Soranoha

列のこころ

れつのこころ

宮本 百合子

このごろはどこへ行っても列がある。列に立ってバスにのって用達しに出かけて昼ごろになり、日比谷の公会堂のよこの更科さらしなを通りかかったら、青々と蔦をからめた目かくしをあふれてどっさり順番を待っている人々の列があった。この小さい蕎麦店の入口はバスの入口のようにたった一つではなくていかにも公園のなかの店らしくからりと三方あいているし、テーブルはいくつもあるから、列も単純な一列ではなく、うち見たところテーブルに向って今や盛に蕎麦を箸にすくい上げてはチューチューと喉へすべり込ましている人々の背中へつめかけて、ぎっしりと犇ひしめきよせて順を待っている。一人が椅子から腰を浮かすや否や、背後に待機していた人が極めて敏捷に、そのあとへ坐る。立った人の脚の片方がまだ椅子のところからどききらないうち、もう新手のひとの片脚はその片脚のわきに来ている。その位のすばしこさである。大抵のひとが上着をぬいだ姿である。帽子なしで、何とも云えないくさくさしたような気の立ったような顔つきで、蕎麦のたれの匂いの漂った店の内外に溢れている。

力仕事をするひとたちは、この頃五度ぐらい食べないとやれないそうだ。仲仕がトラックにのる仕事だと大変よろこぶという実際の例がある。トラックに乗っている間はともかく腹が空かないから。

おなかが空いたときの顔は誰しも些か険相で、男のひとたちは女よりもその表情が率直だと思う。おなかが空いた落付かない顔は、ああやって密集して順番を待っている人々の表情のなかで、更に一層焦立たしいような、焦立たしさを持ってゆく当途のないために猶更焦立たしいというようなかげを帯びて眉のあたりや口元に漂っている。タバコを吸いながら待っているというようなものが殆どないことも目につくことである。素破すわと云えばすぐ辷り込めるよう重心を片足において目をくばって待機しているのである。

そうやって待っているのが男ばかりなのも一つの光景であると思う。屈強な男ばかりがつめかけるのである。

女はつつましくうちからもって来るお弁当を使うのだろう。毎日のことで格別そちらの群集に目を向けるでもなく、若い女事務員が小さい組になって散歩している。水色の交織の事務服が大きすぎるので深い肩揚げのついたのを着た娘さんたちも歩いている。

そこから、次の用件で芝の方へ行ったら、増上寺前のプールの外の日除けの下に少年少女の密集があった。超満員のプールがあいて自分たちの番の来るのを待っている子供たちである。

市民の生活に列をつくるならわしが出来たことは、何といっても日本の新しい秩序の表示であると思う。

大体、近代社会の生活では、列というもののもっている心理も極めて複雑であり意味も深長だと思う。先ず、列は何かの程度でそれがふだんの状態ではないという性格をもっている。行進したり堵列したり、様々の列は、儀式の場合にもつくるものである。様式化した人間群の動かしかたとして、儀式の性質にふさわしい様式と装飾をもって列をつくる。その場合、列をつくっている一人一人の心持は、その儀式にかなった様式に順応している面で統一されているわけであろう。ふだんのままのその一人一人の心理の全立体面まるのままではなくなっている。

起きるときから寝るときまで列で暮す兵隊は、一つの目的のために統合された人間の典型であるし、そこでは市民生活としてはふだんのものでないものがふだんの姿となっているということが、全く特質となっている。

もとから市の無料宿泊所や本願寺のお粥の接待に列の出来ていたことは周知の事実でもある。砂糖が切符になる前に砂糖やの前に出来ていた列、この頃は食事時間に丸の内辺の食堂のぐるりにも出来る列。列は整頓の形でありながら、常にその奥に何か足りないもののあることを語っているのはまことに意味ふかいことではないだろうか。だから、いろんなもののための列が国民生活の日常に多くなって来ることはそれにつれて、それぞれの国の歴史の緊張の度合いが知られるということにもなる。

今までもよく外国がえりの人たちが、あっちでは市民の訓練がよくゆき渡っていて、何かあると誰云うとなく皆整然と列をつくって事を運ぶ、と褒めた。しかし市民が自分たちですぐ列をつくってゆく心理や習慣を持っているということは彼等にとって決してなま容易やさしい生活経験から身につけられたものではないにちがいない。第一次の大戦というものは、彼等に深刻な社会的な逼迫から人間のつくる列の真意をさとらせていたのだと思う。列は、儀礼と礼節とのためにもつくられるけれど、列が生じるのは、一に対する十の必要が動機である。そこに列の生きて脈搏つ真の動脈がひそめられている。その脈搏は生きものだから、事情によっては搏ちかたも変って来る。列というものは元来が案外動的な本質をふくんでいるのである。

それやこれやから、国民生活の中に列が多種になり、長くなり、どっさりになるにつれて、謂わば列そのものが国民の身をもって示している課題の種類の多さと複雑さとさし迫った解決の必要を語るものであることは興味ふかい点だと思われる。市民の生活における列の問題は、ともかく誰でも列をつくるようになって一応混雑がふせげるようになったからいいのだとは云えなくて、さてこの頃は誰でも自然列をつくるようになったのだからな、と却ってそれから先に本当のとかれるべき問題がひかえていることを強調されなければならないところに意味がある。

旧のお盆にかけて、上野駅の大雑踏はあらゆる都下の新聞に写真を入れて報じられた。列は改札口にぎっしりつまって構内から溢れ、蜿蜒えんえんと道路を流れて山下の永藤ながふじパンの前まで続いた日があったそうだ。何とも云えない光景だったとそれをみた人が印象をつたえた。予定した汽車に乗れないどころか、いつの汽車にのれるか当もないのに、しかし列をはなれたら金輪際切符は買えないのだから暑中の歩道に荷物を足元におき、或はそれに腰かけて苦しそうに待っている老若男女の姿は、確に見る人々の心に、何となしただごとではない今日の一局面を印象づけたにちがいない。

東京駅を出入りする旅客たちとはちがって、ふだんでさえ上野へ着き上野から東北に向ってゆく旅人たちにはどことなく生活の陰翳が濃い。皮膚や体つきが生活を語っているような人々が集る。荷物もその陰翳にふさわしくて、たとえば真新しいバスケットを提げていれば、その真新しさに或る悲しさがあるような雰囲気である。そのような上野独特の旅客が山下まで溢れた中には、旧盆に故郷へかえる男女の産業戦士が大部分を占めていることも新聞に報告された。

同じ頃にやはり新聞が、青少年男女の産業戦士の病気になる率が急騰していることを報じていたことは、その上野駅頭の大群集の写真との対照で、今なお生々しく私たちの感銘に刻まれていると思う。去年の春ごろ、同じような荷物に漠然とした人生への希望をも持ち添えて職業紹介所の募集に応じて上京した少年少女や青年たちは、去年にくらべると非常な率でこの一年間に病に犯されている。

切符を買うために、上野駅を溢れた列は永藤のところまでものびたのであったが、その中に何百人が、もう再び東京にはかえらない体となって交っていたことだろう。田舎から出たばかりの清浄な肉体は、清潔であるが故に悪条件の中ではもろくて、これらの産業戦士たちが第一に犯かされるのが結核、次は脚気、つづいて視力障碍である。大抵の雇主は、健康保険三ヵ月の期間中はおいて、それが切れると、あらゆる病を故郷の土さえ踏めば癒ることにして、生れた家へかえしてしまうのだそうだ。黙って汗にまびれた顔を不安にひきしめて、それらの若いものたちも列をつくっていたのだ。列というものの実質の深さ哀れさがここにもあると云えないだろうか。一枚の汽車切符のための列に時代のかげと人生的感想は充ちみちている。

待合や料理店のまわりに大なり小なり列をなしていた高級車は、人目にたってはいけないことになった。自分たちの列を消すことの出来る力をもつ人々というものもあり得るわけだ。つい先日、玉の井辺のうねり曲った小道から狩り出されて警察のひろい板敷の上に並んで教訓をうけている若い者たちの写真が出ていた。こういうときの彼等も列になって頭を垂れて叱られている。此等の若い者たちは、自分たちの歪められた青春の列を消す力も才覚も場所も知っていないのだ。思えば列とは何と一抹の憫然びんぜんさをも漂わしていることだろう。

列が日常の生活に生じて来る時代の空気は微妙で、列になる前の気分とはおのずと異っているところもいろいろ考えさせる。この春ごろだったか、作家の武田麟太郎氏が、或る短い文章のなかで、何をッの意気について書いていられた。乗物の中へ一人の男が入って来た。そして、或る夫婦ものとそのとなりの勤人風の男との間にある僅の隙間へ、ぎゅっとわり込んだが、もとより大人一人分には無理なところだから、夫婦ものも迷惑そうにするし、勤人もそりゃ無理だという気持を示した。だが言葉に出しては云わない。すると割込んだ男は夫婦ものに向って何をッという気勢を示し、次に勤人に向って、何をッという威脅を示し、完全に一人分の席を占めてしまった。その仔細を見ていた武田氏は、この意気だ、と感服したということがかかれていた。

この武田氏の感服をそれだけの意味でとることは、恐らく筆者自身の希望ではないのだろうとも思う。文学というものに絡めて含蓄されているものもあるだろうけれども、列の心理をいろんな面から考えてゆくと、やっぱり或る対比として心に浮んで来る。何をッという気勢は云わば互の気力の渡り合いで、気力のきついものが、時によっては理非をこえて勝をしめる。列の前期の世相の殺気めいたものだと思う。

列の感覚というものは、どうやら違うようだ。岸田国士氏は、日本人が列のきびしさを知らず、前へわりこまれてもそれを黙っていることを非難しておられた。これを逆に云えば、列というものは、それが列だからという理由で、見知らない人が見知らない人に向って、列からはみ出してはいけません。勝手に前へ入ってはなりません。一番しまいの方に廻りなさい、と指図し或る意味では指導し世話をするとともに世話をも焼く権利のようなものを互に認めあうものだということになる。各人の生活の実体は列に立ったとき、最も単一な面で均等されるわけである。列の心理の一面には、俺だろうがどこの誰様だろうが、というところがある。そして、何となしほかのひとのことに口出しをするのが面映ゆくなくなるような心理の傾きは興味ふかく注意をひかれる。

街の風景に列のある時代の空気は、ものの考えかた感じかたにも列のような癖をつけて、専門外のことへも専門外の人間が口出しをして一向我から怪しまなくなって来る。つまり列の自信がのりうつるのだろう。列を何故つくっているかという理由の大きく深い根源をとかく忘れて、列に立つ自信ばかりが自己目的めいて正面にはびこることは、果して誇りとしていいのだろうか。

パーマネントの問題は一度おこって消えて、最近では女がそんな髪をしてはならないことにきまった。女の便利不便利ということからではなくて、それを見る男の人々の感情へのはばかりが理由となっている。女とすれば、いやな気持をさせたいとは思わないからやめるにちがいない。でも、列というものがその力でどこかをみっしみっしと軋らせはじめると、一番弱々しい箇所に向ってのしかかるのは列の力学とでもいうものだろうか。昔から女は、外で亭主がむしゃくしゃしてきた鬱憤をはらす対象として躾けられて来た。女の生活の眼もいくらかは開いて、そのような列の力学をも、歴史の経てゆく容相の一つとして今は理解してゆくのかもしれない。

野菜ものの価が下るというよろこばしい知らせは、市場に列をなしている主婦の胸をくつろがせた。しかし、下ると同時に野菜の出まわりは、平時の四割に減ってしまった。列に立つ女たちは、自分たちの列のどの場所でも、そのようにして素ばしこく姿をくらます野菜を堰せきとめる可能はもっていない。

これから、時代は益々列をつくる方向に向っていると云えるだろう。一つの国の人間が先ず列をつくることを教えられ、やがて自分たちで列をつくるようになり、追々自分たちの生活の実際の向上のために列を組むように成長してゆく過程は、実に多岐であり波瀾重畳であると思う。ひとくちに人の列と云えばそれまでだが、列をなす一人一人に二つの眼と口と心と生涯とがあるのだと思えば、おそろしき偉観と思えるのである。〔一九四〇年十月〕

底本 / Source edition

底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社
1979(昭和54)年7月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第九巻」河出書房
1952(昭和27)年8月発行
初出:「大陸」
1940(昭和15)年10月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年5月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

この表示について / About this rendering

記録は下にリンクした署名済みの TEI ファイルです。このページはそれを読むための一つの形です。読みが複数ある箇所は一つだけを本文に示し、もう一方は語の title に残しています。 / The record is the signed TEI file linked below. This page is one way of reading it. Where the text has more than one reading, the page shows one of them and keeps the other on the word itself, in its title text.

リリース / Release
913b24012e1626b47bebf5a14fd31773728229efdb088f1ceb934717c1ac800c
TEI
/works/003181_000311/tei
プレーンテキスト / Plain text
/works/003181_000311/plaintext
書誌 / Bibliography
/works/003181_000311/

宮本 百合子「列のこころ」(新字新仮名)、底本『宮本百合子全集 第十四巻』新日本出版社、1979年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 003181_000311, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

引用のしかた / How to cite