邪宗縁起

一

十四の<ruby><rb>乙女</rb><rt>おとめ</rt></ruby>久田姫は古い物語を読んでいる。

（……そは<ruby><rb>許婚</rb><rt>いいなずけ</rt></ruby>ある若き<ruby><rb>女子</rb><rt>おなご</rt></ruby>のいとも恐ろしき罪なりけり……）

「姫やどうぞ読まないでおくれ。<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>聞きたくはないのだよ」

「いいえお姉様お聞き遊ばせよ。これからが面白いのでございますもの。――許婚のある<ruby><rb>佐久良姫</rb><rt>さくらひめ</rt></ruby>がその許婚を恐ろしいとも思わず恋しい恋しい<ruby><rb>情男</rb><rt>おとこ</rt></ruby>のもとへ忍んで行くところでございますもの」

「姫やどうぞ読まないでおくれ。妾は聞きたくはないのだよ」

「お姉様それでは止めましょうね。……」

姫は静かに<ruby><rb>書</rb><rt>ふみ</rt></ruby>を伏せた。

「ああ、もう今日も日が暮れる。お部屋が大変暗くなった……お姉様<ruby><rb>灯火</rb><rt>あかり</rt></ruby>を<ruby><rb>点</rb><rt>つ</rt></ruby>けましょうか」

「妾はこのような夕暮れが一番気に入っているのだよ……もう少しこのままにしておいておくれ……お前はそうでもなかったねえ」

「お姉様<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>は嫌いですの。妾の好きなのはお日様ですの」

「<ruby><rb>幼</rb><rt>ちいさ</rt></ruby>い時からそうだったよ。明るい華やかの事ばかりをお前は好いておりましたよ。夏彦様のご気象のようにねえ」

「陰気な事は嫌いですの。このお部屋も嫌いですの。いつも陰気でございますもの。お姉様灯火を点けましょうか」

姉の<ruby><rb>柵</rb><rt>しがらみ</rt></ruby>は返辞をしない。で<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>の中は静かであった。柵は三十を過ごしていた。とはいえ<ruby><rb>艶冶</rb><rt>えんや</rt></ruby>たる<ruby><rb>風貌</rb><rt>ふうぼう</rt></ruby>は二十四、五にしか見えなかった。大変<ruby><rb>窶</rb><rt>やつ</rt></ruby>れていたけれど美しい人の窶れたのは<ruby><rb>芙蓉</rb><rt>ふよう</rt></ruby>に雨が<ruby><rb>懸</rb><rt>か</rt></ruby>かったようなものでその美しさを二倍にする。<ruby><rb>几帳</rb><rt>きちょう</rt></ruby>の蔭につつましく坐り開け放された窓を通して<ruby><rb>黄昏</rb><rt>たそがれ</rt></ruby>の<ruby><rb>微芒</rb><rt>びぼう</rt></ruby>の射し込んで来る中に<ruby><rb>頸垂</rb><rt>うなだ</rt></ruby>れているその姿は、「芙蓉モ及バズ美人ノ<ruby><rb>粧</rb><rt>ヨソホ</rt></ruby>ヒ、水殿風来タッテ珠翠<ruby><rb>香</rb><rt>カンバ</rt></ruby>シ」と王昌齢が<ruby><rb>詠</rb><rt>うた</rt></ruby>ったところの<ruby><rb>西宮</rb><rt>せいきゅう</rt></ruby>の<ruby><rb>睫妤</rb><rt>はんにょ</rt></ruby>を想わせる。

幼い妹の久田姫がこのお部屋も嫌いですのと姉に訴えたのはもっともであった。<ruby><rb>館造</rb><rt>やかたづく</rt></ruby>りの古城の一室、昔は華やかでもあったろう。今は<ruby><rb>凄</rb><rt>すさま</rt></ruby>じく荒れ果てて器具も調度も<ruby><rb>頽然</rb><rt>たいぜん</rt></ruby>と古び<ruby><rb>御簾</rb><rt>みす</rt></ruby>も<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>も引きちぎれ部屋に不似合いの塗りごめの<ruby><rb>龕</rb><rt>がん</rt></ruby>に二体立たせ給う<ruby><rb>基督</rb><rt>キリスト</rt></ruby>とマリヤが<ruby><rb>呼吸</rb><rt>いきづ</rt></ruby>く気勢に折々光り、それと向かい合った床の間に武士を描いた二幅の画像が活けるがように掛けてあるのが<ruby><rb>装飾</rb><rt>かざり</rt></ruby>といえば装飾である。

久田姫は立ち上がった。静かに画像の前へ行き二人の武士を見比べたが、

「ねえお姉様、何故このお二人は、こうも恐ろしいお顔をして向かい合っているのでございましょう。お互いの眼から毒でも吹き出しお互いの眼を<ruby><rb>潰</rb><rt>つぶ</rt></ruby>し合おうとして<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>み合っているようではございませぬか。そうかと思うとお互いの口は古い<ruby><rb>城趾</rb><rt>しろあと</rt></ruby>にたった二つだけ取り残された門のように固く<ruby><rb>鎖</rb><rt>と</rt></ruby>ざされておりますのねえ。……深い秘密を持っていながらそれを誰にも明かすまいとして苦しんでいるように見えますこと」

<ruby><rb>柵</rb><rt>しがらみ</rt></ruby>は<ruby><rb>几帳</rb><rt>きちょう</rt></ruby>を押しやって<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ふと</span>立ち上がる気勢を見せたが、

「ほんとにお前の云う通りその画像のお二人は不思議なお顔をしているのねえ」

「お姉様」と云いながら久田姫は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つと</span>近寄り柵の<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>へ手を置いたが、「この画像のお二人のうちどちらか一人<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>のお父様に似ておいでになるのではございますまいか？」

「それこそ妄想というものですよ」柵はこうは云ったものの、その声は際立って<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>えている。

「お前は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いつぞや</span>も画像を見て同じような事を云ったのねえ。……ああお前のその妄想がどんなに妾を苦しめるでしょう……いいえお前のお父様はどちらにも似てはおいでなさらないのですよ」妹の顔をつくづく見守り重い<ruby><rb>溜息</rb><rt>ためいき</rt></ruby>をそっと吐いたが、「……お前がこの世に産まれた時――もう十四年の昔になる――お前のお父様とお母様とはこのお城からお出ましになり<ruby><rb>諏訪</rb><rt>すわ</rt></ruby>の湖水の波を分け<ruby><rb>行衛</rb><rt>ゆくえ</rt></ruby>知れずにおなりなされたのだよ」

「いいえ妾には信じられませぬ」久田姫は<ruby><rb>遮</rb><rt>さえぎ</rt></ruby>った。「信じられないのでございますわ。<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>と申しますにそうおっしゃる時いつもお姉様のお眼の中に涙が<ruby><rb>溜</rb><rt>た</rt></ruby>まるではございませぬか。偽りの証拠でございますわ」

こう云うと久田姫は眼を抑えた。指と指との隙を洩れて涙が一筋流れ出た。彼女は泣いているのである。

窓を透して射し込んでいた<ruby><rb>幽</rb><rt>かす</rt></ruby>かな夕暮れの光さえ今は全く消えてしまって室内はようやく<ruby><rb>闇</rb><rt>やみ</rt></ruby>となった。その闇の中で聞こえるものは妹の泣き声ばかりである。

その時静かに襖が開いて<ruby><rb>尼</rb><rt>あま</rt></ruby>が一人はいって来た。黒い法衣に白い<ruby><rb>被衣</rb><rt>かつぎ</rt></ruby>。キリスト様とマリヤ様に仕えるそれは年寄りの尼であった。

「まあこのお部屋の暗いことは。<ruby><rb>灯火</rb><rt>あかり</rt></ruby>を<ruby><rb>点</rb><rt>つ</rt></ruby>けないのでござりますね。……お祈りの時刻が参りました。灯火をお点けなさりませ」

二

「はい」

と久田姫は立ち上がった。そろそろと<ruby><rb>龕</rb><rt>がん</rt></ruby>の前まで行きカチカチと切り火の音をさせ火皿へつつましく火を移した。黄金の十字架は<ruby><rb>燦然</rb><rt>さんぜん</rt></ruby>と輝きキリストのお顔もマリヤのお顔も光を受けて<ruby><rb>笑</rb><rt>え</rt></ruby>ましげに見える。

年寄りの尼を真ん中にして久田姫と<ruby><rb>柵</rb><rt>しがらみ</rt></ruby>とは龕の前にひざまずいた。

尼は<ruby><rb>恭</rb><rt>うやうや</rt></ruby>しくお祈りを上げる――「悩み嘆く魂のために安らけき時を与え給え。犯せる罪を<ruby><rb>浄</rb><rt>きよ</rt></ruby>めるために浄罪の時を与え給え。――神の怒りは火となりて我らの五体を焼き給うとも我らは<ruby><rb>永劫</rb><rt>えいごう</rt></ruby>に悔いざらん。アーメン」

「アーメン」

「アーメン」

と二人の姉妹もそれに続いてさも恭しくこう云った。

「お祈りはもう済みました。お休みなさりませ、お休みなさりませ」

尼は云い捨てて立ち去った。室内は再び静かになった。と、遠くから<ruby><rb>祈祷</rb><rt>きとう</rt></ruby>の声が<ruby><rb>讃歌</rb><rt>うた</rt></ruby>のように響いて来る。尼達が合唱しているのであろう。

久田姫は立ち上がり何気なく窓へ近寄って行ったが、

「……おお湖は真っ暗だ。どうやら嵐が出たらしい。<ruby><rb>濤</rb><rt>なみ</rt></ruby>の音が高く聞こえる……ああ湖の上に灯が見える。あそこに船がいるのかも知れない。だんだんこっちへ動いて来る。路案内の灯でもあろう。……」

姉の<ruby><rb>柵</rb><rt>しがらみ</rt></ruby>は龕の前に<ruby><rb>尚</rb><rt>なお</rt></ruby>つつましくひざまずいていた。熱心にお祈りをしているのであった。すすりなきの声がふと洩れる。

「お姉様」

と云いながら久田姫は窓を離れ姉の後ろへ寄り添った。

「何をお泣きなされます。<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くどく</span>あのような事をお尋ねしたからでございますか？　……もう妾はお父様のことは何んにもお尋ね致しませぬ。どうぞお許しくださいまし」

隣りの部屋へ歩きながら、

「妾はこれからはただ一人で考えることに致しましょう。お休みなさりませお姉様。夜はまだ早いのではございますが、妾は悲しくなりましたゆえ、いつものように夜の床の上でご本を読むことに致します。お休みなさりませお姉様」

彼女の立ち去ったその後は遠くから聞こえる祈祷の声ばかりが<ruby><rb>寂</rb><rt>さび</rt></ruby>しい部屋をいよいよ寂しくいよいよ味気なく<ruby><rb>領</rb><rt>りょう</rt></ruby>している。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ふと</span>柵は顔を上げたがその眼には涙が溢れている。

「可哀そうな久田姫や、お前は何一つこの<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>に詫びることはないのだよ。妾こそお前に詫びねばならぬ。可哀そうなお前の身の上は妾の<ruby><rb>淫</rb><rt>みだ</rt></ruby>らな<ruby><rb>穢</rb><rt>けが</rt></ruby>れた血で<ruby><rb>醜</rb><rt>みにく</rt></ruby>く<ruby><rb>彩</rb><rt>いろど</rt></ruby>られているのだからねえ」

彼女はよろよろと立ち上がり画像の前まで行ったかと思うと二幅の画像を<ruby><rb>交互</rb><rt>かわるがわる</rt></ruby>に眺め、

「ほんとに姫が云ったように何んとマアこの二人の人は悲しそうな顔をしているのであろう。云えば恥となり云わねば<ruby><rb>怨</rb><rt>うら</rt></ruby>みとなる。そう云ったような深い秘密をじっと噛みしめているようだ。けれど妾にはその秘密がどのようなものだか解っている。それが解っているために妾の声はお<ruby><rb>祈祷</rb><rt>いのり</rt></ruby>に<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>え妾の眼は涙に濡れ……そうして妾の生涯は……」

その時一人の老人が影のように部屋の中へはいって来た。乱れた白髪<ruby><rb>穢</rb><rt>よご</rt></ruby>れた<ruby><rb>布衣</rb><rt>ほい</rt></ruby>、永い<ruby><rb>辛苦</rb><rt>しんく</rt></ruby>を想わせるような深い<ruby><rb>皺</rb><rt>しわ</rt></ruby>と弱々しい眼、歩き方さえ力がない。

「お<ruby><rb>姫様</rb><rt>ひいさま</rt></ruby>」と老人は声を掛けた。深みのある濁った声である。

「おお、お前は島太夫……何か妾にご用なの？」

「もうお休みでござりますか？」

「お<ruby><rb>祈祷</rb><rt>いのり</rt></ruby>も済んだし<ruby><rb>懺悔</rb><rt>ざんげ</rt></ruby>もしたし今日のお<ruby><rb>勤行</rb><rt>つとめ</rt></ruby>はつとめてしまったからそろそろ妾は寝ようかと思うよ」

「それがよろしゅうござります。不吉の晩はなるだけ早くお休み遊ばすに限ります」

「え、不吉の晩というのは？」

老人は窓を指さしたが、

「ご覧あそばせ闇の湖に一つ<ruby><rb>点</rb><rt>とも</rt></ruby>された赤い灯を……」

云われて<ruby><rb>柵</rb><rt>しがらみ</rt></ruby>はスルスルと窓の方へ寄って行った。後から老人もつづきながら、

「十四年前のある晩のこと、ちょうどあのような赤い灯が湖水を越えて行きましたが、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">よもや</span>お忘れではござりますまいな？　その時あなた様は今夜のようにやはりその窓でそのように湖水を眺めておられました。……お顔の色もお体も今夜のように<ruby><rb>蒼褪</rb><rt>あおざ</rt></ruby>めて<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>え、そしてお眼からも今夜のように涙が流れておられました。ただ今夜と違っておられます事は尼様達のお<ruby><rb>祈祷</rb><rt>いのり</rt></ruby>の代りに<ruby><rb>猛</rb><rt>たけ</rt></ruby>りに猛る<ruby><rb>武士</rb><rt>もののふ</rt></ruby>のひしめき<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あらぶ</span><ruby><rb>声々</rb><rt>こえごえ</rt></ruby>が聞こえていたことでござります」

<ruby><rb>柵</rb><rt>しがらみ</rt></ruby>は物にでも襲われたように両手で顔を抑えたが、「何も<ruby><rb>彼</rb><rt>か</rt></ruby>も<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>は覚えている。あああの晩の恐ろしかったことは……」

「……その夜お城から乗り出した<ruby><rb>軍装</rb><rt>いくさよそお</rt></ruby>いした二隻の船には互いに<ruby><rb>剣</rb><rt>つるぎ</rt></ruby>を抜きそばめ互いに相手を睨み合った若い二人の<ruby><rb>武士</rb><rt>もののふ</rt></ruby>が乗っておられた筈でござりますな。……それこそ他ならぬあのお二方。画像のお方達でござります」

「それも妾は覚えている。一人は<ruby><rb>橘宗介</rb><rt>たちばなむねすけ</rt></ruby>様！　おお妾の<ruby><rb>許婚</rb><rt>いいなずけ</rt></ruby>！」

「はい、そうしてそのお方様こそこの城の<ruby><rb>主</rb><rt>あるじ</rt></ruby>でござりました。そうしてもう一人のお方様は宗介様のおん弟夏彦様でござりました」

「夏彦様！　夏彦様！」

三

突然思慕に<ruby><rb>堪</rb><rt>た</rt></ruby>えないようにこう<ruby><rb>柵</rb><rt>しがらみ</rt></ruby>は叫んだが、そのままぐるりと窓の方へ向いた。そうして両手を差し出して<ruby><rb>遥</rb><rt>はる</rt></ruby>か湖水の<ruby><rb>彼方</rb><rt>かなた</rt></ruby>の方にその恋人が立っているのを招くかのように打ち振った。

「不吉の夜でござります」――老いたる従者はまた云った。「何故と申しますに、十四年前の古い思い出が<ruby><rb>甦</rb><rt>よみがえ</rt></ruby>り<ruby><rb>蝮</rb><rt>まむし</rt></ruby>に<ruby><rb>噛</rb><rt>か</rt></ruby>まれた昔の傷がちょうどズキズキ痛むように痛んで参ったからでござります。――ご覧遊ばせ、赤い船の灯が次第次第にこのお城へ近寄って参るではござりませぬか。……次第次第にこのお城から遠ざかって行った十四年前の二隻の軍船とは反対に。……お休みなさりませお姫様。不吉の晩でござりますから」

影のように現われた老人は、影のようにこの部屋から去ろうとしたが、ふと戸口で振り返った。

「思い出したことがござります。と申するは<ruby><rb>他</rb><rt>ほか</rt></ruby>でもござりませぬ。<ruby><rb>三点鐘</rb><rt>さんてんしょう</rt></ruby>のことでござります」老人は回想にふけるように、「十四年前二隻の船が湖水を渡って立ち去りました時、宗介様と夏彦様とがこのようにあなた様とお約束なされ、お誓い遊ばしたではござりませぬか――いつの日いかなる時を問わず闇の夜赤き<ruby><rb>灯火</rb><rt>ともしび</rt></ruby>を点じ湖水を<ruby><rb>漕</rb><rt>こ</rt></ruby>ぎ来る船にしてもし三点鐘を打つ時は……」

「私の<ruby><rb>許婚</rb><rt>いいなずけ</rt></ruby>の帰った証拠！」

「また二点鐘を打つ時は……」

「夏彦様が帰った合図！」

「その通りでござります。今夜のような不吉の晩にはその鐘が不意に湖上から鳴らないものでもござりませぬ。よくよくご用心遊ばしませ」

足音を消して老人は廻廊の方へ出て行った。

後は<ruby><rb>寂然</rb><rt>しん</rt></ruby>と静かである。

と、<ruby><rb>柵</rb><rt>しがらみ</rt></ruby>は<ruby><rb>身顫</rb><rt>みぶる</rt></ruby>いをし物に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おびえた</span>というように部屋の中を怖そうに見廻したが、ツト画像の前まで行き、夏彦の画像へ両手を投げ掛け<ruby><rb>譫言</rb><rt>うわごと</rt></ruby>のように叫ぶのであった。

「夏彦様夏彦様、果たし合いにお勝ちくださりませ！　そうしてどうぞ一刻も早くお城へお帰りくださりませ！　三点鐘の鳴らぬよう二点鐘の鳴りますように神様お加護くださりませ！」

とたんに湖上から鐘の音が窓を通して聞こえて来た。赤い灯火のついている軍船で鳴らす鐘に相違ない。

ボーンと、一つ<ruby><rb>鮮明</rb><rt>はっき</rt></ruby>りと最初の鐘が鳴らされた。続いて二つ目の鐘の音が<ruby><rb>殷々</rb><rt>いんいん</rt></ruby>として響いて来た。

「二点鐘！」と柵は聞き耳をたてながら呟いた。しかし間もなく三つ目の鐘が鮮かに尾を曳いて鳴り渡った。そしてそのまま絶えたのである。三点鐘が鳴ったのだ。恋しい夏彦は帰らずに、名ばかり許婚の宗介が果たし合いに勝って帰って来たのだ。

柵の顔は蒼白となり眼ばかりギラギラと輝いたが、その眼で夏彦の画像を見詰め物狂わしくこう叫んだ。

「夏彦様夏彦様！　あなたは永久にこのお城へはお帰りなさらないのでござりますね。十四年の間、恋と<ruby><rb>嘆</rb><rt>なげ</rt></ruby>きに明かし暮らした<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>の胸へ二度とお帰りなさらないのだ」

彼女はにわかに冷ややかな眼で宗介の画像に見入ったが、

「あなたがこのお城へ帰ったとて何が待っておりましょうぞ。お<ruby><rb>祈祷</rb><rt>いのり</rt></ruby>をする尼様と、あなたにとっては敵の子と、そして冷たい許婚の<ruby><rb>屍</rb><rt>むくろ</rt></ruby>ばかり……あなたの<ruby><rb>希望</rb><rt>のぞみ</rt></ruby>はこれこのように消えてしまったのでござりますぞ」――云いながら<ruby><rb>龕</rb><rt>がん</rt></ruby>の前へ行き<ruby><rb>点</rb><rt>とも</rt></ruby>された灯火を吹き消した。

それから彼女はそろそろと歩いて姫の寝間の前まで来た。

「可哀そうな久田姫や、お前の恋しがっているお父様は、もうこの世にはおいでなさらぬのだよ。お前はこれからは一生をちょうど<ruby><rb>陽蔭</rb><rt>ひかげ</rt></ruby>の花のように<ruby><rb>寂</rb><rt>さび</rt></ruby>しく咲かなければならないのだよ。おお可哀そうな久田姫や！　そしてお前のお母様は……そしてお前のお母様は……」

そこに立ててある<ruby><rb>几帳</rb><rt>きちょう</rt></ruby>の蔭へ彼女は静かにはいって行った。と、一瞬間「あっ」という声が几帳の蔭から聞こえて来たが、ただ一声聞こえただけで後は<ruby><rb>寂然</rb><rt>しん</rt></ruby>と静かになった。

あわただしい足音を響かせて、島太夫が部屋へ飛び込んで来たのはそれから間もなくのことであった。

「お<ruby><rb>姫様</rb><rt>ひいさま</rt></ruby>！　<ruby><rb>柵</rb><rt>しがらみ</rt></ruby>様！」

と彼は<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>を見廻したが、

「お、これは灯が消えている。それにお休みなされたらしい。……お姫様！　お姫様！　お起き遊ばさねばなりませぬ！　三点鐘が鳴りました！」

しかしどこからも返辞がない。几帳の蔭はひそやかである。

四

「寝息も聞こえぬとはどうしたことだ。よくよくご熟睡遊ばしたと見える。がどうしてもお起こし申さねばならぬ」彼は几帳へ手を掛けたが、「ごめんくださりませお姫様……あっ！　これは！　<ruby><rb>南無三宝</rb><rt>なむさんぼう</rt></ruby>！」

思わず膝をついた<ruby><rb>一刹那</rb><rt>いっせつな</rt></ruby>、タッタッタッと階段を登る<ruby><rb>逞</rb><rt>たくま</rt></ruby>しい足音が聞こえて来たが、闇にもそれと見分けのつく<ruby><rb>鎧冑</rb><rt>よろいかぶと</rt></ruby>に身をよそった一個長身の<ruby><rb>武士</rb><rt>もののふ</rt></ruby>が<ruby><rb>颯</rb><rt>さっ</rt></ruby>と<ruby><rb>蝙蝠</rb><rt>こうもり</rt></ruby>でも舞い込んだように老人の眼前へ現われた。

「誰だ！」と島太夫は声を掛ける。「何用あって参ったぞ！　身分を明かし名をなのれ！」

すると不思議な侵入者は葬式に鳴らす太鼓のような深い不気味な濁った声で、

「命令するのだ！　<ruby><rb>灯火</rb><rt>ひ</rt></ruby>をつけろ！」ツト一足進んだが、「……年頃闇には慣れておれど久々で見るこの部屋がこう暗くては面白くない。さあすぐに<ruby><rb>灯火</rb><rt>ひ</rt></ruby>をつけろ！」

「そういうお声は？　……あなた様は？」

「俺はこの城の持ち主だ！　俺は橘宗介だ！」

「お殿様でござりましたか」

「何より先に<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>をつけろ。――そちはたしかこの城で物見の役をつとめていた島太夫と云った老人であろう。<ruby><rb>幽</rb><rt>かす</rt></ruby>かに声に覚えがある。もしその島太夫であるならば忠義一図の男の<ruby><rb>筈</rb><rt>はず</rt></ruby>だ。そちの主人が命ずるのだ、早く<ruby><rb>灯火</rb><rt>あかり</rt></ruby>を<ruby><rb>点</rb><rt>つ</rt></ruby>けるがよい」

島太夫は<ruby><rb>恭</rb><rt>うやうや</rt></ruby>しく<ruby><rb>一揖</rb><rt>いちゆう</rt></ruby>したが、そろそろと<ruby><rb>龕</rb><rt>がん</rt></ruby>まで歩いて行き燭台に<ruby><rb>仄</rb><rt>ほの</rt></ruby>かに灯をともした。部屋の中が<ruby><rb>朦朧</rb><rt>もうろう</rt></ruby>と明るんで来る。

宗介は部屋の中を見廻したが、

「……これが昔の俺の城か。あの<ruby><rb>華美</rb><rt>はなやか</rt></ruby>だった部屋だというのか。熊の毛皮を打ち掛けた<ruby><rb>黒檀</rb><rt>こくたん</rt></ruby>の<ruby><rb>牀几</rb><rt>しょうぎ</rt></ruby>はどこへ行った。夜昼絶えず燃えていた銀の香炉もないではないか。……や、ここに<ruby><rb>十字架</rb><rt>クルス</rt></ruby>がある！　誰がここへ置いたのだ？　何んのためにマリヤを飾ったのだ！　俺は昔から<ruby><rb>天帝</rb><rt>ゼウス</rt></ruby>に対して何んの尊敬も払っていなかった。ましてマリヤや<ruby><rb>基督</rb><rt>キリスト</rt></ruby>に対しては頭を下げたことさえない。<ruby><rb>天帝</rb><rt>ゼウス</rt></ruby>の教えを信じたのは俺ではなくて夏彦であった。……島太夫お前は覚えていような。十四年前のある晩に俺と夏彦とは部下を従え三隻の軍船に打ち乗って湖水を分け天竜川を下り一人の女の愛を得ようと<ruby><rb>阿修羅</rb><rt>あしゅら</rt></ruby>のように戦ったことを！　ああある時は二つの船は<ruby><rb>舷</rb><rt>ふなばた</rt></ruby>と舷とを触れ合わせて白刃と白刃で切り合った。またある時は二つの船は互いに遠く乗り放し矢合わせをして戦った。闇の夜には<ruby><rb>篝</rb><rt>かがり</rt></ruby>を<ruby><rb>焼</rb><rt>た</rt></ruby>き、星明りには<ruby><rb>呼子</rb><rt>よびこ</rt></ruby>を吹き、月の晩には<ruby><rb>白浪</rb><rt>しらなみ</rt></ruby>を揚げ、天竜の流れ<ruby><rb>遠州</rb><rt>えんしゅう</rt></ruby>の<ruby><rb>灘</rb><rt>なだ</rt></ruby>を血にまみれながら<ruby><rb>漂</rb><rt>ただよ</rt></ruby>った。永い間の戦いに夏彦の部下も俺の部下も一人残らず死に絶えた。俺の弓矢は<ruby><rb>朽</rb><rt>く</rt></ruby>ちて折れ夏彦の弓矢も朽ちて折れた。しかも二人の怨みばかりは<ruby><rb>綿々</rb><rt>めんめん</rt></ruby>として尽きぬのだ」

「その間中このお城にもいろいろの出来事がござりました」

老いたる<ruby><rb>家来</rb><rt>けらい</rt></ruby>島太夫は眼を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しばたたき</span>ながら云うのであった。

「お城に止どまった<ruby><rb>武士</rb><rt>もののふ</rt></ruby>達がお殿様方と夏彦様方と<ruby><rb>明瞭</rb><rt>はっき</rt></ruby>り二派に立ち別れ、切り合い攻め合い致しましたため次第次第に人は減り、やがて死に絶えてしまいました。その寂しさに堪えられず、お姫様の<ruby><rb>柵</rb><rt>しがらみ</rt></ruby>様は<ruby><rb>天帝</rb><rt>ゼウス</rt></ruby>の<ruby><rb>恩寵</rb><rt>おんちょう</rt></ruby>にお<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>りして安心を得ようとなされました。それをどうして知ったものか九州<ruby><rb>天草</rb><rt>あまくさ</rt></ruby>や南海の国々から天帝を信じる尼様達が忍び忍びにおいでなされ、お姫様と力を合わせ<ruby><rb>殺伐</rb><rt>さつばつ</rt></ruby>であったこのお城を<ruby><rb>祈祷十字架</rb><rt>きとうクルス</rt></ruby>聖灯の光で<ruby><rb>隈々隅々</rb><rt>くまぐますみずみ</rt></ruby>まで輝いている教団と一変させました。つまりお城は十四年の間に亡びてしまったのでござります」

「城は亡びても武士は死んでも俺の<ruby><rb>許婚</rb><rt>いいなずけ</rt></ruby>の柵は活きてここに住んでいような？」

「はい、ご無事でござります」

「俺はあの女を愛していた。あの女は俺の許婚だ。俺は死ぬほど愛していた。それだのに柵は俺のことを<ruby><rb>糸屑</rb><rt>いとくず</rt></ruby>ほどにも愛していなかった。あの女の恋人は夏彦であった。俺の弟を愛していたのだ。世にも憎い<ruby><rb>奴輩</rb><rt>やつばら</rt></ruby>め！　<ruby><rb>虹</rb><rt>にじ</rt></ruby>のようなはかないそんな歓楽がいつまでつづくと思っていたのか！」小脇に抱えていた丸い<ruby><rb>包物</rb><rt>つつみ</rt></ruby>を島太夫の前へ突き出したが、「島太夫、<ruby><rb>十字架</rb><rt>クルス</rt></ruby>の前へ行け、この<ruby><rb>包物</rb><rt>つつみ</rt></ruby>を開けて見ろ！」

「…………」――老人は無言で包物を受け取り龕の前まで歩み寄ったが、そろそろと包物をほどいて見た。男の生首が現われた。<ruby><rb>既</rb><rt>すで</rt></ruby>に予期したことである。島太夫は驚きもしなかった。

「見たか。首を。夏彦の<ruby><rb>首級</rb><rt>くび</rt></ruby>だ！　……あの晩は天竜の河の<ruby><rb>面</rb><rt>も</rt></ruby>を燐の光が迷っていた。星さえ見えぬ大空を嵐ばかりが吹いていた。湧き立つ浪は<ruby><rb>鬣</rb><rt>たてがみ</rt></ruby>を乱した白馬のように崩れかかり船を左右にもてあそんだ。俺と夏彦とは二人きりで船の<ruby><rb>船首</rb><rt>へさき</rt></ruby>に突立ちあがり、互いに白刃を抜き合わせ思うままに戦った。天運我にあったと見え、<ruby><rb>颯</rb><rt>さっ</rt></ruby>と突いた突きの一手に夏彦は胸の真ん中を刺され帆柱の<ruby><rb>下</rb><rt>もと</rt></ruby>に倒れたが、そのまま<ruby><rb>呼吸</rb><rt>いき</rt></ruby>は絶えてしまった。――十四年という永い年月互いに怨んだその怨みはこうしてとうとう晴らされたのだ。そうして俺は夏彦の首級を手に<ruby><rb>提</rb><rt>ひっさ</rt></ruby>げて帰って来た。そして今ここに立っている。……ここにこうして立ちながら一人の女を待っているのだ。俺の許婚<ruby><rb>柵</rb><rt>しがらみ</rt></ruby>の現われて来るのを待っているのだ。さて、島太夫お前に命ずる。早く柵を連れて来い」

「…………」

五

「何も恐れることはない。何も<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>ることはない。十四年ぶりで城の<ruby><rb>主</rb><rt>あるじ</rt></ruby>が腰に血染めの剣を<ruby><rb>佩</rb><rt>は</rt></ruby>き、手に敵の首級を持ちその首級を女に見せようと思って約束通り帰って来たのだ。さあ柵を連れて来い！　島太夫、柵にこう云ってくれ。……戦いに<ruby><rb>倦</rb><rt>あ</rt></ruby>きた<ruby><rb>宗介</rb><rt>むねすけ</rt></ruby>が<ruby><rb>生血</rb><rt>なまち</rt></ruby>に倦きたこの俺が美しい許婚に<ruby><rb>邂逅</rb><rt>ゆきあ</rt></ruby>って恋の<ruby><rb>甘酒</rb><rt>うまざけ</rt></ruby>に酔い<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しれ</span>たくそれで帰って来たのだとな。そしてまたこうも云ってくれ、そなたの恋人の夏彦を大事にかけて連れて来たとな、その夏彦は世にも<ruby><rb>穏</rb><rt>おとな</rt></ruby>しく笑いもせず物も云わずただ悲しそうに無念気に黙っていると云ってくれ。早く行け島太夫！　そうして<ruby><rb>柵</rb><rt>しがらみ</rt></ruby>を連れて来い！　俺は女を見たいのだ。殺された恋人の<ruby><rb>首級</rb><rt>くび</rt></ruby>を見てどんなに女が<ruby><rb>悶</rb><rt>もだ</rt></ruby>え苦しむか俺はそれが見たいのだ。その悲しみとその悶えとを俺に見せまいと押し隠し<ruby><rb>空々</rb><rt>そらぞら</rt></ruby>しい<ruby><rb>笑</rb><rt>え</rt></ruby>みを顔に<ruby><rb>湛</rb><rt>たた</rt></ruby>えて俺の方へ手を延ばすその柵を見たいのだ。早く柵を連れて来い！」

「お連れ致さずともお<ruby><rb>姫様</rb><rt>ひいさま</rt></ruby>はすぐお殿様のお目の前においで遊ばすのでござります」島太夫は<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>えながら手を上げて<ruby><rb>几帳</rb><rt>きちょう</rt></ruby>の<ruby><rb>蔭</rb><rt>かげ</rt></ruby>を指差した。「静かな<ruby><rb>睡眠</rb><rt>ねむり</rt></ruby>永遠の<ruby><rb>睡眠</rb><rt>ねむり</rt></ruby>……お姫様は几帳の蔭で眠っておられるのでござります」

聞くと一緒に宗介はつかつかと几帳の前まで行った。

「柵、柵、眼を<ruby><rb>醒</rb><rt>さ</rt></ruby>ませ。そなたの許婚宗介が今こそここへ戻って来たのだ。さあ早くそこから出て<ruby><rb>俺</rb><rt>わし</rt></ruby>の贈り物を見るがよい。やッ……」

とにわかに<ruby><rb>仰天</rb><rt>ぎょうてん</rt></ruby>し宗介は几帳を掻いやったが<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぐたり</span>と膝を床に突いた。

と、灯火の<ruby><rb>仄</rb><rt>ほの</rt></ruby>かの光に淡くおぼろに照らし出されたのは血に染んだ柵の<ruby><rb>屍骸</rb><rt>なきがら</rt></ruby>である。

思わず宗介は両手を延ばし彼女の<ruby><rb>躯</rb><rt>からだ</rt></ruby>を抱き起こしたとたんに、<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>がサラリと開いて走り出た一人の乙女。

「お姉様！」

と叫びながら柵の屍骸へ取り<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>る。

「誰だ！」

と宗介は眼を見張りその乙女を見詰めたが、何んに驚いたか抱えていた柵をはたと床へ取り落とした。

と、島太夫は沈痛にむしろ<ruby><rb>厳</rb><rt>おごそ</rt></ruby>かに云うのであった。

「お姫様でござります。柵様が十四年前にお産み遊ばしたお姫様の久田姫でござります」

「十四年前に産んだというか？　ふうむ、確かに十四年前だな？　……これ娘顔を上げろ！　おおいかにも<ruby><rb>酷似</rb><rt>そっく</rt></ruby>りだ！　夏彦の<ruby><rb>容貌</rb><rt>かお</rt></ruby>と<ruby><rb>酷似</rb><rt>そっく</rt></ruby>りだ！　因果な娘よ不義の<ruby><rb>塊</rb><rt>かたまり</rt></ruby>よ、立って<ruby><rb>十字架</rb><rt>クルス</rt></ruby>の前へ行け！　そこにある<ruby><rb>首級</rb><rt>くび</rt></ruby>がお前の<ruby><rb>親父</rb><rt>おやじ</rt></ruby>だ。そうしてここに自害している柵こそはお前の母親だ」

宗介は腰の太刀を抜き、<ruby><rb>躍</rb><rt>おど</rt></ruby>り上がり躍り上がり打ち振ったが、

「栄えに栄えた城は亡び仇も恋人も<ruby><rb>等</rb><rt>ひと</rt></ruby>しく死んだ！　俺は彼らに裏切られた。俺の<ruby><rb>怨恨</rb><rt>うらみ</rt></ruby>は<ruby><rb>永劫</rb><rt>えいごう</rt></ruby>に尽きまい。俺は一切を失った。俺には何一つ<ruby><rb>希望</rb><rt>のぞみ</rt></ruby>はない！　俺はいったいどうしたらいいのだ⁉　ああ俺は恋を<ruby><rb>呪</rb><rt>のろ</rt></ruby>う！　俺はあらゆる幸福を呪う！　俺は人間を呪ってやる！　俺は生きながら悪魔になろう！　山へ山へ八ヶ嶽へ行こう！　水の上の<ruby><rb>生活</rb><rt>くらし</rt></ruby>には俺は飽きた。俺は山の上の魔神になり下界の人間を呪ってやろう！」

叫び狂い<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>る声は窓を通し湖水を渡り、闇の大空に<ruby><rb>聳</rb><rt>そび</rt></ruby>えている八つの峰を持った八ヶ嶽の高い高い<ruby><rb>頂上</rb><rt>いただき</rt></ruby>まで響いて行くように思われた。

ここまで語って来た杉右衛門は岩の上に突っ立ったまま静かに<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>を見廻した。

<ruby><rb>文政</rb><rt>ぶんせい</rt></ruby>元年秋の事でここ八ヶ嶽の中腹の笹の平と呼ばれている陽当りのよい大谿谷には真昼の光が<ruby><rb>赭々</rb><rt>あかあか</rt></ruby>と今一杯に<ruby><rb>射</rb><rt>さ</rt></ruby>し込んでいる。既に八つの峰々には薄白く初雪が見えているが、ここまでそれが下りて来るには一月余りの余裕があろうか。見渡す限りの山々谷々には黄に紅に色を染めた幾億万葉の<ruby><rb>紅葉</rb><rt>もみじば</rt></ruby>が錦を織って燃え上がっている。眼の下<ruby><rb>遥</rb><rt>はる</rt></ruby>かの下界に当たって、<ruby><rb>碧々</rb><rt>あおあお</rt></ruby>と<ruby><rb>湛</rb><rt>たた</rt></ruby>えられた大湖水、すなわち<ruby><rb>諏訪</rb><rt>すわ</rt></ruby>の湖水であって、<ruby><rb>彼方</rb><rt>かなた</rt></ruby>の岸に壁白く石垣高く<ruby><rb>聳</rb><rt>そび</rt></ruby>えているのは三万石は諏訪<ruby><rb>因幡守</rb><rt>いなばのかみ</rt></ruby>の高島城の天主である。

<ruby><rb>天</rb><rt>てん</rt></ruby>晴れ気澄み鳥啼きしきり<ruby><rb>長閑</rb><rt>のどか</rt></ruby>の秋の<ruby><rb>日和</rb><rt>ひより</rt></ruby>である。

「さて」と杉右衛門は語りつづけた。「我らのご先祖<ruby><rb>宗介</rb><rt>むねすけ</rt></ruby>様が<ruby><rb>正親町</rb><rt>おおぎまち</rt></ruby>天皇<ruby><rb>天正</rb><rt>てんしょう</rt></ruby>年間に生きながら魔界の天狗となりこの八ヶ嶽へ上られてからは<ruby><rb>総</rb><rt>あらゆ</rt></ruby>る下界の人間に対して災難をお下しなされたのだ。そしてご自分の<ruby><rb>生活方</rb><rt>くらしかた</rt></ruby>も下界の人間とは差別を立てられ家には住まず<ruby><rb>窩</rb><rt>あな</rt></ruby>に住まわれた。そのうち四方から宗介様を慕って多くの人間が登山して参ったが、それらはいずれも<ruby><rb>人界</rb><rt>ひとのよ</rt></ruby>において妻を奪われ子を殺され財宝を盗まれた不幸の者どもで、下界の人間<ruby><rb>総</rb><rt>すべ</rt></ruby>てに対して<ruby><rb>怨恨</rb><rt>うらみ</rt></ruby>を持っている人間どもであった。こうして魔神宗介様は多数の<ruby><rb>眷族</rb><rt>けんぞく</rt></ruby>を従えられ、いよいよ<ruby><rb>益〻</rb><rt>ますます</rt></ruby>人間に向かって惨害をお下しなされるうち、世はやや<ruby><rb>治</rb><rt>おさ</rt></ruby>まって<ruby><rb>信長</rb><rt>のぶなが</rt></ruby>時代となりさらに<ruby><rb>豊臣</rb><rt>とよとみ</rt></ruby>時代となりとうとう徳川時代となった。宗介様の肉体はとうにこの世を辞したけれど、魂<ruby><rb>尚</rb><rt>なお</rt></ruby>神となってこの<ruby><rb>谿谷</rb><rt>たに</rt></ruby>に残っておられる筈だ。そうして我々眷族の子孫は窩に住むため<ruby><rb>窩人</rb><rt>かじん</rt></ruby>と呼ばれ人界の者どもに恐れられ、今日までここに住んで来た。ところが……」

と窩人の<ruby><rb>長</rb><rt>おさ</rt></ruby>の、杉右衛門は<ruby><rb>屹</rb><rt>きっ</rt></ruby>と眼を<ruby><rb>瞋</rb><rt>いか</rt></ruby>らせ、彼の前にずらりと並んでいる五百に余る窩人の群を隅から隅まで睨み廻したが、

「ところがこの頃どこから来たものか白法師と自分から名を<ruby><rb>宣</rb><rt>なの</rt></ruby>る奇怪な法師がこの山へ来て、『敵を愛せよ』というようなことを熱心に説法し出した。そうだ、これとて不届き千万ではあるが、それにも増して許し難いのは窩人の身分でありながら、その白法師めの説法を<ruby><rb>窃</rb><rt>ひそ</rt></ruby>かに信じる者があり、宗介天狗を<ruby><rb>勧請</rb><rt>かんじょう</rt></ruby>した天狗の宮の<ruby><rb>境内</rb><rt>けいだい</rt></ruby>で毎夜毎夜<ruby><rb>集会</rb><rt>つどい</rt></ruby>をなし、その白法師を呼び迎え説法を聞く者があるということじゃ。これは我々の<ruby><rb>宗教</rb><rt>おしえ</rt></ruby>から見て許し難い罪悪じゃ！　<ruby><rb>見出</rb><rt>みいだ</rt></ruby>してこの山から追い出さねばならぬ。何んとそうではあるまいかな？」

「そうだそうだ！」

と叫ぶ声が集まった窩人の口々から雷のように<ruby><rb>轟</rb><rt>とどろ</rt></ruby>いた。

「さて」と一段声を高め杉右衛門はさらに云い出そうとしたが、にわかに棒のように立ちすくみ山の峰の方を見詰め出した。群がった窩人達は怪しみながら彼の眼を追って峰の方を見た。と同音に「わっ！」と叫び大事な<ruby><rb>評定</rb><rt>ひょうじょう</rt></ruby>も忘れたかのように四方に向かって逃げ出した。

峰は今や山火事なのである。

<ruby><rb>涸</rb><rt>か</rt></ruby>れ乾いた木の葉に火が<ruby><rb>点</rb><rt>つ</rt></ruby>いたのである。<ruby><rb>濛々</rb><rt>もうもう</rt></ruby>たる黒煙のその中から<ruby><rb>焔</rb><rt>ほのお</rt></ruby>の舌が<ruby><rb>閃</rb><rt>ひらめ</rt></ruby>いて見え嵐に<ruby><rb>煽</rb><rt>あお</rt></ruby>られて次第次第に火勢は<ruby><rb>麓</rb><rt>ふもと</rt></ruby>の方へ流れて来る。

窩人の部落は今やまさに焼き払われようとしているのである。

六

窩人の頭領杉右衛門の娘の今年十九の<ruby><rb>山吹</rb><rt>やまぶき</rt></ruby>は家の一間で泣いていた。

父は寄り合いに出かけて行き弟の牛丸もどこへ行ったものか家の内にはいなかった。

彼女は泣き<ruby><rb>喋舌</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>っているのであった。

「あの人<ruby><rb>憤</rb><rt>おこ</rt></ruby>って行ってしまったわ。どうしよう、どうしよう、どうしよう！　よくまだ<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>が云わないうちにあの人憤って行ってしまったんだもの。そりゃ妾だって悪かったけれどあの人だってあんまりだわ。……でも妾ほんとにあんな事を何故あの人に云ったんだろう。――妾が<ruby><rb>都会</rb><rt>みやこ</rt></ruby>へ行って見たいと云ったら、あの人にわかに妙な顔をして『何故行きたい』って<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>くものだから、『妾もうこんな山の上の部落なんかには飽き飽きした』って、ついうっかり云ってしまうと、あの人恐ろしい顔をして、『山吹、お前は、山の中に住むこの俺の顔にも飽きたろうな。<ruby><rb>弁解</rb><rt>いいわけ</rt></ruby>したって通らねえよ。聞けば高島の城下（今の上諏訪町）から、多四郎とかいう<ruby><rb>生</rb><rt>なま</rt></ruby>っ<ruby><rb>白</rb><rt>ちろ</rt></ruby>い男が、お前を張りに来るそうだが、これ、気を付けねえといけねえぞ。かりにも窩人部落の女で、下界の人間と<ruby><rb>契</rb><rt>ちぎ</rt></ruby>ったが最後天狗の宮の岩の上から深い谷底へ投げ下ろされ必ず<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>を失うのだからな』と声の調子まで恐ろしく変えて、こうあの人が云ったかと思うと自分の頭の毛を掻き<ruby><rb>毮</rb><rt>むし</rt></ruby>り、『ああ俺はお前に<ruby><rb>騙</rb><rt>だま</rt></ruby>された。俺は<ruby><rb>意気地</rb><rt>いくじ</rt></ruby>のねえ人間だ。俺はお前に見捨てられた！　もう俺はこれっきりお前とは逢わねえ！　その多四郎とかいう下界の奴と手に手を取って部落を出るがいい。そうして下界の真人間となって<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うんと</span>出世をするがいいや！　だがな、山吹、よく覚えていろよ。お前が下界で出世している時俺はやっぱり窩人部落の八ヶ嶽の中腹の笹の平で、お前の事を恋い<ruby><rb>焦</rb><rt>こが</rt></ruby>れながら<ruby><rb>猪</rb><rt>しし</rt></ruby>熊猿を相手にして憐れに暮らしているってことをな！』……こういうと妾を振り切ってズンズン行ってしまったんだよ。誰があの人を<ruby><rb>騙</rb><rt>だま</rt></ruby>したって云うの。<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>騙しなんかしやしないわ」

彼女の前に誰かいて、その人に訴えてでもいるかのように彼女はいつまでも泣き<ruby><rb>喋舌</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>っている。

秋の真昼のことであって黄味の勝った陽の光が家の内まで射し込んでいる。<ruby><rb>家造作</rb><rt>やづくり</rt></ruby>は窩人の風俗通り大岩を掘り抜き柱を立てたいわゆる古代穴居族の普通の家造作と同じであったが、杉右衛門は一族の頭領だったので、したがってその住居は特別に広く<ruby><rb>半分</rb><rt>なかば</rt></ruby>以上は岩窟から外へ<ruby><rb>喰</rb><rt>は</rt></ruby>み出して造られているのであった。

山吹は窩人族の乙女としてはほとんど類なく美しかった。やはり頭領の一人娘だけに衣裳などでも他の娘などより立派な物を着ているので自然引っ立ちもするのであろうが、下界高島の城下における立派な武士の令嬢と云っても充分通る<ruby><rb>容姿</rb><rt>ようす</rt></ruby>であった。

その美しい山吹が秋陽に半顔を照らしながらシクシク泣いているのであるから、ちょっと形容出来がたいほど<ruby><rb>可愛</rb><rt>かわい</rt></ruby>らしく見えるのであった。

その時、手近かの林の中から<ruby><rb>雉笛</rb><rt>きじぶえ</rt></ruby>の音が聞こえて来たが、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">のっそり</span>草を分けて出て来たのは彼女の弟の牛丸であったが年はおおかた十四ぐらいでもあろうか、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひょいと</span>家の前まで来ると、姉の様子を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>き込んだ。

「うわア、姉さん泣いてらあ。こいつアほんとに面白いや」

林の中で捕ったのでもあろう雉を一羽<ruby><rb>提</rb><rt>さ</rt></ruby>げていたが、それを土間の方へ<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>り出すと縁側へ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">どん</span>と腰を掛け、

「今ね、姉さん、多四郎さんがね、姉さんを訪ねてここへ来るよ」

「え、まあ本当！　多四郎さんが？」

「林の中から坂路の方を見たら素晴らしく<ruby><rb>洒落</rb><rt>しゃれ</rt></ruby>込んだ多四郎さんがね、こっちへ上って来るじゃないか。で<ruby><rb>俺</rb><rt>おい</rt></ruby>ら急いで走って行って色々あの人と話したがね……」

「まあそれじゃ本当なんだね」

山吹は思わず手を上げて髪の乱れを掻き上げた。

牛丸はそれを見るとニヤニヤして、

「ふうんこいつア妙だなあ、多四郎さんのこととなると姉さん変にソワソワするんだもの」

「そんな事云うもんじゃありませんよ。お前さんはまだ子供じゃないの。……それで多四郎さんは何んと云って？」

「ああ<ruby><rb>尋</rb><rt>たず</rt></ruby>ねたよ姉さんの事を。『あなたの姉さんお<ruby><rb>幾歳</rb><rt>いくつ</rt></ruby>？』てね。<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>に気取った云い方でね」

「そうしてお前さんは何んて答えて？」心配そうに訊くのであった。

牛丸はまたもニヤニヤしながら、「二十二だって云ってやったよ。つまり三つ懸け値をしてね」

「まあ」と<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れて山吹は思わず両手を打ち合わせたが、

「どうしようどうしよう<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>っ<ruby><rb>子</rb><rt>こ</rt></ruby>！　妾あの方に自分の年を十八だって云って置いたのよ！」

二人の<ruby><rb>姉弟</rb><rt>きょうだい</rt></ruby>は腹を抱え面白そうに笑ったが、その心地よい笑い声は森や林へ反響し二人の耳へ返って来た。

七

牛丸は部屋の中を見廻したが盆に高く積まれてある秋栗の山を見付けると、

「姉さん誰かお客さんがあったの？」

「ああ、あったよ岩太郎さんがね……」

「ああそう、あの人はいい人だねえ。<ruby><rb>俺</rb><rt>おい</rt></ruby>らあの人大好き。多四郎さんのようにお<ruby><rb>洒落</rb><rt>しゃれ</rt></ruby>でなく、それに部落の人だからね。……<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>早く岩さん帰ったんだろう？」

「<ruby><rb>憤</rb><rt>おこ</rt></ruby>って帰って行ったんだよ」

二人はちょっと眼を見合わせたがそのまましばらく黙っていた。

林から林へ移って行く小鳥の群が幾度となく二人の前を過ぎて行った。風もないのにホロホロホロホロと<ruby><rb>紅葉</rb><rt>もみじ</rt></ruby>が庭へ降って来る。<ruby><rb>草叢</rb><rt>くさむら</rt></ruby>からピョンと飛び出して峰の方へ<ruby><rb>颯</rb><rt>さっ</rt></ruby>と走って行ったのは栗色をした<ruby><rb>兎</rb><rt>うさぎ</rt></ruby>である。ケーンケーンと森の奥から雉の啼き声が聞こえて来る。時々<ruby><rb>雹</rb><rt>ひょう</rt></ruby>でも降るかのように林の中から聞こえて来るのは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はぜ</span>た大栗が転がり落ちるのである。

事のない時の部落の光景はまことに平和なものである。

「や、来たらしい。足の音がするよ。多四郎さんが来たんだよ」

牛丸はこう云って坂の方を首をのばして見やったが、

「下界の奴なんか意気地なしさね、あんな坂を上るのに大息を吐いているんだからな。――俺らはそれでは林へ行って今度は山鳥でも捕ってやろう」

牛丸はそのまま走り出したが、やがて林に隠れてしまった。同時に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひょっこり</span>坂の登り口へ形のよい姿を現わしたのは問題の主の多四郎であった。

彼は年の頃二十四、五、<ruby><rb>都風</rb><rt>みやこふう</rt></ruby>に髪を<ruby><rb>結</rb><rt>ゆ</rt></ruby>い当世風の<ruby><rb>扮装</rb><rt>みなり</rt></ruby>をし色白面長の顔をした女好きのする男であったが、眼に何んとなく剣があり、唇が余りに紅いのは油断の出来ない<ruby><rb>淫蕩者</rb><rt>いんとうもの</rt></ruby>らしい。肩に振り分けにして掛けているのは麓の城下から持って来るところの色々の珍らしい<ruby><rb>器具</rb><rt>うつわ</rt></ruby>や<ruby><rb>食物</rb><rt>たべもの</rt></ruby>で、つまり彼は山と城下とを往来している行商人なのであった。

「お、これは山吹様、あなたお一人でございますかな？　お父様はどこへ参られましたかな？　え、寄り合いにおいでなされたと？」

多四郎は愛想よく笑いながら山吹の<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>へやって来たが上がり<ruby><rb>框</rb><rt>がまち</rt></ruby>へ腰を下ろした。

山吹は何んとなく狼狽して思わず顔を赤らめたりしたが、

「はい、お父様は寄り合いで天狗の宮まで参りました。白法師様を<ruby><rb>縛</rb><rt>から</rt></ruby>め取るための相談なのでございましょうよ」

「あっちへ行っても白法師こっちへ来ても白法師。どうやらお山は白法師のために荒らされているようでございますなあ」

<ruby><rb>諂</rb><rt>へつら</rt></ruby>うように微笑したが、

「私のためには<ruby><rb>結句</rb><rt>けっく</rt></ruby>幸い。何んとそうではございませぬかな」彼はそろそろと手を延ばして山吹の方へ近寄って行く。

「それはまた何故でございますの」

「だってそうではございませんか。こうしてたった二人きりで差し向かっていることの出来ますのもその白法師様のお蔭ですからな」

云いながら素早く山吹の手をギュッと握ったが、そこは<ruby><rb>初心</rb><rt>うぶ</rt></ruby>の娘である。「あれ！」と<ruby><rb>仰山</rb><rt>ぎょうさん</rt></ruby>な金切り声を上げ握られた手を振り<ruby><rb>解</rb><rt>ほど</rt></ruby>いた。

「エヘヘヘヘ」

と笑ったものの多四郎は少なからずテレたものか、テレ隠しに盆の上の栗を<ruby><rb>摘</rb><rt>つま</rt></ruby>んだ。

「ほほう大きな栗ですなあ」わざとらしく眼を見張る。

「よかったらお<ruby><rb>食</rb><rt>あが</rt></ruby>りなさりませ」笑止らしく山吹はこう云った。「余り物ではございますけれど」

「へ、余り物とおっしゃると？」

「あの、お客がありましたのよ」

「あなた一人の所へね？」もう<ruby><rb>嫉妬</rb><rt>しっと</rt></ruby>からの<ruby><rb>詮索</rb><rt>せんさく</rt></ruby>をする。

「ええ心やすい人ですもの。岩さんという方ですわ」

彼女は<ruby><rb>無邪気</rb><rt>むじゃき</rt></ruby>に云うのであった。

「<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>の<ruby><rb>従姉兄</rb><rt>いとこ</rt></ruby>に当たりますの」

「それじゃ部落の人ですね」さも<ruby><rb>嘲</rb><rt>あざ</rt></ruby>けった様子をして、

「へ、<ruby><rb>熊猪</rb><rt>くまじし</rt></ruby>のお仲間か！　ところで先日の話の続きを今日はお話ししましょうかな」

「どうぞ」

と山吹は乗り出して来たがもうその眼は<ruby><rb>恍惚</rb><rt>うっと</rt></ruby>りとなり胸をワクワクさせているらしい。

「それジワジワとおいでなすったぞ。この大江戸の話ばかりが<ruby><rb>資金</rb><rt>もとで</rt></ruby>いらずの資金というものさ。<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>の女を<ruby><rb>誑</rb><rt>たら</rt></ruby>すにはこれに<ruby><rb>上越</rb><rt>うえこ</rt></ruby>すものはないて」

――多四郎はこんなことを思いながら上唇をペロリとなめ、

「……何が美しいと云ったところで江戸の<ruby><rb>祭礼</rb><rt>まつり</rt></ruby>に<ruby><rb>敵</rb><rt>かな</rt></ruby>うものはまず他にはありませんな。揃いの衣裳。<ruby><rb>山車</rb><rt>だし</rt></ruby>屋台。<ruby><rb>芸妓</rb><rt>げいしゃ</rt></ruby>の<ruby><rb>手古舞</rb><rt>てこま</rt></ruby>い。笛太鼓。ワイショワイショワイショワイショと<ruby><rb>樽</rb><rt>たる</rt></ruby>天神を<ruby><rb>担</rb><rt>かつ</rt></ruby>ぎ廻ります。それは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たいした</span>景気でさあね。……大名行列も<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ふんだん</span>に見られ、<ruby><rb>河開</rb><rt>かわびら</rt></ruby>きにはポンポンと幾千の花火が揚がるんですよ。それより何より面白いのは<ruby><rb>歌舞伎</rb><rt>かぶき</rt></ruby>狂言<ruby><rb>物真似</rb><rt>ものまね</rt></ruby>でしてね。<ruby><rb>女役</rb><rt>おやま</rt></ruby>、<ruby><rb>実悪</rb><rt>じつあく</rt></ruby>、<ruby><rb>半道</rb><rt>はんどう</rt></ruby>なんて、<ruby><rb>各自</rb><rt>めいめい</rt></ruby><ruby><rb>役所</rb><rt>やくどこ</rt></ruby>が決まっておりましてな、泣かせたり笑わせたり致しやす。――春の花見！　これがまた大変だ！」

八

「え、大変とおっしゃると？」

山吹は顔を上気させ眼をうるませて聞き惚れていたが<ruby><rb>吃驚</rb><rt>びっくり</rt></ruby>したようにこう云った。

「何、大変と申したところで悪い意味じゃありませんよ。つまり素晴らしいと云ったまで。――そりゃア素晴らしゅうござんすよ。この辺に咲く山桜、あんなものじゃあありませんね。桃色大輪の吉野桜、それが千本となく万本となく、<ruby><rb>隅田</rb><rt>すみだ</rt></ruby>の<ruby><rb>堤</rb><rt>どて</rt></ruby>、上野の丘に白雲のように咲き満ちています。花見<ruby><rb>衣</rb><rt>ごろも</rt></ruby>に赤<ruby><rb>手拭</rb><rt>てぬぐ</rt></ruby>い、幾千という江戸の男女が毎日花見に明かし暮らします。酒を飲む者。踊りを踊る人。<ruby><rb>伽羅</rb><rt>きゃら</rt></ruby>を焚いて<ruby><rb>嗅</rb><rt>か</rt></ruby>ぐものもある。……」

「まあ」――と山吹は感嘆の声を思わず口から洩らしたが、「そういう江戸には美しいお方が<ruby><rb>沢山</rb><rt>たくさん</rt></ruby>おいででございましょうねえ」

「それは沢山おりますとも。それに<ruby><rb>扮装</rb><rt>みなり</rt></ruby>が<ruby><rb>贅沢</rb><rt>ぜいたく</rt></ruby>ですよ。衣裳はお召し。帯は西陣。<ruby><rb>長襦袢</rb><rt>ながじゅばん</rt></ruby>は京の<ruby><rb>友禅縮緬</rb><rt>ゆうぜんちりめん</rt></ruby>。ご婦人方はお化粧をします。<ruby><rb>白粉</rb><rt>おしろい</rt></ruby>に<ruby><rb>紅</rb><rt>べに</rt></ruby>に匂いのある油……」

「まあ」

とまたも感嘆して山吹は<ruby><rb>溜息</rb><rt>ためいき</rt></ruby>を洩らしたが、

「ああ<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>行って見たい。ああ妾行って見たい！」と夢見るような声で云った。若い娘の好奇心と若い娘の虚栄心とから<ruby><rb>迸</rb><rt>ほとばし</rt></ruby>り出た声である。

「しめた！」と多四郎は思ったがそういう様子は<ruby><rb>噯</rb><rt>おくび</rt></ruby>にも出さず<ruby><rb>至極</rb><rt>しごく</rt></ruby>真面目の顔付きで、

「江戸へ行きたいとおっしゃるので？　おいでなさりませご案内しましょう。ですから私はお逢いするたびに申しておるではありませんか。あなたのような美しい方が何んでこのような山の中の、しかも<ruby><rb>窩人</rb><rt>かじん</rt></ruby>の部落などにいつまでもおいでなさるかとね」

「でも……」と山吹は云いよどんだ。「何んにも知らない田舎者がそのような繁華の土地へ出て<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あちこち</span>で恥を掻くよりもいっそやっぱりここにいて兎や猿と暮らした方が身のためになりはしますまいか」

「その心配はご無用です。この多四郎が付いておりやす」彼はポンと胸を叩いたがこういう<ruby><rb>気障</rb><rt>きざ</rt></ruby>なやり口も浮世を知らぬ山の娘にはかえって<ruby><rb>頼</rb><rt>たの</rt></ruby>もしく思われるらしい。で、彼女は<ruby><rb>莞爾</rb><rt>にっこ</rt></ruby>りした。

「あの、そうしてあなたのお家も、お江戸にあるのでございましょうねえ？」

「お江戸？　そうそう江戸にあります」

こう多四郎は云ったものの心中ギクリとしたのであった。彼は城下の人間で江戸などに邸はないからである。

「広いお家でございましょうねえ？」

山吹はまたも<ruby><rb>恍惚</rb><rt>うっと</rt></ruby>りと訊く。

「え、私の家ですかな？　……ええまあ随分広うごすなあ」――その実多四郎は家ときたら<ruby><rb>一間</rb><rt>ひとま</rt></ruby>しかない<ruby><rb>裏店</rb><rt>うらだな</rt></ruby>なのである。

「ご家内も随分多いんでしょうねえ？」

「家内ええと、二、二十人」――彼は思わず<ruby><rb>額</rb><rt>ひたい</rt></ruby>を拭いた。汗が<ruby><rb>滲</rb><rt>にじ</rt></ruby>んで来たからである。その筈である。彼の家族は彼と母親との二人きりなのだから。

「ああ、駄目だわ！　妾なんか！」

突然絶望の声を上げ、山吹が両眼を<ruby><rb>抑</rb><rt>おさ</rt></ruby>えたので多四郎はギョッとして腰を浮かせたが、何が駄目なのか解らない。

「ああ、妾なんか及ばないわ！」

再び彼女は叫んだものである。

「及ばない？　何が？　どうしてですな？」

云いながら好機<ruby><rb>逸</rb><rt>いっ</rt></ruby>すべからずと彼は山吹の手をとった。それからそっと腰をかける。

山吹も今度はとられた手を振り放そうとはしなかった。じっとそのままとらせている。

「でもやっぱり行きたいわ。……」

<ruby><rb>囈語</rb><rt>うわごと</rt></ruby>のようにこう云って彼女は多四郎の顔を見たが、

「あなたはどういうご身分のお方？　お<ruby><rb>侍</rb><rt>さむらい</rt></ruby>さんではありませんわねえ」

「違いますとも。そうではありませんとも」

「では、お百姓？　ああ商人ね！　大きな大きな商人ね！　でもどうしてそんなお方が行商などをなさいますの？」

「さあ、そこです。……」

と、多四郎は、また額を<ruby><rb>磨</rb><rt>こす</rt></ruby>ったが、

「つまり、見習いをしているので。……」

「ああそう、それで解りました」

山吹はそこで押し黙って何か空想にふけり出した。と、多四郎は彼女の手を自分の口まで持って来て<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つと</span>唇を着けようとする。その手を山吹はちょっと引いたがそれは無心でしたことであった。そんな事より今や彼女は自分が江戸へ出て行って立身出世をした時の事を空想に浮かべているのであった。

で、多四郎は<ruby><rb>懲</rb><rt>こ</rt></ruby>りずにまた山吹の手をとったがやはり彼女はそのままでいた。

と、山吹は<ruby><rb>囈語</rb><rt>うわごと</rt></ruby>のようにまたもこんなことを叫んだのであった。

「ああ<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>厭だ！　山の中は！」

「では参ろうじゃありませんか。花の大江戸の真ん中へね」

多四郎は山吹の手を引いた。彼女は彼に引かるるままに彼の胸の上に顔を埋ずめた。

「連れて行ってください！　連れて行ってください！　妾どうしたって江戸へ行きます！」

九

<ruby><rb>凄</rb><rt>すさま</rt></ruby>じい微笑が<ruby><rb>一刹那</rb><rt>いっせつな</rt></ruby>多四郎の頬に浮かんだが、山吹の顔をジリジリと上の方へ向けようとする。二人の顔が合った時多四郎は突然自分の顔を山吹の顔へ落としかけた。

とたんに笑い声が聞こえて来た。ハッとして二人が顔を上げると牛丸が門口に立っている。

「ヤーイ、何をベチャクチャしてるのだい！　岩さんに云い付けるぞ！」<ruby><rb>憎悪</rb><rt>ぞうお</rt></ruby>の光を眼に<ruby><rb>湛</rb><rt>たた</rt></ruby>え、「オイ岩さんがやって来るぞ！　妙な人と一緒にな！」

「馬鹿！　<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>っ<ruby><rb>児</rb><rt>こ</rt></ruby>！　厭な<ruby><rb>餓鬼</rb><rt>がき</rt></ruby>！」

そこは部落の女である。猛烈の感情を一時に出して山吹は弟を<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>った。

「岩さんが何んだ！　岩太郎が何んだよ！　来たら追い出してやるばかりさ！」

「ふん」と牛丸も<ruby><rb>喧嘩腰</rb><rt>けんかごし</rt></ruby>になり、「多四郎の奴が来ないうちは岩さんで大騒ぎをしたくせに！」グルリと森の方へ向きを変えたが、「やあもうそこまでやって来た。……妙な人が<ruby><rb>従</rb><rt>つ</rt></ruby>いて来るよ……」

山吹も多四郎もそれを聞くと首を差し出して森の方を見た。

「あら、ほんとに岩さんが来る」山吹は<ruby><rb>周章</rb><rt>あわ</rt></ruby>てて叫んだが、「来たら返してやるばかりだね」

「ははあ、不格好なあの男がそれじゃ岩という男ですな」多四郎は鼻を鳴らしながら、「私の家の庭男にも当たらぬ」

牛丸は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">さもさも</span>嬉しそうに、「<ruby><rb>俺</rb><rt>おい</rt></ruby>ら岩さんを迎いに出てやろう」彼はそとまで走って行った。

「おや」

とにわかに多四郎は不安の様子を現わした。

「何んて恐ろしい顔付きだろう。あの妙な人の顔付きは！」

彼は両掛けを取り上げた。そうして横手の<ruby><rb>潜</rb><rt>くぐ</rt></ruby>り<ruby><rb>戸</rb><rt>ど</rt></ruby>から坂の方へパタパタと逃げ出した。

「あら、多四郎さんどうなすったの⁉」

山吹は驚いて叫んだが、「<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>も、妾も、妾も一緒に！」

――<ruby><rb>周章</rb><rt>あわ</rt></ruby>てて潜り戸から飛び出した。

後には、部屋の中には誰もいない。黄色い秋陽が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しらしら</span>と敷物の上を照らしている。小鳥が一羽戸惑いしてツト部屋の中へ飛び込んで来たが、すぐ驚いたように飛び出して行った。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しん</span>と<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>は静かである。

と、<ruby><rb>戸外</rb><rt>いえのそと</rt></ruby>で話し声がする。

「牛丸さん、今日は」

「ああ、岩さん、今日は」

「姉さん家においでかね？」

「ええいますよ家の中に」

「どなたかお客さんでもありますか？」

「…………」

「とにかくはいって見ましょうかね」

すぐと土間へはいって来たのは、牛丸と岩太郎と<ruby><rb>白衣</rb><rt>びゃくえ</rt></ruby>を着たすなわち「妙な人」とであった。

岩太郎は多四郎と同年輩であった。人柄はまるで反対であった。真面目で熱烈で堅実でいかにも部落の若者らしい。<ruby><rb>縞</rb><rt>しま</rt></ruby>の<ruby><rb>筒袖</rb><rt>つつそで</rt></ruby>に<ruby><rb>山袴</rb><rt>やまばかま</rt></ruby>を<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>き獣皮の帯を締めている。

白衣の人物はそれとは異なり真に神のように<ruby><rb>神々</rb><rt>こうごう</rt></ruby>しい。抜けるほど白い皮膚の色。髪を肩まで切り下げているのがかえって一種の尊厳を添える。白衣を長く<ruby><rb>裳</rb><rt>すそ</rt></ruby>まで垂れ足の先を隠しているが、その足には何んにも<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>いていない。<ruby><rb>秀</rb><rt>ひい</rt></ruby>でた額、高い鼻。形のよい口には微笑が<ruby><rb>湛</rb><rt>たた</rt></ruby>えられ一見<ruby><rb>赤児</rb><rt>あかご</rt></ruby>さえ<ruby><rb>懐</rb><rt>なつ</rt></ruby>きそうである。彼の眼は全く不思議なものである。つまり威厳の象徴であって、ある時は<ruby><rb>玲瓏</rb><rt>れいろう</rt></ruby>珠の如くに見え、ある時は猛獣をも尻ごみさせるほどの恐ろしい眼にも見えるのであった。しかもそれが一瞬の休みもなく自由自在に変化するのであった。

岩太郎は四辺を見廻したが、

「おや誰も家にはいないじゃないか」

「やあ姉さんはどこへ行ったんだろう」牛丸は部屋部屋を探し歩いたが、

「いないいないどこにもいない。ああそれじゃ逃げたんだな。岩さんと逢うのが恥ずかしくて。ようし俺ら探して来よう」

飛び出そうとするのを抑えたのは白衣の妙な人であった。

「探さずともそのうち帰って来よう。巣のある鳥は巣へ帰るものじゃ。……で、お前さんが牛丸さんかね？」

親しそうに妙な人は尋ねたが、その声はちょうど岩を走る清水のように清らかであった。

<ruby><rb>悪戯者</rb><rt>いたずらもの</rt></ruby>の牛丸もにわかに態度を改めたが、

「悪戯者の牛丸とは私のことでございます」

と、さも<ruby><rb>丁寧</rb><rt>ていねい</rt></ruby>に云ったものである。

「ハッハッハッ。悪戯者とは面白いね。自分から云うのは正直でよい。――ところで<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たった</span>今ここから出て坂の方へ逃げた者がある。あれはどういう人間だね？」

「若い男じゃございませんか？　もしそうなら多四郎の奴です」

一〇

「なに多四郎？」

と、それを聞くと岩太郎は<ruby><rb>颯</rb><rt>さっ</rt></ruby>と顔色を変えたが、妙な人のために制せられた。

「<ruby><rb>私</rb><rt>わし</rt></ruby>もそうだと思いました」妙な人は威厳をこめ、「あの男はよくない人間ですぞ。あの人間はある目的をもって天狗の宮の絶壁の下に木小屋を造って住んでいます。そうして城下へ下りて行っては色々の物を買って来ます。それを持って行商に来るのです。城下から山へ来るのではなく自分は木小屋に住んでいて絶えず部落の動静をうかがい乗ずべき隙を<ruby><rb>狙</rb><rt>ねら</rt></ruby>っているのです。……」

「へえ、さようでございますか。悪い奴でございますなあ」岩太郎はひどく驚いたが、「それにしてもどうしてあなた様はそれをご存知なのでございましょう？」

「ああそれは何んでもない。私は寸刻の隙さえ惜しんでこの山中を見廻っている者じゃ。で、私はある日の事、その木小屋を見付けたのじゃ。……おや、誰か戸口にいるな。私の話を盗み聞きしている」

なるほど、そう云った瞬間に山吹が戸口からはいって来た。さすがに頬を赤く染め<ruby><rb>呼吸</rb><rt>いき</rt></ruby>をはげしく吐いているのは恋人多四郎を追っかけて行って追いつくことが出来なかったからであろう。

「ああ姉さん」

「おお山吹！」

二つの声が同時に呼んだ。山吹と呼んだのは岩太郎である。

岩太郎はツト進み出たが、

「山吹、<ruby><rb>俺</rb><rt>わし</rt></ruby>は何んにも云わぬ。俺は偉い人をお連れした。どうぞこのお方に礼を云っておくれ」

云われて山吹は眼をあげてその妙な人を眺めたが、にわかにその眼は光を増した。<ruby><rb>敬虔</rb><rt>けいけん</rt></ruby>の情が起こったのである。で、彼女は無言ながら<ruby><rb>恭</rb><rt>うやうや</rt></ruby>しく頭を下げたのである。

妙な人は神々しい顔に<ruby><rb>穏</rb><rt>おだや</rt></ruby>かな微笑を<ruby><rb>湛</rb><rt>たた</rt></ruby>えたが、

「あああなたが山吹さんで？　お目にかかれたのを喜んでおります」

「<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>も嬉しく存じます」

「山吹！」と岩太郎は情熱をこめ、「山吹、俺は安心している。ここにおられるこのお方がきっと俺達二人の者を<ruby><rb>和睦</rb><rt>わぼく</rt></ruby>させてくださるに相違ない。――さっき俺達は喧嘩したねえ。そしてもう俺は逢わぬと云ってお前の所から飛び出して行った。……しかし俺はまた来たよ。それは他の<ruby><rb>理由</rb><rt>わけ</rt></ruby>でもない。このお方をお前に<ruby><rb>紹介</rb><rt>ひきあわ</rt></ruby>せたいためだ。山吹！　このお方はお偉い方だ！」

<ruby><rb>頸垂</rb><rt>うなだ</rt></ruby>れていた顔を上げ山吹はまたその人を見た。とその人はまた微笑し、さも<ruby><rb>謙遜</rb><rt>けんそん</rt></ruby>に<ruby><rb>堪</rb><rt>た</rt></ruby>えないように、

「いやいや<ruby><rb>私</rb><rt>わし</rt></ruby>は偉い人でも<ruby><rb>勝</rb><rt>すぐ</rt></ruby>れた人間でもありませんよ。<ruby><rb>俺</rb><rt>わし</rt></ruby>は平凡な人間です。しかし俺は<ruby><rb>真実</rb><rt>ほんと</rt></ruby>を語りそして<ruby><rb>真実</rb><rt>ほんと</rt></ruby>を行っています。あるいはこの点が普通の<ruby><rb>人物</rb><rt>ひと</rt></ruby>と違っている点かもしれませんな。……それはとにかく今日<ruby><rb>先刻</rb><rt>いましがた</rt></ruby>俺はこの方と逢いました。そうです向こうの林の中で岩太郎さんと逢ったのです。そうして俺はこの方と<ruby><rb>暫時</rb><rt>しばらく</rt></ruby>無駄話をしましたっけ」

「そうです」

と岩太郎は感謝の<ruby><rb>眼</rb><rt>まなこ</rt></ruby>を上げ、

「……恋を失った口惜しさに<ruby><rb>俺</rb><rt>わたし</rt></ruby>は頭の毛を<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>き<ruby><rb>毮</rb><rt>むし</rt></ruby>りながら林の中を走っていました。その時ヒョッコリあなた様にお目にかかることが出来ました。<ruby><rb>俺</rb><rt>わたし</rt></ruby>は一眼あなた様を見た時すぐに懐かしく存じました。それで俺は何も彼も――山吹との恋のことや、その恋が今日破れたことまでお話ししたのでございます」

「そうそうあの時のあなたというものはまるで狂人のようでしたね」

妙な人は打ち案じながら、

「けれど<ruby><rb>暫時</rb><rt>しばらく</rt></ruby><ruby><rb>俺</rb><rt>わし</rt></ruby>を相手に無駄話をしておられるうちに次第に心が<ruby><rb>和</rb><rt>なご</rt></ruby>みましたな。……さて、話は変わりますが、ひとつ<ruby><rb>俺</rb><rt>わし</rt></ruby>は山吹さんに物語を聞かせてあげようと思う。それは決してあなたにとって損の話ではありません。いかがです、お聞きなさいますか？」

「どうぞおきかせくださいますよう」

<ruby><rb>柔順</rb><rt>すなお</rt></ruby>に山吹は云ったものである。

「……第一番に云って置きたいことは<ruby><rb>俺</rb><rt>わし</rt></ruby>が旅行家だということです。――俺は肥前の長崎にもおりまた大坂にもおりました。また<ruby><rb>京師</rb><rt>けいし</rt></ruby>にも名古屋にもあらゆる所におりました。もちろん江戸にもおりました。――さて、そこで山吹さん、どこの話をしましょうかな？」

「はい」と山吹は活気づき、

「それではどうぞ江戸の話をお聞かせなされてくださいまし」

「よろしゅうござる、江戸の話をそれではお聞かせ致すとしましょう」

妙な人は<ruby><rb>瞑目</rb><rt>めいもく</rt></ruby>し何か<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">じっと</span>考えていたが、

「江戸は悪魔の巣でござるよ！」

一句鋭く<ruby><rb>喝破</rb><rt>かっぱ</rt></ruby>した。

「いえ違います違います！」

と<ruby><rb>嘲</rb><rt>あざ</rt></ruby>けるように叫び出したのは充分多四郎の甘言によって江戸の<ruby><rb>華美</rb><rt>はなやか</rt></ruby>さを植え付けられた彼女山吹に他ならなかった。

「いいえ江戸は美しい人達の<ruby><rb>華美</rb><rt>はなやか</rt></ruby>に遊びくらしている極楽だということでござります！」

「聞け！」と再び鋭い声が妙な人の口から<ruby><rb>迸</rb><rt>ほとばし</rt></ruby>ったが、一座その声に威圧され一度に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しん</span>と静かになった。

さて、そもそも妙な人は何を語ろうとするのであろう？　しかし少なくも妙な人は、虚栄虚飾に<ruby><rb>憧憬</rb><rt>あこが</rt></ruby>れている山の乙女山吹の心をその本来の質朴の心へ返そうとしているのは確からしいが、はたして山吹は彼の言を聞き元の乙女に立ち返るか、それとも多四郎に誘惑されるか？　これこそ作者が次において語らんとする眼目である。

一一

岩太郎と山吹とを前に据えて<ruby><rb>白衣</rb><rt>びゃくえ</rt></ruby>長髪の妙な人は江戸の話を話し出した。

「……江戸は将軍家おわす所、それはそれはこの上もなく派手な賑やかな所です。上は大名旗本から下は職人商人まで身分不相応に<ruby><rb>綺羅</rb><rt>きら</rt></ruby>を張り、春は花見秋は<ruby><rb>観楓</rb><rt>かんぷう</rt></ruby>、昼は音曲夜は酒宴……競って<ruby><rb>遊楽</rb><rt>あそび</rt></ruby>に<ruby><rb>耽</rb><rt>ふけ</rt></ruby>っております。山海の珍味、<ruby><rb>錦繍</rb><rt>きんしゅう</rt></ruby>の衣裳、望むがままに買うことも出来、<ruby><rb>黄金</rb><rt>こがね</rt></ruby>の<ruby><rb>簪</rb><rt>かんざし</rt></ruby><ruby><rb>瑇瑁</rb><rt>たいまい</rt></ruby>の<ruby><rb>櫛</rb><rt>くし</rt></ruby>、小判さえ積めば自分の物となる。そうです。実に小判さえ出せば万事万端<ruby><rb>己</rb><rt>おの</rt></ruby>が<ruby><rb>自由</rb><rt>まま</rt></ruby>――これが江戸の<ruby><rb>習俗</rb><rt>ならわし</rt></ruby>です。したがってそこには『<ruby><rb>静粛</rb><rt>せいしゅく</rt></ruby>』もなければ『謙遜』というような美徳もなく、あるものは『虚偽』と『偽善』ばかりです。……実際そこには小鳥も啼かず緑の美しい林もなく穀物の匂いも流れて来ず、<ruby><rb>嫉妬</rb><rt>しっと</rt></ruby>、<ruby><rb>猜疑</rb><rt>さいぎ</rt></ruby>、朋党異伐、<ruby><rb>金銭</rb><rt>かね</rt></ruby>に対する<ruby><rb>狂人</rb><rt>きちがい</rt></ruby>のような執着、そのために起こる殺人兇行――あるものと云えばこんなものばかりです。しかも、そのくせ<ruby><rb>表面</rb><rt>うわべ</rt></ruby>はと云えば、いかにも美しくいかにも<ruby><rb>華麗</rb><rt>はなやか</rt></ruby>に、質朴で正直な田舎の人を誘惑するように出来ております。……それに反してこの笹の平は何んという結構な所でしょう」

云いながら静かに身を<ruby><rb>廻</rb><rt>めぐ</rt></ruby>らし<ruby><rb>戸外</rb><rt>そと</rt></ruby>の景色を指差したが、

「畑を耕す男、車を押す女。楽しそうに叫んでいる子供や犬。……何んと<ruby><rb>長閑</rb><rt>のどか</rt></ruby>ではありませんか。……真昼の光に照らされて紅葉の林が燃え立っております。雑草に<ruby><rb>雑</rb><rt>まじ</rt></ruby>った野菊の花。風に揺れなびく<ruby><rb>葛</rb><rt>くず</rt></ruby>の花。花から花へ蜜をあさる白い<ruby><rb>蝶</rb><rt>ちょう</rt></ruby>や黄色い蝶、峰から丘、丘から谷、谷から<ruby><rb>麓</rb><rt>ふもと</rt></ruby>へ群を<ruby><rb>作</rb><rt>な</rt></ruby>して渡って行く渡り鳥。……何んと平和ではありませんか。――谷川の音は自然の鼓、松吹く風は<ruby><rb>天籟</rb><rt>てんらい</rt></ruby>の琴、この美妙の天地のなかに<ruby><rb>胚胎</rb><rt>はぐく</rt></ruby>まれた恋の<ruby><rb>蕾</rb><rt>つぼみ</rt></ruby>に虫を附かせてはなりません。――幸福というものは破れ易くまた二度とは来ないものです」

こう云いながら妙な人は二人の方へ手を延ばした。と、山吹も岩太郎も思わずその手へ<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>り付く。その二人の手を<ruby><rb>繋</rb><rt>つな</rt></ruby>ぎ合わせ、妙な人は云うのであった。

「美しい<ruby><rb>衣服</rb><rt>きもの</rt></ruby>は<ruby><rb>裁縫師</rb><rt>さいほうし</rt></ruby>が製し<ruby><rb>位</rb><rt>くらい</rt></ruby>や<ruby><rb>爵</rb><rt>しゃく</rt></ruby>は式部寮が造る。要するにみんなつまらない物です。尊いものは人の愛だ！　いつまでもいつまでも愛し愛さなければなりません。二人のうちの誰か一人がもしこの愛を破ったならその人は恐らく底の知れない不幸の淵へ沈むでしょう」

「はい」

と岩太郎は涙を流し、つつましく<ruby><rb>丁寧</rb><rt>ていねい</rt></ruby>に頭を下げたが、

「たとえ殺すと云われましても今日のお教えに<ruby><rb>背</rb><rt>そむ</rt></ruby>くようなことは必ず私は致しませぬ。……山吹！　お前はどうする気だな？」

「岩さん、<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>が悪かった。もうどこへも行く気はないから悪く思わずに<ruby><rb>堪忍</rb><rt>かんにん</rt></ruby>しておくれ」

「おおそうか、有難てえなア。何んの許すも許さぬもねえ。<ruby><rb>俺</rb><rt>わし</rt></ruby>の方から礼を云うよ」

二人はひしと抱き合った、すすりなきの声が聞こえて来る、岩太郎の胸へ顔を埋めたそれは山吹の泣き声である。すなわち甘い誘惑のために危うく足を踏みはずそうとして、わずかに助けられた悲喜の情が泣き声となってほとばしったのである。

誰もじっと黙っている。

秋の真昼は静かである。

さっきから門口に<ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>んで様子を見ていた牛丸は、この時<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つかつか</span>とはいって来たがさもさも感嘆したように妙な人へ話しかけた。

「あなたは偉い方ですねえ、あなたはどういう方なんです？」

すると白衣の妙な人は穏かな微笑を頬に<ruby><rb>湛</rb><rt>たた</rt></ruby>えながら牛丸の方へ進み寄り軽く頭を<ruby><rb>撫</rb><rt>さす</rt></ruby>った。

「<ruby><rb>私</rb><rt>わし</rt></ruby>かね、私は坊さんだよ。……<ruby><rb>総</rb><rt>すべ</rt></ruby>ての人よ愛し合えよ！　こういう宗旨を拡めようとこの部落へ来た坊さんだよ」

「坊さん？　ううん、坊さんじゃないよ。だって頭に髪があるじゃないか」

「だから私は<ruby><rb>有髪</rb><rt>うはつ</rt></ruby>の僧じゃ。したがって私の説教は普通の坊さんとは少し違う」

「あなたの名は何んて云うの？」

「私には本来名はないのじゃ。……私は白衣を<ruby><rb>纏</rb><rt>まと</rt></ruby>っている。だから部落の人達は、白法師と呼んでいる」

「えっ」

と牛丸は驚いたが、驚いたのは牛丸ばかりではなく山吹も岩太郎も仰天して、妙な人をつくづくと見た。

「何も驚くことはない」

白法師は<ruby><rb>悠然</rb><rt>ゆうぜん</rt></ruby>と説き出した。

「部落の人達が憎み嫌う白法師とは私のことじゃ。しかし私は悪魔ではない。私はかえって天使の<ruby><rb>筈</rb><rt>はず</rt></ruby>じゃ……この部落はよい部落じゃ。ここの人達はよい人達じゃが、一つだけ悪いことがある。<ruby><rb>窩人</rb><rt>かじん</rt></ruby>以外の下界の人達を<ruby><rb>忌</rb><rt>い</rt></ruby>み嫌うということはどう考えてもよいことではない。私はそういう<ruby><rb>思想</rb><rt>かんがえ</rt></ruby>を打ち破るために来た者じゃ」

白法師の眼はこう云った時<ruby><rb>焔</rb><rt>ほのお</rt></ruby>のように輝いた。法師はやがて<ruby><rb>一揖</rb><rt>いちゆう</rt></ruby>すると敷居を<ruby><rb>跨</rb><rt>また</rt></ruby>いで<ruby><rb>戸外</rb><rt>そと</rt></ruby>へ出た。林の中へはいって行く。間もなく姿は木に隠れたが、その神々しい白衣姿は、三人の眼に残っていた。そうして「愛の宗教」を説いた慈愛の言葉も三人の耳に、尚<ruby><rb>明瞭</rb><rt>はっき</rt></ruby>りと残っていた。

二人の恋人は抱き合ったまま白法師の後を見送っている。

一二

こういうことがあってから一月ほどの日が<ruby><rb>経</rb><rt>た</rt></ruby>った。万山を飾って燃えていた<ruby><rb>紅葉</rb><rt>もみじ</rt></ruby>の錦は<ruby><rb>凋落</rb><rt>ちょうらく</rt></ruby>し笹の平は雪に<ruby><rb>埋</rb><rt>う</rt></ruby>ずもれた。冬<ruby><rb>籠</rb><rt>ごも</rt></ruby>りの季節が来たのである。

冬という季節は窩人達にとっては<ruby><rb>狩猟</rb><rt>しゅりょう</rt></ruby>と<ruby><rb>享楽</rb><rt>きょうらく</rt></ruby>との季節であった。彼らは弓矢を<ruby><rb>携</rb><rt>たずさ</rt></ruby>えては熊や猪を狩りに行く。捕えて来た獲物を<ruby><rb>下物</rb><rt>さかな</rt></ruby>としては男女打ち<ruby><rb>雑</rb><rt>まじ</rt></ruby>っての酒宴を開く。恋の季節肉欲の季節また平和の季節でもあった。そしてまた<ruby><rb>怠惰</rb><rt>たいだ</rt></ruby>の季節でもあった。

雪は毎日降りに降る。

火を<ruby><rb>焚</rb><rt>た</rt></ruby>いて暖を取りみんな集まって無駄話をする。それ以外には用はない。

彼らの話の題材と云えば「宗介天狗」の事ばかりで、彼らにとって「宗介天狗」は誰よりも尊い守り本尊であった。

もちろん白法師の噂も出た。

「部落の平和を破る者だ」

こう云って人々は憎むのであった。――しかし<ruby><rb>概</rb><rt>がい</rt></ruby>して冬の間は彼らの部落は平和であった。

深山の夜は更けていた。

空に<ruby><rb>幽</rb><rt>かす</rt></ruby>かに月がある。

見渡す限り雪に<ruby><rb>蔽</rb><rt>おお</rt></ruby>われ森も林も真っ白である。

と、一点黒い影が雪の上へ浮かび出た。熊か？　いやいや人間らしい。しかもどうやら重い物を背中に背負っているらしい。ノロノロ<ruby><rb>蠢</rb><rt>うごめ</rt></ruby>きながら近寄って来る。

ここは八ヶ嶽の中腹である。窩人の部落からは真下に当たる「<ruby><rb>鼓</rb><rt>つづみ</rt></ruby>ヶ<ruby><rb>洞</rb><rt>ほら</rt></ruby>」という谷間である。正面に絶壁が<ruby><rb>聳</rb><rt>そび</rt></ruby>えている。

その絶壁の下まで来ると黒い人影は立ち止まった。

「おい」

と、不意に呼びかけた。

「俺だ俺だ早く戸を開けてくれ」――<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>くような声である。

誰をいったい呼んでいるのであろう。誰もその辺にはいないではないか。それに戸を開けろと云ったところでどこにも家などないではないか。

<ruby><rb>森然</rb><rt>しん</rt></ruby>と<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>は静かである。

と、不思議にもどこからともなく答える声が聞こえて来た。

「おい、誰だ？　権九郎か？」

すると黒い人影は寒そうに声を<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>わせながら、

「<ruby><rb>声音</rb><rt>こわね</rt></ruby>でおおかた解りそうなものだ。こんな所へこんな夜中に俺の他に誰が来るものか」

「<ruby><rb>誂</rb><rt>あつら</rt></ruby>え<ruby><rb>物</rb><rt>もの</rt></ruby>は持って来たろうな？」

「へ、ご念にゃ及ばねえ。数々の<ruby><rb>売品</rb><rt>ばいひん</rt></ruby>持って参って<ruby><rb>候</rb><rt>そうろう</rt></ruby>だ、寒くていけねえ早く開けてくんな」

「お前一人で来たんだろうな？」

「こいついよいよ関所だわえ。<ruby><rb>安宅</rb><rt>あたか</rt></ruby>の関なら<ruby><rb>富樫</rb><rt>とがし</rt></ruby>だが鼓ヶ洞だから多四郎か。いや<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>みの<ruby><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>かねえ事は。……あいあい<ruby><rb>某</rb><rt>それがし</rt></ruby>一人にて候」

「よし。それじゃ戸を開けるぜ」

声と一緒にガチンという錠を外す音が聞こえて来たがすぐその後からギーという戸の<ruby><rb>軋</rb><rt>きし</rt></ruby>る音が幽かにして、雪で蔽われた雑木林にボーと<ruby><rb>一所</rb><rt>ひとところ</rt></ruby>火影が<ruby><rb>射</rb><rt>さ</rt></ruby>した。

木々で隠され雪で蔽われ外見からはほとんど見えないけれど絶壁の裾の<ruby><rb>灌木</rb><rt>かんぼく</rt></ruby>の繁みにどうやら木小屋でも出来ているらしい。火影もそこから来るらしい。

再び戸の軋る音がして火影が一時に消えたのは、その小屋の戸が閉ざされたからで、権九郎の姿の見えなくなったのは、その小屋の中へはいったからであろう。

後は寂しく静かである。<ruby><rb>白無垢</rb><rt>しろむく</rt></ruby>のような雪の色と蒼澄んだ月光とが映じ合い冬の深山の夜でなければ容易に見ることの出来ないような神秘の光景を展開している。

バサッと大きな音がした。<ruby><rb>群竹</rb><rt>むらたけ</rt></ruby>が雪を落としたのである。その後は一層静かである。

その時、突然峰の方から<ruby><rb>鬨</rb><rt>とき</rt></ruby>の<ruby><rb>声</rb><rt>こえ</rt></ruby>が聞こえて来た。犬の吠え声、女の笑い声。――窩人の部落から来るらしい。

灌木に<ruby><rb>囲</rb><rt>かこ</rt></ruby>まれた木小屋の中では<ruby><rb>焚火</rb><rt>たきび</rt></ruby>が赤々と燃え上がっている。

焚火を中にして二人の男が茶碗で酒を呑んでいる。

五味多四郎と権九郎とである。

色魔らしい美しい多四郎の顔は、酒と火気とで紅色を呈し、馬鹿に機嫌がよいと見えて<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">のべつ</span>幕なしに<ruby><rb>喋舌</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>っている。

権九郎の方は四十過ぎらしく、肥えた<ruby><rb>髯</rb><rt>ひげ</rt></ruby>だらけの丸顔はやはり赤く色付いているが、これも負けずに喋舌るのであった。

小屋の中は陽気である。

一三

「おや、いったいどうしたんだろう？　<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やけ</span>に部落では騒いでるじゃねえか」

権九郎は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ちょいと</span>耳を<ruby><rb>傾</rb><rt>かし</rt></ruby>げた。

「そうさ。馬鹿に賑やかだの。宴会でも開いているのだろうよ」ニヤニヤ笑いながら多四郎は云う。「計画いよいよ図に当たりかね」

「え、何んだって？　計画だって？　<ruby><rb>定</rb><rt>きま</rt></ruby>り文句を云ってるぜ、お前の計画も久しいもんだからの」

「まあサ権九、そうは云わねえものだ。大きな仕事をしようとするには長い用意がいるからの」

「そいつア俺にも解っているが、さてその計画というやつがな、どうも俺には呑み込めねえ。たかが城下の味噌や米をこの<ruby><rb>俺</rb><rt>おい</rt></ruby>らに中継ぎさせて、部落の奴らへ売り込んで高い<ruby><rb>分銭</rb><rt>ぶせん</rt></ruby>を<ruby><rb>儲</rb><rt>もう</rt></ruby>けるにしても<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あぶく</span>儲けというほどでもねえ」

「こうこう権九、拝むぜ拝むぜ。蚊の涙にも足りねえようなそれっぱかりの儲けを目当にこんな小屋まで造ると思うか。俺ののぞみは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もっと</span>大きい」

「豪勢強気に出やがったな。こいつア大きに話せるわえ。それじゃ頼む聞かせてくんな。お前の計画っていうやつをな」

「うふ、とうとう降参か、智恵のねえ奴は気の毒なものさね。……よしか、話すから聞きねえよ。俺の目差す<ruby><rb>御敵</rb><rt>おんてき</rt></ruby>は第一が黄金第二が女よ」

「何んだ<ruby><rb>詰</rb><rt>つま</rt></ruby>らねえそんなことか。何がその他にいい物がある？　とかく浮世は色と金、ちゃアんと昔から云っているじゃねえか」

「だからどうだって云うのだえ？」

「珍らしくもねえとこう云うのさ」

「お前は玉を見ねえからだ」

「たとえどんなに上玉でも<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ものの</span>千両とは売れもしめえ」

「何んだ金が欲しいのか。金なら別口が控えていらあ……女の話はお預けか？」

「いやさ順序で聞きやしょう」権九郎はニタリと苦笑する。

「ほほう<ruby><rb>滅法</rb><rt>めっぽう</rt></ruby><ruby><rb>穏</rb><rt>おとな</rt></ruby>しいの。ところで女は部落者さ」

「そいつア聞くにも当たるめえ」

「しかも杉右衛門の一人娘よ」

「部落の頭の杉右衛門のな？」

「うん」と多四郎は大きく頷く、「年は十九、<ruby><rb>縹緻</rb><rt>きりょう</rt></ruby>よしだ」

「へ、そいつもご同様改めて聞くにも当たりますめえ」

「そこは順序だ。黙って聞きねえよ。よしか。素晴らしい<ruby><rb>別嬪</rb><rt>べっぴん</rt></ruby>よ。で、<ruby><rb>私</rb><rt>わし</rt></ruby>に惚れておりやす」

「<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>な野郎だな。変な声を出して。……ふうん、それからどうしたんだえ」

「江戸へ駈け落ちと評定一決。……」

「へえ、そいつア強気だのう」

「ところがどうも後が悪い」

「……と、来るだろうと思っていた。本文通り<ruby><rb>邪魔</rb><rt>じゃま</rt></ruby>がはいったな」

「<ruby><rb>偉</rb><rt>えら</rt></ruby>い！　お手の筋！　ついでに人相を。……」

「見たくもねえ人相だの。まず女難は云うまでもなしか」

「うわア、<ruby><rb>辻占</rb><rt>つじうら</rt></ruby>が悪いのう。ところでどこまで話したっけ？」

「ええ物覚えの悪い野郎だ。邪魔がはいったところまでよ」

「うん。違えねえ、その邪魔だが、相手もあろうに坊主とけつかる」

「ウワッハハハ、ウワッハハハ」

「おい笑うのは<ruby><rb>酷</rb><rt>ひど</rt></ruby>かろうぜ、何んとか<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>がありそうなものだ」

「でもお前坊主丸儲けよ。お前に勝ち目はねえじゃねえか」

「だから<ruby><rb>俺</rb><rt>おい</rt></ruby>ら<ruby><rb>悄気</rb><rt>しょげ</rt></ruby>てるのさ」

「え、悄気てるって？　その<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>で？」

「引き戻す<ruby><rb>工夫</rb><rt>くふう</rt></ruby>はあるめえかな？」

「智恵を貸さねえものでもねえが、女の様子はどうなんだえ」

「俺らに逃げを張っているのだ」

「ふうん、そいつア困ったのう」

「何んだ！　それで智恵面があるか！　人に貸そうも凄じい。……ちゃアんと目算は出来てるのよ。そうよここだ、胸三寸」

「それじゃ早く云えばいいに」

「お前をちょっと<ruby><rb>験</rb><rt>ため</rt></ruby>したところよ。おい、<ruby><rb>風呂敷</rb><rt>ふろしき</rt></ruby>を解いてくんな、<ruby><rb>誂</rb><rt>あつら</rt></ruby>え物を見てえからの」

「<ruby><rb>合点</rb><rt>がってん</rt></ruby>」

と云いながら権九郎は城下からここまで背負って来た包み物を解き出した。

美しい<ruby><rb>塗</rb><rt>ぬ</rt></ruby>り<ruby><rb>下駄</rb><rt>げた</rt></ruby>、博多の帯、<ruby><rb>縮緬</rb><rt>ちりめん</rt></ruby>の衣裳、<ruby><rb>綸子</rb><rt>りんず</rt></ruby>の長襦袢、銀の平打ち、<ruby><rb>珊瑚</rb><rt>さんご</rt></ruby>の前飾り、高価の品物が数々出る。

「男が見てさえ悪かあねえ。若い女に見せようものなら、それこそ飛びついて来るだろう」

「ははあ、それじゃその<ruby><rb>獲物</rb><rt>えもの</rt></ruby>で、ワナへ落とそうと云うのだな」――権九郎は唇を<ruby><rb>嘗</rb><rt>な</rt></ruby>める。

「坊さんの説教と俺の術とどっちが娘っ子によく利くか、験して見るのも悪かあねえ、何んと権九そうじゃねえか」

一四

焚火はどんどん景気よく燃える、小屋の中は暖かい。

畳なら十枚は敷けるであろう、一間しかない小屋の中には、<ruby><rb>味噌桶</rb><rt>みそおけ</rt></ruby>、米俵、酒の<ruby><rb>瓶</rb><rt>かめ</rt></ruby>、塩鮭の<ruby><rb>切肉</rb><rt>きりみ</rt></ruby>、<ruby><rb>醤油</rb><rt>しょうゆ</rt></ruby>桶、<ruby><rb>帚</rb><rt>ほうき</rt></ruby>、<ruby><rb>埃</rb><rt>ちり</rt></ruby>取り、<ruby><rb>油壺</rb><rt>あぶらつぼ</rt></ruby>、綿だの布だの糸や針やで室一杯に取り乱してあり、弓だの鉄砲だの<ruby><rb>匕首</rb><rt>あいくち</rt></ruby>だの、こうした物まで隠されてあるが、すべてこれらは売品であって、すなわち山上の<ruby><rb>窩人</rb><rt>かじん</rt></ruby>部落へ高価に売り込む品物であった。

「さて」

と権九郎は舌なめずりをし、茶碗の酒をグッと干したが、

「女の話はそれで打ち止めか、金の話はどうなんだい？」

「こいつあちょっと話せねえの。計画<ruby><rb>半</rb><rt>なか</rt></ruby>ばと云うところさ」

「へ、云ってるぜ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ちゃらっぽこ</span>を、その計画が怪しいものさ」

「おやおや<ruby><rb>変梃</rb><rt>へんてこ</rt></ruby>に疑ぐるね。まあ<ruby><rb>精々</rb><rt>せいぜい</rt></ruby><span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かんぐる</span>がいい。今にアッと云わせてやらあ」

「まあそう云わずと聞かせてくんな、一人占めは<ruby><rb>阿漕</rb><rt>あこぎ</rt></ruby>でやす」

「へ、またお決まりの芝居もどきか。うん一人占めと云われちゃ俺も何んだか気持ちが悪い。よしきたそれじゃ明かしてやろう、まず金高から聞かせようかの」

「千両かな？　二千両かな？」

「千や二千の<ruby><rb>端</rb><rt>はし</rt></ruby>た金で何んの大騒ぎするものか」

「うわあ、大きく出やがったぞ」

「俺の睨みがはずれなけりゃ小判で数えて一万両か」

「何、一万？　正気の沙汰かな？」

「なんと<ruby><rb>吃驚</rb><rt>びっく</rt></ruby>り仰天かな？」

「そうしてそりゃあどこにあるのだ？」

「<ruby><rb>鼓</rb><rt>つづみ</rt></ruby>ヶ<ruby><rb>洞</rb><rt>ほら</rt></ruby>の絶壁の上に」

「ふうん、それじゃ窩人部落か？」

「天狗の宮の内陣にな。……そこに大きな木像がある。身の<ruby><rb>長</rb><rt>たけ</rt></ruby>二丈で<ruby><rb>鎗</rb><rt>やり</rt></ruby>を持っている。……宗介天狗の木像よ。……つまり<ruby><rb>彼奴</rb><rt>きゃつ</rt></ruby>らの守り本尊だ」

「それがいったいどうしたんだい？」

「木像は<ruby><rb>甲冑</rb><rt>かっちゅう</rt></ruby>を着ているのよ」

「それは大きに勇ましいことで」

「その甲冑が一万両だ！」

「どうも俺にゃ解らねえ」

「<ruby><rb>甲</rb><rt>かぶと</rt></ruby>も<ruby><rb>冑</rb><rt>よろい</rt></ruby>も黄金細工よ、小判に<ruby><rb>鋳直</rb><rt>いなお</rt></ruby>せばまず一万だ」

「……が、どうして盗む気だな？　まさか部落も通れめえ」

すると多四郎は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひょいと</span>立ったが、そこに置いてある<ruby><rb>松明</rb><rt>たいまつ</rt></ruby>を取ると焚火へ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くべ</span>て火を移した。

「おお権九、ちょっと来ねえ、<ruby><rb>胆</rb><rt>きも</rt></ruby>の<ruby><rb>潰</rb><rt>つぶ</rt></ruby>れるものを見せてやろう」

先に立って小屋を出た。

で、権九郎も続いて出る。

戸外の雪は松明に照らされボッとそこだけ桃色に明るみ<ruby><rb>凄愴</rb><rt>せいそう</rt></ruby>として美しい。

多四郎は雪を踏み砕き絶壁の方へ歩いて行ったが、急に立ち止まって振り返った。

「おお権九、ここを見るがいい」

云いながら松明を差し付けた。

氷雪に<ruby><rb>蔽</rb><rt>おお</rt></ruby>われた絶壁の面に<ruby><rb>明瞭</rb><rt>はっき</rt></ruby>りそれとは解らないけれど、どうやら<ruby><rb>鑿</rb><rt>のみ</rt></ruby>ででも掘ったらしい一筋の道が付いている。絶壁を斜めに上の方へ向け階段型に付いている。

「ううむ」

と権九郎は唸り出した。この根気強い丹念仕事にすっかり感心したのであった。

「どうだ」と多四郎は気負った声で、「これでも俺を馬鹿にするか。……これは俺が<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えた道だ。おおかた半年もかかったろう。天狗の宮の<ruby><rb>真後</rb><rt>まうし</rt></ruby>ろまでこの<ruby><rb>崖道</rb><rt>がけみち</rt></ruby>は続いている。いや随分苦労したよ。もうここまでやりとげれば後は<ruby><rb>的物</rb><rt>てきもの</rt></ruby>を盗むだけだ」

「一言もねえ、感心した。そうだここまで<ruby><rb>捗</rb><rt>はか</rt></ruby>が行けば後は的物を盗むだけだ」

「名に負うそいつが重いと来ている」

「一万両の金目だからの」

「ところで俺は<ruby><rb>蒲柳</rb><rt>ほりゅう</rt></ruby>の<ruby><rb>質</rb><rt>たち</rt></ruby>だ」

「いや飛んだ銀流しよ」

「そこでお前を見立てたのよ」

「これじゃまるで据え膳だ、出来上がったところでさあ一口か」

「厭か」

「何んの」

「では承知か」

「是非片棒かつぎやしょう」

ドッとまたもや山上から賑やかな笑い声が聞こえて来た。

「あれだ、あれだよ、あの笑い声だよ、俺達にとっての<ruby><rb>福音</rb><rt>ふくいん</rt></ruby>はね」

「はてね、俺には解らねえ」

「何さ、雪のある間だけは部落はいつもお祭りだってことよ。その隙に仕事をしようって事よ」

一五

こういうことがあってからまた幾月かの日が経った。

一月となり二月となり、暖かい江戸では梅が散り桜の花が咲こうというのに、窩人部落の笹の平は深い雪に包まれていた。

そうして大変平和であった。

いつも唄声と笑い声とが点々と散らばって立っている家々の中から聞こえて来た。

彼らは歓楽に<ruby><rb>耽</rb><rt>ふけ</rt></ruby>っているのだ。

しかしそういう平和な部落にも時あって<ruby><rb>禍</rb><rt>わざわ</rt></ruby>いが起こるものである。

ある日、大声で<ruby><rb>喚</rb><rt>わめ</rt></ruby>きながら雪の部落を駈け廻るものがあった。それは他でもない岩太郎である。

人々は驚いて彼を引き止めて、どうしたのかと<ruby><rb>訳</rb><rt>わけ</rt></ruby>を聞いた。

「杉右衛門の娘の俺の<ruby><rb>許婚</rb><rt>いいなずけ</rt></ruby>、あの美しい山吹が、部落を捨て俺を見限り下界の虚栄に<ruby><rb>憧憬</rb><rt>あこが</rt></ruby>れて多四郎めと駈け落ちした」

これが岩太郎の返辞であった。

「<ruby><rb>罰当</rb><rt>ばちあた</rt></ruby>りめ！」

と、人々は、それを聞くとまず云った。

「この結構な<ruby><rb>住居</rb><rt>すまい</rt></ruby>を捨て、先祖代々怨み重なる下界の人間と一緒になるとは神罰を恐れぬ馬鹿な女だ。恐らく<ruby><rb>将来</rb><rt>ゆくすえ</rt></ruby>よい事はあるまい、後悔するに相違ない」

こう云って彼らは部落を去った女を、あるいは憎みあるいは憐れんだ。

しかし今は早春であり部落は雪に包まれている。彼らにとっての享楽時代である。で、彼らは<ruby><rb>平素</rb><rt>ふだん</rt></ruby>であったならもっともっと大騒ぎでもっともっと非難攻撃すべきこの重大の裏切り事件をも案外<ruby><rb>暢気</rb><rt>のんき</rt></ruby>に見過ごした。そういう他人の事件に<ruby><rb>関係</rb><rt>かかわ</rt></ruby>り大事な時間を費やすより、自分自身快楽に<ruby><rb>耽</rb><rt>ふけ</rt></ruby>り、いわゆる年中での遊び月を充分に遊んで暮らした方が幸福であると思ったからであろう。

とは云え、<ruby><rb>許婚</rb><rt>いいなずけ</rt></ruby>の岩太郎と山吹の父の杉右衛門とは他人のようにそう簡単に見過ごすことは出来なかった。

まず岩太郎の心持ちから云えば、嫉妬、憤怒、そして悲哀。――この三つの感情が胸の中で取っ組み合い一時の平和さえ得られないのであった。

で、せめて<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>を<ruby><rb>疲労</rb><rt>つか</rt></ruby>らせ、それによって心の苦痛悲哀を<ruby><rb>痲痺</rb><rt>まひ</rt></ruby>させようと思い付いて、白<ruby><rb>皚々</rb><rt>がいがい</rt></ruby>たる八ヶ嶽を上へ上へと登って行き、猪を見付ければ猪と闘い熊を見付ければ熊と争い、狐を殺し猿を生け捕りあらゆる冒険をやるのであった。

杉右衛門の心持ちも悲惨であった。彼は部落の<ruby><rb>長</rb><rt>おさ</rt></ruby>だけに深く責任を感じていた。そうして長となるだけあって宗介天狗を尊ぶ情と部落を愛する心持ちとは人一倍強かった。

「部落の長たる自分の娘が宗介天狗のお心持ちに<ruby><rb>背</rb><rt>そむ</rt></ruby>き下界の若者と<ruby><rb>契</rb><rt>ちぎ</rt></ruby>るさえ言語道断の<ruby><rb>曲事</rb><rt>くせごと</rt></ruby>だのに、部落を捨ててどことも知れず姿を隠してしまうとは何んという不心得の女であろう」

しかし、そう思う心の端から、

「身分違いの部落の女が、下界の男と契ったところでやがて捨てられるは知れたことだ、一旦山を下りたからは二度と再び帰って来ることは出来ぬ。人里にも住めず山にも帰れず、その時いったいどうするぞ？　首を<ruby><rb>縊</rb><rt>くく</rt></ruby>るか<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">のたれ</span>死にをするか？　どっちにしても可哀そうなものだ」

<ruby><rb>惻隠</rb><rt>そくいん</rt></ruby>の情が起こるのであった。

<ruby><rb>爾来</rb><rt>じらい</rt></ruby>杉右衛門は<ruby><rb>憂欝</rb><rt>ゆううつ</rt></ruby>になった。自分の家の<ruby><rb>囲炉裡</rb><rt>いろり</rt></ruby>の側からめったに離れようとはしなかった。<ruby><rb>薪</rb><rt>たきぎ</rt></ruby>を燃やし<ruby><rb>焔</rb><rt>ほのお</rt></ruby>を見詰め<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">じっ</span>と思案にふけるばかりで、楽しい酒宴の座へも出ず好きな<ruby><rb>狩猟</rb><rt>かり</rt></ruby>さえ止めてしまった。

十年前に妻を死なせ、女気といえば娘ばかり、その娘に逃げられた今は家には杉右衛門ただ一人。時々同じ<ruby><rb>愁</rb><rt>うれ</rt></ruby>いを抱いた岩太郎が訪ねて来るばかりである。

今日も<ruby><rb>烈</rb><rt>はげ</rt></ruby>しい<ruby><rb>吹雪</rb><rt>ふぶき</rt></ruby>であった。

どうやら熊でも捕れたらしい。いわゆる恐ろしい「熊吹雪」である。

杉右衛門はじっと考えている。<ruby><rb>自在鉤</rb><rt>じざいかぎ</rt></ruby>には<ruby><rb>薬缶</rb><rt>やかん</rt></ruby>が掛かり薬缶の下では火が燃えている。

もう夕暮れに近かった。部屋の中はほとんど暗い。しかし<ruby><rb>行灯</rb><rt>あんどん</rt></ruby>は灯してない。が杉右衛門の姿だけは焚火の光で<ruby><rb>明瞭</rb><rt>はっき</rt></ruby>り見える。

その時表の戸が開いて若者がノッソリはいって来た。

「おお岩か」

とそれと見ると、<ruby><rb>物憂</rb><rt>ものう</rt></ruby>そうに杉右衛門が声をかけた。

「ああそうだよ。<ruby><rb>俺</rb><rt>おい</rt></ruby>らだよ」

こう云いながら岩太郎は囲炉裡の側へ近寄って来たが杉右衛門に向かい合って<ruby><rb>胡座</rb><rt>あぐら</rt></ruby>を掻いた。見ると手に<ruby><rb>白鳥</rb><rt>はくちょう</rt></ruby>を下げている。

「<ruby><rb>爺</rb><rt>とっ</rt></ruby>つぁんと<ruby><rb>一杯</rb><rt>いっぺえ</rt></ruby><ruby><rb>飲</rb><rt>や</rt></ruby>ろうと思ってな、酒を二升ばかりさげて来たよ」

白鳥をドサリと囲炉裡<ruby><rb>傍</rb><rt>ばた</rt></ruby>へ置く。

「なに酒か済まねえなア」

それから焚火で<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かん</span>をして二人はグイグイやり出した。

しばらく二人とも黙っている。

それが二人には胸苦しいのである。

一六

「岩」

と不意に杉右衛門は云った。

「お前ちっとも酔わねえじゃねえか」

「そういう爺つぁんだって酔ってねえようだな」

「どうしたのか俺はちっとも酔えねえ」

「俺もそうだ、ちっとも酔えねえ」

そこで二人は沈黙した。その沈黙は長かった。そうして息苦しい沈黙である。

戸の隙間から吹き込むと見えて雪が二人の肩へ掛かった。嵐の名残りが迷い込んだものかパッと焚火が横に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">なぐれ</span>たが、またすぐスッと立ち直った。

まだ二人は黙っている。

と、突然岩太郎が云った。

「どうも俺には解らねえ！　どう考えても解らねえ！」

「何が！」

と杉右衛門が突っ込んで行く。

「何がってお前女の心がよ！」

「女と云わずに山吹と云え！」

「おお云うとも！　おお云うとも！　俺にはどうしても解らねえ。あの山吹の心持ちがよ！」

「あいつは悪魔に<ruby><rb>憑</rb><rt>つ</rt></ruby>かれたのだ。その他に何がある！」

「そう云ってしまえばそれまでだが、俺はもっと知りてえのだ、何が山吹を<ruby><rb>誑</rb><rt>たぶら</rt></ruby>かしたか？」

「そんな事を聞いて何んになる」

「なんにもならねえが聞いてみてえのよ」

「ふん、つまらねえ<ruby><rb>詮索</rb><rt>せんさく</rt></ruby>だ」

そこでまた二人は黙り込んだ。二升の酒が尽きかかった。

「そうだ。あいつがよくなかった」

今度は杉右衛門が呻くように云った。「あの時<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うんと</span>叱って置いたらこんな騒動にはなるめえものを」

「え？」と岩太郎は聞き咎める。「爺つぁん何かあったのかな？」

「あいつがいなくなる少し前よ、珍らしくあの男がやって来た」

「あの男？　多四郎かな？」

「そうだ行商のあいつがな、そうしてそこの縁先で色々の物を拡げたっけ。俺が見てさえ眼が<ruby><rb>眩</rb><rt>くら</rt></ruby>みそうな<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>な帯や駒下駄をな。……するとその時まで座敷の奥で<ruby><rb>素気</rb><rt>そっけ</rt></ruby>ない様子で坐っていたあの山吹めが立ち上がって縁先へ行ったというものさ。――俺はその時何かの用で確か家を出た筈だ。帰って来て見ると山吹めが<ruby><rb>嬉</rb><rt>うれ</rt></ruby>しそうな顔で笑っている。見ると下駄を持っている。多四郎に貰ったということだ。ちょっと小言は云ったものの大して叱りもしなかったが、今から思えば<ruby><rb>縮尻</rb><rt>しくじり</rt></ruby>だった……と、<ruby><rb>翌</rb><rt>あく</rt></ruby>る<ruby><rb>日</rb><rt>ひ</rt></ruby>は帯を貰う。その翌る日は<ruby><rb>簪</rb><rt>かんざし</rt></ruby>を貰う。……」

「もう解った。ふうむ、そうか。……それでやっと胸に落ちた。爺つぁん！」――と岩太郎は声を<ruby><rb>逸</rb><rt>はず</rt></ruby>ませた。

「おいよ」と杉右衛門は眼を見張る。

「俺アいよいよ思い切るよ」

「うん。その方がよさそうだ」

「思い思われた男を捨てて帯や簪へ眼を移すようなそんな女には用はねえ」

「うん。いかにももっともだ。……俺もとうから心の中では親子の縁を切っているのだ」

「白法師様も<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れるだろうよ。……こんな始末になろうとは夢にも思っていなさるめえからな」

「え、何んだって？　白法師だって？」

「なあにこっちの話だよ」

そこでまたもや黙り込んだ。酒はおつもりになったらしい、二人は何んとなく手持ち無沙汰に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">じっ</span>と火ばかり見詰めている。

「爺つぁん、それじゃ俺は帰るよ」

岩太郎は立ち上がった。

「そうか。それじゃまた来るがいい」

岩太郎は表の戸を開けて吹雪の中へ出て行った。

杉右衛門は<ruby><rb>炉側</rb><rt>ろばた</rt></ruby>に坐ったまま、いつまで経っても動こうともしない。やがて<ruby><rb>薪</rb><rt>たきぎ</rt></ruby>が尽きたと見えて焚火が<ruby><rb>漸次</rb><rt>だんだん</rt></ruby>消えて来た。

杉右衛門はそれでも身動きさえしない。

間もなく夜がやって来た。嵐の勢いが強まったと見えてヒューッヒューッと<ruby><rb>鞭</rb><rt>むち</rt></ruby>を振るような物凄い唸り声が聞こえて来る。

杉右衛門はにわかに立ち上がり、表の方へよろめき行くとガラリと戸を開けて飛び出した。

<ruby><rb>轟</rb><rt>ごう</rt></ruby>ッと、凄じい風音と共に吹雪が眼口を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひっ</span>叩く。山の姿も林の影も一物も見えない闇の空間を、小鬼のような亡霊のような雪片ばかりが躍っている。

杉右衛門はグルリともんどりを打つと、雪の上へ転がった。ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる彼はあたかも<ruby><rb>狂人</rb><rt>きちがい</rt></ruby>のように丘と云わず谷と云わず雪の中を転げ廻る。

いかにも<ruby><rb>窩人</rb><rt>かじん</rt></ruby>の<ruby><rb>長</rb><rt>おさ</rt></ruby>らしい、こういう<ruby><rb>惨酷</rb><rt>ざんこく</rt></ruby>の方法をもって、彼は自分の肉体を苦しめ、娘に対する思慕の情と同じ者に対する<ruby><rb>憎悪</rb><rt>ぞうお</rt></ruby>の念とを<ruby><rb>痲痺</rb><rt>まひ</rt></ruby>させようとするのであった。

一七

「ヨイショ」「ドッコイ」「ヨイショ」「ドッコイ」

こういう掛け声が聞こえて来た。それは二人の声であって、重い物でも持っているらしい。しかし姿は見えなかった。と云うのは夜だからで、しかも所は八ヶ嶽の天狗の宮の真後ろの崖で、早春のことであったから氷雪が厚く積もっている。雪は今し方止んだばかりで、雲間を洩れた月光が斜めに崖を照らしている。

その崖には斜めに高く人工の道が出来ている。半年の月日を<ruby><rb>費</rb><rt>つい</rt></ruby>やして根気よく多四郎が造ったもので、今、その道を上の方から二人の男が下りて来る。

「ヨイショ」「ドッコイ」と忍び音に互いに声を掛け合いながらソロリソロリと下りて来る。

それは多四郎と権九郎とで、<ruby><rb>菰</rb><rt>こも</rt></ruby>に包んだ太短い物をさも重そうに<ruby><rb>担</rb><rt>かつ</rt></ruby>いでいる。

すっかり崖を下りきった所で二人はホッと吐息をして、

「もう一息だ、やってしまおうぜ」

「合点」と権九郎が<ruby><rb>合槌</rb><rt>あいづち</rt></ruby>を打つ。

で、また二人は荷物を担いで、そばに立っている木小屋の前を足音を立てずに通り過ぎ、雪を<ruby><rb>冠</rb><rt>かぶ</rt></ruby>って<ruby><rb>聳</rb><rt>そび</rt></ruby>えている森の方へ歩いて行った。

間もなく森へはいったが、大きな杉の根方から犬の啼き声が聞こえて来た。

「これ！　畜生！」と叱りながら二人はそっちへ近寄って行く。そこに一台の<ruby><rb>犬橇</rb><rt>いぬぞり</rt></ruby>があって人の乗るのを待っていた。

「どっこいしょ」と云いながら、二人は荷物を重そうに橇の上へズシリと置いたが続いて自分達も飛び乗った。権九郎が手綱を取り多四郎が荷物の側へ寄る。ピシッと一鞭くれながら権九郎は振り返った。

「おい多四郎どうしたものだ。せめてお別れの挨拶でもしねえ、振り返って小屋ぐらい見たがよかろう。……ヒューッ」

と口笛で犬を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやす</span>。すると巨大な三頭の犬はグイと頭を下へ垂れ後脚へ力をウンと入れた。とたんにスルリと前へ出る。パッと立つ雪煙り、静かに橇は<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>り出た。

「へ」

と多四郎は鼻で笑ったが、「<ruby><rb>俺</rb><rt>おい</rt></ruby>らアそんな甘いんじゃねえよ。……部落の<ruby><rb>女</rb><rt>あま</rt></ruby>がどうしたって云うんだい」

「おおおお偉そうに云ってるぜ。へ、どうしたが呆れ返らあ。お前一時はあの女で<ruby><rb>血眼</rb><rt>ちまなこ</rt></ruby>になっていたじゃねえか」

「うん、そうよ、一時はな。……窩人窩人で城下の奴らが鬼のように恐れているその窩人の娘とあっては、ちょっと<ruby><rb>好奇心</rb><rt>ものずき</rt></ruby>も起ころうというものだ。それに<ruby><rb>容貌</rb><rt>そっぽ</rt></ruby>だって相当踏める。変わった味だってあるだろう。当座の<ruby><rb>弄</rb><rt>なぐさ</rt></ruby>みにゃ持って来いだ。お前だってそう思うだろう」

「ところで味はよかったかな」

「俺にとっちゃ初物だった。第一体がよかったよ。色の白さと柔かさとに<ruby><rb>羽二重</rb><rt>はぶたえ</rt></ruby>というより真綿だね。それに情愛の<ruby><rb>劇</rb><rt>はげ</rt></ruby>しさと来たら、ヒヒヒヒ、何んと云おうかな」

「畜生！」

と権九郎は叫びながらヒューと<ruby><rb>鞭</rb><rt>むち</rt></ruby>を空に振り一匹の犬を<ruby><rb>撲</rb><rt>なぐ</rt></ruby>りつけたが、「へ、うまくやりやがったな。人里離れた山奥の木小屋の中で二人っきりでよ、何をしたか知れたものじゃねえ、飽きるほどふざけたに違えねえ」

「当たらずといえども遠からずさ」

「それだけの女を振りすてて何んでまたお前は逃げるんだい。こいつが俺にゃ解らねえ」

「そいつあ今も云った筈だ。たかが窩人の娘じゃねえか。まさか一生<ruby><rb>添</rb><rt>そ</rt></ruby>うことも出来めえ」

「ふん、それじゃ飽きたんだな」

「正直のところまずそこだね」

「それにしては智恵がねえな」権九郎は<ruby><rb>嘲笑</rb><rt>あざわら</rt></ruby>った。

「智恵がねえ？　この俺がな？」

多四郎はにわかに眼を丸くする。

「捨ててしまうとは<ruby><rb>勿体</rb><rt>もったい</rt></ruby>ねえ話だ。<ruby><rb>瞞</rb><rt>だま</rt></ruby>して城下へ連れて来てよ、<ruby><rb>女衒</rb><rt>ぜげん</rt></ruby>へ掛けて売ったらどうだ」

「へん、なんだ、そんな事か、孔明の智恵も<ruby><rb>凄</rb><rt>すさま</rt></ruby>じいや。そんなことなら<ruby><rb>迅</rb><rt>と</rt></ruby>くより承知よ」

「ナニ承知？　……何故しねえ」

「つまり玉<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">なり</span>が<ruby><rb>異</rb><rt>ちが</rt></ruby>うからさ」

「聞きてえものだ、どう異うね？」

「里の女ならそれもよかろう。思い込んだが最後之助、どんな事でもやり通そうという窩人の娘にゃ向かねえね」

「ふん、どうして向かねえんだい？」

「そんな気振りでも見せようものなら、こっちが寝首を掻かれるくらいよ」

「へえ、そんなに凄いんかい」

「何しろ向こうは夢中だからな」

「こら、畜生！　道草を食うな」

権九郎は<ruby><rb>自棄</rb><rt>やけ</rt></ruby>に怒鳴りながら横へ<ruby><rb>逸</rb><rt>そ</rt></ruby>れる犬を引き締めた。「雪の降ってる冬の夜中だ。道草食うにも草はあるめえ、トットットットッ。走れ走れ！」

権九郎はむやみと鞭を振る。

一八

雪で<ruby><rb>蔽</rb><rt>おお</rt></ruby>われた森や林が蒼い月光に照らされて幽霊のように立っている。橇が走るに従ってだんだんそれが近寄って来る。やがて橇が行き過ぎるとそれもだんだん<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>の方へ小さく小さく消えて行く。<ruby><rb>白無垢</rb><rt>しろむく</rt></ruby>を着た険しい山や<ruby><rb>巨大</rb><rt>おおき</rt></ruby>な獣の口のようにワングリと開いた<ruby><rb>谿</rb><rt>たに</rt></ruby>なども橇が進むに従って次第次第に近寄って来、橇が行き過ぎるに従って後へ後へと飛び去って行く。そうして空の<ruby><rb>朧月</rb><rt>おぼろづき</rt></ruby>は、橇が進もうが走ろうがそんなことには頓着せず、高い所から<ruby><rb>茫々</rb><rt>ぼうぼう</rt></ruby>と橇と人とを照らしている。

橇の上の人間は――五味多四郎と権九郎とは、少しの間黙っていた。権九郎は手綱を<ruby><rb>弛</rb><rt>ゆる</rt></ruby>められるだけ弛め、犬を自由に走らせながら、早く城下へ帰って行き暖かい居酒屋で酒をあおりながら素晴らしい獲物の分け前を取れるだけ沢山取ってやろうと、こんな事を腹の中で考えていた。それに反して多四郎は、この<ruby><rb>素的</rb><rt>すてき</rt></ruby>もない黄金を自分一人で<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">せしめ</span>たいものだと<ruby><rb>魂胆</rb><rt>こんたん</rt></ruby>を巡らしているのであった。多四郎は四方を見廻したがグイと<ruby><rb>懐中</rb><rt>ふところ</rt></ruby>へ手を入れた。

「しかし待てよ」と呟くとそっとその手を抜き出した。「<ruby><rb>急</rb><rt>せ</rt></ruby>いては事を仕損ずる。あぶねえあぶねえ」

と腕を<ruby><rb>拱</rb><rt>く</rt></ruby>み、権九郎の様子を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">じっ</span>と窺う。

権九郎は多四郎へ背を向けたまま無心に手綱を操っていた。隙だらけの姿勢である。多四郎は四方を見廻した。戦いには地の利が肝心だ。……こう思ったからでもあろう。この時橇は山と谿との狭い<ruby><rb>岨道</rb><rt>そばみち</rt></ruby>を走っている。

いつの間にか空が曇り、一旦止んでいた牡丹雪が風に連れて降って来た。見る見る月影は薄れて行きやがて全く消えてしまった。

雪明りで<ruby><rb>仄々</rb><rt>ほのぼの</rt></ruby>とわずかに明るい。

この時、多四郎は右の手をまた<ruby><rb>懐中</rb><rt>ふところ</rt></ruby>へ差し込んだが何か<ruby><rb>確</rb><rt>しっか</rt></ruby>りと握ったらしい。と、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">じっ</span>と眼を据えて権九郎の背中を睨んだものである。

<ruby><rb>岨道</rb><rt>そばみち</rt></ruby>を曲がると眼の前へ広漠たる氷原が現われた。吹雪は次第に勢いを加え吠えるように<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぶつかって</span>来る。犬が苦しそうに<ruby><rb>喘</rb><rt>あえ</rt></ruby>ぎ出した。そうして度々逃げようとして<ruby><rb>繋</rb><rt>つな</rt></ruby>ぎの<ruby><rb>紐</rb><rt>ひも</rt></ruby>へ喰い付いた。とそのつど権九郎の鞭が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">したたか</span>背中を打つのであった。

「さあ今だ！　さあ今だ！」

多四郎は自分で自分の胸へこう口の中で云い聞かせながらジリジリと前へ寄って行った。その時、岩にでも乗り上げたものか不意に橇が傾いた。とたんに多四郎は懐中からヌッと腕を引き抜いたが、その手が空へ上がったかと思うとキラリと何か<ruby><rb>閃</rb><rt>ひら</rt></ruby>めいた。と権九郎は「あッ」と叫びバラリ手綱を放したが次の瞬間にはゴロリとばかり雪の中へ転げ落ちた。

「多四郎！　わりゃ、俺を斬ったな」

血に<ruby><rb>塗</rb><rt>まみ</rt></ruby>れた肩先を片手で<ruby><rb>確</rb><rt>しっか</rt></ruby>り抑えながら、権九郎は体をもがいたものである。

多四郎は短刀を逆手に握り悠然と橇から下り立ったが、冷ややかに権九郎を睨み付け、

「どうだ権九、苦しいか」

「仲間を斬ってどうする気だ！　さては手前血迷ったな。あ、苦しい。息が詰まる」

「何んで俺が血迷うものか。ずんとずんと正気の沙汰だ」

「なに正気？　むうそうか。それじゃ<ruby><rb>汝</rb><rt>われ</rt></ruby>アあの獲物を……」

「今やっと気が付いたか。……一人占めにする気だわえ」

「そうはいかねえ！」

と云いながら権九郎はヒョロヒョロ立ち上がったが、肩の<ruby><rb>傷手</rb><rt>いたで</rt></ruby>に堪えかねたものか、そのままドシンと<ruby><rb>尻餅</rb><rt>しりもち</rt></ruby>をついた。

「そっちがその気ならこっちもこうだ、さあ小僧覚悟しろ！」

これも呑んでいた<ruby><rb>匕首</rb><rt>あいくち</rt></ruby>を抜くと、逆手に握って構えながら、立て膝をして詰め寄った。

<ruby><rb>馭者</rb><rt>ぎょしゃ</rt></ruby>を失った犬どもがこの時烈しく吠え出した。三頭ながら空を仰ぎ降りしきる雪に身を<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>わせさも悲しそうに吠えるのである。

最初の傷手で権九郎は次第次第に弱って来た。肩からタラタラ<ruby><rb>滴</rb><rt>したた</rt></ruby>る血は雪を<ruby><rb>紅</rb><rt>くれない</rt></ruby>に染めるのであったが夜のこととて黒く見える。立とう立とうと<ruby><rb>焦心</rb><rt>あせ</rt></ruby>っては見たがどうしても足が云うことを聞かない。膝でキリキリ廻りながらわずかに多四郎を防ぐのであった。

「それ行くぞ」

と多四郎は嘲けりながら飛び廻った。彼は<ruby><rb>余裕綽々</rb><rt>よゆうしゃくしゃく</rt></ruby>たるもので、右から襲い左から飛びかかりグルリと廻って背後から襲う。<ruby><rb>鼠</rb><rt>ねずみ</rt></ruby>を捕えた猫のように最初に致命的の一撃を加え、弱って次第に死ぬのを待ち最後に<ruby><rb>止</rb><rt>とど</rt></ruby>めを差そうとするのだ。

多四郎は<ruby><rb>莫迦</rb><rt>ばか</rt></ruby>にお<ruby><rb>喋舌</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>りになった。

「おい権九、いやさ権九郎、何んと俺様は智恵者であろうがな。産まれながら<ruby><rb>蒲柳</rb><rt>ほりゅう</rt></ruby>の<ruby><rb>質</rb><rt>たち</rt></ruby>で力業には向き兼ねる。そこでお前を利用してよ、途方もねえ獲物を盗み出したところで、相棒のお前を殺してしまえば濡れ手で粟の掴み取り、一粒だって他へはやらねえ。……そのまた獲物が予想にも増し小判に直して四万両いや五万両は確かにあろう。へ、こう見えても多四郎様は、今日から大したお金持よ、<ruby><rb>贅沢</rb><rt>ぜいたく</rt></ruby>のし放題。綺麗な女に<ruby><rb>旨</rb><rt>うま</rt></ruby>い酒に不自由はねえというものさ」

一九

「……おお苦しいか苦しいか。さぞ痛かろう痛かろう。肩からドクドク血が出ているなア。その苦しみもほんの一時、後は往生観念仏、楽になろうというものだ」

「む、むううう」

と権九郎は口を利くことさえ出来なくなった。それでもいわゆる最後の一念、全身の力を足にこめ<ruby><rb>俄然</rb><rt>がぜん</rt></ruby>スックと立ち上がった。間髪を入れず斬り下ろした匕首。油断していた多四郎の腕へ切っ先鋭くはいったが冬の事で着物が厚く<ruby><rb>裏掻</rb><rt>うらか</rt></ruby>くことはなかったものの、多四郎の<ruby><rb>周章</rb><rt>あわ</rt></ruby>てたことは云うまでもない。「あっ」と叫んで後ろ様にパタパタと五、六歩逃げたほどである。

手の匕首をまず落とし、それから枯木が倒れるように権九郎は雪の上へ<ruby><rb>仰向</rb><rt>あおむ</rt></ruby>けに<ruby><rb>仆</rb><rt>たお</rt></ruby>れた。そしてそのまま長くなりもう動こうとはしなかった。彼は全く息絶えたのである。雪はさんさんと降っている。憐れな権九郎の<ruby><rb>死骸</rb><rt>しがい</rt></ruby>の上へも雪は用捨なく積もるのである。黒く見えていたその死骸は見ているうちに白くなった。やがてすっかり見えなくなった。雪の墓場へ埋められたのだ。

多四郎はヒラリと橇へ乗った。

一言も云わず見返りもせず彼は橇を走らせた。間もなく彼と橇の影とは吹雪に<ruby><rb>紛</rb><rt>まぎ</rt></ruby>れて見えなくなった。<ruby><rb>森然</rb><rt>しん</rt></ruby>と後は静かである。

ウォーとその時森の方から<ruby><rb>狼</rb><rt>おおかみ</rt></ruby>の声が聞こえて来た。それに答えてどこからともなくウォーウォーと狼の声が二声三声聞こえて来た。と、純白の雪の高原へ一点二点、三、四点、黒い形が浮かび出たがだんだんこっちへ近寄って来る。すなわち数匹の狼である。

四方に散っていた狼が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">さっ</span>と集まって一団となるや、その一団の狼は鼻面を低く地へ垂れて人間の血を恋うようにこっちへノシノシと走って来たが、死骸の埋ずまっている場所まで来るとグルグルグルグル廻り出した。廻りながらパッパッと雪を掻く。掻かれた雪は<ruby><rb>嵐</rb><rt>あらし</rt></ruby>に<ruby><rb>煽</rb><rt>あお</rt></ruby>られ<ruby><rb>濛々</rb><rt>もうもう</rt></ruby>と空へ立ち昇る。その下から現われたのは<ruby><rb>無慙</rb><rt>むざん</rt></ruby>な権九郎の死骸である。<ruby><rb>颯</rb><rt>さっ</rt></ruby>と狼は飛びかかった。

死骸は狼に喰い裂かれ、後へ残ったのは<ruby><rb>襤褸</rb><rt>ぼろ</rt></ruby>ばかりであった。しかしそれさえ雪に蔽われ<ruby><rb>瞬間</rb><rt>またたくま</rt></ruby>に消えて行った。

小屋の中は暖かった。<ruby><rb>焚火</rb><rt>たきび</rt></ruby>が元気よく燃えている。

山吹は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">じっ</span>と坐っていた。

その眼は焚火を見詰めていたが心は別のことを考えていた。<ruby><rb>良人</rb><rt>おっと</rt></ruby>の帰りを待っているのだ。多四郎の帰るのを待っているのだ。

多四郎は容易に帰って来ない。――帰らないのが<ruby><rb>当然</rb><rt>あたりまえ</rt></ruby>である。彼は彼女を振りすてて城下へ帰って行ったのだから。

しかし彼女はそんなこととは夢にも考えはしなかった。で、熱心に待っていた。

<ruby><rb>戸外</rb><rt>そと</rt></ruby>では吹雪が荒れていると見えて、枝の折れる荒々しい音が風音に<ruby><rb>雑</rb><rt>まじ</rt></ruby>って聞こえて来た。

不意に彼女は顔を上げ窓の方へ眼をやった。

コトンコトンと音がする。

彼女は<ruby><rb>物憂</rb><rt>ものう</rt></ruby>そうに立ち上がり窓の戸を引き開けた。口の尖った、眼の優しい熊の顔が現われた。窓から覗いているのである。

山吹は寂しそうに笑ったが、

「おおおお今日も大雪で山には<ruby><rb>食物</rb><rt>くいもの</rt></ruby>がないと見える」

こう云いながら鍋を取り上げ食べ残りの<ruby><rb>雑炊</rb><rt>ぞうすい</rt></ruby>を投げてやった。と、熊の顔はすぐ引っ込みやがて雑炊を食べるらしい舌打ちの音が聞こえて来た。それが止むと同じ顔がまた窓へ現われた。

「もうないよ。あっちへお行き」

こう云いながら手を振ると、熊は二、三度<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>いたが、スッと窓から消えてしまった。

そこで山吹は窓を閉じ元の場所へ帰って来た。じっと焚火を見詰めながら、また物思いにふけるのである。

夜は次第に更けて行った。

彼女はいつまでも待っていた。身動きさえしないのである。

その時足音が聞こえて来た。しかし人の足音ではない。シトシトシトシトと小屋の<ruby><rb>周囲</rb><rt>まわり</rt></ruby>をその足音は廻り出した。しかも多勢の足音である。それはどうやら犬らしい。甘えるような泣き声がクーン、クーンと聞こえて来た。

「おや来たんだよ、お爺さん達が」

呟きながら山吹はまた<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">だるそう</span>に立ち上がると入口の戸を開けてやった。その戸口からはいって来たのは五匹の凄じい狼であった。全身、雪で白かったが鼻面ばかりは赤かった。<ruby><rb>生血</rb><rt>なまち</rt></ruby>に<ruby><rb>塗</rb><rt>まみ</rt></ruby>れているのである。

権九郎の死骸を食い荒らしたその五匹の狼達であった。

しかも一匹の狼は肉の着いた骨をくわえていた。それは権九郎の骨なのである。しかしもちろん山吹はそんなことは夢にも知らない。で、彼女はこう云った。

「おおおお、お前達も寒かろう。さあさあ遠慮なく火にあたるがいいよ」

二〇

五匹の狼は尾を振りながら彼女の体へ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">じゃれ</span>ついた。すぐに突き飛ばされ<ruby><rb>意気地</rb><rt>いくじ</rt></ruby>なくよろめいたが、一緒に小屋の片隅へ集まりそこへ<ruby><rb>穏</rb><rt>おとな</rt></ruby>しく<ruby><rb>跪座</rb><rt>つくば</rt></ruby>った。そうしてそこから焚火越しに山吹の顔を見守った。一人の女と五匹の狼。――それが一つの部屋にいる。……何んと恐ろしいことではないか。ところがちっとも恐ろしくない。それは山吹が<ruby><rb>窩人</rb><rt>かじん</rt></ruby>だからで、窩人と獣とは親類なのである。

熊も狼も狐狸も山吹にとっては友達であった。窩人部落にいた頃から彼女と獣達とは仲がよかったが、この木小屋へ来てからは一層両者は仲良くなり、多四郎の留守を<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>っては彼らは遊びに来るのであった。

その夜一晩待ったけれど多四郎は帰って来なかった。

翌る朝、彼女は小屋を出てそれとなくあっちこっち探してみたが恋しい<ruby><rb>良人</rb><rt>おっと</rt></ruby>の姿は見えない。声を上げて呼んでも見たが答えるものは嵐ばかりだ。やがて夜がやって来た。夜中彼女は待ってみたがやはり帰って来なかった。また味気ない夜が明ける。朝の<ruby><rb>日光</rb><rt>ひかり</rt></ruby>が射して来た。で、彼女は小屋を出て雪の高原を<ruby><rb>彷徨</rb><rt>さまよ</rt></ruby>いながら<ruby><rb>狂人</rb><rt>きちがい</rt></ruby>のように探してみたが結果は昨日と同じであった。で、また寂しい夜となる。……

夜が日に次ぎ日が夜につづき、恐怖、不安、疑惑、憤怒、嫉妬の月日が経って行った。

春がおとずれ初夏が来た。山の雪はおおかた消え<ruby><rb>欝々</rb><rt>うつうつ</rt></ruby>たる緑が峰に谷に陽に輝きながら萌えるようになった。<ruby><rb>辛夷</rb><rt>こぶし</rt></ruby>、卯の花が<ruby><rb>木</rb><rt>こ</rt></ruby>の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>に見え山桜の花が咲くようになった。<ruby><rb>鶯</rb><rt>うぐいす</rt></ruby>の声、<ruby><rb>駒鳥</rb><rt>こまどり</rt></ruby>の声が<ruby><rb>藪</rb><rt>やぶ</rt></ruby>の中から聞こえて来る。

山吹はこの頃<ruby><rb>懐妊</rb><rt>みごも</rt></ruby>っていた。多四郎の種を宿していたのだ。

彼女はようやくこの頃になって、自分が多四郎に捨てられたことを<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はっきり</span>心に悟るようになった。

「復讐！」――と彼女は心に誓った。あたかも<ruby><rb>執着</rb><rt>しゅうじゃく</rt></ruby>そのもののような窩人の娘の復讐がいかに物凄いかということを薄情な男に思い知らせてやろう！　こう決心したのであった。

「でも子供には罪はない、何も彼も子供が産まれてからだ」

で、彼女は小屋の中で産み落とす日を待っていた。

やがて真夏がおとずれて来た。

笹の平の窩人達は祭りの用意に忙しかった。

<ruby><rb>宗介天狗</rb><rt>むねすけてんぐ</rt></ruby>の<ruby><rb>祭礼</rb><rt>まつり</rt></ruby>なのである。

これは毎年の<ruby><rb>慣例</rb><rt>しきたり</rt></ruby>で七月十五日の<ruby><rb>早朝</rb><rt>あさまだき</rt></ruby>にご神体の<ruby><rb>幕屋</rb><rt>まくや</rt></ruby>がひらかれるのである。そうして黄金の<ruby><rb>甲冑</rb><rt>かっちゅう</rt></ruby>で体を<ruby><rb>鎧</rb><rt>よろ</rt></ruby>った宗介様を一同謹んで拝するのであった。

窩人達は元気よく<ruby><rb>各自</rb><rt>めいめい</rt></ruby>の仕事にいそしんでいた。旗を作る者、<ruby><rb>幟</rb><rt>のぼり</rt></ruby>を<ruby><rb>修繕</rb><rt>なお</rt></ruby>す者、<ruby><rb>提灯</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>を張る者、幕を<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>える者――笑い声、話し声、唄う声が部落中から聞こえていた。

やがて祭りの当日が来た。

天狗の宮の境内は旗や幟で飾られた。盛装を凝らした窩人達は夜のうちから詰めかけて来て、<ruby><rb>暁</rb><rt>あけ</rt></ruby>の明星の消えた頃には境内は人で埋ずもれた。その時一群の行列が<ruby><rb>粛々</rb><rt>しゅくしゅく</rt></ruby>と境内へ練り込んで来た。神事を<ruby><rb>執行</rb><rt>とりおこな</rt></ruby>う人達で、先頭には杉右衛門が立っている。<ruby><rb>跣足</rb><rt>はだし</rt></ruby>、乱髪、白の<ruby><rb>行衣</rb><rt>ぎょうえ</rt></ruby>、手に<ruby><rb>三方</rb><rt>さんぼう</rt></ruby>を捧げている。後につづいたは副頭領で岩太郎の父の桐五郎であった。手に<ruby><rb>松明</rb><rt>たいまつ</rt></ruby>を持っている。

騒がしかった境内が一時に<ruby><rb>森然</rb><rt>しん</rt></ruby>と静かになった。群集は左右に身を開いてその行列を迎え入れた。行列は粛々と歩いて行く。神殿の前で立ち止まる。ギーと神殿の戸が開く。と、杉右衛門と桐五郎とがシズシズと<ruby><rb>階段</rb><rt>きざはし</rt></ruby>を上って行く。

桐五郎の持っている松明が、内陣の奥でチラチラと火花を散らして燃えているのが神秘めいて厳かである。

ギーとまたも<ruby><rb>軋</rb><rt>きし</rt></ruby>り<ruby><rb>音</rb><rt>ね</rt></ruby>がした。

群集はにわかに緊張した。神聖の幕屋がひらかれたからだ。群集の眼は一斉に内陣の奥へ注がれた。<ruby><rb>突然</rb><rt>いきなり</rt></ruby>叫び声が響いて来た。内陣の奥から響いたのである。ザワザワと群集は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ざわめき</span>出した。

その群集の眼前へ杉右衛門と桐五郎とが飛び出して来た。

「恐ろしい事じゃ！　<ruby><rb>勿体</rb><rt>もったい</rt></ruby>ない事じゃ！」

杉右衛門が、<ruby><rb>嗄声</rb><rt>しゃがれごえ</rt></ruby>で叫んだものである。

「宗介天狗は<ruby><rb>裸身</rb><rt>はだかみ</rt></ruby>でござる！」

桐五郎が続いて叫んだ。二人ながらガタガタ<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>えている。そしてその顔は<ruby><rb>蒼白</rb><rt>まっさお</rt></ruby>である。

群集は<ruby><rb>一刹那</rb><rt>いっせつな</rt></ruby>静かであった。思いもよらない出来事のために物を云うことさえ出来なかったのだ。

が、次の瞬間には恐ろしい混乱が<ruby><rb>勃発</rb><rt>ぼっぱつ</rt></ruby>した。彼らは口々に叫び出した。

二一

ある者はこれを神罰だと云った。

「我らの不忠実を怒らせられ神が<ruby><rb>奇蹟</rb><rt>ふしぎ</rt></ruby>を下されたのだ」

またある者はこうも叫んだ。「泥棒が盗んだに相違ない。<ruby><rb>黄金</rb><rt>こがね</rt></ruby>で作られた<ruby><rb>鎧冑</rb><rt>よろいかぶと</rt></ruby>には<ruby><rb>莫大</rb><rt>ばくだい</rt></ruby>な値打ちがあるからな。――城下の泥棒が盗んだのだ」

またある者は次のように云った。

「白法師の<ruby><rb>所業</rb><rt>しわざ</rt></ruby>に相違ない。我々の部落、我々の信仰を日頃から<ruby><rb>彼奴</rb><rt>きゃつ</rt></ruby>は<ruby><rb>譏</rb><rt>そし</rt></ruby>っていた。我々の神聖な神を<ruby><rb>穢</rb><rt>けが</rt></ruby>し、我々の霊場を踏み<ruby><rb>躙</rb><rt>にじ</rt></ruby>った者は<ruby><rb>彼奴</rb><rt>きゃつ</rt></ruby>以外にある<ruby><rb>筈</rb><rt>はず</rt></ruby>がない！」

「そうだそうだ」

と群集は<ruby><rb>挙</rb><rt>こぞ</rt></ruby>ってこの言葉に雷同した。

「白法師を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひっ</span>とらえろ！」――「草を分けても探し出せ！」――「白法師を狩れ白法師を狩れ！」

群集は興奮して境内を出た。祭りは一変して白法師狩りとなった。

この日の真昼頃白法師は大岩の上に坐っていた。白衣、長髪、裸の足――昔に変わらぬ優しい微笑。

彼の前には岩太郎がいた。彼は仲間の隙を窺い、危急を白法師へ告げに来たのだ。

「悪いことは申しませぬ。早くお逃げ遊ばすよう。白法師狩りの者どもが間もなくやって参りましょう。どうぞどうぞ、一時も早く山をお立ち去り遊ばすよう」

云っているうちも気遣わしそうに岩太郎は四辺を見廻した。

「いや」

と白法師は静かに云った。「<ruby><rb>私</rb><rt>わし</rt></ruby>は何者をも恐れない。私は決して逃げはしない」

「危険でございます白法師様！」

「いや」とまたもしずかに云った。「いや私には危険はない。私には深い自信がある。……これまでも彼らは幾度となくこの私を<ruby><rb>捉</rb><rt>とら</rt></ruby>えようとした。しかしいつも失敗であった」

「はいさようでございます。<ruby><rb>仰</rb><rt>おお</rt></ruby>せの通りでございます。しかし今度は、今度ばかりは安閑としてはおられませぬ」

「それも私には解っておる。彼らは彼らの守り本尊を私に穢されたと思っているらしい。がそれは間違っている。……黄金の<ruby><rb>甲冑</rb><rt>かっちゅう</rt></ruby>を盗んだものは私ではなくて他にある」

「おっしゃるまでもござりませぬ」

岩太郎は頭を下げた。「尊い尊いあなた様がなんでさようなことをなされましょう。とは云え部落の者達は甲冑を盗んだはあなた様だと思い詰めておるのでござります。草を分け枝を切っても今度こそは逃がしはせぬと、部落の男女子供まで一人残らず馳せ集まり、人数おおよそ五百人余り山を囲んでさっきから探しておるのでござります」

「なるほど」

と法師は眼をとじてしばらくじっと考えていたが、「断じて<ruby><rb>私</rb><rt>わし</rt></ruby>は逃げはせぬ。――しかし山は去ることにしよう」

「それが安全でござります。何より安全でござります」

「いや、私には危険はない。このままこの山におるとしても、私には神の<ruby><rb>恩寵</rb><rt>おんちょう</rt></ruby>がある。窩人達にも捕われもしまい。<ruby><rb>一度</rb><rt>ひとたび</rt></ruby>私が手を上げたなら<ruby><rb>忽然</rb><rt>こつぜん</rt></ruby>と山火事が起こるであろう。もしまた足を上げたなら<ruby><rb>雪崩</rb><rt>なだれ</rt></ruby>が落ちても来よう。……<ruby><rb>以前</rb><rt>まえかた</rt></ruby>私は山火事を起こし彼らの<ruby><rb>集会</rb><rt>あつまり</rt></ruby>を<ruby><rb>妨</rb><rt>さまた</rt></ruby>げたことがある。もっとも<ruby><rb>真実</rb><rt>まこと</rt></ruby>の山火事ではない。ただそう思わせたばかりであっていわば<ruby><rb>幻覚</rb><rt>まぼろし</rt></ruby>に過ぎなかったが彼らは恐れて逃げてしまった。……私は彼らを恐れてはいない。私の恐れるのは自分自身だ。……私はこの山へ一年前に来た。最初は数十人の信者があった。しかし今はただ一人――ただ一人お前が残ったばかりだ。なんとはかない私の力であろう！　人を説くにはまだ早い、人を教えるのは<ruby><rb>僭越</rb><rt>せんえつ</rt></ruby>である。それで山を去ろうというのだ。去ってそうして尚一層自分自身を<ruby><rb>磨</rb><rt>みが</rt></ruby>こうというのだ」

この時ドッと<ruby><rb>鬨</rb><rt>とき</rt></ruby>の声が眼の下の林から湧き起こった。得物を引っさげた窩人の群が雪を蹴立てて駈け上って来る。

しまった！　と岩太郎は心で叫び、

「もう遅いかも知れませぬが、いそいでお隠れなさいまし！　一刻も早く、白法師様！」

しかし岩太郎がこう云った時にはもうそこにはいなかった。と見ると遥かの山の峰に何やら動くものがある。そうしてそこから風に伝わってこういう声が聞こえて来た。

「おさらばじゃ岩太郎！　またお前達とも逢うだろう。それまではおさらばじゃ」

「ああ、あれが白法師様だ」

岩太郎は<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いて岩の上から幾度も頭を下げたものである。

二二

宗介天狗のご神体が<ruby><rb>無慙</rb><rt>むざん</rt></ruby>に傷つけられ<ruby><rb>穢</rb><rt>けが</rt></ruby>されたことは、笹の平の窩人達にとっては正に青天の<ruby><rb>霹靂</rb><rt>へきれき</rt></ruby>であり形容も出来ない恐怖であった。白法師さえ取り逃がしたので、彼らはすっかり絶望した。絶望に次いで混乱が来た。平和であった窩人部落は一朝にして<ruby><rb>土崩瓦壊</rb><rt>どほうがかい</rt></ruby>した。

十人二十人組を組んで笹の平を去る者が出来た。「黄金の甲冑を取り戻すまでは俺達はここへは帰って来まい」――「黄金の甲冑を探しに行こう。日本の国の<ruby><rb>隅々</rb><rt>すみずみ</rt></ruby><ruby><rb>隈々</rb><rt>くまぐま</rt></ruby>を、幾年かかろうと<ruby><rb>関</rb><rt>かま</rt></ruby>わない。探して探して探して廻ろう」

こう云って彼らは出て行くのであった。

一月二月と経つうちに笹の平の窩人の数はわずか二百人となってしまった。こうして秋が去り冬が来た頃には、笹の平は無人境となった。最後に残った二百人を杉右衛門自ら<ruby><rb>引卒</rb><rt>ひきつ</rt></ruby>れて放浪の旅へ登ったからである。

天狗の宮には<ruby><rb>祀</rb><rt>まつ</rt></ruby>る者がなく窩人の<ruby><rb>住家</rb><rt>すみか</rt></ruby>には住む者がなく、<ruby><rb>従来</rb><rt>いままで</rt></ruby>賑やかであっただけにこうなった今はかえって寂しく<ruby><rb>蕭殺</rb><rt>しょうさつ</rt></ruby>の気さえ漂うのであった。

ある日、一匹の野狐が恐らく猟師にでも追われたのであろう、天狗の宮の拝殿へ一目散に駈け込んで来たが、幾日経っても出て行かなかった。そこを住家としたのである。次第に<ruby><rb>眷属</rb><rt>けんぞく</rt></ruby>が集まって来て、荘厳を極めた天狗の宮は、獣の糞や足跡で見る蔭もなく汚されてしまい、窩人達の家々には<ruby><rb>狸</rb><rt>たぬき</rt></ruby>や<ruby><rb>狢</rb><rt>むじな</rt></ruby>が群をなして住み子を産んだり育てたりした。

こうして再び春となった。

野生えの梅が花を点じ小鳥が楽しそうに鳴くようになった。

この時、崖下の小屋の中で<ruby><rb>逞</rb><rt>たくま</rt></ruby>しい<ruby><rb>赤児</rb><rt>あかご</rt></ruby>の泣き声がした。山吹が子供を産み落としたのである。産まれた子供は男であった。で、<ruby><rb>猪太郎</rb><rt>ししたろう</rt></ruby>と名付けられた。産婦の山吹は小屋の中で<ruby><rb>藁</rb><rt>わら</rt></ruby>に埋まって横になっていた。<ruby><rb>介抱</rb><rt>かいほう</rt></ruby>する者は誰もいない。ただ一匹の小さい猿がキョトンとしたような顔をして寝かせてある赤児の枕もとに行儀よくチョコンと坐っているのが<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">せめてもの</span>山吹の心やりであった。

宇宙のあらゆる動物のうち人間と名付くる生物が一番順応性を持っている。

こんなに苦しい境遇にあっても山吹は不思議に<ruby><rb>肥立</rb><rt>ひだ</rt></ruby>って行った。わずかに残っている米と味噌、大事にかけて<ruby><rb>貯</rb><rt>たくわ</rt></ruby>えておいた去年の秋のいろいろの<ruby><rb>果実</rb><rt>このみ</rt></ruby>、<ruby><rb>食物</rb><rt>たべもの</rt></ruby>と云えばこれだけであったが乳も出れば立って歩くことも出来た。赤児も元気よく育って行った。

こうして幾月か月が経ちまた幾年か年が経った。

五年の歳月が飛び去ったのである。

五年に渡る<ruby><rb>辛労</rb><rt>しんろう</rt></ruby>が山吹の体を<ruby><rb>蝕</rb><rt>むしば</rt></ruby>んだと見えとうとう山吹は病気になった。五歳になった猪太郎が必死となって看病はしたが、<ruby><rb>定命</rb><rt>じょうみょう</rt></ruby>と見えて日一日と彼女の体は衰えて行き死が目前に迫るように見えた。

ある日彼女は猪太郎を枕もとへ呼び寄せた。そうして彼女は云ったのである。

「……<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>の云うことをよくお聞き。お前のお父様は城下の人で五味多四郎というのだよ。……妾はその人に<ruby><rb>欺瞞</rb><rt>だま</rt></ruby>されたのだよ。――じきに妾は死ぬだろう。ああこの<ruby><rb>怨</rb><rt>うら</rt></ruby>みこの<ruby><rb>呪詛</rb><rt>のろい</rt></ruby>を返すことも出来ずに死ぬのだよ。妾は死んでも死にきれない！　猪太郎や妾にはお願いがある。お母さんに代って憎い多四郎へ、お前から怨みを返しておくれ！　それが何よりの孝行だよ！　……おいでおいで猪太郎や妾の<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>へ来るがいいよ。腕をお出し右の腕をね。口の側へ持っておいで。さあお母さんの口の側へね」

山吹は猪太郎の右の腕へ<ruby><rb>確</rb><rt>しっか</rt></ruby>り喰い付いて歯形を付けた。「その歯形は永久消えまい。お母さんの形見だよ。その歯形を見る度にお母さんの怨みを思い出しておくれ。そうして憎い多四郎へお母さんの怨みを返しておくれ」

こう云ってしまうと山吹はいかにも安心したようにさも<ruby><rb>平和</rb><rt>やすらか</rt></ruby>に眼をとじた。そうしてそれから二日ばかり活きたが三日目の朝には息絶えていた。

五歳の猪太郎はその日以来全く<ruby><rb>孤児</rb><rt>みなしご</rt></ruby>の身の上となった。しかし彼は寂しくはなかった。猿や狼や鹿や熊が彼を慰めてくれるからである。

こうして彼の生活は文字通り野生的のものとなり、<ruby><rb>食物</rb><rt>くいもの</rt></ruby>と云えば小鳥や<ruby><rb>果実</rb><rt>このみ</rt></ruby>、<ruby><rb>飲料</rb><rt>のみもの</rt></ruby>と云えば谷川の水、そうして冬季餌のない時は寂しい村の人家を襲い、鶏や穀物や野菜などを巧みに盗んで来たりした。

こうしてまたも五年の月日が<ruby><rb>倏忽</rb><rt>しゅっこつ</rt></ruby>として飛び去った。そうして猪太郎は<ruby><rb>十歳</rb><rt>とお</rt></ruby>となったがその体の大きさは十八、九歳の少年よりも<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もっと</span>大きくもあり<ruby><rb>逞</rb><rt>たくま</rt></ruby>しくもあり、その行動の敏活とその腕力の強さとは真に<ruby><rb>眼覚</rb><rt>めざ</rt></ruby>ましいものであった。且つ彼の<ruby><rb>頭脳</rb><rt>あたま</rt></ruby>のよさ！　これも正しく驚くべきもので、まことに彼は窩人の血と城下の人間の血とを継ぎ、荒々しい自然界に育てられたところの不思議な<ruby><rb>生物</rb><rt>いきもの</rt></ruby>と云うべきであったが、この猪太郎こそこの物語すなわち「八ヶ嶽の魔神」というこの物語の主人公なのである。

いでや<ruby><rb>作者</rb><rt>わたし</rt></ruby>は次回においては、この猪太郎の身の上について描写の筆を進めると共に、全然別種の方面に当たって別様の事件を湧き起こさせ、<ruby><rb>波瀾重畳幾変転</rb><rt>はらんちょうじょういくへんてん</rt></ruby>、わが親愛なる読者をして手に汗を握らしめようと思う。

これまで書き<ruby><rb>綴</rb><rt>つづ</rt></ruby>った物語はほんの全体の序曲に過ぎぬ。次回から本題へ入るのである。

高遠城下の巻

一

「先生、いかがでございましょう？　すこしはよろしいのでございましょうか？」

「さよう、よいかも知れませんな」

「よろしくないのでございましょうか？」

「さよう、よくないかも知れませんな」

「では、どちらなのでございましょう？」

「さよう」

と云ったまま返辞をしない。

奥方お石殿は不安そうに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">じっ</span>とその様子を見守っている。それからまたも聞くのであった。

「先生、いかがでございましょう？　すこしはよろしいのでございましょうか？」

「さよう、よろしいかもしれませんな」

「よろしくないのでございましょうか」

「奥！」

と<ruby><rb>良人</rb><rt>おっと</rt></ruby>弓之進は見兼ねて横から口を出した。

「先生には先生のお考えがある。そういつまでもお尋ねするはかえって失礼にあたるではないか」

「はい。失礼致しました」お石はそっと涙を拭き<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つつましく</span><ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>へ膝を<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>けた。

部屋の中がひとしきり<ruby><rb>寂然</rb><rt>しん</rt></ruby>となる。

「ちょっとお耳を……」

と云いながら<ruby><rb>蘭医</rb><rt>らんい</rt></ruby><ruby><rb>北山</rb><rt>ほくざん</rt></ruby>が立ったので続いて弓之進も立ち上がった。二人は隣室へはいって行く。

「あまり奥方がご<ruby><rb>愁嘆</rb><rt>しゅうたん</rt></ruby>ゆえ申し上げ兼ねておりましたが、とても病人は<ruby><rb>癒</rb><rt>なお</rt></ruby>りませんな」

「ははあ、さようでございますかな。<ruby><rb>定命</rb><rt>じょうみょう</rt></ruby>なれば止むを得ぬこと」

「蘭学の方ではこの病気を急性肺炎と申します。今夜があぶのうございますぞ」

「今夜？」とさすがに弓之進も<ruby><rb>胆</rb><rt>きも</rt></ruby>を冷やさざるを得なかった。

「いずれ後刻、再度来診」

こう云って北山の帰った後は火の消えたように寂しくなった。

二人の中の一粒種、十一歳の可愛い盛り、葉之助は大熱に浮かされながら<ruby><rb>昏々</rb><rt>こんこん</rt></ruby>として眠っている。

「もし、ほんとに死にましょうか？」お石はほとんど半狂乱である。

「天野北山は蘭医の大家、<ruby><rb>診察</rb><rt>みたて</rt></ruby>投薬神のような人物、死ぬと云ったら死ぬであろう」弓之進も愁然と云う。

二人は愛児の枕もとからちょっとの間も離れようとはしない。

「それでもあなた、この葉之助は、<ruby><rb>授</rb><rt>さずか</rt></ruby>り<ruby><rb>児</rb><rt>ご</rt></ruby>ではございませぬか」お石は<ruby><rb>咽</rb><rt>むせ</rt></ruby>びながらまた云い出す。「ご一緒になってから二十年、一人も子供が出来ないところから、<ruby><rb>荒神様</rb><rt>あらがみさま</rt></ruby>ではあるけれど、諏訪八ヶ嶽の宗介天狗様へ、申し児をせいと人に勧められ、祈願をかけたその月から不思議に<ruby><rb>妊娠</rb><rt>みごも</rt></ruby>って産み落としたのが、この葉之助ではございませぬか。授り児でございます。その授り児が十や十一でどうして死ぬのでございましょう？　いえいえ死には致しませぬ、いえいえ死には致しませぬ」

お石は畳へ突っ伏した。

すると不意に葉之助がムックリ床の上へ起き上がった。

「代りが来るのだ、代りが来るのだ！　次に来る者はさらに偉い！」

叫んだかと思うとバッタリ<ruby><rb>仆</rb><rt>たお</rt></ruby>れそのまま<ruby><rb>呼吸</rb><rt>いき</rt></ruby>を引き取ってしまった。

こうしてが<ruby><rb>六月</rb><rt>むつき</rt></ruby>が過ぎて行った。

「あなた、元気をお出し遊ばせ」

「奥、お前こそ元気をお出し」

などと夫婦で慰め合うようになった。

「江戸から大歌舞伎が来たそうだ。どうだなお前<ruby><rb>観</rb><rt>み</rt></ruby>に行っては」

「はい、有難う存じます。それより秋になりましたゆえお好きの山遊びにおいで遊ばせ」

「うん、山遊びか、行ってもよいな」

「明日にもお出掛け遊ばすよう」

「北山殿もお好きであった。ひとつ誘って見ようかな」

「それがよろしゅうございます」

そこで使いを立ててみると喜んで<ruby><rb>同行</rb><rt>ゆく</rt></ruby>という返辞であった。

その翌日は<ruby><rb>秋日和</rb><rt>あきびより</rt></ruby>、天高く柿赤く、枯草に虫飛ぶ上天気であった。

まだ日の出ないそのうちから三人の弟子を引き連れて天野北山はやって来た。

「鏡氏、お早うござる」

「北山先生、お早いことで」

双方機嫌よく挨拶する。

若党<ruby><rb>使僕</rb><rt>こもの</rt></ruby>五人を連れ他に犬を一頭曵き、<ruby><rb>瓢</rb><rt>ひさご</rt></ruby>には酒、<ruby><rb>割籠</rb><rt>わりご</rt></ruby>には食物、そして水筒には清水を入れ、弓之進は<ruby><rb>出</rb><rt>い</rt></ruby>で立った。

奥様は玄関へ手をつかえ、

「ごゆっくり」と云って<ruby><rb>頭</rb><rt>つむり</rt></ruby>を下げる。

「奥、それでは行ってくるぞ」

で、一行は門を出た。

間もなく野良路へ差しかかる。ザクザクと立った霜柱、それを踏んで進んで行く。

二

的場、野笹、長藤村、それから目差す鉢伏山だ。

鉢伏山の中腹で一同割籠をひらくことになった。見渡す限りの満山の錦、嵐が<ruby><rb>一度</rb><rt>ひとたび</rt></ruby><ruby><rb>颯</rb><rt>さっ</rt></ruby>と渡るや、それが一度に起き上がり億万の小判でも振るうかのように<ruby><rb>閃々燦々</rb><rt>せんせんさんさん</rt></ruby>と揺れ立つ様はなんとも云われない<ruby><rb>風情</rb><rt>ふぜい</rt></ruby>である。

「よろしゅうござるな」

「いや絶景」

と、弓之進も北山も満足しながら瓢の酒を汲み合った。

その時突然供の者どもが一度にワッと立ち上がった。

「熊！　熊！」と騒ぎ立つ。

「何、熊？」と弓之進は、若党の指差す方角を見ると横手の谷の底に当たって真っ黒の物が<ruby><rb>蠢</rb><rt>うごめ</rt></ruby>いている。いかさま熊に相違ない。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっ</span>と見るまに大熊はこっちを目掛けて駈け上がって来る。

「金吾、弓を！」と弓之進は若党を呼んで弓を取った。名に負う鏡弓之進は、<ruby><rb>高遠</rb><rt>たかとお</rt></ruby>の城主三万三千石内藤<ruby><rb>駿河守</rb><rt>するがのかみ</rt></ruby>の家老の一人、弓は<ruby><rb>雪河流</rb><rt>せっかりゅう</rt></ruby>の<ruby><rb>印可</rb><rt>いんか</rt></ruby>であるが、<ruby><rb>小中黒</rb><rt>こなかぐろ</rt></ruby>の矢をガッチリとつがえキリキリキリと引き絞ったとたん、

「待った待った射っちゃいけねえ！」

鋭い声が聞こえて来た。

何者とばかり放す手を止め声のした方をきっと見ると、ひと<ruby><rb>群</rb><rt>むら</rt></ruby>茂った林の中から<ruby><rb>裸体</rb><rt>はだか</rt></ruby>の壮漢が飛び出して来た。<ruby><rb>信濃</rb><rt>しなの</rt></ruby>の秋は寒いというに腰に毛皮を<ruby><rb>纏</rb><rt>まと</rt></ruby>ったばかり、陽焼けて赤い筋肉を秋天の下に露出させ自然に延ばした<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おどろ</span>の髪を房々と長く肩に垂れ、<ruby><rb>右手</rb><rt>めて</rt></ruby>に握ったは山刀、年はおよそ十七、八、足には<ruby><rb>革草鞋</rb><rt>かわわらじ</rt></ruby>を穿いている。

「<ruby><rb>射</rb><rt>や</rt></ruby>っちゃアいけねえ射っちゃいけねえ！　ここで<ruby><rb>射</rb><rt>や</rt></ruby>られてたまるものか。せっかく<ruby><rb>俺</rb><rt>おい</rt></ruby>らが骨を折って八ヶ嶽から追い出して来た熊だ。<ruby><rb>他人</rb><rt>ひと</rt></ruby>に取られてたまるものか……さあ野郎観念しろ！　いいかげん手数をかけやがって！　猪太郎様の眼を<ruby><rb>眩</rb><rt>くら</rt></ruby>ませうまうま他領へ逃げようとしたってそうは問屋でおろさねえ！」

<ruby><rb>詈</rb><rt>ののし</rt></ruby>り詈り熊を追い、追い<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>ったと思ったとたんパッと背中へ飛び乗った。

「オーッ」と熊も一生懸命、後脚で立って振り落とそうとする。

「どっこいどっこいそうはいかねえ！　これでも喰らって<ruby><rb>斃</rb><rt>くたば</rt></ruby>りゃあがれ！」

キラリ山刀が<ruby><rb>閃</rb><rt>ひらめ</rt></ruby>いたかと思うと<ruby><rb>月</rb><rt>つき</rt></ruby>の<ruby><rb>輪</rb><rt>わ</rt></ruby>の辺から真っ赤な血が滝のように<ruby><rb>迸</rb><rt>ほとばし</rt></ruby>った。

「オーッ」と熊はまた吠えたがこれぞ断末魔の叫びであったかドタリと横へ転がった。

「どうだ熊公驚いたか。一度俺に睨まれたが最後トドの詰まりはこうならなけりゃならねえ。アッハハハ、いい気持ちだ。どれ皮でも<ruby><rb>剥</rb><rt>は</rt></ruby>ごうかい」

熊の死骸を仰向けに蹴り返しその前へむずと膝を突くとブッツリ月の輪へ山刀を刺した。と、その時、どうしたものか<ruby><rb>俄然</rb><rt>がぜん</rt></ruby>空を仰いだが、

「お母様！」

と一声叫ぶとそのままグッタリ仆れてしまった。

余り見事な格闘振りに弓之進や北山を初めとし弟子若党<ruby><rb>使僕</rb><rt>こもの</rt></ruby>までただ茫然と眺めていたがこの時バラバラと駈け寄った。

「北山殿、脈を早く！」

「心得たり」と北山は若者の手首をぐいと握ったが、

「大丈夫、脈はござる」

「それで安心。よい<ruby><rb>塩梅</rb><rt>あんばい</rt></ruby>じゃ」

「あまりに精神を感動させその結果気絶をしたのでござるよ」

「手当の必要はござらぬかな？」

「このままでよろしい大丈夫でござる。や！　なんだ！　この<ruby><rb>痣</rb><rt>あざ</rt></ruby>は！」

云いながら北山は若者の手をグイと前へ引き寄せた。いかさま右の二の腕に上下<ruby><rb>判然</rb><rt>はっき</rt></ruby>り二十枚の歯形が<ruby><rb>惨酷</rb><rt>むごたら</rt></ruby>しく付いている。

「人間の歯ではござらぬかな？」

「さよう、人間の歯でござる」

この時、気絶から<ruby><rb>甦</rb><rt>よみがえ</rt></ruby>ったと見え、若者はにわかに動き出した。まず真っ先に眼をあけて<ruby><rb>四方</rb><rt>あたり</rt></ruby>を不思議そうに見廻したが、

「ああ恐ろしい夢を見た」

こう云うとムックリ起き上がった。それから弓之進を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">じっと</span>見た。その<ruby><rb>逞</rb><rt>たくま</rt></ruby>しい顔の<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>へ歓喜の情があらわれたと思うと突然若者は両手を延ばし、

「お父様！」

と呼んだものである。それからまたも気を失い、熊の死骸へ<ruby><rb>倚</rb><rt>よ</rt></ruby>りかかった。

この時、<ruby><rb>忽然</rb><rt>こつぜん</rt></ruby>弓之進は、<ruby><rb>以前</rb><rt>まえかた</rt></ruby>死んだ葉之助が、「代りが来るのだ！　代りが来るのだ！　次に来る者はさらに偉い！」と<ruby><rb>末期</rb><rt>いまわ</rt></ruby>に臨んで叫んだことを<ruby><rb>偶然</rb><rt>ゆくりなく</rt></ruby>も思い出した。

「うむ、そうか！　こいつだな！」

……ポンと膝を叩いたものである。

翌年の秋、鏡家へ飯田の城下から養子が来た。

堀<ruby><rb>石見守</rb><rt>いわみのかみ</rt></ruby>の剣道指南南条右近の三男で<ruby><rb>同苗</rb><rt>どうみょう</rt></ruby><ruby><rb>右三郎</rb><rt>うさぶろう</rt></ruby>というのであったが、鏡家へ入ると家憲に従い葉之助と名を改めた。

三

「鏡家の養子葉之助殿は十二歳だということであるが一見十八、九に見えますな」

家中の若侍達寄るとさわると葉之助の噂をするのであった。

「ノッソリとしてズングリとしてまるで<ruby><rb>独活</rb><rt>うど</rt></ruby>の大木だ」

などと悪口する者もある。

「ノッソリの方は当たっているがズングリの方はちと<ruby><rb>相応</rb><rt>そぐ</rt></ruby>わぬ。どうしてなかなか美少年だ」

なあんて中には<ruby><rb>褒</rb><rt>ほ</rt></ruby>めるものもある。

「ところでどうだろう剣道の方は？」

「無論駄目駄目。<ruby><rb>大下手</rb><rt>おおへた</rt></ruby>とも」

「いやいやまんざらそうでもあるまい。飯田の南条右近というは小野派一刀流では使い手だそうだ。その方の三男とあって見れば<ruby><rb>見下</rb><rt>みくだ</rt></ruby>すことは出来ないではないか」

「論より証拠立ち合ったら解る」

「いやいや相手はご家老のご養子、<ruby><rb>無下</rb><rt>むげ</rt></ruby>に道場へ引っ張って行って打ち<ruby><rb>据</rb><rt>す</rt></ruby>えることもなりがたい」

「武芸には身分の高下はない」

「しかし相手はまだ子供だ、十二歳だというではないか。我々は立派な壮年でござる」「と云ってあの仁とて十八、九には、充分見えるではござらぬか」「たとえ<ruby><rb>幾歳</rb><rt>いくつ</rt></ruby>に見えようと年はやはり年でござる」「よろしいそれでは注意して柔かく<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あしらって</span>やりましょう」「さようさ、それならよろしかろう」

ある日、これらの若侍どもが、立川町に立っている<ruby><rb>中条流</rb><rt>ちゅうじょうりゅう</rt></ruby>の道場でポンポン<ruby><rb>稽古</rb><rt>けいこ</rt></ruby>をやっていた。主人の松崎清左衛門はきわめて温厚の人物であったがちょうど所用で留守のところから、代稽古の石渡三蔵が上段の間に控えていた。

通りかかったのが葉之助で、若党の倉平を供に連れ、ふと武者窓の前まで来ると小気味のよい<ruby><rb>竹刀</rb><rt>しない</rt></ruby>の音がする。

「ちょっと待て倉平」

と声をかけて置いて<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひょい</span>と窓から覗いていた。

早くも見付けた若侍ども、「おや」と一人が<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>くと、「うん」と一人がすぐに応じる。バラバラと二、三人飛び出して来た。

「これはこれは葉之助殿、そこでは充分に見えません。<ruby><rb>内</rb><rt>なか</rt></ruby>にはいってご覧ください」

「さあさあ内へ、さあさあ内へ」

まるで車掌が電車の中へ客を追い込もうとするかのようにむやみに内へを連発する。

「これはどうもとんだ失礼、覗きましたは私の<ruby><rb>誤</rb><rt>あやま</rt></ruby>り、なにとぞご勘弁くださいますよう」葉之助はテレて謝った。

「いやいやそんな事は何んでもござらぬ。ポンポン竹刀の音がすればつい覗きたくもなりますからな。外からでは充分見えません。内へはいってゆっくりと」

「それにこれまで駈け違いしみじみ<ruby><rb>御意</rb><rt>ぎょい</rt></ruby>を得ませんでした。今日はめったに逃がすことではない」

「おい近藤何を云うんだ」白井というのが注意する。

「何はともあれおはいりくだされ」

「倉平、どうしたものだろうな？」

「若旦那、お帰りなさいませ」事態<ruby><rb>剣呑</rb><rt>けんのん</rt></ruby>と思ったので主人を連れて帰ろうとする。

そこへまたもや二、三人若侍どもが現われた。

「葉之助殿ではござらぬか。これはこれは珍客珍客！　近藤、白井、何をしている。早く葉之助殿をご案内せい」

「何んとでござる葉之助殿、おはいりくだされおはいりくだされ」

「せっかくのお勧め拝見しましょう」

「しめた！」「おい！」「ハハハ」

そこで葉之助はノッソリと道場の内へはいって行く。

「おい、はいって行くぜはいって行くぜ」

「可哀そうに殴られるともしらず」「知らぬが仏という奴だな」「それにしても大きいなあ」「十二とは思われない」「十九、二十、二十一、二には見える」「随分力もありそうだぞ」「あの力で<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みっちり</span>殴られたら」「そりゃ随分に痛かろうさ」

そろそろ<ruby><rb>怖気</rb><rt>おぞけ</rt></ruby>を<ruby><rb>揮</rb><rt>ふる</rt></ruby>う奴もある。

葉之助の姿がノッソリと道場の中へ現われると、集まっていた門弟どもまたひとしきり噂をした。よせばよいのに気の毒な――こう思う者も多かったが<ruby><rb>大勢</rb><rt>たいせい</rt></ruby>いかんともしがたいので苦い顔をして控えている。

「こちらへこちらへ」と云いながら、白井というのが案内した席は皮肉千万にも<ruby><rb>正座</rb><rt>しょうざ</rt></ruby>であった。すなわち稽古台の横手である。

「これはご師範でござりますか」葉之助は<ruby><rb>初々</rb><rt>ういうい</rt></ruby>しく<ruby><rb>恭</rb><rt>うやうや</rt></ruby>しく石渡三蔵へ一礼し、「私、鏡葉之助、お見知り置かれくだされますよう。また本日はお稽古中お<ruby><rb>邪魔</rb><rt>じゃま</rt></ruby>にあがりましてござります」

「おお鏡のご養子でござるか」

<ruby><rb>煙草</rb><rt>たばこ</rt></ruby>の煙りを口からフワリ……これが三蔵の<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>である。さすが代稽古をするだけに腕前は<ruby><rb>勝</rb><rt>すぐ</rt></ruby>れてはいたものの、その腕前を鼻にかけ、<ruby><rb>且</rb><rt>か</rt></ruby>つ<ruby><rb>旋毛</rb><rt>つむじ</rt></ruby>の曲がった男、こんな挨拶もするのであった。

あちこちでクスクス笑う声がする。

四

しかし葉之助は気にも掛けず端然と坐って膝に手を置いた。それからジロリと構内を見る。どうして<ruby><rb>沈着</rb><rt>おちつ</rt></ruby>いたものである。

葉之助が現われるとほとんど同時にバタバタと稽古は止めになったので、構内には竹刀の音もない。変に間の抜けた様子であったが、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つと</span>進み出たのは近藤<ruby><rb>司気太</rb><rt>しきた</rt></ruby>、

「鏡氏、一本お稽古を」

「いや」と葉之助は言下に云った。「二、三本どうぞお見せくだされ」

「へへえ、さようで」

と近藤司気太妙な顔をして引っ込んだが、これは正に当然である。ご覧なされと引っ張り込んで置いて誰も一本も使わないうちに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">さあ</span>立ち合えと云うのであるからポンと蹴るのは理の当然だ。

「偉いぞさすがは鏡家の養子」葉之助<ruby><rb>贔屓</rb><rt>びいき</rt></ruby>の連中は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">さもこそ</span>とばかり<ruby><rb>溜飲</rb><rt>りゅういん</rt></ruby>を下げた。

「ふん、チョビスケの近藤め、出鼻から赤恥をかかされおって」

しかし一方若侍どもは悠々<ruby><rb>逼</rb><rt>せま</rt></ruby>らざる葉之助の態度を<ruby><rb>面憎</rb><rt>つらにく</rt></ruby>いものに思い出した。

「誰か出て二、三本使ったらどうだ」

「しからば拙者」「しからば<ruby><rb>某</rb><rt>それがし</rt></ruby>」

五組あまりバラバラと出た。

「お面」「お胴」「参った」「まだまだ」

ポンポンポンポン打ち合ったが<ruby><rb>颯</rb><rt>さっ</rt></ruby>とばかりに引き退いた。

「おい近藤、行ってみるがいい」

「あいよあいよ」と<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>な奴またノコノコ出かけて行き、「鏡氏、一本お稽古を」

「アッハハハハ」と大きな声で突然葉之助は笑い出した。

近藤司気太驚くまいことか！　眼ばかりパチクリ<ruby><rb>剥</rb><rt>む</rt></ruby>いたものである。

「剣術のお稽古とは見えませぬな。まるで<ruby><rb>十二月</rb><rt>ごくげつ</rt></ruby>の<ruby><rb>煤掃</rb><rt>すすはら</rt></ruby>いのようで、アッハハハ」とまた笑ったが、

「真剣のお稽古拝見したいもので」

「へへえ、さようで」と器量の悪い話、近藤司気太引き退ったが、「いけねえいけねえ拙者は止めだ。どうも俺には苦手と見える」

「<ruby><rb>生意気至極</rb><rt>なまいきしごく</rt></ruby>、その儀なれば」と、若侍ども本気で怒り十組ばかりズカズカと進み出たが、<ruby><rb>烈</rb><rt>はげ</rt></ruby>しい稽古が行われた。それが済むと白井誠三郎ツカツカ葉之助の前へ行き、

「あいや鏡氏、葉之助殿、ご迷惑でござりましょうが、<ruby><rb>承</rb><rt>うけたま</rt></ruby>わりますれば貴殿には小野派一刀流、ご鍛錬とか。一同の<ruby><rb>希望</rb><rt>のぞみ</rt></ruby>にもござりますれば一手ご教授にあずかりたく、いかがのものにてござりましょうや」

「本来私はこの場にはお稽古拝見に上がりましたもの、仕合の儀は幾重にも辞退致さねばなりませぬが剣道は私も好むところ、且つは再三のお勧めもあり……」

「それではお立ち合いくださるか？」

「未熟の腕ではござりまするが……」

「それは千万<ruby><rb>忝</rb><rt>かたじ</rt></ruby>けない」

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">してやったり</span>とニタリと笑い、「して打ち物は？」

「短い竹刀を……」

「しからばご随意にお選びくだされ」

ワッと一同これを聞くと思わず声を上げたほどである。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つと</span>立ち上がった葉之助はわずか一尺二寸ばかりの短い竹刀を手に握ると<ruby><rb>仕度</rb><rt>したく</rt></ruby>もせず進み出た。

「あいや鏡氏、お仕度なされ」

見兼ねたものかこの時初めて石渡三蔵が声を掛けた。

「私、これにて充分にござります」

「面も胴も必要がない？」

「一家中ではござりまするが流儀の相違がござります。他流試合真剣勝負、この意気をもって致します覚悟……」

「ははあさようかな。いやお立派じゃ……ええとしからば白井氏も、面胴取って立ち合いなされ」

「これはどうも<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">めんどう</span>なことで」

白井誠三郎不承不承に面や胴を脱いだものの、ここで三分の恐れを抱いた。

居流れていた門弟衆も、これを聞くと眼を見合わせた。

「何んと思われるな佐伯氏？　この試合どう見られるな？」「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひょっと</span>するとアテが外れますぞ。相手の勢いがあまりに強い」「<ruby><rb>藪</rb><rt>やぶ</rt></ruby>をつついて蛇を出したかな」

葉之助贔屓の連中はこれに反して大喜びだ。

「見ておいでなされ白井誠三郎、<ruby><rb>一堪</rb><rt>ひとたま</rt></ruby>りもなくやられますぜ」「全体あいつら生意気でござるよ。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こっぴどい</span>目に合わされるがよい」

「静かに静かに、構えましたよ」

「どれどれ、なるほど、青眼ですな……おや白井め振り冠りましたな」

「葉之助殿の位取り、なかなか立派ではござらぬか。あれがヒラリと変化すると白井誠三郎<ruby><rb>刎</rb><rt>は</rt></ruby>ね飛ばされます」

五

今や葉之助は中段に付けて、相手の様子を<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>ったが問題にも何んにもなりはしない。で、葉之助は考えた。

「かまうものか、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひっぱたいて</span>やれ」

トンと竹刀を八相に開く。誘いの隙でも何んでもない。まして本当の隙ではない。それにもかかわらず誠三郎は、「ヤッ」と一声打ち込んで来た。右へ開いて、<ruby><rb>入身</rb><rt>いりみ</rt></ruby>になり右の肩を<ruby><rb>袈裟掛</rb><rt>けさが</rt></ruby>けに軽く。そうして置いてグルリと廻り、

「小野派一刀流五点の序、脇構えより敵の肩先ケサに払って妙剣と申す！」

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ちゃあん</span>と手口を説明したものだ。鮮かとも何んとも云いようがない。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひっぱたいて</span>置いて<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひっぱたいた</span>順序を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひっぱたいた</span>人間が説明する。もうこれ以上はない<ruby><rb>筈</rb><rt>はず</rt></ruby>である。

「参った」

と誠三郎は声を掛けたが、声を掛けるにも及ばない話。<ruby><rb>溜</rb><rt>たま</rt></ruby>りへコソコソと退いた。

「わっ！」とどよめきが起こったが、拍子抜けのしたどよめきである。

「山田左膳。お相手<ruby><rb>仕</rb><rt>つかまつ</rt></ruby>る！」

「心得ました。お手柔かに」

ピタリと二人は睨み合った。左膳は<ruby><rb>目録</rb><rt>もくろく</rt></ruby>の腕前である。しかし葉之助には弱敵だ。「かまうものか。やっつけろ。ええと今度は絶妙剣、そうだこいつで片付けてやれ」

形が変わると下段に構えた。誘いの隙を左肩へ見せる。

「ははあこの隙は誘いだな」<ruby><rb>切紙</rb><rt>きりかみ</rt></ruby>の白井とは少し違う。見破ったから動かない。はたして隙は消えてしまった。と、今度は右の肩へチラリと破れが現われた。

「エイ！」と一声。それより早く、一足飛びこんだ葉之助、ガッチリ受けて<ruby><rb>鍔元</rb><rt>つばもと</rt></ruby><ruby><rb>競</rb><rt>せ</rt></ruby>り合い、ハッと驚くその呼吸を逆に刎ねて体当り！　ヨロヨロするところを腰車、<ruby><rb>颯</rb><rt>さっ</rt></ruby>と払って横へ抜け、

「小野派一刀流五点の二位、下段より仕掛け隙を見て肩へ来るを鍔元競り合い、体当りで<ruby><rb>崩</rb><rt>くだ</rt></ruby>き後は自由、絶妙剣と申し<ruby><rb>候</rb><rt>そうろう</rt></ruby>！」

またも<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ちゃあん</span>と説明されたものだ。

「参った！」これも紋切り型。

今度は誰も笑わなかった。人々はちょっと凄くなった。二太刀を合わせたものはない。実に葉之助の強さ加減は人々の度胆を抜くに足りる。

「天晴れの腕前感心致してござる。未熟ながら拙者がお相手」

こう云ったのは石渡三蔵で、上段の間からヒラリと下りると壁にかけてあった<ruby><rb>赤樫</rb><rt>あかがし</rt></ruby>の木剣、<ruby><rb>手練</rb><rt>てだれ</rt></ruby>が使えば真剣にも劣らず人の命を取るという<ruby><rb>蛤刃</rb><rt>はまぐりば</rt></ruby>の太長いのをグイと握って前へ出た。

「拙者木剣が得意でござればこれをもってお相手致す。貴殿もご随意にお取りくだされい」

「いえ、私は、これにて結構」

「ほほう、短いその竹刀でな？」

「はい」と云ってニッと笑う。

「さようッ」と云ったが憎々しく、「拙者の仕合振り、荒うござるぞ！」

「はい、充分においでくだされ」

「ふん」と三蔵は鼻で笑い、「いざ！」

と云って木剣を下ろした。

「いざ」と葉之助も竹刀を下ろす。一座<ruby><rb>森然</rb><rt>しいん</rt></ruby>と声もない。

とまれ三蔵は免許の腕前、血気盛んの三十八歳、代稽古をする身分である。いかに葉之助が巧いと云っても年齢ようやく十二歳、年の相違だけでも<ruby><rb>甚</rb><rt>はなは</rt></ruby>だしい。それを木剣であしらうとは？

「<ruby><rb>大人気</rb><rt>おとなげ</rt></ruby>ござらぬ石渡氏、おやめなされおやめなされ！」

と、二、三人の者が声を掛けたが、<ruby><rb>既</rb><rt>すで</rt></ruby>にその時は立ち上がっていた。「もういけない！」と<ruby><rb>呼吸</rb><rt>いき</rt></ruby>を呑む。

双方ピッタリ<ruby><rb>合青眼</rb><rt>あいせいがん</rt></ruby>、相手の眼ばかり睨み付ける。

「うん、どうやら少しは出来る」葉之助は呟いた、「が俺には小敵だ」

「エイ！」

と珍らしく声をかけ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つと</span>一足前へ出た。

「ヤッ！」

と三蔵も声をかけたが<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つと</span>一足<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>へ引いた。

双方無言で睨み合う。

「さて、どうしたものだろうな。思い切って打ち込むかとにかく相手は代稽古、俺に負けては<ruby><rb>気不味</rb><rt>きまず</rt></ruby>かろう。と云ってこっちも負けられない。ええ構うものか<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひっぱたいて</span>やれ。エイ！」

と云って一足進む。「ヤッ」と云って一足下がる。「エイ！」「ヤッ」「エイ！」「ヤッ」

押され押されて三蔵はピッタリ羽目板へ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">へばりついて</span>しまった。額からはタラタラ汗が流れる。ぼーッと眼の前が霞んで来た。ハッハッハッと<ruby><rb>呼吸</rb><rt>いき</rt></ruby>も荒い。

当たって砕けろ！　と三蔵は、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うん</span>と<ruby><rb>諸手</rb><rt>もろて</rt></ruby>で突いて出た、そこを小野派の<ruby><rb>払捨刀</rb><rt>ふっしゃとう</rt></ruby>、ピシッと横から払い上げ、体の崩れへ付け込んで、真の真剣で<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>へ<ruby><rb>発止</rb><rt>はっし</rt></ruby>！

「カーッ」

ととたんにどこからともなく物凄い気合が掛かって来た。

六

アッと驚いた葉之助、一足後へ引き退がる。そこを狙って石渡三蔵左の肩を真っ向から……

「遅い！」

とまた同じ声がどこからともなく響いて来た。

「勝負なし！」

と声は続く。

その時正面の切り戸から悠然と立ち出でた小兵の人物、年格好は五十五、六、木綿の紋付に<ruby><rb>黄平</rb><rt>きひら</rt></ruby>の<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>、<ruby><rb>左手</rb><rt>ゆんで</rt></ruby>に一刀を引っさげてスッスッと<ruby><rb>刻</rb><rt>きざ</rt></ruby>み足に進んで来る。

「石渡氏、何事でござる！　子供を相手に木剣の立ち合い、不都合千万、控えさっしゃい！　あいや鏡葉之助殿、拙者は松崎清左衛門、当道場の<ruby><rb>主人</rb><rt>あるじ</rt></ruby>でござる。お幼年にもかかわらず驚き入ったるお手のうち、いざこれよりは拙者お相手、お下がりあるな下がってはならぬ」

大小を置くと<ruby><rb>鉄扇</rb><rt>てっせん</rt></ruby>を握り、<ruby><rb>場</rb><rt>じょう</rt></ruby>の真ん中へ突っ立った。

場内シーンと静まり返り<ruby><rb>咳</rb><rt>しわぶき</rt></ruby>一つするものはない。武者窓から射し込む陽の光。それさえ妙に澄み返っている。

葉之助もさすがに顔色を変えた。

名に負う松崎清左衛門といえば当時日本でも一流の剣客、<ruby><rb>彼</rb><rt>か</rt></ruby>の将軍家お手直し役浅利又七郎と立ち合って互角無勝負の成績を上げ、<ruby><rb>男谷下総守</rb><rt>おだにしもうさのかみ</rt></ruby>と戦っては三本のうち二本取り、さらに老後に至っては、北辰一刀流を編み出した千葉周作を向こうへ廻し、羽目板へまで押し付けてしまった。名利に<ruby><rb>恬淡</rb><rt>てんたん</rt></ruby>出世を望まず、そのため田舎へ引っ込んではいるが剣客中での<ruby><rb>臥竜</rb><rt>がりょう</rt></ruby>である。

今その人が鉄扇を構え、さあ来い来たれと云うのである。いかに葉之助が小天狗でもこれには圧倒されざるを得ない。

しかし今さら逃げも出来ぬ。

「先生ご免」

と竹刀を握り、小野派における万全の構え、<ruby><rb>両捨一用卍</rb><rt>りょうしゃいちようまんじ</rt></ruby>に付けた。

「ははあ感心、守勢に出たな」

清左衛門は<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>きながら東軍流<ruby><rb>無反</rb><rt>むそり</rt></ruby>の構え、鉄扇を立てずに真っ直ぐに突き出し<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">じっ</span>と様子を<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>った。

「エイ！」

と一つ誘って見る。葉之助は動かない。

「ははあ、益〻堅くなったな……うむ、それにしても偉い覇気だ。構えを内から突き崩そうとしている。待てよ。ふうむ、これは驚いた。産まれながらの殺気がある。どうもこいつは<ruby><rb>剣呑</rb><rt>けんのん</rt></ruby>だ。エイ！」

とまたも誘ってみたがやはり<ruby><rb>凝然</rb><rt>じっ</rt></ruby>と動かない。

清左衛門は一歩進んだ。と葉之助は一歩下がる。間。じっとして動かない。と葉之助は一歩進んだ。と清左衛門が一歩退く。

「偉い。俺を押し返しおる。どうも恐ろしい向こう意気だ、しかも守勢を持ち<ruby><rb>耐</rb><rt>こた</rt></ruby>えている。まごまごすると打ち込まれるぞ……これが十二の少年か？　いや全く恐ろしい話だ。産まれながらの武辺者。まずこうとでも云わずばなるまい……とは云え余りに野性が多い。いわゆる磨かぬ宝玉じゃ……南条右近の三男と云うがこれは少々<ruby><rb>眉唾物</rb><rt>まゆつばもの</rt></ruby>だ。都育ちの<ruby><rb>室咲</rb><rt>むろざ</rt></ruby>き剣術、なかなかもってそんなものではない……山から切り出した石材そっくり恐ろしく荒い剣法じゃ……そろそろ<ruby><rb>呼吸</rb><rt>いき</rt></ruby>が荒くなって来たぞ、あまりに神気を<ruby><rb>凝</rb><rt>こ</rt></ruby>らし過ぎどうやらこれは<ruby><rb>悶絶</rb><rt>もんぜつ</rt></ruby>しそうだ。参った！」と云って鉄扇を引いた。

「はっ」と驚いた葉之助、トントンと二足前へ出たが、「参りましてござります！」

「前途有望、前途有望、将来益〻お励みなされ！」

「はい、有難う存じます」葉之助は汗を拭く。

「誰に<ruby><rb>従</rb><rt>つ</rt></ruby>いて学ばれたな？」

「はい、父右近に従きまして」

「ははあ、そうしてそれ以外には？」

「師は父だけにござります」

「それは不思議、しかとさようかな？」

「何しに<ruby><rb>偽</rb><rt>いつわ</rt></ruby>りを申しましょう」

「それにしては<ruby><rb>解</rb><rt>げ</rt></ruby>せぬことがある」

清左衛門は首を捻った。

「未熟者ではござりまするが、今日よりご門弟にお加えくだされませ」

「いや」と、不思議にも清左衛門は、それを聞くと冷淡に云った。「少しく存ずる<ruby><rb>旨</rb><rt>むね</rt></ruby>もあれば、門に加えることなり兼ねまする」

「……存ずる旨？　存ずる旨とは？」葉之助は<ruby><rb>気色</rb><rt>けしき</rt></ruby>ばんだ。

「存ずる旨とは、読んで字の如しじゃ」

七

「葉之助、ちょっと参れ……聞けばお前は立川町の松崎道場で大勢を相手に腕立てしたと云うことであるが、よもや本当ではあるまいな？」

「は……本当でございます」

「なぜそのようなことをしたか」

「止むを得ない仕儀に立ち至りまして……」

「止むを得ない仕儀？　どういう訳かな？」

「あらかじめ<ruby><rb>企</rb><rt>たくら</rt></ruby>んだものと見え、道場の前へ差しかかりますと、ご門弟衆バラバラと立ち出で、無理<ruby><rb>無態</rb><rt>むたい</rt></ruby>に私を連れ込み、是非にと試合を望みましたれば……」

「おおさようか、是非に及ばぬの……噂によれば近藤、白井、山田等という門弟衆を、苦もなく打ち込んだということだが？」

「はい、相手が余り弱く……」

「うん、それで勝ったというか」

「つい勝ちましてございます」

「松崎殿とも立ち合ったそうだの」

「一手ご指南にあずかりました」

「松崎殿はお強いであろうな」

「まるで<ruby><rb>鬼神</rb><rt>きじん</rt></ruby>でござります」

「そうであろうとも、あのお方などは<ruby><rb>古</rb><rt>いにしえ</rt></ruby>の剣聖にも勝るとも劣らぬ、立派な腕前を持っておられる」

「ほとほと驚嘆致しました」

「お前の<ruby><rb>技倆</rb><rt>うで</rt></ruby>も立派なものだな」

「いえ、お恥ずかしゅう存じます」

「さすがはご親父南条殿は小野派一刀流では天下の名人、松崎殿にも劣るまいが、その三男に産まれただけあって十二歳の小腕には過ぎた<ruby><rb>技倆</rb><rt>うでまえ</rt></ruby>、私も嬉しく頼もしく思う」

「お褒めにあずかり、有難う存じます」

「しかし天下には名人も多い」

「は、さようでございます」

「決して慢心致してはならぬ」

「慢心は<ruby><rb>愚</rb><rt>おろ</rt></ruby>か、今後は益〻、勉強致す<ruby><rb>意</rb><rt>つも</rt></ruby>りにござります」

「他人との立ち合いも無用に致せ」

「心得ましてござります」

「負ければ恥、勝てば怨まれる、腕立てせぬが安全じゃ」

「<ruby><rb>仰</rb><rt>おお</rt></ruby>せの通りにござります」

「松崎道場でのお前の振る舞い、家中もっぱら評判じゃ」

「恐縮の至りに存じます」

「今のところお前の方が評判もよければ同情者も多い」

「ははあさようでございますか」

「評判がよいとて油断は出来ぬ」

「いかにも油断は出来ませぬ」

「よい評判は悪くなりたがる」

「お言葉通りにござります」

「落ちた評判は取り返し<ruby><rb>悪</rb><rt>にく</rt></ruby>い」

「落とさぬよう致したいもので」

「そこだ」

と弓之進は膝を打った。

「よく気が付いた。そうなくてはならぬ。ついては今後は<ruby><rb>白痴</rb><rt>ばか</rt></ruby>になれ」

「は？」

と云って葉之助は思わずその眼を見張ったものである。

「今後は白痴になりますよう」

弓之進は再びこう云うと<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">じっ</span>と葉之助を見守った。

「どうだ葉之助、まだ解らぬかな？」

「お言葉は解っておりますが……」

「うむ、その意味が解らぬそうな。それでは一つ例を引こう。武士の<ruby><rb>亀鑑</rb><rt>きかん</rt></ruby>大石良雄は<ruby><rb>昼行灯</rb><rt>ひるあんどん</rt></ruby>であったそうな」

「お父上！　ようやく解りました！」

「おお解ったか。それは<ruby><rb>重畳</rb><rt>ちょうじょう</rt></ruby>」

「私昼行灯になりましょう」

「ハッハハハ、昼行灯になれよ」

「きっとなってお目にかけます」

「昼の行灯は馬鹿気たもの、人は笑っても憎みはしない」

「<ruby><rb>御意</rb><rt>ぎょい</rt></ruby>の通りにござります」

「我が家は内藤家の二番家老、門地高ければ憎まれ<ruby><rb>易</rb><rt>やす</rt></ruby>い。お前の性質は鋭ど過ぎ、これまた敵を作り易い。それを避けるには昼行灯に限る」

「昼行灯に限ります」

「お、<ruby><rb>白痴</rb><rt>ばか</rt></ruby>になれよ白痴になれよ」

その時襖が静かに開いて、茶を捧げたお石殿が部屋の中へはいって来た。

「<ruby><rb>徒然</rb><rt>つれづれ</rt></ruby>と存じお茶を<ruby><rb>淹</rb><rt>い</rt></ruby>れました」

「お母様」

と葉之助は、甘えた声で呼んだかと思うと、足を投げ出し横になった。「お菓子くだされお菓子くだされ！」

腕を延ばすと菓子鉢の菓子をやにわに摘んで頬張った。

「まあこの子は」

とお石は驚き、「<ruby><rb>平素</rb><rt>いつも</rt></ruby>に似ない行儀の悪さ、お前<ruby><rb>白痴</rb><rt>ばか</rt></ruby>におなりだね」

「アッハハハ、その<ruby><rb>呼吸</rb><rt>いき</rt></ruby><ruby><rb>呼吸</rb><rt>いき</rt></ruby>！」

弓之進は手を<ruby><rb>拍</rb><rt>う</rt></ruby>った。

「これで我が家も葉之助もまずは安全というものじゃ。めでたいめでたい！　アッハハハ」

八

内藤駿河守正勝は初老を過ごすこと五つであったが、性<ruby><rb>濶達</rb><rt>かったつ</rt></ruby>豪放で、しかも<ruby><rb>仁慈</rb><rt>じんじ</rt></ruby>というのだから名君の部に属すべきお方、しかし、欠点は豪酒にあった。今日も酒々、明日も酒……こう云ったような有様である。

ある日弓之進が<ruby><rb>伺候</rb><rt>しこう</rt></ruby>すると、

「そちの養子葉之助、今年十二の弱年ながら珍らしい武道の達人の由、部屋住みのまま百石を取らせる、早々殿中へ差し出すよう、<ruby><rb>近習</rb><rt>きんじゅう</rt></ruby>として召し使い<ruby><rb>遣</rb><rt>つか</rt></ruby>わす」

「これはこれは分に過ぎたる有難きご<ruby><rb>諚</rb><rt>じょう</rt></ruby>ではござりますが、葉之助儀は脳弱く性来いささか白痴にござりますれば……」

「これこれ弓之進、<ruby><rb>痴</rb><rt>たわ</rt></ruby>けたことを申すな！」

濶達の性質を<ruby><rb>露出</rb><rt>まるだ</rt></ruby>しにして駿河守は怒鳴るように云った。

「性来白痴の葉之助が、近藤司気太、白井誠三郎、山田左膳というような武道自慢の若者どもを打ち込むほどの<ruby><rb>技倆</rb><rt>うでまえ</rt></ruby>になれるか！」

「恐らく怪我勝ちにござりましょう」

「石渡頼母の三男などは代稽古の技倆ということだが、葉之助とは段違いだそうだ。そんな白痴なら白痴結構。是非明日より出仕をさせろ」

こう云われてはしかたがない。それに有難いご諚である。弓之進はお受けをした。

で、翌日から葉之助はご前勤めをすることになった。

艶々した前髪立ち、年は十二というけれど一見すれば十八、九、鼻高く眼涼しく、美少年であって<ruby><rb>且</rb><rt>か</rt></ruby>つ<ruby><rb>凛々</rb><rt>りり</rt></ruby>しい眼の配り方足の運び方、武道の精髄に食い入ったものである。

「何んのこれが白痴なものか」

駿河守は一眼見るとひどく葉之助が気に入った。

しかし葉之助は往々にして度外れた事をするのであった。例えばご前で足を延ばしたり、歩きながら居睡りをしたり、突然大きな<ruby><rb>欠伸</rb><rt>あくび</rt></ruby>をしたり、そうしていつも用のない時にはうつらうつらと眼をとじて、よく云えば無念無想、悪く云えば<ruby><rb>茫然</rb><rt>ぼんやり</rt></ruby>していた。

「武道の<ruby><rb>麒麟児</rb><rt>きりんじ</rt></ruby>と思ったに葉之助殿はお人好しだそうだ」「食わせ物だ食わせ物だ」

「ぼんやりとしてノッソリとして、ヌッと立っている<ruby><rb>塩梅</rb><rt>あんばい</rt></ruby>は<ruby><rb>独活</rb><rt>うど</rt></ruby>の大木というところだ」

「何をやっても一向冴えない。ボーッとしたところは昼の<ruby><rb>行灯</rb><rt>あんどん</rt></ruby>かな」

「昼行灯昼行灯、よい、これはよい<ruby><rb>譬喩</rb><rt>たとえ</rt></ruby>じゃ」

「昼行灯様！　昼行灯様！」

朋輩どもは葉之助の事を間もなく昼行灯と<ruby><rb>綽名</rb><rt>あだな</rt></ruby>した。

「はてな？」

と駿河守は首を傾げた。「あれほど利口な葉之助が、時々心を取り失うとはちょっとどうも受け取れないことだ。事実脳が弱いのかそれとも<ruby><rb>明哲保全</rb><rt>めいてつほぜん</rt></ruby>の策か？　……これは一つ試して見よう」

ある日にわかの殿の仰せで、弓射の試合を始めることになった。

駿河守は馬に乗り近習若侍を後に従え、矢場を指して走らせて行く。

矢場には<ruby><rb>既</rb><rt>すで</rt></ruby>に弓道師範<ruby><rb>日置</rb><rt>へき</rt></ruby>流に掛けては、相当名のある佐々木源兵衛が詰めかけていたが、殿のお<ruby><rb>出</rb><rt>い</rt></ruby>でと立ちいでて<ruby><rb>恭</rb><rt>うやうや</rt></ruby>しく式礼した。

「おお源兵衛か今日はご苦労」駿河守は頷いたが、「すぐに<ruby><rb>射手</rb><rt>いて</rt></ruby>に取りかかるよう」

「かしこまりましてござります」

源兵衛がご前を退くと、<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ち<ruby><rb>法螺</rb><rt>ほら</rt></ruby>貝が鳴り渡った。

射手が十人ズラリと並ぶ。

ヒューッ、ヒューッと<ruby><rb>弦音</rb><rt>つるおと</rt></ruby>高く的を目掛けて切って放す。弦返りの音も冴えかえり、当たった時には赤旗が揚がる。

<ruby><rb>鉦</rb><rt>かね</rt></ruby>の音で引き退き法螺の音で<ruby><rb>新手</rb><rt>あらて</rt></ruby>が出る。

番数次第に取り進んだ。

最後に現われた三人の射手は、<ruby><rb>印可</rb><rt>いんか</rt></ruby>を受けた高弟で、綿貫紋兵衛、馬谷庄二、そうして石渡三蔵であったが的も金的できわめて小さい。一人で五本の矢を飛ばすのであった。

甲乙なしに引き退いた。

後には誰も出る者がない。今日の射法は終わったのである。

「これ葉之助」と駿河守は<ruby><rb>傍</rb><rt>かたわら</rt></ruby>の葉之助へ声を掛けた。

「そちは剣道では一家中並ぶ者のない達人と聞くが、弓と馬とは弓馬と申して表芸の中の表芸、武士たる者の心得なくてはならぬ。そちにも心得あることと思う。立ち出でて<ruby><rb>一矢</rb><rt>ひとや</rt></ruby><ruby><rb>仕</rb><rt>つかまつ</rt></ruby>れ」

「は」

と云ったが葉之助、こう云われては断わることは出来ない。未熟と申して尻込みすれば家門の恥辱、身の不面目となる。白痴を気取ってはいられなくなった。

「<ruby><rb>不束</rb><rt>ふつつか</rt></ruby>ながらご<ruby><rb>諚</rb><rt>じょう</rt></ruby>なれば一矢仕るでござりましょう」

謹んでお受けすると列を離れ、ツツーと設けの座に進んだ。<ruby><rb>屹</rb><rt>きっ</rt></ruby>と金的を睨んだものである。

「葉之助殿おやりなさるかな。貴殿何流をお習いかな」

佐々木源兵衛は<ruby><rb>莞爾</rb><rt>にこやか</rt></ruby>に訊いた。

「はい、竹林派をほんの少々」

云いながら無造作に弓を握る。

九

これを見ると若侍達は互いにヒソヒソ<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>き出した。

「行灯殿が弓を射るそうな。はてどこへ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぶち</span>こむやら」「<ruby><rb>土壇</rb><rt>どたん</rt></ruby>を飛び越し馬場の方へでも、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぶっ</span>飛ばすことでござりましょう」

「それはよけれど<ruby><rb>弾</rb><rt>は</rt></ruby>ね返って座席へでも落ちたら難儀でござるな」

「いやいやそうばかりも云われませぬよ」

中には<ruby><rb>贔屓</rb><rt>ひいき</rt></ruby>をする者もある。「松崎道場では石渡殿を、手こずらせたという事です」

「いやそれも怪我勝ちだそうで」

「では今度も<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もしかすると</span>怪我勝ちするかもしれませんな」

「そう再々怪我勝ちされてはちとどうも<ruby><rb>側</rb><rt>はた</rt></ruby>が迷惑します」

「黙って黙って！　矢をつがえました」

「あれが竹林派の固めかな」

「いやいやあれは昼行灯流で」

「ナール、これはよう云われました」

この時葉之助は矢を取るとパッチリつがえてキリキリキリ、<ruby><rb>弦</rb><rt>いと</rt></ruby>一杯に引き絞ると、狙いも付けず切って放した。

「どうだ？」

と侍達は眼を<ruby><rb>睜</rb><rt>みは</rt></ruby>った。<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>れたと見えて旗が出ない。

「おやおや最初から仕損じましたな」

「二本目は与一も困る<ruby><rb>扇</rb><rt>おうぎ</rt></ruby>かな……さあどうだ昼行灯殿！」

<ruby><rb>急</rb><rt>せ</rt></ruby>かず<ruby><rb>周章</rb><rt>あわ</rt></ruby>てず葉之助はすかさず二の矢を飛ばせたが、これも外れたか旗が出ない。

「ウワーッ、いよいよ昼行灯だ！　一の矢二の矢を仕損じながら、<ruby><rb>沈着</rb><rt>おちつき</rt></ruby>ようはマアどうだ」

「恥なければ心安し。一向平気と見えますな」

「殿も小首を傾げておられる」「いったい殿がお悪いのだ。あんなものを召使うばかりか贔屓にさえもしておられる」「あれは殿の酔狂さ」

「それまた射ますぞ。静かに静かに」

しかし葉之助は益〻<ruby><rb>泰然</rb><rt>たいぜん</rt></ruby>と構え、姿勢に揺るぎもなく、三の矢四の矢五の矢まで、<ruby><rb>呼吸</rb><rt>いき</rt></ruby>も吐けない素早さで弦音高く射放したが、旗はついに出なかった。

ガッチリ弓を棚に掛け、<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby><ruby><rb>両袖</rb><rt>りょうそで</rt></ruby>をポンポンと払うと、静かに葉之助は射場を離れ、端然と殿の前へ手を<ruby><rb>支</rb><rt>つか</rt></ruby>えた。

「未熟の<ruby><rb>弓勢</rb><rt>ゆんぜい</rt></ruby>お目にかけお恥ずかしゅう存じます」

「うむ」

と云ったが駿河守は<ruby><rb>牀几</rb><rt>しょうぎ</rt></ruby>に掛けたまま動こうともしない。何やら考えているらしい。

「源兵衛、源兵衛」

と急に呼んだ。弓道師範の佐々木源兵衛小腰を<ruby><rb>屈</rb><rt>かが</rt></ruby>めて走って来た。

「的をここへ持って来い」

「はっ」と云うと源兵衛は、扇を上げて差し招いた。旗の役の小侍は、それと見ると的を捧げ、矢場を縦に走って来たが、<ruby><rb>謹</rb><rt>つつし</rt></ruby>んで的を源兵衛へ渡す。源兵衛から殿へ<ruby><rb>奉</rb><rt>たてまつ</rt></ruby>る。

的を眺めた駿河守は、

「おお」と思わず声を洩らした。「どうだ源兵衛これを見い！」

「はっ」と云って差し覗くと、思わずこれも「うむ」と唸った。矢は五本ながら<ruby><rb>中</rb><rt>あた</rt></ruby>ってはいないが、しかしその矢は五本ながら同じ間隔と深さとをもって的の<ruby><rb>縁</rb><rt>へり</rt></ruby>を<ruby><rb>擦</rb><rt>こす</rt></ruby>っている。

「なんと源兵衛、どう思うな！」

「恐れ入ってござります」

「<ruby><rb>中</rb><rt>あ</rt></ruby>てようと思えば<ruby><rb>中</rb><rt>あた</rt></ruby>る矢だ」

「申すまでもございません」

「どうだ、<ruby><rb>印可</rb><rt>いんか</rt></ruby>は確かであろうな」

「いやもう印可は抜いております」

「三蔵とはどっちが上手だ？」

「これは段が違います」

「そうであろう」と頷いたが、葉之助の方へ眼をやると、「さて、お前に聞くことがある。<ruby><rb>中</rb><rt>あ</rt></ruby>てずに縁を<ruby><rb>擦</rb><rt>こす</rt></ruby>ったは、竹林派に故実あってかな？」

「いえ、一向存じませぬ」

葉之助は空<ruby><rb>呆</rb><rt>とぼ</rt></ruby>けた。

「知らぬとあってはしかたもないが、そちの学んだ竹林派について、詳しく来歴を語るよう」

「はっ」

と云ったが葉之助、これはどうも知らぬとは云えない。そこで形を改めると、

「竹林派の来歴申し上げまする。そもそも、始祖は<ruby><rb>江州</rb><rt>ごうしゅう</rt></ruby>の産、<ruby><rb>叡山</rb><rt>えいざん</rt></ruby>に登って<ruby><rb>剃髪</rb><rt>ていはつ</rt></ruby>し、石堂寺竹林房<ruby><rb>如成</rb><rt>じょせい</rt></ruby>と云う。佐々木入道<ruby><rb>承禎</rb><rt>しょうてい</rt></ruby>と<ruby><rb>宜</rb><rt>よ</rt></ruby>く、久しく客となっておりますうち、百家の流派を研精し、一派を編み出し竹林派と申す。<ruby><rb>嫡男</rb><rt>ちゃくなん</rt></ruby>新三郎水没し、次男弥蔵<ruby><rb>出藍</rb><rt>しゅつらん</rt></ruby>の<ruby><rb>誉</rb><rt>ほま</rt></ruby>れあり、江州佐和山石田三成に仕え、乱後身を避け高野山に登り、後吉野の<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>に住す。清洲少将忠吉公、その名を聞いてこれを召す。後、尾張<ruby><rb>源敬公</rb><rt>げんけいこう</rt></ruby>に仕え、門弟多く取り立てしうち、長屋六兵衛、杉山三右衛門、もっとも業に<ruby><rb>秀</rb><rt>ひい</rt></ruby>でました<ruby><rb>由</rb><rt>よし</rt></ruby>――大坂両度の合戦にも、尾張公に従って出陣し、一旦<ruby><rb>致仕</rb><rt>ちし</rt></ruby>しさらに出で、晩年<ruby><rb>窃</rb><rt>ひそ</rt></ruby>かに思うところあり、<ruby><rb>長沼守明</rb><rt>ながぬまもりあき</rt></ruby>一人を取り立て、伝書工夫<ruby><rb>悉</rb><rt>ことごと</rt></ruby>く譲る。子孫相継ぎ弟子相受け今日に及びましてござりますが、三家三勇士の随一人、和佐大八郎は竹林派における高名の一<ruby><rb>人</rb><rt>にん</rt></ruby>にござります」

弁舌さわやかに言上した。

一〇

「昼行灯どころの騒ぎではない。これは素晴らしい<ruby><rb>麒麟児</rb><rt>きりんじ</rt></ruby>だ。まるで鬼神でも<ruby><rb>憑</rb><rt>つ</rt></ruby>いていて言語行動させるようだ……ははあ、それで弓之進め、この少年の<ruby><rb>行末</rb><rt>ゆくすえ</rt></ruby>を案じ、朋輩先輩の<ruby><rb>嫉視</rb><rt>しっし</rt></ruby>を恐れ、<ruby><rb>俄</rb><rt>にわ</rt></ruby>か<ruby><rb>白痴</rb><rt>ばか</rt></ruby>を気取らせたのであろう。弓之進め用心深いからな……そういう訳ならそれもよかろう。せっかくの<ruby><rb>目論見</rb><rt>もくろみ</rt></ruby>だ、とげさせてやろう」

駿河守は頷いた。

「今日の競技はこれで終わる。者ども続け！」

と云い捨てると駿河守は馬に乗った。タッタッタッタッと帰館になる。近習若侍に立ち<ruby><rb>雑</rb><rt>まじ</rt></ruby>り葉之助も後を追う。

松崎清左衛門は何が不足で葉之助の入門を<ruby><rb>拒絶</rb><rt>ことわ</rt></ruby>ったのであろう？　それは誰にも解らない。しかし当の葉之助にとっては無念千万の限りであった。

「そういう訳なら師を取らずに<ruby><rb>己</rb><rt>おのれ</rt></ruby>一人工夫を凝らし、東軍流にて秘すところの<ruby><rb>微塵</rb><rt>みじん</rt></ruby>の構えを打ち破り清左衛門めを打ち据えてくれよう」

間もなく葉之助は心の中でこういう大望を抱くようになった。彼はご殿から下がって来るや郊外の森へ出かけて行き、八幡宮の社前に坐って無念無想に入ることがあり、またある時は木刀を<ruby><rb>揮</rb><rt>ふる</rt></ruby>って立ち木の股を裂いたりした。

「一にも押し、二にも押し、これが相撲の秘伝だそうだ。一にも突き二にも突き、これが剣道の極意である。しかし極意であるだけに誰も学んで珍らしくない……さてそれでは突き以外に必勝の術はあるまいか」

来る夜も来る夜も葉之助はこの点ばかりを考えた。しかし容易には考え付かない。

「突きを止めれば<ruby><rb>斬</rb><rt>き</rt></ruby>る一方だが、さてどこが一番斬り易いかな？」

こう押し詰めて来て葉之助は、「肩だ！」と叫ばざるを得なかった。

「肩ほど斬りよいものはない。相手の右の肩先から左の<ruby><rb>肋</rb><rt>あばら</rt></ruby>へ<ruby><rb>斜</rb><rt>はす</rt></ruby>に斬る。すなわち<ruby><rb>綾袈裟掛</rb><rt>あやけさが</rt></ruby>けだ！　右へ<ruby><rb>逸</rb><rt>そ</rt></ruby>れても腕を斬る。左へ逸れれば<ruby><rb>頸</rb><rt>くび</rt></ruby>を斬る、どっちにしても急所の痛手だ。うんこれがいい」

と思い付いてからは、彼は何んの<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ちゅうちょ</rt></ruby>もせず袈裟掛けばかりを研究した。腕は既に出来ている、加うるに珍らしい天才である、それに一念が籠もっているのでその上達の<ruby><rb>速</rb><rt>すみや</rt></ruby>かさ、半年余り経った頃にはかなり太い生の立ち木を股から斜めに幹をかけてサックリ木刀で割ることが出来た。

「宮本武蔵の十字の構えを、有馬喜兵衛は打ち破ろうと、木の股ばかりを裂いたというが、よも木の幹は割れなかったであろう――いかに松崎が偉いと云っても武蔵に比べては劣るであろう。もう一年、もう二年、練磨に練磨を積んだ上、松崎に試合を申し込み、清左衛門めを打ち据えてくれよう」

仮想の敵があるために、彼の技倆は一日一日と上達をするばかりであった。

こうして六年は経過した。葉之助は十八歳となり、一人前の男となった。

「おお葉之助か近う参れ」

ある日、それは夕方であったが、駿河守はこう云って鏡葉之助を膝近く呼んだ。

「は」と云って<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>り寄る。「何かご用でござりますか？」

「そちに<ruby><rb>吩咐</rb><rt>いいつ</rt></ruby>けることがある」

駿河守は<ruby><rb>真面目</rb><rt>まじめ</rt></ruby>に云う。

「は、何ご用でござりましょう？」

「<ruby><rb>今宵</rb><rt>こよい</rt></ruby><ruby><rb>妖怪</rb><rt>あやかし</rt></ruby>を退治て参れ」

「して、妖怪と仰せられますは？」さすがの葉之助も不安そうに訊き返さざるを得なかった。

「そちも噂は聞いていよう。永く当家の<ruby><rb>金</rb><rt>かね</rt></ruby>ご用を勤めるあの大鳥井紋兵衛の<ruby><rb>邸</rb><rt>やしき</rt></ruby>へ、最近<ruby><rb>繁々</rb><rt>しげしげ</rt></ruby>妖怪<ruby><rb>出</rb><rt>い</rt></ruby>で紋兵衛を悩ますということであるが、当家にとっては功労ある男、ただし少しく強慾に過ぎ不人情の仕打ちもあるとかで、諸人の評判はよくないが、打ち<ruby><rb>棄</rb><rt>す</rt></ruby>てて置くも気の毒なもの、そち参って力になるよう」

「は」

とは云ったが葉之助は、<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ためら</rt></ruby>わざるを得なかった。

いかにも彼はその噂を世間の評判で知っていた。久しい前から紋兵衛の邸へ<ruby><rb>異形</rb><rt>いぎょう</rt></ruby>の怪物が集まって来て、泣いたり<ruby><rb>嚇</rb><rt>おど</rt></ruby>したり<ruby><rb>懇願</rb><rt>こんがん</rt></ruby>したり、果ては<ruby><rb>呪詛</rb><rt>のろい</rt></ruby>の言葉を吐いたり、最後にはきっと声を揃え、「返してくだされ！　返してくだされ！」と、<ruby><rb>喚</rb><rt>わめ</rt></ruby>き立てるというのである。世間の人の評判では、その異形な怪物こそは、紋兵衛のために苦しめられたいわゆる可哀そうな債務者の霊で、家や屋敷を取り上げられたのを死んだ後までも<ruby><rb>怨恨</rb><rt>うらみ</rt></ruby>に思い、それで夜な夜な現われては、「返してくだされ！　返してくだされ！」と、喚き立てるのだというのであった。

一一

相手が兇悪な盗賊とかまたは<ruby><rb>殺人</rb><rt>ひとごろし</rt></ruby>の罪人とか、そういうものを退治るなら一も二もなくお受けしようが、<ruby><rb>亡魂</rb><rt>ぼうこん</rt></ruby>とあっては有難くない――これが葉之助の心持ちであった。

「主命を<ruby><rb>拒</rb><rt>こば</rt></ruby>むではござりませぬが、私如き若年者より、他にどなたか<ruby><rb>屈強</rb><rt>くっきょう</rt></ruby>なお方が……」

「いや」と駿河守は<ruby><rb>遮</rb><rt>さえぎ</rt></ruby>った。「お前が一番適当なのだ。拒むことはならぬ、是非参るよう……新刀なれども堀川国広、これをそちに貸し与える。退治致した<ruby><rb>暁</rb><rt>あかつき</rt></ruby>にはそちの<ruby><rb>差料</rb><rt>さしりょう</rt></ruby>として遣わそう」

「そうまで仰せられる殿のお言葉をお受け<ruby><rb>致</rb><rt>いた</rt></ruby>さずばかえって不忠、参ることに致します」

「おお参るか。それは頼もしい」

「ご免くだされ」

と座を<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>る。

「大事をとって行くがいいぞ」

「お心添え<ruby><rb>忝</rb><rt>かたじ</rt></ruby>けのう存じます」

国広の刀をひっさげて葉之助はご前を退出した。

富豪大鳥井紋兵衛の<ruby><rb>邸</rb><rt>やしき</rt></ruby>は、二本<ruby><rb>榎</rb><rt>えのき</rt></ruby>と俗に呼ばれた、お城を離れる半里の地点、小原村に近い耕地の中に、一軒ポッツリ立っていたが、四方に林を取り巡らし、<ruby><rb>濠</rb><rt>ほり</rt></ruby>に似せて溝を掘り、周囲を廻れば五町もあろうか、<ruby><rb>主屋</rb><rt>おもや</rt></ruby>、<ruby><rb>離室</rb><rt>はなれ</rt></ruby>、客殿、<ruby><rb>亭</rb><rt>ちん</rt></ruby>、<ruby><rb>厩舎</rb><rt>うまや</rt></ruby>、<ruby><rb>納屋</rb><rt>なや</rt></ruby>から小作小屋まで一切を入れれば十棟余り、実に堂々たる<ruby><rb>構造</rb><rt>かまえ</rt></ruby>であったが、その主屋の一室に主人紋兵衛は<ruby><rb>臥</rb><rt>ふ</rt></ruby>せっていた。

「<ruby><rb>灯火</rb><rt>あかり</rt></ruby>が暗い。もっと<ruby><rb>点</rb><rt>とも</rt></ruby>せ」

夜具からヒョイと顔を出すと、<ruby><rb>譫語</rb><rt>うわごと</rt></ruby>のように紋兵衛は云った。年は<ruby><rb>幾歳</rb><rt>いくつ</rt></ruby>か不明であったが、頭髪白く顔には<ruby><rb>皺</rb><rt>しわ</rt></ruby>があり、六十以上とも見られたが、どうやらそうまでは行っていないらしい。大きい眼に高い鼻、昔は美男であったらしい。

「灯火は十も点っております」

附き添っている十人の中には、剣客もあれば力士もあり<ruby><rb>柔術</rb><rt>やわら</rt></ruby>に達した浪人もあり、手代、番頭、小作頭もある。それらさまざまの人物がギッシリ一部屋に集まった。四方に眼を配っていたが、番頭の佐介はこう云うと紋兵衛の顔を覗き込んだ。

「ご覧なさいませ部屋の中には<ruby><rb>行灯</rb><rt>あんどん</rt></ruby>が十もござります。なんの暗いことがございましょう」

「いいや暗い、真っ暗だ。早く灯心を<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>き立ててくれ」

「それじゃ<ruby><rb>卯平</rb><rt>うへい</rt></ruby>さん掻き立ててくんな」

「へい」と云うと手代の卯平は、静かに立って一つ一つ行灯の火を掻き立てた。いくらか部屋が明るくなる。

「時に今は<ruby><rb>何時</rb><rt>なんどき</rt></ruby>だな？」

<ruby><rb>気遣</rb><rt>きづか</rt></ruby>わしそうに紋兵衛は訊く。

「はい」と佐介はちょっと考え、「<ruby><rb>初夜</rb><rt>しょや</rt></ruby>には一<ruby><rb>刻</rb><rt>とき</rt></ruby>（二時間）もございましょうか」

「まだそんなに早いのか」

「<ruby><rb>宵</rb><rt>よい</rt></ruby>の口でございます」

「ああ夜が早く明ければよい……俺は夜が大嫌いだ。……俺には夜が恐ろしいのだ」

ザワザワと吹く春風が雨戸を通して聞こえて来た。と、コトンと音がした。

「あれは何んだ？　あの音は？」

「さあ何んでござろうの」剣術使いの佐伯<ruby><rb>聞太</rb><rt>ぶんた</rt></ruby>は、大刀を膝の辺へ引き付けながら、「<ruby><rb>鉢伏山</rb><rt>はちぶせやま</rt></ruby>から<ruby><rb>狐</rb><rt>きつね</rt></ruby>めが春の月夜に浮かされてやって来たのでもござろうか」

「ナニ狐？」と紋兵衛は、恐怖の瞳を<ruby><rb>踴</rb><rt>おど</rt></ruby>らせたが、「追ってくだされ！　俺は狐が大嫌いだ！」

「よろしゅうござる」

と大儀そうに、聞太はスックリ立ち上がったが<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>を開けると隣室へ行った。<ruby><rb>障子</rb><rt>しょうじ</rt></ruby>を開ける音がする。雨戸をひらく音もする。

「アッハハハハ」

と笑い声がすると、雨戸や障子が<ruby><rb>閉</rb><rt>た</rt></ruby>てられた。

聞太は部屋へはいって来たが、

「狐ではなくて犬でござった。黒めが尾を振っていましたわい」

「犬でござったのかな。それで安心」紋兵衛はホッと溜息をした。

<ruby><rb>暫時</rb><rt>ざんじ</rt></ruby>部屋は静かである。

と、紋兵衛は悲しそうな声で、

「ああ<ruby><rb>私</rb><rt>わし</rt></ruby>は眠りたい。眠って苦痛を忘れたい……<ruby><rb>北山</rb><rt>ほくざん</rt></ruby>先生、薬くだされ！」

天野北山は黙っていた。

長崎仕込みの立派な<ruby><rb>蘭医</rb><rt>らんい</rt></ruby>、駿河守の侍医ではあったが、客分の扱いを受けている。江戸へ出しても一流の先生、<ruby><rb>名聞</rb><rt>みょうもん</rt></ruby>狂いを嫌うところからこのような山間にくすぶってはいるがどうして勝れた人物であり、いかに相手が金持ちであろうと人格の卑しい紋兵衛などの附き人などに成る人物ではない。しかし礼を厚うしてほとんど十回も招かれて見れば<ruby><rb>放抛</rb><rt>うっちゃ</rt></ruby>って置くことも出来なかったので時々見舞ってやっていた。しかしもちろん急抱えの剣術使いや浪人とは違う。否だと思えばサッサと帰り、いけないと思えば投薬もしない。

「北山先生薬くだされ！」

「ならぬ！」

と北山は<ruby><rb>抑</rb><rt>おさ</rt></ruby>え付けた。

一二

「あなたの病気は薬でも<ruby><rb>癒</rb><rt>なお</rt></ruby>らぬ。<ruby><rb>懺悔</rb><rt>ざんげ</rt></ruby>なされ懺悔なされ。そうしたらすぐにも癒るであろう」

「懺悔？」と紋兵衛は恐ろしそうに、「何もございません、何もございません！　懺悔することなどはございません！」

「<ruby><rb>嘘</rb><rt>うそ</rt></ruby>を云わっしゃい！」

と北山は<ruby><rb>嘲</rb><rt>あざけ</rt></ruby>るようにたしなめた。「懺悔することのないものが何んでそのように神経を起こし、何んでそのように恐れるか。……そなた、無分別の若い頃に悪いことでもしはしないかな？」

<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>に突いていた黒塗りの<ruby><rb>扇</rb><rt>おうぎ</rt></ruby>をパチリパチリとやりながら、北山はグングン突っ込んで訊く。

「いいえ、そんな事はございません。正直な人間でございます。人に恨まれる覚えもなく、人に憎まれる覚えもない正直な人間でございます」

「どうも<ruby><rb>私</rb><rt>わし</rt></ruby>には受け取れない。どうでもあなたの心の中には不安なものがあるらしい。ひどく神経を痛めておる……で、私は改めて訊くが、貴公どこの産まれだな？」

「はい、江戸でございます」

「江戸はどこだな？　どの辺だな？」北山は遠慮なく押し詰める。

「はい」と紋兵衛は狼狽しながら、「江戸は芝でございます」

「おおさようか、芝はどこだ？」

「はい、芝は錦糸堀で……」

「何を<ruby><rb>痴</rb><rt>たわ</rt></ruby>けめ！」と北山はカラカラとばかり<ruby><rb>哄笑</rb><rt>こうしょう</rt></ruby>した。

「芝にはそんな所はない、錦糸堀は<ruby><rb>本所</rb><rt>ほんじょ</rt></ruby>だわえ！」

「おお、そうそうその本所で、私は産まれたのでございます」

「うん、そうか、では聞くが、錦糸堀は本所のどの辺にあるな？」

「はい、本所の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とっつき</span>に」

「アッハハハハ、まるで反対だ。錦糸堀は本所の<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>れにある……貴公江戸は不案内であろう？　……云いたくなければ云わないでもよい。産まれ故郷の云えないような、そういう<ruby><rb>胡散</rb><rt>うさん</rt></ruby>な人物には今後薬は盛らぬまでだ……ところでもう一つ訊きたいのは、十万に余る貴公の財産、いったい何をして<ruby><rb>儲</rb><rt>もう</rt></ruby>けたのか？」

北山は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">じっ</span>と眼を据えて紋兵衛の顔を見守った。しかし紋兵衛は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もの</span>を云わない。

「どうやらこれも云えないと見える……後ろ暗いことでもあるのであろう」

「黙れ！」

と突然狂気<ruby><rb>染</rb><rt>じ</rt></ruby>みた声で、大鳥井紋兵衛は<ruby><rb>怒鳴</rb><rt>どな</rt></ruby>ったものである。彼はムックリと起き上がった。

「黙れ！　<ruby><rb>藪医者</rb><rt>やぶいしゃ</rt></ruby>め！　何を<ruby><rb>吐</rb><rt>ぬ</rt></ruby>かす！」

「何？」

と北山も眼を<ruby><rb>瞋</rb><rt>いか</rt></ruby>らせた。

「俺は正直の人間だ！」紋兵衛は大声で怒鳴りつづける。「後ろ暗えこととは何事だ！　俺は正直に働いて正当に金を儲けたのだ！　それが何んで悪いのか！」

「うんそうか、それが本当なら、貴公はなかなか働き者だ。この北山<ruby><rb>褒</rb><rt>ほ</rt></ruby>めてやる……さほど正直に儲けた金なら何も隠すには及ぶまい。何をして儲けたか云うがいい」

「いいや云わねえ、云う必要はねえ！　何んで貴様に云う必要がある！　それから云え、それから云え！」

「云ってやろう、俺は医者だ！」

「医者だからどうしたと云うのだい！」

「病いの<ruby><rb>基</rb><rt>もと</rt></ruby>を調べるのよ」

「病いの基を調べるって？　いいやそんな必要はねえ」

「貴公、可哀そうに血迷っているな」

「血迷うものか！　俺は正気だ！」

「病気の基を<ruby><rb>極</rb><rt>きわ</rt></ruby>めずにどうして病いを癒すことが出来る」

「癒すにゃア及ばねえ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うっちゃって</span>置いてくれ！」

「おお、そうか、それならよい」

ズイと北山は立ち上がった。「今後招いても来てはやらぬぞ」

「…………」

「貴公、死相が現われておる。取り殺されるも長くはあるまい」

「わッ」と突然紋兵衛は畳の上へ突っ伏したが、

「お助けくだされ北山様！　お願いでござります天野先生！　殺されるのは嫌でございます！　申します申します、何んでも申します！」

「おお云うか。云うならよい。天野北山聞いて遣わす。そうして病気も癒してやる……何をやって金を儲けた？」

「はいそれは……」

と云いかけた時奥の襖がスーと開いて若い女が現われた。紋兵衛の娘のお露である。

「お父様」と手を<ruby><rb>支</rb><rt>つか</rt></ruby>え、「只今お城のお殿様からお使者が参りましてござります」

「お使者？」

と紋兵衛は不思議そうに、「ハテなんのお使者であろう？」

「ご病気見舞いだとおっしゃられました」

「どんなご<ruby><rb>容子</rb><rt>ようす</rt></ruby>のお方かな？」

「はい」とお露は<ruby><rb>面羞</rb><rt>おもは</rt></ruby>ゆそうに、「お若いお美しいお侍様で」

「さようか、そうしてお名前は？」

「鏡葉之助様と<ruby><rb>仰</rb><rt>おお</rt></ruby>せられました」

一三

<ruby><rb>妖怪</rb><rt>あやかし</rt></ruby>退治の命を受け、城を退出した葉之助は、小原村二本榎、大鳥井紋兵衛の宏大な邸を、供も連れず訪れた。取次ぎに出た若い女――それは娘のお露であったが、そのお露の姿を見ると、彼の心は波立った。

「美しいな」と思ったからである。しかしそれとて軽い意味なので、一眼惚れと云うようなそんなところまでは行っていない。

一旦引っ込んだその娘が再びしとやかに現われた時、また「美しいな」と思ったものである。

お露は夜眼にも知れるほど顔を<ruby><rb>赧</rb><rt>あか</rt></ruby>らめ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もじもじ</span>したが、

「むさくるしい<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>ではございますが、なにとぞお通りくださいますよう」

「ご免」と云うと葉之助は、刀を提げて玄関を上がる。

<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>ごと間ごとを打ち通り、奥まった部屋の前へ出たが、飾り立てた部屋部屋の様子、部屋を<ruby><rb>繋</rb><rt>つな</rt></ruby>いだ廻廊の<ruby><rb>態</rb><rt>さま</rt></ruby>、まことに善美を尽くしたもので、士太夫の邸と云ったところでこれまでであろうと思われた。それにも<ruby><rb>拘</rb><rt>かかわ</rt></ruby>らず邸内が<ruby><rb>陰森</rb><rt>しん</rt></ruby>として物寂しく、間ごとに<ruby><rb>点</rb><rt>とも</rt></ruby>された燭台の灯も<ruby><rb>薄茫然</rb><rt>うすぼんやり</rt></ruby>と輪を描き、光の届かぬ隅々には眼も鼻もない<ruby><rb>妖怪</rb><rt>あやかし</rt></ruby>が声を立てずに笑っていそうであり、人は沢山にいるらしいが暖かい<ruby><rb>人気</rb><rt>ひとけ</rt></ruby>を感じない。

「<ruby><rb>妖怪邸</rb><rt>ばけものやしき</rt></ruby>と云われるだけあって、不思議に寂しい邸ではある」

こう心で呟いた時、お露がスーと襖を開けた。

「父の病室にござります」

「さようでござるか」とツトはいる。

北山はじめ附き人達は遠慮して隣室へ退ったので部屋には紋兵衛一人しかいない。病人というので<ruby><rb>褥</rb><rt>しとね</rt></ruby>は離れず、彼は<ruby><rb>恭</rb><rt>うやうや</rt></ruby>しく<ruby><rb>端座</rb><rt>かしこ</rt></ruby>まっていたが、それと見て畳へ手を<ruby><rb>支</rb><rt>つか</rt></ruby>えた。

殿の使いとは云うものの表立った使者ではなく、きわめて略式の訪問なのだ。

「いやそのまま」と云いながら葉之助は座を構え、「邸に<ruby><rb>妖怪</rb><rt>あやかし</rt></ruby><ruby><rb>憑</rb><rt>つ</rt></ruby>いたる由、殿にも気の毒に覚し召さるる。<ruby><rb>拙者</rb><rt>せっしゃ</rt></ruby>今日参ったはすなわち妖怪<ruby><rb>見現</rb><rt>みあら</rt></ruby>わしのため。殿のご厚意<ruby><rb>疎略</rb><rt>そりゃく</rt></ruby>に思ってはならぬ」

「何しに疎略に思いましょうぞ。ハイハイまことに有難いことで……あなた様にもご苦労千万、まずお<ruby><rb>休息</rb><rt>いこい</rt></ruby>遊ばしますよう」

紋兵衛は静かに顔を上げた。名は互いに知ってはいたが顔を合わせるのは今日が初めて、二人の顔がピッタリ合った。

と、俄然紋兵衛の顔へ恐怖が<ruby><rb>颯</rb><rt>さっ</rt></ruby>と浮かんだが、

「わッ、幽霊！」と<ruby><rb>喚</rb><rt>わめ</rt></ruby>いたものである。

「これこれどうした？　幽霊とは何んだ？」

驚いたのは葉之助で、紋兵衛の様子を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">じっ</span>と眺める。

「<ruby><rb>堪忍</rb><rt>かんにん</rt></ruby>してくれ！　堪忍してくれ！　俺が悪かった！　俺が悪かった！　……山吹！　山吹！　堪忍してくれ」

蛇に魅入られた<ruby><rb>蛙</rb><rt>かえる</rt></ruby>とでも云おうか、葉之助の顔から眼を放さず、紋兵衛は益〻喚くのであった、が額からタラタラ汗を流し、全身を<ruby><rb>劇</rb><rt>はげ</rt></ruby>しく<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>わせているのは、恐怖の度合のいかに大きいかを無言のうちに説明している。

「これこれ紋兵衛殿どうしたものだ。拙者は鏡葉之助でござる。山吹などとは何事でござる。心を<ruby><rb>確</rb><rt>しっか</rt></ruby>りお持ちなさるがよい」

こう云いながら葉之助は、気の毒そうに苦笑したが、「ははあこれも<ruby><rb>妖怪</rb><rt>あやかし</rt></ruby>の<ruby><rb>業</rb><rt>わざ</rt></ruby>だな。さてどこから手を付けたものか？」

「何、鏡葉之助殿とな？」

逆立った眼で葉之助を<ruby><rb>見据</rb><rt>みす</rt></ruby>え、紋兵衛は<ruby><rb>瞬</rb><rt>まじろ</rt></ruby>ぎもしなかったが、ようやくホッと溜息を<ruby><rb>吐</rb><rt>つ</rt></ruby>くと、「人違いであった。山吹ではなかった。そうだあなたは葉之助様だ……が、それにしてもあなたのお顔があの山吹に<ruby><rb>酷似</rb><rt>そっくり</rt></ruby>とは？　おお<ruby><rb>酷似</rb><rt>そっくり</rt></ruby>じゃ酷似じゃ！　やっぱりお前は山吹だ！　<ruby><rb>汝</rb><rt>おのれ</rt></ruby>どこからやって来たぞ！」

また狂わしくなるのであった。

「殿の命で、城中から」

「いいや違う。そうではあるまい。八ヶ嶽から来たのであろう？」

「殿の命で、城中から」

「嘘だ嘘だ！　嘘に相違ない！　八ヶ嶽の<ruby><rb>窩人</rb><rt>かじん</rt></ruby>部落！　<ruby><rb>汝</rb><rt>おのれ</rt></ruby>そこから来たのであろう！　<ruby><rb>怨</rb><rt>うら</rt></ruby>まば怨め！　<ruby><rb>祟</rb><rt>たた</rt></ruby>らば祟れ！　捨てられたが口惜しいか！　……<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>むわ睨むわ！　おお睨むがいい。俺も睨んでやる俺も睨んでやる！」

血走って眼をカッと開け、紋兵衛は葉之助を睨んだものである。

その時、<ruby><rb>遥</rb><rt>はる</rt></ruby>か<ruby><rb>戸外</rb><rt>おもて</rt></ruby>に当たって<ruby><rb>咽</rb><rt>むせ</rt></ruby>ぶがような泣くがような<ruby><rb>哀々</rb><rt>あいあい</rt></ruby>たる声が聞こえて来た。それは大勢の声であり、あたかも合唱でもするかのように声を合わせて叫んでいるらしい。しかし叫びと云うよりも、むしろそれは嘆願なので、細い細い糸のような声から高い高い叫びになり、それが悲しい笛の音のように尾を引いて綿々と絶えぬのであった。

「お返しくだされ。お返しくだされ。<ruby><rb>宗介天狗</rb><rt>むねすけてんぐ</rt></ruby>の<ruby><rb>鎧冑</rb><rt>よろいかぶと</rt></ruby>、どうぞどうぞお返しくだされ」

こう叫んでいるのであった。

一四

ムックリ<ruby><rb>刎</rb><rt>は</rt></ruby>ね起きた紋兵衛は、血走った眼を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おどおど</span>させ、<ruby><rb>痙攣</rb><rt>ひきつ</rt></ruby>った唇を思うさま曲げ、手を胸の辺で掻き<ruby><rb>捲</rb><rt>まく</rt></ruby>り、肩に大波を打たせたかと思うと、

「あ、あ、あ、あ」とまず喘ぎ、「来たア！」と叫ぶとヒョロヒョロ立ち、「来てくれ！　来てくれ！　誰か来てくれ！　人殺しだア！　誰か来てくれ！　……おお鏡様葉之助様！　あいつらが来たのでござります！　お助けなされてくださりませ！　人助けでござります、お助けなされてくださりませ！　……返せと云って何を返すのだ！　鎧冑？　そんなものは知らぬ！　おおそんなものを何んで知ろう！　<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">よしんば</span>知っていようとも、みんな過ぎ去った昔の事だ！　ならぬ、ならぬ、返すことはならぬ！　いやいや俺は知らぬのだ！」

「五味多四郎様！　五味多四郎様！　どうぞお返しくださりませ、宗介天狗の<ruby><rb>黄金</rb><rt>こがね</rt></ruby>の<ruby><rb>甲冑</rb><rt>かっちゅう</rt></ruby>、どうぞお返しくださりませ！」<ruby><rb>戸外</rb><rt>おもて</rt></ruby>の声は<ruby><rb>尚</rb><rt>なお</rt></ruby>叫ぶ。

「知らぬ知らぬ俺は知らぬ！　俺は何んにも知らぬのだ！　……葉之助様！　鏡様！　どうぞお助けくださりませ！　や、貴様は山吹だな！　おお山吹だ山吹だ！　おのれ貴様まで怨みに来たか！　おお恐ろしい恐ろしい、睨んでくれるな睨んでくれるな！　堪忍してくれ俺が悪かった！　あ、あ、あ、あ、胸苦しや！　冷たい腕が胸を<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>むわ！」

急に紋兵衛は<ruby><rb>虚空</rb><rt>こくう</rt></ruby>を<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>むと枯木のようにバッタリ<ruby><rb>仆</rb><rt>たお</rt></ruby>れた。そのまま気絶したのである。

その時<ruby><rb>忽然</rb><rt>こつぜん</rt></ruby>部屋の隅から女の笑い声が聞こえて来た。ヒ、ヒ、ヒ、ヒ、というような一種異様な笑い声である。

鏡葉之助はそれを聞くと何がなしにゾッとした。聞き覚えのある笑い声だからだ。

「遠い昔に、<ruby><rb>幼年時代</rb><rt>ちいさいとき</rt></ruby>に、確かにどこかで聞いたことがある。誰の声だかそれは知らない。どこで聞いたかそれも知らない……いったいどこで笑っているのだろう？」

声の聞こえる部屋の隅へ<ruby><rb>屹</rb><rt>きっ</rt></ruby>と葉之助は眼をやったが、笑い主の姿は見えぬ。しかし笑い声は<ruby><rb>間断</rb><rt>ひっきり</rt></ruby>なしにヒ、ヒ、ヒ、ヒと聞こえて来る。

「不思議な事だ。何んという事だ。どう解釈をしたものだろう？　さも心地よいと云ったような、憎い相手の苦しむのがさも嬉しいと云ったような、<ruby><rb>惨忍</rb><rt>ざんにん</rt></ruby>極まる笑い声！　悪意を持った笑い声！　ヒ、ヒ、ヒ、ヒ、まだ笑っている。俺も何んだか笑いたくなった。俺の心は<ruby><rb>誘惑</rb><rt>そそ</rt></ruby>られる。ヒ、ヒ、ヒ、ヒ、まだ笑っている……。俺も笑ってやろう。ヒ、ヒ、ヒ、ヒ……ヒ、ヒ、ヒ、ヒ」

葉之助は笑い出した。不思議な笑いに<ruby><rb>誘惑</rb><rt>そそ</rt></ruby>られて彼もとうとう笑い出した。

と、さらに不思議なことには、姿の見えない笑い声が、<ruby><rb>漸次</rb><rt>だんだん</rt></ruby>こっちへ近寄って来る。部屋の隅と思ったのが、畳の上から聞こえて来る。畳の上と思ったのが、葉之助の膝の辺から<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">さも</span>鮮かに聞こえて来る。やがてとうとうその声は彼の腕から聞こえるようになった。

「奇怪千万」と葉之助は、やにわに<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>を捲り上げた。肉附きのよい白い腕がスベスベと二の腕まで現われたが、そこに上下二十枚の人間の歯形が付いている。これには別に不思議はない。<ruby><rb>幼年時</rb><rt>ちいさいとき</rt></ruby>から葉之助の腕にはこういう歯形が付いていたからで、驚く必要はないのであるが、その歯形が今見れば女の顔と変わっている。<ruby><rb>眉</rb><rt>まゆ</rt></ruby>を釣り上げ眼をいからせ唇を左右に<ruby><rb>痙攣</rb><rt>けいれん</rt></ruby>させ、<ruby><rb>憤怒</rb><rt>ふんぬ</rt></ruby>の<ruby><rb>形相</rb><rt>ぎょうそう</rt></ruby>を現わしている様子が、奇病<ruby><rb>人面疽</rb><rt>にんめんそ</rt></ruby>さながらである。ヒ、ヒ、ヒという笑い声はその口から来るのであった。

そうして何より気味の悪いことは、人面疽の眼が気絶している紋兵衛の顔に注がれていることで、その眼には<ruby><rb>憎悪</rb><rt>にくしみ</rt></ruby>が満ち充ちている。

余りのことに葉之助は自分の視覚を疑った。

「こんな<ruby><rb>筈</rb><rt>はず</rt></ruby>はない、こんな筈はない！」

叫ぶと一緒に眼を閉じたのは、恐ろしいものを見まいとする本能的の動作でもあろうか。しかしその時断ち切ったように気味の悪い笑い声が消えたので、彼はハッと眼を開けた。

<ruby><rb>人面疽</rb><rt>にんめんそ</rt></ruby>は消えている。後には歯形があるばかりだ。

「さてはやはり幻覚であったか」ホッと溜息をした葉之助は、額の汗を拭ったものの、その恐ろしさ気味悪さは容易の事では忘られそうもない。

その時またも戸の外から嘆願するような大勢の声が<ruby><rb>咽</rb><rt>むせ</rt></ruby>ぶがように聞こえて来た。

「お返しくだされお返しくだされ。宗介天狗の黄金の甲冑、どうぞお返しくださいませ」

「これはいったいどうしたことだ」葉之助は呟いた。「あれは妖怪の声だというに、俺には<ruby><rb>懐</rb><rt>なつか</rt></ruby>しく思われてならぬ。懐しいといえば人面疽の顔さえ妙に懐しく思われる。……妖怪の声を聞いていると<ruby><rb>故郷</rb><rt>ふるさと</rt></ruby>の人の話し声でも聞いているような気持ちがする。そうして、人面疽の女の顔は、母親の顔ででもあるかのように、<ruby><rb>慕</rb><rt>した</rt></ruby>わしく恋しく思われる」

葉之助は<ruby><rb>茫然</rb><rt>ぼうぜん</rt></ruby>と坐ったままで動こうともしない。

一五

ここで物語は一変する。

大正十三年の今日でも、甲信の人達は信じ切っているが、武田信玄の<ruby><rb>死骸</rb><rt>なきがら</rt></ruby>は、<ruby><rb>楯無</rb><rt>たてな</rt></ruby>しの<ruby><rb>鎧</rb><rt>よろい</rt></ruby>に日の丸の旗、<ruby><rb>諏訪法性</rb><rt>すわほうしょう</rt></ruby>の<ruby><rb>冑</rb><rt>かぶと</rt></ruby>をもって、いとも厳重に装われ、厚い石の<ruby><rb>柩</rb><rt>ひつぎ</rt></ruby>に入れられ、諏訪湖の底に埋められてあり、諏訪明神がその柩を加護しているということである。

これはどうやら歴史上から見ても、<ruby><rb>真実</rb><rt>ほんと</rt></ruby>のことのように思われる。その証拠には近古史談に次のような史詩が掲載されてある。

<ruby><rb>驚倒</rb><rt>きょうとう</rt></ruby>す暗中銃丸跳るを、野田城上<ruby><rb>笛声</rb><rt>てきせい</rt></ruby>寒し、誰か知らん七十二の<ruby><rb>疑塚</rb><rt>ぎちょう</rt></ruby>、<ruby><rb>若</rb><rt>し</rt></ruby>かず一棺湖底の安きに

<ruby><rb>最後</rb><rt>しまい</rt></ruby>の二句を解釈すると、昔<ruby><rb>支那</rb><rt>シナ</rt></ruby>に悪王があって、死後塚の<ruby><rb>発</rb><rt>あば</rt></ruby>かれんことを恐れ、七十二個の<ruby><rb>贋塚</rb><rt>にせづか</rt></ruby>を作ったが、それでもとうとう<ruby><rb>発</rb><rt>あば</rt></ruby>かれてしまった。武田信玄はそんなことはせずに、死骸を湖底に埋めさせた。この方がどんなに安心だか知れない――つまりこういう意味なのである。

いかにもこれは七十二の疑塚より確かに安心には相違ないが、しかし絶対に安心とは云えない。諏訪湖の水の乾く時が来たら、死骸は石棺のまま現われなければならない。そうでなくとも<ruby><rb>好奇</rb><rt>ものずき</rt></ruby>の者が、金に糸目を付けることなく、もし潜水夫を潜らせたなら、信玄の死骸のある場所が知れたなら、それから後はどんなことでも出来る。だから絶対に安心とは云えない。

<ruby><rb>果然</rb><rt>かぜん</rt></ruby>、文政年間に<ruby><rb>好奇</rb><rt>ものずき</rt></ruby>の人間が現われて、信玄の石棺を引き上げようとした。

成功したか失敗したか？　その人間とは何者か？　それは物語の進むにつれて<ruby><rb>自</rb><rt>おの</rt></ruby>ずと了解されようと思う。

そうして実にこの事件は、この「八ヶ嶽の魔神」という、きわめて伝奇的の物語にとってもかなり重大な関係がある。したがって物語の主人公、鏡葉之助その人にとっても重大な関係がなくてはならない。

鏡葉之助の消息を一時途中で中絶させ、事件を他方面へ移したのもこういう関係があるからである。

信州諏訪の<ruby><rb>郡</rb><rt>こおり</rt></ruby>高島の城下は、祭礼のように賑わっていた。

<ruby><rb>淼々</rb><rt>びょうびょう</rt></ruby>と<ruby><rb>湛</rb><rt>たた</rt></ruby>えられた湖の岸には町の人達、老若男女が湖水を<ruby><rb>遥</rb><rt>はる</rt></ruby>かに見渡しながら<ruby><rb>窃々</rb><rt>ひそひそ</rt></ruby>話に余念がない。

「船が沢山出ましたな」

「二十隻あまりも出ましたかな」

「漁船と<ruby><rb>異</rb><rt>ちが</rt></ruby>って立派ですな」

「諏訪家の幔幕が張り廻してある」

「乗っておられるのはお武家様ばかりだ」

「お武家様と漁師とは遠目に見ても異いますな」

「しかし今度のお<ruby><rb>企</rb><rt>くわだ</rt></ruby>てはちとご無理ではないでしょうかな」

「さあそれは考えものだ」

「いや全く考えものだ」

「噂によると神宮寺の<ruby><rb>巫女</rb><rt>みこ</rt></ruby>が大変怒っているそうですよ」

「あいつらが怒るとちょっと恐い」

「名に負う<ruby><rb>水狐族</rb><rt>すいこぞく</rt></ruby>の手合ですからな」

「今度は若殿も失敗かな」

「立派なお方には相違ないが、どうも血気に<ruby><rb>急</rb><rt>はや</rt></ruby>らせられてな」

「それもこれもお若いからよ」

「ちと<ruby><rb>好奇心</rb><rt>ものずき</rt></ruby>が過ぎるようだ」

「今度の企ても好奇心からよ」

「巫女達はきっと<ruby><rb>祟</rb><rt>たた</rt></ruby>ろうぞ」

「これまで水狐族に祟られたもので、難を免れたものはない」

「恐ろしいほど執念深いからな」

「先祖代々執念深いのさ」

「それにあいつらは妖術を使う」

「<ruby><rb>切支丹</rb><rt>キリシタン</rt></ruby>の秘法だそうな」

「切支丹ではない<ruby><rb>陰陽術</rb><rt>おんようじゅつ</rt></ruby>だ」

「日本固有の陰陽術かな」

「そうだ<ruby><rb>中御門</rb><rt>なかみかど</rt></ruby>の陰陽術だ」

「おや」と一人が指差した。「いよいよ若殿のご座船が出るぞ」

「どれどれ？　なるほど、ご座船らしいな」

「若殿自らお<ruby><rb>指図</rb><rt>さしず</rt></ruby>と来た」

「もしも水狐族が<ruby><rb>祟</rb><rt>たた</rt></ruby>るなら、きっと若殿へ祟るであろうぞ」

「無論水狐族も恐ろしいが、それより私には明神のお罰が一層恐ろしく思われるよ」

「日本第一大軍神、<ruby><rb>健御名方</rb><rt>たけみなかた</rt></ruby>のご神罰かな」

「これは昔からの云い伝えだが、諏訪法性の<ruby><rb>冑</rb><rt>かぶと</rt></ruby>には、諏訪明神のご神霊が附き添いおられるということだ」

「ちゃあんと<ruby><rb>浄瑠璃</rb><rt>じょうるり</rt></ruby>にも書いてある奴さ」

「二十四孝のご殿かね」

「……こんな殿ごと添い<ruby><rb>臥</rb><rt>ふ</rt></ruby>しの身は<ruby><rb>姫御前</rb><rt>ひめごぜ</rt></ruby>の果報ぞとツンツンテンと、つまりここだ」

「冗談じゃねえ、助からねえな。口三味線とは念入りだ」

「それからお前奥庭になってよ、<ruby><rb>白狐</rb><rt>しろぎつね</rt></ruby>めが<ruby><rb>業</rb><rt>わざ</rt></ruby>をするわさ。明神様の<ruby><rb>使姫</rb><rt>つかいひめ</rt></ruby>は白狐ということになっているんだからね」

一六

「だんだんご座船が近寄って来る。だんだんご座船が近寄って来る」こう云って一人が指差した。

「<ruby><rb>船首</rb><rt>へさき</rt></ruby>に立たれたのが若殿らしい」

「<ruby><rb>皆紅</rb><rt>みなくれない</rt></ruby>の扇をば、手に<ruby><rb>翳</rb><rt>かざ</rt></ruby>してぞ立ち給うかね」

「ほんとに扇を持っておられる」

「オーイオーイと差し招けば……」

「どっちだどっちだ、<ruby><rb>熊谷</rb><rt>くまがい</rt></ruby>かえ？　それとも<ruby><rb>厳島</rb><rt>いつくしま</rt></ruby>の清盛かえ」

「どうも不真面目でいけないね。静かに静かに」と一人が云った。

で、人達は口を<ruby><rb>噤</rb><rt>つぐ</rt></ruby>み、湖上を<ruby><rb>颯々</rb><rt>さっさつ</rt></ruby>と進んで来る若殿のご座船を見守った。

今、ご座船は停止した。

諏訪<ruby><rb>因幡守</rb><rt>いなばのかみ</rt></ruby>忠頼の嫡子、頼正君は二十一歳、冒険<ruby><rb>敢為</rb><rt>かんい</rt></ruby>の<ruby><rb>気象</rb><rt>きしょう</rt></ruby>を持った前途有望の<ruby><rb>公達</rb><rt>きんだち</rt></ruby>であったが、皆紅の扇を持ち、今<ruby><rb>船首</rb><rt>へさき</rt></ruby>に突っ立っている。

そのご座船を<ruby><rb>囲繞</rb><rt>いにょう</rt></ruby>して二十隻の小船が漂っていたが、この日<ruby><rb>天</rb><rt>てん</rt></ruby>晴れ気澄み渡り、鏡のような湖面にはただ一点の曇りさえなく、人を恐れず低く飛ぶ小鳥の、矢のように早い影をさえ、鮮かに<ruby><rb>映</rb><rt>うつ</rt></ruby>して静まり返り、昇って間もない朝の陽が、赤味を加えた黄金色に水に映じて輝く様など、絵よりも美しい景色である。

東の空には八ヶ嶽が連々として<ruby><rb>聳</rb><rt>そび</rt></ruby>え連なり、北には岡谷の小部落が白壁の影を水に落とし、さらに南を振り返って見れば、高島城の石垣が灰色なして<ruby><rb>水際</rb><rt>みぎわ</rt></ruby>に<ruby><rb>峙</rb><rt>そばだ</rt></ruby>ち、諏訪明神の森の姿や、水狐族と呼ばれる巫女の一団が、<ruby><rb>他人</rb><rt>ひと</rt></ruby>を雑えず住んでいる神宮寺村の丘や林などあるいは遠くあるいは近く、山に添ったり水に傾いたり、朝霧の中に<ruby><rb>隠見</rb><rt>いんけん</rt></ruby>して、南から西へ延びている。

しかし頼正は景色などには見とれようとはしなかった。じっと水面を見詰めている、いやそれは水面ではなく、水を透して水の底を、<ruby><rb>見究</rb><rt>みきわ</rt></ruby>めようとしているのであったが、<ruby><rb>幾</rb><rt>いく</rt></ruby>十<ruby><rb>丈</rb><rt>じょう</rt></ruby>とも知れないほど深く湛えた蒼黒い水は、頼正の眼を<ruby><rb>遮</rb><rt>さえぎ</rt></ruby>って水底を奥の方へ隠している。

と、頼正は眼を上げて、二十隻の<ruby><rb>供船</rb><rt>ともぶね</rt></ruby>を見廻したが、扇を高く頭上へ上げると、横へ一つ<ruby><rb>颯</rb><rt>さっ</rt></ruby>と振った。

すると、ご座船に一番近い一隻の船の船首から、<ruby><rb>裸体</rb><rt>はだか</rt></ruby>の男が身を躍らせ湖水の中へ飛び込んだ。パッと立つ水煙り！　キラキラと<ruby><rb>虹</rb><rt>にじ</rt></ruby>が射したのは日がまだ高く昇らないからであろう。

若殿頼正を初めとし、船中の武士は云うまでもなく、岸に群がっている町人百姓まで、<ruby><rb>固唾</rb><rt>かたず</rt></ruby>を呑んで熱心に水の面を眺めている。

飛び込んだ男は<ruby><rb>灘兵衛</rb><rt>なだべえ</rt></ruby>と云って、わざわざ<ruby><rb>安房</rb><rt>あわ</rt></ruby>から呼び寄せたところの水練名誉の<ruby><rb>海男</rb><rt>あま</rt></ruby>であったが、飛び込んでしばらく時が経つのに水の面へ現われようともしない。しかし間もなく湖水の水が最初モクモクと泡立つと見る間に、<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ちグイと左右に割れ、その割目から灘兵衛が<ruby><rb>逞</rb><rt>たくま</rt></ruby>しい顔を現わした。プーッと深い<ruby><rb>呼吸</rb><rt>いき</rt></ruby>をすると、水が一筋銀蛇のようにその口から<ruby><rb>迸</rb><rt>ほとばし</rt></ruby>る。片手で<ruby><rb>確</rb><rt>しっか</rt></ruby>り<ruby><rb>船縁</rb><rt>ふなべり</rt></ruby>を掴み。しばらく体を休めたものだ。

血気の頼正は物に<ruby><rb>拘</rb><rt>こだわ</rt></ruby>らず、じかに灘兵衛へ言葉をかけた。

「どうだ灘兵衛、石棺はあったか？」

「なかなかもって」

と灘兵衛は、潮焼けした顔へ<ruby><rb>笑</rb><rt>えみ</rt></ruby>を浮かべ、

「泥は厚し、水草はあり、湖水の底を究めますこと、容易な業ではござんせん」

「いかさまそれは<ruby><rb>理</rb><rt>もっと</rt></ruby>もである……しかし、どうだな、ありそうかな？」

「二日、三日ないしは五日、どのように水を潜ったところで、<ruby><rb>淼々</rb><rt>びょうびょう</rt></ruby>と広い湖のこと、そんな小さな石の棺、あるともないとも解りませぬ。が、<ruby><rb>私</rb><rt>わっち</rt></ruby>の<ruby><rb>感覚</rb><rt>かん</rt></ruby>から云えば、まずこの辺にはござんせんな」

「うん、この辺にはなさそうか。ではどの辺に埋もれていような？」

「それが解れば占めたもの、心配する事アござんせん」

「ではそれも解らぬかな」頼正の顔は<ruby><rb>顰</rb><rt>ひそ</rt></ruby>んで来た。

「確かなところは解りませんな。……とにかくもう少し西南寄り、神宮寺の方で潜って見やしょう」

「そうか。よし、船を廻せ！」

頼正は漕ぎ手に命を下す。

ギーと<ruby><rb>艪</rb><rt>ろ</rt></ruby>の<ruby><rb>軋</rb><rt>きし</rt></ruby>る音がして、船隊は<ruby><rb>船首</rb><rt>へさき</rt></ruby>を西南に向けた。若殿のご座船を先頭にして神宮寺の方へ進んで行く。

見ていた湖岸の連中は、ここでまたひそひそと噂し出す。

「神宮寺の方へ行くようだね」

「これはどうも<ruby><rb>物騒</rb><rt>ぶっそう</rt></ruby>千万、死地へ乗り<ruby><rb>入</rb><rt>い</rt></ruby>ると同じようなものだ」

「死地に乗り入るは大袈裟だが、どうも少々心なしだな」

「水狐部落の巫女どもに悪い<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>でもされなければよいが」

「あいつらと来たら無鉄砲だからな。ご領主であろうと将軍様であろうと、そんな物には驚きはしない」

「何か事件が起こらなければよいが」

「そうだ、何か悪い事件がな」

「あの<ruby><rb>濶達</rb><rt>かったつ</rt></ruby>な若殿様が、そのためご苦労するようではお気の毒というものだ」

船隊はその間に岬を廻り、すっかり視野から消えてしまった。

一七

若殿のご座船を先頭に、二十隻の船は<ruby><rb>駸々</rb><rt>しんしん</rt></ruby>と、湖水の波を左右に分け、神宮寺の方へ進んで行ったが、やがて目的の地点まで来ると、頼正は扇で合図をした。二十隻の船はピタリと止まる。

ここ辺りは入江であって、<ruby><rb>蘆</rb><rt>あし</rt></ruby>や<ruby><rb>芒</rb><rt>すすき</rt></ruby>が水際に<ruby><rb>生</rb><rt>お</rt></ruby>い、陸は一面の耕地であり、所々に森があったが、諏訪明神の神の森が、ひとり<ruby><rb>抽</rb><rt>ぬき</rt></ruby>んで、<ruby><rb>聳</rb><rt>そび</rt></ruby>えているのは、まことに<ruby><rb>神々</rb><rt>こうごう</rt></ruby>しい眺めである。

その神の森を遠く囲繞し、<ruby><rb>茅葺</rb><rt>かやぶき</rt></ruby>小屋や掘立小屋や<ruby><rb>朽葉色</rb><rt>くちばいろ</rt></ruby>の<ruby><rb>天幕</rb><rt>テント</rt></ruby>が、幾何学的の陣形を作り、所在に点々と立っているのは、これぞ水狐族と呼ばれるところの、巫女どもの住んでいる部落であった。<ruby><rb>炊</rb><rt>かし</rt></ruby>ぎの煙りが幾筋か上がり、鶏犬の啼き声が<ruby><rb>長閑</rb><rt>のどか</rt></ruby>に聞こえ、さも平和に見渡されたが、しかし人影が全く見えず、いつもは聞こえる人の声が、今日に限って聞こえないのは、決して平和の証拠ではない。

船の上から頼正は水狐族の部落を眺めていたが、たちまちその眼を湖上へ返すと、<ruby><rb>颯</rb><rt>さっ</rt></ruby>と扇を頭上に上げた。とたんにドブンという水の音。灘兵衛が水中へ飛び込んだのである。見る見る湖面へ波紋が起こりそれが次第に拡がって行く。

「さて今度はどうであろう？　石棺の<ruby><rb>在所</rb><rt>ありか</rt></ruby>は解らずとも、手懸りでもあってくれればよいが」

頼正は<ruby><rb>船首</rb><rt>へさき</rt></ruby>に突っ立ったままじっと水面を<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>った。

突然彼は「あっ」と叫んだ。彼の視線の落ちた所、<ruby><rb>蒼々</rb><rt>あおあお</rt></ruby>と澄んでいた水の面がモクモクモクモクと泡立つと見る間に牡丹の<ruby><rb>花弁</rb><rt>はなびら</rt></ruby>さながらの、血汐がポッカリと浮かんで来た。と、次々に深紅の血汐が、ポカリポカリと水面へ浮かび、その辺一面見ている間に<ruby><rb>緋毛氈</rb><rt>ひもうせん</rt></ruby>でも敷いたように、<ruby><rb>唐紅</rb><rt>からくれない</rt></ruby>と一変した。

<ruby><rb>侶船</rb><rt>ともぶね</rt></ruby>の武士達はこれを見ると、いずれも<ruby><rb>蒼褪</rb><rt>あおざ</rt></ruby>めて騒ぎ立て、

「ご帰館ご帰館！」と叫ぶ者もある。

「灘兵衛が殺されたに相違ない」「悪魚の餌食となったのであろう」「いや巫女どもの復讐じゃ！」「水狐族めの復讐じゃ！」

「ご帰館ご帰館！」「船を廻せ！」互いに口々に<ruby><rb>詈</rb><rt>ののし</rt></ruby>り合う。

「待て！」とこの時頼正は、<ruby><rb>凛然</rb><rt>りんぜん</rt></ruby>として抑え付けた。「帰館する事<ruby><rb>罷</rb><rt>まか</rt></ruby>り成らぬ！　誰かある、湖中へ飛び入り灘兵衛の生死を見届けるよう！」

「…………」

これを聞くと船中の武士ども一度にハッと<ruby><rb>吐胸</rb><rt>とむね</rt></ruby>を突いた。誰も返事をする者がない。互いに顔を見合わせるばかりだ。

「誰かある誰かある、灘兵衛の生死確かめよ！」

<ruby><rb>船首</rb><rt>へさき</rt></ruby>に立った頼正は<ruby><rb>地団駄</rb><rt>じだんだ</rt></ruby>踏んで叫ぶのであったが、しかし進み出る者はない。

「臆病者め！　<ruby><rb>卑怯</rb><rt>ひきょう</rt></ruby>者め！　それほど悪魚が恐ろしいか！　それほど湖水が恐ろしいか！　三万石諏訪家の家中には、真の武士は一人もいないな！　止むを得ぬ俺が行く！　俺が湖中へ飛び込んで灘兵衛の生死確かめて遣わす！」

云うと一緒に頼正は羽織を背後へ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かなぐり</span>捨てた。<ruby><rb>仰天</rb><rt>ぎょうてん</rt></ruby>したのは侍臣である。バラバラと左右に取り付いたが、

「こは何事にござります！　千金の<ruby><rb>御身</rb><rt>おんみ</rt></ruby>にござりまする！　こは何事にござります！」

「放せ放せ！　放せと云うに！」

「殿！」とこの時進み出たのは諏訪家剣道指南番宮川武右衛門という老人であった。「殿、私が参りましょう」

「おお武右衛門、そち参るか」頼正は初めて機嫌を直したが、

「しかしそちは既に老年、この難役しとげられるかな？」

「は」と云うと武右衛門は膝の上へ手を置いて慎ましやかに一礼したが、「勝つも負けるも時の運。とは云え相手は妖怪か悪魚。それに安房の<ruby><rb>海男</rb><rt>あま</rt></ruby>とは云え勇力勝れた灘兵衛さえ不覚を取りました恐ろしい相手、十に九つこの老人も不覚を取るでござりましょう」

「不覚を取ると知りながら、尚その方参ると云うか」<ruby><rb>審</rb><rt>いぶ</rt></ruby>かしそうに頼正は訊く。

「はい、行かねばなりませぬ」「行かねばならぬ？　それは何故か？」「他に行く者ござりませぬ」

「いかさま……」と云うと頼正は<ruby><rb>憤</rb><rt>いきどお</rt></ruby>らし気に四方を見た。

「いえ、たとえ他にござりましても、この老人<ruby><rb>遮</rb><rt>さえぎ</rt></ruby>ってでもお役を勤めねばなりませぬ」

「はて、それはまた何故であろうな？」

「私、指南番にござります。剣道指南番にござります。しかるにこの頃私は老朽、役に立ちませぬ。それにも<ruby><rb>拘</rb><rt>かかわ</rt></ruby>らず大殿様はじめ若殿様におかれましても、昔通りご<ruby><rb>重用</rb><rt>ちょうよう</rt></ruby>くだされ、家中の者もこの老人を<ruby><rb>疎</rb><rt>おろそ</rt></ruby>かに扱おうとは致しませぬ。これ皆君家のご恩であること申し上げるまでもござりませぬ。かかる場合にこそこの老人、ご恩をお返し致さねばいつ<ruby><rb>酬</rb><rt>むく</rt></ruby>うこと出来ましょうや……さて」

と武右衛門はこう云って来てにわかに一膝<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いざり</span>出たが、「お願いの筋がござります」

一八

「願いの筋とな？　申して見るがよいぞ」――頼正は優しく云ったものである。

「もしも私不幸にして、悪魚の餌食となりました際には、なにとぞ今回のお企て、すぐにお取り止めくださいますよう。これがお願いにござります」

「それは成らぬ」と頼正は気の毒そうに頭を振った。

「そちは今回の企てを何んのためと思っておるな？」

「お<ruby><rb>好奇心</rb><rt>ものずき</rt></ruby>の結果と存じまする」「それが第一の考え違いだ。決して好奇心の結果ではない。諏訪家の恥辱を<ruby><rb>雪</rb><rt>そそ</rt></ruby>ぎたいためよ」「これはこれは不思議なご<ruby><rb>諚</rb><rt>じょう</rt></ruby>、私胸に落ちませぬ」「胸に落ちずば云って聞かせる、武田の家宝と称されおる諏訪法性の<ruby><rb>冑</rb><rt>かぶと</rt></ruby>なるもの元は諏訪家の宝であったが、信玄無道にしてそれを奪い、死後尚自分の死骸に着け、所もあろうに諏訪湖の底へ、石棺に封じて<ruby><rb>葬</rb><rt>ほうむ</rt></ruby>るとは、あくまで諏訪家を恥ずかしめた振る舞い、これは怒るが当然だ！　<ruby><rb>我</rb><rt>われ</rt></ruby>石棺を引き上げると云うも、法性の冑を奪い返し、家宝にしたいに他ならぬ。何んとこれでもこの企て、<ruby><rb>好奇心</rb><rt>ものずき</rt></ruby>の結果と考えるかな」

「いや」と武右衛門は顔を上げた。

「さようなご深慮とも<ruby><rb>弁</rb><rt>わきま</rt></ruby>えず、<ruby><rb>賢</rb><rt>さか</rt></ruby><span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しらだって</span><ruby><rb>諫言</rb><rt>かんげん</rt></ruby><ruby><rb>仕</rb><rt>つかまつ</rt></ruby>り今さら恥ずかしく存じまする」

「解ってくれたか。それで安心」

「ご免」と云うと武右衛門はスックとばかり立ち上がった。クルクルと帯を<ruby><rb>解</rb><rt>と</rt></ruby>く。

「いよいよ武右衛門湖水へ入る気か」

「殿、二言はござりませぬ」

「勇ましく思うぞ。きっと仕れ」

「は」

と云うと衣裳を脱ぎ、下帯へ短刀を<ruby><rb>手挟</rb><rt>たばさ</rt></ruby>むと、<ruby><rb>屹</rb><rt>きっ</rt></ruby>と水面を睨み詰めた。両手を頭上へ上げると見る間に、<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>るがように飛び込んだ。水の音、水煙り、姿は底へ沈んで行く。

頼正を始め家臣一同、歯を喰いしばり<ruby><rb>眦</rb><rt>まなじり</rt></ruby>を裂き、じっと水面に見入ったがしばらくは何んの変ったこともない。

と、<ruby><rb>忽然</rb><rt>こつぜん</rt></ruby>と浮き上がって来たのは、南無三宝！　血汐であった。

「あっ、武右衛門もやられたわ！」

頼正、躍り上がつて叫んだ時、水、ゴボゴボと湧き上がり、その割れ目から顔を出したのは、血にまみれた武右衛門である。

「それ、者ども、武右衛門を助けい！」

「あっ」と云うと二、三人、衣裳のまま飛び込んだが<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ち武右衛門を<ruby><rb>担</rb><rt>かつ</rt></ruby>ぎ上げる。

「腕！　腕！」と誰かが叫んだ。無残！　武右衛門の右の腕が肩の付け根から喰い取られている。

「<ruby><rb>負傷</rb><rt>ておい</rt></ruby>と見ゆるぞ、<ruby><rb>介抱</rb><rt>かいほう</rt></ruby>致せ！　……武右衛門！　武右衛門！　傷は浅い！　しっかり致せ！　しっかり致せ！」

「殿、湖底は地獄でござるぞ！」武右衛門は<ruby><rb>喘</rb><rt>あえ</rt></ruby>ぎ喘ぎ云うのであった。「巫女姿の一人の老婆……」

「巫女姿の一人の老婆？」頼正は思わず<ruby><rb>鸚鵡</rb><rt>おうむ</rt></ruby>返す。

「<ruby><rb>苔蒸</rb><rt>こけむ</rt></ruby>した石棺に腰をかけ」

「苔蒸した石棺に腰をかけ？」

「口に灘兵衛の生首をくわえ……」

「ううむ、灘兵衛の生首をくわえ？」

「私を見ると笑いましてござる。あ、あ、あ、笑いましてござる。……あ、あ、あ」

と云ったかと思うとそのままグッタリ首を垂れた。武右衛門は気絶をしたのである。

船中一時に<ruby><rb>寂然</rb><rt>しん</rt></ruby>となる。声を出そうとする者もない。湖底！　湖底！　湖水の底！　生首をくわえた水狐族の巫女が、苔蒸した石棺に腰かけている！　ああこの恐ろしい光景が、自分達の乗っている船の真下に、まざまざ存在していようとは。

息苦しい瞬間の沈黙を、頼正の声が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぶち</span>破った。

「帰館帰館！　船を返せ！」

ギー、ギー、ギー、ギー、二十隻の船から<ruby><rb>艪</rb><rt>ろ</rt></ruby>の音が物狂わしく<ruby><rb>軋</rb><rt>きし</rt></ruby>り出す。

今はほとんど順序もない、若殿のご座船を中に包み、後の船が先になり、先の船が後になり、高島城の水門を差し右往、左往に漕いで行く。

石棺引き上げの第一日目はこうして失敗に終わったのである。

<ruby><rb>爾来</rb><rt>じらい</rt></ruby>若殿頼正の心は<ruby><rb>怏々</rb><rt>おうおう</rt></ruby>として楽しまなかった。第二回目を試みようとしても応ずる者がないからである。

ある夜、一人城を出て、湖水の方へ<ruby><rb>彷徨</rb><rt>さまよ</rt></ruby>って行った。それは美しい明月の夜で湖水は銀のように輝いている。ふと、その時、頼正は、女の泣き声を耳にした。

湖水の岸に柳があり、その<ruby><rb>根方</rb><rt>ねかた</rt></ruby>に一人の女が、<ruby><rb>咽</rb><rt>むせ</rt></ruby>ぶがように泣いている。

頼正は静かに近寄って行った。

「見れば<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うら</span>若い娘だのに、何が悲しくて泣いておるぞ？」こう優しく云ったものである。

女はハッと驚いたように、急に根方から立ち上がったが、その女の顔を見ると、今度は頼正が<ruby><rb>吃驚</rb><rt>びっく</rt></ruby>りした。

月の光に化粧された、その女の<ruby><rb>容貌</rb><rt>きりょう</rt></ruby>が、余りにも美しく余りにも<ruby><rb>気高</rb><rt>けだか</rt></ruby>く、あまりにも<ruby><rb>﨟</rb><rt>ろう</rt></ruby>たけていたからである。

一九

照りもせず曇りもはてぬ春の夜の<ruby><rb>朧月夜</rb><rt>おぼろづきよ</rt></ruby>にしくものはなし。

<ruby><rb>敢</rb><rt>あえ</rt></ruby>て春の月ばかりではない、四季を通じて月の光は<ruby><rb>万象</rb><rt>ばんしょう</rt></ruby>の姿を美しく見せる。

湖水を背にしてスラリと立ち、顔を両袖に埋めながらすすりなきする乙女の姿は、今、月光に化粧されていよいよ益〻美しく見える。諏訪家の若殿頼正にはそれがあたかも天上から来た霊的の物のように見えるのであった。

「このような深夜にこのような処で若い<ruby><rb>女子</rb><rt>おんな</rt></ruby>がただ一人何が悲しくて泣いておるぞ」

こう云いながら頼正は乙女の側へ寄って行った。

「<ruby><rb>私</rb><rt>わし</rt></ruby>は怪しい者ではない。<ruby><rb>相等</rb><rt>そうとう</rt></ruby>の官位のある者だ。心配するには及ばない。私に事情を話すがよい。そなたはどこから参ったな？」

すると乙女は泣く<ruby><rb>音</rb><rt>ね</rt></ruby>を止め、わずかに袖から顔を上げたが、

「<ruby><rb>京都</rb><rt>みやこ</rt></ruby>の産まれでございます」

「ナニ<ruby><rb>京都</rb><rt>みやこ</rt></ruby>？　おおさようか。京都は<ruby><rb>帝京</rb><rt>ていきょう</rt></ruby>、天子<ruby><rb>在</rb><rt>いま</rt></ruby>す処、この信濃からは遠く離れておる。しかしよもやただ一人で京都から参ったのではあるまいな」

「京都から参ったのでございます」

「うむ、そうしてただ一人でか？」

「<ruby><rb>誘拐</rb><rt>かどわか</rt></ruby>されたのでございます」

「誘拐された？　それは気の毒。で、何者に誘拐されたな？」

「ハイ、今から二十日ほど前、乳母を連れて清水寺に参詣に参った帰路、人形使いに身を<ruby><rb>俏</rb><rt>やつ</rt></ruby>した恐ろしい恐ろしい<ruby><rb>人買</rb><rt>ひとか</rt></ruby>いに誘拐されたのでございます」

「おおさようか、益〻気の毒、さぞ<ruby><rb>両親</rb><rt>ふたおや</rt></ruby>が案じていよう、計らず逢ったも何かの縁、人を付けて帰して遣わす」

「はい有難うはございますが、母と<ruby><rb>妾</rb><rt>わたくし</rt></ruby>とは<ruby><rb>継</rb><rt>まま</rt></ruby>しい仲、たとえ実家へ帰りましても<ruby><rb>辛</rb><rt>つら</rt></ruby>いことばかりでございます」乙女はまたも﨟たけた顔を袖へ埋めて泣くのであった。

「かえすがえすも不幸な身の上、はてこれは困ったことだ」頼正はその眼を<ruby><rb>顰</rb><rt>ひそ</rt></ruby>めたが、「ところで<ruby><rb>誘拐</rb><rt>かどわかし</rt></ruby>の人買いは今どこに何をしておるぞ？」

「どこにどうしておりますやら、和田峠とやら申す山で、ようやく人買いの眼を<ruby><rb>眩</rb><rt>くら</rt></ruby>ませ、夢中でここまで逃げては来ましたが、<ruby><rb>知人</rb><rt>しりびと</rt></ruby>はなし<ruby><rb>蓄</rb><rt>たくわ</rt></ruby>えもなし、うろうろ<ruby><rb>徘徊</rb><rt>さまよ</rt></ruby>っておりますうちには乞食非人に<ruby><rb>堕</rb><rt>お</rt></ruby>ちようとも知れず、また恐ろしい人買いなどに捕えられないものでもなし、それより<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>なこの湖水へいっそ身を投げ死んだなら、<ruby><rb>黄泉</rb><rt>あのよ</rt></ruby>の実の母様にお目にかかることも出来ようかと……」

「それでここで泣いていたのか？」

「はい」と云って身を顫わせる。

月は益〻<ruby><rb>冴</rb><rt>さ</rt></ruby>え返って乙女の全身は<ruby><rb>透通</rb><rt>すきとお</rt></ruby>るかとばかり、蒼白い光に<ruby><rb>煙</rb><rt>けぶ</rt></ruby>っている。その肩の辺に<ruby><rb>縺</rb><rt>もつ</rt></ruby>れかかった崩れた髪の乱らがましさ、顔を隠した袖を抜けてクッキリと白い<ruby><rb>富士額</rb><rt>ふじびたい</rt></ruby>、腰細く<ruby><rb>丈</rb><rt>たけ</rt></ruby>高く、<ruby><rb>艶</rb><rt>えん</rt></ruby>と<ruby><rb>凄</rb><rt>せい</rt></ruby>とを備えた<ruby><rb>風情</rb><rt>ふぜい</rt></ruby>には、人を悩ますものがある。二十一歳の今日まで無数の美女に<ruby><rb>侍</rb><rt>かしず</rt></ruby>かれながら、人を恋したことのない武道好みの頼正も、この時はじめて胸苦しい血の湧く思いをしたのである。

「そうしてそちの名は何んと云うぞ？」

「はい、<ruby><rb>水藻</rb><rt>みずも</rt></ruby>と申します」

「水藻、水藻、しおらしい名だ。これからそちはどうする気だな？」

「はい、どうしたらよろしいやら、いっそやっぱり湖水の底へ……どうぞ死なしてくださりませ！　どうぞ死なしてくださりませ！」物狂わしく身をもがく。

「この頼正がある限りは決してそちは死なしはせぬ。何故そのように死にたいぞ？」

「憐れな身の上でございますゆえ……」

「この頼正がある限りはお前は不幸に沈ませては置かぬ。それともそちは<ruby><rb>私</rb><rt>わし</rt></ruby>が嫌いか？」

云い云い肩へ手を置いた。水藻はそれを避けようともしない。堅く身を縮めるばかりである。

「返辞のないは<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>と見える」

<ruby><rb>水藻</rb><rt>みずも</rt></ruby>は無言で首を振る。

「それともそちは恥ずかしいか？」

乙女は黙って頷いた。

「まだそちは死にたいか？」

「死ぬのが厭になりました」

「楽しく二人で生きようではないか」

水藻は袖から顔を上げたが涙に濡れた星のような眼が、この時かすかに<ruby><rb>微笑</rb><rt>ほほえ</rt></ruby>んだ。

「おお笑ったな。そうなくてはならぬ。<ruby><rb>私</rb><rt>わし</rt></ruby>も寂しい身の上だ。不足のない身分ながら、いつも寂しく日を送って来た。だがこれからは慰められよう。私は事業を恋と換えた。恋の<ruby><rb>美酒</rb><rt>うまざけ</rt></ruby>に酔い<ruby><rb>痴</rb><rt>し</rt></ruby>れよう。ほんとに男と云うものは、身も魂も何物かに打ち込まなければ生き<ruby><rb>甲斐</rb><rt>がい</rt></ruby>がない。私はこれまで荒々しい武道と事業とで生きて来た。それがいよいよ行き詰まったところで計らずも女の恋を得た。これで楽しく生きることが出来る。お前は私の恩人だ。そうして私の恋人だ。私はお前を放しはせぬ」彼の顔からは<ruby><rb>憂欝</rb><rt>ゆううつ</rt></ruby>が消え、新しく希望が現われたのである。

二〇

こういう事があってから十日余りの日が経った。その時諏訪の家中一般に一つの噂が拡まった。

――若殿が毎夜城を出てどこかへ行かれるというのである。――

――それから間もなく若殿に関してもう一つの噂が拡まった。若殿にはこの頃隠し女が出来てそこへ通われるというのである。――

で、人達は取り沙汰した。

「武道好みの若殿に女が出来たとは面白いな」

「さて、どんな女であろうぞ？」「いったい何者の娘であろうな？」「家中の者の娘であろうか？」「それとも他国の遊女売女かな？」「湖水の石棺を引き上げようというあの乱暴な<ruby><rb>計画</rb><rt>もくろみ</rt></ruby>がどうやらお蔭で止めになったらしい。これだけでも有難い」「女大明神と<ruby><rb>崇</rb><rt>あが</rt></ruby>めようぞ」「それにしてもその女はどこに囲われているのであろう？」「どうぞ一眼見たいものだ」「いずれ美人に相違あるまい」「石部金吉の若殿をころりと<ruby><rb>蕩</rb><rt>たら</rt></ruby>した女だからの、それは美人に相違ないとも」「いやいや案外そうではあるまい。奇抜好みの若殿だ、<ruby><rb>人</rb><rt>にん</rt></ruby>三<ruby><rb>化</rb><rt>ばけ</rt></ruby>七の<ruby><rb>海千物</rb><rt>うみせんもの</rt></ruby>を可愛がっておられるに違いない」「ははあこれももっともだな」「<ruby><rb>轆轤</rb><rt>ろくろ</rt></ruby>ッ首ではあるまいかな」「夜な夜な<ruby><rb>行灯</rb><rt>あんどん</rt></ruby>の油を<ruby><rb>嘗</rb><rt>な</rt></ruby>めます」「一つ目の<ruby><rb>禿</rb><rt>かむろ</rt></ruby>ではあるまいかな」「信州名物の雪女とはどうだ」「ところが今は冬ではない」「ううん、それじゃ夏女か」「そんな化物聞いたこともない」「<ruby><rb>河童</rb><rt>かっぱ</rt></ruby>の化けたんじゃあるまいかな」「<ruby><rb>永明寺山</rb><rt>えいめいじやま</rt></ruby>の狸かも知れぬ」「<ruby><rb>唐沢山</rb><rt>からさわやま</rt></ruby>の狐であろう」「いや<ruby><rb>狢</rb><rt>むじな</rt></ruby>だ」「いや<ruby><rb>河獺</rb><rt>かわうそ</rt></ruby>よ」「いやいや<ruby><rb>鼯鼠</rb><rt>むささび</rt></ruby>に相違ない」――噂は噂を産むのであった。

そのうち、家中の人達の眼に、当の若殿頼正が、日に日に<ruby><rb>凄</rb><rt>すご</rt></ruby>いように衰弱するのが、不思議な事実として映るようになった。

――そこでまた噂が拡まった。

「これは魅入られたに違いない。いよいよ相手は<ruby><rb>怪性</rb><rt>けしょう</rt></ruby>の物だ」「狢かな河童かな。きっと岡谷の河童であろう」「いや違う。そうではあるまい、これは水狐族に相違ない」

「あッ、なるほど！」

と人々は、この意見に<ruby><rb>胆</rb><rt>きも</rt></ruby>を<ruby><rb>潰</rb><rt>つぶ</rt></ruby>した。

「いかさまこれは水狐族であろう。水狐族なら<ruby><rb>祟</rb><rt>たた</rt></ruby>る筈だ」

「そうだこれは祟る筈だ。<ruby><rb>彼奴</rb><rt>きゃつ</rt></ruby>らが永い間守り本尊として守護をして来た湖水の石棺を引き上げようとしたのだからな」「彼奴らの仲間には眼の覚めるような美しい女がいるという事だ」「しかもあいつらは魔法使いだ」「その上恐ろしく執念深い」「偉い物に魅入られたぞ」「若殿のお命もあぶなかろう」「お助けせねば義理が立たぬ」「臣下として不忠でもあろう」「しかしいったいどうしたらいいのだ？」「何より先に<ruby><rb>行</rb><rt>や</rt></ruby>ることは女の<ruby><rb>在家</rb><rt>ありか</rt></ruby>を突き止めることだ」

「しかしどうして突き止めたものか？」

「誰が一番適任かな？」

「拙者突き止めてお眼にかける！」

こう豪然と云った者がある。佐分利流の槍術指南<ruby><rb>右田運八</rb><rt>みぎたうんぱち</rt></ruby>無念斎であった。

「お、右田殿か、これは適任」

「さよう、これは適任でござる」

人々は同音に<ruby><rb>煽</rb><rt>あお</rt></ruby>り立てた。「是非ともご苦労願いたいもので」

「よろしゅうござる、引き受け申した。たかが相手は水狐族の娘、拙者必ず槍先をもって悪魔退散致させましょう」

――で、運八はその日の夜、手慣れた槍を小脇に抱え、城の奥殿若殿のお部屋の、庭園の中へ忍び込み、様子いかにと窺った。

深夜の風が植え込みに当たり、ザワザワザワザワと音を立て、曇った空には星影もなく、城内の人々寝静まったと見え森閑として物凄い。その時雨戸が音もなく開き人影が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひらり</span>と下り立った。他ならぬ若殿頼正である。

眼に見えぬ糸に曳かれるように、<ruby><rb>傍目</rb><rt>わきめ</rt></ruby>もふらず頼正は、スーッ、スーッと歩いて行く。

すると裏門の<ruby><rb>潜</rb><rt>くぐ</rt></ruby>り戸が、これも人あって開けるかのように、音も立てずスーッと開いた。それを抜けて城外へ出る。犬を吠えず鶏も啼かぬ<ruby><rb>寥々寂々</rb><rt>りょうりょうせきせき</rt></ruby>たる屋敷町を流星のように走り過ぎる。向かう行手は神宮寺であろう。その方角へ走って行く。

「さてこそ」と運八は思いながら、二間あまりの間隔を取りこれも負けずに<ruby><rb>直走</rb><rt>ひたはし</rt></ruby>る。

町を抜けると<ruby><rb>野良</rb><rt>のら</rt></ruby>である。野良の細道を二個の人影が、足音も立てずに走って行く。間もなく<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こんもり</span>とした森へ出た。頼正は森の中へ走り込む。で、運八も走り込み、やがてその森を抜けた時には、頼正の姿は見えなかった。

「これは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しまった</span>」と呟いた時、一人の老婆が向こうから来た。何やら思案をしていると見えて、首を深く垂れている。

「ご老婆ちょっと物を尋ねる」

運八は<ruby><rb>切急</rb><rt>せっきゅう</rt></ruby>に声を掛けた。「立派な若いお侍が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たった</span>今この道を行った筈。そなた見掛けはしなかったかな？」

二一

老婆は返辞をしなかった。何やら音を立てて食っている。そうしてクスクス笑っているらしい。

「年寄りの<ruby><rb>分際</rb><rt>ぶんざい</rt></ruby>で無礼な奴！　これ返辞を何故しない」

右田運八は怒鳴りながら老婆の肩をムズと掴んだ。しかし老婆は返辞をしない。やはり<ruby><rb>俯向</rb><rt>うつむ</rt></ruby>いて笑っている。そうして何か食っている。クックッと云うのは笑い声であり、ビチャビチャと云うのは物を食う音だ。

運八はいよいよ<ruby><rb>激昂</rb><rt>げっこう</rt></ruby>し肩へ掛けた手へ力を入れた。と、その手がにわかに<ruby><rb>痲痺</rb><rt>しび</rt></ruby>れ不意に老婆が顔を上げた。白金のような白髪を冠った朱盆のような<ruby><rb>赭</rb><rt>あか</rt></ruby>い顔が暗夜の中に浮いて見えたが、口にも鼻にも頬顎にもベッタリ生血が附いている。両手でしっかり抱えているのは半分食いかけた生首である。切り口から血汐が<ruby><rb>滴</rb><rt>したた</rt></ruby>っている。それは灘兵衛の首であった。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はっ</span>と思ったその瞬間運八はグラグラと眼が<ruby><rb>眩</rb><rt>まわ</rt></ruby>った。それから彼はバッタリ倒れ、そのまま気絶をしたのである。

数人の百姓に<ruby><rb>介抱</rb><rt>かいほう</rt></ruby>され、彼が気絶から<ruby><rb>甦生</rb><rt>よみがえ</rt></ruby>った時には、その翌日の朝の陽が高く空に昇っていた。

この運八の失策は<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ち城下の評判となり武士と云わず町人と云わずすっかり<ruby><rb>怖気</rb><rt>おぞけ</rt></ruby>を<ruby><rb>揮</rb><rt>ふる</rt></ruby>ってしまい、日の暮れるのを合図にして人々は戸外へ出ようともしない。<ruby><rb>頓</rb><rt>とみ</rt></ruby>に城下は<ruby><rb>寂</rb><rt>さび</rt></ruby>れ返り諏訪家の武威さえ疑われるようになった。

しかるに若殿頼正は依然として城を抜け出してどこへともなく通って行く。そうして日に夜に衰弱する。<ruby><rb>祟</rb><rt>たた</rt></ruby>り！　祟り！　水狐族の祟り！　いったいどうしたらよいのであろう！

この奇怪な諏訪家の噂は、伊那の内藤家へも聞こえて来た。

ある日、駿河守正勝は鏡葉之助をお側へ召したが、

「気の毒ながら諏訪家へ参り、<ruby><rb>妖怪</rb><rt>あやかし</rt></ruby>見現わしてはくれまいかな」さも余儀なげに頼んだものである。

「は」と云ったが葉之助は迷惑そうな顔をした。

「諏訪家と当家とは縁辺である。聞き捨て見捨てにもなるまいではないか」

「他に人はござりますまいか？」

「そちに限る。そちに限る。何故と申すに他でもない大鳥井紋兵衛を苦しめた得体の知れなかった妖怪も、一度そちが見舞って以来姿を潜めたというではないか。そちに威徳があればこそだ。<ruby><rb>私</rb><rt>わし</rt></ruby>から頼む、参ってくれ」

「いかなる名義で参りましょうや？」

「当家からの使者としてな。若殿頼正の病気見舞いとしてな」

「やむを得ませぬ、ご<ruby><rb>諚</rb><rt>じょう</rt></ruby>かしこみ、ともかくも参ることに致しましょう」

「首尾よくやれば当家の名誉。諏訪家においても恩に着よう。さていつ<ruby><rb>頃</rb><rt>ごろ</rt></ruby>出立するな？」

「事は急ぐに限ります。明早朝お<ruby><rb>暇</rb><rt>いとま</rt></ruby>を<ruby><rb>賜</rb><rt>たま</rt></ruby>わり、諏訪へ参るでござりましょう」

「供揃い美々しく致すよう」

――で、その翌朝、大供を従え、鏡葉之助は発足した。<ruby><rb>玲瓏</rb><rt>れいろう</rt></ruby>たる好風貌、馬上<ruby><rb>手綱</rb><rt>たづな</rt></ruby>を掻い繰って、草木森々たる峠路を伊那から諏訪へ歩ませて行く。進物台、<ruby><rb>挿箱</rb><rt>はさみばこ</rt></ruby>、大鳥毛、<ruby><rb>供奴</rb><rt>ともやっこ</rt></ruby>、まことに立派な使者振りである。

中一日を旅で暮らし、その翌日諏訪へ着いたが<ruby><rb>既</rb><rt>すで</rt></ruby>に<ruby><rb>飛脚</rb><rt>ひきゃく</rt></ruby>はやってある。使者の行くことはわかっている、諏訪家では<ruby><rb>態々</rb><rt>わざわざ</rt></ruby>人を出し、国境まで迎えさせたが、まず休息というところから城内新築の別館へ<ruby><rb>丁寧</rb><rt>ていねい</rt></ruby>に葉之助を<ruby><rb>招待</rb><rt>むかえいれ</rt></ruby>た。

翌日が正式の会見日である。

その夜諏訪から重役が幾人となく<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>に来たが、<ruby><rb>千野兵庫</rb><rt>ちのひょうご</rt></ruby>が来た時であった、葉之助は卒然と訊いた。

「お家は代々文学のお家柄、蔵書など沢山ござりましょうな？」

「さよう、<ruby><rb>相等</rb><rt>そうとう</rt></ruby>ござります」

「文庫拝見致したいもので」

「いと<ruby><rb>易</rb><rt>やす</rt></ruby>いこと、ご案内致しましょう」

兵庫は葉之助を導いて書籍蔵へ案内した。実に立派な文庫である。万巻に余る古今の書が整々然として並べられてある。

葉之助は心中感に耐えながら「ス」の部を根気よく調査したが、その結果ようやく探し当てたのは「水狐族縁起」という写本であって、部屋に戻ると葉之助は熱心にそれを読み出した。

水狐族なるものの発生とその宗教の<ruby><rb>輪廓</rb><rt>りんかく</rt></ruby>とが<ruby><rb>朧気</rb><rt>おぼろげ</rt></ruby>ながらも解って来た。

――平安朝時代のことであるが、この諏訪の国の湖水の岸に一個の城が<ruby><rb>聳</rb><rt>そび</rt></ruby>えていた。城の<ruby><rb>主人</rb><rt>あるじ</rt></ruby>を<ruby><rb>宗介</rb><rt>むねすけ</rt></ruby>と云いその<ruby><rb>許婚</rb><rt>いいなずけ</rt></ruby>を<ruby><rb>柵</rb><rt>しがらみ</rt></ruby>と云ったが柵は宗介を愛さずに宗介の弟の夏彦を命を掛けて恋した果て、その夏彦の種を宿し産み落とした娘を久田姫と云った。これぞ悲劇の始まりで、宗介と夏彦とは兄弟ながら<ruby><rb>恋敵</rb><rt>こいがたき</rt></ruby>として闘った。

二二

<ruby><rb>諏訪湖</rb><rt>すわこ</rt></ruby>にまたは天竜川に、二人の兄弟は十四年間血にまみれながら闘ったが、その間<ruby><rb>柵</rb><rt>しがらみ</rt></ruby>と久田姫とは<ruby><rb>荒廃</rb><rt>あれ</rt></ruby>た古城で天主教を信じ<ruby><rb>佗</rb><rt>わび</rt></ruby>しい月日を送っていた。十四年目に宗介は弟夏彦の<ruby><rb>首級</rb><rt>くび</rt></ruby>を持ち<ruby><rb>己</rb><rt>おの</rt></ruby>が城へ帰っては来たがもうその時には柵は<ruby><rb>喉</rb><rt>のど</rt></ruby>を突いて死んでいた。

「俺はあらゆる人間を呪う。俺は浮世を呪ってやる！」こう叫んだ宗介が八ヶ嶽へ走って<ruby><rb>眷属</rb><rt>けんぞく</rt></ruby>を集めあらゆる悪行を働いた後、活きながら魔界の天狗となりその眷属は<ruby><rb>窩人</rb><rt>かじん</rt></ruby>と称し、人界の者と交わらず一部落を造ったということは、この物語の冒頭において詳しく記したところであるが、一人残った久田姫こそ、いわゆる水狐族の祖先なのであって、父夏彦の首級を<ruby><rb>介</rb><rt>かか</rt></ruby>えた憐れな<ruby><rb>孤児</rb><rt>みなしご</rt></ruby>の久田姫は、その後一人城を離れ神宮寺村に<ruby><rb>住居</rb><rt>すまい</rt></ruby>して、聖母マリヤと神の子イエスとを、守り本尊として<ruby><rb>生活</rb><rt>くら</rt></ruby>したが、次第に同志の者も出来、窩人部落と対抗しここに一部落が出来上がり、宗教方面では天主教以外に日本古来の神道の一派<ruby><rb>中御門派</rb><rt>なかみかどは</rt></ruby>の陰陽術を加味し、西洋東洋一味合体した不思議な宗教を樹立したのである。そうして彼らの<ruby><rb>長</rb><rt>おさ</rt></ruby>たる者は必ず久田の名を<ruby><rb>宣</rb><rt>なの</rt></ruby>り、若い時には久田姫、老年となって久田の<ruby><rb>姥</rb><rt>うば</rt></ruby>と、こう呼ぶことに決っていた。そうして彼らの長となる者は必ず女と決っていた。

彼ら部落民全体を通じて最も特色とするところは、男女を問わず<ruby><rb>巫女</rb><rt>みこ</rt></ruby>をもって商売とするということと、部落以外の人間とは<ruby><rb>交際</rb><rt>まじわ</rt></ruby>らないということと、窩人を終世の仇とすることと、妖術を使うということなどで、わけても彼らの<ruby><rb>長</rb><rt>おさ</rt></ruby>となるものは、今日の言葉で説明すると、千里眼、千里耳、催眠術、精神分離、<ruby><rb>夢遊行</rb><rt>むゆうこう</rt></ruby>、人心観破術というようなものに、恐ろしく達しているのであった。……

「ふうむ、そうか」

と葉之助は、写本を一通り読んでしまうと、驚いたように呟いた。

「容易ならない敵ではある。それに人数が多すぎる。一部落の人間を相手としては、いかほど武道に達した者でも、討ち果たすことは<ruby><rb>困難</rb><rt>むずかし</rt></ruby>かろう。これは充分考えずばなるまい。……いや待てよ、そうでもない。彼らの長さえ討ち取ったなら、諏訪家に<ruby><rb>纏</rb><rt>まつ</rt></ruby>わる<ruby><rb>禍</rb><rt>わざわ</rt></ruby>いだけは断ち切ることが出来ようも知れぬ。うむ、そうだ、この一点へ、ひとつ心を集めて見よう」

森閑と更けた城内の夜、別館客座敷の真ん中に坐り葉之助はじっと考え込んだが、

「考えていても仕方がない。味方を知り敵を知るは必勝の法と兵学にもある。これから<ruby><rb>窃</rb><rt>こっそ</rt></ruby>り出かけて行き、水狐部落の様子を見よう」

スッと立って廻廊へ出、雨戸を開けると庭へ出た。城の裏門までやって来ると一人の番人が立っていた。

「どなたでござるな？　どこへおいでなさる？」

「拙者は内藤家より使者の者、所用あって城下へ出ます。早々小門をお開けくださるよう」

「はっ」と云って<ruby><rb>式体</rb><rt>しきたい</rt></ruby>したが、「たとえいかなるご<ruby><rb>仁</rb><rt>じん</rt></ruby>に致せ、刻限過ぎにござりますれば開門いたすことなりませぬ」

「ほほう、いかなる人といえども刻限過ぎにはこの小門を通行致すことなりませぬとな」

「諏訪家の<ruby><rb>掟</rb><rt>おきて</rt></ruby>にござります」

「しかるに毎夜その掟を破り他出する者がござるとのこと、何んと不都合ではござらぬかな」

「いやいや決してさような者、諏訪家家中にはおりませぬ」

「いやいや家中の<ruby><rb>侍衆</rb><rt>さむらいしゅう</rt></ruby>ではない。ご一門中の立派なお方だ」

「はて、どなたでございましょうや？」

「すなわち若殿頼正公」

「あッ、なるほど！」と思わず云って門番はキョトンと眼を丸くした。

「何んとでござるな。一言もござるまい」

葉之助は笑ったものである。

「いや一言もござりませぬ」

「しからば開門なさるよう」

「やむを得ぬ儀、いざお通り」

ギーと門番は門を開けた。ポンと潜った葉之助は、昼間あらかじめ調べて置いた、野良の細道をサッサッと神宮寺村の方へ歩いて行く。遅い月が出たばかりで<ruby><rb>野面</rb><rt>のづら</rt></ruby>は<ruby><rb>蒼茫</rb><rt>そうぼう</rt></ruby>と光っている。微風に<ruby><rb>鬢</rb><rt>びん</rt></ruby>の毛を吹かせながら<ruby><rb>急</rb><rt>せ</rt></ruby>かず<ruby><rb>焦心</rb><rt>あせ</rt></ruby>らず歩いて行くものの心の中ではどうしたものかと、策略を巡らしているのであった。

間もなく遥かの行手に当たって水狐族の部落が見渡された。家数にして百軒余り、人数にして三百人もあろうか、今はもちろん寝静まっていて人影一つ見えようともしない。夜眼にハッキリとは解らないが、家の造り方も<ruby><rb>尋常</rb><rt>なみ</rt></ruby>と<ruby><rb>異</rb><rt>ちが</rt></ruby>い、きわめて原始的のものらしく、ひときわ眼立つ一軒の<ruby><rb>大厦</rb><rt>たいか</rt></ruby>は、部落の長の邸であろう。あたかも古城のそれのように、<ruby><rb>千木</rb><rt>ちぎ</rt></ruby>や<ruby><rb>勝男木</rb><rt>かつおぎ</rt></ruby>が立ててある。そうして屋根は<ruby><rb>妻入式</rb><rt>つまいりしき</rt></ruby>であり、邸の四方に<ruby><rb>廻縁</rb><rt>かいえん</rt></ruby>のある様子は、神明造りを想わせる。

と、<ruby><rb>忽然</rb><rt>こつぜん</rt></ruby>その辺から音楽の<ruby><rb>音</rb><rt>ね</rt></ruby>が聞こえて来た。

「はてな？」と呟いて葉之助は思わず足を止めたものである。

二三

音楽の音は<ruby><rb>幽</rb><rt>かす</rt></ruby>かではあるが<ruby><rb>美妙</rb><rt>びみょう</rt></ruby>な<ruby><rb>律呂</rb><rt>りつりょ</rt></ruby>を持っている。楽器は<ruby><rb>羯鼓</rb><rt>かっこ</rt></ruby>と笛らしい。<ruby><rb>鉦</rb><rt>かね</rt></ruby>の音も時々聞こえる。

葉之助はしばらく聞いていたがやがて忍びやかに寄って行った。木蔭に隠れて向こうを見ると、神明造りの館の庭に数人の女が坐っていたが、いずれも若い水狐族の女で、一人は笛、一人は羯鼓、一人は鉦を叩いている。そうして一人の<ruby><rb>老年</rb><rt>としより</rt></ruby>の女が、その<ruby><rb>中央</rb><rt>まんなか</rt></ruby>に坐っていたが何やら熱心に祈っているらしい。チン、チン、チンと鉦の音、カン、カン、カンと羯鼓の音、それを縫って笛の音がヒュー、ヒュー、ヒューと鳴り渡る。それが<ruby><rb>睡気</rb><rt>ねむたげ</rt></ruby>な調和をなし、月夜を通して響き渡る。

静かに老婆は立ち上がった。それから両手を差し出した。それを上下へ上げ下げする。何かを招いているらしい。

と、城下の方角から、一つの黒点があらわれたが、それが風のように走って来る。魔法使いの老婆の手が遥かに<ruby><rb>犠牲</rb><rt>いけにえ</rt></ruby>を呼んだのでもあろう。チン、チン、チン、カン、カン、カン、ヒュー、ヒューと音楽の音は次第次第に調子を早め、上げ下げをする老婆の手がそれに連れて速くなる。黒点は次第に近寄って来る。点が棒になり棒が人形となり、月の光を全身に浴びた一人の若い侍の姿が、やがて眼前へ現われた。諏訪家の若殿頼正である。

三人の女と老婆とは、にわかにスーッと立ち上がった。そうして音楽を奏しながら階段を悠々と昇り出した。やはり老婆は左右の手を上へ下へと上げ下げする。やがて屋内へ姿を消した。

頼正の眼は見開かれている。<ruby><rb>凝然</rb><rt>じっ</rt></ruby>と前方へ注がれている。しかし眠っているらしい。ただ足ばかりが機械的に動く。階段の前へ来たかと思うともう階段を昇っている。あたかも物に引かれるように、<ruby><rb>躯</rb><rt>からだ</rt></ruby>を斜めに<ruby><rb>傾</rb><rt>かし</rt></ruby>げたかと思うとスーッと屋内へ<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>り込んだ。

後は<ruby><rb>森然</rb><rt>しん</rt></ruby>と静かである。音楽の音も聞こえない。

木蔭で見ていた葉之助は何がなしにゾッとした。

「……水狐族の妖術だな。あの老婆が<ruby><rb>長</rb><rt>おさ</rt></ruby>なのであろう。人を音楽で引き寄せる。不思議なことがあればあるものだ。……家の中で何をしているのだろう？」

強い好奇心に誘われて静かに葉之助は木蔭を立ち出で、階段へ足をそっと掛け一階二階と昇って見た。とたんにヒューと空を切って一本の投げ棒が飛んで来たが、葉之助の足を払おうとする。ハッと驚いた葉之助は、身を躍らせて階段からヒラリと地上へ飛び下りた。しかしどこにも人影はない。月の光が蒼茫と前庭一杯に射し込んでいた。木立や<ruby><rb>家影</rb><rt>いえかげ</rt></ruby>を黒々と地に<ruby><rb>印</rb><rt>しる</rt></ruby>しているばかりである。

葉之助はまたもゾッとした。「帰った方がよさそうだ」こう思わざるを得なかった。そこで彼は身を忍ばせ水狐部落を抜け出し、野良の細道をスタスタと湖水の岸まで引き返して来た。

一人の女が湖水の岸の柳の蔭に立っている。どうやら泣いているらしい。

「これ女中どうなされたな？」

葉之助は怪しんで近寄って行った。見れば美しい娘である。

「このような<ruby><rb>深夜</rb><rt>よふけ</rt></ruby>にこのような所で、何を泣いておられるな？」

「はい」と云ったがその娘は顔から袖を放そうとはしない。白い頸、崩れた髪、なよなよとした腰の<ruby><rb>辺</rb><rt>あた</rt></ruby>り、男の心を恋に誘い、乱らがましい心を起こさせようとする。

「どこのお方で何んと云われるな？」

葉之助は優しくまた訊いた。

「産まれは<ruby><rb>京都</rb><rt>みやこ</rt></ruby>、名は<ruby><rb>水藻</rb><rt>みずも</rt></ruby>、恐ろしい<ruby><rb>人買</rb><rt>ひとか</rt></ruby>いにさらわれまして……」

「いやいやそうではござるまい」鏡葉之助は静かに云った。

「生れは神宮寺、名は久田……」

「え？」と娘は顔を上げる。

「馬鹿！」と一喝、葉之助は、抜き打ちに<ruby><rb>颯</rb><rt>さっ</rt></ruby>と切り付けた。と、娘は狼狽しながらも、ピョンと背後へ飛び退くと、袖を手に巻きキリキリと頭上高く差し上げたが、それをグルグルグルグルと、渦巻きのように廻したものである。

心に隙はなかったが、相手の不思議の振る舞いを怪しく思った葉之助は、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">じっと</span>その手へ眼を付けた。次第に精神が恍惚となる。すなわち今日の催眠術だ。葉之助はそれへ掛かったのである。「あ、やられた」と思った時には、身動きすることさえ出来なかった。月も湖水も柳の木も、娘の姿ももう見えない。グルグルグルグルと渦巻き渦巻く奇怪な物象が眼の前で、空へ空へ空へ空へ、高く高く高く高く、ただ立ち昇るばかりである。

彼は刀を握ったまま湖水の岸へ転がった。彼は昏々と眠ったのである。そうして翌朝百姓によって呼び覚まされたその時には、腰の大小から衣裳まで<ruby><rb>悉</rb><rt>ことごと</rt></ruby>く剥ぎ取られていたものである。

二四

これは武士たる葉之助にとっては云いようもない恥辱であった。

彼は城内の別館で、<ruby><rb>爾来</rb><rt>じらい</rt></ruby>客を避けて閉じ籠もった。そうして病気を口実に、正式の使者の会見をさえ延期しなければならなかった。

しかし<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ちこの噂は城の内外へ拡まった。

「内藤家より参られた病気見舞いの使者殿が不思議なご病気になられたそうな」

「さよう不思議なご病気にな。一名<ruby><rb>仮病</rb><rt>けびょう</rt></ruby>とも云われるそうな」「不面目病とも申されるそうな」「<ruby><rb>恥晒</rb><rt>はじさ</rt></ruby>らし病とも申されるそうな」――などと悪口を云う者もある。どう云われても葉之助にはそれに反抗する言葉がない。

「噂によれば葉之助という<ruby><rb>仁</rb><rt>ひと</rt></ruby>は、内藤殿のご家中でも昼行灯と異名を取った<ruby><rb>迂濶</rb><rt>うかつ</rt></ruby>者だということであるが、それが正しく事実ならさような人間を使者によこされた内藤家こそ不届き千万」こう云う者さえ出て来るようになった。

「いやいやそれは中傷で、葉之助殿は非常な武芸者、高遠城下で<ruby><rb>妖怪</rb><rt>もののけ</rt></ruby>を退治し、武功を現わしたということでござる」<ruby><rb>稀</rb><rt>まれ</rt></ruby>にはこう云って葉之助を、弁護しようとする者もあった。

「何さ、高遠の妖怪は諏訪の妖怪と事<ruby><rb>異</rb><rt>かわ</rt></ruby>り<ruby><rb>意気地</rb><rt>いくじ</rt></ruby>がないのでござろうよ」などと皮肉を云う者もある。一方若殿頼正は、誰がどのように警護しても、時刻が来れば<ruby><rb>忽然</rb><rt>こつぜん</rt></ruby>と抜け出し、城から姿を隠すのであった。そうして日夜衰弱し、死は時間の問題となった。

しかも、葉之助は<ruby><rb>寂然</rb><rt>せきぜん</rt></ruby>と、別館に深く籠もっていて、他出しようともしないのである。

ある日葉之助はいつも通り別館の座敷に端座して<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">じっと</span>思案に<ruby><rb>耽</rb><rt>ふけ</rt></ruby>っていた。彼の前には、「水狐族縁起」が、開いたままで置いてある。彼は今日までに幾度となくこの写本を読み返した。そうしてこの中から何らかの光明何らかの活路を<ruby><rb>発見</rb><rt>みつけだ</rt></ruby>そうとした。しかし不幸にも今日までは見出すことが出来なかった。

彼はカッと眼を開けた。それから改めて読み出した。と、にわかに彼の眼は一行の文字に喰い入った。

「八ヶ嶽山上窩人に対しては、<ruby><rb>深讐</rb><rt>しんしゅう</rt></ruby>綿々<ruby><rb>尽</rb><rt>つ</rt></ruby>く<ruby><rb>期</rb><rt>とき</rt></ruby><ruby><rb>無</rb><rt>な</rt></ruby>けん、これ水狐族の遺訓たり」

こうそこには記されてある。

「うん、これだ！」

と葉之助はポンとばかりに膝を叩いた。

「なんという俺は<ruby><rb>迂濶者</rb><rt>うかつもの</rt></ruby>だ。これほど立派な活路があるのに、それに今まで気が付かなかったとは……八ヶ嶽山上の窩人に対し水狐族が深讐とみなすからには、窩人の方でも水狐族を深讐と見ているに相違ない。したがって窩人の連中は、水狐族に対して敵対の手段を考えているに相違ない。ではその窩人と<ruby><rb>邂逅</rb><rt>いきあ</rt></ruby>って水狐族に対する敵対の手段を尋ねたとしたらどうだろう！　恐らく彼らは喜んで教えてくれるに違いない。八ヶ嶽に行って窩人と逢おう！」

<ruby><rb>日没</rb><rt>ひぐれ</rt></ruby>を待って葉之助は<ruby><rb>窃</rb><rt>こっそ</rt></ruby>り城を抜け出した。

途中で充分足<ruby><rb>拵</rb><rt>ごしら</rt></ruby>えをし、まず<ruby><rb>茅野宿</rb><rt>ちのじゅく</rt></ruby>まで歩いて行き、そこから山路へ差しかかった。<ruby><rb>薬沢</rb><rt>くすりさわ</rt></ruby>、神之原、柳沢。この柳沢で夜を明かし翌朝は未明に出発した。八手まで来て北に曲がったが、もうこの辺は高原で、これより奥には人家はない。阿弥陀ヶ嶽の山骨を上へ上へと登って行く。途中一夜野宿をした。

三日目の昼頃<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>り着いたのは「<ruby><rb>鼓</rb><rt>つづみ</rt></ruby>ヶ<ruby><rb>洞</rb><rt>ほら</rt></ruby>」の<ruby><rb>谿谷</rb><rt>たにあい</rt></ruby>で、見ると小屋が建っていた。幾年風雨に<ruby><rb>晒</rb><rt>さ</rt></ruby>らされたものか屋根も板囲いも大半崩れ見る影もなく荒れていたが、この小屋こそは十数年前に窩人の娘山吹と城下の<ruby><rb>商人</rb><rt>あきゅうど</rt></ruby>多四郎とがしばらく住んでいた小屋なのである。二人の間に儲けられた猪太郎と呼ぶ自然児もかつてはここに住んでいた筈だ。それらの人達はどこへ行ったろう？　山吹は既に死んだ筈である。しかし多四郎や猪太郎は今尚<ruby><rb>活</rb><rt>い</rt></ruby>きている筈だ。

鏡葉之助は小屋の前にやや<ruby><rb>暫時</rb><rt>しばらく</rt></ruby>立っていた。不思議にも彼の心の中へ、何んとも云われない懐かしの情が、<ruby><rb>油然</rb><rt>ゆうぜん</rt></ruby>として湧いて来た。遠い昔に度々聞きそうして中頃忘れ去られた笛の音色が卒然と再び耳の底へ響いて来たような、<ruby><rb>得</rb><rt>え</rt></ruby>も云われない懐かしの情！　思慕の情が湧いて来た。しかしそれは何故だろう？　そうだそれは何故だろう？　葉之助にとって「鼓ヶ洞」は何んの関係もないではないか、今度が<ruby><rb>最初</rb><rt>はじめて</rt></ruby>の訪問ではないか。鏡葉之助は鏡葉之助だ。他の何者でもないではないか。

それとも葉之助と「鼓ヶ洞」とは何か関係があるのであろうか？

「これは不思議だ」と葉之助は声に出して呟いた。「遠い遠い遠い昔に、<ruby><rb>私</rb><rt>わし</rt></ruby>は何んだかこの小屋に住んでいたような気持ちがする。……しかしそんなことのありようはない！」忽然、この時絶壁の上から、人の呼び声が聞こえて来た。

「おいでなさい！　おいでなさい！　おいでなさい！」慈愛に充ちた声である。

二五

「おいでなさい、おいでなさい、おいでなさい！」

慈愛に溢れた呼び声がまた山の上から聞こえて来た。

鏡葉之助はそれを聞くと何んとも云われない懐かしの情が<ruby><rb>油然</rb><rt>ゆうぜん</rt></ruby>と心へ湧き起こった。

「誰かが俺を呼んでいる。行って見よう、行って見よう」

忙しく<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>を見廻した。正面に当たって崖がある。崖には道が付いている。その道は山上へ通っている。

で葉之助はその道から山の上へ行くことにした。<ruby><rb>苔</rb><rt>こけ</rt></ruby>に<ruby><rb>蔽</rb><rt>おお</rt></ruby>われ木の葉に埋もれ、歩き<ruby><rb>悪</rb><rt>にく</rt></ruby>い道ではあったけれど、葉之助にとっては苦にならなかった。で、ズンズン登って行く。

こうしてようやく<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>りついた所は、いわゆる昔の笹の平、すなわち<ruby><rb>窩人</rb><rt>かじん</rt></ruby>の部落であって、諸所に彼らの住家があったが、人影は一つも見られなかった。

見られないのが当然である。十数年前に窩人達は<ruby><rb>漂泊</rb><rt>さすらい</rt></ruby>の旅へ上ったのだから。

しかしもちろん葉之助にはそんな消息は解っていない。で、窩人の廃墟ばかりあって、窩人その者のいないということが、少なからず彼を失望させた。

「だがさっきの呼び声は決して自分の<ruby><rb>空耳</rb><rt>あだみみ</rt></ruby>ではない。確かに人間の呼び声であった。その人間はどこにいるのであろう？」

そこで彼は何より先にその人間を探すことにした。

一軒一軒根気よくかつては窩人の住家であり、今は狐狸の巣となっている、<ruby><rb>窟</rb><rt>いわや</rt></ruby>作りの小屋小屋を丁寧に彼は探したが、人間の姿は見られなかった。

「さては<ruby><rb>空耳</rb><rt>あだみみ</rt></ruby>であったのかしら？」

ようやく疑わしくなった時、またもや同じ呼び声がどこからともなく聞こえて来た。

「いらっしゃい、いらっしゃい、いらっしゃい！」と。

声は山の方からやって来る。

で葉之助は元気付き声のする方へ走って行った。荒野を上の方へ越した時、丘の上に森があり、森の中に神殿があり、内陣の奥に槍を持った<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">さも</span><ruby><rb>厳</rb><rt>いか</rt></ruby>めしい木像が突っ立っているのを見付けたが、これぞ天狗の宮であり、厳めしい武人の木像こそ宗介天狗のご神体なのであった。しかしこれとて葉之助には何が何んであるか解ってはいない。

とは云え何んとなくその木像が尊く懐かしく思われたので、葉之助は手を合わせて<ruby><rb>恭</rb><rt>うやうや</rt></ruby>しく拝した。と、その時人声がした。

「おお猪太郎、よく戻ったな」

ギョッと驚いた葉之助が思わずその眼を見張った時、木像の蔭からスルスルと、白衣長髪の人影が、彼の眼の前へ現われた。まことに神々しい姿である。慈愛に溢れた容貌である。人と云うより神に近い。

その神人はまた云った。

「おお猪太郎、よく戻ったな」

意外の人物の出現に、胆を潰した葉之助はしばらく無言で<ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>んでいたが、この時にわかに一礼し、

「これはどなたか存じませぬが、お人違いではございませぬかな。私事は高遠の家中、鏡葉之助と申す者、猪太郎ではございませぬ」

「さようさよう只今の名は葉之助殿でござったな。しかしやっぱり猪太郎じゃ。さよう少くも幼名はな」神々しい姿のその人はこう云うと<ruby><rb>莞爾</rb><rt>にこやか</rt></ruby>に微笑んだが、「何んとそうではござらぬかな」

「いえいえそれも違います。私の幼名は右三郎、このように申しましてございます」

「さようさようそんな時代もあった。しかしそれはわずかな間じゃ。しかもそれは仮りの名じゃ。方便に付けた名であったがしかしその事はやがて自然に解るであろう。そうしてそれが解った時から、お前は<ruby><rb>悲惨</rb><rt>みじめ</rt></ruby>な人間となろう。恐ろしい恐ろしい『<ruby><rb>業</rb><rt>ごう</rt></ruby>』の姿がまざまざお前に見えて来よう。世にも不幸な人間とは、<ruby><rb>他</rb><rt>ほか</rt></ruby>でもないお前の事じゃ。お前は産みの母親の<ruby><rb>呪詛</rb><rt>のろい</rt></ruby>の<ruby><rb>犠牲</rb><rt>いけにえ</rt></ruby>になっているのじゃ。そうしてお前は実の父親をどうしても殺さなければならないのじゃ。しかしそれは不可能のことじゃ。子として実の父親を殺す！　これは絶対に出来ないことじゃ。出来ないからこそ苦しむのじゃ。そこにお前の『業』がある……お前は不幸な人間じゃ。母の怨みを晴らそうとすればどうでも父親を殺さねばならぬ。子としての道を歩もうとすれば、母親の<ruby><rb>臨終</rb><rt>いまわ</rt></ruby>の<ruby><rb>妄執</rb><rt>もうしゅう</rt></ruby>を未来<ruby><rb>永劫</rb><rt>えいごう</rt></ruby><ruby><rb>解</rb><rt>と</rt></ruby>くことが出来ず、浮かばれぬ母親の亡魂をいつまでも地獄へ落として置かねばならぬ」

すると葉之助は笑い出したが、

「これは何をおっしゃることやら<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とんと</span>私には解りませぬ。私の実の父も母も飯田の城下に<ruby><rb>健</rb><rt>すこや</rt></ruby>かに<ruby><rb>現在</rb><rt>ただいま</rt></ruby>も<ruby><rb>生活</rb><rt>くら</rt></ruby>しておりますものを、<ruby><rb>臨終</rb><rt>いまわ</rt></ruby>の妄執だの亡魂だのと、<ruby><rb>埒</rb><rt>らち</rt></ruby>もないことを<ruby><rb>仰</rb><rt>おお</rt></ruby>せられる。お<ruby><rb>戯</rb><rt>たわむ</rt></ruby>れも事によれ、<ruby><rb>程度</rb><rt>ほど</rt></ruby>を過ごせば無礼ともなる。もはやお黙りくださるよう。私、聞く耳持ちませぬ！」

果ては少しく怒りさえした。

二六

すると神々しいその人は、さも気の毒と云うように、慈愛の眼差しで葉之助を見たが、

「お前の父母は何んと云うな？」

「父は南条右近と申し、信州飯田堀石見守の剣道指南役にござります。母は同藩の重役にて前川頼母の第三女お品と申すものにございます」

「さようさようそうであったな。それは<ruby><rb>私</rb><rt>わし</rt></ruby>も知っておる。しかしそれは仮り親じゃ」

「ナニ、仮り親でございますと？　奇怪な仰せ、その仔細は？」葉之助は気色ばむ。

「いやいやそれは明かされぬ。しかしそのうち自然自然<ruby><rb>明瞭</rb><rt>あきらか</rt></ruby>になる時節があろう。その時節を待たねばならぬ」

「先刻より様々の仰せ、不思議なことばかりでございますが、そもそもあなたにはいかなるご身分、いかなるお方でございましょう？」

「私はお前の産まれない前に、この山中にいた者じゃ」

「ははあ、さようでございますか」

「そうしてお前の実の親とは深い関係のあるものじゃ。<ruby><rb>殊</rb><rt>こと</rt></ruby>に死なれた母親とはな」

「……？」

「善、平等、慈悲、平和、私はこれらの<ruby><rb>鼓吹者</rb><rt>こすいしゃ</rt></ruby>じゃ」

「ははあさようでございますか」

「お前の産まれる少し前に<ruby><rb>私</rb><rt>わし</rt></ruby>はこの山を立ち去った。徳の不足を感じたからじゃ。しかし私にはこの山の事がいつも心にかかっていた。で私は四六時中お前の<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>に付いていた。いやいや<ruby><rb>敢</rb><rt>あえ</rt></ruby>てお前ばかりではなくあらゆる不幸な人間にはいつも<ruby><rb>私</rb><rt>わし</rt></ruby>は付いているのだ。ある人のためには涙であり、ある人のためには光である、これが私の本態だ。……で私にはお前の事なら何から何までわかっている」

「そうしてあなたのお名前は？」

「この山では私の事を白法師と呼んでいた」

「白法師様でございますな」

「困った事にはこの浮世には、私と反対な立場にいて私に反対する悪い奴がいる。悪、不平等、<ruby><rb>呪詛</rb><rt>じゅそ</rt></ruby>、無慈悲、こういう物の持ち主で、やはり私と同じように<ruby><rb>総</rb><rt>あらゆ</rt></ruby>る人間に付きまとっている」

「それは何者でございましょう？」

「黒法師とでも云って置こう。また悪玉と云ってもよい。したがって私は善玉で。……三世を貫く因果なるものはこの善玉と悪玉との勝負闘争に<ruby><rb>他</rb><rt>ほか</rt></ruby>ならない。……しかしこれは事新しく私が説くには当たるまい。とは云えお前の身の上に降りかかっている悪因縁はその黒法師の<ruby><rb>為</rb><rt>な</rt></ruby>す業じゃ。そうして少くも<ruby><rb>現在</rb><rt>いま</rt></ruby>のところでは私の力ではどうにもならぬ。時節を待つより仕方がない。……しかもお前は産みの母の<ruby><rb>呪詛</rb><rt>のろい</rt></ruby>の犠牲になっているばかりか、今や新しく種族の犠牲にその身を<ruby><rb>抛擲</rb><rt>なげう</rt></ruby>とうと心掛けている」

「種族？　種族？　種族とは？」

「お前の属する種族の事じゃ」

「私は士族でございます」

「さよう、今はな、今は武士じゃ」

「元から武士でございました」

「そうではない、そうではない」

「では何者でございましょう？」

「それは云えぬ。今は云えぬ。それをお前へ教える者は他でもない黒法師じゃ」

「その黒法師はどこにおりましょう？」

「あらゆる人間に付きまとっている。だからお前にも付きまとっている」

「私の眼には見えませぬ」

「間もなくお前にも見えて来よう」

「種族の犠牲？　黒法師？　ああ私には解らない！」

「水狐族！　水狐族！」白法師は卒然と云った。「これをお前は滅ぼそうとしてこの山中へ来たのであろうな？」

「仰せの通りでございます」

「窩人にとっては水狐族こそは祖先以来の仇なのじゃ」

「そのように聞いておりました」

「だからお前の仇でもある」

「それはなぜでございましょう？」

「やがて解る、やがて解る。……とまれお前はお前の属するある一つの種族のため、他の種族と戦わねばならぬ。水狐族どもと戦わねばならぬ。そうしてお前は久田の<ruby><rb>姥</rb><rt>うば</rt></ruby>をお前の手によって殺さねばならぬ。これはお前の宿命だ」

「しかしどうしたら憎い妖婆を討ち取ることが出来ましょうか？」こう葉之助は不安そうに訊いた。

「あれを見るがいい。あれを見ろ」

こう云いながら白法師は内陣の木像の持っている平安朝型の長槍を、手を上げて指差した。

「あの木像こそ他ならぬ窩人族の<ruby><rb>守護神</rb><rt>まもりがみ</rt></ruby>じゃ。彼らの祖先宗介じゃ。窩人どもの族長じゃ。族長の持っている<ruby><rb>得物</rb><rt>えもの</rt></ruby>をもって、他の族長を討つ以外には、妖婆を討ち取る手段はない」

云われて葉之助は躍り上がったが、神殿へ<ruby><rb>颯</rb><rt>さっ</rt></ruby>と飛び込んで行くと、木像の手から長槍をグイとばかりに<ruby><rb>捥</rb><rt>も</rt></ruby>ぎ放した。

二七

……「久田の姥を殺した<ruby><rb>刹那</rb><rt>せつな</rt></ruby>、お前はまたも<ruby><rb>呪詛</rb><rt>のろい</rt></ruby>を受けよう。恐ろしい呪詛！　恐ろしい呪詛！　不幸なお前！　不幸なお前！」

背後の方から白法師がこう云って呼びかけるのを聞き流し、鏡葉之助が勇躍して山を里の方へ<ruby><rb>馳</rb><rt>は</rt></ruby>せ下ったのはそれから間もなくの事であった。

彼はただただ嬉しかった。

「憎い妖婆を討つ事が出来る。堕ちた名誉を取り返すことが出来る。呪詛が何んだ、呪詛が何んだ！」

これが葉之助の心持ちであった。

「有難いのはこの槍だ。槍よどうぞ俺のために霊妙な力を現わしてくれ。魔法使いの久田の姥めをただ一突きに突き殺させてくれ！」

これが葉之助の願いであった。

足を早めてドンドン下る。

途中で一夜野宿をし、その翌日の真昼頃、高島の城下に帰り着いたが、<ruby><rb>故意</rb><rt>わざ</rt></ruby>と城中へは戻らずに、城下外れの<ruby><rb>旅籠屋</rb><rt>はたごや</rt></ruby>で夜の来るのを待ち設けた。

やがて日が暮れ夜となり、その夜が更けて深夜となった。<ruby><rb>審</rb><rt>いぶ</rt></ruby>かる家人を尻目に掛け、葉之助は宿を出た。

湖水に添って<ruby><rb>田圃路</rb><rt>たんぼみち</rt></ruby>を神宮寺村の方へ歩いて行く。

間もなく水狐族の部落へ来たが、<ruby><rb>以前</rb><rt>このまえ</rt></ruby>来た時と変わりなく家々は<ruby><rb>森然</rb><rt>しん</rt></ruby>と寝静まり、犬の声さえ聞こえない。

「よし」

と呟くと葉之助は、木蔭家蔭を伝いながら、久田の姥の住居の方へ、足音を忍んで寄って行った。

広い前庭までやって来た時彼はハッとして立ち止まった。

<ruby><rb>幽</rb><rt>かす</rt></ruby>かな空の星の光にぼんやり姿を照らしながら四、五人の人影が<ruby><rb>蠢</rb><rt>うごめ</rt></ruby>いている。コンコンという<ruby><rb>釘</rb><rt>くぎ</rt></ruby>を打つ音、シュッシュッという板を<ruby><rb>削</rb><rt>けず</rt></ruby>る音、いろいろの音が聞こえて来る。何やら造っているようである。

「はてな？」

と葉之助は怪しんだ。で、一層足音を忍ばせ、暗い物蔭を伝い伝い、彼らの話し声を聞き取ろうと、そっちの方へ寄って行った。

何やら彼らは話し合っている。

「どうしたどうした、まだ出来ないか」

「節があるので削り<ruby><rb>悪</rb><rt>にく</rt></ruby>い」

「いいかげんでいい、いいかげんでいい」

シュッシュッという板を削る音。

「釘をよこせ、釘をよこせ」

「おっとよしきた、それ釘だ」

コンコンという釘を打つ音が、夜の<ruby><rb>静寂</rb><rt>しじま</rt></ruby>を貫いて変に陰気に鳴り渡る。

何を造っているのであろう。

とまた彼らは話し出した。

「<ruby><rb>莫迦</rb><rt>ばか</rt></ruby>にゆっくりしているじゃないか」

「それは、最後のお別れだからな」

「<ruby><rb>齧</rb><rt>かじ</rt></ruby>り付いているんだな」

「うん、そうとも、<ruby><rb>几帳</rb><rt>きちょう</rt></ruby>の中で」

「百歳過ぎたお婆とな」

「どう致しまして、十七、八、水の出花のお娘ごとよ」

「アッハハハ、違えねえ」

彼らは小声で笑い合い、ひとしきりコンコンと仕事をした。

「思えばちょっとばかり可哀そうだな」また一人が云い出した。

「若い身空を水葬礼か」

「それも皆んな心がらだ」

「俺らに逆らった天罰だ」

「湖水を<ruby><rb>渫</rb><rt>さら</rt></ruby>った天罰だ」

「諏訪家の若殿頼正なら、若殿らしく<ruby><rb>穏</rb><rt>おとな</rt></ruby>しくただ上品に構えてさえいれば、こんな目にも逢うまいものを」

「いい気味だよ、いい気味だよ」

そこで彼らはまた笑った。

「……さて、あらかた棺も出来た」

「早く<ruby><rb>死骸</rb><rt>なきがら</rt></ruby>が来ればいい」

そこで彼らは沈黙した。

これを聞いた葉之助はゾッとせざるを得なかった。

彼らは頼正の死骸を納める棺を造っていたのであった。そうして若殿頼正は、今夜もこの家へ引き寄せられ、美しい娘の<ruby><rb>水藻</rb><rt>みずも</rt></ruby>に化けた百歳の<ruby><rb>姥</rb><rt>おうな</rt></ruby>久田のために<ruby><rb>誑</rb><rt>たぶら</rt></ruby>かされているらしい。しかも若殿頼正の<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>は寸刻に<ruby><rb>逼</rb><rt>せま</rt></ruby>っているらしい。棺！　棺！　水葬礼！　彼らは頼正の死骸を棺の中へ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぶち</span>込んでそれを湖水へ沈めるのらしい。それが目前に逼っている！

「これはこうしてはいられない」

葉之助は足擦りした。とたんにガチャンと音がした。彼は何物かに<ruby><rb>躓</rb><rt>つまず</rt></ruby>いたのである。ハッと思ったが遅かった。棺造りの水狐族が四人同時に立ち上がり、ムラムラとこっちへ走って来る。

「もうこうなれば仕方がない。一人残らず討ち取ってやろう」

突嗟に思案した葉之助は、そこに立っていた杉の古木の驚くばかり太い幹へピッタリ体をくっ付けた。

それとも知らず水狐族は四人<ruby><rb>塊</rb><rt>かた</rt></ruby>まって走って来る。

二八

眼前三尺に逼った時、葉之助の手はツト延びた。真っ先に進んだ水狐族の胸の真ん中を<ruby><rb>裏掻</rb><rt>うらか</rt></ruby>くばかり、平安朝型の長槍が、電光のように貫いた。ムーと云うと<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぶっ</span>倒れると、もう槍は手もとへ引かれ、引かれたと思う隙もなく、<ruby><rb>颯</rb><rt>さっ</rt></ruby>と<ruby><rb>翻</rb><rt>かえ</rt></ruby>った石突きが二番目の水狐族の<ruby><rb>咽喉</rb><rt>のど</rt></ruby>を刺す。ムーと云ってこれも倒れる。敵ありと知った後の二人が、踵を返して逃げようとするのを追い<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>って横撲り、一人の両足を払って置いて、倒れるのを飛び越すと、最後の一人を背中から田楽刺しに貫いた。

眼にも止まらぬ早業である。声一つ敵に立てさせない。

ブルッと<ruby><rb>血顫</rb><rt>ちぶる</rt></ruby>いした葉之助、そのまま前庭を突っ切ると、正面に立っている古代造り、久田の姥の住む館へ、<ruby><rb>飛燕</rb><rt>ひえん</rt></ruby>のように飛び込んで行った。

階段を上がると廻廊で、突き当たりは杉の大戸、手を掛けて引き開けると灯火のない闇の部屋、そこを通って奥へ行く。と、一つの部屋を隔てて<ruby><rb>仄</rb><rt>ほの</rt></ruby>かに灯影が射して来た。

窺い寄った葉之助、立ててある几帳の<ruby><rb>垂</rb><rt>た</rt></ruby>れ<ruby><rb>布</rb><rt>ぎぬ</rt></ruby>の隙から、内の様子を覗いて見たが、思わずゾッと総毛立った。

<ruby><rb>艶</rb><rt>あでや</rt></ruby>かな色の大振り袖、燃え立つばかりの緋の<ruby><rb>扱帯</rb><rt>しごき</rt></ruby>、<ruby><rb>刺繍</rb><rt>ぬい</rt></ruby>をちりばめた錦の帯、姿は妖嬌たる娘ではあるが頭を見れば銀の白髪、顔を見れば縦横の<ruby><rb>皺</rb><rt>しわ</rt></ruby>、百歳過ぎた古老婆が、一人の武士を抱き<ruby><rb>介</rb><rt>かか</rt></ruby>えている。他ならぬ若殿頼正で、死に瀕した<ruby><rb>窶</rb><rt>やつ</rt></ruby>れた顔、額の色は<ruby><rb>藍</rb><rt>あい</rt></ruby>のように<ruby><rb>蒼</rb><rt>あお</rt></ruby>く唇の色は土気を含み、昏々として眠っている。

老婆は口をカッと開けたがホーッ、ホーッ、ホーッ、ホーッと、頼正公の顔の辺へ息をしきりに吹きかける。そのつど頼正は<ruby><rb>身悶</rb><rt>みもだ</rt></ruby>えする。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">じっ</span>と見定めた葉之助は、几帳をパッと<ruby><rb>蹴退</rb><rt>けの</rt></ruby>けるや、ヒラリと内へ躍り込んだ。

ピタリと槍を構えたものである。

さすがに老婆も驚いたが、抱いていた頼正を投げ出すと、スックとばかり立ち上がつた。身の<ruby><rb>長</rb><rt>たけ</rt></ruby>天井へ届くと見えたが、これはもちろん錯覚である。

二人は眼と眼を見合わせた。

「小僧推参！」

と忍び<ruby><rb>音</rb><rt>ね</rt></ruby>に、久田の<ruby><rb>姥</rb><rt>うば</rt></ruby>は詈ったが、右手に振り袖をクルクルと巻くと高く頭上へ差し上げた。すなわち彼女の慣用手段、眠りを誘う催眠秘術、キリキリキリキリと廻し出す。

あわやまたもや葉之助は、恐ろしい<ruby><rb>係蹄</rb><rt>わな</rt></ruby>へ落ちようとする。

と、奇蹟が現われた。

平安朝型の長槍が、すなわち窩人の守護本尊宗介天狗の木像から借り受けて来た長槍が、葉之助の意志に<ruby><rb>関係</rb><rt>かかわり</rt></ruby>なく自ずとグルグル廻り出した事で、頭上に<ruby><rb>翳</rb><rt>かざ</rt></ruby>した妖婆の手が左へ左へと廻るに反し、右へ右へ右へと廻る。すなわち彼女の催眠秘術を突き崩そうとするのである。

葉之助は驚いたが、それにも増して驚いたのは実に久田の<ruby><rb>姥</rb><rt>うば</rt></ruby>であった。

彼女は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">じっ</span>と槍を見た。見る見る顔に苦悶が<ruby><rb>萌</rb><rt>きざ</rt></ruby>し、眼に恐怖が現われたが、突然口から呻き声が洩れた。

「宗介の槍！　宗介の槍！　……おおその槍を持っているからは、<ruby><rb>汝</rb><rt>おのれ</rt></ruby>は窩人の一味だな！」

しかし葉之助は返辞さえしない。ジリジリジリジリと突き進む。それに押されて久田の姥は一足一足後へ退がる。

やはり二人は睨み合っている。

頭上に高く<ruby><rb>翳</rb><rt>か</rt></ruby>ざしていた久田の姥の右の手が、この時にわかに脇へ垂れた。一髪の間に突き出した槍！　したたか<ruby><rb>鳩尾</rb><rt>みぞおち</rt></ruby>を貫いた。

しかし久田は倒れなかった。

両手を掛けて槍の柄をムズとばかり握ったものである。

「……<ruby><rb>呪詛</rb><rt>のろ</rt></ruby>われておれ窩人の一味！　お前には<ruby><rb>安穏</rb><rt>あんのん</rt></ruby>はあるまいぞよ！　お前は永久死ぬことは出来ぬ！　お前は永久年を取らぬ！　水狐族の<ruby><rb>呪詛</rb><rt>のろい</rt></ruby><ruby><rb>妾</rb><rt>わし</rt></ruby>の呪詛！　味わえよ味わえよ味わえよ！」

こう妖婆は叫んだが、それと一緒に息絶えた。

初めてホッとした葉之助は、昏倒している頼正を片手を廻して背中に負い、片手で血まみれの槍を突き、階段を下りて庭へ出た。

部落は幸いにも寝静まっている。これほどの騒動も知らないと見える。

で、葉之助は静々と水狐族の部落を引き上げて行く。

部落を抜け田圃へ<ruby><rb>出</rb><rt>い</rt></ruby>で湖水に添って引き上げて行く。

妖婆の<ruby><rb>呪詛</rb><rt>のろい</rt></ruby>の言葉など、彼にとっては何んでもなかった。若殿頼正を救ったこと、<ruby><rb>禍</rb><rt>わざわ</rt></ruby>いの根を断ったこと、堕ちた名誉を<ruby><rb>恢復</rb><rt>かいふく</rt></ruby>したこと、これらが彼には嬉しかった。

こうして彼はその夜の<ruby><rb>暁方</rb><rt>あけがた</rt></ruby>、高島城の大手の門へ、血まみれの姿を現わした。

怨念復讐の巻

一

鏡葉之助の槍先に久田の姥が退治られて以来、諏訪家の若殿頼正は、メキメキと元気を恢復した。

使命を果たした葉之助は、非常な面目を施した。彼の武勇は諏訪一円、武士も町人も賞讃した。彼に賜わった諏訪家の進物は、馬五頭でも運び切れなかった。

いよいよ諏訪家に<ruby><rb>暇</rb><rt>いとま</rt></ruby>を告げ、彼は高遠へ帰ることになった。諏訪家では一流の人物をして、彼を高遠まで送らせた。

さて高遠へ着いて見ると、彼の功名は注進によって<ruby><rb>既</rb><rt>すで</rt></ruby>に一般に知れ渡っていた。だから大変な歓迎であった。

いかに<ruby><rb>阿呆</rb><rt>あほう</rt></ruby>を装っても、もう誰一人葉之助を<ruby><rb>愚</rb><rt>おろ</rt></ruby>か者とは思わなかった。彼は高遠一藩の者から、偶像とされ<ruby><rb>亀鑑</rb><rt>きかん</rt></ruby>とされた。

「葉之助様がお帰りなされたそうで」

「おお、お帰りなされたそうだで」

「大変にご功名をなされましたそうで」

「そういうお噂だ。結構なことだ」

「お偉いお方でございますのね」

「まず高遠第一であろうな」

「あの、それに私達には、ご恩人でございますわ」

「そうともそうとも、恩人だとも」

「あのお方がおいでくだされて以来、<ruby><rb>妖怪</rb><rt>あやかし</rt></ruby>が出なくなりましたのね」

「おおそうだ、有難いことにな」

「お礼申さねばなりませんわ」

「私もとうからそう思っているのさ」

「どうしたらご恩が返されましょう」

「さあ、そいつが考えものだて」

「まさかお金も差し上げられず……」

「相手はご家老のご子息様だ、そんな事は断じて出来ない」

「では、品物も差し上げられませんのね」

「とてもお納めくださるまいよ」

「ではお父様いっそのこと、お<ruby><rb>招待</rb><rt>まね</rt></ruby>きしたら、いかがでしょう？」

「うん、そうしてご<ruby><rb>馳走</rb><rt>ちそう</rt></ruby>するか」

「それがよろしいかと存じます」

「なるほどこれはよいかもしれない」

大鳥井紋兵衛と娘お露とは、ここでようやく相談を<ruby><rb>極</rb><rt>き</rt></ruby>めた。

翌日紋兵衛は<ruby><rb>袴羽織</rb><rt>はかまはおり</rt></ruby>で、自身鏡家へ出掛けて行った。

帰国以来葉之助は、いろいろの人から招待されて、もう馳走には飽き飽きしていた。で、紋兵衛に招かれても心中大して嬉しくもなかった。と云って断われば角が立つ。そこでともかくも応ずることにした。もっとも娘のお露に対しては<ruby><rb>淡々</rb><rt>あわあわ</rt></ruby>しい恋を感じていた。

「あの娘は美しい。そうして大変<ruby><rb>初々</rb><rt>ういうい</rt></ruby>しい。父親とは似も似つかぬ。会って話したら楽しいだろう」こういう気持ちも働いていた。

中一日日を置いて彼は大鳥井家へ出掛けて行った。

心をこめた種々の馳走はやはり彼には嬉しかった。<ruby><rb>誠心</rb><rt>まごころ</rt></ruby>のこもった主人の態度や<ruby><rb>愛嬌</rb><rt>あいきょう</rt></ruby>溢れる娘の<ruby><rb>歓待</rb><rt>もてなし</rt></ruby>は、彼の心を楽しいものにした。殊にお露が<ruby><rb>機会</rb><rt>おり</rt></ruby>あるごとに彼へ示す恋の眼使いは、彼の心を<ruby><rb>陶然</rb><rt>とうぜん</rt></ruby>とさせた。さすがは豪家のことであって書画や<ruby><rb>骨董</rb><rt>こっとう</rt></ruby>や刀剣類には、素晴らしいような<ruby><rb>逸品</rb><rt>いっぴん</rt></ruby>があったが、惜し気なく取り出して見せてくれた。これも彼には嬉しかった。

お露とたった二人だけで、数奇を凝らした茶室の中で、彼女の手前で茶をよばれたのは、分けても彼には好もしかった。

石州流の作法によって造り上げられた庭園を、お露の案内で<ruby><rb>彷徨</rb><rt>さまよ</rt></ruby>った時、夕月が<ruby><rb>梢</rb><rt>こずえ</rt></ruby>に差し上った。

「綺麗なお月様……」

「おお名月……」

二人は<ruby><rb>亭</rb><rt>ちん</rt></ruby>に腰掛けた。

葉籠りをした小鳥の群が、にわかに騒がしく啼き出した。あまりに明るい月光に、朝が来たと思ったのであろう。

いつか二人は寄り添っていた。互いの体の<ruby><rb>温</rb><rt>ぬくも</rt></ruby>りが、互いの体へ通って行く。二人の心は恍惚となった。

ふとお露は溜息をした。

と、葉之助も溜息をした。

ピチッと泉水で魚が跳ねた。

後は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひっそり</span>と静かである。

互いに何か話そうとして、なんにも話すことが出来なかった。話そうと思えば思うほど口が固く結ばれた。

で二人は黙っていた。二人とも若くて美しい。二人とも恋には経験がない。これが二人には初恋であった。

二人は<ruby><rb>漸次</rb><rt>だんだん</rt></ruby>恥ずかしくなった。で顔を<ruby><rb>反向</rb><rt>そむ</rt></ruby>け合った。しかし体はその反対に相手の方へ寄って行った。胸が恐ろしく波立って来た。そうして手先が<ruby><rb>幽</rb><rt>かす</rt></ruby>かに顫え、燃えるように身内が熱くなった。

二

やっぱり二人は黙っていた。

もし<ruby><rb>迂濶</rb><rt>うかつ</rt></ruby>に物でも云って、そのため楽しいこの瞬間が永遠に飛び去ってしまったなら、どんなに<ruby><rb>飽気</rb><rt>あっけ</rt></ruby>ないことだろうと、こう思ってでもいるかのように、二人はいつまでも黙っていた。

若さと美貌と勇気と名声、これを一身に兼備している葉之助のような人物こそは、お露のような乙女にとっては、無二の恋の対象であった。ましてその人は家のためまた大事な父のためには<ruby><rb>疎</rb><rt>おろそ</rt></ruby>かならぬ恩人である。――で、一眼見たその時から、お露は葉之助に<ruby><rb>捉</rb><rt>とら</rt></ruby>えられた。時が経つにしたがってその恋心は募って行った。葉之助を家へ招くように父に勧めたというのも、この恋心のさせた業であった。

今こそ心中を打ち明けるにはまたとない絶好の機会である。場所は庭の中の<ruby><rb>亭</rb><rt>ちん</rt></ruby>である。すぐ側に恋人が坐っている。美しい夕月の<ruby><rb>宵</rb><rt>よい</rt></ruby>である。二人の他には誰もいない。……しかし、彼女は処女であった。そうして性質は<ruby><rb>穏</rb><rt>おとな</rt></ruby>しかった。無邪気に<ruby><rb>清潔</rb><rt>きよらか</rt></ruby>に育てられて来た。どうして<ruby><rb>直接</rb><rt>うちつけ</rt></ruby>に思う事を思う男へ打ち明けられよう。

葉之助にとってはこれまでは、このお露という美しい娘は淡い恋の対象に過ぎなかった。ただ時々思い出し、思い出してはすぐ忘れた。しかるにこの日招かれて来て、そうして彼女に会って見て、そうして彼女から<ruby><rb>卒直</rb><rt>いっぽんぎ</rt></ruby>の恋の<ruby><rb>素振</rb><rt>そぶ</rt></ruby>りを見せられて、始めて彼は身を焼くような恋の思いに捉えられた。彼は彼女に<ruby><rb>唆</rb><rt>そそ</rt></ruby>られたのである。恋の窓を開かれたのである。

彼のような性質の者が、一旦恋心を唆られると坂を転がる石のように止どまるところを知らないものである。……<ruby><rb>欝勃</rb><rt>うつぼつ</rt></ruby>たる覇気、一味の野性、休火山のような抑えられた情火、これが彼の本態であった。しかし彼は童貞であった。どうして<ruby><rb>直接</rb><rt>うちつけ</rt></ruby>に思うことを思う女へ打ち明けられよう。

で、二人は黙っていた。しかし二人は二人とも、相手の心は解っていた。不満ながらも満足をして二人は黙っているのであった。

「これ葉之助、ちょっと参れ」

ある日父の弓之進が、こう葉之助を部屋へ呼んだ。

「は、ご用でございますか？」

「お前近頃大鳥井家へ、足<ruby><rb>繁</rb><rt>しげ</rt></ruby>く参るということであるが、何んと思って出かけるな？」

云われて葉之助は顔を<ruby><rb>赧</rb><rt>あか</rt></ruby>らめたが、

「はい、いえ、別に、これと申して……」

「もちろん、行って悪いとは云わぬ。また先方としてみればいわばお前は恩人であるから、招いて<ruby><rb>饗応</rb><rt>もてなし</rt></ruby>もしたかろう。呼ばれてみれば断わりもならぬ。だから行くのは悪くはないが、どうも少し行き過ぎるようだ」

「注意することに致します」

「そうだな。少し注意した方がいい。家中の評判も高いからな」

これには葉之助も驚いた。

「家中の評判とおっしゃいますと？」

「何さ、別に心配はいらぬ。お前は今では家中の花、悪いに付け善いに付け噂をされるのは当然だよ」

「どんな噂でございましょう？」

「ちと、そいつが面白くない。……大鳥井家は財産家それに美しい娘がある。で、その二つを目的として、繁々通うとこう云うのだ」

「…………」

「アッハハハハ、莫迦な話だ。不肖なれど鏡家は当藩での家老職、まずは名門と云ってよい。たとえ財産はあるにしても大鳥井家は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たかが</span>百姓、そんなものに眼が<ruby><rb>眩</rb><rt>く</rt></ruby>れようか。それに紋兵衛は評判も悪い」

「はい、さようでございます」

「強慾者だということである」

「そんな噂でございます」

「お露とかいう娘の方はそれに反して評判がよい。だが<ruby><rb>私</rb><rt>わし</rt></ruby>は見たことはない。美しい娘だということだな？」

「ハイ、よい娘でございます」

葉之助は顔を赧らめた。

「たとえどんなによい娘でも、家格の相違があるからは嫁としてその<ruby><rb>娘</rb><rt>こ</rt></ruby>を貰うことは出来ぬ。ましてお前を<ruby><rb>婿</rb><rt>むこ</rt></ruby>として大鳥井家へやることは出来ぬ」

「参る<ruby><rb>意</rb><rt>つも</rt></ruby>りとてございません」

「そうであろうな。そうなくてはならぬ。……さてこう事が解って見れば痛くない腹を探られたくもない」

「ハイ、さようでございます」

「で、繁々行かぬがよい」

「気を付けることに致します」

「お前の武勇聡明にはまこと私も頭を下げる。これについては一言もない。ただ将来注意すべきは、女の色香これ一つだ。これを<ruby><rb>誡</rb><rt>いまし</rt></ruby>むる色にありと既に先賢も申されておる」

「その辺充分将来とも気を付けるでございましょう」

葉之助は手を<ruby><rb>支</rb><rt>つか</rt></ruby>え、謹んで一礼したものである。

三

淡々しいように見えていてその実地獄の<ruby><rb>劫火</rb><rt>ごうか</rt></ruby>のように身も心も焼き尽くすものは、初恋の人の心である。それを彼は抑えられた。

鏡葉之助はその時以来<ruby><rb>怏々</rb><rt>おうおう</rt></ruby>として楽しまなかった。自然心が<ruby><rb>欝</rb><rt>うっ</rt></ruby>せざるを得ない。

欝した心を欝しさせたままいつまでも<ruby><rb>放抛</rb><rt>うっちゃ</rt></ruby>って置く時は、おおかたの人は狂暴となる。

葉之助の心が日一日、荒々しいものに変わって行ったのは、止むを得ないことである。彼は時に幻覚を見た。また往々「変な声」を聞いた。

「永久安穏はあるまいぞよ！」その変な声はどこからともなくこう彼に呼び掛けた。気味の悪い声であった。主のない声であった。

そうしてそれは<ruby><rb>怨恨</rb><rt>うらみ</rt></ruby>に充ちた哀切<ruby><rb>凄愴</rb><rt>せいそう</rt></ruby>たる声でもあった。

そうして彼はその声に聞き覚えあるような気持ちがした。

この言葉に嘘はなかった。実際彼は日一日と心に不安を覚えるようになった。心の片隅に小鬼でもいて、それが鋭い爪の先で彼の心を引っ掻くかのような、いても立ってもいられないような変な<ruby><rb>焦燥</rb><rt>しょうそう</rt></ruby>を覚えるのであった。事実彼の心からいつか安穏は取り去られていた。

「どうしたのだろう？　不思議な事だ」

彼にとっても、この事実は不思議と云わざるを得なかった。

で、意志の力をもって、得体の知れないこの不安を圧伏しようと心掛けた。しかしそれは無駄であった。

「何物か俺を<ruby><rb>呪詛</rb><rt>のろ</rt></ruby>っているな」

ついに彼はこの点に思い到らざるを得なかった。

「たしかに、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あの</span>声には聞き覚えがある。……おおそうだ、久田の声だ！」

正にそれに相違なかった。水狐族の<ruby><rb>長</rb><rt>おさ</rt></ruby>の久田の<ruby><rb>姥</rb><rt>うば</rt></ruby>の怨念の声に相違なかった。

久田の姥の怨念は、ただこれだけでは済まなかった。

間もなく恐ろしい事件が起こった。そうしてそれが葉之助の身を破滅の淵へ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぶち</span>込んだ。

ある夜、書見に<ruby><rb>耽</rb><rt>ふけ</rt></ruby>っていた。

と例の声が聞こえて来た。

にわかに心が掻き乱れ坐っていることが出来なくなった。

で、戸を開けて外へ出た。秋の終り冬の初めの、それは名月の夜であったが、彼はフラフラと歩いて行った。

<ruby><rb>主水町</rb><rt>かこまち</rt></ruby>を過ぎ片羽通りを通り、大津町まで来た時であったが、一個黒衣の大入道が彼の前を歩いて行った。

どうしたものかその入道を見ると、葉之助はゾッと<ruby><rb>悪寒</rb><rt>おかん</rt></ruby>を感じた。

「いよいよ現われたな黒法師めが！　こいつ悪玉に相違ない！」こう思ったからであった。

ムラムラと殺気が<ruby><rb>萌</rb><rt>きざ</rt></ruby>して来た。で彼は足音を盗み、そっと入道へ近寄った。

声も掛けず抜き打ちに背後からザックリ斬り付けたのはその次の瞬間のことであった。と、ワッという悲鳴が起こり、静かな夜気を顫わせたが、見れば地上に一人の老人が、左の肩から右の胴まで物の見事に割り付けられ、<ruby><rb>朱</rb><rt>あけ</rt></ruby>に染まって<ruby><rb>斃</rb><rt>たお</rt></ruby>れていた。

「や、これは黒法師ではない。これは城下の町人だ」

葉之助はハッと<ruby><rb>仰天</rb><rt>ぎょうてん</rt></ruby>したが、今となってはどうすることも出来ない。

しかるにここに奇怪な事が彼の心中に湧き起こった。……老人を斬った瞬間に、彼の心中にトグロを巻いていた不安と焦燥が消えたことである。……彼の頭は<ruby><rb>玲瓏</rb><rt>れいろう</rt></ruby>と澄み、形容に絶した快感がそれと同時に油然と湧いた。

飼い慣らされた猛獣が、血の味を知ったら大変である。原始的性格の葉之助が<ruby><rb>殺人</rb><rt>ひとごろし</rt></ruby>の味を知ったことは、それより一層危険な事である。

のみならずここにもう一つ奇怪な現象が行われた。

それは彼が殺人をしたその翌朝のことであったが、床から起き出た彼を見ると、母親のお石が叫ぶように云った。

「お前、いつもと顔が<ruby><rb>異</rb><rt>ちが</rt></ruby>うね」

「本当ですか？　どうしたのでしょう」

で、葉之助は鏡を見た。なるほど、いささか異っている。白い顔色が益〻白く、黒い瞳がいよいよ黒く、赤い唇が一層赤く、いつもの彼より<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">より</span>一層美しくもあれば気高くもある、一個<ruby><rb>窈窕</rb><rt>ようちょう</rt></ruby>たる美少年が、鏡の奥に写っていた。

思わず葉之助は唸ったものである。それから呟いたものである。

「不思議だ、不思議だ、何んということだ」

……が、決して不思議ではない。何んのこれが不思議なものか。

美しい犬へ肉をくれると、より一層美しくなる。死骸から咲き出た草花は、他の草花より美しい。

人を殺して血を浴びた彼が、美しくなったのは当然である。

四

二度目に人を斬ったのは、陽の当たっている<ruby><rb>白昼</rb><rt>まひる</rt></ruby>であった。

その日彼は山手の方へ<ruby><rb>的</rb><rt>あて</rt></ruby>もなくブラブラ歩いて行った。茂みで鳥が啼いていた。<ruby><rb>野茨</rb><rt>のいばら</rt></ruby>の赤い実が珠をつづり草の間では虫が<ruby><rb>鳴</rb><rt>すだ</rt></ruby>いていた。ひどく気持ちのよい<ruby><rb>日和</rb><rt>ひより</rt></ruby>であった。

と行手の峠道へポツリ人影が現われたが、長い<ruby><rb>芒</rb><rt>すすき</rt></ruby>の穂をわけて次第にこっちへ近寄って来た。見るとそれは黒法師であった。それと知った葉之助は思案せざるを得なかった。

「幻覚かな？　本物かな？」

その間もズンズン黒法師は彼の方へ近寄って来た。やがてまさに擦れ違おうとした。

その時例の声が聞こえて来た。

「永久安穏はあるまいぞよ」

ゾッと葉之助は悪寒を感じ、それと同時に心の中へ不安の念がムラムラと湧いた。

で、刀を引き抜いた。そうして袈裟掛けに斬り伏せた。

陽がカンカン当たっていた。その秋の陽に<ruby><rb>晒</rb><rt>さ</rt></ruby>らされているのは若い女の死骸であった。

「うむ、やっぱり幻覚であったか」

<ruby><rb>憮然</rb><rt>ぶぜん</rt></ruby>として葉之助は呟いたもののしかし後悔はしなかった。気が晴々しくなったからである。

三人目には<ruby><rb>飛脚</rb><rt>ひきゃく</rt></ruby>を斬り四人目には老婆を斬り五人目には武士を斬った。しかも家中の武士であった。

高遠城下は沸き立った。恐怖時代が出現し、人々はすっかり胆を冷やした。

「いったい何者の<ruby><rb>所業</rb><rt>しわざ</rt></ruby>であろう？」

誰も知ることが出来なかった。

家中の武士が隊を組み、夜な夜な城下を見廻ろうという。そういう相談が一決したのは、それから一月の後であった。

で、その夜も夜警隊は<ruby><rb>粛々</rb><rt>しゅくしゅく</rt></ruby>と城下を見廻っていた。

円道寺の辻まで来た時であったが、隊士の一人が「あっ」と叫んだ。<ruby><rb>素破</rb><rt>すわ</rt></ruby>とばかりに振り返って見ると、白井誠三郎が袈裟に斬られ朱に染まって<ruby><rb>斃</rb><rt>たお</rt></ruby>れていた。そうして彼のすぐ背後に鏡葉之助が腕を<ruby><rb>拱</rb><rt>こまぬ</rt></ruby>き黙然として立っていた。

誰がどこから現われ出て、どうして誠三郎を斬ったものか、<ruby><rb>皆暮</rb><rt>かいく</rt></ruby>れ知ることが出来なかった。

こうしてせっかくの夜警隊も解散せざるを得なかった。

心配したのは駿河守である。例によって葉之助を召した。

「さて葉之助、また<ruby><rb>依頼</rb><rt>たのみ</rt></ruby>だ。そちも承知の辻斬り騒ぎ、とんと<ruby><rb>曲者</rb><rt>くせもの</rt></ruby>の目星がつかぬ。ついてはその方市中を見廻り、是非とも曲者を捕えるよう」

「は」と云ったが葉之助は、苦笑せざるを得なかった。

「この事件ばかりは私の手には、ちと<ruby><rb>合</rb><rt>あ</rt></ruby>い兼ねるかと存ぜられます」

「それは何故かな？　何故手に合わぬ」

「別に<ruby><rb>理由</rb><rt>わけ</rt></ruby>とてはございませぬが、ちと相手が強過ぎますようで……」

「いやいやお前なら大丈夫だ」

「しかし、なにとぞ、他のお方へ……」

「ならぬならぬ、そちに限る」

そこで止むを得ず葉之助は、殿の命に従うことにした。

ご前を下がって行く彼の姿を、じっと見送っていた武士があったが、他ならぬ剣道指南役、客分の松崎清左衛門であった。

「なんと清左衛門、葉之助は、若いに似合わぬ立派な男だな」

駿河守は何気なく云った。

「<ruby><rb>御意</rb><rt>ぎょい</rt></ruby>の通りにございます」清左衛門は<ruby><rb>物憂</rb><rt>ものう</rt></ruby>そうに、

「しかし、いささか、心得ぬ節が。……」

「心得ぬ節？　どんな事か？」

「最近にわかに葉之助殿は、器量を上げられてございます」

「いかにもいかにも、あれは奇態だ」

「まことに奇態でございます」

「しかし、元から美少年ではあった」

「ハイ、美少年でございました。それに野性がございました。それも<ruby><rb>欝々</rb><rt>うつうつ</rt></ruby>たる殺気を持った恐ろしい野性でございました。飯田や高遠で<ruby><rb>成長</rb><rt>ひととな</rt></ruby>ったとはどうしても思われぬ<ruby><rb>物凄</rb><rt>ものすご</rt></ruby>い野性！　で、気の毒とは思いましたが私の門弟に加えますことを、断わったことがございました」

「そういう噂もチラリと聞いた」

「しかるに最近に至りまして、さらにその上へ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">より</span>悪いものが加わりましてございます」

「ふうむ、そうかな？　それは何かな？」

「ハイ、妖気でございます」自信ありげに清左衛門は云った。

「ナニ、妖気？　これは不思議！」

「まことに不思議でございます」

「しかし<ruby><rb>私</rb><rt>わし</rt></ruby>にはそうは見えぬが。……」

「しかし、確かでございます」

「どういう点が疑わしいな？」

「これは感覚でございます。そこを指しては申されません」

駿河守は首<ruby><rb>傾</rb><rt>かし</rt></ruby>げたが、「どうも<ruby><rb>私</rb><rt>わし</rt></ruby>には信じられぬ」

「やがてお解りになりましょう」

五

殺人の本人、葉之助へその捕り方を命じたのは、笑うべき皮肉と云わざるを得ない。

辻斬りが絶えないばかりでなく反対にその数の増したのは当然過ぎるほど当然である。

こうして真の恐怖時代、こうして真の無警察時代が高遠城下へ招来された。

冬の夜空の月凍って、ビョービョーと吠える犬の声さえ陰に聞こえる深夜の町を、捕り方と称する殺人鬼が影のように通って行く！　おお人々よ気を付けたがよい。その美しい容貌に、その優雅な<ruby><rb>姿態</rb><rt>すがたかたち</rt></ruby>に、またその静かな歩き方に！　彼は人ではないのだから！　彼は呪われたる<ruby><rb>血吸鬼</rb><rt>バンプ</rt></ruby>なのだから！

しんしんと雪が降って来た。<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby><ruby><rb>朦朧</rb><rt>もうろう</rt></ruby>と霧立ちこめ、一間先さえ見え分かぬ。しかし人々よ気を付けなければならない！　その朦朧たる霧の中を雪の<ruby><rb>白無垢</rb><rt>しろむく</rt></ruby>を<ruby><rb>纏</rb><rt>まと</rt></ruby>ったところの殺人鬼が通って行くのだから。

いやいや決して嘘ではない！　信じられない人間は、翌朝早く家を出て、城下を通って見るがよい。あっちの辻、こっちの往来、向こうの門前、こっちの川岸に袈裟に斬られた男女の死骸が、転がっているのを見ることが出来よう。殺人鬼の通った証拠である。

「どうも今度の曲者ばかりは、葉之助の手にも合わないらしい」

父、弓之進は呟いた。「ひとつ助太刀をしてやるかな」

事情を知らない弓之進がこう思うのはもっともである。

しかしそれだけは止めた方がいい。毛を吹いて傷を求める悲惨な羽目に堕ちるばかりだから！

「もう捨てては置かれない」

こう呟いた人があった。「やむを得ずば俺が出よう」

それは松崎清左衛門であった。

当時天下の大剣豪、立身出世に意がないばかりに、狭い高遠の城下などに<ruby><rb>跼蹐</rb><rt>きょくせき</rt></ruby>してはいるけれど、江戸へ出ても三番とは下がらぬ、東軍流の名人である。――いかさまこの人が乗り出したなら、殺人鬼といえども身動き出来まい。

しかしはたして出るだろうか？

その夜も雪が降っていた。

<ruby><rb>傘</rb><rt>からかさ</rt></ruby>を<ruby><rb>翳</rb><rt>さ</rt></ruby>した一人の武士が静々と町を歩いていた。と、その後から<ruby><rb>覆面</rb><rt>ふくめん</rt></ruby>の武士が、慕うように追って行った。

角町から三筋通り、辻を曲がって藪小路、さらに花木町緑町、<ruby><rb>聖天</rb><rt>しょうでん</rt></ruby>前を右へ抜け、しばらく行くと坂本町……二人の武士は附かず離れず<ruby><rb>半刻</rb><rt>はんとき</rt></ruby>あまりも歩いて行った。

その間、覆面の侍は、幾度か刀を抜きかけたが、前を行く武士の体から<ruby><rb>光物</rb><rt>ひかりもの</rt></ruby>でも射すかのように気遅れして果たさなかった。

尚二人は歩いて行った。

木屋町の角まで来た時であった。もう一人武士が現われた。<ruby><rb>羅紗</rb><rt>らしゃ</rt></ruby>の<ruby><rb>合羽</rb><rt>かっぱ</rt></ruby>を<ruby><rb>纏</rb><rt>まと</rt></ruby>っている。

羅紗合羽のその武士は、傘の武士と覆面の武士との、その中間に挟まった。

それと見て取った覆面の武士は、さりげなくそっちへ寄って行った。

一道の殺気<ruby><rb>迸</rb><rt>ほとばし</rt></ruby>ると見えたが、覆面の武士の両腕には早くも刀が握られていた。

「待て！」

と云う<ruby><rb>周章</rb><rt>あわ</rt></ruby>てた声！　合羽の武士が叫んだのであったが、それを聞くと覆面の武士は、一歩後へ退いた。

「おお、あなたはお父上！」

「おのれ、葉之助！　さては<ruby><rb>汝</rb><rt>なんじ</rt></ruby>が！」

「ご免！」

と叫ぶと覆面の武士すなわち葉之助は踵を返し、<ruby><rb>脱兎</rb><rt>だっと</rt></ruby>のように逃げ出した。とたんに「かっ」という気合が掛かり、傘の武士の右手から<ruby><rb>雪礫</rb><rt>ゆきつぶて</rt></ruby>が繰り出された。

手練の投げた雪礫は砲弾ほどの威力があり、それを背に受けた葉之助はもんどりうって倒れたが、そこは必死の場合である。パッと飛び起きて走り去った。あまりに意外な事実に、呆然とした弓之進はただ、棒のように立っていた。その時彼を呼ぶ者がある。

「鏡氏、お察し申す」

弓之進は眼を上げた。傘の武士が立っていた。

「そういう貴殿は？　……おお松崎氏！」

「捕えて見れば我が子なり。……鏡氏、驚かれたであろうな？」

「葉之助めが<ruby><rb>曲者</rb><rt>くせもの</rt></ruby>とは。……ああ何事も夢でござる」

弓之進は<ruby><rb>泫然</rb><rt>げんぜん</rt></ruby>と泣いた。

「拙者断じて他言致さぬ。家に帰られ葉之助殿を、何んとかご処分なさるがよかろう」

雪は次第に<ruby><rb>烈</rb><rt>はげ</rt></ruby>しくなった。弓之進は返辞さえしない。

返辞をしようと思っても口に出すことが出来ないのであった。

彼は内藤家の家老であった。その立派な家柄の子が、こんな大事を<ruby><rb>惹</rb><rt>ひ</rt></ruby>き起こし、こんな動乱を<ruby><rb>醸</rb><rt>かも</rt></ruby>すとは、当人ばかりの罪ではない。連なる父母も同罪である。すなわち監督不行届きとして罪に坐さなければならないだろう。

葉之助へ一封の<ruby><rb>遺書</rb><rt>かきおき</rt></ruby>を残し、弓之進が<ruby><rb>屠腹</rb><rt>とふく</rt></ruby>して果てたのはその夜の<ruby><rb>明方</rb><rt>あけがた</rt></ruby>のことであった。

六

弓之進の死は変死であった。が、内藤家にとっては由緒ある功臣、絶家させることは出来ないというので、病死ということに取りつくろわせ、盛んな葬式が終えると同時に家督は葉之助に下された。

ひとしきり弓之進の死について家中ではいろいろ取り沙汰したが、生前非常な人望家でみんなの者から敬われていたので、非難の声は聞かれなかった。そうしてついに誰一人として自殺の原因を知るものがなかった。

わずかにそれを知っている者といえば、松崎清左衛門と葉之助だけであった。

その葉之助は父の死後自分に<ruby><rb>宛</rb><rt>あ</rt></ruby>てられた遺書を見て恥じ、泣かざるを得なかった。

「……辻斬りの本人がお前だと知っては、<ruby><rb>私</rb><rt>わし</rt></ruby>は活きてはおられない。子の罪を償うため父は<ruby><rb>潔</rb><rt>いさぎよ</rt></ruby>く切腹する。で、お前の罪は消えた。父の後を追うことはならぬ。決してお前は死ぬことはならぬ。さて私は死に臨んでお前の<ruby><rb>身上</rb><rt>みのうえ</rt></ruby>にかかっているある秘密の片鱗を示そう。お前の実父は飯田の家中南条右近とはなっているが、しかし誠はそうではない。お前の実の両親は全然別にある筈だ。とは云えそれが何者であるかはこの私さえ知らないのである。ただし南条右近の子として鏡家へ養子に来たについては、来ただけの理由はある。また立派な経路もある。そうしてそれを知っている者は、私の親友、殿の客分<ruby><rb>天野北山</rb><rt>あまのほくざん</rt></ruby>一人だけである。<ruby><rb>就</rb><rt>おもむ</rt></ruby>いて訊ねるもよいだろう。私は今死を急ぐ、それについて語ることは出来ない。下略」

これが遺書の大意であった。

で、ある日葉之助は北山方を訪れた。

一通り遺書を黙読すると北山は静かに眼をとじた。

「弓之進殿は悪いことを書いた」やがて北山はこう云った。

「それはまた何故でございましょう？」葉之助は<ruby><rb>訝</rb><rt>いぶか</rt></ruby>しそうに訊いた。

「何故と云ってそうではないか。しかし……」

と云って北山はまたそこで考え込んだが、

「そこがあの仁のよいところかも知れぬ。いつまでもそなたを<ruby><rb>瞞</rb><rt>だま</rt></ruby>して置くことが、あの仁には苦痛だったのであろう」

「私は誰の子でございましょう？」

「それはこれにも書いてある通り、<ruby><rb>私</rb><rt>わし</rt></ruby>にも解っていないのだ。<ruby><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby>いて云うなら山の子だ」

「え、山の子とおっしゃいますと？」

「山の子といえば山の子だ、他に別に云いようもない。が、順を追って話すことにしよう。……弓之進殿にはその時代葉之助という子供があった」

「ハハアさようでございますか」

「ところが病気で<ruby><rb>早逝</rb><rt>そうせい</rt></ruby>された。その臨終の時であるが、『代りが来るのだ、代りが来るのだ、次に来る者はさらに偉い』と、こう叫んだということだ」

「不思議な言葉でございますな」

「ある日私と弓之進殿と、鉢伏山へ山遊びに行った、おりから秋の真っ盛りで全山の紅葉は燃え立つばかり、実に立派な眺めであったが、突然一頭の大熊が谷を渡って駈け上って来た。するとその熊のすぐ後から一人の子供が走って来た。信濃の秋は寒いのに腰に毛皮を纏っているばかり他には何んにも着ていない。もっとも足には<ruby><rb>革足袋</rb><rt>かわたび</rt></ruby>を<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>き手には山刀を握っていた。その子供と大熊とは素晴らしい勢いで格闘した。そうして子供は熊を仕止めた。仕止めると一緒に気絶した」

「死んだのではありますまいね」葉之助は不安そうに訊ねた。

「死んだのではない気絶したのだ。ところで不思議にも気絶から<ruby><rb>醒</rb><rt>さ</rt></ruby>めると、弓之進殿をじっと見て、『お父様！』と叫んだものだ。そうしてまたも気絶した。またその気絶から醒めた時には、子供は過去を忘れていた」

「不思議なことでございますな」

「不思議と云えば不思議だが、そうでないと云えばそうでないとも云える。西洋医学ではこの状態を精神転換と云っている。すなわち過去をすっかり忘れ、気絶から醒めたその時から新規に<ruby><rb>生活</rb><rt>くらし</rt></ruby>が始まるのだ。……それと見て取った弓之進殿は、こう<ruby><rb>私</rb><rt>わし</rt></ruby>に云われたものだ。『これこそ葉之助が予言した、代りに来る者でございましょう、その証拠には私を見ると、お父様と云いました。で私はこの子を養い養子とすることに致しましょう』そこで私はこう云った。『それは結構なお考えです。しかしこのまますぐに引き取り養い育てるということは、鏡家のためにもこの子のためにも将来非常に不幸です。素姓も知れない山の子とあっては殿の<ruby><rb>思惑</rb><rt>おもわく</rt></ruby>もいかがあろうか、これはいっそ知人に預け、その知人の子供として貰い受けるのがよろしかろう』とな。……その結果として弓之進殿は南条右近殿へ事情を話し、その子供を預けることにした。とこうここまで話して来たらそなたにも見当が付くであろうが、その山の子供こそ、他ならぬ葉之助殿そなたなのだ」

七

この<ruby><rb>北山</rb><rt>ほくざん</rt></ruby>の説明は葉之助にとっては驚異であった。彼は疑いもし悲しみもした。しかし結局は北山の言葉を信ぜざるを得なかった。だがそれにしても素姓の知れない彼のような山の子を、<ruby><rb>慈愛</rb><rt>いつくし</rt></ruby>み育てた養父の恩は誠に深いものである。しかるに彼はその養父を<ruby><rb>非業</rb><rt>ひごう</rt></ruby>に死なせてしまったのである。済まない済まない済まないと彼は<ruby><rb>衷心</rb><rt>ちゅうしん</rt></ruby>から後悔した。

「他にお詫びのしようもない。ただ、立派な人物になろう。それが何よりのご恩返しだ」

それからの彼と云うものは、武事に文事に<ruby><rb>切磋琢磨</rb><rt>せっさたくま</rt></ruby>し、事ごとに<ruby><rb>他人</rb><rt>ひと</rt></ruby>の眼を驚かせた。

この彼の大勇猛心には、乗ずべき隙もなかったか、黒法師も現われず、「永久安穏はあるまいぞよ」という奇怪な声も聞こえて来なかった。

で、彼の生活はその後平和に流れたのであった。しかしたった一度だけ、不思議が彼を襲ったことがあった。

それは<ruby><rb>逝</rb><rt>ゆ</rt></ruby>く春のある日であったが、例の大鳥井紋兵衛から、花見の宴に招かれた。で、彼は出かけて行った。久々で娘のお露とも逢い、心のこもった<ruby><rb>待遇</rb><rt>もてなし</rt></ruby>を受け、欝していた彼の心持ちも<ruby><rb>頓</rb><rt>とみ</rt></ruby>に開くを覚えたりして、愉快に一日を暮らしたが、客もおおかた散ったので彼もそろそろ帰ろうとして、尚夕桜に未練を残し、フラリと一人庭へ出て<ruby><rb>亭</rb><rt>ちん</rt></ruby>の方へ行って見た。

すると誰やら若い女が<ruby><rb>亭</rb><rt>ちん</rt></ruby>の中で泣いていた。

近寄って見ればお露であった。

亡き父の<ruby><rb>訓</rb><rt>いまし</rt></ruby>めで、お露との恋は避けてはいたが、それはただ<ruby><rb>表面</rb><rt>おもてむき</rt></ruby>だけで、彼の内心は昔と変らず彼女恋しさに充ち充ちていた。その彼の眼の前に、その恋人の泣き濡れた姿が、夢ではなく<ruby><rb>現実</rb><rt>まざまざ</rt></ruby>と、他に妨げる者もなく、たった一人で現われたのであった。彼の心が一時に燃え立ち、前後も忘れて走り寄り、お露の肩を抱きしめたのは、当然なことと云わなければならない。

「何が悲しくてお泣きなさる」

こう云う声は<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>えていた。

お露は何んとも云わなかった。ただじっと抱かれていた。

こういう場合の沈黙ほど力強いものはない。こういう場合の沈黙はそれは実に雄弁なのである。

「お露は俺を愛している。その愛のために泣いている」

葉之助はこう思った。

そうしてそれは本当であった。

一時よく来た葉之助が、ピッタリ姿を見せなくなって以来、お露の恋は悲しみと変った。月日が経つに従って、その悲しみは深くなった。ある種類の女にとっては恋人の姿の見えないことは、その恋をして忘れしめる。少くも恋をして薄からしめる。しかしある種の女にとっては、反対の結果を持ち来たらせる。

お露は不幸にも後者であった。

葉之助の姿が見えなくなってから、本当の恋が始まったのであった。

その恋人が久しぶりで今日姿を現わしたのである。耐え忍んでいた恋しさが――持ち<ruby><rb>堪</rb><rt>こら</rt></ruby>えていた悲しさが、一時に破れたのは無理もない。しかし彼女は処女であった。その恋しさ悲しさを、恋しい男に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うちつけ</span>に打ち明けることは出来なかった。そこで彼女は人目を避け、<ruby><rb>亭</rb><rt>ちん</rt></ruby>へ泣きに来たのであった。

葉之助の手がしっかりとお露の肩を抱いていた。彼女にとってこの事は全く予期しない幸福であった。それこそ全世界の幸福が一度に来たように思われた。彼女の心から<ruby><rb>一刹那</rb><rt>いっせつな</rt></ruby>悲しみの影が消え去った。身も心も<ruby><rb>痲痺</rb><rt>しび</rt></ruby>れようとした。「死んでもよい」という感情が、人の心へ起こるのは、実にこういう瞬間である。

と、葉之助の一方の手が、やさしくお露の顎にかかった。しずかに顔を持ち上げようとする彼女の顔は手に連れて、<ruby><rb>穏</rb><rt>おとな</rt></ruby>しく上へ持ち上げられ、情熱に燃えた四つの眼が互いに相手を<ruby><rb>貪</rb><rt>むさぼ</rt></ruby>り見た。次第次第に葉之助の顔がお露の顔へ落ちて行った。お露は歓喜に<ruby><rb>戦慄</rb><rt>せんりつ</rt></ruby>した。彼女は唇をポッと開け、そこへ当然落ちかかるべき恋人の唇を待ち構えた。

<ruby><rb>母屋</rb><rt>おもや</rt></ruby>の方から人声はしたが、こっちへ人の来る気配はない。二人は文字通り二人きりであった。すぐに来るのだ恋の約束が！

とたんに<ruby><rb>嗄</rb><rt>かす</rt></ruby>れた女の声が、二人の身近から聞こえて来た。「畜生道！　畜生道！」それはこういう声であった。

ハッと驚いた葉之助は、無慈悲に抱いていた手を放した。

素早く四辺を見廻したがそれらしい人の影も見えない。

「はてな？」と彼は呟いたが、やにわに袖を<ruby><rb>捲</rb><rt>まく</rt></ruby>り上げた。歯形のあるべきこの腕に、二十枚の歯形は影もなく、それより恐ろしい女の顔が、眼を見開き唇を歪め嘲笑うように現われていた。

「<ruby><rb>人面疽</rb><rt>にんめんそ</rt></ruby>」

と叫ぶと一緒に、葉之助は小柄を引き抜いたが、グッとその顔へ突き通した。飛び散る血汐、焼けるような痛み、それと同時に人顔は消え二十枚の歯形が現われた。

八

それから間もなく引き続いて、怪しいことが起こって来た。それはやはり二の腕にある二十枚の歯形に関することで、そうして対象は紋兵衛であった。

つまり紋兵衛と顔を合わせるごとに、二十枚の歯形が人面疽と変じ、そうしてこのように叫ぶのであった。

「お殺しよその男を！」

すると不思議にも葉之助は、その紋兵衛が憎くなりムラムラと殺気が起こるのであった。しかしさすがに刀を抜いて討ち果たすところまでは行かなかった。

「歯形といい人面疽といい、恐ろしいことばかりが付きまとう。俺は<ruby><rb>呪詛</rb><rt>のろ</rt></ruby>われた人間だ」

そうして尚もこう思った。

「大鳥井一家とこの俺とは、何か<ruby><rb>関係</rb><rt>かかりあい</rt></ruby>があるのかも知れない。いったいどんな関係なのだろう？　よくない関係に相違ない。いわゆる精神転換前の俺というものを知ることが出来たら、その関係も解るかも知れない」

しかし彼には精神転換前の、自分を知ることが出来なかった。

「とにかく俺は大鳥井家へは絶対に足踏みをしないことにしよう。お露との恋も忘れよう」

そうして彼はこの決心を強い意志で実行した。

春が<ruby><rb>逝</rb><rt>ゆ</rt></ruby>き尽くして初夏が来た。そうして真夏が来ようとした。

<ruby><rb>参覲交替</rb><rt>さんきんこうたい</rt></ruby>で駿河守は江戸へ行かなければならなかった。

甲州街道五十三里を、大名行列いとも<ruby><rb>美々</rb><rt>びび</rt></ruby>しく、江戸を指して発足したのは五月中旬のことであった。江戸における上屋敷は芝三田の四国町にあったが予定の日取りに少しも<ruby><rb>違</rb><rt>たが</rt></ruby>わず一同首尾よく到着した。

一行の中には葉之助もいた。彼にとっては江戸は<ruby><rb>初</rb><rt>はつ</rt></ruby>で、見る物聞く物珍らしく、暇を見てはお長屋を出て市中の様子を見歩いた。

夏が逝って初秋が来た。その頃紋兵衛とお露とが江戸見物にやって来た。芝は三田の寺町へ格好な家を一軒借りてこれも市中の見物に<ruby><rb>寧日</rb><rt>ねいじつ</rt></ruby>ないという有様であった。しかし二人が江戸へ来たのには実に二つの理由があった。

ふたたび葉之助が<ruby><rb>遠退</rb><rt>とおの</rt></ruby>いてからのお露の<ruby><rb>煩悶</rb><rt>はんもん</rt></ruby>というものは、紋兵衛の眼には気の毒で見ていることは出来なかった。葉之助が殿に従って江戸へ行ってしまってからは、彼女は<ruby><rb>病</rb><rt>やま</rt></ruby>いの床についた。そうしてこのまま<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うっちゃ</span>って置いたら死ぬより他はあるまいと、こう思われるほどとなった。

「葉之助殿のお<ruby><rb>在</rb><rt>い</rt></ruby>でになる、江戸の土地へ連れて行ったら、あるいは気の晴れることもあろうか。そうして時々お目にかかったなら、病いも<ruby><rb>癒</rb><rt>なお</rt></ruby>るに違いない」

こう思って紋兵衛はお露を連れてこの大江戸へは来たのであった。

それにもう一つ紋兵衛は、五千石の旗本で、駿河守には実の舎弟、森家へ養子に行ったところから、森<ruby><rb>帯刀</rb><rt>たてわき</rt></ruby>と呼ばれるお方から、密々に<ruby><rb>使者</rb><rt>つかい</rt></ruby>を<ruby><rb>戴</rb><rt>いただ</rt></ruby>いていたので、上京しなければならないのであった。

この二人の上京は、実のところ葉之助にとっては、<ruby><rb>痛</rb><rt>いた</rt></ruby>し<ruby><rb>痒</rb><rt>かゆ</rt></ruby>しというところであった。彼は依然としてお露に対しては強い恋を感じていた。出逢って話すのは、もちろん非常に楽しかった。しかし同時に苦痛であった。<ruby><rb>呪詛</rb><rt>のろい</rt></ruby>の言葉をどうしよう？　「畜生道！　畜生道！」「お殺しよその男を！」こう二の腕の<ruby><rb>人面疽</rb><rt>にんめんそ</rt></ruby>が、嘲笑い<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>くのをどうしよう？

それは非番の日であったが、葉之助は市中を歩き廻り、夜となってはじめて帰路についた。

<ruby><rb>愛宕</rb><rt>あたご</rt></ruby>下三丁目、当時世間に持て<ruby><rb>囃</rb><rt>はや</rt></ruby>されていた、蘭医<ruby><rb>大槻玄卿</rb><rt>おおつきげんきょう</rt></ruby>の屋敷の裏門口まで来た時であったが、<ruby><rb>駕籠</rb><rt>かご</rt></ruby>が一<ruby><rb>挺</rb><rt>ちょう</rt></ruby>下ろしてあった。と裏門がギーと開いて、中老人が現われた。見れば大鳥井紋兵衛であった。

「これは不思議」と思いながら、葉之助は素早く木蔭に隠れじっと様子を<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>った。

それとも知らず紋兵衛は、手に小長い箱を持ち、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">フと</span>駕籠の中へはいって行った。と駕籠が宙に浮き、すぐシトシトと歩き出した。

「どんな用があって紋兵衛は、こんな深夜に裏門から蘭医などを訪ねたのであろう」

こう思って来て葉之助は合点の行かない思いがした。そこで彼は駕籠の後を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つけ</span>て見ようと決心した。

駕籠は深夜の江戸市中を東へ東へと進んで行った。これを今日の道順で云えば、愛宕町から桜田本郷へ出て<ruby><rb>内幸町</rb><rt>うちさいわいちょう</rt></ruby>から日比谷公園、数寄屋橋から尾張町へ抜けそれをいつまでも東南へ進み、日本橋から東北に取り、須田町から上野公園、とズンズン進んで行ったのであった。さらにそれから紋兵衛の駕籠は根岸の方へ進んで行き、夜も明方と思われる頃、<ruby><rb>一宇</rb><rt>いちう</rt></ruby>の立派な屋敷へ着いた。

「これはいったいどうしたことだ？　<ruby><rb>帯刀</rb><rt>たてわき</rt></ruby>様の下屋敷ではないか」後を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つけ</span>て来た葉之助は、驚いて呟いたものである。

九

もう夜は明方ではあったけれど、しかし秋の夜のことである。なかなか明け切りはしなかった。

駿河守の下屋敷は森帯刀家の下屋敷と半町あまり<ruby><rb>距</rb><rt>へだた</rt></ruby>った同じ根岸の<ruby><rb>稲荷小路</rb><rt>いなりこうじ</rt></ruby>にあったが、そこには愛妾のお石の方と、二人のご子息とが<ruby><rb>住居</rb><rt>すまい</rt></ruby>していた。総領の方は金一郎様といい、奥方にお子様がないところから、ゆくゆくは内藤家を継ぐお方で、今年数え年十四歳、武芸の方はそうでもなかったが学問好きのお方であった。

廊下をへだてて裏庭に向かった。善美を尽くしたお寝間には、<ruby><rb>仄</rb><rt>ほの</rt></ruby>かに<ruby><rb>絹行灯</rb><rt>きぬあんどん</rt></ruby>が<ruby><rb>点</rb><rt>とも</rt></ruby>っていた。その光に照らされて、美々しい<ruby><rb>夜具</rb><rt>よのもの</rt></ruby>が見えていたが、その夜具の<ruby><rb>襟</rb><rt>えり</rt></ruby>を洩れて、上品な寝顔の見えるのは金一郎様が睡っておられるのであった。

と、その時、きわめて<ruby><rb>幽</rb><rt>かす</rt></ruby>かな、笛の<ruby><rb>音</rb><rt>ね</rt></ruby>が聞こえて来た。いや笛ではなさそうだ。笛の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ような</span>物の音であった。耳を澄ませばそれかと思われ、耳を放せば消えてしまう。そういったような幽かな音で、それが<ruby><rb>漸次</rb><rt>だんだん</rt></ruby>近寄って来た。しかしどこからやって来たのか、またどの辺へ近寄って来たのか、それは知ることが出来なかった。とまれ漸次その音は寝間へ近寄って来るらしい。

金一郎様は睡っていた。お附きの人達も次の部屋で明方の夢をむさぼっていた。で、幽かな笛のような音を耳にした者は一人もなかった。

ではその笛のような不思議な音を、耳にすることの出来たものは、全然一人もなかったのであろうか？

下屋敷の内には一人もなかった。

しかし一人下屋敷の外で、偶然それを聞いたものがあった。

他でもない葉之助であった。

その葉之助は駕籠を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つけ</span>てこの根岸までやって来たが紋兵衛の乗っているその駕籠が、森家の下屋敷へはいるのを見ると、しばらく<ruby><rb>茫然</rb><rt>ぼうぜん</rt></ruby>と立っていたが、やがて気が付くと足を返し、主君駿河守の下屋敷の方へ何心なく歩いて行った。

駿河守の下屋敷と森帯刀家の下屋敷との、ちょうど真ん中まで来た時であったが、幽かな幽かな笛の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ような</span>音が、彼の眼の前の地面を横切り、駿河守の下屋敷の方へ、走って行くのを耳にした。

「なんであろう？」と怪しみながら、彼は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">じっ</span>と耳を澄ませ、その物の音に聞き入った。音は次第に遠ざかって行った。そうして間もなくすっかり消えた。

なんとなく気味悪く思いながら彼は尚しばらく<ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>んでいた。

「お、これは？」と呟くと、彼はツカツカ前へ進み、顔を低く地面へ付けた。と、地面に何物か白く光る物が落ちていた。そうしてそれは白糸のように一筋長く線を引き、帯刀家の下屋敷と、駿河守の下屋敷とを、一直線に<ruby><rb>繋</rb><rt>つな</rt></ruby>いでいた。

「<ruby><rb>石灰</rb><rt>いしばい</rt></ruby>かな？」と呟きながら、指に付けて嗅いで見て、彼はアッと声を上げた。強い臭気が鼻を刺し、脳の奥まで<ruby><rb>滲</rb><rt>し</rt></ruby>み込んだからで、<ruby><rb>嘔吐</rb><rt>はきけ</rt></ruby>を催させるその悪臭は、なんとも云えず不快であった。

何か頷くと葉之助は、<ruby><rb>懐中</rb><rt>ふところ</rt></ruby>から鼻紙を取り出したが指で<ruby><rb>摘</rb><rt>つま</rt></ruby>んで白い粉を、念入りにその中へ<ruby><rb>摘</rb><rt>つま</rt></ruby>み入れた。それから静かに帰路についた。

その夜が明けて朝となった。

いつも早起きの金一郎様が、その朝に限って起きて来ない。お附きの者は不審に思い、そっと<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>を開けて見た。金一郎様は上半身を夜具の襟から抜け出させ、両手を<ruby><rb>虚空</rb><rt>こくう</rt></ruby>でしっかり握り、眼を白く<ruby><rb>剥</rb><rt>む</rt></ruby>いて死んでいた。

これは実に内藤家にとって容易ならない打撃であった。世継ぎの若君が変死したとあっては、<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>に対しても<ruby><rb>面伏</rb><rt>おもぶ</rt></ruby>せである。

「何者の<ruby><rb>所業</rb><rt>しわざ</rt></ruby>！　どうして殺したのか？」

「突き傷もなければ切り傷もない」

「血一滴こぼれてもいない」

「毒殺らしい徴候もない」

「絞殺らしい証拠もない」

「奇怪な殺人、疑問の死」

上屋敷でも下屋敷でも人々は不安そうに囁き合った。

葉之助は自宅の一室で、鼻紙の中の白い粉を、睨むように見詰めていたが、

「若君<ruby><rb>弑虐</rb><rt>しいぎゃく</rt></ruby>の大秘密は、この粉の中になければならない」こう口の中で呟いた。

「笛のような<ruby><rb>美妙</rb><rt>びみょう</rt></ruby>な<ruby><rb>音</rb><rt>ね</rt></ruby>！　不思議だな、全く不思議だ！　何者の音であったろう？」

一〇

信州伊那郡高遠の城下、三の<ruby><rb>曲輪</rb><rt>くるわ</rt></ruby>町の中ほどに、天野北山の邸があったが、ある日、北山とその弟子の、前田一学とが話し合っていた。

「先生、不思議ではございませんか」こう云ったのは一学で、「突き傷も斬り傷もないそうで」

「うん」と北山は腕を組んだが、「毒殺の嫌疑もないのだそうだ」

「心臓<ruby><rb>痲痺</rb><rt>まひ</rt></ruby>でもないそうで」

「絞殺の疑いもないのだそうだ」

「ではどうして<ruby><rb>逝去</rb><rt>なくな</rt></ruby>られたのでしょう？」

「解らないよ。俺には解らぬ」

「不思議なことでございますな」

「不思議と云えば不思議だが、しかし本来世の中には不思議ということはないのだがな。科学の光で照らしさえしたら、どんなことでも解る筈だ」

「ではどうして金一郎様は、お<ruby><rb>逝去</rb><rt>なくな</rt></ruby>りなされたのでございましょう？」

「さあそれは、今は解らぬ」

「でも只今先生には、科学の光で照らしさえしたら、何んでも解るとおっしゃいましたが……」

「うん、そうとも、そう云ったよ。……金一郎様のお<ruby><rb>死骸</rb><rt>なきがら</rt></ruby>を、親しく見ることが出来たなら、俺の奉ずる蘭医学をもって、きっと死因を確かめて見せる。だが俺は見ていない。変事の起こったのは江戸のお屋敷で、俺はお噂を聞いたまでだ。千里眼なら知らぬこと、江戸の事件は高遠では解らぬ」

「これはごもっともでございますな」一学はテレて苦笑をした。

「だが」とにわかに北山は、四辺を<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>る小声となったが、

「だが、俺には解ることがある」

「ははあ、何事でございますな？」

「この事件の目的だがな」

「金一郎様殺しの目的が？」

「一学！　これはお家騒動だよ！」

「よく私には解りませんが」

「当家のお世継ぎはどなたであったな？」

「それは<ruby><rb>逝去</rb><rt>なくな</rt></ruby>られた金一郎様で」

「金一郎様<ruby><rb>逝去</rb><rt>な</rt></ruby>き今は？」

「ご次男金二郎様でございましょうが？」

「金二郎様が<ruby><rb>逝去</rb><rt>なく</rt></ruby>なられたら？」

「先生先生何をおっしゃるので！　<ruby><rb>甚</rb><rt>はなは</rt></ruby>だもって<ruby><rb>不祥</rb><rt>ふしょう</rt></ruby>なお言葉で」

「まあさ、これは仮定だよ。……金二郎様<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">なき</span>後は誰が内藤家を継がれるな？」

「もう継ぐお方はございません」

「と云う意味は駿河守様には、お二人しかお子様がないからであろうな？」

「そういう意味でございます」

「しかしお世継ぎがないとあっては、内藤家は断絶する」

「大変なことでございますな」

「大変なことさ。とんでもないことさ。だからどうしても他の方面から、至急お世継ぎを持って来なければならない」

「ははあ、ご養子でございますかな？」

「うん、そうだ、ご近親からな。一番近しいご親戚からな」

「これは、ごもっともでございますな」

「ところがどなたが内藤家にとって一番近しいご親戚かな？」

「さあ」と云って考えたが、「森<ruby><rb>帯刀</rb><rt>たてわき</rt></ruby>様でございましょう」

「そうだよそうだよ、森帯刀様だよ」

こう云うと北山は微妙に笑ったが、

「どうだ」とやがて<ruby><rb>促</rb><rt>うなが</rt></ruby>すように云った。「解ったかな？　お家騒動の意味が？」

「はい。しかし、どうも私には……」

「おやおや、これでも解らないのか？」

「とんと<ruby><rb>合点</rb><rt>がてん</rt></ruby>がゆきません」

「頭が悪いな。え、一学」

「私の馬鹿は昔からで」

「それが今日は特に悪い」

「いやはやどうも、お口の悪いことで」

「お前、今日は、便秘だろう？」

「いえ、そうでもございません」

「なあに、そうだよ、便秘に相違ない」

「これはまたなぜでございますな」

「便秘だと頭が悪くなる」

「あッ、やっぱり、そこへ行きますので」

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひまし</span>油を飲めよ。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひまし</span>油を」

「仕方がありません、飲むことにしましょう」

「アッハハハ、それがいい」

面白そうに笑ったが、にわかに北山は真面目になり、

「これは少しく秘密だが、お前にだけ話すことにしよう。この前の参覲交替の節、俺も殿のお供をして、江戸へ参ったことがある。するとある日帯刀様から、使いが来て招かれた」

「ははあ、さようでございますか」

「で早速<ruby><rb>伺候</rb><rt>しこう</rt></ruby>した」

「面白いお話でもございましたかな？」

「ところが一人相客がいた」

「ははあどなたでございましたな？」

「江戸の有名な蘭学医、お前も名ぐらいは知っていよう、大槻玄卿という人物だ」

一一

「はい、よく名前は承知しております」

「帯刀様のご様子を見ると、<ruby><rb>大分</rb><rt>だいぶ</rt></ruby>玄卿とはご懇意らしい。だがマアそれはよいとして、さてその時の話だが、物騒な方面へ及んだものさ。と云うのは<ruby><rb>他</rb><rt>ほか</rt></ruby>でもない、毒薬の話に花が咲いたのさ。どんな毒薬で人を殺したら、後に<ruby><rb>痕跡</rb><rt>きずあと</rt></ruby>が残らないかなどとな」

「なるほど、これは物騒で」

「で俺はいい加減にして、お<ruby><rb>暇</rb><rt>いとま</rt></ruby>をして帰ったが、いい気持ちはしなかったよ」北山はしばらく黙ったが、「俺の云うお家騒動の意味、どうだこれでも解らないかな」

「ハイ、どうやら<ruby><rb>朧気</rb><rt>おぼろげ</rt></ruby>ながらも解ったようでございます」一学は初めて頷いた。

「で俺は案じるのだ、どうぞご次男金二郎様に、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もしも</span>のことがないようにとな」

「これは心配でございますな」

「今度の江戸の事件について、誰かもっと詳しいことを知らせてくれるものはあるまいかと、心待ちに待っているのだがな」

その時、襖が静かにあき小間使いが顔を現わした。

「江戸からのお<ruby><rb>飛脚</rb><rt>ひきゃく</rt></ruby>でございます」

「江戸からの飛脚？　おおそうか。いや有難い。待っていたのだ。すぐ裏庭へ通すよう」

「かしこまりましてございます」

小間使いが去ったその後で、天野北山は立ち上がった。さて裏縁へ来て見ると、見覚えのある鏡家の若党山岸佐平が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かしこまって</span>いた。

「佐平ではないか。ご苦労ご苦労」

「はっ」と云うと進み寄り、<ruby><rb>懐中</rb><rt>ふところ</rt></ruby>から書面を取り出したが、

「私主人葉之助より、密々先生に差し上げるようにと、預かり参りましたこの書面、どうぞご覧くださいますよう」

「おおそうか、拝見しよう」

「次に」と云いながら山岸佐平は、また懐中へ手をやると小さい包みを取り出したが、「これも主人より預かりましたもの、<ruby><rb>共々</rb><rt>ともども</rt></ruby>ご披見くださいますよう」

「そうであったか、ご苦労ご苦労、<ruby><rb>疲労</rb><rt>つか</rt></ruby>れたであろう、休息するよう」

云いすてて置いて北山は、自分の部屋へ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つと</span>はいった。

書面をひらいて読み下すと、次のような意味のことが書いてあった。

「前略、とり急ぎしたため申し<ruby><rb>候</rb><rt>そうろう</rt></ruby>、さて今回金一郎様、不慮のことにてご他界遊ばされ、君臣一同<ruby><rb>愁嘆至極</rb><rt>しゅうたんしごく</rt></ruby>、なんと申してよろしきや、適当の言葉もござなく候、しかるに当夜私事、偶然のこととは云いながら、二、三怪しき事件に逢い、疑惑容易に<ruby><rb>解</rb><rt>と</rt></ruby>き難きについては、先生のご意見承わりたく、左に列記<ruby><rb>仕</rb><rt>つかまつ</rt></ruby>り候。

当日、私非番のため、家を出でて市中を<ruby><rb>彷徨</rb><rt>さまよ</rt></ruby>い、深夜に至りて帰路につき、愛宕下まで参りしおりから、蘭医大槻玄卿邸の、裏門にあたって一挺の駕籠、忍ぶが如くに下ろされおり、何気なく見れば一人の老人まさにその駕籠に乗らんとす。しかるに全く意外にも<ruby><rb>該</rb><rt>がい</rt></ruby>老人こそ余人ならず、先生にもご存知の大鳥井紋兵衛、これは怪しと存ぜしまま後を慕って参りしところ、紋兵衛の駕籠は根岸に入り我らが主君には実のご舎弟、帯刀様のお屋敷内へ、姿を隠し申し候、誠に奇怪とは存じながら、せんすべなければ立ち帰らんと、歩みを移せしそのおりから、<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ち前面の草原にあたり、あたかも笛を吹くがようなる<ruby><rb>美妙</rb><rt>びみょう</rt></ruby>な音色湧き起こり、瞬間にして消え候さえ、合点ゆかざる怪事なるに、草原を見れば<ruby><rb>白粉</rb><rt>おしろい</rt></ruby>ようなる純白の粉長々と、帯刀様のお屋敷より、我らがご主君の下屋敷まで、一筋筋を引きおり候。

いよいよ怪しと存ぜしまま、その<ruby><rb>白粉</rb><rt>はくふん</rt></ruby>を摘み取り、自宅へ持ち帰り候が、別封をもってお眼にかけし物こそ、その白粉にござ候。

かくて翌日と相成るや、金一郎様の変死あり、何んとももって合点ゆかず、異様の感に打たれ候ものから、貴意を得る次第に候が、<ruby><rb>白粉</rb><rt>おしろい</rt></ruby>ようなる<ruby><rb>白粉</rb><rt>はくふん</rt></ruby>につき、厳重なるお調べ願いたくいかがのものに候や。下略」

「ふうむ、いかさま、これは怪しい」

読んでしまうと北山は、じっと思案の首を傾げた。それから<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やおら</span>立ち上がると、実験室へはいって行った。

まず部屋の戸をしっかりと閉じ、次に火器へ火を点じた。それから葉之助から送って来た油紙包みの紐を切り、ついで取り出した白粉を、鼻にあてて静かに嗅いだ。

「匂いがする。変な匂いだ」そこでしばらく考えたが、「なんの匂いとも解らない」

それから立ち上がると棚へ行き、試験管を引き出した。白粉を入れて水を注ぎ、さらにその中へ入れたのは紫色をした液体であった。

で、試験管を火にあてた。

しかし何んの反応もない。

「これはいけない。ではこっちだな」

こう云うと彼は他の薬品を、改めて試験管へ注ぎ込んだ。

で、また<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">それ</span>を火にかけた。

やはり何んの反応もない。

北山の顔には何んとも云えない、疑惑の情が現われたが、どうやら彼ほどの蘭学医でも、白粉の性質が解らないらしい。

一二

しかし天野北山としては、解らないと云って<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うっちゃる</span>ことは、どうにもこの際出来難かった。

「お家騒動の張本人を、森帯刀様と仮定すると、その<ruby><rb>連累</rb><rt>れんるい</rt></ruby>が大鳥井紋兵衛、それから大槻玄卿なる者は、日本有数の蘭学医、信州の天野か江戸の大槻かと呼ばれ、俺と<ruby><rb>並称</rb><rt>へいしょう</rt></ruby>されている。いずれここにある<ruby><rb>白粉</rb><rt>はくふん</rt></ruby>も、その大槻が呈供して金一郎様殺しの怪事件に、役立てたものに相違あるまい。毒薬かそれとも他の物か、とまれ尋常なものではあるまい。しかるにそれが解らないとあっては、この北山面目が立たぬ。これはどうでも目付け出さなければならない」

しかし<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あせれ</span>ば<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あせる</span>ほど、白粉の見当が付かなかった。

「これはこうしてはいられない。江戸へ出よう江戸へ出よう。そうして大槻と<ruby><rb>直</rb><rt>じ</rt></ruby>かに逢うか、ないしは他の手段を講じて、是が非でも白粉の性質を、一日も早く目付け出さなければならない。……一学一学ちょっと参れ！」

「はっ」と云うと前田一学は、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もっけ</span>な顔をしてはいって来た。

「江戸行きだ、用意せい」

「江戸行き？　これは、どうしたことで？」

「お前も行くのだ。急げ急げ！」

主人の性急な性質は、よく一学には解っていた。で、理由を訊ねようともせず、旅行の用意に取りかかり、明日とも云わずその日のうちに、二人は高遠を発足した。

一方、鏡葉之助は、北山へ飛脚を出してからも、根岸にある主君の下屋敷を念頭から放すことは出来なかった。で、非番にあたる日などは、ほとんど終日下屋敷の附近を、ブラブラ<ruby><rb>彷徨</rb><rt>さまよ</rt></ruby>って警戒した。

ちょうどその日も非番だったので、彼はブラリと家を出ると、根岸を差して歩いて行った。下屋敷まで来て見たが別に変ったこともない。で、その足で浅草へ廻った。

いつも賑やかな浅草は、その日も素晴らしい<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎ</rt></ruby>わいで、奥山のあたりは<ruby><rb>肩摩轂撃</rb><rt>けんまこくげき</rt></ruby>、歩きにくいほどであった。

小芝居、手品、見世物、<ruby><rb>軽業</rb><rt>かるわざ</rt></ruby>、――興行物の掛け小屋からは、陽気な鳴り物の音が聞こえ、<ruby><rb>喝采</rb><rt>かっさい</rt></ruby>をする見物人の、拍手の音なども聞こえて来た。

「悪くないな。陽気だな」

など、彼は呟きながら、人波を分けて歩いて行った。

と、一つの掛け小屋が、彼の好奇心を<ruby><rb>刺戟</rb><rt>しげき</rt></ruby>した。「八ヶ嶽の山男」こう看板にあったからで、八ヶ嶽という三文字が、懐しく思われてならなかった。

で彼は木戸を払い<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つと</span>内へはいって行った。大して人気もないと見えて、見物の数は少かった。ちょうど折悪く<ruby><rb>幕間</rb><rt>まくあい</rt></ruby>で、舞台には幕が下ろされていた。で彼は所在なさに見物人達の噂話に、漫然と耳を傾けた。

「……で、なんだ、山男と云っても、妖怪変化じゃないんだな」職人と見えて威勢のいいのが、こう仲間の一人へ云った。

「そいつで<ruby><rb>俺</rb><rt>おい</rt></ruby>らも<ruby><rb>落胆</rb><rt>がっかり</rt></ruby>したやつさ。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あたりめえ</span>の人間じゃねえか。俺ら、山男というからにゃ、頭の髪が足まで垂れ、<ruby><rb>身長</rb><rt>せい</rt></ruby>の高さが八尺もあって、鳴く声<ruby><rb>鵺</rb><rt>ぬえ</rt></ruby>に似たりという、そういう奴だと思ってたんだが、<ruby><rb>篦棒</rb><rt>べらぼう</rt></ruby>な話さ、ただの人間だあ」

「そうは云っても<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">まんざら</span>じゃねえぜ」もう一人の仲間が口を出した。「間口五間の舞台の端から向こうの端へ一足飛び、あの素晴らしい身の軽さは、どうしてどうして人間<ruby><rb>業</rb><rt>わざ</rt></ruby>じゃねえ」

「あいつにゃ<ruby><rb>俺</rb><rt>おい</rt></ruby>らも<ruby><rb>喫驚</rb><rt>びっく</rt></ruby>りした。こう<ruby><rb>全然</rb><rt>まるで</rt></ruby><ruby><rb>猿猴</rb><rt>えてこう</rt></ruby>だったからな」

「そう云えば長さ三間もある恐ろしいような<ruby><rb>蟒</rb><rt>うわばみ</rt></ruby>を、細工物のように扱った、あの腕だって大したものさ」

「それに武術も出来ると見えて、棒を上手に使ったがあれだって常人にゃ出来やしねえ」

「だがな、眼があって耳があって鼻があって口があって、どうでも<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あたりめえ</span>の人間だあ、化物でねえから面白くねえ」

その時チョンチョンと拍子木の音が、幕の<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>から聞こえて来た。やがてスーッと幕が引かれ、舞台が一杯に現われたが、見れば舞台の真ん中に大きな鉄の<ruby><rb>檻</rb><rt>おり</rt></ruby>があり、その中に巨大な熊がいた。

「ウワーッ、荒熊だ荒熊だ！」「熊と相撲を取るんだな」「<ruby><rb>見遁</rb><rt>みの</rt></ruby>がせねえぞ見遁がせねえぞ！」見物は一度に喝采した。

と異様な風采をした一人の老人が現われた。

「あれいけねえ、お<ruby><rb>爺</rb><rt>とっ</rt></ruby>つぁんだぜ」「いえ、あんな年寄りが、熊と相撲を取るのかね」「やめなよ爺つぁんあぶねえあぶねえ！」

などとまたもや見物は、大声をあげて喚き出した。

一三

しかし老人はビクともせず、<ruby><rb>悠然</rb><rt>ゆうぜん</rt></ruby>と正面へ突っ立ったが、<ruby><rb>猪</rb><rt>しし</rt></ruby>の皮の袖無しに、<ruby><rb>葛</rb><rt>くず</rt></ruby>織りの山袴、一尺ばかりの脇差しを帯び、<ruby><rb>革足袋</rb><rt>かわたび</rt></ruby>を<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>いた有様は、粗野ではあるが威厳あり、<ruby><rb>侮</rb><rt>あなど</rt></ruby>り難く思われた。

で見物は次第に静まり、小屋の中は<ruby><rb>森然</rb><rt>しん</rt></ruby>となった。

「ええ、ご見物の皆様方へ、熊相撲の始まる前に、お話ししたいことがございます」

不意の、<ruby><rb>錆</rb><rt>さび</rt></ruby>のある大きな声で、こうその老人が云い出した時には、見物はちょっとびっくりした。

「他のことではございません」老人はすぐに後をつづけた。

「我々山男の身分について申し上げたいのでございます。私の名は杉右衛門、一座の頭でございます。一口に山男とは申しますが、これを正しく申しますと、<ruby><rb>窩人</rb><rt>かじん</rt></ruby>なのでございます。そうして住居は信州諏訪、八ヶ嶽山中でございます。そうして祖先は<ruby><rb>宗介</rb><rt>むねすけ</rt></ruby>と申して平安朝時代の城主であり、今でも魔界の<ruby><rb>天狗</rb><rt>てんぐ</rt></ruby>として、どこかにいる筈でございます。本来我々窩人なるものは、あなた方一般の下界人達と、<ruby><rb>交際</rb><rt>まじわ</rt></ruby>りをしないということが<ruby><rb>掟</rb><rt>おきて</rt></ruby>となっておりますので、何故というに下界人は、悪者で嘘吐きでペテン師で、不親切者で<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">薄っぺら</span>で、馬鹿で<ruby><rb>詐欺師</rb><rt>さぎし</rt></ruby>で泥棒で、下等だからでございます……」

「黙れ！」

と突然<ruby><rb>桟敷</rb><rt>さじき</rt></ruby>から、怒鳴り付ける声が湧き起こった。

「何を<ruby><rb>吐</rb><rt>ぬ</rt></ruby>かす、こん畜生！　ふざけた事を吐かさねえものだ！　あんまり<ruby><rb>酷</rb><rt>ひど</rt></ruby>い悪口を云うと、この掛け小屋をぶち壊すぞ！」

「そうだそうだ！」と四方から、それに和する声がした。

「そんな下界が嫌いなら何故下界へ下りて来た！」

「それには訳がございます。それというのも下界人の、憎むべき恐ろしいペテンから、湧き起こった事でございまして、一口に云うと私の娘が、多四郎という下界の人間に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かどわかさ</span>れたのでございます。それのみならず、その人間は私どもが尊敬する宗介天狗のご神体から<ruby><rb>黄金</rb><rt>こがね</rt></ruby>の<ruby><rb>甲冑</rb><rt>かっちゅう</rt></ruby>を奪い取り、私どもをして神の怒りに触れしめたのでございます。そのため私達は山を下り、<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>な下界を流浪し歩き、こんな<ruby><rb>香具師</rb><rt>やし</rt></ruby>のような真似までして、厭な下界人の機嫌を取り、<ruby><rb>生活</rb><rt>くら</rt></ruby>して行かなければならないという、憐れはかない身の上に成り下ってしまったのでございます」

「<ruby><rb>態</rb><rt>ざま</rt></ruby>あ見ろ！　いい気味だ！」

また群集は湧き立った。

「しかし」と杉右衛門は手で抑え、「しかし、憎むべき多四郎の、盛んであった運命も、いよいよ尽きる時が参りました。しかも彼は我が子によって命を断たれるのでございます。因果応報天罰<ruby><rb>覿面</rb><rt>てきめん</rt></ruby>、恐ろしいかな！　恐ろしいかな！　で、復讐をとげると同時に、私どもは下界を<ruby><rb>棄</rb><rt>す</rt></ruby>て、再び魔人の住む所、八ヶ嶽山上へ取って返し、平和と自由の生活を、送るつもりでございます。自然下界の皆様方とも、お別れしなければなりません。そのお別れも数日の間に<ruby><rb>逼</rb><rt>せま</rt></ruby>っているのでございます。アラ嬉しやアラ嬉しや！　ついては今日は特別をもって、我ら窩人がいかに勇猛で、そうしていかに野生的であるかを、お眼にかけることに致しましょう。我らにとって熊や猪は、仲のよい友達でございます。その仲のよい友達同士が、<ruby><rb>相</rb><rt>あい</rt></ruby><ruby><rb>搏</rb><rt>う</rt></ruby>ち<ruby><rb>相</rb><rt>あい</rt></ruby><ruby><rb>戯</rb><rt>たわむ</rt></ruby>れる光景は必ず馬鹿者の下界人にも、興味あることでございましょう。実に下界人の馬鹿たるや、真に度しがたいものであって……」

「引っ込め、<ruby><rb>爺</rb><rt>じじい</rt></ruby>」

と見物は、今や総立ちになろうとした。

と突然杉右衛門は、楽屋に向かって声をかけた。

「さあ出て来い、岩太郎！」

「応！」

と<ruby><rb>返辞</rb><rt>いらえ</rt></ruby>る声がしたが、<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ち一個の壮漢が、<ruby><rb>颯</rb><rt>さっ</rt></ruby>と舞台へ躍り出た。年の頃は四十五、六、腰に毛皮を巻きつけたばかり、後は隆々たる筋肉を、惜し気もなく<ruby><rb>露出</rb><rt>むきだ</rt></ruby>していたが、胸幅広く肩うずたかく、<ruby><rb>身長</rb><rt>せい</rt></ruby>の高さは五尺八寸もあろうか、肌の色は桃色をなし、むしろ少年を想わせる。

「や！」

と叫ぶと<ruby><rb>檻</rb><rt>おり</rt></ruby>の戸をムズと両手で<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひっ</span><ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>んだ。

江戸市中狂乱の巻

一

浅草奥山の見世物小屋から、葉之助は邸へ帰って来た。

意外の人が待っていた。

蘭医天野北山と弟子の前田一学とが客間に控えていたのであった。

「おお、これは北山先生」

葉之助は喜んで一礼した。

「前田氏にもよう見えられた」

「葉之助殿、出て来ましたよ」北山は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いつに</span>なく性急に、「さて早速申し上げる、先日はお手紙と不思議の<ruby><rb>白粉</rb><rt>はくふん</rt></ruby>、よくお送りくだされた。まずもってお礼申し上げる。しかるにお送りの<ruby><rb>該</rb><rt>がい</rt></ruby>白粉、とんと性質が解らなくてな」

「ははあ、さようでございますか」葉之助は案外だというように、「先生ほどの大医にも、お解りにならないとは不思議千万」

「いや<ruby><rb>私</rb><rt>わし</rt></ruby>もガッカリした。そうして<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひどく</span>悲観した。と云ってどうも<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うっちゃって</span>は置けない。で、私は一学を連れ、<ruby><rb>倉皇</rb><rt>そうこう</rt></ruby>として出て来たのだ。……そこで私は一学を<ruby><rb>玄卿</rb><rt>げんきょう</rt></ruby>の邸へ住み込ませようと思う」

「ははあ、それでは先生には、大槻玄卿が怪しいと、こう<ruby><rb>覚</rb><rt>おぼ</rt></ruby>し召し遊ばすので？」

「さよう、怪しく思われてな」北山はしばらく打ち案じたが、「卒直に云うとまずこうだ。……金一郎様のご他界は、内藤家におけるお家騒動の、犠牲というに他ならぬ。そうして騒動の元兇は、これは少しく<ruby><rb>畏</rb><rt>おそ</rt></ruby>れ多いが殿のご舎弟<ruby><rb>帯刀</rb><rt>たてわき</rt></ruby>様だ。……いやいやこれには理由がある。しかしそれは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ゆっくり</span>と云おう。ところで二人の相棒がある。玄卿と大鳥井紋兵衛だ。紋兵衛が相棒だということは、実はお前さんの手紙によって想像をしたに過ぎないが、いやあいつの性質から云えば<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">そんなこと</span>もやり兼ねない。どだいあいつの素姓なるものが<ruby><rb>甚</rb><rt>はなは</rt></ruby>だもって怪しいのだからな。どうして<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あれほど</span>金を作ったかも、疑えば疑われる<ruby><rb>節</rb><rt>ふし</rt></ruby>がある。それに第一そんな深夜に、ひとり<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こっそり</span>駕籠に乗って、大槻の屋敷を訪ねた帰路、帯刀様のお屋敷に寄り、その晩若君金一郎様が、ご変死なされたとあって見れば、相棒と見てよろしかろう、相棒というのが<ruby><rb>不穏当</rb><rt>ふおんとう</rt></ruby>なら、関係があると云ってもよい。ところで<ruby><rb>肝腎</rb><rt>かんじん</rt></ruby>の白粉だが、これは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">どうやら</span>毒薬らしい。もっとも森家と内藤家とは相当距離がへだたっているのに、その二軒の屋敷を繋いでこの白粉が一直線に、地面に<ruby><rb>撒</rb><rt>ま</rt></ruby>かれてあったということから、ちと毒薬にしては変なところもある。うん、どうもこれは少し変だ。毒薬を地面へ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ふり</span>撒いたところで人の命は取られるものでない。が、どっちみちこの白粉が怪しいものには相違ない。そうしてお前さんの手紙によると、この白粉の筋道に添って、ちょうど<ruby><rb>美妙</rb><rt>びみょう</rt></ruby>な笛のような音が聞こえて来たということであるが、それは今のところ解らない。だがしかしそれらのことも白粉の性質さえ解ったなら、<ruby><rb>自</rb><rt>おのずか</rt></ruby>ら明瞭になるだろう。とまれこういう不思議な白粉を、造り出すことの出来る者は、大槻玄卿以外には、少くも江戸にはない筈だ。と云うことであって見れば、何をおいても玄卿の家へ、人を入れて様子を探らせ、薬局を調べる必要がある。ところで私と玄卿とは同業であり顔見知りだ。だから到底住み込むことは出来ない。幸い一学は玄卿とはこれまで一面の識もない。そこで一学を住み込ませ、至急様子を探らせようと思う。グズグズしてはいられない、うっかりノホホンでいようものなら、ご次男様がまたやられる」

「えっ？」

と葉之助は眼を見張った。

「ご次男と申せば金二郎様、それが<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やられる</span>とおっしゃるのは？」

「やられるともやられるとも。油断をすると今夜にもやられる」北山はキッと眼を据えたが、「あいつらの目的とするところは、内藤家乗っ取りの陰謀だからな、ご長男様ご次男様、お二人がなくなられるとお世継ぎがない。そこで帯刀様が乗り込んで来られる。どうだ、これで胸に落ちたろう」

云われて葉之助は「ムー」と呻いた。

「いやそれほどの陰謀とは、私夢にも存じませなんだ。これは一刻の油断も出来ない。恐ろしいことでございますな。……」

「人の世は全く恐ろしいよ。さて今度は<ruby><rb>私</rb><rt>わし</rt></ruby>の番だが、殿にはお目通りをしないつもりだ。と云うのは他でもない。私が出府をしたと聞いたら真っ先に玄卿めが用心をしよう。連れて紋兵衛も帯刀様も、手控えするに違いない。そうなったらお終いだ。陰謀の<ruby><rb>手証</rb><rt>てしょう</rt></ruby>を掴むことができない」

「これはごもっともでございますな。それでは手狭でも私の家に、こっそりお<ruby><rb>在</rb><rt>い</rt></ruby>で遊ばしては」

「いやいやそれも妙策でない。人の出入りもあろうから、どうで知れずには済まされぬ。それより<ruby><rb>私</rb><rt>わし</rt></ruby>は町方に住んで、自由に活動するつもりだ。ところでお前さんに頼みがある。ご迷惑でも今夜から、下屋敷の方へ出張ってくだされ。そうして例の白粉がもしも地面に撒いてあったら、用捨なく足で蹴散らしてくだされ。これは非常に大切なことだ」

「かしこまりましてござります。毎晩出張ることに致しましょう」

葉之助は意気込んで引受けた。

二

北山と一学とは人目を<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>り、駕籠でこっそり帰った。そうしてどこへ行ったものか、しばらく消息が解らなかった。

さてここで物語は少しく別の方へ移らなければならない。

ここは寂しい宇田川町、夜が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しんしん</span>と更けていた。

源介という<ruby><rb>駕籠舁</rb><rt>かごか</rt></ruby>きが、いずれ<ruby><rb>濁酒</rb><rt>どぶろく</rt></ruby>でも飲んだのであろう、秋だというのに下帯一つ、いいご機嫌で歩いていた。

「金は天下の廻りもの、今日はなくても明日はある。アーコリャコリャ。アコリャコリャ」

こんなことを云いながら歩いていた。

と、手近の行手から女の悲鳴が聞こえて来た。

「へへへ、どいつかやってやがるな。アレーと来りゃこっちのものだ。こいつ見<ruby><rb>遁</rb><rt>の</rt></ruby>がしてたまるものか。どれどれ」と云うとよろめく足で、声のした方へ走って行った。

はたして小広い空地の中で、二人の男が一人の女を、中へ取りこめて揉み合っていた。

「やい、こん畜生！　悪い奴だ！」

源介は<ruby><rb>濁声</rb><rt>だみごえ</rt></ruby>で一喝した。「ところもあろうに江戸の真ん中で、女<ruby><rb>悪戯</rb><rt>てんごう</rt></ruby>とは何事だ、<ruby><rb>鯨</rb><rt>くじら</rt></ruby>の源介が承知ならねえ！　俺の縄張りを荒らしやがって、いいかげんにしろ、いいかげんにしろ！」

この気勢に驚いたものか、ワーッというと二人の男は、空地を突っ切って逃げ出した。

「<ruby><rb>態</rb><rt>ざま</rt></ruby>ア見やがれ<ruby><rb>意気地</rb><rt>いくじ</rt></ruby>なしめ！　驚いたと見えて逃げやがった」

云い云い女に近付いて行った。

と、倒れていた若い女は、<ruby><rb>周章</rb><rt>あわ</rt></ruby>ててムックリ起き上ったが、源介の胸にすがり付いた。髪の毛が頬に乱れている。帯が<ruby><rb>緩</rb><rt>ゆる</rt></ruby>んで衣裳が崩れ、夜目にも燃え立つ<ruby><rb>緋</rb><rt>ひ</rt></ruby>の<ruby><rb>蹴出</rb><rt>けだ</rt></ruby>しが、白い<ruby><rb>脛</rb><rt>すね</rt></ruby>にまつわっている。年の頃は十八、九、恐怖で顔は<ruby><rb>蒼褪</rb><rt>あおざ</rt></ruby>めていたが、それがまた素晴らしく美しい、お屋敷風の娘であった。

しばらくは口も利けないと見えて、ワナワナ体を顫わせるばかり、源介の胸へしがみ付いている。

源介の魂は宙へ飛んだ。で、むやみと<ruby><rb>口嘗</rb><rt>くちな</rt></ruby>めずりをした。「こ、こ、こいつア悪かあねえなあ。ううん偉いものが飛び込んで来たぞ。まず俺の物にして置いて、品川へでも<ruby><rb>嵌</rb><rt>は</rt></ruby>めりゃあ五十両だ」

こう思ったそのとたん、女はヒョイと胸から離れ、まず衣裳の乱れを<ruby><rb>調</rb><rt>ととの</rt></ruby>え、それから<ruby><rb>丁寧</rb><rt>ていねい</rt></ruby>に辞儀をした。

「あぶないところをお助けくだされ、何んとお礼を申してよいやら、ほんとに有難う存じました」

切り口上で礼を云った。

「へえ、ナーニ、どう致しやして。でもマア<ruby><rb>怪我</rb><rt>けが</rt></ruby>もなかったようで、いったいどうしたと云うんですえ？」

相手に真面目に出られたので、つい源介も真面目に云った。

「はい、ちょっと主人の用事で、新銭座の方まで参りましたところ後から<ruby><rb>従</rb><rt>つ</rt></ruby>けて来た悪者に、……」

「ナール、空地で<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とっ</span>捉まえられたんだね。で、お家はどこですえ？」

「はいツイそこの愛宕下で。……あのまことに申し兼ねますが、お助けくだされた<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おついで</span>に、お送りなされてはくださいますまいか」

「またさっきの悪い奴が追っかけて来ねえものでもねえ、ようごす、送ってあげやしょう」

こうは云ったが源介は、腹の中では舌打ちをした。「どうもこいつア駄目らしいぞ。これが下町の娘っ子なら、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たらし</span>て宿へも連れ込めるが、山の手のお屋敷風、さようしからばの切り口上じゃ、ちょっとどうも手が出ねえ。物にするなあ諦めて、お礼でも<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しこたま</span>貰うとしよう」

「じゃ<ruby><rb>姐</rb><rt>ねえ</rt></ruby>さん行こうかね」こう云って源介は歩き出した。

「それではお送りくださいますので、それはマア有難う存じます」云い云い女は並んで歩いた。

柴井町から露月町、日蔭町まで来た時であったが、

「まあいいお体格でございますこと」不意に女がこう云った。

「え？」と源介は女を見たが、早速には意味が解らなかった。「なんですえ、体格とは？」

「あなたのお体でございますわ」

「ナーンだ<ruby><rb>篦棒</rb><rt>べらぼう</rt></ruby>、体のことか」源介は変に苦笑したが、

「体が<ruby><rb>資本</rb><rt>もとで</rt></ruby>の駕籠屋商売、そりゃあ少しはよくなくてはね」

「ずいぶんお目方もございましょうね？」

「へえ」と云ったが源介は、裏切られたような気持ちがした。

「ほんとに何んだいこの女は！　あぶなく酷い目に逢いかかったのに、もう<ruby><rb>洒々</rb><rt>しゃあしゃあ</rt></ruby>してこの通りだ。人の目方まで<ruby><rb>量</rb><rt>はか</rt></ruby>りゃあがる。――十七貫はございましょうよ」

「ずいぶん骨太でいらっしゃいますことね」

「あれ、あんな事云やあがる。厭になっちまうなこの女は。――ヘイヘイ骨太でございますとも」

「ホ、ホ、ホ、ホ、結構ですわ」

「ワーッ、今度は笑いやがった。変に気に入らねえ女だなあ」源介はすっかりウンザリした。

すると、女がまた云った。

「<ruby><rb>妾</rb><rt>わたくし</rt></ruby>、さっき、あなたの胸へ、一生懸命<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>り付きましたわね。その時よっく計りましたのよ。ええあなたのお体をね」

源介はピタリと足を止めた。そうして女を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">じっ</span>と見た。ズーンと何物かで脳天を、ぶち抜かれたような気持ちがした。

と、女は手を上げて、そこに立っていた巨大な屋敷の、黒板塀をトントンと打った。それが何かの合図と見えて、そこの切り戸がスーと開いた。

「主人の屋敷でございますの、お礼を致したいと存じます。どうぞおはいりくださいまし」

云いすてて女ははいって行った。

何んとも云われない芳香が、切り戸口から匂ってきた。源介にとっては誘惑であった。彼はその匂いに引き入れられるように、ブラブラと内へはいって行った。

間もなく彼の叫び声がした。

「やあ綺麗な花園だなあ」

それから後は<ruby><rb>寂然</rb><rt>しん</rt></ruby>となった。

そうして源介はその夜限り、この地上から消えてしまった。彼の姿は未来<ruby><rb>永劫</rb><rt>えいごう</rt></ruby>、ふたたび人の眼に触れなかった。

「やあ綺麗な花園だなあ」

この彼の叫び声はいったいどういう意味なのであろう？

三

ここで再び物語は、鏡葉之助の身の上に返る。

ある日葉之助はいつものように、四国町の邸を出て、殿の下屋敷を警護するため、根岸の方へ歩いて行った。増上寺附近まで来た時であったが、「ヒーッ」という女の悲鳴がした。同時に山門の暗い蔭から、裾を乱した若い女が、彼の方へ走って来た。そうしてその後から二人の男が何か<ruby><rb>喚</rb><rt>わめ</rt></ruby>きながら走って来たが、葉之助の姿を見て取ると元来た方へ引っ返した。

「ははあ、さては<ruby><rb>狼藉者</rb><rt>ろうぜきもの</rt></ruby>だな」

呟いたとたんに若い女は<ruby><rb>犇</rb><rt>ひし</rt></ruby>と葉之助へ縋り付いた。衣裳も髪も乱れてはいたが、薄月の光に<ruby><rb>隙</rb><rt>す</rt></ruby>かして見ると、並々ならぬ美しさをその女は持っていた。

「お助けくださりませ、お助けくださりませ！」<ruby><rb>喘</rb><rt>あえ</rt></ruby>ぎながらこう云うと、女は葉之助を撫で廻した。

「しっかりなされ、大丈夫でござる」葉之助は女を慰めた。「狼藉をされはしませぬかな？」

「あぶないところでございました。ちょうどお姿が見えましたので、やっとモギ放して逃げましたものの、そうでなかったら今頃は、……おお恐ろしい恐ろしい！」女はブルブル身を顫わせたが、「お送りなされてくださりませ！　お送りなされてくださりませ！　いまの悪者が取って返し、襲って参ろうも知れませぬ。つい近くでございます。お送りなされてくださりませ！」取り付いた手を放そうともしない。

「よろしゅうござる、お送りしましょう」葉之助は女を掻いやった。「で、家はどの辺かな？」

「愛宕下でございます」女は髪を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つくろっ</span>た。

「愛宕下ならツイ眼の先、さあ、おいでなさるがよい」云い云い葉之助は先に立ち、その方角へ足を向けた。

「それはマアマア有難いことで、もう大丈夫でございます」

「若い女子がこんな深夜に、一人で歩くということは、無考えの上に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ちと</span>大胆、今後は注意なさるがよい」

若い女を助けながら、家まで送るということが、葉之助にはちょっと得意であった。まして女は美人である。そうして<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひたすら</span>縋り付いてくる。彼は多少快感さえ感じた。

しかし女が立ち止まり、「ここが邸でございます。主人からもお礼を申させます。どうぞお立ち寄りくださいまし」と、一軒の屋敷を指さした時には、<ruby><rb>喫驚</rb><rt>びっく</rt></ruby>りせざるを得なかった。と云うのはその屋敷が、敵と目差している蘭学医の玄卿の屋敷であったからである。

「おおこれは玄卿殿の住居、それではそなたはこの屋敷の……」

「ハイ小間使いでございます。どうぞどうぞお立ち寄りを」女は袖を放さなかった。

そこで葉之助は考えた。

「この屋敷へ入り込むのは、<ruby><rb>虎穴</rb><rt>こけつ</rt></ruby>へ入ると同じだが、そういう冒険をしなかった日には、虎児を<ruby><rb>獲</rb><rt>え</rt></ruby>ることは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">むずかしい</span>。それにこっちでは玄卿めを、敵と目差してはいるものの、先方ではまだまだ知らない筈だ。こういう機会に敵地へ入り込み、様子を探っておいたならまたよいこともあるだろう。それに<ruby><rb>俺</rb><rt>わし</rt></ruby>は玄卿をこれまで一度も見たことがない。これを<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しお</span>に行き会って、人物を見抜くのも一興である」

そこで葉之助は云われるままに、木戸を潜ることにした。

四

女がコツコツと戸を叩くと、内側へスーと切り戸があいた。プーッと匂って来る快い匂い、まず葉之助の心を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">さらった</span>。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はてな</span>と思いながらはいったとたん、思わず<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっ</span>と声を上げた。

黒い高塀に囲まれているので、往来からは見えなかったが、庭一面に草花が<ruby><rb>爛漫</rb><rt>らんまん</rt></ruby>と咲き乱れているのであった。

「これは綺麗な花園でござるな」感嘆して立ち止まった。

するとその時<ruby><rb>園丁</rb><rt>えんてい</rt></ruby>と見えて、<ruby><rb>鋤</rb><rt>すき</rt></ruby>を担いだ大男が花を分けて現われたが、二人の姿をチラリと見ると逃げるように隠れ去った。

「<ruby><rb>咽</rb><rt>む</rt></ruby>せ返るようなよい匂いだ」葉之助は幾度も深呼吸をしたが、「これは何んという花でござるな？」

「<ruby><rb>大茴香</rb><rt>おおういきょう</rt></ruby>でございます」

「おおこれが<ruby><rb>茴香</rb><rt>ういきょう</rt></ruby>か。ふうむ、実に見事なものだ。茴香といえば高価な薬草、さすが大槻玄卿殿は、当代名誉の大医だけあって、立派な薬草園を持っておられる」

さすがの葉之助も感心して、園に添って歩いて行った。すると一箇所一間四方ぐらい、その茴香の花園が枯れ<ruby><rb>凋</rb><rt>しぼ</rt></ruby>んでいる箇所へ来た。

「これはどうも<ruby><rb>勿体</rb><rt>もったい</rt></ruby>ない。茴香が枯れておりますな」葉之助は立ち止まった。

「はい主人も心配して、恢復策を講じますものの、一旦枯れかかった茴香は、容易なことでは生き返らず、こまっておるのでございます」女はこう云いながら耳を澄ました。どこかで地面を掘っている。鋤にあたる小石の音が、コチンコチンと聞こえて来る。

薬草園を通り過ぎると、館の裏座敷の前へ出た。明るい<ruby><rb>灯火</rb><rt>ともしび</rt></ruby>が障子に映え、人の話し声も聞こえている。

「さあどうぞお上がり遊ばしませ」

云いながら女が先に上がり、スラリと障子を引きあけた。何んとなく身の締まる思いがして、葉之助は一瞬間<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ちゅうちょ</rt></ruby>したが、覚悟をして来たことではあり、性来無双の大胆者ではあり云われるままに座敷へ上がった。

「しばらくご免を」と挨拶をし女は奥へ引き込んだ。

敷物の上へ端然と坐り、葉之助は部屋の中を見廻した。床に一軸が懸かっていた。それは神農の図であった。<ruby><rb>丸行灯</rb><rt>まるあんどん</rt></ruby>が<ruby><rb>灯</rb><rt>とも</rt></ruby>っていた。火光が鋭く青いのは在来の油灯とは<ruby><rb>異</rb><rt>ちが</rt></ruby>うらしい。待つ間ほどなく現われたのは、剃り立ての坊主頭の<ruby><rb>被布</rb><rt>ひふ</rt></ruby>を<ruby><rb>纏</rb><rt>まと</rt></ruby>った肥大漢で、年は五十を過ぎているらしく、銅色をした大きな顔は<ruby><rb>膏切</rb><rt>あぶらぎ</rt></ruby>ってテカテカ光っている。

「愚老、大槻玄卿でござる」こう云って坐って一礼したが、<ruby><rb>傲岸不遜</rb><rt>ごうがんふそん</rt></ruby>の人間と見え、床の間を背にして坐ったものである。

「家人をお助けくだされた<ruby><rb>由</rb><rt>よし</rt></ruby>、あれは小間使いとはいうものの、愚妻の縁辺でござってな、血筋の通った親類<ruby><rb>端</rb><rt>はじ</rt></ruby>、ようお助けくだされた。玄卿お礼を申しますじゃ」それでも一通りの礼は云った。

「拙者は鏡葉之助、内藤駿河守の家臣でござるが。ナニ助けたと申し条、ただちょっと通りかかったまで、そのご挨拶では痛み入る」葉之助も傲然と云った。「こんな坊主に負けるものか！」こういう腹があったからである。

「ほほう、内藤家の鏡氏、いやそれはご名門だ。お噂は<ruby><rb>兼々</rb><rt>かねがね</rt></ruby>存じております。実は愚老は内藤様ご舎弟、森帯刀様へはお出入り致し、ご<ruby><rb>恩顧</rb><rt>おんこ</rt></ruby>を<ruby><rb>蒙</rb><rt>こうむ</rt></ruby>っておりますもの、これはこれはさようでござったか」

玄卿も相手が葉之助と聞いて、にわかに<ruby><rb>慇懃</rb><rt>いんぎん</rt></ruby>な態度となった。

その時小間使いが現われたが、それは別の小間使いであった。片手に<ruby><rb>錫</rb><rt>すず</rt></ruby>製の湯差しを持ちもう一つの手に盆を持っていたが、その盆の上には二つの茶碗と、小さな<ruby><rb>茶漉</rb><rt>ちゃこ</rt></ruby>しとが置いてあった。そうして砂糖<ruby><rb>壺</rb><rt>つぼ</rt></ruby>とが置いてあった。

「うん、よろしい、そこへ置け」こう云って玄卿は<ruby><rb>頤</rb><rt>あご</rt></ruby>を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しゃくった</span>。

「いやナニ鏡葉之助殿、これは南蛮茶と申しましてな、日本では<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">めった</span>に得られないもの、たいして美味でもござらぬが、珍らしいのが<ruby><rb>取柄</rb><rt>とりえ</rt></ruby>でござる」

こう云いながら玄卿は、湯差しを手ずから取り上げると、茶漉しの上から茶碗の中へ深紅の液を注ぎ込んだ。それから<ruby><rb>匙</rb><rt>さじ</rt></ruby>で砂糖を入れた。

「まず拙者お毒味を致す」

こう云うと一つの茶碗を取り上げ、半分ばかりグッと呑んだ。

「<ruby><rb>温</rb><rt>ぬる</rt></ruby>加減もまず上等、いざお<ruby><rb>験</rb><rt>ため</rt></ruby>しくださいますよう」

「さようでござるかな、これは珍味」

葉之助は茶碗を取り上げたが、そこでちょっと<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ためらった</span>。

五

茶碗を取り上げた葉之助が、急に飲むのを<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ちゅうちょ</rt></ruby>したのは、当然なことと云わなければならない。

「評判のよくない大槻玄卿、どんなものをくれるか解るものか」つまり彼はこう思ったのであった。

玄卿は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すると</span>ニヤリと笑った。

「いや鏡葉之助殿、愚老毒などは差し上げません。どうぞ安心してお<ruby><rb>試</rb><rt>ため</rt></ruby>しくだされ」

図星を差されたものである。

「とんでもないこと、どう致しまして」

葉之助は苦笑したが、今は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">のっ</span>引きならなかった。で、一息にグーと飲んだ。日本の緑茶とは趣きの異った、強い香りの甘渋い味の、なかなか結構な飲み物であった。

「珍味珍味」と葉之助は、お世辞でなくて本当に<ruby><rb>褒</rb><rt>ほ</rt></ruby>めた。

「産まれて初めての南蛮紅茶舌の正月を致してござる」

「お気に<ruby><rb>叶</rb><rt>かな</rt></ruby>って本望でござる。いかがかな、もう一杯？」

「いや、もはや充分でござる」

葉之助は辞退した。

「さようでござるかな。お<ruby><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby>いは致さぬ」

で玄卿は茶器を片付けた。

それから二つ三つ話があった。

と、葉之助は次第次第に引き入れられるように眠くなった。

「これはおかしい」とこう思った時には、全身へ<ruby><rb>痲痺</rb><rt>まひ</rt></ruby>が行き渡っていた。

「ううむ、やっぱり毒であったか！」

葉之助は切歯した。それから刀を抜こうとした。ただ心が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あせる</span>ばかりで手が云うことを聞かなかった。

「残念！」と彼は喚くように云った。しかし言葉は出なかった。ただそう云ったと思ったばかりで、その実言葉は舌の先からちょっとも外へは出なかった。

彼は前ノメリに倒れてしまった。

しかしそれでも意識はあった。

それから起こった出来事を、彼は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぼんやり</span>覚えていた。

……まず二、三人の男の手が、彼を宙へ<ruby><rb>舁</rb><rt>か</rt></ruby>き上げた。……縁から庭へ下ろされたらしい。……穴を掘るような音がした。……と、<ruby><rb>提灯</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>の灯が見えた。……<ruby><rb>茴香</rb><rt>ういきょう</rt></ruby>畑が見えて来た。……花が空を向いていた。……一人の男が穴を掘っていた。……大きな穴の口が見えた。……彼はその中へ入れられた。……バラバラと土が落ちて来た。……おお彼は埋められるのであった。……もう何んにも見えなかった。サーッと土が落ちて来た。……顔の上へも胸の上へも、手へも足へも土が溜った。……次第に重さを感じて来た。……そうして次第に<ruby><rb>呼吸</rb><rt>いき</rt></ruby>苦しくなった。……「俺は死ぬのだ！　俺は死ぬのだ！」葉之助は穴の中で、観念しながら呟いた。そうしてそのまま気を失った。

……………………

……………………

新鮮な空気がはいって来た。

葉之助は正気附いた。

そうして自由に息が出来た。

だが身動きは出来なかった。

彼はやはり穴の中にいた。

土が一杯に冠さっていた。

しかし痲痺からは覚めていた。毒薬の<ruby><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>き<ruby><rb>目</rb><rt>め</rt></ruby>が消えたのであろう。

どうして息が出来るのだろう？　どこかに穴でも開いたのであろうか？

そうだ、穴があいたのであった。

ちょうど彼の口の上に、穴があいているのであった。

しかし普通の穴ではなかった。

竹の筒が差し込まれているのであった。

誰がそんなことをしたのだろう？　もちろん誰だか解らなかった。

とまれそのため葉之助は、一時死から<ruby><rb>免</rb><rt>まぬ</rt></ruby>がれることが出来た。

彼は充分に息をした。どうかして穴から出ようとした。しかしそれは絶望であった。

で、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">じっ</span>として待つことにした。

するとその時竹筒を伝って、人の声が聞こえて来た。

彼に呼びかけているのであった。

「鏡殿、葉之助殿」

それは男の声であった。

そうして確かに聞き覚えがあった。

そこで葉之助は返辞をした。

「どなたでござるな。え、どなたで？」

「一学でござる。前田一学で」

「おっ」と葉之助はそれを聞くと、助かったような気持ちがした。「さようでござるか、前田氏でござるか。……それにしてもこれはどうしたことで」

「生き埋めにされたのでございますよ」

「生き埋め？　生き埋め？　なんのために？」

「枯れかけた<ruby><rb>茴香</rb><rt>ういきょう</rt></ruby>を助けるために」

「ナニ、茴香を？　枯れかけた茴香を？」

「さよう」と一学の声が云った。「肥料にされたのでございます。……<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あなた</span>ばかりではございません。十数人の人間が。……人が来るようでございます。……しばらくお待ちくださいますよう」

六

そこでしばらく話が絶え、後はしばらく<ruby><rb>寂然</rb><rt>しん</rt></ruby>となった。

と、また話し声が聞こえて来た。

「葉之助殿、お苦しいかな？」

「苦しゅうござる。早く出してくだされ」

「それが、そうは出来ませんので」

「ナニ出来ない？　なぜでござるな？」

「まだ人達が目覚めております」

「ではいつここから出られるので？」葉之助はジリジリした。

「間もなく寝静まるでございましょう、もう少々お待ちくだされ」

「それにしても前田氏には、どうしてこんな処におられるな」

「玄卿の秘密を<ruby><rb>発</rb><rt>あば</rt></ruby>くため、<ruby><rb>飯焚</rb><rt>めした</rt></ruby>きとなって住み込んだのでござる」

「で、秘密はわかりましたかな？」

「さよう、おおかたはわかりました」

「それでは白粉の性質も？」

「さよう、おおかたは突き止めてござる」

「さようでござるかそれはお手柄。で、いったい何んでござるな？」

「<ruby><rb>茴香</rb><rt>ういきょう</rt></ruby>から製した薬品でござる」

「ううむ、なるほど、茴香のな。やはり毒薬でござろうな？」

「さよう、さよう、毒薬でござる」

「おおそれでは金一郎様には、毒殺されたのでございますな」

「ところが、そうではございません」

「そうではないとな？　これは不思議？」

「茴香剤は毒薬とは云え、後に痕跡を残します。……しかるに若殿の<ruby><rb>死骸</rb><rt>なきがら</rt></ruby>には、なんの痕跡もなかったそうで」

「さようさよう、痕跡がなかった。……だが、毒殺でないとすると……」

「全く不思議でございます」

「白粉の性質が解っても、それでは一向仕方がないな」

「だが前後の事情から見て、茴香剤の白粉が、金一郎様殺害に、関係のあることはたしかにございます」

「で、白粉の特性は？」

「刺戟剤でございます。まず、しばらくお待ちください。客があるようでございます。……誰か裏門を叩いております。……<ruby><rb>男奴</rb><rt>おとこめ</rt></ruby>が<ruby><rb>潜</rb><rt>くぐ</rt></ruby>り戸をあけました。……や、紋兵衛でございます、大鳥井紋兵衛が参りました。……これは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うっちゃって</span>は置けません。……ちょっと様子をうかがって来ます。……」

前田一学は立ち去ったらしい。

後はふたたび静かになった。

葉之助はだんだん苦しくなった。

湿気が体へ滲み通った。

呼吸もだんだん苦しくなった。ひどく衰弱を感じて来た。

次第に眠気を催して来た。

一学は帰って来なかった。

「眠ってはいけない、眠ってはいけない」

こう思いながらウツラウツラした。

これは恐ろしい眠りであった。ふたたび覚めない眠りであった。眠ったが最後葉之助は、生き返ることは出来ないだろう。

はたして彼の運命は？

ちょうど同じ夜のことであった。

神田の諸人宿の奥まった部屋に、天野北山は坐っていた。

薬箱が置いてあった。

アルコールランプが置いてあった。

試験管が置いてあった。

そうして彼は蘭語の医書を、むずかしい顔をして読んでいた。

そこには次のように書いてあった。

「……茴香には三種の区別あり、野茴香、大茴香、小茴香、しかして茴香の薬用部は、枝葉に非ずして果実なり。大きさおよそ二分ばかり、緑褐色長円形をなす。一種強烈なる芳香を有し、<ruby><rb>駆虫</rb><rt>くちゅう</rt></ruby>、<ruby><rb>袪痰</rb><rt>きょたん</rt></ruby>、健胃剤となる。また芳香を有するがため、<ruby><rb>嬌臭</rb><rt>きょうしゅう</rt></ruby>及び嬌味薬となる、あるいは種子を酒に浸し、飲用すれば<ruby><rb>疝気</rb><rt>せんき</rt></ruby>に効あり。茴香精、茴香油、茴香水を採録す」

北山はここで舌打ちをした。

「どうもこれでは仕方がない。だがしかし例の白粉が、茴香剤に相違ないと、前田一学から知らせて来たからには、それに相違はあるまいが、しかしどうも疑わしいな」

腕を組んで考え込んだ。

気がムシャクシャしてならなかった。

で、宿を出て歩くことにした。

他に行くところもなかったので、浅草の方へ足を向けた。

観音堂へ<ruby><rb>参詣</rb><rt>さんけい</rt></ruby>した。

相当夜が深かったので、他に参詣の人もなかった。

七

観音堂の裏手の丘に、十数人の男女がいた。寝そべっているもの、坐っているもの、立っているもの、横になっているもの、雑然として<ruby><rb>蒐</rb><rt>あつ</rt></ruby>まっていたが、暗い星月夜のことではあり、顔や姿は解らなかった。

「星が流れた」

と誰かが云った。

「ふん、明日も天気だろう」

すぐに誰かがこう答えた。

で、ちょっとの間しずかであった。

微風が木立を<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>って行った。

赤児の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">むずかる</span>声がした。と、子守唄が聞こえて来た。その子の母が唄うのであろう。美しい細々とした声であった。

虫が<ruby><rb>草叢</rb><rt>くさむら</rt></ruby>で鳴いていた。

微風がまたも辷って行った。

「ああいいな。どんなにいいか知れねえ。……土の匂いがにおって来る。……枯草の<ruby><rb>蒸</rb><rt>む</rt></ruby>れるような匂いもする」

老人の声がこう云った。

「八ヶ嶽！　八ヶ嶽！　おお<ruby><rb>懐</rb><rt>なつか</rt></ruby>しい八ヶ嶽！　八ヶ嶽を思い出す」

一人の声がそれに応じた。やはり老人の声であったが。

「見捨ててから久しくなる。そろそろ八ヶ嶽を忘れそうだ」

「俺は夢にさえ思い出す」以前の老人が云いつづけた。「笹の平！　宗介神社！　天狗の岩！　岩屋の住居！　秋になると木の実が熟し、冬になると猪が捕れた。そうして春になると山桜が咲き、夏になると労働した。……平和と自由だったあの時代！　俺は夢にさえ思い出す」

「<ruby><rb>漂泊</rb><rt>さすらい</rt></ruby>の旅の二十年！　早く故郷へ帰りたいものだ」

「星が飛んだ！」

とまた誰かが云った。

虫の声が鳴きつづけた。

<ruby><rb>夜烏</rb><rt>よがらす</rt></ruby>が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひとしきり</span>梢で騒いだ。おおかた夢でも見たのだろう。

窩人達は眠ろうとした。

しかし彼らは眠られないらしい。

そこで彼らは話し出した。

彼らは浅草奥山の、見世物小屋の太夫達であった。

「八ヶ嶽の山男」

――こういう看板を上げている、その掛け小屋の太夫達であった。

しかし彼らは窩人であった。

彼らは小屋内に眠るより、<ruby><rb>戸外</rb><rt>そと</rt></ruby>で寝る方を愛していた。それは彼らが自然児だからで、人工の屋根で雨露を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しのぎ</span>、あたたかい<ruby><rb>蒲団</rb><rt>ふとん</rt></ruby>にくるまるより、天工自然の空の<ruby><rb>下</rb><rt>もと</rt></ruby>で、湿気と草の香に包まれながら地上で眠る方が健康にもよかった。で、暴風雨でない限り、いつも彼らは土の上で眠った。

二十年近い過去となった。その頃彼らは八ヶ嶽を出て、下界の<ruby><rb>塵寰</rb><rt>じんかん</rt></ruby>へ下りて来た。それは盗まれた彼らの宝――宗介天狗のご神体に着せた、黄金細工の<ruby><rb>甲冑</rb><rt>かっちゅう</rt></ruby>を、奪い返そうためであった。

<ruby><rb>漂泊</rb><rt>さすらい</rt></ruby>の旅は長かった。

到る所で迫害された。

山男！　こういう<ruby><rb>悪罵</rb><rt>あくば</rt></ruby>を投げつけられた。

長い漂泊の間には、死ぬ者もあれば逃げるものもあった。しかし、子を産む女もあった。

で、絶えず変化した。

しかし目的は一つであった。

復讐をするということであった。

丘の近くに池があった。パタパタと水鳥の羽音がした。

「水鳥だな」

と誰かが云った。それは若々しい声であった。

「鳥はいいな。羽根がある」

もう一つの若々しい声が云った。

「飛んで行きたいよ。高い山へ！」「飛んで行きたいよ深い森へ！」「信州の山へ！　八ヶ嶽へ！」「そうだ俺らの古巣へな」

三、四人の声がこう云った。

愉快そうな笑い声が聞こえて来た。

枯草の匂いが立ち迷った。

で、また<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひとしきり</span>静かになった。

<ruby><rb>都会</rb><rt>まち</rt></ruby>の方から笛の音がした。<ruby><rb>按摩</rb><rt>あんま</rt></ruby>の流す笛であった。

観音堂は闇を抜いて、星空にまで届いている。と、<ruby><rb>鰐口</rb><rt>わにぐち</rt></ruby>の音がした。参詣する人があるのだろう。

「また白蛇を盗まれたそうで」

突然こういう声がした。

「では二匹盗まれたんだな」

もう一人の声がこう云った。「毒蛇だのに、誰が盗んだかな」

「八ヶ嶽だけに住んでる蛇だ」

「毒蛇だのに、誰が盗んだかな」

「いずれ馬鹿者が盗んだんだろう」

ここで再び笑い声がした。

それが消えると静かになった。カラカラと駒下駄の音がした。横に曲がってやがて消えた。

また微風が訪れて来た。

興行物の小屋掛けが、闇の中に立っていた。ギャーッと<ruby><rb>夜烏</rb><rt>よがらす</rt></ruby>が啼き過ぎた。

「冬になるまでには帰りたいものだ」

老人の声がこう云った。

「帰れるともきっと帰れる」もう一人の老人の声が云った。

「そう長く悪運が続くわけがない」

「多四郎め！　思い知るがいい！」

「だが葉之助は可哀そうだ」突然誰かがこう云った。

「仕方がない、<ruby><rb>贖罪</rb><rt>しょくざい</rt></ruby>だ！」もう一人の声がこう云った。

「母の罪を償うのだ」

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あれ</span>の母の山吹は、部落きっての美人だった。お頭杉右衛門の娘だった。若大将岩太郎の<ruby><rb>許婚</rb><rt>いいなずけ</rt></ruby>だった。……ほんとに気前のいい娘だった」

「ところが多四郎めに<ruby><rb>瞞</rb><rt>だま</rt></ruby>された。そうして<ruby><rb>怨</rb><rt>うら</rt></ruby>み死にに死んでしまった。可哀そうな可哀そうな女だった。……山吹とそうして多四郎との子！　可哀そうな可哀そうな葉之助！」

八

観音堂への参詣を済まし、<ruby><rb>偶然</rb><rt>ふと</rt></ruby>来かかった北山は、窩人達の話を耳にして「オヤ」と思わざるを得なかった。

「葉之助葉之助と云っているが、鏡葉之助のことではあるまいかな？」

これは疑うのが当然であった。

と、木蔭に身を隠し、次の話を待っていた。

「だが葉之助は偉い奴だ」老人の声がこう云った。「俺らの敵の水狐族部落を、見事に亡ぼしてくれたんだからな」

「そうだ、あの功は没せられない」合槌を打つ声が聞こえて来た。「あの一事で母親の罪は、<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>に償われたというものだ」

「噂によると水狐族めも、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">さすらい</span>の旅へ上ったそうだ」

「江戸へ来ているということだ」

「どこかで<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぶつからない</span>ものでもない」

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぶつかった</span>が最後、戦いだ」

「そうだ戦いだ、腕が鳴るなあ」

「種族と種族との戦いだからな」

「種族の怨みというものは、未来<ruby><rb>永劫</rb><rt>えいごう</rt></ruby><ruby><rb>解</rb><rt>と</rt></ruby>けるものではない」

「だが、水狐族の部落の<ruby><rb>長</rb><rt>おさ</rt></ruby>、久田の<ruby><rb>姥</rb><rt>うば</rt></ruby>めが殺された今は、戦ったが最後<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こっち</span>の勝ちだ」

「姥を殺したのは葉之助だ」

「葉之助は俺らの恩人だ」

「だが気の毒にも呪われている」

「永久安穏はないだろう」

「眠い」

と女の声がした。

すると<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みんな</span>黙ってしまった。

彼らは<ruby><rb>睡眠</rb><rt>ねむり</rt></ruby>にとりかかった。

やがて<ruby><rb>鼾</rb><rt>いびき</rt></ruby>の声がした。

木蔭を立ち出で北山は、町の方へ足を向けた。

「ふうむそれでは葉之助は、山男の血統を引いてるのか」

彼は心で呟いた。

「久田の姥を殺したのは、鏡葉之助の他にはない。……彼らの噂した葉之助は、鏡葉之助に違いない……これを聞いたら葉之助はどんな気持ちになるだろう……明かした方がいいだろうか？　明かさない方がいいだろうか？　……だが多四郎とは何者だろう？」

上野の方へ足を向けた。

「大胆不敵な葉之助のことだ、素姓の卑しい山男達の、たとえ血統を引いていると聞いても、よもや<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひどい</span>失望はしまい。……やはりこれは明かした方がいい……そうだ、今夜も葉之助は、根岸の殿の下屋敷附近を、警戒しているに違いない。行き逢って様子を見ることにしよう」

根岸の方へ足を向けた。

根岸は閑静な土地であった。夜など人一人通ろうともしない。

間もなく下屋敷の側まで来た。

葉之助の姿は見えなかった。

で、裏の方へ廻って行った。

すると、広い空地へ出た。空地の闇を貫いて、一筋白い長い線が、一文字に地面へ引かれていた。

それと知った時北山は、思わず「アッ」と声を上げた。「白粉！　白粉！　例の白粉だ！」

とたんに笛の音が聞こえて来た。

銀笛のような音であった。白粉の上を伝わって来た。その白粉は白々と、森帯刀家の下屋敷まで、一直線につづいた。

笛の音は間近に<ruby><rb>逼</rb><rt>せま</rt></ruby>って来た。もう数間の先まで来た。

北山は再び「アッ」と云った。

それからあたかも<ruby><rb>狂人</rb><rt>きちがい</rt></ruby>のように、白粉を足で蹴散らした。

そうして笛の音を聞き澄ました。

笛の音は足もとまで逼って来た。しかしそこから引っ返して行った。

だんだん音が遠ざかり、やがて全く消えてしまった。

北山は全身ビッショリと冷たい汗を掻いていた。と、地面へ手を延ばし、一<ruby><rb>摘</rb><rt>つま</rt></ruby>みの白粉を摘み上げた。

「解った！」と呻くように叫んだものである。

九

地下に埋められた葉之助は、さてそれからどうなったろう？

奇々怪々たる出来事が引き続き起こったのであった。

ちょっと待てと云って立ち去ったまま、一学は帰って来なかった。で葉之助は待っていた。待っているのはよいとしても、<ruby><rb>呼吸</rb><rt>いき</rt></ruby>の苦しいのは閉口であった。名に負う地下にいるのであった。気味の悪さは形容も出来ない。湿気は体を融かそうとした。身内を<ruby><rb>蛆虫</rb><rt>うじむし</rt></ruby>が這うようであった。一寸も動くことが出来なかった。もし体を動かしたら、竹筒の位置が狂うだろう。そうしたら呼吸が出来なくなろう。そうなったらお陀仏であった。死んでしまわなければならなかった。

「死ぬかも知れない！　死ぬかも知れない！　だがいったいそれにしても、一学氏はどうしたのだろう？　どうして助けに来ないのだろう？　逃げてしまったのではあるまいか？　いやいやそんな人物ではない。では何か危険なことでも、あの人の身の上に起こったのであろうか？　……とにかくこうしてはおられない。生きている人間が生きながら、地下に埋められているなんて、どう考えたって恐ろしいことだ！　出なければならない！　出なければならない！　おお俺の体の上には、土が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いっぱい</span>に冠さっているのだ。<ruby><rb>茴香</rb><rt>ういきょう</rt></ruby>の花が咲いているのだ。そうしてもしも俺が死んだら、その茴香の<ruby><rb>肥料</rb><rt>こやし</rt></ruby>になるのだ。……死！　肥料！　恐ろしいことだ！　これはどうしても逃げなければならない。だがどうしたら逃げられるのか？　そうだ土を<ruby><rb>刎</rb><rt>は</rt></ruby>ね退ければいい。だがどうして刎ね退けたものか？　重い厚い石のように、一面に<ruby><rb>冠</rb><rt>かぶ</rt></ruby>さっているではないか？　駄目だ駄目だ！　助かりっこはない。……前田氏！　一学氏！　助けてくだされ、助けてくだされ！」

しかし、<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>は森閑として、ただ暗く寒かった。

「せめて手だけでも動かせないかしら？」

彼は右手を動かそうとした。土が重く冠さっていた。容易に動かすことは出来なかった。しかし非常な努力の後、それでも少しずつ動かせるようになった。

「よし。有難い。大丈夫だ」

で、土を掻き退けようとした。すると指先に何か<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">さわった</span>。石ではない固いものであった。そこでそれを引っ掴んだ。その感触が鉄らしかった。しかもそれは<ruby><rb>環</rb><rt>わ</rt></ruby>のようであった。

「鉄の環があろうとは、これはいったいどうしたことだ？」葉之助には不思議であった。

溺れる者は<ruby><rb>藁</rb><rt>わら</rt></ruby>をも掴む。で、葉之助は環を掴み、力まかせに引いてみた。

その瞬間に起こったことは、彼にとっては奇蹟よりも、もっと驚くべきことであった。

<ruby><rb>忽然</rb><rt>こつぜん</rt></ruby>彼の体の下へ、四角の穴が開いたのであった。ザーッと落ちる土とともに、彼の体は下へ落ちた。

<ruby><rb>狼穽</rb><rt>おとしあな</rt></ruby>かそれとも他の何か？　とにかくそこには人工の穴が、<ruby><rb>以前</rb><rt>まえ</rt></ruby>から掘られていたのであった。

そこへ落ち込んだ葉之助は、あまりの意外に茫然とした。が、幸い<ruby><rb>怪我</rb><rt>けが</rt></ruby>はしなかった。穴も深くはないらしかった。で、手探りに探ってみた。

「やや、ここに横穴がある」彼は思わず声を上げた。そうだ、そこには横穴があった。考えざるを得なかった。

「この縦穴を這い出したなら、玄卿の屋敷へ出ることが出来る。幸い両刀は持っている。憎い玄卿めを討ち取ることも出来る。しかし俺は<ruby><rb>衰弱</rb><rt>よわ</rt></ruby>っている。これほどの<ruby><rb>姦策</rb><rt>かんさく</rt></ruby>をたくらむ奴だ、どんな用意がしてあろうも知れぬ。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あべこべ</span>に討たれたら<ruby><rb>悲惨</rb><rt>みじめ</rt></ruby>なものだ。……さてここにある横穴だが、何んとなく深いように思われる。いっそこれを<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>って行って、一時体を隠すことにしよう。もっともあるいはこの横穴も、あいつの<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えたものかもしれない。では何んのために拵えたのか、そいつを探るのも無駄ではない。もしこれがそうでなくて、誰か他の人が拵えたものなら、――もしくは天然に出来たものなら、地上へ通じているかもしれない。では助かろうというものだ。どっちみち縦穴を上るより、横穴を辿った方が安全らしい」

そこで彼は手探りで、横穴を奥の方へ辿って行った。

思った通りその横穴は、深く奥へ続いていた。一間行っても、二間行っても突きあたろうとはしなかった。天井は低く横も狭く、非常に窮屈な穴ではあったが、空気もそれほど濁ってはいず、水なども落ちては来なかった。

やがて五間行き十間行き、半町あまりも辿って行ったが、依然横穴は続いていた。

少しずつ、葉之助は不安になった。

「いったいどこまで続くのだろう？」彼は立ち止まって考え込んだ。しかし後へ戻ることは、かえって危険のように思われた。やはり進むより仕方なかった。

一〇

で、彼は進んで行った。一町あまりも行った頃であったが、彼は何かに<ruby><rb>躓</rb><rt>つまず</rt></ruby>いた。そこで手探りに探ってみた。どうやら石の階段らしい。

「いよいよ<ruby><rb>戸外</rb><rt>そと</rt></ruby>へ出られるかな」こう思うと彼は嬉しかった。一つ一つ石段を上って行った。二十段近くも上った頃、木の扉へ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぶつかっ</span>た。

「人家へ続いているのだな」意外に思わざるを得なかった。

彼は扉を押してみた。すると案外にもすぐ開いた。はたしてそこは人の家であった。人の家の一室であった。

そうだそれは部屋であった。しかも普通の部屋ではなかった。

それは非常に広い部屋で、畳を敷いたら百畳も敷けよう、<ruby><rb>行灯</rb><rt>あんどん</rt></ruby>が細々と灯っていた。そうして縛られた女や男が、あっちにもこっちにも転がっていた。

呻く者、泣く者、喚く者、縛られたまま転げ廻る者、<ruby><rb>呪詛</rb><rt>のろ</rt></ruby>いの声を上げる者、……部屋の内はそれらの声で、<ruby><rb>阿鼻</rb><rt>あび</rt></ruby>地獄を呈していた。

人の類も様々であった。まず女から云う時は、町家の娘、ご殿女中、<ruby><rb>丸髷</rb><rt>まるまげ</rt></ruby>に結った若女房、<ruby><rb>乞食</rb><rt>こじき</rt></ruby>女、いたいけな少女、老いさらばった年寄りの女、女郎らしい女、芸妓らしい女、見世物小屋の太夫らしい女、あらゆる風俗の女達が、もだえ苦しんでいるのであった。

男の方も同じであった。商家の手代、商家の<ruby><rb>丁稚</rb><rt>でっち</rt></ruby>、役者、武士、職人、<ruby><rb>香具師</rb><rt>やし</rt></ruby>、百姓、手品師、神官、僧侶……あらゆる階級の男達が、狂いあばれているのであった。

そうしてそれらの人々の上を、行灯の微光が照らしていた。

低い<ruby><rb>天井</rb><rt>てんじょう</rt></ruby>、厳重な壁、出入り口の戸はとざされていた。

これを見た葉之助は驚くよりも、恐怖せざるを得なかった。彼は棒のように突っ立った。

「いったいここはどこだろう？　いったいどういう家だろう？　この人達は何者だろう？　いったい何をしているのだろう？」

しかし彼の驚きは――いや彼の恐怖心は、しばらく経つと倍加された。彼は一層驚いたのであった。

さらにさらに恐怖したのであった。

と云うのはそれらの人々が、決して苦しんでいるのではなく、そうして何者かに幽囚されて、<ruby><rb>呪詛</rb><rt>のろ</rt></ruby>い悲しんでいるのではなく、<ruby><rb>否々</rb><rt>いないな</rt></ruby>それとは正反対に、喜び歌い、<ruby><rb>褒</rb><rt>ほ</rt></ruby>め<ruby><rb>讃</rb><rt>たた</rt></ruby>え――すなわち何者かに<ruby><rb>帰依</rb><rt>きえ</rt></ruby>信仰し、<ruby><rb>欣舞</rb><rt>きんぶ</rt></ruby>しているのだということが、間もなく知れたからであった。

<ruby><rb>呪詛</rb><rt>のろい</rt></ruby>の声と思ったのは、実に讃美の声なのであった。

「光明遍照！　光明遍照！　喜びの神！　幸いの神！　男女の神！　<ruby><rb>子宝</rb><rt>こだから</rt></ruby>の神！　おおおお神様よ子宝の神様よ！　どうぞ子宝をお授けください！」こう讃美する声なのであった。

ここは邪教の道場なのであった。ここは<ruby><rb>淫祠</rb><rt>いんし</rt></ruby>の祭壇なのであった。

おお大江戸の真ん中に、こんな邪教があろうとは！

と、その時、<ruby><rb>忽然</rb><rt>こつぜん</rt></ruby>と、音楽の<ruby><rb>音</rb><rt>ね</rt></ruby>が響いて来た。

まず<ruby><rb>篳篥</rb><rt>ひちりき</rt></ruby>の音がした。つづいて<ruby><rb>笙</rb><rt>しょう</rt></ruby>の音がした。<ruby><rb>搦</rb><rt>から</rt></ruby>み合って笛の音がした。やがて小太鼓が打ち込まれた。

……それは微妙な音楽であった。邪教に不似合いの音楽であった。神聖高尚な音色であった。

俄然道場は一変した。男は女から飛び離れ、女は男から身を退けた。いずれも一斉に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひざまずいた</span>。そうして彼らは合掌した。

「ご来降！　ご来降！」と同音に叫んだ。

「教主様のお出まし！　教主様のお出まし！」

異口同音にこう云った。

次第に音楽は高まって来た。それがだんだん近寄って来た。やがて戸口の外まで来た。

しずかにしずかに戸が開いた。

<ruby><rb>深紅</rb><rt>しんく</rt></ruby>の<ruby><rb>松明</rb><rt>たいまつ</rt></ruby>の火の光が、その戸口から射し込んだ。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つと</span>二人の童子が現われ、続いて行列がはいって来た。童子が松明を捧げていた。光明が一杯部屋に充ちた。

教主は男女二人であった。いずれも若く美しかった。普通に美しいと云っただけでは、物足りないような美しさであった。女は年の頃十八、九であろうか、<ruby><rb>緋</rb><rt>ひ</rt></ruby>の<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>を穿いていた。そうして上着は十二<ruby><rb>単衣</rb><rt>ひとえ</rt></ruby>であった。しかも胸には珠をかけ、手に<ruby><rb>檜扇</rb><rt>ひおうぎ</rt></ruby>を持っていた。

男の年頃は二十一、二で、どうやら女の兄らしかった。その面が似通っていた。胸には同じく珠をかけ、足には大口を穿いていた。だがその手に持っているものは、<ruby><rb>三諸山</rb><rt>みむろやま</rt></ruby>の神体であった。

一一

教主の後から老女が続き、そのまた後ろから幾人かの、美しい男女が続いた。

部屋の中は<ruby><rb>皎々</rb><rt>こうこう</rt></ruby>と輝いた。今まで見えなかった様々の物が――壁画や聖像や<ruby><rb>龕</rb><rt>がん</rt></ruby>や<ruby><rb>厨子</rb><rt>ずし</rt></ruby>が、松明の光で見渡された。それはいずれも言うも<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>り多い怪しき物のみであった。

行列は部屋を迂廻した。

信者の群は先を争い、二人の教主へ触れようとした。

男の信者は女の教主へ、女の信者は男の教主へ、とりわけ触れようとひしめいた。

男の教主の怪しき<ruby><rb>得物</rb><rt>えもの</rt></ruby>と、女の教主の檜扇とは、そういう信者の一人一人へ、一々軽く触れて行った。

こうして行列は静々と、広い部屋を迂廻した。

そうして葉之助へ近付いて来た。

葉之助は<ruby><rb>茫然</rb><rt>ぼんやり</rt></ruby>と立っていた。

どうしてよいか解らなかった。もちろん彼は邪教徒ではなかった。で、教主を拝することは、良心に<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>めて出来なかった。と云って<ruby><rb>茫然</rb><rt>ぼんやり</rt></ruby>立っていたら、咎められるに相違なかった。そうなったら事件が起こるだろう。信者でもない赤の他人が、道場へ入り込んでいたとすれば、教団にとっては打撃でなければならない。きっと憤慨するだろう。恐らく乱暴をするかもしれない。道場にいる全部の信徒が、刃向かって来ないとも限らない。

「いったいどうしたらいいだろう？」

焦心せざるを得なかった、<ruby><rb>狼狽</rb><rt>ろうばい</rt></ruby>せざるを得なかった。

その間も行列は進んで来た。

しかしてやがて葉之助の前へ二人の教主は立ち止まった。

葉之助は絶体絶命となった。で、<ruby><rb>昂然</rb><rt>こうぜん</rt></ruby>と顔を上げ、教主の顔を睨み付けた。

二人の教主の胸の辺に、不思議な<ruby><rb>刺繍</rb><rt>ぬいとり</rt></ruby>が施されてあった。それを見て取った葉之助は「あっ」と叫ばざるを得なかった。

それは恐ろしい<ruby><rb>刺繍</rb><rt>ぬいとり</rt></ruby>であった。彼に縁のある刺繍であった。彼はそれによってこの教団のいかなるものかを知ることが出来た。そうしてそれを知ったがために、彼は現在の自分の位置が、予想以上に危険であることを、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はっきり</span>明瞭に知ることが出来た。

<ruby><rb>俄然</rb><rt>がぜん</rt></ruby>形勢は一変した。そうしてそれは悪化であった。

「あっ」という声に驚いて二人の教主は眼を<ruby><rb>睜</rb><rt>みは</rt></ruby>った。

そうしてその眼は必然的に、声の主へ注がれた。

教主二人の四つの眼と、葉之助の眼とは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぶつかっ</span>た。

それは火のような睨み合いであった。

が、それは短かった。

男の教主がまず叫んだ。

「教法の敵！　教法の敵！」

女の教主が続いて叫んだ。

「鏡葉之助だ！　鏡葉之助だ！」

「この男を<ruby><rb>搦</rb><rt>から</rt></ruby>め取れ！」

――つづいて起こったのが混乱であった。

こんな順序で行われた。

一斉に信徒達が立ち上がった。

グルリと葉之助を取り囲んだ。

行列は<ruby><rb>颯</rb><rt>さっ</rt></ruby>と後へ引いた。信徒の中の武士達は、<ruby><rb>揃</rb><rt>そろ</rt></ruby>って一度に刀を抜いた。女信徒達は逃げ迷った。

喚き声！　怒鳴り声！　泣き叫ぶ声！

「教法の敵！」「搦め取れ！」「切って棄てろ！　切って棄てろ！」

<ruby><rb>松明</rb><rt>たいまつ</rt></ruby>の火が数を増した。キラキラと抜き身が輝いた。出入り口が固められた。

群集がヒタヒタと<ruby><rb>逼</rb><rt>せま</rt></ruby>って来た。

殺気が場中に<ruby><rb>充</rb><rt>み</rt></ruby>ち充ちた。

予期したことではあったけれど、葉之助の心は動揺した。<ruby><rb>突嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>に思案が浮かばなかった。と云って落ち着いてはいられなかった。防がなければならなかった。そうしなければ、捕えられるだろう。捕えられたら殺されるだろう。

世の中で何が恐ろしいと云って、狂信者ほど恐ろしいものはない。彼らには一切反省がない。あるものは迷信ばかりだ。おおそうして迷信たるや、一切の罪悪の根本ではないか！　「迷信」は笑いながら人を殺す！　笑って人を殺す者は宇宙において迷信者ばかりだ！

その迷信者が充ち充ちているのだ。それが<ruby><rb>挙</rb><rt>こぞ</rt></ruby>って刃向かって来るのだ。

「もうこうなればヤブレカブレだ！　切って切って切り捲くるばかりだ！　<ruby><rb>遁</rb><rt>の</rt></ruby>がれられるだけは遁がれてやろう！」そこで葉之助は刀を抜いた。

小野派一刀流真の構え！　中段に付けて睨み付けた。

一二

<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>へ廻られてはたまらない。彼は羽目板を背に<ruby><rb>背負</rb><rt>しょ</rt></ruby>った。

眼に余る大勢の相手であった。八方へ眼を配るべきを彼は逆に応用した。正一眼一心前方ただ正面を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひたすら</span>に睨んだ。飛び込んで来る敵を切ろうとするのだ。

「横竪上下遠近の事」一刀流兵法十二ヵ条のうち、六番目にある極意であった。

正面をさえ睨んでいれば、横竪上下遠近の敵が、自ら心眼に映ずるのであった。と云ってもちろん初学者には――いやいや相当の使い手になっても、容易にそこまでは達しられない。ただ奥義の<ruby><rb>把持者</rb><rt>はじしゃ</rt></ruby>のみが、その境地に達することが出来る。そうして鏡葉之助は、その奥義の把持者であった。剣にかけては天才であった。だが彼は<ruby><rb>疲労</rb><rt>つか</rt></ruby>れていた。毒薬を飲まされた後であり、地下に埋められた後であった。しかし非常な場合には、超人間的勇気の出るものであった。

構えた太刀には隙がなかった。

と、一人飛び込んで来た。

<ruby><rb>大兵肥満</rb><rt>だいひょうひまん</rt></ruby>の武士であった。もちろん信者の一人であった。

鏡葉之助は美少年、女のような<ruby><rb>優姿</rb><rt>やさすがた</rt></ruby>。しかも一人だというところから、<ruby><rb>侮</rb><rt>あなど</rt></ruby>りきって構えもつけず、<ruby><rb>颯</rb><rt>さっ</rt></ruby>と横撲りにかかって来た。そこを自得の<ruby><rb>袈裟掛</rb><rt>けさが</rt></ruby>け一刀、伊那高遠の八幡社頭で、夜な夜な鍛えた生木割り！　右の肩から胸へ掛け、水も<ruby><rb>堪</rb><rt>た</rt></ruby>まらず切り放した。

武士は「わっ」と悲鳴を上げた。そうして畳へころがった。プーッと吹き出す血の<ruby><rb>泡沫</rb><rt>しぶき</rt></ruby>が、松明の光で<ruby><rb>虹</rb><rt>にじ</rt></ruby>のように見えた。と、もうその時には葉之助は、ピタリ中段に付けていた。

「えい」とも「やっ」とも、声を掛けない。水のように静かであった。返り血一滴浴びていない。

一瞬間ブルッと武者顫いをした。全身に勇気の籠もった証拠だ。

ワーッと叫んで信者どもはバラバラと後へ退いた。しかしすぐに盛り返した。迷信者は何物をも恐れない。

左右から二人かかって来た。

「やっ！　やっ！　やっ！」

「やっ！　やっ！　やっ！」

心掛けある武士であった。二人は気合を掛け合った。左右へ心を散らせようとした。が、それはムダであった。葉之助は動かなかった。<ruby><rb>凝然</rb><rt>じっ</rt></ruby>と正面を見詰めていた。

敵をただ打つと思うな身を守れ

おのずから洩る<ruby><rb>賤家</rb><rt>しずがや</rt></ruby>の月

<ruby><rb>仮字書之口伝</rb><rt>かじしょのくでん</rt></ruby>第三章「残心」を<ruby><rb>咏</rb><rt>うた</rt></ruby>った極意の和歌、――意味は読んで字の如く、じっと一身を守り詰め、敵に自ずと破れの出た時、討って取れという意味であった。

葉之助の心組みがそれであった。

金剛不動！　身じろぎもしない。

「やっ！　やっ！　やっ！」

「やっ！　やっ！　やっ！」

二人の武士はセリ詰めて来た。尚、葉之助は動かなかった。

場内は<ruby><rb>寂然</rb><rt>しん</rt></ruby>と静かであった。松明の火が数を増した。火事場のように赤かった。後から後からと無数の信者が、出入り口からはいって来た。みんな<ruby><rb>得物</rb><rt>えもの</rt></ruby>を持っていた。

出番の来るのを待っていた。まさに<ruby><rb>稲麻竹葦</rb><rt>とうまちくい</rt></ruby>であった。葉之助よ！　どうするつもりだ⁉

その時<ruby><rb>鏘然</rb><rt>しょうぜん</rt></ruby>と太刀音がした。

一人の武士が頭上を狙い、もう一人の武士が胴を眼がけ、同時に葉之助へ切り込んだのを、一髪の間に身を<ruby><rb>翻</rb><rt>ひるがえ</rt></ruby>し、一人を例の袈裟掛けで<ruby><rb>斃</rb><rt>たお</rt></ruby>し、一人の太刀を受け止めたのであった。

受けた時には切っていた。

他流でいうところの「<ruby><rb>燕返</rb><rt>つばめがえ</rt></ruby>し」、一刀流で云う時は、「<ruby><rb>金翅鳥王剣座</rb><rt>きんしちょうおうけんざ</rt></ruby>」――そいつで切って棄てたのであった。

金翅鳥片羽九万八千里、海上に出でて竜を食う、――その大気魄に<ruby><rb>則</rb><rt>のっと</rt></ruby>って、命名したところの「五点之次第」で、さらに詳しく述べる時は、敵の刀を宙へ刎ね、自刀セメルの位置をもって、敵の<ruby><rb>真胴</rb><rt>しんどう</rt></ruby>を輪切るのであった。敵を斃すこと三人であった。ワーッと叫ぶと信者の群は、ムラムラと後へ退いた。しかしすぐに盛り返した。迷信者は何物をも恐れない。得物得物を打ち振り打ち振り、十数人がかかって来た。

一三

鏡葉之助は三人を切った。大概の者ならこれだけで、精気消耗する筈であった。葉之助の精気も無論<ruby><rb>疲労</rb><rt>つか</rt></ruby>れた。しかし彼は恐ろしい物を見た。いやいやそれは恐ろしいというより、むしろ憎むべきものであった。彼を不断に苦しめている「悪運命」を見たのであった。<ruby><rb>讐敵</rb><rt>しゅうてき</rt></ruby>の象徴を見たのであった。二人の教主の着物の胸に<ruby><rb>刺繍</rb><rt>ししゅう</rt></ruby>されてあった奇怪な模様！　それを彼は見たのであった。憎むべき、憎むべき憎むべき模様！

彼の勇気は百倍した。そうして彼は決心した。「殺されるか殺すかだ！　これは<ruby><rb>生優</rb><rt>なまやさ</rt></ruby>しい敵ではない！　助かろうとて助かりっこはない！　生け捕られたら<ruby><rb>嬲</rb><rt>なぶ</rt></ruby>り殺しだ。……相手を<ruby><rb>屠</rb><rt>ほふ</rt></ruby>るということは、俺の体に<ruby><rb>纏</rb><rt>まつ</rt></ruby>わっている、<ruby><rb>呪詛</rb><rt>のろい</rt></ruby>を<ruby><rb>取去</rb><rt>のぞ</rt></ruby>くということになる。相手に屠られるということは、呪詛に食われるということになる。……生きる<ruby><rb>意</rb><rt>つも</rt></ruby>りで働いては駄目だ！　死ぬ決心でやっつけてやろう！　こうなれば肉弾だ！　生命を棄てて相手を切ろう！　……おおおお集まって来<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おった</span>な。……とても<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">まとも</span>では叶わない。こうなれば手段を選ばない。あらゆる<ruby><rb>詭計</rb><rt>きけい</rt></ruby>を施してやれ」

十人の武士が<ruby><rb>逼</rb><rt>せま</rt></ruby>って来た。

やにわに飛び込んだ葉之助は、切りよい左手の一人の武士を、ザックリ袈裟に切り倒した。とたんに自分もツルリと辷り、バッタリ<ruby><rb>俯向</rb><rt>うつむ</rt></ruby>けに床へ倒れた。

ワッと叫んだ残りの九人、乱刃を葉之助へ浴びせかけた。一髪の間に葉之助は寝ながら刀で足を払った。一刀流の陣所払い！　負けたと見せて盛り返し、一挙に多勢を屠る極意、しかし普通の場合には、<ruby><rb>卑怯</rb><rt>ひきょう</rt></ruby>と<ruby><rb>目</rb><rt>もく</rt></ruby>して使わない。死生一如と解した時、止むなく使う寝業であった。

果然九人は一時に、足を<ruby><rb>薙</rb><rt>な</rt></ruby>がれてぶっ倒れた。

飛び上がった葉之助、なだれる信徒の後を追い戸口の方へ<ruby><rb>突撃</rb><rt>ひたはし</rt></ruby>った。そうして「面部斬り」――で斬り立てた。

胆を冷やさせる「面部斬り」――相手の生命を取るのではなく、<ruby><rb>獅子</rb><rt>しし</rt></ruby>が群羊を駆るように、大勢の中へ飛び込んで、<ruby><rb>柄短</rb><rt>つかみじ</rt></ruby>かの片手斬り、敵の顔ばかりを<ruby><rb>中</rb><rt>あた</rt></ruby>るに任せ、<ruby><rb>颯々</rb><rt>さっさつ</rt></ruby>と切る兵法であった。伊藤一刀斎景久が、晩年に工夫した一手であって、場合によっては刀を返し、柄頭で敵の<ruby><rb>鼻梁</rb><rt>はなばしら</rt></ruby>を突き、空いている方の左手で、敵の<ruby><rb>人中</rb><rt>じんちゅう</rt></ruby>を<ruby><rb>拳</rb><rt>こぶし</rt></ruby>当て身！　ただしこの術には制限があって、誰にも出来るというものではなかった。すなわち片手で自由自在に、大刀を<ruby><rb>揮</rb><rt>ふる</rt></ruby>うだけの<ruby><rb>膂力</rb><rt>りょりょく</rt></ruby>あるもの、そうして<ruby><rb>軽捷</rb><rt>けいしょう</rt></ruby>抜群の者と<ruby><rb>自</rb><rt>おのずか</rt></ruby>ら<ruby><rb>定</rb><rt>き</rt></ruby>められているのであった。

で、もちろん封じ手で、印可以上に尊ばれ、人を見て許すことになっていた。

また一名「木の葉返し」とも云った。風に吹き立つ枯葉のように、八方分身十方隠れ、一人の体を八方に<ruby><rb>分</rb><rt>わ</rt></ruby>かち、十方に隠れて出没し！　敵をして<ruby><rb>奔命</rb><rt>ほんめい</rt></ruby>に<ruby><rb>疲労</rb><rt>つか</rt></ruby>れしめ、同士討ちをさせるがためであった。

はたして信徒達は騒ぎ立った。風に木の葉が<ruby><rb>翻</rb><rt>ひるがえ</rt></ruby>るように、百畳敷の大広間を、右往左往に逃げ惑った。

「裏切り者がいる！　裏切り者がいる！」

「一人ではない！　敵は多勢だ！」

「謀反人がいる！　謀反人がいる！」

信徒同士組打ちをした。互いに斬り合う者もあった。<ruby><rb>松明</rb><rt>たいまつ</rt></ruby>の火が吹き消された。ヒーッと女達は悲鳴を上げた。バタバタと倒れる音がした。器類が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ころがっ</span>た。画像がべりべりと引き裂かれた。

「助けてくれーエッ」

と叫ぶ者があった。倒れた信徒の体の上を、無数の人が踏んで走った。ムクムクと戸口から逃げはじめた。

葉之助の策略は成功した。

混乱に次いで混乱が起こり、収拾することが出来なかった。

「静まれ静まれ敵は一人だ！」

心掛けある信徒でもあろう。一人の者が大音に叫んだ。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ツ</span>と葉之助は走り寄り、その叫び主を斬り落とした。

「<ruby><rb>灯火</rb><rt>あかり</rt></ruby>を点けろ！　灯火を点けろ！」

一人の信徒が叫び声を上げた。が、すぐにその信徒は、虚空を掴んで<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぶっ</span>倒れた。肩から大袈裟に斬られたのであった。

尚二、三本松明は、大広間を<ruby><rb>茫</rb><rt>ぼう</rt></ruby>と照らしていた。

その一本がバサリと落ちた、松明の持ち主が「ムー」と呻き、床へ倒れて<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">のたうっ</span>た。見れば片手を斬り落とされていた。

と、もう一本の松明が消えた。つづいてもう一本の松明が消えた。

部屋の中は闇となった。その暗々たる闇の中で、信徒達は揉み合った。

互いに相手を疑ぐった。手にさわる者と掴み合った。

そうしてドッと先を争い、戸口から外へ逃げ出した。

その中に葉之助も交じっていた。部屋の外は広い廊下で、左右にズラリと部屋があった。その部屋の中へ信徒達は、<ruby><rb>蝗</rb><rt>いなご</rt></ruby>のように飛び込んだ。

一四

葉之助は廊下を真っ直ぐに走った。

廊下が尽きて階段となり、階段の下に中庭があった。

そこへ下り立った葉之助は、ベッタリ地の上に坐ってしまった。そうして<ruby><rb>丹田</rb><rt>たんでん</rt></ruby>へ力をこめ、しばらくの間<ruby><rb>呼吸</rb><rt>いき</rt></ruby>を止めた。それから徐々に呼吸をした。と、シーンと神気が澄み、体に精力が<ruby><rb>甦</rb><rt>よみがえ</rt></ruby>って来た。一刀流の<ruby><rb>養生</rb><rt>ようじょう</rt></ruby>法、陣中に用いる「<ruby><rb>阿珂術</rb><rt>あかじゅつ</rt></ruby>」であった。

もしもこの時葉之助が、バッタリ地の上に倒れるか、ないしは<ruby><rb>胡座</rb><rt>こざ</rt></ruby>して大息を吐いたら、そのまま気絶したに相違ない。彼は十分働き過ぎていた。気息も筋肉も<ruby><rb>疲労</rb><rt>つか</rt></ruby>れ切っていた。一点の<ruby><rb>弛</rb><rt>ゆる</rt></ruby>みは全身の弛みで、一時に<ruby><rb>疲労</rb><rt>つかれ</rt></ruby>が<ruby><rb>迸</rb><rt>ほとばし</rt></ruby>り出て、そのまま斃れてしまったろう。

今日<ruby><rb>流行</rb><rt>はや</rt></ruby>っている静座法なども、その<ruby><rb>濫觴</rb><rt>らんしょう</rt></ruby>は「阿珂術」なので、伊藤一刀斎景久は、そういう意味からも偉大だと云える。

気力全身に満ちた時、彼は刀を持ちかえようとした。さすがに腕にはシコリが来て、指を開くことが出来なかった。で、<ruby><rb>左手</rb><rt>ゆんで</rt></ruby>で<ruby><rb>右手</rb><rt>めて</rt></ruby>の指を、一本一本<ruby><rb>解</rb><rt>と</rt></ruby>いて行った。と、切っ先から<ruby><rb>柄頭</rb><rt>つかがしら</rt></ruby>まで、ベッタリ血汐で濡れていた。

「息の音を止めたは八人でもあろうか。<ruby><rb>傷</rb><rt>て</rt></ruby>を負わせたは二十人はあろう」

彼は刃<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こぼれ</span>を見ようとした。グイと切っ先を<ruby><rb>眼前</rb><rt>めのまえ</rt></ruby>へ引き寄せ、一寸一寸送り込み、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">じいいっ</span>と刃並みを覗いて見た。空には星も月もなく、中庭を<ruby><rb>囲繞</rb><rt>いにょう</rt></ruby>した建物からは、<ruby><rb>灯火</rb><rt>ともしび</rt></ruby>一筋洩れていない。で、<ruby><rb>四方</rb><rt>あたり</rt></ruby>は真の闇であった。それにも関らず白々と、刀気が心眼に窺われた。

「うむ、有難い、刃こぼれはない」

これは刃こぼれはない筈であった。それほど人は切っていたが、チャリンと刀を合わせたのは、二、三合しかないからであった。

「よし」と云うと左の袖を、柄へキリキリと巻きつけた。それからキューッと血を拭った。

耳を澄ましたが物音がしない。そこでユラリと立ち上がった。

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">どのみち</span>地理を調べなければならない」

で、そろそろと歩いて行った。

一つの建物の壁に添い、東の方へ進んで行った。

<ruby><rb>行手</rb><rt>ゆくて</rt></ruby>にポッツリ人影が射した。で、足早に寄って行った。

その人影は家の角を廻った。

「ははあ角口に隠れていて、<ruby><rb>居待</rb><rt>いま</rt></ruby>ち討ちにしようというのだな」

葉之助は用心した。足音を忍んで角まで行った。じっと物音を聞き澄ました。

コトンと窓の開く音がした。ハッと彼は飛び<ruby><rb>退</rb><rt>すさ</rt></ruby>った。同時に何物か頭上から、恐ろしい勢いで落ちて来た。それは巨大な<ruby><rb>鉄槌</rb><rt>てっつい</rt></ruby>であった。上の窓から投げた物であった。一歩<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>き方が遅かったなら、彼は粉砕されたかもしれない。

彼はキッと窓を見上げた。しかしもう窓は閉ざされていた。そこで彼は角を曲がった。どこにも人影は見られなかった。そうして行手は石垣であった。

そこで彼は引き返した。

で、<ruby><rb>以前</rb><rt>まえ</rt></ruby>の場所へ帰って来た。いつか戸口は閉ざされていた。石段を上って戸に触れてみた。<ruby><rb>閂</rb><rt>かんぬき</rt></ruby>が下ろされているらしい。引いても押しても動かない。で、彼は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あきらめ</span>た。

同じ建物の壁に添い、西の方へ歩いて行った。やがて建物の角へ来た。サッと刀を突き出してみた。向こう側に誰もいないらしい。で、遠廻りに弛く廻った。

すぐ眼の前に<ruby><rb>亭</rb><rt>ちん</rt></ruby>があった。亭の縁先に腰をかけ、葉之助の方へ背中を向け、二人の男女が寄り添っていた。一基の<ruby><rb>雪洞</rb><rt>ぼんぼり</rt></ruby>が灯されていた。二人の姿はよく見えた。恋がたりでもしているらしい、淫祠邪教徒の本性をあらわし、<ruby><rb>淫</rb><rt>みだ</rt></ruby>らのことをしているらしい。

「斬りいい形だ。叩っ斬ってやろう」

葉之助は忍び寄った。掛け声なしの横撲り、男の肩へ斬り付けた。と思った一刹那、女がクルリとこっちを向き、ヒューッと何か投げつけた。危うく避けたその間に、二人の姿は掻き消えた。投げられた物は紐であった。紐が彼へ飛び掛かって来た。それは一匹の毒蛇であった。

で、三つに斬り払った。

行手は厳重の石垣であった。越して逃げることは出来なかった。

でまた彼は引き返した、こうして以前の場所へ来た。

反対の側にも建物があった。地面から五、六階の石段があり、それを上ると戸口であった。もちろんその戸は閉ざされていた。そこで彼は石段を上がり、その戸をグイと引っ張って見た。と、意外にも戸があいた。とたんに彼は転がり落ちた。転がったのが<ruby><rb>天佑</rb><rt>てんゆう</rt></ruby>であった。戸が開くと同時に恐ろしい物が、彼を目掛けて襲いかかって来た。それを<ruby><rb>正面</rb><rt>まとも</rt></ruby>に受けたが最後、彼は<ruby><rb>微塵</rb><rt>みじん</rt></ruby>にされただろう。

一五

円錐形の巨大な石が――今日で云えば<ruby><rb>地均轆轤</rb><rt>じならしろくろ</rt></ruby>が、素晴らしい勢いで落下したのであった。

ドーンと戸口は締められた。後は<ruby><rb>寂然</rb><rt>しん</rt></ruby>と音もしない。しかし無数の邪教徒が、四方八方から彼を取りこめ、討ち取ろう討ち取ろうとしていることは、ほとんど疑う余地はなかった。

人声のないということは、その凄さを二倍にした。立ち騒がないということは、その恐ろしさを二倍にした。

今は葉之助は途方に暮れた。

「どうしたものだ。どうしてくれよう。どこから、逃げよう。どうしたらいいのだ」

混乱せざるを得なかった。

とまれ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">じっ</span>としてはいられなかった。その建物を東の方へ廻った。と、建物の角へ来た。

曲がった眼前に大入道が、雲突くばかりに立っていた。

「えい！」一声斬りつけた。カーンという金の音がした。そうして刀が<ruby><rb>鍔</rb><rt>つば</rt></ruby>もとから折れた。

大入道は邪神像であった。

「しまった！」と彼は思わず叫び、<ruby><rb>怨</rb><rt>うら</rt></ruby>めしそうに刀を見た。折れた刀は用に立たない。で彼は投げ棄てた。そうして脇差しを引き抜いた。

こうしてまたも葉之助は、後へ帰らざるを得なかった。さて元の場所へ帰っては来たが、新たにとるべき手段はない。<ruby><rb>茫然</rb><rt>ぼんやり</rt></ruby><ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>むばかりであった。勇気も次第に衰えて来た。だがこのまま佇んでいたのでは、遁がれる道は一層なかった。

そこで無駄とは知りながら、西の方へ廻って行った。例によって角へ来た。用心しながらゆるゆる曲がった。と行手に石垣があり、立派な門が建っていた。

「ははあ門があるからには、門の向こう側は往来だろう。よしよしあの門を乗り越してやれ」

門の柱へ手を掛けた。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひらり</span>と屋根へ飛び上がった。そうして向こう側を<ruby><rb>隙</rb><rt>す</rt></ruby>かして見た。

思わず彼は「あっ」と云った。そこに大勢の人影が夜目にも解る弓姿勢で、タラタラと並んでいたからであった。弓を引き絞り<ruby><rb>狙</rb><rt>ねら</rt></ruby>っているのだ。

彼は<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>を振り返って見た。そこでまた彼は「あっ」と叫んだ。十数人の人影が、鉄砲の筒口を向けていた。

彼は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すっかり</span>計られたのであった。腹背敵を受けてしまった。もう助かる<ruby><rb>術</rb><rt>すべ</rt></ruby>はない。飛び道具には敵すべくもない。

が、しかし彼の頭を、その時一筋の光明が、ピカリと光って通り過ぎた。

「ここは江戸だ。しかも深夜だ、よもや鉄砲を撃つことは出来まい。撃ったが最後世間へ知れ、<ruby><rb>有司</rb><rt>ゆうし</rt></ruby>の疑いを招くだろう。邪教徒の教会はすぐに露見だ。一網打尽に<ruby><rb>捕縛</rb><rt>ほばく</rt></ruby>されよう。……断じて鉄砲を撃つ筈はない……<ruby><rb>弓手</rb><rt>ゆみて</rt></ruby>の方さえ注意したら、まず大丈夫というものだ」

で、彼は屋根棟へ寝た。

一筋の矢が飛んで来た。パッと刀で切り払った。つづいて二本飛んで来た。幸いにそれは的を外れた。

寝たまま葉之助は考えた。

「高所に上って矢を受ける。まるで殺されるのを待つようなものだ。身を棄ててこそ浮かぶ瀬もあれ。一刀流の極意の歌だ。弓手の真ん中へ飛び下りてやろう」

四本目の矢が飛んで来た。それを二つに切り折ると共に、ヤッとばかりに飛び下りた。

計略たしか図にあたり、弓手は八方へ逃げ散った。しかし葉之助の思惑は他の方面で破られた。そこは決して往来ではなかった。いっそう広い中庭であった。

<ruby><rb>隙</rb><rt>す</rt></ruby>かして見れば所々に、<ruby><rb>幾個</rb><rt>いくつ</rt></ruby>か<ruby><rb>檻</rb><rt>おり</rt></ruby>が立っていた。「はてな？」と葉之助は不思議に思った。

一つの檻へ近寄って見た。三匹の熊が闇の中で爛々とその眼を怒らせていた。

これには葉之助もゾッとした。もう一つの檻へ行って見た。十数頭の狼が、グルグルグルグル檻に添ってさも<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いらいら</span>と走っていた。ここでも葉之助はゾッとした。さてもう一つの檻の前へ行った。一匹の猪が<ruby><rb>牙</rb><rt>きば</rt></ruby>を剥き、何かの骨を噛み砕いていた。と、その時一点の火光が、門の屋根棟へ現われた。それは<ruby><rb>松明</rb><rt>たいまつ</rt></ruby>の火であった。つづいて一点また一点、松明の火が現われた。

大勢の人が屋根の上に、一列に並んで立っていた。

そうしてその中には教主もいた。男女二人の教主がいた。

何かが始まろうとしているらしい。何かを始めようとしているらしい。

何をしようとするのだろう？　と、ガチンと音がした。「ウオーッ」と唸る熊の声がした。檻を誰かが開けたらしい。三頭の熊がしずしずと檻から外へ現われ出た。それが松明の火で見えた。続いてガチンと音がした。

無数の狼が先を争い、檻の中から走り出た。

一六

教徒達の意図は証明された。彼らは葉之助を<ruby><rb>惨酷</rb><rt>ざんこく</rt></ruby>にも、猛獣に食わせようとするのであった。

邪教徒らしいやり方であった。<ruby><rb>敢</rb><rt>あえ</rt></ruby>て葉之助ばかりでなく、これまで幾人かの人間が、猛獣の<ruby><rb>餌食</rb><rt>えじき</rt></ruby>にされたのであった。裏切り者と目星を付けるや、彼らは用捨なくその者を捕えて、人知れず檻の中へ入れたものであった。猪の食っていた何かの骨！　それは人間の骨なのであった。ただし葉之助は<ruby><rb>手強</rb><rt>てごわ</rt></ruby>かった。捕えることが出来なかった。そこで猛獣の檻をひらき、四方を囲んだ広い空地で、食い殺させようとしたのであった。

そうして教主をはじめとし、大勢の教徒達が屋根の上から、それを見ようとしているのであった。

<ruby><rb>羅馬</rb><rt>ローマ</rt></ruby>にあったという演武場！　<ruby><rb>西班牙</rb><rt>スペイン</rt></ruby>に今もある闘牛場！　それが大江戸にあろうとは！

信じられない事であった。信じられない事であった。

が、厳たる事実であった。現に猛獣がいるではないか。ジリジリ<ruby><rb>逼</rb><rt>せま</rt></ruby>って来るではないか。

そうだ猛獣は逼って来た。

狼群は円い輪を作り、葉之助の<ruby><rb>周囲</rb><rt>まわり</rt></ruby>を廻り出した。しかし決して吠えなかった。訓練されているからであった。吠えたら世間に知られるだろう。世間に知られたら露見の基であった……で、かすかに唸るばかりであった。

もちろん熊も吠えなかった。ただ「ウオーッ」と唸るだけであった。

さすがの鏡葉之助も、頭髪逆立つ思いがした。

「もう駄目だ、もういけない」

彼は悲惨にも観念した。人間同士の闘いなら、まだまだ遁がれる道はあった。相手は群狼と熊とであった。遁がれることは出来なかった。葉之助は脇差しを投げ出した。それから大地へ端座した。眼を<ruby><rb>瞑</rb><rt>つ</rt></ruby>むり腕を組んだ。猛獣の襲うに任せたのであった。

グルグルグルグル狼の群は、彼の周囲を駈け廻った。その輪をだんだん縮めて来た。

熊は三頭鼻面を揃えジリジリと前へ押し出して来た。

が、熊も狼も、容易に飛び付こうとはしなかった。

その時突然奇蹟が起こった。

まず一匹の大熊が、葉之助の前へゴロリと寝た。そうして葉之助の足を<ruby><rb>嘗</rb><rt>な</rt></ruby>めた。さも親しそうに嘗めるのであった。つづいて二匹の熊が寝た。そうしてこれも親しそうに、葉之助の手をベロベロ嘗めた。と、狼が走るのを止めて、葉之助の<ruby><rb>周囲</rb><rt>まわり</rt></ruby>へ集まって来た。そうして揃って<ruby><rb>後脚</rb><rt>あとあし</rt></ruby>で坐り、前脚の間へ鼻面を突っ込み、上眼を使って葉之助を見た。それは親し気な様子であった。これはいったいどうしたのだろう？　どういう魔術を使ったのだろう？　魔術ではない。奇蹟でもない。これには理由があるのであった。

葉之助自身は知らないのではあったが、彼は<ruby><rb>窩人</rb><rt>かじん</rt></ruby>の血を受けていた。彼の母は山吹であった。山吹は杉右衛門の娘であった。杉右衛門は窩人の<ruby><rb>長</rb><rt>おさ</rt></ruby>であった。里の<ruby><rb>商人</rb><rt>あきんど</rt></ruby>多四郎と、窩人の娘の山吹とが八ヶ嶽山上<ruby><rb>鼓</rb><rt>つづみ</rt></ruby>ヶ<ruby><rb>洞</rb><rt>ほら</rt></ruby>で、恋の生活を営んでいるうちに、<ruby><rb>孕</rb><rt>みごも</rt></ruby>り産んだのが葉之助であった。すなわち幼名猪太郎というのが、彼葉之助に他ならないのであった。

ところで窩人と山の獣とは、ほとんど<ruby><rb>友人</rb><rt>ともだち</rt></ruby>の仲であった。決して両個は敵同士ではなかった。

そこでこういう奇蹟めいたことが、<ruby><rb>切羽</rb><rt>せっぱ</rt></ruby>詰まったこんな場合に、両個の間に行われたのであった。

足を嘗められた葉之助は、ブルッと<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>えて眼を開いた。そうして奇怪な光景を見た。

もちろん彼には何んのために、獣達が<ruby><rb>親</rb><rt>した</rt></ruby>しみを見せるのか、<ruby><rb>解</rb><rt>かい</rt></ruby>することが出来なかった。しかしそれらの獣達に、害心のないことは見て取られた。彼は憤然と飛び上がった。瞬間に彼は自分自身に、神力のあることを直感した。奇蹟を行い得る偉大な威力！　それがあることを直感した。で、彼は叫び出した。

「熊よ狼よ俺の味方だ！　さああいつらを<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やっつけ</span>てくれ！　俺が命ずる。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やっつけ</span>てしまえ！」

「ウオーッ」と熊は初めて吠えた。そうして門の方へ突進した。

「ウオーッ」と狼群も吠え声を上げた。そうして門の方へ突進した。

葉之助は猪の<ruby><rb>檻</rb><rt>おり</rt></ruby>を開いた。猪は牙を噛んで突進した。

尚、いくつかの檻があった。土佐犬の檻、猛牛の檻、そうして、どうして手に入れたものか、一つの檻には<ruby><rb>豹</rb><rt>ひょう</rt></ruby>がいた。しかも雌雄の二頭であった。葉之助はその檻を引きあけた。悲鳴が門の屋根から起こった。

熊が門を揺すぶった。狼が屋根へ飛び上がった。喚き声、叫び声、泣き声、怒声！　人獣争闘の<ruby><rb>大修羅場</rb><rt>おおしゅらば</rt></ruby>がこうして、邸内に展開された。形勢は一変したのであった。

読者諸君よ、この争闘を、単に邪教の教会ばかりで演ぜられると思っては間違うであろう。江戸市中一円に向かって、恐ろしい騒動を引き起こしたのである。

いかに次回が<ruby><rb>血腥</rb><rt>ちなまぐさ</rt></ruby>く、いかに素晴らしい大修羅場が次々に行われ演ぜられるか？　いよいよ物語は佳境に入った。

一七

奇蹟を行う力があると、葉之助は自分を信ずることが出来た。

彼は猛獣を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">けしかけ</span>た。

「さあ勇敢にあばれ廻れ！　永い間檻へ入れられて、苦しめられたお前達だ、苦しめた奴を苦しめてやれ！　<ruby><rb>復讐</rb><rt>ふくしゅう</rt></ruby>だ！　念晴らしだ！」

猛獣は<ruby><rb>咆吼</rb><rt>ほうこう</rt></ruby>した。

豹は門の屋根へ飛び上がった。

屋根の上から悲鳴が起こった。

人の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">なだれ</span>落ちる音がした。恐らく男女二人の教主も、なだれ落ちたに相違ない。

松明の火が瞬間に消えた。

どこにも人影が見られなかった。

もう一頭の豹が屋根を越した。

門の向こう側で悲鳴がした。喚声、罵声、叫声、ヒーッと泣き叫ぶ声がした。

逃げ迷う人々の足音がした。

ウオーッという豹の吠え声がした。

三頭の熊が門の柱を、その強い力で揺すぶった。グラグラと門が揺れ出した。と、屋根の瓦が落ち、扉が砕けて左右に開いた。

そこから熊が飛び出して行った。

十数頭の狼が、つづいて門から飛び出した。その後から駈け出したのが、巨大な五頭の猛牛であった。と、三十頭の土佐犬が、葉之助の周囲を囲みながら、<ruby><rb>後陣</rb><rt>しんがり</rt></ruby>として駈け出した。

入り込んだ所は中庭であった、すなわち第一の中庭であった。

そこで格闘が行われていた。

それは人獣の格闘であった。

人間の死骸が転がっていた。

食い殺された人間であった。

半死半生の人間もいた、ある者は<ruby><rb>掌</rb><rt>て</rt></ruby>を合わせ、ある者は<ruby><rb>跪</rb><rt>ひざまず</rt></ruby>き、助けてくれと<ruby><rb>喚</rb><rt>わめ</rt></ruby>いていた。

葉之助は用捨しなかった。

猛獣が用捨する筈がない。

ムラムラと土佐犬は走り掛けた。<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ち格闘が行われた。人間は見る見る引き裂かれた。一匹の犬は腕をくわえ、一匹の犬は首をくわえ、一匹の犬は足をくわえ、嬉しそうに尻尾を振った。

向こうに一団、こっちに一団、取り組み合っている人影があった。熊と、豹と、狼と、取っ組み合っている人間であった。

みるみる死骸が増えて行った。

投げ捨てられた松明が、メラメラと<ruby><rb>焔</rb><rt>ほのお</rt></ruby>を上げていた。

百人余りの一団が、建物の方へ走っていた。教主を守護した信者達が、そこに開いている戸口から、屋内へ逃げ込もうとしているのであった。

二頭の豹が飛び掛かって行った。数人の者が引き<ruby><rb>仆</rb><rt>たお</rt></ruby>された。が、団体は崩れなかった。<ruby><rb>遮二無二</rb><rt>しゃにむに</rt></ruby>戸口の方へ走って行った。三頭の熊が飛び掛かった。二頭の豹と力を合わせ、信者達を背中から引き仆した。

殺された者は動かなかった。<ruby><rb>負傷</rb><rt>ておい</rt></ruby>の者は<ruby><rb>刎</rb><rt>は</rt></ruby>ね起きた。そうして団体と一緒になった。

宗教的信仰の力強さが、そういうところでも<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>われた。教主を守れ！　教主を守れ！　食い付かれても仆されても、団体から離れようとはしなかった。

猛獣の群は襲い掛かった。

十頭の狼が飛びかかった。

瞬間に十人が食い仆された。しかし<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みんな</span>飛び起きた。

教主を守れ！　教主を守れ！　教主を守った一団は、だんだん戸口へ近寄って行った。

猛獣の群れの襲撃は、益〻惨酷の度を加えた。十二、三人が死骸となった。

だがとうとう石段まで来た。

その時牛が走りかかった。

一団の只中へ角を入れた。

バラバラと信徒は崩れ立った。

しかし次の瞬間には、またムラムラと集まった。とまた牛が突き崩した。バラバラと信徒達は崩れ立った。しかし次の瞬間には、またムラムラと集まった。

教主を守れ！　教主を守れ！

狼はヒュー、ヒューと宙を飛んだ。豹は人間の頭を<ruby><rb>齧</rb><rt>かじ</rt></ruby>った。猛犬は足へ喰い付いた。

教主を守れ！　教主を守れ！

一団は石段を上って行った。

とうとう彼らは戸口まで来た。

彼らは家の中へ<ruby><rb>崩</rb><rt>なだ</rt></ruby>れ込んだ。

熊も豹も狼も、つづいて家の中へ飛び込んだ。土佐犬が続いて飛び込んだ。

つづいて葉之助も踊り込んだ。

こうして格闘は中庭から、家の中へ移された。

<ruby><rb>蜘蛛手</rb><rt>くもで</rt></ruby>に造られてある廊下の諸所で、人獣争闘が行われた。

猛獣は部屋の中へ混み入った。

そこでも格闘が行われた。

鏡葉之助は切って廻った。

落ちていた刀を拾い取った。<ruby><rb>右手</rb><rt>めて</rt></ruby>に刀<ruby><rb>左手</rb><rt>ゆんで</rt></ruby>に脇差し、彼は二刀で切り捲くった。彼の周囲には狼や犬が、いつも十数頭従っていた。

一八

「教主はどこだ、教主をやっつけろ」

葉之助は探し廻った。

急に廊下が左へ曲がった。

と、教主の一団が見えた。真っ黒に<ruby><rb>塊</rb><rt>かた</rt></ruby>まって走っていた。

葉之助は追い詰めた。

手近の一人を切り仆した。ワーッという悲鳴が起こり、パッと血汐が左右に飛んだ。

彼らの中の数人が、にわかに<ruby><rb>健気</rb><rt>けなげ</rt></ruby>にも取って返した。

葉之助は右剣を斜めに振った。バッタリ一人が床の上へ仆れた。そこへ一人が飛び込んで来た。と、葉之助は左剣で払った。一つの首が床の上へ落ち、ドンという気味の悪い音を立てた。

後の二人は逃げ出した。すぐに狼が飛びついた。そうして<ruby><rb>喉笛</rb><rt>のどぶえ</rt></ruby>を噛み切った。<ruby><rb>虚空</rb><rt>こくう</rt></ruby>を<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>む指が見えた。

教主の一団は遠ざかった。

葉之助は後を追った。

狼と犬とが従った。

ふたたび彼らへ追いつこうとした。

にわかに彼らが立ち止まった。

彼らの顔は笑っていた。走って来る葉之助を凝視した。悪意を持った嘲笑であった。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つと</span>一人が前へ進み、廊下の壁へ手を触れた。とたんに廊下の板敷が外れ、葉之助は床下へ落ち込んだ。

彼らはドッと笑声を上げ、そのままドンドン走って行った。

と、数匹の狼が、ヒュウヒュウと床下へ飛び込んだ。間もなく次々に飛び出して来た。巨大な一匹の狼の背に、葉之助はしがみついていた。彼は左の手を<ruby><rb>挫</rb><rt>くじ</rt></ruby>いていた。動かすことが出来なかった。<ruby><rb>劇</rb><rt>はげ</rt></ruby>しい痛みに堪えられなかった。で、彼は転げ廻った。土佐犬が悲しそうに吠え立てた。

しかし狼は吠えなかった。葉之助の周囲へ集まって来た。挫いた左の腕の附け根を暖かい舌で嘗め廻した。

獣には獣の治療法があった。彼ら特色の治療法であった。彼らの<ruby><rb>唾液</rb><rt>だえき</rt></ruby>は薬であった。暖かい舌で嘗め廻すことは、温湿布に当たっていた。鏡葉之助の体には、窩人の血汐が混っていた。

窩人と獣とは友達であった。

獣特色の治療法は、一面窩人の治療法でもあった。

葉之助の痛みは瞬間に止んだ。腕の運動も自由になった。

彼の勇気は<ruby><rb>恢復</rb><rt>かいふく</rt></ruby>した。

彼は猛然と立ち上がった。

それから彼は追っかけた。

教主達の姿は見えなかった。どうやら廊下を曲がったらしい。葉之助と狼と土佐犬とは、廊下を真っ直ぐに走って行った。と、廊下は右へ曲がった。葉之助も右へ曲がった。彼らの姿は見えなかった。廊下をズンズン走って行った。すると廊下は突き当たった。頑固な石壁が立っていた。

「はてな？」

と葉之助は途方に暮れた。

「行き止まりだ。<ruby><rb>途</rb><rt>みち</rt></ruby>がない。あいつらはどこへ行ったのだろう？」

突然一匹の土佐犬が、一声高く<ruby><rb>咆吼</rb><rt>ほうこう</rt></ruby>した。壁に向かって飛び掛かった。

果然壁に穴が開いた。

そこに開き戸があったのであった。

犬はヒラリと飛び込んだ。

同時にギャッという悲鳴が聞こえた。

首を切られた犬の死骸が、ピョンと廊下へ刎ね返って来た。

向こう側に誰かいるらしい。待ち伏せをしているらしい。

犬達は<ruby><rb>喧騒</rb><rt>けんそう</rt></ruby>した。つづけて二、三匹飛び込もうとした。

「<ruby><rb>叱</rb><rt>しっ</rt></ruby>！」

と葉之助は手で止めた。

犬の死骸を抱き上げた。それを戸口から投げ込んだ。つづいて自分も飛び込んだ。

二人の武士が立っていた。

<ruby><rb>颯</rb><rt>さっ</rt></ruby>と二人切り込んで来た。チャリンと葉之助は両刀で受けた。一人の刀をポンと刎ね、もう一人の刀を巻き落とした。寄り身になって横へ払った。ワッと一人が悲鳴を上げた。刀を落とされた武士であった。額から鼻まで切り下げられていた。

ドンと武士は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぶっ</span>仆れた。狼と犬とが群がり<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たかっ</span>た。見る間に寸々に引き裂いた。

「えい」と葉之助は声を掛けた。すぐワッという声がした。もう一人の武士が切り仆された。

犬と狼とが引き裂いた。

一九

葉之助は部屋を見廻した。

それはまさしく<ruby><rb>閨房</rb><rt>けいぼう</rt></ruby>であった。<ruby><rb>垂</rb><rt>た</rt></ruby>れ<ruby><rb>布</rb><rt>ぎぬ</rt></ruby>で幾部屋かに仕切ってあった。どの部屋にも裸体像があった。いずれも男女の像であった。

多くの男女の信者達は、この部屋でお恵みを受けたのだろう。

あちこちに脱ぎ捨てた衣裳があった。

信者達は裸体で逃げ出したと見える。

部屋部屋には一個ずつ<ruby><rb>香炉</rb><rt>こうろ</rt></ruby>があった。香炉から煙りが立っていた。<ruby><rb>催淫薬</rb><rt>さいいんやく</rt></ruby>の匂いがした。

反対の側に戸口があった。

葉之助はそこから出た。

長い一筋の廊下があった。

彼はそれを向こうへ渡った。狼と犬とが従った。

と、独立した塔へ出た。

教主達はその内へ逃げ込んだらしい。ガヤガヤ騒ぐ声がした。

葉之助は入り込んだ。

階段が上へ通じていた。上の方から人声がした。

で、葉之助は駈け上がった。犬と狼とが従った。

上り切った所に部屋があった。が、誰もいなかった。階段が上へ通じていた。そっちから人声が聞こえて来た。で、葉之助は上がって行った。

上り切った所に部屋があった。しかし誰もいなかった。階段が上へ通じていた。そっちから人声が聞こえて来た。で、葉之助は上がって行った。

その結果は同じであった。上り切った所に部屋があった。しかし誰もいなかった。階段が上へ通じていた。そっちから人声が聞こえて来た。そこで葉之助は勇を<ruby><rb>鼓</rb><rt>こ</rt></ruby>し、それを上へのぼることにした。

だがその結果は同じであった。上り切った所に部屋があり、部屋には誰もいなかった。

階段が上に通じていた。そっちから人声が聞こえて来た。で、葉之助は上ることにした。

上り切った所に部屋があった。やはり誰もいなかった。階段が上に通じていた。そっちから人声が聞こえて来た。

で、またも葉之助は上へ上らなければならなかった。

上り切った所に部屋があった。そこが頂上の部屋らしかった。上へ通じる階段がなく、頭の上には天井裏があった。

しかし彼らはいなかった。

ではどこから逃げたのだろう？

裏口へ下りる階段口があった。表と裏とに階段が、<ruby><rb>二条</rb><rt>ふたすじ</rt></ruby>設けられていたものらしい。表の階段から逃げ上がり、裏の階段から逃げ下りたらしい。

「<ruby><rb>莫迦</rb><rt>ばか</rt></ruby>な話だ。何んということだ。無駄に体を<ruby><rb>疲労</rb><rt>つか</rt></ruby>れさせたばっかりだ」

呟きながら葉之助は、裏の階段口へ行って見た。

彼は思わず「あっ」と云った。肝心の階段が取り<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>されていた。

表の階段口へ行ってみた。またも彼は「あっ」と叫んだ。たった今上って来た階段が、いつの間にか取り外されていた。

「ううむ、さては計られたか！」

<ruby><rb>切歯</rb><rt>せっし</rt></ruby>せざるを得なかった。

飛び下りることは出来なかった。階段口は一直線に土台下から最上層まで、真っ直ぐに垂直に<ruby><rb>穿</rb><rt>うが</rt></ruby>たれてあった。で、もし彼が飛び下りたなら、最上層から土台下まで、一気に落ちなければならないだろう。どんなに体が頑丈でも、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひと</span>たまりもなく粉砕されよう。

彼はゾッと悪寒を感じた。

急いで窓を開けて見た。

地は闇にとざされていた。下へ下りるべき手がかりはなかった。

「計られた！　計られた！　計られた！」

彼は思わず地団駄を踏んだ。

まさしく彼は計られたのであった。上へ上へと<ruby><rb>誘</rb><rt>おび</rt></ruby>き上げられ、最上層まで上ったところで、彼は一切の階段を、ひっ外されてしまったのであった。

これは恐るべき運命であった。

いったいどうしたらよいだろう？

犬と狼とは騒ぎ出した。彼らは葉之助の後を追い、一緒にここまで上って来た。彼らも恐ろしい運命を、動物特有の直感で、早くも察したものらしい。

階段口を覗いたり、葉之助の顔を見上げたりした。

やがて憐れみを乞うように、悲しそうな声で唸り出した。

葉之助は狼狽した。

その時一層恐ろしいことが、彼と獣達とを<ruby><rb>脅</rb><rt>おびや</rt></ruby>かした。

と云うのは階段口から、黒い煙りが<ruby><rb>濛々</rb><rt>もうもう</rt></ruby>と、渦巻き上って来たのであった。

二〇

焼き打ち！　焼き打ち！　焼き打ちなのであった！

邪教徒が塔へ火を掛けたのだ。

遁がれることは出来なかった。

「残念！」と葉之助は<ruby><rb>呻</rb><rt>うめ</rt></ruby>くように云った。

窓から外を覗いて見た。カッと外は赤かった。火は<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>を照らしていた。今まで<ruby><rb>夜闇</rb><rt>よやみ</rt></ruby>に閉ざされていた真っ黒の大地が明るんで見えた。

無数の人間の姿が見えた。

塔の上を振り仰ぎ、指を差して<ruby><rb>喚</rb><rt>わめ</rt></ruby>いていた。踊り廻っている人姿もあった。

「残念！」と葉之助はまた呻いた。

煙りがドンドン上って来た。物の仆れる音がした。メリメリという音がした。火の粉がパラパラと降って来た。

塔は土台から焼けているのであった。

間もなく塔は仆れるだろう。

そうなったら<ruby><rb>万事休</rb><rt>おしまい</rt></ruby>であった。

と、その時、狼達が、不思議な<ruby><rb>所作</rb><rt>しょさ</rt></ruby>をやり出した。

次々に窓際へ飛んで行き、窓から外へ鼻面を出し、「ウオー、ウオー、ウオー、ウオー」と長く引っ張って吠え出した。

これぞ狼の友呼び声で、深山幽谷で聞く時は、身の毛の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">よだつ</span>声であった。

「これは不思議」と葉之助は、窓から下を見下ろした。

奇怪な事が行われた。いや、それが当然なのかもしれない。

友呼びの声に誘われたように、あっちからもこっちからも狼が――いや、熊も土佐犬も、そうして豹までも走り出して来た。

パッと人の群は八方へ散った。

猛獣の群は塔を見上げ、ウオーッ、ウオーッと<ruby><rb>咆吼</rb><rt>ほうこう</rt></ruby>した。

そうして体を寄せ合った。

突然一匹の狼が、葉之助の横顔を斜めに<ruby><rb>掠</rb><rt>かす</rt></ruby>め、窓からヒラリと飛び下りた。

葉之助はハッとした。

「可哀そうに<ruby><rb>粉微塵</rb><rt>こなみじん</rt></ruby>だ」

いや、粉微塵にはならなかった。体を寄せ合った獣の上へ、狼の体が落下した。蒲団の上へでも落ちたように、狼の体は安全であった。

すぐに狼は飛び起きた。そうして仲間の狼へ、自分の体をピッタリと付けた。そうして塔上の<ruby><rb>侶</rb><rt>とも</rt></ruby>を呼んだ。ウオーッ、ウオーッと侶を呼んだ。

と、葉之助の横顔を掠め、次々に狼が窓から飛んだ。

みんな彼らは安全であった。

飛び下りるとすぐに起き直り、仲間の体へくっ付いた。そうして誘うようにウオーッと吠えた。

塔内の狼は一匹残らず、窓から地上へ飛び下りた。

葉之助とそうして土佐犬ばかりが、塔の中へ残された。

「よし」

と葉之助は頷いた。

一匹の土佐犬を抱き<ruby><rb>抱</rb><rt>かか</rt></ruby>え、窓から下へ投げ下ろした。中途で一つ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もんどり</span>打ち、キャンと一声叫んだが、犬は微傷さえしなかった。群がり集まっている仲間の上へ安全に落ちて起き上がった。

次々に犬を投げ下ろした。

彼らはみんな安全であった。

とうとう葉之助一人となった。

煙りは塔を立ちこめた。

ユサユサ塔が揺れ出した。

すぐにも塔は崩れるだろう。

獣達は彼を呼んだ。飛び下りろ飛び下りろと彼を呼んだ。

葉之助は決心した。窓縁へ足をかけ、両刀を高く頭上へ上げ、キッと下を見下ろした。

「ヤッ」と彼は一声叫び、窓から外へ身を躍らせた。

熊の背中が彼を受けた。彼はピョンと飛び上がった。綿の上へでも落ちたようであった。

とたんに塔が傾いた。火の粉がパラパラと八方へ散った。幾軒かの建物へ飛び火した。あちこちから火の手が上がった。

大門の開く音がした。

人の走り出る音がした。

町の火の見で<ruby><rb>半鐘</rb><rt>はんしょう</rt></ruby>が鳴った。

<ruby><rb>四方</rb><rt>あたり</rt></ruby>は昼のように明るかった。男女の信者が火の中で、右往左往に逃げ廻った。

猛獣がそれを追っかけた。

ふたたび人獣争闘が、焔の中で行われた。

葉之助は両刀を縦横に<ruby><rb>揮</rb><rt>ふる</rt></ruby>い、当たるを幸い切り捲くった。

猛獣が彼を警護した。

彼は大門の前まで来た。門の外は往来であった。それは大江戸の町であった。

一団の人影が走って行った。教主の一団と想像された。

「それ！」

と葉之助は声をかけた。猛獣の群が追っかけた。葉之助は<ruby><rb>直走</rb><rt>ひたはし</rt></ruby>った。

火消しの群が走って来た。町々の人達が駈け付けて来た。

ワーッ、ワーッと<ruby><rb>鬨</rb><rt>とき</rt></ruby>の声を上げた。

猛獣の群が走るからであった。

返り血を浴びた葉之助が、血刀を提げて走るからであった。

獣の群は<ruby><rb>狂奔</rb><rt>きょうほん</rt></ruby>した。

おりから空は嵐であった。火が隣家へ燃え移った。

二一

教主の一団が走って行った。その後を猛獣が追っかけた。そうしてその後から葉之助が走った。

深夜の江戸は湧き立った。邪教の道場は燃え落ちた。火が八方へ燃え移った。町火消し、弥次馬、役人達が、四方八方から駈けつけて来た。

悲鳴、叫喚、怒号、呪詛。……ここ<ruby><rb>芝</rb><rt>しば</rt></ruby>の一帯は、修羅の<ruby><rb>巷</rb><rt>ちまた</rt></ruby>と一変した。

その同じ夜のことであった。

遠く離れた浅草は、立ち騒ぐ人も少かった。しかしもちろん人々は、二階や屋根へ駈け上がり、遥かに見える芝の火事を、不安そうに噂した。

「芝と浅草では離れ過ぎていらあ。対岸の火事っていう奴さ。江戸中丸焼けにならねえ限りは、まず安泰というものさ。風邪でも引いちゃあ詰まらねえ、戸締りでもして寝るがいい」

こんなことを云って引っ込む者もあった。神経質の連中ばかりが、いつまでも芝の方を眺めていた。

観音堂の裏手の丘から、囁く声が聞こえて来た。

「おい、芝が火事だそうだ」

「江戸中みんな焼けるがいい」

「そうして浮世の人間どもが、一人残らず焼け死ぬがいい」

「そうして俺ら窩人ばかりが、この浮世に生き残るといい」

夜の闇が<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>を領していた。窩人達の姿は<ruby><rb>朦朧</rb><rt>もうろう</rt></ruby>としていた。立っている者、坐っている者、歩いている者、木へ上っている者、ただ黒々と影のように見えた。

遥か<ruby><rb>彼方</rb><rt>あなた</rt></ruby>の<ruby><rb>境内</rb><rt>けいだい</rt></ruby>の外れに、<ruby><rb>菰</rb><rt>こも</rt></ruby>張りの掛け小屋が立っていた。<ruby><rb>興行物</rb><rt>こうぎょうもの</rt></ruby>の掛け小屋であった。窩人達の<ruby><rb>出演</rb><rt>で</rt></ruby>ている掛け小屋であった。その掛け小屋の入り口の辺に、豆のような<ruby><rb>灯火</rb><rt>ともしび</rt></ruby>がポッツリと浮かんだ。それが走るように近寄って来た。火の玉が闇を縫うようであった。窩人達の側まで来た。それは<ruby><rb>龕灯</rb><rt>がんどう</rt></ruby>の火であった。龕灯の持ち主は老人であった。窩人の<ruby><rb>長</rb><rt>おさ</rt></ruby>の杉右衛門で、杉右衛門の背後に岩太郎がいた。

「時は来た！」と杉右衛門が云った。「水狐族めと戦う時が！」

窩人達は一斉に立ち上がり、杉右衛門の周囲を取り巻いた。「おい岩太郎話してやれ」杉右衛門が岩太郎にこう云った。

つと岩太郎は前へ出た。

「みんな聞きな、こういう訳だ。火事だと聞いて見に行った。<ruby><rb>烏森</rb><rt>からすもり</rt></ruby>の辻まで行った時だ、真ん丸に塊まった一団の人数が、むこうからこっちへ走って来た。誰かに追われているようだった。<ruby><rb>武士</rb><rt>さむらい</rt></ruby>もいれば町人もいた。男もいれば女もいた。その時俺は変な物を見た。若い女と若い男だ。人の背中に背負われていた。衣裳の胸に<ruby><rb>刺繍</rb><rt>ぬいとり</rt></ruby>があった。それを見て俺は<ruby><rb>仰天</rb><rt>ぎょうてん</rt></ruby>した。青糸で渦巻きが<ruby><rb>刺繍</rb><rt>ぬいと</rt></ruby>られていたんだ。白糸で白狐が刺繍られていたんだ。水狐族めの紋章ではないか。そいつら二人は孫だったのだ。水狐族の<ruby><rb>長</rb><rt>おさ</rt></ruby>久田の<ruby><rb>姥</rb><rt>うば</rt></ruby>のな！　さあ立ち上がれ！　やっつけてしまえ！　間もなくこっちへやって来るだろう。敵の人数は二百人はあろう。だが、味方も五十人はいる。負けるものか！　やっつけてしまえ！　……俺は急いで取って返した。一人で切り込むのは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わけ</span>がなかったが、だがそいつはよくないことだ！　あいつらは種族の共同の敵だ！　だから皆んなしてやっつけなけりゃあならねえ。掛け小屋へ帰って武器を取れ！　そうして一緒に押し出そう」

窩人達はバラバラと小屋の方へ走った。

現われた時には武器を持っていた。

長の杉右衛門を真ん中に包み、副将岩太郎を先頭に立て、一団となって走り出した。

彼らは声を立てなかった。足音をさえ立てまいとした。妨害されるのを恐れたからであった。

境内を出ると馬道であった。それを突っ切って仲町へ出た。田原町の方へ突進した。清島町、稲荷町、車坂を抜けて山下へ出、黒門町から広小路、こうして神田の大通りへ出た。

神田辺りはやや騒がしく、町人達は門へ出て、芝の大火を眺めていた。

その前を<ruby><rb>逞</rb><rt>たくま</rt></ruby>しい男ばかりの、五十人の大勢が、丸く塊まって通り抜けた。刀や槍を持っていた。

町の人達は仰天した。だが<ruby><rb>遮</rb><rt>さえぎ</rt></ruby>ろうとはしなかった。その威勢に恐れたからであった。

芝の火事は大きくなったと見え、火の手が町の屋根越しに、天を焼いて真っ赤に見えた。

窩人の一団は走って行った。室町を経て日本橋を通って京橋へ出た。

こうして一団は銀座へ出た。

と、行手から真っ黒に塊まり、大勢の人影が走って来た。

それは水狐族と信者とであった。

こうして二種族は衝突した。

初めて<ruby><rb>鬨</rb><rt>とき</rt></ruby>の声が上げられた。

二二

鏡葉之助はどうしたろう？

この時鏡葉之助は、裏町伝いに根岸に向かい、皆川町の辺を走っていた。

彼は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たった</span>一人であった。獣達の姿は見えなかった。豹も狼も土佐犬も、道々火消しや役人や、町の人達に退治られた。たまたま死から<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">まぬかれ</span>た獣は、山を慕って逃げてしまった。

だがどうして葉之助は、水狐族の群に追い縋り、討って取ろうとはしないのだろう？

彼は途中で思い出したのであった。

「殿の根岸の下屋敷を警戒するのが役目だった<ruby><rb>筈</rb><rt>はず</rt></ruby>だ」

で彼は道を変え、根岸を指して走っていた。<ruby><rb>雉子</rb><rt>きじ</rt></ruby>町を通り、<ruby><rb>淡路</rb><rt>あわじ</rt></ruby>町を通り、駿河台へ出て御茶ノ水本郷を抜けて上野へ出、<ruby><rb>鶯谷</rb><rt>うぐいすだに</rt></ruby>へ差しかかった。

左右から木立が<ruby><rb>蔽</rb><rt>おお</rt></ruby>いかかり、この時代の鶯谷は、<ruby><rb>深山</rb><rt>みやま</rt></ruby>の<ruby><rb>態</rb><rt>さま</rt></ruby>を呈していた。

と行手から来る者があった。ひどく急いでいるようであった。空には月も星もなく、その空さえも見えないほどに、木立が頭上を蔽うていた。で四辺は闇であった。

闇の中で二人は擦れ違った。

「はてな、何んとなく知った人のようだ」

葉之助は<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>を振り返って見た。

すると擦れ違ったその人も、どうやらこっちを見たようであった。

が、その人も急いでいれば、葉之助も心が<ruby><rb>急</rb><rt>せ</rt></ruby>いていた。そのまま二人は別れてしまった。

葉之助は根岸へ来た。

殿の下屋敷の裏手へ行った。

「あっ」と彼は仰天した。地面に一筋白々と、筋が引かれているではないか。

「しまった！」と彼はまた云った。

しかし間もなくその筋が、<ruby><rb>一所</rb><rt>ひとところ</rt></ruby>足で蹴散らされ、<ruby><rb>白粉</rb><rt>はくふん</rt></ruby>が四散しているのを見ると、初めて胸を撫で下ろした。

それと同時に不思議にも思った。

「いったい誰の<ruby><rb>所業</rb><rt>しわざ</rt></ruby>だろう？」

首を傾げざるを得なかった。

「この白粉の重大な意味は、俺と<ruby><rb>北山</rb><rt>ほくざん</rt></ruby>先生とだけしか知っている者はない筈だ。俺は蹴散らした覚えはない。では北山先生が、今夜ここへやって来て、蹴散らしたのではあるまいか。……おっ、そう云えば鶯谷で、知ったような人と擦れ違ったが、そうだそうだ北山先生だ」

ようやく葉之助は思い<ruby><rb>中</rb><rt>あた</rt></ruby>った。

「危険が去ったとは云われない。今夜はここで夜明かしをしよう」

葉之助は決心した。

体が綿のように<ruby><rb>疲労</rb><rt>つか</rt></ruby>れていた。彼は草の上へ横になった。引き込まれるように眠くなった。

「眠ってはいけない、眠ってはいけない」

こう思いながらもウトウトと、眠りに入ってしまいそうであった。

夜風が空を渡っていた。木立に中って<ruby><rb>習々</rb><rt>しゅうしゅう</rt></ruby>と鳴った。それが彼には子守唄に聞こえた。

彼はとうとう眠ってしまった。

鶯谷の暗闇で、葉之助と擦れ違った人物は、谷中の方へ走って行った。

芝の方にあたって火の手が見えた。

「や、これは大きな火事だ」<ruby><rb>吃驚</rb><rt>びっく</rt></ruby>りしたように<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いた。

それは天野北山であった。

「殿のお屋敷は大丈夫かな？」

走り走りこんなことを思った。

「葉之助殿はどうしたろう？　殿の下屋敷を警戒するよう、あれほど<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しっかり</span>頼んでおいたのに、今夜のような危険な時に、その姿を見せないとは、<ruby><rb>甚</rb><rt>はなは</rt></ruby>だもって<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">けしからぬ</span>次第だ。だがあるいは病気かもしれない。……

だんだん火事は大きくなるな。行って様子を見たいものだ。だが俺の出府した事は、殿にも家中にも知らせてない。顔を出すのも変な物だ」

谷中から下谷へ出た。

「さてこれからどうしたものだ。葉之助殿には至急会いたい。窩人の血統だということを教えてやる必要があるようだ」

火事は<ruby><rb>漸次</rb><rt>だんだん</rt></ruby>大きくなった。下谷辺は騒がしかった。人々は門に立って眺めていた。

「とにかく<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こっそり</span><ruby><rb>駕籠</rb><rt>かご</rt></ruby>へでも乗り、葉之助殿の屋敷を訪ねてみよう。頼みたいこともあるのだからな」

駕籠屋が一軒起きていた。

「おい、芝までやってくれ」

「へい、よろしゅうございます」

威勢のいい若者が駕籠を出した。で北山はポンと乗った。

駕籠は宙を飛んで走り出した。

銀座手前まで来た時であった。前方にあたって鬨の声が聞こえた。大きな<ruby><rb>喧嘩</rb><rt>けんか</rt></ruby>でも起こったようであった。

「旦那旦那大喧嘩です」

駕籠<ruby><rb>舁</rb><rt>か</rt></ruby>きはこう云って駕籠を止めた。

「裏通りからやるがいい」

駕籠の中から北山が云った。

そこで駕籠は<ruby><rb>木挽町</rb><rt>こびきちょう</rt></ruby>へ<ruby><rb>逸</rb><rt>そ</rt></ruby>れた。

二三

火元はどうやら愛宕下らしい。木挽町あたりも騒がしかった。かてて大喧嘩というところから、人心はまさに兢々としていた。

「火消し同士の喧嘩だそうだ」「いや浅草の芸人と、武士との喧嘩だということだ」「いや賭場が割れたんだそうだ」「いや謀反人だと云うことだ」「いや、一方は芸人で、一方は神様だということだ」「神様が喧嘩をするものか」

往来に集まった人々は、口々にこんなことを云っていた。

駕籠はズンズン走って行った。芝口へ出、<ruby><rb>露月町</rb><rt>ろげつちょう</rt></ruby>を通り、宇田川町、金杉橋、やがて駿河守の屋敷前へ来た。

この辺もかなり騒がしかった。

「ここで下ろせ」

と北山は云った。

駕籠から下りた北山は、葉之助の屋敷の玄関へ立った。

案内を乞うと声に応じ、取り次ぎの小侍が現われた。

「これはこれは北山先生で」

「葉之助殿ご在宅かな」

「いえ、お留守でございます」気の毒そうに小侍は云った。

「ふうむ、お留守か、どこへ行かれたな」

「はいこの頃は毎晩のように、どこかへお出かけでございます」

「ははあさようか、毎晩のようにな」

――それではやはり葉之助は、下屋敷へ警戒に行くものと見える。今夜も行ったに相違ない。きっと駈け違って逢わなかったのだろう。

天野北山はこう思った。

「葉之助殿お帰りになったら、<ruby><rb>俺</rb><rt>わし</rt></ruby>が来たとお伝えくだされ。改めて明朝お訪ね致す」

「大火の様子、ご注意なされ」

で北山は往来へ出た。

そうして新しく駕籠を雇い、神田の<ruby><rb>旅籠屋</rb><rt>はたごや</rt></ruby>へ引っ返した。

葉之助は草の上に眠りこけていた。決して不覚と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">せめる</span>ことは出来ない、彼は実際一晩のうちに、余りに体を使い過ぎた。これが尋常の人間なら、とうに死んでいただろう。

だが眠ったということは、彼にとっては不幸であった。

黒々と空に聳えている森帯刀家の裏門が、この時音もなくスーと開いた。

忍び出た二つの人影があった。一人は立派な侍で、一人はどうやら町人らしかった。

地上に引かれた筋に添い、葉之助の方へ近寄って来た。

間もなく葉之助の側まで来た。

二人は<ruby><rb>暗中</rb><rt>あんちゅう</rt></ruby>で顔を見合わせた。

「紋兵衛、これで秘密が解った」こう云ったのは武士であった。「ここに眠っているこの侍が、<ruby><rb>俺</rb><rt>わし</rt></ruby>達の計画の邪魔をしたのだ」

「はい、どうやら<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">そんな</span>ようで」

「ここで白粉が蹴散らされている」

「以前にも一度ありました」

「こいつの所業に相違ない」

「<ruby><rb>莫迦</rb><rt>ばか</rt></ruby>な奴だ、眠っております」

「いったいこいつ何者であろう？」

そこで町人は覗き込んだ。

「おっ、これは葉之助殿だ！」

「何、葉之助？　鏡葉之助か？」

「はい、帯刀様、さようでございます」

「そうか」

と武士は腕を組んだ。

「鏡葉之助とあってみれば斬ってすてることも出来ないな」

「とんでもないことで。それは出来ません」

「と云って捨てては置かれない」

「私に妙案がございます」

町人は武士の耳の辺で、何かヒソヒソと<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>いた。

「うむ、こいつは妙案だ」

「では」と云うと町人は、<ruby><rb>懐中</rb><rt>ふところ</rt></ruby>へスッと手を入れた。取り出したのは白布であった。それを葉之助の顔へ掛けた。

しばらく二人は見詰めていた。

「もうよろしゅうございましょう」

町人はこう云うと白布を取った。それから葉之助を抱き上げた。葉之助は死んだように他愛がなかった。

武士が葉之助の頭を抱え、町人が葉之助の足を持った。

森帯刀の屋敷の方へ、二人はソロソロと歩いて行った。上野の山に<ruby><rb>遮</rb><rt>さえぎ</rt></ruby>られて、火事の光も見えなかった。根岸一帯は寝静まっていた。

葉之助を抱えた二人の姿は、文字通り誰にも見られずに、森帯刀家の裏門から、屋敷の中へ消えてしまった。

闇ばかりが拡がっていた。<ruby><rb>習々</rb><rt>しゅうしゅう</rt></ruby>と夜風が吹いていた。

二四

この頃江戸の真ん中では、窩人と水狐族との<ruby><rb>闘争</rb><rt>たたかい</rt></ruby>が、<ruby><rb>凄</rb><rt>すさま</rt></ruby>じい勢いで行われていた。

種族と種族との争いであった。宗教と宗教との争いであった。先祖から遺伝された憎悪と憎悪とが<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぶつかり</span>合った争いであった。

火事の光はここまでも届き、空が<ruby><rb>猩々緋</rb><rt>しょうじょうひ</rt></ruby>を呈していた。家々の屋根が輝いて見えた。

<ruby><rb>幾群</rb><rt>いくむれ</rt></ruby>かに別れて切り合った。槍、竹槍、刀、棒、いろいろの討ち物が閃めいた。悲鳴や怒号が反響した。

一群がパタパタと逃げ出した。他の群がそれを追っかけた。逃げた群は路地へ隠れた。他の群はそれを追い詰めた。逃げた群が盛り返して来た。路地で格闘が行われた。

数人が人家へ逃げ込もうとした。その家では戸を立てた。家人は内からその戸を抑えた。数人がそこへ追っかけて来た。そこでも切り合いが始まった。

人家の屋根へ上がる者があった。その屋根の上に敵がいた。取っ組んだまま転がり落ちた。

一人の<ruby><rb>武士</rb><rt>さむらい</rt></ruby>が竹槍で突かれた。それは迷信者の一人であった。他の武士が突進した。竹槍を持った窩人の一人が、武士のために手を落とされた。

石が雨のように降って来た。額を割られて呻く者があった。

二、三人パタパタと地へ斃れた。窩人だか水狐族だか解らなかった。死骸を乗り越えて進む者があった。

岩太郎の武者振りは<ruby><rb>壮観</rb><rt>みもの</rt></ruby>であった。

藤巻柄の五尺もある刀を、棒でも振るように振り廻した。またたく間に数人を切り斃した。一人の敵が飛びかかって来た。横撲りに叩き伏せた。ムラムラと四、五人が掛かって来た。大廻しに刀を振り廻した。四、五人が後へ逃げ出した。彼は突然振り返った。一人の敵が狙っていた。

「畜生！」と叫ぶと肩を切った。プーッと霧のように血が吹いた。

杉右衛門は窩人に守られていた。往来の真ん中へ突っ立っていた。声を<ruby><rb>嗄</rb><rt>か</rt></ruby>らして彼は叫んだ。

「大将を討ち取れ！　大将を討ち取れ！」

彼の顔は光っていた。火事の光が照らしたからであった。彼は槍を<ruby><rb>提</rb><rt>ひっさ</rt></ruby>げていた。その穂先から血が落ちていた。

水狐族の男女の教主達も、信者に守られて立っていた。二人ながら大声で叫んだ。

「教法の敵！　教法の敵！」

「一人も<ruby><rb>遁</rb><rt>の</rt></ruby>がすな！　一人も遁がすな」

窩人の群は教主を目掛け、大波のように寄せて行った。しかし途中で<ruby><rb>遮</rb><rt>さえぎ</rt></ruby>られた。

水狐族の群が杉右衛門を目掛け、あべこべにドッと押し寄せて行った。これも途中で遮られた。

火事は容易に消えなかった。空は益〻赤くなった。

火事を眺める群集と、格闘を眺める群集とで、往来は人で一杯になった。

死骸がゴロゴロ転がった。流された血で道が<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>った。その血へ火の光が反射した。

ワーッ、ワーッ、という<ruby><rb>鬨</rb><rt>とき</rt></ruby>の声！

その時見物が叫び出した。

「それお役人のご出張だ！」

<ruby><rb>御用提灯</rb><rt>ごようぢょうちん</rt></ruby>が幾十となく、京橋の方から飛んで来た。八丁堀の同心衆が、岡っ引や下っ引を連れて、この時走って来たのであった。

瞬間に格闘は終りを告げた。

窩人も水狐族も死骸を担ぎ、八方に姿を隠してしまった。

しかし二種族の憎悪と復讐心は、決して終りを告げたのではなかった。明治大正の今日に至っても尚二種族は田舎に都会に、あらゆる複雑の組織の下に、復讐し合っているのであった。

旅籠へ帰って来た北山は、むさくるしい部屋にムズと坐り、何かじっと考え込んだ。

やおら立ち上がって<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>を開けた。押し入れに<ruby><rb>薬棚</rb><rt>くすりだな</rt></ruby>が作られてあった。非常な大きな薬棚で、無数の薬壺が置かれてあった。彼は薬壺を取り出した。

「いや、ともかくも明日にしよう」

思い返して寝ることにした。

で、薬壺を棚へ載せ、襖を立てて寝る用意をした。

翌朝早く眼を覚ました。

旅籠を出ると駕籠へ乗り、葉之助の屋敷へ急がせた。

玄関へ立って案内を乞うた。すぐに小侍が現われた。

「葉之助殿ご在宅かな」

「は、昨晩出かけましたきり、いまだにお帰りございません」

「ふうん」と云ったが北山は、小首を傾げざるを得なかった。

二五

旅籠へ帰って来た北山は考え込まざるを得なかった。

「葉之助殿はどうしたろう？」

何んとなく不安な気持ちがした。手を<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>へ置いて考え込んだ。

「鶯谷で擦れ違った、昨夜の若い侍は、葉之助殿に相違ない。あれからきっと葉之助殿は、下屋敷警護に行かれたのだろう。さてそれから？　さてそれから？」

――それからのことは解らなかった。

だが何んとなく下屋敷附近で、変事があったのではあるまいかと、気づかわれるような<ruby><rb>節</rb><rt>ふし</rt></ruby>があった。

「まさかそんなこともあるまいが、帯刀様のお屋敷へでも<ruby><rb>誘拐</rb><rt>かどわか</rt></ruby>されたのではあるまいか」

ふとこんなことも案じられた。

「絶対にないとは云われない。彼らの陰謀を偶然のことから、俺が目付けて邪魔をした。白粉を足で蹴散らした。と、その後へ葉之助殿が行った。陰謀組の連中が、どうして陰謀を破られたか。それを調べにやって来る。双方が広場で衝突する。ううむ、こいつはありそうなことだ」

北山はじっくりと考え込んだ。

「だが鏡葉之助殿は、武道にかけては一種の天才、<ruby><rb>大概</rb><rt>たいがい</rt></ruby>の者には負けない筈だ。しかし多勢に無勢では……無勢も無勢一人では、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひどい</span>目に合われないものでもない」

彼は益〻不安になった。

「だが<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">まさか</span>に殺されはしまい」

とは云えそれとて絶対には、安心することは出来なかった。

「そうだ、これから出かけて行き、広場の様子を見てやろう！　格闘したものなら<ruby><rb>痕跡</rb><rt>あと</rt></ruby>があろう。殺されたものなら血痕があろう」

で、彼は行くことにした。

しかしその前に仕事があった。

薬を調合しなければならない。

襖を開けると薬棚があった。いろいろの薬を取り出した。<ruby><rb>薬研</rb><rt>やげん</rt></ruby>に入れて粉に砕いた。幾度も幾度も調合した。黄色い沢山の粉薬が出来た。棚から黄袋を取り出した。それへ薬を一杯に詰めた。五合余りも詰めたろう。それをさらに風呂敷に包んだ。それからそれを懐中した。

編笠を冠って<ruby><rb>旅籠</rb><rt>はたご</rt></ruby>を出た。辻待ちの駕籠へポンと乗った。

「根岸まで急いでやってくれ」

「へい」と駕籠は駈け出した。

「よろしい」と云って駕籠を出た。

それからブラブラ歩いて行った。

内藤家のお下屋敷、それを廻って広場の方へ行った。広場の彼方に屋敷があった。帯刀様の屋敷であった。北山は地上へ眼を付けた。一筋引かれた白粉の痕は、もうどこにも見られなかった。その辺は綺麗に<ruby><rb>平</rb><rt>なら</rt></ruby>されていた。格闘したらしい跡もなかった。血の<ruby><rb>零</rb><rt>こぼ</rt></ruby>れたような跡もなかった。

「<ruby><rb>後片付</rb><rt>あとかたづ</rt></ruby>けをしたそうな。これではたとえ格闘をしてもまた斬り合っても証拠は残らぬ……これはいよいよ心配だ」

北山は<ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>んで考えた。

「思い切って森家へ乗り込もうか、乗り込んで乗り込めないこともない。とにかく一度ではあったけれど、帯刀様にお呼ばれして、おうかがいしたこともあるものだからな」

だが表向き乗り込んだのでは、葉之助の消息を訊ねることが、不可能のように思われた。

「では乗り込んでも仕方がない」

彼は思案に余ってしまった。

「この方はもう少し考えることにしよう……もう一つの方を探って見よう」

浅草の方へ足を向けた。

奥山は例によって賑わっていた。

「八ヶ嶽の山男」それを掛けている小屋掛けの前で、北山はピタリと足を止めた。

見れば看板が外されてあった。木戸にも人がいなかった。小屋の口は閉ざされていた、どうやら興行していないらしい。

と、一人の若者が、戸口を開けて現われた。元気のないような顔をして、ぼんやり外を眺めていた。小屋者であるということは、衣裳の様子ですぐ解った。

北山はそっちへ寄って行った。

「今日は興行はお休みかね？」何気ないように声を掛けた。

すると若者は北山を見たが、

「へえ、まあ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">そんな</span><ruby><rb>恰好</rb><rt>かっこう</rt></ruby>で」云うことが変に<ruby><rb>煮</rb><rt>に</rt></ruby>え切らなかった。

「天気もよければ人も出ている。こんないい日にどうして休んだね？」北山は尚も何気なさそうに訊いた。

若者はちょっと眉をひそめた。いらざるお世話だと云いたげであった。でも、渋々とこんなことを云った。

「何もね、休みたかあなかったんで……太夫が一人もいないんでね……で、仕方なく休んだんでさあ」

二六

「ほほう、山男達はいないのかい」失望もし驚きもし、こう北山は大声で云った。「じゃあ山へ帰ったんだね」

「山へ帰ったか里へ行ったか、何んで私が知りますものか」

「で、いつからいないのかな？」

「<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>からでさあ、火事のあった頃から」

「では無断で逃げたんだな」

「逃げたには相違ありませんがね。道具を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みんな</span>置いて行ったので、いずれ帰っては来ましょうよ」

「道具？」と北山は眼を光らせた。「で、動物はどうなっている」

「つまりそいつが道具なんで……熊や猿や狼などを、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ほったらかし</span>たまま行っちまったんで」

「たしか蛇もいたようだが？」こう探るように北山は訊いた。

「ええおりますよ、幾通りもね」

北山は懐中へ手を入れた。紙入れを取り出し小粒を<ruby><rb>摘</rb><rt>つま</rt></ruby>み、クルクルとそれを紙へ包んだ。

「少いけれど取ってお置き」

「これは旦那、済みませんねえ」

小屋者はヒョロヒョロ辞儀をした。

「ところでちょいと頼みがある。動物を見せてはくれまいか」

「へえへえお易いご用です」

若者は小屋の中へはいって行った。北山は後から従いて行った。

小屋の中は薄暗く、妙にジメジメと湿っていた。小屋を抜けて庭へ出た。そこに<ruby><rb>幾個</rb><rt>いくつ</rt></ruby>かの<ruby><rb>檻</rb><rt>おり</rt></ruby>があった。いろいろの動物が<ruby><rb>蠢</rb><rt>うごめ</rt></ruby>いていた。

一つの小さな檻があった。

その中に五、六匹の小蛇がいた。卯の花のように白い肌へ、陽の光がチラチラと<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こぼれ</span>ていた。一尺ほどの小蛇であった。みんな<ruby><rb>穏</rb><rt>おとな</rt></ruby>しく眠っていた。

北山はその前で足を止めた。

それから蛇を観察した。

「ねえ、若衆、綺麗な蛇だね」

北山は若者へ話しかけた。

「綺麗な蛇でございますな。だが、大変な毒蛇だそうで」若者は<ruby><rb>恐</rb><rt>こわ</rt></ruby>そうに檻を覗いた。

「何んという蛇だか知っているかね」

「山男達が云っていました。信州の国は八ヶ嶽、そこだけに住んでいる<ruby><rb>宗介蛇</rb><rt>むねすけへび</rt></ruby>だってね」

「宗介蛇とは面白いな」北山はちょっと微笑した。

「蘭語でいうとエロキロスというのだ」

「へえ、エロキロス、変な名ですなあ」

「蛇は六匹いるようだね」

「昔は十匹おりましたが、今じゃあ六匹しかおりません。山男達の話によると、三匹がところ、盗まれたそうで」

「十匹で三匹盗まれりゃあ、後七匹いる筈だが、ここには六匹しかいないじゃあないか。後の一匹はどうしたね」

「ああ後の一匹ですか、さっき人が来て買って行きました」

「え？」

と北山は眼を見張った、「ふうむ、この蛇をな、買って行ったんだな」「へえさようでございますよ」「どんな様子の人間だったな？」「五十恰好の商人風、江戸の人じゃあありませんな。<ruby><rb>贅沢</rb><rt>ぜいたく</rt></ruby>な様子をしていましたよ。田舎の物持ちと云った風で」

北山は黙って考え込んだ。腹の中で<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いた。

「今夜が危険だ。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うっちゃって</span>は置けない」で彼は卒然と云った。「<ruby><rb>私</rb><rt>わし</rt></ruby>にも蛇を売ってくれ」

「おやおやあなたもご入用なので」

「で、一匹幾らかな」

「さっきのお方は一匹一両で……」

「よし、<ruby><rb>私</rb><rt>わし</rt></ruby>も一両で買おう」

北山は紙入れを取り出した。小判六枚を<ruby><rb>掌</rb><rt>てのひら</rt></ruby>へ載せた。

「さあ六両、受け取ってくれ」

「へえ、六両？　どうしたので？」

「六匹みんな買い取るのさ」

「そいつあどうも困りましたねえ」

若者は小判と北山の顔とをしばらくの間見比べていた。

「どうして困るな？　困る筈はあるまい」

しかし若者は頭をかいた。

「どうもね、旦那困りますので。だってそうじゃありませんか、この白蛇は山男の物で、私の物じゃあございません」

「では何故一匹売ったんだ？」北山は叱るように声を強めた。「一匹も六匹も同じじゃあないか」

「いいえ、そんな事はありません。一匹や二匹なら逃げたと云っても、云い訳が立つじゃあありませんか」

「六枚の小判が欲しくないそうな」北山は小判を掌の上で鳴らした。「……死んだと云えばいいじゃないか」

「でも死骸がなかったひには」尚若者は<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ちゅうちょ</rt></ruby>した。しかしその眼は<ruby><rb>貪慾</rb><rt>どんよく</rt></ruby>らしく、小判の上に注がれた。

「いや死骸ならくれてやるよ」

北山は小判を突き付けた。「それなら文句はないだろう」

二七

若者は小判を手に受けた。

「どうしてご持参なさいます？」

「持って帰るには及ばないよ」

北山は懐中から黄袋を出した。「食い合いっ振りが見たいのさ」

黄袋の口を檻の上へ<ruby><rb>傾</rb><rt>かし</rt></ruby>げた。粉薬をサラサラと檻の中へ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こぼし</span>た。だが<ruby><rb>全部</rb><rt>みんな</rt></ruby>は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こぼさ</span>なかった。半分がところで止めてしまった。

粉薬が六匹の蛇へかかった。蛇は一斉に鎌首を上げた。プーッと頬を<ruby><rb>膨</rb><rt>ふく</rt></ruby>らせた。全身をウネウネと<ruby><rb>蜒</rb><rt>うね</rt></ruby>らせた。真っ直ぐに体を押っ立てた。長い<ruby><rb>蝋燭</rb><rt>ろうそく</rt></ruby>が立ったようであった。俄然六匹は食い合いを始めた。

ゾッとするような光景であった。

まず一匹が<ruby><rb>咽喉</rb><rt>のど</rt></ruby>を咬まれた。白い体が血に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">まみれ</span>た。と、グンニャリと倒れてしまった。長く延びて動かなくなった。死骸の上を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">のたくり</span>ながら、五匹の蛇は格闘をつづけた。また二匹目が食い殺された。つづいて三匹目が食い殺された。尚三匹は戦っていた。だが次々に死んで行った。最後の一匹も死んでしまった。

若者は拳を握りしめていた。

北山は気味悪く微笑した。

「まずこれで安心した……悪人の<ruby><rb>媒介</rb><rt>ばいかい</rt></ruby>も根絶やしになった……そうして薬の利き目も解った……それじゃあご免よ。私は帰る」

黄袋を<ruby><rb>懐中</rb><rt>ふところ</rt></ruby>へ押し入れて、北山は小屋から外へ出た。

やがてこの日の夜が来た。

鏡葉之助は眼を覚ました。

そこは真っ暗の部屋らしかった。

葉之助の全身は<ruby><rb>弛</rb><rt>だる</rt></ruby>かった。ひどく頭が<ruby><rb>茫然</rb><rt>ぼんやり</rt></ruby>していた。手足の節々が痛かった。

「いったいここはどこだろう？　確かに自分の家ではない。……いつから俺は眠ったんだろう？　……一年も眠ったような気持ちがする」

彼は<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>を見廻した。<ruby><rb>灯火</rb><rt>ともしび</rt></ruby>のない部屋の中には、人のいるらしい<ruby><rb>気勢</rb><rt>けはい</rt></ruby>もなかった。彼はじっと考え込んだ。

「……それでも<ruby><rb>漸次</rb><rt>だんだん</rt></ruby>思い出す……俺は最初に女を助けた。女を送って屋敷へ行った。<ruby><rb>大槻玄卿</rb><rt>おおつきげんきょう</rt></ruby>の屋敷だった。それから毒を飲まされた。それから地下へ埋められた。それから地下の横穴を通った。それから水狐族の怪殿へ行った。それからウント奮闘した。それから町へ飛び出した。それから根岸へ警護に行った。地上に例の白粉があった。それから俺は広場で眠った。ではここは広場なのか？」

彼は<ruby><rb>掌</rb><rt>てのひら</rt></ruby>で探って見た。地面の代りに畳が触れた。

「いややはり家の中だ……それにしてもいったい何者が、いつ俺をこんな家の中へ、俺に知らせずに担ぎ込んだのだろう？　……人に担がれても知らないほど、眠っていたとは呆れ返るな……とにかく屋敷の様子を見よう」

葉之助は立ち上がった。

まず正面へ歩いて行った。そこには正しく床の間があった。ズッと右手へ歩いて行った。と、手先に襖がさわった。それをソロソロと引き開けた。出た所に廊下があった。その廊下を左手へ進んだ。幾個かの部屋が並んでいた。と、丁字形の廊下となった。網を掛けた<ruby><rb>雪洞</rb><rt>ぼんぼり</rt></ruby>があった。

「大名か旗本の下屋敷だな」

葉之助は直覚した。

廊下の行き詰まりに庭があった。で、庭へ下りて行った。植え込みが隙間なく植えてあった。それを潜って忍びやかに歩いた。

深夜と見えて人気がなかった。時々<ruby><rb>鼾</rb><rt>いびき</rt></ruby>の声がした。

黒板塀がかかっていた。その根もとに<ruby><rb>蹲</rb><rt>うずく</rt></ruby>まり、二人の人間が囁き合っていた。

葉之助は素早く身を隠した。二人の話を聞こうとした。

間が遠くて聞こえなかった。で、植え込みの間を潜り、ソロソロと二人へ近寄った。月が二人の真上にあった。二人の姿は<ruby><rb>朦朧</rb><rt>もうろう</rt></ruby>と見えた。二人ながら<ruby><rb>覆面</rb><rt>ふくめん</rt></ruby>をし、目立たない衣裳を<ruby><rb>纏</rb><rt>まと</rt></ruby>っていた。一人は大小を差していた。しかし一人は丸腰であった。

断片的に話し声が聞こえた。

「……恐らく今夜は邪魔はあるまい」

武士の方がこう云った。

「……今夜は大丈夫でございましょう」

町人の方がこう答えた。

「……ではソロソロ放そうか」

「それがよろしゅうございましょう」

「……薬は確かに撒いたろうな」

「その辺如才はありません」

ここでしばらく話が絶えた。

町人が棒を取り上げた。側に置いてあった棒であった。どうやら太い竹筒らしい。

武士は二、三歩後へ退がった。町人は注意深く及び腰をした。

町人はソロソロと手を延ばし、竹筒の先の<ruby><rb>臍</rb><rt>ほぞ</rt></ruby>を取った。素早く竹筒を地上へ置いた。そうしてサッと後へ退がった。

二人の前から白粉が、一筋塀裾へ引かれていた。塀の一所に穴があった。穴を通って白粉が、<ruby><rb>戸外</rb><rt>そと</rt></ruby>の方まで引かれていた。

と、微妙な音がした。口笛でも吹くような音であった。竹筒の中からスルスルと、一筋の白い紐が出た。白粉の上を一散に、塀の外へ走り出した。

「あっ」

と葉之助は声を上げた。植え込みから飛び出した。そうして町人へ組み付いた。

二八

「あっ」

と今度は町人が叫んだ。

「誰だ？」

と武士が<ruby><rb>叱咤</rb><rt>しった</rt></ruby>した。

町人は葉之助を突き飛ばそうとした。が、葉之助は<ruby><rb>頸首</rb><rt>えりくび</rt></ruby>を捉え、ギューッと地面へ押し付けた。

突然武士が刀を抜いた。ヒョイと葉之助は後へ退いた。刀は町人の首を切った。ヒーッと町人が悲鳴を上げた。

「しまった！」と武士は刀を引いた。

その時笛の音が帰って来た。塀の口から白い蛇が、荒れ狂って飛び込んで来た。手近の武士へ飛びかかった。

「ワッ」

と武士は悲鳴を上げた。ヨロヨロと塀へ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もたれかか</span>った。白蛇も精力が尽きたと見え、体を延ばして動かなくなった。

ガックリ武士は首を垂れた。前<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">のめり</span>に地に斃れた。

町人と武士、そうして白蛇、三つの死骸を月が照らした。

不意に女の笑い声がした。

「多四郎！　多四郎！　思い知ったか！　<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>の怨みだ！　妾の怨みだ！」

葉之助は四辺を見廻した。女の姿は見えなかった。だが声は繰り返した。

「猪太郎！　猪太郎！　よくおやりだ！　お礼を云うよ、お母さんからね」

声はそのまま止んでしまった。

気が附いて葉之助は腕を捲くった。二の腕に出来ていた二十枚の歯形――<ruby><rb>人面疽</rb><rt>にんめんそ</rt></ruby>が消えていた。

屋敷の中が騒がしくなった。人の走って来る<ruby><rb>気勢</rb><rt>けはい</rt></ruby>がした。

葉之助は塀へ手を掛けた。身を<ruby><rb>翻</rb><rt>ひるがえ</rt></ruby>すと塀を越した。

広場を横切って町の方へ走った。

と、誰かと衝突した。

「これは失礼」「これは失礼」

云い合い顔を<ruby><rb>隙</rb><rt>す</rt></ruby>かして見た。

「や、これは北山先生！」

「おお、これは葉之助殿！」

「先生には今時分こんな所に？」

「万事は後で……ともかく一緒に……」

二人は町の方へ走って行った。

その翌日のことであった。神田の<ruby><rb>旅籠屋</rb><rt>はたごや</rt></ruby>北山の部屋で、北山と葉之助とが話していた。

「……<ruby><rb>窩人</rb><rt>かじん</rt></ruby>に云わせると宗介蛇、蘭語で云うとエロキロス、これは珍らしい毒蛇で、これに噛まれると、一瞬間に死んでしまう。しかも少しも<ruby><rb>痕跡</rb><rt>あと</rt></ruby>を残さない。この毒蛇の特徴として、<ruby><rb>茴香剤</rb><rt>ういきょうざい</rt></ruby>を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひどく</span>好む。そいつを<ruby><rb>嗅</rb><rt>か</rt></ruby>ぐと興奮する。で、例の白粉だが、云うまでもなく茴香剤なのさ、大槻玄卿が製したものだ。

ところが<ruby><rb>一昨日</rb><rt>おとつい</rt></ruby>の晩のことだ。浅草観音の境内へ行き、偶然窩人達の話を聞いた。毒蛇を盗まれたと云っていた。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はてな</span>と俺は考えた。考えながら根岸へ行った。と、白粉が引かれてあった。口笛のような音がして、<ruby><rb>紐</rb><rt>ひも</rt></ruby>のようなものが走って来た。そこで初めて感附いたものさ……エロキロスは、茴香剤を嗅がされると、喜びの余り音を立てる、一種歓喜の声なのだ……つまり三人の悪党どもは、森家から内藤家の寝所まで、茴香剤の線を引き、その上をエロキロスを走らせて、若殿を咬ませたのさ……ところで毒蛇エロキロスは、一度<ruby><rb>丹砂剤</rb><rt>たんしゃざい</rt></ruby>を嗅がされると、発狂をして死んでしまう。それを<ruby><rb>私</rb><rt>わし</rt></ruby>は利用した。で昨夜根岸へ行った。すると白粉が引いてあった。そこで俺はその<ruby><rb>一所</rb><rt>ひとところ</rt></ruby>へ、丹砂剤をうんと振り撒いたものさ。案の定エロキロスは走って来たが、そこまで来ると発狂し、元来た方へ引き返して行った」

「いかにもさようでございました。馳せ返って来た毒蛇は、帯刀様へ食い付きました」葉之助は頷いた。

「帯刀様の<ruby><rb>刃</rb><rt>やいば</rt></ruby>で、紋兵衛も殺されたということだな」

「まずさようでございます。だが本来帯刀様は、私を切ろうとなすったので。それを私が素早く紋兵衛を盾に取ったので、いわば私が殺したようなもので」

「それはそうと葉之助殿、貴殿の幼名は猪太郎という、どうやら窩人の血統を受け継いでいるように思われる。母は、窩人の<ruby><rb>長</rb><rt>おさ</rt></ruby>の杉右衛門の娘、山吹であったということだ。父は里の者で、多四郎という若者だそうだ……そのうち窩人と逢うこともあろう、よく聞き<ruby><rb>訊</rb><rt>ただ</rt></ruby>してご覧なされ。これも一昨夜浅草で、山男、すなわち窩人どもから、偶然聞いた話でござるよ」

「母は山吹、父は多四郎、そうして私の幼名が、猪太郎というのでございますな？　そうして八ヶ嶽の窩人の血統？　ううむ」と葉之助は腕を組んだ。

二九

翌日鏡葉之助は、蘭医大槻玄卿の、悪逆非道の振る舞いにつき、ひそかに<ruby><rb>有司</rb><rt>ゆうし</rt></ruby>へ<ruby><rb>具陳</rb><rt>ぐちん</rt></ruby>した。

その結果町奉行の手入れとなり、玄卿邸の茴香畑は、人足の手によって掘り返された。はたして幾人かの男女の死骸が、土の下から現われた。で玄卿は召し捕られ、間もなく<ruby><rb>磔刑</rb><rt>はりつけ</rt></ruby>に処せられた。

だが邪教水狐族の、秘密の道場へつづいていた、地下の長い横穴については、事実大槻玄卿も、知っていなかったということである。では恐らくその穴は、ずっと昔の穴居時代などに、作られたところの穴かも知れない。

だがマアそれはどうでもよかろう。

さて鏡葉之助は、それからどんな生活をしたか？

「いつまでも年を取らないだろう。……永久安穏はあるまいぞよ」

水狐族の<ruby><rb>長</rb><rt>おさ</rt></ruby>久田の<ruby><rb>姥</rb><rt>うば</rt></ruby>が、末期に臨んで呪った言葉――この通りの生活が、葉之助の身には繰り返された。

彼はいつまでも若かった。心がいつも不安であった。

今日の言葉で説明すれば、強迫観念とでも云うのであろう。絶えず何者かに駈り立てられていた。

そうしてかつて高遠城下で、夜な夜な辻斬りをしたように、またもや彼は江戸の市中を、血刀を提げて毎夜毎夜、<ruby><rb>彷徨</rb><rt>さまよ</rt></ruby>わなければならないようになった。

<ruby><rb>八山下</rb><rt>やつやました</rt></ruby>の夜が<ruby><rb>更</rb><rt>ふ</rt></ruby>けて、品川の海の浪も静まり、<ruby><rb>高輪</rb><rt>たかなわ</rt></ruby>一帯の大名屋敷に、灯火一つまばたいてもいず、遠くで吠える犬の声や、手近で鳴らす拍子木の音が、夜の深さを思わせる頃、急ぎの用の旅人でもあろう、<ruby><rb>小田原提灯</rb><rt>おだわらぢょうちん</rt></ruby>で道を照らし、二人連れでスタスタと、東海道の方へ歩いて行った。

と、木陰から人影が出た。

無紋の黒の着流しに、お<ruby><rb>誂</rb><rt>あつら</rt></ruby>い通りの覆面頭巾、何か物でも考えているのか、<ruby><rb>俯向</rb><rt>うつむ</rt></ruby>きかげんに肩を落とし、シトシトとこっちへ歩いて来た。

と、双方行き違おうとした。

不意に武士は顔を上げた。

つづいて<ruby><rb>右手</rb><rt>めて</rt></ruby>が刀の柄へ、……ピカリと光ったのは抜いたのであろう。「キャッ」という悲鳴。「ワーッ」と叫ぶ声。つづいて再び「キャッ」という悲鳴。……地に転がった提灯が、ボッと燃え上がって明るい中に、斃れているのは二つの死骸。……斬り手の武士は数間の<ruby><rb>彼方</rb><rt>あなた</rt></ruby>を、影のようにションボリと歩いていた。

他ならぬ鏡葉之助であった。

浅草の観世音、その境内の<ruby><rb>早朝</rb><rt>あさまだき</rt></ruby>、茶店の表戸は<ruby><rb>鎖</rb><rt>と</rt></ruby>ざされていたが、人の歩く足音はした。<ruby><rb>朝詣</rb><rt>あさまい</rt></ruby>りをする信者でもあろう。

一本の<ruby><rb>公孫樹</rb><rt>いちょう</rt></ruby>の太い幹に、背を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もたせ</span>かけて立っているのは、<ruby><rb>編笠姿</rb><rt>あみがさすがた</rt></ruby>の武士であった。

一人の女がその前を、<ruby><rb>御堂</rb><rt>みどう</rt></ruby>の方へ小走って行った。

武士がヒョロヒョロと前へ出た。居合い腰になった一瞬間、日の出ない灰色の空を切り、紫立って光る物があった。とたんに「キャッ」という女の悲鳴。首のない女の死骸が一つ、前のめりに転がった。ドクドクと流れる切り口からの血！　深紅の水溜りが地面へ出来た。

だが斬り手の武士は、公孫樹の幹をゆるやかに廻り、雷門の方へ歩いて行った。鳩の啼き声、<ruby><rb>賽銭</rb><rt>さいせん</rt></ruby>の音、何んの変ったこともない。

両国橋の真ん中で、斬り仆された武士があった。

笠森の茶店の<ruby><rb>牀几</rb><rt>しょうぎ</rt></ruby>の上で、脇腹を突かれた女房があった。

千住の<ruby><rb>遊廓</rb><rt>くるわ</rt></ruby>では<ruby><rb>嫖客</rb><rt>ひょうかく</rt></ruby>が、日本橋の往来では商家の手代が、<ruby><rb>下谷池之端</rb><rt>したやいけのはた</rt></ruby>では老人の易者が、深川木場では荷揚げ人足が、本所<ruby><rb>回向院</rb><rt>えこういん</rt></ruby>では僧が殺された。

江戸は――大袈裟な形容をすれば、恐怖時代を現じ出した。

南北町奉行が大いに<ruby><rb>周章</rb><rt>あわ</rt></ruby>てて、与力同心岡っ引が、クルクル江戸中を廻り出した。

どうやら物盗りでもなさそうであり、どうやら意趣斬りでもなさそうであり、云い得べくんば<ruby><rb>狂人</rb><rt>きちがい</rt></ruby>の刃傷、……こんなように思われるこの事件は、有司にとっては苦手であった。

で容易に目付からなかった。

まさか内藤家の家老の家柄、鏡家の当主葉之助が、辻斬りの元兇であろうとは、想像もつかないことである。

だがやがてパッタリと、辻斬り沙汰がなくなった。

内藤駿河守が江戸を立って、伊那高遠へ帰ったからであった。

だが内藤家の行列が、塩尻の宿へかかった時、一つの事件が突発した。と云っても表面から見れば別に大したことでもなく、鏡葉之助が<ruby><rb>供揃</rb><rt>ともぞろ</rt></ruby>いの中から、にわかに姿を<ruby><rb>眩</rb><rt>くら</rt></ruby>ましただけであった。

鏡家は内藤家では由緒ある家柄、その当主が逃亡したとあっては、うっちゃって置くことは出来なかった。

八方へ手を分けて捜索した。しかし行方は知れなかった。

三〇

彼はいったいどうしたのだろう？　いったいどこへ行ったのだろう？

彼は八ヶ嶽へ行ったのであった。

彼は母山吹の<ruby><rb>故郷</rb><rt>さと</rt></ruby>！　<ruby><rb>彼</rb><rt>か</rt></ruby>の血統窩人の部落！　信州八ヶ嶽笹の平へ、夢遊病者のそれのように、フラフラと歩いて行ったのであった。

塩尻から岡谷へ抜け、高島の城下を<ruby><rb>故意</rb><rt>わざ</rt></ruby>と避け、山伝いに湖東村を通り、北山村から玉川村、本郷村から阿弥陀ヶ嶽、もうこの辺は八ヶ嶽で、<ruby><rb>裾野</rb><rt>すその</rt></ruby>がずっと開けていた。

三日を費やして<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>り着いた所は、笹の平の盆地であった。

<ruby><rb>以前</rb><rt>まえかた</rt></ruby>訪ねて来た時と、何んの変わったこともない。窩人達の<ruby><rb>住居</rb><rt>すまい</rt></ruby>には人気なく、宗介天狗の<ruby><rb>社殿</rb><rt>やしろ</rt></ruby>には裸体の木像が立っていた。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">まじまじ</span>と照る陽の光、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こうこう</span>と鳴く狐の声、小鳥のさえずり、風の音、深山の<ruby><rb>呼吸</rb><rt>いき</rt></ruby>が身に迫った。

しかし一人の窩人達も、そこには住んでいなかった。

葉之助は拝殿へ腰をかけ、四辺の風物へ眼をやった。

と、その時聞き覚えのある、男の声が聞こえて来た。

「猪太郎、猪太郎、よく参った」

拝殿の奥の木像の蔭から、一人の人物が現われた。白衣長髪の白法師であった。

「おおあなたは白法師様」葉之助は立って<ruby><rb>一揖</rb><rt>いちゆう</rt></ruby>した。

「<ruby><rb>大概</rb><rt>たいがい</rt></ruby>来るだろうと思っていたよ」

葉之助と並んで白法師は、拝殿の縁へ腰をかけた。

「どうだ葉之助、昔の素姓が、ようやくお前にも解ったろう」

「はい、ようやくわかりました。……母は窩人で山吹と云い、父は里の商人で、多四郎と云うことでございます」

「だが多四郎の後身が、大鳥井紋兵衛だとは知るまいな」

「えっ」と葉之助は眼を<ruby><rb>瞠</rb><rt>みは</rt></ruby>った。「あの紋兵衛が私の父で？」

「そうだ」と白法師は頷いた。「詳しく事情を話してやろう」

そこで白法師は話し出した。

多四郎が山吹を<ruby><rb>瞞</rb><rt>だま</rt></ruby>したこと、山吹が猪太郎を産んだこと、多四郎に怨みを返そうと、山吹が猪太郎の二の腕へ、二十枚の歯形を付けたこと、多四郎の真の目的は、宗介天狗の木像の、黄金の甲冑を盗むことで、それを盗んだ多四郎は、それを<ruby><rb>鋳潰</rb><rt>いつぶ</rt></ruby>して売ったため、にわかに富豪になったこと、その甲冑を取り返すため、窩人達が人の世へ出て行ったこと、こうして多四郎の紋兵衛は、間接でもあり偶然でもあるが、とにかく葉之助に殺されたこと。さて窩人は葉之助の手で、多四郎の命は絶ったけれど、宗介天狗の甲冑を、取り返すことは出来なかったので、故郷八ヶ嶽へは帰ることが出来ず、今も諸国を流浪していること。――

これが白法師の話であった。

「久田の<ruby><rb>姥</rb><rt>うば</rt></ruby>の執念は、私の力でもどうすることも出来ない。で、お前はいつまでも若く、いつまでも不安でいなければならない。……だがこれだけは教えることが出来る。お前はお前の力をもって久田の姥の執念を、あべこべに利用することが出来る」

「あべこべに利用すると申しますと？」葉之助は反問した。

「それは自分で考えるがいい」

白法師と別れ、八ヶ嶽を下り、人里へ出た葉之助は、高遠城下へは帰らずに、<ruby><rb>何処</rb><rt>いずこ</rt></ruby>とも知れず立ち去った。

<ruby><rb>爾来</rb><rt>じらい</rt></ruby>彼の消息は、<ruby><rb>杳</rb><rt>よう</rt></ruby>として知ることが出来なかった。

時勢はズンズン移って行った。

天保が過ぎて弘化となり、やがて嘉永となり安政となり、万延、文久、元治、慶応、そうして明治となり大正となった。

この物語に現われた、あらゆる人達は一人残らず、地球の表から消えてなくなり、その人達の<ruby><rb>後胤</rb><rt>こういん</rt></ruby>ばかりが、残っているという事になった。

しかし本当に久田の姥の、あの恐ろしい呪詛の言葉が、言葉通り行われているとしたら、主人公の鏡葉之助ばかりは、依然若々しい容貌をして、今日も<ruby><rb>活</rb><rt>い</rt></ruby>きていなければならない。

だが<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">そんな</span>事があり得るだろうか？

あらゆる不合理の迷信を<ruby><rb>排斥</rb><rt>はいせき</rt></ruby>している科学文明！　それが現代の社会である。スタイナッハの若返り法さえ、怪しくなった今日である。天保時代の人間が、活きていようとは思われない。

三一

大正十三年の夏であった。

私、――すなわち国枝史郎は、数人の友人と連れ立って、日本アルプスを踏破した。

三千六百〇三尺、奥穂高の登山小屋で、愉快に一夜を明かすことになった。

案内の<ruby><rb>強力</rb><rt>ごうりき</rt></ruby>は佐平と云って、相当老年ではあったけれど、ひどく元気のよい男であった。

「こんな話がありますよ」

こう云って佐平の話した話が、これまで書きつづけた「八ヶ嶽の魔神」の話である。

「ところで鏡葉之助ですがね、今でも活きているのですよ。この山の背後蒲田川の<ruby><rb>谿谷</rb><rt>たにあい</rt></ruby>、二里四方もある大盆地に、立派な窩人町を建てましてね、そこに君臨しているのです。決して嘘じゃあありません。もし何んならご案内しましょう。もっとも町までは行けません。四方が非常な断崖で、下って行くことが出来ないのです。せいぜいその町を眼の下に見る、十石ヶ嶽の中腹ぐらいしか、ご案内することは出来ますまい。……とても立派な町でしてね、洋館もあれば電灯もあり、人口にして一万以上、ただし外界とは交通遮断、で、自然詳しいことは、知れていないという訳です」

「だが」と私は訊いて見た。「いつどうして葉之助が、そんな所へ行ったんだね」

「明治初年だということです。漂浪している窩人の群と、甲州のどこかで逢ったんだそうです。もちろんその時は窩人達は、幾度か代が変わっていて、杉右衛門も岩太郎も死んでしまい、別の杉右衛門と岩太郎とが、引率していたということですがね。そこで葉之助は云ったそうです。ありもしない宗介の甲冑など、いつまでも探すには及ぶまい。窩人――もっともその頃は、<ruby><rb>山窩</rb><rt>さんか</rt></ruby>と云われていたそうですが、――山窩、山窩と馬鹿にされ、世間の人から迫害され、浮世の裏ばかり歩くより、いっそ一つに塊まって、山窩の国を建てた方がいいとね。……そこで皆んなも賛成し、鏡葉之助の指揮に従い、奥穂高へ行ったのだそうです」

私の好奇心は燃え上がった。で、翌日案内され、十石ヶ嶽まで行くことにした。

道は随分<ruby><rb>険</rb><rt>けわ</rt></ruby>しかったが、それでもその日の夕方に、十石ヶ嶽の中腹まで行った。

眼の下に広々とした<ruby><rb>谿谷</rb><rt>たに</rt></ruby>があり、夕べの<ruby><rb>靄</rb><rt>もや</rt></ruby>が立ちこめていた。しかしまさしくその靄を破って、無数の立派な家々や、掘割に浮かんでいる船が見えた。そうして太陽が没した時、電灯の輝くのが見て取れた。

夢でもなければ幻でもなかった。

彼らの国があったのである。

噂によれば、<ruby><rb>金木戸川</rb><rt>きんきどがわ</rt></ruby>の上流、<ruby><rb>双六谷</rb><rt>すごろくだに</rt></ruby>にも人に知られない、相当大きな湖水があり、その周囲には、水狐族の、これも立派な町があり、そうして依然二種族は、憎み合っているということである。

いつまでも活きている鏡葉之助、人間の意志の<ruby><rb>権化</rb><rt>ごんげ</rt></ruby>でもあり、宇宙の真理の象徴でもある。

永遠に活きるということは、何んと愉快なことではないか。

しかし永遠に活きるものは、同時に永遠の受難者でもある。

そうしてそれこそ本当の、偉大な人間<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">そのもの</span>ではないか。

それはとにかく私としては、自分自身へこんなように云いたい。

「ひどく浮世が暮らしにくくなったら、構うものか浮世を振りすて、日本アルプスへ分け上り、山窩国の中へはいって行こう。そうして葉之助と協力し、その国を大いに発展させよう。そうして小<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うるさい</span>社会と人間から、すっかり逃避することによって、楽々と<ruby><rb>呼吸</rb><rt>いき</rt></ruby>を<ruby><rb>吐</rb><rt>つ</rt></ruby>こうではないか」と。

私の故郷は信州諏訪、八ヶ嶽が東南に見える。

去年の秋に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たった</span>一人で、笹の平へ行って見た。天保時代の建物たる宗介天狗の拝殿も、窩人達の住居もなかったが、その<ruby><rb>礎</rb><rt>いしずえ</rt></ruby>とも思われる、幾多の<ruby><rb>花崗石</rb><rt>みかげいし</rt></ruby>は残っていた。

その一つへ腰を下ろし、<ruby><rb>瞑想</rb><rt>めいそう</rt></ruby>に<ruby><rb>耽</rb><rt>ふけ</rt></ruby>ったものである。

秋の日射しの美しい、小鳥の声の遠く響く、<ruby><rb>稀</rb><rt>まれ</rt></ruby>に見るような晴れた日で、枯草の香などが匂って来た。

「静かだなあ」と私は云った。

不幸な恋をした山吹のことが、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しきり</span>に想われてならなかった。

多四郎の不純な恋に対する、憤りのようなものが湧いて来た。

「浮世の俗流というものは全くもって始末が悪い。天狗の甲冑を盗むばかりか、乙女の心臓をさえ盗むんだからなあ」などと感慨に耽ったりした。

（完）