１

<ruby><rb>蒸</rb><rt>む</rt></ruby>し<ruby><rb>暑</rb><rt>あつ</rt></ruby>い或る夜のこと、発明王<ruby><rb>金博士</rb><rt>きんはかせ</rt></ruby>は、<ruby><rb>袖</rb><rt>そで</rt></ruby>のながい白服に、大きなヘルメットをかぶって、<ruby><rb>飾窓</rb><rt>かざりまど</rt></ruby>をのぞきこんでいた。

<ruby><rb>南京路</rb><rt>ナンキンろ</rt></ruby>の<ruby><rb>雑沓</rb><rt>ざっとう</rt></ruby>は、今が<ruby><rb>真盛</rb><rt>まっさか</rt></ruby>りであった。

金博士の視線は、さっきから、飾窓の<ruby><rb>小棚</rb><rt>こだな</rt></ruby>にのせられてある洋酒の群像に<ruby><rb>釘</rb><rt>くぎ</rt></ruby>づけになっている。いや、正しくいえば、その洋酒の<ruby><rb>壜</rb><rt>びん</rt></ruby>にぶら下げられた値段札の数字に釘づけになっていたという方がいいだろう。

「あはは……」

博士がとつぜん声をあげた。これは決して博士が笑ったのではない。実は<ruby><rb>大歎息</rb><rt>だいたんそく</rt></ruby>をしたのである、あははと……。およそ歎息というものは、<ruby><rb>感極</rb><rt>かんきわ</rt></ruby>まってその窮極に達すればあたかも笑声のような音を発するものである。嘘だと思ったら、読者は御自分で<ruby><rb>験</rb><rt>ため</rt></ruby>してみられるがよろしかろう。

「あはは、あの味のわるいウィスキーが一壜五百<ruby><rb>元</rb><rt>げん</rt></ruby>とは、べら棒な値段じゃ。その昔、<ruby><rb>重慶相場</rb><rt>じゅうけいそうば</rt></ruby>というのがあったがその上をいく<ruby><rb>暴価</rb><rt>ぼうか</rt></ruby>じゃ。同じ五百元でも、こっちのペパミントがいい。こいつを、氷の中に叩きこんで、きゅっきゅっとやると、この殺人的暑さは嵐にあった<ruby><rb>毒瓦斯</rb><rt>どくガス</rt></ruby>の如く逃げてしまうことじゃろうが、それにしても五百元とは高い、今のわしの財政ではなあ」

金博士は、このごろアルコールに不自由をしている上に、金にも困っていると見え、さてこそ<ruby><rb>極限歎息</rb><rt>きょくげんたんそく</rt></ruby>の<ruby><rb>次第</rb><rt>しだい</rt></ruby>と<ruby><rb>相成</rb><rt>あいな</rt></ruby>ったらしい。

<ruby><rb>丁度</rb><rt>ちょうど</rt></ruby>そのときであった。金博士の頭を目がけて、一匹の<ruby><rb>近海蟹</rb><rt>がざみ</rt></ruby>のようによく<ruby><rb>肥</rb><rt>こ</rt></ruby>えた<ruby><rb>大蜘蛛</rb><rt>おおぐも</rt></ruby>が、長い糸をひいてするすると下りてきた。そして、もうすこしで、金博士のヘルメットにぶつかりそうになって、ようよう<ruby><rb>下</rb><rt>さが</rt></ruby>るのを停めた。おそるべき大蜘蛛だ。こんなやつに<ruby><rb>頸</rb><rt>くび</rt></ruby>のあたりを喰いつかれ、<ruby><rb>生血</rb><rt>いきち</rt></ruby>をちゅっちゅっ吸われたら、いかな<ruby><rb>頑固爺</rb><rt>がんこおやじ</rt></ruby>の金博士であろうと、ひとたまりもなかろうと思われた。

「もしもし金<ruby><rb>博士</rb><rt>せんせい</rt></ruby>、おなつかしゅうございますなあ」

とつぜん、その大蜘蛛が金博士に言葉をかけたのだった。<ruby><rb>冗談</rb><rt>じょうだん</rt></ruby>じゃない……。

「うん」

博士の<ruby><rb>鼓膜</rb><rt>こまく</rt></ruby>に、その声が入ったのか、博士は<ruby><rb>生返事</rb><rt>なまへんじ</rt></ruby>をした。生返事をしただけで、彼はなおも飾窓の青いペパミントの値段札に全身の注意力を集めている。

「<ruby><rb>博士</rb><rt>せんせい</rt></ruby>は、いつに変らず<ruby><rb>御壮健</rb><rt>ごそうけん</rt></ruby>で、おめでとうございます。この前、金博士にお別れをしてから、もうかれこれ五六年になりますなあ」

その化け物のような大蜘蛛は、しきりに金博士をなつかしむのだった。これを横から眺めていると、博士も<ruby><rb>亦</rb><rt>また</rt></ruby>、蜘蛛の化け物じゃないかという疑いが<ruby><rb>湧</rb><rt>わ</rt></ruby>いてくる。そういえば「<ruby><rb>新青年</rb><rt>しんせいねん</rt></ruby>」誌上にのっている金博士の顔は、蜘蛛の精じみた<ruby><rb>風貌</rb><rt>ふうぼう</rt></ruby>をもっているよ。

<ruby><rb>閑話休題</rb><rt>さて</rt></ruby>、金博士は、ようやく注意力の二割がたを、蜘蛛の声に向けて<ruby><rb>割</rb><rt>さ</rt></ruby>いた。

「おう、そういうお前は<ruby><rb>醤買石</rb><rt>しょうかいせき</rt></ruby>じゃな。お前はまだ生きていたんか」

醤買石といえば、あの有名なる<ruby><rb>抗日遷都</rb><rt>こうにちせんと</rt></ruby>将軍の名である。すると醤買石も、ついに人間の皮を<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>っては遷都する先がなくなって、遂に大蜘蛛に化けたのであるか。それとも、彼はオーストラリヤで戦車にのし<ruby><rb>烏賊</rb><rt>いか</rt></ruby>られて絶命し、<ruby><rb>魂魄</rb><rt>こんぱく</rt></ruby>なおもこの地球に<ruby><rb>停</rb><rt>とどま</rt></ruby>って大蜘蛛と化したのであるか。

「あれ、金<ruby><rb>博士</rb><rt>せんせい</rt></ruby>。醤はそう簡単に死にませんよ。しかしとにかく、博士にお目にかかりたいばかりに、部下もつれずに単身、きびしい<ruby><rb>監視網</rb><rt>かんしもう</rt></ruby>をくぐって、ようやくここまで参りました。そしてとうとう博士に行き会いまして、こんな嬉しいことはございません。ふふふふ」

ふふふふは、醤の笑い声ではない。感激の泣き声である。泣き声がその極致に達すれば笑い声に似たる――ああもうその解説はよろしいか。なるほど前にも<ruby><rb>鳥渡</rb><rt>ちょっと</rt></ruby>書きましたなあ。

「泣くなよ、醤。お前は<ruby><rb>小便小僧</rb><rt>しょうべんこぞう</rt></ruby>時代から泣きべそじゃったな。東に<ruby><rb>楠</rb><rt>くすのき</rt></ruby>の泣き男あり、西に醤買石ありで、ともに泣きの<ruby><rb>一手</rb><rt>ひとて</rt></ruby>で名をあげたものじゃ。で、わしに会いに来たというのでは、また何か大それた無心じゃろう」

金博士は、やっぱり<ruby><rb>前跼</rb><rt>まえかが</rt></ruby>みになって、飾窓の中をのぞきこみながら口を動かした。博士は、まさか頭の上に忍びよったる大蜘蛛と話をしているのだとは気がついていない様子に見えた。

「やあ、そのとおり、それが<ruby><rb>図星</rb><rt>ずぼし</rt></ruby>でございますよ。<ruby><rb>余</rb><rt>よ</rt></ruby>――いや<ruby><rb>小生</rb><rt>しょうせい</rt></ruby>はこのたびぜひとも<ruby><rb>博士</rb><rt>せんせい</rt></ruby>にお願いをして、<ruby><rb>毒瓦斯</rb><rt>どくガス</rt></ruby>をマスターいたしたいと決心しまして、そのことで<ruby><rb>遥々</rb><rt>はるばる</rt></ruby>南海の<ruby><rb>孤島</rb><rt>ことう</rt></ruby>からやって参りました」

「毒瓦斯の研究か。そんなむずかしい金のかかるものは、お前の<ruby><rb>柄</rb><rt>がら</rt></ruby>じゃないぞ」

「いえ<ruby><rb>博士</rb><rt>せんせい</rt></ruby>、そう<ruby><rb>仰有</rb><rt>おっしゃ</rt></ruby>らないで、是非にお願いいたします。今こそ孤島に小さくなっていますが、<ruby><rb>昔日</rb><rt>せきじつ</rt></ruby>の太陽を呼び戻すには、猛毒瓦斯を発明し、その力によってやるのでないと全く見込みなしとの結論に達し、博士にお<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>りに参りました。ぜひともこの醤を<ruby><rb>哀</rb><rt>あわ</rt></ruby>れと<ruby><rb>思召</rb><rt>おぼしめ</rt></ruby>し……その代り、お礼の方はうんときばり、博士のお好みのものなれば、ウィスキーであろうとペパミントであろうと……」

「そうか。それは本当じゃな。男の言葉に<ruby><rb>二言</rb><rt>にごん</rt></ruby>はないな――というて相手がお前じゃ<ruby><rb>仕様</rb><rt>しよう</rt></ruby>がないが……」

といいながら、博士は飾窓から顔を放して腰を<ruby><rb>真直</rb><rt>まっすぐ</rt></ruby>にのばしたものだから、さっきから<ruby><rb>垂</rb><rt>た</rt></ruby>れ下っていた大蜘蛛が<ruby><rb>一揺</rb><rt>ひとゆ</rt></ruby>れ揺れると、博士の顔へぴしゃと当った。さあたいへん、<ruby><rb>危</rb><rt>あやう</rt></ruby>いかな博士の一命！　生かまたは死か？

２

……<ruby><rb>筆勢</rb><rt>ひっせい</rt></ruby>あまって<ruby><rb>嚇</rb><rt>おど</rt></ruby>し文句を<ruby><rb>連</rb><rt>つら</rt></ruby>ねてはみたが、ここで金博士が、<ruby><rb>間髪</rb><rt>かんぱつ</rt></ruby>を<ruby><rb>容</rb><rt>い</rt></ruby>れず、顔にあたった<ruby><rb>大蜘蛛</rb><rt>おおぐも</rt></ruby>を払いのけ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きゃあ</span>とか<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すう</span>とかいってくれれば、作者も<ruby><rb>張合</rb><rt>はりあい</rt></ruby>があるのであるが、当の博士は、別に<ruby><rb>愕</rb><rt>おどろ</rt></ruby>きもなにもしない。<ruby><rb>甚</rb><rt>はなは</rt></ruby>だ張合いのない次第であった。

愕くどころか、博士は、<ruby><rb>矢庭</rb><rt>やにわ</rt></ruby>に手をのばして、その大蜘蛛の<ruby><rb>胴中</rb><rt>どうなか</rt></ruby>をつかんだものである。

すると、ガラガラと、ラジオの雑音のようなものが聞えた。

金博士は、つかまえた大蜘蛛を口のところへ持って行き、声を一段と低くして、

「おい醤買石、今すぐわしは、お前の居る屋上へ上っていくから、すこし待って居てくれ。しかしお前も、こんどというこんどは<ruby><rb>余程</rb><rt>よほど</rt></ruby><ruby><rb>懲</rb><rt>こ</rt></ruby>りたと見え、屋上から、蜘蛛に見まがうような<ruby><rb>擬装</rb><rt>ぎそう</rt></ruby>のマイクと高声器をつり下げて、わしに話しかけるなんて、中々機械化してきたじゃないか、はははは」

「いや、ちとばかりソノ……」

「しかし、この無細工な蜘蛛を屋上からこの人通りの多い通りに<ruby><rb>吊</rb><rt>つ</rt></ruby>り下ろすなんて、やっぱりお前は、<ruby><rb>垢</rb><rt>あか</rt></ruby>ぬけのしないこと<ruby><rb>夥</rb><rt>おびただ</rt></ruby>しい。この次からは、もっといい智慧を働かすがいい」

<ruby><rb>褒</rb><rt>ほ</rt></ruby>められたと思った醤は、とたんにぺちゃんこにやっつけられた。

さて、ここは屋上である。例の洋酒店のあるビルの屋上であった。

のっそりと、<ruby><rb>非常梯子</rb><rt>ひじょうばしこ</rt></ruby>からあがってきたのが金博士であった。非常梯子の上り口に立って、うやうやしく<ruby><rb>挙手</rb><rt>きょしゅ</rt></ruby>の礼をして立っている二人の白いターバンに黒眼鏡に太い<ruby><rb>髭</rb><rt>ひげ</rt></ruby>の<ruby><rb>印度人巡警</rb><rt>インドじんじゅんけい</rt></ruby>！　脊の高い<ruby><rb>瘠</rb><rt>や</rt></ruby>せた方が<ruby><rb>醤買石</rb><rt>しょうかいせき</rt></ruby>で、脊が低く、ずんぐり肥っている方が、醤が特選して連れてきた前途有望な<ruby><rb>瓦斯師長</rb><rt>ガスしちょう</rt></ruby><ruby><rb>燻精</rb><rt>くんせい</rt></ruby>であった。二人は、まるで<ruby><rb>舷門</rb><rt>げんもん</rt></ruby>から上って来た司令官を迎えるように、<ruby><rb>極</rb><rt>きわ</rt></ruby>めて<ruby><rb>厳</rb><rt>げん</rt></ruby>たる礼をもって金博士に敬意を<ruby><rb>表</rb><rt>ひょう</rt></ruby>した。

博士は、<ruby><rb>几帳面</rb><rt>きちょうめん</rt></ruby>に礼をかえすどころか、いきなり醤の瘠せた肩をどんと叩いて、

「おい、ウィスキーにペパミントの約束、あれはまちがいないじゃろうな。一本が五百元もするぜ。お前そんなに金を持っとるか」

と、<ruby><rb>無遠慮</rb><rt>ぶえんりょ</rt></ruby>な問いを発した。

「や、それはもう大丈夫です。御承知のとおり、昔からイギリスと深い関係がありますものですから、武力こそ瘠せ細っていますが、黄金であろうとダイヤモンドであろうとウィスキーであろうと、そんなものは、うんとストックがあります」

「ほ、ん、と、ですか」

「もちろん本当です。<ruby><rb>国</rb><rt>くに</rt></ruby><ruby><rb>破</rb><rt>やぶ</rt></ruby>れて洋酒ありです。<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>も早いところストックにして置いたのですがね……しかし<ruby><rb>博士</rb><rt>せんせい</rt></ruby>、毒瓦斯の方のことですが……」

「うん、毒瓦斯なんて、<ruby><rb>他愛</rb><rt>たあい</rt></ruby>もないものじゃ。ウィスキーになると、そうはいかん」

「いや<ruby><rb>博士</rb><rt>せんせい</rt></ruby>、ウィスキーなんて<ruby><rb>浴</rb><rt>あ</rt></ruby>びるほどあります。毒瓦斯の研究となると、そうはいかん」

「よろしい、バーター・システムで取引しよう。一体どんな毒瓦斯が<ruby><rb>入用</rb><rt>いりよう</rt></ruby>か。フォスゲン、ピクリンサン、ジフェニルクロルアルシン、イペリット、カーボンモノキサイド、どれが<ruby><rb>欲</rb><rt>ほ</rt></ruby>しいかね」

下は<ruby><rb>人工灯</rb><rt>じんこうひ</rt></ruby>の海、上は<ruby><rb>星月夜</rb><rt>ほしづきよ</rt></ruby>、そして屋上は<ruby><rb>真暗</rb><rt>まっくら</rt></ruby>だった。その真暗な屋上に立って、金博士は大きく両手をひろげる。

「そんなものは、どれも欲しくありません」

醤は人一倍大きな頭を左右に振る。

「ほう、これじゃ気に入らんのか」

「<ruby><rb>博士</rb><rt>せんせい</rt></ruby>。<ruby><rb>余</rb><rt>よ</rt></ruby>――いや私の欲しいものは、そんな<ruby><rb>従来</rb><rt>じゅうらい</rt></ruby>から知れている毒瓦斯ではありません。そんな毒瓦斯は、<ruby><rb>吸着剤</rb><rt>きゅうちゃくざい</rt></ruby>の<ruby><rb>活性炭</rb><rt>かっせいたん</rt></ruby>と中和剤の<ruby><rb>曹達石灰</rb><rt>ソーダーせっかい</rt></ruby>とを通せば<ruby><rb>遮</rb><rt>さえぎ</rt></ruby>られるし、ゴム<ruby><rb>衣</rb><rt>い</rt></ruby>ゴム手袋ゴム靴で<ruby><rb>結構</rb><rt>けっこう</rt></ruby><ruby><rb>避</rb><rt>さ</rt></ruby>けられます。そういう防毒手段のわかっている毒瓦斯は、今じゃどこへ持っていって<ruby><rb>撒</rb><rt>ま</rt></ruby>いても、<ruby><rb>効目</rb><rt>ききめ</rt></ruby>がありません。もっとよく効く、目新らしいものがいいですなあ」

<ruby><rb>南京虫退治</rb><rt>ナンキンむしたいじ</rt></ruby>の<ruby><rb>新剤</rb><rt>しんざい</rt></ruby>を探しているようなことをいう。

博士は、別段困った顔もせずに<ruby><rb>肯</rb><rt>うなず</rt></ruby>き、

「わしのところには、どんなものでもあるよ。今お前のいった防毒面をどんどん通して、今までの防毒面じゃ役に立たない毒瓦斯があるがこれはどうじゃ」

「それはいいですなあ。しかしそれは○○○、○○○○○じゃないのですか」

「ほう、それを知っているか。この種のものはドイツと○○だけが持っているので、従来の防毒面ではまるで防ぐ力がない」

「しかし<ruby><rb>博士</rb><rt>せんせい</rt></ruby>、それも駄目ですよ。なぜといって、他の国には無いかもしれないが、ドイツなどには、その<ruby><rb>超毒瓦斯</rb><rt>ちょうどくガス</rt></ruby>を防ぐ仕掛をちゃんと持っている。そういう防ぐ手段のあるものは全然駄目です。私は、全然防ぐ用意のない毒瓦斯が欲しいのです。博士、ぜひお力をお貸しねがいたい」

醤は、熱心を<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>にあらわしていった。

「ほうほう、だいぶん熱心じゃが、それもあるにはある。しかしこれを教えるには、大分<ruby><rb>高価</rb><rt>こうか</rt></ruby>につくが、いいかね。まずウィスキーならダース<ruby><rb>入</rb><rt>いり</rt></ruby>の<ruby><rb>函単位</rb><rt>はこたんい</rt></ruby>でないと取引が出来ないが……」

「ダース函でも何でも提供しますとも」

「ほい、お前にも似合わん、えらく気が大きいじゃないかい」

「<ruby><rb>博士</rb><rt>せんせい</rt></ruby>、わしの<ruby><rb>報復</rb><rt>ほうふく</rt></ruby><ruby><rb>成</rb><rt>な</rt></ruby>るかどうかという<ruby><rb>瀬戸際</rb><rt>せとぎわ</rt></ruby>なんです。あに真剣にならざるを<ruby><rb>得</rb><rt>え</rt></ruby>んやです」

「そうか。なら、よろしい。ちょっとここに出してみようか」

「あ、待ってください。それはあぶない。ここで出されたんでは、私が死んでしまうじゃないですか。そればかりは遠慮します」

「なにをうろたえとるか。出すといっても、本当の毒瓦斯を出すとはいっておらん。こういう毒瓦斯があるという話をしようかという意味でいったのじゃ」

「ああ、そうでしたか。やれやれ安心しました。とにかく<ruby><rb>博士</rb><rt>せんせい</rt></ruby>と来たら、<ruby><rb>興</rb><rt>きょう</rt></ruby>が乗れば、敵と味方との区別なんかもう<ruby><rb>滅茶苦茶</rb><rt>めちゃくちゃ</rt></ruby>で、科学の力を<ruby><rb>残酷</rb><rt>ざんこく</rt></ruby>に発揮せられますからなあ。これまでに私は、博士のそのやり方で、ずいぶんにがい体験を<ruby><rb>経</rb><rt>へ</rt></ruby>て来たもんです」

「醤よ、科学は残酷なものじゃよ。わしはそう思っとる。だから人間は出来るだけ早く科学を征服しなければならないのじゃ。ドイツに於ては――」

「博士、ドイツの話はもう沢山です。それで私のお願いは、ここに立っている<ruby><rb>腹心</rb><rt>ふくしん</rt></ruby>の部下で、新たに毒瓦斯発明官に任じました燻精を一週間だけお預けいたしますから、その期間にこの男に対し、新毒瓦斯研究の方針とか企画とか設備とか経費とか、ありとあらゆることを吹きこんでいただきたい。私は、この男の帰還を待って、<ruby><rb>早速</rb><rt>さっそく</rt></ruby>全世界<ruby><rb>覆滅</rb><rt>ふくめつ</rt></ruby>の毒瓦斯を発明する鬼と<ruby><rb>化</rb><rt>か</rt></ruby>して、全力をあげ全財産を<ruby><rb>抛</rb><rt>な</rt></ruby>げうって発明官と一緒にやるつもりです」

醤は、満天の星を吸いこもうとするのではないかと思われるような大口をあいて、芝居気たっぷりに、途方もない重大決意を<ruby><rb>喚</rb><rt>わめ</rt></ruby>き散らしたのであった。

「ええ加減にしろ。<ruby><rb>大言</rb><rt>たいげん</rt></ruby>よりは、ウィスキーじゃ。ペパミントじゃ」

金博士が、醤に負けないような大きな声を出し、<ruby><rb>怒</rb><rt>おこ</rt></ruby>った<ruby><rb>蟷螂</rb><rt>かまきり</rt></ruby>のような<ruby><rb>恰好</rb><rt>かっこう</rt></ruby>で、<ruby><rb>拳固</rb><rt>げんこ</rt></ruby>で天をつきあげた。

３

博士の例の地下研究所の一室において、白い<ruby><rb>実験衣</rb><rt>じっけんい</rt></ruby>を着た金博士と発明官<ruby><rb>燻精</rb><rt>くんせい</rt></ruby>とが向きあっていた。

二人は、手に手に<ruby><rb>盃</rb><rt>さかずき</rt></ruby>を持っている。

実験台の上には、いろんな形をした洋酒の壜が、所も狭く並んでいる。

博士は盃を唇のところへ持って行き、黄色い液体を一口ぐっとのんで、後はしばらく唇と舌とをぴちゃぴちゃいわせた。

「……ふーん、どうもおかしい。燻精、お前のんでみろ」

「はい」

燻精が盃を唇のところへ持っていった。

「はい、のみました。実にこたえられない、いい酒ですなあ」

「そうかね。わしには、それほどに感じないが……」

「<ruby><rb>博士</rb><rt>せんせい</rt></ruby>、それは先生のお身体の<ruby><rb>工合</rb><rt>ぐあい</rt></ruby>ですよ。どこかどうかしていられるのです。<ruby><rb>糖分</rb><rt>とうぶん</rt></ruby>が出ているとか、熱があるとかでしょう。私には、十分うまいですよ。やっぱりイギリス製のウィスキーだけありますねえ。これは<ruby><rb>英帝国</rb><rt>えいていこく</rt></ruby><ruby><rb>盛</rb><rt>さか</rt></ruby>んなりし時代の<ruby><rb>生一本</rb><rt>きいっぽん</rt></ruby>ですよ。間違いなしです」

「相当にうるさいね、君は」

「いや、<ruby><rb>酔払</rb><rt>よっぱら</rt></ruby>ったんです。これもこの酒の<ruby><rb>芳醇</rb><rt>ほうじゅん</rt></ruby>なる<ruby><rb>故</rb><rt>ゆえ</rt></ruby>です。そこで先生、酒の実験はこのくらいにして、お約束ですから、かねがねお願いしてありました毒瓦斯研究の指導を<ruby><rb>早速</rb><rt>さっそく</rt></ruby>お始めいただきたいのですが……」

「ふん、毒瓦斯研究の件か」

博士は何となく<ruby><rb>不機嫌</rb><rt>ふきげん</rt></ruby>に、盃をがちゃんと台の上に置いて、

「では醤との契約に基き、<ruby><rb>正</rb><rt>まさ</rt></ruby>しく履行するであろう。神経瓦斯について講義をする」

「あ、その神経瓦斯というものなら、既にドイツ軍がエベンエマエル<ruby><rb>要塞戦</rb><rt>ようさいせん</rt></ruby>に使ったということを聞いています。それはもう<ruby><rb>陳腐</rb><rt>ちんぷ</rt></ruby>な毒瓦斯で……」

「ドイツ軍が使ったという話のある神経瓦斯は、<ruby><rb>一時性</rb><rt>いちじせい</rt></ruby>の神経麻痺瓦斯だ。それを<ruby><rb>嗅</rb><rt>か</rt></ruby>いだベルギー兵は、<ruby><rb>恍惚</rb><rt>こうこつ</rt></ruby>となって、しばらく何も彼もわからなくなった。もちろん、機関銃の<ruby><rb>引金</rb><rt>ひきがね</rt></ruby>を引くことも忘れて、とろんとしておった。気がついたときには、<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>にドイツ兵がいたというのだ。これは一時性の神経瓦斯だ。一時性では効力がうすい。これに対してわしが考えたのは、<ruby><rb>持久性</rb><rt>じきゅうせい</rt></ruby>の神経瓦斯だ。これをちょっと嗅ぐと、まず短くても一年間は麻痺している。人によっては三年も五年もつづく。そうなると、その患者はもはや常人として責任ある任務をまかせて置けなくなる。どうだ、すごいだろう」

博士は、ようやく機嫌をとりかえした。

「それは、生理学からいうと、どんな作用をするのですか」

「つまり、脳細胞を電気分解し、その<ruby><rb>歪</rb><rt>ゆが</rt></ruby>みを持続させるのじゃな」

「はあはあ、脳細胞を電解して歪みを持続させる……、それはおそろしいことだ。しかし電解させるというのなら、それは<ruby><rb>怪力線</rb><rt>かいりょくせん</rt></ruby>の一種ではありませんか。毒瓦斯とはいえないでしょう」

燻精師長は、さすがに醤の信任があついだけに、するどく博士に<ruby><rb>突込</rb><rt>つっこ</rt></ruby>む。

「怪力線の如きものでは、ぴりぴりちかちかと来て、相手に知れるから、よろしくない。もっと<ruby><rb>緩慢</rb><rt>かんまん</rt></ruby>なる麻痺性のものでないといけぬ。わしの作った神経瓦斯は、全然当人に<ruby><rb>自覚</rb><rt>じかく</rt></ruby>がないような性質のものだ。<ruby><rb>臭気</rb><rt>しゅうき</rt></ruby>はない、色もなくて透明だ、もちろん味もない、<ruby><rb>刺戟</rb><rt>しげき</rt></ruby>もない。もちろん<ruby><rb>極</rb><rt>ご</rt></ruby>く緩慢な麻痺作用を起すものだから、はじめから刺戟を殺してあるのだ。しかもその後いつまでたっても当人は、瓦斯中毒になっているという自覚が起らないのだ。つまり<ruby><rb>常人</rb><rt>じょうにん</rt></ruby>と殆んど変りない精神状態におかれてあって、しかも脳の或る部分が日と共に完全麻痺に<ruby><rb>陥</rb><rt>おちい</rt></ruby>る。そうなると、たとえば、にこにこ笑って人と話をしていながら、手に握ったナイフで相手の心臓の<ruby><rb>真上</rb><rt>まうえ</rt></ruby>をぐさりと刺すといったようなことを、一向<ruby><rb>昂奮</rb><rt>こうふん</rt></ruby>もせず<ruby><rb>周章</rb><rt>あわ</rt></ruby>てもせず、平気でやる。まあ、そういう最も常人らしい狂人に変質させるのが、わしのいう持久性神経瓦斯の効果じゃ。どうじゃな。君もそういう方向のものを考えてみてはどうかな」

「す、すばらしいですなあ」

燻精師長は、盃を置いて、金博士に抱きついた。

「よせやい、気持のわるい」

と、金博士は燻精を突き放し、

「さあ、もうそれだけのヒントを与えてやれば、お前は醤のところへ帰って、<ruby><rb>早速</rb><rt>さっそく</rt></ruby>発明研究を始めていいじゃろう。さあさあ、とくとく醤の陣営へ戻れ」

「はい。では、引揚げましょう。<ruby><rb>永々</rb><rt>ながなが</rt></ruby>と<ruby><rb>御配慮</rb><rt>ごはいりょ</rt></ruby>ありがとうございました」

「いやなに、たった十分間の講義だけじゃ。しかしあのウィスキーにペパミント百四十函は、授業料としては<ruby><rb>至極</rb><rt>しごく</rt></ruby>やすいものじゃ」

「あれだけの<ruby><rb>夥</rb><rt>おびただ</rt></ruby>しい洋酒を<ruby><rb>捧</rb><rt>ささ</rt></ruby>げても、まだ先生の方が<ruby><rb>御損</rb><rt>ごそん</rt></ruby>をなさいますか」

「それはそうじゃ。<ruby><rb>甚</rb><rt>はなは</rt></ruby>だわしの方が損じゃ。帰ったら醤に、そういっていたと伝えてくれ。しかし神聖なるバーター・システムの<ruby><rb>誓</rb><rt>ちか</rt></ruby>いの手前、こっちでもぬかりなく<ruby><rb>按配</rb><rt>あんばい</rt></ruby>しておいたと、あの醤めにいってくれ。さあ、引取るがよろしかろう」

「はいはい承知いたしました」

燻精には、何やら腑におちかねる点もあったが、今が<ruby><rb>引揚</rb><rt>ひきあげ</rt></ruby>の<ruby><rb>潮時</rb><rt>しおどき</rt></ruby>だと思ったので、博士をいい<ruby><rb>加減</rb><rt>かげん</rt></ruby>にあしらった。着換えをすますと彼は博士の前に出て<ruby><rb>恭々</rb><rt>うやうや</rt></ruby>しく三拝九拝の礼を捧げ、<ruby><rb>踵</rb><rt>きびす</rt></ruby>をかえして、部屋を<ruby><rb>出</rb><rt>い</rt></ruby>でんとすれば、何思ったか金博士は、急にうしろから<ruby><rb>呼</rb><rt>よ</rt></ruby>び<ruby><rb>留</rb><rt>と</rt></ruby>めた。

「ああ、お帰りはこちらだ。この狭い廊下をずっといって、やがて突当ると、自動式の昇降機がある。それに乗って一階へ出なさい。すると<ruby><rb>至極</rb><rt>しごく</rt></ruby>交通に便なところへ出る」

と博士は、壁の<ruby><rb>釦</rb><rt>ボタン</rt></ruby>を押し、壁に仕掛けてあった秘密の<ruby><rb>潜</rb><rt>くぐ</rt></ruby>り戸を開いて、指した。

「ああそれはどうも。こっちに通路があるとは、全く<ruby><rb>存知</rb><rt>ぞんじ</rt></ruby>ませんでした」

「こっちは特別の客だけしか通さないんだ。<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>く誰も通さなかったから、顔に<ruby><rb>蜘蛛</rb><rt>くも</rt></ruby>の巣がかかるかもしれない。手で払いのけながら、そろそろ歩いていきたまえ」

「いや、御親切に、ありがとう」

「どういたしまして。はい、さようなら」

潜り戸を入った燻精師長のうしろで、ぱたんと<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>のしまる音がした。と同時に、博士が扉の向うで、さめざめと<ruby><rb>啜</rb><rt>すす</rt></ruby>り泣くような声を聞いたと思ったが……。

４

南国の孤島において、<ruby><rb>醤</rb><rt>しょう</rt></ruby>委員長は、あいかわらずの<ruby><rb>裸身</rb><rt>はだか</rt></ruby>で、事務を<ruby><rb>執</rb><rt>と</rt></ruby>っていた。例の太い<ruby><rb>附</rb><rt>つ</rt></ruby>け<ruby><rb>髭</rb><rt>ひげ</rt></ruby>はもう見えない。

そこへ燻精が戻ってきた。

「おお帰ってきたか。して、金博士から、すばらしいネタを引き出したか」

「はい、<ruby><rb>持久性</rb><rt>じきゅうせい</rt></ruby>の<ruby><rb>神経瓦斯</rb><rt>しんけいガス</rt></ruby>……」

「<ruby><rb>叱</rb><rt>し</rt></ruby>ッ。これ、声が高い！」

醤は、手の舞い足の踏むところを知らずといった喜び方であった。彼は、燻精の手をとらんばかりにして、彼を<ruby><rb>砂地</rb><rt>すなじ</rt></ruby>の上に立つ<ruby><rb>古城</rb><rt>こじょう</rt></ruby>へ連れていった。

「さあ、ここが毒瓦斯発明院だ。看板も、<ruby><rb>余</rb><rt>よ</rt></ruby>が<ruby><rb>直々</rb><rt>じきじき</rt></ruby>筆をふるって書いておいた」

なるほど、あちこち<ruby><rb>崩</rb><rt>くず</rt></ruby>れている城門に、毒瓦斯発明院の立て看板が<ruby><rb>懸</rb><rt>かか</rt></ruby>っていた。

「発明場は、すっかり用意をしておいたつもりじゃ。余<ruby><rb>自</rb><rt>みずか</rt></ruby>ら案内をしよう」

衛兵の敬礼をうけつつ、御両人は城内に入った。

「敵空軍の目をのがれるため、外観は出来るだけ<ruby><rb>荒</rb><rt>あ</rt></ruby>れ<ruby><rb>果</rb><rt>は</rt></ruby>てたままにしておいた。しかし、あの煙突だけは、仕方なく建てた」

太い煙突が古城の上にぬっと首をつきだしている。

「あれは何ですか、あの煙突は」

「<ruby><rb>試作</rb><rt>しさく</rt></ruby>の毒瓦斯が空高く飛び去るためだ」

「毒瓦斯は元来空気より重きをよしとするのでありまするぞ。煙突から飛び立つような軽い毒瓦斯てぇのはありません」

「いや、その重い毒瓦斯の逃げ路も作っておいた。向うに見える太い<ruby><rb>鉄管</rb><rt>てっかん</rt></ruby>は、<ruby><rb>海面</rb><rt>かいめん</rt></ruby>すれすれまで下りている。重い毒瓦斯は、あの方へ<ruby><rb>排気</rb><rt>はいき</rt></ruby>するんだ。風下はベンガル<ruby><rb>湾</rb><rt>わん</rt></ruby>だ。<ruby><rb>海亀</rb><rt>うみがめ</rt></ruby>とインド<ruby><rb>鰐</rb><rt>わに</rt></ruby>とが、ちかごろ身体の調子がへんだわいといいだすかもしれんが……」

醤が毒瓦斯発明院に対して肩の入れ方は、非常なものだった。燻精は、彼の信頼に十分<ruby><rb>報</rb><rt>むく</rt></ruby>いることが出来ようと自信たっぷりだった。

発明院長に燻精が<ruby><rb>就任</rb><rt>しゅうにん</rt></ruby>して、百三十五名の発明官が、その下に仕事を始めることになった。まず設備を作るのに、三ヶ月かかった。それから燻精の講義が三ヶ月つづいた。

燻精の講義は全くすばらしかった。ときどき<ruby><rb>傍聴</rb><rt>ぼうちょう</rt></ruby>に来る<ruby><rb>醤買石</rb><rt>しょうかいせき</rt></ruby>は、その都度、<ruby><rb>頤</rb><rt>あご</rt></ruby>の先をつねって<ruby><rb>恐悦</rb><rt>きょうえつ</rt></ruby>した。

「ふふふ、洋酒百四十函が、こんなにすばらしい<ruby><rb>効目</rb><rt>ききめ</rt></ruby>があろうとは、すこし気の毒だったなあ」

燻精の指導ぶりは、目のさめるようであった。

<ruby><rb>原動機</rb><rt>げんどうき</rt></ruby>は廻転し、ベルトはふるえ、<ruby><rb>軸</rb><rt>シャフト</rt></ruby>は油をなめまわし、<ruby><rb>攪拌機</rb><rt>かくはんき</rt></ruby>はかきまわし、<ruby><rb>加熱炉</rb><rt>かねつろ</rt></ruby>は赤く<ruby><rb>焔</rb><rt>も</rt></ruby>え、<ruby><rb>湯気</rb><rt>ゆげ</rt></ruby>は白く噴き出し、えらい騒ぎが毎日のように続いた。

そうなると、醤は落ちついていられなくなって、毎日のようにここに足を運んだ。

「おい燻精。まだ例の神経瓦斯は出来ないか。出来たら、余に早く見せてくれ」

「醤委員長よ。今度こそすばらしいものが出来ますぞ。<ruby><rb>瓦斯密度</rb><rt>ガスみつど</rt></ruby>が一・六〇〇〇四です。理想的な密度です。おどろいたでしょう」

「一・六〇〇〇四？　よくわからないねえ」

「精密なること、金博士の製品を<ruby><rb>凌駕</rb><rt>りょうが</rt></ruby>しています。かかる精密なる毒瓦斯は……」

「精密よりも、効目の方が大切だぞ」

「いや、この精密度なくして、あの忍耐力のつよい敵兵を<ruby><rb>斃</rb><rt>たお</rt></ruby>すことは出来ん。あ、また霊感が<ruby><rb>湧</rb><rt>わ</rt></ruby>いた。おおそうか、この毒瓦斯に<ruby><rb>芳香</rb><rt>ほうこう</rt></ruby>をつけるのだ。<ruby><rb>鰻</rb><rt>うなぎ</rt></ruby>のかば焼のような芳香をつけるのだ。<ruby><rb>無臭瓦斯</rb><rt>むしゅうガス</rt></ruby>よりもこの方がいい。敵は鼻をくんくんならして、この瓦斯を<ruby><rb>余計</rb><rt>よけい</rt></ruby>に吸い込むだろう。ああなんというすばらしい着想点だろう！　鰻のかば焼の<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>に焼き鳥の匂い、天ぷらの匂い、それからライスカレーの匂い<ruby><rb>等々</rb><rt>とうとう</rt></ruby>、およそ敵兵のすきな<ruby><rb>香</rb><rt>かおり</rt></ruby>を、この毒瓦斯につけてやろう。なんと醤委員長、すばらしい発明ではないですか」

「なるほど、積極的吸入性のある毒瓦斯じゃな」

醤は、にやりと笑って、燻精院長の手をしっかと握った。

この新製毒瓦斯が、予定の数量だけ出来上ったのは、その年の夏だった。

醤は燻を<ruby><rb>帯同</rb><rt>たいどう</rt></ruby>し、その毒瓦斯をもって、<ruby><rb>突如</rb><rt>とつじょ</rt></ruby>戦線に現れた。

そして朝から時間割を決め、午前七時には鰻の匂いのする神経瓦斯を、午前九時には<ruby><rb>水蜜桃</rb><rt>すいみつとう</rt></ruby>の匂いのする神経瓦斯を、午前十一時には、ライスカレーの匂いのする神経瓦斯をと、用意周到な順序で次々に<ruby><rb>瓦斯弾</rb><rt>ガスだん</rt></ruby>を、敵軍戦線へ向けて撃ちだしたのであった。

その結果は、どうであったか。

醤買石は、生命からがら、<ruby><rb>怒濤</rb><rt>どとう</rt></ruby>のような敵の<ruby><rb>重囲</rb><rt>じゅうい</rt></ruby>を切りぬけて、ビルマ・ルートへ逃げこむという騒ぎを演じた。

燻精の作った新製の毒瓦斯は、<ruby><rb>悉</rb><rt>ことごと</rt></ruby>く無力であった。いや、うまそうな匂いをもって、<ruby><rb>反</rb><rt>かえ</rt></ruby>って敵兵をふるい立たしめるという<ruby><rb>反効果</rb><rt>はんこうか</rt></ruby>があったくらいであった。燻精は、その戦場において捕虜となり、やがて病院に入れられた。

この<ruby><rb>顛末</rb><rt>てんまつ</rt></ruby>を聞いて、からからと笑ったのは<ruby><rb>余人</rb><rt>よじん</rt></ruby>ならぬ金博士であった。

彼は<ruby><rb>唐箋</rb><rt>とうせん</rt></ruby>をのべて、醤買石<ruby><rb>宛</rb><rt>あて</rt></ruby>に手紙を書いた。

“<ruby><rb>謹呈</rb><rt>きんてい</rt></ruby>。どうだ、持久性神経瓦斯の効目は。燻精は、わしのところから出ていくとき、特設の通路内で無味無臭無色無反応の持久性神経瓦斯を吸って戻ったのだ。だから、そちらの陣営に帰りついたころから彼はそろそろ、脳細胞の或る個所が変になりはじめたはずだ。彼の発明製造した毒瓦斯なんか、どうして信用がおけようぞ。おい醤よ、これに<ruby><rb>懲</rb><rt>こ</rt></ruby>りて、今後を<ruby><rb>慎</rb><rt>つつし</rt></ruby>めよ”

なるほど、そうだったか。<ruby><rb>肝腎</rb><rt>かんじん</rt></ruby>の毒瓦斯発明院長の燻精が、金博士のところを<ruby><rb>辞去</rb><rt>じきょ</rt></ruby>するとき、瓦斯通路を歩かされ、すっかり瓦斯患者とされてしまったのを、当人はもちろん醤も気がつかなかったのだ。

この手紙を受け取った醤は、たいへん口惜しがって、豆のような涙をぽろぽろ机の上におとしながら、博士に向って抗議文を書いた。その<ruby><rb>要旨</rb><rt>ようし</rt></ruby>は、

“金博士よ。バーター・システムの取引を承知しておきながら、かの燻精を変質させて送りかえすとは、<ruby><rb>片手落</rb><rt>かたてお</rt></ruby>ちも<ruby><rb>甚</rb><rt>はなは</rt></ruby>だしい。われに<ruby><rb>確乎</rb><rt>かっこ</rt></ruby>たる決意あり。しっかり説明文をよこされよ”

すると、金博士が折りかえし返事して曰く、

“醤よ。身から出た<ruby><rb>錆</rb><rt>さび</rt></ruby>という<ruby><rb>諺</rb><rt>ことわざ</rt></ruby>を知らぬか。燻精を変質させて送りかえしたのは、お前がわしに、表のレッテルとはちがう変質インチキ<ruby><rb>酒</rb><rt>しゅ</rt></ruby>を贈ってよこしたからだ。つまり変質に対する変質の<ruby><rb>応酬</rb><rt>おうしゅう</rt></ruby>である。わしは、バーター・システムの約を忠実に果したつもりである。<ruby><rb>質的</rb><rt>クオリティヴ</rt></ruby>のバーター・システムをね。あのインチキ・ウィスキーは悉く<ruby><rb>黄浦江</rb><rt>こうほこう</rt></ruby>へ流してしまったよ。以後お前とは<ruby><rb>絶交</rb><rt>ぜっこう</rt></ruby>じゃ”

と、博士は手紙の<ruby><rb>端</rb><rt>はし</rt></ruby>に黒々と<ruby><rb>句読点</rb><rt>くとうてん</rt></ruby>をうったのであった。