Soranoha

五〇年代の文学とそこにある問題

ごじゅうねんだいのぶんがくとそこにあるもんだい

宮本 百合子

一

十二月号の雑誌や新聞には、例年のしきたりで、いくたりかの作家・評論家によって、それぞれの角度から一九四九年の文壇が語られた。その一年に注目すべき作品を生んだ作家たち、明日に属望される新人も、作品に即してあげられた。

これらのしめくくりは、しかし、去年という三百六十五日の間にわたしたちが生活と文学との肌身へじかにうけて生きて来た激しい暑さ、さむさ、ほこりっぽい複雑さのいろいろを、その深さ、その多面なひろがりそのものにおいて整理したものであると言えたであろうか。少くともわたしは、どこかくさびのぬけた概括が多かったと感じる。そこにあるはずの問題がちゃんとおもてにとり出して、うけるだけの扱いをうけていないように思える。去年の花床として、見わたしておもてに見える高低だけ言われている土のなかには、その花が咲いたら面白いだろうと思う球根が、いくつか放ったらかしになっている。そんな風にも感じる。そして、この感じは、まとめて表現しにくいままに、案外ひろく人々の心のどこかでは感じられている実感ではなかろうかと思う。

一九四九年は、いい年でなかった。戦後四年めになって、日本の社会と文化とは、権力がのぞんでいる民主化抑圧の第四の時期を経験した。ワン・マン彼自身が国際茶坊主頭である。茶坊主政治は、護符をいただいては、それを一枚一枚とポツダム宣言の上に貼りつけ、憲法の本質を封じ、人権憲章はただの文章ででもあるかのように、屈従の鳥居を次から次へ建てつらねた。

おととしの十二月二十日すぎに、巣鴨から釈放されて、社会生活にまぎれこんで来た児玉誉士夫、安倍源基らの人々の氏名経歴を思い出して見れば、それにつづく一九四九年の権力が、そのかげにどんな要素をよりつよく含むようになったかということはおのずから明白でなければならない。過去三年間の経験では、まだ日本の人々の間に民主的な生活感情が確立しかねていたうちに、既成の勢力は全力をつくして、一応はびこることに成功した。一九四九年が、国内的に誰にとってもいい年でなかったという現実は、日本の民主主義運動のやりかたや、解放運動の科学的な理論の骨格そのものについて沈潜した再検討を必要とする人々の気持のモメントともなっている。

この荒い波は、直接間接文学に影響を与えずにいなかった。言論機関としてのジャーナリズムがつよい統制、整備のもとにおかれたのは一九四八年からだったが、その方法は、昔からみると比べものにならず技術的であった。ゴロツキ新聞の排除、用紙配給の是正、購読者の要求への即応という掘割をとおって、戦後の小新聞は、民主的な性格のものをふくめて、大企業新聞に吸収された。そして、一九四九年の秋の新聞週間には「新聞のゆくところ自由あり」と、記者たち自身にとってもけげんであろうような標語が示された。日配の解体、再編成は、集中排除法という経済面から強行されて、三ヵ月以上にわたった出版界の経済封鎖の過程では、大出版企業者をのぞく、すべての出版事業がいちじるしい危機にさらされた。こんにち揺がない大出版企業の代表者たちが、文化上どのような性質をもつ存在であるかということは、渡米ラッシュの各界代表選出にさいして、出版界だけが人選にゆき悩んでいる実状に語られている。

一九四九年度の文学現象の特質は、このつくられた恐慌の裏づけぬきに観察されない。「所謂戦後派と言われたヨーロッパ的小説方法の実践者の運動が、出版景気の減退に伴って不利になって来た」(日本文芸家協会編『創作代表作選集』第四の序文――伊藤整)不利は、物的事情にとどまらず、業者とその気分に雷同する一部の作家間に、もうアプレ・ゲールでもないだろう、と咲きのこりの昼顔でも見るような態度をひきおこした。皮肉なことは、戦後派とよばれた近代文学同人たちの大部分が、前年の下半期から一九四九年をとおして、インテリゲンチャとしてそれぞれに着目すべき社会的文学的前進を行っていたことである。個人主義の開花時代の近代ヨーロッパの文学精神を、日本で窒息させられていた「自我」「主体」の確立の主張の上に絵どる段階から成長して来て、日本の社会現実のうちで自我を存在させ発展させるそのことのためにも、日本ではすべての市民に共通な基本的な人権の擁護が必要であることが把握されはじめた。世界ファシズムと戦争挑発に対する抵抗を組織することが、世界人民の歴史の課題であり、世界文学につながる日本の文学の新しい世紀の精神であることが実感されて来て、そのための実践も着手されていたのである。

したがって、出版恐慌を理由として、これらの戦後派の先輩たちがジャーナリズムの上にうけた不利――すなわち、社会的文学的発言の範囲の縮小の本質は、とりもなおさず、理性に立つ現実探求の精神の主張、国の内外のファシズムと戦争挑発に対する抗議と抵抗の削減であった。

この方法が成功したことは、一部の作家にとって、寒心すべきことでもなかったし、未来のために警戒するべきことともうけとられていない。むしろ、既成勢力の安定感として感じとられている。『群像』十二月号の創作月評座談会で、林房雄が、深刻ぶり、ということについて語っている気分、ポーズに、はっきりあらわれている。自己陶酔と独善にうるさい覚醒をもとめてやまない近代精神、理性へのよび声そのものが、この種類の作家たちには気にそまない軽蔑すべきことであるのだろう。

過去三年の間、戦争に協力したという事情から消極な生活にあった作家群が、一九四九年に入ってからは、顔をそろえてぞっくりと登場した。むかし『新潮』などの慣例であった月評座談会の形式が『文学界』その他に新しい文学行政的顔ぶれで復活した。その席では、二十世紀のこの時期に動いている世界社会の苦悩、相剋、発展へのつよい意欲とその実験にかかわる文学の、原理的な諸問題について究明される態度は全く消された。印象批評と放談のうちに、ジャーナリズムと読者とに対するある種のデモンストレーションが行われ、批評は個々人の印象批評にとどまった。よかれ、あしかれ、日本の民主主義文学の運動にふれたり、それをまともに論議したりすることは、語り手自身のファッション・ショウめいているそのような場面ではもう流行はずれアウト・オブ・ファッションの気風がつくられた。民主的評論家は沈黙し、ジャーナリズムが釣り出した新人でない若い作家のための場面のゆとりは奪われた。次の戦争に利用することのできる八千五百万の人口と計算されているその日本の人民の数のうちに在りながら、野暮な詮議はどこかのひと隅へおしこんで、望月のかけるところない群々の饗宴がつづいた姿だった。(民主主義の文学運動が一九四九年に入ってのびのびと展開しなかった理由には、このような外部からの事情にからんできわめて複雑で、興味の深い研究課題が内在している。それは、こんにちの政治と文学、政治の優位性と云われるもの、性格に関する問題であって、その点は別項でふれて見たい。)

二

前年までの肉体文学は、よりひろい風俗文学、中間小説とよばれる読よみもの小説の氾濫に合流した。これらの文学は、戦争中、こぞってそのほとんどが戦争肯定をしていたように、きょうはきょうなりのなまぐさい風のまにまに、こまかく深く考えること無用。自分から頭と心を働かして現実を眺めること無用。ラジオの娯楽版、大人と子供の世界をひたす漫画とともに、愚民教育の掘割の幅をひろげた。一九四九年に、この近代擬装エナメルの色どりはげしいギラギラした流れの勢が、どのように猛烈であったかについて『人間』十二月号の丸山真男・高見順対談の中で、高見順が次のように云っている。

「芸術家の方も自重しませんと……。終戦後のわれわれの恥を云えば、作家の態度が、一種のセンセーショナリスムをねらうみたいになってしまってね。人の魂に小さな声で囁きかけてゆくのでは駄目で、往来の真ン中で、わあッと大声をあげる式でないと、声が聴えないのです。そのかわり大きな声をたくさん出せればいいわけです。明治以来こんなことは、はじめてでしょう。こんなに作家が大声をあげれば、あぶく銭がとれるのも、初めてのことでしょう。」「菊池寛と大臣の台所の費用が同じだと云って、文士も偉くなったとほめられたものでしたが、今は大臣以上ですからね、大きな声を出しさえすれば……。」

風俗小説が、その世相複写の一定の限界に達してくれば、それらの作者の生活範囲での種さがしと、センセーショナルな事件をあさる職業心理はさけがたいだろう。一九四九年は、この面でも、これまでの文学の場面にはなかった奇怪なモデル出入りが発生した。その代表的なものは井上友一郎の「絶壁」に関連する事件であった。一般の読者は自然にあの一篇の小説をよんだ。そして、なぜこの節は「晩菊」にしろ、女の肉体の老いと社会的野心或は金銭の慾のくみ合わせが、その本質の陳腐さにかかわらず、作者の興味をひくのだろうかと、人工的な照明の下にあやつられている「絶壁」の男女の姿を眺めたにすぎなかったと思う。ところが、不思議なことに、その作品のモデルだとみずから名乗って作品のその醜さが当事者たちの名誉を毀損する、法律に訴えると、ジャーナリズムに大きな声をあげた男女の作家があらわれた。

他人にわからない文壇生棲間のもつれでもあってのことだろうが、この全く非文学的なセンセーションは作者が希望するしないにかかわらず「絶壁」を問題作とする一助となり、モデルであると名のり出た人々を脚燈の前に立たせた。

センセーショナリズムに対して抵抗を失った風俗文学の条件反射は、人情と芸大事の宗匠、里見弴や久保田万太郎などまでをいつかその創作のモティーヴのとらえかたにおいて影響しているように見える。由起しげ子の小説「警視総監の笑い」のモデルであったという老紳士が鎌倉で自殺した事件がおこった。鎌倉に住む作家で、その老紳士と交際のあったらしい里見弴、久保田万太郎に『読売』がインタービューしたとき、作家の立場として、由起しげ子の小説と結びつけてさわぎにすることの間違いは力説されなかった。久保田万太郎は、「近く『あきしお』という小説をかいてその人の霊に捧げようと思う」と語り、里見弴は、「その死がなんのためだかわからないが、『沖』という小説を近く発表する」と各自、事件につながる自作予告をした。

センセーショナリズムは、内剛外屈の吉田内閣が民主化すてながしの一九四九年度筋書として極端にまで使用した方法でもあった。政治と文化とを一貫して、世相を押しきったこのような潮流は、一九四九年度の毎日文化賞の準備調査、読売新聞社の良書ベスト・テンの調査などで、諸々批判のおこっている永井ものがトップをしめ、「宮本武蔵」や「親鸞」「風とともに去りぬ」「細雪」「流れる星は生きている」などが多くの票を占めるという結果をもたらした。毎日文化賞の準備調査では、文学の部で「親鸞」がトップであったが、詮衡委員会は「中島敦全集」をおした。

ところで、注目されることは、いわゆる風俗文学の作者たち、中間小説と称するよみものがかけないものは文学上の半人足であるとするような作家たち自身が、他の半面では、いわゆる純文学とよばれて来た本当の文学に恋着を示している点である。これらの作家たちは、月評や文学談のなかでは、文学の本質がわかっている文学者として自身をあらわそうとしている。そのために、こんにちの文学の現象はいっそう混乱して、商業ジャーナリズムの大半を占め、紙数をより多く占めて発言している中間作家、風俗作家の文学論が、さながら文学論であるかのようにあらわれている。

私小説を否定しながら、純文学を語るこれらの人々は、広津和郎の「ひさとその女友達」に対する林房雄の評を見てもわかるように、政治臭をきらうことで共通している。中間小説が、社会小説であり得ないこの派の作家たちの本質に立って。

しかしながら、そのまた他の一面ではファシズムに反対し、戦争挑発をしりぞけるための「知識人の会」に名をつらね、作家そのものの道に立って平和を守ろうとする川端康成の提案を支持してもいるのである。

高見順との対談で丸山真男が「物質的な面ではそうですけれども(文士も偉くなった)社会的な価値とか、役割とかではやはりアウト・ロウ的でしょう」と云い、高見順がそれを肯定して「全然アウト・ロウです」と答えているのは、高見順にとっては自然な答えであったにしろ、中間小説作家たちの現実でもないし、実感でもないだろう。社会性を失った「純文学」とよばれる創作方法に対して、林房雄、富田常雄を筆頭とする中間小説の作家たちは、「純文学とか大衆文学とかいう色わけがなくなってしまうのが当然」であるとして、現在自分たちの書いている文学が「大衆の生活にたのしみを与え、豊かにし、また生きてゆく上でのなにか精神のよりどころのようなものを提供するこそ」目標であり「『罪と罰』『ボヷァリー夫人』『女の一生』『凱旋門』に通じる道がひらけるにちがいないと確信する」人々である。これらの人々に新聞社は、講和問題に関するアンケートなどもおくっている。『読売新聞』の集めた範囲で作家たちの答えは全面講和の要求だった。

批評家は、一九四九年のこの錯雑混沌とした文学と文学者のありように対して、どうして、ただ押しまくられているしかなかったのだろうか。「また、いつかはそれをやりとげないでは(「罪と罰」やその他の作品に通じる道がひらける、ということ)結局、羊頭をかかげて狗肉を売るそしりをまぬかれないだろう」(文芸家協会編『現代小説代表選集』第五――田村泰次郎)というのなら、まず文学そのものとして狗肉である現在のジャーナリズムへの商品を一応ひっこめることから実行されるべきこと。大衆の運命は性の欲望と肉体の好奇心のうちだけで存在しているのではないということを認識すること。精神のよりどころを与えるというならば、作者自身が、従順な奴隷八千五百万とよばれている人口のうちにこめられていることを自覚して、ファシズムと戦争挑発に反対署名し、全面講和要求に署名したとしても、ジャーナリズムを通して強力にすすめられているエロティシズムの愚民政策の選手であることの矛盾について、はっきり日本の人民のために指摘してもよかったろう。

それが不可能であったということには、一九四九年において批評家自身、社会的問題と文学的問題とを統一的に把握しきらなかったという事実を告げることであると思う。

中野好夫は『新日本文学』十二月号に、一九四九年を次のように回顧している。

「過去一年をふりかえってみて私としてもっとも強い関心を感じることは、個々の法令、個々の規則ということよりも、それらの禁圧的法令、規則の脊後を通じて一貫している最近の政治動向そのものについてである。」「ここ一年以来の民自党政府のやり方には、もはや反共のラインをこえて、人間としての権利そのものへの侵犯としかみえないものがあらわれている。」「最近は、私自身の関するせまい職域の限りでも、いわゆるレッド・マークとか、学問の自由というような新しい問題まで発生してきている。」「学問の自由を剥奪することがいかに危険なことであるかは、先年来すでに苦しい経験ずみであるにもかかわらず、今日またしてもこのような問題がくりかえされなければならないということは、正直にいって情ないとでもいうより他はない。」「しかし問題は実はこの具体的事実の一つにあるのではないのである。このような、わかりきった情ない問題を、その一尖端として水面に露出させるところの見えない水面下の暗礁こそ問題なのである。」「だがわたしは絶望はしない。もしわれわれが本当に人間として基本的なものだけは守り通すという決意をもち、それが実践のためには牢獄と死をさえ辞せないだけの強い意志だけあれば、必ず我々はこのようなお調子にのった今日の右翼攻勢を粉砕しうる時はくる。」しかし、「戦術的には従来の共産党諸氏のやりかたには、与し得ない」として、左右両翼の反作用の時を、袖手傍観しないで促進するためにもと、世界人権宣言に改めて深い関心をよせている。

一九四九年の社会政治現象に対してこのような態度を示している中野好夫が、どうして、商業化している文壇的な創作月評座談会などで、弱気にならずにいられないのだろう。誰がよんでも、護持派の文学論法であり、それは彼の戦争協力、「大人の文学」論、人間と文学との基本的権利の抹殺行動につながる林房雄の論法に、だまって肯くという態度を示さなければならないのだろう。林房雄は、『群像』十二月の座談会で宇野浩二の「文学者御前会議」にふれている。

「一般に日本の私小説作家というものは、文学のために人生をすてている。だから女房のことでも、昔の借金のことでも、何でも文学にして売る。一番ひどいのは宇野浩二の『文学御前会議』で、あれは文学のために人生をすてた大作家の末路だ。」(以下略)「文学のために人生をすてているんだから、その致命的なものは、どうにもならない。中野さん、あなたはこれからも批評家として行くわけですが、このことは重要なことですよ」

中野 ……(肯く)

「文学者御前会議」につれて林が人生と云っているものが、まともな人生を意味するなら、宇野浩二のあの文章は、日本人の人生そのものに関して圧巻であった。昔、宇野浩二が書いた小説に、菊富士ホテルの内庭で、わからない言葉で互によんだり、喋ったりしながら右往左往しているロシアの小人こびとたちの旅芸人の一座を描いたものがあった。植込みや泉水のある庭のあちこちを動いたり、その庭に向っている縁側を男や女の小人こびとが考えたり、話したりして、彼らの人生をまじめにいそしんでいる姿が、宇野浩二一流の描写力で哀れにもユーモアにみちて描かれていた。

「文学者御前会議」は、宇野浩二のその小説をほうふつさせる。フランス文学者であり、アンティ・ファシストであり、アヴァンギャルドである豊島与志雄が、時代ばなれしたフロックコートの裾をひるがえし、シルクハットはなしで電車にのる描写から、すでにペソスがにじんでいる。行きついた場面では、すべての事のはこびが活人形いきにんぎょうを動かすようである。他人と比較されることのない風変りな日常習慣のうちで、人柄のある聰明さにかかわらず奇矯な癖をもっている天皇の動作、きいた風な宮のとりなし。かしこまってそこに連っている歌人・文学者たち一人一人の経歴が文学史的に細叙されているにつけ、つつしんでいる作者の描写が精密であればあるほど、そこにゴーゴリ風のあじわいが湧いて、読者は、全情景、登場人物などのすべてが、自分たちと同じ人間としての等身大をもっていない一つの世界のできごとを見ている感じにとらえられる。みんな小さく、いやにくっきり、ぎくしゃくかしこまっているなかに広津和郎が立って話しはじめると、急にそれは並の人間の体と声とに感じられる。この変化も宇野浩二の描写力のはからざる効果である。

若い評論家の藤川徹至はこの「文学者御前会議」を『アカハタ』の上で粗末に批難した。窪川鶴次郎の「偽証の文学」では、宇野浩二のリアリズムの矛盾をついている。その矛盾をふくみつつも、林房雄が、「文学者御前会議」をもって宇野浩二の私小説作家の末路としたのは、なおそのリアリズムに林房雄の欲しないゴーゴリ的な日本の人生の現実が造形されているからにほかならない。本来の日本ジャパン・プロパアのユーモラスであり腹立たしい人生が見せられたからである。佐藤春夫の「人間天皇の微笑」に対して林房雄は罵らないだろう。これらにはいかなる人生もないから。いわゆるふちの飾りしかないのだから。

文学らしい言葉で云われている林房雄のみことのりに、だまって肯く英文学者を前において、彼は更に首相の息子吉田健一の「英国の文学」を、推薦している。吉田健一は「イギリスの文学はイギリス人の生活のふち飾りとして、レースの如く美しくあらわれて来るという意味のことをかいていた。ところが、日本の私小説作家で、人生の方が文学のふち飾りでライフ・プロパア(本来の人生)が無視されている。僕が日本の私小説作家に大いに反対するのはそこなんです」

ステファン・ツワイクは伝記文学者として多くの仕事をしたが、彼の代表作「三人の巨匠」の中でもディケンズ研究は、最も重く評価されている。ディケンズの天才は、イギリスのみならず世界文学のほこりであるけれども、あれほどの彼の大天才もイギリス流の現実への妥協で終ったために遂に大成するに到れなかった、と云っている。そして、イギリスの独特な資本主義発達の過程はシェクスピアを生んだ環境そのものでディケンズの天才の羽根をおらせた。ゴールスワージーは、魅力ある作家だったけれども、彼の文学にも終点は「人生はこうしたものだ」“Life is such a thing”という言葉がある。ふち飾りである文学が、人類の歴史の進歩に大きく作用する力はなかった。十九世紀のイギリスのロマンティシズムがレルモントフに影響し、サッカレーやディケンズのリアリスムがトルストイなどに作用したにしても、その結果あらわれたロシアの六〇年代の小説と評論は、それが本来の人生の問題につき入っていたからこそ世界精神につよい響をつたえた。戦前、ヴァレリーの「ドガに就て」を訳して、名訳といわれた吉田健一という名を思いおこすと、こんにちの「英国の文学」だの、父親の代弁として、ユーモアのないところに思想はなく、だから文学はないという風なくちのききかたも、何となく中間小説作家流の本来の人生ライフ・プロパアの姿を語っているようでもある。

英文学者の中野好夫が、英国の文学は、人生のふち飾りなりの論に一言も交えず私小説反対に話の糸をつないでいるのは遺憾である。中野好夫は、牢獄も死も覚悟して、「意見と発表の自由に対する権利」をふくむ「人間として基本的なものだけは守りとおす決意をもって」いるのだから、社会的現象である文学の話で、意見をあらわしていいと思う。

中野好夫に意見と発表の自由に対する権利を十分発揮させなかったのは、彼の「私小説」否定のコンプレックスである。私小説の否定論そのものの本質、展望が、現在のところではまだ歴史性に立って確信的に把握されていないからであろうと思われる。

同じことが、同じ原因で三好十郎の「小豚派作家論」にあらわれていると思う。彼独特の発声法で、中間派作家とその作品を罵倒しながら、最後には、ひいきの尾崎一雄を、その「『アミ』がいくらか古めかしく」純粋になってしまって現代生活の流れに浮いた「アクタモクタの全部は尾崎のアミに引っかからなくなっている」という不平はとなえた方がよい、としている。はためにみれば、そもそも文学をはずれて繁栄している中間小説と、私小説がひとしお煮つまって一種のエッセイ風の作品となっている尾崎一雄の文学とを同列に語ることさえ、謂わば荒っぽいセンスである。「私小説の否定」というきょうの文学のやわたしらずの中で、三好十郎もまた吐くのは反吐へどという姿にある。「では誰のアミが現代のアクタモクタをホントにしゃくいあげることができるだろう? 田村泰次郎のアミがそれだなどと言う人があったら、失礼ながら私はひっくりかえって笑わなければならぬ云々」「戦争を自分のなま身でもって生き、通過して来た上で、作家としての自我と仕事を確立して行こうとしている人間」の言葉として、「田村が作家として意図しているところは、なっとく出来るし、なっとくしてやらなければならぬ。しかしあとがいけない」と田村の独善的な自己肯定にふれるならば、田村泰次郎一派の人々のいくらか文壇たぬき御殿めいた生きかたそのものや、そのことにおいていわれている文学的意図は、はったりに堕している事実や一方で彼がファシズムに反対し平和を守る側に立っていることでは大岡昇平の文学や「顔の中の赤い月」(野間宏)、「にせきちがい」(浜田矯太郎)とどんな実際関係にいるかという、花形一つの身にあつまっている矛盾、分裂の諸関係を彼のためにも、読者のためにも客観的に整理して示さなければならないのではなかろうか。

だが、「誰のアミが現代のアクタモクタをホントにしゃくいあげることができるだろう?」(傍点筆者)という、私小説ではない新しい文学への要求は、その中に、新しい社会的な創作が生れる方法として追究されなければならないものをふくんでいる。文学が現実を「ホントにしゃくいあげる」ということは、どういうことだろうか。現代のアクタモクタの全部を片はじから、手にあたるもの耳にきくもの、しゃくい上げることがホントに人生に向って何かを掬いあげた文学であると云えるならば、三好十郎が田村泰次郎その他を小豚派という必然は失われる。こんにちの社会と文学の話として、なっとくしようとすれば、田村泰次郎が、きょうのすべての彼自身の現実について修正声明ぬきに、その意図として「『罪と罰』『ボヷァリー夫人』『女の一生』『凱旋門』に通じる道がひらけるに違いない」と確信しているということから見直されるわけだろう。「罪と罰」やそれにつづく諸作は、その名を彼にあげられるにふさわしく、今日、彼の読者層をなしている人々にひろくよまれている作品である。(同じ読者層は必ずといってもいいくらい「親鸞」だの、「この子をのこして」だの、「細雪」だのをよんでいるであろう。彼はその面にはふれない。)彼とその一派が羊頭をかかげて狗肉を売らない日を招来しようとすれば「ボヷァリー夫人」にはじまる十九世紀の自然主義からロシアの批判的なリアリズムを通じてレマルクが「西部戦線異状なし」から「凱旋門」に至ったヨーロッパ――フランス、ドイツの恐ろしい三〇年間の社会と文学のいきさつを追求してみなければならないことを意味する。そして、世界の歴史と文学とはもう「凱旋門」をくぐりぬけてしまっている。そこにどんな人民の苦悩があったかは中共の女捕虜に対する日本兵の暴虐をテーマとしてかいた人こそ、よくその事実を実感しているにちがいない。

批評家は現代文学の全体とその作家たちに切実であるべき「問題を、おこさなかったという問題」をもって一九四九年を通過せざるを得なかった。

三

それならば一九四九年という年は、福田恆存の概括にしたがって「知識階級の敗退」の年であったのだろうか。「かつての自然主義隆隆とまったく同様、ちょうど三年にして衰退しはじめたのであります。平林たい子のことばをもじっていえば、戦後、凱歌を奏しつつひきかえして来た知識階級は、一九四九年にいたってふたたび、そのおなじ道を旗をまいて敗走しつつあるといえます」「一九四九年の諸事件はリトマス試験紙をさしこんだかたちであります」そして、「わかったことは、かれらは赤くも青くもないという一事です。正味は、酸性でもアルカリ性でもありはしない。ただの水にすぎません。」

この評論家の文章は、おそらく彼と同じ程度の教養をもっている科学その他の専門分野の同年輩人をおどろかせる言葉だろうと思う。塩と水さえあれば、ともかく命がつなげる。人類の集落は、いつもきっとただの水のほとりにこそ原始集落をつくった。知識階級が、それをのむことが出来、それでかしぐことのできるただの水であった、というのが真実なら、むしろこんにちの日本のまじめな人たちは、それを欣快と思うだろう。ジャーナリズムの一九四九年型花形には青酸っぽい現象が少なからずあるのだから。

労働組合のすべての人にきいてみたいと思う。一九四九年度の公安条例。九原則。人員整理、失業とのたたかい、越年資金闘争のすべては「その大部分がいかにもあいまいで、うそではないにしても、ほんとの程度がわからないといったものであります」という種類の社会現象だったろうか。二十五万人の女子大学生と男子大学生にきいてみたい。日本の人民の独立に関する一つの問題としてあれほどみんなが関心をもった大学法案、二十七名の中立的な学者たちが反対署名した非日委員会問題、「南原の線を守る」という表現がある意味では常識となって来ているほど広汎に人事院とりしまり規則に反対している人々の群。

「南原の線」は、彼がワシントンの占領地教育問題の会議で行った演説の内容をつたえられてからは、平和を確保しようとする日本の全面講和の問題に対する一般の人々の態度のなかへも延びて来た。それらが、福田恆存にとって、「自覚せる実践をしいられるほど決定的なモメントをもっていないことです。」「すなわち八月十五日の天皇の放送ほど決定的ではない。」というのは、どういうことであるのだろうか、と。

「中共の確定的勝利」は、地球上もっとも大きい人口をもつ中華人民共和国の誕生によって、日本人民をこめるアジアの未来の運命の方向が決定的に変革された人類史上のできごとである。そういう内容のことがらを、政府の労働者階級抑圧のためのねつ造が大きく作用している下山、三鷹、松川、平の事件などと並べ、その大部分がいかにもあいまいで、うそでないにしても、ほんとの程度がはっきりしないと、していることは、こんにちの知識人の常識の底をわっている。日本の人民は国内国外のできごとについて、事実を明白に知る自由を妨げられている。そのことへの抗議としてならば、わけもわかるが、あいまいであるというのが評論家自身かいている中共の確定的勝利そのことに対して云われているのは、そこにひとにはわからない皮肉がこめられている次第でもあろうか。

世界には、きょう、少く見つもって六億の男女が平和を擁護し第三次の戦争を挑発するファシズムに反対して民族の生活と文化の自立を確保しようとしている。ファシズムによる第二次大戦は、破壊の残虐と痛苦で人類の心臓を出血させた。そして、きょうになってみれば、生命を奪われ生活を破壊されたものは、どこの国においても人民の老若男女、子供であったことが、いよいよ明瞭である。

日本のなかでの帝国主義のもとで、今日の権勢が暴政であることを感じつつあるのは、労働者・勤人や学生ばかりではない。中小商工業者の破滅とラジオ、新聞をふくむ文化、学問への抑圧はどれも一つ同じ原因から発している。河合栄治郎の公判記録が、『自由に死す』というパンフレットになって刊行された。彼のような穏当な学究さえも彼の理性が超国家主義と絶対主義に服従しないで立っているという理由で起訴され裁判された。河合栄治郎が学者としての良心の最低線を守ろうとした抵抗の精神は、人事院規則に対する南原の線を守る人たちの抵抗でもある。

日本の平和擁護のための運動に対して傍観的であり、あるいは嘲弄的であるのは、福田恆存一人ではない。福田恆存がそこに加っていないということで日本の「平和を守る会」や「知識人の会」が、その動機と行動において、ほんとの程度がわからないという客観的よりどころにはなりようもない。

「メダカはカタマルのが好き」というある作家の言葉は一九四九年度にも民主的な動きへの嘲弄の道具につかわれて来た。しかし、どんな孤高の人が、輸送船の中へカタメテつみこまれなかったろうか。ジャングルの中にカタメテすてられた部隊から、一人はなれた人の飢餓と苦悩の運命の終焉が、カタマって餓死した人々の運命とその本質においてどうちがったろう? 最悪の運命の瞬間に、八千五百万の利用できる人々としてカタメられることを拒絶するために、カタマル人民、メダカの精神とその発言のうちに現代史のヒューマニズムがある。

外面の卑下と内面の優越をもって「であります」調の私的評論が流行したのも一九四九年の一現象であった。個人としてそれらの人々がどのように歴史の現実をうけとり、それを表現し、そのことによって、進んでゆく歴史と自分との関係を、おのずから客観の証明のもとに浮き上らせてゆくことは、もとより各人の自由であると思う。

だけれども、社会と文学との諸問題について、「同時代に対する少しぐらいの盲点をおかしても、むしろ現代の論理を把握する技術として、創造への道を提示する」(「批評の盲点」瀬沼茂樹)批評があってよいし、なくてはならないのは、事実ではないだろうか。「現代において、現代の真の意味から文学を判断することは生やさしいことではなくても、日常批評においても、仮りに私が一定の歴史的立場からする批評とよぶものを貫徹することが必要である」(同上)

福田恆存のように一九四九年を、「知識階級の敗退」の年と概括することは、日本の内部に実在する民主的勢力の実際のうごきをあっち側に立って見ての一方的な見かたになる。一九四八年の下半期から四九年にかけて、基本的人権の防衛に関する生活実感の高まりと民族の自立のための統一戦線の必要の実感は、一九三三年以後の人民戦線運動のころよりも、深くひろく、肉体的になっている。それは、アジアにおいての日本が、世界人類に対して独特な苦しい良心的立場におかれているという事実に立っている。朝鮮が隷属からときはなされ、中華人民共和国が確立し、アジアの半植民地、植民地のすべての土地に民族自立の運動がおこっていて、それぞれに成功に進みつつあるとき、自身としては武器をすてている日本人民が、全アジアに対して、小さいけれども強い毒をふくんだ矢じりのようなものとして仕上げられようとしていることについての苦痛と抵抗とである。

一九五〇年代の日本の人民的な諸活動の骨髄は文学をふくめて、このカリエスをどのように治療してゆくかという課題に向わないわけにはゆかない。日本の現代文学は、この角度から、世界文学のうちに何かの意義をもつものであるか、或は、空文の憲法をもち、天皇というシムボルをもつ屈従の民のはかない気まぎらしの智慧の輪あそびと饒舌にすぎないものであるかを検討されなければならないときになっている。

四

このような一九四九年のはげしい渦に対して、民主主義文学運動は、それ自身を十分に展開しなかったし、現代文学の諸課題に向って展望的に作用することが非常に弱かった。この理由は何だったろう。反動攻勢という手近い返答が、解答のすべてではないと思う。

一九四六年のはじめに「新日本文学会」が組織され、民主主義文学運動が着手された。当時、日本の民主主義革命そのものの特殊な性格、すなわち、これまでの封建性、絶対主義に対するブルジョア民主革命をおしすすめる過程に、当面の革命が成熟してゆくという特殊な歴史的条件は、見とおされていなかったわけではなかった。人民民主主義革命への道における労働者階級の主導的な役割が、否定されているような理解はもちろんなかった。けれども、文学運動の面では、新日本文学会の創立大会でも、その後につづく第四回までの大会でも、民主主義文学運動の背骨としての労働者階級の文学の性格と方向とは、明確に規定されなかった。それには次のような原因があった。昔のプロレタリア文学運動の時代は、日本のすべての解放運動が非合法におかれていたために、たとえば『戦旗』は階級的な文化の文学雑誌であるとともに、その半面では労働者階級の経済、政治の国際的な啓蒙誌でもあった。『ナップ』『プロレタリア文学』もそれに似た性格をもたずにいられなかったし、プロレタリア文化連盟は、地下におかれた階級的組織の氷山が、わずかに合法の水面に尖端を出した姿としての性質をもった。サークルにしても、そうなった。

当時のこのようなプロレタリア文化・文学運動が佐野・鍋山の転向のあおりによって息の根をとめられた一九三三―三四年ごろ、プロレタリア文化・文学の組織に属していたすべてのものが、検事局製の運動の自己批判というものを押しつけられた。それは従来のプロレタリア文化・文学運動は、その指導者であった蔵原惟人、小林多喜二、宮本顕治らの政治主義的偏向によって、文化活動から政治活動へ追いこまれ、創造力を枯渇させ云々という筋であった。

その後の十余年間に、文学に心をよせる人々が読むことのできた文学理論的な書物と云えば、主として、当時の反プロレタリア文学の筆者たち、林房雄、山田清三郎、亀井勝一郎その他の著作だった。社会主義リアリズムの問題さえもその階級的な要点を歪曲されたまま読まれるしかなかった。

民主主義文学運動という声とともに、一部から反小林多喜二論は、反特攻隊精神と同性質のものであるかのように繁昌し、それとのたたかいに忙殺された。民主主義文学運動の中に、労働者階級の使命を明らかにして、おのずからプロレタリア文学の伝統のどの部分が継承されなければならないか、という点を押し出すことは、そのたたかいの中にとかされた。一つには、もとのプロレタリア文学時代活動した人々が、当然民主主義文学運動を提唱することになったから、ある意味では、かえって、「昔のプロレタリア文学ではないもの」を要求する空気にひかれたこともある。これらの人々の内部に同じような要求もなかったとは云えないと思う。

民主主義文学がもとのプロレタリア文学とちがうところは、階級の問題もただテーマ小説としてかかず、「内から書く」民主的ヒューマニズムに立つところだとされた。一九四七年の夏ごろ、文学サークル協議会の指導者の一人だった島田政雄は、日本の労働者階級、勤労者の現実では、労働者階級の勝利、社会主義社会を展望する社会主義的リアリズムの創作方法を云々するのは尚早であって、「人民的リアリズム」を提唱すべきであるという段階論を発表したりした。

この発言は、一九四七年の二・一ストとよばれている時期の前後に日本の勤労生活者の文化水準は半封建的でおくれているから、文学の創造をいうよりもダンスが直接にそれらの人々の文化欲求をみたすものであるという考えが一部におこった。この期間、実際には勤労する人々の中から、いくたりかの詩をかき、小説をかき、戯曲を書く人々が生れていた。この間、大衆の健全な娯楽、階級的な文化の一般的啓蒙、あらゆる角度と種類からの労働者階級の文学、民主主義文学の創造と普及とは、必ずしもそれぞれの特殊性を有機的にいかすくみ合わせで組立てられてもいなかったし、動かされてもいなかった。

一九四八年の秋以後、中国の人民民主主義革命は勝利に近づきつつある、そして、それは勝利するということが、世界の目にあきらかとなった。

おもしろいことは、日本の進歩的な人々の感情の一部には、中国革命に対しては、ソヴェト同盟の社会主義社会の建設に対するよりも、東ヨーロッパの人民民主主義に対するよりも、ずっと寛大さがあるということである。一部の人々の間には中共に対するトスカさえあると云えると思う。

帝国主義のレンズが集中している上海に入った中共の解放軍が、その行動の実際で日本の新聞にさえ一行のデマゴギーを報道流布することを許さなかった事実は、真によろこばしい、そして敬服すべきことだった。沈毅、純朴な若い中国の人民のまもりてたちを思いみることができた。

中国人民の独立の近づきつつあることは、日本の国内情勢に微妙な反応を与えた。一方の力は、日本を防壁として確立させるために一層積極の方法を押しすすめはじめた。それに反して、労働者階級は、そして民主的な人々は、中国の解放を、アジアの民主勢力の決定的なプラスと見たのは正当であり、世界民主勢力のより一歩の勝利と見たのも正当であった。

同時に、一部には、何かの錯覚めいた性急さが湧いた。国内の反民主主義的な圧力、抑圧に抵抗しずにいられない客観的な必然がより一般的に生じたとともに、日本の民主勢力の攻勢が何かのたかまりをもてば、どうやら中国の勝利につれて何かのゴールに、達しでもしそうな気分が浮動した。国内の情勢をはかる場合、プロレタリアートの先進部隊としての役割が改めて重大関心の焦点となった。

民主主義文学運動が、その本来の性質にふくんでいる人民としての政治的要素、階級文学としての政治性は、ここにおいて一九四八年末から一九四九年にかけ、一つの複雑で貴重な試煉を経なければならないことになった。

一九四六年から四七年にかけて日本全国にストライキの波が高まっていた時期、民主主義文学運動は、労働者階級とともに一般的に勤労者を包括した形をとり、組合の文化部は民主主義文化・文学に対して、ストライキとの連関で、文化動員を主とした。経済的・政治的活動に全生活と精力を集注する大部分の組合員と、その一部にはいわゆる文学趣味も滲透している文学サークルの人々との間に、同じ働く人々ながら、現実に向う感情には、いくらかのくいちがいも生じた。一九四六―七年、日本の全産業面に労働組合が組織され、そこに党細胞が公然と活動しはじめたことは日本の労働者、勤労者すべてにとって全く新しい歴史のはじまりであった。そして、この期間は同時に、戦時中最悪の労働条件に虐使されて来た勤労男女が、基本的な人権と労働の権利にたって、インフレーションとたたかいながら、日本の労働条件を半植民地の低さから解放しようと奮闘した。外にあらわれた形では大小のストライキ続きだったこの一九四六―七年に、しかし勤労しストライキする人々の間から、「太陽のない街」は一つも書かれなかった。『勤労者文学作品集』の内容は、この事実をかたっている。

永い戦争の間、八絋一宇精神にしたがえられて、「日本が勝つためには」と追いつかわれて来た働く人々の間からは、スパイ制度と憲兵の活動によって、労働者階級として読むべき政治的な書物は根こそぎ奪われていたし、働く人々の日常からの判断としておこる当然の戦争に対する疑問や批判も、刑罰をもって監視されて来た。

したがって、八月十五日までは勤労動員で奴隷的労働をしていた青年労働者たちが、三ヵ月ののち、そこに出来た労働組合の青年部員と組織されたにしても、その気持がすっぱりと階級の意識と階級の規律とにつらぬかれた青年労働者として転換しないのはやむを得ないことであった。組合の政治教育、文化・文学教育も、政治教育はとくに活溌ではあったが、それとても自分のところの組合組織の確立、ストライキ、他の組合のストライキの応援と、職場の活動的な分子ほど、彼の二十四時間は寸刻のゆとりもなかった。この種の事情は産別宣伝部で発行した『官憲の暴行』という各職場からのルポルタージュをよむと、誰にしても諒解せずにはいられない。

この重大な時期に民主主義文学運動の中軸としての労働者階級としての文学は、小市民をふくむ一般勤労者の文学とどうちがい、どのような方向をもつべきかということが明瞭にされなければならなかった。ところが、文学の領野にも、戦禍はまざまざとしていた。当時はプロレタリア作家として歴史的な存在意義をもつ小林多喜二を否定的に評価する傾向とたたかうことが『新日本文学』の一つの主な任務であった。また一般的にはそのころの『近代文学』が主張していた個人の自我の確立の提唱と民主主義にさえも示される政治不信の気分を、正常な社会と文学の関係への認識におき直す仕事があった。したがって、この時期、文学と政治の問題は、十数年以前の昔にさえさかのぼって、文学における政治の優位についての理解から語り出さなければならない有様だった。そして、働く人の間から生れる作品は、題材も主題も働く人々の生活から湧いたものであっても、当時の大規模に展開されつつある労働者階級としての動きはその作品の中につかまえられなかった。やがてこれらの職場からの作品の日常性への膠着が、注意のもとにてらし出されはじめた。もとから小説をかいていたプロレタリア文学時代からの作家たちは、何しろ十余年間、書きたく話したいテーマについて口かせをはめられていたのであったから、各人各様に、先ず書かずにいられない題材によって、云わずにいられないテーマを描きはじめた。「妻よねむれ」にしろ「私の東京地図」にしろ、「播州平野」「風知草」ことごとく、その種のモティーヴに立ち、作品の本質も戦争による人民生活の破壊、治安維持法が行って来た非人間的な抑圧への抗議であった。それぞれの角度から日本の民主革命に結びついた。「五勺の酒」はこれらの作品のなかで独特な意味と問題とをもつ作品であった。

五

労働者階級の歴史的任務の性格をひきぬいた「人民的リアリズム」の創作方法についての論が、文学サークルそのものの指導者から云い出されていたような職場の文学の空気はそのままなりに、一九四八年の後半期、中国の人民革命の勝利の見とおしとともに、日本の民主主義文学の立場からの科学的な検討や分析なしに、これまでの作品活動――徳永、宮本、佐多などをこめて――は労働者階級にとって役ないものだというようなおおざっぱな発言がおこった。

注目すべきことは、この文学的でないばかりか政治的でさえもない発言に応じて、専門文学者と職場作家との間に、一部の文化活動家とサークル員の側からの対立感情が醸成されたことである。「人民的リアリズム」論に無批判だった文学サークルの一部は、文化活動にしたがう一部の人々とともに、人民的リアリズム論者そのものをふくめて、いわゆる専門作家とその作品への無根拠な否定に従事した。一九四八年の日本民主主義文化連盟第二回「文化の会」および、ひきつづいてもたれた新日本文学会第四回大会は、この種の傾向のひとり舞台の観があった。そこでは作家・評論家によって、文化・文学について具体的な討議がされるよりも、特殊な、文化活動家と名づけられる人々の、その人たちの理解での政治的発言が圧倒した。

これは、明らかに普通でない空気であった。まじめに文化・文学の運動にしたがい、創作もして行こうとしている人々は、民主主義文化・文学運動の内をかき乱している不安、無規準、得たいのしれない政治性に影響されて、自分たちの活動の基準をどこにおいたら、たたかれないで育つことができるのかを思い迷うこころもちにもおかれた。

一九四九年に、職場の労働者作家は、ストライキをかけ、職場の作家の指導力が発揮されなければならないと云われたとき、過去二三年のうちに新しく職場から生れて来た若い作家たちのある人々は「自分がいまかきたいことと、書かなければならないこと」との間にある、実感の不調和に苦しんだ。そのひと一人一人としての労働者、および作家の成長の過程で、今すぐにもかきたいことは、労働者作家としてストライキを書かないということはあり得ないとされる「書かなければならないこと」と一致しない。ストライキの時代には、ひまがなくて、その人として書きたいと思いながら書けずにいたことを今書こうとする時間をもてば、もう一般情勢は中国革命の達成、労働者の主導的任務の強調におかれている、そのくいちがいもある。また一九四六―七年にかけて労働者階級によって経験された広汎な闘争が、前述のような戦争中の階級意識の剥奪をとりかえすために十分な政治教育が間に合わなかったために、経済主義的にならざるを得なかった。社会の生きた関係の微妙さは、一九四五年冬以後は共産党が勤労人民の合法政党として公然と存在し、組合内の党細胞の活動が自由であったけれども、一方、労働者の自主的な階級政治への認識や経験が失われているという戦後的条件と結びついて、職場の大規模な闘争は、必ずしもそれに参加した一人一人の労働者の階級的人間性をゆたかに高めたことにはならなかったということも観察される。したがって、いま書きたいことは、むしろもっと以前のおそらくは戦時中のことであり、階級としての闘争の文学はいま書かなければならないとは分っているけれども、実感のうちにまだ十分発酵する時間を経ていないという事情もおこった。

民主主義文学運動全体として、この政治的性急さによってかき乱され、不安にさせられてがたついている状態をどう整理して、前進すべきであろうか。一九四九年の民主主義文学の運動は、このための自己批判や勉学や不快な圧迫との抵抗のために各人が各様に異常な精力を費すこととなった。

文学における政治の優位性という理解は、正しく具体的にされる必要に迫られた。なぜならば、政治が文学に優位するという社会文化現象の基盤についての理解は、政治活動にしたがっているある種のものが、文化・文学運動に何かの命令する権能をもっていることを意味するかのような場合を生じたから。そして、他の一面では、現代の社会感情と文学のおもしろくてまた危険でもある現象として一つの事実が発見された。それは文学における政治の優位という正常な理解に反対して、プロレタリア文学時代から、「主人もちの文学」とののしって来た人が、きょう民主主義の立場に立つ特定の作家に悪評を加えようとするときには、全く、誤って理解された政治の優位性の発動による非現実的であり、非文学的でもある評言の断片か、ききづたえかを、そのまま自分の文章の中にとってよりどころとするという奇妙な現象がおこったことである。文学における政治の優位、別のことばで云えば、文学の階級性の確認とその発展の方向についての革命的認識――を否定する作家・評論家が、こんにちでは、民主陣営にある文学と政治の優位性に関する歪曲を利用して、民主主義文学運動を非難するという現実が見られる。

六

日本の民主主義文学運動の方針やその具体的な成果が、日本の民主革命の現実の課題との関連で判断され、評価されることがないなら、その判断や評価はそもそも何であろう。

毛沢東の発言は、日本の民主陣営にこのんで引用され、文学運動についてもしばしば引かれるのであるが、きょうの国際関係で、中国文献の自由な翻訳権が日本の人民に許されないことは、民主主義文学にとって思うより以上の障害となっている。中共勝利とともに国内に流布した中共関係の文書の中には、かつて特務機関として奥地の情報を集めていた文書があり、獄中で検事局からの諮問に答えて上申した文書がある。それらは、侵略国日本が中国人民と中共からかすめとった収奪物でなくて何だろう。注意ぶかい読者には、一人の筆者が、ある場面では中共の農業政策に関して官僚報告めいた文書を発表し、他の場面では中共の文化啓蒙運動・文学政策についてかき、またちがった婦人雑誌の中では柔かい筆でインドネシアあたりの少女の物語をかいているのを発見しているであろう。

趙樹理の作品の紹介も、日本の文化・文学の現実ときりはなされて、民主主義文学の最もかがやかしい典型であるかのように一部から推奨されている。文学サークルの一部に共産主義の文学は寓話になってゆくものだ、という考えかたも導き出されている。

人口の大部分が文盲である中国民衆がいきなりソヴェト社会に入ってゆく独特な社会・文化条件の下で趙樹理の作品がもつ意味は、日本の天皇制文化に加えて無良心な商業ジャーナリズムの肉体文学、中間小説の氾濫に毒されている日本の人民の文化的条件の中で趙樹理の作品のもつ意味とは、同じであるにありようもないのが実際であろう。小型の小説、寓話的な小説、よんでもらってきく人にも、たのしい小説。きょうの出来ごとがもう小さい小説となって出るような小説。それらすべてがあってよいし、必要でもある。しかしこのことは、日本の民主主義文学で趙樹理のような作品だけがかかれなければならず、そのほかは小ブルジョア的な作品であるというような結論はみちびきだされないのである。日本の労働者階級が民主革命の途上で自身の文学の成果として造型してゆかなければならない諸階級との関係は、多くの複雑さを必要とするものである。

政治の優位性の問題は、今日まで四年間の苦しい経験によって、イデオロギーの問題から、創作の現実過程、評価の実際の基礎となってきた。プロレタリア文学運動の初期に、芸術と政治・政治の優位性が提起された時代には、政治の優位性の素朴な理解は、直接その論を主張した人々の実践に反映してよい結果も悪い結果もその人たちによって刈りとられた。けれどもこんにち、政党、組合その他の大衆団体がそれぞれの面で文化・文学活動を行っているとき、あやまられた政治の優位性の理解は、それぞれの場面での指導の官僚化と革命の課題からの逸脱をもたらす。一九四九年において、民主主義文学者の大部分は、自分たちを一つの政治的成長におしあげずにはいられなかった。すなわち、文学における政治の優位性のあやまった発動を克服するためには、作家一人一人が日本の民主革命の課題と諸階級間の関係をはっきりつかんで、その角度からめいめいの創作を発展させ、他の人によって書かれるおびただしい種類の文学作品を評価してゆく能力をもたなければならないという現実を学んだのであった。中華人民共和国の新しい国旗の上に輝く一つの大きい星とそれをかこんで輝く四つの小さな星の美しさをよろこぶばかりではなく、日本のごたごたした社会情勢のうちに、やがて次第に輝きをましてゆくべき一つの星と四つの小さな星との文学をその正当な位地づけで認めることこそ、文学における政治の現実的な優位性であることを学んだのであった。

このような日本の革命の課題に立って民主主義文学運動をみたとき、その小説を労働者が書いたから、革命の主力である労働者階級の文学であると決めることはまちがいであることが分る。作家の偶然の出生によって階級性を云々することの誤りは、すでにプロレタリア文学運動の初期に論議されたことであったが、こんにちから明日へかけての激しい歴史の動きの中では、世界あらゆる国々で、ファシズムと戦争挑発に抵抗を感じる進歩的な人々の階級移行がはじまっている事実が着目されなければならない。民主陣営が、その経済闘争や政治闘争の場面で、労働者、農民、小市民、中小商工業者、民族資本家までを含めた人民の統一戦線をよびかけながら、文化・文学の面に対したときだけは、小市民層の(学者、文化人、作家、芸能家その他をも含む)消極的な面だけをとりあげて叱咤、批難することがあるとすれば、ピカソをも包括する文化の民族的な線を学ぶというたてまえはどうなるだろう。小市民層は、労働者階級に奉仕することにしか使命はないとする考え方のあやまりであることも明瞭である。一つの階級が他の階級を自身の奉仕におくという考え方は、労働階級は資本家階級に奉仕すべきものであるという資本主義的な考え方の裏がえしにすぎない。どこの国でも一定の資本主義文化の発達したところでの革命的な文学運動は、常にその主力である労働者階級の社会的文学的発展とのつながりで、農民・小市民の文化文学の実質が、どのように小市民自身の解放に役立つものとして成長するかということに大きい関心を払われているのである。

七

現代文学は、もうしなびてしまった私小説のからから、どのように新しい成長をとげるかという共通のもがきをもっている。中間小説の作家が、その作品を希望しているような社会的な内容をもつ小説としてゆくためには、不自然なほど過重に性の興味をもりこんだ世相反映の創作方法とはちがった現実観察の角度と創作方法をもたなければならない。それは、どうして発見されるだろうか。丹羽文雄が主体性ぬきの現実反映のリアリズムからぬけ出て、少くとも歴史の前進する角度をふくんだドキュメンタリーな作品へ進もうとして、一九四九年にはその素材の選択そのものにおいて、まず歴史的なふるいわけが必要であることを発見したと思われる。「塩花」から「牛乳と馬」にすすんでいる豊島与志雄の前進は、明日へどうはこばれてゆくであろうか。多くの人々の上に、その作品と他の面での市民的意思表示との間の発展的な矛盾があらわれている。或いはあれとこれとの間にある距離があらわれている。鎌倉で「平和を守る会」が発足した時、川端康成のよんだ平和宣言は人々の心を打った。「絵志野」とあの文章との間には、それぞれに偽りでないこの作家の一つの情感が貫き流れている。けれども、それは一人の作家を貫いて、あちらとこちらに流露している人間的情感としてだけ止るのだろう。中野重治の「五勺の酒」に含まれている多くの問題は、彼の『議会演説報告集』の内容とどのように連関しているかということについても、わたしたちはもっともっとよく知らなければならないと思う。民主主義文学運動は、自身のグループを一つの文学流派として存在させるだけでは意味がないと思う。過去のプロレタリア文学は、単なる一流派ではなくて、各国においてその国の労働者階級の階級的自覚とともに、文学全体の認識に多くの新しい水平線をひらいた。文学における階級性、作品に対する個人の印象批評から客観的な評価のよりどころをもつように飛躍したこと、文学の創作方法を、人民の歴史のすすみゆく段階にしたがい、世界文学に共通する展望で語りうるようになったことなどがある。

創作方法の新しさということもいろいろな角度から試みられているけれども、いわゆるヨーロッパ的創作方法の実験も、日本の民主革命の過程の現実の中では、模倣の小箱はくだけてしまうものだろう。伊藤整のように、ジェームズ・ジョイスの文学を深く理解した作家が、より若い世代のヨーロッパ文学の手法追随に対してむしろ警告的であるのも注目される。日本では、一九三三年以後の社会と文学の形相があまり非理性的で殺伐であったために、その時期に青年期を経たインテリゲンチャの多くの人が、その清新生活では主として人民戦線のフランスに亡命した形があった。野間宏にしろ、加藤周一にしろ。それらの人たちは、いま日本の民主革命の中にその精神において帰還している。野間宏が、ジイドやヴァレリーの言葉からぬけでて――ヨーロッパ的小説作法(ブルジョア民主主義のアヴァンギャルドの手法)を、日本の民主革命の課題にそった人民の言葉で人民の生活を描こうとしている昨今の試みは、すべての人に期待を抱かせている。彼が一応のスタイルをこわして、ヴァレリーの言葉から、日本庶民の理性の暗い、理性によって処理されない事象と会話の中に突入している生真面目さを、ただ日本語の不馴れな作家の時代錯誤とだけ云いすてる人はないだろう。

民主革命の長い広い過程を思えば、その課題の必然にしたがって文学はますます批評家の好みによって点づけされたり、文学流派の堰によってあちらとこちらとせきわけられるものでもなくなってきつつあると思う。一人の作家が一寸背丈を高くするために、一寸だけ他の誰かをおしつけてよいものでもないと思う。文学は、大いに研究されるべきものとなってきていると思う。歴史の意志をうつす能力としての才能についても、今日科学者の能力が人類の幸福の助けとなるべきものとして評価されていることがまちがいでないならば、どうして文学の才能だけが病的であったり、自己破滅的であったりすることを納得できよう。文学の才能だけは、アルコールの中毒くさかったり、病理的な非情のするどさでもてはやされたりする畸型的な面白がられかたは、文学そのものの恥だと思う。若い作家三島由紀夫の才能の豊かさ、するどさが一九四九年の概括の中にふれられていた。この能才な青年作家は、おそらくもうすでに、彼の才能のするどさ、みずぎわだったあざやかさというものは、いってみれば彼の才能の刃はですっぱり切ることのできる種類のものしか切っていないからだということを知っているであろう。彼は今日からのちどのようにして、どこで彼の刃そのものをより強くきたえる材料を見出してくるだろうか。彼はどういうモメントで、あえて冴えた彼の刃をこぼす勇戦を示すであろうか。これらのすべてが研究されなければならない。

民主戦線ではその広さと、そこに包括される社会活動の部面が多様であるにかかわらず、他の一面ではこれまで社会各層がもたなかった互いの共通語をもつようになってきている。労働者階級のファシズム反対という声と、学者たちが学問の自由のために叫ぶファシズム反対の声は、国内的にひとつ響きにとけあうばかりか、国際的にこだまする声である。

文学は文学者と文学愛好家だけのもちものではなくなってきている。私小説からの歴史的な脱出の戸口は、文学の外のこのような場所にある。したがって文学の創作方法は、科学の定理のように抽象されることは決してありえないし、それでこそ文学の文学である人間性があるのだけれども、歴史の進行の方向と階級間の関係についてのより客観的な把握は、おのずから文学の創作方法も、個々の作家のテムペラメントにだけ頼るものではなくなってくる。

批判的リアリズム、一九一七年以後のプロレタリア・リアリズム。それから一九三二年以後の社会主義的リアリズム。この三つの創作方法は、日本の民主革命の広い凹凸の多い戦線にとって、それぞれの階級の進みゆく歩幅につれて新しい文学を生み出してゆくよすがであろう。桑原武夫が、民主主義文学であるならばそれは社会主義的リアリズムの手法をもつべきものであるとして、「宮本百合子論」の中に、スタインベックのソヴェト紀行をあげていた。社会主義的リアリズムは、労働者階級の勝利と社会主義社会への展望にたっているから、当然労働者階級の文学の創作方法であり、党員作家の創作の方法でありうる。けれども、たとえばスタインベックのダイナミックな手法が、彼の旅行記の中でソヴェト社会の建設の姿を典型的につかむことに成功しているにしろ、彼がブルジョア・デモクラシーとプロレタリアートの階級的独裁の本質的なちがいを理解せず、自国の金融資本の独裁をみずにスターリンの独裁を云々していることは、スタインベックが、社会主義的リアリズムを把握していないことを示している。

一九五〇年代において民主主義文学運動は、どのように日本の民主革命の道にひびく人民の声々を伝えることができるだろうか。現代文学のさまざまなコムプレックスをどのように発展的にときほぐして、日本の人民の文学の歴史を世界史の中に意義あるものとさせうるだろうか。

底本 / Source edition

底本:「宮本百合子全集 第十三巻」新日本出版社
1979(昭和54)年11月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
初出:同上
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年4月23日作成
青空文庫作成ファイル:
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TEI
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プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
/works/003012_000311/

宮本 百合子「五〇年代の文学とそこにある問題」(新字新仮名)、底本『宮本百合子全集 第十三巻』新日本出版社、1979年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 003012_000311, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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