<ruby><rb>慶滋保胤</rb><rt>かものやすたね</rt></ruby>は<ruby><rb>賀茂忠行</rb><rt>かものただゆき</rt></ruby>の第二子として生れた。兄の<ruby><rb>保憲</rb><rt>やすのり</rt></ruby>は累代の家の業を<ruby><rb>嗣</rb><rt>つ</rt></ruby>いで、<ruby><rb>陰陽博士</rb><rt>おんようはかせ</rt></ruby>、<ruby><rb>天文</rb><rt>てんもん</rt></ruby>博士となり、賀茂<ruby><rb>氏</rb><rt>うじ</rt></ruby>の<ruby><rb>宗</rb><rt>そう</rt></ruby>として、其系図に輝いている。保胤はこれに譲ったというのでもあるまいが、自分は当時の儒家であり<ruby><rb>詞雄</rb><rt>しゆう</rt></ruby>であった菅原文時の弟子となって<ruby><rb>文章生</rb><rt>もんじょうせい</rt></ruby>となり、姓の文字を改めて、慶滋とした。慶滋という姓があったのでも無く、古い書に伝えてあるように他家の養子となって慶滋となったのでも無く、兄に<ruby><rb>遜</rb><rt>ゆず</rt></ruby>るような意から、賀茂の賀の字に換えるに慶の字を以てし、茂の字に換えるに滋の字を以てしたのみで、異字同義、慶滋はもとより賀茂なのである。よししげの保胤などと読む者の生じたのも自然の勢ではあるが、後に保胤の弟の<ruby><rb>文章</rb><rt>もんじょう</rt></ruby>博士保章の子の為政が<ruby><rb>善滋</rb><rt>かも</rt></ruby>と姓の字を改めたのも同じことであって、為政は文章博士で、<ruby><rb>続本朝文粋</rb><rt>しょくほんちょうもんずい</rt></ruby>の作者の一人である。保胤の兄保憲は十歳<ruby><rb>許</rb><rt>ばかり</rt></ruby>の童児の時、<ruby><rb>法眼</rb><rt>ほうげん</rt></ruby>既に明らかにして鬼神を見て父に注意したと語り伝えられた其道の天才であり、又保胤の父の忠行は後の人の<ruby><rb>嘖々</rb><rt>さくさく</rt></ruby>として称する陰陽道の<ruby><rb>大</rb><rt>だい</rt></ruby>の<ruby><rb>験者</rb><rt>げんざ</rt></ruby>の<ruby><rb>安倍晴明</rb><rt>あべのせいめい</rt></ruby>の師であったのである。此の父兄や弟や<ruby><rb>姪</rb><rt>おい</rt></ruby>を有した保胤ももとより尋常一様のものでは無かったろう。

保胤の師の菅原文時は、これも亦一通りの人では無かった。当時の文人の源<ruby><rb>英明</rb><rt>ひであき</rt></ruby>にせよ、源為憲にせよ、今<ruby><rb>猶</rb><rt>なお</rt></ruby>其文は本朝文粋にのこり、其才は後人に艶称さるる人々も、皆文時に<ruby><rb>請</rb><rt>こ</rt></ruby>いて其文章詞賦の<ruby><rb>斧正</rb><rt>ふせい</rt></ruby>を受けたということである。ある時御内宴が催されて、詞臣等をして、<ruby><rb>宮鶯囀暁光</rb><rt>きゅうおうぎょうこうにさえずる</rt></ruby>いう題を以て詩を賦せしめられた。天皇も文雅の道にいたく御心を寄せられたこととて、

露は<ruby><rb>濃</rb><rt>こま</rt></ruby>やかにして　緩く語る　園花の底、

月は落ちて　高く歌ふ　<ruby><rb>御柳</rb><rt>ぎよりう</rt></ruby>の陰。

という句を得たまいて、ひそかに<ruby><rb>御懐</rb><rt>ぎょかい</rt></ruby>に<ruby><rb>協</rb><rt>かな</rt></ruby>いたるよう<ruby><rb>思</rb><rt>おぼ</rt></ruby>したまいたる時、文時もまた句を得て、

西の楼　月　落ちたり　花の<ruby><rb>間</rb><rt>あいだ</rt></ruby>の曲、

中殿　<ruby><rb>灯</rb><rt>ともしび</rt></ruby>　<ruby><rb>残</rb><rt>き</rt></ruby>えんとす　竹の<ruby><rb>裏</rb><rt>うち</rt></ruby>の声。

と、つらねた。天皇聞しめして、我こそ此題は作りぬきたりと思いしに、文時が作れるも又すぐれたりと<ruby><rb>思召</rb><rt>おぼしめ</rt></ruby>して、文時を近々と召して、いずれか宜しきや、と仰せられた。文時は、<ruby><rb>御製</rb><rt>ぎょせい</rt></ruby>いみじく、下七字は文時が詩にも優れて候、と申した。これは<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>りて申すならんと、ふたたび押返し御尋ねになった。文時是非なく、<ruby><rb>実</rb><rt>まこと</rt></ruby>には御製と臣が詩と同じほどにも候か、と申した。猶も憚りて申すことと思召して、まこと然らば<ruby><rb>誓言</rb><rt>せいごん</rt></ruby>を立つべしと、深く詩を好ませたもう余りに<ruby><rb>逼</rb><rt>せま</rt></ruby>って御尋ねあると、文時ここに至って誓言は申上げず、まことには文時が詩は一段と上に居り候、と申して逃げ出してしまったので、御笑いになって、うなずかせたもうたということであった。こういう文時の詩文は<ruby><rb>菅三品</rb><rt>かんさんぽん</rt></ruby>の作として今に称揚せられて伝わっているが、保胤は実に当時の巨匠たる此人の弟子の上席であった。疫病の流行した年、或人の夢に、疫病神が文時の家には押入らず、其の前を<ruby><rb>礼拝</rb><rt>らいはい</rt></ruby>して過ぐるのを見た、と云われたほど<ruby><rb>時人</rb><rt>じじん</rt></ruby>に<ruby><rb>尊崇</rb><rt>そんそう</rt></ruby>された菅三品の門に遊んで、才識日に長じて、声名世に<ruby><rb>布</rb><rt>し</rt></ruby>いた保胤は、<ruby><rb>試</rb><rt>し</rt></ruby>に応じて及第し、官も進んで<ruby><rb>大内記</rb><rt>だいないき</rt></ruby>にまでなった。

<ruby><rb>具平</rb><rt>ともひら</rt></ruby>親王は文を好ませたまいて、時の文人学士どもを雅友として引見せらるることも多く、<ruby><rb>紀</rb><rt>き</rt></ruby>ノ<ruby><rb>斉名</rb><rt>まさな</rt></ruby>、大江ノ<ruby><rb>以言</rb><rt>もちとき</rt></ruby>などは、いずれも常に伺候したが、中にも保胤は師として遇したもうたのであった。しかし保胤は<ruby><rb>夙</rb><rt>はや</rt></ruby>くより人間の<ruby><rb>紛紜</rb><rt>ふんうん</rt></ruby>にのみ心は傾かないで、当時の風とは言え、出世間の清寂の思に<ruby><rb>胷</rb><rt>むね</rt></ruby>が<ruby><rb>染</rb><rt>そ</rt></ruby>みていたので、親王の御為に講ずべきことは講じ、<ruby><rb>訓</rb><rt>おし</rt></ruby>えまいらすべきことは訓えまいらせても、其事一わたり済むと、おのれはおのれで、眼を少し<ruby><rb>瞑</rb><rt>ねむ</rt></ruby>ったようにし、口の中でかすかに何か念ずるようにしていたという。<ruby><rb>想</rb><rt>おもい</rt></ruby>を仏土に致し、仏経の要文なんどを潜かに<ruby><rb>念誦</rb><rt>ねんじゅ</rt></ruby>したことと見える。随分奇異な先生ぶりではあったろうが、何も当面を錯過するのでは無く、寸暇の遊心を<ruby><rb>聖道</rb><rt>しょうどう</rt></ruby>に運んでいるのみであるから、<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>めるべきにはならぬことだったろう。もともと狂言<ruby><rb>綺語</rb><rt>きぎょ</rt></ruby>即ち詩歌を讃仏乗の縁として認めるとした白楽天のような思想は保胤の<ruby><rb>是</rb><rt>ぜ</rt></ruby>としたところであったには疑無い。

この保胤に対しては親王も他の<ruby><rb>藻絵</rb><rt>そうかい</rt></ruby>をのみ事とする<ruby><rb>詞客</rb><rt>しかく</rt></ruby>に対するとはおのずから別様の待遇をなされたであろうが、それでも詩文の道にかけては御尋ねの出るのは自然の事で、或時当世の文人の品評を御求めになった。そこで保胤は是非無く御答え申上げた。斉名が文は、月の冴えたる良き夜に、やや古りたる<ruby><rb>檜皮葺</rb><rt>ひわだぶき</rt></ruby>の家の<ruby><rb>御簾</rb><rt>みす</rt></ruby>ところどころはずれたる<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>に女の<ruby><rb>箏</rb><rt>そう</rt></ruby>の琴弾きすましたるように聞ゆ、と申した。以言はと仰せらるれば、白沙の庭前、<ruby><rb>翠松</rb><rt>すいしょう</rt></ruby>の陰の下に、陵王の舞楽を奏したるに似たり、と申す。大江ノ<ruby><rb>匡衡</rb><rt>まさひら</rt></ruby>は、と御尋ねあれば、鋭士数騎、<ruby><rb>介冑</rb><rt>かいちゅう</rt></ruby>を<ruby><rb>被</rb><rt>こうむ</rt></ruby>り、<ruby><rb>駿馬</rb><rt>しゅんめ</rt></ruby>に<ruby><rb>鞭</rb><rt>むち</rt></ruby><ruby><rb>打</rb><rt>う</rt></ruby>って、粟津の浜を過ぐるにも似て、其<ruby><rb>鉾</rb><rt>ほこさき</rt></ruby><ruby><rb>森然</rb><rt>しんぜん</rt></ruby>として当るものも無く見ゆ、と申す。親王興に入りたまいて、さらば<ruby><rb>足下</rb><rt>そなた</rt></ruby>のは、と問わせたまうに、<ruby><rb>旧上達部</rb><rt>ふるかんだちべ</rt></ruby>の<ruby><rb>檳榔毛</rb><rt>びろうげ</rt></ruby>の車に<ruby><rb>駕</rb><rt>の</rt></ruby>りたるが、時に其声を聞くにも似たらん、と申した。長短高下をとかく申さで、おのずから其詩品を有りのままに申したる、まことに唐の<ruby><rb>司空図</rb><rt>しくうと</rt></ruby>が詩品にも優りて、いみじくも美わしく御答え申したと、親王も<ruby><rb>御感</rb><rt>ぎょかん</rt></ruby>あり、当時の人々も嘆賞したのであった。斉名、以言、匡衡、保胤等の文、皆今に存しているから、此評の当っているか、いぬかは、誰にでも検討さるることであるが、評の当否よりも、評の仕方の如何にも<ruby><rb>韵致</rb><rt>いんち</rt></ruby>があって、<ruby><rb>仙禽</rb><rt>せんきん</rt></ruby>おのずから幽鳴を為せる趣があるのは、保胤其人を見るようで面白いと云いたい。

慾を捨て道に志すに至る人というものは、多くは人生の<ruby><rb>磋躓</rb><rt>さち</rt></ruby>にあったり、失敗窮困に陥ったりして、そして一旦開悟して<ruby><rb>頭</rb><rt>こうべ</rt></ruby>を<ruby><rb>回</rb><rt>めぐ</rt></ruby>らして今まで歩を進めた路とは反対の路へ歩むものであるが、保胤には<ruby><rb>然様</rb><rt>そう</rt></ruby>した機縁があって、それから転向したとは見えない。自然に和易の性、慈仁の心が普通人より<ruby><rb>長</rb><rt>た</rt></ruby>けた人で、そして儒教の仁、仏道の慈ということを、素直に受入れて、人は然様あるべきだと信じ、然様ありたいと念じ、学問修証の<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>く進むに連れて、<ruby><rb>愈々</rb><rt>いよいよ</rt></ruby>日に月に其傾向を募らせ、又其傾向の愈々募らんことを<ruby><rb>祈求</rb><rt>きぐ</rt></ruby>して<ruby><rb>已</rb><rt>や</rt></ruby>まぬのをば、<ruby><rb>是</rb><rt>これ</rt></ruby>真実道、是無上道、是<ruby><rb>清浄道</rb><rt>しょうじょうどう</rt></ruby>、是安楽道と信じていたに疑無い。それで保胤は性来慈悲心の強い上に、自ら強いてさえも慈悲心に住していたいと策励していたことであろうか、こういうことが語り伝えられている。如何なる折であったか、保胤は或時往来繁き都の大路の辻に立った。大路の事であるから、<ruby><rb>貴</rb><rt>たか</rt></ruby>き人も行き、<ruby><rb>賤</rb><rt>ひく</rt></ruby>き者も行き、職人も行き、物売りも行き、老人も行けば婦人も行き、小児も行けば壮夫も行く、<ruby><rb>亢々然</rb><rt>こうこうぜん</rt></ruby>と行くものもあれば、<ruby><rb>踉蹌</rb><rt>ろうそう</rt></ruby>として行くものもある。何も大路であるから不思議なことは無い。たまたま又非常に重げな<ruby><rb>嵩高</rb><rt>かさだか</rt></ruby>の荷を負うて<ruby><rb>喘</rb><rt>あえ</rt></ruby>ぎ喘ぎ大車の<ruby><rb>軛</rb><rt>くびき</rt></ruby>につながれて<ruby><rb>涎</rb><rt>よだれ</rt></ruby>を垂れ脚を<ruby><rb>踏張</rb><rt>ふんば</rt></ruby>って行く牛もあった。これもまた牛馬が用いられた世の事で何の不思議もないことであった。牛は力の限りを尽して歩いている。しかも牛使いは<ruby><rb>力</rb><rt>つと</rt></ruby>むること<ruby><rb>猶</rb><rt>なお</rt></ruby>足らずとして、これを<ruby><rb>笞</rb><rt>むち</rt></ruby>うっている。笞の音は起って消え、消えて<ruby><rb>復</rb><rt>また</rt></ruby>起る。これも世の常、何の不思議も無いことである。しかし保胤は仏教の<ruby><rb>所謂</rb><rt>いわゆる</rt></ruby>六道の辻にも似た此辻の景色を見て居る間に、揚々たる人、<ruby><rb>踽々</rb><rt>くく</rt></ruby>たる人、営々<ruby><rb>汲々</rb><rt>きゅうきゅう</rt></ruby>、<ruby><rb>戚々</rb><rt>せきせき</rt></ruby>たる人、<ruby><rb>嗚呼</rb><rt>ああ</rt></ruby>嗚呼、世法は亦復<ruby><rb>是</rb><rt>かく</rt></ruby>の如きのみと思ったでもあったろう後に、老牛が死力を尽して猶<ruby><rb>笞</rb><rt>しもと</rt></ruby>を受くるのを見ては、ああ、疲れたる牛、厳しき笞、荷は重く<ruby><rb>途</rb><rt>みち</rt></ruby>は遠くして、日は<ruby><rb>熾</rb><rt>さか</rt></ruby>りに土は焦がる、飲まんとすれど<ruby><rb>滴水</rb><rt>しずく</rt></ruby>も得ぬ其苦しさや<ruby><rb>抑</rb><rt>そも</rt></ruby>如何ばかりぞや、牛目づかいと云いて人の<ruby><rb>疎</rb><rt>うと</rt></ruby>む目づかいのみに得知らぬ<ruby><rb>意</rb><rt>こころ</rt></ruby>を動かして何をか訴うるや、嗚呼、牛、汝何ぞ<ruby><rb>拙</rb><rt>つたな</rt></ruby>くも牛とは生れしぞ、汝今<ruby><rb>抑々</rb><rt>そもそも</rt></ruby>何の罪ありて其苦を受くるや、と観ずる途端に<ruby><rb>発矢</rb><rt>はっし</rt></ruby>と復笞の音すれば、保胤はハラハラと涙を流して、<ruby><rb>南無</rb><rt>なむ</rt></ruby>、救わせたまえ、諸仏<ruby><rb>菩薩</rb><rt>ぼさつ</rt></ruby>、南無仏、南無仏、と念じたというのである。こういうことが一度や二度では無く、又或は直接方便の有った場合には牛馬其他の当面の苦を救ってやったことも度々あったので、其噂は遂に今日にまで遺り伝わったのであろう。服牛乗馬は<ruby><rb>太古</rb><rt>たいこ</rt></ruby>からの事で、世法から云えば保胤の所為の如きはおろかなことであるが、是の如くに感ずるのが、いつわりでも何でもなく、又是の如くに感じ是の如くに念ずるのを以て正である善であると信じている人に対しては、世法からの智愚の判断の如きは本より何ともすることの出来ぬ、力無いものである。又仏法から云っても是の如く慈悲の念のみの亢張するのが必ずしも可なるのでは無く、場合によっては是の如きは魔境に<ruby><rb>墜</rb><rt>お</rt></ruby>ちたものとして<ruby><rb>弾呵</rb><rt>だんか</rt></ruby>してある経文もあるが、保胤のは慈念や悲念が<ruby><rb>亢</rb><rt>たか</rt></ruby>ぶって、それによって非違に<ruby><rb>趨</rb><rt>はし</rt></ruby>るに至ったのでも何でもないから、本より非難すべくも無いのである。

ただし世法は慈仁のみでは成立たぬ、仁の向側と云っては少しおかしいが、義というものが立てられていて、義は利の<ruby><rb>和</rb><rt>か</rt></ruby>なりとある。仁のみ過ぎて、利の和を失っては、<ruby><rb>不埒</rb><rt>ふらち</rt></ruby>不都合になって、やや無茶苦茶になって<ruby><rb>終</rb><rt>しま</rt></ruby>う。で、保胤の慈仁一遍の調子では、保胤自身を累することの起るのも自然のことである。しかしそれも純情で押切る保胤の如き人に取っては、世法の如きは、<ruby><rb>灯芯</rb><rt>とうすみ</rt></ruby>の縄張同様だと云って終われればそれまでである。或時保胤は大内記の官のおもて、催されて御所へ参入しかけた。<ruby><rb>衛門府</rb><rt>えもんふ</rt></ruby>というのが御門警衛の府であって、左右ある。其の左衛門の陣あたりに、女が実に苦しげに泣いて立っていた。牛にさえ馬にさえ<ruby><rb>悲憐</rb><rt>ひれん</rt></ruby>の涙を惜まぬ保胤である、若い女の苦しみ泣いているのを見て、よそめに過そうようは無い。つと立寄って、何事があって其様には泣き苦むぞ、と問慰めてやった。女は答えわずらったが親切に問うてくれるので、まことは<ruby><rb>主人</rb><rt>あるじ</rt></ruby>の使にて石の帯を人に借りて帰り候が、路にておろかにも<ruby><rb>其</rb><rt>そ</rt></ruby>を取りおとして失い、さがし求むれど似たるものもなく、いかにともすべきようなくて、土に穴あらば入りても消えんと思い候、主人の用を欠き、人さまの物を失い、生きても死にても身の立つべき瀬の有りとしも思えず、と泣きさくりつつ、たどたどしく言った。石の帯というは、黒漆の<ruby><rb>革</rb><rt>なめしがわ</rt></ruby>の帯の背部の飾りを、石で造ったものをいうので、衣冠束帯の当時の朝服の帯であり、位階によりて定制があり、紀伊石帯、出雲石帯等があれば、石の形にも<ruby><rb>方</rb><rt>けた</rt></ruby>なのもあれば丸なのもある。石帯を借らせたとあれば、女の主人は無論参朝に<ruby><rb>逼</rb><rt>せま</rt></ruby>って居て、朋友の融通を仰いだのであろうし、それを<ruby><rb>遺失</rb><rt>おと</rt></ruby>したというのでは、おろかさは云うまでも無いし、其の困惑さも亦言うまでも無いが、主人もこれには<ruby><rb>何共</rb><rt>なんとも</rt></ruby>困るだろう、何とかして遣りたいが、差当って今何とすることもならぬ、是非が無い、自分が今帯びている石帯を貸してやるより道は無いと、自分が今催促されて参入する<ruby><rb>気忙</rb><rt>きぜわ</rt></ruby>しさに、思慮分別の<ruby><rb>暇</rb><rt>いとま</rt></ruby>も無く、よしよし、さらば此の石帯を貸さんほどに<ruby><rb>疾</rb><rt>と</rt></ruby>く疾く<ruby><rb>主人</rb><rt>あるじ</rt></ruby>が<ruby><rb>方</rb><rt>かた</rt></ruby>にもて行け、と保胤は我が着けた石帯を解きてするすると引出して女に与えた。女は仏<ruby><rb>菩薩</rb><rt>ぼさつ</rt></ruby>に会った心地して、<ruby><rb>掌</rb><rt>て</rt></ruby>をすり合せて礼拝し、<ruby><rb>悦</rb><rt>よろこ</rt></ruby>び勇んで、いそいそと<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ち走り去ってしまった。保胤は人の急を救い得たのでホッと一安心したが、ア、今度は自分が石帯無し、石帯無しでは出るところへ出られぬ。

いかに仏心仙骨の保胤でも、我ながら、我がおぞましいことをして退けたのには今さら<ruby><rb>困</rb><rt>こう</rt></ruby>じたことであろう。さて片隅に帯もなくて隠れ居たりけるほどに、と今鏡には書かれているが、其片隅とは何処の片隅か、衛門府の片隅でも有ろうか不明である。何にしろまごまごして弱りかえって度を失っていたことは思いやられる。其の風態は想像するだにおかしくて堪えられぬ。<ruby><rb>公事</rb><rt>くじ</rt></ruby>まさにはじまらんとして、保胤が未だ出て来ないでは仕方が無いから、属僚は遅い遅いと待ち兼ねて迎え求めに出て来た。此体を見出しては、互に呆れて変な顔を仕合ったろう。でも公事に<ruby><rb>急</rb><rt>せ</rt></ruby>かれては<ruby><rb>其</rb><rt>その</rt></ruby><ruby><rb>儘</rb><rt>まま</rt></ruby>には済まされぬので、保胤の<ruby><rb>面目</rb><rt>めんぼく</rt></ruby><ruby><rb>無</rb><rt>な</rt></ruby>さ、人々の厄介千万さも、御用の進行の<ruby><rb>大切</rb><rt>だいじ</rt></ruby>に押流されて了って人々に世話を焼かれて、御くらの<ruby><rb>小舎人</rb><rt>こどねり</rt></ruby>とかに帯を借りて、辛くも内に入り、公事は勤め<ruby><rb>果</rb><rt>おお</rt></ruby>したということである。

此の物語は疑わしいかどもあるが、まるで無根のことでも無かろうか。何にせよ随分突飛な<ruby><rb>談</rb><rt>はなし</rt></ruby>ではある。しかし大に歪められた談にせよ、此談によって保胤という人の、俗智の乏しく世法に疎かったことは遺憾無く現わされている。これでは如何に才学が有って、善良な人であっても、世間を危気無しには渡って行かれなかったろうと思われるから、まして官界の立身出世などは、東西<ruby><rb>相</rb><rt>あい</rt></ruby><ruby><rb>距</rb><rt>さ</rt></ruby>る三十里だったであろう。

<ruby><rb>斯様</rb><rt>かよう</rt></ruby>な人だったとすれば、余程俗才のある細君でも持っていない限りは家の経済などは<ruby><rb>埒</rb><rt>らち</rt></ruby>も無いことだったに相違無い。そこで志山林に在り、居宅を営まず、などと云われれば、大層好いようだが、実は<ruby><rb>為</rb><rt>しょ</rt></ruby>うこと無しの借家住いで、長い間の<ruby><rb>朝夕</rb><rt>ちょうせき</rt></ruby>を上東門の人の家に暮していた。それでも段々年をとっては、せめて<ruby><rb>起臥</rb><rt>きが</rt></ruby>をわが家でしたいのが人の通情であるから、保胤も六条の荒地の<ruby><rb>廉</rb><rt>やす</rt></ruby>いのを<ruby><rb>購</rb><rt>あがな</rt></ruby>って、<ruby><rb>吾</rb><rt>わ</rt></ruby>が<ruby><rb>住居</rb><rt>すまい</rt></ruby>をこしらえた。勿論立派な邸宅というのでは無かったに疑い無いが、<ruby><rb>流石</rb><rt>さすが</rt></ruby>に自分が造り得たのだから、其居宅の記を作って居る、それが今存している池亭記である。記には先ず京都東西の盛衰を叙して、四条以北、<ruby><rb>乾艮</rb><rt>けんこん</rt></ruby>二方の繁栄は到底自分等の居を営むを許さざるを述べ、六条以北、<ruby><rb>窮僻</rb><rt>きゅうへき</rt></ruby>の地に、十有余<ruby><rb>畝</rb><rt>ほ</rt></ruby>を得たのを幸とし、隆きに就きては小山を<ruby><rb>為</rb><rt>つく</rt></ruby>り、窪きに就きては<ruby><rb>小池</rb><rt>しょうち</rt></ruby>を<ruby><rb>穿</rb><rt>うが</rt></ruby>ち、池の西には小堂を置きて<ruby><rb>弥陀</rb><rt>みだ</rt></ruby>を安んじ、池の東には小閣を開いて<ruby><rb>書籍</rb><rt>しょじゃく</rt></ruby>を納め、池北には低屋を起して妻子を<ruby><rb>著</rb><rt>つ</rt></ruby>けり、と記している。阿弥陀堂を置いたところは、如何にも保胤らしい好みで、いずれささやかな堂ではあろうが、そこへ朝夕の身を運んで、焼香<ruby><rb>供華</rb><rt>くげ</rt></ruby>、<ruby><rb>礼拝</rb><rt>らいはい</rt></ruby><ruby><rb>誦経</rb><rt>じゅきょう</rt></ruby>、心しずかに<ruby><rb>称名</rb><rt>しょうみょう</rt></ruby>したろう真面目さ、おとなしさは、何という人柄の善いことだろう。<ruby><rb>凡</rb><rt>およ</rt></ruby>そ屋舎十の四、池水九の三、菜園八の二、<ruby><rb>芹田</rb><rt>きんでん</rt></ruby>七の一、とあるので全般の様子は想いやられるが、芹田七の一がおもしろい。池の中の小島の松、<ruby><rb>汀</rb><rt>みぎわ</rt></ruby>の柳、小さな柴橋、北戸の竹、植木屋に褒められるほどのものは何一ツ無く、又先生の眉を<ruby><rb>皺</rb><rt>しわ</rt></ruby>めさせるような牛に<ruby><rb>搬</rb><rt>はこ</rt></ruby>ばせた大石なども更に見えなくても、<ruby><rb>蕭散</rb><rt>しょうさん</rt></ruby>な庭のさまは流石に佳趣無きにあらずと思われる。予行年<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>く五旬になりなんとして<ruby><rb>適々</rb><rt>たまたま</rt></ruby>少宅有り、<ruby><rb>蝸</rb><rt>か</rt></ruby>其舎に安んじ、<ruby><rb>虱</rb><rt>しらみ</rt></ruby>其の縫を楽む、と言っているのも、けちなようだが、其実を失わないで宜い。家主、職は柱下に在りと<ruby><rb>雖</rb><rt>いえど</rt></ruby>も、心は山中に住むが如し。官爵は運命に任す、天の工<ruby><rb>均</rb><rt>あまね</rt></ruby>し矣。<ruby><rb>寿夭</rb><rt>じゅよう</rt></ruby>は<ruby><rb>乾坤</rb><rt>けんこん</rt></ruby>に付す、<ruby><rb>丘</rb><rt>きゅう</rt></ruby>の<ruby><rb>祷</rb><rt>いの</rt></ruby>ることや久し焉。と内力少し<ruby><rb>気燄</rb><rt>きえん</rt></ruby>を揚げて居るのも、ウソでは無いから憎まれぬ。朝に在りて身暫く王事に<ruby><rb>随</rb><rt>したが</rt></ruby>い、家にありては心永く<ruby><rb>仏那</rb><rt>ぶつな</rt></ruby>に帰す、とあるのは、儒家としては感服出来ぬが、此人としては率直の言である。<ruby><rb>夫</rb><rt>か</rt></ruby>の漢の文皇帝を異代の主と為す、と云っているのは、腑に落ちぬ言だが、其後に<ruby><rb>直</rb><rt>ただち</rt></ruby>に、倹約を好みて人民を安んずるを以てなり、とある。一体異代の主というのは変なことであるが、心裏に慕い<ruby><rb>奉</rb><rt>まつ</rt></ruby>る人というほどのことであろう。倹約を好んで人民を安んずる君主は、真に学ぶべき君主であると思っていたからであろうか、何も当時の君主を<ruby><rb>奢侈</rb><rt>しゃし</rt></ruby>で人民を苦める<ruby><rb>御方</rb><rt>おんかた</rt></ruby>と<ruby><rb>見做</rb><rt>みな</rt></ruby>す如き不臣の心を持って居たでは<ruby><rb>万々</rb><rt>ばんばん</rt></ruby>あるまい、ただし倹約を好み人民を安んずるの六字を点出して、此故を以て漢文を崇慕するとしたに就ては、<ruby><rb>聊</rb><rt>いささ</rt></ruby>か意なきにあらずである。それは此記の冒頭に、二十余年以来、東西二京を歴見するに、<ruby><rb>云々</rb><rt>うんぬん</rt></ruby>と書き出して、繁栄の地は、高家比門連堂、其価値二三畝千万銭なるに至れることを述べて居るが、保胤の師の菅原文時が天暦十一年十二月に封事三条を<ruby><rb>上</rb><rt>たてまつ</rt></ruby>ったのは、丁度二十余年前に当って居り、当時文化日に進みて、奢侈の風、月に長じたことは<ruby><rb>分明</rb><rt>ぶんみょう</rt></ruby>であり、文時が奢侈を禁ぜんことを請うの条には、方今高堂連閣、貴賎共に其居を<ruby><rb>壮</rb><rt>さかん</rt></ruby>にし、麗服美衣、貧富同じく其製を<ruby><rb>寛</rb><rt>ゆたか</rt></ruby>にすると云い、富める者は産業を傾け、貧者は家資を失う、と既に其弊の<ruby><rb>見</rb><rt>あら</rt></ruby>わるるを云って居る。物価は騰貴をつづけて、国用漸く足らず、官を売って財に換うるのことまで生ずるに至ったことは、同封事第二条に見え、<ruby><rb>若</rb><rt>も</rt></ruby>し国用を憂うならば<ruby><rb>則</rb><rt>すなわ</rt></ruby>ち毎事必ず倹約を行え、と文時をして切言せしめている。<ruby><rb>爾後</rb><rt>じご</rt></ruby>二十余年、世態<ruby><rb>愈々</rb><rt>いよいよ</rt></ruby>変じて、華奢増長していたろうから、保胤のようなおとなしい者の眼からは、倹約安民の上を慕わしく思ったのであろう。次に、唐の白楽天を異代の師と為す、詩句に長じて仏法に帰するを以てなり、と記している。白氏を<ruby><rb>詩宗</rb><rt>しそう</rt></ruby>としたのは保胤ばかりでなく、当時の人皆然りであった。ただ保胤の白氏を尊ぶ<ruby><rb>所以</rb><rt>ゆえん</rt></ruby>は、詩句に長じたからのみではなく、白氏の仏法に帰せるに取るあるのである。ところが白氏は台所婆なぞを定規にして詩を<ruby><rb>裁</rb><rt>た</rt></ruby>った人なので、気の毒に其の益をも得たろうが其弊をも受け、又白氏は唐人の習い、<ruby><rb>弥勒菩薩</rb><rt>みろくぼさつ</rt></ruby>の徒であったろうに、保胤は<ruby><rb>弥陀如来</rb><rt>みだにょらい</rt></ruby>の徒であったのはおかしい。次に、晋朝の七賢を異代の友と為す、身は朝に在って志は隠に在るを以てなり、と記している。竹林の七賢は、いずれ<ruby><rb>洒落</rb><rt>しゃれ</rt></ruby>た者どもには相違無いが、懐中に<ruby><rb>算籌</rb><rt>さんちゅう</rt></ruby>を入れていたような食えない男も居て、案外保胤の方が善いお父さんだったか知れない。<ruby><rb>是</rb><rt>かく</rt></ruby>の如く叙し来ったとて、文海の<ruby><rb>蜃楼</rb><rt>しんろう</rt></ruby>、もとより虚実を問うべきではないが、保胤は日々<ruby><rb>斯様</rb><rt>こう</rt></ruby>いう人々と遇っているというのである。そして、近代人世の事、<ruby><rb>一</rb><rt>いつ</rt></ruby>も<ruby><rb>恋</rb><rt>した</rt></ruby>うべき無し、人の師たるものは貴を先にし富を先にして、文を以て<ruby><rb>次</rb><rt>じ</rt></ruby>せず、師無きに<ruby><rb>如</rb><rt>し</rt></ruby>かず、人の友たる者は勢を以てし利を以てし、淡を以て交らず、友無きに如かず、予門をふさぎ戸を閉じ、独り吟じ独り詠ず、と自ら足りて居る。応和以来世人好んで<ruby><rb>豊屋峻宇</rb><rt>ほうおくしゅんう</rt></ruby>を起し、殆ど山節<ruby><rb>藻梲</rb><rt>そうせつ</rt></ruby>に至る、其費且つ巨千万、其住<ruby><rb>纔</rb><rt>わずか</rt></ruby>に二三年、古人の造る者居らずと云える、誠なるかな<ruby><rb>斯言</rb><rt>このげん</rt></ruby>、と<ruby><rb>嘲</rb><rt>あざけ</rt></ruby>り、自分の暮歯に及んで小宅を起せるを、老蚕の<ruby><rb>繭</rb><rt>まゆ</rt></ruby>を成すが如しと笑い、其の住むこと幾時ぞや、と自ら笑って居る。老蚕の繭を成せる如し、とは流石に好かった。此記を為せるは、天元五年の冬、保胤四十八九歳ともおもわれる。

保胤が日本往生極楽記を著わしたのは、此の六条の池亭に在った時であろうと思われる。今存している同書は<ruby><rb>朝散大夫著作郎慶保胤撰</rb><rt>ちょうさんたいふちょさくろうきょうほういんせん</rt></ruby>と署名してある、それに拠れば保胤が未だ官を辞せぬ時の撰にかかると考えられるからである。其書に叙して、保胤みずから、予<ruby><rb>少</rb><rt>わか</rt></ruby>きより日に弥陀仏を念じ、行年四十以後、其志<ruby><rb>弥々</rb><rt>いよいよ</rt></ruby><ruby><rb>劇</rb><rt>はげ</rt></ruby>しく、口に名号を唱え、心に<ruby><rb>相好</rb><rt>そうごう</rt></ruby>を観じ、行住<ruby><rb>坐臥</rb><rt>ざが</rt></ruby>、暫くも忘れず、造次<ruby><rb>顛沛</rb><rt>てんぱい</rt></ruby>も必ず是に於てす、<ruby><rb>夫</rb><rt>か</rt></ruby>の堂舎<ruby><rb>塔廟</rb><rt>とうびょう</rt></ruby>、弥陀の像有り浄土の図ある者は、<ruby><rb>礼敬</rb><rt>らいきょう</rt></ruby>せざるなく、道俗男女、極楽に志す有り、往生を願う有る者は、<ruby><rb>結縁</rb><rt>けちえん</rt></ruby>せざる<ruby><rb>莫</rb><rt>な</rt></ruby>し、と云って居るから、四十以後、道心日に募りて<ruby><rb>已</rb><rt>や</rt></ruby>み難く、しかも未だ官を辞さぬ頃、自他の信念勧進のために、往生事実の<ruby><rb>良験</rb><rt>りょうげん</rt></ruby>を録して、本朝四十余人の伝をものしたのである。清閑の池亭の<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>、仏前<ruby><rb>唱名</rb><rt>しょうみょう</rt></ruby>の<ruby><rb>間々</rb><rt>あいあい</rt></ruby>に、筆を執って仏<ruby><rb>菩薩</rb><rt>ぼさつ</rt></ruby>の<ruby><rb>引接</rb><rt>いんじょう</rt></ruby>を<ruby><rb>承</rb><rt>う</rt></ruby>けた善男善女の<ruby><rb>往迹</rb><rt>おうじゃく</rt></ruby>を物しずかに記した保胤の<ruby><rb>旦暮</rb><rt>あけくれ</rt></ruby>は、如何に<ruby><rb>塵界</rb><rt>じんかい</rt></ruby>を超脱した<ruby><rb>清浄三昧</rb><rt>しょうじょうさんまい</rt></ruby>のものであったろうか。此往生極楽記は其序に見える通り、唐の<ruby><rb>弘法寺</rb><rt>ぐほうじ</rt></ruby>の僧の<ruby><rb>釈迦才</rb><rt>しゃくかさい</rt></ruby>の浄土論中に、安楽往生者二十人を記したのに<ruby><rb>傚</rb><rt>なら</rt></ruby>ったものであるが、保胤往生の後、<ruby><rb>大江匡房</rb><rt>おおえのまさふさ</rt></ruby>は又保胤の往生伝の<ruby><rb>先蹤</rb><rt>せんしょう</rt></ruby>を追うて、続本朝往生伝を<ruby><rb>撰</rb><rt>せん</rt></ruby>している。そして其続伝の中には保胤も採録されているから、法縁<ruby><rb>微妙</rb><rt>みみょう</rt></ruby>、玉環の相連なるが如しである。匡房の続往生伝の叙に、寛和年中、著作郎慶保胤、往生伝を作りて世に伝う、とあるに拠れば、保胤が往生伝を撰したのは、正しく保胤が脱白<ruby><rb>被緇</rb><rt>ひし</rt></ruby>の前年、五十一二歳頃、彼の六条の池亭に在った時ででもあったろう。

保胤が池亭を造った時は、自ら記して、老蚕の<ruby><rb>繭</rb><rt>まゆ</rt></ruby>を成せるがごとしと云ったが、老蚕は永く<ruby><rb>繭中</rb><rt>けんちゅう</rt></ruby>に在り得無かった。天元五年の冬、其家は成り、其記は作られたが、其翌年の永観元年には<ruby><rb>倭名類聚抄</rb><rt>わみょうるいじゅしょう</rt></ruby>の撰者の源<ruby><rb>順</rb><rt>したがう</rt></ruby>は死んだ。順も博学能文の人であったが、後に大江匡房が近世の才人を論じて、<ruby><rb>橘</rb><rt>たちばな</rt></ruby>ノ<ruby><rb>在列</rb><rt>ありつら</rt></ruby>は源ノ順に及ばず、順は以言と慶滋保胤とに及ばず、と断じた。保胤と順とは別に関渉は無かったが、兎死して狐悲む道理で、前輩知友の段々と<ruby><rb>凋落</rb><rt>ちょうらく</rt></ruby>して行くのは、さらぬだに心やさしい保胤には向仏の念を添えもしたろう。世の中は<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>く押詰って、人民安からず、去年は諸国に盗賊が起り、今年は<ruby><rb>洛中</rb><rt>らくちゅう</rt></ruby>にて<ruby><rb>猥</rb><rt>みだ</rt></ruby>りに兵器を携うるものを捕うるの令が出さるるに至った。これと云って保胤の身近に何事が有ったわけでは無いが、かねてからの道心<ruby><rb>愈々</rb><rt>いよいよ</rt></ruby>熟したからであろう。保胤は遂に寛和二年を以て、自分が折角こしらえた繭を<ruby><rb>咬</rb><rt>かみ</rt></ruby><ruby><rb>破</rb><rt>やぶ</rt></ruby>って出て、落髪出家の身となって<ruby><rb>終</rb><rt>しま</rt></ruby>った。戒師は誰であったか、<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>の書にも見えぬが、保胤ほどの善信の人に取っては、道の<ruby><rb>傍</rb><rt>かたえ</rt></ruby>の杉の樹でも、田の<ruby><rb>畦</rb><rt>あぜ</rt></ruby>の<ruby><rb>立杭</rb><rt>たちぐい</rt></ruby>でも、戒師たるに足るであろうから、誰でも宜かったのである。<ruby><rb>多武峰</rb><rt>とうのみね</rt></ruby>の増賀上人、<ruby><rb>横川</rb><rt>よかわ</rt></ruby>の<ruby><rb>源信</rb><rt>げんしん</rt></ruby><ruby><rb>僧都</rb><rt>そうず</rt></ruby>、皆いずれも当時の高僧で、しかも保胤には<ruby><rb>有縁</rb><rt>うえん</rt></ruby>の人であったし、其他にも然るべき人で得度させて呉れる者は沢山有ったろうが、まさか野菜売りの老翁が小娘を失った悲みに<ruby><rb>自剃</rb><rt>じぞ</rt></ruby>りで坊主になったというような次第でもあるまいに、更に其噂の伝わらぬのは不思議である。匡房が続往生伝には、子息の<ruby><rb>冠笄</rb><rt>かんけい</rt></ruby><ruby><rb>纔</rb><rt>わずか</rt></ruby>に<ruby><rb>畢</rb><rt>おわ</rt></ruby>るに及んで、遂に以て入道す、とあるばかりだ。それによれば、何等の機縁が有ったのでも無く、我児が一人で世に立って行かれるようになったので、<ruby><rb>予</rb><rt>かね</rt></ruby>ての心願に任せて至極安穏に、時至って瓜が<ruby><rb>蔕</rb><rt>へた</rt></ruby>から離れるが如く俗世界からコロリと滑り出して後生願い一方の人となったのであろう。保胤の妻及び子は<ruby><rb>何様</rb><rt>どん</rt></ruby>な人であったか、更に分らぬ。子は有ったに相違ないが、傍系の故だか、加茂氏系図にも見当らぬ。思うに妻も子も尋常無異の人で、善人ではあったろうが、<ruby><rb>所謂</rb><rt>いわゆる</rt></ruby><ruby><rb>草芥</rb><rt>そうかい</rt></ruby>とともに朽ちたものと見える。

保胤は入道して寂心となった。世間では内記の<ruby><rb>聖</rb><rt>ひじり</rt></ruby>と呼んだ。在俗の間すら<ruby><rb>礼仏誦経</rb><rt>らいぶつじゅきょう</rt></ruby>に身心を打込んだのであるから、寂心となってからは、愈々精神を<ruby><rb>抖擻</rb><rt>とそう</rt></ruby>して、問法<ruby><rb>作善</rb><rt>さぜん</rt></ruby>に油断も無かった。伝には、諸国を経歴して広く仏事を<ruby><rb>作</rb><rt>な</rt></ruby>した、とあるが、別に行脚の<ruby><rb>苦修談</rb><rt>くじゅだん</rt></ruby>などは伝えられていない。ただ出家して後わずかに三年目には、自分に身を投げかけて来た者を済度して寂照という名を与えた。此の寂照は後に源信の為に宋に<ruby><rb>使</rb><rt>つかい</rt></ruby>したもので、寂心と源信とはもとより<ruby><rb>菩提</rb><rt>ぼだい</rt></ruby>の友であった。源信の方が寂心よりは少し年が劣って居たかも知らぬが、何にせよ幼きより<ruby><rb>叡山</rb><rt>えいざん</rt></ruby>の慈慧に就いて励精刻苦して学び、顕密<ruby><rb>双修</rb><rt>そうじゅ</rt></ruby>、<ruby><rb>行解</rb><rt>ぎょうげ</rt></ruby>並列の恐ろしい傑物であった。此の源信と寂心との間の一寸面白い<ruby><rb>談</rb><rt>はなし</rt></ruby>は、今其の出処を確記せぬが、閑居之友であったか何だったか、何でも可なり古いもので見たと思うのである。記憶の間違だったら抹殺して貰わねばならぬが。

或時寂心は横川の<ruby><rb>慧心院</rb><rt>えしんいん</rt></ruby>を<ruby><rb>訪</rb><rt>と</rt></ruby>うた。院は<ruby><rb>寂然</rb><rt>じゃくねん</rt></ruby>として人も無いようであった。他行であるか、禅定であるか、観法であるか、何かは知らぬが、互に日頃から、見ては宜からぬ、見られては宜からぬ如き行儀を互に<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>たぬ同士であるから、遠慮無く寂心は<ruby><rb>安詳</rb><rt>あんじょう</rt></ruby>にあちこちを見廻った。源信は何処にも居なかった。やがて、ここぞと思う<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>の戸を寂心は引開けた。すると<ruby><rb>是</rb><rt>こ</rt></ruby>は如何に、眼の前は<ruby><rb>茫々漠々</rb><rt>ぼうぼうばくばく</rt></ruby>として何一ツ見えず、イヤ何一ツ見えないのでは無い、唯是れ漫々洋々として、<ruby><rb>大河</rb><rt>だいが</rt></ruby>の如く大湖の如く<ruby><rb>大海</rb><rt>だいかい</rt></ruby>の如く、<ruby><rb>漪々</rb><rt>いい</rt></ruby>たり<ruby><rb>瀲々</rb><rt>れんれん</rt></ruby>たり、<ruby><rb>汪々</rb><rt>おうおう</rt></ruby>たり<ruby><rb>滔々</rb><rt>とうとう</rt></ruby>たり、<ruby><rb>洶</rb><rt>きょう</rt></ruby>たり<ruby><rb>沸</rb><rt>ふつ</rt></ruby>たり、煙波<ruby><rb>糢糊</rb><rt>もこ</rt></ruby>、水光天に接するばかり、何も無くして水ばかりであった。寂心は<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>へ一足引いたが、<ruby><rb>恰</rb><rt>あたか</rt></ruby>もそこに在った木枕を取って中へ打込み、さらりと戸をしめて院外へ出て帰ってしまった。源信はそれから身痛を覚えた。寂心が来て<ruby><rb>卒爾</rb><rt>そつじ</rt></ruby>の戯れをしたことが分って、源信はふたたび水を現じて、寂心に其中へ投げ入れたものを除去させた。源信はもとの如くになった。

此の談は今の人には、ただ是れ無茶苦茶の<ruby><rb>譚</rb><rt>だん</rt></ruby>と聞えるまでであろう。又これを理解のゆくように語りわけることも、敢てするに当るまい。が、これは源信寂心にはじまったことではなく、経に在っては月光童子の物語がこれと同じ事で、童子は水観を初めて成し得た時に、無心の小児に<ruby><rb>瓦礫</rb><rt>がれき</rt></ruby>を水中に投げ入れられて心痛を覚え、それを取出して貰って安穏を回復したというのである。伝に在っては、唐の法進が竹林中で水観を修めた時に、これは家人が縄床上に<ruby><rb>清水</rb><rt>せいすい</rt></ruby>があるのを見て、二ツの小白石を其中に置いたので、それから背痛を覚え、後また其を除いて貰って事無きを得たという談がある。日本でも大安寺の<ruby><rb>勝業</rb><rt>しょうごう</rt></ruby>上人が水観を<ruby><rb>成</rb><rt>じょう</rt></ruby>じた時同じく石を投げ入れられて、これは<ruby><rb>胷</rb><rt>むね</rt></ruby>が痛んだという談があって、何も<ruby><rb>希有</rb><rt>けう</rt></ruby>な談でも何でもない。清水だろうが、洪水だろうが、瓦礫だろうが、小白石だろが、何だって構うことは無い、慧心寂心の間に<ruby><rb>斯様</rb><rt>かよう</rt></ruby>な話の事実が有ったろうが、無かったろうがそんなことは実は<ruby><rb>何様</rb><rt>どう</rt></ruby>でもよい、ただ<ruby><rb>斯様</rb><rt>こう</rt></ruby>いう談が伝わっているというだけである。いや実はそれさえ<ruby><rb>覚束</rb><rt>おぼつか</rt></ruby>ないのである。ただ寂心の弟子の寂照が後に源信の弟子同様の態度を取って支那に渡るに及んでいるほどであるから、寂心源信の間には、日ごろ<ruby><rb>経律</rb><rt>きょうりつ</rt></ruby>の論、<ruby><rb>証解</rb><rt>しょうげ</rt></ruby>の談が互に交されていたろうことは想いやられる。勿論文辞に於ては寂心に一日の長があり、法悟に於ては源信に数歩の先んずるものが有ったろうが、源信もまた一乗要訣、往生要集等の著述少からず、寂心と同じように<ruby><rb>筆硯</rb><rt>ひっけん</rt></ruby>の業には心を寄せた人であった。

寂心は<ruby><rb>弥陀</rb><rt>みだ</rt></ruby>の慈願によって往生浄土を心にかけたのみの、まことに素直な仏徒ではあったが、此時はまだ後の源空以後の念仏宗のような教義が世に行われていたのでなく、したがって<ruby><rb>捨閉擱抛</rb><rt>しゃへいかくほう</rt></ruby>と、他の事は何も彼も<ruby><rb>擲</rb><rt>なげう</rt></ruby>ち捨てて南無阿弥陀仏一点張り、唱名三昧に二六時中を過したというのではなく、後世からは<ruby><rb>余業雑業</rb><rt>よごうざつごう</rt></ruby>と<ruby><rb>斥</rb><rt>しりぞ</rt></ruby>けて<ruby><rb>終</rb><rt>しま</rt></ruby>うようなことにも、<ruby><rb>正道正業</rb><rt>しょうどうしょうごう</rt></ruby>と<ruby><rb>思惟</rb><rt>しゆい</rt></ruby>さるる事には<ruby><rb>恭敬心</rb><rt>くぎょうしん</rt></ruby>を以て如何にも素直にこれを学び之を<ruby><rb>行</rb><rt>ぎょう</rt></ruby>じたのであった。で、横川に増賀の聖が<ruby><rb>摩訶止観</rb><rt>まかしかん</rt></ruby>を説くに当って、寂心は就いて之を<ruby><rb>承</rb><rt>う</rt></ruby>けんとした。

増賀は参議<ruby><rb>橘恒平</rb><rt>たちばなのつねひら</rt></ruby>の子で、四歳の時につきものがしたように、叡山に<ruby><rb>上</rb><rt>のぼ</rt></ruby>って学問をしよう、と云ったとか伝えられ、十歳から山へ上せられて、慈慧に就いて仏道を学んだ。<ruby><rb>聡明</rb><rt>そうめい</rt></ruby>驚くべく、学は顕密を<ruby><rb>綜</rb><rt>す</rt></ruby>べ、<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>も止観に<ruby><rb>邃</rb><rt>ふか</rt></ruby>かったと云われている。真の学僧<ruby><rb>気質</rb><rt>かたぎ</rt></ruby>で、俗気が<ruby><rb>微塵</rb><rt>みじん</rt></ruby>ほども無く、深く<ruby><rb>名利</rb><rt>みょうり</rt></ruby>を<ruby><rb>悪</rb><rt>にく</rt></ruby>んで、断岸絶壁の如くに身の取り置きをした。<ruby><rb>元亨釈書</rb><rt>げんこうしゃしょ</rt></ruby>に、安和の上皇、勅して<ruby><rb>供奉</rb><rt>ぐぶ</rt></ruby>と為す、<ruby><rb>佯狂垢汗</rb><rt>ようきょうこうかん</rt></ruby>して逃れ去る、と記しているが、<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>りも無く馬鹿げた事をして、他に<ruby><rb>厭</rb><rt>いと</rt></ruby>い忌まれても、自分の心に済むように自分は生活するのを可なりとした人であった。自分の師の慈慧が僧正に任ぜられたので、宮中に参って御礼を申上げるに際し、一山の<ruby><rb>僧侶</rb><rt>そうりょ</rt></ruby>、翼従甚だ盛んに、それこそ威儀を厳荘にし、飾り立てて錬り行った。一体本来を云えば樹下石上にあるべき僧侶が、御尊崇下さる故とは云え、世俗の者共<ruby><rb>月卿雲客</rb><rt>げっけいうんかく</rt></ruby>の任官謝恩の如くに、喜びくつがえりて、<ruby><rb>綺羅</rb><rt>きら</rt></ruby>をかざりて宮廷に<ruby><rb>拝趨</rb><rt>はいすう</rt></ruby>するなどということのあるべきでは無いから、増賀には俗僧どもの所為が<ruby><rb>尽</rb><rt>ことごと</rt></ruby>く気に入らなかったのであろう。衛府の大官が立派な長剣を帯びたように、<ruby><rb>乾鮭</rb><rt>からさけ</rt></ruby>の大きな奴を<ruby><rb>太刀</rb><rt>たち</rt></ruby>の如くに腰に<ruby><rb>佩</rb><rt>お</rt></ruby>び、裸同様のあさましい姿で、<ruby><rb>痩</rb><rt>や</rt></ruby>せた<ruby><rb>牝牛</rb><rt>めうし</rt></ruby>の上に<ruby><rb>乗</rb><rt>のり</rt></ruby><ruby><rb>跨</rb><rt>また</rt></ruby>がり、えらそうな顔をして先駆の列に立って、都大路の諸人環視の中を堂々と打たせたから、群衆は呆れ、衆徒は驚いて、こは何事と増賀を<ruby><rb>引</rb><rt>ひき</rt></ruby><ruby><rb>退</rb><rt>さが</rt></ruby>らせようとしたが、増賀は声を<ruby><rb>厲</rb><rt>はげ</rt></ruby>しくして、僧正の御車の<ruby><rb>前駈</rb><rt>さきがけ</rt></ruby>、我をさしおいて誰が勤むべき、と怒鳴った。盛儀も<ruby><rb>何様</rb><rt>どう</rt></ruby>も散々な<ruby><rb>打壊</rb><rt>ぶちこわ</rt></ruby>しであった。こういう人だったから、或立派な家の法会があって、請われて其処へ趣く途中、是は<ruby><rb>名聞</rb><rt>みょうもん</rt></ruby>のための法会である、名聞のためにすることは魔縁である、と思いついたので、遂に願主と<ruby><rb>挘</rb><rt>むし</rt></ruby>りあい的<ruby><rb>諍議</rb><rt>そうぎ</rt></ruby>を仕出して<ruby><rb>終</rb><rt>しま</rt></ruby>って、折角の法会を滅茶滅茶にして帰った。随分厄介といえば厄介な僧である。

かかる<ruby><rb>狂気</rb><rt>きちがい</rt></ruby>じみたところのある僧であったから、三条の大きさいの宮の尼にならせ給わんとして、増賀を戒師とせんとて召させたまいたる時、<ruby><rb>途轍</rb><rt>とてつ</rt></ruby>も無き<ruby><rb>麤言</rb><rt>そげん</rt></ruby>を吐き、悪行をはたらき、殊勝の<ruby><rb>筵</rb><rt>えん</rt></ruby>に<ruby><rb>列</rb><rt>つらな</rt></ruby>れる月卿雲客、<ruby><rb>貴嬪采女</rb><rt>きひんさいじょ</rt></ruby>、僧徒等をして、身<ruby><rb>戦</rb><rt>おのの</rt></ruby>き色失い、<ruby><rb>慙汗憤涙</rb><rt>ざんかんふんるい</rt></ruby>、身をおくところ無からしめたのも、うそでは無かったろうと思われる。それを記している<ruby><rb>宇治拾遺</rb><rt>うじしゅうい</rt></ruby>の巻十二の文は、ここに抄出するさえ<ruby><rb>忌</rb><rt>いま</rt></ruby>わしいから省くが、虎関禅師は、<ruby><rb>出麁語</rb><rt>しゅっそご</rt></ruby>の三字きりで済ませているから上品ではあるが事情は分らぬ。大江匡房は詞藻の豊な人であって、時代も近い人だったから、記せぬわけにもゆかぬと思って書いたのであろうが、<ruby><rb>流石</rb><rt>さすが</rt></ruby>に<ruby><rb>筆鋒</rb><rt>ひっぽう</rt></ruby>も<ruby><rb>窘蹙</rb><rt>きんしゅく</rt></ruby>している。放臭風の三字を以て<ruby><rb>瀉下</rb><rt>しゃか</rt></ruby>したことを写しているが、写し得ていない。<ruby><rb>誰人以増賀為嫪毐之輩</rb><rt>たれびとかぞうがをもつてきうあいのはいとなり</rt></ruby>、<ruby><rb>啓達后闈乎</rb><rt>こうゐにけいたつするものとなすか</rt></ruby>、と麁語を訳しているが、これも<ruby><rb>髣髴</rb><rt>ほうふつ</rt></ruby>たるに至らず、訳して真を失っている。仕方が無い。匡房の才の拙なるにあらず、増賀の狂の甚しきのみと言って置こう。<ruby><rb>釈迦</rb><rt>しゃか</rt></ruby>の弟子の中で<ruby><rb>迦留陀夷</rb><rt>かるだい</rt></ruby>というのが、教壇の上で<ruby><rb>穢語</rb><rt>えご</rt></ruby>を放って今に遺り伝わっているが、迦留陀夷のはただ<ruby><rb>阿房</rb><rt>あほ</rt></ruby>げているので、増賀のは其時既に衰老の年であったが、ふたたび宮闈などに召出されぬよう<ruby><rb>斬釘截鉄的</rb><rt>ざんていせってつてき</rt></ruby>に狂叫したのだとも云えば云えよう。実に断岸絶壁、近より難い、天台禅ではありながら、祖師禅のような気味のある人であった。

此の断岸絶壁のような智識に、清浅の流れ静かにして水は玉の如き寂心が<ruby><rb>魔訶止観</rb><rt>まかしかん</rt></ruby>を学び<ruby><rb>承</rb><rt>う</rt></ruby>けようとしたのであった。止観は<ruby><rb>隋</rb><rt>ずい</rt></ruby>の天台智者大師の所説にして門人<ruby><rb>灌頂</rb><rt>かんじょう</rt></ruby>の記したものである。たとい唐の<ruby><rb>毗陵</rb><rt>びりょう</rt></ruby>の<ruby><rb>堪然</rb><rt>たんねん</rt></ruby>の<ruby><rb>輔行弘決</rb><rt>ぶぎょうぐけつ</rt></ruby>を未だ寂心が手にし得無かったにせよ、寂心も既に半生を文字の中に暮して、経論の香気も身に<ruby><rb>浸々</rb><rt>しみじみ</rt></ruby>と味わっているのであるから、止観の文の読取れぬわけは無い。然し<ruby><rb>甚源微妙</rb><rt>じんげんみみょう</rt></ruby>の秘奥のところをというので、乞うて増賀の壇下に就いたのである。勿論同会の僧も幾人か有ったのである。増賀はおもむろに説きはじめた。止観<ruby><rb>明静</rb><rt>めいじょう</rt></ruby>、前代未だ聞かず、という最初のところから<ruby><rb>演</rb><rt>の</rt></ruby>べる。其の<ruby><rb>何様</rb><rt>どう</rt></ruby>いうところが寂心の<ruby><rb>胷</rb><rt>むね</rt></ruby>に響いたのか、其の意味がか、其の<ruby><rb>音声</rb><rt>おんじょう</rt></ruby>が<ruby><rb>乎</rb><rt>か</rt></ruby>、其の何の章、何の句がか、其の講明が乎演説が乎は、今伝えられて居らぬが、<ruby><rb>蓋</rb><rt>けだ</rt></ruby>し或箇処、或言句からというのでは無く、全体の其時の気味合からでも有ったろうか、寂心は<ruby><rb>大</rb><rt>おおい</rt></ruby>に感激した随喜した。そして<ruby><rb>堪</rb><rt>たま</rt></ruby>り兼ねて<ruby><rb>流涕</rb><rt>りゅてい</rt></ruby>し、すすり泣いた。すると増賀は<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ち座を下りて、つかつかと寂心の前へ立つなり、しや、何泣くぞ、と<ruby><rb>拳</rb><rt>こぶし</rt></ruby>を固めて、したたかに寂心が面を張りゆがめた。余の話の声など立てて妨ぐればこそ、感涙を流して謹み聞けるものを<ruby><rb>打擲</rb><rt>ちょうちゃく</rt></ruby>するは、と人々も苦りきって、座もしらけて<ruby><rb>其儘</rb><rt>そのまま</rt></ruby>になって<ruby><rb>終</rb><rt>しま</rt></ruby>った。さてあるべきではないから、寂心も涙を収め、人々も増賀をなだめすかして、ふたたび講説せしめた。と、又寂心は感動して泣いた。増賀は又拳をもって寂心を打った。<ruby><rb>是</rb><rt>かく</rt></ruby>の如くにして寂心の泣くこと三たびに及び、増賀は遂に寂心の誠意誠心に感じ、<ruby><rb>流石</rb><rt>さすが</rt></ruby>の増賀も増賀の方が負けて、それから遂に自分の淵底を尽して止観の奥秘を寂心に伝えたということである。<ruby><rb>何故</rb><rt>なにゆえ</rt></ruby>に泣いたか、何故に打ったか、それは二人のみが知ったことで、同会の衆僧も知らず、後の我等も知らぬとして宜いことだろう。

寂心が出家した後を続往生伝には、諸国を経歴して、広く仏事を<ruby><rb>作</rb><rt>な</rt></ruby>した、とのみ記してあるばかりで、何様いうことがあったということは載せていないが、既に<ruby><rb>柔輭</rb><rt>にゅうなん</rt></ruby>の仏子となった以上は別に何の事も有ろう訳も無い。しかし諸国を経歴したとある其の諸国とは何処何処であったろうかというに、西は<ruby><rb>播磨</rb><rt>はりま</rt></ruby>、東は三河にまで行ったことは、<ruby><rb>証</rb><rt>しょう</rt></ruby>があって分明するから、<ruby><rb>猶</rb><rt>なお</rt></ruby>遠く西へも東へも行ったかと想われる。其の播磨へ行った時の事である。これは堂塔<ruby><rb>伽藍</rb><rt>がらん</rt></ruby>を建つることは、<ruby><rb>法</rb><rt>のり</rt></ruby>の為、仏の為の最善根であるから、寂心も例を追うて、其のため播磨の国に<ruby><rb>行</rb><rt>ゆ</rt></ruby>いて材木勧進をした折と見える。<ruby><rb>何処</rb><rt>いずこ</rt></ruby>の町とも分らぬが、或処で寂心が<ruby><rb>偶然</rb><rt>ふと</rt></ruby>見やると、一人の僧形の者が紙の冠を<ruby><rb>被</rb><rt>き</rt></ruby>て<ruby><rb>陰陽師</rb><rt>おんようじ</rt></ruby>の風体を学び、物々しげに<ruby><rb>祓</rb><rt>はらえ</rt></ruby>するのが眼に入った。もとより陰陽道を以て立っている賀茂の家に生れた寂心であるから、自分は其道に依らないで儒道文辞の人となり、又其の儒を棄て<ruby><rb>仏</rb><rt>ぶつ</rt></ruby>に入って今の身になってはいるものの、陰陽道の如何なるものかの<ruby><rb>大凡</rb><rt>おおよそ</rt></ruby>は知っているのである。陰陽道は歴緯に<ruby><rb>法</rb><rt>のっと</rt></ruby>り神鬼を駆ると称して、世俗の為に吉を致し凶を<ruby><rb>禳</rb><rt>はら</rt></ruby>うものである。儒より云えば<ruby><rb>巫覡</rb><rt>ふげき</rt></ruby>の道、仏より云えば<ruby><rb>旃陀羅</rb><rt>せんだら</rt></ruby>の術である。それが今、かりにも<ruby><rb>法体</rb><rt>ほったい</rt></ruby>して<ruby><rb>菩提</rb><rt>ぼだい</rt></ruby>の<ruby><rb>大道</rb><rt>たいどう</rt></ruby>に入り、人天の導師ともならんと心掛けたと見ゆる者が、紙の冠などして、えせわざするを見ては、堪え得らるればこそ、其時は寂心馬に打乗り威儀かいつくろいて路を打たせていたが、<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ち<ruby><rb>滾</rb><rt>こぼ</rt></ruby>るように馬から<ruby><rb>下</rb><rt>くだ</rt></ruby>り、あわてて走り寄って、なにわざし給う御房ぞ、と<ruby><rb>詰</rb><rt>なじ</rt></ruby>り<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>めた。御房とは僧に対する称呼である。御房ぞと咎めたのは流石に寂心で、実に宜かった。しかし紙の冠して<ruby><rb>其様</rb><rt>そん</rt></ruby>な事をするほどの者であったから、<ruby><rb>却</rb><rt>かえ</rt></ruby>ってけげんな顔をしたことであろう。<ruby><rb>祓</rb><rt>はらえ</rt></ruby>を仕候也、と答えた。何しに紙の冠をばしたるぞ、と問えば、祓戸の神たちは法師をば忌みたまえば、祓をするほど<ruby><rb>少時</rb><rt>しばし</rt></ruby>は仕て<ruby><rb>侍</rb><rt>はべ</rt></ruby>るという。寂心今は堪えかねて、声をあげて大に泣きて、陰陽師につかみかかれば、陰陽師は心得かねて只呆れに呆れ、祓をしさして、これは如何に、と云えば、頼みて祓をさせたる<ruby><rb>主人</rb><rt>あるじ</rt></ruby>も驚き呆れた。寂心は猶も独り感じ泣きて、<ruby><rb>彼</rb><rt>か</rt></ruby>の紙の冠を<ruby><rb>攫</rb><rt>つか</rt></ruby>み取りて、引破りて地に<ruby><rb>抛</rb><rt>なげう</rt></ruby>ち、<ruby><rb>漣々</rb><rt>れんれん</rt></ruby>たる涙を<ruby><rb>止</rb><rt>とど</rt></ruby>めもあえず、何たる御房ぞや、尊くも仏弟子となりたまいながら、祓戸の神の忌みたまうとて如来の忌みたまうことを忘れて、世俗に反り、冠などして、<ruby><rb>無間地獄</rb><rt>むげんじごく</rt></ruby>に陥る業を造りたまうぞ、誠に悲しき違乱のことなり、強いて<ruby><rb>然</rb><rt>さ</rt></ruby>ることせんとならば、ただここにある寂心を殺したまえ、と云いて泣くことおびただしいので、陰陽師は何としようも無く当惑したが、<ruby><rb>飽</rb><rt>あく</rt></ruby>まで俗物だから、俗にくだけて打明け話に出た。仰せは一々御もっともでござる、しかし浮世の過しがたさに、<ruby><rb>是</rb><rt>かく</rt></ruby>の如くに仕る、然らずば何わざをしてかは妻子をばやしない、<ruby><rb>吾</rb><rt>わ</rt></ruby>が<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>をも<ruby><rb>続</rb><rt>つな</rt></ruby>ぐことのなりましょうや、<ruby><rb>道業</rb><rt>どうごう</rt></ruby><ruby><rb>猶</rb><rt>なお</rt></ruby>つたなければ上人とも仰がれず、法師の形には候えど俗人の如くなれば、<ruby><rb>後世</rb><rt>ごせ</rt></ruby>のことはいかがと哀しくはあれど、差当りての世のならいに、かくは仕る、と語った。何時の世にも<ruby><rb>斯様</rb><rt>こう</rt></ruby>いう俗物は多いもので、そして又<ruby><rb>然様</rb><rt>そう</rt></ruby>いう俗物の言うところは、俗世界には如何にも正しい情理であると首肯されるものである。しかし折角殊勝の世界に眼を着け、一旦それに<ruby><rb>対</rb><rt>むか</rt></ruby>って突進しようと心ざした者共が、此の<ruby><rb>一関</rb><rt>いっかん</rt></ruby>に<ruby><rb>塞止</rb><rt>せきと</rt></ruby>められて<ruby><rb>已</rb><rt>や</rt></ruby>むを得ずに、<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ちゅうちょ</rt></ruby>し、<ruby><rb>徘徊</rb><rt>はいかい</rt></ruby>し、遂に後退するに至るものが、<ruby><rb>何程</rb><rt>どれほど</rt></ruby>多いことであろうか。額を破り<ruby><rb>胷</rb><rt>むね</rt></ruby>を傷つけるのを<ruby><rb>憚</rb><rt>はば</rt></ruby>からずに敢て突進するの勇気を欠くものは、皆此の関所前で歩を横にしてぶらぶらして<ruby><rb>終</rb><rt>しま</rt></ruby>うのである。芸術の世界でも、宗教の世界でも、学問の世界でも、人生戦闘の世界でも、百人が九十九人、千人が九百九十九人、皆此処で<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>へ<ruby><rb>退</rb><rt>さが</rt></ruby>って終うのであるから、多数の人の取るところの道が正しい当然の道であるとするならば、疑も無く此の紙の冠を<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>った世渡り<ruby><rb>人</rb><rt>びと</rt></ruby>の所為は正しいのである、情理至当のことなのである。寂心は飾り気の無い此の御房の打明話には、ハタと行詰らされて、優しい自分の性質から、<ruby><rb>将又</rb><rt>はたまた</rt></ruby>智略を以て事に処することを卑しみ、覇気を消尽するのを以て可なりとしているような日頃の修行の心掛から、<ruby><rb>却</rb><rt>かえ</rt></ruby>ってタジタジとなって押返されたことだったろう。ヤ、それは、と一句あとへ退った言葉を出さぬ訳にはゆかなかった。が、しかし信仰は信仰であった。さもあればあれ、と一休め息を休めて、いかで三世如来の御姿を学ぶ<ruby><rb>御首</rb><rt>みぐし</rt></ruby>の上に、勿体無くも俗の冠を<ruby><rb>被</rb><rt>き</rt></ruby><ruby><rb>玉</rb><rt>たま</rt></ruby>うや、不幸に堪えずして<ruby><rb>斯様</rb><rt>かよう</rt></ruby>の事を仕給うとならば、寂心が堂塔造らん料にとて勧進し集めたる物どもを御房にまいらすべし、一人を<ruby><rb>菩薩</rb><rt>ぼさつ</rt></ruby>に勧むれば、堂寺造るに勝りたる功徳である、と云って、弟子共をつかわして、材木とらんとて勧進し集めたる物共を皆運び寄せて、此の陰陽師の真似をした僧に与えやり、さて自分は為すべしと思えることも得為さず、身の影ひとつ、京へ上り帰ったということである。紙の冠被った僧は其後<ruby><rb>何様</rb><rt>どう</rt></ruby>なったか知らぬが、これでは寂心という人は事業などは出来ぬ人である。道理で寂心が建立したという堂寺などの有ることは聞かぬ。後の高尾の<ruby><rb>文覚</rb><rt>もんがく</rt></ruby>だの、<ruby><rb>黄蘗</rb><rt>おうばく</rt></ruby>の<ruby><rb>鉄眼</rb><rt>てつげん</rt></ruby>だのは、仕事師であるが、寂心は寂心であった。これでも別に悪いことは無い。

寂心が三河国を経行したというのは、<ruby><rb>晩秋過参州薬王寺有感</rb><rt>ばんしうさんしうやくわうじをよぎりてかんあり</rt></ruby>という短文が残っているので此を証するのである。勿論入道してから三河へ行ったのか、<ruby><rb>猶</rb><rt>なお</rt></ruby>在俗の時行ったのかは、其文に年月の記が無いから不詳であるが、<ruby><rb>近江掾</rb><rt>おうみのじょう</rt></ruby>になったことは有ったけれど、大江匡房の慶保胤伝にも、<ruby><rb>緋袍之後</rb><rt>ひほうののち</rt></ruby>、<ruby><rb>不改其官</rb><rt>そのかんをあらためず</rt></ruby>と有り、<ruby><rb>京官</rb><rt>きょうがん</rt></ruby>であったから、三河へ下ったのは、僧になってからの事だったろうと思われる。文に、余は是れ<ruby><rb>羈旅</rb><rt>きりょ</rt></ruby>の卒、牛馬の<ruby><rb>走</rb><rt>そう</rt></ruby>、<ruby><rb>初尋寺次逢僧</rb><rt>はじめてらをたづねついでそうにあひ</rt></ruby>、<ruby><rb>庭前徘徊</rb><rt>ていぜんにはいくわいし</rt></ruby>、<ruby><rb>灯下談話</rb><rt>とうかにだんわす</rt></ruby>、とあるので、羈旅牛馬の二句は在俗の時のことのようにも想われるが、庭前灯下の二句は<ruby><rb>何様</rb><rt>どう</rt></ruby>も行脚修業中のこととも想われる。薬王寺は<ruby><rb>碧海郡</rb><rt>あおみぐん</rt></ruby>の<ruby><rb>古刹</rb><rt>こさつ</rt></ruby>で、<ruby><rb>行基</rb><rt>ぎょうぎ</rt></ruby>菩薩の建立するところである。何で寂心が三河に行ったか、堂寺建立の<ruby><rb>勧化</rb><rt>かんげ</rt></ruby>の為だったか何様か、それは一切考え得るところが無いが、<ruby><rb>抖擻</rb><rt>とそう</rt></ruby>行脚の<ruby><rb>因</rb><rt>ちな</rt></ruby>みに次第次第三河の方へまで行ったとしても差支はあるまい。<ruby><rb>特</rb><rt>こと</rt></ruby>に寂心が僧となっての二三年は<ruby><rb>恰</rb><rt>あたか</rt></ruby>も大江<ruby><rb>定基</rb><rt>さだもと</rt></ruby>が三河守になっていた時である。定基は大江<ruby><rb>斉光</rb><rt>なりみつ</rt></ruby>の子で、斉光は参議<ruby><rb>左大弁正三位</rb><rt>さたいべんしょうさんみ</rt></ruby>までに至った人で、贈従二位大江<ruby><rb>維時</rb><rt>これとき</rt></ruby>の子であった。大江の家は大江<ruby><rb>音人</rb><rt>おとんど</rt></ruby>以来、儒道文学の<ruby><rb>大宗</rb><rt>たいそう</rt></ruby>として、音人の子玉淵、千里、<ruby><rb>春潭</rb><rt>はるふち</rt></ruby>、<ruby><rb>千古</rb><rt>ちふる</rt></ruby>、皆詩歌を善くし、千里は和歌をも善くし、小倉百人一首で人の知っているものである。玉淵の子朝綱、千古、千古の子の維時は皆文章博士であり、維時の子の重光の子の<ruby><rb>匡衡</rb><rt>まさひら</rt></ruby>も文章博士、維時の子の斉光は東宮学士、斉光の子の為基も文章博士であり、大江家の系図を<ruby><rb>覧</rb><rt>み</rt></ruby>れば、文章博士や<ruby><rb>大学頭</rb><rt>だいがくのかみ</rt></ruby>の鈴なりで、定基は為基の弟、匡衡とは従兄弟同士である。で、定基は父祖の功により、早く<ruby><rb>蔵人</rb><rt>くろうど</rt></ruby>に<ruby><rb>擢</rb><rt>ぬきん</rt></ruby>でられ、<ruby><rb>尋</rb><rt>つい</rt></ruby>で二十何歳かで三河守に任ぜられたが、<ruby><rb>然様</rb><rt>そう</rt></ruby>いう家柄の中に出来た人なので、もとより文学に通じ詞章を善くし、又是れ一箇の英霊底の丈夫であった。大江の家に対して、菅原古人以来、<ruby><rb>特</rb><rt>こと</rt></ruby>に古人の<ruby><rb>曾孫</rb><rt>そうそん</rt></ruby>に道真公を出したので<ruby><rb>大</rb><rt>おおい</rt></ruby>に家声を挙げた菅原家もまた当時に輝いていたが、寂心の師事した文時は実に古人六世の孫であり、匡衡の如きも亦文時に文章詩賦の<ruby><rb>点竄</rb><rt>てんざん</rt></ruby>を乞うたというから、定基も勿論同じ文雅の道の流れのものとして、自然保胤即ち寂心とは知合で、無論年輩の関係から保胤を先輩として交っていたろうことは明らかである。

三河守定基は、まだ三十歳にもならないのに、三河守に任ぜられたことは、其父祖の功労によったことは勿論であるが、長男でもあらばこそ、次男の身を以て其処まで出世していたことは、一は其人物が英発して居って、そして学問詞才にも<ruby><rb>長</rb><rt>た</rt></ruby>け、向上心の強い、勇気のある、しかも二王の筆致を得ていたと後年になって支那の人にさえ称讃されたほどであるから、内に自から収め養うところの工夫にも切なる立派な人物、<ruby><rb>所謂</rb><rt>いわゆる</rt></ruby>捨てて置いても<ruby><rb>挺然</rb><rt>ていぜん</rt></ruby>として群を抜くの器量が有ったからであったろう。

此の定基が三十歳、人生はこれからという三十歳になるやならずに、浮世を思いきって、<ruby><rb>簪纓</rb><rt>しんえい</rt></ruby>を<ruby><rb>抛</rb><rt>なげう</rt></ruby>ち棄て、<ruby><rb>耀</rb><rt>かがや</rt></ruby>ける家柄をも離れ、木の端、竹の<ruby><rb>片</rb><rt>きれ</rt></ruby>のような<ruby><rb>青道心</rb><rt>あおどうしん</rt></ruby>になって、寂心の<ruby><rb>許</rb><rt>もと</rt></ruby>に走り、其弟子となったのは、これも因縁<ruby><rb>成熟</rb><rt>じょうじゅく</rt></ruby>して其処に至ったのだと云えば、それまでであるが、保胤が長年の間、世路に<ruby><rb>彷徨</rb><rt>ほうこう</rt></ruby>して、道心の<ruby><rb>帰趨</rb><rt>きすう</rt></ruby>を抑えた後に、<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>く暮年になって世を<ruby><rb>遁</rb><rt>のが</rt></ruby>れ、仏に入ったとは異なって、別に一段の運命機縁にあやつられたものであった。定基は家柄なり、性分なりで、もとより学問文章に親んで、其の鋭い資質のまにまに日に日に進歩して居たが、豪快な気象もあった人のこととて合間合間には<ruby><rb>田猟馳聘</rb><rt>でんりょうちへい</rt></ruby>をも事として<ruby><rb>鬱懐</rb><rt>うつかい</rt></ruby>を開いて喜びとしていた。<ruby><rb>斯様</rb><rt>こう</rt></ruby>いう人だったので、<ruby><rb>若</rb><rt>も</rt></ruby>し<ruby><rb>其儘</rb><rt>そのまま</rt></ruby>に歳月を経て世に在ったなら、其の世に老い事に練れるに従って国家有用の材となって、おのずから出世栄達もした事だったろうが、好い松の樹<ruby><rb>檜</rb><rt>ひ</rt></ruby>の樹も兎角に何かの縁で<ruby><rb>心</rb><rt>しん</rt></ruby>が折られたり止められたりして、そして十二分の発達をせずに異様なものになって終うのが世の常である。定基は図らずも三河の赤坂の<ruby><rb>長</rb><rt>おさ</rt></ruby>の許の力寿という美しい女に出会った。長というのは<ruby><rb>駅</rb><rt>うまや</rt></ruby>の長で、駅館を<ruby><rb>主</rb><rt>つかさ</rt></ruby>どるものが即ち長である。其の土地の長者が駅館を主どり、駅館は官人や身分あるものを宿泊休憩せしめて旅の<ruby><rb>便宜</rb><rt>びんぎ</rt></ruby>を半公的に与える制度から出来たものである。何時からとも無く、自然の成りゆきで駅の長は女となり、其長の下には美女が其家の娘分のようになっていて、泊る<ruby><rb>貴人</rb><rt>きにん</rt></ruby>等の世話をやくような習慣になったものである。それでずっと後になっては、<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby><ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>の長が家といえば、<ruby><rb>娼家</rb><rt>しょうか</rt></ruby>というほどの意味にさえなった位であるが、初めは<ruby><rb>然程</rb><rt>さほど</rt></ruby>に堕落したものでは無かったから、長の家の女の腹に生れて立派な者になった人々も歴史に数々見えている。力寿という名は宇治拾遺などには見えず、後の源平時代くさくてやや疑わしいが、まるで想像から生み出されたとも思えぬから、まず力寿として置くが、何にせよこれが定基には前世因縁とも云うものであったか素晴らしく美しい<ruby><rb>可愛</rb><rt>かわゆ</rt></ruby>いものに見えて、それこそ心魂を<ruby><rb>蕩尽</rb><rt>とうじん</rt></ruby>されて終ったのである。<ruby><rb>蓋</rb><rt>けだ</rt></ruby>し又実際に<ruby><rb>佳</rb><rt>よ</rt></ruby>い女でもあったのであろう。そこで三河の守であるもの、定基は力寿を手に入れた。力寿も身の果報である、赤坂の長の<ruby><rb>女</rb><rt>むすめ</rt></ruby>が三河守に思いかしずかれるのであるから、誠実を以て定基に仕えたことだったろう。

これだけの事だったらば、それで何事も無い、当時の一艶話で済んだのであろうが、其時既に定基には定まった妻があったのであって、其妻が徳川時代の<ruby><rb>分限者</rb><rt>ぶげんしゃ</rt></ruby>の<ruby><rb>洒落</rb><rt>しゃれ</rt></ruby>れた<ruby><rb>女房</rb><rt>にょうぼ</rt></ruby>のように、わたしゃ此の家の床柱、<ruby><rb>瓶花</rb><rt>はな</rt></ruby>は勝手にささしゃんせ、と澄ましかえって居てくれたなら論は無かったのだが、<ruby><rb>然様</rb><rt>そう</rt></ruby>はいかなかった。一体女というものほど太平の恩沢に<ruby><rb>狎</rb><rt>なら</rt></ruby>されて増長するものは無く、又<ruby><rb>嶮</rb><rt>けわ</rt></ruby>しい世になれば、<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ち縮まって小さくなる憐れなもので、少し面倒な時になると、<ruby><rb>江戸褄</rb><rt>えどづま</rt></ruby>も<ruby><rb>糸瓜</rb><rt>へちま</rt></ruby>も有りはしない、モンペイはいて。バケツ提げて、ヒョタコラ姿の<ruby><rb>気息</rb><rt>いき</rt></ruby>ゼイゼイ、御いたわしの御風情やと云いたい様になるのであるが、天日とこしえに麗わしくして四海波穏やかなる時には、<ruby><rb>鬚眉</rb><rt>しゅび</rt></ruby>の男子皆御前に平伏して御機嫌を取結ぶので、朽木形の<ruby><rb>几帳</rb><rt>きちょう</rt></ruby>の前には十二一重の御めし、何やら知らぬびらしゃらした御なりで<ruby><rb>端然</rb><rt>たんねん</rt></ruby>としていたまうから、野郎共皆ウヘーとなって恐入り奉る。平安朝は丁度太平の満潮、まして此頃は<ruby><rb>賢女</rb><rt>けんじょ</rt></ruby><ruby><rb>才媛</rb><rt>さいえん</rt></ruby>輩出時代で、紫式部やら海老茶式部、清少納言やら金時大納言など、すばらしい女が<ruby><rb>赫奕</rb><rt>かくえき</rt></ruby>として、やらん、からん、なん、かん、はべる、すべるで、<ruby><rb>女性</rb><rt>にょしょう</rt></ruby>尊重仕るべく、一切異議<ruby><rb>申間敷</rb><rt>もおすまじく</rt></ruby>候と抑えられていた<ruby><rb>代</rb><rt>よ</rt></ruby>であったから、定基の妻は中々納まっては居なかった、<ruby><rb>瞋恚</rb><rt>しんい</rt></ruby>の<ruby><rb>火</rb><rt>ほ</rt></ruby>むらで焼いたことであったろう。いや、むずかしくも亦おそろしく焼き立てたことであったろう。ところが、火の傍へ寄れば少くとも<ruby><rb>髭</rb><rt>ひげ</rt></ruby>は焼かれるから、誰しも御免<ruby><rb>蒙</rb><rt>こうむ</rt></ruby>って疎み遠ざかる。此の方を疎みて遠ざかれば、余分に彼方を親み<ruby><rb>睦</rb><rt>むつ</rt></ruby>ぶようになる。彼方に親しみ、此方に遠ざかれば、此方は<ruby><rb>愈々</rb><rt>いよいよ</rt></ruby>火の手をあげる。愈々逃げる、愈々燃えさかる。不動尊の<ruby><rb>背負</rb><rt>しょ</rt></ruby>って居らるる<ruby><rb>伽婁羅炎</rb><rt>かるらえん</rt></ruby>という火は魔が逃げれば逃げるだけ其<ruby><rb>火燄</rb><rt>ほのお</rt></ruby>が伸びて何処までも追駈けて<ruby><rb>降伏</rb><rt>ごうぶく</rt></ruby>させるというが、<ruby><rb>嫉妬</rb><rt>しっと</rt></ruby>の火もまた追駈ける性質があるから、<ruby><rb>鬚髭</rb><rt>ひげ</rt></ruby>ぐらい焼かれる間はまだしもだが、背中へ追いかかって来て、<ruby><rb>身柱大椎</rb><rt>ちりけだいつい</rt></ruby>へ火を吹付けるようにやられては、<ruby><rb>灸</rb><rt>きゅう</rt></ruby>を据えられる訳では無いし、向直って闘うに至るのが、世間<ruby><rb>有勝</rb><rt>ありがち</rt></ruby>の事である。即ち出すの引くのという騒動になるのである。ここになると小説を書く者などは、浅はかな然し罪深いもので、そりゃこそ、時至れりとばかり筆を<ruby><rb>揮</rb><rt>ふる</rt></ruby>って、有ること無いこと、見て来たように出たらめを描くのである。と云って置いて、此以下少しばかり出たらめを描くが、それは全く出たらめであると思っていただきたい。但し出たらめを描くようにさせた、即ち定基夫婦の別れ話は定基夫婦の実演した事である。

定基の妻の名は何と云ったか、<ruby><rb>何氏</rb><rt>なにうじ</rt></ruby>の<ruby><rb>女</rb><rt>むすめ</rt></ruby>であったか、それは皆分らない。此頃の女は本名が無かった訳ではあるまいが、紫式部だって、本名はおむらだったかお里だったか、誰も知らない、清少納言だって、本名はおきよだったかおせいだったか、誰も知らない、知ってる方は手をあげなさいと云われたって、大抵の人は懐手で御免を蒙るでしょう。まさか赤坊の時から、紫式部や、おっぱい御上り、清少納言や、おしっこをなさい、ワンワン来い来い、などと云われたので無かろうことは分っているが、仙人の女王、西王母の、姓は<ruby><rb>侯</rb><rt>こう</rt></ruby>、名は<ruby><rb>婉妗</rb><rt>えんせん</rt></ruby>、などと見えすいた好い加減なことを答えるよりは面倒だから、<ruby><rb>其儘</rb><rt>そのまま</rt></ruby>にして置こう。美人だったか、醜婦だったかも不明だが、先ず十人並の人だったとして置いて差支えは無かろうが、其の気質だけは温和で無くて、<ruby><rb>強</rb><rt>きつ</rt></ruby>い方だったろうことは、連添うた者と若い身そらで争い別れをしたことでも想いやられる。此女が定基に対して求めたことは無論<ruby><rb>恋敵</rb><rt>こいがたき</rt></ruby>の力寿を遠ざけることであったろうが、定基は力寿に首ったけだったから、それを承知すべくは無いし、又<ruby><rb>直截</rb><rt>ちょくせつ</rt></ruby>な性質の人だったから、<ruby><rb>吾</rb><rt>わ</rt></ruby>が妻に対することでは有り、にやくやに<ruby><rb>云</rb><rt>いい</rt></ruby><ruby><rb>紛</rb><rt>まぎ</rt></ruby>らして、<ruby><rb>拖泥</rb><rt>たでい</rt></ruby>滞水の挨拶を以て其場を済ませて置くというようなことも仕無かったろうから、次第次第に夫婦の間は険悪になっていったであろう。ところが、飢えたる者は人の<ruby><rb>美饌</rb><rt>びせん</rt></ruby>を<ruby><rb>享</rb><rt>う</rt></ruby>くるを見ては愈々飢の<ruby><rb>苦</rb><rt>くるしみ</rt></ruby>を感ずる道理がある。<ruby><rb>飽</rb><rt>あ</rt></ruby>ける者は人の<ruby><rb>饑餓</rb><rt>きが</rt></ruby>に臨めるを見ては、余計に之を哀れむの情を催す道理がある。ここに定基に取っては従兄弟同士である大江匡衡があった。匡衡は大江維時の嫡孫であって、家も其格が好い。定基は匡衡の父重光の弟の斉光の子で、しかも二男坊である。匡衡定基はおよそ同じほどの年頃であるが、才学は優劣無いにしても匡衡は既に文名を<ruby><rb>馳</rb><rt>は</rt></ruby>せて<ruby><rb>大</rb><rt>おおい</rt></ruby>に称せられている。それやこれやの関係で、自然定基は匡衡に雁行する位置に立って居る。そこへ持って来て匡衡は、定基が妻を迎えたと<ruby><rb>彼是</rb><rt>かれこれ</rt></ruby>同じ頃に矢張り妻を迎えたのである。いずれもまだ何年もたたぬ前のことである。匡衡は七歳にして書を読み、九歳にして詩を賦したと云われた英才で、祖父の維時の学を受け、長じて博学、<ruby><rb>渉</rb><rt>わた</rt></ruby>らざるところ無しと世に称せられていた。其文章の英気があって、当時に水際だっていたことは、保胤の評語に、鋭卒数百、堅甲を<ruby><rb>擐</rb><rt>ぬ</rt></ruby>き<ruby><rb>駿馬</rb><rt>しゅんめ</rt></ruby>に<ruby><rb>鞭</rb><rt>むち</rt></ruby>うって、粟津の浜を過ぐるが如し、とあったほどで、前にも既に其事は述べた。しかも和歌までも<ruby><rb>堪能</rb><rt>かんのう</rt></ruby>で、男ぶりは<ruby><rb>何様</rb><rt>どう</rt></ruby>だったか、ひょろりとして丈高く、さし肩であったと云われるから、ポッチャリとした<ruby><rb>御公卿</rb><rt>おくげ</rt></ruby>さん<ruby><rb>達</rb><rt>だち</rt></ruby>の好い<ruby><rb>男子</rb><rt>おとこ</rt></ruby>では無かったろうと思われる。さし肩というのは、<ruby><rb>菩薩肩</rb><rt>ぼさつがた</rt></ruby>というのとは反対で、菩薩肩は菩薩像のような優しい肩つき、今でいう撫肩であり、さし肩というのは今いう怒り肩で漢語の<ruby><rb>所謂</rb><rt>いわゆる</rt></ruby><ruby><rb>鳶肩</rb><rt>えんけん</rt></ruby>である。鳶肩<ruby><rb>豺目</rb><rt>さいもく</rt></ruby><ruby><rb>結喉</rb><rt>けっこう</rt></ruby><ruby><rb>露唇</rb><rt>ろしん</rt></ruby>なんというのは、物の出来る人や<ruby><rb>気嵩</rb><rt>きがさ</rt></ruby>の人に、得てある相だが、余り人好きのする方では無い。だから男振りは好い方であったとも思われないが、此の匡衡の迎えた妻は、<ruby><rb>女歌人</rb><rt>じょかじん</rt></ruby>の<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>でも指折りの<ruby><rb>赤染</rb><rt>あかぞめ</rt></ruby><ruby><rb>右衛門</rb><rt>えもん</rt></ruby>で、其頃丁度匡衡もまだ三十前、赤染右衛門も二十幾歳、子の<ruby><rb>挙周</rb><rt>たかちか</rt></ruby>は生れていたか、未だ生れていなかったか知らないが、若盛りの夫婦で、女貌郎才、相当って居り、<ruby><rb>琴瑟</rb><rt>きんしつ</rt></ruby>こまやかに相和して人も<ruby><rb>羨</rb><rt>うらや</rt></ruby>む中であったろうことは思いやられるのである。さて定基夫婦の間の<ruby><rb>燻</rb><rt>ふすぶ</rt></ruby>りかえり、ひぞり合い、<ruby><rb>煙</rb><rt>けむ</rt></ruby>を出し火を出し合うようになっている傍に、従兄弟同士の匡衡夫婦の間は、詩思歌情、ハハハ、オホホで<ruby><rb>朝夕</rb><rt>ちょうせき</rt></ruby>を<ruby><rb>睦</rb><rt>むつ</rt></ruby>び合っているとすれば、定基の方の側からは、自然と匡衡の方は羨ましいものに見え、従って自分の方の現在が余計<ruby><rb>忌々</rb><rt>いまいま</rt></ruby>しいものに見えたに違い無く、匡衡の方からは、定基の方を、気の毒な、従って下らないものに見ていたと思われる。まして定基の妻からは、それこそ<ruby><rb>饑</rb><rt>う</rt></ruby>えたる者が人の美饌を享くるを見る<ruby><rb>感</rb><rt>おもい</rt></ruby>がしたろうことは自然であって、余計にもしゃくしゃが募ったろうことは測り知られる。

赤染右衛門は生れだちから苦労を<ruby><rb>背負</rb><rt>しょ</rt></ruby>って来た女で、まだ当人が物の色さえ知らぬころから、なさけ無い争の間に立たせられたのであった。というのは右衛門の母が、何様いう訳合があったか、何様いう身分の女であったのか、今は更に知れぬことであるが、右衛門が赤染を名乗ったのは、赤染<ruby><rb>大隅守</rb><rt>おおすみのかみ</rt></ruby><ruby><rb>時用</rb><rt>ときもち</rt></ruby>の子として育ったからである。然るに歌人として名高い平兼盛が、其当時、生れた子を<ruby><rb>吾</rb><rt>わ</rt></ruby>が<ruby><rb>女</rb><rt>むすめ</rt></ruby>と称して引取ろうとしたのである。<ruby><rb>検非違使沙汰</rb><rt>けびいしざた</rt></ruby>となった。検非違使庁は非違を<ruby><rb>検</rb><rt>あらた</rt></ruby>むるところであるから、今の警視庁兼裁判所のようなものである。母は其子を兼盛の<ruby><rb>胤</rb><rt>たね</rt></ruby>では無いと云張り、兼盛は<ruby><rb>吾子</rb><rt>わがこ</rt></ruby>だと争ったが、<ruby><rb>畢竟</rb><rt>ひっきょう</rt></ruby>これは母が其子を手離したくない母性愛の<ruby><rb>本然</rb><rt>ほんねん</rt></ruby>から<ruby><rb>然様</rb><rt>そう</rt></ruby>云ったのだと解せられもするが、又吾が手を離れた女の其子を強いても引取ろうとするのはよくよく正しい父性愛の強さからだとも解せられるのである。であるから男女の情理から判断すれば、兼盛の方に分があって、女には分が乏しい。まして生長し上った赤染右衛門は歌人であった兼盛の血を享けたと見えて、才学<ruby><rb>凡</rb><rt>つね</rt></ruby>ならぬ優秀なものとなり、赤染時用という検非違使から大隅守になっただけで別に才学の噂も無い平凡官吏の胤とも思われない。であるから、当時を去ること遠からぬ清輔朝臣抄などにも、<ruby><rb>実</rb><rt>まこと</rt></ruby>には兼盛の<ruby><rb>女</rb><rt>むすめ</rt></ruby><ruby><rb>云々</rb><rt>うんぬん</rt></ruby>と出ているのである。よくよく事情を察するに、当時は恋愛至上主義の行われていた世で、女は愛情の命ずるがままに行動して、それで自から欺かぬ、よい事と許されていた<ruby><rb>惰弱</rb><rt>だじゃく</rt></ruby>時代であったから、右衛門の母は兼盛と、手を<ruby><rb>繋</rb><rt>つな</rt></ruby>いで居た間に懐胎したが、何様いう因縁かで兼盛と別れて時用の<ruby><rb>許</rb><rt>もと</rt></ruby>へ帰したのである。兼盛は卅六歌仙の一人であり、是忠親王の<ruby><rb>曾孫</rb><rt>そうそん</rt></ruby>であり、父の<ruby><rb>篤行</rb><rt>あつゆき</rt></ruby>から平姓を賜わり、和漢の才もあった人ではあるが、従五位上<ruby><rb>駿河守</rb><rt>するがのかみ</rt></ruby>になっただけで終った余り世栄を享けなかった人であるから、年齢其他の関係から、女には疎まれたのかも知れない。兼盛の集を見ると、「いひそめていと久しうなりにける人に」「返事もさらにせねば」「物などいへどいとつれなき人に」「女のもとにまかりて、ものなどいふにつれなきを思ひなげくほどに鳥さへなけば」「女よにこひしとも思はじといひたりければ」「女返しもせざりければ」「なをいとつらかりける女に」「いといたう恨みて」「思ひかけて久しくなりぬる人のことさまになりぬときゝて」などという前書の恋の歌が多い。後撰集雑二に「<ruby><rb>難波</rb><rt>なには</rt></ruby>がた汀のあしのおいのよにうらみてぞふる人のこゝろを」というのが<ruby><rb>読人不知</rb><rt>よみびとしらず</rt></ruby>になって出て居るが、兼盛の歌である。新勅撰集恋二に「しら山の雪のした草われなれやしたにもえつゝ年の<ruby><rb>経</rb><rt>へ</rt></ruby>ぬらん」とあるのも兼盛の歌である。後拾遺集恋一、「恋そめし心をのみぞうらみつる人のつらさを我になしつゝ」、続千載集恋五、「つらくのみ見ゆる君かな山の<ruby><rb>端</rb><rt>は</rt></ruby>に風まつ雲のさだめなき世に」も兼盛の歌である。<ruby><rb>猶</rb><rt>なお</rt></ruby>まだ幾首も挙げることが出来るが、いずれも此方負け、力負けの哀しい歌のみで、しかも何となく兼盛がかわゆそうに年が相手よりも老いているような気味合が見える。此女が兼盛に一時は<ruby><rb>靡</rb><rt>なび</rt></ruby>いたが、年もそぐわず、気も合わないで<ruby><rb>終</rb><rt>つい</rt></ruby>に赤染氏に<ruby><rb>之</rb><rt>ゆ</rt></ruby>いて了ったのではないか、それが右衛門の母では無かったかと想われてならない。然し勿論取留もないことで、女が<ruby><rb>何様</rb><rt>どう</rt></ruby>いう人であったかさえも考え得無い。兼盛だとて王家を出で下って遠からぬ人ではあり、女児を得たい一心から相当に突張ったので、その噂が今にまで遺り伝っているのだろうが、<ruby><rb>生憎</rb><rt>あいにく</rt></ruby>と赤染時用が其時は検非違使であったから<ruby><rb>敵</rb><rt>かな</rt></ruby>わなかった。女児は女と共に赤染氏に取られて<ruby><rb>終</rb><rt>しま</rt></ruby>った。それで其娘は生長して、赤染右衛門となったのである。だから当時の人が、それらの<ruby><rb>経緯</rb><rt>いきさつ</rt></ruby>を知らぬ筈はないから、右衛門が右衛門となるまでには、随分苦労をしたことだろうと十二分に同情されるのである。

然し右衛門は不幸の霜雪に圧虐されたままに消朽ちてしまう草や<ruby><rb>菅</rb><rt>すげ</rt></ruby>では無かった。当時の大権威者だった藤原道長の妻の<ruby><rb>倫子</rb><rt>ともこ</rt></ruby>に仕えて、そして<ruby><rb>大</rb><rt>おおい</rt></ruby>に才名を<ruby><rb>馳</rb><rt>は</rt></ruby>せたのであった。倫子は左大臣源雅信の<ruby><rb>女</rb><rt>むすめ</rt></ruby>で、もとより道長の正室であり、<ruby><rb>准三宮</rb><rt>じゅさんぐう</rt></ruby>で、鷹司殿と世に称されたのである。此の倫子の<ruby><rb>羽翼</rb><rt>はがい</rt></ruby>の蔭に人となったことは、如何ばかり右衛門をして幸福ならしめたか知れないが、右衛門の天資が<ruby><rb>勝</rb><rt>すぐ</rt></ruby>れていなければ、中々豪華<ruby><rb>驕奢</rb><rt>きょうしゃ</rt></ruby>の花の如く<ruby><rb>錦</rb><rt>にしき</rt></ruby>の如く、人多く事多き生活の中に織込まれた一員となって、末々まで道長の輝かしい光に浴するを得るには至らなかったろう。詩人や歌人というものは、もとより人情にも通じ、自然にも親しむものであるが、それでも兎角奇特性があって、随分良い人でも常識には<ruby><rb>些</rb><rt>ちと</rt></ruby>欠けていたり、妙にそげていたり、甚しいのになると何処か抜けていたりするものがあるが、右衛門は少しも<ruby><rb>然様</rb><rt>そう</rt></ruby>いうところの無い、至極円満性、普通性の人で、<ruby><rb>放肆</rb><rt>ほうし</rt></ruby>な気味合の強い和泉式部や、神経質過ぎる右大将道綱の母などとは選を異にしていた。これはずっと後の事であるが、<ruby><rb>吾</rb><rt>わ</rt></ruby>が子の挙周の病気の重かった時、住吉の神に、みてぐら奉って、「<ruby><rb>千代</rb><rt>ちよ</rt></ruby><ruby><rb>経</rb><rt>へ</rt></ruby>よとまだみどり児にありしよりたゞ住吉の松を祈りき」「頼みては久しくなりぬ住吉のまつ此度はしるしみせてよ」「かはらむと祈る<ruby><rb>命</rb><rt>いのち</rt></ruby>はをしからで別ると思はむほどぞ悲しき」と三首の歌を記したなどは、種々の書にも見えて、いかにも好い母である。其挙周を出世させようとして、正月の<ruby><rb>司召</rb><rt>つかさめし</rt></ruby>始まる夜、雪のひどく降ったのに鷹司殿にまいりて、任官の事を願いあげ、「おもへ君、かしらの雪をかきはらひ、消えぬさきにといそぐ心を」と詠んだので、道長も其歌を聞いて、哀れを催し、そこで挙周を其望み通り和泉守にしてやった。「払ひけるしるしも有りて見ゆるかな<ruby><rb>雪間</rb><rt>ゆきま</rt></ruby>をわけて出づる<ruby><rb>泉</rb><rt>いづみ</rt></ruby>の」と、道長か倫子か知らぬがお歌を賜わった。それに返して、「人よりもわきて嬉しきいづみかな雪げの水のまさるなるべし」など詠んでいるところは、実に好くいえば如才ない、悪く云えば世智に<ruby><rb>長</rb><rt>た</rt></ruby>けた女である。いやそれよりもまだ驚くことは、夫の匡衡が或時家に帰って来ると、何か浮かぬ顔をして、物かんがえをしているようだ。そこで怪しく思って、<ruby><rb>何様</rb><rt>どう</rt></ruby>遊ばしましたと問う。余り問われるので、匡衡先生も少し器量は善くないが泥を吐いた。実は四条中納言<ruby><rb>公任卿</rb><rt>きんとうきょう</rt></ruby>、中納言を辞そうとなさるのである。そこで同卿が紀斉名に辞表を草するように御依頼なされた。斉名は筆を<ruby><rb>揮</rb><rt>ふる</rt></ruby>って書いた。ところで卿の御気に召さなかった。そして卿は<ruby><rb>更</rb><rt>あらた</rt></ruby>めて大江以言に委嘱された。以言も骨を折って起草した。然るに以言の草稿をも飽足らず<ruby><rb>思召</rb><rt>おぼしめ</rt></ruby>して、其果に此の匡衡に文案して欲しいとの御頼みなのだ。斉名の文は典雅荘重であり、以言の文は奇を出し才を<ruby><rb>騁</rb><rt>は</rt></ruby>せ、其風体各々異なれど、いずれも文章の海山の竜であり象である。然るに両人の文いずれも御心にあかずして、更に匡衡に篤く御頼みありたりとて、同題にして異色の文、既に二章まで成りたる上は、匡衡が作、いずれのところにか筆を立てむ。御辞退申兼ねて帰りては来たれども、これを思うに、われも亦御心に飽かずとせらるる文字をつらぬるに過ぎざらんと、口惜しくもまた心苦しくおもうのである、と話した。公任卿は元来学問詩歌の才に長けたまえるのに、かかる場合に立たせられた夫が、困りもし<ruby><rb>悶</rb><rt>もだ</rt></ruby>えもするのは文章で立っている身の道理千万の事と、右衛門は何の答をすることも出来ず、しばし思案に沈んだが、<ruby><rb>斯様</rb><rt>かう</rt></ruby>いうところに口を出して夫を<ruby><rb>扶</rb><rt>たす</rt></ruby>けられる者は中々あるものでは無い。勿論右衛門は歌を善くしたばかりではない、<ruby><rb>法華経</rb><rt>ほけきょう</rt></ruby><ruby><rb>廿八品</rb><rt>にじゅうはちほん</rt></ruby>を歌に詠じたり、<ruby><rb>維摩経</rb><rt>ゆいまきょう</rt></ruby><ruby><rb>十喩</rb><rt>じゅうゆ</rt></ruby>を詠んだりしているところを見ると、学問もあった人には相違ないが、夫のおもて<ruby><rb>業</rb><rt>わざ</rt></ruby>にしている文章の事などに、女の差出口などが何で出来るべきものであろう。然し<ruby><rb>流石</rb><rt>さすが</rt></ruby>に才女で、世の中の<ruby><rb>鹹</rb><rt>から</rt></ruby>いも酸いも味わい知っていた人であった。御道理でござりまする、まことに斉名以言の君の御文章の宜しからぬということは無いことと存じまする、ただし公任卿はゆゆしく心高き御方におわす、御先祖よりの貴かりし由を述べ立て、少しく沈滞の意をあらわして記したまわむには、恐らくは意にかないて善しとせられなむ、如何におぼす、と助言した。匡衡ここに於て成程と合点して、然様いう意味を含めて、辞表とは云え、やや威張ったような調子を交えて起草した。果してそれは公任卿の意にかなって、中納言左衛門<ruby><rb>督</rb><rt>かみ</rt></ruby>を<ruby><rb>罷</rb><rt>や</rt></ruby>めんことを請うの状は<ruby><rb>公</rb><rt>おおやけ</rt></ruby>に奉呈され、匡衡は少くとも公任卿には斉名以言よりも文威の高いものと認められて面目を施した。其文が今遺っているから面白い。読んで見ると其中に、「臣<ruby><rb>幸</rb><rt>さいはひ</rt></ruby>に累代上台の家より出でゝ、<ruby><rb>謬</rb><rt>あやま</rt></ruby>って過分<ruby><rb>顕赫</rb><rt>けんかく</rt></ruby>の任に至る。才は<ruby><rb>拙</rb><rt>つたな</rt></ruby>くして<ruby><rb>零落</rb><rt>れいらく</rt></ruby>せり、<ruby><rb>槐葉</rb><rt>くわいえふ</rt></ruby><ruby><rb>前蹤</rb><rt>ぜんしよう</rt></ruby>を<ruby><rb>期</rb><rt>き</rt></ruby>し難く、病重うして<ruby><rb>栖遅</rb><rt>せいち</rt></ruby>す、<ruby><rb>柳枝</rb><rt>りうし</rt></ruby>左の<ruby><rb>臂</rb><rt>ひぢ</rt></ruby>に<ruby><rb>生</rb><rt>お</rt></ruby>ふ<ruby><rb>可</rb><rt>べ</rt></ruby>し」とあるところなどは、実に<ruby><rb>謙遜</rb><rt>けんそん</rt></ruby>の<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>に<ruby><rb>衿持</rb><rt>きょうじ</rt></ruby>をあらわして、如何にもおもしろい。槐葉前蹤を期し難し、と云って、少し<ruby><rb>厭味</rb><rt>いやみ</rt></ruby>を云って置いて、柳枝<ruby><rb>左臂</rb><rt>さび</rt></ruby>に生ずべしと、荘子を引張り出してオホンと澄ましたところなどは、成程気位の高い公任卿を破顔させたろうと思われる。それから<ruby><rb>加之</rb><rt>しかのみならず</rt></ruby>と云って、皇太后の御上を云い、「<ruby><rb>猶子</rb><rt>いうし</rt></ruby>の恩を蒙りて、兼ねて<ruby><rb>長秋</rb><rt>ちやうしう</rt></ruby>の監たり、<ruby><rb>嘗薬</rb><rt>しやうやく</rt></ruby>の事、相譲るに人無し」といい、「暫く<ruby><rb>彼</rb><rt>か</rt></ruby>の仙院の塵を<ruby><rb>継</rb><rt>つ</rt></ruby>いで、<ruby><rb>偏</rb><rt>ひと</rt></ruby>へに此の<ruby><rb>后闈</rb><rt>こうゐ</rt></ruby>の月に宿せん」と云ったあたり、此時代の文章として十分の出来である。公任卿は<ruby><rb>悦</rb><rt>よろこ</rt></ruby>んだに相違無いが、匡衡の此手柄も右衛門の助言から出たのである。公任卿は中納言左衛門督は辞したが特に従二位に叙せられ、後には権大納言正二位にまでなられたこと人の知る通りである。右衛門の才は此話を考えると、中々隅へ置けるどころでは無い、男子であったらば随分栄達したであろう。これほどの女であるが、当時の風俗で、男女の間は自由主義が<ruby><rb>尚</rb><rt>とうと</rt></ruby>ばれていたから、これも後の<ruby><rb>談</rb><rt>はなし</rt></ruby>であるが、夫の匡衡には一時負かされた。匡衡は何様した因縁だったか、三輪の山のあたりの<ruby><rb>稲荷</rb><rt>いなり</rt></ruby>の<ruby><rb>禰宜</rb><rt>ねぎ</rt></ruby>の女に通うようになった。ここに三輪という地名を出したが、それは今昔物語なんどにも無く、自分の<ruby><rb>捏造</rb><rt>ねつぞう</rt></ruby>でも無いが、地名も人名も何も無くては余り漠然としているから、赤染右衛門集に、三輪の山のあたりにや、と記してあるので用いたまでである。右衛門は如何に<ruby><rb>聡明</rb><rt>そうめい</rt></ruby><ruby><rb>怜悧</rb><rt>れいり</rt></ruby>な女でも、矢張り女だから、<ruby><rb>忌々</rb><rt>いまいま</rt></ruby>しくもあり、勘忍もしがたいから、定石どおり焼き立てたにちがい無い。匡衡よりも多分器量の上だったに疑い無い右衛門に責められては、相手が<ruby><rb>上手</rb><rt>うわて</rt></ruby>だったから<ruby><rb>敵</rb><rt>かな</rt></ruby>わない、一応は降参して、<ruby><rb>向後</rb><rt>きょうこう</rt></ruby><ruby><rb>然様</rb><rt>さよう</rt></ruby>なところへはまいりませぬと謝罪して済んだが、そこには又あやしきは男女の縁で、<ruby><rb>焼木杭</rb><rt>やけぼっくい</rt></ruby>は火の着くこと<ruby><rb>疾</rb><rt>はや</rt></ruby>く、<ruby><rb>復</rb><rt>また</rt></ruby>匡衡はそこへ通い出した。すると右衛門は、すっかり女の<ruby><rb>身許</rb><rt>みもと</rt></ruby>から、匡衡がそこへ泊った時までを確実に調べ上げて置いて、丁度匡衡の其処に居た折、「我が宿のまつにしるしも無かりけり杉むらならば尋ねきなまし」という歌を使に持たせて、受取証明を取ってこいと責めたてた。待つに松をかけて、<ruby><rb>吾家</rb><rt>わがや</rt></ruby>へ帰るべきを忘れたのを<ruby><rb>怨</rb><rt>うら</rt></ruby>んだも好いが、相手の女が稲荷様の<ruby><rb>禰宜</rb><rt>ねぎ</rt></ruby>の女というので、杉村ならば帰ったろうにと云ったのは、冷視と<ruby><rb>蔑視</rb><rt>べっし</rt></ruby>とを兼ねて、狐にばかされているのが<ruby><rb>其様</rb><rt>そんな</rt></ruby>に嬉しいかと云わぬばかりに、ぴしゃりと一本見事に見舞っている。人に歌を読みかけられて返歌をせぬのは<ruby><rb>七生</rb><rt>しちしょう</rt></ruby><ruby><rb>暗</rb><rt>やみ</rt></ruby>に生れるなどという<ruby><rb>諺</rb><rt>ことわざ</rt></ruby>のある日本の人、まして匡衡だって中古三十六歌仙の中に入っている男だから、是非無くも「人をまつ<ruby><rb>山路</rb><rt>やまぢ</rt></ruby>わかれず見えしかば思ひまどふにふみすぎにけり」と返事して使をかえした。<ruby><rb>然程</rb><rt>さほど</rt></ruby>に待っていてくれるとも分らず思いまどうて余の路に踏みまどうた、相済みませぬ、恐れ入りました、という謝まりの証文の一札の歌であって、<ruby><rb>胷中</rb><rt>きょうちゅう</rt></ruby>も苦しかったろうが歌も苦しい。ふみすぎにけり、で杉を使ったなどは随分せつない、歌仙の歌でも何でも有りはしない、音律不たしかな<ruby><rb>切</rb><rt>せつ</rt></ruby>な<ruby><rb>屁</rb><rt>へ</rt></ruby>のような歌である。しかし是に懲らされて、狐は落されてしまったと見え、それからは、<ruby><rb>鳶肩</rb><rt>えんけん</rt></ruby>長身、<ruby><rb>傲骨</rb><rt>ごうこつ</rt></ruby><ruby><rb>稜々</rb><rt>りょうりょう</rt></ruby>たる匡衡朝臣も、おとなしくなって、好いお父さんになっていたという話である。此歌も余り<ruby><rb>拙</rb><rt>まず</rt></ruby>いから、多分後の物語作者などが作ったのだろうと思われては迷惑であるから断って置くが、<ruby><rb>慥</rb><rt>たしか</rt></ruby>に右衛門集に出ているのである。

赤染右衛門は<ruby><rb>斯様</rb><rt>こう</rt></ruby>いう女である。こういう女が身体の血の気も<ruby><rb>漲</rb><rt>みなぎ</rt></ruby>っていれば、心の火の熱も<ruby><rb>熾</rb><rt>さか</rt></ruby>んな若盛りで、しかも婚後の温い生活を楽んでいる際に当って、近親の定基の家には、卑しい身分の一艶婦のために冷雨悲風が起って、其若い妻が泣きの涙でいるということを知っては、<ruby><rb>其儘</rb><rt>そのまま</rt></ruby>に<ruby><rb>他所</rb><rt>よそ</rt></ruby>の事だと澄ましかえっては居にくいことである。まして段々と風波が募って、定基の妻が日に日に<ruby><rb>虐</rb><rt>いじ</rt></ruby>められるようになっては、右衛門に対して<ruby><rb>援</rb><rt>すくい</rt></ruby>を求めるように何等かのことをしたかも知れない。そこで何も弁護士然と出かけた訳では無かろうが、右衛門は定基の妻のために、折にふれて何かと口をきいたことは自然であったろう。定基の家と右衛門とは、ただ一家というばかりの親しさのみでは無かったようである。これは少し言過ぎるかも知らぬが、定基の兄の為基、これは系図には、歌人とあり、文章博士、正五位下、摂津守とある。此人と右衛門との間には、<ruby><rb>何様</rb><rt>どう</rt></ruby>もなみならぬ心のゆきかいが有ったかと見ゆるのである。此の頃の<ruby><rb>雑談</rb><rt>ぞうだん</rt></ruby>を書記した<ruby><rb>類</rb><rt>たぐい</rt></ruby>の<ruby><rb>書籍</rb><rt>しょじゃく</rt></ruby>にも、我が知れる限りでは右衛門為基の恋愛<ruby><rb>譚</rb><rt>だん</rt></ruby>は見当らず、又果して恋物語などが有ったのか否かも不明であるが、為基と右衛門との間に、歌の贈答が少くなかったことは、顕証が存している。ただし其恋があったとしても、双方ともに遠慮がちで終ったのかも知れないし、且又為基は病弱で、そして<ruby><rb>蚤</rb><rt>はや</rt></ruby>く亡くなったことは事実である。とにかく、此の事は別にして其儘遺して置くことにする。が、為基定基兄弟の母と右衛門との間にも後になって互に問いおとずれし合ったことのあったのは、これも贈答の歌が幾首も残っているので分明である。梅の花、常夏の花などにつけて、定基の母の歌をおこしたのに右衛門の返ししたのもあり、又右衛門の家に定基の母が宿って、夜ふかき月をながむるに虫の声のみして人皆寝しずまりたるに、「雲ゐにてながむるだにもあるものを袖にやどれる月を見るらむ」と老女の<ruby><rb>悲愴</rb><rt>ひそう</rt></ruby>の感をのべたのがある。為基定基の弟に<ruby><rb>成基</rb><rt>しげもと</rt></ruby>、<ruby><rb>尊基</rb><rt>たかもと</rt></ruby>が無かった訳ではないが、頼もしくした二人に離れて、<ruby><rb>袖</rb><rt>そで</rt></ruby>にやどれる月を見るかな、とは何という悲しい歌だろう。右衛門も感傷にたえで、「ありあけの月は<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>にながれつゝかなしき頃の虫の声かな」と返している。此歌は続古今集に載せられている。一家の事だから、交通もかくの如く繁かったことだろう、何も不思議はない。

かかる一家の間柄である。かかる人品の赤染右衛門である。<ruby><rb>虐</rb><rt>しいた</rt></ruby>げられた定基の若妻に同情し、又無論のこと力寿の方の肩を持ちそうもない定基の母にも添うて、右衛門は或日定基にむかって、美しいのみの力寿に<ruby><rb>溺</rb><rt>おぼ</rt></ruby>るることの<ruby><rb>宜</rb><rt>よ</rt></ruby>からぬことを説き、妻をやさしくあつかうべきことを、説きすすめたのである。実にそれは、言葉にそつは無く、情理兼ね到って、美しくもまたことわりせめて上手に説いたことであったろう。元来財力あるものは財を<ruby><rb>他</rb><rt>ひと</rt></ruby>に貸して貧者を<ruby><rb>扶</rb><rt>たす</rt></ruby>けることが出来る、才力ある者は才を他に貸して拙者を助けることが出来、自然と<ruby><rb>然様</rb><rt>そう</rt></ruby>いうことの生ずるのが世の自然のありさまである。それで赤染右衛門ほどになると、自分の子の挙周が恋に落ちていた時になって、恋には最大武器である和歌を挙周に代って作ってやって、それを相手の女に寄せさせたことが<ruby><rb>数々</rb><rt>しばしば</rt></ruby>有った、実に頼もしい有難いお<ruby><rb>母</rb><rt>っか</rt></ruby>さんで、坊ちゃん挙周はお蔭で<ruby><rb>何程</rb><rt>いくら</rt></ruby>好い男になっていたか知れない。其歌は今に明らかに残っているから、嘘でも何でもない。ところが相手の女もまだ若くて、中々赤染右衛門の代作の手はしの利いている歌に返歌は出来なかったが、幸に其の姉分に和泉式部という偉い女歌人があったから、それに頼んで答をして貰った。和泉式部の代作の恋の歌も今確存しているのである。双方手だれのくせものであるから、何の事は無い恋愛弁理士同士の雄弁巧説、うるわしかりける次第なりと云った形で、斯様いうことのつづきの末が、<ruby><rb>高</rb><rt>こう</rt></ruby><ruby><rb>武蔵守</rb><rt>むさしのかみ</rt></ruby><ruby><rb>師直</rb><rt>もろなお</rt></ruby>という<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>なじじいが、<ruby><rb>卜部</rb><rt>うらべ</rt></ruby>の兼好という生ぐさ坊主に艶書の注文をしたなどという<ruby><rb>談</rb><rt>はなし</rt></ruby>を生ずるに至っているのである。小倉百人一首に載っている、赤染右衛門、やすらはで寝なましものを<ruby><rb>小夜</rb><rt>さよ</rt></ruby>ふけて<ruby><rb>傾</rb><rt>かたぶ</rt></ruby>くまでの月をみしかな、は実に好い歌であるが、あれも右衛門自身の情から出た歌では無くて、人に代って其時の情状を写実に詠んだものである。恐れ入った妙作で、綿々たる情緒、傾くまでの月を見しかな、と<ruby><rb>彼</rb><rt>あ</rt></ruby>の様に「かな」の二字のピンと響く「かな」は今に至るまで百千万度も使われたかなの中にも滅多には無い。あのような歌をよこされては、男子たるもの<ruby><rb>蜘蛛</rb><rt>くも</rt></ruby>の糸に絡められた<ruby><rb>蜻蜓</rb><rt>とんぼう</rt></ruby>のようになって了って、それこそカナ縛りにされたことだったろう。これほどの赤染右衛門に出て来られて、有り余る才を向う側に用立てられて、しかも正しい道理のある方に立って物を云われては、定基たるものも<ruby><rb>敵</rb><rt>かな</rt></ruby>う筈は無い、差当りだけでも、如何にも御もっともと、降伏せざるを得ないところであった。

ところが然様はいかなかった。定基に取っては力寿のかわゆさが骨身に徹していたのである。イヤ、骨身に徹するどころではない、<ruby><rb>魂魄</rb><rt>たましい</rt></ruby>なども<ruby><rb>疾</rb><rt>とっ</rt></ruby>くに飛出して<ruby><rb>終</rb><rt>しま</rt></ruby>って、力寿の<ruby><rb>懐中</rb><rt>ふところ</rt></ruby>の奥深くに<ruby><rb>潜</rb><rt>もぐ</rt></ruby>り込んで居たのである。妻は既に妻ではないのであった、袖の上の飛花、脚の下の落葉ほどにも無いものであったのである。妻に深刻な眼で恨まれたこともあったろうが、それは<ruby><rb>籬</rb><rt>まがき</rt></ruby>の外の蛍ぐらいにしか見えなかったであろう。母に慈愛のまなざしで諭されたことも有ったろうが、それも勿体ないが<ruby><rb>雲辺</rb><rt>うんぺん</rt></ruby>の<ruby><rb>禽</rb><rt>とり</rt></ruby>の影、<ruby><rb>暫時</rb><rt>しばし</rt></ruby>のほどしか心には<ruby><rb>留</rb><rt>とど</rt></ruby>まらなかったのであったろう。如何に歌人でも才女でも、常識の円満に発達した、中々しっかり者の赤染右衛門でもが、高が従兄弟の妻である。そんなものが兎や角言ったとて、定基の耳には<ruby><rb>頭</rb><rt>てん</rt></ruby>から入らなかったのであろう。別に抗弁するのでも無ければ、<ruby><rb>駁撃</rb><rt>ばくげき</rt></ruby>するというでも無く、樹間の<ruby><rb>蝉声</rb><rt>せんせい</rt></ruby>、聴き来って意に入るもの無し、という調子にあしらって<ruby><rb>終</rb><rt>しま</rt></ruby>った。右衛門も腕の力を<ruby><rb>暖簾</rb><rt>のれん</rt></ruby>にごまかされたようになっては、<ruby><rb>流石</rb><rt>さすが</rt></ruby>にあれだけの器量のある女だから、やっきとなって色々にかき口説いたろうが、人間には生れついて性格技能のほかに、丈の高さというものがあるのだから、定基の馬鹿に丈の高いのには、右衛門の手が届きかねたのであろう、何の手応えも生じかねたのである。世の中には何も出来ないで丈ばかり高いものがあるが、それは戦乱の世なら<ruby><rb>萱</rb><rt>かや</rt></ruby>や<ruby><rb>薄</rb><rt>すすき</rt></ruby>のように<ruby><rb>芟</rb><rt>か</rt></ruby>り倒されるばかり、平和の世なら自分から志願して<ruby><rb>狂人</rb><rt>きちがい</rt></ruby>になる位が<ruby><rb>結局</rb><rt>おち</rt></ruby>で、社会の難物たるに<ruby><rb>止</rb><rt>とどま</rt></ruby>るものだが、定基は<ruby><rb>蓋</rb><rt>けだ</rt></ruby>し丈の高い人だったろう。そこで右衛門は自尊心や自重心を傷つけられたに過ぎぬ結果になって、甚だ面白く無く、手持無沙汰になって、定基の妻や母にも面目無く、いささか器量を下げて、腹の中は甚だ面白からず、<ruby><rb>何様</rb><rt>どう</rt></ruby>ぞ宜く御考えなされまして、という位を定基に言って<ruby><rb>引退</rb><rt>ひきさが</rt></ruby>るよりほか無くなった。此処で何様いう風に右衛門が巧みに訴え、上手に弁じ、<ruby><rb>手強</rb><rt>てづよ</rt></ruby>く筋を通して物語ったかは、一寸書き現わしたくもあるところだが、負けた相撲の手さばきを詳しく説くのもコケなことだから省いて置く。

定基の方は、好かない煙が鼻の先を通った程の事で済ませて了ったが、収まらないのは右衛門の腹の中だった。右衛門に取って直接に苦痛が有るの無いのということでは無いが、自分の思ったことが何の手応えも無く、風の中へ少しの灰を<ruby><rb>撒</rb><rt>ま</rt></ruby>いたように消えて終ったというようなことは、誰に取っても<ruby><rb>口惜</rb><rt>くや</rt></ruby>しいものである。まして相当の自負心のあるものには、自分が少しの打撃を<ruby><rb>蒙</rb><rt>こうむ</rt></ruby>ったよりも忌わしい<ruby><rb>厭</rb><rt>いと</rt></ruby>わしい感じを生じ勝のものである。それに加えて、相互の間に敬愛こそは有れ、憎悪も嫌悪もあるべき筈は無い自分に対してさえ、<ruby><rb>然様</rb><rt>そう</rt></ruby>いう軽視<ruby><rb>若</rb><rt>もし</rt></ruby>くは<ruby><rb>蔑視</rb><rt>べっし</rt></ruby>を与える如き男が、今は<ruby><rb>嫌厭</rb><rt>けんえん</rt></ruby>から進んで憎悪又は虐待をさえ与えて居る其妻に対しては、なまじ横合からその妻に同情して其夫を非難するような気味の言を聞かされては、<ruby><rb>愈々</rb><rt>いよいよ</rt></ruby>其妻に対して<ruby><rb>厭悪</rb><rt>えんお</rt></ruby>の情を増し虐待の状を増すことであろうと思うと、其妻に対しても気の毒で<ruby><rb>堪</rb><rt>たま</rt></ruby>らぬ上に、其男の憎らしさが込みあげて来てならぬ。<ruby><rb>吾</rb><rt>わ</rt></ruby>が心の平衡が保てぬというほどでは無いが、<ruby><rb>硬粥</rb><rt>かたがゆ</rt></ruby>が煮えるときにブツブツと小さな泡が立っては消え、消えては<ruby><rb>復</rb><rt>また</rt></ruby>立つというような、取留めのない平らかならぬものが腹中に間断なく起滅するのを免れなかったことだったろう。そこで右衛門は遂に夫の匡衡に委曲を語って、定基の近状の良くないことを云い、其妻のあわれなことを告げ、何とかしてやって欲しいことを訴えた。男は男で、<ruby><rb>他</rb><rt>ひと</rt></ruby>の<ruby><rb>斯様</rb><rt>こん</rt></ruby>なことには取合いたがらぬものである。匡衡は一応はただ<ruby><rb>其儘</rb><rt>そのまま</rt></ruby>に聞流そうとした。しかし右衛門は巧みに物語った。匡衡はここで取合わずに過して了えば、さも自分も定基と同じような場合にあっては吾が妻に対して冷酷である男のように、自分の妻から<ruby><rb>看做</rb><rt>みな</rt></ruby>さるるであろうかのように感じずには居られなかったであったろう。そこで定基に対してよりは、自分の妻に対しての感じから動き出して、よし、それでは折を見て定基に話ししよう、ということになった。匡衡と右衛門との間は実に仲が好かったのであった。

男と女との間の<ruby><rb>睽</rb><rt>そむ</rt></ruby>きあったところへ口を出すほど危険なことは無い。もし其男女の仲が直れば、<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>で好く思われる筈は無い、双方の<ruby><rb>古疵</rb><rt>ふるきず</rt></ruby>を知っている<ruby><rb>一</rb><rt>いつ</rt></ruby>の他人であるからである。又仲直りが出来ずに終れば、もとより口をきいた甲斐もないのであるからである。しかし親類合のことであって見ると、又別である。が、匡衡も定基も血の気の多い、覇気満々の年頃ではあり、双方とも学問はあり才器はあり、かりそめの雑談を仕合っても互に負けては居ぬ頃合であるから、<ruby><rb>斯様</rb><rt>こう</rt></ruby>いう<ruby><rb>談</rb><rt>はなし</rt></ruby>などは、好い結果を生じそうにないのが自然であった。然し双方とも幸に愚劣な高慢的な人で無かったから、何等の後の語り草になるほどのことも無くて済んでしまったが、互の感情は<ruby><rb>睽離</rb><rt>けいり</rt></ruby>し、そして匡衡は匡衡、定基は定基で、各々<ruby><rb>峭立</rb><rt>しょうりつ</rt></ruby>して疎遠になるに終ったことだったろう。察するに一方は、<ruby><rb>路花墻柳</rb><rt>ろかしょうりゅう</rt></ruby>の美に目を奪われるの甲斐無きことをあげて、修身斉家の大切なことを、それとなく<ruby><rb>諷</rb><rt>ふう</rt></ruby>したに違いない。それに対し反対の仕ようは無いから、一方は黙っていたに違いない。此の黙っているというのは誠に張合の無い困ったことだから、又更に一方は大江の家が儒を以て立っているのだから、家の内の<ruby><rb>斉</rb><rt>ととの</rt></ruby>わないで、妻を去るに至るの何のということは、よくよくの事でなければ、一家一門に取って取分け世間の非難を被って、非常に不利であることを云いもしたろう。これに対しても一方は又黙っていたろう。<ruby><rb>七出</rb><rt>しちしゅつ</rt></ruby>の<ruby><rb>目</rb><rt>もく</rt></ruby>に就いても言議に及んだことであろう。七出というのは、子無きが一、<ruby><rb>淫佚</rb><rt>いんいつ</rt></ruby>が二、<ruby><rb>舅姑</rb><rt>きゅうこ</rt></ruby>に<ruby><rb>事</rb><rt>つか</rt></ruby>えざるが三、<ruby><rb>口舌</rb><rt>くぜつ</rt></ruby>多きが四、盗窃が五、<ruby><rb>妬忌</rb><rt>とき</rt></ruby>が六、<ruby><rb>悪疾</rb><rt>あくしつ</rt></ruby>が七である。これに対しては定基の方からは、口舌、妬忌の二条を挙げて兎角を云うことも出来るわけだが、定基今差当って必ずしも妻を出そうと主張しているのでも無いから、やはり何も云わず黙っていたろう。何を云っても黙って居られる。自分も妻の右衛門同様、相手にされずに黙過されるに至っては匡衡も<ruby><rb>堪</rb><rt>こら</rt></ruby>えきれなくなったろう。遂に力寿が非常に<ruby><rb>美</rb><rt>よ</rt></ruby>い女だということが定基<ruby><rb>耽溺</rb><rt>たんでき</rt></ruby>の基だというのに考えが触れて、美色ということに<ruby><rb>鉾</rb><rt>ほこ</rt></ruby>が向いたろう。<ruby><rb>妲己</rb><rt>だっき</rt></ruby>や<ruby><rb>褒姒</rb><rt>ほうじ</rt></ruby>のような<ruby><rb>妖怪</rb><rt>ばけもの</rt></ruby>くさい恐ろしい美人を<ruby><rb>譬</rb><rt>たと</rt></ruby>えに引くのも<ruby><rb>大袈裟</rb><rt>おおげさ</rt></ruby>だが、色を<ruby><rb>貪</rb><rt>むさぼ</rt></ruby>るという語に縁の有るところがら、楚王が陳を討破って後に<ruby><rb>夏姫</rb><rt>かき</rt></ruby>を<ruby><rb>納</rb><rt>い</rt></ruby>れんとした時、<ruby><rb>申公</rb><rt>しんこう</rt></ruby><ruby><rb>巫臣</rb><rt>ふしん</rt></ruby>が<ruby><rb>諫</rb><rt>いさ</rt></ruby>めた、「色を貪るを淫と為す、淫を大罰と為す」と云ったのを思い出して、色を貪るのを<ruby><rb>愚</rb><rt>ぐ</rt></ruby>なことだと云いもしたろう。<ruby><rb>貪色</rb><rt>たんしょく</rt></ruby>の二字は実に女の<ruby><rb>美</rb><rt>よ</rt></ruby>いのを<ruby><rb>愛</rb><rt>め</rt></ruby>ずる者にはピンと響かずには居ない語だ。夏姫というのは下らない女ではあったが、大層美い女だったには疑無い。荘王は巫臣の諫を容れて何事も無く済んだが、巫臣が不祥の女だと云った如く、到るところに不幸を<ruby><rb>播</rb><rt>ま</rt></ruby>いた女であった。夏姫に力寿を比したでも何でも無かったろうが、貪色というが如き一語は定基には強く響いたことだろう。全く色を貪って居たには違無いのだから。すべて人は何様いう<ruby><rb>強</rb><rt>きつ</rt></ruby>いことを言われても、急所に触れないのは捨てても置けるものであるが、たまたま<ruby><rb>逆鱗</rb><rt>げきりん</rt></ruby>即ち急所に触れることを言われると腹を立てるものである。グッと反対心敵対心の<ruby><rb>火炎</rb><rt>ほのお</rt></ruby>を挙げるものである。ここまでは好くない顔はしていても、別に逆らうでもなく、聞流しに聞いていた定基も、ここに至って爆発した。一ツは此頃始終足の裏に踏付けた飯粒のような<ruby><rb>古女房</rb><rt>ふるにょうぼう</rt></ruby>を、何様しようか何様しようかと思って内々は問題にしていたせいでもあったろう、又一ツには<ruby><rb>譬</rb><rt>たと</rt></ruby>えば絹の糸の結ばれて解き兼ねるようになっているのを如何に処理しようかと問題にして惑って居る時、好意ではあるにしても<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>より急に其一端を強く引かれて愈々解き難くなったので、ええ面倒ナ切って終え、と<ruby><rb>剪刀</rb><rt>はさみ</rt></ruby>を取出す気になるような、腹の中で決断がついて終ったせいもあったろう。定基は突然として、家にも似合わず、<ruby><rb>如是因</rb><rt>にょぜいん</rt></ruby>、<ruby><rb>如是縁</rb><rt>にょぜえん</rt></ruby>、如是因、如是縁、と繰返して<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>って、如何にしても縁というものは是非の無いものと見えまする、聖人賢人でも気に入らぬ妻は離別された<ruby><rb>先蹤</rb><rt>せんしょう</rt></ruby>さえござる、まして我等は、と云って、背筋を立てた。匡衡は、ヤ、と云って<ruby><rb>聊</rb><rt>いささ</rt></ruby>か身を<ruby><rb>退</rb><rt>ひ</rt></ruby>いた。定基は幾月か扱っていた問題だったから、自然と後が口を<ruby><rb>衝</rb><rt>つ</rt></ruby>いて出て来た。<ruby><rb>檀弓</rb><rt>だんぐう</rt></ruby>に見えて居る通り、<ruby><rb>子上</rb><rt>しじょう</rt></ruby>の母死して<ruby><rb>喪</rb><rt>そう</rt></ruby>せずの条によれば、<ruby><rb>孔子</rb><rt>こうし</rt></ruby>の御孫の<ruby><rb>子思子</rb><rt>ししし</rt></ruby>が妻を去られたことは分明である。又其章の、門人が子思子に問われた言葉に、「昔は<ruby><rb>子</rb><rt>し</rt></ruby>の先君子出母を喪せる<ruby><rb>乎</rb><rt>か</rt></ruby>」とあるによれば、子思子の父の子伯魚も妻を去られたようである。イヤ、それよりも同じ章の別の条に、「伯魚の母死す、期にして而して<ruby><rb>猶</rb><rt>なお</rt></ruby><ruby><rb>哭</rb><rt>こく</rt></ruby>す」の文によれば、伯魚の母即ち孔子の妻も、吾が聖人<ruby><rb>孔夫子</rb><rt>こうふうし</rt></ruby>に去られたことは分明である。<ruby><rb>何様</rb><rt>どう</rt></ruby>いう仔細あって聖人が子まであった夫人を去られたか、それはそれがし不学で未だ見及ばず聞及ばぬが、孔子は年十九にして<ruby><rb>宋</rb><rt>そう</rt></ruby>の<ruby><rb>幵官氏</rb><rt>けんかんし</rt></ruby>を<ruby><rb>娶</rb><rt>めと</rt></ruby>られ、其翌年に<ruby><rb>鯉</rb><rt>り</rt></ruby><ruby><rb>字</rb><rt>あざな</rt></ruby>は伯魚を生ませたもうたのである。伯魚が出母の死に当り期にして<ruby><rb>猶</rb><rt>なお</rt></ruby><ruby><rb>哭</rb><rt>こく</rt></ruby>せるは、自然であるが、孔子が幵官氏を出し玉うたのは、因縁不和とよりそれがしには合点がならぬ。聖人の徳、家を<ruby><rb>斉</rb><rt>ととの</rt></ruby>うるに足らなかったとは誰も申し得ぬ。しかし夫子も上智と下愚とはうつらずと申して居らるる。うつらずとは徳化も及ばざることでござろう。聖人の盛徳といえども、御年猶若かりし頃には、堪えかねて見放したもうて去られしもの<ruby><rb>歟</rb><rt>か</rt></ruby>、或は幵官氏に宜しからぬことのありし歟。すべて遠き<ruby><rb>古</rb><rt>いにしえ</rt></ruby>の事、考え知らんにも今如何ともし難けれど、我等凡愚にはただ因縁不可思議とのみ存ずる、何様いうものでござろうか、と意外な逆手に出られた。これは何も定基が匡衡より学識が<ruby><rb>勝</rb><rt>すぐ</rt></ruby>れていた故というのでは無いが、定基の方は自分の境遇の現在から<ruby><rb>斯様</rb><rt>こう</rt></ruby>いうことを実際の問題にして、いろいろ苦悩して考えていたからである。匡衡は一寸身を<ruby><rb>退</rb><rt>ひ</rt></ruby>かずには居られなかった。相撲なら、ここで定基の出足さえ速かったら、匡衡は手もなく推出されて<ruby><rb>終</rb><rt>しま</rt></ruby>うところだったが、何も定基は<ruby><rb>勝負</rb><rt>かちまけ</rt></ruby>を争うつもりのわけでは無かったから、追窮するような態度に出無かった。が、匡衡の方では、明らかに自分が推戻されてたじたじとなったのを感じた。けれども匡衡も<ruby><rb>鳶肩倔強</rb><rt>えんけんくっきょう</rt></ruby>の男児だ、斯様なると話が学問がかったところで推出されじまいになるのには堪えられなかった。何も争いを仕に来たので無いのは知れきったことだが、負けたようになって<ruby><rb>引退</rb><rt>ひきさが</rt></ruby>ることは<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>だった。そこは<ruby><rb>流石</rb><rt>さすが</rt></ruby>に才子で、粟津の浜に精兵を率いて駈通るような文章を作る男だけに、檀弓は<ruby><rb>六国</rb><rt>りくこく</rt></ruby>の人、檀弓一篇は<ruby><rb>礼記</rb><rt>らいき</rt></ruby>に在りと<ruby><rb>雖</rb><rt>いえど</rt></ruby>も、もと伝聞に出ずるもので、多く信ず可からず、というような論は、云えば云えぬでは無いが、そんな<ruby><rb>迂</rb><rt>う</rt></ruby>なことを馬鹿正直に云うよりも、相手の推しを<ruby><rb>其儘</rb><rt>そのまま</rt></ruby>にいなせて、「如何にも」と云ったまま<ruby><rb>少時</rb><rt>しばらく</rt></ruby>考えたが、<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ち思い得たところがあったか薄笑いして、成程、聖人も性の合わぬ妻を去られたということは有ったでもござろう、然し聖人は妻を去られたにしても、<ruby><rb>其後</rb><rt>そののち</rt></ruby>他の婦人を迎えて妻とせられたことは無いように存ずる、其証は孔子の御子は伯魚一人<ruby><rb>限</rb><rt>ぎ</rt></ruby>りで、幵官氏の<ruby><rb>出</rb><rt>しゅつ</rt></ruby>ただ<ruby><rb>一人</rb><rt>いちにん</rt></ruby>、其他に伯魚の弟、妹というものは無かったのでござる、又孔子が継室を迎えられた、それは何氏であったということも、それがし不学で未だ見及ばず聞及ばぬでござるが、と談話は実に<ruby><rb>斡旋</rb><rt>あっせん</rt></ruby>の妙を極めた。此度は定基の推した手を<ruby><rb>却</rb><rt>かえ</rt></ruby>って軽く引いて置いて、<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>から横へ推したようなものだった。定基は抵抗されたのでは無いが、思わぬ<ruby><rb>方</rb><rt>かた</rt></ruby>へ身を持って行かれたのであった。妻を去るのは去るにしても、力寿を其<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>へ入れることは無くてあるべきように云われたのである。元来聖人などを持出したのが、変なことだったので、変なことの結果は変なことになって終ったのである。双方の話は生活の実際に就てであったのだが、歯に物の挟まった物の云い方を仕合った結果は、書物の古話になってしまった。しかしそれも好かった、書生の閑談で事は終って了って、何等のいさくさも無く<ruby><rb>稜立</rb><rt>かどだ</rt></ruby>つことも無く済んで了った。

但し双方とも、平常の往来、学問文章の談論でなくて有ったことは互の腹に分って居ない筈は無かったのだから、匡衡の方は人が折角親切気で物を云ってやったに、分らぬ男だと思えば、定基の方は大きな御世話で先日は<ruby><rb>生才女</rb><rt>なまさいじょ</rt></ruby>、今日は生学者が何を云って来居るのだ、それも<ruby><rb>畢竟</rb><rt>つまり</rt></ruby>は家の女めが何か彼か外へ漏らすより、と腹なりを悪くしたに違無い。物の因縁というものは、善くなるのも悪くなるのも、<ruby><rb>都</rb><rt>す</rt></ruby>べて斯様いうもので、親切は却って<ruby><rb>仇</rb><rt>あだ</rt></ruby>となり、助けは却って障りとなって、正基は<ruby><rb>愈々</rb><rt>いよいよ</rt></ruby>妻を疎み、妻は愈々夫を恨み、無言の冷眼と<ruby><rb>嫉妬</rb><rt>しっと</rt></ruby>のひぞり言とは、日に戦ったが、定基は或はずみに遂に妻を去ろうと云い出して了った。女は流石に泣いたり笑ったりしたが、何様も仕方無く、遂に家を出て終った。当時の離別の形式などは今これを詳知する材料に乏しいが、いずれ美しく笑って別れるということは有ろう筈無く、男の<ruby><rb>瞋眼</rb><rt>しんがん</rt></ruby>、女の<ruby><rb>怨気</rb><rt>えんき</rt></ruby>、あさましく、忌わしい限りを尽して別れたことであったろう。それで無くては別れられる訳も無いのだから。<ruby><rb>特</rb><rt>こと</rt></ruby>に女に取っては、一生を全く墨塗りにされるのだから、定基の妻は恨みもしたろう、<ruby><rb>悪</rb><rt>にく</rt></ruby>みもしたろう、人でも無いもののように今までの夫を<ruby><rb>蔑視</rb><rt>べっし</rt></ruby>もしたろう、行末<ruby><rb>悪</rb><rt>あし</rt></ruby>かれ、地獄に<ruby><rb>墜</rb><rt>お</rt></ruby>ちよ、畜生になれ、修羅になって苦め、餓鬼になって悩め、と<ruby><rb>呪</rb><rt>のろ</rt></ruby>いもしたろう。そして自分の将来、何の光も無く、色も無く、香も無い、ただ真黒な冷い闇のみの世界を望み<ruby><rb>視</rb><rt>み</rt></ruby>ては、<ruby><rb>愴然</rb><rt>そうぜん</rt></ruby><ruby><rb>栗然</rb><rt>りつぜん</rt></ruby>として<ruby><rb>堪</rb><rt>こら</rt></ruby>えきれぬ思いをしたことであったろう。

およそ人間世界に夫婦別れをする女ほど同情に値するものはあるまい。それは決して純善から生ずるものでは無かろうから、同情に値しない個処が存在することを疑わない。たとえば定基の妻にしても<ruby><rb>妬忌</rb><rt>とき</rt></ruby>の念が今少し<ruby><rb>寡</rb><rt>すくな</rt></ruby>かったら如何に定基が力寿に<ruby><rb>迷溺</rb><rt>めいでき</rt></ruby>したにせよ、強いて之を去るまでには至らなかったろうと想われる。然し何が何様あろうとも、一生の苦楽を他人に頼る女のことであるから、善かれ悪かれ取宛てた<ruby><rb>籤</rb><rt>くじ</rt></ruby>の男に別れては<ruby><rb>堪</rb><rt>たま</rt></ruby>るものではない。そこへ行くと男の方は五割も十割も割がよい。甚だしいのになると、雨晴れて<ruby><rb>簑</rb><rt>みの</rt></ruby>を脱ぎ、水尽きて舟を棄つるような気分で女に別れて、ああせいせいしたなどと<ruby><rb>洒落</rb><rt>しゃれ</rt></ruby>れているのである。それでいて其男が<ruby><rb>甚</rb><rt>ひど</rt></ruby>い悪人でも無いというのが有るのだから、一体愛情というものの上には道徳が存するものか何様かと疑われるほどで、何にしても女は不利な地に立っている。定基は勿論悪人というのではないが、つまりは馬で言えば<ruby><rb>癇強</rb><rt>かんづよ</rt></ruby>な馬で、人としては<ruby><rb>生一本</rb><rt>きいっぽん</rt></ruby>の人であったろう。で、女房を<ruby><rb>逐出</rb><rt>おいだ</rt></ruby>し得てからは、それこそせいせいした心持になって、<ruby><rb>渾身</rb><rt>こんしん</rt></ruby>の情を傾けて力寿を愛していたことであろう。任地の三河にあっては第一の地位の三河守であり、自分のほかは属官僕隷であり、行動は自由であり、飲食は最高級であり、太平の世の公務は清閑であり、何一ツ心に任せぬことも無く、好きな狩猟でもして、山野を<ruby><rb>馳駆</rb><rt>ちく</rt></ruby>して快い汗をかくか、天潤いて雨静かな日は明窓<ruby><rb>浄几</rb><rt>じょうき</rt></ruby>香炉詩巻、<ruby><rb>吟詠</rb><rt>ぎんえい</rt></ruby><ruby><rb>翰墨</rb><rt>かんぼく</rt></ruby>の遊びをして性情を<ruby><rb>頤養</rb><rt>いよう</rt></ruby>するとかいう風に、心ゆくばかり自由安適な生活を楽んでいたことだったろう。ところが、それで何時迄も済めば<ruby><rb>其様</rb><rt>そん</rt></ruby>な好いことは無いが、花に百日の紅無し、玉樹亦<ruby><rb>凋傷</rb><rt>ちょうしょう</rt></ruby>するは、人生のきまり相場で、造物<ruby><rb>豈</rb><rt>あに</rt></ruby>独り此人を憐まんやであった。イヤ去られた妻の<ruby><rb>呪詛</rb><rt>じゅそ</rt></ruby>が利いたのかも知らぬ。いつからという事も無く力寿はわずらい出した。当時は医術が<ruby><rb>猶</rb><rt>なお</rt></ruby>幼かったとは云え、それでも相応に手の尽しかたは有った。又十一面の、薬師の、何の<ruby><rb>修法</rb><rt>しゅほう</rt></ruby>、<ruby><rb>彼</rb><rt>か</rt></ruby>の修法と、<ruby><rb>祈祷</rb><rt>きとう</rt></ruby>の術も数々有った。病は苦悩の多く強いものでは無かったが、美しい花の日に<ruby><rb>瓶中</rb><rt>へいちゅう</rt></ruby>に<ruby><rb>萎</rb><rt>しお</rt></ruby>れゆくが如く、清らな瓜の<ruby><rb>筺裏</rb><rt>きょうり</rt></ruby>に護られながら<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>く玉の艶を失って行くように、次第次第衰え弱った。定基は<ruby><rb>焦躁</rb><rt>しょうそう</rt></ruby>しだした。怒りを人に<ruby><rb>遷</rb><rt>うつ</rt></ruby>すことが多くなった。愁を独りで味わっていることが多くなった。療治の法を求めるのに、やや狂的になった。或時はやや病が衰えて元気が回復したかのように、<ruby><rb>透徹</rb><rt>すきとお</rt></ruby>るような<ruby><rb>瘻</rb><rt>やつ</rt></ruby>れた顔に薄紅の色がさして、それは実に驚くほどの美しさが現われることも有ったが、それは<ruby><rb>却</rb><rt>かえ</rt></ruby>って病気の進むのであった。病人は定基の愛に非常な感謝をして、定基の手から受ける薬の味の飲みにくいのをも、強いて嬉しげを装うて飲んだ。定基にはそれが分って実に苦かった。修法の霊水、本尊に供えたところの<ruby><rb>清水</rb><rt>せいすい</rt></ruby>を頂かせると、それは甘美の清水であるので、病人は心から喜んで飲んで、そして定基を見て微かに笑う、其の此世に於て今はただ冷水を<ruby><rb>此様</rb><rt>かよう</rt></ruby>に喜ぶかと思うと、定基は<ruby><rb>堪</rb><rt>たま</rt></ruby>らなく悲しくて腹の中で泣けて仕方がなかった。病気は少しも治る方へは向かなかった。良い馬が確かな脚取りを以て進むように、次第次第に悪い方へのみ進んだ。其の到着点の死という底無しの谷が近くなったことは定基にも想いやられるようになったし、力寿にもそれが想い知られているようになったことが、此方の眼に判然と見ゆるようになった。しかし二人とも其の忌わしいことには、心をも言葉をも触れさせないように<ruby><rb>力</rb><rt>つと</rt></ruby>めた。互に相棄てたくない、<ruby><rb>執着</rb><rt>しゅうじゃく</rt></ruby>の心が、世相の実在に反比例して強く働いたからである。

日影の動かない日は有り得ない。其時は来て其影は流れた。力寿は樹の葉が揺れ止んで風の無くなったのが悟られるように、遂に安らかに死んで<ruby><rb>終</rb><rt>しま</rt></ruby>った。定基は自分も共に死んだようになったが、それは<ruby><rb>一時</rb><rt>いっとき</rt></ruby>のことで、死なないものは死ななかった。たしかに生残っていた。別れたのだ。二つが一つになっていた魂が、彼は我を捨て、我は彼に従うことが叶わないで、彼は去り、我は遺ったのであった。ただ<ruby><rb>茫然</rb><rt>ぼうぜん</rt></ruby>漠然としていたのみであった。

生は相憐れみ、死は<ruby><rb>相捐</rb><rt>あいす</rt></ruby>つという<ruby><rb>諺</rb><rt>ことわざ</rt></ruby>がある。其諺通りなら定基は早速に僧を請じ経を<ruby><rb>誦</rb><rt>じゅ</rt></ruby>させ、野辺の送りを営むべきであった。しかし普通の慣例の如くに<ruby><rb>然様</rb><rt>そう</rt></ruby>いう社会事相を<ruby><rb>進捗</rb><rt>しんちょく</rt></ruby>させるには定基の愛着は余りにも深くて、力寿は死んで確かに我を捐てたけれども、我は力寿を捐つるには忍びなかった。<ruby><rb>簀</rb><rt>さく</rt></ruby>を<ruby><rb>易</rb><rt>か</rt></ruby>え<ruby><rb>机</rb><rt>き</rt></ruby>を<ruby><rb>按</rb><rt>お</rt></ruby>き、花を<ruby><rb>供</rb><rt>くう</rt></ruby>し香を<ruby><rb>焼</rb><rt>た</rt></ruby>くような事は<ruby><rb>僕婢</rb><rt>ぼくひ</rt></ruby>の為すがままに任せていたが、僧を<ruby><rb>喚</rb><rt>よ</rt></ruby>び<ruby><rb>柩</rb><rt>ひつぎ</rt></ruby>に<ruby><rb>斂</rb><rt>おさ</rt></ruby>めることは、其命を下さなかったから誰も手をつけるものは無かった。一日過ぎ、二日過ぎた。病気の性の故であったろうか、今既に幾日か過ぎても、面ざし<ruby><rb>猶</rb><rt>なお</rt></ruby>生けるが如くであった。定基は其の<ruby><rb>傍</rb><rt>かたえ</rt></ruby>に昼も居た、夜も<ruby><rb>臥</rb><rt>ふ</rt></ruby>して、やるせない思いに、<ruby><rb>吾</rb><rt>わ</rt></ruby>が身の取置きも吾が心よりとは無く、ただ<ruby><rb>恍惚</rb><rt>こうこつ</rt></ruby><ruby><rb>杳渺</rb><rt>ようびょう</rt></ruby>と時を過した。古き文に、ここを叙して、「悲しさの余りに、とかくもせで、かたらひ伏して、口をすひたりけるに、あさましき<ruby><rb>香</rb><rt>か</rt></ruby>の口より<ruby><rb>出来</rb><rt>いでき</rt></ruby>たりけるにぞ、うとむ心いできて、なく〱はふりてける」と書いてある。生きては人たり、死しては物たり、定基はもとより人に愛着を感じたのである、物に愛着を感じたのでは無かった。しかし物猶人の如くであったから、いつまでも傍に居たのであろう。そして或時思いも寄らず、吾が口を死人の口に近づけたのであろう。口を吸いたりけるに、と<ruby><rb>素樸</rb><rt>そぼく</rt></ruby>に書いた昔の文は実に好かった。あさましき香の口より出来りける、とあるが、それは実に誰もが想像し兼ねるほどの<ruby><rb>厭</rb><rt>いと</rt></ruby>わしい、それこそ真にあさましい香であったろう。死に近づいている人の口臭は他の何物にも比べ難い<ruby><rb>希有</rb><rt>けう</rt></ruby>の香のするもので、俗に仏様くさいと云って怖れ忌むものであるが、まして死んでから幾日か経ったものの口を吸ったのでは、如何に愛着したものでも堪らなかったろう。然し定基は<ruby><rb>流石</rb><rt>さすが</rt></ruby>に快男児だった、愛も痴もここまでに到れば突当りまで行ったものだった。其時その腐りかかった亡者が、嬉しゅうござんす定基さん、と云って<ruby><rb>楊枝</rb><rt>ようじ</rt></ruby>のような細い冷い手を男の<ruby><rb>頸</rb><rt>くび</rt></ruby>に<ruby><rb>捲</rb><rt>ま</rt></ruby>きつけて、しがみ着いて来たら<ruby><rb>何様</rb><rt>どう</rt></ruby>いうものだったか知らぬが、自然の法輪に逆廻りは無かったから、定基はあさましい其香に<ruby><rb>畏</rb><rt>おそ</rt></ruby>れ<ruby><rb>戦</rb><rt>おのの</rt></ruby>いて後へ<ruby><rb>退</rb><rt>すさ</rt></ruby>ったのである。人間というものは変なもので、縁もゆかりも無い遠い海の<ruby><rb>鰹</rb><rt>かつお</rt></ruby>や<ruby><rb>鮪</rb><rt>まぐろ</rt></ruby>の死骸などは、<ruby><rb>嘗</rb><rt>な</rt></ruby>めて味わって噛んで<ruby><rb>嚥</rb><rt>の</rt></ruby>んで了うのであるから、可愛いい女の口を吸うくらい、当りまえ過ぎるほど当りまえであるべきだが、然様は出来ないのである。ダーキーニなら、これは御馳走と<ruby><rb>死屍</rb><rt>しかばね</rt></ruby>を食べも仕ようが、ダーキーニでは無かった定基は人間だったから後へ退って了ったのであった。ここを坊さんの虎関は、<ruby><rb>会失配</rb><rt>たま〱はいをうしなひ</rt></ruby>、<ruby><rb>以愛厚緩喪</rb><rt>あいこうをもつてさうをゆるうし</rt></ruby>、<ruby><rb>因観九相</rb><rt>よりてきうさうをくわんじ</rt></ruby>、<ruby><rb>深生厭離</rb><rt>ふかくをんりをしやうず</rt></ruby>、と書いているが、それは文飾が届き過ぎて事実に遠くなっている。<ruby><rb>九相</rb><rt>きゅうそう</rt></ruby>は死人の変化道程を説いたもので、<ruby><rb>膨張相</rb><rt>ぼうちょうそう</rt></ruby>、<ruby><rb>青瘀</rb><rt>せいお</rt></ruby>相、<ruby><rb>壊</rb><rt>え</rt></ruby>相、<ruby><rb>血塗</rb><rt>けっと</rt></ruby>相、<ruby><rb>膿瀾</rb><rt>のうらん</rt></ruby>相、<ruby><rb>虫噉</rb><rt>ちゅうかん</rt></ruby>相、散相、骨相、土相をいうので、何も如何に喪を緩うしたとて、九相を観ずるまで長く葬らずに居たのでは無い、大納言の「口を吸ひたりけるに」の方が遥かに好い文である。そこで定基は力寿を葬ってしまった。葬という字は、死屍を、上も草なら下も草、草むらの中に捨てて了うことであり、ほうむるという言葉は、<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>り放つことで、野か山へ抛り出して終うのである。何様も致しかたの無い人の終りは、然様するか然様されるのが自然なのである。生相憐み、死相<ruby><rb>捐</rb><rt>す</rt></ruby>つるのである、力寿定基は<ruby><rb>終</rb><rt>つい</rt></ruby>に死相捐てたのである。

力寿に捐てられ、力寿を捐てた後の定基は何様なったか。何様も無い、<ruby><rb>斯様</rb><rt>こう</rt></ruby>も無い、ただそこには空虚があったばかりであった。定基は其空虚の中に、<ruby><rb>頭</rb><rt>かしら</rt></ruby>は天を戴くでもなく、脚は地を<ruby><rb>履</rb><rt>ふ</rt></ruby>むでも無く、東西も知らず南北も<ruby><rb>弁</rb><rt>わきま</rt></ruby>えず、是非善悪吉凶正邪、何も分らずふらふらと月日を過した。其<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>に四月が来て、年々の例式で風祭りということをする時が来た。風祭りと云っても、万葉の歌の、花に嵐を厭うて「風な吹きそと打越えて、名に負へる森に風祭りせな」というような風流な風祭りではない。三河の当時の田舎の神祭りの式で、<ruby><rb>生贄</rb><rt>いけにえ</rt></ruby>を神に献じて暴風悪風の田穀を荒さぬようにと祈るのであった。趣意はもとより悪いことではない、例は年々行われて来たことだった。定基は三河の守である、式には勿論あずかったのである。ただ其の生贄を<ruby><rb>献</rb><rt>ささ</rt></ruby>げるというのは、<ruby><rb>野猪</rb><rt>いのしし</rt></ruby>を生けながら神前に引据えて、男共が情も無くおろしたのであった。野猪は鈍物でも殺されるのを合点して忍従する訳は無いから、逃れようともすれば、抵抗もする。終に<ruby><rb>敵</rb><rt>かな</rt></ruby>わずして変な声を出して哀しみ<ruby><rb>困</rb><rt>くるし</rt></ruby>んで死んでしまうのであった。定基はこれを見て、いやに思った。が、それは半途で止める訳にはゆかぬから、自ら堪えて<ruby><rb>其儘</rb><rt>そのまま</rt></ruby>に済ませて終った。生贄ということは何時から始まったか知らぬが、吾が<ruby><rb>邦</rb><rt>くに</rt></ruby>では清らな神代の<ruby><rb>古</rb><rt>いにしえ</rt></ruby>にはなかったようである。支那では古からあったことのようであるが、犠牲の観念は吾が神国にも支那の思想や文物の移入と共に伝わったのではないか、既に今昔物語には人身<ruby><rb>御供</rb><rt>ごくう</rt></ruby>の物語が載っていて、遥かに<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>の宮本左門之助の武勇談などの祖と為っている。社会組織の発達の半途にあっては、生贄の是認せらるべき<ruby><rb>趨勢</rb><rt>すうせい</rt></ruby>は有りもしようが、<ruby><rb>觳觫</rb><rt>こくそく</rt></ruby>たる畜類の歩みなどを見ては、人の善良な側の感情から見て、神に献げるとは云え、何様も善いことか善くない事か疑わしいと思わずには居られないことである。換言すれば犠牲ということを可なりとする社会善というものが、果して善であろうか、然様で無かろうかも疑わしいことである。然し豪傑主義から云えば、勿論のこと、神に献げる犠牲などは論ずるにも足らぬことで、<ruby><rb>其様</rb><rt>そん</rt></ruby>なことを否認などしては国家の組織は解体するのであるから、<ruby><rb>巌窟</rb><rt>がんくつ</rt></ruby>に孤独生活でも営んでいる者で無い限りは犠牲ということを疑ってはならぬのが、人間世界の実状である。<ruby><rb>扨</rb><rt>さて</rt></ruby>それから少し<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>のことであった。今まで狩猟などをも<ruby><rb>悦</rb><rt>よろこ</rt></ruby>んでいたことであるから定基のところへ生き<ruby><rb>雉子</rb><rt>きじ</rt></ruby>を献じたものがあった。定基は、此の雉子生けながら作りて食わん、味やよき、心みん、と言い出した。<ruby><rb>奴僕</rb><rt>ぬぼく</rt></ruby>の<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>の心のあらい者は、主人を神とも思っているから、<ruby><rb>然様</rb><rt>さよう</rt></ruby>でござる、それは一段と味も勝り申そうと云い、少し物わかりのした者は、それは<ruby><rb>酷</rb><rt>むご</rt></ruby>いとは思ったが、<ruby><rb>諫</rb><rt>いさ</rt></ruby>め<ruby><rb>止</rb><rt>とど</rt></ruby>めるまでにも至らなかった。やがてむしらせると、雉子はばたばたとするのを、取って抑えてむしりにむしった。鳥は堪らぬから、涙の目をしばたたきて、あたりの人々を見る。目を見合せては流石に哀れに堪兼ねて立退くものもあったが、鳴き居るは、などと<ruby><rb>却</rb><rt>かえ</rt></ruby>って興じ笑いつつ猶もむしり立てる<ruby><rb>強者</rb><rt>つわもの</rt></ruby>もあった。<ruby><rb>挘</rb><rt>むし</rt></ruby>りおおせたから、おろさせると、<ruby><rb>刀</rb><rt>とう</rt></ruby>に従って血はつぶつぶと出で、堪えがたい断末間の声を出して死んで終った。<ruby><rb>炒</rb><rt>あぶ</rt></ruby>り焼きして心見よ、と云うと、情無い<ruby><rb>下司男</rb><rt>げすおとこ</rt></ruby>は、其言葉通りにして見て、これはことの外に結構でござる、<ruby><rb>生身</rb><rt>いきみ</rt></ruby>の<ruby><rb>炒</rb><rt>あぶ</rt></ruby>り焼きは、死したるのよりも遥かに勝りたり、などと云った。いずれは此世の豪傑共である。定基はつくづくと見て居たが、<ruby><rb>終</rb><rt>つい</rt></ruby>に堪えかねて、声を立てて泣き出して、自分の豪傑性を否認して<ruby><rb>終</rb><rt>しま</rt></ruby>って、三河守も何もあらばこそ、<ruby><rb>衣袍</rb><rt>いほう</rt></ruby>取繕う<ruby><rb>遑</rb><rt>いとま</rt></ruby>も無く、半天の落葉ただ風に飛ぶが如く国府を<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>にして都へ出てしまった。

勿論官職位階は皆辞して終った。疑い<ruby><rb>訝</rb><rt>いぶか</rt></ruby>る者、引留める者も有ったには相違無い、一族<ruby><rb>朋友</rb><rt>ほうゆう</rt></ruby>に非難する者も有ったには相違無い。が、もう無茶苦茶無理やり、何でも構わずに非社会的の一個のただの<ruby><rb>生物</rb><rt>いきもの</rt></ruby>になって仕舞った。犠牲を<ruby><rb>献</rb><rt>ささ</rt></ruby>げるのを正しいこととし、犠牲を献げるのを怠るごときは、神に対する甚しい非礼とし、不道とし、大悪とする。犠牲を要求するのは神の権威であり、高徳であり、一切を光被する最善最恵の神の自然の方則であり、或る場合には自ら進んで神の犠牲となり、自己の血肉肝脳を神に献げるのを最高最大最美最壮烈の雄偉な精神の発露として甘んずるのを純粋な道徳であるとする、従って<ruby><rb>然様</rb><rt>そう</rt></ruby>して神に一致するを得るに至るを<ruby><rb>得</rb><rt>う</rt></ruby>、ということで社会は勇健に成立っているのである。如何にもそれで無くては堅固な社会は成立たぬであろう。犠牲の累積と連続とで社会というものは成立っているのである。犠牲の否認というが如きは最卑最小最劣の精神である、犠牲の強要強求<ruby><rb>乃至</rb><rt>ないし</rt></ruby>巧要巧求をするのは、豪傑乃至智者なのである。犠牲を甘受しなければ鮒<ruby><rb>一尾</rb><rt>いっぴき</rt></ruby>、卵一箇も<ruby><rb>摂</rb><rt>と</rt></ruby>れぬのである。<ruby><rb>旨</rb><rt>うま</rt></ruby>く味わうが為に<ruby><rb>雉子</rb><rt>きじ</rt></ruby>の一羽や二羽の<ruby><rb>生</rb><rt>いけ</rt></ruby>づくりが何であろう。風の神にささげる<ruby><rb>野猪</rb><rt>いのしし</rt></ruby>の一匹や二匹の<ruby><rb>生贄</rb><rt>いけにえ</rt></ruby>が何であろう。<ruby><rb>易牙</rb><rt>えきが</rt></ruby>は<ruby><rb>吾</rb><rt>わ</rt></ruby>が子を<ruby><rb>炙</rb><rt>あぶ</rt></ruby>り物にして君にささげたという。あの中間の犠牲取扱者は一体<ruby><rb>何様</rb><rt>どう</rt></ruby>いうものであるか、<ruby><rb>卑怯者</rb><rt>ひきょうもの</rt></ruby>なのか豪傑なのか。既に犠牲の累積と連続とで社会が成立っている以上は、<ruby><rb>夥</rb><rt>おびただ</rt></ruby>しい数の犠牲取扱人が居なければならぬが、イヤ、一切の人間が大抵相互に犠牲となり犠牲を取り犠牲取扱人となっているのが此の人間世界の実相なのである。人間同士、甘んじて犠牲となり合うのが愛であり、犠牲を強要しあうのが争闘であり、然様でない犠牲の自、他、中間の種々相は即ち<ruby><rb>娑婆</rb><rt>しゃば</rt></ruby>世界の実相である。自分はもう幻影に過ぎなかった愛の世界を失って娑婆即ち忍苦の世界の者となったのみだ、其娑婆に在って又ふたたび幻影の世界を求めて、遅かれ速かれふたたび浅ましい物の香に接しようとも思わぬ、と取留めも無く、物を思うでもなく、思わぬでもなく、<ruby><rb>五月雨</rb><rt>さみだれ</rt></ruby>のしとしとと降る頃を、何か分らぬ時を過した。もう然様いう<ruby><rb>境界</rb><rt>きょうがい</rt></ruby>を透過した者から云わせれば、<ruby><rb>所謂</rb><rt>いわゆる</rt></ruby>黒山鬼窟裏の活計を為て居たのであった。そこへ従僕が突として現われて、手に何か知らぬ薄い<ruby><rb>筐</rb><rt>かたみ</rt></ruby>様のものを捧げて来た。

「何か」と問うと、老いた其男の答は極めて物しずかであった。「其のさま卑しからぬ女の、物ごしもまことに宜しくはあれどいたく貧苦愁苦にやつれて見えたるが、願はくは此鏡を然るべく<ruby><rb>購</rb><rt>あがな</rt></ruby>ひ取りてたまはれかしとて持参り深々と頼み入りましてのことに、<ruby><rb>強</rb><rt>きつ</rt></ruby>くは<ruby><rb>拒</rb><rt>こば</rt></ruby>み兼ねて、要無きこととは存じましたれど、御眼の前にもてまゐりたり」という。鏡が今の定基に何のかかわりがあろう。然し定基は<ruby><rb>何彼</rb><rt>なにか</rt></ruby>と尋ねると、いずれ五位六位ほどの妻であろうか、夫の長い<ruby><rb>病</rb><rt>わずらい</rt></ruby>の末か、或は何様いうかの事情の果にいたく窮乏して、如何ともし難くなって、<ruby><rb>吾</rb><rt>わ</rt></ruby>が随一の宝の鏡を犠牲にして売って急を<ruby><rb>凌</rb><rt>しの</rt></ruby>ごうということらしい。鏡は当時<ruby><rb>猶</rb><rt>なお</rt></ruby>なかなかに貴いものであったのである。定基は其筺を開いて鏡を見ようとすると、其包み紙の<ruby><rb>萎</rb><rt>な</rt></ruby>えたるに筆のあとも薄く、「<ruby><rb>今日</rb><rt>けふ</rt></ruby>のみと見るになみだのます鏡なれにし影を人にかたるな」と書いてあった。事情が何も分った訳ではないが、女の<ruby><rb>魂魄</rb><rt>たましい</rt></ruby>とする鏡を売ろうとするに臨みての女の心や其事情がまざまざと<ruby><rb>胷</rb><rt>むね</rt></ruby>に浮んで来て、定基は闇然として眼を<ruby><rb>瞑</rb><rt>つむ</rt></ruby>って打仰いで、堪えがたい哀れを催した。そこで、鏡は<ruby><rb>吾</rb><rt>われ</rt></ruby>に要なければ返し取らせよ、定めて何彼と物の用あろうほどに、我がものは何なりと惜みなく其人に取らせよ、よくよくあわれびをかけよ、と<ruby><rb>吩附</rb><rt>いいつ</rt></ruby>けて、涙の漏る眼をおし拭うた。この鏡を売りに来た女は何様いうものであったか、定基に何か因縁のあったものか、文化文政度の小説ならば、何かの<ruby><rb>仔細</rb><rt>しさい</rt></ruby>を附加えそうなところだが、それは何も分明していない。恐らくは偶然に<ruby><rb>斯様</rb><rt>こう</rt></ruby>いうことが湧いて来たのであろう。強いて筋道を求むれば、人が<ruby><rb>濁悪</rb><rt>じょくあく</rt></ruby>の世界を離れようとする時には、不思議に<ruby><rb>上求菩提</rb><rt>じょうぐぼだい</rt></ruby>の因縁となることが現出するもので、それは<ruby><rb>浄居天</rb><rt>じょうごてん</rt></ruby>がさせるわざだ、という小乗的の<ruby><rb>談</rb><rt>はなし</rt></ruby>があるが、仮りに其談に従えば、浄居天が定基を<ruby><rb>喚</rb><rt>よ</rt></ruby>びに来てくれたものであったろう。定基は其婦人の窮を救うために、種々の自分の<ruby><rb>財物</rb><rt>ざいもつ</rt></ruby>を与え取らせた後不思議に<ruby><rb>清々</rb><rt>すがすが</rt></ruby>しい好い心持になった。そして遂に<ruby><rb>愈々</rb><rt>いよいよ</rt></ruby>吾が家を棄てて出た。勿論定基の母は恩愛の涙を流したことでは有ろうが、これを<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>ぎ遮ろうとするような人では無く、<ruby><rb>却</rb><rt>かえ</rt></ruby>って其<ruby><rb>背影</rb><rt>うしろかげ</rt></ruby>に合掌したことであったろう。棄恩入無為、真実報恩者の<ruby><rb>偈</rb><rt>げ</rt></ruby>は、定基の胷の<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>にも断えず唱えられたろうが、定基の母にも恩愛の涙と共に随喜の涙によって唱えられたことであったろう。

定基は東山如意輪寺に走った。そこには大内記慶滋保胤のなれの果の寂心上人が居たのである。定基は寂心の前に端座して吾が淵底を尽して寂心の明鑑を仰いだのである。寂心は<ruby><rb>出塵</rb><rt>しゅつじん</rt></ruby>してから僅に二三年だが、今は既に泥水全く分れて、<ruby><rb>湛然</rb><rt>たんぜん</rt></ruby>清照、もとより浮世の膠も無ければ、仏の<ruby><rb>金箔</rb><rt>きんぱく</rt></ruby>臭い飾り気も無くなっていて、ただ平等慈悲の<ruby><rb>三昧</rb><rt>ざんまい</rt></ruby>に住していたのである。二人の談話は<ruby><rb>何様</rb><rt>どん</rt></ruby>なものだったか、有ったか無かったか、それも分らぬ。ただ然し機縁契合して、師と仰がれ弟子と容れられ、定基は遂に<ruby><rb>剃髪</rb><rt>ていはつ</rt></ruby>して得度を受け、寂照という青道心になったのである。時に永延二年、<ruby><rb>齢</rb><rt>とし</rt></ruby>はと云えば、まだ三十か三十一だったのである。よくも思いきったものであった。

寂照は入道してから、ただもう道心を持し、<ruby><rb>道行</rb><rt>どうぎょう</rt></ruby>を励み道義を詮するほかに余念も無く、<ruby><rb>清浄安静</rb><rt>しょうじょうあんじょう</rt></ruby>に生活した。眼前は日に日に朗らかに開けて、大千世界を観ること<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>くにして掌上の菓を視るが如くになり、未来は刻々に鮮やかに展じて、億万里程もただ一条の<ruby><rb>大路</rb><rt>たいろ</rt></ruby>の<ruby><rb>砥</rb><rt>と</rt></ruby>の如く通ずるを信ずるに至ったでもあったろう。仏乗の研修は寂心の教導のみならず、寂心の友たり師たる恵心の指示をも得て、俊敏鋭利の根器に任せて精到苦修したことでもあったろう。恵心はもとより緻密厳詳の学風の人であったから、寂照はこれに従って<ruby><rb>大</rb><rt>おおい</rt></ruby>に益を得たことでもあろう、それで寂照を恵心の弟子のように云伝えることも生じたのであろう。しかも恵心はまた<ruby><rb>頭陀行</rb><rt>ずだぎょう</rt></ruby>を厳修したので、当時円融院の中宮<ruby><rb>遵子</rb><rt>ゆきこ</rt></ruby>の御方は、新たに金の御器ども打たせたまいて供養せられたので、かくては却ってあまりに過ぎたりと云って、恵心は<ruby><rb>乞食</rb><rt>こつじき</rt></ruby>をとどめたと云う噂さえ、大鏡にのこり伝わっているほどである。頭陀行というのは、仏弟子たるものの如法に行うべき十二の行をいうので、何も乞食をするのみが唯一の事ではないが、<ruby><rb>衣</rb><rt>え</rt></ruby>二、<ruby><rb>食</rb><rt>し</rt></ruby>四、<ruby><rb>住</rb><rt>じゅう</rt></ruby>六の法式の<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>の、第三、<ruby><rb>常乞食</rb><rt>じょうこつじき</rt></ruby>の法が自然に十二行の中枢たるの観を為すに至っているので、頭陀行をすると云えば乞食をするということのようになっている。本来を云えば此の優美でも円満でも清浄でも無い娑婆世界を洗いかえそうというのが頭陀行で、そのために仏子となって仏法に帰依し、自分は<ruby><rb>汚</rb><rt>むさ</rt></ruby>い色目も分らぬ<ruby><rb>襤褸</rb><rt>らんる</rt></ruby>を着て甘んじ、慾得ずくからの職業産業から得るのでない食物を食って足れりとし、他を排しおのれを護る住宅でもないところに身を安んじ、そして一念ただ清涼無熱悩の菩提に帰向し<ruby><rb>了</rb><rt>おわ</rt></ruby>らんとするのが頭陀行である。其の頭陀行の<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>の常乞食は、一には因縁<ruby><rb>所生</rb><rt>しょしょう</rt></ruby>の吾が身を解脱に至らしむるまでの経程を為すのである、二には我に食を施す者をして仏宝法宝僧宝の三宝に帰依せしむ、三には我に食を施すものをして悲心を生ぜしむ、四には我に我心無し、仏の教行に順ずるなり、五には満ち易く養い易く、安易の法なり、六には諸悪の根幹たる<ruby><rb>憍慢</rb><rt>きょうまん</rt></ruby>を破る、七には最卑下の法を行ずるに因りて最頂上相の感得を致す、八には他の善根を修する者の<ruby><rb>倣</rb><rt>なら</rt></ruby>うことを生ず、九には男女大小の<ruby><rb>諸</rb><rt>もろもろ</rt></ruby>の縁事を離る、十には次第に<ruby><rb>乞食</rb><rt>こつじき</rt></ruby>するが故に、衆生の<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>に於て平等<ruby><rb>無差別</rb><rt>むしゃべつ</rt></ruby>の心を生ず。これであるから余りに<ruby><rb>鄭重</rb><rt>ていちょう</rt></ruby>な供養を提出された時に、恵心が其の<ruby><rb>燦爛</rb><rt>さんらん</rt></ruby>たる膳部に対して「かくては余りに見ぐるし」と云ったのも無理はないことで、ぴかぴかきらきらしたものを「見ぐるしい」としたのは<ruby><rb>流石</rb><rt>さすが</rt></ruby>に恵心であった。其の恵心の弟子同様の寂照である。これは三河守だった昨日に引かえて、今日は見るかげも無い青道心である。<ruby><rb>次第</rb><rt>しだい</rt></ruby>乞食は之を苦しいとはせぬであったろうが、かなり苦しいことでもあったろう。次第乞食とは、良い家も貧しい家も<ruby><rb>撰</rb><rt>えら</rt></ruby>まず、鉢を持して次第に其門に立って<ruby><rb>食</rb><rt>し</rt></ruby>を乞うのである。或日の事寂照は師の恵心の如く<ruby><rb>頭陀行</rb><rt>ずだぎょう</rt></ruby>をした。<ruby><rb>一鉢三衣</rb><rt>いっぱつさんえ</rt></ruby>、安詳に家々の前に立って食を乞うたのである。すると一軒の家に<ruby><rb>喚</rb><rt>よ</rt></ruby>び入れられた。通って見ると、食物を体よくして「庭に畳を敷きて、供養しようとしたのである。何の心も無く其畳に居て、唱え言をして食わんとした。其時そこに向いて<ruby><rb>下</rb><rt>おろ</rt></ruby>してあった<ruby><rb>簾</rb><rt>すだれ</rt></ruby>を<ruby><rb>捲上</rb><rt>まきあ</rt></ruby>げたので、そなたを見ると、好き装束した女の姿が次第にあらわれた。簾は十分に上げられた。誰に言うたのか、女は「あの<ruby><rb>乞丐</rb><rt>かたい</rt></ruby>、<ruby><rb>如是</rb><rt>かく</rt></ruby>てあらんを見んと思いしぞ」と言った。寂照は女を見た。女も寂照を見た。眼と眼とは確かに見合せた。女は<ruby><rb>正</rb><rt>まさ</rt></ruby>しく寂照が三河守定基であった時に<ruby><rb>逐</rb><rt>おい</rt></ruby><ruby><rb>出</rb><rt>いだ</rt></ruby>した其女であった。女の眼の中には無量なものがあった。<ruby><rb>怨恨</rb><rt>えんこん</rt></ruby>の毒気のようなものもあった、勝利を<ruby><rb>矜</rb><rt>ほこ</rt></ruby>るようなものもあった、冷やかなものもあった、甚だしい<ruby><rb>軽蔑</rb><rt>けいべつ</rt></ruby>もあった、軽蔑し<ruby><rb>罵倒</rb><rt>ばとう</rt></ruby>し去っての哀れみのようなものもあった、<ruby><rb>猶</rb><rt>なお</rt></ruby><ruby><rb>自己</rb><rt>おの</rt></ruby>が不幸に<ruby><rb>沈淪</rb><rt>ちんりん</rt></ruby>している苦痛を味わいかえして居るが如きものもあった、又其の反対に<ruby><rb>飽</rb><rt>あく</rt></ruby>までも他を<ruby><rb>嘲</rb><rt>あざけ</rt></ruby>りさいなむような、氷ででも出来た利刃の如きものもあって、それは定基の身体のあらゆるところを深く深く<ruby><rb>剜</rb><rt>えぐ</rt></ruby>りまわろうとした。割り口説いて云えば<ruby><rb>斯様</rb><rt>こう</rt></ruby>でもあるが、何もそれが一ツ一ツに存在しているのではなく、皆が皆一緒になって、青黄赤白、何の光りともない毒火の<ruby><rb>燄</rb><rt>ほのお</rt></ruby>となって<ruby><rb>迸</rb><rt>ほとばし</rt></ruby>り出て<ruby><rb>掩</rb><rt>おお</rt></ruby>いかかるのであった。そして女は極めて緩く鈍く薄笑いに笑った。それは笑いというべきものであったか、何であったか分らぬ、如何なる画にも彫刻にも無い、<ruby><rb>妖異</rb><rt>ようい</rt></ruby>で<ruby><rb>凄惨</rb><rt>せいさん</rt></ruby>なものであった。

定基が定基であったなら、一石が池水に投ぜられたのであったから、<ruby><rb>波瀾淪漪</rb><rt>はらんりんい</rt></ruby>はここに生ぜずには済まなかったろう。然し寂照は寂照であった、鳥影が池上に<ruby><rb>墜</rb><rt>お</rt></ruby>ちたのみであったから、<ruby><rb>白蘋緑蒲</rb><rt>はくひんりょくほ</rt></ruby>、かつて動かずであった。今は<ruby><rb>六波羅密</rb><rt>ろくはらみつ</rt></ruby>の薄い<ruby><rb>衣</rb><rt>ころも</rt></ruby>に身を護られて、風の射る<ruby><rb>箭</rb><rt>や</rt></ruby>もとおらざる<ruby><rb>境界</rb><rt>きょうがい</rt></ruby>に在るものであった。<ruby><rb>忍辱</rb><rt>にんじょく</rt></ruby><ruby><rb>波羅密</rb><rt>はらみつ</rt></ruby>、禅波羅密、<ruby><rb>般若</rb><rt>はんにゃ</rt></ruby>波羅密の自然の動きは、<ruby><rb>逼</rb><rt>せま</rt></ruby>り来る<ruby><rb>魔燄</rb><rt>まえん</rt></ruby>をも毒箭をも容易に遮断し消融せしめた。寂照はただ穏やかに合掌した。諸仏<ruby><rb>菩薩</rb><rt>ぼさつ</rt></ruby>の虚空に充満して居られて此方を<ruby><rb>瞰</rb><rt>み</rt></ruby>ていらるるに対し、奉恩謝徳の念のみの湧き上るに任せた。我に吹掛ける火燄の大熱は、それだけ彼女の身を去って彼女に清涼を与えるわけになった。我に射掛くる<ruby><rb>利箭</rb><rt>りせん</rt></ruby>の毒は、それだけ彼女の懐を出でて彼女の<ruby><rb>胷裏</rb><rt>きょうり</rt></ruby>を<ruby><rb>清浄</rb><rt>しょうじょう</rt></ruby>にすることになった。我を切り、突き、剜らんとする一切<ruby><rb>兇悪</rb><rt>きょうあく</rt></ruby>の<ruby><rb>刀槍剣戟</rb><rt>とうそうけんげき</rt></ruby>の類は、我に触れんとするに当って、其の刃頭が皆<ruby><rb>妙蓮華</rb><rt>みょうれんげ</rt></ruby>の<ruby><rb>莟</rb><rt>つぼみ</rt></ruby>となって地に落つるを観た。<ruby><rb>施行</rb><rt>せぎょう</rt></ruby>の<ruby><rb>食</rb><rt>し</rt></ruby>は彼の我に与うるによって彼の<ruby><rb>檀波羅密</rb><rt>だんはらみつ</rt></ruby>を<ruby><rb>成</rb><rt>じょう</rt></ruby>じ、我の彼に受けて<ruby><rb>酬</rb><rt>むく</rt></ruby>いるに法を与うるを以てするの故に、我の檀波羅密を成じ、速疾得果の妙用を現ずるを観た。寂照は「あな、とうと」と云いて<ruby><rb>端然</rb><rt>たんねん</rt></ruby>と<ruby><rb>食</rb><rt>し</rt></ruby>を<ruby><rb>摂</rb><rt>と</rt></ruby>り、自他平等<ruby><rb>利益</rb><rt>りやく</rt></ruby>の<ruby><rb>讃偈</rb><rt>さんげ</rt></ruby>を唱えて、しずかに其処を去った。戒波羅密や精進波羅密、寂照は<ruby><rb>愈々</rb><rt>いよいよ</rt></ruby>道に励むのみであった。彼女は其後<ruby><rb>何様</rb><rt>どう</rt></ruby>なったかは伝わって居らぬが、恐らくは当時の有識階級の女子であったから、多分は仏縁に引かれて<ruby><rb>化度</rb><rt>けど</rt></ruby>されたでもあったろう。

寂照は寂心恵心の間に挟まり、其他の<ruby><rb>碩徳</rb><rt>せきとく</rt></ruby>にも参学して、学徳日に進んで衆僧に仰がれ依らるるに至り、<ruby><rb>幾干歳</rb><rt>いくばくさい</rt></ruby>も経ないで<ruby><rb>僧都</rb><rt>そうず</rt></ruby>になった。僧都だの<ruby><rb>僧正</rb><rt>そうじょう</rt></ruby>だのというのは、俗界から教界を整理する便宜上から出来たもので、本来から云えば、名誉でもなく、有るべき筈もないものだが、寂照が僧都にされたことは、赤染集に見えている。寂心は僧官などは受けなかったようだが、一世の<ruby><rb>崇仰</rb><rt>すうぎょう</rt></ruby>を得たことは勿論であって、後には<ruby><rb>天</rb><rt>あめ</rt></ruby>が下を殆どおのが心のままにしたように<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>われ、おのれも寛仁の二年の冬には、自己満足の喜びの余りに「此世をば<ruby><rb>吾</rb><rt>わ</rt></ruby>が世とぞおもふ<ruby><rb>望月</rb><rt>もちづき</rt></ruby>のかけたることも無しとおもへば」と、実にケチな歌を詠んで好い気になった藤原道長も、寂心を授戒の師と頼んだのであった。何も道長が寂心に三帰五戒を授かったからとて寂心の為に重きを成すのでは無いが、あの果報いみじくて憍慢至極であった御堂関白が、此の<ruby><rb>瘠</rb><rt>や</rt></ruby>せぼけたおとなしい寂心を授戒の師とし、自分は<ruby><rb>白衣</rb><rt>びゃくえ</rt></ruby>の弟子として、しおらしく其前に坐ったかと思うと、おかしいような気がする。寂心は長保四年の十月に眠るが如く此世を去ったが、其の四十九日に当って、道長が布施を為し、其<ruby><rb>諷誦文</rb><rt>ふうじゅもん</rt></ruby>を大江匡衡が作っている。そして其請状は寂照が記している。それは今に存しているが、匡衡の文の日付は長保四年十二月九日とある。然るに続往生伝には、寂心の往生は長徳三年とあって、五年ほどの差がある。続往生伝は匡衡の孫の<ruby><rb>成衡</rb><rt>しげひら</rt></ruby>の子の匡房の<ruby><rb>撰</rb><rt>せん</rt></ruby>だから、これも信ずべきであるが、何様して<ruby><rb>然様</rb><rt>そう</rt></ruby>いう相違が生じたのであろう。世外の老人の死だから、五年やそこらは何れが真実でも差支は無いが、想うに書写<ruby><rb>輾転</rb><rt>てんてん</rt></ruby>の間に生じた何れかの誤りなるのみであろう。長徳の方が正しいかも知れぬ。長保四年の冬には寂照が日本に居無かったかと思われるから。

長徳でも長保でもよい、寂心は<ruby><rb>晏然</rb><rt>あんぜん</rt></ruby>として死んだのである。勿論俗界の仕事師ではなかったから、大した事跡は遺さなかった。文筆の業も、在官の時、永観元年の改元の<ruby><rb>詔</rb><rt>みことのり</rt></ruby>、同二年、<ruby><rb>封事</rb><rt>ふうじ</rt></ruby>を<ruby><rb>上</rb><rt>たてまつ</rt></ruby>らしめらるるの詔を草したのを<ruby><rb>首</rb><rt>はじめ</rt></ruby>として、二十篇ばかりの文、往生極楽記などを遺したに過ぎないで終ったが、当時の人の心界に対して投げた此人の影は、定基を<ruby><rb>点化</rb><rt>てんけ</rt></ruby>した一事に照しても明らかであった。そこで此人の往生に就ても面白い云伝えが残っている。普通の信心深い仏徒や居士の終りには、<ruby><rb>聖衆来迎</rb><rt>しょうじゅらいごう</rt></ruby>、紫雲音楽めでたく大往生というのが常である。それで西方<ruby><rb>兜率天</rb><rt>とそつてん</rt></ruby>か何処か知らぬが遠いところへ移転したきりというのが<ruby><rb>定</rb><rt>き</rt></ruby>まりであるが、寂心の事を記したのは、それで終っていない。東山如意輪寺で型の如くに<ruby><rb>逝</rb><rt>ゆ</rt></ruby>いた後、或人が夢みた。寂心上人は衆生を利益せんがために、浄土より帰りて、更に<ruby><rb>娑婆</rb><rt>しゃば</rt></ruby>に<ruby><rb>在</rb><rt>いま</rt></ruby>すということであった。かかることが歴然と寂心上人伝に記されているのである。わざわざ誰とも知れぬ人の何時の夢とも知れぬ夢などを死後の消息として書いてあるのは<ruby><rb>希有</rb><rt>けう</rt></ruby>なことである。しかし其夢が、夢中に寂心上人が現われて自分で然様語ったのを聞いたのだか、其人が然様した上人の生れかわり、又は仙人の影法師かのようなものに遇ったというのだか、何だか分らずに<ruby><rb>朦朧</rb><rt>もうろう</rt></ruby>と書いてある。一体これは何様いうことなのであろうか。何故然様いう夢を見たのであろうか。むかし<ruby><rb>呂洞賓</rb><rt>りょどうひん</rt></ruby>という仙人は、仙道成就しても天に昇ったきりにならずに、何時迄も此世に<ruby><rb>化現遊戯</rb><rt>けげんゆげ</rt></ruby>して<ruby><rb>塵界</rb><rt>じんかい</rt></ruby>の<ruby><rb>男女</rb><rt>なんにょ</rt></ruby>貴賎を点化したということで、唐から宋へかけて処処方方に詩歌だの事跡だのを遺して居り、宋の人の間には其信仰が普遍で、既に<ruby><rb>蘇東坡</rb><rt>そとうば</rt></ruby>の文にさえ用いられているし、今でも法を<ruby><rb>修</rb><rt>しゅ</rt></ruby>して喚べば出て来ると思われている。我邦でも弘法大師は今に存在して、遍路の行者とまでも云えない世の常の大師まいりをする位の者の間にも時によりて現われて、抜苦与楽転迷開悟の教を垂れて下さるという俗間信仰がある。いや<ruby><rb>其様</rb><rt>そん</rt></ruby>なことを云うまでもなく、<ruby><rb>釈迦</rb><rt>しゃか</rt></ruby>にさえも娑婆<ruby><rb>往来</rb><rt>おうらい</rt></ruby><ruby><rb>八千返</rb><rt>はっせんぺん</rt></ruby>の<ruby><rb>談</rb><rt>はなし</rt></ruby>があって、<ruby><rb>梵網経</rb><rt>ぼんもうきょう</rt></ruby>だか何だったかに明示されている。本来を云えば<ruby><rb>弥陀</rb><rt>みだ</rt></ruby>なり<ruby><rb>弥勒</rb><rt>みろく</rt></ruby>なり<ruby><rb>釈迦</rb><rt>しゃか</rt></ruby>なりを頼んで、何かムニャムニャを唱えて、そして自分一人極楽世界へ転居して涼しい顔をしようと云うのは、随分虫のいいことで、世の<ruby><rb>諺</rb><rt>ことわざ</rt></ruby>に<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>う「<ruby><rb>雪隠</rb><rt>せっちん</rt></ruby>で<ruby><rb>饅頭</rb><rt>まんじゅう</rt></ruby>を食う」<ruby><rb>料簡</rb><rt>りょうけん</rt></ruby>、汚い、けちなことである。証得妙果の<ruby><rb>境界</rb><rt>きょうがい</rt></ruby>に入り得たら、今度は自分が其の善いものを有縁無縁の他人にも施し与えようとすべきが自然の事である。そこで<ruby><rb>菩薩</rb><rt>ぼさつ</rt></ruby>となり仏となったものは<ruby><rb>化他</rb><rt>けた</rt></ruby>の業にいそしむことになるのが自然の法で、それが即ち菩薩なり仏なりなのである。弥陀の四十八願、観音の三十三身、何様な苦労をしても、何様なものに身を為しても、一切世間を善くしたい、救いたい、<ruby><rb>化度</rb><rt>けど</rt></ruby>したいというのが、即ち仏菩薩なので、何も<ruby><rb>蓮花</rb><rt>れんげ</rt></ruby>の上にゆったり坐って百味の<ruby><rb>飲食</rb><rt>おんじき</rt></ruby>に<ruby><rb>啖</rb><rt>くら</rt></ruby>い<ruby><rb>飽</rb><rt>あ</rt></ruby>こうとしているのが仏菩薩でも何でも無い。寂心は若い時から慈悲心牛馬にまで及んだ人である。それが出家入道して、所証日に深く、浄土は隣家を看るよりも近々と合点せられるに至ったのである。<ruby><rb>終</rb><rt>つい</rt></ruby>には此世彼世を一<ruby><rb>跨</rb><rt>また</rt></ruby>ぎの境界に至ったのである。そこで昔はあれほど想い焦れた浄土も<ruby><rb>吾</rb><rt>わ</rt></ruby>が手のものとなったにつけて、浄土へ行きっ切りとなろう気はなく、自然と<ruby><rb>娑婆</rb><rt>しゃば</rt></ruby>へ往来しても化他の業を執ろうという心が湧上ったに疑無く、<ruby><rb>言語</rb><rt>げんぎょ</rt></ruby>の端にもおのずから其意が漏れて、それから或人の夢や世間の噂も出たのであろう。その保胤の時から慈悲牛馬に及んだ寂心が、自己の証得<ruby><rb>愈々</rb><rt>いよいよ</rt></ruby>深きに至って、何で世人の衆苦充満せる<ruby><rb>此界</rb><rt>しかい</rt></ruby>に<ruby><rb>喘</rb><rt>あえ</rt></ruby>ぎ悩んでいるのを<ruby><rb>傍眼</rb><rt>よそめ</rt></ruby>にのみ見過し得ようや。まして保胤であった頃にも、其明眼からは既に認め得て其文章に漏らしている如く、世間は<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>く苦しい世間になって、一面には文化の華の咲乱れ、<ruby><rb>奢侈</rb><rt>しゃし</rt></ruby>の風の蒸暑くなってくる、他の一面には人民の生活は行詰まり、<ruby><rb>永祚</rb><rt>えいそ</rt></ruby>の暴風、<ruby><rb>正暦</rb><rt>しょうりゃく</rt></ruby>の疫病、諸国の盗賊の起る如き、優しい寂心の心からは如何に哀しむべき世間に見えたことであろう。寂心は世を哀み、世は寂心の如き人を懐かしんでいた。寂心娑婆帰来の<ruby><rb>談</rb><rt>はなし</rt></ruby>の伝わった<ruby><rb>所以</rb><rt>ゆえん</rt></ruby>でもあろう。勿論寂心は<ruby><rb>辟支仏</rb><rt>へきしぶつ</rt></ruby>では無かったのである。

寂心の弟子であったが、恵心に就いても学んだであろう寂照は、其故に恵心の弟子とも伝えられている。恵心は台宗問目二十七条を<ruby><rb>撰</rb><rt>せん</rt></ruby>して、宋の<ruby><rb>南湖</rb><rt>なんこ</rt></ruby>の<ruby><rb>知礼師</rb><rt>ちらいし</rt></ruby>に就いて之を<ruby><rb>質</rb><rt>ただ</rt></ruby>そうとした。知礼は当時<ruby><rb>学解</rb><rt>がくげ</rt></ruby><ruby><rb>深厚</rb><rt>じんこう</rt></ruby>を以て称されたものであったろう。此事は今詳しく語り得ぬが、恵心ほどの人が、何も事新しく物を問わないでも<ruby><rb>宜</rb><rt>よ</rt></ruby>かりそうに思われる。然し恵心は如何にも謙虚の徳と自信の<ruby><rb>操</rb><rt>そう</rt></ruby>との相対的にあった人で、<ruby><rb>加之</rb><rt>しかも</rt></ruby><ruby><rb>毫毛</rb><rt>ごうまつ</rt></ruby>の末までも物事を<ruby><rb>曖昧</rb><rt>あいまい</rt></ruby>にして置くことの嫌いなような性格だったと概解しても差支無いかと考えられる。伝説には此人一乗要訣を撰した時には、<ruby><rb>馬鳴</rb><rt>めみょう</rt></ruby><ruby><rb>菩薩</rb><rt>ぼさつ</rt></ruby><ruby><rb>竜樹</rb><rt>りゅうじゅ</rt></ruby>菩薩が現われて摩頂<ruby><rb>讃歎</rb><rt>さんたん</rt></ruby>し、伝教大師は合掌して、我山の教法は今汝に属すと告げられたと夢みたということである。夢とはいえ、馬鳴竜樹にも会ったのである。又観世音菩薩、<ruby><rb>毘沙門天王</rb><rt>びしゃもんてんおう</rt></ruby>にも夢に会ったとある。夢に会ったということと、<ruby><rb>現</rb><rt>うつつ</rt></ruby>に会ったということとは、<ruby><rb>然程</rb><rt>さほど</rt></ruby>違うことでは無い。黒犬に<ruby><rb>腿</rb><rt>もも</rt></ruby>を<ruby><rb>咬</rb><rt>か</rt></ruby>まれて驚いたなどという下らない夢を見る人は、<ruby><rb>窹</rb><rt>さ</rt></ruby>めていても、<ruby><rb>蚤</rb><rt>のみ</rt></ruby>に<ruby><rb>猪</rb><rt>い</rt></ruby>の目を<ruby><rb>螫</rb><rt>さ</rt></ruby>されて騒ぐくらいの下らない人なのである。竜樹や観音に応対した夢を見たなどとは、随分<ruby><rb>洒落</rb><rt>しゃれ</rt></ruby>ている、洒落た日常を<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>っていた人で無くては見られない。兎に角これだけの恵心が問目二十七条を撰した。これを支那の知礼法師に示して其答えを得ようというのである。いや、むしろ問を以て教となそうというのだったかも知れない。そこで此を持たせてやるのに、小僧さんの御使では仕方が無い。丁度寂照がかねてから渡宋して霊場参拝しようという念を抱いて居たので、これを<ruby><rb>托</rb><rt>たく</rt></ruby>すことにした。其頃大陸へ渡るということは、今日南氷洋へ出掛けて鯨を取るというよりも大騒ぎなことであった。然し恵心に取っても寂照に取っても、双方共都合のよいことであったから寂照は母の意を問うた上で出ることにした。<ruby><rb>滄海</rb><rt>そうかい</rt></ruby>波遥なる<ruby><rb>彼邦</rb><rt>かのくに</rt></ruby>に吾が児を放ち遣ることは、明日をも知らぬ老いた母に取っては気の楽なことでは無かった。然し母も<ruby><rb>流石</rb><rt>さすが</rt></ruby>に寂照の母であった。恩愛の情は母子より深きは無い、今そなたと別れんことは<ruby><rb>実</rb><rt>まこと</rt></ruby>に悲しけれど、<ruby><rb>汝</rb><rt>そなた</rt></ruby>にして<ruby><rb>法</rb><rt>のり</rt></ruby>のため道のために渡宋せんことは<ruby><rb>吾</rb><rt>われ</rt></ruby>も亦随喜すべきである、我いかで汝の志を奪うべきや、と涙ながらに許してくれた。で、寂照は表を<ruby><rb>上</rb><rt>たてまつ</rt></ruby>りて朝許を受け、長保四年愈々出発渡宋することになった。

寂照には成基尊基の二弟があって、成基は此頃既に近江守にもなっていたであろうから、老母を後に出て行く寂照には、せめてもの心強さであったろう。然し寂照が老母を後に、老母が寂照を引留めずに、慈母孝子互に相別るるということは甚だしく当時の社会を感動せしめた。しかも<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>は宮廷より<ruby><rb>下</rb><rt>しも</rt></ruby>は庶民までが<ruby><rb>尊崇</rb><rt>そんそう</rt></ruby>している恵心院<ruby><rb>僧都</rb><rt>そうず</rt></ruby>の弟子であり、又僧都の使命を帯びているということもあり、彼の人柄も優にやさしかった大内記の<ruby><rb>聖</rb><rt>ひじり</rt></ruby>寂心の弟子であるということもあり、三河守定基の出家因縁の前後の談の伝わって居たためもあり、老若男女、皆此噂を仕合った。で、寂照が<ruby><rb>願文</rb><rt>がんもん</rt></ruby>を作って、母の為めに<ruby><rb>法華</rb><rt>ほっけ</rt></ruby><ruby><rb>八講</rb><rt>はっこう</rt></ruby>を山崎の宝寺に<ruby><rb>修</rb><rt>しゅ</rt></ruby>し、愈々本朝を辞せんとした時は、法輪<ruby><rb>壮</rb><rt>さか</rt></ruby>んに転じて、情界<ruby><rb>大</rb><rt>おおい</rt></ruby>に風立ち、随喜<ruby><rb>結縁</rb><rt>けちえん</rt></ruby>する<ruby><rb>群衆</rb><rt>ぐんじゅ</rt></ruby>数を知らず、車馬<ruby><rb>填咽</rb><rt>てんえつ</rt></ruby>して四面<ruby><rb>堵</rb><rt>と</rt></ruby>を成し、講師の寂照が如法に文を<ruby><rb>誦</rb><rt>じゅ</rt></ruby>し経を読む頃には、感動に堪えかねて<ruby><rb>涕泣</rb><rt>ていきゅう</rt></ruby>せざる者無く、此日出家する者も甚だ多く、婦女に至っては車より髪を切って講師に与うる者も出来たということである。席には無論に匡衡も参していたろう、赤染右衛門も居たろう。ただ彼の去られた妻が<ruby><rb>猶</rb><rt>なお</rt></ruby>生きていて此処の参集に来合せたか否やは、知る由も無い。

寂照が去った其翌年の六月八日に、寂心が止観を<ruby><rb>承</rb><rt>う</rt></ruby>けた彼の増賀は死んだ。時に年八十七だったという。死に近づいた頃、弟子共に歌をよませ、自分も歌をよんだが、其歌は随分増賀上人らしい歌である。「みづはさす<ruby><rb>八十路</rb><rt>やそじ</rt></ruby>あまりの<ruby><rb>老</rb><rt>おい</rt></ruby>の浪くらげの<ruby><rb>骨</rb><rt>ほね</rt></ruby>にあふぞうれしき」というのであった。甥の<ruby><rb>春久</rb><rt>しゅんきゅう</rt></ruby>上人という竜門寺に居たのが、介抱に来ていた。増賀は<ruby><rb>侍僧</rb><rt>じそう</rt></ruby>に、碁盤を<ruby><rb>持</rb><rt>も</rt></ruby>て来いと命じた。平生、碁なぞ打ったことの無い人であるので、侍僧はあやしく思ったが、これは仏像でも身近く据えようとするのかと思って取寄せて、前に置くと、我を<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>き起せ、という。侍僧が掻き起すと、碁一局打とう、と春久に挑んだ。合点のゆかぬことだとは思ったが、怖ろしい人の云うことだから、言葉に従って春久は相手になると、十目ばかり互に石を下した時、よしよしもはや打つまい、と云って押し<ruby><rb>壊</rb><rt>やぶ</rt></ruby>ってしまった。春久は恐る恐る、何とて碁をば打給いし、と問うと、何にもなし、小法師なりし時、人の碁打つを見しが、今念仏唱えながら、心に其が思いうかびしかば、碁を打たばやと思いて打ったるまでぞ、と何事も無き気配だった。又、<ruby><rb>泥障</rb><rt>あおり</rt></ruby>一<ruby><rb>懸</rb><rt>かけ</rt></ruby><ruby><rb>持</rb><rt>もて</rt></ruby><ruby><rb>来</rb><rt>きた</rt></ruby>れ、という。馬の泥障などは、臨終近き人に何の要あるべきものでも無く、寺院の物でもないが、とにかく取寄せて持来ると、身を<ruby><rb>掻抱</rb><rt>かいいだ</rt></ruby>かせて起上り、それを結びて吾が<ruby><rb>頸</rb><rt>くび</rt></ruby>に懸けよ、という。是非なく言葉の如くにすると、増賀は強いておのが左右の<ruby><rb>肱</rb><rt>ひじ</rt></ruby>を指延べて、それを身の翼のようになし、古泥障を<ruby><rb>纏</rb><rt>まと</rt></ruby>いてぞ舞う、と云って二三度ふたふたとさせて、これ取去れ、と云った。取去って後、春久は、これは何したまえる、と恐る恐る問うと、若かりし頃、隣の房に小法師ばらの多く有りて笑い<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>れるを覗きて見しに、一人の小法師、泥障を頸に懸けて、<ruby><rb>胡蝶</rb><rt>こちょう</rt></ruby>胡蝶とぞ人は云えども古泥障を頸にかけてぞ舞うと歌いて舞いしを、おかしと思うたが、年頃は忘れたに、今日思い出られたれば、それ学びて見たまで、とケロリとしていた。九十に近い老僧が<ruby><rb>瘠</rb><rt>や</rt></ruby>せ<ruby><rb>枯</rb><rt>から</rt></ruby>びた<ruby><rb>病躯</rb><rt>びょうく</rt></ruby>に古泥障を懸けて翼として胡蝶の舞を舞うたのであった。死に<ruby><rb>瀕</rb><rt>ひん</rt></ruby>したおぼえのある人は誰も語ることだが、<ruby><rb>将</rb><rt>まさ</rt></ruby>に死せんとする時は幼き折の<ruby><rb>瑣事</rb><rt>さじ</rt></ruby>が鮮やかに心頭に<ruby><rb>蘇</rb><rt>よみが</rt></ruby>えるものだという。晴れた<ruby><rb>天</rb><rt>そら</rt></ruby>の日の西山に没せんとするや、反って東の山の<ruby><rb>山膚</rb><rt>やまはだ</rt></ruby>までがハッキリと見えるものだ。増賀上人の遥に遠い東の山には仔細らしい碁盤や<ruby><rb>滑稽</rb><rt>こっけい</rt></ruby>な<ruby><rb>胡蝶</rb><rt>こちょう</rt></ruby>舞、そんな無邪気なものが<ruby><rb>判然</rb><rt>はっきり</rt></ruby>と見えたのであろう。然し<ruby><rb>其様</rb><rt>そん</rt></ruby>なことを見ながらに終ったのではない、最期の時は人を去らせて、室内<ruby><rb>廓然</rb><rt>かくねん</rt></ruby>、縄床に居て口に<ruby><rb>法花経</rb><rt>ほけきょう</rt></ruby>を<ruby><rb>誦</rb><rt>じゅ</rt></ruby>し、手に金剛の印を結んで、<ruby><rb>端然</rb><rt>たんねん</rt></ruby>として入滅したということである。<ruby><rb>布袋</rb><rt>ほてい</rt></ruby>や寒山の類を散聖というが、増賀も平安期の散聖とも云うべきか。いや、其様な<ruby><rb>評頌</rb><rt>ひょうしょう</rt></ruby>などは加えぬでもよい。

寂照は宋に入って、南湖の知礼に遇い、恵心の台宗問目二十七条を呈して、其答を求めた。知礼は問書を得て一閲して嘆賞し、東方に<ruby><rb>是</rb><rt>かく</rt></ruby>の如き<ruby><rb>深解</rb><rt>じんげ</rt></ruby>の人あるか、と感じた。そこで答釈を作ることになった。これより先に永観元年、東大寺の僧<ruby><rb>奝然</rb><rt>ちょうねん</rt></ruby>、<ruby><rb>入宋</rb><rt>にっそう</rt></ruby>渡天の<ruby><rb>願</rb><rt>がん</rt></ruby>を立てて<ruby><rb>彼地</rb><rt>かのち</rt></ruby>へ到った。其前年即ち天元五年七月十三日、奝然は母の為に<ruby><rb>修善</rb><rt>しゅぜん</rt></ruby>の<ruby><rb>大会</rb><rt>だいえ</rt></ruby>を催した。母は六十にして既に老いたれど、身は万里を超えて遠く行かんとするので、再会の<ruby><rb>期</rb><rt>ご</rt></ruby>し難きをおもい、<ruby><rb>逆修</rb><rt>ぎゃくしゅ</rt></ruby>の植善を為さんとするのであった。丁度慶滋保胤が未だ俗を脱せずに池亭を作り設けた年であったが、保胤は奝然の為に筆を<ruby><rb>揮</rb><rt>ふる</rt></ruby>って其願文を草したのであった。中々の長文で、<ruby><rb>灑々</rb><rt>さいさい</rt></ruby>数千言、情を尽し理を尽し、当時の社会を動かすには十分のものであった。それから又奝然上人の唐に赴くを<ruby><rb>餞</rb><rt>せん</rt></ruby>して賦して贈る人々の詩の序をも保胤が<ruby><rb>撰</rb><rt>せん</rt></ruby>した。今や其寂心は既に亡くなっているが、不思議因縁で寂心の弟子寂照が独り唐土に渡ったのである。奝然は印度へ行くのは止めて、<ruby><rb>大蔵</rb><rt>だいぞう</rt></ruby>五千四十八巻及び十六羅漢像、今の嵯峨<ruby><rb>清涼院</rb><rt>しょうりょういん</rt></ruby>仏像等を得て、寛和元年に帰朝したのであった。それより<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>十六七年にして寂照は宋に入ったのであるが、寂照は人品学識すべて奝然には<ruby><rb>勝</rb><rt>まさ</rt></ruby>って見えたので、<ruby><rb>彼土</rb><rt>かのど</rt></ruby>の人々も<ruby><rb>流石</rb><rt>さすが</rt></ruby>に神州の高徳と<ruby><rb>崇敬</rb><rt>そうけい</rt></ruby>したのであった。で、知礼は寂照を上客として礼遇し、天子は寂照を延見せらるるに至った。宋主が寂照を見たまうに及びて、我が日本の事を問いたもうたので、寂照は紙筆を請いて、我が神聖なる国体、優美なる民俗を答え<ruby><rb>叙</rb><rt>の</rt></ruby>べた。文章は宿構の如くに何の滞るところも無く、筆札は<ruby><rb>遒麗</rb><rt>しゅうれい</rt></ruby>にして二王の妙をあらわした。それは其筈で、何もこしらえ事をして飾り立てて我国のことを記したのでもなく、詞藻はもとより大江の家筋を受けていた定基法師であり、又<ruby><rb>翰墨</rb><rt>かんぼく</rt></ruby>の書は<ruby><rb>空海</rb><rt>くうかい</rt></ruby><ruby><rb>道風</rb><rt>とうふう</rt></ruby>を去ること遠からず、<ruby><rb>佐理</rb><rt>さり</rt></ruby>を四五年前に失ったばかりの時代の人であったのである。そこで宋主（真宗）は日本の国体に嘆美<ruby><rb>措</rb><rt>お</rt></ruby>く<ruby><rb>能</rb><rt>あた</rt></ruby>わず、又寂照の風神才能に傾倒の情を発して、<ruby><rb>大</rb><rt>おおい</rt></ruby>にこれを<ruby><rb>悦</rb><rt>よろこ</rt></ruby>び、<ruby><rb>紫衣束帛</rb><rt>しえそくはく</rt></ruby>を賜わり、<ruby><rb>上寺</rb><rt>じょうじ</rt></ruby>にとどめ置かせたまいて号を円通大師と賜わった。前世因縁値遇だか何だかは知らぬが、此頃寂照は<ruby><rb>丁謂</rb><rt>ていい</rt></ruby>と相知るに至った。

丁謂は恐しいような、又<ruby><rb>然程</rb><rt>さほど</rt></ruby>でも無いような人であるが、とにかく異色ある人だったに違い無く、宋史の伝は之を<ruby><rb>貶</rb><rt>へん</rt></ruby>するに過ぎている嫌がある。道仏の教が世に出てから、道仏に<ruby><rb>倚</rb><rt>よ</rt></ruby>るの人は、歴史には大抵善正でない人にされていると解するのが当る。丁謂が寂照と知ったのは年<ruby><rb>猶</rb><rt>なお</rt></ruby>若き時であり、後に<ruby><rb>貶所</rb><rt>へんしょ</rt></ruby>に在りて専ら<ruby><rb>浮屠</rb><rt>ふと</rt></ruby>因果の説を事としたと史にはある。さすれば謂は早くより因果の説を信じていたればこそ、後年<ruby><rb>貶謫</rb><rt>へんたく</rt></ruby>されるに至って<ruby><rb>愈々</rb><rt>いよいよ</rt></ruby>深く之を信じたので、或は早く寂照に<ruby><rb>点化</rb><rt>てんけ</rt></ruby>されたのかも知れない。<ruby><rb>楊億</rb><rt>ようおく</rt></ruby>の<ruby><rb>談苑</rb><rt>だんえん</rt></ruby>によれば、丁謂が寂照を供養したとある。何時から何時まで給助したのか知らぬが、有力な<ruby><rb>檀那</rb><rt>だんな</rt></ruby>が附かなくては、寂照も長く他邦には居れまいから、其事は実際だったに違無い。

丁謂は蘇州長州の人、<ruby><rb>少</rb><rt>わか</rt></ruby>い時<ruby><rb>孫何</rb><rt>そんか</rt></ruby>と同じく文を<ruby><rb>袖</rb><rt>そで</rt></ruby>にして<ruby><rb>王禹偁</rb><rt>おううしょう</rt></ruby>に謁したら、王は其文を見て大に驚き、唐の<ruby><rb>韓愈</rb><rt>かんゆ</rt></ruby>、柳宗元の後三百年にして始めて此作あり、と褒めたという。当時孫・丁と称されたということだが、孫、丁の名は少し後に出た欧陽修・王安石・三蘇の名に<ruby><rb>掩</rb><rt>おお</rt></ruby>われて、今は知る者も少い。淳化三年進士及第して官に任じて、其政事の才により功を立てて累進して<ruby><rb>丞相</rb><rt>じょうしょう</rt></ruby>に至り、真宗の信頼を得、乾興元年には晋国公に<ruby><rb>封</rb><rt>ほう</rt></ruby>ぜらるるに至った。蘇州節度使だった時、真宗の賜わった詩に、

<ruby><rb>践歴</rb><rt>せんれき</rt></ruby>　功皆<ruby><rb>著</rb><rt>いちじる</rt></ruby>しく、<ruby><rb>諮詢</rb><rt>しじゆん</rt></ruby>　<ruby><rb>務</rb><rt>つとめ</rt></ruby>必ず<ruby><rb>成</rb><rt>な</rt></ruby>す。

<ruby><rb>懿才</rb><rt>いさい</rt></ruby>　<ruby><rb>曩彦</rb><rt>なうげん</rt></ruby>に<ruby><rb>符</rb><rt>ふ</rt></ruby>し、<ruby><rb>佳器</rb><rt>かき</rt></ruby>　<ruby><rb>時英</rb><rt>じえい</rt></ruby>を<ruby><rb>貫</rb><rt>つらぬ</rt></ruby>く。

よく<ruby><rb>経綸</rb><rt>けいりん</rt></ruby>の業を<ruby><rb>展</rb><rt>の</rt></ruby>べ、<ruby><rb>旋</rb><rt>めぐり</rt></ruby><ruby><rb>陞</rb><rt>のぼ</rt></ruby>る<ruby><rb>輔弼</rb><rt>ほひつ</rt></ruby>の<ruby><rb>栄</rb><rt>えい</rt></ruby>。

<ruby><rb>嘉享</rb><rt>かきやう</rt></ruby>　<ruby><rb>盛遇</rb><rt>せいぐう</rt></ruby>を<ruby><rb>忻</rb><rt>よろこ</rt></ruby>び、<ruby><rb>尽瘁</rb><rt>じんすゐ</rt></ruby><ruby><rb>純誠</rb><rt>じゆんせい</rt></ruby>を<ruby><rb>罄</rb><rt>つく</rt></ruby>す。

の句がある。これでは<ruby><rb>寇準</rb><rt>こうじゅん</rt></ruby>の如き立派な人を政敵にしても、永い間は勝誇った訳である。政治は力を用いるよりも智を用いるを主とし、法制よりも経済を重んじ、会計録というものを撰して<ruby><rb>上</rb><rt>たてまつ</rt></ruby>り、<ruby><rb>賦税</rb><rt>ふぜい</rt></ruby><ruby><rb>戸口</rb><rt>ここう</rt></ruby>の準を為さんことを欲したという。文はもとより、又詩をも善くし、図画、<ruby><rb>奕棋</rb><rt>えきき</rt></ruby>、営造、音律、何にも<ruby><rb>彼</rb><rt>か</rt></ruby>にも通暁して、茶も此人から<ruby><rb>蔡嚢</rb><rt>さいじょう</rt></ruby>へかけて進歩したのであり、<ruby><rb>蹴鞠</rb><rt>しゅうきく</rt></ruby>にまで通じていたか、其詩が温公詩話と詩話総亀とに見えている。真宗崩じて後、其<ruby><rb>后</rb><rt>きさき</rt></ruby>の<ruby><rb>悪</rb><rt>にくし</rt></ruby>みを受け、<ruby><rb>擅</rb><rt>ほしいまま</rt></ruby>に永定陵を改めたるによって罪を<ruby><rb>被</rb><rt>こうむ</rt></ruby>り、且つ<ruby><rb>宦官</rb><rt>かんがん</rt></ruby><ruby><rb>雷允恭</rb><rt>らいいんきょう</rt></ruby>と交通したるを論ぜられ、崖州に<ruby><rb>遠謫</rb><rt>えんたく</rt></ruby>せられ、数年にして道州に<ruby><rb>徙</rb><rt>うつ</rt></ruby>され、致仕して光州に居りて<ruby><rb>卒</rb><rt>しゅつ</rt></ruby>した。つまり政敵にたたき落されて死地に置かれたのである。謂は<ruby><rb>是</rb><rt>かく</rt></ruby>の如きの人なのである。

知礼の答釈は成った。寂照はこれを携えて、本国へと帰るべきことになったのである。然るに<ruby><rb>何様</rb><rt>どう</rt></ruby>いうものだったか、其時は勢威日に盛んであった丁謂は、寂照を<ruby><rb>留</rb><rt>とど</rt></ruby>めんと欲して、<ruby><rb>切</rb><rt>しきり</rt></ruby>に<ruby><rb>姑蘇</rb><rt>こそ</rt></ruby>の山水の美を説き、照の徒弟をして答釈を<ruby><rb>持</rb><rt>もて</rt></ruby><ruby><rb>帰</rb><rt>かえ</rt></ruby>らしめ、照を呉門寺に置いて、優遇至らざるなくした。寂照は既に仏子である。一切の河川が海に入ればただ是れ海なるが如く、一切の氏族が釈門に入れば皆釈氏である。別に東西の分け隔てをして日本に帰らねばならぬという要も無いのであるから、寂照は遂に呉門寺に<ruby><rb>止</rb><rt>とど</rt></ruby>まった。寂照は戒律精至、如何にも立派な高徳であることが人々に認められたから、三呉の道俗<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>く多く帰向して、寂照の<ruby><rb>教化</rb><rt>きょうけ</rt></ruby>は大に行われたと云われている。そして寂照は<ruby><rb>其儘</rb><rt>そのまま</rt></ruby>に呉に在ったこと三十余年、仁宗の景祐元年、我が後一条天皇の長元七年、「雲の上にはるかに楽の音すなり人や聞くらんそら耳かもし」の歌を遺して、<ruby><rb>莞爾</rb><rt>かんじ</rt></ruby>として<ruby><rb>微笑</rb><rt>みしょう</rt></ruby>して終った。

丁謂もこれに先だつこと一年か二年、明道年間に死んだのであるが、寂照が<ruby><rb>平坦</rb><rt>へいたん</rt></ruby>な三十年ばかりの生活をした間に、謂は<ruby><rb>嶮峻</rb><rt>けんしゅん</rt></ruby>な世路を歩んで、上ったり下ったりしたのであった。別に其間に謂と照との<ruby><rb>談</rb><rt>はなし</rt></ruby>はない。謂は謂であり、照は照であったであろう。最初に謂がしきりに照を世話した頃、照は謂に其の<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>っていた黒金の<ruby><rb>水瓶</rb><rt>すいびょう</rt></ruby>に詩を添えて贈った。

<ruby><rb>提携</rb><rt>ていけい</rt></ruby>す<ruby><rb>三五載</rb><rt>さんごさい</rt></ruby>、日に用ゐて<ruby><rb>曾</rb><rt>かつ</rt></ruby>て離れず。

<ruby><rb>暁井</rb><rt>げうせい</rt></ruby>　残月を<ruby><rb>斟</rb><rt>く</rt></ruby>み、<ruby><rb>寒炉</rb><rt>かんろ</rt></ruby>　<ruby><rb>砕澌</rb><rt>さいし</rt></ruby>を<ruby><rb>釈</rb><rt>お</rt></ruby>く。

<ruby><rb>鄱銀</rb><rt>はぎん</rt></ruby>　<ruby><rb>侈</rb><rt>し</rt></ruby>をを<ruby><rb>免</rb><rt>まぬか</rt></ruby>れ難く、<ruby><rb>莱石</rb><rt>らいせき</rt></ruby>　<ruby><rb>虧</rb><rt>き</rt></ruby>を<ruby><rb>成</rb><rt>な</rt></ruby>し易し。

此器　堅く<ruby><rb>還</rb><rt>また</rt></ruby>実なり、<ruby><rb>公</rb><rt>こう</rt></ruby>に<ruby><rb>寄</rb><rt>よ</rt></ruby>す　<ruby><rb>応</rb><rt>まさ</rt></ruby>に知る可きなるべし。

答詩が有ったろうが、丁謂集を有せぬから知らぬ。謂に対しての照の言葉の残っているのはただこれだけである。謂が流された崖州は当時は甚だしい蛮島であった。謂の作、

<ruby><rb>今</rb><rt>いま</rt></ruby>崖州に到る　事<ruby><rb>嗟</rb><rt>なげ</rt></ruby>く可し、<ruby><rb>夢中</rb><rt>むちゅう</rt></ruby>常に<ruby><rb>京華</rb><rt>けいくわ</rt></ruby>に在るが如し。

<ruby><rb>程途</rb><rt>ていと</rt></ruby>何ぞ<ruby><rb>啻</rb><rt>たゞ</rt></ruby>一万里のみならん、戸口<ruby><rb>都</rb><rt>す</rt></ruby>べて無し三百家。

夜は聴く<ruby><rb>猿</rb><rt>ましら</rt></ruby>の<ruby><rb>孤樹</rb><rt>こじゆ</rt></ruby>に<ruby><rb>啼</rb><rt>な</rt></ruby>いて遠きを、<ruby><rb>暁</rb><rt>あかつき</rt></ruby>には<ruby><rb>看</rb><rt>み</rt></ruby>る<ruby><rb>潮</rb><rt>うしほ</rt></ruby>の<ruby><rb>上</rb><rt>のぼ</rt></ruby>って<ruby><rb>瘴煙</rb><rt>しやうえん</rt></ruby>の<ruby><rb>斜</rb><rt>なゝめ</rt></ruby>なるを。

<ruby><rb>吏人</rb><rt>りじん</rt></ruby>は見ず<ruby><rb>中朝</rb><rt>ちゆうてう</rt></ruby>の礼、<ruby><rb>麋鹿</rb><rt>びろく</rt></ruby>　時々　<ruby><rb>県衙</rb><rt>けんが</rt></ruby>に到る。

かかるところへ、死ねがしに流されたのである。然し其処に在ること三年で、内地へ<ruby><rb>還</rb><rt>かえ</rt></ruby>るを得た時、

九万里　<ruby><rb>鵬</rb><rt>ほう</rt></ruby>　重ねて海を出で、一千里　<ruby><rb>鶴</rb><rt>つる</rt></ruby>　再び<ruby><rb>巣</rb><rt>す</rt></ruby>に帰る。

の句をなした。それのみか<ruby><rb>然様</rb><rt>そう</rt></ruby>いう恐ろしいところではあるが、しかし<ruby><rb>沈香</rb><rt>じんこう</rt></ruby>を産するの地に流された因縁で、天香伝一篇を著わして、<ruby><rb>恵</rb><rt>めぐみ</rt></ruby>を後人に<ruby><rb>貽</rb><rt>おく</rt></ruby>った。実に専ら香事を論賛したものは、天香伝が最初であって、そして今に伝わっているのである。かくて香に参した此人の終りは、宋人<ruby><rb>魏泰</rb><rt>ぎたい</rt></ruby>の東軒筆録に記されている。<ruby><rb>曰</rb><rt>いわ</rt></ruby>く、丁晋公臨終前半月、<ruby><rb>已</rb><rt>すで</rt></ruby>に<ruby><rb>食</rb><rt>くら</rt></ruby>はず、<ruby><rb>但</rb><rt>ただ</rt></ruby>香を<ruby><rb>焚</rb><rt>た</rt></ruby>いて<ruby><rb>危坐</rb><rt>きざ</rt></ruby>し、黙して仏経を<ruby><rb>誦</rb><rt>じゆ</rt></ruby>す、沈香の<ruby><rb>煎湯</rb><rt>せんたう</rt></ruby>を以て<ruby><rb>時々</rb><rt>じゞ</rt></ruby><ruby><rb>少許</rb><rt>せうきよ</rt></ruby>を<ruby><rb>呷</rb><rt>あふ</rt></ruby>る、神識乱れず、衣冠を正し、<ruby><rb>奄然</rb><rt>えんぜん</rt></ruby>として化し去ると。