Soranoha

文学方法論

ぶんがくほうほうろん

平林 初之輔

はしがき

学としての文学、即ち、文学の理論が可能であるとすれば、従来多くの学者によりてなされたやうに、文学とか、芸術とか、乃至は美とかいふものゝ形式的定義から出発する代りに、先づ第一に、さういふ試みを抛擲して、純粋に経験的なもの、具体的なものから出発しなほさねばならぬ。

このことは、従来の文学理論がもつてゐた一種の美しさ、深遠味、神秘的な色彩を奪つて、これに甚だしく粗笨な相貌を与へるかも知れないが、それにもかゝはらず、このことは、学としての文学を建設するために、是非通過しなければならぬ一過程であり、一段階であり、どれほどそれが粗笨な理論であつても、それは明かに進歩であるとさへいはねばならぬ。占星術や錬金術から独立したときの天文学や化学が如何ほど幼稚で粗笨であらうとも、依然として、それらは、最も精巧な占星術や錬金術よりも、理論的には遙かに進歩したものであると同じである。

一切の理論は経験から出発しなければならぬ。単に経験から出発するだけでなく、経験に帰つて来なければならぬ。凡ゆる科学のうちで、最も抽象的な科学は天体力学として発達した。そして天体力学は、抽象的な理論からではなくて、星の運動の観測からはじまつたのである。そして、どんな小さな経験的事実、たとへば水星の近日点の移動の如き事実でも万有引力の理論全体の変革を迫るに十分だつたのである。何故かなら理論は経験にはじまると同時に、経験の検証に堪へるものでなければならぬからである。

然らば、文学に於ける経験的事実とは何か? 言ふまでもなく、それは、個々の文学作品である。この文学作品なるものは、色々な研究の対象となり得る。即ち、色々な視点から研究することができる。けれども、これに最も包括的な説明を与へ得るためにこれを社会学的視点から研究するより外に道はない。即ち、個々の文学作品が生み出された心理的過程だとか、作品にあらはれた技術上の諸問題だとか、さういふ事柄は一時抽象し去つて、専ら、文学作品を社会的事実として取り扱ふよりほかに道はないのである。尤もこれ等の心理的過程や技術的問題も亦その説明を社会学的方法のうちに見出されるのであるが。

上編  方法論

一

一つの文学作品――それが詩であつても小説であつても戯曲であつてもよい――が製作されるにあたつては、それが全くの気紛れ、全くの任意の所産でない限り、何等かの条件に制約される。若し、文学作品が何物の制約をも受けないならば、文学作品は理論的研究の対象にはなり得ない。吾々はたゞこれを気紛れに鑑賞することしかできないわけである。今日も、ごく稀れにはかやうな考へを抱いてゐる人もあるが、多くの方面に於て、見事な成果をあげた近代科学の方法は、かやうな懐疑論を生ずる余地を殆んど奪つてしまつたと言つてよい。学としての文学の可能なることは、従つて、こゝで疑問とする必要はないのである。

文学作品に課せられる第一の条件は作者である。作者の天分、気質、性格、境遇、趣味、思想、年齢、一言にして言へば作者の個人性は、文学作品を決定する第一の条件である。これは何人も否む能はざる事実である。シエーキスピアの作品には、どれを見ても、シエーキスピアの個人性が深くきざまれてゐて、注意深い観察者には、それがはつきりと感知できるであらう。スタイルの上に、手法の上に、表現の上に、思想の上に、用語の上に、まぎれもない個人性の刻印を看取することができるであらう。この個人性、独創性を没却して文学作品を論ずることは不可能である。ところが、信ずべからざることであるが、文学作品に於ける個人性を認めないやうな文学論が、最近には稀にある。文学活動を、すつかり、社会的環境によつて直接に決定されるものであるとする、ラヂカルな決定論の如きがそれである。しかし、かくの如き決定論が最近にあらはれたことは、別に不思議ではない。それは、従来の文学論に於て、此の個人性が、分析することのできない不可侵なものとして文学作品を決定する唯一絶対の条件であると見做されてゐたのに対する反動だからである。

言ふまでもなく、個人性は、文学作品を決定する、最も直接な、そして恐らく最も力強い条件であるが、文学作品を決定する条件は、決してそれだけではない。第二の条件として、吾々は、文学上の流派を挙げることができる。即ち一定の文学上の主義、主張のもとにあつまつた個々の文学者が、その集団の影響を受けるといふことである。たとへば、未来派の作品には、いづれにも共通した特徴があり、表現派の作品には、矢張り他の流派の作と区別された共通の特色がある如くである。吾々は、シエーキスピアの周囲に、歴史によつて抹殺された多くの小シエーキスピアが存在してゐたこと、ダンテの周囲に、彼と同じやうな文学的信条によつて、彼の作品と同じやうな作品を製作してゐた多くの小ダンテが存在してゐたことを知つてゐる。明治の文学を見ても、硯友社派と文学界派、或は民友社派との間に判然たる区別を吾々は認める。自然派と高踏派或はスバル派、早稲田派と三田派等の間にも可なり鮮明な境界を画することができる。種々の名称をもつた色々な流派が文学界に並存してゐることそのことが、既に、流派といふものが、文学作品を決定する重要な条件の一つであることを明瞭に語つてゐる。

しかし、吾々は、一層間接的ではあるが、その代り一層広汎な第三の条件を忘れてはならぬ。それは作者をとりまいてゐる一般公衆である。一般公衆の思想、観念、感情、一言で言へば、イデオロギイは、文学の流派そのものを決定し文学作品の作者の思想傾向を決定し、それによつて作品そのものを決定する最後の条件である。たとへば、ヴイクトル・ユゴオの『レ・ミゼラブル』を例にとらう。私たちは、先づこの作品にユゴオの個人性の強い現はれを見る。次にユゴオがその指導者の最も輝ける一人であつたロマンチツク派の特色をそこに見る。そして最後に、ロマンチスムの文学がその中で生育したところの当時の一般公衆のイデオロギイ即ちブルジヨアジーの勃興期のイデオロギイをそこに見るのである。

一の文学作品を、社会学的に考察せんとするならば、吾々は、その前に、まづ、以上の如き分析と概括との過程を経なければならぬ。かやうな、分析と概括との過程を経て、はじめて、文学作品は、一の社会事実としてあらはれて来るのであつて、これ等の過程を経ずして、いきなり、ある文学作品を社会的に意味づけようとしても、それは、せい〲気のきいた感想とはなるかもしれぬが、決して科学とも理論ともならぬのである。

二

併しながら、以上で分析が終つたわけでは決してない。以上に述べたところは、たゞ、文学作品を社会的事実として、社会と連関せしめたゞけである。文学を、社会学的研究の対象となし得るやうに整理したゞけである。これから先に、なほ一連の分析と概括との過程が残されてゐるのであり、しかも、真に重要なのは、これから先の過程であると言はねばならぬ。

吾々は、今、文学作品が、作者の個人性、作者の属する流派、それから最後に一般公衆のイデオロギイによつて決定されることを説明した。ところが、この一般公衆のイデオロギイなるものが、独立して存在し、進化し、発展してゆくものではない。これを条件づける、より根本的な要素がそこにあるのである。 

まづ第一に自然的条件を挙げるのが順序である。人間は一定の自然的環境の中に生れる。たとへば或る人は日本人として生れ、或る人はロシア人として生れる。日本人として生れたものは、生れながらにして黄色人である。日本の気候は大体温帯の気候であるが、寒暑の変化ははげしい。冬は空気が乾燥してをり、夏は湿度が高くて蒸し熱い。日本人の骨格は大体ヨーロツパ人よりも小さく、従つて体力も弱い。日本には火山が多く地震が頻々と起る。四面海にかこまれてをり、内地には山が多い。これ等の自然的条件は、日本の制度、文物、日本民族の気質、性格、思想等に直接間接に何等かの影響を及ぼさずにはおかない。否、これ等の自然条件は、それを舞台として営まれる人間の社会生活そのもの、社会そのものを決定するのである。そこで、吾々は、社会の最も基礎的条件として自然を挙げなければならぬのである。与へられた自然に適応しなければ、社会はつくれないのである。而して、自然条件の差異は、その上にできる社会に差異をもたらすのである。北極に近い氷原に於て農耕民族の社会ができることも不可能だし、アフリカの砂漠の中に工業文明が栄えるといふことも等しく不可能であるが如くである。

この自然的条件が、人間の社会に何等の影響をも及ぼさぬと考へるのは勿論皮相な見解である。今日の科学が、この影響を精密に分析し得るか否かは別として、自然の影響が存在するといふことは、最近の人文地理学や人種学や、土俗学等が十分に立証してゐることである。併しながら、この影響を過大視することも、ひとしく間違ひである。バツクルの文明史や、テエヌの芸術学に対して、私は十分の敬意を払ふものであるが、これ等はいづれも、社会に及ぼす自然力の影響を過大視してゐるものと見做さねばならぬ。そこには必要欠くべからざる分析が省略されて、自然力と社会との間に、粗笨な、不精密な、直接な方程式が設けられてゐる。テエヌがフラマンの絵画とその地質との関係を論じてゐるが如き、一見実に科学的な見方のやうであるが、その実、極めて都合のよい独断によつて議論が進められてゐることを吾々は発見するのである。又、彼が、イギリスの文学史を叙述するにあたつて、種族、時代、地理的環境等を過度に重要視してゐるのも、甚だ独断的であつて、文学の変遷は、左様な僅かばかりの条件によつて直接に決定されるものでは決してないのである。

しかも自然的条件は、一定の社会の特色を決定するものではあるけれども、自然的条件そのものは、極めて徐々にしか変化しないものである。地質発達史は、数万年、数十万年乃至数百万年の時間を包含することによりはじめて成立するのであつて、数百年、数千年位の短時日の間に、一定の自然条件が甚だしく変化することは殆んどないといつてよい。大正十五年と神武天皇の時代とを比べて見ても日本の気候には殆んど変化は認められぬであらう。古代ギリシヤ人と二十世紀のヨーロツパ人との間には殆んど骨格の相違は認められぬであらう。楊子江の沿岸の土地が肥沃であり、西蔵が不毛の地であるのは、秦の始皇の時代も現代も殆んど変りないであらう。

然るに、文学の全歴史は、せい〲数千年の間にひろがつてゐるに過ぎぬ。さうして、その間に甚だ顕著なる変化をしてゐるのである。若し、自然的条件が、文学の変遷を決定する唯一の原因であるとするならば、原因は殆んど変らないのに結果だけが目まぐるしく変つてゐるといふことになり、因果の原理は廃棄されねばならぬことになる。且つ又、人間は自然を征服する、たゞ自然に条件を強制されたまゝになつてゐるのではない。このことは近代の科学、及び工業の驚くべき進歩が立証してゐる。そこで、一社会のイデオロギイ、そしてそれを通じて文学をさま〲に変化させるには、自然的条件以外に、もつと直接的な、もつと短い時間に作用する条件がなければならぬといふことになる。

三

私たちは、一定の自然環境の中に生れて、私たちの意志と独立した自然条件を課せられることは前述のとほりである。併しながら、私たちの意志と独立に、私たちの生れない先から存在してゐるものは、たゞ自然的条件だけではない。そのほかに一定の経済関係がある。私たちは、生れおちると、否応なしに、一定の経済関係の中に入り込み、是が非でもそれに適応して住まねばならぬ。たとへば、元禄時代に江戸に生れた者と大正時代に東京に生れた者とは、同じ自然的環境に生れながら、まるで異つた経済関係の中に生活しなければならぬが如くである。

かくの如く、経済関係を時代によりて変化せしめる根本の力は社会の生産力であると解せられてゐる。生産力が一定限度まで進むと、従来の経済関係が維持せられなくなり、より高度な生産力に適応する経済関係が生じて来るのである。例へば人類が狩猟によりて生活してゐた原始時代には生産力は極めて幼稚であり、且つ狩猟の獲物は極めて不定であつた。かういふ時代には、各人がめい〱規則的に自己の衣食住に責任をもつわけにはいかない。そこで一部落の住民が共産体をつくつて、所謂原始共産制が出現する。又機械や工場ができて、社会の生産力が非常に進んで来ると、かくの如き機械や工場は、凡ての生産者がめい〱所有することは不可能でもあり不必要でもあるやうになつて来る。そこで、これ等の生産機関は一部少数の人の手に握られ、これに反して大多数の生産者は自己の生産機関をもたないで、生産機関の所有者に労働力を提供し、その代りに、賃銀を受けとつて生活するやうになる。これが即ち資本主義である。

かくの如き経済関係の変化は、必然的にその社会の政治形態の変化を決定する。即ち、ある社会の政治形態は、どうしてもその社会の経済関係に適応したものとならざるを得なくなつて来るのである。たとへば中世時代の手工業と幼稚な交通機関と土地の生産力、農業を基礎とする経済関係とは必然的に封建政治を生み、工業の発達と交通機関の進歩と、資本の抬頭と商業の拡大とは漸次国家の統一、ついではデモクラシイの政治を必要として来る。更に進んで、国際商業の発達、資本の集中と国際化とは、一方に於て帝国主義を生み、他方に於て政治の国際化を必要として来る。そして後者はおそらく社会主義の時代になつて、はじめて完全に実現されるであらう。

経済関係と政治形態との変化は、更に法制の変化を強制することは明白である。たとへば、資本主義経済がデモクラシイの政治を樹立すると、集会や結社を禁止する法律、政治的不平等を支持する法律などが、根拠を失つて、新しい民主的法律にかはられるが如くである。

経済、政治、法制の変化は、更に、その社会の道徳、習慣、思想、感情等の変化を条件づけることは争はれない。道徳は法制の恒久化したものに他ならぬ。たとへば、奴隷制度の時代には、奴隷を道具としてつかふことは何等道徳に反しなかつた。アリストテレスの如き大哲さへも奴隷に人格を認めなかつた。ところが、政治がデモクラチツクになり、奴隷の売買が禁止される時代になつて来ると、奴隷も一人前の人格を要求することが道徳的となる。又、封建時代には、町人百姓は生れながらにして貴族僧侶に比べると卑賎なものであると誰しも信じてゐたが、ブルジヨア社会になるとかゝる社会観は一変して、特権階級の地位は著しく低められる。一言で言へば、一時代の経済関係、政治形態、法制等は、その時代の社会生活、社会の百般の文化を条件づけると言へるのである。

こゝで注意しなければならぬことは、私が上に述べたことを機械的に、杓子定規的に解してはならぬといふことである。即ち、先づ生産力が生産関係に影響し、生産関係がその他の経済条件に影響し、経済条件が政治形態に、政治形態が法制に、法制が道徳習慣思想感情等に、次々に目白押しに影響して来るものであるなどゝ考へてはならぬ。社会現象はそれ程簡単ではない。私はたゞ、比較的根本的な要素を先に挙げたゞけに過ぎぬのであつて、以上の条件は互に他に作用を及ぼすと同時に他から反作用を受けてゐるのである。これ等の条件の及ぼす力は一方的でなくて相関的なのである。たとへば政治組織がその時代の政治思想を条件づけることは事実であるが、それと同時に、その時代の政治思想も亦、政治組織に対して活発に作用してゐるのである。ブハリンはこのことを社会の諸要素間の平衡と名づけてゐる。

四

以上で、私は、文学作品に及ぼす各種の力を大体分析し終つた。私が以上に挙げたゞけでも、それは甚だ複雑であるが、実際はこれよりも遙かに複雑であることを理解しなければならぬ。ある文学作品を生んだ地理的環境のみからその作品を論じたり、その社会の経済条件だけから、直接にその作品を論じたりするのが間違ひであると同様に、作者の天分のみから作品の価値を論じようとするのも無暴であることは、以上述べたところによりてわかるであらう。

ある文学作品の意義、価値を、科学的に決定するためには、作者の研究、作者の属する流派の研究、その時代の一般的イデオロギイの研究が必要であることになり、更にこのイデオロギイを十分に理解するためには、その時代の社会の、法制、政治、経済等の条件を審かにし、更にその社会のよつて立つ自然的環境をも探らねばならぬ。かくして吾々は、一の文学作品の科学的認識に到達したと言へるであらう。

理解の便のために、これを図式であらはすと上の如くなる。

社会生活が単純であつた時代には、この関係も単純である。たとへば、太古の狩猟民族にあつては、狩猟といふ生産様式が、直接に芸術の内容を条件づけてゐるが如くである。

ロシヤのマルクス主義の碩学プレハノフは、此の問題について興味あるワラツシエツクの説を引用してゐる。

「ワラツシエツクは原始民族の演劇の起源に関する自己の見解を次の如く要約してゐる。『此の演技の対象は次の如くである。(1)狩猟、戦争、漁撈、漕舟(狩猟民族、遊牧者)、動物の生活及び習慣。動物黙戯、仮面舞戯(やはり動物を表出するところの。プレハノフ)。(2)家畜の生活及び習慣(牧畜者)。(3)労働(農耕者)、米搗き、粉磨き、打禾、収穫、葡萄摘み』『……演出されるのは生存競争上絶対に必要な日常生活の事実である』」(恒藤恭氏訳『マルクス主義の根本問題』増補版九二―九三頁)

併しながら、社会生活が複雑になつて来ると、この関係も複雑して来る。私たちは現代のさまざまな文学作品を、現代社会の経済関係から簡単に説明することは不可能である。そこには文学作品の生産される条件を決定する無数の要素があり、それらの間に複雑な作用と反作用との網が構成されてゐるからである。この点についても私は、プレハノフの見解をそのまゝ引証するであらう。彼は次の如く言つてゐる。

「階級の区別のなかつた原始社会に於ては、人間の生産的労働は、彼の世界観及び審美心に直接に影響したのであつた。装飾術の動機は技術に存し、舞踏は――此の社会に於いて最要の芸術であるが――多く労働過程の芸術的再現に制限されてゐた。此の事は吾々の知り得る最近の発達段階に立つ狩猟民族に於いて特に顕著である。正にその故に吾々は原始人の心理がその経済的活動に倚憑することを証明するに当つて、主として狩猟民族を引例したのであつた。之に反して階級に分裂せる社会に於いては、此の活動の直接の作用は、前の場合ほど顕著でない。その理由も明白である。例へばオーストラリヤの土人の婦女にあつては、舞踊は草根採取の運動の再現たるのであるが、さりとて十八世紀のフランスの貴婦人たちの優美な舞踏の一つが、何等かの生産的活動を表現するものと推定することは勿論できない。此の種の婦人は一般に全然生産的労働に従事することなく、専ら『やさしき恋愛の学問』に耽つてゐたのであつた。オーストラリヤの土人の舞踏を理解するためには、婦人による草根採取が、この種族の生活に於いて如何なる役割をつとめるかを知れば足りるのである。けれども、ムニユエを理解するためには、十八世紀のフランスの経済を知つてゐるだけでは不十分である。此の場合には、非生産階級の心理を表白するところの舞踏が問題たるのである。此の種の心理によつて謂はゆる上流社会の『慣例や礼儀』の大部分は説明し得られるであらう。さればこゝでは、経済的因素と並んで心理的因素がその地位を認められるわけである。但し非生産階級そのものは社会の経済的発達の産物たることを忘れては不可ない。即ち経済的因素は、その地位を心理的因素にゆづる場合にも、尚ほその卓越せる重要さを失はないことに留意しなければならぬ。此の場合には、それは他の諸因素の影響の可能性及び限界を規定する点において感知し得られるのである。」(「前掲書」一一三―一一四頁)

プレハノフが、こゝで舞踏について言つてゐることは、完全に文学にもあてはまる(但し狩猟民族は文学をもつてゐないと考へねばならぬが)。しかしながら、プレハノフがこゝで述べてゐることだけは、複雑な社会に於ける文学と社会との相関関係を説明するには勿論不十分である。今日の文学は、否、古代の文学でさへも、少くも文学を有するほど発達した社会に於ける芸術作品は、たゞに直接に生産活動を再現してゐないのみならず、一般に、極めて高度にレフアインされた形に於いてしか経済関係或はその他の単一な条件の影響を受けてゐないのである。そこには無数の因素が存するのである。

私が以上に述べた文学研究の方法論は、大部分テエヌの祖述である。たゞ私は、テエヌの芸術論のもつてゐる自然科学的面貌にかふるに、社会科学的相貌をもつてした。これは、主として、史的唯物論の方法に負ふのである。そしてこの方法は今日までのところではプレハノフに最も多く負ふのであるが、今はプレハノフの方法論には深く触れないことにしておく。

下編 其の適用

一

近代の文学を最も大づかみにわけるならば、古典主義、浪漫主義、自然主義の三つに分けることができるであらう。私はこの短かい論稿に於ては、この三つの文学が、如何なる社会的条件に制約されて発生し、発達し、衰頽していつたかを辿ることで満足しなければならぬ。自然主義以後にも、重要な文学の諸流派が起つたことは事実であるが、それらは、あまりに雑多性と複雑性とに富んでをり、且つ、それらの起つた時代が、あまりに現代に接近し過ぎてゐるために、科学的研究の素材とするには不適当でもあるし、私の現在の企画は、たゞ、私の研究方法の例証を示すことにあるのであつて近代文学の諸相を残る隈なく研究することではないからでもある。

二

古典文学は、如何なる社会的環境のもとに発生し、成育していつたか? 私は、テエヌが、『芸術哲学』の中で、フランスの古典悲劇について語つてゐるところを殆んどそのまゝこゝで引用することによつて、この問に最もよく答へ得ると思ふ。

彼は、中世紀の文明と建築との関係を述べたあとで、フランスの古典悲劇に眼を転じて大要次の如く語つてゐる。

中世時代に人民を支配搾取してゐた封建諸侯の中に、漸次頭角を現はして他の同輩を征服するものが生じ、それが遂に国王といふ名のもとに、国民の首長となつた。十五世紀頃には、かつては同輩であつた諸侯は、国王麾下の将軍に過ぎなくなり、十七世紀頃には、その宮臣に過ぎなくなつてしまつた。しかしこの宮臣といふのは、たゞの家来ではなく、国王との関係は非常に親密であつて、国王も彼等を尊敬し、彼等は王城内に於いて国王とゝもに舞踏し、食事をともにするといふ風であつた。かくして、はじめには、イタリア及びスペインに、ついでフランスに、更にイギリスにドイツに北欧諸国に宮廷生活(la vie de cour)といふものが生じ、フランスがその中心となり、ルイ十四世に於いてその絶頂に達したのである。

かくの如き形勢の変化は、当時の人心に如何なる影響を及ぼしたか? 国王のサロンは国内に於て最も善美を尽したものであり、そこには、万人の亀鑑たるに恥しからぬ最も選ばれた貴族たちが出入する。この貴族は自ら生れながらにして高貴な人間であると考へてゐる。彼等は名誉を重んずること生命よりも強く、少しの侮辱に対しても身命をすてることを辞しない。ルイ十三世の時代に、決闘によつて殺された武士の数が四千にのぼつたのを見てもそのことはわかる。彼等の眼には身命の危険を軽んずることは、貴族の天分なのであつた。しかも彼等は封建精神の衣鉢を襲いで、国王を彼等の生れながらの主として尊敬し、国王のためには身命を鴻毛よりも軽しとした。ルイ十六世が処刑されたとき、彼の身代りにならんことを志願した武士の数が少くなかつたことなどもこれを証明してゐる。

それと同時に此等の宮臣は典雅上品であつた。国王自ら彼等に模範を与へたのであつた。ルイ十四世は侍女に対してさへも脱帽したといふことであり、或る公爵はヴエルサイユ宮殿の中を通るときには始終帽子を手にもつてゐたといふことである。その結果彼等は、常に上品な婉曲な言語で語り、相手に不快な感じを与へるやうなことを避ける技巧に長じてゐた。かくの如き貴族的精神は、実に、この時代の宮廷内に於て完成されたのである。

かゝる人々が、彼等にふさはしい快楽を求めるのは自然の勢である。彼等の趣味は彼等の人品と同様に高貴であり、典麗であつた。而して、当時の芸術作品はすべて、この趣味からつくられたのである。厳粛、荘重なプツサン、ルシユアール等の絵画、壮麗華美をつくしたペロオル及びマンサール等の建築、ル・ノオートルの設計にかゝる雄大なる庭園等がそれである。その他、当時の家具服装室内の装飾等に、すべて此の特色はあらはれてゐる。ヴエルサイユ宮殿を飾つてゐる神々の像、整然たる並木道、神話を象つた噴水、広々とした精巧な泉水、建築の飾りのやうに巧みに刈られた庭内の樹木等は、当代の趣味の精髄をこらした傑作である。併しながら、これを最もよくあらはしてゐるものは、当時の文学である。当時ほどフランス文学界の巨匠が雲集してゐた時代はない。ボシユエ、パスカル、ラ・フオンテーヌ、モリエール、コルネーユ、ラシイヌ、ラ・ルシユフコー、セヴイニエ夫人、ポワロオ、ラ・ブリユイエール、ブウルダルウ等皆当時の名文家である。ひとりこれ等の大家のみならず、当時の人々はみな文章をよくした。当時は、到るところに名文の模範があつた。対話も日常の書簡もすべて名文であつた。当時の宮女は、近代のアカデミイ会員よりも文章をよくしたとクーリエは言つてゐる。而してこの高貴端正の名文は当時の古典悲劇に於て最も燦爛たる光彩を放つたのであつた。

当時の悲劇は、貴族宮臣を喜ばせるためにつくられたものである。それ故に、作者は、あまりに残酷な真相は緩和し、舞台に殺人の場面を上せるやうなことはせず、その他叫喚、暴行、蛮行等の如き、サロンの優雅な空気に親しんでゐる人々に不快を与へるやうなことは一切避けた。それと同時に彼等は無秩序を嫌つた。シエーキスピアのやうに、むやみに空想や幻想に耽ることを避けた。劇の組立ては整然としてゐて、思ひがけない偶発事件などを挿入することを許さなかつた。そして対話には洗練された上品な語句が用ゐられた。人物はギリシアの英雄であつたが、服装その他はすつかり当時のフランスの宮廷を中心とする人士の好みに投じたものであつた。又人物の性格の如きも、すつかり当時のフランスの貴族趣味に投じたものであつた。たとへばラシイヌの描いたイフジエニイとウリピイドの描いたイフゲニイ、ラシイヌの描いたアシイルとホーマーの描いたアキレスを比較して見れば、這般の事情ははつきりとわかるであらう。テエヌの言葉をかりると当時のフランス劇は、「ゴチツク建築と同様に、人間精神の、くつきり整つた形態をあらはしてゐたので、そのために、それはゴチツク建築と同様に全ヨーロツパにひろまつたのである。」

テエヌは、封建制度から君主政治へ移つていつた経済上の条件を分析してゐないが、この政治形態の推移が、経済関係の変化によつて決定されたものであることは、今更らこゝで附け足して説明するまでもなく明かであるから、それはこゝでは省略する。

三

ロマンチスムの文学は如何にして起つたか? それは、古典文学が、宮廷生活を中心とする貴族のイデオロギイの表白であつたに反し、新興ブルジヨア階級のイデオロギイの表白であつたことは、多くの文学史家がひとしく認めてゐるところである。

ロマンチスム文学は、先づ第一に文学上に於ける煩瑣な形式の破壊を特色としてゐる。経済上に於ける自由主義は政治上の自由主義となつてフランス大革命を爆発させたのであるが、その同じ自由主義が、文学にあらはれてロマンチスムとなつて、古典文学の約束、慣例を一蹴したのであつた。ラシイヌの悲劇とユゴオのドラマとを比べて見ると、前者は規則そのもの均斉そのものであるといふ感じを与へるに反し、後者は無秩序そのものであるといふ感じを抱かせる。外見上に於ける無秩序は、内容上に於ける無秩序をも伴つた。そこには、新興階級の奔放な、解放された情熱が、何等の制約をも受けずに跳躍してゐる。

当時ブルジヨア階級にとつては、すぐ未来に『約束の国』『薔薇色の世界』が展開されてゐたのである。彼等は経済的には貴族の地位を奪ひ、政治的にも貴族政治を倒壊して第三階級のヘゲモニイを確立した。そこで観念的にも貴族を征服しなければならぬ。ロマンチスムの文学は、実に文学の戦線に於けるブルジヨア階級の貴族に対する闘争の表白であつたといへる。

もとより闘争といふのは必ずしも文字通りに解する必要はない。ロマンチスムの文学には悲しみや憂欝を主題としたものが決して少くない。それどころか、ロマンチスムの文学は感情の文学であるとさへいはれてゐる。しかしながら、感情を――それが悲しみの感情であらうとも――心ゆくまで、思ふまゝにうたふことは、古典文学の形式主義に対する反逆であり闘争であるといつて少しも差支へないのである。近松巣林子の世話物は、殆んど情死を主材としてをるに拘はらず、それは正に当時の町人的世界観の勝利をあらはしてゐると見てよいのである。義理と人情との葛藤といふ言葉は、社会学的に言ひあらはせば、旧支配階級のイデオロギイと新興階級のそれとの闘争といふことになる。義理といふのは形式化し硬化した旧世界観の遺骸に外ならず、それが人情と葛藤を生じて来るといふことは、とりも直さず、旧世界観が人心を去つたことを意味するのである。フランス革命が政治に於ける自由のための戦ひであつたやうに、ロマンチスムの文学運動――特にフランスに於けるロマンチスムの文学運動は何よりも先づ文学に於ける自由の戦ひであつた。ユゴオの『クロムウエル』の序文は、この文学革命の烽火であり、宣戦の布告であつた。彼によりて、悲劇はドラマに代られ、性格は血あり肉ある人間に代られた。ボワロオが『詩学』に於て精密に定義した史詩、抒情詩、牧歌、悲歌、警句詩等の別は一掃された。これ等の形式は作者が思ふまゝに混用して差支へなくなつた。用語、語調等に於ける古典文学の中庸主義は破られて、激越な語句、詩法上の破格が自由に許された。ユゴオの作品を見ると言葉の洪水といふ感じがする。かくの如き文学に於ける自由主義に最もふさはしい文学の品種は小説である。小説には面倒な約束が少しもない。ブルジヨア社会に於て、小説が一躍文学の主流的地位を占めて来たのは決して偶然ではないのである。

以上は、もとよりロマンチスムの文学の全特色を列挙したものではなくて、単にその本質的特色を挙げたのに過ぎない。ヨーロツパの各国に前後して起つたところのロマンチスムの文学運動には、民族や国土やその他無数の条件によつて、それ〲異つた色彩が見られる。私は、それ等を否認したり、閑却したりしてゐるのではない。たゞ、こゝでは、それ等を抽象し去つて、たゞ、当時の政治経済上の変動が、文学に如何なる変化を決定したかを例証的に述べて見たに過ぎないのである。

四

自然主義の文学は成熟期のブルジヨアの文学であるといへる。それは、ロマンチスムの文学が、新興の、若い、革命期のブルジヨアの文学であるといふのと同じ意味に於てゞある。

自然主義文学を発生せしめた社会的環境の特色を挙げると、ブルジヨア階級が成熟して来たこと、社会の物質的生産力が増加し、富、資本が社会の動力として最も重要な地位を占めて来たこと、自然科学が急激に勃興して来たこと等であるといつてよい。

ブルジヨア階級が成熟して、その社会的地位が安固となると、若い時代の情熱が消えて来るのは当然である。自然主義の文学がロマンチスムの文学に比べて情熱的でないのはそこに原因の少くも一半をもつであらう。ブルジヨア階級には、もはや戦ふべき権威も敵手もない、そこで翻つて自己を観察し省察するやうになつて来る。自然主義文学が個人主義(正しくいへば自己批判)の文学であるといはれてゐるのはそのためでもあらう。

勃興期のブルジヨア階級にとつては、前途に薔薇色の世界が展望されてゐたことは既に述べたとほりである。然るに一朝彼等が支配階級の位置に上つて見ると、以前の希望は何一つ現実化しない。自由は一部の大資本家に独占されてしまつてゐた。多数者にとつては、自由の夢は、一朝にしてさめて、眼前には苦い現実の姿が横はつてゐた。自然主義文学が没理想的であり、暗黒であり、暴露的であるのは、さうした社会環境にもとづくものであらう。

次に社会の生産力が増大して、これを所有し得る階級の勢力が俄然として抬頭して来たことは、凡ゆる精神文化を現金主義で彩つた。ロマンチスムの文学にまで色濃く残つてゐた貴族崇拝、古武士気質の礼讃、殉情主義、超俗主義等の思想は、自然主義の暴風によつて影をひそめた。ロマンチツクの人々が、敢へて文学作品の題材にし得なかつたであらうやうな、生々しい、醜悪な題材が、自然主義文学者には平気でとりあつかはれた。政治の平民化とゝもに、ジヤーナリズムが勃興して、それが文学作品にも影響を与へた、かういふ風になつて来ると、人生には、もうロマンスは見出されない。恋も、友情も、忠誠も、すべて平凡な現象として観察されるやうになつて来る。自然主義文学の一面の特色である平凡主義は、かういふ事情に胚胎してゐるのである。

けれども、自然主義文学に、最も本質的な影響を与へたものは自然科学の勃興であつた。この自然科学の勃興が、当時の経済事情――産業の機械化――と密接な関係をもつてゐることは、ここでは不問に附する。たゞ自然主義文学が、如何に自然科学に刺戟されて起つたものであるかを一二の例によつて示すだけにとゞめておく。

自然科学は、自然界に起る凡ての現象は、因果関係によつて決定されてゐることを信条とする。そして、前世紀に於て様々な科学者の努力によりて、自然現象の因果関係は次々に証明されていつた。この自然科学の偉大なる業績は、単に物質文明を一変させたのみならず、精神文化をも一変させるに十分であつた。

自然現象が因果関係によりて決定されてゐるとすれば、人間の活動も亦因果関係によつて決定されてゐるのではなからうか? かゝる思想は誰の頭にも自然に浮んで来る思想である。そして自然主義文学者は、この疑問に対して「然り」と答へたのである。

自然主義小説はフロオベルにはじまつたといはれてゐる。彼は、小説は、客観的であり、非個人的でなければならぬと主張し、人生の諸々の現象に対して小説家は非感傷的でなければならぬと信じた。それは、ちやうど科学者が自然物に対してとるべき態度と相通じてゐる。そしてランソンが言つてゐるやうに、この点では、自然主義は、古典主義への接近であり、古典主義文学の理性(raison)と自然主義文学の冷静(impassibilité)との間には少なからぬ類似があるといはれよう。此の信条を作品にあらはしたものが、近代文学の傑作の一つとして光輝を放つてゐる『ボヴアリイ夫人』である。これは、正に、作者は作中の人物に同情したり、心を動かしたりしないで、鏡のやうにこれをあるがまゝに写さねばならぬといふ彼の理論を具体化した傑作である。

けれども、ランソンが言ふやうにフロオベルはまだ芸術家であつた。ところが、ゾラに至つては科学者であり、自らも科学者をもつて任じてゐた。彼にとつては、小説は、他の精密科学と同様に法則科学となるべきものであつた。彼は人間の社会生活は、これを構成してゐる個人の心理現象に分析し得るとし、心理現象は生理学により、生理現象は物理化学によりて説明し得るものと考へた。そして、遺伝、環境等の作用を重要視する必要を力説した。『ルウゴン・マツカール叢書』即ち『第二帝制治下に於ける一家族の自然史』は、彼の抱負を実現しようとした近代文学の記念塔であると言へるであらう。

自然主義文学の主張を、最も組織的に、体系的に大成した人はテエヌである。ゾラが自然主義小説を『実験小説』と呼んだやうに、テエヌは自然主義の芸術論を『実験美学』と呼んだ。彼は古い美学と実験美学との相異を次のやうに言ひあらはしてゐる。

『古い美学は、先づ第一に美の定義を与へ、美とは道徳的理想の表現であるとか、美とは不可見のものゝ表現であるとか、美とは人間のパツシヨンの表現であるとか述べ、そしてこれを、法律の条文のやうに祭りあげて、それから出発して、或る作品を容ゆるしたり、罰したり、戒めたり、指導したりしたのである。……私がこれから試みんとする近代的方法は、人間の作物、特に芸術作品を、事実若しくは製作物と見なして、その特色を指摘し、如何にしてかゝる特色が生じたかを研究するに過ぎない。それはゆるしたり、禁じたりはしない。たゞ認証し、説明するだけである。』

これでわかるやうに、自然主義文学の理論、方法は、自然科学のそれと正確に同じであるといはねばならぬ。

結語

以上に略述したところによつて、私の試みはほゞ読者にわかつたらうと思ふ。

私は文学は科学的に、方法的に研究し得ることを前提として、如何なる方法を適用すべきかを明かにし、極く大づかみにこれが応用を試みたのである。しかし、私は、私の頭の中に考へてゐることを残らず発表し得なかつたし、発表した部分も多少明確を欠いてゐるかも知れぬと思ふ。何よりも私は、私の考へを裏づけるやうな材料を蒐集し、これを適当に整理する余裕をもたな過ぎた。そして、大部分を先人の、特にテエヌの説の祖述で充した。私は、文学の研究が、たゞ個人々々のまち〱の意見の発表に終始すべきものではなくて、それが科学となり得るものであることを、たとひおぼろげにでも、読者に信じて貰へれば十分である。

こまかしい部分、特に方法論の応用の部分には、誤解やまちがひが多分にあることゝ思ふ。併し、それは、この試みがまだ極めて幼稚な段階を進んでゐるに過ぎない事実に免じて、見のがしてもらへるだらうと期待してゐる。

私は科学の万能を信ずるものではない。科学的認識の限界を認めることに於ても人後に落ちるものではない。けれども、文学が科学的研究の対象になり得ないと考へる論拠を何一つ見出すことができないのである。文学作品を措いて文学はない。文学とは個々の文学作品を素材としてつくられた概念である。そして文学作品は、直接私たちの眼で読み、心で感ずることのできる具体的な存在である。これが科学的に研究できないといふなら、一切の科学の可能を否認しなければならぬ。人類は、かつて天界の現象を神化した。如何なる民族の神話にも天体や気界の現象が題材となつてゐないものはない。次に彼は単純な化学的現象を、魔法としておそれた。キリシタンバテレンの法などの中にもこの種のことが少なからず含まれてゐるだろうと思ふ。次に彼は生命現象こそ最後にのこされた神秘の不可侵の領域であると考へた。しかるに生理学や心理学は、生命の不思議を漸次征服してゆきつゝある。文学は観賞すべきものであつて、科学的に研究すべきものではないなどゝいふ主張は、砂糖は味ふべきものであつて、その化学的要素が何であるかなどを問題とすべきでないといふのと同様の愚説である。私は文学の研究が文学の鑑賞と両立しないものだなどゝは夢にも考へることができない。砂糖がどんな元素からなつてゐても、それが調味料としての価値を毫も失はぬのと同様である。(大正十五年、社会問題講座)

底本 / Source edition

底本:「平林初之輔文藝評論全集 上巻」文泉堂書店
1975(昭和50)年5月1日発行
※底本では、文中の「経済的因素」「心理的因素」「宮廷生活」「『第二帝制治下に於ける一家族の自然史』」に「*」の注記記号のようなものが附してありますが、それに対応する注記が記載されていないので、この記号は削除しました。
入力:田中亨吾
校正:松永正敏
2004年5月31日作成
青空文庫作成ファイル:
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書誌 / Bibliography
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平林 初之輔「文学方法論」(新字旧仮名)、底本『平林初之輔文藝評論集 上巻』文泉堂書店、1975年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 003198_000221, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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