Soranoha

新しいアカデミアを

あたらしいアカデミアを

宮本 百合子

日本に、言葉の正しい由緒にしたがっての、アカデミア、アカデミズムというものが在るのだろうか。徳川幕府のアカデミアであった林氏の儒学とそのアカデミズムとは、全く幕府の権力に従属した一つの思想統制のシステムであった。幕末の、進歩的な藩に置かれた藩学校は、当時表面上は幕府法律で禁じられていた英、蘭学の学習を秘密に行ったり、「万国」の事情に精通しようとする努力を示した。それは、たしかに幕府政治の無力を知り、封建制におしひしがれている社会生活について沈黙しているにたえなくなった「人智の開発」であり、明治に向う知識慾であったにはちがいない。しかし、これらの藩学校は、藩という制度の枠にはまっていた本質上、当時の身分制度である士農工商のけじめを脱したものではなかった。「士分の子弟」の智能開発が藩学校での目的であった。この性格は、士分のものが来るべき「開化」の担当者であるべきだという見通しに立ったものであった。そして、明治維新という不具なブルジョア革命は、事実ヨーロッパにおけるように市民による革命ではなくて、下級武士とその領主たちが、一部にふるいものをひきずったままでの近代資本主義社会への移行であった。明治維新の誰でも知っているこういう特質は、「四民平等」となって、ふるい士農工商の身分制を一応とりさったようでも、数百年にわたった「身分」の痕跡は、人民生活のなかに強くのこりつづけた。明治文学の中期、樋口一葉や紅葉その他の作品に、「もとは、れっきとした士族」という言葉が不思議と思われずに使われている。この身分感は、こんにち肉体文学はじめ世相のいたるところにある斜陽族趣味にまで投影して来ているのである。

日本の大学、なかでも帝大といわれた帝国大学は、明治以来のそういう日本的な伝統のなかで、どこよりもふるい力に影響されていたところではなかったろうか。帝大とよばれた時代でも学力と学資があれば、もちろん、士族、平民という戸籍上の差別が入学者の資格を左右するものではなかった。しかし、日本のあらゆる官僚機構と学界のすべての分野に植えこまれている学閥の威力は、帝大法科出身者と日大の法科出身者とを、同じ人生航路に立たせなかった。「息子を世に立たせよう」という自身には封じられていた希望で、田畑を売ってまで「大学を出した」日本の親のいじらしい心は、他の半面で、日本の軍国主義社会を支え維持させて行く大きな経済的社会的基盤となった。というのは「うちの息子は学問ができて人物もしっかりしているのに、金がないばかりに大学へやれない。知事や大臣にはなれなくても、せめて軍人になれば出世は力次第だから。」という親心と息子の心を吸収して、百姓の息子でも、軍人ならば大将にだって成れる道として、軍国日本に軍人の道が開かれていたのである。日本の大学は、人類の理性と学問に関するアカデミアであるより以前に、官僚と学閥の悪歴を重ねた。見えない半面で軍国主義日本の基盤を養いつつ……。

尾崎紅葉の「金色夜叉」は、貫一という当時の一高生が、ダイアモンドにつられて彼の愛をすてた恋人お宮を、熱海の海岸で蹴倒す場面を一つのクライマックスとしている。明治も中葉となれば、その官僚主義も学閥も黄金魔力に毒されてゆく。

もし、昔の東大の「よき日よき大学」によきアカデミズムがあったのなら、どうしてケーベル博士は大学の教授控室の空気を全く避けとおしたということが起ったろう。夏目漱石は、学問を好んだし当時の知識人らしく大学を愛していた。彼に好意をもって見られた『新思潮』は久米、芥川その他の赤門出身の文学者であった。けれども、漱石は大学の教授控室になじめなかった。「大学の学問」について疑問を抱いていた。博士号をおくられたときは、それをことわった。

日本の戸籍と、公文書から、士族、平民、私生子という差別が徹底してとりのぞかれたのは、昭和十四、五年ころになってだろうか。侵略戦争を強行し、すべての人民を戦争目的に動員するために、日ごろの差別感情をとりのぞく必要が感じられたからであった。つまり、人権剥奪の最もはげしい形である戦争への召集のために、個々の存在抹殺としての身分平等化が行われたわけであった。朝鮮の人々の日本名への改姓が強制されたと同じに――。しかし、日本の大学でも兵営でも、部落の人々の遭遇する運命は多難であった。そして現在も決して偏見がとりのぞかれたとはいえない。松本治一郎氏の天皇制に対するたたかいとパージがよくその消息を告げている。

今日の大学は、どのようなアカデミアであり、アカデミズムをもっているだろうか。ことあたらしく観察するまでもなく、大学法案に関する問題、レッド・パージに対する各大学の状態が強いられている現実を語っている。大学は、英語を使用し、英語で使用される新しい大小の官僚、事務官を養成すればことたりるところという標準で組みかえられつつある。それに抵抗して日本の理性と学問、文化の自立を主張する動きは、全日本の規模で全学問の分野を包含した。生きる自由、学び、働き、良心に従って行動する自由とともに、人権の一つとして奪われた理性を回復しようとする日本の青春の奮闘がある。すべての人々に訴えるこれらのたたかいの成果におそれて、労働組合、言論機関、芸能人ばかりでなく、教授と学生への思想抑圧、レッド・パージがおこった。文部、法務、特審関係、どこを見てもその指導的地位にいるものは、大学の第何期生かであり先輩である。過去の大学に、もしアカデミアの精神が伝統するというならば、これらの人々が現在、大学とその教授、学生――即ちわたしたち人民に向って示す精神のどこにその片鱗を見よ、というのだろうか。

こんにちの日本からは、正しい人民のアカデミアとアカデミズムが生まれてゆかなければならない。人類の発展と幸福のために、真に貢献する学問と学問そのものの尊重の精神が確立されなければならない。このことは、民族の理性を守る仕事であり、人権擁護のためのたたかいのまぎれもない一面である。〔一九五〇年十二月〕

底本 / Source edition

底本:「宮本百合子全集 第十六巻」新日本出版社
1980(昭和55)年6月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十二巻」河出書房
1952(昭和27)年1月発行
初出:「東京大学新聞」
1950(昭和25)年12月14日号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月14日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

この表示について / About this rendering

記録は下にリンクした署名済みの TEI ファイルです。このページはそれを読むための一つの形です。読みが複数ある箇所は一つだけを本文に示し、もう一方は語の title に残しています。 / The record is the signed TEI file linked below. This page is one way of reading it. Where the text has more than one reading, the page shows one of them and keeps the other on the word itself, in its title text.

リリース / Release
913b24012e1626b47bebf5a14fd31773728229efdb088f1ceb934717c1ac800c
TEI
/works/003495_000311/tei
プレーンテキスト / Plain text
/works/003495_000311/plaintext
書誌 / Bibliography
/works/003495_000311/

宮本 百合子「新しいアカデミアを──旧き大学の功罪」(新字新仮名)、底本『宮本百合子全集 第十六巻』新日本出版社、1980年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 003495_000311, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

引用のしかた / How to cite