Soranoha

脳の中の麗人

のうのなかのれいじん

海野 十三

奇異きいの患者

「ねえ、博士せんせい。宮川さんは、いよいよ明日、退院させるのでございますか」

「そうだ、明日退院だ。それがどうかしたというのかね、婦長ふちょう」

「あんな状態で、退院させてもいいものでございましょうかしら」

「どうも仕方がないさ。いつまで病院にいても、おなじことだよ。とにかく傷も癒なおったし、元気もついたし、それにあのとおり退院したがって暴あばれたりするくらいだから、退院させてやった方がいいと思う」

「そうでしょうか。わたくしは気がかりでなりませんのよ」

「婦長。君は儂わしのやった大脳移植手術を信用しないというのかね」

「いえ、そんなことはございませんけれど……」

「ございませんけれど? ございませんが、どうしたというのかね」

「いいえ、どうもいたしませんが、ただなんとなく、宮川さんを病院の外に出すことが心配なんですの。なにかこう、予想もしなかったような恐おそろしい事が起りそうで」

「じゃやっぱり君は、儂の手術を信用しとらんのじゃないか。まあそれはそれとしておいて、とにかく儂は宮川氏を退院させたからといって、後は知らないというのじゃない。一週間に一度は、宮川氏を診察することになっているのだ」

「まあ、そうでございましたか。博士が今後も診察をおつづけになるのなら、わたくしの心配もたいへん減へります。ですけれど、いまお話の今後の診察の件については、わたくし、まだちっとも伺うかがっておりませんでした」

「それはそのはずだ。診察をするといっても、患者を診察室によびいれて診察するのではない。宮川氏は、診察されるのは大きらいなんだ。逆さからえば、せっかく手術した大脳に、よくない影響を与あたえるだろう。逆らうことが、あの手術の予後よごを一等わるくするのだ。だから儂は、すくなくとも毎週一度は、宮川氏の様子を遠方えんぽうから、それとなく観察するつもりだ。それが儂のいまいった診察なんだ。このことは当人宮川氏にも、また病院内の誰彼たれかれにも話してない秘密なんだから、そのつもりでいるように」

黒木博士と看護婦長との会話にあらわれた問題の患者宮川宇多郎みやがわうたろう氏は、わが身の上にこんな気がかりな話があるとはしるよしもなく、病室内を動物園の狼おおかみのように歩きまわっている。

彼は今朝、病院内の理髪屋りはつやで、のびきった髪を短く刈り、蓬々ぼうぼうの髭ひげをきれいに剃りおとし、すっかり若がえった。だが、鏡に顔をうつしていると、久しく陽に当らなかったせいか、妙に蒼あおぶくれているのが気になった。それにひきかえ、後頭部の手術の痕あとは、ほとんど見えない。これは手術に電気メスを使うようになって、厚い皮膚でも、逞たくましい肉塊にくかいでも、それからまた硬かたい骨でも、まるでナイフで紙を裂さくように簡単に切開できるせいだった。よく気をつけてみると、毛髪もうはつの下の皮膚が、うすく襞状ひだじょうになっているのが見えないこともないが、それが見えたとて、誰もそれを傷痕きずあとと思う者がないであろう。じつにおどろくべき手術の進歩だ。

そのように手術の痕は至極単純であるのにもかかわらず、彼はこの病院に一年ちかく入っていたのだ。

「おお、明日からは、自由の身になれる。うれしいなあ」

と、彼は子供のようにぴょんぴょん室内をとびあるいていた。そうかと思うと、急にむずかしい顔をして、ぶつぶつつぶやきながら動物園の狼になりきってしまう。

「想い出しても、おそろしい一年だった。いや、一年の月日がたったことは本当だが、自分は一年というものをすっかり覚えていないのだ。正気しょうきづいたときは、すでに半年あまりの月日がたっていたのだからなあ。その間あいだ自分は、全く無我夢中で、生死の間を彷徨ほうこうしていたのだと後になって聞かされた。それからこっちも、ときどき変な気持に襲われた。なんだか、五体がばらばらに裂けてしまうような実に不快な気持に陥おちいったのだ。なにしろ、物を考える機関である大脳の手術をやったのだというのだから、恢復までに、どうしてもそうした不安定な過渡期かときをとるのだと黒木博士が説明してくれたが、そんなものかもしれない」

今も昂奮こうふんと憂鬱ゆううつとが、かわるがわる彼を襲ってくるのだった。彼は、手術のことについて、博士に聞きただしたいたくさんの事柄ことがらをもっていた。だが博士は、元来無口な人で、患者が自分の病気について深入りした質問を発するのが大嫌いのように見えた。

「なんでもいい。とにかくこのとおり元気になって、退院できるのだから」と、彼は諦あきらめ顔がおにいって、「さあ、いよいよ明日から、自分の好きなところへ行って、好きなことができるんだぞ。うれしいなあ。さて、明日病院の門を出たら、第一番になにをしようかなあ」

謎の手帖

彼は、黒木博士の世話で、目黒区にある黄風荘こうふうそうというアパートに入った。

彼は、親には早く死にわかれ、兄弟もなければ妻子さいしもなく、天涯孤独てんがいこどくの身の上だった。財産だけは、親譲おやゆずりで相当のものが残されていた。毎月の末になると、某信託会社ぼうしんたくかいしゃから使者が来て、規定どおり五百円の金をおいてゆくのだった。

入院費や手術費とは別に、多額の金が、その信託会社から支払われたそうである。だから黒木博士も病院も、彼の面倒を十二分にみることができたのである。

黄風荘の彼の借りている部屋は、三間もある広々とした上等のところだった。

見覚えのある彼の持ち物や調度が、室内にきちんと並んでいた。

「ふーん、悪くない気持だて」

彼は悦えつに入いって、頤あごのさきを指でひねりまわしながら、室内を見まわした。セザンヌが描いた南フランス風景の額がかかっている。南洋でとれためずらしい貝殻の置き物がある。本箱には、ぎっしりと小説本が並んでおり、机のうえには杉材でこしらえた大きな硯箱すずりばこがある。すべて見覚えのある品物だった。

彼は、懐なつかしげに、一つ一つの品物をとりあげては撫でてまわった。

そのうちに、彼の手は、机のひきだしにのびた。ひきだしを明けて、中の品物をかきまわしているうちに、彼は青い革で表を貼ったりっぱな手帖に注意をひかれた。

「おや、こんな手帖が入っている。見覚えのない品物だが……」

なぜ自分の所有ではない青い手帖が、ひきだしの中に入っているのか? 誰かが引越のとき間違えて、このひきだしの中へ入れたのであろうと思いながら、彼はその手帖をひらいてみた。とたんに、彼は思わず大きなおどろきの声をあげた。

なぜといって、その手帖にこまかく書きこんである文字は、たしかに彼の筆蹟ひっせきだったのであるから。

「ふーむ、これはたしかに自分の筆蹟にちがいない。だが、この手帖は、さらに見覚えのない品物だ。一体どうしたというんだろう」

彼は、すっかり気持がわるくなった。

たしかに自分の筆蹟にちがいないのに、その手帖には見覚えがない。こんなふしぎなことがあろうか。

その疑問を解くために、彼はつとめて気を鎮しずめながら、手帖に書かれた文句をよみはじめた。

こんなことが書いてあった。

「五月××日。天気がいいので、堀切の菖蒲園しょうぶえんへいってみる。かえりに、浅草あさくさへ出て、映画見物。家へかえったのは午後十一時半だった。部屋の鍵をあけたとたんに、背後うしろから声をかけられた。ぷーんと髪の香においがした。Yだ。Yが立っている。しかたがないので、部屋へ入れる。かえれといったがかえらない。無理やりに泊とまってゆく。困ったやつだ」

彼は、これを読んで、溜息ためいきをついた。そして首をふった。

「へえ、どうしたというんだろう。一向に覚えがないが……」

この日記によると、Yという女が、夜おそくまで、部屋の外に立って、主人公のかえりを待っていたというのだ。女は主人公が部屋の錠じょうをあけたときに、声をかけた。そして無理やりに泊っていったという。これでみると、Yという女は、気の毒にも主人公から冷淡れいたんにあつかわれている。Yという女の姿が見えるようで、たいへんいじらしくなった。

それでいて、この日記の主人公なる者が、一体誰なんだか分らないのだった。

その主人公こそは、彼――宮川宇多郎なのであろうか。

「いや、断じて、自分ではない。自分には、そんな記憶がない」

記憶がないから、自分ではないと思ったものの、この手帖は自分の机のひきだしの中に入っていたことといい、その日記の筆蹟が、たしかに自分のものであることといい、じつに気持のわるいことに覚えた。一体、どうしたというのだろう。

彼は、さらにその手帖の頁をくって、先を読んだ。

「五月××日。Y、夕方暗くなって、かえってゆく。もうこれでお別れだという。もう諦あきらめたともいう。どうかあやしいものだ。いつもその手をつかう。かえったあとで、座蒲団ざぶとんを片づけると、下から私の写真がでてきた。その写真は、ずたずたにひき裂いてあった。さっき私の写真を一枚くれと熱心に頼んだものだから、つい与えたのだが、Yのやつ、持ってゆかないで、こんなひどいことをしやがった」

Yという女が、奮然ふんぜんと主人公の写真をやぶくところが、目の前に見えるようだ。だがこのくだりも、彼には全然記憶のないことであった。彼は、なんだか気持がへんになってきた。じっと部屋にいるのが、いやになった。持ち物をとりあげて懐なつかしがる気も、もうどこかへいってしまった。彼は気をかえるために、着ながしのまま、ぶらりと外へ出た。

怪あやしい尾行者びこうしゃ

雨はあがっていたが、梅雨空つゆぞらの雲は重い。彼は、ふところ手をしたまま、ぶらぶらと鋪道ほどうのうえを歩いてゆく。

着ているのはセルの単衣ひとえで、足につっかけているのは靴だった。下駄を買っておくのを黒木博士は忘れたものらしい。宮川には、和服に靴というとりあわせが、それほど不愉快ではなかった。

上あがり坂ざかの街を、ぶらぶらのぼってゆくと、やがて大きな社やしろの前に出た。鳥居の間から、ひろい境内けいだいが見える。太い銀杏樹いちょうのきが、百日鬘ひゃくにちかずらのように繁っている。彼は石段に足をかけようとした。そのときふと背後に人の気配けはいを感じて、あとをふりむいた。

そこには、背広服をきた一人の青年が立っていた。ひどくくたびれたような顔をしている。色艶いろつやのわるい、むくんだような顔、下瞼したまぶたはだらりとたるみ、不快な凹へこみができている。そして帽子の下からのぞいている大きな眼だ。その大きな眼が、宮川をじっと見つめていたのである。

「うむ」

宮川は、なんとなく襲おそわれるような気持で、おもわず呻うなった。

気のせいか、その怪あやしげなる男も、なんだかぶるぶる身体をふるわせているようであった。

宮川は、石段をふんで、駈けあがった。そして境内へどんどん入っていった。社殿しゃでんの後に駈けこんで、そこでおずおず、うしろをふりかえった。怪しい男は、見えなかった。まず助かったと、彼はどきどきする心臓をおさえながら、社殿のうしろにベンチをみつけ、それに腰を下ろした。

「彼奴は何者だろうか?」

彼はまだはあはあ息をきりながら、頭の中に今見た怪しい男の顔付を気味わるく思いうかべた。

彼の腰をおろしているすぐ前に、誰が捨てたか、地上に捨てられた煙草の吸殻すいがらがあった。まだ火がついたままで、紫色の煙が地面をなめるように匐はっていた。彼はそれを見ると、急に煙草が吸いたくなった。彼は、汚いという気持もなく、吸殻すいがらの方へ手をのばして、泥どろをはらうと口にくわえた。

すばらしい煙草の味だった。だが、間もなく火は彼の指さきに迫って、もうすこしで火傷やけどするところだった。彼はびっくりして、吸殻を地上に放りだした。

「あははは、宮川さん。あなたは煙草を吸うようになりましたね、おそろしいもんだ」とつぜん背後うしろから声をかけられ、彼は腰をぬかさんばかりにおどろいた。ぱっとベンチからとびあがってうしろをふりむくと、

「あっ、君は――」といった。

さっきの男だ。怪しいぎろぎろ眼玉の顔色のわるい、青年であった。

「君、君は一体だれですか」

宮川は、いつの間にか、またベンチに腰をおろしていた。蛇へびにみこまれた蛙かえるといった態ていであった。

「僕ですか。僕をご存知ないのですか」

青年は、すこしずつ彼の方によってきた。

「知らないよ。人まちがいだ。早く向うへいってくれたまえ」

「そんなことをいうものじゃありませんよ。僕は矢部というものです。あなたはご存知ないかもしれないが、僕の方はよく知っています」

怪青年矢部は、つらにくいほど、ゆっくりした語調でいって、無遠慮ぶえんりょに宮川の横にかけた。

「とにかく、僕は君に見覚えがない。たのむから、早く向うへいってくれたまえ」

「よろしい、向うへいきましょうが、ここまでついて来たには、こっちにすこし用事があるんです。金を五十円ばかり貸してください」

「なんだ、金のことか。五十円ぐらい、ないでもないが、見ず知らずの君に、なぜ貸さねばならないか、その訳がわからない」

宮川も、すこし落付おちつきをとりもどして、逆襲したのだった。

「ははあ、その訳ですか。あなたは本当にご存知ぞんじないのですか。これはおどろきましたね」といって、矢部は帽子を脱いだ。

「なんだい、そ、それは……」

宮川はさっと顔色をかえた。矢部が帽子をぬぐと、なんとその下からは、ぐるぐる巻に繃帯ほうたいした頭が現れたのだった。

「これでお分りになったでしょう。あなたが、頭に大きな傷をうけて、もう死ぬしかないという切迫せっぱつまったときに、ここから僕の脳髄の一部を裂いて、あなたの脳につぎあわせたんです。見事にその大手術をやってのけた黒木博士も、あなたの再生の恩人なら、脳髄を提供した僕もまた、あなたのためには大恩人なんですよ。それを忘れて、僕を袖にするなんて、そんな恩しらずなことがありますか」

怪青年矢部は、とんでもないことをいいだした。

脳を売った男

「うそだ、うそだ。そんなことはうそだ」と、宮川はつよく否定した。

「なに、僕がうそをいっているんですって」と怪青年矢部は唇を曲げて笑い、「あははは、そう思いますかね。では、ちょっと聞きますが、あなたはさっき煙草を吸っていましたね。うまかったですか」

そういいながら、矢部はポケットから巻煙草をとりだして、火をつけた。

宮川は、煙草の匂においをかぐと、咽喉から手が出そうになった。

「一本、あなたにあげましょうかね」

「じゃ、もらおう」

宮川は、煙草をすいたい慾望を制しきれなくて、手を出した。そして火をつけるのも待ちどおしい様子で、すぱすぱと煙を肺の奥に吸いこんだ。

「どうです。煙草はうまいでしょうが。ところで僕は質問しますけれど、あなたは手術前には煙草が大きらいだったじゃありませんか。それを思い出してごらんなさい」

「あっ――」

宮川は、びっくりして、指さきから煙草をぽろりと地上にとりおとした。

そうだ、煙草ぎらいで通った自分だった。しかるに今は、煙草の匂いをかぐと、吸わずには我慢しきれないのだ。一体これはどうしたのだろうか。

「どうです、わかったでしょう。煙草好きの僕の脳を、あなたの脳につないだから、そうなったんです。いや、きょうあなたに会いたかったのは、金も使いはたして欲しくはあったが、僕の脳を植えつけた後のあなたが、どんな風になっているかを見たい気持もあったんです。全まったくおそろしいもんだ。あなたは煙草ずきになった。おかげで僕は煙草がたいへんまずくなってさびしい。この繃帯の下には、あなたと同じような手術の痕あとがあるんですぜ。その下をあけてみると、僕の脳は、或る部分欠けているのです。僕は金のために、それをあなたに売ったけれど、その金を使いはたしてしまった今日こんにち、惜しいことをしたと後悔しています。近来、どうも身体の具合がよくなくていけないのです。美枝子にも会いたいと思うが、こんな身体だから、遠慮しているんだ」

矢部青年は、ひとりでべらべらととりとめもないことを喋しゃべった。

宮川には、矢部のいうことが腑ふにおちないながらも気の毒になって、彼に金をやることにした。

矢部は、紙幣さつをありがたそうに頂いただいて、ポケットにおさめたが、そのあとで訴えるような目つきでいったことである。

「全くの話が、金に困って居らなければ――いや、美枝子という女を知らなかったら、僕の脳の一部を売ったりはしなかったんですよ。あんまりいい値段だったもんで、つい黒木博士のさそいにのっちまったんです」

宮川は、今やしみじみと、一年間の入院のあとをふりかえらずにはいられなかった。自分がこうして再生して、全快するまでには、こうした大きな犠牲もあったのであるか。前代未聞ぜんだいみもんの脳の売買だ。黒木博士は、やりもやった。またこの矢部青年も、よく売ったものである。

「一体、君はどの位の値段で、脳の一部とかを博士に売ったのですか」

「それは――」といいかけて、矢部は俄にわかに口をつぐんだ。そして悲しげな顔になって、「それは云うのをよしましょう。とにかく莫大ばくだいな金でした。大きな土地を買って、りっぱな邸宅をたてることができるくらいの金でした」

宮川は、脳の一部の値段が、そんなに高いものかと、聞いておどろいた。矢部の口ぶりからすれば、すくなくとも五六万円らしい。それだのに、彼は一年たつかたたないうちにその莫大な金を使いはたし、いまたった五十円の金に困って無心をしているのだ。なんとかいう女のためとはいえ、あまりにもはげしい金の使い方だった。宮川は、その点に不審をおこした。矢部のいうことは嘘言うそではないか。

「いいえ、うそではありません。たしかにそれくらいの金は握ったんです。それをどうして使ってしまったというのですか。それはですね」と矢部は宮川の方へ顔を近づけていった。「相場そうばをやったのですよ。相場ですっかりすってしまったのです」

「それは乱暴だな。自分の脳を売った金で、相場をやるなんて。そのなんとかいう君の愛人にだって、気の毒な話じゃありませんか」

宮川も、つい抗議めいたことをいいたくなっていった。

すると矢部青年は、首を左右にふって、灼やけつくような視線を宮川の面おもてに送って云うには、

「乱暴かもしれません。たしかに僕は相場で失敗したのですからね。ですけれど宮川さん。もしも相場で僕が何倍かの大金を儲もうけたら、僕はなにをするつもりだったか、あなたにお分りですか」

宮川は、矢部の激しい語気ごきにおされて、うしろへ身をひきながら、

「さあ、僕には、君がそのような大金をなんに使うつもりだったか分らないねえ」

とこたえた。すると矢部は、ぎりぎりと歯ぎしりをして叫んだのであった。

「ぼ、僕は、あなたに売った脳を買い戻したかったんだ。売った値段の二倍でも三倍でもなげ出すつもりだったんだ。だが、とうとう僕は失敗した。でも、いつか僕は、あなたの頭蓋骨ずがいこつの中から、きっと僕の脳を買い戻してみせる!」

ベンチのうえに真青まっさおになった宮川を尻眼にかけて、怪青年矢部はすたすたと足早に、向うに立ち去った。

禁断きんだんの女

ひとりになった宮川は、あらためて戦慄せんりつの復習をやった。

なんというおそろしい男だろう。

一旦自分の脳を売っておきながら、その金で相場をやって、儲かればその金で、自分の脳を買い戻そうというのだった。

買い戻すといっても、彼の脳は、いまはちゃんと他人の脳室に入っているのである。いくら金を積んでも、いやだといったら、彼矢部は一体どうするつもりだろうか。

暴力か? あの権幕けんまくでは、腕ずくで、持ってゆくかもしれない。暴力ならば、たとえ金がなくても実行ができるのだ。

(これはたいへんなことになった!)

と、宮川はぶるぶるとふるえた。

彼は、もう立ってもいてもいられなかった。そこで街をとおりかかるタクシーを呼びとめると、助けを乞うために、黒木博士の病院にとかけつけた。

「なあんだ、そのことですか。別に心配することはないですよ」

博士は、すこぶる落付いたものであった。

「ねえ、宮川さん。こういうことを考えたらいいではありませんか。たとえ矢部という男が百万の金を儂わしの前に積んだとしても、儂が手術を断ことわれば、それでどうにも仕方がないではないですか」

「それは本当ですか、博士」と宮川はおもわず博士の手を握りしめたが、「だが、あの男は暴力でもって、私の頭蓋骨をひらいて脳をとりかえすかもしれません」

「いくら暴力をふるおうと、脳の手術の出来るのは、自慢でいうじゃないが、この儂一人なんだから、儂がいやだといえば、矢部がいくら騒いでも何にもならんではないですか」

「そうですね。それでは、本当に安心していて、いいわけですね」

宮川は、はじめて気が落付くのを感じた。

その後、矢部はちょくちょく宮川のところへやって来た。そしてそのたびに、五十円だとか六十円だとかを、せびっていった。金さえもらえば、矢部は案外おだやかな人物であった。宮川は、ようやく本当に矢部に出会しゅっかい以来の落付をとりもどすことが出来たのだった。

宮川が、矢部事件による緊張から解放されると、こんどは生活が急に退屈になってきた。彼は女の友達が欲しくなった。

彼は思い出して、机のひきだしの奥から、例の青い革表紙かわびょうしの手帖をとりだして、にやりにやりと笑いながら、いくども読みかえした。大したことも書いてないながら、その簡単な日記文に現れるYという女のことが、妙に懐なつかしがられてくるのだった。

このYという女は、その後どうしたろう。この手帖の主人公と別れてしまったようだが、その後どうしているのであろうか。とにかく、このYという女は、手帖の主人公をたいへん恋こい慕したっているのだ。その主人公の筆蹟が、彼の筆蹟とおなじであるのは、一体どうしたわけであるか。

この疑問をとくため、彼は或る日博士をたずねて、この問題を出した。

「えっ、そんなものがあったかね」

「ありますとも。ここに持ってきました」

彼は青い手帖をとりだした。

博士は、深刻な顔をして、手帖の頁をくっていたが、俄にわかに笑いだした。

「ああ、これは儂わしのところの助手で谷口という男の手帖ですよ」

「でも、その手帖は、私の机の中にあったんです」

「そ、それですよ。じつは、谷口を、君のアパートの引越のとき、手伝いにつれていったんです。そのときポケットからとりおとしたのを、他の誰かが拾って、宮川さんのものだと思って、机の中に入れたのでしょう。いや、それにちがいありません」

「それはおかしいですね。筆蹟が、私のにそっくりなんです」

「こういう字体は、よくあるですよ。なんなら谷口をよんでもいいが、いま生憎あいにく郷里きょうりへかえっているのでね」

「私は、そのYという女に会いたくてしかたがないのです」

「えっ、それは駄目だ」と博士は目をむいていった。

「駄目です、駄目です。他人の女にかかりあってはいけない」

「本当に、そのYというのは、谷口さんの愛人なんですかね」

「そうです。それにちがいありません」

博士はひどくせきこんで、なるべく早く宮川を納得なっとくさせようとしている。

このとき宮川はいった。

「博士。私はちかごろになって気がついたんですが、いろいろな記憶を失っているんです。どうも気持がわるくてなりません。博士、どうぞ教えてください。あの黄風荘こうふうそうというアパートにいた前、私はどこに住んでいたのでしょうか。どうか、その前住居ぜんじゅうきょを教えてください」

博士は、首を大きく左右にふって、

「ねえ宮川さん。あんたはつまらんことを気にしていけないですよ。脳の手術はもうすんだが、まだ養生期ようじょうきだということを忘れてはいけないです。もうすこし落付くと、きっと記憶は元のように戻ってきます。それまでは、辛かろうが、一つしんぼうするのですな」

矢部の愛人

宮川の生活は、それ以来さらに退屈を加えたようであった。

或る日、例の青年矢部が金をもらいにやってきたとき、彼はいつになく、手をとらんばかりにして矢部を室内に招しょうじ入いれた。

「よく来たね。矢部君。きょうは君に八十円ばかり用達ようたしをしてもいいと思っていたところだ」

「ほんとですか」

矢部は、すぐれない顔色に、微笑をうかべていった。

「ほんとだとも。そのかわり、僕のどんな質問に対しても、君は正直にこたえるんだよ。いいかね」

「ははあ、交換条件ですか。ようございます。八十円いただけますなら、当分栄養をとるのに事かきませんから。なんですか、質問というのは」

それを聞くと、宮川はにやりと笑い、

「大いによろしい。いや、質問といっても、大したことじゃないんだ。君はちかごろ、美枝子みえこさんというひとに会うかね」

「美枝子にですか。いや、会いません。こんなあさましい窶やつれ方かたで会えば、愛想あいそうをつかされるだけのことですからねえ」

「それはへんだね。そんなに永く美枝子さんに会わないでいられるとは、おかしいじゃないか。君の愛情が冷えたのではないか」

「そういわれると、すこしへんですがね。第一ちかごろ健康状態もよくないことも、原因しているのでしょう。質問というのはそんなことですか」

「いや、もう一つあるんだ。その美枝子さんというのは、丸顔のひとで、唇が小さく、そして両頬に笑えくぼのふかいひとじゃないかね」

「ああ、そのとおりです。あなたは、どうしてそれを知っているんですか」

「いや、この前いつだか君から話をきいたことがあったじゃないか」

と、宮川は嘘言うそをついた。美枝子のことをなぜ宮川が知っているか。それをいえば、矢部はきっとびっくりするに相違ない。

「どうだい、矢部君。これから二人して、美枝子さんがどうしているか、その様子をそっと見にいってみようじゃないか」

「そ、そんなことを……」

と、矢部は尻ごみしたが、宮川はおっかけいろいろといい含めて、ついに矢部をひっぱり出すことに成功したのだった。

矢部の案内で、宮川は丸の内の或るビルの前へいった。

宮川は、新調の背広に赤いネクタイをむすんで、とびきり豪奢ごうしゃな恰好をしているのに対し、矢部は例によって、くたびれきった服に身体をつつんでいた。

やがて時刻とみえて、ビルの横合よこあいの出口から、若い男や女が、ぞろぞろと出てきた。

それを見ると、矢部はすっかり怯気おじけづいて、逃げてゆこうとした。宮川は、その手をしっかと握って、自分の傍にひきつけて放さなかった。

宮川は、ビルの中から出てくるおびただしい女たちの顔を、いちいち首実験していたが、そのうちに、矢部の手をぐっと強く握って、

「おい、あの女だろう。空色のジャンバーを着て、赤い細いリボンをまいた黒い帽子をかぶっているあの女――ほら、いまハンドバッグを持ちかえた女だ」

「そうです、美枝子ですよ。宮川さん、放してください。僕は美枝子に会うのはいやだ」

「そんな気の弱いことでどうするんだ。ほら、美枝子さんは、こっちへ来る」

そういっているとき、美枝子の視線が二人の男の方に向いた。そしてはっとした様子で、足早あしばやにちかよってくる。矢部は、宮川の手を力一杯ふりきって、逃げてしまった。

後に宮川はひとりで立っていた。彼の眼は、いきいきと輝いていた。まるでゲーテが、久方ひさかたぶりで街で愛人ベアトリッチェに行きあったような恰好であった。

「ああ美枝子さん」

「まあ、どなたですの」といって女は宮川につかまれた手をふりほどきながら、「ああ、あの人をつかまえてください、矢部さんを」と身体をもだえた。

「ああ、矢部君のことですか。彼はあなたに会うのが恥はずかしいといって逃げたんです。だが、私にまかせて置きなさい。わるいようにはしない」

「まあ、あなたは一体どなたですの。矢部さんのお友だち? ――ちょっと、皆がみていますわ。手をはなしてくださらない」

宮川は、いつの間にか、女を両腕の中に抱いていたのだ。彼女に注意されて、びっくりして腕を解といた。なぜ彼は、そんなに昂奮こうふんしたのか、彼自身にもふしぎなくらいだった。

「ねえ、美枝子さん。私はぜひあなたに会いたいと思って、矢部君に案内してもらったんですよ。どうです、これからどこかで御飯でもたべながら、ゆっくりお話をしようじゃありませんか」

宮川の唇から、すらすらとこんな言葉がでてきた。これもふしぎであった。

「まあ、はじめてお目にかかったのに、ずいぶん積極的ね。――でもいいわ、御馳走になりますわ。あなた、ほんとにすばらしい方ね」

そういって美枝子は、宮川のすんなりとした身体を背広のうえから撫でた。

待っていた怪女

その翌日のことだった。

宮川は、久しぶりで黒木博士を病院に訪ねたのだった。

「おお宮川さん。だんだん元気がつかれて、結構ですな」

宮川はそれには、挨拶あいさつもせずに、

「博士、今日は折いっておねがいに来ました。あの矢部君の残りの脳を買いとって、私のここに入れてください」

そういって彼は、自分の頭を指さした。

「それはまたどうしたのですか」

「いや、女の問題です。じつはこういうわけです」

と、語りだしたところによると、宮川は、手術恢復後かいふくご、頭の中に一人の女性の幻まぼろしがありありと見えるようになった。彼はその女性がたいへん慕したわしくて、なんとかしてその本人があるなら会いたいと思っていた。ところが、その幻の女こそ、矢部の愛人山崎美枝子やまざきみえこだということがわかった。

その美枝子に、宮川はきのうはじめて会った。そして幻の女は、まちがいなくこの女であると確たしかめた。美枝子もはじめて会った彼に、たいへん熱情をよせた。

彼が矢部のことをたずねたところ、彼女はきっぱりと説明した。

(矢部さんはあたしが大好きだというんです。そしていろいろと自分でも無理算段むりさんだんをしたようですわ。でもあたし、矢部さんがどうしてもすきになれませんのよ)

(でも、さっき、あなたは矢部君をよびとめたではありませんか)

(そうよ。だって、あの人がいろいろ無理をして買ってくれたものがあるんですもの。あたし、それをかえしたいとおもったのよ)

そこで宮川の胸もはれて、美枝子の手をとったというのだ。

そこまではよかったけれど、やがてのこと彼は、美枝子をすっかり憂鬱ゆううつにさせてしまったというのだ。

「それはどうしたわけですか」

博士は宮川の面おもてを熱心にみつめながら尋たずねた。

「それはつまり、私の心が冷たいといって、彼女が口惜くやしがりだしたんです」

「あんたはなにか冷淡れいたんな仕打しうちをしたのですか」

「そこなんですよ博士、はじめは私も熱情を迸ほとばしらせたようですが、あるところまでゆくと、急にその熱情が中断してしまったのです。そして俄にわかに不安と不快とに襲われたのです。そのとき頭の中に、別の一人の女の顔が現れました。それは日本髪を結った白粉おしろいやけのした年増の女なんです。その女が、髷まげの根をがっくりと傾かたむけ、いやな目付をして私に迫ってくるのです。払えども払えども、その怪しい年増女が迫ってきます。そういう不快な心のうちを、どうして美枝子に話せましょう。彼女にとって私が冷淡らしく見えたというのは、まだよほど遠慮した言葉づかいでしょう。きっとそのとき私は、塩を嘗なめた木乃伊ミイラのように、まずい顔をしていて、しゃちこばっていたに相違ありません」

「それで、なぜあなたは矢部氏の脳をほしがるのですか」

「わかっているじゃありませんか。矢部君の脳室の中には、美枝子を慕したう情熱を出す部分がまだ残っているのにちがいありません。それを切り取って、私にうつし植えてください。私の持っている金は、いくらでも矢部君にあげてください」

博士は、黙って考えこんだ。

「それからもう一つおねがいです。あのいやな日本髪の年増女としまおんなの幻が出るところの脳の部分を切り取って捨ててください。そうだ。もし矢部君が欲しいというのなら、その部分を、彼に植えてやってください」

「それはたいへんなことだ」

「博士、ぜひ早いところ、また手術をしてください。一体あの白粉おしろいやけのした年増女は、どこのだれなんですか」

博士は、その質問にはこたえないで、

「うむ、とにかく矢部氏に相談してみよう」

と、言葉すくなに云った。

それから一週間ほどして、黒木博士は再び脳手術にとりかかった。手術室には、右に宮川、左に矢部が寝かされていた。

こんどの手術は、わりあい簡単にいった。半年もすると、矢部の方は、まだいくぶん元気がなかったが、宮川の方はもう退院できるようになった。

「おい婦長。いよいよ宮川氏は明日退院させるが、君になにか意見はないかね」

「まあ、黒木博士せんせい。わたくしになんの意見がございましょう。この前は、宮川さんがたいへんな外傷がいしょうを負っていらしったせいで、あのように手術後の恢復も長引き、精神状態も危かしかったのでございましょうね」

「まあ、そんなところだろうよ」

看護婦長すら満足したほどの治癒ちゆ程度で、宮川は退院した。

病院の門を出て、彼が一つの町角まちかどを曲ると、そこには洋装の佳人かじんが待っていて、いきなり彼にとびついた。それは外ならぬ山崎美枝子だったのである。

「まあ、宮川さん。ずいぶん待ってたわよ」

「おお美枝子さん。こんどこそ僕は、君を失望させないよ」

二人は小鳥のようにたのしそうによりそいながら、向うの通りに消えた。

ところが、それから二三日たって、宮川は真白な救急車にはこばれて、黒木博士の病院へかえって来た。彼の顔には、白い布ぬのがかぶせてあった。博士は、その布をのけて宮川の後頭部をしらべたが、そこには描写びょうしゃのできないほどのひどい傷があった。

「警部さん、連れの女はどうしました」

「ああ、黒木博士、連れの女は、逃げてしまいました。行方を厳探中げんたんちゅうです」

「犯人の方はどうしましたか」

「ああ、八形八重やがたやえという年増女ですか。これはその場で取押とりおさえて、一時本庁へつれてゆきました」

「精神病院から逃げだしたんだそうですね」

「そうです。ですが、この八形八重という女は、どうも正気しょうきらしいですぜ。この前の事件で、刑務所に入るのがいやで、装っていたんじゃないですかなあ。被害者宮川のうしろから忍びよって兇器きょうきをふるったことを、こんどははっきりした語調でのべました」

「ふーん、そうですか」

「こんどまた被害者宮川が博士の手で生きかえれば、きっとまた殺さないでおくべきかといっていましたよ。まるで芝居のせりふもどきですよ、ははは」

「いや、この傷では宮川氏はもう二度と生きかえらないでしょう」

宮川は、彼が捨てた八形八重のため、二度も兇刃きょうじんをうけたのだった。博士は宮川のためにそれをいわなかったが、あの青い手帖に書かれてあったYという女はこの八重にちがいなく、もちろんあの手帖は宮川のものにちがいなかった。ただ手帖を記憶していた脳の部分が欠損けっそんしたので、その記憶を失っただけのことだ。

この事件以来、博士は脳の移植手術をやることを好まなくなった。

底本 / Source edition

底本:「海野十三全集 第7巻 地球要塞」三一書房
1990(平2)年4月30日初版発行
初出:「日の出」
1939(昭和14)年8月号
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:tatsuki
校正:浅原庸子
2003年2月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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書誌 / Bibliography
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海野 十三「脳の中の麗人」(新字新仮名)、底本『海野十三全集 第7巻 地球要塞』株式会社三一書房。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 003237_000160, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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