Soranoha

権力の悲劇

けんりょくのひげき

宮本 百合子

八月のある日、わたしは偶然新聞の上に一つの写真を見た。その写真にとられている外国人の一家団欒の情景が、わたしの目をひいた。背景には、よく手入れされたひろい庭園と芝生の上に、若い父親が肱を立ててはらばい、かたわらの赤ン坊を見て笑っている。片手は軽くその赤ン坊の縫いぐるみのおもちゃらしいものにふれている。赤ちゃんは男の児である。肥だちよくくりくりと丸くて、夏の白いベビイ服の短袖から、くびれて可愛い腕がむき出ている。日本でいえば丁度はいはいごろの赤ちゃんである。笑うような、さてまた不思議がるような表情をカメラに向けているあどけなさ。そのあどけなさにひき入れられて、自分も芝生の上にくつろいで片肱つきながら見とれている若い母親。その母親の笑顔は、赤ちゃんの無邪気さ、愛くるしさにとけ入って、はた目を忘れた瞬間のほほえましさで輝やいている。自然も人間もそこにそうして在ることに、何と安らかさがたたえられている情景だろう。

いまの日本で、こういう写真を見るとめずらしい気もちが起る。写真につけられている説明をよんで、わたしは、ひとしおしげしげとその写真を眺めなおした。というのは、そのスナップは一つの「家族写真」で、幸福そうな若夫婦はエリザベス王女とエディンバラ公であった。かわいらしい男の赤ちゃんはチャールズで、夏別荘に暮している一家のスナップなのだった。

エリザベス王女のあらゆる種類の写真が世界にひろがっている。威厳がありすぎるほど威厳にみちた王女エリザベスとして、妹のマーガレット・ローズと比較して語られている。数々のスナップのうちで、こんなに自然な若い母の笑顔にとけた彼女の表情はほんとにめずらしい、彼女の女として幸福を感じる瞬間は、その生活のどんなところにあるかということを思わせる写真だった。

それから間もない別のある朝のことだった。わたしは新聞の上に一つのニュースをよんだ。それは最新化学兵器についてのニュースだった。おそろしい化学力をもつその兵器の効果は、すべての人類をたちまち醜い不具にして、死滅させる威力をそなえているものであると説明されている。それを公表しているのはイギリスの学者であった。

わたしはそのニュースに目をこらした。そしてだんだん体のこわばって行く感じだった。夫婦の間に赤ちゃんを遊ばせてあんなに楽しそうにほほ笑んでいた王女エリザベスは、このニュースが世界に流布されたことを知っているだろうか。あどけなくおさないチャールズの命と、そのすこやかな成長を願わずにいないだろう母の思いと、すべての人類を醜い不具にして死滅させる兵器の発見という宣伝との間には、ほとんど信じられないほどの残酷さがある。若い親たちと赤ン坊とのあの家族写真には見えない空のどこかに、その残酷さが、禿鷹のように舞っているのだろうか。

八月一日の『ニュース・ウィーク』には、はからずも王女エリザベスの二つの表情がのせられている。その一つは、涼しい夏別荘の芝生で無邪気に家族が団欒しているあの家族写真。もう一枚は閲兵式場の王女エリザベスの姿である。こちらの方は『ニュース・ウィーク』の投書欄にのっている。テキサスのトム・エフ・マンデン(姓名のあとに二世とつけているから、マーシャルというテキサスのその市でのマンデン家は、社会的に何かの意味をもっているのだろう)という人が七月十八日の『ニュース・ウィーク』にのったこの閲兵式の写真について、手紙をよこしているのだった。トム・マンデン氏は、そのエリザベス王女の写真が口の中にいやなあと味をのこした、と書いている。「仮装平時閲兵のために、暑気あたりに苦しんでそこに卒倒した不幸な若い婦人をそのまま放っておくほど、大英国の軍規はきびしいのだろうか」

すっきりとした初夏の服装で、大きめのハンド・バッグを左腕にかけ、婦人兵士の最後の列の閲兵を終ろうとしている王女エリザベスの目の下に、一人の婦人兵士が直立不動で立っていたその地点から足をはなさないまま、失神して仰向けに倒れている。白手袋をはめたエリザベスの両手は、ショックにたえている表情でかたく握りあわされ、おのずと倒れている同性に視線の注がれている彼女の顔じゅうには、そのような事態を遺憾とするまじめさがたたえられている。しかし、閲兵する王女としての足どりは乱れず、倒れている女性を寸刻も早く救うために、どんな合図の身ぶりも示されていないのである。そのスナップには「写真班は、救急班の到着を待ちかねた」という意味のスクリプトがついている。

王女の生活の公式の面と私的な面とは、右の手と左の手のようなもので、聖書の文句にあるとおり、右手のなすところを左手にしらしむるなかれという関係におかれているのだろうか。

こういう人間性の分裂と矛盾が、現代の権力あるものの避けがたい立場だというならば、最近の百二十年たらずのうちに、権力そのものの実質がゲーテの讚えたような属性をまったく失ってしまっている事実を物語る。ゲーテは「ファウスト」第二部で、より大きい善、人間の美徳、平和な建設を実現する可能をゆるされている能力として権力を見出している。現代でいえば一つの都市ぐらいしかなかった十九世紀初頭のドイツ小王国ワイマールの学友宰相であったゲーテは、その時代の性格とその政治生活の規模にしたがって、何と素朴だったろう。そして何と「宮廷詩人」的であったろう。ナチスが、ゲーテ崇拝を流行させていたわけもわかる。権力に従順な人々へのゲーテ賞もわかる。

現代の帝国主義の国家権力の実質が、よりゆたかなヒューマニティーの力の表現といえないのが現実ならば、わたしたち一人一人が「失うものはこの世の不幸しかない」平ひらの人民の女であり男として生れたことを心からよろこび、評価してよいと思う。なぜなら、わたしたち人民の男女のヒューマニティーは、権勢とひきかえに奪われてはいないのだから。反対に、日々の労働の痛苦、いまの社会で母性が経験する大小無数の苦労。失業のいたで。生活の安定を見出そうとして階級として努力するその過程にうけている容赦ない政治的な経験などによって、わたしたちの、人民としての階級的なヒューマニティーはますます鋭くさせられている。近代社会で、資本に支配される権力からヒューマニティーが失われてゆく程度に応じて、権力をもたない地球上の絶対多数者である人民大衆の側からヒューマニティーの要求がつよくなった。

この事実は文学にも生きていて、たとえばポーランドの婦人作家オルゼシュコの小説「寡婦マルタ」の悲劇のテーマが、もしきょうの日本でもう社会的に解決されてしまった問題ならば、日本の数十万の未亡人の境遇は、すべての面でこんにちそれがあるようにはないであろう。原因と結果とは互に作用しあっているから、もしもすべての女性が妻であり母であることによって、いよいよ勤労生活に安定が保障されているような社会ならば、したがって、太い潮が細々とした流れを吸いあげてしまうような金づまりだの、手にもっている御飯の茶碗をはたき落されるような馘首がおこる原因も減ることは明白である。

失業の不安で波だつ空気の中に響いている声は、都民税二・七倍増し(失業者の家族でも都民であることに変りはありません)。外米の輸入(これで金さえ出せば、主食はいくらでも買えるということになります)。滞貨放出(金のある人にとっては衣料の面も楽になるでしょう)。ガスの制限もゆるやかになりました(ただし料金は今までの倍)。そして冬は石炭も手に入るであろう(一トン三千円から五千円の金があるならば――)。

ここに、わたしたちを堪えがたくする現実の矛盾がある。理性のある社会の生活であると思うことのできないあからさまな不合理が強いられている。

社会の新しい歴史は人民によってのみ推しすすめられる。この必然は、この現実のなかに生れてきているのである。

国鉄整理にからんでおこった下山国鉄総裁の死は、最大限に政府の便宜のために利用された。共産党に関係のある兇悪な犯罪事件のように挑発され、一部の知識人さえその暗示にまきこまれた。ところが他殺でないことがわかったきょうでも、まだ死者に対するはっきりした哀悼は示されていない。

命を奪われるほど悪人でなかった故人。むしろ弱点も人間的といえた故人。国鉄五十万人と運命をともにした故人。世間に暗い衝撃を与えることは、故人の望むところでなかったろう。自殺と直感した、といわれたときこそその人の妻らしい悲しみのありかたとして、すべての人にも肯かれたのに、いつか、他殺説を固執するようになった夫人の態度。勉学ざかりの少年、青年である子息たちが、色をなして自殺説を否定しはじめたという心理。それらを、世間の一部では、あれを政治的な、犯罪にしようとする検事局の圧力だろうと思った。時はたって、秋風がふきそめるきのうきょう、この不可解な状態のかげにひそむ一つの理由として生活的な問題がおいおい一般の推測に浸透してきた。丸の内の宏壮な建物を見てもわかるように、保険会社は富んでいるものだが、現在、生命保険会社の支払い方法は、他殺だと保険金詐欺でない限り普通の病死と同じに全額を支払うことになっているのだそうだ。自殺の場合、契約後一年――三年は全く支払わず、三年以上の分には多少弔慰金を出す。国鉄の退職金、弔慰金の支払い方法にも非常なひらきがつけられているのだそうである。故人の閲歴から見て、退職金は五十万円ぐらいで、自殺であるとそれっきりであるが、他殺であるなら殉職として、国鉄公社のしらべによると最低百万円をくだらないことになる。

故人は機械科出の技術者であった。そのポストが大整理という苦しい仕事に当面していず、たんまり利権の汁につかっている実利の地位であったのなら、いまの腐敗した政党人たちが、何でおとなしい技術出の個人にそんな椅子をゆずっておこう! 民自党の本質的なこわさが、故人の運命をアーク燈の光のように照し出している。したがって、故人の遺族は思いがけなく主人の身の上におこった悲劇によって、妻は主婦として行手の寒さに身をふるわせ、子息たちは、アルバイト学生の境遇を、自身たちの明日の身の上にうけ入れにくく思っただろうということもありえないことではない。良人をころし、父を失わさせたのは非人間の権力人事そのものであった。国鉄の名もない被整理従業員たちのだれかれの一家の、妻や子や年よりのおどろき、怨み、歎きとその本質は一つもちがうところのない恐慌が、故人の一家をおそったであろうという想像も許されるだろう。けれども、それに対してとられた抵抗と防衛の手段は、故人の官僚としての地位の必然によって、一国鉄従業員の場合とは全く反対にあらわれた。世間を疑惑のうちにのこしたまま、労働組合や共産党への毒素のような悪宣伝をみなぎらしたまま――遺族自身がのぞむのぞまないにかかわらず、その屍しかばねの最後の一片までを民自党の人民抑圧の政策の利用にゆだねるという悲惨な形で、いまの社会の官僚制度や保険制度の非人間性からのぬけ道を見出そうとされなければならなかった。その方法、この悲劇の社会的な原因を排除するのではなしに、かえってそれを掩護し、不合理の率直な告訴人となれないで、心ならずもそのかかしとしてつかわれながら。

これも一つの日本の悲劇であったと思う。あの事件に関して暴力をきびしく非難したのが発言者たちの真実の声であったのなら、最もはっきり暴力の罪悪性を断言した人ほど、こんにちでは遺族の名誉とヒューマニティーのために真実の暴力がどこにあるかということについて、説明者となる責任があるだろうと思う。社会的発言の場面を多くもっている人ほど、真実と正義に対する義務もより多く負うているのは当然だからである。

生きてゆく生きかたそのものの現実に人民の権利の確立と民族としての独立をとりもどしたいわたしたちの欲求は、こういうモメントからも、ひとしお切実に目ざめさせられる。〔一九四九年十一月〕

底本 / Source edition

底本:「宮本百合子全集 第十五巻」新日本出版社
1980(昭和55)年5月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十二巻」河出書房
1952(昭和27)年1月発行
初出:「婦人公論」
1949(昭和24)年11月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年6月4日作成
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宮本 百合子「権力の悲劇」(新字新仮名)、底本『宮本百合子全集 第十五巻』新日本出版社、1980年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 003291_000311, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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