美しき<ruby><rb>脛</rb><rt>すね</rt></ruby>

いちばん明るい窓の下で、<ruby><rb>毛脛</rb><rt>けずね</rt></ruby>を撫でているところへ、例によって案内も<ruby><rb>乞</rb><rt>こ</rt></ruby>わず、友人の<ruby><rb>鳴海三郎</rb><rt>なるみさぶろう</rt></ruby>がぬっと入ってきた。

「よう」と、鳴海はいつもと同じおきまりの<ruby><rb>挨拶声</rb><rt>あいさつごえ</rt></ruby>を出したあとで、「そうやって、君は何をしているんだ」と<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いた。

「うん」

と、私は生返事をしただけで、やっぱり前と同じ動作を続けていた。近頃すっかり<ruby><rb>脂肪</rb><rt>あぶら</rt></ruby>のなくなったわが<ruby><rb>脛</rb><rt>すね</rt></ruby>よ。すっかり瘠せてしまって、ふくらっ<ruby><rb>脛</rb><rt>はぎ</rt></ruby>の太さなんか、威勢のよかったときの三分の一もありはしない。

「つまらん<ruby><rb>真似</rb><rt>まね</rt></ruby>はしないがいいぜ」

そういって鳴海は、私に向きあって<ruby><rb>胡坐</rb><rt>あぐら</rt></ruby>をかいたが、すぐ立上って、部屋の隅から灰皿を見付けてきて、元の座にすわり直した。私は毛脛を引込めて、たくしあげてあったズボンを足首の方まで下ろした。

「……」

「まさか君は、大切な二本の脚を……」

「何だと」

「君の大切な脚を、<ruby><rb>迎春館</rb><rt>げいしゅんかん</rt></ruby>へ売飛ばすつもりじゃないんだろうね。もしそうなら、僕は君にうんといってやることがある」

私は友のけわしい視線を、中性子の嵐の如く全身に感じた。頭の中の一部が、かあっと熱くなった。

「迎春館？　ほう、君は迎春館を知っていたのかい」

「あんな罪悪の殿堂は一日も早くぶっ<ruby><rb>潰</rb><rt>つぶ</rt></ruby>さにゃいかん。何でも腕一揃が五十万円、脚一揃なら七十万円で買取るそうじゃないか」

「ふふふふ、もうそんなことまで君の耳に入っているのか」

「迎春館などという美名を<ruby><rb>掲</rb><rt>かか</rt></ruby>げて、そういうひどい商売をするとは<ruby><rb>怪</rb><rt>け</rt></ruby>しからぬ。そうして買取った手足は、改めて何十倍何百倍の値段をつけて金持の老人たちに売りつけるのだろうが……」

「だがねえ鳴海。この世の中には、そういう商売も有っていいじゃないか。老境に入って手足が思うようにきかない。方々の機能が<ruby><rb>衰</rb><rt>おとろ</rt></ruby>えて生存に希望が湧いてこない。そういう時に、若々しい手足や内臓が買取れて、それが簡単なそして完全な手術によって自分の体に植え移され、<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ち若返る。移植手術、大いに結構じゃないか」

「いや、僕は何も移植手術そのものが悪いといっているのじゃない。移植手術のすばらしい進歩は、人類福祉のために大いに結構だ。しかしこの種の手術を<ruby><rb>施行</rb><rt>しこう</rt></ruby>するについては、<ruby><rb>瀬尾</rb><rt>せお</rt></ruby>教授のやっておられるように、<ruby><rb>飽</rb><rt>あ</rt></ruby>くまで公明正大でなければならぬと思う。つまり瀬尾教授の場合は、例えばここに交通事故があって肝臓を破って死に<ruby><rb>瀕</rb><rt>ひん</rt></ruby>した男があったとすると、これを即時手術してその肝臓を<ruby><rb>摘出</rb><rt>てきしゅつ</rt></ruby>して捨て、それに代って、在庫の肝臓を移植する。その肝臓というのは、肝臓病ではない死者から摘出し、<ruby><rb>予</rb><rt>か</rt></ruby>ねて貯蔵してあったものであり、そしてそれはその遺族が世界人類の幸福のために人体集成局部品部へ進んで売却したものなんだ。まあこういうのが公明正大で、瀬尾教授の手術を受ける者は一点の後めたいところもない。これでなくちゃいかんよ」

と鳴海三郎は、真剣な顔付になって大いに弁じた。しかし私は一向感心しなかった。移植手術に公明正大か否かを問う必要はない。要するに移植手術を受けた者は幸福になれるのだから、それでいいのだ。むしろ問題は、その手術の<ruby><rb>手際</rb><rt>てぎわ</rt></ruby><ruby><rb>如何</rb><rt>いかん</rt></ruby>にあるだろう。

「どうだ<ruby><rb>闇川</rb><rt>やみかわ</rt></ruby>。聴いているのか」

「うん、聴いている。で、君は迎春館の話を一体誰から仕入れて来たのかね」

「或る新聞記者からさ。<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>もその記者は、<ruby><rb>倶楽部</rb><rt>クラブ</rt></ruby>で仲間からの又聴きなんだそうな。その話によると、迎春館は表通を探しても見つからないそうだが、一度その中へ飛込んだ者はその繁昌ぶりに<ruby><rb>愕</rb><rt>おどろ</rt></ruby>かされるそうだ。そして何でも、僕たち小説家仲間に、迎春館のことについてとても詳しい奴がいるんだそうな、<ruby><rb>生憎</rb><rt>あいにく</rt></ruby>その名前を聞くのを忘れたがね。おや、何を笑うんだ」

私はぎくりとして、笑いを引込めた。そして硬い顔になっていった。

「事実、迎春館主の<ruby><rb>和歌宮鈍千木氏</rb><rt>わかみやどんちきし</rt></ruby>の<ruby><rb>技倆</rb><rt>ぎりょう</rt></ruby>は大したもんだ。和歌宮鈍千木氏は……」

「そのワカミヤ、ドンチキとかいうのは主任医なのかね」

「そうだ。頭髪も頬髭顎髯も麻のように真白な老人だ。しかし老人くさいのは毛髪だけで、あとの全身は青春そのもののように溌溂としている。尤もお手のものの移植手術で修整したんだろうが……」

「<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れた、呆れた。いつの間に、君はそんな悪魔と近づきになったんだい。悪いことはいわん。その和歌宮館主には、もう近づくなよ。そんなところへ出入りをしていると、<ruby><rb>末</rb><rt>すえ</rt></ruby>にはとんでもない目にあうぞ」

純情一本気の友は、私を<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>みつけるようにしていった。

「君も一度、和歌宮先生に会ってみるのがいいよ。すると、きっと今の言葉を取消すだろう」

「ちえっ、誰がそんな汚い奴の傍へ近づくものか」

「その和歌宮先生が、私の長い脛をつくづく見ていうのだ。“あなたの脛は非常に立派だ。四十三<ruby><rb>糎</rb><rt>センチ</rt></ruby>という長い脛は比較的めずらしい方に属するばかりか、あなたの<ruby><rb>脛骨</rb><rt>けいこつ</rt></ruby>と<ruby><rb>腓骨</rb><rt>ひこつ</rt></ruby>の形が非常に美しい。脛骨の正面なんか純正双曲線をなしている”とね。そして、もしこれを売る意志があるのだったら、九十九万円には買取るというのだ」

「ばかなことは、よせ。ここではっきりいって置くぞ。天から<ruby><rb>授</rb><rt>さず</rt></ruby>かった神聖な躯を売却していいと思うか。それも物質的欲望のために売却するなんて、猛烈に汚いことだ。万一君がそんなことをすれば、もう絶交だぞ」

鳴海は、膝で畳をどんどん叩いて<ruby><rb>埃</rb><rt>ほこり</rt></ruby>をひどく舞上らせながら<ruby><rb>喚</rb><rt>わめ</rt></ruby>いた。でも私はいってやった。

「売った方がいいという事情があれば、売ってもいいじゃないか。それにそういうものを売るか売らないかは、僕ひとりが決めていいのだ」

「それは許せない。売ってはならない。それに……それに、もし<ruby><rb>珠子</rb><rt>たまこ</rt></ruby>さんがそれを知ったら、どんなに嘆くと思う。君達の間に、きっと<ruby><rb>罅</rb><rt>ひび</rt></ruby>が入るぞ、それも別離の致命傷の罅が……」

「そんなことが有ってたまるか」

「大いに有りさ。考えても見給え、珠子さんが……」

「珠子が、それを望んでいるとしたら、君はまだ何かいうことが有るかね」

「……」

驚異の技術

もともとこの記録は手記風に綴りたき考えであった。ところが書き始めてみると、やっぱりいつもの癖が出て小説体になってしまった。やむを得ず筆を停めて<ruby><rb>胡魔化</rb><rt>ごまか</rt></ruby>した。今日こそは手記風に書きたく思う。

うるさき鳴海三郎は、いくら<ruby><rb>追払</rb><rt>おいはら</rt></ruby>っても<ruby><rb>懲</rb><rt>こ</rt></ruby>りる<ruby><rb>風</rb><rt>ふう</rt></ruby>を見せず、毎日のように押掛けてきては<ruby><rb>碌</rb><rt>ろく</rt></ruby>なことをいわない。全く困った友だ。

彼は、必ず決って私が両脚を売るつもりでいることを非難する。そして始めは、珠子のことを引合いに出して<ruby><rb>諫</rb><rt>いさ</rt></ruby>めたもんだが、私がそれをやっつけて、珠子がそれを望んでいることを明らかにしてやったら、それはもういわなくなった。その代りに、今度は珠子を非難し、君の脚を売ることを望むような女性は<ruby><rb>外面</rb><rt>がいめん</rt></ruby><ruby><rb>如</rb><rt>にょ</rt></ruby><ruby><rb>菩薩</rb><rt>ぼさつ</rt></ruby><ruby><rb>内心</rb><rt>ないしん</rt></ruby><ruby><rb>如</rb><rt>にょ</rt></ruby><ruby><rb>夜叉</rb><rt>やしゃ</rt></ruby>だといって<ruby><rb>罵倒</rb><rt>ばとう</rt></ruby>した。そればかりか、近き将来、珠子さんはきっと君を裏切って離れて行くに違いないなどと、甚だ不吉な<ruby><rb>言辞</rb><rt>げんじ</rt></ruby>を<ruby><rb>弄</rb><rt>ろう</rt></ruby>して、私を極度に不愉快にさせた。私は彼に対し、直ちに出ていってくれといったが、そんなことで立上るような彼鳴海ではなかった。そして今度は攻撃の目標を変え、和歌宮先生の手術にけちをつけるようなことを並べ出した。

「僕は和歌宮某がどんな手術名人か知らぬが、手術の<ruby><rb>痕</rb><rt>あと</rt></ruby>はやはり醜く残るんだろう。つまり接いだ痕は赤くひきつれたりなんかして、醜怪な<ruby><rb>瘢痕</rb><rt>はんこん</rt></ruby>を残すのだろうが……」

私は強く首を左右に振った。

「君は素人のくせに、和歌宮師の手術の手際にけちをつけるなんてよろしくないよ。この十年間に外科手術は大発達を遂げた。そしてその第一は、今までのような醜い<ruby><rb>痕跡</rb><rt>こんせき</rt></ruby>残存が完全に跡を絶ったことだ。だから顔面整形手術の如きものが、どんどん行われるようになったのだ。しかも和歌宮師の手術は、この点では当代に並ぶものがない。実際僕は先生のところで何十人、いや何百人もの手術者を見たが、痕跡らしいものを見付けたことは只の一度もない」

「ふうん、そうかね。まあ、それならそれとしてだ、太い脚の代りに細い脚を<ruby><rb>接</rb><rt>つ</rt></ruby>いだときはどうなるのか。継ぎ目の皮には痕跡が残らないとしても、太い脚に細い脚をつければ当然そこのところが段になるではないか。そうなるとやっぱり醜くないことはないね」

「君は非常識だよ。美観を一つの条件とする現代の外科手術において、そんな段になるような手際の悪いことをすると思うかね。手術の前には、回転写真撮影器による精密な測定が行われ、それからブラウン管による積算設計がなされて接合後の脚全体が資材範囲内で純正楕円函数又は双曲線函数曲線をなすように選定される。従って接合部切口における断面積も算出されるわけだから、これらの数値によって不要なる<ruby><rb>贅肉</rb><rt>ぜいにく</rt></ruby>は揉み出して切開除去されるのだ。だから<ruby><rb>股</rb><rt>もも</rt></ruby>と移植すべき脚との接合部はぴたりと合う。醜い段などは絶対に起り得ない。分ったかね」

「ふん、理屈は分った。しかし実際はどうかなあ。いや、君の言葉を信用しないわけではない。それにいくら外科手術が進歩した現代かは知らぬが、マネキン人形を接ぐわけじゃあるまいし、生きた肢体の接合をするんだから、相当むずかしい筈だ。例えば、血管と血管との連結はどうする。また神経細胞の連結はどうする。これはたいへん困難なことだぜ」

「一向困難な問題ではない。太股のところでずばりと切断されると、その切口は直ちに写真に<ruby><rb>撮</rb><rt>と</rt></ruby>られ、そして現像後は壁一杯に拡大されて映写される。それから、接ぐべき脚の切口も同様に撮影され、拡大映写される。この二つはもちろん同一ではないが、同じ人類のことゆえ相似である。しかし接合するためには相似の程度では困るので、是非とも同一でなければならぬ、つまり骨、血管、神経、筋肉、皮下脂肪、皮膚などの配列状態がねぇ。そこで相似から同一へと、配列の調整が設計される。もちろんこれはまず骨と骨とを一致せしめ、血管、神経などはその後に順番に配列座標が決定される。それから配列<ruby><rb>替</rb><rt>が</rt></ruby>えの手術だ。電気メスと帯電器具と諸電極とを使ってこの手術は僅か五分間にて完了する。そうなれば太股の切口も、これに接ぐべき脚の切口も、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はんこ</span>を<ruby><rb>捺</rb><rt>お</rt></ruby>したように同一の配列、太さ、形をとるわけだ。だからあとは両者をぴたりと合わせて電気をかけ、瞬間癒着を行うのだ。残るは皮膚と皮膚の接合部に対する適切なる処理だ。これも済めば、全部の手術が終ったことになる。どうだ、これなら納得できるだろう。部品を組合わせてエンジンを組立てるのと同等の技術をもって、この手術は確実且つ容易に行われるのだ」

私はここで言葉を停めて、友の顔を見た。鳴海は軽く肯いていた。

「どうだ、鳴海。納得いったんだね」

「まあ、或る程度はね。それにしても、接がれた脚がすぐ脳髄の命ずるとおり働くだろうか」

彼はまだ追及をやめない。

「それはもちろん周倒な試験がなされる。特に神経反応は念入りに<ruby><rb>検</rb><rt>しら</rt></ruby>べられる。血行状態は心臓カージオグラフによって完全に確かめられる。運動と筋肉の関係は有尺高速映画で撮影され、筋肉圧はブラウン管の光斑点の動きで検定するが、これは同時撮影されるから、もしも異状があれば、直に発見される。麻酔の解かれるのは、これらの試験が全部終了した上でのことだ」

「ふうん。君はなかなか詳しいね。それ位なら和歌宮師の助手が勤まるだろう」

と鳴海は皮肉をいう。私はそれに<ruby><rb>構</rb><rt>かま</rt></ruby>わず言った。

「もはや現代の医術は天才的特技ではなくなった。それは普遍性ある機械的技術となり、機械力によりさえすれば誰にも取扱えるものとなりつつある。わが和歌宮先生の特技と称せらるるものも実は先生が把握した真理を大胆率直に機械的技術に移し、これを駆使するのに外ならない」

「そういっちまえば、君の崇拝する和歌宮師は、魔術師の一種だてぇことになる。とにかく君は即時即刻あのような人物との関係を清算せにゃならんのだ。切に忠告する」

「何をいうか。僕のことは僕が決めるんだ」

余計なおせっかいをする鳴海を、とうとう追出すようにして帰って貰い、私はそれからすぐさま迎春館へ行って両脚を売却した。こうしてしまえば、いくら鳴海だってもううるさいことはいえないのだ。なお私は両脚の代償として、<ruby><rb>予</rb><rt>か</rt></ruby>ねて珠子から望まれていたとおりの五ヶ年若き青春と代りの脚一組とを<ruby><rb>購</rb><rt>あがな</rt></ruby>い、その場で移植して貰った。

疑惑

珠子は、果して<ruby><rb>大悦</rb><rt>おおよろこ</rt></ruby>びだった。私の予期した以上の悦び方だった。私の両手を握って<ruby><rb>見較</rb><rt>みくら</rt></ruby>べ、以前よりも<ruby><rb>艶々</rb><rt>つやつや</rt></ruby>してきたと褒めた。

それから私達は、ヨットに乗って、瀬戸内海の遊覧列島へ出発した。

幸福な、そして豪華な生活に、私たちは<ruby><rb>暦</rb><rt>こよみ</rt></ruby>を忘れて遊び廻った。が、このような生活もいつしか<ruby><rb>飽</rb><rt>あ</rt></ruby>きを覚える時が来た。勘定してみると、<ruby><rb>丁度</rb><rt>ちょうど</rt></ruby>三ヶ月の月日が経っていた。そこで私達はどっちからいい出すともなくそれをいい出してこの島を離れ、元の古巣である都会へ引返した。

私は珠子と同棲するために新しい<ruby><rb>住居</rb><rt>すまい</rt></ruby>を見つけるつもりでいたところ、珠子はそれに反対だった。同棲するには準備もいることだし、旧居を片付けるためにも時間を要するから、大体あと五週間の余裕を置いてくださらないと訴えた。私は、五週間はちょっと永すぎると思ったが、<ruby><rb>折角</rb><rt>せっかく</rt></ruby>珠子のいうことだし、それでよろしいと承知した。私達は、停車場の前で左右へ別れた。そしてそれ以来今日まで約二週間、私は珠子に会わないのである。

私としては、同棲はしないまでも、私が珠子を訪問することは彼女の歓迎するところであろうと思ったので、停車場前で別れたその翌日には、彼女を<ruby><rb>美蘭寮</rb><rt>びらんりょう</rt></ruby>に訪ねたのであった。ところが、寮はあったが、彼女はそこにいなかった。いや、正確にいうと、寮の建物はあったが、寮の名が変っていたのだ。つまり寮は売られて、倉庫になっていた。倉庫の番人に珠子の移転先を聞いても、首を横にふるだけであった。私は失望を禁じ得なかったと共に、珠子に対して或る不満をさえ始めて感じた。

だが、私は<ruby><rb>帰途</rb><rt>きと</rt></ruby>についてから、思いかえしてもみた。珠子から私へあてた移転の手紙が、今郵便局の配達員の手にあるのではないか。もう一日も待てば、その封筒は私の家へ届けられるのではなかろうか。

私は家へ戻って、ひたすらにその手紙の到着するのを待った。時間は<ruby><rb>遅々</rb><rt>ちち</rt></ruby>として、なかなか<ruby><rb>捗</rb><rt>はかど</rt></ruby>らなかった。私は縁側に出て<ruby><rb>日向</rb><rt>ひなた</rt></ruby>ぼっこをしながら、郵便配達員の近づく足音を一秒でも早く聞き当てようと骨を折った。しかし私の望みはいつまで経っても達せられなかった。

私の気持は、段々と<ruby><rb>侘</rb><rt>わび</rt></ruby>しくなっていった。まだ<ruby><rb>明日</rb><rt>あす</rt></ruby>という日もあるものをと、自分を<ruby><rb>叱</rb><rt>しか</rt></ruby>ってもみた。しかし侘しさは消えなかった。私は自分の脚の<ruby><rb>毛脛</rb><rt>けずね</rt></ruby>を――いや、これはあのとき売物を買って取付けたものであるが、今はこれが自分の脛の第二世となっている――それを撫でるともなしに撫で始めたが、侘しさが一層加わるばかりであった。この脚は、美しくてすらりと長かった私の前の脛とは全く異り、皮膚がいやにがさがさし、悪性のおできの跡が、梅干を突込んだような<ruby><rb>凹</rb><rt>くぼ</rt></ruby>みを見せてそれが三つもあり、おまけに骨が醜くねじれていた。なおその上に良くないことに、今だにちょいちょい悪性のおできがふき出し、我慢のならぬ臭気を放つのであった。たった五千円ばかりのものだったから今になって<ruby><rb>贅沢</rb><rt>ぜいたく</rt></ruby>をいえた義理ではないけれど、こうも悩まされるものと知ったなら、青春の方をもうすこし値段をねぎって、人並な脚を買うんだった。金さえあるなら今から良い脚を買い直してもいいのだけれど、残念ながら珠子との遊覧の旅にすっかり使い切って、実をいえば目下金策をあれやこれやと考慮中であるわけだ。

私が、この厄介な脛に<ruby><rb>膏薬</rb><rt>こうやく</rt></ruby>を貼りかえているところへ、めずらしく鳴海が入ってきた。

「よう闇川。やっぱり帰って来たんだね」

鳴海はそういって、いつものように灰皿を探しあてると、それを持って私の前に<ruby><rb>胡坐</rb><rt>あぐら</rt></ruby>をかいた。私は<ruby><rb>周章</rb><rt>あわ</rt></ruby>てて彼を叱り飛ばした。この第二世の脚を彼に見られたくなかったからだ。でも鳴海は、ふうんと<ruby><rb>呻</rb><rt>うな</rt></ruby>ったばかりで、私の脚へちらりと<ruby><rb>一瞥</rb><rt>いちべつ</rt></ruby>を送り、あとは気にもとめていないという顔をした。

「珠子さんと一緒じゃなかったのかい」

「なにい……」

私は不意打をくらって<ruby><rb>蒼</rb><rt>あお</rt></ruby>くなった。

「いや、機嫌を悪くしたら、<ruby><rb>勘弁</rb><rt>かんべん</rt></ruby>したまえ。なあに、さっき珠子さんの後姿を見つけたもんだから……」

「えっ、どこで珠子を……。<ruby><rb>詳</rb><rt>くわ</rt></ruby>しくいってくれ」

鳴海はびっくりして暫く私の顔を見詰めていたが、

「君を興奮させるつもりはなかったのだ。Ｈ<ruby><rb>街</rb><rt>がい</rt></ruby>を彼女は歩いていたよ」

「ひとりきりか。それとも<ruby><rb>連</rb><rt>つ</rt></ruby>れがあったか」

「さあ……困ったなあ」

「本当のことをいってくれ。僕は今真実を知りたいんだ。珠子は他の男と歩いていたのだろう。その男は、どんな奴だったい」

私の<ruby><rb>険</rb><rt>けわ</rt></ruby>しい追及が、鳴海の返答をかえって遅らせた。でも結局彼は答えた。

「別に怪しい人物ではなかったよ」

「でも……どんな男だ、<ruby><rb>其奴</rb><rt>そいつ</rt></ruby>は……」

「君の知っている人だよ」

「じらせてはいけない。珠子の連れの男は誰だったか、早くそれをいってくれ」

「いっても<ruby><rb>差支</rb><rt>さしつか</rt></ruby>えなかろう。瀬尾教授だ」

「なに、瀬尾教授。あの、大学の瀬尾外科の主任教授である瀬尾先生か」

「そうだ。だから君は別に興奮しないでよかったのだ」

私はしばらく沈黙していた。そしてそのあとで<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いた。

「一体珠子は瀬尾教授なんかに何の用があるんだろう」

その理由は、見当がつかなかった。しかし珠子があれ以来私に対し行方をくらまし、音信不通の状態をとっていることから考えて、たとえ相手が瀬尾教授であろうと、それと肩を並べて歩いているということは、私にとって重大問題たることを失わないのだ。

「君は今、Ｈ街だといったな」

「おい、血相かえて<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>へ行くんだ。待て、待てといったら」

私は鳴海の<ruby><rb>狼狽</rb><rt>ろうばい</rt></ruby>する声を後に残して、外に飛出した。行先はもちろんＨ街であった。

Ｈ街はひどく<ruby><rb>雑鬧</rb><rt>ざっとう</rt></ruby>していた。はげしい人波をかきわけ、或いは押戻されつして、私は何回となく求むる人を探し廻った。しかしその結果は、何の得るところもなかった。二人はどこかへ雲隠れしてしまったのだ。

まあいい。いずれそのうちに、二人は又このＨ街に現われるだろう。そのときこそ<ruby><rb>引捕</rb><rt>ひっとら</rt></ruby>えてくれるぞと、私は深く心に期するところがあった。そしてそれからは毎日のようにＨ街に出ばって眼を光らせた。

もちろん珠子からの手紙は、その翌日も、その翌々日も、それからずっと後になっても、遂に来なかった。またＨ街の監視も一向効果がなく、珠子たちの姿を一度も見付けることができなかった。

それから相当たっての或る日のこと、私の許へ一通の無名の書状が届けられた。私はそれと見るより、この書状の中に、私の求める重要なニュースが書きつけられてあるのを察することができた。

開封してみると、それは果して怪しい文書であった。全文は、邦文タイプライターによる平仮名書であった。その文に曰く、

“<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">やみかわ</span>、<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">きちんど</span>　に　けいこくする。<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">こみや</span>、<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">たまこ</span>　は、きみのうつくしいあしを、<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">わかみや</span>、<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">どんちき</span>　よりかいとった。そしてそのあしは、かのじょのかねてあいするおとこへささげられた。こんごゆだんをすると、とんでもないことになるぞ。はやみみせいより”

予感は適中した。珠子は私の脚を和歌宮先生から買取り、そして彼女が<ruby><rb>予</rb><rt>か</rt></ruby>ねて愛する男へ捧げられたという。今後油断をすると飛んでもないことになるぞ、早耳生――というのだ。

珠子にかねて愛する男があったとは、私の方で否定するわけには行かぬが、先頃遊覧中は、そんなことはおくびにも出さなかった珠子だった。そして今、私の大事にしていた脚を彼女が買取ってその男に<ruby><rb>捧</rb><rt>ささ</rt></ruby>げたとは何たる事か。私に脚を売払えとしきりに<ruby><rb>薦</rb><rt>すす</rt></ruby>めたのは余人ならず珠子であったではないか。そして私に売却させて置いて、後でそれを自分で買取って予ねての愛人への贈物にするとは、実に許しがたい暴状である。

それにしても、彼女の予ねて愛する男とは何者であろうか。彼は今、珠子から私のあの美しい脚を贈られてそれを移植し、いい気持になっているのであろう。何と私は<ruby><rb>莫迦者</rb><rt>ばかもの</rt></ruby>あつかいされたことか。ああ、それで読めた。外科手術の大家たる瀬尾教授と彼女が並んで歩いていたのも、その脚の移植手術を教授に頼んだものに違いない。

私は<ruby><rb>憤激</rb><rt>ふんげき</rt></ruby>の極に達した。時間の推移と共に、私の頭は痛みを加え、胸は張りさけんばかりになった。

（このまま見逃すことはできない。何が何でもその男を引補え、珠子に思い知らせてやらねばこの腹の虫がおさまらない！）

私は遂に復讐の鬼と<ruby><rb>化</rb><rt>か</rt></ruby>した。

<ruby><rb>凩</rb><rt>こがらし</rt></ruby>の夜店

復讐の鬼と化した私は、前後を<ruby><rb>忘</rb><rt>ぼう</rt></ruby>じ、昼といわず夜といわず<ruby><rb>巷</rb><rt>ちまた</rt></ruby>を走り廻った。もちろんその目的は、珠子と、私の生れついたる美しい脚を<ruby><rb>騙取</rb><rt>へんしゅ</rt></ruby>したる――敢えてそういうのだ――その男とを<ruby><rb>引捕</rb><rt>ひっとら</rt></ruby>えるためであった。

が、珠子とその男とは、なかなか私の視界に入らなかった。その二人は、巷を歩かないわけではなく、私はたびたび珠子とその男の姿を見かけた話を耳にした。しかも私の不運なる、遂に両人に<ruby><rb>行逢</rb><rt>ゆきあ</rt></ruby>うことができないのであった。

私は<ruby><rb>自暴自棄</rb><rt>じぼうじき</rt></ruby>になって、<ruby><rb>不逞</rb><rt>ふてい</rt></ruby>にも和歌宮先生の許へ暴れ込んだ。私は悪鬼につかれたようになって、先生を診察台の上へねじ伏せると、かの私の生れついた美しい両脚を珠子づれに譲渡したことを<ruby><rb>詰</rb><rt>なじ</rt></ruby>った。しかし先生は、私の無礼を<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>めもせず、静かな声で、一旦君から買取った上はこれをどう処分をしようと私の自由であり、君は文句をいう権利がない<ruby><rb>旨</rb><rt>むね</rt></ruby>を<ruby><rb>諭</rb><rt>さと</rt></ruby>した。私は先生の<ruby><rb>咽喉</rb><rt>のど</rt></ruby>を締めあげた腕を解き、その場に<ruby><rb>平伏</rb><rt>へいふく</rt></ruby>して非礼を<ruby><rb>詫</rb><rt>わ</rt></ruby>びるしかなかった。そしてその日、私は私の両の腕を先生に買取って貰ってから、そこを辞した。値段は百十五万円であるから、普通以上のよい値段であった。その代りに私は八千五百円を投じて割安な<ruby><rb>轢死人</rb><rt>れきしにん</rt></ruby>の両腕を譲りうけ、それを移植して頂いた。で、手取りが百十四万千五百円也となった。これだけあれば、当分生活に困らない。

こういう<ruby><rb>呪</rb><rt>のろ</rt></ruby>わしき境遇に追込まれた者の常として、平面無臭の生活ができないことは首肯されるであろう。私の場合においてもこの例に<ruby><rb>漏</rb><rt>も</rt></ruby>れず、日夜刺激を追及し、その生活は次第に<ruby><rb>荒</rb><rt>すさ</rt></ruby>んでいった。その行状は、ここに文字にすることを<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>るが、私の金づかいも日と共に荒くなり、両腕を売飛ばして<ruby><rb>懐</rb><rt>ふところ</rt></ruby>に持った百十四万余の大金も、そう永からぬ期間のうちに他人にまきあげられてしまい、私はまた金策に苦労しなければならなくなった。そして結局は、酒の勢いに助けられて和歌宮先生の門に飛込み、或いは心臓を売り、或いは背中一面の皮膚を売りなどして、内臓といわず何といわず、次から次へと売飛ばして金に替えたのであった。<ruby><rb>只</rb><rt>ただ</rt></ruby>そのような際に、常に守ったことは頸から上のものについては一物も売ろうとはしないことだった。顔を売ってしまえば、私の看板がなくなるわけだから、どんなことがあろうと、これだけは売ることはできない。

欠乏と<ruby><rb>懊悩</rb><rt>おうのう</rt></ruby>を背負って<ruby><rb>喘</rb><rt>あえ</rt></ruby>ぎ<ruby><rb>喘</rb><rt>あえ</rt></ruby>ぎ、私は相も変らず巷を<ruby><rb>血眼</rb><rt>ちまなこ</rt></ruby>になって探し歩いた。しかし運命の神はどこまでも私に味方をせず、珠子とその<ruby><rb>仇</rb><rt>あだ</rt></ruby>し男の姿を発見することはできなかった。私は毎夜遅く、へとへとになって<ruby><rb>住居</rb><rt>すまい</rt></ruby>へ転げこむように戻るのが常だった。

鳴海の奴は、相変らずやって来ては、頭の悪いお<ruby><rb>祖母</rb><rt>ばあ</rt></ruby>さんのような世話を焼いたり、忠言を繰返した。

「君も<ruby><rb>莫迦</rb><rt>ばか</rt></ruby>だよ。いくら珠子さんは美人か知らないが、あれが生れながらの美人なら、それは君のように追駈け廻わす価値があるかもしれない。しかしよく考えて見給え、そんな価値はありやせんよ」

「生れながら、どうしたって」

「そこなんだ。いいかい、珠子さんという人は瀬尾教授とも古くから親しくしているんだぜ。或る人の話によると、珠子さんは以前はあんな美人じゃなく、むしろ器量はよくない方だった。それが急に生れかわったような美人になったんだそうで、そこにはそれ瀬尾教授の<ruby><rb>施</rb><rt>ほどこ</rt></ruby>した美顔整形手術の匂いがぷうんとするじゃないか。そういう人為的美人に、君という莫迦者は愚かにも純粋の生命と魂を捧げているんだ。いわば珠子さんは、雑誌の口絵にある印刷した美人画みたいなものだぜ。そういうものに熱中する君は、よほどの<ruby><rb>阿呆</rb><rt>あほう</rt></ruby>だ」

「……」

これは痛い言葉だった。私は終日不愉快であった。鳴海の奴は、私の熱愛していた偶像を<ruby><rb>滅茶滅茶</rb><rt>めちゃめちゃ</rt></ruby>に壊してしまったのだ。私はそれ以来一層不機嫌に<ruby><rb>駆</rb><rt>か</rt></ruby>りたてられた。こうなれば珠子に対する愛着は冷却せざるを得ないが、その代り珠子が私の脚を仇し男に贈ったという所業に対する<ruby><rb>怨恨</rb><rt>えんこん</rt></ruby>は更に強く燃え上らないわけに行かなかった。

「よし、こうなればたとえ<ruby><rb>骸骨</rb><rt>がいこつ</rt></ruby>となっても、<ruby><rb>彼</rb><rt>か</rt></ruby>の仇し男を引捕えてやらねば……」

その頃<ruby><rb>丁度</rb><rt>ちょうど</rt></ruby>或る筋から、珠子とその仇し男らしき人物とが、Ｋ坂の夜店に肩を並べて歩いていたという話を聞込んだので、私は新しい探求手段を考えついて早速実行することにした。それは私もＫ坂の夜店に加わって、手相<ruby><rb>卜</rb><rt>うらな</rt></ruby>いの店を張ろうというのだった。そして腰をどっしりと落付けて、かの両人の見張を行おうとするのだった。

私はこの夜店の委員会の認可を受けた上で、黒の中折帽子に同じく黒い長マントを<ruby><rb>引摺</rb><rt>ひきず</rt></ruby>るように着て、凩の吹く坂道の、小便横町の<ruby><rb>小暗</rb><rt>こぐら</rt></ruby>き<ruby><rb>角</rb><rt>かど</rt></ruby>に、お<ruby><rb>定</rb><rt>さだ</rt></ruby>まりの古風な<ruby><rb>提灯</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>を持って<ruby><rb>立商売</rb><rt>たちしょうばい</rt></ruby>を始めた。始めの二三日は、むしろ楽しきことであったが、四日五日と<ruby><rb>経</rb><rt>へ</rt></ruby>て行くうちに、この商売が決して楽なものではないと分った。いやむしろよほどの体力がないとやれない仕事だと分った。しかし私は<ruby><rb>屈</rb><rt>くっ</rt></ruby>しなかった。

風邪を引込んだが、私は休まなかった。<ruby><rb>水洟</rb><rt>みずばな</rt></ruby>を<ruby><rb>啜</rb><rt>すす</rt></ruby>りあげながら、なおも来る夜来る夜を頑張り続けた。さりながらその<ruby><rb>甲斐</rb><rt>かい</rt></ruby>は一向に現われず、<ruby><rb>焦燥</rb><rt>しょうそう</rt></ruby>は日と共に加わった。珠子とあの仇し男とは、余程巧みに万事をやっているらしい。

ところが突然、一つの機会が天から降って私の前へ落ちて来た。それは立商売を始めてから四週日の金曜日の<ruby><rb>宵</rb><rt>よい</rt></ruby>だったが、坂の上の方から<ruby><rb>折鞄</rb><rt>おりかばん</rt></ruby>を小脇に抱えた紳士が、少しく<ruby><rb>酩酊</rb><rt>めいてい</rt></ruby>の気味でふらふらした足取で、こっちへ近づくのが何故か目に停った。

「あ、瀬尾教授！」

おお、間違いなく瀬尾教授だ。このとき私の頭脳に稲妻の如く<ruby><rb>閃</rb><rt>ひらめ</rt></ruby>いた一事がある。

（ははあ、この先生のことかもしれぬ。私はうっかりこの先生と珠子との結びつきを忘れていたぞ。そうだ、珠子から私の脚を贈られたのは、この瀬尾教授かもしれない。よし、今それを改めてくれるぜ）

私の胸は踊った。後は何が何やら夢中である。もう恐さも恥かしさもない。私は狂犬のように横町から飛出していって、いきなり教授の腕を<ruby><rb>捉</rb><rt>とら</rt></ruby>えた。それから教授をずるずると横町へ引張りこんだ。それから隠し持ったる小刀で、教授のズボンを下から上へ向ってびりびりと引裂いた。そして教授の長い脛をズボン下から<ruby><rb>剥</rb><rt>む</rt></ruby>き出すと、商売ものの懐中電灯をさっと照らしつけて、教授の<ruby><rb>毛脛</rb><rt>けずね</rt></ruby>をまざまざと検視した。

「うわっ、た、助けてくれ」

教授は教授らしくもない大悲鳴をもって、このとき助けを求めた。さあ、たいへん。<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ち人の波が私たちの方へ殺到した。これはしまったと、私は提灯も懐中電灯もそこに放り出すと、一目散に暗い小路を突切って、いよいよ暗い方へ逃げ出した。

逃げながらも、私は<ruby><rb>朗</rb><rt>ほがら</rt></ruby>かであった。どうかと疑った瀬尾教授のズボンの下には、私が忘れることの出来ないあの売払った脚が発見されなかったのである。すると瀬尾教授は、私の血眼になって探している男ではない。

それはいいが、一向姿を見せない彼の仇し男は一体誰であろうか。どんな顔をしている男だろうか。

<ruby><rb>無間地獄</rb><rt>むげんじごく</rt></ruby>

<ruby><rb>這々</rb><rt>ほうほう</rt></ruby>の<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>で逃げ出した私は、さすがに追跡が恐しくなって、その夜は鳴海の家を叩いて、泊めて貰った。

鳴海は、私から事情を聞いて、その乱暴をきつく<ruby><rb>戒</rb><rt>いまし</rt></ruby>めた。そして今夜はたとえどんなことが起ろうと僕が引受けてうまくやるから、君は安心して睡れといって呉れた。お蔭で私は、ぐっすりと安眠することができた。

朝が来た。窓が明るくなると、私は反射的に<ruby><rb>跳起</rb><rt>とびお</rt></ruby>きた。<ruby><rb>愕</rb><rt>おどろ</rt></ruby>くことはなかった。鳴海が傍でぐうぐうと睡っていたし、家は彼の宅であった。追跡者も、遂に私の身柄を取押えることができなかったのである。一安心だ。

食堂へいって鳴海と共に朝食を済ませた。それから彼の部屋へ行って、電気暖房を囲んで<ruby><rb>莨</rb><rt>たばこ</rt></ruby>をのんだ。

そのとき鳴海が、突然妙なことをいい出した。

「ねえ闇川。一体、<ruby><rb>迎春館主</rb><rt>げいしゅんかんしゅ</rt></ruby>和歌宮鈍千木師なる者は実在の人物かね」

私は声が<ruby><rb>詰</rb><rt>つま</rt></ruby>って、しばらく返事ができなかった。

「何故急にそんなことを<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>くんだい」

「だって僕は、これまで和歌宮を散々尋ねて歩いたんだが、遂に彼を見ることができなかった」

「探し方が悪いんだろう」

「いや、そうとは思えない。僕の調べたところでは、多くの人々が迎春館という名を知っており、和歌宮鈍千木師の名前も聞いて知っているが、さて迎春館のはっきりした所在も<ruby><rb>知</rb><rt>し</rt></ruby>らず、また和歌宮師に会った者もないのだ。変な話じゃないか。君は、これに対してどういう<ruby><rb>釈明</rb><rt>しゃくめい</rt></ruby>を以て僕を満足させてくれるかね」

「はっはっはっはっ」

私は声をたてて笑った。

「なぜ笑うのか」

「だって君はあまりに懐疑的だよ。和歌宮先生の如き貴人が、そう安っぽく人前に現われるものか。先生や迎春館に関する話がたくさん知られていることだけでも、その存在はりっぱに証明されるじゃないか。先生は、本当に人体売買の手術を希望する当人以外には会っている<ruby><rb>遑</rb><rt>いとま</rt></ruby>がないのだ。仕事も忙しいし、それに更に深い研究を続けておられるものだからねえ」

「じゃ、君は僕を和歌宮師のところへ連れていって会わせて<ruby><rb>呉</rb><rt>く</rt></ruby>れ」

「駄目だよ、君はそういう手術を希望していないんだから、やっぱり駄目だよ」

「とにかく僕は大きな疑惑を持っている。よろしい、そういうんなら他の方法によって、この疑惑を解いてみせる」

こんな話から、私は<ruby><rb>気拙</rb><rt>きまず</rt></ruby>くなって、鳴海の宅から立去った。そして私は、更に<ruby><rb>荒</rb><rt>すさ</rt></ruby>んだ生活の中に落込んでいった。

生活と刺激のために、私はいよいよ自分の体の部品を売飛ばさねばならなかった。頸から上だけは売るまいと思っていたが、今はそれさえ<ruby><rb>護</rb><rt>まも</rt></ruby>り切れなくなり、眼球を売ったり、歯を全部売ったり、またよく聴える耳を売ったりして、遂には頭髪付の顔の皮膚までも売払ってしまった。そして私は、鏡というものを極度に恐怖する身の上とはなった。全くあさましき限りである。

顔がすっかり変ったということは、淋しきことではあるが、その代り都合のいいこともあった。それは、今まで私を知れる者が、今では私だといい当てることができなかった。鳴海さえ、町で出会っても、気がつかないで私の傍をすれちがって行ってしまう。私はたいへん気楽になった。

或るとき、私は<ruby><rb>図</rb><rt>はか</rt></ruby>らずも一つの問題に突当った。それは外でもない。こうして容貌も変り、声も変り、四肢から臓器までも変り果てた現在の私は、果して本来の私といえるかどうかという問題であった。こんな苦を<ruby><rb>経</rb><rt>へ</rt></ruby>てきたというのも、<ruby><rb>元々</rb><rt>もともと</rt></ruby>本来の私というものが可愛いいためであった。ところが、よく考えてみると、本来の私というものが、今では殆んど残っていないのである。残っているのは脳味噌だけだといっても<ruby><rb>過言</rb><rt>かごん</rt></ruby>ではない。あとは皆借り物だ。質の悪い他人の部品の集成体だ。そんないい加減の集成体が、果してやはり愛すべき価値があるかどうか、<ruby><rb>甚</rb><rt>はなは</rt></ruby>だ疑わしい。この問題は意外にも非常に深刻な問題であった。私はこの問題に触れたことを大いに後悔した。しかし手をつけてしまった以上、もうどうすることもできない。問題の解決より外に、解決の方法はないのだ。

現在の私は、本来の私と同じように、自ら愛すべき価値ありや。

ああ、恐ろしいことだ。私はとんでもない過誤を犯した。自己を愛するためにあんなにまで苦労を重ねながら、<ruby><rb>知</rb><rt>し</rt></ruby>らず<ruby><rb>識</rb><rt>し</rt></ruby>らずのうちに、それと反対に自己を破壊し尽していたのだ。こんな悲惨な出来事があるだろうか。私にとっては、それは大なる悲劇であるが、世間の人達にとっては、この上もなくおかしい喜劇だというであろう。

私はすっかり自信と希望とを<ruby><rb>喪</rb><rt>うしな</rt></ruby>ってしまった。私は急に病体となった。心も体も、日ましに衰弱していった。思考力が、目立って<ruby><rb>減退</rb><rt>げんたい</rt></ruby>し始めた。記憶も薄れて行く。こんなことでは、本来の自己の最後の財産である脳髄までが腐敗を始め、やがて絶対の無と化してしまいそうだ。この<ruby><rb>新</rb><rt>あらた</rt></ruby>なる予感が、重苦しい恐怖となって私の全身を<ruby><rb>責</rb><rt>せ</rt></ruby>めつける。

私は一日医書を<ruby><rb>繙</rb><rt>ひもと</rt></ruby>き、「若返り法と永遠の生命」の項について研究した。その結果得た結論は次の如きものであった。

“臓器や四肢を取替えることによって見掛けの若返りは達せらるるも、脳細胞の老衰は如何ともすべからず、結局永遠の生命を獲得することは不可能である”

私は失望を禁じ得なかったが、そのうちに<ruby><rb>不図</rb><rt>ふと</rt></ruby>気のついたことは、この医書はかなり版が古いことである。そこで今度は近着の医学雑誌を片端から探してみた。するとそこに耳よりな新説が記載されているのを発見した。

“……大脳手術の最近における驚異的発達は従来不可能とされた諸種の問題を相当可能へ移行させた。老衰せる脳細胞は、若き<ruby><rb>溌溂</rb><rt>はつらつ</rt></ruby>たる脳細胞に<ruby><rb>植継</rb><rt>うえつ</rt></ruby>ぎて、画期的なる若返りが遂げられる。かかる場合、知能的には低き脳細胞へ移植を行うことが手術上比較的容易である”

この一文は、私に新なる元気をもたらした。有難い。わが脳細胞の老衰は全然処置なしではなかったのだ。私は何とかして若返える<ruby><rb>途</rb><rt>みち</rt></ruby>を発見せねばならぬ。それにはどうしたら一番よいであろうか。

いろいろ考えぬいた<ruby><rb>揚句</rb><rt>あげく</rt></ruby>、私は遂に一案を思付いた。それは甚だ<ruby><rb>突飛</rb><rt>とっぴ</rt></ruby>な解決法であった。しかし現在の私のような<ruby><rb>境涯</rb><rt>きょうがい</rt></ruby>にあっては致し方のないことだ。読者よ、<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れてはいけない。私は、私の体に残れる本来の私の最後の財産たる老衰せる大脳の皮質を摘出して、これを動物園につながれている若きゴリラの大脳へ移植することを思付いたのだ。何と素晴らしきアイデアではないか。<ruby><rb>斯</rb><rt>か</rt></ruby>くして私は、あの溌溂たるゴリラの測り知られぬ精力を、自分のものにすることが出来るのだ。

私は、和歌宮先生に歎願して、この思切った大脳手術を<ruby><rb>乞</rb><rt>こ</rt></ruby>うた。<ruby><rb>幸</rb><rt>さいわい</rt></ruby>に先生は大きな同情をもって快諾し、そして私の注文通りの手術を行ってくれた。それから幾日経ってか、私が気がついたときは、私は一頭のゴリラになり果てていた。そして従来に例なき安楽な気持と溌溂たる精力とをもって、檻の中より動物園入場者の群を眺めて暮らす身の上とはなった。桜の<ruby><rb>花片</rb><rt>はなびら</rt></ruby>は、ひらひらひらと、わが檻の上より舞落ちるのであった。私は生れて始めての安楽な生活に<ruby><rb>法悦</rb><rt>ほうえつ</rt></ruby>を覚えた。

そういう楽しい生活が無限に続いてくれることを祈っていた私だが、入園後まだ浅き或る日のこと、私の楽しい気持は突然<ruby><rb>剥奪</rb><rt>はくだつ</rt></ruby>されるに至った。それは私の檻の前に立った一人の見物人を見上げたときに起ったことである。そのとき私は思わず、があがあと叫んで牙を<ruby><rb>剥</rb><rt>む</rt></ruby>いたものである。

その男――わが檻の前に立ち、熱心にこっちを<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いているその男――その男の顔、肩、肉づき、手足、全体の姿、そのすべてがなんと<ruby><rb>曾</rb><rt>か</rt></ruby>つての本来の私そっくりであったではないか。私はその瞬間、万事を<ruby><rb>悟</rb><rt>さと</rt></ruby>った。

（貴様だな、俺の両脚から始めて両腕、臓器、顔などと皆買い集めてしまったのは……。貴様は、俺のものをそっくり奪ってしまったのだ。買取るならそれもよろしいが、そのように俺のものを全部集成しなくともよいではないか。<ruby><rb>殊</rb><rt>こと</rt></ruby>にこれ見よがしに、俺の檻の前に立つとは<ruby><rb>怪</rb><rt>け</rt></ruby>しからん。……だがな、貴様はまだ俺からその全部を奪っているのではないのだぞ。脳細胞のことよ。<ruby><rb>肝腎</rb><rt>かんじん</rt></ruby>の脳細胞は、今ちゃんとこうしてこっちに有るんだ。あはは、お気の毒さまだ）

私は腹を抱えて、ごうごうと笑ってやった。すると彼の男は、私の言葉を了解したと見え、急に恐ろしい<ruby><rb>形相</rb><rt>ぎょうそう</rt></ruby>となって、私の檻へ歩みよった。

「あ、危い」

それを<ruby><rb>後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>から引留めた者がある。おお、鳴海だ。鳴海が、何故こんなインチキ野郎についているのだろうと私はちょっと不思議に思ったが、それを解いている<ruby><rb>遑</rb><rt>いとま</rt></ruby>はなかった。彼のインチキ男は、檻の鉄棒に<ruby><rb>掴</rb><rt>つかま</rt></ruby>って、それを前後に揺り動かしながら、私に向って訳のわからぬ言葉で<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>った。私はむらむらと<ruby><rb>癪</rb><rt>しゃく</rt></ruby>にさわって、いきなり立上ると檻の方へ飛んでいって、<ruby><rb>恨</rb><rt>うら</rt></ruby>み<ruby><rb>重</rb><rt>かさ</rt></ruby>なる不愉快なその男の小さな顔を両手で抑えつけ、ぐわっと噛みついてやった。ああ、いい気持だ。

×　　　×　　　×

以上は、第三十四号室の患者○○○○氏の手記である。同氏は本日余の執刀によって大脳手術を受けることになっているものであるが、氏の<ruby><rb>錯倒</rb><rt>さくとう</rt></ruby>精神状態はこの手記によって自明である。だが、これは精神病ではなく、<ruby><rb>弾片</rb><rt>だんぺん</rt></ruby>によって脳髄に受けたる圧迫傷害に<ruby><rb>基</rb><rt>もとづ</rt></ruby>くもので、大脳手術を施すことにより多分恢復するだろうと思われる。

なおこの手記は極めて興味あるものであって、患者の脳症を顕著に示しているが、しかし氏が<ruby><rb>斯</rb><rt>かか</rt></ruby>る患者であるとの予備知識なくして一読するときは、一つの<ruby><rb>纏</rb><rt>まとま</rt></ruby>った物語として受取れる。しかしこの物語の中にある事件は大部分が実在したものではない。

すなわち氏の<ruby><rb>友誼</rb><rt>ゆうぎ</rt></ruby><ruby><rb>篤</rb><rt>あつ</rt></ruby>き親友鳴海三郎氏の談によれば、次の如き興味ある事実が判明する。

一　珠子なる婦人は実在せず、全く<ruby><rb>闇川吉人</rb><rt>やみかわきちんど</rt></ruby>の幻想に<ruby><rb>出</rb><rt>い</rt></ruby>づ。

二　迎春館も<ruby><rb>和歌宮鈍千木氏</rb><rt>わかみやどんちきし</rt></ruby>も実在せず。但し、和歌宮先生なるものは、実は闇川吉人が自ら二役的存在として仮装せるものと信ずべき節あり、すなわちヤミカワ、キチンドなる名を逆に読めばワカミヤ、ドンチキにして、こは彼の小説家らしき仕業なりと<ruby><rb>思料</rb><rt>しりょう</rt></ruby>す。

三　闇川吉人は一脚すら売飛ばせるものにあらず。<ruby><rb>況</rb><rt>いわ</rt></ruby>んや最後に残りたる脳細胞を動物園のゴリラに移植したるなどのことは全然虚構に属する妄想なり。<ruby><rb>只</rb><rt>ただ</rt></ruby>、一日吾は彼を散歩に連れ出し、<ruby><rb>落花紛々</rb><rt>らっかふんぷん</rt></ruby>たる下を動物園に入場し、ゴリラの檻の前に至りたる事、及び彼がゴリラの檻へ近付かんとしたるを以て、吾は<ruby><rb>愕</rb><rt>おどろ</rt></ruby>いてそれを引留めたるは事実なり。

吾は、不幸なる闇川吉人が、幸いに瀬尾教授の<ruby><rb>手篤</rb><rt>てあつ</rt></ruby>き手術によりて、戦前の如き健全なる彼にまで恢復することを祈念してやまざるものなり。