Soranoha

田舎

いなか

プレヴォー マルセル

脚本作者ピエエル・オオビュルナンの給仕クレマンが、主人の書斎の戸を大切そうに開いた。ちょうど堂守が寺院の扉を開くような工合である。そして郵便物を載せた銀盤を卓の一番端の処へ、注意してそっと置いた。この銀盤は偶然だが、実際ある寺院で使っていたロオマ時代の器具であった。卓の上には物を書いた紙が一ぱいに散らばっていて、ほとんど空地が無い。それから給仕は来た時と同じように静かに謹んで跡へ戻って、書斎の戸を締めた。開いた本を閉じたほどの音もさせなかったのである。

ピエエル・オオビュルナンは構わずに、ゆっくり物を書いている。友人等はこの男を「先生」と称している。それには冷かす心持もあるが、たしかに尊敬する意味もある。この男の物を書く態度はいかにも規則正しく、短い間を置いてはまた書く。その間には人指し指を器械的に脣くちびるの辺まで挙げてまた卸おろす。しかし目は始終紙を見詰めている。

この男がどんな人物だと云うことは、一目見れば知れる。態度はいかにも威厳があって、自信力に富んでいるらしい。顔は賢そうで、煎せんじ詰めたようで、やや疲労の気色を帯びている。そう云う態度や顔に適かなっているのはこの男の周囲で、隅から隅まで一定の様式によって、主人の趣味に合うように整頓してある。器具は特別に芸術家の手を煩わして図案をさせたものである。書架は豊富である。Bibelots と云う名の附いている小さい装飾品に、硝子鐘しょうししょうが被かぶせてある。物を書く卓の上には、貴重な文房具が置いてある。主人ピエエルが現代に始めて出来た精神的貴族社会の一員であると云うことは、この周囲を見て察せられる。あるいは精神的富豪社会と云った方が当たっているかも知れない。それはどんな社会だと云うと、国家枢要の地位を占めた官吏の懐抱している思想と同じような思想を懐抱して、著作に従事している文士の形づくっている一階級である。こう云う文士はぜひとも上流社会と同じような物質的生活をしようとしている。そしてその目的を遂げるために、財界の老錬家のような辣腕らつわんを揮ふるって、巧みに自家の資産と芸能との遣繰やりくりをしている。昔は文士を bohém だなんと云ったものだが、今の流行にはもうそんな物は無い。文士や画家や彫塑家の寄合所になっていた、小さい酒店が幾つもあったが、それがたいてい閉店してしまって、そこに出入していた人達は、今では交際社会の奢おごった座敷に出入している。新進文士でも二三の作が少し評判がいいと、すぐに住いや暮しを工面する。ちょいと大使館書記官くらいな体裁にはなってしまう。「当代の文士は商賈の間に没頭せり」と書いた Porto-Riche は、実にわれを欺かずである。

ピエエル・オオビュルナンは三十六歳になっている。鬚を綺麗に剃っている。指の爪と斬髪頭とに特別の手入をしている。衣服は第一流の裁縫師に拵こしらえさせる。冷水浴をして sport に熱中する。昔は Monsieur de Voltaire, Monsieur de Buffon だなんと云って、ロオマンチック派の文士が冷かしたものだが、ピエエルなんぞはたしかにあのたちの貴族的文士の再来である。

オオビュルナン先生は最後に書いた原稿紙三枚を読み返して見て、あちこちに訂正を加え、ある詞ことばやある句を筆太に塗沫とまつした。先生の書いているのは、新脚本では無い。自家の全集の序である。これは少々難物だ。

余計な謙遜はしたくない。骨を折って自家の占め得た現代文壇における地位だけは、婉曲えんきょくにほのめかして置きたい。ただしほのめかすだけである。傲慢に見えてはならない。

ピエエル・オオビュルナンは満足らしい気色で筆を擱おいた。ぎごちなくなった指を伸ばして、出そうになった欠あくびを噛み潰した。そしてやおらその手を銀盤の方へ差し伸べた。盤上には数通の書簡がおとなしく待っていたのである。

ピエエルは郵便を選えり分けた。そしてイソダン郵便局の消印のある一通を忙せわしく選り出して別にした。しかしすぐに開けて読もうともしない。

オオビュルナン先生はしずかに身を起して、その手紙を持って街に臨んだ窓の所に往って、今一応丁寧に封筒の上書を検査した。窓の下には幅の広い長椅子がある。先生は手紙をその上に置いて自身は馬乗りに椅子に掛けた。そして気の無さそうに往来を見卸みおろした。

ちょうど午後三時である。Rue de la Faisanderie の大道は広々と目の下に見えていて、人通りは少い。ロンドンの上流社会の住んでいる市区によくこんな立派な、幅の広い町があるが、ここの通りはそれに似ている。

ピエエル・オオビュルナンは良やや久ひさしく物を案じている。もうよほど前からこの男は自己の思索にある節制を加えることを工夫している。神学者にでも言わせようものなら、「生産的静思」なんぞと云うだろう。そう云う態度に自身を置くことが出来るように、この男は修養しているのである。オオビュルナン先生はこんな風に考えている。もっともそれは先生だけの考えかも知れない。文人は年を取るにしたがって落想が鈍くなる。これは閲歴の爛熟したものの免れないところである。そこで時々想像力を強大にする策を講ぜなくてはならない。それには苟いやしくも想像力にうぶな、原始的な性能を賦ふし、新しい活動の強みを与えるような偶然の機会があったら、それを善用しなくてはならないと云うのである。

しかるにこのイソダンの消印のある手紙は、幸にもその暗示的作用を有する機会の一つであった。先生はこの手紙が自己の空想の上に、自己の霊の上に、自然に強大に感作するのを見て、独り自ら娯たのしんでいる。

この手紙を書いた女はピエエル・オオビュルナンの記憶にはっきり残っている。この文字はマドレエヌ・スウルヂェエの手である。自分がイソダンで識っていた時は未亡人でいた美人である。それが自分のパリイに出たあとで再縁して、今ではマドレエヌ・ジネストと名告なのっている。スウルヂェエにしろ、ジネストにしろ、いずれも誰にも知られない平民的な苗字みょうじで目下自分の交際している貴夫人何々の名に比べてみれば、すこぶる殺風景である。しかしこの平民的な苗字が自分の中心を聳動しょうどうして、過ぎ去った初恋の甘い記念を喚び起すことは争われない。

その時のピエエルは高等学校を卒業したばかりで、高慢なくせにはにかんだ、世慣れない青年であった。丈は不吊合ふつりあいに伸びていて、イギリス人の a long lad なんぞと云うたちである。金は無い。親を亡くした当座で、左の腕に喪章を附けている。その時のマドレエヌはどうであったか。栗色の髪の毛がマドンナのような可哀かわいらしい顔を囲んでいる若後家である。その時の場所はどんな所であったか。イソダンの小さい客間である。俗な、見苦しい、古風な座敷で、椅子や長椅子には緋の天鵝絨びろうどが張ってある。その天鵝絨は物を中に詰めてふくらませてあって、その上には目を傷めるような強い色の糸で十文字が縫ってある。アラバステル石の時計がある。壁に塗り込んだ煖炉の上に燭台が載せてある。

ピエエル・オオビュルナンはこんな光景を再び目の前に浮ばせてみた。この男はそう云う昔馴染の影像を思い浮べて、それをわざとあくまで霊の目に眺めさせる。そうして置けば、それが他日物を書くときになって役に立たぬ気遣いは無い。それからピエエルは体を楽にして据わり直して、手紙を披ひらいて読んだ。

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イソダン。五月二十三日。

なぜわたくしは今日あなたに出し抜けに手紙を上げようと決心いたしたのでしょう。人の心の事がなんでもお分かりになるあなたに伺うかがってみたら、それが分かるかも知れません。わたくしこれまで手紙が上げたく思いましたのは、幾度だか知れません。それでいて、いざとなると、いつも大胆に筆を取ることが出来なくなってしまいました。今日は余り大胆な事をいたすことになりましたので、わたくしは自分で自分に呆れています。さて、当り前なら手紙の初めには、相手の方を呼び掛けるのですが、わたくしにはあなたの事を、どう申上げてよろしいか分かりません。「オオビュルナン様」では余りよそよそしゅうございます。「尊い先生様」では気取ったようで厭でございます。「愛する友よ」とか、「愛するピエエルよ」とか申すのでしょうか。どうもそんなのがちょうどよろしいかと存ぜられます。ですけど、頭からそう申す事は、余り不躾ぶしつけなようで出来かねます。だんだん書いてまいりますうちに、そんな事も申されるようになりますかも知れません。

あなたがわたくしの事を度々思い出して下さるだろう、そしてそれを思い出すのを楽しみにして下さるだろうなんぞとは、わたくしは一度も思った事はございません。あなたはあんまり御用がおありになって、あんまり人に崇拝せられていらっしゃるのですもの。あなたが次第に名高くおなりになるのを、わたくしは蔭ながら胸に動悸をさせて、正直に心から嬉しく存じて傍看ぼうかんいたしていました。それにひっきりなしに評判の作をお出しになるものですから、わたくしが断えずあなたの事を思わせられるのも、余儀ないわけでございます。こうは申しますが、実はあんな夢のような御成功が無くたって、大切なる友よ、わたくしはあなたの事を思わずにはいられませんのでした。御覧なさい。あなたをお呼掛け申しまする、お心安立ての詞ことばを、とうとう紙の上に書いてしまいました。あれを書いてしまいましたので、わたくしは重荷を卸したような心持がいたします。それにあなたがわたくしの所へいらっしゃった時の事を、まるでお忘れになるはずは無いように、わたくしには思われてなりません。高等学校を御卒業なさいましても、誰とも交際なさらずに、寂しく暮らしていらっしゃる時の事で、毎週木曜日と日曜日とには、きっとおいでなさいましたのね。あの時はまだお父う様がお亡くなりなすって、お母あ様がお里へお帰りになった当座でございましたのね。それだもんですから、イソダンであなたの御交際なさることの出来ましたのは、御両親を存じていたわたくしだけでございましたわ。

大切なる友よ。あの時がわたくしにとっては、どんなに幸福な時でございましたでしょう。本当にお互に物馴れない、窮屈らしい御交際をいたしました事ね。あの時邪魔の無い所で、久しく御一しょにいますうちに、あなたの人にすぐれていらっしゃること、珍らしい才子でいらっしゃること、何かなさるのに思い切って大胆に手をお下しになることなんぞが、わたくしにはよく分かりましたので、わたくしはあなたをえらい方だと存じましたの。それなのにあなたは大きななりをして、はにかんでばかりいらっしゃったのですもの。それは六つも年上の若後家の前だからでございましたのね。六つ違いますわねえ。おまけに男のかたが十七で、高等学校をお出になったばかりで、後家はもう二十三になっているのですから、その六つが大した懸隔になったのも無理はございませんね。そんな風にしていましたから、人の世話ばかり焼くイソダンの人達も、わたくしの所へあなたのいらっしゃるのをなんとも申さないで、あれは二親の交際した内だから尋ねて往くのだと申していましたのです。

しかしわたくしがそんな気でいましたから、あなただってそう思っていらっしゃったでしょう。二人は内々恋で逢う心持をしていましたのね。本当にあの時は楽しい時でございました事。わたくし今だから打明けて申しますが、あの時が私の一生で一番楽しい時でございましたの。あの時の事をまだ覚えていらっしゃって。あなたのいらっしゃる時とお帰りになる時とにあなたが子供でいらっしゃった時からの習慣で、わたくしはキスをしてお上げ申しましたのね。それはもと姉が弟にするキスであったのに、いつか温い感じが出て来ましたのね。次第に脣と脣との出合ったのが離れにくくなりますのを、わたくしはわざと自分でも気に留めないようにしていましたの。そして手の震えるのをお互に隠し合うようにしていましたっけね。

そのうちお互に何も口に出さずにいて、とうとうあなたは土地を離れておしまいなさいました。それはあなたははにかんでいらっしゃる、わたくしはあなたを預託品よたくひんのように思っていましたからでございます。一体わたくしは前から堅気な女で、今でも堅気でいるのでございますの。

お別れにお互に涙を飜こぼしたことは、まだ覚えていらっしゃって。お互に口に出さないつらさを感じましたわね。

それだのにあなた、パリイにいらっしゃってから、すぐにわたくしの事をお忘れなさいましたのね。お手紙はたった四度しか参りませんでした。それから勲章をお貰いになったお祝を申上げた時、お葉書を一度下さいましたっけ。それにわたくしはどうでございましょう。

わたくしはあなたの記念を心の隅の方に、内証で大切にしまって置いて、昔のようになんの幸福もなしに暮らしていました。それからわたくしは二度目に結婚いたしました。これまで申上げると、わたくしはこの手紙を上げる理由を御話申さなくてはなりませんから、その前に今の夫の事を申しましょう。格別面白いお話ではございませんから、なるたけ簡略に致します。ジネストは情なしの利己主義者でございます。けちな圧制家でございます。わたくしは万事につけて、一足一足と譲歩して参りました。わたくしには自己の意志と云うものがございません。わたくしは持前の快活な性質を包み隠しています。夫がその性質を挑発的だと申すからでございます。わたくしはただ平和が得たいばかりに、自己の個人性を全滅させました。それが大失錯で、夫の要求は次第に大きくなるばかりでございます。今日のところでは、わたくしは主人に屈従している賄方のようなものでございます。そう云う身の上は余り幸福ではございませんわね。それでもわたくしは主人が渡世上手で、家業に勉強して、わたくし一人を守っていてくれるのをせめてもの慰めにいたしていました。

しかしそれはわたくしがひどく騙されていたのでございます。ある偶然の出来事から、わたくしはそれを発見いたしました。夫はある日机の抽斗ひきだしに鍵を掛けることを忘れたのでございます。リイユやブリュクセルやパリイに、夫は昔馴染を持っていて、わたくしと一しょになってからも、始終その関係を断たずにいたのでございます。

わたくしはすぐに頼附けの弁護士の所へまいって、離婚願を出して貰おうかと存じました。しかしわたくしだけが知っている事を、イソダンの人達に皆知らせるのが厭になって、わたくしは羞恥の心から思い留まりました。夫は取引の旅行中にその女どもに逢っていますので、イソダンでは誰も知らずにいるのでございます。

そこでわたくしはどういたしたらよろしいのでございましょう。それについて誰に相談いたしましょう。決してこの土地の人には打明けたくございません。

そんならパリイには誰がいるかと云うと、あなたより外に知った方はありません。

あなたはわたくしの相談相手になって下さらないわけには参りますまい。わたくし自身に分からない事までも、あなたにはお分かりになりましょう。あなたはお職業柄で女の心を御承知でいらっしゃるはずでございますからね。それにあなたは世間の事をよく御承知で、法律にもお精しいことを承知いたしています。わたくしは万事打明けてお願申すつもりでございます。わたくしの幸福と申すのは可笑おかしゅうございますが、わたくしの平和は、あなたのためにも、どうでもよろしい物ではございますまい。

どうぞあなたの貴重な時間の十五分間をわたくしに御割愛かつあいなさって下さいまし。ちょうど夫は取引用で旅行いたしまして、五六日たたなくては帰りません。明晩までに、差出人なしに「承知」と云う電信をお発し下さいましたら、わたくしはすぐにパリイへ立つことにいたしましょう。済みませんが、も一つお願いがございます。御親切ついでに、どうぞあなたの方からお尋なすって下さいまし。あなたのお住いへ伺うことは憚はばかりますのですから。わたくしはただいまから頼んでおいて Rue Romaine 十八番地に落ち着きますことにいたしましょう。

わたくしはこんなに手短に乾燥無味に書きます。これは少し気分が悪いからでございます。電信をお発し下すったなら、明後日午後二時から六時までの間にお待受けいたすことが出来ましょう。もうこれで何もかも申上げましたから、手紙はおしまいにいたしましょう。わたくしはきっと電信が参る事と信じています。どうぞこの会合をお避けなさらないで、わたくしに失望をおさせなさらないように、くれぐれもお願申します。わたくしはあなたにお目に掛かって、それをたよりにこれからさきの生活を続けようと存じています。それからどうぞ今はいけないから後にしろなんぞとおっしゃらないで下さいまし。御承諾下さるつもりで、前もってお礼を申上げます。もうこれでも大ぶ貴重なお時間をお潰させ申しましたでしょうね。

マドレエヌ

わたくしにお逢いになりましても、そう大して更ふけたようには御覧なさいませんでしょうと存じますの。年の割に顔も姿も変らないと、皆がそう申しますの。これで体は大切にいたして、更けない用心をいたしていますの。でも夫の心は繋ぎ留めることが出来ませんでしたの。

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翌日の午後二時半にピエエル・オオビュルナンは自用自動車の上に腰を卸おろして、技手に声を掛けた。「ド・セエヴル町とロメエヌ町との角までやってくれ」

返事はきのうすぐに出してある。それは第一に、平生紳士らしい行動をしようと思っていて、近ごろの人が貴夫人に対して、わざとらしいように無作法をするのに、心から憤っていたからである。第二にはジネストの奥さんの手紙が表面には法律上と処世上との顧問を自分に託するようであって、その背後に別に何物かが潜んでいるように感じたからである。無論尋常の密会を求める色文では無い。しかしマドレエヌは現在の煩悶を遁のがれて、過去の記念の甘みが味いたいと云う欲望をほのめかしている。男子の貞操を守っていない夫に対して、復讐がしてやりたいと云う心持が、はっきり筆に書いてはないが、文句の端々に曝露している。それに受身になって運命に左右せられていないで、何か閲歴がしてみたいと云う女の気質の反抗が見えている。要するにどの女でも若い盛りが過ぎて一度平静になった後に、もうほどなく老が襲って来そうだと思って、今のうちにもう一度若い感じを味ってみたいと企てる、ちょいとした浮気の発動が、この女の上にもめぐって来ているのだと認めたのである。あの手紙にはこの方面の事は文章の上に少しも書いて無い。しかしそれがかえってこう云う状態の存在を証明しているように思われた。

すべて女の手紙を読むには、行の間を読まなくてはならない。眼光紙背に徹せなくてはならない。ピエエル・オオビュルナンは得意の作の中にこう書いた事がある。「女の手紙の意味は読んで知れるものでは無い。推測しなくてはならない。たいていわざと言わずにあるところに、本意は潜んでいるものである。」

マドレエヌの手紙の中で、一番注意してみなくてはならぬ処は二白にはくである。法律顧問を託する女が媚こびを呈するような態度で、顔がどうなったの、姿がどうなったのと云うはずが無い。

自動車がセエヌ河に沿うて走る間オオビュルナンはこんな事を考えた。「三十三年に六年を足せば三十九年になる。マドレエヌは年増としてはまだ若い方だ。察するに今度のような突飛な事をしたのは、今に四十になると思ったからではあるまいか。夫が不実をしたのなんのと云う気の毒な一条は全然虚構であるかも知れない。そうでないにしても、夫がそんな事をしているのは、疾とうから知っていて、別になんとも思わなかったかも知れない。そのうち突然自分が今に四十になると云うことに気が附いて、あんな常軌を逸した決心をしたのではあるまいか。」これはちと穿鑿せんさくに過ぎた推論である。しかしこんなのが女にありそうな心理状態だと思うと、特別の面白みがある。

ピエエル・オオビュルナンはわざとらしく口の内でつぶやいた。「ああ。そんな事はどうでもいいのだ。十六年前の事を思ってみると、あのマドレエヌと云う女は馬鹿に美しい女だった。それが大して変っていないとすると。」これまで言って、あとはなんとも云わなかった。心の内でもそのあとは考えなかったのである。オオビュルナンは女に逢うに、どうしようと云う計画を立てたことが無い。今の世の人情で判断すれば、この男はまだ若いと云っていい。しかしもうあまたの閲歴、しかも猛烈な閲歴を持っているから、小説らしい架空な妄想には耽らない。この男はきちんと日課に割り附けてある一日の午後を、どんな美しい女のためにでも、無条件に犠牲に供せようとは思わない。この心持は自分にもはっきり分かっている。そんなら何が今でもこの男に興味を感ぜさせるかと云うと、それは女が自分のためにのぼせてくれるのを、受身になって楽しむところに存する。エピクロス派の耽美家が初老を越すと、相手の女の情欲を芸術的に研究しようと云う心理的好奇心より外には、もうなんの要求をも持っていない。これまでのこの男の情事は皆この方面のものに過ぎなかった。それがもう十年このかたの事である。

ピエエル・オオビュルナンはそんな風にこれまで相手にした女とまるで違ったマドレエヌに逢って、今度こそどんな心持がするか経験してみようと思っている。それが心の内で秘密な歓喜として感ぜられる。マドレエヌは本当の田舎の女である。そして読書に飽きたオオビュルナンの目には Balzac が小説に出る女主人公のように映ずるのである。

そこへまた他の一種の感情が作用する。それはやや高尚な感情で、自分の若かった昔の記念である。あの頃の事を思ってみれば、感情生活の本源まで溯って行く道がどんなにか平坦であっただろう。その恋しい昔の活きた証人ほど慕わしいものが世にあろうか。まだ人生と恋愛とが未来であった十七歳の青年の心持に、ただの二三十分間でもいいから戻ってみたい。あのマドレエヌに逢ってみたらイソダンで感じたように楽しい疑懼ぎくに伴う熱烈な欲望が今一度味われはすまいか。本当にあのマドレエヌが昔のままで少しも変らずにいてくれればいい。しかし自分はどうだろうか。なに、それは別に心配しなくてもいい。もちろん髪の毛は大ぶ薄くなって、顔のそこここに皺しわが出来たが、その填合うめあわせにはあの時のようにはにかみはしない。それから立居振舞も気が利いていて、風采も都人士めいている。「それに第一流の大家と来ている」と、オオビュルナンは口の内で詞に出して己おのれを嘲あざけった。

自動車が止まった。オオビュルナンは技手に待っていろと云って置いて、しずかに車を下りてロメエヌ町へ曲がった。小さい、寂しい横町である。少数の職業組合が旧教の牧師の下に立って単調な生活をしていた昔をそのままに見せるこう云う町は、パリイにはこの辺を除けては残っていない。指定せられた十八番地の前に立って見れば、宛然えんぜんたる田舎家である。この家なら、そっくりこのままイソダンに立っていたって、なんの不思議もあるまい。町に面した住いは低く出来ていて、入口の左右に小さい店がある。入口から這入はいる所は狭いベトンの道になっていて、それが綺麗に掃除してある。奥の正面に引っ込んだ住いがある。別荘造りのような構えで、真ん中に広い階段があって、右の隅に寄せて勝手口の梯はしごが設けてある。家番やばんに問えば、目指す家は奥の住いだと云った。

オオビュルナンは階段を登ってベルを鳴らした。戸の内で囁ささやく声と足音とがして、しばらくしてから戸が開いた。出て来たのは三十歳ばかりの下女で、人を馬鹿にしたような顔をして客を見ている。

「ジネストの奥さんはおいでかね。」

下女は黙って客間の口を指さした。オオビュルナンはそこへ這入った。室内装飾は有りふれた現代式である。白地に文様のある紙で壁を張り、やはり白地に文様のある布で家具が包んである。木道具や窓の龕がんが茶色にくすんで見えるのに、幼穉ようちな現代式が施してあるので、異様な感じがする。一方に白塗のピアノが据すえ附けてあって、その傍に Liberty の薄絹を張った硝子戸ガラスどがある。隣の室に通じているのであろう。随分無趣味な装飾ではあるが、住心地の悪くなさそうな一間である。オオビュルナンは窓の下にある気の利いた細工の長椅子に腰を掛けた。

オオビュルナンは少し動悸がするように感じて、我ながら、不思議だと思った。相手の女が同じ人であるだけに、過ぎ去った日のあらゆる感情が復活して来たのだろうか。今の疑懼ぎくの心持は昔マドレエヌの家の小さい客間で、女主人の出て来るのを待ち受けた時と同じではないか。人間の記憶は全く意志の掣肘せいちゅうを受けずに古い閲歴を堅固に保存して置くものである。そう云う閲歴は官能的閲歴である。オオビュルナンはマドレエヌの昔使っていた香水の匂い、それから手箱の蓋を取って何やら出したこと、それからその時の室内の午後の空気を思い出した。この記念があんまりはっきりしているので、三十三歳の世慣れ切った小説家の胸が、たしかに高等学校時代の青年の胸のように躍った。ただ昔と今と違っているのは、今はそのあらゆる感動が一々意識に上って、他日筆にする材料として保存せられるだけである。

突然オオビュルナンは物に驚いて身を振り向けた。そっと硝子戸を開けたような音がしたのである。しかしそれは錯覚であったとみえて、誰も室内へ這入って来てはいない。オオビュルナンは起ち上がって、戸の傍へ歩み寄った。薄絹が少し動いたようではあるが、何も見えない。多分風であっただろう。

オオビュルナンは口の内でつぶやいた。「これでは余り優待せられると云うものではないな。もうかれこれ二十分から待たせられている。どうしたと云うのだろう。事によったら馬鹿な下女奴げじょめが、奥へ通さずにしまったのではないかしら。とにかくまあ、待っているとしよう。や、来たな。」最後の一句は廊下に足音が聞えたから言ったのである。その足音はたしかに硝子戸に近づいて来る。オオビュルナンは覚えず居ずまいを直して、蹙しかめた顔を元に戻した。ちょうど世話物の三幕目でいざと云う場になる前に、色男の役をする俳優が身繕みづくろいをすると云う体裁である。

はてな。誰も客間には這入って来ない。廊下から外へ出る口の戸をしずかに開けて、またしずかに締めたらしい。中庭を通り抜ける人影がある。それが女の姿で、中庭から町へ出て行く。オオビュルナンはほっと息を衝ついた。「そうだ。マドレエヌの所へ友達の女が来ていてそれがやっと今帰って行ったのだな。」こう思ってまた五六分間待った。そのうちそろそろ我慢がし切れなくなった。余り人を馬鹿にしているじゃないか。オオビュルナンはどこかにベルがありそうなものだと、壁を見廻した。

この時下女が客間に来た。頬っぺたが前に見た時より赤くなっていて、表情が前に見た時より馬鹿らしく見えている。そして黙って戸の際きわに立っている。

客の詞ことばには押え切れない肝癪かんしゃくの響がある。「どうしたのだね。妙じゃないか。ジネストの奥さんに、わたしが来て待っているとそう云ったかね。ええ。」

下女は妙な笑顔をした。「あの、奥さんがお客様にお断り申してくれとそうおっしゃいました。」

「ええ。どうも分からないな。お断り申せとはどう云うのだね。奥さんはおいでになるが、お逢いにならないと云うのかい。」

「いいえ。奥さんは拠よんどころない御用がおありなさいますので、お出掛けになりました。いずれお手紙をお上げ申しますとおっしゃいました。」こう云ってしまって、下女は笑声を洩した。

オオビュルナンははっと思って、さっき中庭を通って町へ出た女の事を思い出した。「あれがマドレエヌだったのか。」この独言ひとりごとが自分の耳に這入って、オオビュルナンはようよう我に帰った。そして怒気を帯びて下女の前に一歩進んだ。下女は驚いて覚えず壁際まで跡しざりをした。「奥さんにそう云ってくれ。お手紙には及びません。どうぞお構い下さらないようにとそう云ってくれ。」こう言い放ってオオビュルナンは客間を出た。脚本なら「退場」と括弧の中に書くところである。最も普通の俳優はこんな時「それではあんまり不自然で引っ込みにくいから、相手になんとか言わせてくれ」と、作者に頼むのが例になっている。

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愛する友よ、あなたがもう返事をするには及ばないから、構ってくれるなと御申置なさいました事は、たしかに承知いたしています。御察し申しまするに、あなたはわたくしのいたした事を無責任極まる所為しょいだと思召して、ひどくご立腹になっていらっしゃいますのでしょう。自分で顧みて見ましても、わたくしのいたした事は余り気の利いた所為だとは申されません。全く子供らしい振舞だったと申してもよろしいかも知れません。しかしそれは一昨日あなたに御挨拶をいたさずに逃げ出そうと決心いたしたのが子供らしいと申すのではございません。それはわたくしが最初あなたに手紙を差上げて御面会がいたしたい、おいでを願いたいと申したのが子供らしいと申すのでございます。

こう申上げるのをお信じ下さいますでしょうか。どうも覚束のうございますね。わたくしはあなたの女の手紙は云々しかじかとお書きになったあの御文章を承知いたしています。最初の手紙を差上げる時も、あの「格言」が気になってなりませんでしたが、今度は前よりも一層心苦しゅうございます。

女の手紙は書いてある文句よりは、行と行との間に書かずにある文句を読まなくてはならないと云うのは、本当の事でございましょう。それから一番大切な事が書かずにあると申すのも本当でございましょう。しかしそれはわざと書かないのではございません。自分でもする事の本当の動機を知らずにいることもございますし、またその動機がたいてい分かりそうになって来ていても、それを自分で認めるだけの勇気が無いこともございます。そう云うわけですから、わたくし達の手紙はやはりわたくし達の霊をありのままに現していると申してもよろしゅうございましょう。手紙には自分がこうだと思っている通りが出ています。する事や書く事の上を掩おおっている薄絹は、はたから透かして見にくいと申そうよりは、自分で透かして見にくいと申すべきでございましょう。

わたくしの最初に差上げた手紙を例にして申しましょう。わたくしはあなたに誓って正直なところを申します。わたくしの意志は、あなたにまたお目に掛かって、御相談がいたしたい、ただのお話もいたしたい、なんでもあなたがそうしろとおっしゃる通りにいたしてみたい、昔の御交際を喚び戻したいと云うだけでございました。そういたしたら、今の苦しい心持を和げることが出来よう、わたくしはそこに安心を得ることが出来ようと存じたのでございます。こう云う意志であの手紙は書いたのでございます。そして一昨日までは自分でもたしかにそうだと信じていました。ただあとから考えてみますと、あの手紙の末に書き添えました事だけが、いかにも不謹慎なようでございます。しかしあれは手紙が出来てしまってから、ふいと器械的に書いたのでございます。あのわたくしの顔がどうの姿がどうのと書きました、あの文句でございますね。

あなたは心理学者でいらっしゃるから、そう思召しますでしょうが、あれなんぞが本当に女らしいいたしかたではございませんか。女と云うものは本当に衝動的なものでございますね。わたくし達は衝動に騙だまされて、咄嗟とっさの間にいろんな事をいたします。そしてその時はその動機を認めずにいるのでございます。それを男の方が狡猾こうかつだとおっしゃるのでございます。

そこであの手紙を差上げます。電報の御返事が参ります。女中を連れてパリイへ出て、ロメエヌ町の家に落ち着いて、あなたを御待ち受け申します。その時も多少興奮いたしているようではございましたが、自分のする事が心配になるとか、気づかわしいとか云うことはございませんでした。興奮いたしているとは存じましても、それがあなたに恋をしているからだなんぞとは思いませんでした。とうとうわたくしは恋と云う字を書いてしまいました。これを書いてしまえば、わたくしは重荷を卸したと申しましてもよろしゅうございます。もうこれでわたくしがあなたを騙したのだとはおっしゃいますまい。わたくしは安んじて恋と云う字を書きます。私の申しわけ、わたくしの取留めの無い挙動の申しわけはこの一字に在るのでございます。

ピエエルさん。わたくしはただいま白状いたします。わたくしはもう十六年前にあなたに恋をいたしていました。あなたが高等学校をお出になったばっかりの世慣れない青年でいらっしゃった時、わたくしはもうあなたに恋をいたしていました。しかしわたくしはあなたに誓います。それがわたくしに分かったのは一昨日のことでございます。あのロメエヌ町の白い客間にいらっしゃるのを隙見すきみをいたした時、それが分かったのでございます。

わたくしは隙見をいたしました。長い、長い間わたくしはあの硝子戸ガラスどの傍に立ってあなたを見ていました。あなたの方からは見えませんのですが、わたくしは暗い方にいましたからあなたをはっきり見ることが出来ました。決してわたくしが陰険な事をいたしたとか、あなたを羂わなに掛けたとかお思いになってはいけません。わたくしは戸を開けるつもりで戸の傍に歩み寄って、ただちょっとあなたの御様子を開ける前に見たいと存じただけでございます。あなたは心理学者でいらっしゃいますから、これがまたひどく女らしい振舞だとお思いなさいましょうね。

あの一刹那せつなにわたくしの運命は定まったのでございます。わたくしは開けようと思った戸を開けずに、帷とばりの蔭に隠れていました。わたくしはただいま書く事をどう書いたら、あなたがお分かりになるだろうかと存じて、それに苦心をいたします。

ピエエルさん。何よりさきにあなたに申さなくてはならないのは、あなたのお作の中うちに出て来る女とわたくしとは違うと申す事でございます。何もわたくしが一人ひどく変った女だと申すのではございません。わたくしはただ当り前の田舎の女でございます。わたくしの母がそうであったような、わたくしの二人の姉妹が今でもそうであるような、ただ当り前の田舎の女でございます。その田舎の女とはどんな物かと申しますと、恋の実体を夫婦と云う事から引き放して考えることの出来ない女だと申すのでございます。これは多数の女のために極めて不幸な事でございます。そしてわたくしはその不幸を身に受けなくてはならぬ一人でございます。

誰やらの書いた本に、「幸福なる夫婦は極めて稀なり」と云う文句がございました。作者の名をつい忘れましたが、きっと田舎にいたことのある人だろうと存じます。

それですから行状を善くしている田舎の女は、たいてい夫婦の生活をいたしている外に、別な夢の生活を持っています。無条件にその夢に身を任せている女もあり、良心と戦いながらその夢を見ている女もありますが、どちらもこの夢の恋は platonique なのでございます。この platonisme が夢の美しいところで、それが無かったら、そう云う女は重婚をいたしているような心持がいたすでしょう。

これだけの説明をいたすのが、わたくしには一通りの骨折ではございませんでした。しかし聡明な、敏捷びんしょうな思索家でいらっしゃるあなたには、わたくしの思っている事は、造做ぞうさもなくお分りになりましょう。

あなたがまだ高等学校をお出になったばかりの青年で、わたくしの所へおいでになったころ、わたくしはその日の午後を楽しみにいたしていました。しかしもしあの時のあなたが、いつかお書きになった「若い盗人」と云う小説の中うちの青年のような早熟の人でおいでになったら、わたくしはきっとあなたのおいでをお断り申しただろうと存じます。

あなたとわたくしとの中は、夢より外に一歩も踏み出さない中だと云うことが、あのころわたくしには分かっていました。あなたを夫に持つことは不可能だということが分かっていました。事によったら、あなたを夫に持ちたくは無かったかも知れません。それですからわたくしは二度目の夫を持ちましても、あなたの記念を涜けがしたのではございません。二度目の夫を持ってからも、わたくしはやはり前の夢の続きを見ていました。

この夢があるので、わたくしは多少良心に責められたこともあります。しかしわたくしはあなたに誓います。わたくしはあなたが田舎の夫が妻に要求するような要求をなさることがあろうとは、一度も思ったことはありません。それは田舎の夫が妻に要求する主な勤めで、事によったら世間のあらゆる夫が妻に要求する主な勤めかも知れません。それですからわたくしはあなたがパリイでどんな女とどんな事をなさろうとも、嫉妬を感じたことはございません。それはどんな貴婦人でも、どんな賤しい女でも、わたくしの夢までを奪ってしまうことは出来ないからでございます。それにわたくしには可笑しい自負心がございますの。それはわたくしが十六年前にあなたにいたしたような、はにかみながらのキスに籠もっているほどの物を、どの女もあなたに捧げることは出来まいと存じているのでございます。

わたくしはこんな夢を見て暮らしているうちに、ある日わたくしの夫婦生活の平和が瓦解がかいしてしまいました。夫が不実になったと云うことは、田舎の女のためには夫婦の破滅でございます。夫婦と恋とを引放して考えることの出来ない女のためには、そう思われるのでございます。

楫かじをなくした舟のように、わたくしは途方にくれました。どちらへ向いて見ても活路を見出すことが出来ません。わたくしはとうとう夢に向って走りました。ちょうど生埋めにせられた人が光明を求め空気を求めると同じ事でございます。

わたくしは突然今の夫を棄てて、パリイへ出て、昔あなたのおいでになる日の午後を待っていたように、パリイであなたが折々おいで下さるのを楽しみにして暮らそうと思い立ちました。どうぞわたくしを気が違ったとお思いなさらないで下さいまし。田舎の女をわたくしの境界に置きましたら、随分わたくしと同じ思立おもいたちをいたす女があろうかと存じます。これはただ思立つだけの事でございます。それを実行いたすとなると、どんな物になるだろうと云うことは、ロメエヌ町の家であなたを隙見をいたすまで、わたくしには分からなかったのでございます。

隙見をいたした時の最初の感じは失望でございました。Sport で鍛錬した、強壮なお体で、どんな女でも来てみろと云うお心持で、長椅子に掛けていらっしゃったあなたに失望いたしたので、昔の世慣れない姿勢の悪い青年でいらっしゃらないのに当惑いたしたのでございます。それで客間に這入り兼ねていました。

その時あなたは起ち上がって戸の傍までおいでなさいました。わたくしはあなたを遺憾なくはっきり拝することが出来ました。わたくしは胸が裂けるように動悸がいたしました。そしてあなたが好きになりました。やはり十六年前の青年よりは今のあなたの方が好きだと存じました。

あなたのような種類の人、あなたのように智慧がおありになり、しっかりしておいでになって、そして様子のいいお方、そう云う人にイソダンでめったに出逢うことのないのは当り前でございます。わたくしはすぐにそう思いました。こう云う人の前に出たら、わたくしは意志も何もない物になってしまいましょう。その人が気まぐれにどうでもすることの出来るおもちゃになってしまいましょう。

そう云う運命に陥いるだろうと思ったので、わたくしは烈しい恐怖に襲われました。わたくしの心の臓は痙攣けいれんしたように縮みました。ちょうどもうあなたの丈夫な、白いお手に握られてしまったようでございました。あの時の苦しさを思えば、今の夫に不実をせられたと思った時の苦しさはなんでもございません。わたくしの美しい夢はこのとき消えてしまいました。

わたくしはどうしてもあなたにお目に掛かるまいと決心いたしました。それと同時にわたくしは思いました。わたくしがあなたを思うほど、あなたがわたくしを思って下さるまでは、わたくしの心は永久に落ち着くことは出来まいと云うのでございます。わたくしを愛して下さることがあなたに出来るだろうかと云うのでございます。

最初にあなたに上げた手紙に書き添えました事は嘘ではございません。わたくしは十六年前と今と格別変ってはいません。道を歩けば男の附いて来ることは昔の通りでございます。イソダンでそうだと申すのではございません。パリイで歩いても同じ事でございます。しかしあなたのためには、田舎女のわたくしがなんでございましょう。ほんのちょいとの間の気まぐれで、おもちゃにして下さるかも知れませんが、深い恋をして下さろうとは思われません。それがあの時わたくしの胸に電光のように徹しました。自分の弱点を恥じる心が、嫌われるだろうと思う疑懼ぎくに交って、とうとうわたくしをあの場から逃げさせてしまいました。わたくしは自分の恐ろしい運命を避けよう、どうしてもあなたにお目に掛かるまいと決心いたしました。わたくしは帽子を取って被って、女中にお断りを申上げるように言い附けて置いて、あの家に火事でも起ったように跡をも見ずに逃げました。

わたくしはきのうからイソダンに帰っています。主人は今晩帰るはずになっています。わたくしはもう夫に怨を申すことは出来ません。それは自分がほとんど同じような不実をいたしたからでございます。

わたくしはこれまでのような、単調な生活を続けてまいりましょう。田舎の女にはそれが当り前なのでございます。ちらと拝しました「先生」のお姿はもう次第にぼやけてまいります。そして昔親しかった青年の姿が復活してまいります。これからはまたあの十七歳の青年の人を夢に見て、それを楽しみにいたしていましょう。

ピエエルさん。さようなら。もうまたとお目に掛かることはございません。どうぞ悪く思召さないでわたくしの事を御記憶なすって下さいまし。わたくしはあなたに無窮の愛を捧げます。

どうぞもうお手紙も下さいますな。世に忘れられた片蔭に、小さい田舎女は、ただあなたお一人をたよりにして生活していましょう。

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ピエエル・オオビュルナンとマドレエヌ・ジネストとは再会せずにしまった。この詭遇きぐうの影に傷けられた、大家先生の自負心の創痕はいつか癒えて、稀にではあるが先生が尊重の情をもって少時の女友達の上を回想することもある。

鎖鑰さやくを下した先生の卓の抽出しの中で、二通の手紙が次第に黄ばんで行く。それを包んだ紙には「田舎」と題してある。

底本 / Source edition

底本:「諸国物語(上)」ちくま文庫、筑摩書房
1991(平成3)年12月4日第1刷発行
底本の親本:「鴎外全集」岩波書店
1971(昭和46)年11月~1975(昭和50)年6月
入力:土屋隆
校正:noriko saito
2007年12月27日作成
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TEI
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プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
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プレヴォー マルセル「田舎」(新字新仮名)、底本『諸国物語(上)』ちくま文庫、筑摩書房、1991年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 003414_000882, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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