<ruby><rb>月光下</rb><rt>げっこうか</rt></ruby>の<ruby><rb>箱根山</rb><rt>はこねやま</rt></ruby>

それは大変月のいい夜のことでした。

七月の声は聞いても、<ruby><rb>此所</rb><rt>ここ</rt></ruby>は山深い箱根のことです。夜に入ると<ruby><rb>鎗</rb><rt>やり</rt></ruby>の<ruby><rb>穂先</rb><rt>ほさき</rt></ruby>のように冷い風が、どこからともなく流れてきます。

「兄さん。今夜のようだと、夏みたいな気がしないですネ」

「ウン」兄は<ruby><rb>真黒</rb><rt>まっくろ</rt></ruby>い山の上に昇った月から眼を離そうともせず返事をしました。

兄はなにか考えごとを始めているように見えました。兄の<ruby><rb>癖</rb><rt>くせ</rt></ruby>です。兄は理学士なのですが、学校の先生にも成らず、毎日洋書を読んだり、切抜きをしたり、さもないときは、<ruby><rb>籐椅子</rb><rt>とういす</rt></ruby>に<ruby><rb>凭</rb><rt>もた</rt></ruby>れ頭の後に腕を組んでは、ぼんやり考えごとをしていました。なんでも末は地球上に一度も現れたことの無い名探偵になるのだということです。探偵名を<ruby><rb>帆村荘六</rb><rt>ほむらそうろく</rt></ruby>といいます。

「民ちゃん、御覧よ」と兄が突然口を切りました。空を指しています。「あの<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>な月はどうだい」

「いいお月様ですね」

「東京では、こんな綺麗な月は見られないよ。箱根の高い山の上は、空気が<ruby><rb>濁</rb><rt>にご</rt></ruby>っていないから、こんなに鮮かに見えるのだよ」

「今夜は満月でしょう」

「そうだ、満月だ。月が一番美しく輝く夜だ。まるで手を伸ばすと届くような気がする。昔<ruby><rb>嫦娥</rb><rt>じょうが</rt></ruby>という中国人は不死の薬を盗んで月に<ruby><rb>奔</rb><rt>はし</rt></ruby>ったというが、恐らくこのような明るい晩だったろうネ」

私は嫦娥などという中国人のことなどはよく知らないのですが、しかしお月様の中に<ruby><rb>棲</rb><rt>す</rt></ruby>んでいるという<ruby><rb>白兎</rb><rt>しろうさぎ</rt></ruby>が、ピョンと一<ruby><rb>跳</rb><rt>は</rt></ruby>ねして、私の<ruby><rb>足許</rb><rt>あしもと</rt></ruby>へ飛んできそうな気がしました。

「だが向うの森を御覧」と兄は又別のことを云いだしました。「あの森蔭の暗いことはどうだ。あまり月が明るいので、<ruby><rb>却</rb><rt>かえ</rt></ruby>ってあんなに暗いのだ」

「なんだか化物がゾロゾロ<ruby><rb>匍</rb><rt>は</rt></ruby>いまわっているようですね」

そうは云ってしまったものの、私は<ruby><rb>失敗</rb><rt>しま</rt></ruby>ったと思いました。何という気味のわるいことを口にしたのでしょう。<ruby><rb>俄</rb><rt>にわ</rt></ruby>かに<ruby><rb>襟元</rb><rt>えりもと</rt></ruby>がゾクゾクしてきました。

「ほんとに神秘な夜だ。東京にいては、こんなに月の光や、星のことなどを気にすることはないだろう。こんな高い山の頂きにいると空の化物に<ruby><rb>攫</rb><rt>さら</rt></ruby>われてしまいそうな気がしてくる」

私は先程の元気も嬉しさもが、いつの間にか<ruby><rb>凋</rb><rt>しぼ</rt></ruby>んでしまったのに気がつきました。ザワザワと高く<ruby><rb>聳</rb><rt>そび</rt></ruby>えている杉の<ruby><rb>梢</rb><rt>こずえ</rt></ruby>が風をうけて鳴ります。<ruby><rb>天狗颪</rb><rt>てんぐおろし</rt></ruby>のようです。なんだか急に、目に見えぬ長い<ruby><rb>触手</rb><rt>しゅくしゅ</rt></ruby>がヒシヒシと身体の<ruby><rb>周</rb><rt>まわ</rt></ruby>りに伸びてくるような気がしてきました。私はいつの間にか、兄の<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>をしっかり握っていました。

<ruby><rb>丁度</rb><rt>ちょうど</rt></ruby>そのときです。

<ruby><rb>微</rb><rt>かす</rt></ruby>かながら、<ruby><rb>絹</rb><rt>きぬ</rt></ruby>を<ruby><rb>裂</rb><rt>さ</rt></ruby>くような悲鳴が――多分悲鳴だと思ったのですが――遠く風に送られ何処からか響いたように感じました。

「<ruby><rb>呀</rb><rt>あ</rt></ruby>ッ！」

と私は口の中で<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>きました。たしかに耳に聞えました。気のせいにしては、あまりに<ruby><rb>鮮</rb><rt>あざや</rt></ruby>かすぎます。

誰か来て下さい――といっているようにも思われる救いを求める声が、間もなく続いて聞えて来ます。<ruby><rb>魂</rb><rt>たま</rt></ruby>ぎるような悲鳴です。<ruby><rb>月明</rb><rt>つきあかり</rt></ruby>の<ruby><rb>谿々</rb><rt>たにだに</rt></ruby>に、響きわたるさまは、何というか、いと物すさまじい<ruby><rb>其</rb><rt>そ</rt></ruby>の場の光景でした。私の足は、もう云うことをきかなくなって、棒のように地上に突き立ったまま、一歩も進みません。細かい<ruby><rb>震</rb><rt>ふる</rt></ruby>えが全身を襲って、止めようとしても止りません。

「誰か呼んでいるぜ」兄は立ち止ると、<ruby><rb>両掌</rb><rt>りょうて</rt></ruby>を耳のうしろに<ruby><rb>帆</rb><rt>ほ</rt></ruby>のようにかって、首をグルグル<ruby><rb>聴音機</rb><rt>ちょうおんき</rt></ruby>のように廻しています。

「兄さん、兄さん」

「おおッ、こっちだ」兄はハッと形を改めて私の手を握りました。「たしかにあの家らしい。民ちゃん、さあ行ってみよう」

そういうなり兄の荘六は、私の手をひいたままひた走りに走り出しました。私も仕方なしに走りました。白い山道に、もつれ合った怪しい影が踊ります。二人の影です。

満月の夜だったことをハッキリと<ruby><rb>後悔</rb><rt>こうかい</rt></ruby>しました。せめて月が無ければ、こんなにまで<ruby><rb>荒涼</rb><rt>こうりょう</rt></ruby>たる<ruby><rb>風光</rb><rt>ふうこう</rt></ruby>に<ruby><rb>戦慄</rb><rt>せんりつ</rt></ruby>することはなかったでしょう。

一体なにごとが起ったのでしょう？

飛びゆく怪博士

悲鳴のする家は、<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>くに判りました。それは、向うに見えている大きい洋館でありました。二階の窓が開いて、何だか白い着物を着た女の人らしいものが、両手を拡げて救いを求めているようです。

「どこからあの家へ行けるんだろう」と兄が<ruby><rb>疳高</rb><rt>かんだか</rt></ruby>い声で叫びました。

「ほら、あすこに門のようなものが見えていますよ」と私は道をすこし上った坂の途中に鉄の<ruby><rb>格子</rb><rt>こうし</rt></ruby>の見えるのを<ruby><rb>指</rb><rt>ゆびさ</rt></ruby>しました。

「うん。あれが門だな。よォし、駈け足だッ」

私達二人は夢中で草深い坂道を駈けあがりました。

「門は締っているぞ」

「どうしましょう」押しても鉄の門はビクとも動きません。

「<ruby><rb>錠</rb><rt>じょう</rt></ruby>がかかっている。面倒だが乗り越えようよ。それッ」

二人はお<ruby><rb>互</rb><rt>たがい</rt></ruby>に助けあって、<ruby><rb>鉄柵</rb><rt>てっさく</rt></ruby>を飛び越えました。下は<ruby><rb>湿</rb><rt>しめ</rt></ruby>っぽい土が<ruby><rb>砂利</rb><rt>じゃり</rt></ruby>を<ruby><rb>噛</rb><rt>か</rt></ruby>んでいました。私はツルリと滑って<ruby><rb>尻餅</rb><rt>しりもち</rt></ruby>をつきましたが、直ぐにまた起上りました。

「オヤッ」

先頭に立っていた兄が、何か<ruby><rb>恐</rb><rt>こわ</rt></ruby>いものに<ruby><rb>怯</rb><rt>おび</rt></ruby>えたらしく、サッと身を引くと私を<ruby><rb>庇</rb><rt>かば</rt></ruby>いました。兄は天の一角をグッと<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>んでいます。私は何事だろうと思って、兄の視線を追いました。

「おお、あれは何だろう？」

私は思わず早口に<ruby><rb>独言</rb><rt>ひとりごと</rt></ruby>を云いました。ああそれは何という思いがけない光景を見たものでしょうか。何という奇怪さでしょう。向うから白い服を着た男が、フワフワと空中を飛んでくるのです。それは全く飛ぶという言葉のあてはまったような恰好でした。私は何か<ruby><rb>見違</rb><rt>みちが</rt></ruby>いをしたのだろうと思いかえして、<ruby><rb>両眼</rb><rt>りょうがん</rt></ruby>をこすってみましたが、確かにその人間はフワリフワリと空中を飛んでいるのです。だんだんと<ruby><rb>其</rb><rt>そ</rt></ruby>の<ruby><rb>怪</rb><rt>あや</rt></ruby>しい人間は近づいて来ます。私は兄の腰にシッカリ<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>りついていましたが、<ruby><rb>恐</rb><rt>こわ</rt></ruby>いもの見たさで、眼だけはその人間から一<ruby><rb>刻</rb><rt>こく</rt></ruby>も離しませんでした。

「<ruby><rb>民</rb><rt>たみ</rt></ruby>ちゃん、恐くはないから、我慢をしているのだよ」と兄は私の肩を抱きしめて云いました。「じッと動かないで見ているのだ。じッとしてさえ居れば、あいつは気がつかないで、僕たちの頭上を飛びこして行っちまうだろう」

「うん。うん」

私はやっと腹の底からその短い言葉を<ruby><rb>吐</rb><rt>は</rt></ruby>きだしました。そのときです。怪しい人間が頭上五メートルばかりのところを、フワフワと飛び越しました。人間が飛ぶなんて、出来ることでしょうか。飛び越されるときに、なおもハッキリ下から見上げましたが、その怪しい人間は、<ruby><rb>寝台</rb><rt>しんだい</rt></ruby>の上に乗ったように身体が横になっていました。手足はじっとしています。別に動かしもしないのに、宙を飛んでいるのです。どんな顔をしているかと見ましたが、<ruby><rb>生憎</rb><rt>あいにく</rt></ruby>顔が上を向いているので、下からはよく見えません。しかし白い服と思ったのは、お医者さまがよく着ている手術着のようなものでした。

兄と私は、こんどは後から伸びあがって、飛んでゆく人の姿を見つめていました。<ruby><rb>白衣</rb><rt>びゃくい</rt></ruby>の人は、<ruby><rb>尚</rb><rt>なお</rt></ruby>もフワフワと飛びつづけてゆきます。そしてだんだん高く昇ってゆきます。深い<ruby><rb>谿</rb><rt>たに</rt></ruby>が下にあるのも気がつかぬかのようにそこを越えて、やがて向うの杉の森の上あたりで姿は見えなくなってしまいました。私達は<ruby><rb>悪夢</rb><rt>あくむ</rt></ruby>から<ruby><rb>覚</rb><rt>さ</rt></ruby>めたように、<ruby><rb>呆然</rb><rt>ぼうぜん</rt></ruby>と立ちつくしていました。

「不思議だ、不思議だ」

兄は低く<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いています。

そこへバタバタと<ruby><rb>跫音</rb><rt>あしおと</rt></ruby>がして、年とった婦人が駈けてきました。さっき窓から半身を乗りだして救いを呼んでいたのは、この婦人でしょう。家の中からとびだして来たものです。

「ああ、貴方がた、主人はどこへ行ってしまったでしょう」

老婦人は紙のように<ruby><rb>蒼白</rb><rt>そうはく</rt></ruby>な顔色をしていました。両手をワナワナと<ruby><rb>慄</rb><rt>ふる</rt></ruby>わせながら、兄の胸にとびついて来ました。

「奥さん、しっかりなさい」と兄は老婦人の背をやさしく<ruby><rb>撫</rb><rt>な</rt></ruby>でて言いました。

「あれは御主人だったのですか。向うの方へゆかれましたが、追駈けてももう駄目です」

「駄目でしょうか」婦人は力を落して、ヘナヘナと地上に<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>をつきました。兄は直ぐに気がついて助け起しました。

「さあ奥さん。こうなれば私達は落付きをとりかえさなければなりません。<ruby><rb>詳</rb><rt>くわ</rt></ruby>しいお話をうかがうことによって、一番いい方法が見つかることでしょう。しっかり気をとりなおして、<ruby><rb>一伍一什</rb><rt>いちぶしじゅう</rt></ruby>を話して下さい」

「ああ、恐ろしい――」老婦人は顔に両手を当てると、何を思い出したのか、ワッと泣き出しました。

「奥さん、お家の中へお送りしましょう」

「ああ、家の中ですか。いえいえそれはいけません。家の中には、まだ恐ろしい<ruby><rb>魔物</rb><rt>まもの</rt></ruby>が居るにきまっています。貴方がたもきっと喰われてしまいますよ。ああ、恐ろしい……」

「魔物ですって？」兄はキッとなって老婦人の顔を見つめました。「魔物って、どんな魔物なんです」

「そいつは鬼です。あの窓のところに、その魔の影が映りました。あれは人間でも猿でもありません。しかし何だか判らないうちにその鬼の形がズルズルと<ruby><rb>崩</rb><rt>くず</rt></ruby>れてしまったのです。<ruby><rb>崩</rb><rt>くず</rt></ruby>れる<ruby><rb>鬼</rb><rt>おに</rt></ruby>の<ruby><rb>影</rb><rt>かげ</rt></ruby>――ああ、あんな恐ろしいものは、まだ見たことが無い」

崩れる鬼影！

老婦人は一体どんなものを見たのでしょう。空を飛んでいった手術着の人は、どこへ行ってしまったのでしょう。

怪事件の<ruby><rb>顛末</rb><rt>てんまつ</rt></ruby>

家の中に三人が入ってみますと、別に何の物音もしません。まるで<ruby><rb>地底</rb><rt>ちてい</rt></ruby>の部屋のように静かです。

老婦人はベッドの上に、<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>く寝かして置きました。私は兄に命ぜられて、老婦人のそばについていました。兄さんはソッと部屋を出てゆきました。きっと二階の方に、事件のあとを探しに行ったのに違いありません。

老婦人はベッドの上に、静かに目を閉じて睡っています。<ruby><rb>呼吸</rb><rt>いき</rt></ruby>も大変<ruby><rb>穏</rb><rt>おだや</rt></ruby>かになって来ました。やっと気が落付いてきたものと見えます。二階では、コツコツと<ruby><rb>跫音</rb><rt>あしおと</rt></ruby>がしています。兄が廊下を歩いているのでしょう。

「ああ――」

老婦人は、一つ<ruby><rb>寝返</rb><rt>ねがえ</rt></ruby>りをうちました。そのときに<ruby><rb>両眼</rb><rt>りょうがん</rt></ruby>を天井の方に大きく開きました。

「ああ、うちの人は帰って来たのかしら」

「いいえ、あれは私の兄ですよ」

老婦人は急に恐ろしい顔になって、私の方を向きました。

「兄さんですって――」

「二階へ調べに行っています」

「二階へ？　そりゃいけません。恐ろしい魔物にまた<ruby><rb>攫</rb><rt>さら</rt></ruby>われますよ。危い、危い。さ、早くわたしを二階へ連れていって下さい」

そのときでした。<ruby><rb>俄</rb><rt>にわ</rt></ruby>かに二階で、<ruby><rb>瀬戸物</rb><rt>せともの</rt></ruby>をひっくりかえしたようなガチャンガチャンという物音が聞えてきました。つづいてドーンと床を<ruby><rb>転</rb><rt>ころ</rt></ruby>がるような音がします。

「<ruby><rb>民夫</rb><rt>たみお</rt></ruby>！　民夫！　早く来てくれッ」

兄の声です。兄が<ruby><rb>呶鳴</rb><rt>どな</rt></ruby>っています。とても<ruby><rb>悲痛</rb><rt>ひつう</rt></ruby>な叫び声です。今までにあんな声を兄が出したことを知りません。恐ろしい一大事が<ruby><rb>勃発</rb><rt>ぼっぱつ</rt></ruby>したに違いありません。

私は老婦人の<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>から立ち上ると、室の<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>を蹴って飛び出しました。入口を出ると、そこには二階へ通ずる幅の広い階段があります。何か<ruby><rb>組打</rb><rt>くみうち</rt></ruby>をしているらしい<ruby><rb>騒々</rb><rt>そうぞう</rt></ruby>しい物音が、その上でします。私は階段を<ruby><rb>嘗</rb><rt>な</rt></ruby>めるようにして駈けのぼりました。

「兄さーん」

二階の廊下を走りながら叫びました。

「兄さんッ」

ところが<ruby><rb>俄</rb><rt>にわ</rt></ruby>かにハタと物音がしなくなりました。さあ心配が倍になりました。いままで物音のしていたと思われる室の<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>をグッと押しましたが<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>きません。

「うーッ」

変な<ruby><rb>呻</rb><rt>うな</rt></ruby>り声が、<ruby><rb>内部</rb><rt>うち</rt></ruby>から聞えます。<ruby><rb>正</rb><rt>まさ</rt></ruby>しくこの部屋です。

私は身体をドンドン扉にぶつけました。ぶつけて見て判ったことです。扉には鍵がかかっているのだろうと思ったのに、そうではないらしいです。何か向うに机のようなものが転がっていて、それが扉の内部から押しているらしいです。それならば、力さえ<ruby><rb>籠</rb><rt>こ</rt></ruby>めれば開くだろうという<ruby><rb>見込</rb><rt>みこみ</rt></ruby>がつきました。

ドーン。

ガラガラと扉が開きました。

部屋の中へ飛びこんでみますと、そこは図書室のようでもあり、何か実験をしている室でもあるらしく、複雑な器械のようなものが、本棚の反対の側に置いてあり、<ruby><rb>天体望遠鏡</rb><rt>てんたいぼうえんきょう</rt></ruby>のようなものも見えます。しかし<ruby><rb>肝心</rb><rt>かんじん</rt></ruby>の兄の姿が見えません。

（<ruby><rb>攫</rb><rt>さら</rt></ruby>われたのかナ）

私はハッと胸をつかれたように感じました。

「兄さーん！」

うーッ、うーッというような<ruby><rb>呻</rb><rt>うな</rt></ruby>り<ruby><rb>声</rb><rt>ごえ</rt></ruby>が突然聞えました。呻り声のするのは、意外にも私の頭の上の方です。私は<ruby><rb>駭</rb><rt>おどろ</rt></ruby>いて<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>にふりかえると、天井を見上げました。

「ややッ――」

私はその場に<ruby><rb>仆</rb><rt>たお</rt></ruby>れんばかりに<ruby><rb>吃驚</rb><rt>びっくり</rt></ruby>しました。兄が居ました。たしかに兄が居ました。しかし何という不思議なことでしょう。兄は天井に足をついて<ruby><rb>蝙蝠</rb><rt>こうもり</rt></ruby>のように逆さまにぶら<ruby><rb>下</rb><rt>さが</rt></ruby>っているのです。頭は一番下に<ruby><rb>垂</rb><rt>た</rt></ruby>れ下っていますが、私の背よりもずっと高くて手がとどきません。兄の顔は、<ruby><rb>熟柿</rb><rt>じゅくし</rt></ruby>のように真赤です。両手は自分の顔の前で、<ruby><rb>蟹</rb><rt>かに</rt></ruby>の足のように、開いたまま曲っています。何物かを一生懸命に<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>んでいるようですが、別に掴んでいる物も見えません。口をモグモグやっていますが、言葉は聞えません。何者かに<ruby><rb>締</rb><rt>し</rt></ruby>めつけられているような<ruby><rb>恰好</rb><rt>かっこう</rt></ruby>です。どうしたらいいだろう。

一体、兄はどうしてそんな天井に逆さまで立っているのか判らないのです。しかし兄が非常な危険に直面しているらしい事は充分にわかります。

（何とかして早く助けなければ……）

私は<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>の考えで、傍の本棚に駈けよると洋書をとりあげました。

「ええいッ」

私は洋書を、兄のお尻の辺を<ruby><rb>覘</rb><rt>ねら</rt></ruby>って<ruby><rb>抛</rb><rt>な</rt></ruby>げつけたのです。本は兄の身体から三十センチ程手前でバサッという物音がしてぶつかると<ruby><rb>軈</rb><rt>やが</rt></ruby>てドーンと床の上に落ちて来ました。

一冊、又一冊。四五冊<ruby><rb>抛</rb><rt>な</rt></ruby>げつづけている間に、兄の様子が少しずつ変って来ました。それに<ruby><rb>勢</rb><rt>いきおい</rt></ruby>を得て<ruby><rb>尚</rb><rt>なお</rt></ruby>も<ruby><rb>抛</rb><rt>な</rt></ruby>げていますと、急に兄の身体が横にフラリと<ruby><rb>傾</rb><rt>かたむ</rt></ruby>くとどッと下に落ちて来ました。

私は<ruby><rb>吃驚</rb><rt>びっくり</rt></ruby>して、その下に駈けつけました。抱きとめるつもりが、うまくゆかなくて、兄の身体の下敷になったまま、ズトンと床に<ruby><rb>仆</rb><rt>たお</rt></ruby>れました。

「兄さん、兄さんッ」気を失っている兄を、私は一生懸命にゆすぶりました。

「おお」兄はパッと目を見開きました。「ああ影が<ruby><rb>崩</rb><rt>くず</rt></ruby>れる――」

謎のような言葉を云ったなり、兄は又ガクッとして、床の上に仆れてしまいました。

丁度そのときガチャーンと大きな物音がして、<ruby><rb>硝子</rb><rt>ガラス</rt></ruby>窓が<ruby><rb>壊</rb><rt>こわ</rt></ruby>れました。見ると門の方に面した大きい硝子窓には<ruby><rb>盥</rb><rt>たらい</rt></ruby>が入りそうな丸い大きい穴がポッカリと明いているのです。不思議にも硝子の<ruby><rb>破片</rb><rt>はへん</rt></ruby>は一向に飛んで来ません。別に何物も硝子窓にあたったように見えないのに、これは一体どうしたということでしょう。

次から次へ、不思議としか言うことの出来ない事件が起ったのです。私は気を失った兄を膝の上に抱き起したまま、老婦人が始めに呟き、それから又兄が今しがた叫んだ謎の言葉を口の中に<ruby><rb>繰</rb><rt>く</rt></ruby>りかえして見ました。

「崩れる影、崩れる<ruby><rb>鬼影</rb><rt>おにかげ</rt></ruby>！」

信じられない事件

月の明るい箱根の夜の出来事でした。空中をフワフワ飛んでゆく<ruby><rb>白衣</rb><rt>びゃくい</rt></ruby>の怪人が現れたかと思うと、間近くから救いを求める老婦人の<ruby><rb>金切声</rb><rt>かなきりごえ</rt></ruby>が起りました。救いに行った、私の兄の<ruby><rb>帆村荘六</rb><rt>ほむらそうろく</rt></ruby>は、その洋館の一室で、足を天井につけ、身は宙ぶらりんに<ruby><rb>垂下</rb><rt>たれさが</rt></ruby>っていました。ニュートンの<ruby><rb>万有引力</rb><rt>ばんゆういんりょく</rt></ruby>の法則を無視したような<ruby><rb>芸当</rb><rt>げいとう</rt></ruby>ですから私は驚きました。これは様子がおかしいと気がついて、やっと助け下ろしますと、「<ruby><rb>崩</rb><rt>くず</rt></ruby>れる<ruby><rb>鬼影</rb><rt>おにかげ</rt></ruby>！」と不思議な言葉を呟いたまま<ruby><rb>人事不省</rb><rt>じんじふせい</rt></ruby>に<ruby><rb>陥</rb><rt>おちい</rt></ruby>ってしまいました。

「崩れる鬼影」とは、あの老婦人も<ruby><rb>譫言</rb><rt>うわごと</rt></ruby>のように叫んでいた言葉ではありませんか。これは一体どうしたというのでしょう。鬼影とはなんでしょう。それが崩れるとは、何のことだか一向見当がつきません。

「兄さん。兄さん――」

私は兄の荘六の耳元で、ラウドスピーカーのような声を張りあげました。でも兄はピクリとも動きません。反応がないのです。

「兄さん、しっかりして下さい――」

と今度は両手でゆすぶってみました。しかしやっぱり兄はまるで気がつきません。所は山深い箱根のことです。人里とては遠く、もう頼むべき人も近所にはないのです。私はどうしてよいのやら全く途方に暮れてしまいました。ポロポロと熱い<ruby><rb>泪</rb><rt>なみだ</rt></ruby>が、あとからあとへ流れて出ます。私はもう<ruby><rb>怺</rb><rt>こら</rt></ruby>えきれなくなって、ひしと兄の身体に<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>りつき、オイオイと声をあげて泣き始めました。笑ってはいけませんよ。誰でもあの場合、泣くより<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>に仕方がなかったと思います。

「ああ、ひどい熱だ――」

兄の<ruby><rb>額</rb><rt>ひたい</rt></ruby>は<ruby><rb>焼</rb><rt>や</rt></ruby>け<ruby><rb>金</rb><rt>がね</rt></ruby>のようです。私はハッと思いました。兄をこの<ruby><rb>儘</rb><rt>まま</rt></ruby>で放って置いたのでは死んでしまうかも知れないぞと思いました。そうなると、もうワアワア泣いてなど居られません。私は一刻も早く、兄の身体を医者に見せなければならないと気がつきました。

私は気が<ruby><rb>俄</rb><rt>にわ</rt></ruby>かにシッカリ引き締まるのを覚えました。

「日本の少年じゃないか」私は泪をふるい落としました。「非常の時に泣いていてたまるものか。なにくそッ――」

私はヌックと立ち上ると、お<ruby><rb>臍</rb><rt>へそ</rt></ruby>に<ruby><rb>有</rb><rt>あり</rt></ruby>ったけの力を入れました。

「ウーン」

すると不思議不思議。気がスーゥと落付いてきました。鬼でも悪魔でも来るものならやってこい――という気になりました。

私は兄のために、さしあたり医者を迎えねばならないと思いました。この家のうちには電話があるのではないかと思ったので、兄の身体はそのままとし、<ruby><rb>階下</rb><rt>した</rt></ruby>へ降りてみました。階段の下に果して電話機がこっちを<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いていましたので、私は嬉しくなって飛びついてゆきました。だが電話をかけようとして、私はハタと<ruby><rb>行</rb><rt>ゆ</rt></ruby>き<ruby><rb>詰</rb><rt>づま</rt></ruby>ってしまいました。どこのお医者様がいいのだか判らないのです。そのとき<ruby><rb>不図</rb><rt>ふと</rt></ruby>気がついたのは<ruby><rb>所轄</rb><rt>しょかつ</rt></ruby>の<ruby><rb>小田原</rb><rt>おだわら</rt></ruby>警察署のことです。

（まず警察へこの<ruby><rb>椿事</rb><rt>ちんじ</rt></ruby>を報告し、救いを求めよう。それがいい！）

警察の電話番号は、電話帳の第一<ruby><rb>頁</rb><rt>ページ</rt></ruby>にありました。私は自動式の電話機のダイヤルを廻しました。――警察が出ました。

「モシモシ。小田原署ですか。大事件が起りましたから、早く医者と警官とを急行して貰って下さい」

「大事件？　大事件て、どんな事件なんだネ」

向うはたいへん落付いています。

「兄が天井に足をついて歩いていましたが、下におっこって気絶をしています。いくら呼んでも気がつかないのです」

「なにを云っているのかネ、君は。兄がどうしたというのだ」

「兄が天井に足をつけて歩いていたんです」

「オイ君は気が確かかい。こっちは警察だよ」

ああ、これほどの大事件を報告しているのに、警察では一向にとりあってくれないのです。私はヤキモキしてきました。

「まだ大事件があるのです。ここの主人が、先刻フワフワと空中を飛んで門の上をとび越え、川の向うの森の方へ行って見えなくなりました」

「なアーンだ。そこは飛行場なのかい」

「飛行場？　ちがいますよちがいますよ。ここの主人は飛行機にも乗らないで、身体一つでフワフワと空中へ飛び出したのです」

「はッはッはッ」と<ruby><rb>軽蔑</rb><rt>けいべつ</rt></ruby>するような笑い声が向うの電話口から聞えました。「人間が身体だけで空中へ飛び出すなんて、<ruby><rb>莫迦</rb><rt>ばか</rt></ruby>も休み休み言えよ。こっちは<ruby><rb>忙</rb><rt>いそが</rt></ruby>しいのだから、そんな面白い話は<ruby><rb>紙芝居</rb><rt>かみしばい</rt></ruby>のおじさんに話をしてやれよ」

「どうして警察のくせに、この大事件を信じて手配をして<ruby><rb>呉</rb><rt>く</rt></ruby>れないんです」わたしはもう<ruby><rb>怺</rb><rt>こら</rt></ruby>えきれなくなって、大声で叫びました。

「オイ、これだけ言うのに、まだ判らないことを云うと、<ruby><rb>厳然</rb><rt>げんぜん</rt></ruby>たる<ruby><rb>処分</rb><rt>しょぶん</rt></ruby>に<ruby><rb>附</rb><rt>ふ</rt></ruby>するぞ。空中へ飛び出させていかぬものなら、縄で<ruby><rb>結</rb><rt>ゆ</rt></ruby>わえて置いたらばいいじゃないか。広告気球の代りになるかも知れないぞ」

警官はあくまで冗談だと思っているのです。私はどうかして警官に早く来て貰いたいと思っているのに、これでは<ruby><rb>見込</rb><rt>みこみ</rt></ruby>がありません。そこで一策を思いつきました。

「ヤイヤイヤイ」私は黄色い声を出して云いました。「ヤイ警官のトンチキ<ruby><rb>野郎奴</rb><rt>やろうめ</rt></ruby>。鼻っぴの、おでこの、ガニ股の、ブーブー野郎の、デクノ棒野郎の、<ruby><rb>蛆虫</rb><rt>うじむし</rt></ruby>野郎の、飴玉野郎の、――ソノ大間抜け、口惜しかったらここまでやってこい。<ruby><rb>甘酒進上</rb><rt>あまざけしんじょう</rt></ruby>だ。ベカンコー」

「コーラ、<ruby><rb>此</rb><rt>こ</rt></ruby>の<ruby><rb>無礼者奴</rb><rt>ぶれいものめ</rt></ruby>。警察と知って<ruby><rb>悪罵</rb><rt>あくば</rt></ruby>をするとは、捨てて置けぬ。うぬ、今に後悔するなッ」

警官は本気に怒ってしまいました。その様子では、間もなくカンカンになって頭から<ruby><rb>湯気</rb><rt>ゆげ</rt></ruby>を立てた警察隊がこの家へ到着することでしょう。

ところで病院は、小田原病院というのが見付かりました。私はそこへ電話をかけて、急病人であるから、自動車で飛んで来てくれるように頼みました。

さあ、これで<ruby><rb>一</rb><rt>ひ</rt></ruby>と安心です。警察隊と医者の来るのを待つばかりです。その間に私は<ruby><rb>現場</rb><rt>げんじょう</rt></ruby>を<ruby><rb>検</rb><rt>しら</rt></ruby>べて、事件の<ruby><rb>手懸</rb><rt>てがか</rt></ruby>りを少しでも多く発見して置きたいと思ったのでした。私だって<ruby><rb>素人探偵</rb><rt>しろうとたんてい</rt></ruby>位は出来ますよ。

少年探偵の眼は光る

兄の身体は重いので、<ruby><rb>絨氈</rb><rt>じゅうたん</rt></ruby>の上に寝かしたままに放置するより仕方がありません。隣の寝室らしいところから、枕と毛布とをとって来て、兄にあてがいました。それから、<ruby><rb>金盥</rb><rt>かなだらい</rt></ruby>に冷い水を<ruby><rb>汲</rb><rt>く</rt></ruby>んで来て、タオルをしぼると、額の上に<ruby><rb>載</rb><rt>の</rt></ruby>せてやりました。こうして置いて私は、現場調査にとりかかったのです。

その室で、まず私の眼にうつる異様なものは、窓<ruby><rb>硝子</rb><rt>ガラス</rt></ruby>の真ン中にあけられた大きい<ruby><rb>孔</rb><rt>あな</rt></ruby>です。これは<ruby><rb>盥</rb><rt>たらい</rt></ruby>が入る位の大きさがあります。随分大きな孔があいたものです。何故この窓硝子が割れたのでしょうか。それを知らなければなりません。

調べてみると、その窓硝子の<ruby><rb>破片</rb><rt>はへん</rt></ruby>は、室内には一つも残らず、全部<ruby><rb>屋外</rb><rt>おくがい</rt></ruby>にこぼれているのに気がつきました。どうして内側に破片が残らなかったか？

（うむ。これは窓硝子を<ruby><rb>壊</rb><rt>こわ</rt></ruby>す前に、この室内の圧力が室外の圧力よりも強かったのだ）

もし外の方が圧力が強いと窓硝子が壊れたときは、外から室内へ飛んでくる<ruby><rb>筈</rb><rt>はず</rt></ruby>ですから室内に硝子の破片が一杯<ruby><rb>散乱</rb><rt>さんらん</rt></ruby>していなければなりません。そういうことのないわけは、それが逆で、この室内の方が圧力が高かったわけです。

（室内の圧力が高いということは、どういう状態にあったのかしら？）

風船ではないのですから、この室内だけに特に圧力の高い<ruby><rb>瓦斯</rb><rt>ガス</rt></ruby>が充満していたとは考えられません。それに窓硝子の壊れる前に、私はこの室内へ入っていたのです。扉を破って入ったときに、室内に圧力の高い瓦斯と空気が充満していたものだったら、私は<ruby><rb>吃度</rb><rt>きっと</rt></ruby>強く吹きとばされた筈です。しかし一向そんな<ruby><rb>風</rb><rt>ふう</rt></ruby>もなく、普通の部屋へ入るのと同じ感じでありました。するとこの室内に高圧瓦斯が充満していたとは考えられません。

（すると、それは一体どうしたわけだろう）

こんな風に窓硝子が壊れるためには、もう一つの考え方があります。それは何か大きい物体を、この室から戸外へ<ruby><rb>抛</rb><rt>な</rt></ruby>げたとしますと、こんな大きな孔が出来るかも知れません。いつだか銀座のある時計屋の飾窓の硝子を<ruby><rb>悪漢</rb><rt>あっかん</rt></ruby>が<ruby><rb>煉瓦</rb><rt>れんが</rt></ruby>で<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>き破って、その中にあった二万円の<ruby><rb>金塊</rb><rt>きんかい</rt></ruby>を盗んで行ったことがあります。あの調子です。しかし煉瓦位では、こんなに大きい孔はあきそうもありません。少くとも<ruby><rb>盥</rb><rt>たらい</rt></ruby>位の大きさのものを投げたことになります。

（だが、盥位の大きさのものを外に投げたとしたら、そのとき私は室の中に居たのだから、それが眼に映らなければならなかったのに――）

ところが私は、盥のようなものが、この窓硝子に打ちつけられたところなどを<ruby><rb>決</rb><rt>けっ</rt></ruby>して見ませんでした。いやボール位の大きさのものだってこの硝子板をとおして飛び出したのを見なかったのです。

（すると、この矛盾はどう解決すべきであろうか？）

全く不思議です。盥位の大きさのものをこの室内から外に投げたと思われるのに、それが見えなかったというのは、どうしたわけでしょう。――そうだ。こういうことが考えられるではありませんか。<ruby><rb>若</rb><rt>も</rt></ruby>し<ruby><rb>抛</rb><rt>な</rt></ruby>げられたものが、無色透明の物体だったとしたらどうでしょうか。<ruby><rb>仮</rb><rt>かり</rt></ruby>に盥ほどもある大きい<ruby><rb>硝子</rb><rt>ガラス</rt></ruby>の<ruby><rb>塊</rb><rt>かたまり</rt></ruby>だったとしたら、そいつは私の眼にもうつらないで、この室から外へ抛げることが出来たでしょう。その外に解きようがありません。

しかしながら、そんな大きい無色透明の物体なんて<ruby><rb>在</rb><rt>あ</rt></ruby>るのでしょうか。そいつは一体何者でしょうか。それは<ruby><rb>室内</rb><rt>しつない</rt></ruby>のどこに置いてあって、どういう風にして窓硝子へぶっつかったのでしょうか。こう考えて来ると、<ruby><rb>折角</rb><rt>せっかく</rt></ruby>謎がとけてきたように見えましたが、どうしてどうして、答はますます<ruby><rb>詰</rb><rt>つま</rt></ruby>ってくるばかりです。なぜなれば、そんな眼に見えないもの（又は眼に見え<ruby><rb>難</rb><rt>にく</rt></ruby>いもの）で、<ruby><rb>莫迦</rb><rt>ばか</rt></ruby>に大きいもの、そして硝子を<ruby><rb>壊</rb><rt>こわ</rt></ruby>す力があるようなもの、そしてそれは誰が<ruby><rb>抛</rb><rt>な</rt></ruby>げたか――イヤそれはまるで化物屋敷の出来ごとでもなければ、そんな不思議は解けないでしょう。

「ム――」

と私は其の場に<ruby><rb>呻</rb><rt>うな</rt></ruby>りながら<ruby><rb>腕組</rb><rt>うでぐみ</rt></ruby>をいたしました。

眼に見えないか、見えにくいもので、<ruby><rb>盥</rb><rt>たらい</rt></ruby>位の大きさ、形は丸くて、硝子を壊す位の重いもので、その上、簡単に室内から投げられるようなものとは、一体何だろう。

<ruby><rb>怪</rb><rt>あや</rt></ruby>しい<ruby><rb>白毛</rb><rt>しらげ</rt></ruby>（？）

私はそのときに、「崩れる鬼影」という謎のような言葉を思い出しました。

ああいう非常時に、人間というものは、驚きのなかにも案外たいへんうまい形容の言葉を言うものです。「鬼影」というも「崩れる」というも、決して<ruby><rb>出鱈目</rb><rt>でたらめ</rt></ruby>の言葉ではありますまい。ことに<ruby><rb>此</rb><rt>こ</rt></ruby>の<ruby><rb>家</rb><rt>や</rt></ruby>の老婦人も兄も、全く同じ「崩れる鬼影」という言葉を叫んだのですから、いよいよ<ruby><rb>以</rb><rt>もっ</rt></ruby>て出鱈目ではありますまい。

影というからには、どこかに映ったものでありましょう。あのときは――そうです、<ruby><rb>満月</rb><rt>まんげつ</rt></ruby>が<ruby><rb>皎々</rb><rt>こうこう</rt></ruby>と照っていました。今はもう屋根の向うに<ruby><rb>傾</rb><rt>かたむ</rt></ruby>きかけたようです。月光に照らされたものには影が出来る<ruby><rb>筈</rb><rt>はず</rt></ruby>です。影というのは、その影ではないでしょうか。あの場合、満月の作る影と考えることは、<ruby><rb>極</rb><rt>きわ</rt></ruby>めて自然な考えだと思いました。すると――

（あの満月に照らされて出来た影なのだ。それはどこへ<ruby><rb>映</rb><rt>うつ</rt></ruby>ったか？）

私は首をふって、改めて室内を見まわしてみましたが、

（ああ、この窓に鬼影が映ったのだッ）

と思わず叫び声をたてました。そうだ、そうだ。兄はこの部屋に入る前までは「鬼影」などと口にしなかったではないですか。これはこの室に入って始めて鬼影を見たとすれば合うではありませんか。しかもこの室の、この窓硝子の上に……

私はツカツカと窓硝子の<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>によりました。そして改めて丸く壊れた窓硝子を<ruby><rb>端</rb><rt>はし</rt></ruby>の方から<ruby><rb>仔細</rb><rt>しさい</rt></ruby>に調べて見ました。破壊したその<ruby><rb>縁</rb><rt>ふち</rt></ruby>は、ザラザラに切り<ruby><rb>削</rb><rt>そ</rt></ruby>いだような歯を<ruby><rb>剥</rb><rt>む</rt></ruby>いていました。私はそこにあったスタンドを取上げてどんな細かいことも<ruby><rb>見遁</rb><rt>みのが</rt></ruby>すまいと、眼を皿のようにして観察してゆきました。

しかし別に<ruby><rb>手懸</rb><rt>てがか</rt></ruby>りになるようなものも見えません。台をして上の方もよく見ました。だんだんと反対の側を下の方へ見て行きましたが、

「オヤ」

と思わず私は叫びました。

「これは何だろう？」

硝子の<ruby><rb>切</rb><rt>き</rt></ruby>り<ruby><rb>削</rb><rt>そ</rt></ruby>いだような<ruby><rb>縁</rb><rt>ふち</rt></ruby>に、白い毛のようなものが二三本<ruby><rb>引懸</rb><rt>ひっかか</rt></ruby>っているではありませんか。ぼんやりして居れば<ruby><rb>見遁</rb><rt>みのが</rt></ruby>してしまうほどの細いものです。余り何も得るところがなかったので、それでこんな小さなものに気がついたわけでした。

これを<ruby><rb>若</rb><rt>も</rt></ruby>し見落していたならば、この怪事件の真相は、或いはいまだに解けていなかったかも知れません。それは<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>の話です。

私はハンカチーフを出して、その白い毛のようなものを硝子の縁から取りはなしました。そしてそのまま<ruby><rb>折</rb><rt>お</rt></ruby>り<ruby><rb>畳</rb><rt>たた</rt></ruby>んで、ポケットに仕舞いこんだのでした。

<ruby><rb>丁度</rb><rt>ちょうど</rt></ruby>そのときです。

<ruby><rb>戸外</rb><rt>こがい</rt></ruby>に、やかましいサイレンの音が鳴り出しました。

ブーウ、ウ、ウ。ブーウ、ウ、ウ。

まるで怪獣のような<ruby><rb>呻</rb><rt>うな</rt></ruby>り声です。

破れた窓から外に首を出してみますと、どうでしょう、<ruby><rb>遥</rb><rt>はる</rt></ruby>か下の<ruby><rb>街道</rb><rt>かいどう</rt></ruby>をこっちへ突進して来る自動車のヘッドライトが<ruby><rb>一</rb><rt>ひ</rt></ruby>イ、<ruby><rb>二</rb><rt>ふ</rt></ruby>ウ、<ruby><rb>三</rb><rt>み</rt></ruby>イ、ときどきパッと<ruby><rb>眩</rb><rt>まぶ</rt></ruby>しい眼玉をこっちへ向けます。いよいよ警察隊がやって来たのです。頭からポッポッと<ruby><rb>湯気</rb><rt>ゆげ</rt></ruby>を出して怒っている警官の顔が見えるようでした。

ふりかえってみると、兄は依然として<ruby><rb>絨氈</rb><rt>じゅうたん</rt></ruby>の上に長くなったまま、苦しそうな呼吸をしていました。

私は階段をトントンと下って、老婦人の<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>の<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>を<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>きました。

「おばさん。いよいよ警官が来ましたよ。もう大丈夫ですよ」

そう云いながら、私は扉を開いて室内へ一歩踏み入れました。

「や、や、やッ――」

私の心臓はパッタリ停ったように感じました。私は一体そこで、何を見たでしょうか？

<ruby><rb>妖怪屋敷</rb><rt>ようかいやしき</rt></ruby>

この室の<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>を開くまでは、私は老婦人ひとりが、静かに<ruby><rb>寝台</rb><rt>ベッド</rt></ruby>の上に<ruby><rb>睡</rb><rt>ねむ</rt></ruby>っていることと思っていました。ところがどうでしょう。いま扉を押して見て<ruby><rb>駭</rb><rt>おどろ</rt></ruby>きました。なんでもそのときの<ruby><rb>気配</rb><rt>けはい</rt></ruby>では、婦人の外に十人近くの人間がウヨウヨと<ruby><rb>蠢</rb><rt>うごめ</rt></ruby>いているのを直感しました。

「オヤッ」

一体この大勢の人間は何処から入ってきたのでしょう？　ここの主人の谷村博士とこの老婦人以外には、せいぜい一人二人のお手伝いさんぐらいしか居ないだろうと思った屋敷に、いつの間にか十人近くの人間が現れたのです。しかも大して広くもない<ruby><rb>此</rb><rt>こ</rt></ruby>の婦人の室に、ウヨウヨと集っていたのですから、私は<ruby><rb>胆</rb><rt>きも</rt></ruby>を<ruby><rb>潰</rb><rt>つぶ</rt></ruby>してしまいました。

ですけれど、私の駭きはそれだけでお<ruby><rb>仕舞</rb><rt>しま</rt></ruby>いにはなりませんでした。おお、何という<ruby><rb>恐</rb><rt>おそ</rt></ruby>ろしい<ruby><rb>其</rb><rt>そ</rt></ruby>の場の光景でしょうか。その十人近くの人間と見えたのは、実は人聞だかどうだか解りかねる<ruby><rb>奇怪</rb><rt>きかい</rt></ruby>なる<ruby><rb>生物</rb><rt>いきもの</rt></ruby>でした。そうです。生物には違いないと思います、こうウヨウヨと蠢いているのですから。

彼等は変な<ruby><rb>服装</rb><rt>なり</rt></ruby>をしていました。時代のついた古い洋服――それもフロックがあるかと思えば背広があり、そうかと思うと中年の婦人のつけるスカートをモーニングの下に<ruby><rb>履</rb><rt>は</rt></ruby>いています。しかしそのチグハグな服装はまだいいとして、この人達の顔が一向にハッキリしないのは変です。

私は眼をパチパチとしばたたいて幾度も見直しました。ああ、これは一体どうしたというのでしょう。彼等の顔のハッキリしないのも<ruby><rb>道理</rb><rt>どうり</rt></ruby>です。<ruby><rb>全</rb><rt>まった</rt></ruby>くは、顔というものが無いのです。頭のない生物です。頭のない生物が、まるで檻の中に<ruby><rb>犇</rb><rt>ひしめ</rt></ruby>きあう<ruby><rb>大蜥蜴</rb><rt>おおとかげ</rt></ruby>の<ruby><rb>群</rb><rt>むれ</rt></ruby>のように押し合いへし合いしているのです。

「ばッ、ばけもの屋敷だ！」

私はそう叫ぶと、<ruby><rb>室内</rb><rt>しつない</rt></ruby>に死んだようになって横たわっている老婦人を助ける元気などは<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ち<ruby><rb>失</rb><rt>う</rt></ruby>せて、室外に飛び出しました。うわーッと怪物たちが、<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>から<ruby><rb>襲</rb><rt>おそ</rt></ruby>いかかってくる有様が見えるような気がしました。

「助けてくれーッ」

私はもう恐ろしさのために、大事な兄のことも忘れ、一秒でも早くこの妖怪屋敷から脱出したい願いで一杯で、サッと外へ飛び出しました。

「たッ助けてくれーッ」

ああ、<ruby><rb>眩</rb><rt>まぶ</rt></ruby>しい自動車のヘッド・ライトは、二百メートルも<ruby><rb>間近</rb><rt>まぢか</rt></ruby>に<ruby><rb>迫</rb><rt>せま</rt></ruby>っています。警察隊が来てくれたのです。あすこへ身を<ruby><rb>擲</rb><rt>な</rt></ruby>げこめば助かる！　私はもう夢中で走りました。

「オイ何者かッ。停まれ、停まれ」

私の顔面には突然サッと強い<ruby><rb>手提電灯</rb><rt>てさげでんとう</rt></ruby>の光が浴せかけられました。おお、助かったぞ！

怪しき博士の生活

「この<ruby><rb>小僧</rb><rt>こぞう</rt></ruby>だナ、さっき電話をかけてきたのは」

<ruby><rb>無蓋</rb><rt>むがい</rt></ruby>自動車の運転台に乗っていた若い一人の警官が、ヒラリと地上に飛び降りると、私の前へツカツカと進み出てきました。

「僕です」私はもう<ruby><rb>叱</rb><rt>しか</rt></ruby>られることなんか何でもないと思って返事しました。「トンチキ野郎などと大変な口を<ruby><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>いたのもお前だろう」

「僕に違いありません。そうでも云わないと皆さん来てくれないんですもの」

「オイオイ、待て待て」そこへ横から警部みたいな立派な警官が現れました。「それはもう<ruby><rb>勘弁</rb><rt>かんべん</rt></ruby>してやれ」

私はホッとして頭をペコリと下げました。

「それでナニかい。一体どう云う事件なのかネ。君が一生懸命の<ruby><rb>智慧</rb><rt>ちえ</rt></ruby>をふりしぼって僕等を呼び出した程の事件というのは……」

警部さんには、よく私の気持が判っていて<ruby><rb>呉</rb><rt>く</rt></ruby>れたのです。これ位<ruby><rb>嬉</rb><rt>うれ</rt></ruby>しいことはありません。私は元気を取戻しながら、<ruby><rb>一伍一什</rb><rt>いちぶしじゅう</rt></ruby>を手短かに話してきかせました。

「ウフ、そんな<ruby><rb>莫迦</rb><rt>ばか</rt></ruby>なことがあってたまるものか。この小僧はどうかしているのじゃないですか」

例の若い警官黒田巡査は、あくまで私を疑っています。

「まアそう云うものじゃないよ、黒田君」<ruby><rb>分別</rb><rt>ふんべつ</rt></ruby>あり<ruby><rb>気</rb><rt>げ</rt></ruby>な<ruby><rb>白木</rb><rt>しろき</rt></ruby>警部は<ruby><rb>穏</rb><rt>おだや</rt></ruby>かに制して、「なるほど<ruby><rb>突飛</rb><rt>とっぴ</rt></ruby>すぎる程の事件だが、僕はこの家を前から<ruby><rb>何遍</rb><rt>なんべん</rt></ruby>も見て通った<ruby><rb>時毎</rb><rt>ときごと</rt></ruby>に、なんだか変なことの起りそうな<ruby><rb>邸</rb><rt>やしき</rt></ruby>じゃという気がしていたんだ」

「そうです、白木警部どの」とビール<ruby><rb>樽</rb><rt>だる</rt></ruby>のように肥った赤坂巡査が横から口を出しました。「ここの主人の谷村博士は、年がら年中、天体望遠鏡にかじりついてばかりいて他のことは何にもしないために、今では足が<ruby><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>かなくなり、室内を歩くのだってやっと出来るくらいだという話です」

「<ruby><rb>可笑</rb><rt>おか</rt></ruby>しいなア、その谷村博士とかいう人は、<ruby><rb>確</rb><rt>たし</rt></ruby>かに空中をフワフワ飛んでいましたよ」私は博士が足が不自由なのにフワフワ飛べるのがおかしいと思ったので、口を出しました。

「それは構わんじゃないか」黒田巡査が大きな声で<ruby><rb>呶鳴</rb><rt>どな</rt></ruby>るように云いました。「足が不自由だから、簡単に飛べるような発明をしたと考えてはどうかネ」

「ほほう、君もどうやら事件のあったことを信用して来たようだネ」と警部は<ruby><rb>微笑</rb><rt>びしょう</rt></ruby>しながら「だが<ruby><rb>兎</rb><rt>と</rt></ruby>に<ruby><rb>角</rb><rt>かく</rt></ruby>、当面の相手は何とも説明のつけられない変な<ruby><rb>生物</rb><rt>いきもの</rt></ruby>が居るらしいことだ。そいつ等の人数は<ruby><rb>大約</rb><rt>おおよそ</rt></ruby>十四五人は発見されたようだ。それも果して生物なのだか、それとも博士の発明していった何かのカラクリなのだか、これから当ってみないと判らない。博士の<ruby><rb>行方</rb><rt>ゆくえ</rt></ruby>が判ると一番よいのだが、とにかく様子はこの少年の話で判ったから、一つ皆で天文学者谷村博士<ruby><rb>邸</rb><rt>てい</rt></ruby>を<ruby><rb>捜査</rb><rt>そうさ</rt></ruby>し、一人でもよいからその訳のわからぬ生物を<ruby><rb>捕虜</rb><rt>ほりょ</rt></ruby>にするのが<ruby><rb>急務</rb><rt>きゅうむ</rt></ruby>である。判ったネ」

「判りました」「判りました」と<ruby><rb>凡</rb><rt>およ</rt></ruby>そ二十人あまりの警官隊員は緊張した<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>を警部の方へ向けたのでした。彼等はいずれも<ruby><rb>防弾衣</rb><rt>ぼうだんい</rt></ruby>をつけ、<ruby><rb>鉄冑</rb><rt>てつかぶと</rt></ruby>をいただき、手には<ruby><rb>短銃</rb><rt>ピストル</rt></ruby>、<ruby><rb>短剣</rb><rt>たんけん</rt></ruby>、或いは<ruby><rb>軽機関銃</rb><rt>けいきかんじゅう</rt></ruby>を持ち、物々しい武装に身をととのえていました。これだけの隊員が一度にドッと飛びかかれば、<ruby><rb>流石</rb><rt>さすが</rt></ruby>の妖怪たちも<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ち<ruby><rb>尻尾</rb><rt>しっぽ</rt></ruby>を出してしまうことであろうと、大変<ruby><rb>頼</rb><rt>たの</rt></ruby>もしく感ぜられるのでした。

<ruby><rb>怪物</rb><rt>かいぶつ</rt></ruby>の<ruby><rb>怪力</rb><rt>かいりき</rt></ruby>

「では出動用意」警部は手をあげました。「第一隊は表玄関より、第二隊は裏の入口より進む。それから第三隊は<ruby><rb>門内</rb><rt>もんない</rt></ruby>の庭木の中にひそんで待機をしながら表門を警戒している。本官とこの少年は第一隊に加わって表玄関より進む。――よいか。では進めッ！」

警官はサッと三つの隊にわかれ、<ruby><rb>黙々</rb><rt>もくもく</rt></ruby>として敏捷に、たちまち行動を起しました。

私はすっかり元気になって、第一隊の先頭に立ち、表玄関を<ruby><rb>目懸</rb><rt>めが</rt></ruby>けて駈け出しました。

「オイ少年、静かに忍びこむのだよ」

たちまち注意を喰いました。そうです、これは戦争じゃなかったのでした。あまり<ruby><rb>活溌</rb><rt>かっぱつ</rt></ruby>にやると、妖怪たちは逃げてしまうかも知れません。

玄関は静かでした。訓練された七名の警官は、まるで霧のように静かに<ruby><rb>滑</rb><rt>すべ</rt></ruby>りこみました。階下の廊下は<ruby><rb>淡</rb><rt>あわ</rt></ruby>い<ruby><rb>灯火</rb><rt>とうか</rt></ruby>の光に夢のように照らし出されています。気のせいか、黄色い<ruby><rb>絨氈</rb><rt>じゅうたん</rt></ruby>が長々と廊下に伸びているのが、いまにもスルスルと<ruby><rb>匍</rb><rt>は</rt></ruby>い出しそうに見えます。

そのとき私の腕をソッと<ruby><rb>抑</rb><rt>おさ</rt></ruby>えた者があります。ハッと<ruby><rb>駭</rb><rt>おどろ</rt></ruby>いて振りかえると、何のこと白木警部です。

「怪物のいる部屋は何処かネ」

と警部は私の耳に唇を<ruby><rb>触</rb><rt>ふ</rt></ruby>れんばかりに<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>きました。

「……」

私は無言のまま、すぐ向うの左手の<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>を<ruby><rb>指</rb><rt>さ</rt></ruby>しました。老婦人を囲んで、<ruby><rb>怪</rb><rt>あや</rt></ruby>しげなる服装をつけた頭のない生物が、<ruby><rb>蜥蜴</rb><rt>とかげ</rt></ruby>のように<ruby><rb>蠢</rb><rt>うご</rt></ruby>めいているところを又見るのかと思うと、いやアな気持に<ruby><rb>襲</rb><rt>おそ</rt></ruby>われて<ruby><rb>参</rb><rt>まい</rt></ruby>りました。

警部は首を上下に<ruby><rb>振</rb><rt>ふ</rt></ruby>って大きい決心を示しました。「<ruby><rb>懸</rb><rt>かか</rt></ruby>れッ！」サッと警部の手が<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>の方を指しました。

黒田巡査が<ruby><rb>最先</rb><rt>まっさき</rt></ruby>に飛び出して、扉の<ruby><rb>把手</rb><rt>ハンドル</rt></ruby>に手をかけると、グッと押しました。

「オヤ、あかないぞ」

ウーンと力を入れて体当りをくらわせてみましたが、どうしたものかビクとも開かないのです。

「警部どの、これァ駄目です」

「<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>を<ruby><rb>壊</rb><rt>こわ</rt></ruby>して入れッ。三人位でぶつかってみろ」

三人の<ruby><rb>逞</rb><rt>たくま</rt></ruby>しい警官が、たちまちその場に勢ぞろいをすると、一、二イ、三と声を合わせ、

「エエイッ」

と扉にぶつかりました。グワーンと音がするかと思いの<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>、<ruby><rb>呀</rb><rt>あ</rt></ruby>ッと叫ぶ間もなく、扉はパタリと開き、三人の警官は<ruby><rb>勢</rb><rt>いきお</rt></ruby>いあまってコロコロと球でも<ruby><rb>転</rb><rt>ころ</rt></ruby>がすように、室内に転げ込みました。どうやら鍵は<ruby><rb>懸</rb><rt>かか</rt></ruby>っていなかったものらしいのです。

一同は思いがけぬことに、ちょっとひるんで見えましたが、

「それ、<ruby><rb>捕縛</rb><rt>ほばく</rt></ruby>しろッ」

と警部が<ruby><rb>激励</rb><rt>げきれい</rt></ruby>したので、ワッと<ruby><rb>喚</rb><rt>わめ</rt></ruby>いて室内に<ruby><rb>躍</rb><rt>おど</rt></ruby>りこみました。そこには<ruby><rb>予期</rb><rt>よき</rt></ruby>していたとおり、頭のない洋服を着た怪物がゾロゾロと<ruby><rb>匍</rb><rt>は</rt></ruby>いまわっていました。

「ウム」

とその一つに手をかけるとたんに、ピシリとひどい力で叩かれました。警官は<ruby><rb>呀</rb><rt>あ</rt></ruby>ッと顔をおさえたまま<ruby><rb>尻餅</rb><rt>しりもち</rt></ruby>をつきましたが、叩かれたところは見る見る<ruby><rb>裡</rb><rt>うち</rt></ruby>に紫色に<ruby><rb>腫</rb><rt>は</rt></ruby>れ上ってきます。

あっちでもこっちでも、警官が<ruby><rb>宙</rb><rt>ちゅう</rt></ruby>に<ruby><rb>跳</rb><rt>は</rt></ruby>ねとばされています。壁へ叩きつけられて<ruby><rb>気絶</rb><rt>きぜつ</rt></ruby>をするもの、ガックリと伸びるものなどあって、形勢は不利です。

ピリピリピリピリ。

もうこれまでと、警部は非常集合の警笛をとって、激しく吹き鳴らしました。

<ruby><rb>素破</rb><rt>すわ</rt></ruby>一<ruby><rb>大事</rb><rt>だいじ</rt></ruby>とばかりに裏門の一隊と、表門に待機していた<ruby><rb>予備隊</rb><rt>よびたい</rt></ruby>とが息せききって<ruby><rb>駈</rb><rt>か</rt></ruby>けつけました。

警部はその二隊を、問題の室には向けず、階段の影に集結しました。この上<ruby><rb>乱闘</rb><rt>らんとう</rt></ruby>をしてみたって、あの怪物には<ruby><rb>到底</rb><rt>とうてい</rt></ruby>歯が立たないことを<ruby><rb>悟</rb><rt>さと</rt></ruby>ったからでしょう。

「<ruby><rb>機関銃隊</rb><rt>きかんじゅうたい</rt></ruby>、配置につけッ」

たちまち階段の影に三挺の機関銃を<ruby><rb>据</rb><rt>す</rt></ruby>えつけました。しかし引金を引くわけにはゆきません。向うの室では、味方の警官も<ruby><rb>苦闘</rb><rt>くとう</rt></ruby>をつづけていれば、老婦人もどこかの<ruby><rb>隅</rb><rt>すみ</rt></ruby>にいるかと考えられるからです。唯一つの機会は、室から外へ出てくる怪物があれば、この機関銃から<ruby><rb>弾丸</rb><rt>だんがん</rt></ruby>の雨を<ruby><rb>喰</rb><rt>く</rt></ruby>らわせることが出来ます。

「うーむ、今に見ていろ」

警部は<ruby><rb>自暴自棄</rb><rt>じぼうじき</rt></ruby>で、苦闘している部下のところへ飛びこんでゆきたいのを、じっと<ruby><rb>怺</rb><rt>こら</rt></ruby>えていました。それは<ruby><rb>犬死</rb><rt>いぬじに</rt></ruby>にきまっていますが見す見す部下が弱ってゆくのを眺めていることは、どんなにか苦しいことでしょう。戦いの運はもう<ruby><rb>凶</rb><rt>きょう</rt></ruby>のうちの<ruby><rb>大凶</rb><rt>だいきょう</rt></ruby>です。

<ruby><rb>鬼影</rb><rt>おにかげ</rt></ruby>を見る

「<ruby><rb>呀</rb><rt>あ</rt></ruby>ッ、出て来たッ」

<ruby><rb>果然</rb><rt>かぜん</rt></ruby>、モーニング・コートを着て、下には婦人のスカートを<ruby><rb>履</rb><rt>は</rt></ruby>いた<ruby><rb>奴</rb><rt>やつ</rt></ruby>が、室の入口からフラフラと廊下の方に現れました。<ruby><rb>生</rb><rt>い</rt></ruby>け<ruby><rb>捕</rb><rt>ど</rt></ruby>りにはしたいのですが、こう強くてはもう<ruby><rb>諦</rb><rt>あきら</rt></ruby>めるより<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>はありません。<ruby><rb>死骸</rb><rt>しがい</rt></ruby>でも引き<ruby><rb>擦</rb><rt>ず</rt></ruby>って帰れると、成功の方かも知れません。

「<ruby><rb>撃</rb><rt>う</rt></ruby>ち<ruby><rb>方</rb><rt>かた</rt></ruby>ァ始めッ」

ダダダダダダダダーン。

ドドドドドドドドーン。

銃口からは火を吹いて銃丸が<ruby><rb>雨霰</rb><rt>あめあられ</rt></ruby>と怪物の<ruby><rb>胴中</rb><rt>どうなか</rt></ruby>めがけて撃ち出されました。

「この野郎、まだかッ」

バラバラと飛んでゆく弾丸は、黒いモーニングの上にたちまち白い<ruby><rb>弾丸跡</rb><rt>たまあと</rt></ruby>を<ruby><rb>止</rb><rt>と</rt></ruby>め<ruby><rb>度</rb><rt>ど</rt></ruby>もなく<ruby><rb>綴</rb><rt>つづ</rt></ruby>ってゆくのでした。とうとう洋服の<ruby><rb>布地</rb><rt>ぬのじ</rt></ruby>の一部がボロボロになって、<ruby><rb>銃火</rb><rt>じゅうか</rt></ruby>に吹きとばされました。

怪物の腹のところに、ポカリと大きい穴があきました。それだのに怪物は、<ruby><rb>悠々</rb><rt>ゆうゆう</rt></ruby>と廊下を歩いているのです。

「あの怪物には、身体も無いぞ」

誰かが気が変になったような悲鳴をあげました。なるほどモーニングの大きい穴の向うには、背中の方のモーニングの<ruby><rb>裏地</rb><rt>うらじ</rt></ruby>が見えるばかりで中はガラン<ruby><rb>洞</rb><rt>どう</rt></ruby>に見えました。こんな不思議な生物があるのでしょうか。

「あれは洋服だけが動いているのじゃないだろうか」

一人の警官が、いくら<ruby><rb>雨霰</rb><rt>あめあられ</rt></ruby>と飛んでゆく機関銃の<ruby><rb>弾丸</rb><rt>たま</rt></ruby>を<ruby><rb>喰</rb><rt>く</rt></ruby>らわせてもビクとも<ruby><rb>手応</rb><rt>てごた</rt></ruby>えがないのに<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れてしまって、こんなことを叫びました。しかしその証明は、<ruby><rb>立</rb><rt>た</rt></ruby>ち<ruby><rb>処</rb><rt>どころ</rt></ruby>につきました。というのは、破れモーニングの怪物が、こんどはノソノソと、機関銃隊の方へ動き出したのです。

ビュン、ビュン、ビュン、ビュン。

異様な音響を耳にしたかと思うと、そのモーニングはサッと走り出しました。<ruby><rb>呀</rb><rt>あ</rt></ruby>ッと一同が首をすくめる<ruby><rb>遑</rb><rt>ひま</rt></ruby>もあらばこそ、機関銃がパッと空中に<ruby><rb>跳</rb><rt>は</rt></ruby>ねあがり、<ruby><rb>天井</rb><rt>てんじょう</rt></ruby>に穴をあけると、どこかに見えなくなりました。

「これはいかん」

と思う暇もなく、一同の<ruby><rb>向</rb><rt>むこ</rt></ruby>う<ruby><rb>脛</rb><rt>ずね</rt></ruby>は、いやッというほどひどい力で<ruby><rb>払</rb><rt>はら</rt></ruby>われてしまいました。

「うわーッ」

警部と私とが助かったばかりで、あとは皆将棋だおしです。もう起きあがれません。警官隊は<ruby><rb>全滅</rb><rt>ぜんめつ</rt></ruby>です。

モーニングの怪物はと見てあれば、フワフワと<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>け<ruby><rb>放</rb><rt>はな</rt></ruby>された玄関に出てゆきました。玄関には入口の扉の影だけが、月光に照らされて三角形の黒い<ruby><rb>隈</rb><rt>くま</rt></ruby>をつくっています。

怪物はその扉の向うへ出てゆきました。出て行ったと思う間もなく、玄関の厚い<ruby><rb>硝子戸</rb><rt>ガラスど</rt></ruby>にモーニングの影がうつりました。

「おお、あれを見よ、あれを見よ」

警部さんは生きた心地もないような<ruby><rb>慄</rb><rt>ふる</rt></ruby>え<ruby><rb>声</rb><rt>ごえ</rt></ruby>で叫びました。

おお、それは何という<ruby><rb>物凄</rb><rt>ものすご</rt></ruby>い影でしょうか。硝子戸に月が<ruby><rb>落</rb><rt>お</rt></ruby>とした影は、モーニングだけの影ではなかったのでした。<ruby><rb>稍</rb><rt>やや</rt></ruby><ruby><rb>淡</rb><rt>あわ</rt></ruby>い影ではありましたが、モーニングの上に、確かに首らしいものが出ています。その頭がまた<ruby><rb>四斗樽</rb><rt>しとだる</rt></ruby>のように大きいのです。

モーニングの袖からも手らしいものが出ていますが、それが<ruby><rb>不釣合</rb><rt>ふつりあい</rt></ruby>にも野球のミットのような大きさです。

いやもっと<ruby><rb>駭</rb><rt>おどろ</rt></ruby>くことがあります。

その大きい頭部が、見る見るうちに<ruby><rb>角</rb><rt>つの</rt></ruby>が出たり、二つに分かれたり、そうかと思うとスーッと<ruby><rb>縮</rb><rt>ちぢ</rt></ruby>んで小さくなったり、その<ruby><rb>気味</rb><rt>きみ</rt></ruby>の悪さといったらありません。なんと形容して云ったらよいか。

ああ、そうだ。

「<ruby><rb>崩</rb><rt>くず</rt></ruby>れる<ruby><rb>鬼影</rb><rt>おにかげ</rt></ruby>！」

影が崩れる、鬼の影――というのは、これなのです。私は背中に冷水を浴びたように、ゾーッとしてきました。血が<ruby><rb>爪先</rb><rt>つまさき</rt></ruby>から<ruby><rb>膝頭</rb><rt>ひざがしら</rt></ruby>の辺までスーッと引いたのが判りました。一体これは何者でしょうか。

鬼か、人か？

<ruby><rb>妖怪屋敷</rb><rt>ようかいやしき</rt></ruby>を照らす<ruby><rb>満月</rb><rt>まんげつ</rt></ruby>の光は、いよいよ<ruby><rb>青白</rb><rt>あおじろ</rt></ruby>くなって参りました。

異変の夜は、まだいくばくも過ぎていないのです。

続いて起ろうとする怪事件は、そも何か。

警官の<ruby><rb>紛失</rb><rt>ふんしつ</rt></ruby>

「化物は何をしているんでしょ。ねエ警部さん」

と私は白木警部の腕を<ruby><rb>抑</rb><rt>おさ</rt></ruby>えて云いました。

「なんだか、ガタガタいってたのが、すこしも音がしなくなったようだネ」

そういって警部は、注意ぶかく頭をもちあげて、戸口の方を、見ました。月光は<ruby><rb>相変</rb><rt>あいかわ</rt></ruby>らず明るく<ruby><rb>硝子戸</rb><rt>ガラスど</rt></ruby>を照らしていましたが、<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>見えた<ruby><rb>怪</rb><rt>あや</rt></ruby>しい<ruby><rb>鬼影</rb><rt>おにかげ</rt></ruby>は、まったく見当りません。<ruby><rb>唯</rb><rt>ただ</rt></ruby><ruby><rb>空</rb><rt>むな</rt></ruby>しく開いた入口の外は<ruby><rb>木立</rb><rt>こだち</rt></ruby>の影でもあるのか<ruby><rb>真暗</rb><rt>まっくら</rt></ruby>で、まるで悪魔が口を<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>いて待っているような<ruby><rb>風</rb><rt>ふう</rt></ruby>にも見えました。

「さっき戸口がゴトゴト云ってたが、みな外へ逃げ出したのかも知れない」

警部の声を聞きつけたものか、あちらこちらから、部下の警官が<ruby><rb>匍</rb><rt>は</rt></ruby>いよってきました。

「警部どの。あれは一体人間なんですか」

「人間ですか。それとも人間でないのですか」

部下のそういう声は<ruby><rb>慄</rb><rt>ふる</rt></ruby>えを<ruby><rb>帯</rb><rt>お</rt></ruby>びていました。

「さア、<ruby><rb>私</rb><rt>わし</rt></ruby>にはサッパリ見当がつかん」

警部も、今は<ruby><rb>匙</rb><rt>さじ</rt></ruby>を投げてしまいました。それから沈黙の数分が過ぎてゆきました。その間というものは建物の中がまるで死の国のような静けさです。

「オイみんな。元気を出せ」と警部が低いが<ruby><rb>底力</rb><rt>そこぢから</rt></ruby>のある声で云いました。「この機に<ruby><rb>乗</rb><rt>じょう</rt></ruby>じて一同前進ッ」

警部は左手をあげて<ruby><rb>合図</rb><rt>あいず</rt></ruby>をすると、<ruby><rb>自</rb><rt>みずか</rt></ruby>ら先頭に立ってソロソロと<ruby><rb>匍</rb><rt>は</rt></ruby>い出しました。ゆっくりゆっくり戸口の方へ<ruby><rb>躙</rb><rt>にじ</rt></ruby>り出てゆきます。息づまるような緊張です。

「オヤオヤ」

戸口のところまで達すると、警部は意外な感に打たれて身を起しました。

「どうしましたどうしました」

私も警官たちと一緒にガタガタと靴を鳴らして戸口へ飛び出しました。外は水を打ったように静かな<ruby><rb>眺</rb><rt>なが</rt></ruby>めです。月光は青々と<ruby><rb>照</rb><rt>て</rt></ruby>り<ruby><rb>亙</rb><rt>わた</rt></ruby>り、虫がチロチロと鳴いています。まるで狐に化かされたような<ruby><rb>穏</rb><rt>おだや</rt></ruby>かな風景です。

「居ないようだネ」と警部が云いました。その声から<ruby><rb>推</rb><rt>お</rt></ruby>して<ruby><rb>大分</rb><rt>だいぶ</rt></ruby><ruby><rb>落着</rb><rt>おちつ</rt></ruby>いてきたようです。「では全員集まれッ」

全員は直ちにドヤドヤと整列しました。私は<ruby><rb>恥</rb><rt>はず</rt></ruby>かしかったので、横の方で気を付けをしました。

「番号ッ」

一、二、三、……と勇しい呼び声。

「オヤ、一人足りないじゃないか」

「一人足らん。誰が集まらんのだろう」

警官たちは不思議そうに、お<ruby><rb>互</rb><rt>たが</rt></ruby>いの顔をジロジロ眺めました。

「ああ、あの男が居ない。黒田君が居ない」

「そうだ、黒田君が見えんぞ」

黒田君、黒田クーンと呼んで見たが、誰も返事をするものがありません。

「これは<ruby><rb>穏</rb><rt>おだや</rt></ruby>かでない。では<ruby><rb>直</rb><rt>ただ</rt></ruby>ちに手分けして黒田を探してこい。進めーッ」

警部は命令を下しました。一同はサッと<ruby><rb>其</rb><rt>そ</rt></ruby>の<ruby><rb>場</rb><rt>ば</rt></ruby>を散りました。家の中に引かえすもの、門の方へ行くもの、<ruby><rb>木立</rb><rt>こだち</rt></ruby>の中へ入るもの――<ruby><rb>僚友</rb><rt>りょうゆう</rt></ruby>の名を呼びつつ<ruby><rb>大捜索</rb><rt>だいそうさく</rt></ruby>にかかりました。しかし黒田警官の姿は<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>にも見当りません。

「警部どの、見当りません」

「どうも<ruby><rb>可笑</rb><rt>おか</rt></ruby>しいぞ。どこへ行ったんだろう」

そうこうしているうちに、庭の方を探しに行った組の警官が、息せき切って<ruby><rb>馳</rb><rt>は</rt></ruby>せ<ruby><rb>帰</rb><rt>かえ</rt></ruby>ってきました。

「警部どの。向うに妙な場所があります」

「妙な場所とは」

「池がこの<ruby><rb>旱魃</rb><rt>かんばつ</rt></ruby>で<ruby><rb>乾上</rb><rt>ひあが</rt></ruby>って沼みたいになりかかっているところがあるんです。その沼へ踏みこもうという土の<ruby><rb>柔</rb><rt>やわらか</rt></ruby>いところに、<ruby><rb>格闘</rb><rt>かくとう</rt></ruby>の<ruby><rb>痕</rb><rt>あと</rt></ruby>らしいものがあるんです。靴跡が<ruby><rb>入</rb><rt>い</rt></ruby>り<ruby><rb>乱</rb><rt>みだ</rt></ruby>れています。あんなところで、誰も格闘しなかった<ruby><rb>筈</rb><rt>はず</rt></ruby>なんですが、どうも変ですよ」

「そうか、それア可笑しい。<ruby><rb>直</rb><rt>す</rt></ruby>ぐ行ってみよう」

警部さんはその警官を先頭に、急いで乾上った池のところへ駈けつけてみました。

なるほど入り乱れた靴の跡が、点々として柔い土の上についています。

警部さんは、懐中電灯をつけて、その足跡を<ruby><rb>検</rb><rt>しら</rt></ruby>べ始めました。

「オヤこれは変だな。足跡が途中で消えているぞ」

「消えているといいますと」

「ほら、こっちから足跡がやってきて、ほらほらこういう具合にキリキリ舞いをしてサ、向うへ駈け出していって、さア<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>で足跡が無くなっているじゃないか」

「<ruby><rb>成</rb><rt>な</rt></ruby>る<ruby><rb>程</rb><rt>ほど</rt></ruby>、これア不思議ですネ」

「こんなことは<ruby><rb>滅多</rb><rt>めった</rt></ruby>にないことだ。おお、ここに何か落ちているぞ。時計だ。懐中時計でメタルがついている。剣道<ruby><rb>優賞牌</rb><rt>ゆうしょうはい</rt></ruby>、黒田選手に<ruby><rb>呈</rb><rt>てい</rt></ruby>す――」

「あッ、それは黒田君のものです。それがここに落ちているからには……」

「うん、この足跡は黒田君のか。黒田君の足跡は何故ここで消えたんだろう？」

<ruby><rb>蘇生</rb><rt>そせい</rt></ruby>した<ruby><rb>帆村探偵</rb><rt>ほむらたんてい</rt></ruby>

そのとき、門の方に当って、けたたましい<ruby><rb>警笛</rb><rt>けいてき</rt></ruby>の音と共に、一台の自動車が<ruby><rb>滑</rb><rt>すべ</rt></ruby>りこんできました。

「何者かッ」

というんで、自動車の方へ<ruby><rb>躍</rb><rt>おど</rt></ruby>り出てみますと、車上からは黒い<ruby><rb>鞄</rb><rt>かばん</rt></ruby>をもった紳士が降りてきました。待ちに待った<ruby><rb>小田原病院</rb><rt>おだわらびょういん</rt></ruby>のお医者さんが到着したのです。

「なァーンだ」

警官は<ruby><rb>力瘤</rb><rt>ちからこぶ</rt></ruby>が<ruby><rb>脱</rb><rt>ぬ</rt></ruby>けて、向うへ行ってしまいました。私はそのお医者さまの手をとらんばかりにして、兄の倒れている二階の室へ案内しました。

兄は<ruby><rb>依然</rb><rt>いぜん</rt></ruby>として、長々と寝ていました。医者は<ruby><rb>一寸</rb><rt>ちょっと</rt></ruby>暗い顔をしましたが、兄の胸を開いて、<ruby><rb>聴診器</rb><rt>ちょうしんき</rt></ruby>をあてました。それから<ruby><rb>瞼</rb><rt>まぶた</rt></ruby>をひっくりかえしたり、懐中電灯で<ruby><rb>瞳孔</rb><rt>どうこう</rt></ruby>を照らしていましたが、

「やあ、これは心配ありません。いま注射をうちますが、<ruby><rb>直</rb><rt>す</rt></ruby>ぐ気がつかれるでしょう」

小さい<ruby><rb>函</rb><rt>はこ</rt></ruby>を開いて、アンプルを取ってくびれたところを切ると、医者は注射器の針を入れて器用に<ruby><rb>薬液</rb><rt>やくえき</rt></ruby>を移しました。そして兄の背中へズブリと針をさしとおしました。やがて注射器の<ruby><rb>硝子筒</rb><rt>ガラスとう</rt></ruby>の薬液は徐々に減ってゆきました。その代りに、兄の顔色が次第に<ruby><rb>赤味</rb><rt>あかみ</rt></ruby>を<ruby><rb>帯</rb><rt>お</rt></ruby>びてきました。ああ、やっぱり、お医者さまの力です。

三本ばかりの注射がすむと、兄は大きい呼吸を始めました。そして鼻や口のあたりをムズムズさせていましたが、大きい<ruby><rb>嚔</rb><rt>くさめ</rt></ruby>を一つするとパッと眼を開きました。

「こン畜生」

兄は<ruby><rb>其</rb><rt>そ</rt></ruby>の<ruby><rb>場</rb><rt>ば</rt></ruby>に<ruby><rb>跳</rb><rt>は</rt></ruby>ね起きようとしました。

「やあ気がつきましたネ。もう大丈夫。まァまァお静かに寝ていらっしゃい」

医者は兄の身体を静かに抑えました。

「おお、兄さん――」

私は兄のところへ飛びついて、手をとりました。不思議にもう熱がケロリとなくなっていました。

「やあ、お前は無事だったんだネ。兄さんはひどい目に<ruby><rb>遭</rb><rt>あ</rt></ruby>ったよ」

兄は医者に厚く礼を云って、まだ起きてはいけないかと<ruby><rb>尋</rb><rt>たず</rt></ruby>ねました。医者はもう<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>く様子を見てからにしようと云いました。

その間に、私が見たいろいろの不思議な事件の内容を兄に説明しました。

「そうかそうか」だの「それは面白い点だ」などと兄はところどころに言葉を<ruby><rb>挟</rb><rt>はさ</rt></ruby>みながら、私の報告を大変興味探そうに聞いていました。

「兄さん。この家は化物の巣なのかしら」

「そうかも知れないよ」

「でも、化物なんて、<ruby><rb>今時</rb><rt>いまどき</rt></ruby>本当にあるのかしら」

「無いとも云いきれないよ」

「どうも気味の悪い話ですが」と小田原病院の<ruby><rb>医師</rb><rt>いし</rt></ruby>が側から口を切りました。「ここの谷村博士の研究と何か関係があるのではないでしょうか。博士と来たら、二十四時間のうち、<ruby><rb>暇</rb><rt>ひま</rt></ruby>さえあれば天体を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いていられるのですからネ。<ruby><rb>殊</rb><rt>こと</rt></ruby>に月の研究は大したものだという評判です」

「月の研究ですって」と兄は強く聞き返しました。今夜も大変月のいい夜でありました。

「博士が空中を飛んだり、あの窓から眼に見えないそして大きなものが飛び出したり、それから洋服の化物のようなものがウロウロしていたり、あれはどこからどこまでが化物なのかしら」

「それは皆化物だろう」

「兄さんは化物を本当に信じているの」

「化物か何かしらぬが、僕がこの室で<ruby><rb>遭</rb><rt>あ</rt></ruby>ったことはどうも理屈に合わない。あれは普通の人間ではない。眼には見えない生物が居るらしいことは判る。しかし月の光に<ruby><rb>透</rb><rt>す</rt></ruby>かしてみると見えるんだ。僕はこの部屋に入ると、いきなり後からギュッと身体を巻きつけられた。<ruby><rb>呀</rb><rt>あ</rt></ruby>ッと思って、身体を見ると、何にも巻きついていないのだ。しかし力はヒシヒシと加わる。僕は驚いてそれを振り離そうとした。ところがもう両腕が<ruby><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>かないのだ。何者かが、両腕をおさえているのだ。僕は仕方なしに、足でそこら<ruby><rb>中</rb><rt>じゅう</rt></ruby>を蹴っとばした。すると何だか靴の先にストンと当ったものがある。しかし注意をしてそこらあたりを見るが、何にも見えないことは同じだった。そのうちに、呀ッと思う間もなく、僕の身体は中心を失ってしまった。身体が<ruby><rb>斜</rb><rt>なな</rt></ruby>めに<ruby><rb>傾</rb><rt>かたむ</rt></ruby>いたのだ。僕はズデンドウと<ruby><rb>尻餅</rb><rt>しりもち</rt></ruby>をつくだろうと思った。ところが尻餅なんかつかないのだ。身体は<ruby><rb>尚</rb><rt>なお</rt></ruby>も傾いて身体が横になる。そこで僕はもう恐怖に<ruby><rb>怺</rb><rt>こら</rt></ruby>えきれなくなって、お前を呼んだのだ」

「ああ、あのときのことですネ」

「すると今度はイキナリ宙ぶらりんになっちゃった。足が<ruby><rb>天井</rb><rt>てんじょう</rt></ruby>にピタリとついた。不思議な気持だ。尚も叫んでいると、今度は<ruby><rb>頸</rb><rt>くび</rt></ruby>がギュウと締まってきた。苦しい、呼吸が出来ない――と思っているうちに、気がボーッとしてきてなにが何だか、記憶が無くなってしまった。こんな不思議なことがまたとあろうか」

と兄は始めて、この博士の室で<ruby><rb>遭</rb><rt>あ</rt></ruby>ったという<ruby><rb>危難</rb><rt>きなん</rt></ruby>について物語りました。

「眼に見えない生物が、兄さんに飛びかかったんだ」

「そうだ。そう考えるより仕方がない。僕はお医者さまが許して下されば、もっと<ruby><rb>検</rb><rt>しら</rt></ruby>べたいことが沢山あるんだ……」

「そうですネ」と医者は時計を見ながら云いました。「大分元気がおよろしいようですが、では無理をしないように、すこしずつ動くことにして下さい」

「じゃ、もう起きてもいいのですネ」

兄は嬉しそうに身体を起しました。そして両腕を体操のときのように上にあげようとして、ア痛タタと叫びました。

二人連れの怪人

兄は元気になって、谷村博士の老夫人を見舞いました。

「まア、<ruby><rb>貴郎</rb><rt>あなた</rt></ruby>までとんだ目にお<ruby><rb>遭</rb><rt>あ</rt></ruby>いなすってお気の毒なことです」

と老婦人は<ruby><rb>泪</rb><rt>なみだ</rt></ruby>さえ浮べて云いました。

「おや、あれはどうしたのです」

兄は内扉の向うが、乱雑にとりちらかされてあるのを見て、老婦人に<ruby><rb>尋</rb><rt>たず</rt></ruby>ねました。

「あれは衣服室なのです。それが貴郎、ゾロゾロ動き出して、まるで生物のように此の室を<ruby><rb>匍</rb><rt>は</rt></ruby>い廻ったんです」

「ああ、あの一件ですネ。するとあの洋服はすべて先生と奥様のだったというわけですね」

老婦人は黙って<ruby><rb>肯</rb><rt>うなず</rt></ruby>きました。

「いや、それですこし判って来たぞ」

「どう判ったの、兄さん」

「まア待て――」

兄はそれから庭へ下りてゆきました。警官たちは例の池のところに、何か協議を開いていました。私は兄を紹介する役目になりました。

「いや皆さん、私まで御心配かけまして」と兄は<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>をしました。「ときに警官の方が一人見えないそうですね」

「黒田という者ですがネ。これ御覧なさい。この足跡がそうなんですが、黒田君は途中で突然身体が消えてしまったことになるので、今<ruby><rb>皆</rb><rt>みんな</rt></ruby>と智慧を<ruby><rb>絞</rb><rt>しぼ</rt></ruby>っているのですが、どうにも考えがつきません」

「突然身体が消えるというのは<ruby><rb>可笑</rb><rt>おか</rt></ruby>しいですネ。見えなくなることがあったとしても足跡は見えなくならんでしょう。矢張り泥の上についていなければならんと思いますがネ」

「それもそうですネ」

「僕の考えでは、黒田さんは、私を襲ったと同じ怪物に、いきなり<ruby><rb>掠</rb><rt>さら</rt></ruby>われたんだと思いますよ。あの怪物が、追っかけた黒田さんの身体を<ruby><rb>掴</rb><rt>つかま</rt></ruby>え、空中へ<ruby><rb>攫</rb><rt>さら</rt></ruby>いあげたのでしょう。黒田さんの身体は宙に浮いた瞬間、足跡は泥の上につかなくなったわけです。それで<ruby><rb>理窟</rb><rt>りくつ</rt></ruby>はつくと思います」

「なるほど、黒田君が空中にまきあげられたとすればそうなりますネ。しかし可笑しいじゃないですか」と警部はちょっと言葉を停めてから「それだと黒田君の足跡のある近所に怪物の足跡も一緒に残っていなければならんと思いますがネ」

「さあそれは今のところ僕にも判らないんです」と兄は頭を左右に振りました。

そのとき家の方にいた警官が一人、バタバタと駈け出してきました。

「警部どの、警部どの」

「おお、ここだッ。どうした」

ソレッというので、先程の異変に<ruby><rb>懲</rb><rt>こ</rt></ruby>りている警官隊は、集まって来ました。

「いま本署に事件を報告いたしました。ところが、その報告が終るか終らないうちに、今度は本署の方から、怪事件が突発したから、警部どの始め皆に、なるべくこっちへ<ruby><rb>救援</rb><rt>きゅうえん</rt></ruby>に帰って<ruby><rb>呉</rb><rt>く</rt></ruby>れとの署長どのの御命令です」

「はて、怪事件て何だい」

「深夜の<ruby><rb>小田原</rb><rt>おだわら</rt></ruby>に怪人が二人現れたそうです。そいつが乱暴にも寝静まっている小田原の<ruby><rb>町家</rb><rt>ちょうか</rt></ruby>を、一軒一軒ぶっこわして歩いているそうです」

「抑えればいいじゃないか」

「ところがこの怪人は、とても力があるのです。十人や二十人の警官隊が向っていっても駄目なんです。鉄の<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>でもコンクリートの壁でもドンドン打ち抜いてゆくのです。そして盛んに何か探しているらしいが見付からない様子だそうで、このままにして置くと、小田原町は全滅の<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>ありません。直ぐ救援に帰れということです」

「その怪人の服装は？」

「それが一人は警官の帽子を着た老人です。もう一人は白い手術着のような上に剣をつった男で、何だか見たような人間だと云ってます。<ruby><rb>異様</rb><rt>いよう</rt></ruby>な<ruby><rb>扮装</rb><rt>いでたち</rt></ruby>です」

「なに異様な扮装。そして今度は顔もついているのだナ」

「失礼ですが」と兄が口を<ruby><rb>挟</rb><rt>はさ</rt></ruby>みました。「どうやら行方不明の谷村博士と黒田警官の服装に似ているところもありますネ」

「そうです。そうだそうだ」警部は<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ち赤くなって叫びました。「じゃ現場へ急行だ。三人の監視員の<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>、皆出発だ。帆村さん、貴方も<ruby><rb>是非</rb><rt>ぜひ</rt></ruby>来て下さい」

ああ、変な二人の怪人は、小田原の町で一体何を始めたのでしょう。例の化物はどこへ行ったでしょう。奇怪なる謎は解けかけたようで、まだ解けません。

重大な<ruby><rb>手懸</rb><rt>てがか</rt></ruby>り

「帆村さん、身体の方は大丈夫ですか」

警官隊の隊長白木警部はそういって私の兄を優しくいたわってくれました。

「ありがとう。だんだんと元気が出てきました。僕も連れてっていただきますから、どうぞ」

「どうぞとはこっちの言うことです。<ruby><rb>貴方</rb><rt>あなた</rt></ruby>がいて下さるので、こんなひどい事件に<ruby><rb>遭</rb><rt>あ</rt></ruby>っても私達は非常に気強くやっていますよ」

そこで私達も白木警部と同じ自動車の<ruby><rb>一隅</rb><rt>いちぐう</rt></ruby>に乗りました。私達の自動車は先頭から二番目です。<ruby><rb>警笛</rb><rt>けいてき</rt></ruby>を音高くあたりの谷間に<ruby><rb>響</rb><rt>ひび</rt></ruby>かせながら、曲り曲った路面の上を、いとももどかしげに、<ruby><rb>疾走</rb><rt>しっそう</rt></ruby>を始めました。

「兄さん」と私は<ruby><rb>荘六</rb><rt>そうろく</rt></ruby>の<ruby><rb>脇腹</rb><rt>わきばら</rt></ruby>をつつきました。

「なんだい、民ちゃん」と兄は久しぶりに私の名を呼んでくれました。

「早く夜が明けるといいね」

「どうしてサ」

「夜が明けると、谷村博士のお<ruby><rb>邸</rb><rt>やしき</rt></ruby>にいた化物どもは、皆どこかへ行ってしまうでしょう」

「さア、そううまくは行かないだろう。あの化物は、あたりまえの化物とは違うからネ」

「あたりまえの化物じゃないというと……」

「あれは本当に生きているのだよ。たしかに<ruby><rb>生物</rb><rt>せいぶつ</rt></ruby>だ。人間によく似た生物だ。<ruby><rb>陽</rb><rt>ひ</rt></ruby>の光なんか、<ruby><rb>恐</rb><rt>おそ</rt></ruby>れはしないだろう」

「すると、<ruby><rb>生物</rb><rt>いきもの</rt></ruby>だというのは、確かに本当なんだネ、兄さん。人間によく似たというとあれは人間じゃないの」

「人間ではない。人間はあんなに身体が<ruby><rb>透</rb><rt>す</rt></ruby>きとおるなんてことがないし、それから身体がクニャクニャで大きくなったり小さくなったり出来るものか。また足を地面につかないで力を出すなんておかしいよ。とにかく地球の上に<ruby><rb>棲</rb><rt>す</rt></ruby>んでいる生物に、あんな不思議なものはいない<ruby><rb>筈</rb><rt>はず</rt></ruby>だ」

「じゃ、もしや火星からやって来た生物じゃないかしら」

「さアそれは今のところ何とも云えない。これぞという<ruby><rb>証拠</rb><rt>しょうこ</rt></ruby>が一つも手に入っていないのだからネ」

そういって兄は首を左右にふりました。そのとき私の頭脳の中に、<ruby><rb>不図</rb><rt>ふと</rt></ruby><ruby><rb>浮</rb><rt>うか</rt></ruby>び出たものがありました。

「あッ、そうだ。その証拠になるものが一つあるんですよ」

「えッ。何だって？」

「証拠ですよ」と云いながら私は大事にしまってあった<ruby><rb>手帛</rb><rt>ハンカチ</rt></ruby>の包みをとり出しました。「これを見て下さい。兄さんが気を失った室の<ruby><rb>硝子</rb><rt>ガラス</rt></ruby>窓のところで発見したのですよ。硝子の<ruby><rb>壊</rb><rt>こわ</rt></ruby>れた<ruby><rb>縁</rb><rt>ふち</rt></ruby>に<ruby><rb>引懸</rb><rt>ひっか</rt></ruby>かっていたのですよ。ほらほら……」

そういって私は、あの白い毛のようなものを取り出して兄に見せると共に、発見当時の<ruby><rb>一伍一什</rb><rt>いちぶしじゅう</rt></ruby>を手短かに語りました。

「ふふーン」兄は大きい<ruby><rb>歎息</rb><rt>ためいき</rt></ruby>をついて、白木警部のさし出す懐中電灯の下に、その<ruby><rb>得態</rb><rt>えたい</rt></ruby>の知れない<ruby><rb>白毛</rb><rt>しらげ</rt></ruby>に見入りました。

「一体なんです。化物が落していったとすると、化物の何です。頭に生えていた白毛ですか」

「イヤそんなものじゃありません。――これはいいものが手に入りました。御覧なさい。これは毛のようで毛ではありません。むしろセルロイドに似ています。しかしセルロイドと違って、こんなによく<ruby><rb>撓</rb><rt>たわ</rt></ruby>みます。しかも非常に<ruby><rb>硬</rb><rt>かた</rt></ruby>い。こんなに硬くて、こんなによく撓むということは面白いことです。覚えていらっしゃるでしょうネ。あの化物の身体は、自由に<ruby><rb>伸</rb><rt>の</rt></ruby>び<ruby><rb>縮</rb><rt>ちぢ</rt></ruby>みをするということ、そして透明だということ、――これがあの化物の皮膚の一部なのです」

「皮膚の一部ですって！」

「そうです。化物が<ruby><rb>硝子</rb><rt>ガラス</rt></ruby>窓を破って外へ飛びだしたときに、<ruby><rb>剃刀</rb><rt>かみそり</rt></ruby>よりも鋭い角のついた<ruby><rb>硝子</rb><rt>ガラス</rt></ruby>の<ruby><rb>破片</rb><rt>はへん</rt></ruby>でわれとわが皮膚を傷つけたのです。そして<ruby><rb>剥</rb><rt>む</rt></ruby>けた皮膚の一部がこの<ruby><rb>白毛</rb><rt>しらげ</rt></ruby>みたいなものなのです。いやこれは中々面白いことになってきましたよ」

兄はひとりで<ruby><rb>悦</rb><rt>えつ</rt></ruby>に<ruby><rb>浸</rb><rt>ひた</rt></ruby>っていました。

<ruby><rb>化物追跡戦</rb><rt>ばけものついせきせん</rt></ruby>

「とにかく<ruby><rb>此</rb><rt>こ</rt></ruby>の白毛みたいなものを<ruby><rb>早速</rb><rt>さっそく</rt></ruby>東京へ送って分析して貰うことにしましょう。分析して貰えば、これが地球上に既に発見されているものか、それとも他のものか、きっと見分けがつくと思いますよ」

「なるほど、なるほど。いいですね」と白木警部は大きく<ruby><rb>肯</rb><rt>うなず</rt></ruby>きました。

そのとき先頭に<ruby><rb>駆</rb><rt>はし</rt></ruby>っている自動車から、ポポーッ、ポポーッと<ruby><rb>警笛</rb><rt>けいてき</rt></ruby>が鳴りひびきました。

「なんだ」

「イヤ警部どの、もう小田原へ入りましたが、ちょっと外を御覧下さい」

「うむ――」

警部さんにつづいて私達も外を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いてみました。両側の家は、停電でもしているかのように<ruby><rb>真暗</rb><rt>まっくら</rt></ruby>です。しかしヘッド・ライトに照らされて<ruby><rb>街並</rb><rt>まちなみ</rt></ruby>がやっと見えます。ああ、何たる<ruby><rb>惨状</rb><rt>さんじょう</rt></ruby>でしょうか。

「うむ、これはひどい！」

「まるで<ruby><rb>大地震</rb><rt>おおじしん</rt></ruby>の跡のようだッ」

「おお、向うに火が見えるぞ」

近づいてみると、それは町の<ruby><rb>辻</rb><rt>つじ</rt></ruby>に<ruby><rb>設</rb><rt>もう</rt></ruby>けられた<ruby><rb>篝火</rb><rt>かがりび</rt></ruby>です。青年団員やボーイスカウトの勇しい姿も見えます。――警官の一隊がバラバラと駈けて来ました。

「どッどうした」白木警部は手をあげて<ruby><rb>怒鳴</rb><rt>どな</rt></ruby>るように云いました。

「やあ、警部どの」と<ruby><rb>頤髯</rb><rt>あごひげ</rt></ruby>の<ruby><rb>生</rb><rt>は</rt></ruby>えた警官が青ざめた顔を近づけました。「やっと<ruby><rb>下火</rb><rt>したび</rt></ruby>になりました。その代り、小田原の町は御覧のとおり<ruby><rb>滅茶滅茶</rb><rt>めちゃめちゃ</rt></ruby>です」

「二人の怪人というのはどうした」

「決死隊が追跡中です。小田原駅の上に飛びあがり、暗い鉄道線路の上を東の方へ逃げてゆきました」

「そうか、じゃ私達も行ってみよう」

自動車は<ruby><rb>更</rb><rt>さら</rt></ruby>にエンジンをかけて、スピードを早めました。自動車に仕掛けてあるサイレンの<ruby><rb>呻</rb><rt>うな</rt></ruby>りが、情景を一層<ruby><rb>物凄</rb><rt>ものすご</rt></ruby>くしました。どんどん飛ばしてゆくほどに、とうとう小田原の町を<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>れて、線路と並行になりました。<ruby><rb>生</rb><rt>なま</rt></ruby>ぐさい草の<ruby><rb>香</rb><rt>か</rt></ruby>が鼻をうちます。

「どうだ、見えないか」と警部は<ruby><rb>大童</rb><rt>おおわらわ</rt></ruby>です。

「さアまだ見えませんが……<ruby><rb>呀</rb><rt>あ</rt></ruby>ッ<ruby><rb>呀</rb><rt>あ</rt></ruby>ッ、居ました、居ましたッ」

「どこだ、どこだッ」

「いま<ruby><rb>探照灯</rb><rt>たんしょうとう</rt></ruby>をそっちへ廻しますから……」

運転台のやや高いところに取りつけてあった探照灯がピカリと首を動かすと、なるほど線路上にフワフワと<ruby><rb>跟</rb><rt>よろ</rt></ruby>めきながら東の方へ走っている二つの白い人影がクッキリ浮かび出ました。一人の方は剣を吊っているらしく、ときどきピカピカと<ruby><rb>鞘</rb><rt>さや</rt></ruby>らしいものが<ruby><rb>閃</rb><rt>ひらめ</rt></ruby>きます。

「居た、居た、あれだッ」と兄が叫びました。

「追跡隊はどうしたのだ。――うん、あすこの線路下に<ruby><rb>跼</rb><rt>うずくま</rt></ruby>っている一隊に<ruby><rb>尋</rb><rt>たず</rt></ruby>ねてみよう」

警部さんは<ruby><rb>汗</rb><rt>あせ</rt></ruby>みどろになっての<ruby><rb>指揮</rb><rt>しき</rt></ruby>です。

「オーイ、どうして<ruby><rb>追駆</rb><rt>おいか</rt></ruby>けないのだ。元気を出せ、元気を――」

「いま最後の一戦をやるところです。見ていて下さい。駅の方から機関車隊が出動しますから……」

「ナニ、機関車隊だって……」

その言葉が終るか終らぬ<ruby><rb>裡</rb><rt>うち</rt></ruby>に、ピピーッという<ruby><rb>警笛</rb><rt>けいてき</rt></ruby>が駅の方から聞えました。オヤと思う間もなく、こっちに<ruby><rb>驀進</rb><rt>ばくしん</rt></ruby>してきた一台の電気機関車、――と思ったが一台ではないのでした。二ツ、三ツ、四ツ。機関車が四つも<ruby><rb>接</rb><rt>つな</rt></ruby>がって驀進してゆきます。

なにをするのかと見ていると、<ruby><rb>上</rb><rt>のぼ</rt></ruby>り線と<ruby><rb>下</rb><rt>くだ</rt></ruby>り線との両道を機関車は二列に並んで、二人の怪人に迫ってゆくのでした。いまにも二人の怪人は車輪の下にむごたらしく<ruby><rb>轢</rb><rt>ひ</rt></ruby>き<ruby><rb>殺</rb><rt>ころ</rt></ruby>されてしまいそうな様子に見えました。

「あッ」

と私はあまりの<ruby><rb>惨虐</rb><rt>ざんぎゃく</rt></ruby>な光景に目を閉じました。

<ruby><rb>隧道合戦</rb><rt>トンネルかっせん</rt></ruby>

しかしながら<ruby><rb>恐</rb><rt>こわ</rt></ruby>いもの見たさという<ruby><rb>譬</rb><rt>たと</rt></ruby>えのとおり、私はこわごわそッと目を<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>いてみました。すると、ああ、なんという不思議なことでしょう。<ruby><rb>猛然</rb><rt>もうぜん</rt></ruby>と<ruby><rb>突進</rb><rt>とっしん</rt></ruby>していった<ruby><rb>筈</rb><rt>はず</rt></ruby>の機関車が、急に速力も<ruby><rb>衰</rb><rt>おとろ</rt></ruby>え、やがて反対にジリジリと後へ下ってくるのでありました。見ると、驚いたことに例の二人の怪人が、機関車の前に立って後へ押しかえしているのです。なんという恐ろしい力でしょう。それは<ruby><rb>到底</rb><rt>とうてい</rt></ruby><ruby><rb>人間業</rb><rt>にんげんわざ</rt></ruby>とは思われません。機関車はあえぎつつ、ジリジリと下ってくる一方です。

そのときピピーッと汽笛が鳴ると、こんどは機関車の方が優勢になったものか、逆に向うへジリジリと押しかえしてゆきます。怪人は機関車の前に<ruby><rb>噛</rb><rt>かじ</rt></ruby>りついたまま押しかえされてゆきます。まるで怪人と機関車の<ruby><rb>力較</rb><rt>ちからくら</rt></ruby>べです。しかし私はそのとき、変な事を発見しました。それは怪人の足が地上についていないということです。地上に足がつかないでいて、どうしてあのような力が出せるのでしょう。これは<ruby><rb>一向</rb><rt>いっこう</rt></ruby><ruby><rb>腑</rb><rt>ふ</rt></ruby>に<ruby><rb>落</rb><rt>お</rt></ruby>ちません。

「もしや……」

とそのとき気のついた私は、探照灯の光の下に、尚も怪人の身体を<ruby><rb>仔細</rb><rt>しさい</rt></ruby>に注意して見ました。

「おお、思ったとおりだッ」

私は思わず大きい声を立てました。怪人の身体は機関車にピタリと密着していないのです。怪人の身体と機関車との間には、三十センチほどの<ruby><rb>間隙</rb><rt>かんげき</rt></ruby>があきらかに認められました。前に兄が谷村博士邸で、天井に<ruby><rb>逆</rb><rt>さかさ</rt></ruby>にぶら下っていたとき、私は下から洋書を投げつけたことがあります。あのとき、どうしたものか、投げた洋書は兄の身体に当らずして、いつも三十センチほど手前でパッと<ruby><rb>跳</rb><rt>は</rt></ruby>ねかえるのでした。何か兄の身体の上に三十センチほどの厚さのものが<ruby><rb>蔽</rb><rt>おお</rt></ruby>っている――としか考えられない<ruby><rb>有様</rb><rt>ありさま</rt></ruby>でした。あとから兄に聞いたところによれば、あのとき兄は化物に<ruby><rb>胴中</rb><rt>どうなか</rt></ruby>をギュッと締められているように感じたという話でした。

では、この場合、あの機関車を後へ押しているのは、あの怪人だけではなく、あの怪人に<ruby><rb>纏</rb><rt>まと</rt></ruby>いついている化物の<ruby><rb>仕業</rb><rt>しわざ</rt></ruby>ではありますまいか。イヤそうに違いありません。やっぱりあの化物です。しかし化物がどうして怪人と力を合わせているのでしょうか。

「何が思ったとおりだ」と兄が<ruby><rb>尋</rb><rt>たず</rt></ruby>ねました。

「やっぱりあの化物が機関車を前から押しかえしているのですよ」

「ほう、お前にそれが解るか」

私はそのわけをこれこれですと、<ruby><rb>手短</rb><rt>てみじ</rt></ruby>かに兄に話をしてきかせました。

ジリジリと機関車は<ruby><rb>尚</rb><rt>なお</rt></ruby>も怪人を押しかえしてゆきました。そして機関車はとうとう、<ruby><rb>隧道</rb><rt>トンネル</rt></ruby>の入口にさしかかりました。それでも機関車はグングン押してゆきます。怪人の姿は全く見えなくなりました。隧道の中に隠れてしまったのです。

そうこうしているうちに、<ruby><rb>突如</rb><rt>とつじょ</rt></ruby>として耳を破るような<ruby><rb>轟然</rb><rt>ごうぜん</rt></ruby>たる<ruby><rb>大音響</rb><rt>だいおんきょう</rt></ruby>がしました。同時に隧道の入口からサッと大きな火の<ruby><rb>塊</rb><rt>かたまり</rt></ruby>が<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>りだされたように感じました。

グォーッ。ガラガラガラガラ。

天地も崩れるような物音とはあのときのことでしょう。私の耳はガーンといったまま、<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>くはなにも聞こえなくなってしまいました

「<ruby><rb>隧道</rb><rt>トンネル</rt></ruby>の爆発だッ」

「入口が崩れたッ」

という人々の立ち騒ぐ物声が、<ruby><rb>微</rb><rt>かす</rt></ruby>かに耳に入ってきました。どうしたというのでしょう。

「うわーッ。逃げてきた逃げてきた」

「警官も鉄道の連中も、<ruby><rb>要領</rb><rt>ようりょう</rt></ruby>がいいぞオ」

そんな声も聞えます。

「あまりに乱暴じゃないですか。東京方面へ列車が出ませんよ」

と抗議しているのはどうやら兄らしいです。

「いや仕方が無い。報告の内容から<ruby><rb>推</rb><rt>お</rt></ruby>して考えると、ああするより<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>に道はないのです。むしろ思い切って決行したところを<ruby><rb>褒</rb><rt>ほ</rt></ruby>めてやって下さい。なにしろ化物は完全に隧道の中に生き埋めだ」

「隧道の向うが<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>いているでしょう」

「なに<ruby><rb>鴨</rb><rt>かも</rt></ruby>の<ruby><rb>宮</rb><rt>みや</rt></ruby>の方の入口も、あれと同時に爆発して完全に閉じてしまったのです。化け物は<ruby><rb>袋</rb><rt>ふくろ</rt></ruby>の<ruby><rb>鼠</rb><rt>ねずみ</rt></ruby>です。もうなかなか出られやしません」と白木警部は一人で感心していました。

後で<ruby><rb>詳</rb><rt>くわ</rt></ruby>しく聞いた話ですけれど、二人の怪人の<ruby><rb>戦慄</rb><rt>せんりつ</rt></ruby>すべき暴行について、小田原署の署長さんは一<ruby><rb>世</rb><rt>せ</rt></ruby>一<ruby><rb>代</rb><rt>だい</rt></ruby>の智慧をふりしぼって、あの非常手段をやっつけたのでした。その<ruby><rb>儘</rb><rt>まま</rt></ruby>放って置けば、あの怪人や化物は何をするか判らないのです。お<ruby><rb>終</rb><rt>しま</rt></ruby>いには東京の方へ飛んでいって<ruby><rb>空襲</rb><rt>くうしゅう</rt></ruby>よりもなお<ruby><rb>恐</rb><rt>おそ</rt></ruby>ろしい<ruby><rb>惨禍</rb><rt>さんか</rt></ruby>を<ruby><rb>撒</rb><rt>ま</rt></ruby>きちらすかも知れません。そんなことがあっては一大事です。署長さんは、あの怪人の背後に、例の<ruby><rb>化物団</rb><rt>ばけものだん</rt></ruby>が居ると見て、これを釣り出すために機関車隊を編成させ、<ruby><rb>力較</rb><rt>ちからくら</rt></ruby>べをさせたのです。恐さを知らぬ化物団は、勝っているうちはよかったが、力負けがしてくると<ruby><rb>大焦</rb><rt>おおあせ</rt></ruby>りに焦って、<ruby><rb>大真面目</rb><rt>おおまじめ</rt></ruby>に機関車を後へ押し返そうと皆で揃ってワッショイワッショイやっているうちに、いつの間にか隧道の中へ<ruby><rb>押</rb><rt>お</rt></ruby>し<ruby><rb>籠</rb><rt>こ</rt></ruby>められたのです。それに夢中になっている間に、爆破隊が例の入口<ruby><rb>封鎖</rb><rt>ふうさ</rt></ruby>を見事にやってのけました。むろん機関車にのっていた警官や乗務員連中は爆破の前に車から飛び降りて、安全な場所までひっかえしてきたわけでありました。

こうして正体の解らない化物は封鎖されてしまった形ですが、こんなことで大丈夫でしょうか。化物はもう残っていないのでしょうか。残っていたら、それこそ大変です。それから気にかかるのは、谷村博士と黒田警官の<ruby><rb>行方</rb><rt>ゆくえ</rt></ruby>です。それも今夜は<ruby><rb>尋</rb><rt>たず</rt></ruby>ねようがありません。

警備の人々は帽子を<ruby><rb>脱</rb><rt>ぬ</rt></ruby>いでホッと<ruby><rb>溜息</rb><rt>ためいき</rt></ruby>を<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>らしました。そして<ruby><rb>道傍</rb><rt>みちばた</rt></ruby>にゴロリと横になると、積り積った疲労が一時に出て、間もなく皆は<ruby><rb>泥</rb><rt>どろ</rt></ruby>のような<ruby><rb>熟睡</rb><rt>じゅくすい</rt></ruby>に落ちました。

<ruby><rb>山頂</rb><rt>さんちょう</rt></ruby>の<ruby><rb>怪</rb><rt>かい</rt></ruby>

警備の人達の苦労を<ruby><rb>知</rb><rt>し</rt></ruby>らぬ<ruby><rb>気</rb><rt>げ</rt></ruby>に、いくばくもなく東の空が白んできました。生き残った雄鶏が元気な<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とき</span>をつくると、やがて夜はほのぼのと明け放れました。

「やあ」

「やあ」

<ruby><rb>目醒</rb><rt>めざ</rt></ruby>めた警備の人々は、相手の真黒に汚れた顔を見てふきだしたい位でした。<ruby><rb>瞼</rb><rt>まぶた</rt></ruby>は<ruby><rb>腫</rb><rt>は</rt></ruby>れあがり、眼は真赤に充血し、顔の色は土のように色を失い、血か泥かわからぬようなものが、あっちこっちに<ruby><rb>附着</rb><rt>ふちゃく</rt></ruby>していました。しかしそれは自分の顔のよごれ方と同じであったのですが、始めは気がつきませんでした。

「<ruby><rb>化物</rb><rt>ばけもの</rt></ruby>はどうしたな、オイ<ruby><rb>巡視</rb><rt>じゅんし</rt></ruby>だッ」白木警部の<ruby><rb>呶鳴</rb><rt>どな</rt></ruby>る声がしました。

私もその声に、ハッキリと目が<ruby><rb>醒</rb><rt>さ</rt></ruby>めました。ハッと思って<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>を見ると、一緒にいた筈の兄の<ruby><rb>荘六</rb><rt>そうろく</rt></ruby>の姿が見えません。

「兄さん――」

呼んでみても、誰も返事をする者がありません。

「もしもし、兄を知りませんか」

「帆村君かネ」と警部さんも<ruby><rb>訝</rb><rt>いぶか</rt></ruby>しそうにあたりを振りかえってみました。「そこにいたと思ったが、見えないネ」

私は急に不安になりました。

警部さんは<ruby><rb>巡視隊</rb><rt>じゅんしたい</rt></ruby>を<ruby><rb>編成</rb><rt>へんせい</rt></ruby>すると、勇しく先頭に立って歩きはじめました。

「私も連れていって下さい」

「ああ、恐ろしくなければ、ついて<ruby><rb>来給</rb><rt>きたま</rt></ruby>え」

そういって<ruby><rb>呉</rb><rt>く</rt></ruby>れたので、私も<ruby><rb>隊伍</rb><rt>たいご</rt></ruby>のうしろに<ruby><rb>随</rb><rt>したが</rt></ruby>って歩き出しました。

歩いているうちにも、化物の封鎖された<ruby><rb>隧道</rb><rt>トンネル</rt></ruby>のことよりも、兄のことが心配になってたまりません。私はあたりをキョロキョロ<ruby><rb>眺</rb><rt>なが</rt></ruby>めながら歩いてゆくので、幾度となく線路や枕木に蹴つまずいて、倒れそうになりました。

<ruby><rb>隧道</rb><rt>トンネル</rt></ruby>の入口に近づいてみますと、昨夜とはちがって<ruby><rb>白昼</rb><rt>はくちゅう</rt></ruby>だけにその<ruby><rb>惨状</rb><rt>さんじょう</rt></ruby>は眼もあてられません。崩れた岩石の間から、半分ばかり<ruby><rb>無惨</rb><rt>むざん</rt></ruby>な胴体をはみ出している機関車、飛び散っている車輪、根まで<ruby><rb>露出</rb><rt>ろしゅつ</rt></ruby>している大きな松の樹など、その惨状は筆にも紙にもつくせません。しかし<ruby><rb>幸</rb><rt>さいわ</rt></ruby>いにも、一向あとから掘りかえした跡もありません。まず<ruby><rb>西口</rb><rt>にしぐち</rt></ruby>は大丈夫だということがわかりました。

一行はなおも隧道の全体にわたって異状がないかどうかを調べるために、崩れた崖をよじのぼって、隧道の屋根にあたる山の上を<ruby><rb>綿密</rb><rt>めんみつ</rt></ruby>に<ruby><rb>検</rb><rt>しら</rt></ruby>べてゆくことになりました。

「どうやら大丈夫のようだね」

「すると化物は、皆この足の下に閉じこめられているというわけなんだな」

巡視隊の警官も、さすがに<ruby><rb>気味</rb><rt>きみ</rt></ruby>わるがって、足音をしのばせて歩いていました。

「オヤッ」

「オヤ、これはどうだ」

「オヤオヤオヤオヤ」

安心しきっていた一行は、急に壁につきあたりでもしたかのように、立ち<ruby><rb>止</rb><rt>どま</rt></ruby>りました。私も<ruby><rb>遅</rb><rt>おく</rt></ruby>れ<ruby><rb>馳</rb><rt>ば</rt></ruby>せに駈けつけてみましたが、<ruby><rb>鳴呼</rb><rt>ああ</rt></ruby>これは一体どうしたというのでしょう。山の上に、まるで<ruby><rb>噴火口</rb><rt>ふんかこう</rt></ruby>でもあるかのように、ポッカリと大穴が<ruby><rb>明</rb><rt>あ</rt></ruby>いているのです。穴から下を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いてみますと、底はどこまでも続いているとも知れず、<ruby><rb>真暗</rb><rt>まっくらで</rt></ruby><ruby><rb>見透</rb><rt>みとお</rt></ruby>しがつきません。

「こんな穴は、以前から有ったろうか」白木警部は不安に<ruby><rb>閃</rb><rt>ひらめ</rt></ruby>く眼を一同の方に向けました。

「いいえ、ありませんです。ここはずッと<ruby><rb>盆地</rb><rt>ぼんち</rt></ruby>のように<ruby><rb>平</rb><rt>たいら</rt></ruby>になっていて、青い草が生えていたばかりですよ」

「ほほう、すると<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>の間に出来たのだろうか」

「もしや……」

「もしや何だッ」と警部は声をはりあげて聞きかえしました。

「もしや、あの化物が明けたのでは……」

「そんなことかも知れん。天井の壁さえ抜けば、あとは<ruby><rb>軟</rb><rt>やわらか</rt></ruby>い土ばかりだったのかも知れない」

「すると化物は、どッどこに……」

「さあ――」と警部が<ruby><rb>不図</rb><rt>ふと</rt></ruby><ruby><rb>傍</rb><rt>かたわ</rt></ruby>らの<ruby><rb>土塊</rb><rt>どかい</rt></ruby>に眼をうつしますと、妙なものを発見しました。

「おお、そこに人間の足が見えるではないか」

一行はあまりに近くへ寄りすぎて、穴ばかりに気をとられ、傍らの<ruby><rb>堆高</rb><rt>うずたか</rt></ruby>い土塊に気がつかなかったのです。そこから二本の足がニョッキリと出ています。全く裸の脚です。誰の足でしょう。行方不明になった谷村博士も黒田警官も洋服を着ている筈です。兄は私と同じく和服でありました。するとこの裸の足は、ああ……

私はそう思うと、頭がクラクラとしました。謎を包んだ大きい穴が、急にスーと小さくなって、<ruby><rb>釦</rb><rt>ボタン</rt></ruby>の穴ほどに<ruby><rb>縮</rb><rt>ちぢ</rt></ruby>まったような気がいたしました。それっきりでした。私は大きい<ruby><rb>衝動</rb><rt>しょうどう</rt></ruby>にたえきれないで、恐ろしい<ruby><rb>現場</rb><rt>げんば</rt></ruby>を前に、あらゆる<ruby><rb>知覚</rb><rt>ちかく</rt></ruby>を失ってしまいました。暗い世界に落ちてゆくような気がしたのが最後で、なにもかも<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>らなくなったのです。

<ruby><rb>覚醒</rb><rt>かくせい</rt></ruby>のあと

或るときは、月光の下に、<ruby><rb>得体</rb><rt>えたい</rt></ruby>の知れぬ<ruby><rb>鬼影</rb><rt>おにかげ</rt></ruby>を映しだす怪物、また或るときは、変な<ruby><rb>衣裳</rb><rt>いしょう</rt></ruby>を着て<ruby><rb>闊歩</rb><rt>かっぽ</rt></ruby>する怪物、その怪物を、うまく<ruby><rb>隧道</rb><rt>トンネル</rt></ruby>の中に<ruby><rb>閉</rb><rt>と</rt></ruby>じこめたつもりであった警官隊でありましたが、隧道の上に、なんとしたことか、大きい穴が明いていたのです。もしやこれが、怪物の逃げ出した穴ではないかしらと、白木警部はじめ一同が、その穴の<ruby><rb>縁</rb><rt>ふち</rt></ruby>に近づいたとき、<ruby><rb>傍</rb><rt>かたわ</rt></ruby>らの<ruby><rb>盛土</rb><rt>もりつち</rt></ruby>の中から、二本の足がニョッキリ出ているのを発見して<ruby><rb>大騒</rb><rt>おおさわ</rt></ruby>ぎになり、私は、その足の主が、きっと兄の帆村荘六だろうと考え、なんという浅ましい光景を見るものかなと思ったとき、気を失ってしまいました。――と、そこまではお話しましたっけネ。

それから、どのくらい<ruby><rb>経</rb><rt>た</rt></ruby>ったのか、私には時間の<ruby><rb>推移</rb><rt>すいい</rt></ruby>がサッパリ解りませんでした。フッと気がついたときには、あの<ruby><rb>凄惨</rb><rt>せいさん</rt></ruby>な小田原の隧道の上かと思いの外、身はフワリと<ruby><rb>軟</rb><rt>やわらか</rt></ruby>いベッドの上に、長々と横になっているのでありました。

「ああーッ」

私は思わず、声を<ruby><rb>放</rb><rt>はな</rt></ruby>ちました。（ああ、気がついたようだ）（もう大丈夫）などという<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>きがボソボソと聞えます。ハッと気がついて<ruby><rb>周囲</rb><rt>まわり</rt></ruby>をキョロキョロと見廻すと、これはどうしたというのでしょう。<ruby><rb>傍</rb><rt>かたわ</rt></ruby>らに立って、こちらへ優しく笑額を向けているのは、あの<ruby><rb>悲歎</rb><rt>ひたん</rt></ruby>の<ruby><rb>主</rb><rt>ぬし</rt></ruby>、谷村博士の老夫人だったのです。いや<ruby><rb>駭</rb><rt>おどろ</rt></ruby>きと意外とは、そればかりではありません。いまのいままで、<ruby><rb>惨死</rb><rt>ざんし</rt></ruby>したとばかり思っていた兄の荘六までが、警官や<ruby><rb>手術衣</rb><rt>しゅじゅつぎ</rt></ruby>の人達の肩越しに、私の方を向いてニコニコ笑っているではありませんか。ああ私は何か夢を見ていたのでしょうか。

「に、にいさん――」

「おお、気がついたナ、<ruby><rb>民</rb><rt>たみ</rt></ruby>ちゃん」

兄は私の手を握ると、顔を寄せました。

「どうしたんです。兄さん。――博士夫人も笑っていらっしゃるじゃありませんか」

「はッはッ。では夫人に訳を<ruby><rb>伺</rb><rt>うかが</rt></ruby>ってごらん」

「イエあたくしからお話申しましょうネ。早く申せば、私のつれあい――つまり谷村が無事で帰って来たのです。兄さんたちのお骨折りの結果です」

「どうして無事だったんです。誰か死んでいましたよ、<ruby><rb>隧道</rb><rt>トンネル</rt></ruby>の上で……」

「あれなら大丈夫。あれは僕だったんですよ」

と、そういって<ruby><rb>脇</rb><rt>わき</rt></ruby>から<ruby><rb>逞</rb><rt>たくま</rt></ruby>しい男が出て来ました。見れば、どこかで見たような顔です。

「僕――黒田巡査です」

「ああ、黒田さん」

「僕が土に<ruby><rb>埋</rb><rt>う</rt></ruby>められたところを、皆さんで掘り出して下すったのです。僕だけではなく、博士も助かったんです。これは怪物が隧道から飛び出すときに、私達を土と一緒に跳ねとばして埋めてしまったんです」

「ああ、すると怪物はやはり隧道から逃げてしまったのですネ」

「そうです、逃げてしまったのです――但し一匹を除いてはネ」

「一匹ですって？」私は思わず大声に<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>きかえしました。「一匹は逃げなかったんですか」

「そうなんだよ、民ちゃん」と今度は兄が横から引取って云いました。「一匹だけ、僕等の手に<ruby><rb>捕</rb><rt>とら</rt></ruby>えることができたんだよ。それも、お前の手柄から来ているんだ」

「手柄ですって？　なんだか、なにもかも判らない<ruby><rb>尽</rb><rt>づく</rt></ruby>しだナ」

「そうだろう。いや、夜が明けると、何も<ruby><rb>彼</rb><rt>か</rt></ruby>もが、まるで様子が違っちまったのだからネ」

そういって、やがて兄が<ruby><rb>顛末</rb><rt>てんまつ</rt></ruby>を話してくれました。それはまったく思いもかけなかったような新事実でありました。

谷村博士の研究録

兄は、私から渡された例の<ruby><rb>白毛</rb><rt>しらげ</rt></ruby>のことを思い出し、それの<ruby><rb>正体</rb><rt>しょうたい</rt></ruby>を<ruby><rb>一刻</rb><rt>いっこく</rt></ruby>も早く知りたい気持で一ぱいで、小田原の警備隊の中からひとり脱け出でると、この谷村博士邸へ帰ってきたのだそうです。私はいま、博士<ruby><rb>邸</rb><rt>てい</rt></ruby>に来ているのだそうですから、驚きますネ。

兄はこの怪物について、きっと博士の研究があるものだと考え、博士夫人の力を借りて研究室をいろいろ探したのです。すると果して<ruby><rb>書類函</rb><rt>しょるいばこ</rt></ruby>の一つの<ruby><rb>抽出</rb><rt>ひきだし</rt></ruby>に、「月世界の生物について」と題する論文集を発見いたしました。

怪物が月に関係のあることは、兄はすでに感づいていたそうです。それでパラパラと論文を開いてゆくうちに、次のような文面を発見しました。

「月世界には、一つの生物がいるが、それは殆んど見わけがつかない。それは人間の眼では透明としか見えない身体をもっているからだ。その生物は形というものを持っていない。まるで水のように、あっちへ流れ、こっちへ飛びする。そして思いのままの形態をとることができる。<ruby><rb>液体的生物</rb><rt>えきたいてきせいぶつ</rt></ruby>だ。アミーバーの発達した大きいものだと思えばよい。この生物は、もし地球上で大きくなったとしたら、必ず人間や猿のように<ruby><rb>固体</rb><rt>こたい</rt></ruby>となるべきものであるが、月世界の圧力と熱との関係で、液体を保って成長したのである。

<ruby><rb>恐</rb><rt>おそ</rt></ruby>らくこの生物は、アミーバーから出発したもので、人間より<ruby><rb>稍</rb><rt>やや</rt></ruby>すぐれた智慧をもっているものと思われる。それは、今日盛んに、この地球へ向って、信号を送っているからである。人間界には、この生物のあることを知っている者が殆んど居ない。それはあの透明な月の住民たちの身体を見る方法がなかったからだ。<ruby><rb>然</rb><rt>しか</rt></ruby>るに<ruby><rb>予</rb><rt>よ</rt></ruby>は、特殊の<ruby><rb>偏光装置</rb><rt>へんこうそうち</rt></ruby>を使って、これを着色して認めることに成功した。その装置については、別項の論文に詳解しておいた。

ここに注意すべきは、このルナ・アミーバーとも名付くべき生物は、地球の人類に先んじて月と地球との横断を<ruby><rb>試</rb><rt>こころ</rt></ruby>みたい意志のあることである。おそらく、それは成功することであろう。彼等は地球へ<ruby><rb>渡航</rb><rt>とこう</rt></ruby>したときに、身体の変質変形をうけることを恐れて、何かの手段を考え出すことであろうと思われる。予の考うるところでは、多分そのルナ・アミーバーは身体を<ruby><rb>耐熱耐圧性</rb><rt>たいねつたいあつせい</rt></ruby>に富み、その上、<ruby><rb>伸縮自在</rb><rt>しんしゅくじざい</rt></ruby>の特殊材料でもって<ruby><rb>外皮</rb><rt>がいひ</rt></ruby>を作り、その中に流動性の身体を安全に包んで渡航してくるであろう。その材料について、予は左記の如き分子式を想像するが、この中には、地球にない元素が四つも<ruby><rb>交</rb><rt>まじ</rt></ruby>っているので、もしルナ・アミーバーが渡来したときには、面白い研究材料が出来ることであろう、<ruby><rb>云々</rb><rt>うんぬん</rt></ruby>」

ルナ・アミーバーという、透明で、流動性の生物があることは、博士の論文を見て始めて知ったのです。これは<ruby><rb>恐</rb><rt>おそ</rt></ruby>らく、博士夫妻の<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>に知った人間は、兄が最初だったことでしょう。兄は勇躍して、その<ruby><rb>白毛</rb><rt>しらげ</rt></ruby>のようなものをポケットから取り出しました。これは私が<ruby><rb>曾</rb><rt>かつ</rt></ruby>て、<ruby><rb>壊</rb><rt>こわ</rt></ruby>れた窓<ruby><rb>硝子</rb><rt>ガラス</rt></ruby>の光った<ruby><rb>縁</rb><rt>ふち</rt></ruby>から<ruby><rb>採取</rb><rt>さいしゅ</rt></ruby>したものでした。あの怪物が室内から飛び出すときに、<ruby><rb>鋭</rb><rt>するど</rt></ruby>い硝子の<ruby><rb>刃状</rb><rt>はじょう</rt></ruby>になったところで、切開したものと思います。

兄は理学士ですから、スペクトル分析はお手のものです。博士の研究室のスペトロスコープを使って、その白毛みたいなものを、真空容器の中で熱し、吸収スペクトルを測定してみました。すると、どうでしょう。その結果が、博士の論文に<ruby><rb>掲</rb><rt>かか</rt></ruby>げられた分子式と、ピッタリ一致したのです。

「ああ、ルナ・アミーバーだッ。ルナ・アミーバーの<ruby><rb>襲来</rb><rt>しゅうらい</rt></ruby>だッ」

兄は、気が変になったように、その室の中をグルグル廻って歩いたのです。

「どうしたのです、帆村さん」

と博士夫人が階下から駈けつけられる。説明をしているうちに、夜がほのぼのと明けはなれ、そこへ白木警部一行が、掘り当てた谷村博士と黒田警官とを<ruby><rb>護</rb><rt>まも</rt></ruby>って、急行で引っかえして来たのでありました。

博士も黒田警官も、殆んど死人のように見えましたが、博士の用意してあった<ruby><rb>回生薬</rb><rt>かいせいやく</rt></ruby>のお蔭で、<ruby><rb>極</rb><rt>ご</rt></ruby>く<ruby><rb>僅</rb><rt>わず</rt></ruby>かの時間に、メキメキと元気を<ruby><rb>恢復</rb><rt>かいふく</rt></ruby>することが出来たのだそうです。

この不思議な話を聞いて、私はもう寝ているわけにはゆかなくなりました。そして<ruby><rb>皆</rb><rt>みんな</rt></ruby>の<ruby><rb>停</rb><rt>と</rt></ruby>めるのも聞かず、ガバと床の上に、起き直りました。

室の向うは、博士の研究室です。なんだかモーターがブルンブルンと廻っているような音も聞え、ポスポスという<ruby><rb>喞筒</rb><rt>ポンプ</rt></ruby>らしい音もします。イヤに<ruby><rb>騒々</rb><rt>そうぞう</rt></ruby>しいので、私は<ruby><rb>眉</rb><rt>まゆ</rt></ruby>を<ruby><rb>顰</rb><rt>ひそ</rt></ruby>めました。

「だから無理だよ。もっと寝ていなさい」と兄はやさしく云いました。

「イヤ身体はいいのです。もう大丈夫。――それよりも向うの部屋で、一体なにが始まっているんですか」

「はッはッ、とうとう<ruby><rb>嗅</rb><rt>か</rt></ruby>ぎつけたネ」と兄は笑いながら、「あれはネ、たいへんな実験が始まっているのだ」

「大変て、どんな実験ですか」

「実はルナ・アミーバーを一匹<ruby><rb>掴</rb><rt>つかま</rt></ruby>えたんだ。そいつは、この門の近くの沼に浮いているのを見付けたんだ。なにしろ沼の水面が、なんにも<ruby><rb>浸</rb><rt>つか</rt></ruby>っていないのに、一部分が<ruby><rb>抉</rb><rt>えぐ</rt></ruby>りとったように穴ぼこになっていたのだ。地球の上ではあり得ない水面の形だ。それで、この所にルナ・アミーバーが浮いているんだなということが判ったんでいま引張りあげ、博士が先頭に立って実験中なんだ」

「私にも見せて下さい――」

私はもうたまらなくなって、<ruby><rb>寝台</rb><rt>ベッド</rt></ruby>の上から<ruby><rb>滑</rb><rt>すべ</rt></ruby>り<ruby><rb>下</rb><rt>お</rt></ruby>りました。

ルナ・アミーバーの実験

なんだか訳のわからない器械が並んだ実験室には、東京からこの珍らしい実験を見ようと駈けつけた学者で、身動きも出来ません。

真中に立っていた谷村博士は、私の入って来たのに気がついて、こっちを向かれました。

「おお<ruby><rb>民彌</rb><rt>たみや</rt></ruby>君。もう元気になりましたか」

「はい」

「いやア、あなた方ご兄弟のお蔭で、ここにいる一匹のルナ・アミーバーが手に入りましたよ」

そういって博士は、前に<ruby><rb>横</rb><rt>よこた</rt></ruby>わっている大きい<ruby><rb>硝子製</rb><rt>ガラスせい</rt></ruby>のビール<ruby><rb>樽</rb><rt>だる</rt></ruby>のようなものを<ruby><rb>指</rb><rt>ゆびさ</rt></ruby>しました。しかしその中は透明で、博士の云うものは何も見えません。

「いまはまだ見えますまい」と博士はすぐ私の顔色を見て云いました。「しかし今に見えますよ。<ruby><rb>偏光作用</rb><rt>へんこうさよう</rt></ruby>がうまく行ったらネ」

「偏光作用といいますと」

「この硝子器の中に、ルナ・アミーバーが居るのです。この中をすっかり真空にして、こっちの方から偏光をかけてやると、肉眼でも見えてくるのですよ」

「こいつはどうして捕ったんでしょうネ。大変強い動物でしたのに」

「動物じゃなくて、植物という方がいいかも知れませんよ。――弱っているわけは、あの硝子窓を通るときに、<ruby><rb>外皮</rb><rt>がいひ</rt></ruby>を大分<ruby><rb>引裂</rb><rt>ひきさ</rt></ruby>いたので、地球の高い温度がこたえるのです。そしてこのルナ・アミーバーは、兄さんを<ruby><rb>胴締</rb><rt>どうじ</rt></ruby>めにしていた奴です。あのとき<ruby><rb>此奴</rb><rt>こいつ</rt></ruby>は、兄さんに<ruby><rb>苦</rb><rt>くるし</rt></ruby>められたのです。兄さんは<ruby><rb>護身用</rb><rt>ごしんよう</rt></ruby>に、<ruby><rb>携帯感電器</rb><rt>けいたいかんでんき</rt></ruby>をもっていらっしゃる。あの強烈な電気に<ruby><rb>相当</rb><rt>そうとう</rt></ruby><ruby><rb>参</rb><rt>まい</rt></ruby>っているところへ、あの硝子の<ruby><rb>裂</rb><rt>さ</rt></ruby>け<ruby><rb>目</rb><rt>め</rt></ruby>へつっかかったんで、二重の<ruby><rb>弱</rb><rt>よわ</rt></ruby>り目に<ruby><rb>祟</rb><rt>たた</rt></ruby>り目で、沼の中へ落ちこんだまま、<ruby><rb>匍</rb><rt>は</rt></ruby>い<ruby><rb>上</rb><rt>あが</rt></ruby>りも飛び上りも出来なくなったんですよ。つまり荘六君と民彌君とのお二人が、この怪物を捕えたも同様ですネ」

私はそのとき、目に見えぬルナ・アミーバーと闘ったことを思いだしました。

「この一匹の<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>はどうしたのですか」

「もう月の世界へ逃げかえったことでしょう。今夜月が出ると、その<ruby><rb>天体鏡</rb><rt>てんたいきょう</rt></ruby>でのぞかせてあげましょう」

「すると、あの小田原の町に現れていたサーベルを腰に下げた老人や、<ruby><rb>白衣</rb><rt>びゃくい</rt></ruby>を着た若者なども、逃げかえったんですか」

「いや、あれは……」と博士はすこし<ruby><rb>赧</rb><rt>あか</rt></ruby>くなって云いました。「あれは私と黒田さんなんです。二人はルナ・アミーバに<ruby><rb>捕</rb><rt>つかま</rt></ruby>って、あのとおり<ruby><rb>彼奴</rb><rt>あいつ</rt></ruby>の身体に<ruby><rb>捲</rb><rt>ま</rt></ruby>きこまれていたのです。だからいかにも私たちは空中に飛んでいるように見えましたが、実はルナが飛んでいたわけで、私たちは、ルナの上に<ruby><rb>載</rb><rt>の</rt></ruby>っているようなものでした。そして彼奴は、私たちを勝手に裸にしたり、そして間違ってサーベルや白衣を着せたりしたのです」

「ああ、そうでしたか」

私は始めて、空中を飛ぶ男の謎がとけたのを感じました。

「では、小田原や隧道で暴れたのも、先生たちの力ではなかったのですネ」

「そうですとも。あれは皆ルナ・アミーバーの一隊がやったことです。たまたま中で見える私たちだけが騒がれたわけです」

「しかし先生、あの崩れる鬼影はどうしたのです。硝子窓に、アリアリと鬼影がうつりましたよ」

「あれはこのルナの流動する形が、うっすりと写ったのです。月の光に<ruby><rb>透</rb><rt>す</rt></ruby>かしてみると、ほんの<ruby><rb>僅</rb><rt>わず</rt></ruby>か、形が見えます。それはあの月光に、一種の偏光が<ruby><rb>交</rb><rt>まじ</rt></ruby>っているから、月光に照らされて硝子板の上にうつるときは、ルナの流動する<ruby><rb>輪廓</rb><rt>りんかく</rt></ruby>が、ぼんやり見えたのですよ」

「ははーん」

私は、この大きな謎が一時に解けたので、思わず大きな<ruby><rb>溜息</rb><rt>ためいき</rt></ruby>をつきました。

そのとき一座が<ruby><rb>俄</rb><rt>にわ</rt></ruby>かにドヨめきました。

「ああ、いよいよ、ルナ・アミーバーが見えて来ましたよ」

<ruby><rb>大団円</rb><rt>だいだんえん</rt></ruby>

ああ何という不思議！

硝子樽の中には、いままで何も無いように思っていましたが、ジリジリブツブツと、なんだか紫色の霧のようなものが動揺を始めたと思う間もなく色は<ruby><rb>紅</rb><rt>くれない</rt></ruby>に移り、次第次第に<ruby><rb>輪廓</rb><rt>りんかく</rt></ruby>がハッキリして来ました。やがてのことに、<ruby><rb>青味</rb><rt>あおみ</rt></ruby>を<ruby><rb>帯</rb><rt>お</rt></ruby>びたドロンとした液体が、クネクネとまるで<ruby><rb>海蛇</rb><rt>うみへび</rt></ruby>の巣を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いたときはこうもあろうかというような<ruby><rb>蠕動</rb><rt>ぜんどう</rt></ruby>を始めました。なんという気味のわるい生物でしょう。<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>きこんでいる人々の<ruby><rb>額</rb><rt>ひたい</rt></ruby>には、<ruby><rb>油汗</rb><rt>あぶらあせ</rt></ruby>が<ruby><rb>珠</rb><rt>たま</rt></ruby>のように浮かび上ってきました。

「ああ、いやらしい生物だッ」

誰かがベッと、<ruby><rb>唾</rb><rt>つば</rt></ruby>を<ruby><rb>吐</rb><rt>は</rt></ruby>いて、そう叫びました。それが聞えたのか、ルナ・アミーバーは、<ruby><rb>草餅</rb><rt>くさもち</rt></ruby>をふくらませたように、プーッと<ruby><rb>膨脹</rb><rt>ぼうちょう</rt></ruby>を始め、みるみるうちに、<ruby><rb>硝子樽</rb><rt>ガラスだる</rt></ruby>一ぱいに<ruby><rb>拡</rb><rt>ひろ</rt></ruby>がりました。

「これはッ――」

と思って、一同が<ruby><rb>後退</rb><rt>あとずさ</rt></ruby>りをしたその瞬間、がちゃーンという一大音響がして、サッと<ruby><rb>濛々</rb><rt>もうもう</rt></ruby>たる<ruby><rb>白煙</rb><rt>しろけむり</rt></ruby>が室内に立ちのぼりました。

「<ruby><rb>呀</rb><rt>あ</rt></ruby>ッ――」

私達は壁際にペタリと尻餅をついたことにも気が付かない程でした。バラバラとなにか上から落ちてくるので、気がついて天井を見ますと、そこには大きな穴がポッカリ明いていました。

「オヤオヤ。ルナが逃げたッ」

「どうして逃げたんだッ」

「弱っていたと思っていたがな」

「いや、これは私の失敗でした」と博士は別に<ruby><rb>駭</rb><rt>おどろ</rt></ruby>いた顔もせずに、静かに口を切りました。

「どうしたんです」

「いえ、<ruby><rb>彼奴</rb><rt>あいつ</rt></ruby>の入っている容器を真空にしたのがいけなかったんです」

「なぜッ」

「真空は、彼奴の住む<ruby><rb>月世界</rb><rt>げっせかい</rt></ruby>の状態そっくりです。だから弱っている彼奴は、たちまち元気になって、<ruby><rb>器</rb><rt>うつわ</rt></ruby>を破って逃走したのです。ああ、失敗失敗」

こんなわけで、<ruby><rb>折角</rb><rt>せっかく</rt></ruby><ruby><rb>生捕</rb><rt>いけど</rt></ruby>ったたった一匹のルナ・アミーバーでありましたが、惜しくも<ruby><rb>天空</rb><rt>てんくう</rt></ruby>に<ruby><rb>逸</rb><rt>いっ</rt></ruby>し去ってしまったのです。

いやはや、残念なことでありましたが、谷村博士を<ruby><rb>責</rb><rt>せ</rt></ruby>めるのもどうかと思います。ルナが逃げてしまったのですから、「崩れる鬼影」について私の申上げる話の種も、もうなくなりました。