Soranoha

『健康会議』創作選評

『けんこうかいぎ』そうさくせんひょう

宮本 百合子

十篇の応募作品をよんだ。出来・不出来はあるにしろ、そのどれもを貫いて流れているのは、日本の結核療養に必要な社会施設のとぼしさと、そこからおこる闘病の苦しく複雑な現実の思いである。ベティー・マクドナルドというアメリカの婦人作家が書いている「病気と私」の明快さ、諷刺をふくむ明るさが、鋭い対照をもって思い浮ぶようないまの日本の闘病の現実が描かれている。

悲劇の原因として文学作品に結核が描かれるようになったのは、そう遠いことではない。シュニツラーの「みれん」森鴎外訳。小デュマの「椿姫」、日本の「不如帰」徳富蘆花。そして、これらの悲劇は、当時のヨーロッパでさえも結核という病気については、ごくぼんやりした知識しかもたれていなかったことを語っている。肺結核にかかった主人公ヒロー、女主人公ヒロインたちは、こんにちの闘病者たちには信じられない非科学性で病気そのものにまけてゆき、やがて、社会の偏見にいためつけられきって、命をおとしている。

トーマス・マンの「魔の山」は、スウィスの豪奢な療養所内の男女患者の生活を描いているが、この手のこんだ心理小説も、結核とたたかう地道じみちな人々の人生を語るものではない。

わたしが、これをかいている机の上にのっている十篇の原稿は、これらの有名なむかしの小説と現代の結核についての認識の間にはっきりとした歴史のあゆみがあることをくりかえしている。これらの作品の中で、結核と戦争、民衆生活の貧困、療養のための社会施設との関係が見おとされているのは一つもない。人類の社会が、より健康に、より少い悲惨をもって営まれるために、結核菌はどのような方向で征服されてゆかなければならないかということが、すべての作品の底を流れて語られているのである。そういう意味でこれらの作品は、あたりまえの文学作品一般をよむ目とは、いくらかちがった角度からよみとられていいと思う。すなわち、結核に対する人間の新しい態度――より科学的により社会的に、人間を不幸にするこの細菌は退治られなければならないという態度をめやすとしていいと思う。気分や、雰囲気から描かれているばかりでなく。――

「白い激流」    伊東千代子

「細い腕」     鈴木茂樹

これら二篇の中「白い激流」は、結核におかされた人々の発病原因となった生活事情、発病のためにおこって来る愛の破綻、療養の方法を発見するための意志的な努力など、すべての闘病者に共通な課題にふれて語っている。文学作品とするとかたい。けれども、感情に正常な健全さがある。

「細い腕」は「白い激流」が終っているあとにつづく闘病者の現実、療養所内の自治会活動についてあらわれている現実の細目とでもいうべき題材である。誠実な心情がうけとれる。作者は、しかし、人道的であり集団的活動の熱意をもって働いている主人公のありかたについて、もう一つ深めてみてもよかったと思う。主人公の僚友に対する責任感が、自身患者であるその人個人の安静の犠牲によって果されるしかないという療養所内の現実が、もっと読者に省察させるモメントとし、とらえられてよかった。

「縫い音」     関としを

「やもめ倶楽部」  赤城草之介

「縫い音」は、ひろく共感を誘う妻のシチュエーションであるけれども、書き出しの女性らしい文章の体質と、すこしあとの方の文章と、どこかちがって来ているのは、どうしてだったろう。後半いまの風俗小説風の世相が女主人公の生活にふれて来てから、最後のむすびに到る間に、作者は一歩女主人公の心の内にせまって、たたかう心を見まもるべきであった。そこにこの小説のテーマがより深められ、じみちな生活のたたかいによって病む夫への愛の誠実さをこめて女主人公の人生に対する生きかたの選択が語られるはずであった。その点を作者ははっきりつかんでいない。抒情的にまとめられたのは却って弱くしている。

「やもめ倶楽部」には、闘病者が永年の間に経済問題から家庭を失ってゆく過程と心理とが描かれてゆく。これも、実に多いケースの物語であろうと思う。病者の孤独、そこにこもって孤独に耐えようとすることから主我的になってゆく心。孤独は「宿命」であるとして観念的になってゆく存在が、一つの転機をもって、孤独なもの同士のクラブをつくって人間らしさをとりもどしてゆこうとする。村田という病む人物と妻美津子との切ない関係は「縫い音」と対蹠する。村田の生きようとしてすさまじくなった心理も描かれている。この作品にも他の作品にもリルケの詩を愛読することがかかれている。その文学趣味のありかた本質について、作者は考えて見てよいのではないだろうか。

「秋空」      三津木静

「春龍胆」     若宮ふみ子

「何日かは春に」  大橋重男

「秋空」は、まとまっているけれども、後半で女主人公が、自分からはなれたはじめの愛人吉村の心にもどってゆく、その心の過程が、感情の推移を語るにとどまっている。こういう場合、女主人公の吉村に対する心、自省、人間の生きてゆく態度について、より深い省察があると思う。よろこびとハッピーエンドにとどまるのは残念である。

「春龍胆」柔かく抒情的にまとまっている。「何日かは春に」も、素朴だけれども、結核の治癒の可能についての、明るい善意がある。二篇とも、ストレプトマイシンが無料で闘病者のベッドに訪れて来る日を待っているのは、心をうたれる。ストレプトマイシンが療養所でつかわれる日を「何日かは春に」と待っているひとは、日本じゅうに、どれほどいるだろう。

「可哀そうな権力者」ひとつぎ・たかし

ここにかかれているまででは不十分である。権力者のきたないからくりを見すかしながら、みすかしてひとまずそれに流されている自分なのだ、という自覚から安易になっている。

「夫婦再婚」

夫の発病によって新しい愛が妻との間にめぐむいきさつは、もっとしっくりとした筆致で描かれてよい。粗暴であった夫がやさしい夫となる、その動機に、エゴイズムがあるかないか、主人公は考えてみてよい。

「終りなき調べ」  米田鉄美

多勢ひとの集る療養所に、たまたまこの作品のような偶然もあるかもしれない。作者はそのめずらしい偶然をロマンティックにまとめすぎた。〔一九五一年一月〕

底本 / Source edition

底本:「宮本百合子全集 第十三巻」新日本出版社
1979(昭和54)年11月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十一巻」河出書房
1952(昭和27)年5月発行
初出:「健康会議」
1951(昭和26)年1月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年4月23日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

この表示について / About this rendering

記録は下にリンクした署名済みの TEI ファイルです。このページはそれを読むための一つの形です。読みが複数ある箇所は一つだけを本文に示し、もう一方は語の title に残しています。 / The record is the signed TEI file linked below. This page is one way of reading it. Where the text has more than one reading, the page shows one of them and keeps the other on the word itself, in its title text.

リリース / Release
913b24012e1626b47bebf5a14fd31773728229efdb088f1ceb934717c1ac800c
TEI
/works/003024_000311/tei
プレーンテキスト / Plain text
/works/003024_000311/plaintext
書誌 / Bibliography
/works/003024_000311/

宮本 百合子「『健康会議』創作選評」(新字新仮名)、底本『宮本百合子全集 第十三巻』新日本出版社、1979年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 003024_000311, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

引用のしかた / How to cite