Soranoha

石を投ぐるもの

いしをなぐるもの

宮本 百合子

去る十二月十九日午後一時半から二時の間に、品川に住む二十六歳の母親が、二つの男の子の手をひき、生れて一ヵ月たったばかりの赤ちゃんをおんぶして、山の手電車にのった。その時刻にもかかわらず、省線は猛烈にこんで全く身動きも出来ず、上の子をやっと腰かけさせてかばっていた間に、背中の赤ちゃんは、おそらくねんねこの中へ顔を埋められ圧しつけられたためだろう、窒息して死んだ。

この不幸な出来ごとを、東京検事局では、「一般のお母さんへの警告」として、過失致死罪として起訴した。殺人電車、赤ちゃん窒息という見出しで新聞はこの事件を報じた。そして、この不幸は母親ばかりの責任ではなく、我もろとも十分に知りつくしている昨今の東京の交通地獄の凄じさに対して、熱意ある解決をしない運輸省の怠慢について、注意を喚起した。

世間の輿論は、不幸な母親由紀子さんに同情を示し、結局、東京検事局は起訴猶予とした。そして、忙しくて乏しい歳末の喧騒にまぎれて、この事件は忘れられ、今日、私たちは、その事件のおこった当日と大して変りない暴力的交通状態の下に暮しているのである。

新聞記事の出た前後、検事局の態度にあきたりない投書が、どっさりあった。この一事件は、猶予という形で落着したのであったが、考慮ある人々は、この一事件が暗示しているところが、どんなに深刻であるか、今日なおしばしば思いめぐらしているであろうと思う。

全く不幸な災難としかいいようのないこの事件が、先ず法律的処罰の対象となり得るということに一驚したのは、私だけではなかったろう。検事という職務の官吏が、みんな自家用自動車で通勤してはいない。弁当の足りないことを心のうちに歎じつつ、彼等も人の子らしく、おそろしい電車にもまれて、出勤し、帰宅していると思う。官吏の経済事情は、旧市内のやけのこったところに邸宅をもつことは許さないから、多数の人々は、会社線をも利用して、遙々とたつきのためにいそしんでいるであろう。良人であり父親であるこれらの官吏たちが、わが妻、わが子をつれてたまの休日にいざ団欒的外出と思うとき、第一、そのつつましいたのしさをうちこわすものは何だろうか。交通地獄の恐怖である。検事局と書いた木札を胸にかけて、乗ろうとする粗暴な群集を整理するわけにもゆかない。一私人として立てば、やはり我身をもみくしゃにされ、妻を顧みて「おい大丈夫か」といい、子の名を呼んで「乗れたか?」と叫びもするだろう。人間の姿がそこにある。今日の、日本の人民の一員たる現実の姿が、よかれあしかれ、そこに現出しているのである。

そういう日常の生活をしている官吏たちが、偶々たまたま一人の若い母親とその赤子の上にふりかかった災難をとりあげて警告的処罰をしようと思い立った理由は、どこにあり得たのだろうか。常識ある万人の心が、その母と子とを気の毒と思う場合、その人が処罰の対象となったということで、人民はその人が気の毒だし、災難をうけた方が罪になるとは、さてこわいと、畏縮して、女子供の外出がへると思いつかれでもしたのだろうか。

由紀子という若い母が、どういう用向きで二人の子をひきつれて外出したかが記事の中に語られていないのは遺憾である。けれども、私たちは、自分で自分の必要とした目的のために、動く自由はもっている。交通機関が極端な殺人状態の昨今、ただの気保養に、二人の子をつれて山手線に乗る母は、およそ無いと判断して間違いない。一家の中の細々としたさまざまの用事は食糧事情の逼迫している今日、女を家庭の内部で寸暇あらせないと共に、家庭の外へも忙しく動かせる。どんな婦人でも、今の乗物には身軽こそがのぞましい。由紀子という人が、二人の子供を前とうしろにかかえて外出したということは、その一家に、留守番をしたり子供を見たりする人手の無いことを語っているのである。

警告を発するならば、先ず運輸省の不手際に対して発せらるべきである。更には、存在の無意義さによって解消しつつある厚生省が、社会施設として、それぞれの地区の住民に欠くべからざる托児所、子供の遊場をこしらえる力さえなかったことに向って、警告が与えらるべきであったと思う。日本婦人協力会というような、戦争協力者の集りのような婦人団体は、せめて彼女らが女性であるという本然の立場に立って、時間と金とを、そのような母と子とのために現実性のある功献に向けるべきであると、警告すべきであった。日本婦人協力会には、検事局の人々にとって殆ど内輪の、因縁浅くない故宮城長五郎氏夫人宮城たまよが主要な一員として参加しているのである。遠慮なく警告してもよかったろう。

責任を問うという意味での警告であるならば、おのずから区別の過程をふまえなければならないだろう。

由紀子の背中の赤子は、何故圧死しなければならなかったか。ただ一つの「何故」ではあるが、この一語こそ、戦争犯罪的権力に向って、七千万人民が発する詰問としての性質をもっているのである。この「何故」は止めるに止めかねる歴史の勢をはらんで、権力が人民に強いた不幸の根源に迫るものである。何故、運輸省は今日の殺人的交通事情を解決しかねているのであろうか。その答えが、余り集約的に、今日の日本の破局的な各方面の事情を反映していることに、解答者自身おどろかざるを得まいと思う。この一つの「何故」への具体的な答えには、農林大臣が米の専売案を語り、それと全く反対に農林省の下級官吏は結束して大会をもち、食糧の人民管理を要求し、戦争犯罪人糺弾の人民投票をやっているという今日の事実さえも、包括されなければならないのである。責任を問うための警告的処罰であるならば、現政府の中に今もなおさまざまの名目の下に止っている戦争犯罪者、その協力者たちを、警告処罰すべきではなかろうか。私たち通常人の公憤は、そのように告げるのである。

この不運な母子の一事件は、実に多くのことを考えさせる。日本の民法が、法律上における婦人の無能力を規定している範囲は、何とひろいことだろう。女子は成年に達して、やっと法律上の人格をもつや否や、結婚によって「妻の無能力」に陥ってしまう。婦人が人間として能力者である時間は、特別な結婚難の時代のほかは、本当に短いのである。ところが、刑法において、婦人はどう扱われているであろうか。刑法上、その行為の責任を負うに耐えないものとなっている事は、精神異常者その他人並の分別を一時的にしろ喪った者となっている。女子が、神経の弱い、社会的因襲による無智から常規を逸しやすいものとして、結論に当っていくらかの斟酌を加えられる場合は決して尠くないけれども、刑法は女子が人妻だからといって無能力者と規定してはいないのである。日本の婦人の置かれて来た立場の奇怪な矛盾は、私たち自身信じかねるほどである。民法と刑法とにおける婦人の地位というものは、このような悲劇的矛盾のままであるべきではない。

日常生活の幸、不幸にかかわる民法において一人民として婦人が夥しく無力である事から、その社会的存在を守るに力ない無権利から発したさまざまの罪過に対して、罰は一人格として受けなければならないのは、余りにむごたらしいことではないだろうか。

新しい日本が誕生するならば、その民主的な第一日の暁に、この点が、最も根本的な人権の問題として提起されなければならないのである。

司法省の部内にも種々の動きが在ることを新聞は報じている。そして、その動きは、二枚の種板が一つの暗箱の中でずって動くように、上層官吏と下級官吏との間で、いくらかずつ異った利害をもっているのだろうとも、推察される。しかし、概括して、民主的方向へ、といわれている。民主的というのは、どういうことだろう。

この不幸な由紀子さんとその赤子との場合を例にとったならば、どういう風に全事情が理解され、取扱われたとき民主的といい得ただろうか。

検事局の係検事は、先ず自分が一人の住民として朝夕その身を痛めている交通地獄の有様をリアリスティックに思いおこすべきであった。自分も今日に生きるただの一市民として、良人であり父親である自分の幸多しとはいいようのない日常の思いを、噛みなおすべきであった。職権、或は職業的解釈より前に、一個の具体的人間であるべきであった。そういう風に心が生きて生活にふれていれば――生活の自覚に充たされているならば、誰にしろ、敢て「最初に石をなげる者」とはなり得なかっただろうと思う。

ところが、この災難は起訴された。執行猶予ということは、不起訴になったということではない。起訴した検事局は、どこまでも刑法に該当するものとして、ただ処罰を猶予したに過ぎなかったのである。法律上は素人である平凡なおとなしい市民は、このことからどんな印象をうけたであろうか。今日になっても、検事局は、やっぱり恐ろしいところであるという強い感銘を与えられた。常識では、災難と思えるところに、摘発の専門家の手にかかると、法律上犯罪となる条件が見出され得るということは、一般人の信頼を、安らかさに置くよりも、気味わるく思わせる。

もとより悪質な諸犯罪、殺人、お家騒動のからくりに対しては、十分専門家としての追究が必要とされる。これから実現する戦時利得税、財産税をすりぬけようとして、大小の各財閥が工夫をこらすであろう術策などは、きっとその専門家的欲望の対象となるであろう。

民主的な検事局というならば、あらゆる場合、基本的な人権の劬り、事件関係に対する社会の現実に立ったリアルな科学的洞察、真の道義的責任のありどころを明確にすることがのぞまれて当然である。一つの行為に対する法的処罰が、道義上の判断と評価とに一致しなければ一致しないほど、刑罰の非人道性が露出されるばかりである。罰せられたる幾人をもたらしたのは、治安維持法であったことを人々が忘れることは無いのである。〔一九四六年三月〕

底本 / Source edition

底本:「宮本百合子全集 第十六巻」新日本出版社
1980(昭和55)年6月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十二巻」河出書房
1952(昭和27)年1月発行
初出:「文明」
1946(昭和21)年3月号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月14日作成
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書誌 / Bibliography
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宮本 百合子「石を投ぐるもの」(新字新仮名)、底本『宮本百合子全集 第十六巻』新日本出版社、1980年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 003436_000311, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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