Soranoha

大菩薩峠

だいぼさつとうげ

中里 介山

一

天誅組がいよいよ勃発ぼっぱつしたのは、その年の八月のことでありました。十七日には大和やまと五条の代官鈴木源内を斬って血祭りにし、その二十八日は、いよいよ総勢五百余人で同国高取の城を攻めた日。その翌日、十津川とつがわへ退いて、都合つごう二千余人で立籠たてこもった時の勢いは大いに振ふるったもので、この分ならば都へ攻め上り、君を助けて幕府を倒すこと近きにありと勇み立ち、よく戦いもしたけれど、紀州、藤堂、彦根、郡山、四藩の大兵を引受けてみて、力が足りないのは是非もないことでした。

侍従中山忠光は浪花なにわへ落ち、松本奎堂けいどう、藤本鉄石、吉村寅太郎らの勇士は、或いは戦死し、或いは自殺して、義烈の名をのみ留とどめた――十津川の乱の一挙は近世勤王史の花というべく、詳しく書けば、ここにまた一つの物語を見出されようけれども、それはここに必要を認めず。いよいよ、これらの一味の者が散々ちりぢりになって、或る者は伊勢路へ、或る者は紀州領へ、或る者は大阪方面を指して、さまざまに姿を変えて落ちた後のことであります。

鷲家口わしやぐちの戦いから落ち延びた十一人の浪士が、木にも草にも心を置いて風屋かぜや村というところへさしかかって、

「ああ、水が飲みたい」

「水が欲しい」

村とはいうものの、ここは十津川郷ごうの真中で名にし負う山また山の間です。十津川の沿岸を伝うて行けばなんのことはないのですけれども、四藩の討手うってが、残党一人も洩らすまじと、夜となく日となく草の根を分けている際ですから、それはできませんでした。

大日だいにちヶ岳たけへ連なる山々を踏みわけて、木の繁みを潜くぐり潜り歩いて行くのだから、水にも遠くなる。水、水というけれども、木莓きいちご一株を見つけ出してさえ、十一人の眼の色が変るくらいですから、その腹の応こたえは思いやらるるのです。

「川岸まで戻ってみようか」

眼を見合せて惨澹さんたんたる面かおの色。

「それはよせ、さいぜん鉄砲の音が聞えた。拙者の考えでは、これをずっと向うへ横に切って、紀州の日高郡をめざすが無事だと思う」

「道程みちのりは……」

「風屋――小森――平松――三本磯と行って、紀州日高郡の竜神へ凡そ十三里」

「その間の兵粮ひょうろうは……」

「さあ、それが……」

一同は口を噤つぐんで足が動かない。

「おのおの方、あれを見られよ、煙が棚引たなびいている」

沈んだ声で後ろから言い出したのは、あの時以来、何をしていたか、ともかくここまで傷一つ受けずに来た机竜之助でした。

翠微すいびの間かんに一抹いちまつの煙がある――煙の下にはきっと火がある、火の近いところには人があるべきものにきまっています。

「なるほど、煙が立つ、拙者が様子を見て来よう」

村本伊兵衛というのが出かける。

「よし、我輩わがはいも行こう」

荷田かだ重吉がいう。村本と荷田は連れ立って、その煙の方へ行ってみます。あとの九人は、木の根と岩角いわかどとに腰をかけて、その斥候ものみを待っています。

「諸君、仕合せよし」

村本と荷田は欣々として帰って来て、

「山小屋がある、その中には、猟師と見えるのが、炉ろに火を焚いて、何やら獣の肉を煮ている」

「ナニ、獣の肉を?」

肉と聞いて、うまそうな唾つばが口の中から迸ほとばしるようであった。

「敵の間者かんじゃではないか」

「いや、そうではないらしい、たしかに生はえぬきの猟師と見受けた」

「おしかけろ」

「行ってみろ」

村本と荷田は案内する。九人はそれについて行って見ると、山腹のやや平らかなところを程よくこなして、そこにかなり大きな掘立小屋ほったてごやがあります。

「頼む……」

「うあ……」

中で妙な調子の返事がある、面を出したのはまさに猟師に違いない。ずっと前に、はじめて三輪の藍玉屋あいだまやの不良息子の金蔵に鉄砲を教えた惣太そうたでありました。

惣太は面を出して見ると、都合十一人、筒袖つつそでに野袴のばかまをつけたのや、籠手こて脛当すねあてに小袴や、旅人風に糸楯いとだてを負ったのや、百姓の蓑笠みのかさをつけたのや、手創てきずを布で捲まいたのや、いずれも劇はげしい戦いと餓うえとにやつれた物凄ものすごい一団の人でしたから、

「やあ、お前様方は何だ」

「驚くことはない、これから紀州の方へ通る者だが道に迷うた、暫らく休息させてもらいたい」

「へえ、よろしゅうございます、こんな狭苦せまくるしいところでございますが」

惣太は杉板を三枚合せて綴った戸をあけて、中へ一行を招しょうじ入れたが、気味の悪いことは夥おびただしい。

「お前様方は、あの天誅組のお方様でございますか」

「何でもよろしい、そこを締めろ」

「へいへい」

「さあ、猟師、何か食うものはないか」

「別に何もございません、なにしろ、この通りの山小屋でございますからな」

「それは何だ」

「これは猪ししでございます」

「猪! それは至極しごくよろしい、その猪を売ってくれんか」

「お売り申してもよろしゅうございます」

「よしよし、それでは買おう、鍋もそのままにして、味噌か醤油もあるであろうな」

「エエ、ただいま出して上げまする」

思わぬところで意外の御馳走ごちそう。一行は炉の周囲まわりをかこんで小舎こやいっぱいに拡ひろがって、

「猪の肉とは有難い――猟師、もっと大きな鍋はないか」

「へえ、こちらにございます」

惣太は、いま炉にかけてあったのより、やや大きい三升焚きぐらいの鍋を押入の中から引張り出して、それから上り口へ寝かしておいた猪の股もものあたりの肉を切りにかかった。

「大きなやつだな、この辺には、こんなのがたくさんいるか」

「へえ、大分いるにやいますがね、近頃は戦争で鉄砲の音がやかましいものですから、みんな紀州筋へ逃げ込んで、やっと五日もかかって、こいつを一つ仕止しとめたのでございます」

「そうか、なんにしても有難い、代だいはいくらでも取らせるぞ、早く料理をしてくれ」

「では、こうして丸切りにして、鍋の中へぶち込んで、ぐつぐつ煮立てて進ぜましょう」

「それがよかろう、よかろう」

惣太はよく働いて猪の肉を煮てやります。気味が悪くてたまらないけれども、ぐずぐず言えば、どんな目に逢あうか知れたものでないから、神妙に言われる通りに世話していると、浪士らは寝たり起きたりして肉の煮えるのを待ち構えています。

「おいおい、猟師、黙っていてはいかんぞ、ここに有難いものがある」

磯崎という浪士が、寝ころんでいた自分の枕許まくらもとで見つけ出したのが貧乏徳利びんぼうどくりであります。

「やあ、それを見つけられてはたまりませんな」

「何だ、酒か」

それだけは隠しておきたかった。惣太がいま猪の肉を煮ていたのは、実は取って置きのその濁酒どぶろくを一杯やりたかったからであります。肉の方は、いくらでも御用に立てるが、酒の方はかけ換えがないから、それを見つけ出された惣太は苦にがい面かおをしました。

「うむ、猟師、人が悪いぞ、これを隠して一人でこっそり飲もうなどは不届ふとどきだ……一升はしかと認めた、茶碗を出せ、さあ、おのおの」

肉の煮える間、一升の濁酒は十一人の口を潤うるおしている。

それを傍はたで見ている惣太の顔色はない――惣太が、こんな危ない時世に、山奥へわけ入って猛獣を追い廻しているのも、この一升が生命いのちなのであります。

それをみすみす人に飲まれて、自分は指をくわえながら、料理方を承わっている辛つらさ口惜くやしさというものは容易なものではないのでした。

「猟師、猟師」

肉の煮えた時分に惣太の姿が見えなくなっていました。

「猟師、どこへ行った」

呼んでみたけれども返事がない、一同は少しばかり怪しんだけれども、さして気にも留めず、それから寄ってたかって猪の肉を突く。

「猟師はどこへ行った」

「逃げたかな」

「逃げたようじゃ、逃げて訴人そにんでもしおると大事じゃ」

「いいや、訴人したとて恐るるに足らん、藤堂の番所までは六里もあるだろう、ゆるゆる腹を拵こしらえて出立する暇は充分」

「よし十人二十人の討手が向うたからとて、かくの如く兵糧ひょうろうさえ充分なら、何の怖るることはない」

「とかく戦いくさというものは、腹が減ってはいかん」

「古いけれども、それが動かざる道理」

「それにしても、中山侍従殿には首尾よく目的のところへお落ちなされたかな」

「こころもとないことじゃ」

「十津川を脱ぬけて、あの釈迦しゃかヶ岳たけの裏手から間道かんどうを通り、吉野川の上流にあたる和田村というに泊ったのが十九日の夜であった」

「その通り」

「中山殿はじめ、松本奎堂、藤本鉄石、吉村寅太郎の領袖りょうしゅうは、あれから宿駕籠しゅくかごで鷲家わしや村まで行った、それから伊勢路へ走ると先触れを出しておいて、不意に浪花なにわへ行く策略であったがな」

「彦根の間者が早くもそれと嗅かぎつけて、大軍でおっ取り囲んだ――吉村殿と、安積あづみ五郎殿が一手を指揮して後方の敵に向うている間に、藤本、松本の両総裁が前面の敵を斬り開いて、中山卿を守護してあの場を落ち延びたが、さて危ないことであった」

「そこを落ち延びると、忽たちまち紀州勢が現われて藤本殿はあわれ斬死きりじにじゃ。悼いたましいことではあるが、その働きぶりは、さながら鬼神のすがたであった」

「その日の夕暮、またも行手に大敵が現われて、松本総裁は牧岡氏まきおかうじと池氏とに後を托たくして、中山卿を守りて長州へ落ちよと申し含めて、自身は大敵の中で見事な切死きりじに」

「さてさて、天命是非もなし、我々こうして永らえているも、一いつに中山卿の安否が知りたいため」

「それも、どうやら望みが絶えたわい――」

このなかでは最も重い、組の監察をしていた酒井賢二郎が言い出でた一語は沈痛に響きました。それは絶望の叫びであって同時に覚悟の決定を促うながすように聞えたから、一同は暫らく無言で酒井の面かおを見ていると、酒井は、

「それに比べては僭越せんえつであるが、建武けんむの昔、楠正成卿が刀折れ矢尽きて後、湊川みなとがわのほとりなる水車小舎に一族郎党と膝を交えて、七生しょうまでと忠義を誓われたその有様がどうやら、この場の風情ふぜいと似ているではないか」

「いかにも……」

「もはや、いずこへ落ちたとて袋の鼠、飢え疲れて名もなき者の手にかかり、縄目の恥なんどに遇おうて、先輩や同志の名を汚すはこの上もなき不本意、ここらで落着いて、武士らしい最期さいごを遂げようではないか」

「尤もっとも……」

一同は更に異存がない、異存らしい面色もない。死すべきところに死ななければ、死せざるに勝まさる恥があるということの分別はいずれも人後じんごに落ちないものであったから、彼等は死を争おうとも、それに異議を唱とのうるものが一人もあるべきはずがない。一座が無言にして沈黙の重きに圧おされたのは潔いさぎよき同意の表白であったから、言い出した酒井賢二郎も満足して、

「御同意で忝かたじけない。ただし、これは強しいては申さぬこと、なおまた万死を賭として中山殿の御跡おんあとをお慕い申してみたい者は、そのようになさるがよい、国に残る妻子眷族さいしけんぞくのことが気にかかるものあらば、それもまたお心任せ」

酒井賢二郎は一同を見渡して念を押すと、静まり返った中から、

「いかにも酒井氏の申さるること、道理至極、死すべき時に死せざれば死するに勝まさる恥がある。今はとても中山殿のお跡を慕うこともなり難し、いわんやまた、いまさらに妻子眷族に未練みれんを残す者もあるまい、ここで腹を切るが最上の武士道と存ずる」

水野善之助というのがこう申し出でる。自然これが一同の意志を遺憾いかんなく代表したことになった時に、

「拙者一人だけは――」

ヒヤリと剃刀かみそりで撫でたような言葉。それはさきほどから隅の方に黙々としていた机竜之助の声でしたから、一同の眼先は箭やを合せたように竜之助の面かおに注ぐと、

「切腹は御免を蒙こうむる――」

「何と言わしゃる」

「拙者は、まだここで死にたくないから、一人でなりとも生き残って落ちてみるつもりじゃ」

「死にたくない?」

浪士たちの眼から電いなずまが発するようですけれど、竜之助の眼は少しく冴さえているばかりで、その面は例の通り蒼白い。

「ふーん、死に怯おくれたな」

ほかの浪士は、憤激と軽蔑けいべつの眼を合せて竜之助を見る。

「拙者は死にたくない」

竜之助は冷やかなもの。

「忠義を忘れたか!」

忘れるにも、忘れないにも、竜之助には忠義の心などはないのです。前に申す通り、幕府を助けたいとか朝廷に尽すとかということは、少しも竜之助の胸には響かなかったのです。今、どこへ行っても諸国の浪士が勤王佐幕勤王佐幕で騒いでいるのがばかばかしくてたまらないのでありました。忠義のために腹を切る――楠正成が最期さいごに似たりと浪士らは血を沸かせている間に、竜之助ばかりはどうしてもそんな気分になれないものと見えます。

「机氏」

酒井賢二郎は逸はやる他の連中を抑え、

「貴殿一人は死にたくないと言われる、もとより強しいて死を求むるものではない、しからばこれより落ちるなり、逃げるなり、お心任せになさるがよい、さてその他の諸君」

酒井はまた一座を見廻して、

「申し遺のこすことなどもあらば、最後の思い出に書き給え」

彼等は紙と矢立やたてを持っていました。

もはや、机竜之助の方は誰も相手にしなかった。竜之助が、こんなふうにつむじ曲りの人間であることは、この連中がもうよく呑込んでいるものと見えて、一旦は憤激してみたけれど、今は取合いませんでした。

竜之助は黙って、自分だけは遺書かきおきもしなければ辞世もつくらず、介錯かいしゃくをしてやろうとも言わず、もとより頼もうと言う者もありませんでした。

そのうちに、余の十人は、それぞれ辞世の詩歌、妻子へ申し遺すことなどを書いてしまいました。

水野善之助は、二の腕の創きずをよく結び直しながら、

「宮の御鎧おんよろひに立つ所の矢七筋ななすぢ、御頬先おんほほさき二の御腕おんうで二箇所突かれさせ給ひて、血の流るること滝の如し」

朗々と太平記を口ずさむ、それを荷田重吉が引受けて、

「然れども立ちたる矢をも抜き給はず、流るる血をも拭ひ給はず、敷皮の上に立ちながら大盃おにさかづきを三度傾けさせ給へば、木寺相模きでらさがみ、四尺三寸の太刀の鋒きっさきに敵の首をさし貫いて宮の御前に畏かしこまり……」

木村清太郎は長い刀を抜いてそこへ跳おどり出でて、

「戈鋋剣戟くわえんけんげきを降らすこと電光の如くなり、盤石ばんじゃく岩をとばすこと春の雨に相同じ、然りとはいへども天帝の身には近づかで、修羅しゅらかれがために破らると……」

大塔宮だいとうのみやの昔をしのぶにはちょうどよい土地である。あの時分以来、この十津川郷には南朝忠臣の霊気が残っているはずであります。

二

猟師の惣太は、薪たきぎを取りに出るふりをしてこの小舎こやを逃げ出してしまいました。

十津川の岸へ出て一散いっさんに北へと走はせ下る。

「やれやれ怖ろしいことじゃ、命拾いをしたようなもの。しかしこうなってみると、怖こわいところにまた有難いことがある、あれを藤堂様なり紀州様なりに訴人そにんをすれば、莫大ばくだいな御褒美ごほうびにありつける、占しめ占め」

もう安心と思った時分に、惣太は汗を拭きながら独言ひとりごとを言いました。それでも足の方は休ませずに、なおも流れに沿うて急ぎ下ると忽たちまち行手で人声がする。

「や、また来やがったぞ、待てよ、敵か味方か、ここへひとつ隠れて様子を見てやれ」

岩と木立の間へ惣太は素早すばやく身をひそませると、流れを上ってこちらへ来るのは、都合十人ほどの武士であって、その服装のいかめしいのを見ても落武者おちむしゃでないことは確かです。

「宇津木氏、その机竜之助とやらは、日頃この天誅組の一味に気脈を通じていたような形跡がありましたかな」

「いや左様なことはありませぬ、聞けば江戸へ下る途中、伊賀の上野にて、これらの浪士の一行に加わり、それより吉野へ出で、いったん浪花なにわへ入って、それからまた出直してこの旗上げに加わったように見えまする」

一行の中の大将分と見えるのと話をしているのは宇津木兵馬でありました。

藤堂の討手うってで藤井新八郎というのがこの大将分で、兵馬はその手に加わって、今この山奥深くたずね入り来きたったのは、たしかに鷲家口から逃れた一隊の浪士の中に机竜之助がいると見定めたからであります。藤井新八郎は頷うなずいて、

「この山中へ追い込めばもはや袋の鼠である、いずれへ行っても紀州領、帰れば我々の追手が十重二十重とえはたえ、山中に永く迷いおれば食糧はなし」

こういったような話をしてこの一隊が、心して川の岸を進んで行った時に、

「申し上げます、もしあなた様方は紀州様でございますか、藤堂様でございますか、申し上げます」

岩蔭から転ころがり出した猟師の惣太。一行は屹きっと足をとどめて、従卒は鉄砲の筒を向けてみましたが、用心するほどの者ではない、賤いやしげな木樵きこり山がつの類たぐいがたった一人。

「その方は何者じゃ」

「猟師でございます、惣太という猟師でございますが、ただいま悪者を見つけましたから御注進申し上げます、ただいま、私共の山小舎やまごやへ都合十一人の浪人者が舞い込みましたのでございます」

「ナニ、十一人の浪人?」

「ええ、ただいま、酒を呑み、肉を食って休んでおります」

「よく訴人した、案内せよ」

惣太を先に打立たせ、やがてその山小舎のあたりへ来た時分に、前後の様子を篤とくと見定めた藤井新八郎は、

「惣太」

「へえ」

「気の毒だが、その方の小舎へ火をつけてくれまいか」

「焼くのでございますか」

「そうじゃ、あとで不服のないように普請ふしんをして取らせる」

「よろしゅうございます、焼きましょう」

「しからば、これを持って行け」

新八郎は、腰にさげたやや重味のある袋を出して惣太に取らせる。

「これは何でございます」

「それは火薬である、その方はそれを持って、なにげなき体ていで小舎へ帰れ、気取けどられぬように、小舎を締め切って程よいところから火を出せ、その火を合図に我々が取囲んで、一人も残さず搦からめ取る」

「よろしゅうございます、やってみましょう、ずいぶんあぶない仕事ですが、なあに、やってやれないことはござんすまい」

落武者は十一人と数が知れても、それが死物狂しにものぐるいに荒あばれる時は危険の程度が測られない、新八郎が惣太に火薬を授けたのは、その辺の遠慮から出た計画と見える。

藤堂方の討手は小舎を遠巻きにしていると、惣太は心得て、火薬袋を腰にぶらさげて小舎へ戻って来たが、このとき、小舎の中はもう薄暗い。

「皆様方、帰って参りました」

戸をあけて中へ入ると、

「おお、猟師、どこへ行っていた」

「はい、米が切れたから里へ取りに参りました」

浪士らは、深くも惣太を怪しまぬようでした。惣太はおそるおそる炉の傍へ寄って、

「今、米を炊たいて上げましょうぞ、なんしろ鍋が二つしかございませんから、こいつを洗って、これでお米を炊くと致しましょう」

いま猪の肉を煮ていた鍋を惣太は取り下ろして、提げ出そうとする途端に、腰に下げていた、さっき新八郎から授けられた火薬袋の紐が解けて火薬はドサリとそこへ落ちました。

「猟師、何か落ちたぞ」

「へえ……」

惣太の唇の色が変ってしまいます、鍋を持った手がワナワナと顫ふるえます。

「これはその……」

鍋を下に置いて、あわててそれを拾い取ろうとする挙動があまりに仰山ぎょうさんなので、荷田重吉が不審に堪えず、

「それは何だ」

「これは――ゴウヤクでございます」

「ゴウヤクとは何だ」

「何でもございません」

拾い取ろうとする惣太の手首を荷田が押えて、

「ちょっと見せてくれ」

「ええ……御冗談ごじょうだん」

「貴様、まだ何か隠しているな、ゴウヤクとは何だ、出して見せろ」

荷田も、これが火薬袋とは知らないが、惣太の挙動があまり仰山なので、ついついそれを取ってみる気になると、惣太は面かおの色を失って荷田の手を押し払って、それを拾い取って懐中へ捻ねじ込もうとしますから、いよいよ嫌疑けんぎが深くなるわけです。

「こりゃ猟師、貴様はただいまどこへ行った」

「里へ米を買いに」

「黙れ、この近いところに米を売るようなところはあるまい、貴様は訴人そにんに出かけたな、我々の所在ありかを敵の討手へ知らせに行ったのであろう」

「ど、どう致しまして」

「その袋が、いよいよ以て怪しい」

荷田は力を極きわめて袋を引ったくる、惣太は力任せにそれをやるまじとする、その途端とたんにころがり出したのが炭団たどんほどな火薬二個。

「やあ、これは火薬じゃ」

「おのれ!」

一人の浪士は抜打ちに惣太を斬ろうとする。惣太は絶体絶命で、眼の前に転がって来た火薬を一つ掴つかむや否や、燃え立っていた炉の中へスポッと抛ほうり込みました。

轟然ごうぜんたる爆発。鍋は飛び、炉は砕け、山小屋は寸裂する、十一人のうち、二人即死。面かおを半分焼け焦こがされたの、手の肉をもぎ取られたの、全身に大火傷おおやけどをしたの。肉が飛び血が流れ、唸うめき苦しんで這はい廻る上に火がメラメラと燃え上りました。

「ソレ合図だ」

遠巻きにしていた藤堂の討手は、意外に早く火があがったのを怪しみながら走はせつける。

この場で即死した二人のほか、焼け爛ただれて歩行の自由を失い、藤堂の手で搦からめられたものが一人、あり合う俵や菰こもを引っかぶって逃げ出し、折からの闇に紛まぎれて行方知れずになったものが七人。

しかし、このうち六人はその翌日あくるひ、紀州方面へ逃げて行くところを、紀州勢の見廻りに出会って山の中でつかまってしまいました。

十一人のうち、十人まではこんなことで運命が定まったに拘かかわらず、どうなったかわからないのがたった一人、それがすなわち机竜之助でありました。

三

紀伊の国、竜神村の温泉場で今宵こよいは烈しく犬が吠ほえます。

山村とは言いながら、客には慣れたはずのこの里で、こんなに犬の吠えるのは珍らしいことです。

時はもう秋に入るのであるから、爽さわやかなるはずであるべき天候が、まだなんとなく雲を持って、桶おけの底のようなこの土地を、ひたひたと上から押してくるようなので、湯の客人もなんだか、近いうちに暴風雨あらしでもなければよいがと言っていました。

犬も、それを心配して空に向って徒いたずらに吠えているのかとも思われます。

「犬が吠えてますなあ」

「そうでございます、よく吠えますなあ」

上方かみがたの客と見える頭の禿はげた隠居と、和歌山あたりの商人あきんどと見えるのと、二人で湯槽ゆぶねの中で話していました。

竜神村は、日高川の源、山と山との間、東西二里、南北五里がほどに二三十町ずつを隔てて、八カ所に家がある。その八カ所のうちのここは湯本といって、温泉宿が今では十九軒もある。その十九軒のうちの室町屋むろまちやというのが、この家でありました。

もう少したつと客がドッと多くなるが、今のところは、夏と秋との移り変りであるのと、近国に戦乱があるのと、そんなこんなであまり客はないのです。

「まだ吠えてますなあ」

「あちらでも、こちらでも、吠え立ておるわい、どうしたものじゃろう」

二人の客は湯槽から這い上って、隠居の方は軽石で踵かかとをこすりながら、

「何か、悪い獣が山から出てうせはせんかな、狼か、山犬か、猪ししかむじなか」

「近頃は、トンと左様な噂うわさも聞きませぬ。なんにしても、こう吠えられては物騒ぶっそうでなりませんな」

二人が犬の吠えるのを頻しきりに気にしていると、浴室の戸をガタと開いて、一人の女中が面かおを出し、

「もし、お客様、恐れ入りますが、急にお湯をお上りなすってくださいまし、あの、お調べのお役人が参りましたから」

「ナニ、お調べのお役人が――」

二人は面を見合せて、

「わしらは、別に調べられるような筋はごわせんが……」

湯から上って、もう寝ようとする今時分に事改めて、調べの役人が向うなどとは、今までに例のないことで気味の悪い話です。二人は面を見合せて、

「何でごわすな、いったいお調べというは」

「はい、あの十津川筋とやらから、こちらへ悪者が落ちて参りましたそうで、それがため夜中やちゅうのお調べでございます」

「ああ、天誅組の落人おちうどか」

犬の遠吠えもそれでわかった。

この晩、調べに来た役人というのは仰々ぎょうぎょうしいものでありました。いずれも物の具に身を固めた兵士つわもので、十津川から来たものと、紀州家の兵とが一緒になって、竜神村へ逃げ込んだ天誅組の余類よるいを探そうというのであります。

それがために、温泉宿とお客とは大迷惑で、入浴中を引き出されたり寝込みを叩き起されたり――それが引取ってしまうと、大風の吹いたあとのように、胸を撫なで卸おろしながら床について、やがて、犬の吠えるのも静まり返った時分のことであります。室町屋の帳場で帳合ちょうあいをしていたこの家の若い女房――まだ眉を落さないが、よく見れば、それは、二月ほど前に、初瀬河原から藍玉屋の金蔵につれられて逃げたお豊であることは意外のようで、実は意外でも何でもありません。してみれば、ここはいつぞや金蔵が話した通り、その親たちがはじめた温泉宿である。金蔵は今も見えないし、役人の来た時も出て来なかったから、たぶん不在るすなのでありましょう。

お豊がこうして帳場へ納まっているからには、もう相場がきまったものと見てよろしい――お豊は帳合をしてしまうと、行燈あんどんの火影ほかげに疲れた眼をやって、ホッと息をつきましたが、すぐにまた帳場のわきへ置いた人相書に眼がつきます。さきの役人が置いて行った人相書――もし、これに似た客が来たら遠慮なく申し出でろ、人違いでも咎とがめはないが、届けを怠ると重い罪だと厳きびしく申し渡されたものであります。ざっと見て捨てておいたのを、仕事が済んで、また取り上げて、はじめから読んでみます。

「年齢三十三四――

痩形やせがたの方、身の丈たけ尋常、

顔色蒼白く、

鼻筋通り、

眼は長く切れて……白き光あり……」

お豊はハッとしたのでありましたが、

「甲源一刀流の達人――」

「あ!」

人相書を持った手が顫ふるえたようでしたが、さきに飛ばして読んだ名前のところへ、ひたと眼が舞いもどる。

「元新撰組――机竜之助」

机竜之助……これでよかった。違う。しかし気にかかるは竜という文字……お豊の胸には急に熱鉄が流れるのでありました。

また犬が吠えて、この家の前で足音が止まる。

いま締めたばかりの表の戸をトントンと叩いて、

「もしもし、室町屋さん」

「はい」

お豊は返事をする。

「済みません、夜更けになって」

殿貝とのがいというこの温泉村の世話役の声でありますから、

「ただいまあけますから」

あいにく誰もいなかったから、お豊が立って戸をあけると、殿貝老人が提灯ちょうちんをつけて入って来て、

「今晩は、どうもはや、度々お騒がせ申してお気の毒だが、お内儀かみさん、このお方のお宿をひとつ」

後ろを顧みて老人は、

「十津川からお越しのお武家様でござります」

お豊は愛想あいそよく、

「はい、よろしゅうございますとも、どうぞこれへ」

「さあ、お武家様、どうぞこれへお入り下さいまして」

老人が丁寧に案内すると、

「御免」

と言って入って来たのは、太刀を横たえ、陣羽織をつけた厳いかめしい身ごしらえですけれども、歳はまだよほど若いように見えます。

「あの、これは藤堂様の御家中ごかちゅうでな、どうか御粗相ごそそうのないように」

「見苦しいところでございまして、それにこんな山家やまがのことでございますから行届き兼ねまするが、どうぞごゆっくりお泊りを願いまする……お鶴や、お鶴さん」

お豊は入って来た武士のために敷物を取ってすすめながら、女中を呼び、

「お洗足すすぎを差上げ申して、それからあの、お食事を」

「いや、食事はもう済みました、湯に入れてもらい、直ぐに休むと致しましょう」

若い武士は上あがり端はなに腰かけて草鞋わらじの紐を解く。

「お内儀さん、金蔵どのはまだ帰らぬかな、えらい永逗留ながとうりゅうじゃ」

「まだ二三日は、帰るまいと思われますのでございます」

「そうか。なにしろ近国では、あのような騒ぎ故、早く帰ってくれないと困る」

「左様でございます」

「では、お頼み申しましたよ。それから、あのな、御如才ごじょさいもあるまいが、先刻さっきの人相書、あれはよくよく気をつけてな、何の遠慮はいらぬから、怪しいのが見えたら、早速、わしがところなり組合の衆なりへ申し出てもらいたい……いや、こちらのこのお武家様に直接じかに申し上げてもよろしい、頼みましたぞよ」

「ええもう、委細承知致しました」

この時、若い侍は草鞋を解き足を洗い終る。

「さあ、どうぞ、これへ」

お豊は、さきに立って案内する時、いままでは蔭であった行燈の光でよく見れば、まだ前髪立ちの少年で、これは申すまでもなく宇津木兵馬でありますけれど、お豊は、まだこの人には近づきがなかったのであります。

四

温泉寺の鐘が九ツを打つ。

兵馬は、いま枕について、まず頭にうつるものは、いま自分を案内してくれたこの宿屋の若い女房のことでありました。思いなしか、自分がいったん姉と慕ったお浜の面おもざしにそっくりです。お浜は憎むべき女である。兄の身にとっては、竜之助よりはお浜の方がいっそう罪が重いかも知れぬ――竜之助を憎む兵馬には、お浜はなお悪いものでなければならぬはずですけれど、兵馬にはそれが心から憎くなれないのです。故郷へ帰った時は、よく世話をしてくれて、江戸にいる時は着物を送ってくれたり、土地のみやげを送ってくれたり、よく修行してえらい人になってくれと励ましてくれたこともある。芝の松原で、惨むごたらしい殺され方を見た時、その遺書かきおきを繰返して見た時、不貞の女の当然の報いを眼前に見せられても、なおその女が憎いとは兵馬には思えないで、やっぱり親切な姉の気持が離れないのでありました。

兄の無念を思いやって、歯を咬かみ鳴らす時も、嫂あによめの面影は、やっぱり優しい人にうつる。竜之助を憎み悪にくむ心が火のように燃えても、お浜を慕わしく哀れに思う心は消えないのです。

兵馬は純良な少年である――まだ世の塵ちりにけがれない真白い頭へうつった優しい人の影は、消して消せない、あんな気立てのよい姉上が、なんと心が狂って、竜之助のような奴に欺だまされたことだ。

取返しがつかない、悔やんでも及ばない。兵馬は、これが浅ましくてたまらないのです。憎い者の罪は憎めるけれど、憎めない者の犯した罪はどう憎んでよいかわからぬ。兵馬は常にお浜のために、その罪を憎まんとしてかえってその人のために泣きたくなるのです。

兵馬には、女の心の浅ましさがわからない。けれども要するに、自分の身の廻りの言わん方なき苦しき紛紜ふんうんは、一いつにお浜の心から来ていると、思えば思えるのである。人の一念こそ真に怖るべし、ちょっとした心の狂いは、無限に糸を引いて、それからそれとからみつくものである、その人が亡くなったとて、その一念の糸はなくなるものでない。

今、自分の枕元へ丸い行燈を据すえて、燈心を程よく掻かきなして行ってくれたこの宿の若い女房の姿を思い浮べると、胸から乳へかけて真白な肌に血のかたまりが!

そんなものがあるわけはないが、兵馬は、あの芝の松原の、お浜の酷ひどい殺され方を思いやって身の毛が竦よだつのでありました。

竜神村の夜は静かで、犬も煩悩ぼんのうを忘れて眠るのに、兵馬は思いに募つのることばかり。

お豊は兵馬を二階の座敷へ案内して、廊下を渡って来ましたが、かの人相書のことがどうも気になってならぬ。

帰りがけに、梯子はしごわきの戸締りがほんとうでないから、ちょっと手をかけてみたが容易たやすくは動かないので、一旦あけ直して見ると、眼の下は、夜に眠る温泉村。

夜更けての温泉村の風景は、土地に住み慣れた人をさえうっとりさせる。今は草木も眠る丑三時うしみつどき、竜神八所に立籠めた水蒸気はうすものの精が迷うているようであります。

なんの気もなく空を見れば、鉾尖ほこさきヶ岳たけと白馬しらまヶ岳たけとの間に、やや赤味を帯びた雲が一流れ、切れてはつづき、つづいては切れて、ほかの大空はいっぱいに金砂子きんすなごを蒔まいた星の夜でありました。

東から西に流れる雲、或いは西から東へ流れる雲。それが細長くつづきさえすれば、赤であっても、白であっても、ほかのどんな色でも、色合いにはかまわず、土地の人は一体にそれを「清姫きよひめの帯」と呼びます。

いま、お豊が見たのも、その「清姫の帯」であって、牟婁郡むろごおりから来て有田郡ありたごおりの方へ流れているのであります。

お豊は、この土地へ来て、「清姫の帯」を見るのはこれがはじめてですから、ただ、まあ珍らしく細長い雲と思ったばかりですけれども、もしこの土地に永く住み慣れた人ならば、面かおの色を変えて、戸を立て切り、明朝あすとも言わずに竜神の社へ駈けつけて、祈祷きとうと護摩ごまとを頼むに相違ないのであります。

ことに、東、鉾尖ヶ岳から、西、白馬ヶ岳までつづく「清姫の帯」は、土地の人にいちばん怖れられています。

三年に一度あるか、五年に一度あるか、とにかく、「清姫の帯」が現われることはあっても、この二つの山までつづくということは滅多めったになく、もしそれがあった日には、土地の人は総出で竜神の社へ集まり、お祓はらいをし、物忌ものいみをし、重い謹慎をして畏おそれる。最初にそれを見つけた人は、その歳のうちに生命いのちにかかわる災難があるのだということでありました。

今、土地の人はみんな眠っている。おそらくこれを見たのは、お豊一人であろう――お豊の、そんな言い伝えを知らないことは、この村の今夜のためには平和である。しかし実際は、同じ夜の同じ時に、この怪しい雲を見た者が、この竜神村においてお豊のほかに、まだ一人あるにはあったのであります。

その晩、お豊のほかに「清姫の帯」を見たものというのは、ほかではない、この竜神の社に籠る修験者しゅげんじゃでありました。

この修験者は、三年ほど前から、ここへ来ていました。それがお豊と同じ時刻に水を浴びて、護摩壇ごまだんへ戻る時に、ちょうど、この「清姫の帯」を見たのであります。

竜神の社があるところは、お豊のいる温泉場よりずっと高い――修験者は雲の起るところから終るところを仔細しさいにながめて、その雲がいずれへ流れていずれで消えるかをまでよく見ておいて、それから眼の下に群がる竜神の温泉場を見下ろしたのであります。

日高川の源みなもとが社の下を蜒うねって流れて、村の谷間たにあいをかくれて行く。小半時こはんときも村の方を見下ろしていたが、村では別に誰も騒ぐものがない。それで、修験者は扉をあけて社の中へ入ってしまいます。お豊は、もうずっと前に戸を締めてしまいました。

修験者が扉をあけて社の中へ身を隠してしまった時分には「清姫の帯」は全く消えて、わずかに切れぎれになった笠ほどのが三つばかり、白馬ヶ岳の上あたりに漂ただようのみでした。

仮りにこの「清姫の帯」を、お豊でないほかの村の人が見たことならば、それこそ大騒ぎで、さきの修験者が小半時も村の方を見下ろしていた時分に、ほとんど総出で、この社へつめかけて来ねばならぬはずのところを、今まで来ないくらいだから、誰も見た者はないにきまっています。

そうすれば、誰も知らない間に、怖ろしい災禍わざわいがこの竜神村を襲うて来るに違いない。その災禍の来ない前に、その災禍を鎮しずめる力のあるように信ぜられているのは、この竜神の社の修験者であります。

修験者は、村の人に頼まるれば、村の人のためにあらたかな修法しゅほうをして、風か雨か、火か水か、とにかく、来きたるべき災禍を鎮めてやるに違いないのだけれど、困ったことには、いくら修験者にその力があっても、それを最初に見た村の人から頼みに来なければその法のききめがないということでありました。

さあ、伝説が真実であったら、この村の頭の上に大悪魔が手を出しているわけであります。それを知っているのは修験者一人、知って知らないのはお豊一人――修験者は天地が八つ裂きになろうとも自分からこうとは言い出さぬ。いまや竜神村の安否はお豊の口一つにかかっているはずなのに、そのお豊は怖ろしい言い伝えの前には無智であるだけに、それだけに大胆でありました。「清姫の帯」は念頭になく、ただ人相書が気になって眠れないのでありました。

五

その次の日の宵の口、室町屋の店先には、竜神街道や蟻腰越ありこしごえをする馬子まご駕丁かごかきと、それに村の人などが、二三人集まって声高く話をしています。

「今年も、よくよく御難ごなんな年だ、十津川騒動さえ始まらなければ、こんなことはないのだが、湯の客は少ないし、薬種やくしゅを買いに来る商人も見えず、その上に、今日も明日も厳きびしい落人詮議おちうどせんぎで追い廻される、たまったことじゃないわ」

全くその通りで、十津川騒動の余波を受けた竜神温泉の不景気たらない。

温泉のほかに、この土地では薬種が採れる、瓜うりの根から粉がとれる、名物の檜笠ひのきがさと白箸しろはしとは土地の有力なる物産である、それから山で茸類たけるいがとれる――温泉とこれらの産物によって土地の人は活計を立てているのでありました。戦乱のために湯の客が少なくなっても、直ちに生活にさしひびくというようなことはないが、弱らされるのは天誅組の余類が、この竜神村のどこかに隠れているという嫌疑けんぎで、昨夜から引続いて、探索のあることであります。

世話役は引っぱり出され、人足は駆り出され、宿屋宿屋には厳しいお触れがある――馬子や駕丁もうっかり客を載せられぬ。

「ねえ、お内儀さん、こちらにおいでなさる、藤堂様の御家中だとかおっしゃるお若いお方は、まだお帰りになりますまいね」

これは檜笠作ひのきがさづくりの六助で、店にいたお豊を見て問いかけたのであります。

「ええ、朝早くおでかけになったきり……」

「殿貝の旦那から聞くと、こちらへお泊りになった若いお侍は、あれは敵かたきをさがしにおいでなすったんだとさ」

「敵を?」

「そうですよ、親の仇かたきが天誅組から逃げて、たしかにこの竜神村へ入り込んだといって探しにおいでなすったんだとさ」

「はあ、親の敵、なるほど。まだお若いに豪えらいものじゃな」

「豪いものじゃ。早く見つけ出して、立派に討たせて上げたいものじゃな」

「なるほど、十津川からこの竜神へは、落ちて来そうなところじゃ。しかし竜神といっても、人家はこれ僅かなものにしてからが、あの山、この谷をさがすとしたら容易なものじゃあるまい」

「まあ、当分は御用心のことじゃ。落人じゃとて一人に限ったものでもあるまい、どこにどんな人が幾人かくれていることか、なんにしても今年は災難な年じゃ」

「でもまあ、よく『清姫の帯』がお出ましにならないことよ」

「左様さ、これで清姫様の帯でもお出ましになったら、それこそ竜神村の世の終りだ」

「左様でござんすなあ、清姫様の帯も、もうここ五年がところもお出ましにならぬが、なにぶんにも、このままで無事に済んで下さればなあ」

「いや、もう大丈夫ですよ、清姫様の帯が出るのは、おおかた夏にきまってますからな、もう早や秋の分だから心配はない」

「そうでがすなあ」

しきりに「清姫の帯」、「清姫の帯」という。それが帳場にいたお豊の耳へは妙にひっかかって、今までの無駄話のように聞き捨てておけない気持になりました。

「あの、皆さん」

お豊は帳場の方から言葉をかけて、

「何でございます、その清姫様の帯と申しますのは」

集まっていた無駄話の連中は、一斉にお豊の方を向いて、

「清姫様の帯とは何だとお聞きなさる……なるほど、お前様はこの土地ッ子では無え」

六助はいま更あらためて、お豊が他国人、ついこのごろ来た人であるかのように合点がてんして、

「それでこそ、そうお聞きなさるも無理はない。清姫様というのはね、それ、能狂言にある道成寺どうじょうじ……安珍清姫あんちんきよひめというあの清姫さまでございますよ」

「ああ、そうでございますか」

その清姫ならば、どんな他国者でも大抵たいていは知っている、それはずっと昔のこと。その帯がどうしたとか、こうしたとか、それがわからないことです。

「その清姫様の帯が、どうしたのでございます」

六助は話し好きです。今日は人足に駆り立てられて半日をつぶし、エエあとの半日もつぶしてしまえと、ここで無駄話をしているくらいですから、お豊から因縁いんねんを問われてみれば渡りに舟で、

「それは、こういうわけなんでございますよ」

六助は煙管きせるの皿を掃除にかかった。

「ようございますか、お内儀かみさん……お前さんは江州生ごうしゅううまれとかおっしゃったな。江州女のことは存じませんが、この紀州の女というものは、なかなかその、執念しゅうねんの強いものでございますよ」

「まあ、それは怖こわいことでございます」

六助が、あまり力を入れて話すので、お豊は少し笑いかけると、

「いや、笑い事じゃござんせん、全く以て昔から今まで紀州の女は、執念深いで評判じゃ、いったん思い込むと、それ鬼になった、蛇じゃになった」

六助は額ひたいのところへ指を出して、蛇になった恰好かっこうをして見せますから、なおおかしいので、お豊は、

「ホホ、それでは紀州の娘さんは、お女房かみさんには持てませんね」

「それは男の出様次第さ、なんでもかでも蛇になるというわけではございませんよ」

「そうでしょうとも、そういちいち鬼になったり蛇になったりされてはたまりませんね」

「そうとも、そうとも、みんな男の出様次第なんだよ。つまり、そのくらい執念が強いのだから、可愛がられると、また無茶苦茶に可愛がられる」

「それも危のうございますね」

「ナニ、この危ない方は、ずいぶん危なくなってもよろしいのでございます」

「ハハ、わしらもそんな危ない目に遭ってみたい」

聞いていたものは一度に笑い出したが、六助だけは大まじめ、

「笑っちゃいけない、大事のことだ、つまり男の出様一つで、鬼にもなれば蛇にもなる」

六助の話しぶりで一座に花が咲いたので、六助も得意です。

「お内儀さん、お前さんの前だが、女というものは受身で、男と比べたら一枚も二枚も割が悪い」

「さようでございます」

「女に欺だまされる野郎が多いか、女を欺す男が多いか、そこんところはよくわかりませんがね、なんにしても、欺される野郎は間抜けで欺す男は罪だ」

本問題の帯の説明はどこへか飛んで、六助の序論はなかなか大したものです。

「それが証拠にはね、女に欺された野郎は、どうにかこうにかウダツが上るがね、男に欺された女は、どうもまあ十人が九人まで浮む瀬がないね」

「なるほど」

「だから、怨念おんねんはどうしても女の方に残る、化ばけて出たとか腫はれて出たとかいうのは、大抵は女にきまっている」

「なるほど」

「清姫様などがそれだ。つまり清姫様が悪いのじゃない、男の方が悪いのだ。女に実じつがあるほど、男に実がないのだから、捨てられた女の一念が鬼になったり、蛇になったり、薄情な男にとりついたり祟たたったりする」

「やあ、わしらがうちでも、引っ掻いたり、噛みついたり、毎日、清姫様の祟りでとてもやりきれねえ」

夫婦喧嘩をすることにおいて有名な駕丁かごやの松が茶々を入れる、一同がまたドッと笑い出す。それにもかかわらず六助は大まじめで、

「笑い事じゃない、わたしは実地に、女の怨霊おんりょうというものを見たからそういうのだよ」

「お化けを見たのかい、女の」

「ああ、見たよ、女のお化けを眼まのあたり見届けたことがある」

「どこで見たい、聞きたいね」

「わしが、和歌山の御城下のさる御大家ごたいけに御奉公している時分のこと……」

お化けの話。浮うわついていた者が六助の面かおを見ると、嘘ではない、ホントにお化けを見たような面をしているので、ちょっと茶化しにくいのである。

「その御大家に一人のお嬢様がおありなすった……それはそれは、よい御容貌ごきりょうでな、すごいほどの美しさだ。そのお嬢様が、お年は十九の春……」

六助は、自分で凄すごいような身ぶりをして、せりふにくぎりをつけたが、まるきり芝居気しばいっけで話すのではない。

「紀三井寺きみいでらの入相いりあいの鐘がゴーンと鳴る時分に、和歌浦わかのうらの深みへ身を投げて死んでおしまいなすった」

紀三井寺の入相の鐘の音ねというところに妙に節をつけて――つまり鳴物入なりものいりで話にまた相当の凄味すごみがついた。

お豊は六助の話を、あんまり身を入れては聞いていなかったが、この時、総身そうみに水をかけられるような気持になりました。

聞いていたほかの連中も、なんだかこう、少しものすごくなってくる。

「六助さん、まあ、そんな怖い話はよして、今の帯の謂いわれを聞かして下さいな」

お豊は、言葉をはさんで、和歌山の大家の娘が入水じゅすいしたという怪談を打消そうとしたのでした。

「なるほど、ではそのお嬢様の幽霊話はあとにして、清姫様の帯の謂いわれ因縁いんねんから説き明かすことに致しましょう」

ようやく話は本問題に入るのである。

「まず――紀州牟婁郡真砂むろごおりまさごの里に清次きよつぐの庄司しょうじという方がおありなすったと思召おぼしめせ」

「なるほど」

六助の物語に拍子ひょうしを入れるのは、例の駕丁かごやの松であります。

「その庄司のお嬢様を清姫という――一説にはお嬢様ではない、まだ水々しい若い綺麗きれいな後家ごけさんであったとも申します」

「お嬢様と後家さんでは少し違う」

「なにしろ、人皇にんのう第六十代醍醐だいご天皇様の御世みよの出来事だから、人別にんべつのところに少しの狂いはあるかも知れないけれども、どっちにしても綺麗な女の方に間違いはない。さてここに、鞍馬寺くらまでらの山伏やまぶしで安珍あんちんというのがあった」

「安珍――清姫」

「その安珍がまた、山伏のくせにばかに好い男なのだ、そうして熊野参詣さんけいの道すがら、清姫様のところで一夜の宿を借りたと思いなさい」

「それが間違いのもとだ」

「清姫様が、スッカリこの安珍殿に打込んでしまいなすった。さあ、そこが紀州女の執念で、食いついたら放すことじゃない」

「やれやれ」

「ところが、その安珍殿というのが、この上なしの野暮やぼで、一向いっこうお感じがない、感じないわけでもあるまいが、そこは信心堅固の山伏だ、仏法の手前があるから逃げる、姫様は離れない、寝るから起きるまで、食付くいつき通しで離れない」

「それは大変だ」

「そこで、安珍殿も弱りきって、ぜひなく、清姫様を諭さとして言うことには、わしはこれから熊野権現くまのごんげんへ行く身だから穢けがれてはならぬ、その代り帰りには、きっとお前の望みを叶かなえて上げるから、日数ひかずを数えて待っていて下さいと」

「なるほど」

「そうしておいて安珍殿は熊野へ参詣を済まし、その帰りには、この家の前を笠で面かおを隠して、素早すばやく通りぬけてしまった」

「泊ればよかったに」

「清姫様は蔭膳かげぜんを据すえて待ちに待ち焦こがれておいでなさるが、日限ひぎりがたっても安珍殿の姿が見えない、気が気ではない、門前を通る熊野帰りの旅僧にたずねてみると、その人ならば、もう二日も前にここを通り過ぎたはずだと教えられて髪の毛がニューッと逆さに立った」

「うむ、うむ」

「角が二本……雪の膚はだえにはみるみる鱗うろこが生えて、丹花たんかの唇は耳まで裂けた」

「鬼になった、蛇になった」

「角が生えた、毛が生えた」

「そうして、この日高郡をめざして一散いっさんに安珍殿を追いかけたものだ」

「なるほど」

「それから安珍殿が、道成寺の大鐘の下へかくされる、追っかけて来た清姫様は、もうこの時は本当の蛇におなりなすった、鐘のまわりをキリキリと巻き上げて、尾でもって鐘を敲たたくと、炎ほのおが燃え上る――寺の坊さんたちは頭をかかえて逃げ出したが、程経ほどへて帰って見ると、鐘はもとのままだが、蛇はいない、熱くて鐘の傍へは近寄れない――遠くから鐘を押し倒して見ると、安珍殿はいない、骨もない形もない、ただ灰がちっとばかり残って……」

これで、安珍清姫様の物語のあらすじは一通りわかったから、今度は帯である。

「六助さん、そしてその清姫様の帯というのが、まだどこかに残っているのですか」

「ああ、それそれ、その清姫さまの帯というのは、それとは全く別の話だ。まあ、いま話したようなことは、能狂言を見たり物の本でも見た人は大概たいがい知ってますがね、その清姫の帯というのはこの土地の人に限る、近頃おいでなすったお前さんに、それがわからないのは無理はない」

お豊の聞こうとする本題は、ここまで来てやっと緒いとぐちが解けた。

「それはね、帯というたとて、金襴きんらんや緞子どんすでこしらえた帯ではない、天にある雲のことですよ」

「雲のこと……」

「それだけでは、まだわかりますまいね。なにしろ、それぐらいの執念ですから、この日高川の上、日高郡一帯には、まだ清姫様の怨霊おんりょうが残っているのですね」

「怖いことでございます」

「その怨霊が雲になって、この日高郡の空へ現われる、それ、あちらに見える鉾尖ほこさきヶ岳たけから、こちらに遠く白馬しらまヶ岳たけまで、一筋の雲がずーっと長く引いた時は大変だ、それが今いう、清姫様の帯だ」

「まあ、鉾尖ヶ岳から、白馬ヶ岳まで……」

「そうそう滅多にそんなことはないがね、五年に一度とか、十年目とかに、それが現われる」

「それが現われると、どうなるのでございます」

「それが現われたら、大変だ、この竜神村一帯に大災難が起る」

「それはホントでございますか」

「ホントにも嘘にも、昔からの言い伝えで、その時は、村中の御祓おはらい、御祈祷ごきとう、お慎つつしみをするのだ」

「その雲は夜でも……」

「夜でも昼でも、それが現われたが最後じゃ……それをいちばん初めに見た者が、あの竜神様へお告げ申して、お祈りをする、それを隠してでもいようものなら、その人には、きっと清姫様の怨霊がたたって、生きながら蛇になる」

「そんなことがあるものでしょうか」

「あるかないか、昔からの言い伝えじゃ。お内儀かみさん、お前さんもこの土地に居着いつきなさるものなら、よく覚えておおきなさい、鉾尖ヶ岳から白馬ヶ岳まで一筋の雲……」

六

竜神の社やしろの石段は、数えてみると九十八級あります。

幅が狭いだけに勾配こうばいが急に見える。別に女坂というのはないのですから、お豊はこの石段の上に立って見上げていると、十日ほどの月影が杉の木の間を洩れて、木この下闇したやみでは虫が鳴く。

「おや、お豊ではないか」

「まあ、金蔵さん」

金蔵は旅の姿である、今どこからか帰って来たばかりである。そうしてここへ通りかかったものであります。

「お前、一人でどこへ行くのじゃ」

「竜神さまへ参詣に参りました」

「なんと思って、こんな夜分――まあ信心はどうでもよい、わしと一緒に帰ろう」

「はい……あの」

「お前を喜ばせようと思って、これこの通り和歌山の御城下から、お土産みやげを買い込んで来たわい、さあ、早く一緒に帰りましょう」

金蔵には恋女房である、この女一人を喜ばさんがためにはどんなことでもする、土産をひろげて女の喜ぶ面かおを早く見たい。手をとって連れて帰ろうとするのにも無理はない。

「金蔵さん……」

「何だ」

「わたし、この竜神さまへ心願をかけましたから、どうぞ、参詣をさして下さい」

「心願をかけたと……何か願いがあるのかい、何か不足があるのかい」

「いいえ、そういうわけではありませんけれど、急に信心ごころが出ました」

「そうかい、せっかくの信心ごころを止とめても悪かろう。それでは、わしも一緒に行こう、ついでだから、一緒にこの竜神さまへ上って拝んで行きましょう」

金蔵は何でもお豊の言う通りです。

「けれども金蔵さん、神仏への信心は、ついででは罰が当ります、わたし一人で参りますから」

「なるほど、ついでの信心ごころはよくないかな。それでは、お前の拝むのを傍で見ていよう。さ、手をお出し、手を引いてこの石段を上らせて上げよう」

金蔵は手をとって、お豊を引き上げてやろうとするのです。

「ようございますよ、わたしは一人で参詣をして参ります、人に助けてもらっては信心になりませぬ」

「それもそうだ。それでは、わしはここで待っていよう。早く、いや、ゆっくりでもよい、お前の思い通り信心をしてくるがよい、夜明けまででも、わしはここで待っている」

金蔵は、旗幟はたのぼりを立てる大きな石の柱の下にうずくまって、振分ふりわけの荷物を膝の上に取下ろし、お豊の面をさも嬉しそうに見ています。

「そんなら、待っていて下さい、御参詣をして参ります」

お豊は石段をカタカタと踏んで竜神の社へのぼり行く。金蔵は我を忘れて見上げ見恍みとれていました。

竜神の社には八大竜王のうち、難陀竜王なんだりゅうおうが祀まつってあります。

こんな山奥に竜神を祀ることが、奇妙といえば奇妙である――今を去ること幾百年の昔、この地に竜神和泉守いずみのかみという豪族が住んでいた。その屋敷跡は、今もあるということであります。

竜神の姓はその人以前からあったものか、その人が来て、竜神の社の名によってその姓をつけたものか、その辺はハッキリしません。ハッキリしないところに竜神の秘密がいろいろと附け加えられました。

八大竜王の八という数が、ちょうどこの竜神村の字あざの数と同じことになる、そうして、この湯本ゆもとの竜王社には王の中の王たる難陀竜王を祀ってある、野垣内のがい、湯の野、大熊、殿垣内とのがい、小森、五百原いおはら、高水こうすいの七所に、あとの僧鉢羅竜王そうばちらりゅうおうまでが一つずつ潜ひそんでいるということでありました。

天にもし清姫の帯が現われた時は、遠からずこの八つの竜王が、八所の谷から、悉ことごとく荒あばれ出して、雲を呼び雨を降らす――さればこそ竜神の社は、竜神村八所の鎮しずめの神で、そこに籠こもる修験者しゅげんじゃに人間以上の力があり、一村の安否の鍵がそこに預けられてあるように信ぜられているのであります。

お豊は事実、清姫の帯を見た――聞いてみれば怖ろしいことである。どうやらその怖ろしいものを見たのは、自分一人だけであるらしい。

お豊が今ここへやって来たのは、その修験者に向って、自分の見たところを逐一ちくいち白状するつもりであることに疑いはないのです。

修験者のいる所は本社の右手の高い森の中で、そこまではまだ八町ほどある、そこへ行くまでに大師堂を左にと下れば御禊みそぎの滝があるのであります。

大した滝ではありません。幅が五寸に高さが二丈もあるか、それが岩の間から落ちて一泓おうの池となり、池のほとりには弁財天の小さな祠ほこらがあって、そのわきの細いところから、こっそりと逃げて水は日高川へ落ちる。この池を御禊の池といって、椎しいの木が二本、門柱でもあるかのように前に立って、それに注連しめが張り渡してありました。護摩壇ごまだんへ懺悔ざんげに行くものは、きっとここの滝へ来て、まず水垢離みずごりをとるのが習わしでありました。

それでお豊は、すぐに修験者のいる護摩壇へは行かないで、その大師堂を左にと御禊の滝まで来かかったわけでありましょう。

月もあるにはある、夜も更けたわけではない。それでも、このところ、この道は決して気味のよいものではありませんでした――草叢くさむらでガサと音がする、木の間でバサと音がする。お豊は、もう一歩も歩けないように足をとめたことが幾度いくたび、それでも早や、滝壺に近いところまで来ていました。檜笠作りの六助の口占くちうらを引いて、よく聞いておいたこと――懺悔する前には、水垢離の必要がある、護摩壇へ行く前には、御禊の池をおとずれねばならぬ。

お豊は、その通りにここまで来てみると、もうかなり勇気が出て、注連しめを張った木に手をおいて、中をのぞぎ込んでは四辺あたりを見廻してみました。

人に見られてはいけぬ、人に見せるべきものではない――しかし、そんな心配はてんで無用、ここへは決して人が来ないのである。

お豊は滝の傍へ進んで、かの水が日高川へ逃げて行く弁財天の小さな祠ほこらへ来て、その前で手を合せた。それから静かに自分の締めていた帯を解きかかる。クルクルと帯を解いたが、さて、それを置くべきところがない、草の葉も木の葉も、じめじめと水気がたっぷりで、地の上にも水が滲にじむ。お豊はちょっと当惑したが、すぐに気のついたのは、弁財天の祠の土台のところから根を張って、ほとんど樹身の三分の二を水の方へさし出した一幹ひともとの柳でありました。その柳の、ちょうど程よい枝ぶりのところへ帯をかけて……それから着物と襦袢じゅばんとを一度に……脱ぎかけると、お豊は自分の肌の半身が誰もいない闇の中で、あまりに白かったのに怖れたようでありました。思い切って水に浸つかっているうちに、不思議なもので、お豊は何とも知れない心強さを感じてくるのであります――この冷たい水の中に、尤もっともまだ秋のはじめで、水が苦になる時でないとはいえ、今までの怖ろしかった心が、だんだんに消えて行って、水の肌に滲しみ込む気持が何とも言えぬ清々すがすがしさになってゆくのでありました。

頭の中で、ごっちゃになっていた血の筋が、一すじずつに解けて、すんなりと下にさがって来る、いつまでもこの水につかっていたい――こんな気持になるくらいですから、頭の上の木の梢こずえで怪しげな鳥が啼なこうとも、滝の水が横にしぶいて頭までかかろうとも、とんと気のつかないくらいにまで心が鎮まってゆきました。

こうして後、森の中の修験者へ行って逐一ちくいちにその身の上を語る。雲のことを語る。そうすれば自分は生れ更かわった身になれることのように思われてきました。

その時分、この滝壺へ、また左の方のきわめて細い道、この道を伝わって行っても護摩壇へは行けるのであるが、これはここに籠る修験者のほか滅多めったに通わない細道から、こちらへ徐々そろそろと下りて来る者がありました。

白衣びゃくえを着ていることが闇でもよくわかるから、人間には相違ないが、暗い中を手さぐりで、ようようとこっちの方へ向いて来ます。

そうして、前の弁財天の傍かたわらの、ごく細い道のところまで辿たどって来たのを、よく見ると、手には何やら杖をついて、面は六部ろくぶのような深い笠でかくし、着物は修験者が着る白衣の、それもそんなに新しいものではないこともわかります。

この人は、やっと細道を辿って来たのが、ここはやや平らになったので、杖で行手をさぐりさぐり歩みはじめました。

お豊は、この時も一心ですから、少しもこの人に気がつきませんでした。

七

歩んで来た白衣の人は、しばらく、弁財天の小祠ほこらの傍に棒のように突立っていました。

闇の中に白衣ですから、うすら鮮あざやかというほどによくわかります。

「あれ――」

ようやくに気のついたお豊は狼狽ろうばいしました。

「誰かいる――」

白衣の人は、ほとんど聞えぬくらいの小さな声で呟つぶやきました。

してみると、今までお豊がここにいたことは気がつかなかったので、お豊が狼狽あわてて着物をとりかかろうとしたから、はじめて人のここにいることを感づいたらしいのです。

「誰かいる――」

と小首をかしげた上で、お豊の方に向き直って眼をつけるかと思うと、そうでなく、白衣の人は、そのまま杖で地面を叩き、極めて徐しずかに大師堂の方へ小道を辿って行きます。

お豊は、ホッという息をつき、大急ぎで引っかけた着物の襟えりを直してその人の後ろ影を見送るのでありましたが、やっぱり、これはこの山に住む修験者か山伏のなかの一人――自分が今たずねて行こうとする修験者のお弟子かも知れぬ、或いはその修験者かも知れぬ。只人ただびとではない、里の人でないにきまっているけれど、それにしても困ったことであります。

「水垢離みずごりの現場を人に見られたら、その功力くりきが亡びる」

これは、やっぱり六助がそう言った。

そんなら、たとえ修験者であろうとも、山伏であろうとも、人の眼に触れてしまった上は、もうもう水垢離の信心はフイになった――お豊は気が抜けたが、急に腹立たしさが込み上げて来ます。帯を結びながら、その白衣の男のあとを睨にらまえて歯噛はがみをしたのでした。水につかっていた時の心強さも清々すがすがしさも無残に塗りつぶされた業ごうのつきない身体からだ。清浄に返る懺悔を妨げに来た天魔と、白衣の人を、お豊としては怖ろしいほどの形相ぎょうそうで見つめていると、気のせいか、その笠から洩れる背丈せたけ、恰好かっこう、ことに肩つきや、身の聳そびえ、たしかに覚えのある姿であります。

この時、お豊の頭脳あたまのなかにきらめいたものは、ほかでもない人相書。あの人相書のことを忘れていたのは、いま水につかっていた間ぐらいのものです。

その、背丈、恰好、肩つきや、身の聳えを見て、俄然として醒さめ来きたったお豊の眼に展開さるるは机竜之助。いや、机竜之助の名は知らない、その変名の吉田竜太郎で、頭蓋あたまの上から踵かかとの下まで貫くほどに覚えている。

お豊は、二足三足、小走りにして、追いかけたくらいでしたが、

「もし――」

「ナニ……」

先へ行く白衣の人は、お豊に呼びかけられて、すっくと立ってしまいました。

「あの、あなた様は……」

お豊は、白衣の人の突いた杖にすがるほどに近寄って、下から笠の中をのぞき込むくらいに見ましたが、

「護摩壇ごまだんの修験者様ではござりませぬか」

吉田とも竜太郎ともたずねてみなかったのは、もう一ぺん、声音こえを聞いてみたかったからです。

「いいや、修験者ではない」

もう充分である、修験者でなくてもよい、誰でなくても、その声の持主であればよいのである。

「それでは、あの吉田様……」

「吉田?」

かぶっていた笠がこころもち揺ゆらぎます。

「竜太郎様――」

「竜太郎?」

「あの三輪の植田丹後守様においでになった――」

「三輪の植田丹後守?」

「間違いはござんすまい」

お豊は、その白衣の袂たもとに縋すがらんばかりに取付いたのでしたが、白衣の人は動かず。

「違う、拙者は吉田竜太郎とやら、そんな人は知らぬ」

「まあ、知らぬとおっしゃいますか――」

疑うべからざるものを疑う、お豊は、しばし取付端とりつきばに迷いました。

「そなたは女子おなごのようじゃが、誰じゃ、どなたでござる」

「お忘れになりましたか、豊でございます。三輪の薬屋におりました……」

「豊……お豊……」

白衣の人の姿勢はこの時くずれた。

「うむ、その声に違いはないようじゃ、珍らしいところで会った」

「ああ、左様でござんしたか」

お豊は、その人にすがりつくように身をその足許あしもとに投げたのを、白衣の人、すなわち机竜之助は、徐しずかにその手で受けたが、二人が面かおを見合すべく、木この下闇したやみは暗いし、よし日と月がかがやき渡っても、竜之助はおそらく昔の眼でこの女を見ることはできまい。

「まあ、あなたは……」

お豊は何から言い出して、あの驚き、喜び、つづいて来る怖れを表わそうかを知らないのであります。

竜之助は、よりかかるお豊の身を両手に受けたが、何を思ったか、遽にわかに振り放つようにして、

「危ない、このまま別れよう」

背を向けて、そうして杖で徐しずかに地を叩いて歩み出そうとします。

「どうぞ、お待ち下さい」

お豊は、あわててその袂を捉とらえて、

「なぜ、そのように情つれなくなさいます、あなた様のお身の上もお聞き申さねばならず、私の身の上もお話し申し上げねばなりませぬ」

それでも竜之助は振返らない。

「いや、こうしているのはあぶない、拙者の身も、お豊どの、お前の身も」

相変らず寒の水が石を走るような声です。けれども、その冷たい声が今以てお豊の腸はらわたに沁しみ込むようです。

「それはよく存じておりまする。あの、あなた様は十津川からこちらへお落ちなすったのでございましょう」

「うむ――」

「そうして、あの、あなた様のお名前は、吉田竜太郎さまではございますまい」

「…………」

「机竜之助様とおっしゃるのでございましょう」

「それが、どうして知れた」

「もう、人相書が廻っておりまする」

「人相書が?」

「紀州のお役人や、藤堂様のお侍などが、毎日、あなた様をたずねておりまする」

「それ故、あぶないと申すのじゃ」

竜之助はまた杖を取り直します。

「まあ、待って下さい」

お豊は竜之助の行手にふさがるようにして、

「それに、あの、あなた様を兄の仇じゃと申して覘ねらっているお方がありまする」

「兄の仇? そんなことは……」

なんと言っても動かない声で、ふっつりと言い切って、行こうとする方へ歩み出すのを、お豊は、その杖を奪うようにして、

「竜之助様、あなたは、あの時のお約束をお忘れはなさりますまい、わたしをつれて、江戸へ落ちて下さるあのお約束をお忘れはなさりますまい、あの時のお約束通り、江戸へつれて逃げていただきたいのでございます」

「江戸へ逃げたい?」

竜之助の面かおの表情は、笠でまるきり知れないけれども、その声は、キリキリと厚い氷を錐きりで揉もみ込むような鋭い嘲あざけりをも含んでいるのであります。

「わしと江戸へ逃げたい? お豊どの、お前は亭主持ちのはずじゃ」

「ええ……」

お豊は竜之助の前へその事情を自白しようとするところでした。それをどうして竜之助が知っていたのか、先せんを打たれて驚き且かつ狼狽しました。

「それは余儀ない事情でございます……」

「余儀ない事情?」

「あなたは、あなたには、わたしの心がわかりませぬ……」

「わからぬ」

「どうぞ、下にいて、ここへおかけなすって、わたしの苦しい事情をお聞き下さいまし」

お豊は手近の岩の上を払って、竜之助の手をとってそこへ腰をかけさせて、

「竜之助様、おっしゃる通り、わたしはいま亭主持ちでございます……この温泉宿の金蔵というのが、わたしの夫でございます……その金蔵というのは、西峠の原で、わたしたちに鉄砲を打ち掛けた悪者でございます、その悪者のために、わたしは自由にされているのでございます……口惜くやしゅうございます。それはみんな、伯父のためや、植田様のためでございます。わたしが自由にならなければ、あの乱暴者は伯父様や植田様まで鏖殺みなごろしにし、三輪の町を焼き亡ぼすと言っているのでございます……竜之助様、どうぞ、人のために忍びきれない恥を忍んでいる私をかわいそうだと思って下さいまし、一目、わたしを見てやって下さい、わたしにも、あなたのお面かおを見せて下さいまし」

「見えない、見えない」

竜太郎は面をそむけて、

「拙者の眼は見えない」

「エエ!」

お豊は、それを真事まこととして聞かなかったが、この時、

「お豊――お豊――」

遥かに呼ぶ声は、階段の下に待たしておいた金蔵の声であります。

八

宇津木兵馬もまた、この夜、宿を出て、ただひとりこの竜神の社内へ出て来たのであります。

今日で、この地に留まること三日、まだ机竜之助の在所ありかがわからない。

十津川で山小舎やまごやが爆発した後、中にいた十人の浪士の運命は悉くきまったけれども、竜之助一人の行方だけがわかりませんでした。しかし、落ち行くところは必ずや紀州竜神――竜神は昔から落人おちうどの落ち行くによい所であります。

源三位頼政げんざんみよりまさの後裔こうえいもここに落ちて来た。熊野で入水じゅすいしたという平維盛たいらのこれもりもこの地へ落ちて来た。ずっと後の世になっても、乱を避け世を逃れた人の言い伝えが土地の古老の話に聞くと幾つも残っているのであります。

兵馬は十津川から追いかけて来る間、山中の杣そまに聞くとこんなことを言いました――ある夜、一人の武士が、この山間やまあいの水の流れで頻しきりに眼を洗っていた。最初は水を飲んでいるのかと思って、よく見たら、幾度も幾度も眼を洗っていたのであった。杣と聞いて安心し、竜神へ出る道をよくたずねて、覚束おぼつかない足どりで出かけて行った……

たしかにそれ。そうしてどこかに負傷している。眼を洗っていた――かの火薬の烟に眼を吹かれたのでもあろうかと、兵馬は直ちに想像しました。

兵馬はこれに力を得て、息もつかず竜神まで追いかけ、さまざまの人の手を借りて、今日まで三日さがしたけれども、更にその行方が知れないのであります。

竜神八所を隈くまなく探すというのは容易なことではないが――これより遠くへは落ちられないわけがあるから、兵馬は必ずや、この附近で竜之助を見出し得るものと思うています。

そうしてかの七兵衛は、お松をつれて近いうち、ここへ来るはずになっていました。

兵馬は、尋ねあぐんでもなお気を落さない。今宵も、この境内を抜けてみようとするのは気散きさんじのためのみではありませんでした。

「お豊、おお、そこにいたか」

といって、いま思案に耽ふけりながら神社の境内を歩いて行く兵馬を、階段の方から呼びかけたものがありました。見れば、旅の風なりをした若い町人です。

「おや、これは違いました。はて、お豊はどこへ行ったろう」

その旅の男は、兵馬を尋ねる人でないと知って、手持無沙汰てもちぶさたにあちらへ摺すり抜けてしまいます。

兵馬は、それに拘かかわらず、社内の奥をめざして行こうとして、ちょうどかの大師堂の方へ足をはこぶと、その細道から、意外にもまた一つの人影が出て来ました。それは女でありました。

「おや、宇津木様ではござりませぬか」

女の方から言葉をかけたので、

「おお、これは室町屋の御内儀ごないぎ」

その女はお豊でありました。

「どちらへお越しでございます」

「いや、どこというあてもなく、この社内をぶらぶらと、あの奥の森の方まで行ってみようと思います」

兵馬が指したのは、護摩壇ごまだんのある修験者の籠る森のことであります。

お豊は、やはり森の方を見上げて、急に不安の色が面おもてにかかり、

「あの護摩壇へでございますか。あれは、あそこへは、おいでにならぬがよろしゅうございます」

「何故に?」

「あれは、この土地で、きつい信心をなさる修験者がおりまして」

「修験者が?」

「はい、その修験者が、あれで護摩を焚たいておいでなさいます。それ故、あそこへはおいでにならぬがよろしゅうございます」

「修験者が護摩を焚いているから行くなと言われるか」

「はい」

「修法しゅほうの邪魔さえ致さねば、近寄っても苦しゅうはあるまいと思う」

「いや、それがこの土地の習いで。強たってあなた様があれへお越しになりたいと思召おぼしめすなら、これから少し参りますると、御禊みそぎの滝というのがございます、その滝壺で水垢離みずごりをおとりになって、その後でなければあれへ参れぬことになっておりまする」

「水垢離をとった上で?」

兵馬は小首を傾けて、

「それほどまでにして信心にも及ぶまい」

彼は、その護摩堂へ行くことを思い止ったものらしい。

お豊は挨拶をして、かの階段を下りて行きました。

兵馬は、またそぞろ歩きをはじめたが、ふと思うよう、あの女は、たった一人で何しに、この淋しいところへ来たものであろう――さいぜんの自分を呼びかけた旅の男は、お豊、お豊と、女の名を呼んでいた、或る種の女にはよくある迷信じみた信心から、ここへ夜詣よまいりに来たものであろう。

兵馬はこんなことを考えて、社殿の前へ来ました。そこで社殿の背後を見上げるとかの護摩壇の森。そこへは、行ってはならない、行かないがよいと戒いましめられてみると、どうも、それだけに不思議があるようだ。そうだ、自分が、この附近で、まだ足を踏み入れぬのはあの護摩壇の森――よしよし、なにほどのこともあるまい、上ってみよう。

兵馬は一文字に森をめがけて進んで行くのでした。無論、かの御禊の滝の水垢離などには頓着せずに――

九

机竜之助が隠れているところこそ、その護摩壇のうしろでありました。

それを隠しておくのは、かの修験者であります。

「御浪人、眼はどうじゃ、眼は」

窓を隔てた次の間から、修験者は、この世の人でないような声で尋ねてみると、

「うむ、よくない、だんだん悪くなるようじゃ」

机竜之助は、肱ひじを枕に、破れた畳の上に身を横たえて、傍かたわらには両刀を置いて、こう答えたが、燭台の光で見ると、例の蒼白い面かおがいっそう蒼白く、両眼は閉じて――左の眼のふちにはうっすらと痣あざがある。

「それはいかん、滝の水で洗うて来たか」

修験者は言う。竜之助は答えて、

「さいぜん、滝まで下って行った、どうやら人がいるようだから、やめにして帰って来た」

「ナニ、人がいた? 滝に人がいたか」

「うむ、一人の女が滝を浴びていた」

「女が? 滝を?」

修験者は言葉をきって、何やら考えているようです。

「修験者殿、雨が降って来たようじゃな」

「左様、雨じゃ」

「なんとなく、木の葉も騒ぐようだ、風も出て来たと見ゆるわ」

「おお、風も出て来た」

しばらく静かであって、室外はポツリポツリと雨の音がする、サーッと風の騒ぐ音もする。

「さて、修験者殿……」

竜之助は、やや改まった声で、

「いつまでもこうして御厄介ごやっかいになってはおられぬ、拙者は立退こうと思う」

「待て待て、その眼を充分に癒なおしてからにするがよいぞ」

「治なおるかよ、この眼が」

「治る、信心一つじゃ」

「うむ――」

竜之助は、また黙った。

「しかし、その信心ができぬ。拙者にはこうなるが天罰じゃ、当然の罰で眼が見えなくなったのじゃ、これは憖なまじい治さんがよかろうと思う」

竜之助は独言ひとりごとのように言う、修験者はこれについて返事がない。竜之助が独言のように言った時は、修験者はもう護摩壇に上っていて、それを聞かなかったものらしい。

「眼は心の窓じゃという、俺の面から窓をふさいで心を闇にする――いや、最初から俺の心は闇であった」

竜之助の面には皮肉な微笑がある。窓の外の闇はいよいよ暗くして、雨は相変らずポツリポツリ、風もザワザワと吹いている。

心の闇に迷い疲れた竜之助は、こうしたうちにも、うつらうつらと夢裡ゆめに入る。

ちょうどこの時分は、金蔵とお豊も室町屋へ帰っていようし、宇津木兵馬は、お豊の言い分も肯きかず、このほとりへ上って来たはずであるが、雨に恐れて引返したことであろうと思われる。

竜之助は肱ひじを枕に夢に入る――

「おお、何を泣いている、お前はどこの子じゃ」

いたいけな男の子、道の真中に立ち迷うて、さめざめと泣いているのを、竜之助は傍に寄って、その頭を撫なでながら、

「泣くでない、お前はよい子じゃ」

竜之助の眼はハッキリとこの子供を見ることができるのを、自分ながら不思議に堪えないで、

「もう、日も暮れる。さ、わしが送って行って上げる、お前の家はどこじゃ」

「坊には家がない……」

子供はしゃくり上げて言う。

「家がない? では、お父さんはどこにいる、父親は……」

「知らない……」

子供はやっぱり面かおを上げないのです。

「知らない? お母さんは、母親はどこにいる」

「知らない、知らない」

「はて、お前には、家もない、父も母もないのか」

竜之助は、この迷子まいごを、どのように扱うてよいのか当惑して、空むなしく頭を撫でながら、

「坊や、では、どうしてお前はここへ来た、誰につれられてここへ来た」

「知らない……」

「困ったな、この夕暮に、この淋しいところへ子供をひとり捨て置いて……よしよし、拙者わしが里まで連れて行って上げよう、さ、おじさんに抱かれてみろ」

「いやだ、おじさんは怖こわい」

「怖い? 怖いことはありはせぬ、さあ、このおじさんが里まで抱いて行って上げる」

「いや! 坊は、おじさんは嫌いじゃ」

「嫌い? では誰がよいのじゃ」

「与八さんが好き。与八さんが来るまで坊は、ここに待っている」

「ナニ、与八さん?」

竜之助は、この声を聞いて身の毛がよだつようになります。

「坊や、お前の名は何というのだ……うむ、名前は忘れはすまい、言ってごらん」

「坊の名は郁太郎いくたろう……」

「ナニ、郁太郎?」

竜之助は摺すり寄って、子供の面かおに当てた紅葉もみじのような手を振り払ってその面を覗のぞき込もうとすると、

「いや! いや!」

子供は竜之助の手を振りもぎって、あちらへ逃げて行きます。

「お待ち……坊や、お待ち……」

竜之助はそのあとを追いかけて、

「郁太郎……お前の父親はここにいる」

竜之助は大きな声で呼びかけたが、郁太郎は小さな首を振って、

「嘘うそ! 嘘! 坊には、お父さんというものはない」

小さい足どりで一散にかける。

「与八さん――与八さん――」

どこかで返事があって、

「おうい、郁坊やあい」

憐あわれむべし、この子、己おのれが実の親を厭いとうて、あらぬ人の名を慕うて呼ぶなり。

竜之助は立ち止まって、はふり落つる涙を払った手を見ると、涙と思ったのは悉く血だ。

竜之助は立ち尽して、その子の駈け行く方かたを見ていると、ノッソリと闇の中から一人の肥え太った男が出て来た。

「おうい、郁坊やあい」

その声は田舎訛いなかなまりの言葉であるけれども、なんとも言えぬ慈愛に富んでいる声でありました。それを聞きつけると子供はもう嬉しそうに飛びかかって、

「与八さあん――」

父を知らず、母を知らずと言った児は、父と母とを一緒にしたよりも強い懐なつかしさでこの太った男に抱きついてしまいました。

「おお、郁坊、ここにいたかい、よくいてくれたなあ」

温かい手で、すぐ抱き取って、頬ほおずりをして可愛がる。その面はかがやいて、後光ごこうがさして来るようです。泣いていた子供も晴々はればれして、ふいとこちらを向きましたが、竜之助を見ると泣きそうな面をして、

「怖こわい人――あそこに怖い人がいる」

指ゆびさして示すと、抱いていた肥った男は慈愛にかがやく面をこちらに向けて、

「怖い人ではないよ、坊やのお父さんはあの人だよ」

「嘘だ!」

子供は、どうしても承知しません。

「嘘ではない、あの人は坊やのお父さんだけれど、坊やはあの人の傍へは寄れないのだよ」

「でも、坊には、お父さんはないと言ったじゃないか」

「父親てておやのない子があるものか……坊やにも、お父さんもあれば、お母さんもあるだよ」

「お母さんもあるのかい……どこにいるんだい」

「それはなあ……」

「早く、そのお母さんのところへつれて行っておくれ」

「うむうむ、つれて行くとも」

抱き上げた子を、ゆすぶって、与八と言われた男は、竜之助の方へ、そのなんとも言えない慈愛の面かおを向けて、あちらへ行ってしまおうとするから、

「与八――」

竜之助は、あわただしく呼びとめてみました。

「与八――待ってくれ」

足が動かない――

「与八――郁太郎」

声の限りに呼ぶと、二人の姿は見えずして、光明こうみょうの雲が、あたりいっぱいにかがやく。

「与八――郁太郎」

咽喉のどが裂けたと思われる時に、夢は覚めた――眠っていた時にありありと見えた人の面が、覚めては見えない。

「誰だ、そこへ来たのは何者だ!」

修験者の地を突つき貫ぬくような叫び。竜之助は何事が起ったのかと思う――誰かこの夜中に、ここへ来たものがあるらしい。雨も風も歇やみはしないのに。

十

「誰だい、誰だい――おお痛っ」

金蔵は、しばらく起き上れないで、腰のあたりをさすると、兵馬は丁寧に介抱かいほうして、

「お怪我けがはないか」

「いや、もう大丈夫。お前さんは……お豊ではなかったね」

起き上れないうちから、もうお豊のことです。

兵馬は傘かさを拾ってやると、金蔵は立ち上って面をしかめ、

「これはどうも――ナニ、もう大丈夫でございます」

お礼もろくろくに述べず、傘を受取ってまたも石段をめがけて上りはじめようとしたが、

「あの、もし、あなた様、この社やしろの中で女の姿をお見かけになりませんでしたか」

「女の姿を?」

「はい、この室町屋の女房のお豊という女を」

「ああ、お豊どのならば」

「はい」

「さきほど、この石段を下へおりて行きました」

「石段を下へでございますか」

「いかにも」

「そんなら、行違いに家へ帰っておりはせんか」

金蔵は上りかけた足を石段から引いて、

「それでは、帰ってみましょう」

もと来た方へ引返して大急ぎで駈けて行きます。

兵馬は、そのあわただしさに笑いを禁じ得なかったが、そんなことは別に兵馬の気にかかることではない、気にかかるのはあの護摩壇のことだ――堂の傍へ近寄ると、中から修験者の声で、

「何者だ!」

と呼ばれたが、強しいて土地の人が神聖と立てる修法しゅほうを妨げるのもよくないと、帰っては来たが、なんとなくあの護摩壇に心が残るようだ。よし、改めて修験者に会ってみよう。

こう心をきめて室町屋まで帰って来ると、家は思いのほかヒッソリしていました。雨が降っているから、障子を立て通しにしてあったのをあけて入ると、帳場のわきに金蔵が苦にがり切って坐っている、その傍には番頭がピリピリして跪かしこまっている。

「お帰りなさいまし」

と言ったが張合いのない声でした。苦り切った金蔵と兵馬とは、ふと面を見合せると、兵馬は、いま石段から転げ落ちた人が、どうやらこの人らしいと思ったが、そのままにして、自分は己おのれの部屋へ入ってしまいます。

床を展のべに来た女中に聞いてみると、お内儀かみさんが、さっき出たまま、まだ帰らないので、旦那様が焦じれて怒っているのだと言いました。そんなことは兵馬が聞いたって別に心配することではありませんでした。

兵馬が二階へ上った時分、金蔵の眼が一層険けわしくなって、天井を睨にらみつけたようでしたが、

「喜六、今のはありゃ、うちのお客か」

「へえ、左様でございます」

「いつごろから来た」

「旦那様が、和歌山へお出かけになって間もなく」

「そうか……」

金蔵は番頭からこれだけ聞いて、また兵馬の通って行ったあとを睨みつけて、

「一人か」

「へえ、お一人でございます」

「侍のようだな」

「左様でございます、十津川騒ぎからこちらへお越しになりました、藤堂様の組だそうでございます」

「何しに来たのだ」

「兄様にいさまの仇かたきをたずねておいでだそうでございます」

「兄の仇?」

金蔵は、また苦り切って押黙おしだまったが、

「聞いて来い、今のあの若侍に聞いて来い」

突然、猛たけるような大きな声でこう言い出したので、番頭は、

「何でございます、何をお聞き申すのでございます」

「あの若侍が知っている、お豊の行きどころを知っている」

「あの方がでございますか。あの方がお内儀さんの……」

「知っている、聞いて来い」

金蔵は、怒鳴どなりつけて番頭を立たせました。

番頭は、何のことだか一向わからないけれど、まあ言われる通りに聞いてみようと、怖る怖る兵馬の部屋をさして出かけて行きます。

「そうだ、それに違いない――」

金蔵は、ひとりで歯噛みをしています。

「前髪立ちの若衆わかしゅうと、三十前の年増としまだ……年上の女に可愛がられていい気でいる奴もあれば、ずんと年下の男を滅法界めっぽうかいに好く女もあらあ――油断ゆだんがなるものか。第一、こちらからお豊のやつが上って行く、上から若侍が下りて来る、ほかに誰がいた、証拠を押えたようなもんだ――お豊を隠しやがったな、あの若いのが」

金蔵の眼は、みるみる火のように燃えてゆきます。

金蔵は英雄でも偉人でもないけれど執念深い――執念のためには命を投げ出して悔いない男である。思い込むと蛇のように執拗しつこくなる男であります。飛んでもない、人もあろうに宇津木兵馬は、この男の怨うらみの的まととなってしまいました。お豊と兵馬とは金蔵の留守の間に不義をした――と思い込んでしまった金蔵の怨みは、もう、誰がなんと言っても解けません。

「覚えてやがれ!」

この二月ふたつきほど真人間まにんげんに返って、驚くほど堅気かたぎになり、真黒くなって家業に精を出し、和歌山へ行ったのも宿屋の実地調べで、これからますます家業へ身を入れようとした金蔵の心が、またもがらりと変って、もとの無頼漢になるのです。

兵馬が旅日記を書き終って、いま寝ようとするところへ、金蔵がやって来ました。

「御免下さい」

言葉が荒っぽく、眼の色が血走って立居たちいが穏おだやかでない。

「これは、どなたじゃ」

「へえ、金蔵と申しまして、ここの亭主でございます。お初はつに――いや、さっき竜神の石段でお目にかかったのは、たしか、あなた様でございましたな」

「左様、貴殿が御亭主でござったか、留守中お世話になりました」

「時に、あなた様――」

金蔵は眼に角かどを立てて、口のあたりが引きつり、呂律ろれつが怪しい、よほど飲んで来たものです。

「お前様のおっしゃるには、わしの女房のお豊は、うちへ帰っているはずでございますが、まだ帰っておりませんぜ」

「なに、御内儀ごないぎが……」

兵馬は金蔵の言いがかりぶりが無礼に見えるので、少し向き直り、

「まだお帰りがない? 拙者は、あの社内やしろうちでちょと会うたばかりだからその後は知らぬ」

「いったい、お豊のあまは、何のために、この夜中やちゅうに、あの社内へ出かけたものでござんしょうねえ、お武家様」

「何のためとは」

兵馬が、そんなことを知るはずはないのを、金蔵はからみつくように、

「お前様は、それを御存じであろうと、わしはこう睨にらんだのだ」

「なんと、拙者がそれを知っている?」

「そうでございます、あの、人も行かない淋さびしいところを、この夜中に、つまり人眼を忍んで、行きつ戻りつなさったのは、うちのお豊と、それからお前様のほかにはない」

「うむ」

「ですから、わしは、お前様とお豊とが、しめし合せて、なにか人に聞かれて都合の悪い話を、あそこで、おやりなすったものとこう思うんだ」

「滅多めったなことを言われる」

兵馬は屹きっとなった。見れば酔ってもいるようだが、それにしても聞き捨てならぬ一言である。

「ナニ、滅多なことが、どうしたんだ。さあ女房を出せ、おれの女房のお豊を出せ。前髪のくせに、ふざけたことをしやがる。どこへ隠した、早く、おれの女房のお豊を出せ!」

金蔵は、持って来た脇差わきざしを抜いて振りかぶり、大胆にも兵馬をめがけて切ってかかりましたけれど、これは問題にもなんにもなりません、すぐに刃やいばは打ち落されて、兵馬の小腕に膝の下へ引据ひきすえられ、

「無礼にもほどがある――店の衆――誰かおらぬか」

兵馬は金蔵を組み敷いておいて、声高く店の者を呼びました。

金蔵は家族や店の者が総出でつかまえて、欺だまし賺すかしつつ引張って行きました。

父の金六は兵馬の前へ頭を下げて詫わびをする。兵馬は別に深く咎とがめるつもりはないが、言いがかりにしても潔いさぎよくない言いがかりだと思いました。

明日は宿を換えようと心に決めながら浴室へ行く、寝る前に一度、湯に入ることがきまりになっている。そこから浴室までは大分ある。

兵馬は手拭を持って長い廊下をしずしずと歩んで行く。お客が少ないから明間あきまが多く、蒲団ふとんや夜具を抛ほうり込んだままのもある――兵馬は足音しずかに行くと、そのうちの一間からふいに飛び出して廊下を横に切って、忍び足にかけ行くものがある。面かおは手拭でかくして手には何やら包みを持っています。

怪しい奴! 兵馬は直ぐに泥棒だと感づきました。見のがせることではない――今しも、開け放してあった雨戸の口から外へ出ようとする盗賊の襟首えりくびを持って引き下ろしました。

兵馬であったからよい、ほかの者ならば、けたたましく、泥棒! 泥棒! と鳴りを立てるところです。兵馬に無言で引き下ろされて、泥棒の力のまた脆もろいこと、一たまりもなく引き倒されて、

「どうぞ、御勘弁下さいまし、お見のがし下さいまし」

賊は手を合せて拝むと、兵馬はかえってそれに驚かされました。

「おお、そなたは……」

「何もおっしゃらず、どうぞ、お見のがし下さいませ」

「合点がてんのゆかぬこと」

この泥棒はお豊でした。兵馬には、なんだか実にわからなくなってしまいました。

「これには深い仔細しさいのあることでございます、どうぞ、お情けに何もお聞きなさらず、このままお見のがしを願いまする、あとでわかることでございますから」

面をかくした手拭をとりもせずにお豊は、一生懸命で兵馬に見のがしてくれと歎願するのです。

「そなたの夫、金蔵殿とやらは、そなたを探しておられますぞ」

「はい、金蔵に知れますと、わたしは殺されてしまいまする、どうぞ、お慈悲に、このままお見のがしを願いまする」

見逃すべきであるか、捉とらえて夫に引渡すべきであるか、兵馬も、しばしその扱いに迷うたのでありましたが、あの無茶な乱暴男、この有様を告げたら、なるほど、この女の言う通り女は殺されてしまうだろう、まあ、この場は見のがしておいた方がよかろうと兵馬も分別ふんべつしました。

「どうぞ、お見のがし下さいませ、決して、あなた様のお身に御迷惑のかかるようなことは致しませぬ、一生の御恩でございます」

お豊は包みを拾い上げて、戸の外の闇へ飛び下ります。

兵馬はそれを追いかける気になりませんでした。

十一

兵馬はその翌日、宿をかえた――兵馬には、こんなばかばかしいことにかかわっていられない。金蔵が恨もうと、お豊が帰るまいと、別に心に残ることはなかったが、兵馬が去ってから後の室町屋には大変が出来しゅったいしました。

その晩のこと、金蔵が荒あばれ出した――その荒れ方も尋常ではない、一室に押込めて、家中総出で警戒していたにもかかわらず、金蔵はついに荒れ出して脇差を抜いた。それでもって、支える奴を縦横無尽に斬り立てた。

父親の金六も手を負わされた、母のお民も斬られた。

それから、台所に飛んで出て、火を焚いていたおさんどんを蹴飛けとばして、その火を取って投げ散らした――その火は障子についてめらめらと燃え上る。

血に染にじんだ脇差を振り廻して表へ飛んで出た。

忽たちまちの間に湯元村をひっくり返すほどの騒ぎとなった。

金蔵が血刀を引っかぶって通りへ飛び出して、

「お豊、兵馬」

と名を呼んで二人を求めんと狂い廻る。兵馬はこの時、こんなこととは知らずに神木屋というのへ宿を替えて、その朝は、昨夜のあの護摩壇ごまだんへ行こうとして大師堂の傍まで来たのであったが、不意に火事よという声で振返って見ると、すぐ眼の下の、室町屋のあたりから黒煙が渦うずをまく。

兵馬も宿には大事のものが残してないではない。心にかかるからそのまま引返して湯元へ来ました。

火事は室町屋から出たので、今しも台所を吹き貫ぬいて、二階の廊下を焼き抜いて、真紅まっかの炎ほのおがメラメラとのぼる。

兵馬は神木屋へかけ戻って、店の若い者と一緒に始末をしている。

「室町屋の若主人が、急に気がふれ出した……」

兵馬は合点した。あの金蔵という奴が荒あばれ出したな――こうと知ったら、もう少し手厳てきびしく戒いましめておけばよかったと思いました。

けれども、金蔵は三輪でやらなかったことをここでやるのですから、どのみち金蔵としては、やるべきことをやってしまいました。お豊もまたあの時、金蔵を捨てるはずのを今ここで実行したものですから、お豊がなくなって金蔵の執念が勃発ぼっぱつするのはあたりまえのことでありました。

兵馬は、それを知らないで、ただ無茶な乱暴男もあればあるものと思っています。

この火事は人家の方へ出なかったけれども、それより悪いことは、山へうつってしまったことです。人家の火事は消しようがあるが、山の火事は消しようがない――室町屋の裏手へつづく杉林に、それが燃えついたからたまりませんでした。

目通り何尺、高さ何丈という大木に火のついたほど始末に困るものはありません。登るには登れず、水をかけようにも下からは届かず。

それを防ぐには、伐り倒すばかりであります、と言って、それほどの大木を苧殻おがらを切るようなわけにはゆきません。

いよいよ杉山に火がうつった時、各字かくあざの者は手を束つかねて、せめて、人家へ焼け出さないように用心するよりほかはありませんでした。

人が手を束ねて見ていれば、火はいい気になって延びる、この山を焼き抜いてあの山へと、遠慮なく延びる。

それでも竜王社の方面は消防に力をつくしたために火の手が鎮まったが、これはかえって一方に火勢を追い込んだようなもので、山の手に向う火の手は更に一層の勢いを加えることになりました。木がなくなるところまで焼け抜いておのずから止まるか、そうでなければ、天の池が乾くほどな大雷雨でも来きたらぬ限りはこの山火事が続きそうだ。

人間業にんげんわざでこの火を防ぐはあの護摩壇の法力ほうりきあるばかりだと、そこへ気がついた各村の総代は、打揃って裸になって水垢離みずごりをとって、かの護摩壇の修験者へ行って鎮火の御祈祷を頼むと、修験者は、

「遅い、遅い」

と冷淡に言ってのけた。

「昨夜、人知れず、御禊みそぎの滝で水を浴びた女をつれて来い……その女が竜神村の禍わざわいじゃ、その女をつれて来い」

さては、女の身でこの神聖な竜神の霊場をけがした者がある。その女を捉つかまえて、人身御供ひとみごくうに上げるでなければ、この火は鎮まらぬ、火を消すよりも、その女を求めることが急だ。

土地の人は血眼ちまなこになって飛ぶ――

その女というのは誰――火を出した室町屋の女房、昨夜から行方知れずになったというお豊が怪しい。お豊はどこへ行った。室町屋の内儀はどこへ行った。

兵馬はこの時、ぜひなく神木屋にとどまって火を心配していた――今日あたりは七兵衛お松がこの地へ着くはずであるのに、あの火が道をふさぎはすまいか。

昨夜から降ったり止んだりしていた雨が、この時分になって、だんだん大降りになってきた。

その翌朝、山火事はいよいよ盛んに燃えている。雨もどんどんと降りつづいている。お豊を探すべく八方に飛んだ人がまだなんとも報告を齎もたらさないうちに、またしても人を驚かす報告が一つ持ち来きたされた。

「河原に人が殺されている」

それを見つけたのは里の子供でした。村の人が駈けつけて見ると、昨夜来の雨で日高川の水嵩みずかさが急に増した。蛇籠じゃかごにひっかかった一つの体はまだ若い男でありました。

「室町屋の金蔵さんだ!」

「斬られてる!」

それはたしかに金蔵である、斬られていることも確かである。

宇津木兵馬は宿の人に頼まれてその検視に行った。

兵馬が金蔵の死骸しがいを見て衷心ちゅうしんから驚いたのは、その死にざまが怖ろしいからではない、また彼の身の成る果てを不憫ふびんと思いやったからというのでもない、その斬口きりくちの鮮あざやかさ! 心得ある人より見れば、斬口でその斬った人の手腕がわかる、否いな、手腕のみではない、それが何流の剣道に出でてどの程度まで行った人だということもわかるはず。

右の肩から真直ぐに、それは力任せにやったのでも何でもない――冷笑しきって軽く一振り、曳えいとも言わず二つに切って落すべきものを落さずに、いくらか残しておいて刀を鞘さやに入れたが、おそらく血は刀に附く遑いとまがなかったろう――切ると一緒に高いところから足で蹴落けおとして(その証拠には、かすり疵きずがいくつもある)、下へ転ころがって行く屍体の音を聞きながら、蚊をつぶしたほどにも思ってはいなかった――兵馬の眼には、斬った人の面影おもかげがありありと浮ぶ。

十二

眼の前にあっても、時が来きたらねば会えません。竜之助と兵馬とは、山城、大和、伊賀、紀伊の四カ国を、あとになり、先になって、往ゆきつ戻もどりつしましたけれど、とうとうそのいずれでも会うことができないのです。竜之助は敢あえて兵馬を怖れて逃げ隠れているのではない。兵馬は目の先に近づいて、それでどうも刃やいばを合せることができないのです。

今、ここに竜神村の災難、七兵衛やお松がどうしてここへ来るかを知らねばなりませんけれど、兵馬はそれを顧みている遑いとまがない。

竜之助の落ちて行く方面は、日高川に沿うて四十余里の屈曲を塩屋の浦まで出て、船でどちらへ行くか、または高野領こうやりょうを経て西国筋さいこくすじへでも落ちるか、兵馬はそれを測って単身結束してそのあとを追わねばならぬ。

兵馬が竜神村を立った時も、まだ竜神村の火は消えませんでした。

底本 / Source edition

底本:「大菩薩峠2」ちくま文庫、筑摩書房
1995(平成7)年12月4日第1刷発行
1996(平成8)年2月15日第4刷
底本の親本:「大菩薩峠」筑摩書房
1976(昭和51)年6月初版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:(株)モモ
校正:原田頌子
2001年5月30日公開
2004年3月6日修正
青空文庫作成ファイル:
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TEI
/works/003332_000283/tei
プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
/works/003332_000283/

中里 介山「大菩薩峠──05 龍神の巻」(新字新仮名)、底本『大菩薩峠2』ちくま文庫、筑摩書房、1995年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 003332_000283, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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