Soranoha

逆立ちの公・私

さかだちのおおやけ・わたくし

宮本 百合子

先ごろ、ある婦人雑誌で、婦人の公的生活、私的生活という話題で、座談会を催す計画があったようにきいた。何かの都合で、それは実現されなかった。しかし、その話をきいたとき、わたしは、それは面白い話題のつかみかただと思った。提案者の意企は、どういうところにあったか知らないけれども、今日の日本の現実と向い合ってこのテーマが出て来るからには、まさか、婦人の参政権に伴って、婦人の日常性の中で、公的生活と、私的生活とは、どう調和するか、或は、どう調和させて行くべきかというような、官僚じみた視点に立って出されたのではないであろう。

真にこのテーマが、今のわたし達の生きている現実の中で出された場合、先ず、今日の公的生活とは何であり、私的生活とは何であるか、そこから新しく見直されてゆかなければならない状況にある。そこから課題が展開されて、はじめて、生きた話となってゆくのではなかろうか。わたしは、そう考えた。

公的生活、私的生活ときいたとき、心に閃いたのは、現代の日本人民の生活では、実質的に、その二つが互に入れ替ってしまっている、という事実であった。私的生活という名で区分されていた日々の生活の諸面におこっているあらゆる問題のすべては公的な性質を帯びている。そして、習慣的に公的と思われて来た社会活動の面に夥しい私的生活がまぎれ込んで来ている。つまり、今日の日本では、二つのものが、さかさまになっているのではあるまいか。

明治からの日本の文化史をみれば、われら日本の民草というものが、ただの一度もヨーロッパ諸国の市民たちが経過した市民社会の生活経験というものをもっていないことは、明かな事実である。長い長い封建の時代、命さえも自分に属するものではなく、武士は家禄によって領主に生殺与奪の権をもたれていたし、人民百姓は、手討ちという制度の下におかれていた。森鴎外の「阿部一族」の悲劇が、殉死のいきさつをめぐっての武士間の生存闘争であることに、二重の悲劇の意味がふくまれるのである。

最近十数年間、日本人は「滅私」という標語で統一しようとされて来た。近代社会の必然として、いくらかは日本にも生れた合理主義的な傾向、他人の考えが自分の考えと違うからと云ってそれは当り前のことと理解する自由主義の傾向、更に、歴史の進展は抑え難い必然であるとみて、その動因を社会の生産諸関係の推移、その矛盾のうちに見ようとする民主的傾向、それらは、本来において、社会に対する認識の表現であるから、まぎれもなく公的なものであるにかかわらず、「滅すべき私」の範疇に入れられることとなった。そして、「日本のため」或は「天皇のため」にということが、すべての私を滅した一億人民の公的な生存意義とされたのであった。

日本の個人主義は、よきにつけ、あしきにつけ、未発達のまま、第二次世界大戦、太平洋戦争に突入してしまった。そのため、一個人としての自主的な判断力が、どの個人の能力の中にあっても薄弱であった。薄弱な客観的判断力を、津浪のような軍事的強権で押し流して、その人々の考える「公的」なものの中へ、人民生活の全面を集注させたのであった。

世界連帯のひろやかな展望から見て、旧い領土問題から出発した「日本のため」という観念が、どんなに狭い限界をもつのであるか、今日判断をあやまるものはないと思う。世界人類の福祉という公的な観念と対比すれば、日本の軍閥の意味した「日本のため」が、私的な性質を帯びたものであったことを、今日否定する人はないであろう。

第一歩で、とりちがえて提出された、日本における公私の逆立ちは、戦争が進むにつれ次第に深刻な具体性をもって来た。

例えば、遠い大洋をへだてたあちこちの島々に、守備としてのこされた一団の兵士たちは、どういう経験をしただろう。食糧事情で恐るべき経験をしている。しかし、ただ、食うものがない辛苦をしのいだだけであったなら、それがどんなに酷かったにしろこれらの不幸な兵士たちは、まだ、人間として生きてゆく精髄的なよりどころは失わないですんだであろう。食糧事情に絡んで、或る場所では、人々をおどろかした残忍な暴力がふるわれた。そして、それは、日本兵の悪虐として語られた。だが、彼等が、食うものがないからと云って、子供に対して非人間的な残虐に立ち到った、その心理の根底には、単なる飢えにたけりたったとはちがった、何か、云うに云えない心の廃墟があったのではなかろうか。つまりより飢えなかったとき、既に畜生道に陥る精神の破局が用意されていたのではなかったろうか。

私どもは、何々という島では、兵士の何割が栄養失調で餓死したという報告を、やつれ果てた復員兵から告げられている。一方に、大小の戦争犯罪人としての将官が、リストされている。しかし、兵と共に飢えて死んだという将校が、何人私たちに知られているであろうか。私たちは、沁々とこのことを思い返さざるを得ない。自分たちだけは、様々の軍事上の名目を発明して、数の少い軍用機で、逸早く前線から本土へ逃げて翔びかえってしまった前線の指揮官があることを、これ迄何と度々耳にしていることだろう。軍人社会での階級のきびしさは、公的目的のための制度であったはずである。公的な根拠において、国民負担による高給をうけとり、戦争手当をうけとり自分たちの何一つ不自由のない購買組合によってその妻子までを、戦時下の人民一般の苦境にふれる必要ない生活を営ませて来た以上、彼の一生は、公的に導びかれ解決されるべきであった。人民と、人民が制服を着せられた姿である兵士たちに、滅私奉公をあれほどたたき込んだのが真実なら、己れの命を惜しんで、上官である地位を利用して自分ばかりが逃げ帰ることは、人間としてこの上ない穢辱であること位は知ってよかったろう。

戦争は常に残酷なものである。けれども、第二次世界大戦において日本の軍事権力と上級軍人の或るものが演じた役割は、生命の破壊よりも遙かに悪逆な、生きながらその人々の人間性を殺戮することを敢てした。飛び立つ飛行機を見送ったときの兵士たちの敏感なこころの中では、音を立てて、何ものかが倒れたのである。権威に対する侮蔑や嘲笑より、もっともっと切実な、人間真実に対する絶望が襲ったのである。

嘘偽でかためた報道、虚構の現実ばかりを知らされ、今日はそれが虚構であった、ということだけを又手おくれに知らされて経済破局に面している日本の人々が、己れの幻滅につながるものとして、この真実のよりどころを殺戮されて還って来た兵士の精神の苦悩を、どこまで理解しているであろうか。

復員兵士が犯罪へ転落するには、様々の動機があろう。けれども、新聞に「俺たちに、義理も人情もあるものか」と捨科白すてぜりふした記事がのった、一部の不幸な嘗ての兵士は、遠くない過去において、紛れもなく義理も人情もない扱いをうけて来た自覚をもっていることを意味する。その声は、不幸を一層不幸にする社会性の乏しい憤りにまかせて、同じ苦にある人民仲間に向けられたのであった。

こういう公私の逆立ちは、軍需生産で儲けた人々の全生活を支配した。食糧問題、それにからむ土地問題、住宅問題、失業問題、道徳の頽廃の諸相。それは、引つづいて日本の社会を混乱させる公私逆立ちの形として現われている。支配者たちは、人民の公器たる政府の実力で、これらの大課題を、どのように公的に処置しつつあるだろうか。私たちの毎日の現実に立って答えるならば、政府は、愕くほど私的になっている。政府そのものの命脈を保つこと、その成員の姑息な差しかえ、G・H・Qとの汲々たる妥協策。今日猶まことに壮健である財閥の七変化的存在への助力。戦時利得税、財産税についての解説一つでも真面目に聴いたらば、人民は、曖昧な日本的薄笑いを口辺に浮べてはいないと思う。貿易局の頭に三井財閥を坐らせている政府。銀行、大企業が、9/10を所有している戦時公債を、財産税でとりあげた人民の金で償還しようとしている政府。そういう政府が、財閥的私的権力でないと云うものは恐らくないであろう。目前の食糧問題という全くの公的課題を、忍耐ふかき日本の人民は、日に日に枯渇して来る各自のいとささやかな財布と、道徳的堕落を伴う要領、才覚によって、やりくっているのである。

日本が民主的自主的政治の能力を示して、世界に、自立的民族として存続する可能性の十分あることを示すか、或は、蒙昧な反動国として、民主的世界によって飽くまで監視されなければならない立場に置かれるか。次回の総選挙は、そういう意味で極めて重大、深甚な意義を日本の将来の可能性に向ってもっている。今日、人民生活を建て直すために、民主主義はどうしても確立されなければならない。世界的諸関係の中に日本をおき、公の観点から洞察し、心から祖国を愛する者ならば、日本の民主化が如何に重大であるか、千万の言葉にまさる重さを理解しなければならない。

政党が、公のものであるならば、自党の得票という私的目的のために、日本人民のおくれた層、封建の陰ふかい地べたから一票でも多くかき集めようと、わざと封建の暗さにおもねることがどんなに誤ったことか、売国的な行為であるかを人民は、明白に知らなければならない。嘗て、「愛国者」たちは何をしたか。答えはただ一つである。

私どもは、彼等が愛する日本の進路を誤らせるために山積した罪悪を決して忘れることはないのである。

公私逆立った既成政党の腐敗が、忽ち、婦人参政の新しい地域まで悪質な性病のような急スピードで蔓延しつつある。戦争犯罪によって頭株をとられた進歩党が、築地の待合に共産党をのぞく各派の主だつ婦人たちをよんで、出席した者に、進歩党内の重要なポストを与える談合を行った。生産面における勤労階級の婦人の永年に亙る犠牲によって、日本の婦人参政権はもたらされたものである。一億の人口を今日、七千万と数える、その三千万の再び還ることない生命によってあがなわれたものである。日本の重大な運命にかかわるとき、上流婦人が、反動的であることさえ人民の発展の阻害であるのに、なおその上、彼らが自分らの無智を知らず、厚顔になりきった社交性につり出されて、男でさえ、まともな暮しをする者は、行かないところである待合で、待合政治の真似ごとをくりかえすとは、云うに言葉がない。彼女たちの、土台、公私逆立った生活環境は、その足で立って働きとおして来た人民の辛棒づよい婦人たちとは、根底から異っている。利害も根底から異っている。わたしたち日本の女は、女の世界も男の世界と同じで、一からげに同じ日本の女と云って安心していられない実体をもっていることを知らなくてはならない。

公的な、人民的社会的なものを、偽りなく公的な本質におくこと、そして、私的なものは、その社会福祉の真に公的なもののために必要な抑制を蒙ること。この自明の道理こそ、民主の基本であると思う。わたしたちは、社会の公器が公器であることを欲する。公的な社会諸問題が、前進する日本の公的観点に立って、公的に処置されることを求める。日本人民の解放は、社会的な公私の逆立ちという、不自然な状態の排除から出発すると云っても、云いすぎではないであろう。

〔一九四六年二・三月〕

底本 / Source edition

底本:「宮本百合子全集 第十六巻」新日本出版社
1980(昭和55)年6月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十二巻」河出書房
1952(昭和27)年1月発行
初出:「文芸春秋」
1946(昭和21)年2・3月合併号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月14日作成
青空文庫作成ファイル:
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書誌 / Bibliography
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宮本 百合子「逆立ちの公・私」(新字新仮名)、底本『宮本百合子全集 第十六巻』新日本出版社、1980年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 003435_000311, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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