１

なにがさて、例の<ruby><rb>金博士</rb><rt>きんはかせ</rt></ruby>の存在は、現代に於ける最大奇蹟だ。

博士に頼みこむと、どんなむつかしそうに見える科学でも技術でも、解決しないものは一つもない。雲を呼んでくれと博士にいえば、博士はそこに並んでいる<ruby><rb>壜</rb><rt>びん</rt></ruby>の<ruby><rb>栓</rb><rt>せん</rt></ruby>を<ruby><rb>片端</rb><rt>かたはし</rt></ruby>から抜く。抜けば、壜の中よりは、<ruby><rb>濛々</rb><rt>もうもう</rt></ruby>たる怪しき白い霧、赤い霧、青い霧、そのほかいろいろが、<ruby><rb>竜巻</rb><rt>たつまき</rt></ruby>のような形であらわれ、ゆらゆらと<ruby><rb>揺</rb><rt>ゆ</rt></ruby>れているのを面白がっている間に、いつしか部屋の中は一面の霧の海と<ruby><rb>化</rb><rt>か</rt></ruby>してしまって、そのうちに博士がどこにいるやら、実験台がどこにあるやら、はては自分の<ruby><rb>蟇口</rb><rt>がまぐち</rt></ruby>がどこにあるやら、<ruby><rb>皆目</rb><rt>かいもく</rt></ruby>分らなくなってしまうというようなわけで、結局金博士の智慧を<ruby><rb>験</rb><rt>た</rt></ruby>めそうとした奴の蟇口の中身が<ruby><rb>空虚</rb><rt>から</rt></ruby>と<ruby><rb>相成</rb><rt>あいな</rt></ruby>って、思いもかけぬ<ruby><rb>深刻</rb><rt>しんこく</rt></ruby>な負けに終るのが不動の慣例だった。

「おいおい、ちょっとしずかになったと思ったら、ひどいことを書きおる。わしは<ruby><rb>瓦斯</rb><rt>ガス</rt></ruby>の研究をやっているから、赤い霧、青い霧の話はいいとして、蟇口がどうとかしたというくだりは、どうも人聞きが悪いじゃないか。わしの人格にかかわる」

いつの間にか、私の<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>から金博士が、原稿用紙をのぞきこんでいたのを、私は知らなかった。

そこで私は、ペンを休ませないで、こういったものである。

「金博士、私があれほど教えてくださいと<ruby><rb>懇願</rb><rt>こんがん</rt></ruby>していることに博士が<ruby><rb>応</rb><rt>こた</rt></ruby>えてくださらない限り、私は博士の有ること無いことを書きなぐって、パンの<ruby><rb>料</rb><rt>しろ</rt></ruby>にかえながらいつまでもこの<ruby><rb>上海</rb><rt>シャンハイ</rt></ruby>に<ruby><rb>頑張</rb><rt>がんば</rt></ruby>っている決心ですぞ」

そういって私は、前の<ruby><rb>卓子</rb><rt>テーブル</rt></ruby>に<ruby><rb>噛</rb><rt>かじ</rt></ruby>りつく<ruby><rb>真似</rb><rt>まね</rt></ruby>をしてみせた。

すると博士は、<ruby><rb>人並</rb><rt>ひとなみ</rt></ruby>はずれた<ruby><rb>大頭</rb><rt>おおあたま</rt></ruby>を左右にふりながら、

「はてさて困った男だ。まるで<ruby><rb>蒋介石</rb><rt>しょうかいせき</rt></ruby>みたいに<ruby><rb>攻勢的同情</rb><rt>こうせいてきどうじょう</rt></ruby>を求めるわい。しかしいつまでもわしの部屋に頑張られても困るが、一体<ruby><rb>貴公</rb><rt>きこう</rt></ruby>の教わりたいという事項は、何じゃったね」

「あれぇ、金博士はもうそれをお忘れになったんですか。そんなことじゃ困りますね」

と、私は<ruby><rb>大袈裟</rb><rt>おおげさ</rt></ruby>に<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れてみせて、ひとのいい博士の、急所に<ruby><rb>一槍</rb><rt>ひとやり</rt></ruby><ruby><rb>突込</rb><rt>つっこ</rt></ruby>んだ。

「ああそれは済まんじゃった。はてそれは何のことだったか、ああそうか、殺人光線のエネルギー<ruby><rb>半減距離</rb><rt>はんげんきょり</rt></ruby>のことだったかね」

「いえ違いますよ。博士、私が教えてくださいといったのは、そんなむつかしい数学のことではありません。つまり、文化生活線上に於けるわれわれ人間は、<ruby><rb>究極</rb><rt>きゅうきょく</rt></ruby>なる未来に於て、<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>なる<ruby><rb>生活様態</rb><rt>せいかつようたい</rt></ruby>をとるであろうか？　その答を<ruby><rb>伺</rb><rt>うかが</rt></ruby>いたいと申したのです」

「なんじゃ、もう一度いってくれ。何の<ruby><rb>呪文</rb><rt>じゅもん</rt></ruby>だか、さっぱりわしには<ruby><rb>通</rb><rt>つう</rt></ruby>じない」

「何度でも申しますが、つまり、文化生活線上に於けるわれわれ人間は、究極なる未来に於て、如何なる生活様態をとるものであろうか？　どうです。今度は分りましたろう」

「<ruby><rb>何遍</rb><rt>なんべん</rt></ruby>聞いても、分りそうもないわい。<ruby><rb>結着</rb><rt>けっちゃく</rt></ruby>のところ、やがて人類はどんな風な暮し方をするかということなのじゃろう」

「そうですなあ。まず<ruby><rb>簡単粗雑</rb><rt>かんたんそざつ</rt></ruby>にいうと、そういうところですねえ」

「そうか、そんな質問なら、答はわけのないことじゃ。ピポスコラ族と<ruby><rb>全</rb><rt>まった</rt></ruby>く同じようになる。そして一万年か二万年たてば、われわれ人類にはネオピポスコラ族という名前がつくだろうな」

「ははあ。そのピポスコラ族というのは、何ですか。どこにいる民族ですか」

「それは、今わしがいっても、お前はとても信じないと思うから、いうのはよそう」

「博士、それは<ruby><rb>卑怯</rb><rt>ひきょう</rt></ruby>というものです。今までに民族学や人類学はずいぶん勉強しましたが、ピポスコラ族なんてものは聞いたことがありません。博士は<ruby><rb>出鱈目</rb><rt>でたらめ</rt></ruby>をいっていられるのでしょう」

「<ruby><rb>莫迦</rb><rt>ばか</rt></ruby>なことをいっちゃいかん。<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>も、パルプで<ruby><rb>慥</rb><rt>こしら</rt></ruby>えたあのやすい本なんかには出とりゃせんだろうが、わしは嘘をいっているのではない」

「じゃ説明してください。或いは、私をそのピポスコラ族の前へ連れていってくだすってもかまいません」

「あはははは。うわはははは」

博士は、なぜか大声をたてて、からからと笑いだして、しばらくは笑いが<ruby><rb>停</rb><rt>と</rt></ruby>まらなかった。そのうちにようやく笑いを停めると、こんどは笑いあきたか、急に<ruby><rb>熊</rb><rt>くま</rt></ruby>の<ruby><rb>胆</rb><rt>きも</rt></ruby>を<ruby><rb>嘗</rb><rt>な</rt></ruby>めたようなむつかしい顔になって、

「では、こうしよう。来る八月八日を第一回目として、それから十年<ruby><rb>毎</rb><rt>ごと</rt></ruby>の八月八日に、お前はその日の日記を<ruby><rb>認</rb><rt>したた</rt></ruby>めて、わしのところへ送ってきなさい」

「十年毎の<ruby><rb>間隔</rb><rt>かんかく</rt></ruby>は、ちと永いですね」

「そうでもないよ。そうしてお前が、第八回目の手紙を書くようになったときには、お前は<ruby><rb>否応</rb><rt>いやおう</rt></ruby>なしに、ピポスコラ族に<ruby><rb>出会</rb><rt>であ</rt></ruby>った話を書かなければならないだろう。それまでわしは、ピポスコラ族のことも、又それと同じ生活様態になるわれわれ人類のことについても、<ruby><rb>喋</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>らないことにする」

「まるでお<ruby><rb>伽噺</rb><rt>とぎばなし</rt></ruby>に出てくる人間の姿をした神様の<ruby><rb>台辞</rb><rt>せりふ</rt></ruby>みたいですね。そんなまどろこしいことをいわないで、早く教えてください、一体われわれが遠き未来において、どんな生活をするかを……」

「云わないといったが最後、この金博士は絶対に云わないのじゃ。この上ぐずぐず云うと、この部屋に赤い霧、青い霧をまきちらすぞ」

「いや、それはお許しねがいたい」

私は、蟇口を片手でおさえると、<ruby><rb>脱兎</rb><rt>だっと</rt></ruby>のように、博士の研究室を逃げだしたのであった。

――以上が、金博士に送った第一回の日記、つまりその年の八月八日の私の日記だったのである。

２

第二回目の日記は、それから十年たった十×年八月八日に於ける私の日記であった。これは第一回分のものとは違って、<ruby><rb>大分</rb><rt>だいぶ</rt></ruby>日記風になってきた。以下、これを再録しておく。

十×年八月八日　晴れ

小便に起きたついでに、明り取りの窓から暁の空を<ruby><rb>透</rb><rt>す</rt></ruby>かしてみると、憎らしいほど<ruby><rb>霽</rb><rt>は</rt></ruby>れ<ruby><rb>渡</rb><rt>わた</rt></ruby>った悪天候である。

これでは今日も、<ruby><rb>日本空軍</rb><rt>にっぽんくうぐん</rt></ruby>のはげしい爆撃があるだろうと思って<ruby><rb>憂鬱</rb><rt>ゆううつ</rt></ruby>になったとたんに、ぷーっという<ruby><rb>空襲警報</rb><rt>くうしゅうけいほう</rt></ruby>のサイレンであった。

「うわーっ、つまらない予想が当りやがる」

私は、ぺっと唾をはくと、寝床へとって返した。ベッドの上の衣服と、その<ruby><rb>脇</rb><rt>わき</rt></ruby>に<ruby><rb>吊</rb><rt>つる</rt></ruby>しておいた非常袋を<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>むが早いか、部屋をとびだして、街路を<ruby><rb>駈</rb><rt>か</rt></ruby>けだした。目標の<ruby><rb>市民防空壕</rb><rt>しみんぼうくうごう</rt></ruby>は、五百ヤードの先である。

息せき切って防空壕に<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>りついたはいいが、ふと手を<ruby><rb>頸</rb><rt>くび</rt></ruby>のところへやってみると、<ruby><rb>肝腎</rb><rt>かんじん</rt></ruby>の<ruby><rb>入壕証</rb><rt>にゅうごうしょう</rt></ruby>がない。しまった。<ruby><rb>紐</rb><rt>ひも</rt></ruby>をつけて頸にかけていたが、途中で切れてしまったらしい。といって<ruby><rb>引返</rb><rt>ひっかえ</rt></ruby>してまごまご探していようものなら、足の早い日本空軍の爆撃機は、私の知らぬうちに頭上へ現れるだろう。

私は泣き<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>に<ruby><rb>蜂</rb><rt>はち</rt></ruby>の<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>たらくであった。

「入れてくださいよ。入壕証は、その辺で落として来たんですよ」

「その辺で落として来たんなら、これからいって拾ってくるがいいじゃないか」

「それが……」

役人は意地悪い顔つきで、私を<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>みつけている。<ruby><rb>仕様</rb><rt>しよう</rt></ruby>がない。なけなしの財布の底をはたくより<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>に途がない。

私は、非常袋の中へ手を入れて、五千<ruby><rb>元</rb><rt>げん</rt></ruby>の<ruby><rb>法幣</rb><rt>ほうへい</rt></ruby>を<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>みだした。それをそっと、役人に握らせると、

「今日だけ、一つ頼みます」

「ううん。たった、これだけか。これだけでは……」

「ああ出します。もうこれで<ruby><rb>身代限</rb><rt>しんだいかぎ</rt></ruby>りなんです」

と、私は更に三千元の法幣を掴みだして、かの役人の手に握らせた。

「よろしい。今度だけ大目に見る。この次は二万元以下じゃ、見のがされんぞ」

「へい」

私は急いで、役人の腕の下をくぐって、防空壕の中にとびこんだ。すると、ずんずんずんずずーんと、大きな地響が聞えてきた。もう爆撃が始まったのである。ぐずぐずしていると、防空壕の入口が閉ってしまうところであった。

それが爆撃の皮切りであった。それから、始まって、息をつぐ間もなく、<ruby><rb>爆裂音</rb><rt>ばくれつおん</rt></ruby>が続いた。壕の天井や壁から、ばらばらと土が落ちて、<ruby><rb>戦</rb><rt>おのの</rt></ruby>き<ruby><rb>犇</rb><rt>ひしめ</rt></ruby>きあう避難民衆の頭の上に降った。あっちからもこっちからも、黄色い悲鳴があがる。

中には、案外くそ落着きに落着いている奴もあるもんだと思ったが、私と肩を<ruby><rb>摺</rb><rt>す</rt></ruby>り合わせている青年がいった。

「あの、どどーんという爆裂音と、あのずしんずしんという地響と、この二つを無くすることが出来ないものかな。あれを聞くと、<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>が<ruby><rb>縮</rb><rt>ちぢ</rt></ruby>まる」

「それは無理だと思うね。この<ruby><rb>重慶</rb><rt>じゅうけい</rt></ruby>にいる限り、どうも仕様がないよ」

と私はいった。

「いや、私はまだ対策があると思うんだ。もっと防空壕を深く掘るとか、出入口の<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>を三重四重にするとか、政府が努力するつもりなら、もっといい防空壕が出来る筈だ。そう思いませんか」

「それはそうだね」と私は青年にさからわぬよう<ruby><rb>相槌</rb><rt>あいづち</rt></ruby>をうった。

「とにかくわれわれは、世界中で最も<ruby><rb>勝</rb><rt>すぐ</rt></ruby>れた市民だということを忘れてはいかん」

青年の話が急にかわった。

「え、どうして？」

「え、だってそうだろうが。世界中で、われわれほど毎日のように猛爆をうけている市民はいない。従って、われわれほど、すぐれた防空施設を持ち、<ruby><rb>且</rb><rt>か</rt></ruby>つ防空精神力を持った人間はどこにもいないというわけだ。つまり我々は、日本空軍のおかげで、世界一の防空文化人なんだ。そうでしょうが」

「あ、なるほど、なるほど。しかし、ずいぶん長期戦が続くものですなあ。もういい加減、日本空軍が鉄に困って<ruby><rb>木製</rb><rt>もくせい</rt></ruby>や<ruby><rb>泥製</rb><rt>どろせい</rt></ruby>の爆弾を落としてもいい頃だと思うんだが、相変らず鉄の爆弾を落としとるですが、敵もさるものですなあ」

「いや。もう今日の爆撃あたりには、木製の爆弾を使っているのかもしれないよ」

「でも、木製爆弾なら、あんな<ruby><rb>逞</rb><rt>たくま</rt></ruby>しい音はしないでしょう」

「そうだね。今日の爆弾は音が、悪い……」

といっているとき、大きな音響と共に、目の前が火の海になったかと思ったら、私はそのまま気を失ってしまった。……

今日の日記はこれでおしまいである。なぜなれば、私が気がついたのは、その<ruby><rb>翌朝</rb><rt>よくあさ</rt></ruby>のことであったから、今日の日記としては、気を失ってしまった点々々というところで終りなのである。

３

金博士へ送る第三回目の日記。

前の日記から、また十年たったのである。

二十×年八月八日　晴れ

ラジオは、今朝は空が晴れているとアナウンスした。十年前のころは、夜が明けて、空が晴れていると、空襲があるという予想から、<ruby><rb>晴天</rb><rt>せいてん</rt></ruby>を<ruby><rb>恨</rb><rt>うら</rt></ruby>んだものである。この頃は、晴れていようが、曇っていようが、どっちでも大した<ruby><rb>差違</rb><rt>さい</rt></ruby>はない。どんな日でも、飛行機はとんで来て、正確に爆撃をしていくのだから。

しかしこの頃のように、われわれ市民は、地下へ<ruby><rb>潜</rb><rt>もぐ</rt></ruby>ったきりで、一ヶ月に一度も、地上へ出て空を<ruby><rb>仰</rb><rt>あお</rt></ruby>ぐ機会が与えられていないと、なんだか天気のことなど、<ruby><rb>莫迦</rb><rt>ばか</rt></ruby>くさくて、聞く気になれない。

食事をすませて、第三区行きの地下軌道にのり、会社に出勤した。今朝は、いきなり委員会議だ。

今日の議題は、地下都市の拡張工事について、掘り出した土を、どこの地上に押しだすかということである。うっかりどこにでも出そうものなら、たちまち敵国の空中スパイに発見されて、こっちの新しい地下都市の<ruby><rb>所在</rb><rt>しょざい</rt></ruby>を<ruby><rb>突</rb><rt>つ</rt></ruby>き<ruby><rb>留</rb><rt>と</rt></ruby>められてしまう。

午後三時であったが、会議中、空襲警報が、睡むそうに鳴り響いた。

「またアメリカ空軍が爆撃にやってきたか。御苦労なことじゃ」

この頃の爆撃はラジオのアナウンスだけで、お<ruby><rb>仕舞</rb><rt>しま</rt></ruby>いだから、<ruby><rb>頼</rb><rt>たよ</rt></ruby>りない。地下都市の<ruby><rb>構築法</rb><rt>こうちくほう</rt></ruby>が完全になって、爆弾が落ちても、地響一つ聞えて来ないし、もちろん爆裂音なんか、全く耳にしようと思っても入らない。なにしろ地下都市も、今は百メートルの深さにあるのだから、安心したものである。

そんなことを思っていたとき、だしぬけにものすごい音響が聞え、同時に、壁がぴりぴりと<ruby><rb>震</rb><rt>ふる</rt></ruby>え、天井に長々と<ruby><rb>罅</rb><rt>ひび</rt></ruby>が入った。

「うわーっ、めずらしいじゃないか、爆裂音だ。どうしてこんな地下まで、<ruby><rb>紛</rb><rt>まぎ</rt></ruby>れこんできたのかね」

議長さえ、まだそれほどの<ruby><rb>険悪</rb><rt>けんあく</rt></ruby>な事態の中にあるとは考えないで、爆裂音を身近くに聞いたことを<ruby><rb>興</rb><rt>きょう</rt></ruby>がっている。

だが、時間がたつに従って、一座は、今日の爆撃がたまたま<ruby><rb>地隙</rb><rt>ちげき</rt></ruby>を縫って、深い地下に達したというような<ruby><rb>紛</rb><rt>まぐ</rt></ruby>れあたりのものでないことに気がついたのだった。爆裂音は、次第に大きさを増し、そしてピッチを詰めてきた。

議長が、議案をそっちのけにして、びりびり震動する周囲の壁を見廻した。

「どうも今日の爆撃は変だね。いやに地底ふかく<ruby><rb>浸透</rb><rt>しんとう</rt></ruby>するじゃないか。おい君、対空本部へ電話をかけて事情を聞いてみよ」

議長は私に命令した。

私は<ruby><rb>早速</rb><rt>さっそく</rt></ruby>、対空本部<ruby><rb>附</rb><rt>つき</rt></ruby>の<ruby><rb>漢師長</rb><rt>かんしちょう</rt></ruby>を呼びだした。そして、いつもに似合わしからぬ爆弾の<ruby><rb>深度爆裂</rb><rt>しんどばくれつ</rt></ruby>についてたずねたのである。

すると漢師長は、あたりを<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>るような<ruby><rb>口調</rb><rt>くちょう</rt></ruby>になって、私に云ったことに、

「それは、いつもと違っている筈だ。今日アメリカ軍が使っている爆弾は液体爆弾なんだ」

「液体爆弾？　そんなものは初めて聞いたが、それは一体どんなものかね」

「つまり、アメリカが深い地下街爆撃用にと<ruby><rb>新</rb><rt>あら</rt></ruby>たに作った爆弾で、Ａ種弾とＢ種弾と二つに分れているんだ。まず初めにＡ種弾をどんどん<ruby><rb>墜</rb><rt>お</rt></ruby>とすのさ。すると爆弾は<ruby><rb>土中</rb><rt>どちゅう</rt></ruby>で爆発すると、中からＡ液が出て来て、それが地隙や<ruby><rb>土壌</rb><rt>どじょう</rt></ruby>の<ruby><rb>隙間</rb><rt>すきま</rt></ruby>や通路などを通って、どんどん地中深く浸透してくるのさ。ちょうど<ruby><rb>砂地</rb><rt>すなじ</rt></ruby>に大雨が降ると、たちまち水が地中深く<ruby><rb>滲</rb><rt>し</rt></ruby>みこんでいくようなものさ」

「なるほど。そして、そのＡ液は滲み込むと、爆発するのかね」

「いいや、Ａ液だけでは、爆発はしないのだ。<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>く時間を置いて、<ruby><rb>丁度</rb><rt>ちょうど</rt></ruby>Ａ液がうまく浸みこんだ<ruby><rb>頃合</rb><rt>ころあい</rt></ruby>を見はからって、こんどはＢ液の入ったＢ種弾が投下されるのだ。このＢ液も、さっきのＡ液と同様に、地下深く浸みこんでいくが、どこかで先に滲みこんでいるＡ液と出会うと、そこでたちまち、猛烈な化学反応が起って大爆裂をするというわけだ。おそろしい発明だよ、液体爆弾というやつは」

「ふーん、考えたもんだね。すると、われわれも今までのように、地下百メートルのところにあるからといって安心していられないわけだな」

「そうだよ。おお、君の今いる地区へも、既にＡ液弾が落ちて、今ずんずん地底へ向けて滲みこんでいるという報告が来ている。この上、Ｂ液弾が落ちれば、たいへんなことになるよ。大いに注意しなければいけない」

「大いに注意しろといって、どうするのかね」

「それはね、水はけ――ではない<ruby><rb>液</rb><rt>えき</rt></ruby>はけをよくすることだ。上から滲みこんで来た液は、<ruby><rb>樋</rb><rt>とい</rt></ruby>とか<ruby><rb>下水管</rb><rt>げすいかん</rt></ruby>のようなものに受けて、どんどん流してしまうことだ。しかしＡ液とＢ液とを一緒に流しては、さっき云ったとおりに爆発が起るから、その前に、<ruby><rb>濾過器</rb><rt>ろかき</rt></ruby>を<ruby><rb>据</rb><rt>す</rt></ruby>えつけて、Ａ液とＢ液とを<ruby><rb>濾</rb><rt>こ</rt></ruby>し分け、別々の<ruby><rb>排流管</rb><rt>はいりゅうかん</rt></ruby>に流しこまなければいけない」

「それはずいぶん面倒なことだね。<ruby><rb>急場</rb><rt>きゅうば</rt></ruby>の間に合わないや」

「でも、それをやって置かないと、君たちの<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>に<ruby><rb>係</rb><rt>かかわ</rt></ruby>る」

「生命に係るのは分っているが、もうＡ液は天井のあたりまで滲みこんでいるのに、樋工事を始めたり、濾過器を取寄せたりするわけにいかんじゃないか」

「それもそうだな。じゃあ、仕方がない。ここから君たちの<ruby><rb>冥福</rb><rt>めいふく</rt></ruby>を祈っているよ。<ruby><rb>南無阿弥陀仏</rb><rt>なむあみだぶつ</rt></ruby>！」

「おい、そんな<ruby><rb>薄情</rb><rt>はくじょう</rt></ruby>なことをいうな。おーい、何とか助けてくれ。あ、電話を切っちゃいかん。……」

といっているとき、<ruby><rb>大音響</rb><rt>だいおんきょう</rt></ruby>と<ruby><rb>大閃光</rb><rt>だいせんこう</rt></ruby>とに着飾って<ruby><rb>好</rb><rt>この</rt></ruby>ましからぬ客がわれわれの頭の上からとび込んできたのであった。それ以来、私は<ruby><rb>人事不省</rb><rt>じんじふせい</rt></ruby>となり、全身ところきらわず<ruby><rb>火傷</rb><rt>やけど</rt></ruby>を負ったまま、<ruby><rb>翌朝</rb><rt>よくちょう</rt></ruby>まで<ruby><rb>昏々</rb><rt>こんこん</rt></ruby>と<ruby><rb>死生</rb><rt>しせい</rt></ruby>の間を<ruby><rb>彷徨</rb><rt>ほうこう</rt></ruby>していたのである。

４

それからまた十年たった。

今日は八月八日である。金博士へ対して、約束のとおり、第四回目の日記を送ることになった。次に示すのは、その日記のうつしである。

三十×年八月八日　室内温度、湿度、照明度すべて異状なし　配給も正確なり

本日は、地下千メートルを征服し、現在われわれの<ruby><rb>棲</rb><rt>す</rt></ruby>んでいるこの<ruby><rb>極楽</rb><rt>ごくらく</rt></ruby>地下街建設の満三ヶ年の記念日であるので、ラジオは朝から、じゃんじゃんと楽しい音楽を送ってくる。

あれからもう三年たったか。

われわれ人類も、空爆の<ruby><rb>威力</rb><rt>いりょく</rt></ruby>に<ruby><rb>圧</rb><rt>お</rt></ruby>されて、だんだんと地底深く追いやられたが、初めはせいぜい地下二百五十メートルが人類の生活し得る限度で、それ以上になると、とても暑くて、生活は出来ないし、<ruby><rb>構築物</rb><rt>こうちくぶつ</rt></ruby>ももたないといわれたものであるが、そうかといって、地下四五百メートルにまで達する<ruby><rb>深度爆弾</rb><rt>しんどばくだん</rt></ruby>の<ruby><rb>餌食</rb><rt>えじき</rt></ruby>になるのを待っていられないため、必死の耐熱建築の研究に国立研究所を動員し、<ruby><rb>遂</rb><rt>つい</rt></ruby>に不可能と思われたる難問題を解決し、三年前にこの<ruby><rb>輝</rb><rt>かがや</rt></ruby>かしき極楽地下街の完成を見たわけである。

私は、食事を済ますと、すぐさま<ruby><rb>圧搾空気軌道</rb><rt>あっさくくうききどう</rt></ruby>の<ruby><rb>管</rb><rt>くだ</rt></ruby>の中に入り、三分四十五秒ののちには、記念祝賀会場たるネオ極楽広場の<ruby><rb>人混</rb><rt>ひとご</rt></ruby>みの中に立っていた。

<ruby><rb>梁首席</rb><rt>りょうしゅせき</rt></ruby>の<ruby><rb>巨躯</rb><rt>きょく</rt></ruby>が、<ruby><rb>壇上</rb><rt>だんじょう</rt></ruby>に現れた。

われわれは一せいに手をあげた。

「本日の記念日に際し、<ruby><rb>余</rb><rt>よ</rt></ruby>は何よりも<ruby><rb>先</rb><rt>ま</rt></ruby>ず第一に、敵国の空軍は本年に入って、殆んど新しい飛行機の補充をなさなくなったことを諸君の前に報告するの光栄を<ruby><rb>有</rb><rt>ゆう</rt></ruby>するものである。いや、新機を補充しなくなったばかりか、これまで敵国が保有していた軍用機も、最近一年は、<ruby><rb>壊</rb><rt>こわ</rt></ruby>れ放題にしてある<ruby><rb>始末</rb><rt>しまつ</rt></ruby>である。これ<ruby><rb>乃</rb><rt>すなわ</rt></ruby>ち、わが国が、完全なる防空力を有する<ruby><rb>地殻</rb><rt>ちかく</rt></ruby>及び<ruby><rb>防空硬天井</rb><rt>ぼうくうこうてんじょう</rt></ruby>の下に、かくの如く地下千メートルの地層に<ruby><rb>堅固</rb><rt>けんご</rt></ruby>なる地下街を建設したことによって、敵国は空中よりの爆弾が<ruby><rb>一向</rb><rt>いっこう</rt></ruby><ruby><rb>効目</rb><rt>ききめ</rt></ruby>がなくなったことを確認し、そして遂に、その軍用機整備の縮小を決行するに至った<ruby><rb>次第</rb><rt>しだい</rt></ruby>であります。つまり、われわれが完全に地下に<ruby><rb>潜</rb><rt>もぐ</rt></ruby>ることによって敵の空軍を全然無力化させることに成功したわけであって、これにより、われわれの国家は、いよいよ安全にして健康なる発展を<ruby><rb>遂</rb><rt>と</rt></ruby>げることが約束されたわけである。先ず<ruby><rb>盃</rb><rt>さかずき</rt></ruby>をあげて、今日の大勝利を祝って、乾盃したいと思います。皆さん、盃を……」

私は、<ruby><rb>久振</rb><rt>ひさしぶ</rt></ruby>りに、飲み慣れない酒に酔ってしまって、それから以後のことを、よく<ruby><rb>覚</rb><rt>おぼ</rt></ruby>えていない。

５

それからまた十年たった。

第五回目の日記である。

四十×年八月八日

目が覚めると、今日は何をして退屈を<ruby><rb>凌</rb><rt>しの</rt></ruby>ごうかなと、それがまず気にかかる。

極楽生活は、飲食にも困らないし、着るものも充分だし、<ruby><rb>外敵</rb><rt>がいてき</rt></ruby>の侵入の心配もなし、すべて充分だらけであるが、只一つ困ったことには、来る日来る日の退屈をどうして凌ぐか、これに悩まされる。

ところが今朝は如何なる<ruby><rb>吉日</rb><rt>きちじつ</rt></ruby>か、私は<ruby><rb>不図</rb><rt>ふと</rt></ruby>四十年前に、金博士から聞いた疑問の民族の名を思い出したのであった。

ピポスコラ族！

ピポスコラ族とは、どんな民族なのであろうか。あのときは空襲下に<ruby><rb>戦</rb><rt>おのの</rt></ruby>いていたときであったから、それがどんな族だか調べてみる余裕がなかった。よろしい、今日はあれを一つ古代図書館へいって調べてみよう。私は、<ruby><rb>俄</rb><rt>にわ</rt></ruby>かに元気づいた。

古代図書館に於て、完全に深夜まで暮した。しかしピポスコラ族が何ものであるかは、遂に<ruby><rb>手懸</rb><rt>てがか</rt></ruby>りがなかった。私は更にそのまま、次の<ruby><rb>日暦</rb><rt>にちれき</rt></ruby>の領域に入っても、調べを続けることにした。しかしそれは<ruby><rb>最早</rb><rt>もはや</rt></ruby>八月八日分の日記ではなくなるから、ここで<ruby><rb>擱筆</rb><rt>かくひつ</rt></ruby>する。

６

それからまた十年たった。五十×年八月八日となった。この日の日記は、従来の慣例を破って、遂に金博士の<ruby><rb>許</rb><rt>もと</rt></ruby>へ届けられなかった。そのわけは、政府が突然、全国的に、<ruby><rb>通信杜絶</rb><rt>つうしんとぜつ</rt></ruby>を号令したからである。

その理由は？

その理由は、そのときには何のことだか、全く分らなかったが、それから一年半ほどたって、<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>くぼんやりしたその<ruby><rb>輪郭</rb><rt>りんかく</rt></ruby>だけがわかった。それは<ruby><rb>白人帝国</rb><rt>はくじんていこく</rt></ruby>が、ひそかに<ruby><rb>抱合兵団</rb><rt>サンドイッチへいだん</rt></ruby>をもって、わが国攻略を狙っているという情報が入ったため非常警戒となり、遂に通信<ruby><rb>厳禁</rb><rt>げんきん</rt></ruby>となった<ruby><rb>由</rb><rt>よし</rt></ruby>である。

しからば、その<ruby><rb>抱合</rb><rt>サンドイッチ</rt></ruby>兵団とは、どんなものであるか。それが分っていれば、政府もそれほど<ruby><rb>狼狽</rb><rt>ろうばい</rt></ruby>する必要はなかったのである。分らなかったから、騒ぎが大きくなったのであった。その<ruby><rb>抱合</rb><rt>サンドイッチ</rt></ruby>兵団のことは、次の日記において、初めて<ruby><rb>全貌</rb><rt>ぜんぼう</rt></ruby>が<ruby><rb>明瞭</rb><rt>めいりょう</rt></ruby>となるであろう。

７

六十×年八月八日　最小限生活に追いこまれあり、食慾ことの<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>興奮して、<ruby><rb>治</rb><rt>おさ</rt></ruby>めるのに困難を感ず、非常時ゆえ、仕方なけれど……。

前夜から、われわれは、リュックサックを肩に負い、必死で、<ruby><rb>縦井戸</rb><rt>たていど</rt></ruby>を<ruby><rb>登攀</rb><rt>とうはん</rt></ruby>しつつあるのであるが、老人である私には、腕の力も腰の力も弱くて、一向はかがいかない。一時間もかかって、やっと五メートル登るのがせきのやまである。

しかも、気をゆるめていようものなら、下から上って来た乱暴な市民のため、われは<ruby><rb>邪魔扱</rb><rt>じゃまあつか</rt></ruby>いにされて、まるで壁にへばりついているやもりを叩きおとすように、われ等の身体は<ruby><rb>奈落</rb><rt>ならく</rt></ruby>へ投げおとされるのである。

奈落へ<ruby><rb>墜落</rb><rt>ついらく</rt></ruby>すれば、どっち道、死あるのみである。岩かどに頭をぶっつけるか、そうでなくて死にもせず、元の極楽地下街まで<ruby><rb>墜</rb><rt>お</rt></ruby>ちついたとすれば、そこには白人帝国軍の<ruby><rb>地底戦車隊</rb><rt>ちていせんしゃたい</rt></ruby>が待っていて、たちまち身はお<ruby><rb>煎餅</rb><rt>せんべい</rt></ruby>の如く<ruby><rb>伸</rb><rt>の</rt></ruby>されてしまうのである。であるから、どっちにしても死の<ruby><rb>頤</rb><rt>おとがい</rt></ruby>を逃れることは出来ない。

ああ、今になってぶつぶついっても仕方がないが、どうしてわが当局は、<ruby><rb>抱合兵団</rb><rt>サンドイッチへいだん</rt></ruby>の攻略に気がつかなかったのであろうか。およそ攻撃目標たるわれわれが、敵軍の空中からの爆撃を<ruby><rb>避</rb><rt>さ</rt></ruby>けて地下に<ruby><rb>潜</rb><rt>もぐ</rt></ruby>り、空爆<ruby><rb>更</rb><rt>さら</rt></ruby>に効果なしと分れば、敵軍はこんどは手をかえ、地中深くからわれわれの住居地を攻撃するであろうことは、<ruby><rb>素人</rb><rt>しろうと</rt></ruby>にも分ることではないか。

何を<ruby><rb>今更</rb><rt>いまさら</rt></ruby>、五万台にのぼる敵の地底戦車兵団をわれわれの足の下に迎え、あれよあれよと騒いで間に合うものか。

「市民たちは、<ruby><rb>即刻</rb><rt>そっこく</rt></ruby>地上に避難せよ。地上に出た方が、まだ被害程度が軽いであろう」

そういって、わが護衛司令官は<ruby><rb>布告</rb><rt>ふこく</rt></ruby>をしたが、それもいい<ruby><rb>加減</rb><rt>かげん</rt></ruby>の対策だったことが、間もなく判明した。なぜといって、何十年ぶりかで市民たちが地上へ頭を出したとたん、待っていましたとばかり、敵白人帝国の空中兵団は、われわれ<ruby><rb>同胞</rb><rt>どうほう</rt></ruby>の上へ襲いかかったのである。猛爆、また猛爆、その<ruby><rb>惨状</rb><rt>さんじょう</rt></ruby>は聞くにたえないものがあった。

地底へ下りれば、敵の地底兵団あり、地上へ出れば、敵の空中兵団あり、上と下とからの<ruby><rb>抱合</rb><rt>サンドイッチ</rt></ruby>兵団の攻撃にあっては、われわれは<ruby><rb>上</rb><rt>のぼ</rt></ruby>りも<ruby><rb>下</rb><rt>くだ</rt></ruby>りも出来ず、文字どおり<ruby><rb>進退谷</rb><rt>しんたいきわ</rt></ruby>まってしまった次第である。

「ああしまった」

ああ痛い。とんだ<ruby><rb>愚痴</rb><rt>ぐち</rt></ruby>をのべている間に、私は<ruby><rb>折角</rb><rt>せっかく</rt></ruby>二日がかりで登った八メートルばかりの縦井戸を下に<ruby><rb>滑</rb><rt>すべ</rt></ruby>りおちてしまった。でも<ruby><rb>幸</rb><rt>さいわ</rt></ruby>いに、そこで地下道が水平に折れ曲っていたからそれ以上墜落しないですんだ。もう愚痴はよそう。そして私は、もう上るのも降りるのもよした。もうその気力がない。前途に対する希望は、ここでしずかに<ruby><rb>餓死</rb><rt>がし</rt></ruby>するばかりである……。

と考えこんでいたとき、不意に私の肩を<ruby><rb>突付</rb><rt>つっつ</rt></ruby>く者があった。私はびっくりして目を開いた。すると目の前に、<ruby><rb>逞</rb><rt>たくま</rt></ruby>しい顔の青年が、<ruby><rb>前屈</rb><rt>まえかが</rt></ruby>みになって、私の顔をのぞきこんでいた。

「おお、君は<ruby><rb>洪</rb><rt>こう</rt></ruby>君」

「そうです、洪です。先生、ぐずぐずしていられませんぞ。私と一緒に逃げてください」

「君の親切は感謝するが、もう<ruby><rb>迚</rb><rt>とて</rt></ruby>も駄目だよ。上へ出ても下へ降りても殺されるものなら、ここでしずかにわが生涯を閉じたいのだよ。わしをかまわんで<ruby><rb>呉</rb><rt>く</rt></ruby>れ」

「先生、そんな気の弱いことでは、駄目じゃありませんか。敵の手に<ruby><rb>至</rb><rt>いた</rt></ruby>らず、まだ逃げていくところが残っていますぞ」

「へえ、本当かね。それはどこだね」

「それはつまり、深く地底にも降りず、そうかといって地上にもとびださず、<ruby><rb>丁度</rb><rt>ちょうど</rt></ruby>その中間のところ、つまりサンドウィッチでいえば、パンのところではなく、パンに挟まれたハムのところを狙って、どこまでも横に逃げていくのです。横へ逃げれば、まだ今のうちなら、無限にちかいほど、逃げていく場所があります。そのうち、どこかで落ちついて、<ruby><rb>穴居</rb><rt>けっきょ</rt></ruby>生活を始めるんですよ」

「しかしなあ洪君、横に逃げるといって、穴を掘っていかなければならんじゃないか」

「そうです。穴掘り機械が<ruby><rb>入用</rb><rt>いりよう</rt></ruby>です。ここに私が持っているのが、人工ラジウム応用の長距離<ruby><rb>鑿岩車</rb><rt>さくがんしゃ</rt></ruby>です。さあ、安心して、この上におのりなさい」

「そうかね。それは実に大したもんだ」

と、私は鑿岩車に足をかけ、洪君のうしろの席へ腰を下ろした。そのとき丁度、私のリュックの中で、目ざましが午後十二時をうった。

８

それから十年のち、すなわち七十×年八月八日、私は日記を書く<ruby><rb>代</rb><rt>かわ</rt></ruby>りに、金博士に対して次のような手紙を書いたのだった。

<ruby><rb>炯眼</rb><rt>けいがん</rt></ruby>なる金先生<ruby><rb>足下</rb><rt>そっか</rt></ruby>。まず何よりも、先生の<ruby><rb>御予言</rb><rt>ごよげん</rt></ruby>が遂に<ruby><rb>適中</rb><rt>てきちゅう</rt></ruby>したことを御報告し、<ruby><rb>且</rb><rt>か</rt></ruby>つ驚嘆するものです。

金先生足下。ピポスコラ族には、遂に昨日面接しました。それは全く<ruby><rb>唐突</rb><rt>だしぬけ</rt></ruby>のことでありました。

私は<ruby><rb>洪</rb><rt>こう</rt></ruby>青年と、長距離<ruby><rb>鑿岩車</rb><rt>さくがんしゃ</rt></ruby>にのって、十年ほど前から、<ruby><rb>地中放浪</rb><rt>ちちゅうほうろう</rt></ruby>の旅にのぼりましたが、昨日の昼頃、車を停めてしばし休憩をしていますと、ふしぎにも、地中のどこかで、どすんどすんと地響がするではありませんか。私たちはおどろいて、顔の色をかえました。

私は、遂に敵の地底戦車にとり<ruby><rb>囲</rb><rt>かこ</rt></ruby>まれたのだと悲観しましたのに対し、洪青年は、こんなところに地底戦車隊がいるとは思えないと主張してゆずらず、その<ruby><rb>揚句</rb><rt>あげく</rt></ruby>、遂に洪青年の意に従って、われわれは<ruby><rb>敢然</rb><rt>かんぜん</rt></ruby>、鑿岩車を駆って、<ruby><rb>怪音</rb><rt>かいおん</rt></ruby>のする地点に向け、最後の突撃を試みました。

やがて、一段と大きく岩の<ruby><rb>崩</rb><rt>くず</rt></ruby>れる音とともに、われわれは思いもかけない明るい部屋の中に突入したのです。私は<ruby><rb>愕</rb><rt>おどろ</rt></ruby>きの目をみはりました。そこは大きな<ruby><rb>洞窟</rb><rt>どうくつ</rt></ruby>で、猿とも人ともつかぬふしぎな動物が居合わせました。しかしその動物は別にわれわれに危害を加える様子はありませんでした。

私の<ruby><rb>予</rb><rt>か</rt></ruby>ねて勉強しておいた<ruby><rb>前世古代語</rb><rt>ぜんせいこだいご</rt></ruby>が役にたって嬉しいことでした。彼等は<ruby><rb>自</rb><rt>みずか</rt></ruby>ら、これがピポスコラ族であることを申立てました。彼等は二十万年前に、地中へ<ruby><rb>潜</rb><rt>もぐ</rt></ruby>ったと申して居りました。その当時は、地上や空には<ruby><rb>恐竜</rb><rt>きょうりゅう</rt></ruby>などの恐ろしく大きな動物が<ruby><rb>猛威</rb><rt>もうい</rt></ruby>をふるい、地底深くには<ruby><rb>大土竜</rb><rt>おおもぐら</rt></ruby>（それが退化して今日残っているのが例のもぐらもちです）に攻めたてられ、遂に<ruby><rb>上下谷</rb><rt>じょうげきわ</rt></ruby>まって横に向いて逃げるうち、このところに<ruby><rb>安全洞</rb><rt>あんぜんどう</rt></ruby>を見出して、<ruby><rb>穴居</rb><rt>けっきょ</rt></ruby>動物となり<ruby><rb>果</rb><rt>は</rt></ruby>てたことが分りました。

すべて、金先生の<ruby><rb>仰有</rb><rt>おっしゃ</rt></ruby>ったとおりです。そこで私は洪君とはかり、これから何とかしてこの土地でピポスコラ族にならい穴居生活をつづけることになりました。もしもどこかで、洪君のためによき<ruby><rb>配偶</rb><rt>はいぐう</rt></ruby>が見つかるならば、われわれ人類は、やがてネオピポスコラ族という新しい<ruby><rb>種族</rb><rt>しゅぞく</rt></ruby>をつくり、この地中に、繁栄することでありましょう。