非常警戒

凍りつくような<ruby><rb>空</rb><rt>から</rt></ruby>っ風が、<ruby><rb>鋪道</rb><rt>ほどう</rt></ruby>の上をひゅーんというような<ruby><rb>唸</rb><rt>うな</rt></ruby>り声をあげて<ruby><rb>滑</rb><rt>すべ</rt></ruby>ってゆく。もう夜はいたく<ruby><rb>更</rb><rt>ふ</rt></ruby>けていた。遠くに中華そばやの流してゆく笛の音が聞える。

<ruby><rb>丁度</rb><rt>ちょうど</rt></ruby>そのころ、<ruby><rb>築地</rb><rt>つきじ</rt></ruby>本願寺裏から<ruby><rb>明石町</rb><rt>あかしちょう</rt></ruby>にかけて、厳重な非常警戒網が<ruby><rb>布</rb><rt>し</rt></ruby>かれた。

しかし制服の警官はたった二人だけ、あとはみな私服の刑事ばかりが十四、五人。<ruby><rb>寝鎮</rb><rt>ねしずま</rt></ruby>った家の<ruby><rb>軒端</rb><rt>のきば</rt></ruby>や、締め忘れた<ruby><rb>露次</rb><rt>ろじ</rt></ruby>に身をひそめて、掘割ぞいの鋪道に注意力をあつめていた。

一体なにごとが始まるのだろうか。

「おい、来たぞ」

「来たか。通行人はどうだろう」

「あっ、向うの屋上から<ruby><rb>青灯</rb><rt>あおとう</rt></ruby>をたてに振っている。<ruby><rb>幸</rb><rt>さいわ</rt></ruby>い通行人は一人もないというのだ」

「うむ、うまくいったな」

警官たちの顔つきは、緊張そのものであった。

誰がやって来たというのだろうか。

本願寺裏の掘割ぞいの鋪道の方へ、ふらふらと千鳥足の<ruby><rb>酔漢</rb><rt>すいかん</rt></ruby>がとびこんで来た。

「うーい、いい気持だ。な、なにもいうことはねえや。天下泰平とおいでなすったね」

取りとめもない<ruby><rb>独白</rb><rt>ひとりごと</rt></ruby>のあとは、鼻にかかる何やら音頭の歌い放し。

すると、その後からまた一人の男が、同じこの横丁にとびこんできた。

前の千鳥足の酔漢は、小ざっぱりしたもじり<ruby><rb>外套</rb><rt>がいとう</rt></ruby>を<ruby><rb>羽織</rb><rt>はお</rt></ruby>った<ruby><rb>粋</rb><rt>いき</rt></ruby>な<ruby><rb>風体</rb><rt>ふうてい</rt></ruby>だが、後から出てきたのは、よれよれの<ruby><rb>半纏</rb><rt>はんてん</rt></ruby>をひっかけた<ruby><rb>見窶</rb><rt>みすぼら</rt></ruby>しい身なりをしている。

<ruby><rb>大道</rb><rt>だいどう</rt></ruby>も狭いと云わんばかりに<ruby><rb>蹣跚</rb><rt>よろめ</rt></ruby>いてゆく酔漢の背後に、半纏着の男はつつと迫っていった。

「あっ、な、なにをする――」

と酔漢が<ruby><rb>愕</rb><rt>おどろ</rt></ruby>きの声をあげるところを、半纏着の男は酔漢の<ruby><rb>襟</rb><rt>えり</rt></ruby>がみつかんで、ずでんどうと鋪道になげとばした。

「うぬ、――」

と起きあがろうとするのを、半纏男は背後から馬乗りになって、何やら棒のようなものでぽかぽかと<ruby><rb>滅多</rb><rt>めった</rt></ruby>うち。

ぐたりと伸びるところを、半纏男は足をもってずるずると堀ばたに引張ってゆき、<ruby><rb>足蹴</rb><rt>あしげ</rt></ruby>にしてどーんと堀の中になげこんだ。

どぼーんと大きな水音が、闇を破って響きわたった。

ずいぶん乱暴な行為であった。

しかし警官隊は、林のように鎮まりかえっている。彼等にはこの暴行者がまるで映らないようであった。

なんという<ruby><rb>腑</rb><rt>ふ</rt></ruby>に落ちないこの場の光景であろうか。

暴行者の半纏着の男は、堀ばたに立って、じっと水面を見つめていた。五秒、十秒、二十秒……。

すると、彼は何思ったか、手にしていたアルミの弁当箱をがたんと音をさせて地上に投げだすが早いか、そのまま身を躍らせてどぼーんと堀のなかに飛びこんだ。

「おーい、しっかりしろ」

彼は片手に<ruby><rb>半死半生</rb><rt>はんしはんしょう</rt></ruby>の酔漢を抱えあげた。そしてすっかり救命者になって、酔漢を助けながら、のそのそと堀から上ってきた。二人とも泥まみれの<ruby><rb>濡</rb><rt>ぬ</rt></ruby>れ<ruby><rb>鼠</rb><rt>ねずみ</rt></ruby>であった。

「おーい、しっかりしろ。どうしたんだ。傷は浅いぞ。いまどこかの病院へつれてってやるからな」

と、しきりに<ruby><rb>介抱</rb><rt>かいほう</rt></ruby>をするのであった。

堀の中に<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>りこんだり、それからまた自分も濡れ鼠になって堀のなかに飛びこんだり、実に御丁寧千万なことだった。

奇怪なのは警官隊の態度だった。映画撮影を見物しているわけでもあるまいし、この暴行を眼の前に見ながら、知らん顔をしているのであった。

折から一台の<ruby><rb>空円</rb><rt>あきえん</rt></ruby>タクが、スピードをゆるめてこの横丁に入ってきた。

「おい、運転手さん、ちょっと手を貸してくれないか」

半纏着の男は手をあげて叫んだ。

「おう、どうしたどうした」

「いや、<ruby><rb>酔払</rb><rt>よっぱら</rt></ruby>いが、この堀の中に落っこって、もうすこしで<ruby><rb>土左衛門</rb><rt>どざえもん</rt></ruby>になるところだったよ。だいぶ傷をしているらしいから、その辺の病院まで<ruby><rb>搬</rb><rt>はこ</rt></ruby>んでくれないか」

「うん、よしきた」

円タクは、濡れ鼠の二人を吸いこむと、そのまま明石町の方へ走り去った。

すると、軒端に隠れていた警官隊がぞろぞろと出て来た。

「やあ、どうも御苦労さま。署へかえって、熱いものでも一杯喰べようじゃないか」

「じっとしていたんで、風を引いてしまったよ。はっくしょい」

警官隊は、ぞろぞろと引上げていった。どこまでも奇妙な築地<ruby><rb>夜話</rb><rt>やわ</rt></ruby>であった。

秘密工事

「わしんとこの吉が<ruby><rb>御厄介</rb><rt>ごやっかい</rt></ruby>になっとりますそうで、――」

と、シンプソン病院の受付に、<ruby><rb>真青</rb><rt>まっさお</rt></ruby>になってとびこんで来た五十がらみの<ruby><rb>請負師</rb><rt>うけおいし</rt></ruby>らしい男があった。

「<ruby><rb>誰方</rb><rt>どなた</rt></ruby>でございますか」

と、肉づきのいい看護婦が、憎いほど落ちつき払って聞いた。

「えっ」と五十男は気をのまれた形であったが、「わしは土木工事の請負をやっている<ruby><rb>熊谷五郎造</rb><rt>くまがいごろぞう</rt></ruby>です。うちの若い者の吉――というと本名は<ruby><rb>原口吉治</rb><rt>はらぐちきちじ</rt></ruby>てえんですが、どこかで怪我をして、誰方やらに助けてもらって、こっちに御厄介になっていると聞きましたが……」

すると看護婦は、軽くうなずいて、

「どうぞお上り下さいまし」

といった。

原口吉治は、ベッドの上にうんうん<ruby><rb>唸</rb><rt>うな</rt></ruby>っていた。

親方の声を聞くと、さすがにちょっと唸り声をやめたが、しばらくすると、またたまらなくなって前よりひどく唸りだした。

「どうしたんだ、吉。だからあれくらい云っといたじゃねえか。酒を呑みあるいちゃいけない。もし呑むんだったら、わしの家で呑め、それなら間違いもなくて<ruby><rb>済</rb><rt>す</rt></ruby>むからと、あれほど云って置いたのに、これじゃしようがないじゃないか」

と見舞いに来たのか、<ruby><rb>叱</rb><rt>しか</rt></ruby>りに来たのか分らない親方五郎造だった。

「親方、当人は相当ひどい怪我をしているんですよ。それに私が通りかからなきゃ、命を落とすところだったんです。あまりガミガミ云っちゃ<ruby><rb>可哀</rb><rt>かわい</rt></ruby>そうですよ」

と、隅に腰を下ろしていた<ruby><rb>髭蓬々</rb><rt>ひげぼうぼう</rt></ruby>の男がいった。彼は病院で借りたのらしい白いネルの<ruby><rb>病衣</rb><rt>びょうい</rt></ruby>を二枚重ねて着ていた。

「おお、お前さんでしたね、わしのところへ知らせて下すったのは。そして吉も助けてもらって、どうも今度は、たいへん御厄介になって済みませんです」

「いや、なんでもありゃしません」

「いずれ後から、御礼はいたします」

「その御心配には及びませんよ」

そういったこの男の言葉は、<ruby><rb>偽</rb><rt>いつわ</rt></ruby>りがなかった。自分で<ruby><rb>抛</rb><rt>な</rt></ruby>げこんで置いて、自分で助けたんだから、礼をされる<ruby><rb>筋合</rb><rt>すじあい</rt></ruby>はない筈だった。

五郎造は、病人の枕許でひどく弱ったらしい顔をしていた。それは病人の<ruby><rb>容態</rb><rt>ようだい</rt></ruby>に対する心配だけではないように思われた。

「……ちょっ、<ruby><rb>仕様</rb><rt>しよう</rt></ruby>がねえやつだ。これじゃ<ruby><rb>云訳</rb><rt>いいわけ</rt></ruby>が立たないや。明日の朝は――これはえれえことになったぞ」

五郎造はぶつぶつ<ruby><rb>独白</rb><rt>ひとりごと</rt></ruby>をいっては、腹を立てていた。吉治の怪我で、彼はなにか大変困ったことに直面しているらしい様子だった。

生命救助者を装う髭蓬々の男は、濡れていた半纏が乾いたというので、これに着かえながら、そろそろ<ruby><rb>暇乞</rb><rt>いとまご</rt></ruby>いをする<ruby><rb>気色</rb><rt>けはい</rt></ruby>に見えた。

「おう、もうお帰りですかい。そうだ、お前さんの名刺を一枚下さいな。お礼にゆかなきゃなりませんからね」

すると半纏男は笑いながら、

「お礼には及びませんよ。それに、私は名刺なんか持っていないんです。<ruby><rb>月島</rb><rt>つきしま</rt></ruby>二丁目に住んでいる<ruby><rb>正木正太</rb><rt>まさきしょうた</rt></ruby>という左官なんです」

「ええっ、左官。するとお前さんは、近頃のコンクリート工事なんかやったことがあるのかね」

「ええ、すこしは覚えがあるんですが、大した腕でもありませんよ。なにしろ仕事がなくて、毎日、あっちこっちをうろついているのですからね」

「ふふーン、そうかい。そういうことなら、正太さんとやら、わしは一つお前さんに相談があるんだがね。いや、もちろんうちの者を助けてくれたお礼心から、ちとばかりお前さんに<ruby><rb>儲</rb><rt>もう</rt></ruby>けさせようというんだ。実はね、ま、こっちへ来なさい」

と五郎造は正木正太を病院の廊下へ連れだした。深夜のこととて他に面会人も歩いていず、そのあたりは湖水の底のようにしーんと<ruby><rb>鎮</rb><rt>しず</rt></ruby>まりかえっていた。

「こいつは<ruby><rb>他言</rb><rt>たごん</rt></ruby>して<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>っちゃ困る。お前さんだから、信用してうちあけるんだが――」

と前提して、五郎造親方は、いまやりかかっている或る秘密の土木工事があって、そこへ働きにゆく気はないか、なにしろ人員は厳選してある上に、一人足りなくても先方から<ruby><rb>喧</rb><rt>やかま</rt></ruby>しくいわれるのだ。今夜吉治が怪我をしてしまったため、明朝は左官が一人足りなくなる。そのために先方からどんな苦情をうけるかと思うと、彼は気が気でないのだと包み隠さずにいって、この<ruby><rb>寒中</rb><rt>かんちゅう</rt></ruby>に<ruby><rb>額</rb><rt>ひたい</rt></ruby>にびっしょりとかいた汗を<ruby><rb>手巾</rb><rt>ハンカチ</rt></ruby>で<ruby><rb>拭</rb><rt>ぬぐ</rt></ruby>った。

「幸いお前さんが、左官をやれるというから、これはもっけのことだ。これも<ruby><rb>因縁</rb><rt>いんねん</rt></ruby>だと思うから、一つやって見ては」

「でも、なんだか気味がわるいですね。秘密の工事なんて」

「いや、そう思うだけのことで、やっていることは普通の工事なんだ。ただ行くときと、帰るときに、目隠しをされるというだけのことさ。<ruby><rb>手間賃</rb><rt>てまちん</rt></ruby>は一日七円だ。普通の倍だぜ」

「だって、いくら吉治さんが怪我でゆけないとしても、全然新顔の私が行ったんじゃ、先方で入れないでしょう」

「うん、そのことだが――」と五郎造は幾分苦しそうに眼玉を白黒させていたが、

「なあに、<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>を助けてくれたお前さんのことだあね、先方が信用するように、わしの親類とかなんとかいっとくよ。何しろ職人の数が揃わないことには、前もってちゃんと決っている工事がそのように進まないことになるから、わしはうんと叱られた上、大変な罰金をとられることになっているんだ。だからお前さんがいってくれりゃ、吉治の分も、わしの分も、二重の生命の恩人となるわけだよ。ね、いいだろう。一つうんと承知をしてくれよ」

正木正太と名乗る半纏着の男は、ようやくのことで五郎造の<ruby><rb>薦</rb><rt>すす</rt></ruby>めを<ruby><rb>応諾</rb><rt>おうだく</rt></ruby>した。そしてシンプソン病院を<ruby><rb>辞去</rb><rt>じきょ</rt></ruby>したのであるが、彼は<ruby><rb>寒夜</rb><rt>かんや</rt></ruby>の星を<ruby><rb>仰</rb><rt>あお</rt></ruby>ぎながら、誰にいうともなく、次のようなことを<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いたのだった。

「どうも古くさい<ruby><rb>狂言</rb><rt>きょうげん</rt></ruby>だ。だが、古いものは古いほど安心して使える、といわれるが、なるほど<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>もな話だなあ」

忠魂塔

その当時、極東には国際問題をめぐって、ただならぬ暗雲が立ちこめていた。

中国大陸には、大きな戦争が続いていたし、その戦争に<ruby><rb>捲</rb><rt>ま</rt></ruby>きこまれていないいくつかの大国も、てんでに武装戦備を整えて、いつでも戦雲渦巻くその中心へ向って進撃できるように、すっかり準備は出来上っていた。

従ってわが東京における諸外国大使の動きも非常に活溌であって、或る<ruby><rb>物識</rb><rt>ものし</rt></ruby>りの故老の言葉を借りると、欧洲大戦当時、ロンドンにおける外交戦の多彩活況も、これには遠くおよばないそうである。

中でも、国民の注目を一番強く集めていたのは、<ruby><rb>老獪</rb><rt>ろうかい</rt></ruby>なる外交ぶりをもって聞える某大国であった。

日中戦争が始まって間もなく、既にもうこの某大国の動向が、国民の注目を<ruby><rb>惹</rb><rt>ひ</rt></ruby>いたものであるが、その当時はどっちかというと、中国の方に相当積極的な同情を示していた。ところがその後、わが日本軍が各地に輝かしい戦績をおさめ、極東のことに関しては日本の同意なしには何一つやれないような事態となったと知るや、某大国はいちはやく態度を<ruby><rb>豹変</rb><rt>ひょうへん</rt></ruby>し、内面はともかくも表面的には中国に対する同情をひっこめ、そしてひたすら日本の御機嫌をとりむすぶように変った。それはまるで<ruby><rb>小皺</rb><rt>こじわ</rt></ruby>のよった年増女のサーヴィスのように、気味のわるいものだった。

その年の秋が冬に変ろうという十一月の候、例の某大国は日本国民の前にびっくりするような大きな贈物をするというニュースを<ruby><rb>披露</rb><rt>ひろう</rt></ruby>した。それはかつて欧洲大戦の<ruby><rb>砌</rb><rt>みぎり</rt></ruby>、<ruby><rb>遥々</rb><rt>はるばる</rt></ruby>欧洲の戦場に参戦して不幸にも陣歿したわが義勇兵たちのため<ruby><rb>建立</rb><rt>こんりゅう</rt></ruby>してあった忠魂塔と、同じ形同じ大きさの記念塔をもう一つ作って、わが国に贈ろうという<ruby><rb>企</rb><rt>くわだ</rt></ruby>てであった。

正直なところ、わが国民は某大国のこの好意に<ruby><rb>面喰</rb><rt>めんくら</rt></ruby>った。何につけ<ruby><rb>彼</rb><rt>か</rt></ruby>につけ日本の邪魔ばかりをしている憎い奴だと思っていた某大国から、この<ruby><rb>由緒</rb><rt>ゆいしょ</rt></ruby>ある途方もない大きな贈物をおくられて、<ruby><rb>愕</rb><rt>おどろ</rt></ruby>かぬ者があろうか。

その忠魂塔は東京市に建てられることになった。そのために市の吏員は、敷地を公園にもとめて探しまわった結果、Ｓ公園内に建てるということに決った。そして大急ぎでもって<ruby><rb>御影石</rb><rt>みかげいし</rt></ruby>の<ruby><rb>台石</rb><rt>だいいし</rt></ruby>を作ることになった。

東京市内では、この忠魂塔のことでよるとさわると話の花が咲くのであった。

「あれで見ると、某大国もやっぱり日本に敬意をもっていないわけじゃないんだね」

「うん、僕も<ruby><rb>平生</rb><rt>へいぜい</rt></ruby>すこし悪口をいいすぎたよ。あの記念塔は写真で見たが、高さが五十メートルもあるというから、とてもでっかいものだよ。塔下の一番太いところの直径が二メートル近くもあるそうだからね」

「ほほう、そうか。たいへんな物だね。そんな大きなものをどんな風にして日本まで持ってくるつもりだろうか」

「さあ。もちろん塔の途中からいくつかに小さく折って持ってきて、こっちで、<ruby><rb>接</rb><rt>つ</rt></ruby>ぎあわすんだろうよ。そのままじゃ、とても船にも<ruby><rb>載</rb><rt>の</rt></ruby>せられないし、陸へあげても列車にも積めないし、町を<ruby><rb>引張</rb><rt>ひっぱ</rt></ruby>りまわすことも出来やしないからね」

そんな話が、あっちでもこっちでも取り<ruby><rb>交</rb><rt>かわ</rt></ruby>されているうちに、更に国民を愕かせるニュースが入ってきた。

それは例の忠魂記念塔を、某大国の一等巡洋艦がわざわざ積んで、日本まで廻航してくるという報道であった。

「本国政府は、この機に際し、親愛なる日本国民に敬意を表さんがため、記念塔を特に一等巡洋艦マール号に<ruby><rb>積載</rb><rt>せきさい</rt></ruby>してお届けすることにしました」

とは、駐日某大国大使パット氏が、新聞記者団を引見して、<ruby><rb>莞爾</rb><rt>かんじ</rt></ruby>として語ったところであった。

その新聞記事を読んだ国民は、更に某大国の厚意に感激した。

しかし一部の識者は、逆に眉を<ruby><rb>顰</rb><rt>ひそ</rt></ruby>めた。

「これはどうも変だね。某大国はこの頃になって急に日本を好意攻めにするじゃないか。忠魂記念塔を新調して贈ってくれるというのさえ大変なことだのに、その上、昨年建造したばかりの精鋭マール号をその荷船として派遣するなんて、ちと<ruby><rb>大袈裟</rb><rt>おおげさ</rt></ruby>すぎると思わないか」

「時局がら新造艦マール号の性能試験をやる意味もあるんじゃないかね」

「そんなことなら、なにも極東まで来なくてもよさそうなものだ。これは何か、日本近海の測量を目的にしているのじゃないかな」

「そんなら何もマール号を<ruby><rb>煩</rb><rt>わずら</rt></ruby>わさずとも、中国艦隊にやらせばいいことじゃないか」

「どうも分らん。しかしマール号の極東派遣をうっかり喜んでいられないということだけは分る」

遣日艦マール号

この遣日艦マール号は、十二月一日、無事<ruby><rb>芝浦埠頭</rb><rt>しばうらふとう</rt></ruby>に着いた。

出迎えと見物とに集った十万人ちかい東京市民の間を、マール号の陸戦隊員二百名が、例の記念塔を砲車<ruby><rb>牽引車</rb><rt>けんいんしゃ</rt></ruby>に積んで、<ruby><rb>粛々</rb><rt>しゅくしゅく</rt></ruby>と市中を行進した。

それを見ると忠魂記念塔は、長いままではなく、七つの部分に切断され、一つ一つがそれぞれ前後二台の牽引車によって<ruby><rb>搬</rb><rt>はこ</rt></ruby>ばれていったのである。

派遣部隊の長列は、町の大通りを大きな音をたてて行進し、この塔が建設されるＳ公園の前を通り、やがて某大国大使館の中に入った。

公表されたところによると、このバラバラの記念塔は、大使館内で荷を解かれ、<ruby><rb>罅</rb><rt>ひび</rt></ruby>や傷の有無を十分に確かめた上で、三日後には華々しくＳ公園へ搬びこまれ、盛大な儀式が行われることになっていた。

その前夜、大使パット氏は、ＡＫのスタディオから全国中継をもって、忠魂記念塔の到着を披露し、

「――どうか御安心下さい。本国から随伴してきた<ruby><rb>工廠</rb><rt>こうしょう</rt></ruby>技師の厳密な試験によりまして、七個からなる忠魂塔の各区分には、いささかの罅も入っていない実に立派なものであるということを証拠だてることができました。いずれ明日の式場で、これをお目に懸けられるわけでございますが、あとは卓越した日本の土木建築家の手によりまして、足場を組んで建てていただくつもりでございます」

などと<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>放送をやって、全国民をまた<ruby><rb>一入</rb><rt>ひとしお</rt></ruby>感激させたのであった。

その忠魂記念塔は、今ではＳ公園内に<ruby><rb>天空</rb><rt>てんくう</rt></ruby>を<ruby><rb>摩</rb><rt>ま</rt></ruby>して<ruby><rb>毅然</rb><rt>きぜん</rt></ruby>と建っている。そして市民たちは、毎日のようにこの新名所の前に集まってきて、かつて欧州の野に赤き血潮を流した勇敢なる日本義勇兵の奮戦ぶりを<ruby><rb>偲</rb><rt>しの</rt></ruby>んで、<ruby><rb>泪</rb><rt>なみだ</rt></ruby>を<ruby><rb>催</rb><rt>もよお</rt></ruby>しているのであった。

そして今では、一般国民の某大国に対する感情も以前とはことかわり、たいへん<ruby><rb>穏</rb><rt>おだや</rt></ruby>かになったのであるが、果して某大国はわが帝国に心からなる敬愛を捧げてくれているのであろうか。

いや、それは残念ながら、そうではなかったようである。たとえば今、外国密偵団の監視をやっている有名な青年探偵<ruby><rb>帆村荘六</rb><rt>ほむらそうろく</rt></ruby>が、数日前その筋から<ruby><rb>示唆</rb><rt>しさ</rt></ruby>をうけた話の内容について考えてみるのが早わかりがするであろう。

「某大国の南太平洋における防備は、わずかこの半年の間に、従来の五倍大になった。飛行機、爆弾、燃料、食糧、被服などは、どの倉庫にも一杯になって、中には急造バラックの中に<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>りこまれているものもある。某大国は明かに日本に対して攻撃姿勢をとっているのだ。わが<ruby><rb>帝都</rb><rt>ていと</rt></ruby>をはじめ、各地の重要地点を一挙にして空爆しようと思ってその機会を狙っていることは実に明かである。しかもこの際最も注意を要することは、かの<ruby><rb>老獪</rb><rt>ろうかい</rt></ruby>なる某大国の作戦計画として、開戦の最も初期において帝都における諸機関を一挙にして破壊し去ろうとしているらしい。われわれの知りたいのは、かの某大国がいかなるところを狙っているかということだ。それが分れば、敵の今後の戦略がかなりはっきり見当がつこうというものだ。帆村君。この際、君の奮起を望むというのも、<ruby><rb>一</rb><rt>いつ</rt></ruby>にこの点に皇国の<ruby><rb>興廃</rb><rt>こうはい</rt></ruby>が<ruby><rb>懸</rb><rt>かか</rt></ruby>っているからだ」

この話で見ると、某大国はキューピーの面を<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>りながら、その面の下でもって恐ろしい牙を鳴らしているとしか思われない。

こうして某大国の戦意ははっきり読めるのであるが、早く知らなければならないことは、これから某国がとろうとしている実際の攻撃計画がどんなものであるかということだった。東京市についていうなら、一体某大国の爆撃機は、どこどこを狙っているのだろうか。<ruby><rb>破甲弾</rb><rt>はこうだん</rt></ruby>はどことどことに落とすつもりか。<ruby><rb>焼夷弾</rb><rt>しょういだん</rt></ruby>はどの位もって来て、どの辺の地区に<ruby><rb>抛</rb><rt>な</rt></ruby>げおとすのであろうか。また<ruby><rb>毒瓦斯弾</rb><rt>どくガスだん</rt></ruby>はいかなる順序で、いかなる時機を狙って<ruby><rb>撒</rb><rt>ま</rt></ruby>くのであろうかなどいうことが、この際早くわかっていなければならない。

もちろん軍部をはじめ諸官省や諸機関においては、最大の注意力を<ruby><rb>傾</rb><rt>かたむ</rt></ruby>けて、この恐るべき外敵の攻撃を防ぐことを考えている。しかしそれには、敵の手にどんな武器が握られているかを知ることが出来れば、防ぐにも一層便利でもあり、かつ有効な措置がとれるのであった。

帆村荘六は、某大国の機密を何とかして探りあてたいと、寝食を忘れて<ruby><rb>狂奔</rb><rt>きょうほん</rt></ruby>したが、敵もさる者で、なかなか尻尾をつかませない。<ruby><rb>流石</rb><rt>さすが</rt></ruby>の帆村も、ちと<ruby><rb>腐</rb><rt>くさ</rt></ruby>り<ruby><rb>気味</rb><rt>ぎみ</rt></ruby>でいたところ、ふと彼の注意を<ruby><rb>惹</rb><rt>ひ</rt></ruby>いたデマ罰金事件があった。

それは警察署の<ruby><rb>聴取書綴</rb><rt>ききとりしょつづり</rt></ruby>のなかから発見したものであったが、事件は築地の或る公衆浴場の流し場で、仲間同士らしい裸の客がわあわあ<ruby><rb>喋</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>っているのを、盗み聞きしていた一<ruby><rb>浴客</rb><rt>よっきゃく</rt></ruby>が、後にまたそれを他の者へ得々として喋っているところを御用となったものであった。

そのデマによると、当夜浴場の流し場で喋っていた本人は、どうやら左官職らしかったという。彼は仲間連中から、どうも<ruby><rb>手前</rb><rt>てめえ</rt></ruby>はこのごろいやに金使いが荒いが、なにか悪いことをやっているんじゃないかと<ruby><rb>揶揄</rb><rt>からか</rt></ruby>われ、<ruby><rb>彼</rb><rt>か</rt></ruby>の男は顔赤らめて云うには、実はここだけの話だが、この頃おれは<ruby><rb>鳥渡</rb><rt>ちょっと</rt></ruby>うまい<ruby><rb>儲</rb><rt>もう</rt></ruby>け仕事にいっているんだ。毎朝或る場所へゆくと、そこで目隠しをしたまま自動車に乗せられ、一時間半も<ruby><rb>揺</rb><rt>ゆ</rt></ruby>られながら引き廻された<ruby><rb>揚句</rb><rt>あげく</rt></ruby>、変な密室のなかに下ろされる。そこで一日左官の仕事をやっていると、夕方にはまた目隠しをしたまま自動車に乗せられ、元の場所へ帰ってくる。この仕事は気味がわるいが一日七円にもなるので、我慢していっているんだと、いささか得意げに語っていたという。

仲間のものは、その男の儲ける金のことよりも、目隠しをしてどこかに連れてゆかれるという<ruby><rb>猟奇</rb><rt>りょうき</rt></ruby>的な話がすっかり気に入ってしまい、へへえ、それで手前はそこでどんな仕事をしているんだと聞けば、かの男は、それがどうもよく分らない仕事なんだが、とにかく三百坪ぐらいもあるとても広くて天井の高い工場みたいな建物の床を<ruby><rb>漆喰</rb><rt>しっくい</rt></ruby>みたいなもので塗っているんだが、その漆喰が変な漆喰で、なかなか使い<ruby><rb>難</rb><rt>にく</rt></ruby>いやつなんだ。そのために仕事もなかなか思うように進まず、まだ半分ぐらいしか塗っていないという。

すると友達が、その三百坪もあって背の高い謎の工場というのは、どこにあるか、窓から見える外の様子とか、近所から聞える物音とかで、およそここは<ruby><rb>江東</rb><rt>こうとう</rt></ruby>らしいとか大森らしいとか分りそうなものじゃないかというと、かの男ははげしく首をふって、うんにゃそれが分るものかい、その今いった工場みたいな建物には、窓が一つもついていないんだ。全部壁で密閉してあって、電灯が<ruby><rb>燦然</rb><rt>さんぜん</rt></ruby>とついている。物音なんて、なにも入って来ない。<ruby><rb>深山</rb><rt>しんざん</rt></ruby>のなかのように静かなところさと答えた。

じゃあ、どこか地下室なんだろうと友達がいうと、そうじゃない。高い天井を見上げると、<ruby><rb>亜鉛板</rb><rt>あえんばん</rt></ruby>で屋根がふいてあるのが見えるから、地下室ではなくて、これはやはり地上に建っている普通の建物にちがいないと断言したというのである。起訴されたデマ犯人は、これについてなお自分の<ruby><rb>逞</rb><rt>たくま</rt></ruby>しい想像を織り交ぜて喋っていたところから、遂に罰金五十円也の申渡しが与えられたと書いてある。

帆村荘六は、この聴取書の話をたいへん面白く思った。そこで彼は一つの計画をたてて活動に入ったのであるが、始めに述べた築地本願寺裏の掘割における活劇も、実はこのデマ事件からの発展なのであって、堀のなかに投げこまれて大怪我をした吉治は、かの浴場で仲間に、ここだけの話をぶちまけた主であり、警官に見て見ぬふりをさせ、皇国の興廃にかかることとはいえ、この吉治に心ならずも傷害を与えた正木正太という左官こそ、とりもなおさず帆村探偵の<ruby><rb>仮称</rb><rt>かしょう</rt></ruby>にちがいなかったのである。

身代りの探偵

左官正太を名乗る帆村探偵は、巧みに吉治の<ruby><rb>後釜</rb><rt>あとがま</rt></ruby>に入りこんだ。

その翌朝は、親方五郎造から注意されたとおり、午前六時すこし前には早くもこの一団の集合場所である<ruby><rb>南千住</rb><rt>みなみせんじゅ</rt></ruby>の終点に<ruby><rb>突立</rb><rt>つった</rt></ruby>っていた。彼の手には左官道具と弁当箱が大事そうに握られていた。

親方の五郎造が最後にやってきた。それでこの南千住の終点に集まる六人組の顔が全部そろったのであった。五郎造は、探偵帆村の化けこんでいるのとも知らず、正太と名乗るこの新入りの左官のことを、これは自分の女房の<ruby><rb>従弟</rb><rt>いとこ</rt></ruby>だ、どうか仲よくしてやってくれと、他の仲間に引合わした。

帆村探偵は、それから先どうなるのかと、ひそかに好奇の眼を光らせていると、やがて十分も経ったと思う頃、

「やあ、来た来た」

と仲間の一人がいうので、その方を見ていると、一人のよぼよぼの婆さんが怒ったような顔をして一行に近づいてきた。

「――おう親方、吉治がいねえじゃねえか」

と、婆さんは<ruby><rb>伝法</rb><rt>でんぽう</rt></ruby>な口を利いた。

「うん、そのことだよ。実は――」

といって、親方はまた吉治が<ruby><rb>不慮</rb><rt>ふりょ</rt></ruby>の<ruby><rb>怪我</rb><rt>けが</rt></ruby>で入院したことから、その代りに女房の従弟の正木正太を連れて来たが、この人物は保証するというようなことを、婆さんの<ruby><rb>耳許</rb><rt>みみもと</rt></ruby>に<ruby><rb>噛</rb><rt>か</rt></ruby>んでふくめるように説明しなければならなかった。

「おい、大丈夫かい。間違いはなかろうね」

と婆さんは、眼をぎょろりと光らせて五郎造と帆村探偵とを<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>んだ。

帆村は、頭を<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>きながらぺこぺこ頭を下げた。いかにも職人らしい風を<ruby><rb>装</rb><rt>よそお</rt></ruby>って。

ようやく婆さんの信用をかちえて、一行は歩きだした。やがて着いたところは、ごみごみした横丁にあるバラック建ての婆さんの家だった。その中に入ってゆくと、土間伝いに裏に抜けるようになっている。そこにまた一つの<ruby><rb>潜</rb><rt>くぐ</rt></ruby>り戸があって、それを婆さんが開けてくれた。

そこを潜ると、<ruby><rb>黴</rb><rt>かび</rt></ruby>くさい真暗な倉庫の中に出る。妙なところへ連れこまれたなあと思っているうちに眼が<ruby><rb>暗</rb><rt>やみ</rt></ruby>になれてくる。するとこのだだっ広い倉庫の中に、牛乳を<ruby><rb>搬</rb><rt>はこ</rt></ruby>ぶのに使うような一台の箱型トラックが置いてあるのに気がついた。

すると何処からともなく人が出てきて、この運転台に乗った。別の人が、ぱっと五<ruby><rb>燭</rb><rt>しょく</rt></ruby>の電灯をつけた。その人は妙な形の<ruby><rb>頭巾</rb><rt>ずきん</rt></ruby>をもっていて、それを五郎造の率いる一行の一人一人の頭の上からすぽりと<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>せた。

帆村もとうとうこの頭巾を被せられてしまった。息のつまるような厚い布で出来た<ruby><rb>嚢</rb><rt>ふくろ</rt></ruby>だ。<ruby><rb>頸</rb><rt>くび</rt></ruby>のところでバンドを締め、御丁寧にがちゃんと錠がかかった。こうして置けば、いくら頭巾を脱ごうとしても脱げない道理だった。

それが済むと、帆村たちは箱型トラックの中に手を<ruby><rb>執</rb><rt>と</rt></ruby>って入れられた。扉がぴちんとしまって、中から鍵がかかる。誰か一人、<ruby><rb>傭主</rb><rt>やといぬし</rt></ruby>の側の番人が乗りこんでゆくらしい。誰も物を云う者がない。

そのうちに、倉庫の戸がぎいぎいと開く音が聞え、それとともにトラックは<ruby><rb>徐々</rb><rt>じょじょ</rt></ruby>に動きだした。いよいよ秘密の場所への旅行が始まったわけであった。

ごとんごとんと<ruby><rb>揺</rb><rt>ゆ</rt></ruby>られながら、帆村はトラックの通りゆく道筋を、一生懸命に暗記しようとつとめた。

右か左かへ曲ると、慣性の理によって、どっちかへ身体がぐぐっと<ruby><rb>圧</rb><rt>お</rt></ruby>されるので、それとわかった。

狭い道では、車はごとごととしきりに揺れたし、広い道へ出ると、すうすうと滑るように走った。

しかし運転手は非常に気をつけているようで、しばらくゆくとスピードが殆んど一定となり、道を曲ることさえなくなった。もちろん十字路のストップは一度も<ruby><rb>喰</rb><rt>く</rt></ruby>わなかった。なんだか郊外の方へ一本道にずんずんと進んでゆくように感ぜられたが、そのうちに数台の消防自動車のサイレンが<ruby><rb>喧</rb><rt>やかま</rt></ruby>しく街を走っているのが聞えたので、ここはやはり東京市内だなと思った。

それからまだ小一時間もトラックはごとごとと走った<ruby><rb>揚句</rb><rt>あげく</rt></ruby>、ごろごろと下り坂を下りてゆくような気がしたと思ったら、やがて車はごとんと停った。

これでいよいよ一時間半の長い旅行を終ったのである。ここは何処であるのか、帆村には一向見当がつかなかった。道順も始めのうちは覚えていたが、途中から<ruby><rb>皆目</rb><rt>かいもく</rt></ruby>わからなくなった。

一行はトラックの中から、そろそろと下に下りた。長い廊下を手を引き合って歩いてゆくと、やがて扉の明く音がして、一行はまたその中に導き入れられた。すると一緒についてきた番人が、頭巾の錠をがちゃんがちゃんと<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>してくれた。帆村は頭巾をかなぐり脱ぐと、深い息をしながら、あたりを見廻した。

（なるほど、ここだ。あの聴取書に書いてあった三百坪の天井の高い工場とはここのことをいうのだな）

話にあったとおり窓が一つもない。電灯は<ruby><rb>煌々</rb><rt>こうこう</rt></ruby>とついていて昼間のように明るいが、ここにいたのでは昼だか夜だか分らない。

五郎造は<ruby><rb>引率</rb><rt>いんそつ</rt></ruby>してきた五人の左官を呼びあつめると、今日の仕事の分担をそれぞれ云い渡した。そしてすぐさま仕事にとりかかった。

帆村の仕事は、<ruby><rb>米</rb><rt>べい</rt></ruby>さんという一人の左官について、一緒に床に特殊の<ruby><rb>漆喰</rb><rt>しっくい</rt></ruby>を塗ることだった。

それとなく辺りを<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>うと、この室内には一行六人の外に彼等を連れてきた<ruby><rb>逞</rb><rt>たくま</rt></ruby>しい<ruby><rb>髭面</rb><rt>ひげづら</rt></ruby>の番人が一人、そのほかにこの工場の人らしい職工ズボンを<ruby><rb>履</rb><rt>は</rt></ruby>いた男が三人いて、こっちの仕事ぶりをじっと監視していた。

五郎造はこの三人の男のことを、松監督さん、竹監督さん、梅監督さんと呼んでいたが、もちろんそれはこの中での<ruby><rb>符牒</rb><rt>ふちょう</rt></ruby>であるにちがいなかった。

さあ、ここが帆村のためには重大な戦場なのであった。このがらんとした<ruby><rb>亜鉛</rb><rt>トタン</rt></ruby>屋根の工場とも倉庫とも見える建物内こそ、そこに秘められている大秘密をあばきつくすため、彼の<ruby><rb>智嚢</rb><rt>ちのう</rt></ruby>を傾けつくさねばならぬ大戦場だった。しかしこの簡単な建物の中から、一体どんな手懸りが得られるというんだろう。<ruby><rb>半</rb><rt>なか</rt></ruby>ばやりかかった漆喰の<ruby><rb>床</rb><rt>ゆか</rt></ruby>と、チョコレート色の壁と、<ruby><rb>亜鉛</rb><rt>トタン</rt></ruby>板を張った天井と、簡単な鉄の<ruby><rb>肋材</rb><rt>ろくざい</rt></ruby>と、電灯と、たったそれだけの集った場所に過ぎない。果してこの中から、思うような重大秘密が<ruby><rb>嗅</rb><rt>か</rt></ruby>ぎだせるものであろうか。

臭いの研究

米さんに従って、帆村探偵は黙々と本職らしい<ruby><rb>鏝</rb><rt>こて</rt></ruby>を動かしつづけた。

器用な彼は、<ruby><rb>平常</rb><rt>へいぜい</rt></ruby>暇のあるごとに、色々な仕事を習い覚えていて、今度のような万一の場合には、すぐどんな職人にでも化けられるように訓練を積んであった。

帆村がいま踏んでいる足の下は、相当しっかりしたコンクリートの床になっていた。漆喰をその上に、約二センチメートルの厚さで塗ってゆくのであった。

この漆喰は、かねて話に聞いたとおり、普通の漆喰とは異ったものであった。<ruby><rb>石灰</rb><rt>せっかい</rt></ruby>と<ruby><rb>赤土</rb><rt>あかつち</rt></ruby>だけは普通のものを使うが、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ふのり</span>は使わず、その代り何だか妙にどろどろしたものや、外に二、三種の化学薬品を混入するのであった。それらを<ruby><rb>交</rb><rt>ま</rt></ruby>ぜあわすのがなかなか厄介であり、それからうまく交ざった後は、早いところ塗ってしまわないと、直ぐ固まってしまうのだった。つい<ruby><rb>凹凸</rb><rt>でこぼこ</rt></ruby>が出来たり、<ruby><rb>罅</rb><rt>ひび</rt></ruby>や筋が入る。すると松竹梅の三監督がやってきて、やり直しを命ずる。なかなか骨の折れる仕事だった。

この特殊な漆喰は、一体どんな特長があるのであろうか。

帆村の気づいたところは、第一に非常に<ruby><rb>早乾</rb><rt>はやがわ</rt></ruby>きがすること、第二に、固まってしまえば<ruby><rb>鋼</rb><rt>はがね</rt></ruby>のような強い弾力を帯びること、第三に耐熱性に富んでいるらしい非常に優秀な漆喰だった。すくなくとも市場には、こんなに<ruby><rb>勝</rb><rt>すぐ</rt></ruby>れた漆喰が知られていない。

そういう優秀な漆喰をここに<ruby><rb>敷</rb><rt>し</rt></ruby>くという目的は、どういうところにあるのだろうか。

普通の機械工場なら、こんな漆喰を塗るまでもなく、その下のコンクリート土台だけで十分であった。<ruby><rb>贅沢</rb><rt>ぜいたく</rt></ruby>な場合でも、その上に僅かのアスファルトを流しこめばいいのだ。それにも<ruby><rb>拘</rb><rt>かかわ</rt></ruby>らず、普通以上の<ruby><rb>強靭</rb><rt>きょうじん</rt></ruby>さを漆喰で持たせようというには、何か訳がなければならぬ。この<ruby><rb>平々坦々</rb><rt>へいへいたんたん</rt></ruby>たる床の上に、そも如何なる物品が載るのであろうか。帆村はせっせと鏝を動かしながらもそれを想って、何とはなく背中がぞくぞくと寒くなるのを覚えた。

その日の所見を、その後、某大官の前で、帆村は次のように報告している。

「なんとかしてその漆喰の見本を、せめて定性分析の出来るくらいの少量でも持ってこようと思いましたが、監視が厳重なので控えました」

「爪の間に入れるとか、頭髪の中にこぼすとか、なんとかいい方法がありそうなものじゃないか」

「そんなことは向うで百も承知ですよ。いよいよ仕事が終ったというときには、僕たちは強制的に風呂の中に入れられてしまうのです。その風呂には、女がいましてね。僕たちの頭のてっぺんから足の爪まですっかり洗ってくれるのです。爪はきれいに<ruby><rb>截</rb><rt>き</rt></ruby>った上、御丁寧にブラッシュをかけるという始末です。外へ出ると、服はすっかり着がえさせられます。<ruby><rb>履物</rb><rt>はきもの</rt></ruby>やマットまで変るのです。恐らく厳重を<ruby><rb>極</rb><rt>きわ</rt></ruby>めていますよ」

「ふーむ、<ruby><rb>莫迦</rb><rt>ばか</rt></ruby>に細心にやっているんだね」

大官は心から感嘆している様子だった。

「ねえ帆村君。これはあまり大きな声でいえないことだが、君がいま行っている仕事場は、ひょっとすると何かわが警備関係の防空室とかいう筋合のものではないのかね」

「ええ、それは――」

「もしそうだとすると、君は自国の機密建物を調べていることになって、<ruby><rb>大損</rb><rt>おおぞん</rt></ruby>をするよ」

「そうです。<ruby><rb>貴官</rb><rt>あなた</rt></ruby>の<ruby><rb>仰有</rb><rt>おっしゃ</rt></ruby>るとおりの疑問を、僕も持ちました。僕も実は最初からそれを考えていたんです。しかし僕はあの建物のが、すくなくとも我が警備関係のものではない証拠をつきとめたのです」

「ほほう、それはよかった。で、その証拠というのは、一体どんなものだ」

大官は眼鏡ごしに、ちらと黒眼を動かした。

「その証拠というのは、臭いなんです」

「えっ、臭いとは」

「臭いというものについて、一般の人はわりあい不注意ですよ。しかし臭いの研究というものは莫迦にならぬものです。日本人が寄れば、なんとなく<ruby><rb>沢庵</rb><rt>たくあん</rt></ruby>くさいといわれます。これはつまり日本人の身体からは、食物の特殊性からくる独特の臭いが発散しているのです。日本人同士では、お<ruby><rb>互</rb><rt>たがい</rt></ruby>に同じ沢庵臭をもっているのでそれと分りませんが、外国人にはそれがたいへんよく匂う」

「うむ、なるほど。で、君は例の仕事場でもって、何か特別の臭いを嗅ぎつけたのかね」

「そうです。僕はトラックを下りて、廊下をひったてられてゆくときに、早くもその独得の臭いに気がつきました。浴場で着物を着がえたりするときにも気がつきました。それから監督の傍によってもその臭いが感ぜられました。断じてあの場所は、日本人の経営している場所ではありません」

「それは大変だ。でもその監督は日本人じゃないのかい」

「中国人ですよ。浴場にいる女も、やはり中国人だと思います」

「じゃ、それは中国人の工場でもあるのかね」

「いや、臭いというやつは、もっともっと複雑です。あの場所の匂いというのがあります。それはどうも、あのチョコレート色の塗料のせいだと思いますが、これは<ruby><rb>些</rb><rt>いささ</rt></ruby>か僕の自信のある研究なんですが、あの建物は某大国関係のものだと思いますよ」

「そうか、某大国か」と大官は大きく<ruby><rb>肯</rb><rt>うなず</rt></ruby>いた。

「それは偉大な発見だが、しかし<ruby><rb>惜</rb><rt>お</rt></ruby>しいことに、この場所が分らない」

「場所は分らぬことはないと思います。明日僕の後を誰かにつけさせ、箱自動車の後を追跡すればいいではありませんか」

「なるほど、そうやればいいわけだね」

大官は<ruby><rb>莞爾</rb><rt>かんじ</rt></ruby>と笑った。

自記地震計

その翌朝のことだった。

帆村探偵はまた左官の道具と弁当箱とをさげて、南千住の終点へいった。

私服刑事からなる別動隊は、帆村の行動を遠方からじっと見守っている。

定刻の午前六時になった。

「変だなあ、誰も来ないじゃないか」

定刻になっても、昨日の顔ぶれは誰一人として集って来なかった。<ruby><rb>肝腎</rb><rt>かんじん</rt></ruby>の五郎造親方さえ顔を見せなかった。

「これは<ruby><rb>失敗</rb><rt>しま</rt></ruby>った」

帆村が叫んだ。もう遅かった。敵はすっかり勘づいてしまったらしい。

仕方なく私服刑事の一隊に命令をさずけて、トラックの入っている筈の倉庫の中を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>かせたが、そんなものは入っていないということが分ったばかりで、何の<ruby><rb>足</rb><rt>た</rt></ruby>しにもならなかった。

どうして帆村のことが分ったのだろう。

シンプソン病院に電話をかけて、怪我人原口吉治の様子をたずねると、看護婦が電話口に現れて、あの方なら昨夜御退院になりましたという。<ruby><rb>愕</rb><rt>おどろ</rt></ruby>いて聞きかえしたが、全くそのとおりだった。引取人はと聞けば、どうやら親方の五郎造らしく思われた。

貴重なる捜索網が、ぷつんと破れてしまった形だった。帆村は<ruby><rb>地団駄</rb><rt>じだんだ</rt></ruby>ふんで<ruby><rb>口惜</rb><rt>くや</rt></ruby>しがったが、もうどうすることも出来ない。

とりあえずこの大事件を大官に報告して、指揮を<ruby><rb>仰</rb><rt>あお</rt></ruby>いだ。

怪我人の原口吉治が、他の病院に入っているかも知れないというので、京浜地方に亘って調べてみたが、得るところがなかった。シンプソン病院では、それほど大した怪我でなかったから、入院しないでもいいかもしれないという話だった。

とにかく大きな魚が逃げた。

この上は、夜に入って、五郎造親方が帰宅するところを<ruby><rb>捕</rb><rt>とら</rt></ruby>えて、これを<ruby><rb>説諭</rb><rt>せつゆ</rt></ruby>するほかない。お前も日本人だろうが、某大国に雇われているのを知らないわけじゃなかろう。そんならあの工事場の秘密を知っているかぎり打ち明けろ、などと<ruby><rb>責</rb><rt>せ</rt></ruby>めるより<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>はないのだ。

ところが、物事がうまく行かないときは、どこまでも失敗がつづいた。というのは、五郎造がその夜とうとう帰宅しなかったことである。

<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>もその夜ふけ、家には速達が届いた。それには五郎造の<ruby><rb>筆蹟</rb><rt>ひっせき</rt></ruby>でもって、工事の都合で当分向うへ泊りこむから心配するなと書いてあった。

奇怪なることである。どこから知れたことか分らないが、とにかく向うでは気がついて職人たちを帰宅させないことにしたのだ。そうなると、こっちの捜索は殆ど絶望というほかない。

「うーむ、失敗も失敗も、大失敗をやってしまった」

帆村探偵は、頭を<ruby><rb>圧</rb><rt>おさ</rt></ruby>えて<ruby><rb>懊悩</rb><rt>おうのう</rt></ruby>したが、もはやどうにもならなかった。

そうかといって、これほどの大事件を、このまま捨てて置くわけにはゆかなかった。官憲はともかくも、帆村自身はなんとか再び例の秘密工事場に達する路を発見したいものと日夜そればかりを考究した。

それから一週間ばかり後のことであった。

帆村の熱情が神に通じたのか、彼はゆくりなくも重大なる事柄を思い出した。

それは例の工事場で働いていたとき、その中ではないが、どこかその附近でもって、しきりに<ruby><rb>杙打</rb><rt>くいう</rt></ruby>ち作業をやっているらしい<ruby><rb>地響</rb><rt>じひびき</rt></ruby>を聞いたことであった。

それについて、彼は今まですっかり忘れていた重大なる手懸りを発見したのだ。それはその杙打ちの音が、とんとんとんとんという具合になめらかに行かず、或るところで<ruby><rb>引懸</rb><rt>ひっかか</rt></ruby>るようにとんとんとんととんという特徴のある音をたてることであった。歯車の歯の一つが欠けているのか、或はまたロープにくびたところでもあるのか、とにかく不整な響を発するのであった。

「こいつは<ruby><rb>締</rb><rt>し</rt></ruby>めた。もっと早く気がつけばよかったんだが」

帆村は躍りあがって<ruby><rb>悦</rb><rt>よろこ</rt></ruby>んだ。彼はとんとんとんととんという<ruby><rb>不整音</rb><rt>ふせいおん</rt></ruby>の地響を、どう利用するつもりであろうか。

彼はすぐさま家を飛びだして、帝国大学の地震学教室に駈けつけた。そこで教授に面会して、携帯用の自記地震計の<ruby><rb>貸与方</rb><rt>たいよかた</rt></ruby>を願いいでた。教授は事情を聞いて、<ruby><rb>快</rb><rt>こころよ</rt></ruby>く教室にあるだけのものを貸してくれた上、数人の助手までつけてくれることになった。

帆村の眼は、久しぶりに<ruby><rb>生々</rb><rt>いきいき</rt></ruby>と輝いた。彼はこの自記地震計をもって、かのとんとんとんととんという不整な地響のする地点を探しあてるつもりだった。もちろんそれはまず某大国関係の建物のある地域から始めてゆくことに考えていたが、それにしても彼は、まず真先にこの地震計を<ruby><rb>据</rb><rt>す</rt></ruby>えつけたい或る一つの場所を胸の中に秘めていた。

東京要塞

五郎造親方は、この頃になって、<ruby><rb>脱</rb><rt>のが</rt></ruby>れられない自分の運命を<ruby><rb>悟</rb><rt>さと</rt></ruby>るようになった。

始めは、いい<ruby><rb>儲</rb><rt>もう</rt></ruby>けばなしとばかりに、何の気もなく手をつけた仕事だったが、一週間も前から、彼はこの仕事の性質の容易ならぬことに気がついていた。身の危険をも感じないではなかったが、今となってはもうどうにもならない。一行六人は、牢獄のなかに<ruby><rb>拘禁</rb><rt>こうきん</rt></ruby>されているのも同然の姿だった。

大体の工事が済んで、左官の仕事はもうあまり<ruby><rb>要</rb><rt>い</rt></ruby>らなくなった。それだのに、誰が頼んでも帰宅を許そうとしない松竹梅の札をつけた監督連だった。

一行六人は、毎日することもなく一室に閉じこめられ、<ruby><rb>飽食</rb><rt>ほうしょく</rt></ruby>していた。

或る日、五郎造親方は、只一人呼び出された。左官の仕事道具をもって出てこいというのであるから、これは仕事が出来たのに相違ないと思った。珍らしいことだ。これで四日間というものを、仕事なしで暮したわけだ。

五郎造親方は、久しぶりで長い廊下をとおり、見馴れた小さなくぐり戸から、例の工事場へ入っていった。だが彼の一生において、このときぐらい<ruby><rb>胆</rb><rt>きも</rt></ruby>を<ruby><rb>潰</rb><rt>つぶ</rt></ruby>したことはなかった。

「<ruby><rb>呀</rb><rt>あ</rt></ruby>っ、――」

といったきり、彼は腰をぬかして、へたへたと<ruby><rb>漆喰</rb><rt>しっくい</rt></ruby>の上に坐ってしまった。

見よ！　さきごろまでは、何一つ入れてないがらんとした<ruby><rb>空</rb><rt>あ</rt></ruby>き部屋だったのが、今はどうであろうか。その口径、およそ五十センチに近いと思われる巨砲が、彼の塗りこんだ漆喰の上に、どっしりと据えられてあるではないか。それは主力戦艦の主砲よりはるかに長さは短いが、それでも砲身の全長は五メートル近くもあった。砲の胴中は、<ruby><rb>基部</rb><rt>きぶ</rt></ruby>において直径が一メートル半ぐらいあった。ずんぐりとした大攻城砲であった。

なんのための攻城砲か。まさかこの建物の中に、巨砲が据えられるとは気がつかなかった。五郎造でなくても、誰でもこれには腰をぬかすであろう。

巨砲の蔭から、士官が三人ばかり姿を現わした。

「おおっ」

五郎造は全身をぴりぴりと<ruby><rb>慄</rb><rt>ふる</rt></ruby>わせた。

彼の三人の士官こそは、<ruby><rb>見紛</rb><rt>みまが</rt></ruby>うかたなく某大国の海軍士官であった。五郎造は新聞紙上に、ニュース映画に、またＳ公園における忠魂塔除幕式の日に、その某大国将兵の制服をいくどとなく見て知っていたのである。

（夢を見ているのではないか）

と疑って、<ruby><rb>太股</rb><rt>ふともも</rt></ruby>をぎゅっとつねってみたが、やはり痛い。だからこれは夢ではない。

夢ではないとしたら、この場の有様は、なんという<ruby><rb>戦慄</rb><rt>せんりつ</rt></ruby>すべきことではないか。

砲架の上を歩いていた士官は、松監督をさし招くと、なにごとか命令した。

松監督は<ruby><rb>畏</rb><rt>かしこ</rt></ruby>まって、五郎造のところへ飛んできた。

「おい、やり直しの仕事があるんだ。大急ぎでやってくれ。なに立てないって。そんなことでどうするんだ。じゃあ、こうしてやろう」

と、靴の先で、五郎造の<ruby><rb>腰骨</rb><rt>こしぼね</rt></ruby>をいやというほど蹴上げた。

五郎造は<ruby><rb>憤怒</rb><rt>ふんぬ</rt></ruby>のあまり、ふらふらと立ちあがることに成功した。

「おう監督さん。おれたちは今まで黙って仕事をしていたが、この大砲はどこの国のものなんだね」

と、彼はぶるぶる慄える指さきで巨砲を指した。

「なんだ。今ごろになって、そんなことを聞くのか。分っているじゃないか。これは日本の大砲じゃないよ」

「ふむ、するとどこかの国の大砲だな。家の中にこんな秘密の砲台を<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えて、一体どうする気だ」

「そんなことを俺が知るものかい。俺もお前と同じように、<ruby><rb>傭</rb><rt>やと</rt></ruby>われている身分だよ。なんでもいいから、お金を下さる御主人さまのいいつけ通りにしていれば間違いはないんだ」

「うむ、やっぱりそうか。じゃ、貴様も使われているんだな。俺はもう今から仕事をしないぞ。日本の国内にこんな<ruby><rb>物騒</rb><rt>ぶっそう</rt></ruby>なものを据えつけるような卑怯な国の人間に、いい具合にこきつかわれてたまるものか」

「なんでもいいから早くやれ、さもないとお前の<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>は無いぞ。ぐずぐずすればこっちの生命まで危いわ」

松監督はしきりに五郎造をつっつくが、五郎造はもうなんといっても云うことを聞かなかった。

砲架の上にいた外国士官は、それを見るとつかつかと降りてきた。そして<ruby><rb>流暢</rb><rt>りゅうちょう</rt></ruby>な日本語で、

「貴方、なぜ早くやりませぬか。云うとおりしないと、この大砲を撃ちますよ。この砲口はどこを狙っていると思いますか。これを撃つと、大きな砲弾がとんでいって、或る重要な官庁を爆破してしまいます。そうすると、日本の動員計画も作戦計画も、なにもかも灰になってしまって、日本は戦争することが出来なくなります。どうです、撃った方がよいですか」

「卑怯者。日本人には、そんな卑劣な陰謀をたくらむ奴なんかいないぞ」

「――それとも平和的に解決しますか。わたくしの政府は、いま日本政府に平和的条約を申込んであります。それが聞きとどけられるようなら、これを撃たないで済むのです。貴方がいま乱暴して、わたくしたちの云うことを聞かないと、やむを得ずこの大砲を撃たねばなりません。どっちにしますか」

と、目の<ruby><rb>碧</rb><rt>あお</rt></ruby>い士官は、五郎造をつかまえて子供だましのようなことをいった。しかしその<ruby><rb>脅</rb><rt>おど</rt></ruby>しの文句の中にも、いまこの巨砲が某官庁に照準せられているというのは本当なのであろう。測量学の発達している今日、大砲の射手が目標を見て狙わなくとも、他の方法で観測した結果により、目標を見ずともうまく照準をつけることができるわけだった。ああしかし、この恐るべき攻城砲が<ruby><rb>亜鉛</rb><rt>トタン</rt></ruby>屋根の下に隠されているなんてことを、誰が知っているだろうか。

なんとかしてこの大秘密を知らせる方法はないものか。五郎造はもう自分の生命のことなどは思いあきらめた。

そのときであった。

奥まった扉ががらっと開かれると、顔を<ruby><rb>真青</rb><rt>まっさお</rt></ruby>にした某大国士官が、一隊の兵士を連れてとびこんできた。

「大佐どの、大変であります。いま九機から成る日本の<ruby><rb>重爆</rb><rt>じゅうばく</rt></ruby>が現れて上空を旋回しています。どうやらこの<ruby><rb>攻城堡塁</rb><rt>こうじょうほうるい</rt></ruby>が気づかれたようですぞ」

「なに、重爆が旋回飛行をやっているって？　それは本当のことか」

「本当ですとも。ああ、あのとおり聞えるではありませんか、敵機の爆音が……」

「うむ、なるほど。これはいけない。東京要塞長はどこにいられるだろう。すぐ指揮を仰がねばならぬ」

そういっているところへ、けたたましい電話のベルが鳴った。

大佐といわれた士官はその方へ飛びついていったが、受話器を握って大声に<ruby><rb>喚</rb><rt>わめ</rt></ruby>いた。

「――はっ、そうでありますか。こっちの用意は出来ています。いつでも発射できます。はっ、すぐ攻撃しろと<ruby><rb>仰有</rb><rt>おっしゃ</rt></ruby>るのですか。畏りました。では号令をかけます」

大佐は電話を置くと、隊員の方を向いて、

「気をつけ。――総員、戦闘準備。主砲発射<ruby><rb>方</rb><rt>かた</rt></ruby>用意！」

いよいよ悪魔のような巨砲が、わが日本帝国の心臓部めがけて砲撃を始めることとなった。五郎造はもう<ruby><rb>逆上</rb><rt>ぎゃくじょう</rt></ruby>してしまった。いきなり兵をかきのけて、<ruby><rb>砲架</rb><rt>ほうか</rt></ruby>によじのぼろうとした。

「こら、なにをする」

どーんと一発、傍にいる下士官のピストルから煙が出た。五郎造は棒のようになって、砲架から転げおちた。

恐怖の瞬間は迫る。――

しかしもうそれ以上、この物語をつづける必要はない。なぜなれば、その次の瞬間百雷が一時に落ちて<ruby><rb>砕</rb><rt>くだ</rt></ruby>けるような大爆音がこの室に起った。<ruby><rb>亜鉛</rb><rt>トタン</rt></ruby>屋根を抜けて真赤な焔の幕が舞い下りたと思った<ruby><rb>刹那</rb><rt>せつな</rt></ruby>、砲身も兵も建物も、がーんばりばりと大空に吹きあげられてしまったから。

東京市民は、近きも遠きも、この時ならぬ空爆に屋外にとびだして、曇った雪空に何十丈ともしれぬ真黒な煙の柱がむくむくと立ちのぼるのを見上げて、不審の面持だった。――

今でも帆村荘六は、あの“東京要塞”と<ruby><rb>僭称</rb><rt>せんしょう</rt></ruby>していた某大国の秘密砲台の位置発見に<ruby><rb>大功</rb><rt>たいこう</rt></ruby>をたてた自記地震計のドラムを<ruby><rb>硝子</rb><rt>ガラス</rt></ruby>張りの箱に入れて、自慢そうに持っている。その黒いドラムの上には、あの特徴のあるとんとんとんととんという地響が白い線でもって美しい震動曲線を描かれてあった。そしてその下には、

「昭和×年十二月七日、某大国大使館裏にて観測」と説明がうってあった。そして彼は得々として客に云うのであった。

「――だから僕はいつも機会あるごとに<ruby><rb>唱</rb><rt>とな</rt></ruby>えていたものですよ。外国の大使館なんてものは、すくなくとも丸の内<ruby><rb>界隈</rb><rt>かいわい</rt></ruby>に置いとくものじゃないとね。あの“東京要塞”の巨砲ですか。あれはマール号が本国から持ってきたんですよ。どうしてといって、つまりあの忠魂記念塔の中に隠して大使館内に持ちこんだのですよ。全く某大国にも<ruby><rb>頭脳</rb><rt>あたま</rt></ruby>のいい人がいますよ」