Soranoha

共産党とモラル

きょうさんとうとモラル

宮本 百合子

三・一五というと、今日では日本の解放運動史の上に、知らない人のない記念日となった。四・一六とならべて今年もわれわれに記念される日であるけれども、大体こういう記念日の今日へのうけとり方というものはよく考えてみると、決して通り一ぺんのものではないと思う。三・一五の私たちへつたえる教訓は、一九二八年におこった大規模な共産党と共産主義者に対する弾圧は、これを機会に日本の治安維持法が改悪され、特高警察がおかれ、検事に思想係が出来たというだけのことではなかった。私どもがもっとも銘記すべきことは、この三・一五の被告であった指導者のうち、非常に多数の人が今日の日本の民主化をあらゆる方法で邪魔している階級的裏切者に顛落している事実である。

佐野学、鍋山貞親、三田村四郎などという今日の勤労階級の敵は三・一五事件のときの日本共産党の指導者たちであった。

同じ三・一五の被告であった徳田球一、志賀義雄などの人々が、永い獄中生活にもかかわらず、一九四五年十月に解放されてからすぐ共産党の合法的活動に着手したことを思いあわせると、私たちは同じ共産党員といわれる人々の中に、非常な大きい差別があることにおどろく。

同じ共産主義者といっても、困難な条件におかれたとき、佐野、鍋山、三田村のように共産主義の理論を、自分の身を守るに都合のよいようにねじまげて安全をはかり、しかも治安維持法のなくなったあとまで、勤労階級の民主化と解放を邪魔しつづけている事実は、すべてのまじめな人々を深く考えさせずにはおかない。

今日日本の共産党は十万の党員を組織している。私たち一人一人がみなその十万の一部をなしている。三・一五が二十年目の記念の日をむかえるとき、すべての党員は自分たちがどんなたよりになる党員であるかということについて、よく自分をしらべてみるべきであると思う。なぜなら治安維持法そのものはなくなっても、日本の民主化の現状をみれば勤労階級の当面している困難は決して単純でない。佐野、鍋山、三田村達がさかんに策謀している組合、労働組合の民主化運動に対し組合員党員の一人一人がどんなに正しくまたひろい実際性をいかして闘っていくかということを、改めて考えてみるべき日でもある。三・一五の記念日をあの時代のこととして、ただ暦の上でだけ記念するならば全く意味はない。ひっくるめて、三・一五といってしまえば、そのなかには今日私たちがはっきり敵として理解しなければならぬ人々をもふくんでいるのであるから三・一五を記念するならば、三・一五の検挙を通じて今日まで一貫して勤労階級の解放のために闘いつづけている人々を記念しなければならない。今日の社会事情と党の合法性とのなかで三・一五のほこるべき伝統は、私たち一人一人のなかにどんな具体的な今日の形でうけつがれているかということこそ見極められなければならない。三田村たちが非合法活動の方便に名をかりて、放蕩していたことはすべての文献にのこっている。今日封建性に反対するという名目で私たちの間に性的な放恣がないであろうか。インフレーションはたれの経済生活をもうちこわしている。インフレーションに名をかりて、金の上でのルーズさが案外見のがされているところがあるのではないだろうか。勤労階級の解放というような大事業をめざしている共産党員がそういうことについて気をくばることは私的な些事であるかのように言う人がある。しかし三・一五の顛落者が金と女にルーズであったことを忘れてはならない。それからのちあらわれたスパイも金と女にきたなかった。金と女というものは現代の社会でもっとも卑俗な欲望の対象であり、また社会矛盾の表現である。

市民的なモラルの基準になるこういうことさえも、私たちは本当に純潔な階級活動家としてまじめに理性的にとりあげていかねばならない。

共産党は外の政党と全くちがう本質に立っている。政権をとることが自分の党の利己的な利益と一致した外のあらゆる政党と全くちがう。共産党は新らしい社会をつくるための党であり、より合理的な人間関係を生み出していくための党であるから、外の政党とちがって政党の綱領そのものが、新らしいモラルに立っている。

二十年の歳月はすべての共産党員が新らしいタイプの政治家――うそをつくのが政治家だと思われていた常識の、全く反対の側に立つ一個のモラリストとしての社会活動家、政治家としてあらわれる責任を求めている。この責任は頭で理解するよりはるかに実現がむつかしい。そのむつかしさがしみじみとわかるとき、私たちが三・一五からくみとるものは、決して当時もちいられていた「はなやかなりしころ」という形容詞ではないことと思われる。〔一九四八年三月〕

底本 / Source edition

底本:「宮本百合子全集 第十六巻」新日本出版社
1980(昭和55)年6月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十二巻」河出書房
1952(昭和27)年1月発行
初出:「アカハタ」
1948(昭和23)年3月14日号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月14日作成
青空文庫作成ファイル:
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書誌 / Bibliography
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宮本 百合子「共産党とモラル──三・一五によせて」(新字新仮名)、底本『宮本百合子全集 第十六巻』新日本出版社、1980年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 003458_000311, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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