる。せめて子供が歩くようになるまでは、ああ！　だが、それも私の卑怯だろうか？</seg></p>
      </div>
      <div type="layout" source="#source-64675-64736" style="padding-inline-start: 8em">
        <div>
          <head n="2" source="#source-64696-64732"><seg source="#source-64696-64699">六</seg></head>
        </div>
      </div>
      <div>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-64736-65092">Ｍ氏の谷中ゆきは実行されなかった。せっかく最終の決心にまでゆきついた人々に、また新らしく他人を頼る心を起こさしては悪いという理由で、他から止められたのであった。氏は私のために谷中に関することを書いたものを持ってきて貸してくれたりした。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-65092-65796">私がそれ等の書物から知り得た多くのことは、私の最初の感じに、さらに油を注ぐようなものであった。その最初から自分を捉えて離さない強い事実に対する感激を、一度はぜひ書いてみようと思ったのはその時からであった。そして、その事を考えついた時には、自分のその感じが、果して、どのくらいの処まで確かなものであるかを見ようとする、落ちついた決心も同時に出来ていた。それが確かめられる時に、私の道が始めて確かになる。私は本当にあわてずに自分の道がどう開かれてゆくかを見ようと思った。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-65796-66743">私がそうして、真剣に考えているようなことに対して、本当に同感し、理解をもつ事の出来る友人は私の周囲にはひとりもなかった。そういうことに対してはＴを措いて他にはないのに、今度はＴでさえも取り合ってはくれない……。私は本当にだまりこくって、独りきりで考えているより仕方がなかった。しかし、とにかく、私はさんざん考えた末に、二日ばかりたってから、思い切って山岡の処に初めての手紙を書いた。もちろん、谷中の話も、聞いてからの気持を順序もなく書いたものだった。私は、もしそれによって彼のような立場にいる人の考えをさぐることができればとも思い、また、それによって、自分の態度に、気持に、ある決定を与えることができればいいと思ったのであった。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-66743-67449">しかし私は彼からも、何ものをも受取ることができなかった。彼もまた、私の世間見ずな幼稚な感激が、きっと取り上げる何の価値もないものとして忘れ去ったのであろうと思うと、何となく面映ゆさと、軽い屈辱に似たものを感ずるのであった。同時に出来るだけ美しく見ていたその人の、強い意志の下にかくれた情緒に裏切られたような腹立たしさを覚えるのであった。私はもうこのことについては、誰にもいっさい話すまいと固く断念した。山岡にも其後幾度も遇いながら、それについては素知らぬ顔で通した。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">二年後に、私とＴとは、種々な事情から一緒に暮らすことはできないようにまで離れてきた。私はいったん家を出て、それから静かに、自分一人の「生き甲斐」ある仕事を本当にきめて勉強しようと思った。私はあんまり若くて、あがきのとれない生活の深味にはいったことを、本当に後悔していた。</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-67859-69178">けれど、事は計画どおりにすらすらとは、大抵の場合運ばない。もうその話にある決定がついて後に、山岡と私は初めて二人きりで会う機会を与えられた。そして、それがすべての場面を一変した。順当に受け容れられていたことが、すべて曲解に裏返された。私はその曲解をいい解くすべもすべての疑念を去らせる方法も知っていた。しかし、すべては世間体を取り繕う、利巧な人間の用いるポリシイとして、知っているまでだ。私はたとえばどんなに罵られようが嘲られようが、まっすぐに、彼等の矢面に平気でたってみせる。彼等がどんなに欺かれやすい馬鹿の集団かということを知っていても、私はそれに乗ずるような卑怯は断じてしない。第一に自分に対して恥ずかしい。また今度の場合、そんなことをして山岡にその卑劣さを見せるのはなおいやだ。どうなってもいい。私はやはり正しく生きんがために、あてにならない多数の世間の人間の厚意よりは、山岡ひとりをとる。それが私としては本当だ。それが事実か事実でないか、どうして私以外の人に解ろう？</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-69178-69297">Ｔと別れて、山岡に歩み寄った私を見て、私の少い友達も多くの世間の人と一緒に、</seg></p>
        <p>「邪道に堕ちた……」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-69329-69484">と嘲り罵った。けれど、彼等の中の一人でも、私のそうした深い気持の推移を知っている人があるであろうか？</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-69484-70164">久しい間の私の夢想は、かの谷中の話から受けた感激によって目覚まされた。私の目からは、もはや決して、夢想ではなく、彼の歩み入るべき真実の世界であった。その真実の前では、私は何ものにも左右されてはならなかった。こうして、私は恐らく私の生涯を通じての種々な意味での危険を含む最大の転機に立った。今まで私の全生活を庇護してくれたいっさいのものを捨てた私は、背負い切れぬほどの悪名と反感とを贈られて、その転機を正しく潜りぬけた。私は新たな世界へ一歩踏み出した。</seg></p>
        <p>「ようようのことで――」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-70202-71392">山岡と私は手を握り合わされた。しかしその握手は、二人にとっては、世間の人に眉をひそめさすような恋の握手よりは、もっと意味深いものであった。やっとのことで私の夢想は、悲しみと苦しみと歓びのごちゃごちゃになった、私の感情の混乱の中に実現された。私は彼の生涯の仕事の仲間として許された。一度は拒絶しても見たＹ――Ｋ――等いう彼と関係のある女二人に対しても、別に、何の邪魔も感じなかった。まっすぐに自分だけの道を歩きさえすればいいのだ。他の何事を省みる必要があろう？　とも思った。あんな二人にどう間違っても敗ける気づかいがあるものかと思った。またあんな事は山岡にまかしておきさえすればいい。自分達の間に間違いがありさえしなければ、自分達の間は真実なんだ。あとはどうともなれとも思った。要するに、私は今までの自分の生活に対する反動から、ただ真実に力強く、すばらしく、専念に生きたいとばかり考えていた。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-71392-71925">しかし、とはいうものの、山岡との面倒な恋愛に関連して、彼の経験した苦痛は決して少々のものではなかった。幾度私はお互いの愚劣な嫉妬のために、不快に曇る関係に反感を起こして、その関係から離れようと思ったかしれない。けれど、そんな場合にいつでも私を捕えるのは、私達の前に一番大事な生きるための仕事に必要な、お互いの協力が失われてはならないということであった。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-71925-72491">山岡に対する私の愛と信頼とは、愛による信頼というよりは、信頼によって生まれた愛であった。彼の愛を、彼に対する愛を拒否することは、もちろん私にとって苦痛でないはずはない。しかしそれはまだ忍べる。彼に対する信頼をすてることは、同時にせっかく見出した自分の真実の道を失わねばならぬかもしれない。それは忍べない。私はどうしても、どうなっても、あくまで自分の道に生きなければならない。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-72491-73168">そうして、私はすべてを忍んだ。本当に体中の血が煮えくり返る程の腹立たしさや屈辱に出会っても、私は黙って、おとなしく忍ばねばならなかった。それはあらゆる非難の的となっている、私の歩みには、必然的につきまとう苦痛だったのだ。そして、私が一つ一つそれを黙って切り抜けるごとに、卑劣で臆病な俗衆はいよいよ増長して調子を高める。しかし、たとえ千万人の口にそれが呪咀されていても、私は自身の道に正しく踏み入る事のできたのは、何の躊躇もなく充分な感謝を捧げ得る。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-73168-73728">谷中の話を聞いた当座の感激は、今の私にはもうまったくないといってもいい。しかし、その感激は知らず知らずのうちに俗習と偏見の生活に巻き込まれ去ろうとする私を救い出した。谷中村と云う名は、今はもう忘れようとしても忘れられぬ程に、私の頭に刻み込まれている。もちろん、山岡と私の間には、その話は折々繰り返された。一度はその廃村の趾を見ておきたいという私のねがいにも彼は賛成した。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-73728-74012">ちょうど、四五日前の新聞の三面に、哀れな残留民がいよいよこの十日限りで立ち退かされるという十行ばかりの簡単な記事を私は見出した。すぐに、私の頭の中には、三四年前のＭ氏の話が思い出された。</seg></p>
        <p>「もういよいよこれが最後だろう。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-74065-74342">という山岡の言葉につけても、ぜひ行って見たいという私の望みは、どうしても捨てがたいものになった。とうとう、その十日が今日という日、私は山岡を促し立てて、一緒に来て貰ったのであった。</seg></p>
      </div>
      <div type="layout" source="#source-74342-74403" style="padding-inline-start: 8em">
        <div>
          <head n="2" source="#source-74363-74399"><seg source="#source-74363-74366">七</seg></head>
        </div>
      </div>
      <div>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-74403-75413">行く手の土手に枯木が一本しょんぼりと立っている。低く小さく見えた木は、近づくままに高く、木の形もはっきりと見えてきた。木の形から推すと、かつては大きく枝葉を茂らしていた杉の木らしい。それはこの何里四方という程な広い土地に、たった一本不思議に取り残されたような木であった。かつては、どんなに生々と、雄々しくこの平原の真ん中に突っ立っていたかと思われる、幾抱えもあるような、たくましい幹も半ばは裂けて凄ましい落雷のあとを見せ、太く延ばしたらしい枝も、大方はもぎ去られて見るかげもない残骸を、いたましくさらしている。しかも、その一本の枯れた木に、四辺の景色が、他の一帯に生気を失った、沈んだ、惨めな景色よりも、いっそう強い何となく底しれぬ物凄さを潜めているような感じさえする。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-75413-76144">行くほど空の色はだんだんに沈んでき、沼地はどこまでともしらず広がり、葦間の水は冷く光り、道はどこまでも曲りくねっている。連れの男はずんずん先に歩いて行くので、折々姿を見失ってしまう。二人の話がとぎれると、私達の足元からもつれて起こる草履と下駄とステッキの音が、はっきりと四辺に響いてゆく。黙って引きずるように歩いている自分の足音を聞きながら、この人里遠いあたりの荒涼たる景色に目をやってゆくと、まるで遠い遠い旅で知らぬ道に踏み迷っているような心細さがひとりでに浮かんでくるのであった。</seg></p>
        <p>「どうしたい？」</p>
        <p>「まだかしら、ずいぶん遠いんですね。」</p>
        <p>「もうじきだよ。くたびれたのかい。もっとしっかりお歩きよ。足をひきずるから歩けないんだ。今から疲れてどうする？」</p>
        <p>「だって私こんなに遠いとは思わなかったんですもの、こんな処、とても私達だけで来たんじゃ解りませんね。あの人が通りかかったので、本当に助かったわ。」</p>
        <p>「ああ、これじゃちょっと分らないね。どうだい、一人でこんなに歩けるかい。今日は僕こないで、町子ひとりをよこすんだったなあ、その方がきっとよかったよ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-76847-76859">山岡は</seg><hi rend="bouten 傍点 right" source="#source-76859-76907"><seg source="#source-76859-76871">からかい</seg></hi><seg source="#source-76907-76942">面にそんなことをいう。</seg></p>
        <p>「歩けますともさ。だって、今そんなことをいったってもう一緒に来ちゃったもの仕方がないわ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-77079-77630">私はそういった。けれど山岡の冗談は、私には何となくむずがゆく皮肉に聞こえた。先刻から眼前の景色に馴れ、真面目な話が途切れると、他に人目のない道を幸いに、私は彼に向って甘えたり、ふざけたりして来た。彼のその軽い冗談ごかしの皮肉に気づくと、私はひとりでに顔が赤くなるように感じた。その感じを胡魔化すようにいっそうふざけてもみたが、私の内心はすっかり悄気てしまっていた。</seg></p>
        <p>「何しに来た？」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-77656-78153">そういって正面からたしなめられるよりも幾倍か気がひけた。本当に、考えてみれば、あの先に歩いて行く男にも遇わず、彼もきてくれないで、自分ひとりで道を聞きながら、うろうろこんな道を歩いてゆくとしたら？　二人で歩いていてさえあまりにさびしすぎるこんな道を――。私は黙った。急にあたりの景色がいっそう心細く迫ってくるようにさえ思われる。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-78153-78845">蘆の疎らな泥土の中に、くるった土台の上に、今にも落ちそうに墓石が乗っているのが二つ三つ、他には土台石ばかりになったり、長い墓石が横倒しになっていたりして見える。それが歩いてゆくにつれて、彼方にも此方にも、蘆間の水たまりや小高く盛り上げた土の上に、二つ三つと残っている。弔う人もない墓としか思われないような、その墓石の傍まで、土手からわざわざつけたかと思われそうな畔道が、一条ずつ通っているのも、この土地に対する執着の深い人々の、いろいろな心根が思いやられる。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">泥にまみれて傾き横たわった沼の中の墓石は、後から後からと、私に種々な影像を描かせる。その影像の一つ一つに、私の心はセンティメンタルな沈黙を深めてゆく。あたりは悲し気に静まり返って、私の心の底深く描かれる影像を見つめている。亡ぼしつくされた「生」が今、一時にこの枯野に浮き上がってきて、みんなが私の心を見つめている。――その感じが私に迫ってくる。同時に今にもあふれ出しそうな、あてのない私のかなしみを沈ますような太いゆるやかなメロディが、低く強く私を襲ってくる。今までただ茫漠と拡がっていた黄褐色と灰色の天地の沈黙が、みるみる私の前に緊張してくる。けれど、やがてそれもいつの間にか消え去った影像と同じく、その影像を描いたセンティメントが消えてしまう頃には、やはりもとの何の生気もない荒涼とした景色であった。しかし、私はそれで充分だ。僅かに頭をもたげた私のセンティメントは、本当のものを見せてくれたのだ。</p>
        <p>「何しに来た？」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-80076-80411">もう私はそういってとがめられることはない。一人で来たら私のセンティメントはもっと長く私を捕えたろう。もっと惨めに私を圧迫したろう。だが、もう充分だ。これ以上に私は何を感ずる必要があろう。私はしっかり山岡の手につかまった。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-80411-80842">ようやくに、目指すＳ青年の家を囲む木立がすぐ右手に近づいた。木立の中の藁屋根がはっきり見え出した時には、沼の中の景色もやや違ってきていた。木立はまだ他に二つ三つと飛び飛びにあった。蘆間の其処此処に真黒な土が珍らしく小高く盛り上げられて、青い麦の芽や、菜の葉などが、生々と培われてある。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-80842-81342">道の曲り角まで来ると、先に歩いていた連れの男が、遠くから、そこから行けというように手を動かしている。見ると沼の中に降りる細い道がついている。土手の下まで降りて見ると、沼の中には道らしいものは何にもない。蘆はその辺には生えてはいないが、足跡のついた泥地が洲のように所々高くなっているきりで、他とは変わりのない水たまりばかりであった。</seg></p>
        <p>「あら、道がないじゃありませんか。こんな処から行けやしないでしょう？」</p>
        <p>「ここから行くのさ、ここからでなくてどこから行くんだい？」</p>
        <p>「他に道があるんですよ、きっと。だってここからじゃ、裸足にならなくちゃ行かれないじゃありませんか。」</p>
        <p>「あたりまえさ、下駄でなんか歩けるものか。」</p>
        <p>「だって、いくら何んだって道がないはずはないわ。」</p>
        <p>「ここが道だよ。ここでなくて他にどこにある？」</p>
        <p>「向うの方にあるかもしれないわ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-81959-82111">私は少し向うの方に、小高い島のような畑地が三つ四つ続いたような形になっている処を指しながらいった。</seg></p>
        <p>「同じだよ、どこからだって。こんな沼の中に道なんかあるもんか、ぐずぐずいってると置いてくよ。ぜいたくいわないで裸足になってお出で。」</p>
        <p>「いやあね、道がないなんて、冷たくってやりきれやしないわ。」</p>
        <p>「ここでそんなこといったって仕様があるもんか、何しに来たんだ？　それともここまで来て、このまま帰るのか？」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-82564-83943">山岡は、そんな駄々はいっさい構わないといったような態度で、足袋をぬいで裾を端折ると、そのまま裸足になって、ずんずん沼の泥水の中に入って行った。私はいくらか沼の中とはいっても、せめてそこに住んでいる人達が歩くのに不自由しない畔道くらいなものはあるに違いないと、自分の不精ばかりでなく考えていたのに、何にもそのような道らしいものはなくて、その冷たい泥水の中を歩かなければならないのだと思うと、そういう処を毎日歩かねばならぬ人の難儀を思うよりも、現在の自分の難儀の方に当惑した。それでも山岡の最後の言葉には、私はまたしても自分を省みなければならなかった。私はすぐに思い切って裸足になり、裾を端折って山岡の後から沼の中にはいった。冷たい泥が足の裏にふれたかと思うと、ぬるぬると、何ともいえぬ気味悪さで、五本の指の間にぬめり込んで、すぐ足首までかくしてしまった。そのつめたさ！　体中の血が一度に凍えてしまう程だ。二三間は勢いよく先に歩いていった山岡も、後から来る私をふり返った時には、さすがに冷たい泥水の中に行きなやんでいた。</seg></p>
        <p>「どう行ったらいいかなあ。」</p>
        <p>「そうね、うっかり歩くとひどい目に会いますからね。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-84067-86337">ついそこに木立は見えているのだが、うっかり歩けば、どんな深い泥におちこむかもしれないし、私たちは一と足ずつ気をつけながら足跡を拾って、ようようのことで蘆間の畑に働いている人の姿をさがし出した。そこは一反歩くらいな広い畑で、四五人の人が麦を播いていたのだ。私達がＳ青年の家への道を聞くと、その人達は不思議そうに私達二人を見ながら、この畑の向うの隅からゆく道があるから、この畑を通ってゆけといってくれた。けれど私達の立っている処と、その畑の間には小さな流れがあった。私には到底それが渡れそうにもないので、当惑しきっているのを見ると、間近にいた年を老った男は、すぐに私に背を貸して渡してくれた。私達はお礼をいって、その畑を通りぬけて、再びまた沼地にはいった。畑に立っていた二人の若い女が、私の姿をじっと見ていた。私はそれを見ると気恥ずかしさでいっぱいになった。柔らかに私の体を包んでいる袖の長い着物が、その時ほど恥ずかしくきまりの悪かったことはなかった。足だけは泥まみれになっていても、こんなにも自分が意気地なく見えたことはなかった。甲斐々々しい女達の目には、小さな流れ一つにも行き悩んだ意気地のない女の姿がどんなに惨めにおかしく見えたろう？　だが一体どうしたことだろう？　まさかにあの新聞の記事があとかたもない嘘とは思えないが、今日を限りに立ち退きを請求されている人達が、悠々と落ちついて、畑を耕やして麦を播いているというのは、どういう考えなのだろう？　やはり、どうしてもこの土地を去らない決心でいるのであろうか。私はひとりでそんなことを考えながら、山岡には一二間も後れながら、今度は前よりもさらに深い、膝までも来る蘆間の泥水の中を、ともすれば重心を失いそうになる体を、一と足ずつにようやくに運んでゆくのであった。</seg></p>
        <p>「みんな、毎日こんなひどい道を歩いちゃ、癪に障ってるんだろうね。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-86438-86491">山岡は後をふり向きながらいった。</seg></p>
        <p>「たまに歩いてこんなのを、毎日歩いちゃ本当にいやになるでしょうね。第一、私達ならすぐ病気になりますね。よくまあこんな処に十年も我慢していられること。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-86718-87406">といっているうちにも、一と足ずつにのめりそうになる体をもてあまして、幾度も私は立ち止まった。少し立ち止まっていると刺すように冷たい水に足の感覚を奪われて、上辷りのする泥の中にふみしめる力もない。下半身から伝わる寒気に体中の血は凍ってしまうかとばかりに縮み上がって、後にも先にも動く気力もなくなって、私はもう半泣きになりながら、山岡に励まされて僅かの処を長いことかかってようように水のない処まで来ると、そこからはＳの家の前までは、細い道がずっと通っていた。</seg></p>
      </div>
      <div type="layout" source="#source-87406-87467" style="padding-inline-start: 8em">
        <div>
          <head n="2" source="#source-87427-87463"><seg source="#source-87427-87430">八</seg></head>
        </div>
      </div>
      <div>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-87467-87994">木立の中の屋敷はかなりな広さをもっている。一段高くなった隅に住居らしい一棟と、物置小屋らしい一棟とがそれより一段低く並んでいる。前は広い菜圃になっている。畑のまわりを鶏が歩きまわっている。他には人影も何にもない。取りつきの井戸端に下駄や泥まみれのステッキをおいて、家に近づいていった。正面に向いた家の戸が半分しめられて、家の中にも誰もいないらしい。</seg></p>
        <p>「御免！」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-88011-89279">幾度も声高にいって見たが何の応えもない。住居といっても、傍の物置きと何の変りもない。正面の出入口と並んで、同じ向きに雨戸が二三枚しまるようになった処が開いている。他は三方とも板で囲われている。覗いて見ると、家の奥行きは三間とはない。そこの低い床の上に五六枚の畳が敷かれて、あとは土間になっている。もちろん押入れもなければ戸棚もない。夜具や着物などが片隅みに押し寄せてあって、上りかまちから土間へかけて、いろいろな食器や、鍋釜などがゴチャゴチャにおかれてある。土間の大部分は大きな機で占められている。家の中は狭く、薄暗く、いかにも不潔で貧しかった。けれどもその狭い畳の上には、他のものとは全くふつりあいな、新しい本箱と机が壁に添って置かれてあった。机のすぐ上の壁には、Ｔ翁の写真が一つかかっている。人気のない家の中には、火の気もないらしかった。私達二人は寒さにふるえながら、着物の裾を端折ったまま、戸のあいたままになっている敷居に腰を下ろした。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-89279-89902">腰を下ろすとすぐ眼の前の柚子の木に黄色く色づいた柚子が鈴なりになっている。鶏は丸々と肥って呑気な足どりで畑の間を歩きまわっている。木立で囲まれてこの青々とした広い菜圃を前にした屋敷内の様子は、どことなく、のびのびした感じを持たせるけれど、木立の外は、正面も横も、広いさびしい一面の蘆の茂みばかりだ。この家の中の貧しさ、外の景色の荒涼さ、それにあの難儀な道と、遠い人里と、何という不自由な、辛いさびしい生活だろう。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">二人が腰をかけている処から、正面に見える蘆の中から「オーイ」とこちらに向って呼ぶ声がする。返事をしながら、其方の方に歩いてゆくと蘆の間から一人の百姓が鉢巻きをとりながら出て来た。挨拶を交わすと、それはＳ青年の兄にあたる、この家の主人であった。素朴な落ちつきを持った口重そうな男だ。主人は気の毒そうに私達の裸足を見ながら、Ｓ青年が昨日から留守であるという。家の方に歩いて行く後から、山岡は今日訪ねてきた訳を話して、今日立ち退くという新聞の記事は事実かと聞いた。</p>
        <p>「は、そういうことにはなっておりますが、何しろこのままで立ち退いては、明日からすぐにもう路頭に迷わなければならないような事情なものですから、――実は弟もそれで出ておるような訳でございますが。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-90884-91024">彼は遠くの方に眼をやりながら、そこに立ったままで、思いがけない、はっきりした調子で話した。</seg></p>
        <p>「私共がここに残りましたのも、最初は村を再興するというつもりであったのですが、何分長い間のことではありますし、工事もずんずん進んで、この通り立派な貯水池になってしまい、その間には当局の人もいろいろに変わりますし、ここを収用する方針についても、県の方で、だんだんに都合のいい決議がありましたり、どうしても、もう私共少数の力ではかなわないのです。しかし、そういってここを立ち退いては、もう私共は全くどうすることもできないのです。収用当時とは地価ももうずいぶん違ってますし、その収用当時の地価としても満足に払ってくれないのですから、そのくらいの金では、今日ではいくらの土地も手に入りませんのです。何んだか慾にからんででもいるようですが、実際その金で手に入る土地くらいではとても食べてはゆけないのですから、何とかその方法がつくまでは動けませんのです。此処にまあこうしていれば、不自由しながらも、ああして少しずつ地面も残っておりますし、まあ食うくらいのことには困りませんから、余儀なくこうしておりますような訳で、立ち退くには困らないだけのことはして貰いたいと思っております。」</p>
        <p>「もちろんそのくらいの要求をするのは当然でしょう。じゃ、また当分のびますかな。」</p>
        <p>「そうです。まあ一と月や二た月では極まるまいと思います。どうせそれに今播いている麦の収穫が済むまでは動けませんし。」</p>
        <p>「そうでしょう。で、堤防を切るとか切ったとかいうのはどの辺です、その方の心配はないのですか？」</p>
        <p>「今、丁度三ヶ所切れております。ついこの間、すぐこの先の方を切られましたので、水がはいってきて、麦も一度播いたのを、また播き直している処です。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-93134-94654">堤防の中の旧谷中村の土地は、彼のいう処によると二千町歩以上はあるとのことであった。彼はなお、そこに立ったままで、ポツリポツリ自分達の生活について話しつづけた。しかし彼の話には自分達がこうした境遇におかれたことについての、愚痴らしいことや未練らしいいい草は少しもなかった。彼はすべての点で自分達の置かれている境遇をよく知りつくしていた。彼は本当にしっかりしたあきらめと、決心の上に立って、これからの自分の生活をできるだけよくしようとする考えを持っているらしかった。こうしてわざわざ遠く訪ねてきた私達に対しても、彼は簡単に、取りようによっては反感を持ってでもいるような冷淡さで挨拶をしただけで、よく好意を運ぶものに対して見せたがる、ことさららしい感謝や、その他女々しい感情は少しも見せなかった。私達がしばらく話をしている間に、そこに来合わせた一人の百姓は、やはりここに居残った一人であった。彼は主人から私達に紹介されると幾度も私達の前に頭を下げて、こうして見舞った好意に対する感謝の言葉を連ねるのであった。その男は、五十を過ぎたかと思われるような人の好い顔に、意地も張りもなくしたような皺がいっぱいたたまれていた。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-94654-95073">主人とその男と、山岡の間の話を聞きながら、私はあとからあとからと種々に尋ねてみたいと思うことを考え出しながら、一方にはまたもう何にも聞くには及ばないような気がして、どっちともつかない自分の心に焦れながら、気味わるく足にぬられた泥が、少しずつかわいてゆくのをこすり合わしていた。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-95073-95315">風が出てきた。広い蘆の茂みのおもてを、波のように揺り動かして吹き渡る。日暮近くなった空は、だんだんに暗く曇って、寒さは骨までも滲み透るように身内に迫ってくる。</seg></p>
        <p>「せっかくお出でくださいましたのにあいにく留守で――」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-95398-95478">気の毒そうにいう主人の声をあとに私達は帰りかけた。</seg></p>
        <p>「やはりその道を歩くより他に、道はないのでしょうか。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-95561-95788">私は来がけに歩いてきた道を指さして、分り切ったことを未練らしく聞いた。またその難儀な道を帰らねばならないことが、私にはただもう辛くてたまらなかった。</seg></p>
        <p>「そうだね、やはりその道が一番楽でしょう。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-95856-95963">といわれて、また前よりはいっそう冷たく感ずる沼の水の中に足を入れた。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-95963-96721">ようようのことで土手の下まで帰って来はしたものの、足を洗う場所がない。少し歩いているうちにはどこか洗える処があるかもしれないと思いながら、そのまま土手を上がった。白く乾き切った道が、気持よく走っている。けれど、一と足そこに踏み出すと思わず私はそこにしゃがんだ。道は小砂利を敷きつめてあって、その上を細かい砂が覆うている。むき出しにされて、その上に冷たさでかじかんだ足の裏には、その刺戟が、とても堪えられなかった。といって、今泥の中から抜き出したばかりの足を思い切って草履の上に乗せることもできなかった。</seg></p>
        <p>「おい、そんなところにしゃがんでいてどうするんだい。ぐずぐずしていると日が暮れてしまうじゃないか。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-96873-97430">そういってせき立てられる程、私はひしひし迫ってくる寒さと、足の痛さに泣きたいような情なさを感ずるのだった。それでも、両側の草の上や、小砂利の少ない処を撰るようにして、やっとあてにした場所まで来て見ると、水は青々と流れていても、足を洗うような所はなかった。私はとうとう懐から紙を出して、よほど乾いてきた泥をふいて草履をはいた。二人はやっとそれで元気を取返して歩き出した。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-97430-98131">日暮れ近い、この人里遠い道には、私達の後になり先になりして尾いてくる男が一人いるだけで、他には人の影らしいものもない。空はだんだんに低く垂れてきて、いつか遠くの方は、ぼっと霞んでしまっている。遠く行く手の、古河の町のあたりかと思われる一叢の木立の黒ずんだ蔭から、濃い煙の立ち昇っているのが、やっと見える。風はだんだんに冷たくなって道の傍の篠竹の葉のすれ合う音が、私達の下駄の音と、もつれあってさびしい。二人はＳ家の様子や主人の話など取りとめもなく話しながら歩いた。</seg></p>
        <p>「あの主人は大分しっかりした人らしいのね。だけど後から来たおじいさんは、本当に意気地のない様子をしていたじゃありませんか。」</p>
        <p>「ああ、もうあんなになっちゃ駄目だね。もっとももう長い間ああした生活をしてきているのだし、意気地のなくなるのも無理はないが――あそこの主人みたいなのは残っている連中の内でも少ないんだろう。皆、もう大抵はあのじいさん見たいのばかりなんだよ、きっと。残っているといっても、他へ行っちゃ食えないから、仕方なしにああしているんだからな。」</p>
        <p>「でも、それも惨めな訳ね、あんな中にああしていなきゃ困るのだなんて。今度は、お上だって、いよいよ立ち退かせるには、せめてあの人達の要求は容れなくちゃあんまり可愛想ね。たくさんの戸数でもないんだから、何とかできないことはないのでしょうね。」</p>
        <p>「もちろんできないことはないよ。少し押強く主張すれば、何でもないことだ。だが、残った連中は、他の者からは、すっかり馬鹿にされているんだね。来るときに初めて道を聞いた男だって、そらあの婆さんだって、そうだったろう！　一緒に行った男なんかもあれで、Ｓの家を馬鹿にしてるんだよ、Ｓを批難したりなんかしてたじゃないか。」</p>
        <p>「そうね、あの男なんか、こんな土地を見たって別に何の感じもなさそうね。ああなれば本当に呑気なものだわ。」</p>
        <p>「そりゃそうさ、みんながいつまでも、そう同じ感じを持っていた日にゃ面倒だよ。大部分の人間は、異った生活をすれば、直ぐその生活に同化してしまうことができるんで、世の中はまだ無事なんだよ。」</p>
        <p>「そういえばそうね。」</p>
        <p>「どうだね。少しは重荷が下りたような気がするかい？　もっとあそこでいろんなことを聞くのかと思ったら、何にも聞かなかったね。でも、ただこうして来ただけで、余程いろんなことが分ったろう？　Ｓがいればもっと委しくいろんなことがわかったのだろうけれど、この景色だけでも来た甲斐はあるね。」</p>
        <p>「沢山だわ。この景色だの、彼のうちの模様だの、それだけで、もう何にも聞かなくてもいいような気になっちゃったの。」</p>
        <p>「これで、町子ひとりだと、もっとよかったんだね。」</p>
        <p>「沢山ですったら、これだけでも沢山すぎるくらいなのに。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-100874-101833">長い土手の道はいつか終わりに近づいていた。振り返ると、今沈んだばかりの太陽が、低く遙かな地平に近い空を、僅かに鈍い黄色に染めている。他は一体に、空も、地も、濃い夕暮の色に包まれている。すべての生気と物音をうばわれたこの区切られた地上は、たった一つの恵みである日の光さえ、今は失われてしまった。明日が来るまではここはさらに物凄い夜が来るのだ。黄昏れてくるにつけて、黙って歩いているうち、心の底から冷たくなるような、何ともいえない感じに誘われるので、道々私は精一杯の声で歌い出した。声は遮ぎるもののないままに、遠くに伝わってゆく。時々葦の間から、脅かされたように群れになった小鳥が、あわただしい羽音をたてて飛び出しては、直ぐまた降りてゆく。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-101833-102105">古河の町はずれの高い堤防の上まで帰って来たとき、町の明るい灯が、どんなになつかしく明るく見えたか！　私はそれを見ると、一刻も早く暖い火の傍に、その凍えたからだを運びたいと思った。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-102105-102533">古びた、町の宿屋の奥まった二階座敷に通されて、火鉢の傍に坐った時には、私のからだは何ものかにつかみひしがれたような疲れに、動くこともできなかった。落ちつかない広い室の様子を見まわしながらも、まだ足にこびりついて残っている泥の気味悪さも忘れて、火鉢にかじりついたまま湯の案内を待った。</seg></p>
      </div>
      <div type="layout" source="#source-102533-102596" style="padding-inline-start: 12em">
        <p><seg source="#source-102566-102596">――一九一八・一――</seg></p>
      </div>
    </body>
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        <note type="source-attribution" source="#source-102604-102870"><seg type="source-line">底本：「伊藤野枝全集　上」學藝書林</seg><lb/><seg type="source-line" style="padding-inline-start: 3em">1970（昭和45）年3月31日第1刷発行</seg><lb/><seg type="source-line" style="padding-inline-start: 3em">1986（昭和61）年11月25日第4刷発行</seg><lb/><seg type="source-line">初出：「文明批判　第一巻第一号、第二号」</seg><lb/><seg type="source-line" style="padding-inline-start: 3em">1918（大正7）年1月、2月</seg></note>
        <note type="transcriber-note" source="#source-102870-103349"><seg type="source-line">※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」（区点番号5-86）を、大振りにつくっています。</seg><lb/><seg type="source-line">入力：林　幸雄</seg><lb/><seg type="source-line">校正：ペガサス</seg><lb/><seg type="source-line">2002年11月8日作成</seg><lb/><seg type="source-line">2011年2月18日修正</seg><lb/><seg type="source-line">青空文庫作成ファイル：</seg><lb/><seg type="source-line">このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫（http://www.aozora.gr.jp/）で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。</seg></note>
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      <note type="parser-completion" n="true">The n attribute is true when no parser diagnostic of error severity was raised for this source. What the converter could not interpret is recorded in the interpretation-problem and parser-diagnostic notes.</note>
      <note type="source-decoding">windows-31j</note>
      <note type="source-span" xml:id="parser-source-0">{
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      <note type="parser-diagnostic" subtype="warning" n="bouten-target-ambiguous" source="#parser-source-0">bouten_target_ambiguous</note>
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</TEI>