１

ずいぶんいい気持で、兵器発明王の金博士は、<ruby><rb>豆戦車</rb><rt>まめせんしゃ</rt></ruby>の中に睡った。

<ruby><rb>睡眠剤</rb><rt>すいみんざい</rt></ruby>の<ruby><rb>覚</rb><rt>さ</rt></ruby>め<ruby><rb>際</rb><rt>ぎわ</rt></ruby>は、<ruby><rb>縁側</rb><rt>えんがわ</rt></ruby>から足をすとんと踏み<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>すが如く、<ruby><rb>極</rb><rt>きわ</rt></ruby>めてすとん的なるものであって、金博士は<ruby><rb>鼾</rb><rt>いびき</rt></ruby>を途中でぴたりと停めたかと思うと、もう次の瞬間には、

「さて、この大使館では<ruby><rb>朝飯</rb><rt>あさめし</rt></ruby>にどんな御馳走を出しよるかな」

と、<ruby><rb>寝言</rb><rt>ねごと</rt></ruby>ではない<ruby><rb>独</rb><rt>ひと</rt></ruby>り言をいった。

博士が、年齢の割に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かくしゃく</span>たる原因は、一つは博士の<ruby><rb>旺盛</rb><rt>おうせい</rt></ruby>なる食慾にあるといっていい。

目の前に<ruby><rb>押釦</rb><rt>おしボタン</rt></ruby>が並んでいた。

押釦というものは便利なもので、それを指で押すだけで、<ruby><rb>大概</rb><rt>たいがい</rt></ruby>の用は足りてしまう。以前、博士のところへ、新兵器の技術を盗みに来た<ruby><rb>某国</rb><rt>ぼうこく</rt></ruby>のスパイは、博士のところにあった押釦ばかり百種も集めて、どろんを極めたそうである。

<ruby><rb>閑話休題</rb><rt>さて</rt></ruby>、博士が、その押釦の一つを押すと、豆戦車の蓋がぽっかり明いた。博士はその穴から首を出して左右を見廻した。

「やあやあ、この豆戦車を明けようと思って、ずいぶん騒いだらしいぞ」

この豆戦車は、某国大使館の一室に、えんこしているのであった。部屋の<ruby><rb>寝台</rb><rt>しんだい</rt></ruby>は、片隅に押しつけられ、床には棒をさし込んで、ぐいぐい引張ったらしい<ruby><rb>痕</rb><rt>あと</rt></ruby>もあり、スパンナーやネジ<ruby><rb>廻</rb><rt>まわ</rt></ruby>しや、アセチレン<ruby><rb>瓦斯</rb><rt>ガス</rt></ruby>の<ruby><rb>焼切道具</rb><rt>やききりどうぐ</rt></ruby>などが散らばっていた。

「この大使館にも、余計な御せっかいをやる奴が居ると見える。これだから、旅に出ると、<ruby><rb>一刻</rb><rt>いっこく</rt></ruby>も気が許せないて」

そういいながらも、博士は別に<ruby><rb>愕</rb><rt>おどろ</rt></ruby>いた様子でもなく、豆戦車からのっそりと外に出た。それからまた、もう一度豆戦車の中をのぞきこむようにして、<ruby><rb>押釦</rb><rt>おしボタン</rt></ruby>の一つをぷつんと押した。すると、がちゃがちゃと金属の<ruby><rb>擦</rb><rt>す</rt></ruby>れ<ruby><rb>合</rb><rt>あ</rt></ruby>う<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎや</rt></ruby>かな音がしたかと思うと、その豆戦車はばらばらになり、やがてそのこまごました部分品や<ruby><rb>鋼鉄</rb><rt>こうてつ</rt></ruby>がひとりでに集ってきて、三つのトランクと変ってしまった。<ruby><rb>重宝</rb><rt>ちょうほう</rt></ruby>な機械もあったものである。

博士は、そのトランクを、部屋の隅に重ねて積み上げた。

それから、もみ手をしながら、扉を開けて、<ruby><rb>階下</rb><rt>した</rt></ruby>へ下りていった。

博士はずんずん食堂へ入っていった。

「おい、飯を喰わしてくれんか」

食堂の<ruby><rb>衝立</rb><rt>ついたて</rt></ruby>の蔭から、瞳の青い、<ruby><rb>体</rb><rt>からだ</rt></ruby>の大きい<ruby><rb>給仕</rb><rt>きゅうじ</rt></ruby>がとびだしてきたが、博士を見ると、直立不動の姿勢をとって、

「あ、<ruby><rb>王水険</rb><rt>おうすいけん</rt></ruby>先生のお客さまでいらっしゃいましたね。では、只今<ruby><rb>仕度</rb><rt>したく</rt></ruby>をいたしますから、しばらくお待ちを……」

といって、<ruby><rb>周章</rb><rt>あわ</rt></ruby>てて衝立のかげに<ruby><rb>引込</rb><rt>ひっこ</rt></ruby>んだ。

金博士は、ぶうと鼻を鳴らして、窓ぎわに出た。広い庭園は、今は黄いろくなった<ruby><rb>芝生</rb><rt>しばふ</rt></ruby>で<ruby><rb>蔽</rb><rt>おお</rt></ruby>われ、ところどころに<ruby><rb>亭</rb><rt>あずまや</rt></ruby>みたいなものがあるかと思うと、それに並んでタンクのようなものがあったり、なにか<ruby><rb>曰</rb><rt>いわ</rt></ruby>くのありそうな庭園であった。

「どうも<ruby><rb>半端</rb><rt>はんぱ</rt></ruby>な庭園じゃな。それにしても、王老師は、どうしていられるのか。おいおいボーイ君、王老師はまだこの大使館へ出勤せられないのか」

金博士が、がなりつけるようにいうと、ひょっくり衝立からとびだしてきた<ruby><rb>給仕頭</rb><rt>きゅうじがしら</rt></ruby>が、

「は。王老師は、当館にお泊り中でございますが、まだお目ざめになりませんので……」

「まだ目がおさめにならぬ。はて、年寄のくせにずいぶん寝坊でいらっしゃるな」

「はい。今までこんなことはなかったのでございますが、ふしぎなことで……。只今、医師が参りまして、診察をして居ります」

「診察？　老師は、睡りながら病気に<ruby><rb>罹</rb><rt>かか</rt></ruby>られたのかね。ずいぶん<ruby><rb>御器用</rb><rt>ごきよう</rt></ruby>じゃ」

「いや、そうじゃございません。あまり睡りすぎるというので、一同心配のあまり、医師をよびましてございます。それに<ruby><rb>醤買石</rb><rt>しょうかいせき</rt></ruby>先生も、同様一昨日の夜以来、睡り込んでいられますので……」

「なんじゃ、醤買石？」

博士の眼がぎょろぎょろと動いた。

「ははあ、読めたぞ。おい、王先生のところへ案内頼むぞ」

「は。ではこっちへどうぞ」

金博士は、給仕頭の案内で、王老師の部屋を訪れた。

博士はその部屋に入ったが、すぐ出て来た。そして元の食堂に戻って来た。

このとき<ruby><rb>卓子</rb><rt>テーブル</rt></ruby>の上には、白いクロスが伸べられ、その上には金色のフォークやナイフが並び、<ruby><rb>卓子</rb><rt>テーブル</rt></ruby>の用意が出来ていた。

博士は、ナプキンを胸にさし込みながら、食事の<ruby><rb>催促</rb><rt>さいそく</rt></ruby>をした。

給仕が、<ruby><rb>燻製</rb><rt>くんせい</rt></ruby>の<ruby><rb>鮭</rb><rt>さけ</rt></ruby>を、<ruby><rb>金</rb><rt>きん</rt></ruby>の盆にのせて持ってきた。

「おや、わしの好きな燻製が朝から出て来るぞ。これは<ruby><rb>頼</rb><rt>たの</rt></ruby>もしい。<ruby><rb>彼奴</rb><rt>きゃつ</rt></ruby>らの目の覚めないうちに、腹一杯喰っておくことにしよう」

博士の<ruby><rb>機嫌</rb><rt>きげん</rt></ruby>は、<ruby><rb>斜</rb><rt>なな</rt></ruby>めならず、フォークとナイフとを使いながら、何かしきりに<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いている様子が、たいへん楽しそうに見えた。

そこへ給仕頭が、次の料理を<ruby><rb>搬</rb><rt>はこ</rt></ruby>んできた。金博士は、その給仕頭をとらまえて、

「おい、あんちゃん。わしが王先生と醤買石の寝室を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>きにいったことは、内緒にしておいてくれ。これはわしの<ruby><rb>志</rb><rt>こころざし</rt></ruby>ぢゃ」

そういって博士は、ポケットから取り出した一つかみの金貨を<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れ顔の、給仕頭の<ruby><rb>掌</rb><rt>て</rt></ruby>にのせてやった。

２

人を<ruby><rb>咒</rb><rt>のろ</rt></ruby>うことについて趣味のある<ruby><rb>醤買石</rb><rt>しょうかいせき</rt></ruby>と、彼にうまく<ruby><rb>担</rb><rt>かつ</rt></ruby>がれているとは知らぬ<ruby><rb>王老師</rb><rt>おうろうし</rt></ruby>とは、医師の<ruby><rb>手当</rb><rt>てあて</rt></ruby>の<ruby><rb>甲斐</rb><rt>かい</rt></ruby>あって間もなく前後して、目を覚ました。

「人払いだ」

醤は、目が<ruby><rb>覚</rb><rt>さ</rt></ruby>めるや、大声を発した。

<ruby><rb>居候</rb><rt>いそうろう</rt></ruby>なりとはいえ、今を時めくＡＢＣＤＳ株式国家のＣ支店長の号令である。それに<ruby><rb>愕</rb><rt>おどろ</rt></ruby>いて医師は診察鞄をそこに忘れて立ち上ると、部屋附のボーイは、出かかった<ruby><rb>嚏</rb><rt>くさめ</rt></ruby>を途中で停めて部屋を出た。

「ああ、王老師。どこへ行かれる」

「人払いじゃ」

「ああ、王老師はここに居て<ruby><rb>頂</rb><rt>いただ</rt></ruby>かねばなりません。そうでないと、話が出来ません」

「するとわしは人の部類に入らない訳じゃな。やれやれ情けない」

老師は、無理やりにお<ruby><rb>臀</rb><rt>しり</rt></ruby>に刺された<ruby><rb>睡眠解下剤</rb><rt>すいみんかいげざい</rt></ruby>の注射のあとがまだ痛むので、すこし不機嫌であった。

「なに用じゃ、醤どの」

老師は、腰がだるくて仕方がないが、立ったままでものをいう。

「何よりもまず、余が<ruby><rb>依存</rb><rt>いぞん</rt></ruby>いたすことは、老師の手腕と、この某国大使館における始末機関の<ruby><rb>偉力</rb><rt>いりょく</rt></ruby>とですぞ。昨夜は失敗しましたが、今日は十分に<ruby><rb>駆使</rb><rt>くし</rt></ruby>して、金博士を綺麗に始末していただきたい。大丈夫でしょうな」

「商売熱心なるその言葉、恐れ入ったぞ。今日こそは、始末機関をフルに働かして、<ruby><rb>邪弟</rb><rt>じゃてい</rt></ruby>金の奴を片づけてしまうであろう」

「いや、その御言葉で、余は<ruby><rb>安堵</rb><rt>あんど</rt></ruby>しました。さあ、後は十分おくつろぎ下さい。ボーイを呼びましょう」

醤は、ベッドの上に半身をねじって、<ruby><rb>枕許</rb><rt>まくらもと</rt></ruby>の<ruby><rb>押釦</rb><rt>おしボタン</rt></ruby>を押した。すると枕許のスタンドが、ふっと消えた。

「おや、これはボーイを呼ぶ押釦じゃなかったか」

醤は、しまったという表情で、今度は壁からぶら下っている釦を押した。すると、とたんにがらがらというしたたかな雑音が聞え、続いてアナウンサー<ruby><rb>鶯嬢</rb><rt>おうじょう</rt></ruby>の声で、

「……今日十六日の天気予報を申上げます。今日は一日中晴天が続きましょうから、空襲警報に御注意下さい。明日はまた天気は<ruby><rb>下</rb><rt>くだ</rt></ruby>り<ruby><rb>模様</rb><rt>もよう</rt></ruby>となり――」

醤は、ふうッと猫のような叫び声を出して、部屋の隅のラジオ受信機のところまでいってスイッチを切った。

王老師は、あきれたような顔で、

「ああ、アナウンサー鶯嬢も、どうかしているな。今日は十五日であるのを、十六日といいまちがえた。近頃の若い者は、熱心が足りない」

「老師、今日は十六日ですよ。余の腹心の部下からの報告があったから、まちがいなしですわ」

「そんなことはない。醤どのは、算術を忘れてしまわれたか。十四日の次は十五日であるが、決して十六日ではない」

「いや、老師、私たちは、一日<ruby><rb>余計</rb><rt>よけい</rt></ruby>に睡ったのですよ。部下の報告から<ruby><rb>推</rb><rt>お</rt></ruby>して考えると、金博士を睡らせる<ruby><rb>睡眠瓦斯</rb><rt>すいみんガス</rt></ruby>が、余と老師とにも作用した結果です」

「そんなことはない」

「いや、そうです。われわれ二人は、金博士が睡ったかどうかをみるために、うっかり金博士の部屋に入ったではありませんか、あのときあの部屋に残っていた睡眠瓦斯を、われわれが吸いこんだのです。そして足かけ二日間に亘りばかばかしく睡りこんだ……」

「ああ、そうか。いや、それにしても四十幾時間も睡るわけがない。わしの<ruby><rb>調合</rb><rt>ちょうごう</rt></ruby>によれば、せいぜい前後十時間ぐらいは睡るように薬の<ruby><rb>濃度</rb><rt>のうど</rt></ruby>を決めたつもりじゃったが……」

「しかし結果は、このとおり四十二時間も<ruby><rb>効</rb><rt>き</rt></ruby>いたのです。ねえ、王老師、失礼ながら老師は、学問的にすこしく疲れていられるのではありませんか。もしそうだとすると、これからあの金博士の奴を、この某大使館の始末機関で始末していただこうと余は大いに期待しているわけですが、それが<ruby><rb>甚</rb><rt>はなは</rt></ruby>だ<ruby><rb>覚束</rb><rt>おぼつか</rt></ruby>ないことになりますなあ。老師、大丈夫ですかなあ」

醤買石は、心細そうにいう。

「濃度をまちがえるような<ruby><rb>耄碌</rb><rt>もうろく</rt></ruby>はしないつもりじゃが、はて、どこでまちがったかな」

王老師は、しきりに首をひねったり、<ruby><rb>山羊髯</rb><rt>やぎひげ</rt></ruby>をしごいてみたが、一向その不思議は<ruby><rb>解</rb><rt>と</rt></ruby>けなかった。

３

「おかげさまで、十分睡眠をとることが出来まして、長旅の疲れもすっかり<ruby><rb>癒</rb><rt>なお</rt></ruby>りましたわい。いや、老師のおかげです」

食卓に向い合って、金博士が、<ruby><rb>王水険老師</rb><rt>おうすいけんろうし</rt></ruby>を<ruby><rb>恭々</rb><rt>うやうや</rt></ruby>しく<ruby><rb>拝</rb><rt>はい</rt></ruby>しながらいった。それは老師にとって、いささか皮肉にも響く言葉であった。

「いや、お<ruby><rb>互</rb><rt>たが</rt></ruby>いの<ruby><rb>年齢</rb><rt>とし</rt></ruby>となっては、疲れを除くには睡眠にかぎるようじゃ。すなわち、いよいよ年齢をとれば、大量の睡眠が必要となり、すなわち永遠の眠りにつくというわけじゃ」

「御教訓、ありがたいことでございます」

老師は照れかくしに、つまらん講義を始める。

「ところで、この酒を一杯<ruby><rb>献</rb><rt>けん</rt></ruby>じよう。これはこの地方で申す<ruby><rb>火酒</rb><rt>ウォッカ</rt></ruby>の一種であって、特別<ruby><rb>醸造</rb><rt>じょうぞう</rt></ruby>になるもの、すこぶる<ruby><rb>美味</rb><rt>びみ</rt></ruby>じゃ。飲むときは、銀製の深い<ruby><rb>盃</rb><rt>さかずき</rt></ruby>で呑めといわれている。ではなみなみとついで、乾盃といこう」

二つの銀の盃に、その<ruby><rb>火酒</rb><rt>ウォッカ</rt></ruby>はなみなみとつがれた。盃の<ruby><rb>縁</rb><rt>ふち</rt></ruby>は、りーんといい音をたてて鳴った。

「チェリオ！」

「はあ、ペスト！」

金博士は、変な言葉でうけて、盃の酒を、一息に口の中に流しこんだ。

老師も盃を傾けて口の<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>に持っていった。しかし師は酒を呑んだわけではない。老師の<ruby><rb>拇指</rb><rt>おやゆび</rt></ruby>が、その盃についている<ruby><rb>突起</rb><rt>とっき</rt></ruby>をちょいと押した。すると、盃の底に穴があいて、酒はこの穴を通して盃の台の中にちょろちょろと流れ込んでしまった。とんだ仕掛のあるインチキ盃だった。

「どうじゃ、<ruby><rb>美酒</rb><rt>びしゅ</rt></ruby>じゃろうが、もう一杯、いこう」

「さいですか。どうもすみませんねえ」

金博士は、またも盃になみなみ<ruby><rb>注</rb><rt>つ</rt></ruby>いでもらって、老師と共に乾盃をくりかえした。

こんなことが三回続けられた。そして、老師の持てる盃は、一回毎に重くなり、そして三回目には、穴の入口まで酒が上ってきた。もうこの上は入らない。

やがて<ruby><rb>朝餐</rb><rt>ちょうさん</rt></ruby>は終った。

「仲々いい庭園じゃろうが。ちと散歩をしてきたらどうじゃ」

「はい。では老師先生」

金博士は、日頃のつむじまがりもどこへやら、まるで人がちがったように師の前には従順となり、庭園へ出た。

「老師は、いらっしゃらないので……」

「ああ、わしはちょっとソノ……食事のあとで用を<ruby><rb>達</rb><rt>た</rt></ruby>すことがあるので、そちだけでいってくれ」

「は。では、散歩をして参りましょう」

金博士は、石段づたいに<ruby><rb>芝地</rb><rt>しばち</rt></ruby>に下り、そして正確なる歩速でもって、向うの方へ歩いていった。

「老師、うまくいったようですな」

<ruby><rb>卓子</rb><rt>テーブル</rt></ruby>の下から、醤があの長いへちまのような<ruby><rb>額</rb><rt>ひたい</rt></ruby>をぬっと出した。

「<ruby><rb>叱</rb><rt>し</rt></ruby>ッ。ボーイが、こっちを向いている。いやよろしい、窓の方を向いた。……いや、醤どの、うまくいったよ。あの無類の<ruby><rb>毒酒</rb><rt>どくしゅ</rt></ruby>を、まんまと三杯も<ruby><rb>乾</rb><rt>ほ</rt></ruby>してしまったよ。<ruby><rb>致死量</rb><rt>ちしりょう</rt></ruby>の十二倍はある。あと十五分で、金博士の<ruby><rb>死骸</rb><rt>しがい</rt></ruby>が庭園に転がるだろうから、お前の部下に手配をして、早いところ取片づけるように」

「そうですか。あと十五分ですか。それは大成功だ」

「やれやれ、醤どののためとはいえ、<ruby><rb>殺生</rb><rt>せっしょう</rt></ruby>なことをしてしまったわい」

王老師は、ちょっと<ruby><rb>後味</rb><rt>あとあじ</rt></ruby>のわるさに不機嫌な表情をつくった。

醤は、もう話はすんだと、<ruby><rb>卓子</rb><rt>テーブル</rt></ruby>の下から<ruby><rb>脱兎</rb><rt>だっと</rt></ruby>のようにとびだすと、部下のつめている部屋へとんでいって、金博士の死骸の取片づけ方を命令した。やれやれこれで、あの恐るべき金博士を始末することが出来たかと、醤買石は、鼻の横に深い<ruby><rb>皺</rb><rt>しわ</rt></ruby>をつくって、<ruby><rb>大満悦</rb><rt>だいまんえつ</rt></ruby>であった。

４

それから二時間ばかり経った。

食堂の隅の<ruby><rb>卓子</rb><rt>テーブル</rt></ruby>に、醤と王老師とが向いあい、額をあつめて、何か喋っている。さっきとはちがい、二人の顔付は、共にすこぶるいらいらしているように見えた。

「王老師、ことごとく失敗ですぞ。どうしてくださる」

「どうしてくださるといって、どうも不思議という外ない」

「余はあのように多額の<ruby><rb>報酬金</rb><rt>ほうしゅうきん</rt></ruby>を老師に支払ったのも、当館の始末機関に絶対信頼を置いたればこそです。<ruby><rb>然</rb><rt>しか</rt></ruby>るに<ruby><rb>況</rb><rt>いわ</rt></ruby>んやそれ……」

「当館の始末機関は絶対に信頼し得るものじゃったのじゃ、すくなくとも昨日までのところは……。しかしあの金博士に限り<ruby><rb>効目</rb><rt>ききめ</rt></ruby>がないので<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れている。察するところ、金博士のあの素晴らしい食慾が、一切を<ruby><rb>阻</rb><rt>はば</rt></ruby>んでいるのかもしれん」

「食慾なんかに関係があるもんですか。あの毒酒にしても毒蛇にしても、インチキじゃないかな」

「そんなことはない。あの毒酒では、過去において千七百十九名の者が<ruby><rb>斃</rb><rt>たお</rt></ruby>れ、毒蛇では百九十三名が斃れ、いずれも百パーセントの成功を見たのじゃ。<ruby><rb>殊</rb><rt>こと</rt></ruby>にあの毒蛇に<ruby><rb>咬</rb><rt>か</rt></ruby>まれた者のあのものすごい苦しみ方に至っては……」

「それは余も一度見たことがありますが、実に顔を<ruby><rb>背</rb><rt>そむ</rt></ruby>けずにはいられなかったです。その毒蛇と今日の毒蛇と、毒性は同じものですかね」

「毒性に至っては、今日のやつは、特別激しいものを選んだのだ。しかも今日のやつは、非常に<ruby><rb>獰猛</rb><rt>どうもう</rt></ruby>で、人を見たら弾丸のように飛んでいって咬みつくという攻撃精神に燃え立っている攻撃隊員というところを五匹ばかり<ruby><rb>選</rb><rt>え</rt></ruby>り<ruby><rb>抜</rb><rt>ぬ</rt></ruby>いたので、それで相手が斃れないという法はないのじゃ。不思議という<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>ない」

「ですが、わが部下の話では、その突撃隊の毒蛇が、金博士の腕と足とにきりきりと巻きついたのを双眼鏡でもって<ruby><rb>確</rb><rt>たしか</rt></ruby>めたというとるですが、博士は別に痛そうな顔もせず、銅像のように<ruby><rb>厳然</rb><rt>げんぜん</rt></ruby>と立っていたそうですぞ。本当に突撃隊ですかなあ」

「すぐとんでいってきりきり巻きつくところから見ても、それが突撃隊員だということが分る。その毒蛇が<ruby><rb>人語</rb><rt>じんご</rt></ruby>を<ruby><rb>喋</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>ることが出来れば、もっと<ruby><rb>詳</rb><rt>くわ</rt></ruby>しいことが分るのじゃが……」

話の最中に、醤の部下が、庭の方からあわただしく食堂の中にとびこんできた。

「委員長。たいへんです。金博士が、只今これへ現れます」

「え、こっちへ金博士が……」

「あ、あの足音がそうです」

ずしんずしんといやに底ひびきのする足音が聞える。醤は、<ruby><rb>泡</rb><rt>あわ</rt></ruby>をくっているうちに、逃げ場を失い、またもや<ruby><rb>卓子</rb><rt>テーブル</rt></ruby>の下にごそごそと<ruby><rb>匐</rb><rt>は</rt></ruby>い込んだ。

卓子のシーツの<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>が、まだゆらゆら<ruby><rb>揺</rb><rt>ゆ</rt></ruby>れている<ruby><rb>最中</rb><rt>さいちゅう</rt></ruby>に、金博士がぬっと入って来た。どうしたわけか、金博士は、頭の上から肩のへんにひどく泥を<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>っていた。

「やあ、金どのか。一杯どうじゃ」

王老師も、ちょっとおどろいて、前にあった盃をとって差し出した。

「いや、酒はもうたくさんですわい」

と金博士が、落付いた声でいった。

うむと<ruby><rb>呻</rb><rt>うな</rt></ruby>った老師は、のみかけの酒を<ruby><rb>食道</rb><rt>しょくどう</rt></ruby>の代りに<ruby><rb>気管</rb><rt>きかん</rt></ruby>の方へ送って、はげしく<ruby><rb>咳</rb><rt>せ</rt></ruby>き込んだ。

「いや、老師先生。ここの酒は、あまり感心しませんなあ」

「そ、そんなはずは……ごほん、ごほん」

「どうも、感心できませんや、<ruby><rb>砒素</rb><rt>ひそ</rt></ruby>の入っている<ruby><rb>合成酒</rb><rt>ごうせいしゅ</rt></ruby>はねえ。口あたりはいいが、<ruby><rb>呑</rb><rt>の</rt></ruby>むと胃袋の<ruby><rb>内壁</rb><rt>ないへき</rt></ruby>に<ruby><rb>銀鏡</rb><rt>ぎんきょう</rt></ruby>で出来て、いつまでももたれていけません」

「ま、<ruby><rb>真逆</rb><rt>まさか</rt></ruby>ね」

「本当ですよ。気持がわるくなって、庭園を歩いていましたが、ふしぎなことにぶつかりました」

「ふしぎなことって、それは耳よりな、どうしたのかね」

「この庭園には、冬だというのに、蛇が出てくるんですよ」

「ああ一件の……いや、二メートルの蛇か」

「二メートルもありませんでしたが、<ruby><rb>頤</rb><rt>あご</rt></ruby>のふくれた猛毒をもった蛇です。トニメレスルス・エレガンスに似ていますが、それよりもすこし長くて九十五センチぐらいありました」

「それはたいへん。君に<ruby><rb>咬</rb><rt>か</rt></ruby>みつかなかったか」

「すこしは咬みついたらしいですが、私は感じがにぶいのでねえ。ですが、脚だの腕だのにきりきり巻きついて歩くのに邪魔をしますので、<ruby><rb>癪</rb><rt>しゃく</rt></ruby>にさわって、補えて来ました。ほらこれです」

金博士は、ぬっと右手をさしだした。その手には、例の蛇が四五匹、ぶらりと下っていた。

「うわッ」

王老師は、おどろいて、椅子に腰かけたまま、うんと<ruby><rb>呻</rb><rt>うな</rt></ruby>って目をまわした。

「ああ、老師は蛇はお<ruby><rb>嫌</rb><rt>きら</rt></ruby>いでしたか。これは失礼。では取り捨てましょう」

と、博士は手にしていた蛇を、<ruby><rb>卓子</rb><rt>テーブル</rt></ruby>の下へ、そっと捨てた。

すると、卓子の下で、

「きゃッ」

と、只ならぬ悲鳴が聞えたと思ったら、卓子が<ruby><rb>華々</rb><rt>はなばな</rt></ruby>しく持ち上り、中から一人の<ruby><rb>真青</rb><rt>まっさお</rt></ruby>な皮膚をもった人間がとびだしたかと思うと、<ruby><rb>衝立</rb><rt>ついたて</rt></ruby>をぶっ倒して、料理場へ逃げこんでしまった。それこそ<ruby><rb>余人</rb><rt>よじん</rt></ruby>ならず醤買石だったことは、今ここに改めて申すまでもなかろう。

５

「王老師。あんな手ぬるいことでは、<ruby><rb>最早</rb><rt>もはや</rt></ruby>だめですぞ」

醤は、老師に詰めよっている。

老師は眉をあげ、卓子をどすんと打った。

「まあそう<ruby><rb>焦</rb><rt>あ</rt></ruby>せるな。あの手この手と、まだやることはたくさんある」

「この上、金の奴に一分間でも余計に生きていられては、<ruby><rb>余</rb><rt>よ</rt></ruby>の<ruby><rb>面目</rb><rt>めんもく</rt></ruby>にかかわる」

「さわぐな。いよいよ今日は彼を<ruby><rb>貴賓</rb><rt>きひん</rt></ruby>の間に入れることにしたから、こんどは大丈夫だ」

「ああ貴賓の間ですか。それは素敵だ。見たいですな、中の様子を……」

「見たいなら、見せるよ。こっちへ来なさい、テレビジョン器械をのぞけば、貴賓室の模様は、手にとるように分る」

「おお、それはいい」

王老師に案内されて、醤はテレビジョン室に入った。<ruby><rb>高圧変圧器</rb><rt>こうあつへんあつき</rt></ruby>がうーんと<ruby><rb>呻</rb><rt>うな</rt></ruby>り、室内が<ruby><rb>真暗</rb><rt>まっくら</rt></ruby>になると、ブラウン管の丸いお尻が<ruby><rb>蛍</rb><rt>ほたる</rt></ruby>のように光りだして、やがてその上に、貴賓室の内部がありありとうつりだした。

「ほら見ろ。何も知らず、金博士のやつ、今入ってきたわ」

博士は入口の扉をあけて、部屋の中へ入った。そして扉のハンドルを押して、扉をしめた。

とたんに、高声器から、だだだだンと、はげしい機関銃の音が聞え、画面で見ていると、扉と向いあった壁から<ruby><rb>濠々</rb><rt>もうもう</rt></ruby>と煙が出て来た。<ruby><rb>要</rb><rt>よう</rt></ruby>するに、それは扉をしめる<ruby><rb>拍子</rb><rt>ひょうし</rt></ruby>に自動式にそこを狙って前の壁の中に仕掛けてある機関銃が一聯の猛射を<ruby><rb>行</rb><rt>や</rt></ruby>ったものである。これが普通の人間なら、まだ扉のハンドルを<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>さないうちに、背中から<ruby><rb>腰部</rb><rt>ようぶ</rt></ruby>へかけて、蜂の巣のように銃弾の穴があけられること間違いがないのであったが、金博士には、それが一向筋道どおり<ruby><rb>搬</rb><rt>はこ</rt></ruby>ばない。博士は、平気な顔で、ちょっと自分の尻をがさがさとかいただけであった。

この光景を見て、醤は怒り、王老師はなげいた。

「王老師、あれは<ruby><rb>弾丸</rb><rt>たま</rt></ruby>ぬきの機関銃を撃ったのですかい」

「おお醤どの。ふしぎという<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>ない。しかしまだあの部屋には、かずかずの<ruby><rb>始末道具</rb><rt>しまつどうぐ</rt></ruby>があるから、まだ<ruby><rb>失望</rb><rt>しつぼう</rt></ruby>するのは早い」

室内の金博士は、のっそりと、シャンデリアの下に立った。すると、<ruby><rb>矢庭</rb><rt>やにわ</rt></ruby>にそのシャンデリアがどっと音をたてて、金博士の頭の上に落ちてきた。金博士の<ruby><rb>頭蓋骨</rb><rt>ずがいこつ</rt></ruby>は<ruby><rb>粉砕</rb><rt>ふんさい</rt></ruby>せられ、こんどこそ息の根がとまったろうと思われたが、あにはからんや、粉砕したのはシャンデリアだけであった。博士は相変らず、銅像のように部屋の<ruby><rb>真中</rb><rt>まんなか</rt></ruby>に<ruby><rb>突立</rb><rt>つった</rt></ruby>って居り、そして、首にかかったシャンデリアの<ruby><rb>枠</rb><rt>わく</rt></ruby>を、面倒くさそうに外して床の上に放りだしただけであった。

「王老師。見ましたか。あれではシャンデリアが<ruby><rb>饅頭</rb><rt>まんじゅう</rt></ruby>の皮で出来ているとしか思えないですぞ」

「ばかいわっしゃい。あの落ちた音で分るが、大した重さのものだ。ほほ、注意、博士が椅子に坐るぞ」

「椅子に坐ることが、何か重大なる意味があるのですか」

「まあ、黙って見ていりゃ分る」

金博士は、散乱した<ruby><rb>硝子</rb><rt>ガラス</rt></ruby>の<ruby><rb>砕片</rb><rt>さいへん</rt></ruby>を平気で踏んで、窓際に置かれてある安楽椅子に腰を下ろそうとして、椅子に手をかけた。

「ほら、腰をかけるぞ」

金博士がその安楽椅子の上に腰を下ろすのが眺められた。とたんに、あーら不思議、博士の身体はぶーんと<ruby><rb>呻</rb><rt>うな</rt></ruby>りを<ruby><rb>生</rb><rt>しょう</rt></ruby>じて空間を飛び、大きな音をたてて壁にぶつかった。

「ほら、あれを見たか。あれが、叩きつける“椅子”じゃ。あれでは硬い壁に叩きつけられて、<ruby><rb>生身</rb><rt>なまみ</rt></ruby>の人間は一たまりもあるまい。<ruby><rb>可哀</rb><rt>かわい</rt></ruby>そうに死んだか」

「王老師、壁に穴があきましたよ。<ruby><rb>人体</rb><rt>じんたい</rt></ruby>の形をした穴です」

「何じゃ」

「そして金の奴の姿が見えませんぞ。あっ、あの穴から、部屋の中をのぞいています。王老師、金は自分の身体で壁をぶちぬき、無事に廊下にとびだして、部屋の中をじろじろみているのですよ。可哀そうに死んだかも何もあるものですか」

「ふーん、これは想像に絶して、あの金博士め、<ruby><rb>手硬</rb><rt>てごわ</rt></ruby>い奴じゃ」

この某国大使館の、いろいろある始末機関をそれからそれへと動員して使ってみたが、どういうわけか、たった一人の博士を<ruby><rb>片附</rb><rt>かたづ</rt></ruby>けることは仲々<ruby><rb>容易</rb><rt>ようい</rt></ruby>に成功しなかった。

「王老師、どうしてくれる」

「待て、せっかちな！」

今や醤買石と王老師の間柄は、<ruby><rb>湯気</rb><rt>ゆげ</rt></ruby>の出るほど<ruby><rb>切迫</rb><rt>せっぱく</rt></ruby>していた。

「もう一つ、やってみることがある。これなら、きっとうまくいく」

「どうだかなあ、信用は出来ん」

「いや、これは確実だ。<ruby><rb>火薬炉</rb><rt>かやくろ</rt></ruby>の中につきおとして<ruby><rb>密閉</rb><rt>みっぺい</rt></ruby>し、電熱のスイッチを入れて、じゅうじゅう焼いてしまうのだ」

「本当にそのとおりいくのなら、大したものだが……」

「きっとうまくいく。さあ見て居れ。今、金博士が、あの廊下の<ruby><rb>角</rb><rt>かど</rt></ruby>を曲ると、とたんに床が外れて、金の身体は<ruby><rb>奈落</rb><rt>ならく</rt></ruby>へおちる。その奈落には、火薬炉が大きな口をあけて待っているのだ……」

「<ruby><rb>能書</rb><rt>のうがき</rt></ruby>はあとにして、金博士を骨にして見せて下され」

「いざ、いざ、これを見よや」

王水険老師は、この寒中に汗だくだくとなって、廊下の床をおとすスィッチを引いた。

金博士は、廊下をそのときゆっくり歩いていたが、何の<ruby><rb>考</rb><rt>かんがえ</rt></ruby>もなく、この手に<ruby><rb>引懸</rb><rt>ひっかか</rt></ruby>って、奈落へ……。それから、がちゃん、がらがらと大きな音がして、身は火薬炉の中に密閉されてしまった。

電気炉のスィッチは入った。じりじりと電熱線は身ぶるいをはじめ、<ruby><rb>燻</rb><rt>こ</rt></ruby>げくさい熱が久振りに人間の<ruby><rb>膚</rb><rt>はだ</rt></ruby>を<ruby><rb>慕</rb><rt>した</rt></ruby>って、<ruby><rb>匐</rb><rt>は</rt></ruby>いよってきた。

高熱三時間。これくらい長い間熱すると、人間の肉や皮は燃えおち、<ruby><rb>人骨</rb><rt>じんこつ</rt></ruby>さえ、もう形をとどめず、ばらばらとなって、一つかみの<ruby><rb>石灰</rb><rt>いしばい</rt></ruby>としか見えなくなる。

「もうこの辺でよろしかろう。ほう、ずいぶん手間をとらせたわい」

と、王老師は、醤<ruby><rb>立合</rb><rt>たちあ</rt></ruby>いで、火葬炉の<ruby><rb>蓋</rb><rt>ふた</rt></ruby>をぎりぎりばったんと開けてみた。すると、あら不思議、炉の中からは、依然たる姿の金博士がぬっと現われ、

「わっはっはっ、わっはっはっはっ」

と、あたりかまわず無遠慮な<ruby><rb>笑声</rb><rt>しょうせい</rt></ruby>を響かせながら、そこを出て、階段をとことことのぼっていってしまったのである。

金博士は、ずんずんと歩いて、元の居間へ戻って来た。

扉をあけると、部屋はきちんと片づいている。部屋の隅には、博士のトランクが三つ、積み重ねてあるのが見える。

「おお、帰ってきたか」

博士の声がした――部屋の隅に、その声がしたようである。

博士は、部屋の真中に、黙って直立している。

すると、三つ積んであるトランクの一番上のものが、ころころと下に<ruby><rb>転</rb><rt>ころが</rt></ruby>りおちた。すると、二つ重ねてあったトランクから、ぬっと人間の首が出た。それは何と不思議にも金博士そっくりの顔をしていた。

すると、こんどは上にのっているトランクがもちあがった。そのトランクに二本の足が<ruby><rb>生</rb><rt>は</rt></ruby>えた。トランクに足が生えたわけではない、裸の金博士が、真中に穴のあいたトランクを胴にはめたまま立ち上ったのである。裸の博士は、そのトランクを外した。そしてのこのこと立ち現れて、部屋の真中に立っている服装正しい博士と対座した。二人の博士。一体これはどういうわけであろうか。

裸の博士は、そこで大きな<ruby><rb>欠伸</rb><rt>あくび</rt></ruby>を一つしたが、それから両手をさし出して、服装正しい博士の身体にさわってみた。そして<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いた。

「うむ、よく<ruby><rb>冷</rb><rt>ひ</rt></ruby>えている。十分熱に耐えたようじゃ。<ruby><rb>彼奴</rb><rt>かやつ</rt></ruby>らは、まさかこの<ruby><rb>人造人間</rb><rt>じんぞうにんげん</rt></ruby>の胸の中には、液体酸素の冷却装置があるということに気がつかないのじゃろう。いや、ことによると、このごろ彼奴らの前に現れる金博士が、かくの如き人造人間であるということにすら、気がつかないかもしれん」

この<ruby><rb>独</rb><rt>ひと</rt></ruby>りごとから推すと、裸の博士が本当の金博士で、服装正しき博士こそ、身代りの人造人間の金博士であったのである。<ruby><rb>道理</rb><rt>どうり</rt></ruby>で、毒酒毒蛇も平気だし、<ruby><rb>弾丸</rb><rt>たま</rt></ruby>にあたっても、壁にぶつけられても死なない<ruby><rb>筈</rb><rt>はず</rt></ruby>であった。

「ああ、この大使館の<ruby><rb>燻製</rb><rt>くんせい</rt></ruby>の<ruby><rb>鮭</rb><rt>さけ</rt></ruby>と<ruby><rb>火酒</rb><rt>ウォッカ</rt></ruby>にも<ruby><rb>飽</rb><rt>あ</rt></ruby>きてしまったわい。もうこれくらい滞在しておけば、王老師の顔も立つことじゃろう。では今のうちに、道具をまとめて、帰るとしようか」

そういうと、金博士は、<ruby><rb>無造作</rb><rt>むぞうさ</rt></ruby>に、人造人間の金博士をばらばらに解体し、それを例の三つのトランクに収めた。そしてこんどはきちんとした<ruby><rb>旅装</rb><rt>りょそう</rt></ruby>をととのえ、トランクをかつぐと、<ruby><rb>莨</rb><rt>たばこ</rt></ruby>をぷかぷかとふかしながら、<ruby><rb>悠々</rb><rt>ゆうゆう</rt></ruby>とこの館をふらふらと出ていってしまったのであった。